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2017年10月15日

訳読しないの?(十月十二日)



 先ずこの文章を読んでいただきたい。先日紹介した出版社現代書館のホームページ上の黒田龍之助師の「ぼくたちのロシア語学校」の一節である。

外国語学習では、あるレベルに達すると、必ずまとまったテキストを読む練習をする。生徒はそのために、自宅で知らない単語を辞書で調べてきて、授業中に自作の試訳を発表する。教師は間違いがあれば訂正し、さらにコメントを加える。
いわゆる「訳読」だが、現在では世間から厳しく批判される。そんなことをしても、外国語が話せるようにはならないという。
第十四回「途中から参加するドラマ(その2)」より
http://www.gendaishokan.co.jp/article/WW0015.htm


 正直今の日本の語学学習に対する姿勢がここまでおかしくなっているとは思わなかった。外国語で書かれた文章を、ノートに書き出し、それぞれの単語の文法的な属性を一つ一つ確認しながら、読み進めていくことは、外国語学習の基本であろう。これをおろそかにして話せるようになる外国語というのは、一体どんなものになるのだろう。恐ろしく文法的な正確さに欠けるものになるような気がしてならない。
 自分のことを言えば、英語ではこれをサボった。いや中一で英語の勉強を始めたころには、テキストの文章をノートに書き写してあれこれ文法事項や、辞書で調べた意味を書いていたような気がするのだが、すぐに怠けるようになった。英語は名詞や形容詞の各変化がなく、動詞の人称変化もあってないようなものだったので、メモとして書き込むべき文法事項がそれほど多くなく、そんな分析的なことはしなくても何とかなりそうだったのもよくなかった。その結果、チェコ語を始める前の英語が一番使えていた時期でも、小手先でごまかすような、単語を並べて時制なんか知りませんというような何とも怪しい英語しか仕えなかったのである。

 以前も書いたけれども、チェコ語の勉強は、英語の勉強を反面教師にしたので、この訳読を、個人的には熟読といいたいけれども、サボらなかった。テキストの例文、長文は必ずノートに書き写し、品詞の区別をし、名詞、形容詞の場合には性、単複の区別、格、それに一格の形を書き込み、動詞の場合には人称と原形などをすべて、同じ言葉が別な分に出てきていたとしても再度書き込んだ。それが正しいかどうかをチェックして、間違いがあった場合には、間違えた言葉の各変化や、人称変化を覚えたと確信できるまで繰り返し書いた。
 その上で、日本語訳の部分を隠して頭の中で日本語に訳して、教科書の訳と比べる。逆にチェコ語の部分を隠して、日本語訳からチェコ語訳してこちらはノートに書いて原文と比較する。これを間違えなくなるまで繰り返したから、ミール・ロシア語研究所の暗唱に近いことをやっていたと言ってもいいのかもしれない。当初は自学自習で発音を見てくれるような先生はいなかったから、声に出してチェコ語の文を読むようなことはしなかったが、カセットテープをウォークマンに放り込んで通勤時間はひたすら聴いていた。本当に聞いていただけなので、それが何かの役に立ったかどうかはわからないけど。

 思い返してみれば、あの時こんなうんざりするような繰り返しに耐えられたのは、古文と漢文の勉強でこの手の繰り返しの大事さを思い知らされていたからだろう。高校時代から古文の勉強の一環としていわゆる品詞分解を繰り返した。原文をノートに書き写して、単語に分解して品詞の種類、変化形などあらゆる情報を書き込むのである。そのおかげで古典文法の基礎となった平安時代の和文は、今でもそれなりに読めるし、完全にはわからなくてもどの言葉を辞書で引けばいいかは分かるのである。
 漢文は、大学入試で求められる漢文のレベルは低かったので、高校ではそれほど厳しい勉強はしなかったが、大学で鍛えられた。まず訓点の施されている漢文を書き下し文にする。その書き下し文を漢文の文法を思い出しながらもとの白文に戻す、所謂復文を行なう。そして、白文に自分で訓点を施す。この三つを教科書に出てくる文章を使って繰り返した。そのおかげで今でも唐宋ぐらいまでの漢文であれば辞書を片手に何とか読むことができるはずである。最近和製漢文しか読んでないからいまいち確信はないんだけど。

 とまれ、文法事項を徹底的に確認しながらチェコ語の文章を読んで勉強したおかげで、間違えることはあっても自分で間違いに気づけるようになったし、師匠に「お前の外国語も外国人離れしてきたなあ」と言ってもらえるまでになったのだ。外国人にチェコ語を教えることを専門の一つにし、長きにわたって教えていた師匠にこう言われたことは、誇りであると同時にチェコ語を使うときの支えになっている。
2017年10月13日17時。








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