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2018年01月31日

ゼマン大統領再選2(正月廿八日)



承前
 ドラホシュ氏が主張していた分断された国民を再び結びつけるような大統領が必要だというのは、完全に正しい。ハベル大統領といういい意味で政治家出身ではない大統領の存在が、ビロード革命直後のチェコの国民を結び付け、あの激動の時代の乗り越える原動力になっていたのは議論の余地もなかろう。ハベル大統領の時代に、大統領は政治的な存在にはならないという方向に位置付けできていたらよかったのだろうけれども、次の大統領には典型的なチェコの政治家であるクラウス氏が選出された。
 この2003年の大統領選挙の時点で、国民の直接投票での選挙になっていれば、このときのクラウス氏の選出も、後のゼマン大統領の選出もなかったのではないかと夢想してしまう。クラウス大統領が選出されたのは、国会での国会議員による選挙によってであるが、結果を決めたのはゼマン氏の支持母体だったはずの社会民主党の分裂だった。ゼマン氏のあのときの選挙戦略も意味不明なもので、負けるべくして負けたとは言えるけれども、クラウス氏が勝つべくして勝ったとは言いにくい。

 確か、あの頃は結構どちらの候補も支持できないという層が多かったはずだから、直接選挙で人気と実力を擁する非政治家の候補者が出ていれば、大統領に就任し大統領の非政治化を進められたかもしれない。現実には国会議員たちの推薦でしか候補者が出てこないから、政治家出身ではなくても、政治的な政党的な候補者になってしまい、ゼマン氏の出馬しなかった2008年の大統領選挙でも、最終的には政治的に、政治的な取引で当選者が決まってしまった。
 問題は、ハベル氏の跡を襲うにふさわしい人物の名前が挙がらなかったことである。だから、直接選挙になっていたからと言って、クラウス大統領は誕生しなかったはずだとは断言できないのだけど、少なくとも2008年以降の選挙はかなり違ったものになっていたのではないかと思う。現実には90年代の政治家たちが2023年まで大統領の座を独占することになってしまった。クラウス大統領も、ゼマン大統領も、首相時代にはそれぞれの党を率いて自らの主義主張の元に政治活動をしていたわけだから、大統領になった後も、大統領支持者と反大統領派で社会が分断される傾向があったのは、最初から予想されていたことだ。近年のゼマン大統領の言動でその分断が拡大しているのは確かだけどさ。

 ただ皮肉なことに、ほぼ50パーセントずつ票を分け合ったという選挙結果を見る限りドラホシュ氏の存在も、現在のチェコの社会がゼマン大統領支持と不支持で二分されている事実を象徴してしまっている。両派を結び付けうる存在を大統領にするなら、それこそゼマン大統領とドラホシュ氏の中間にいるような存在を、同時に知名度と好感度の高い存在を引っ張り出してくるしかなかったのだ。恐らく立候補表明直後のトポラーネク氏の評価が政治評論家の間で高かったのは、中間的な存在になる可能性があったからだろうと最近評価し直した。ただ、トポラーネク氏の場合は、知名度はあったけれども首相を務めていた時期のあれこれで国民の好感度はものすごく低かったのである。
 それに、実際にゼマン大統領とドラホシュ氏の間をとったような候補者が立候補していたとしても、現在の劇場型の有権者の理解よりも人気を求める選挙では、両者の間で埋没して支持を集められなかった可能性のほうが高い。そうなるとゼマン大統領の再選は必然だったということになるのか。それはちょっと嫌なので、もう少しあれこれ考えてみようと思う。

 今回の選挙の経過と結果を見て、思い出したのが1980年代の日本の選挙である。あの頃、マスコミは自民党に対する批判を繰り広げ、いわゆる知識人たちも反自民党というのが多かった。時に野党が選挙協力と称して互いに候補者を推薦し合い、今度こそ自民党政権が倒れるという夢を何度見せられたことか。ふたを開けてみれば結果はいつでも、議席の増減はあったにしても第一党の座は譲らなかったという意味で自民党の勝利だった。消費税導入でもめ、マドンナ旋風とかで社会党の議席が伸びても、本当の意味で自民党が選挙に負けることはなかったのである。
 当時のマスコミも自民党には厳しく、野党には優しかったから、自民党がかなり議席を減らすと自民党が第一党であっても、自民党大敗で野党大勝なんて見出しをしばしば見かけたものだけど、よく考えたら、野党が議席が増えただけて喜んでいたというのは、自民党にとってはありがたいことでしかなかったのではなかろうか。結局マスコミも含めて、誰一人本気で自民党に勝てる、勝とうと考えていなかったということを物語っているのだから。

 結局、あの頃の日本の政治、選挙も、今回のチェコの大統領選挙と同じで、自民対社会党などの野党なんかではなく、自民対反自民という構図でしかなかったのだ。チェコの大統領選挙で主役を演じたのがゼマン大統領一人で、他は健闘したドラホシュ氏を含めてただの脇役に過ぎなかったのと同様に、主役は自民党で、心情左翼の応援する左派の野党なんざ有象無象の存在でしかなかったのだ。それは自民党政権が倒れるのに、自民党の分裂を待つ必要があったことからも明らかである。
 ということは、今回の選挙で、反ゼマン派が勝つためには、ゼマン大統領の支持層を分裂させるような候補者を擁立する必要があったのだ。これも結構無理筋だけど、あえて想定するとすれば社会民主党のゼマン支持派の中からとか、バビシュ氏のANOからとかさ。ANOに関しては、本来バビシュ氏とゼマン大統領は互いに批判し合っていたのに、お互いの敵をマスコミと既存の政党(社会民主党の一部を除く)に見出した時点で強固に手を結んだからありえなかっただろうけど、ソボトカ内閣の成立直後の関係を維持させることができていたら、今回も首相になりたがっている本人はないにしても、誰か擁立していた可能性はなくはない。この辺も反ゼマン派の戦略ミスだよなあ。当時はそんなこと考えてもいられなかったのだろうけど。

 すでにことはなれり。言うもせんなきことなりってことかな。
2018年1月29日22時。
 







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