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2016年03月04日

「僕」と「私」(昔書いたもの)


 言うまでもないことだが、日本語には自分で自分のことを指す時に使う言葉が山ほどある。その中で、男性が使うものとして、現在でも全国的に使われているものは、「俺」「僕」「私(わたし)」「私(わたくし)」の四つぐらいだろうか。いや、正確に言えば、私自身が使ってきたものがこの四つなのである。
 子供の頃は、乱暴だとか、下品だとか、よくわからない理由で、「俺」を使うのは、親に禁止されており、「私」は女の子っぽいという印象もあって、「僕」ばかりを使っていたような記憶がある。それが、中学生になるぐらいから、小説や漫画などの影響で「俺」も親に隠れて使うようになり、高校生ぐらいから、公の丁寧に話さなければならない場では「わたし」「わたくし」を使うことを覚えて、現在に到るわけである。

 普段は、現在日本語で話すのは仕事上必要な時だけなので、大抵は「私」しか使わないのだが、たまに友人や同僚と飲みに出かけた時などには、状況に応じて「僕」「俺」も使い分けている。特に乱暴な口調で話す時に「俺」を使うのである。
 海外に出て長いとは言え、言語形成は日本で行ったのだから、この感覚は、多少の違いはあっても、普通の日本人と変わらないものだと思っていた。ところが、最近立て続けに(と言っても二年ほどの差はあるが)二件「僕」の使用を否定する意見に出会ったのである。

 一人は毎年春にオロモウツに来てくださる方で、東京出身で年齢は70歳ぐらいの方である。その方が「僕」なんて気取った言葉は使えないと仰るのである。東京でも下町のほうのご出身で、「僕」を使うのは、山手の方のいいとこの坊ちゃんたちで気取っているというイメージがあるらしい。考えてみれば、この「いいとこの坊ちゃんが使う言葉」というイメージが、田舎に伝わって、上品な言葉で子供に使わせるにふさわしいということになったのかもしれない。田舎の教育委員会とかPTAとかで学校での方言使用禁止の一環として、「僕」使用推奨運動とかいうのもあったんじゃないかという気がしてきた。
 そして、もう一人が、最近、発掘したエッセー集を読んだ小谷野敦氏である。氏の本は日本にいた頃から読んでみたいとは思いつつ題名に萎縮して読む決心がつかなかったのだが、たまたまダンボールを開けてみたら出てきた『軟弱者の言い分』(これぐらいら萎縮せずにすむ)を読んで、そのことを後悔してしまった。読書欲が昂進する仕事の忙しい時期とは言え、久しぶりに(でもないか)時間を忘れて読みふけってしまった。
 しかし、この本、十年以上前の本なのである。高校生ぐらいの頃は、十年以上前の本などというと古すぎるような気がしてあまり読む気にならなかったものだが、十年前と言われても最近のような気がするのは、年をとってしまった証拠だろうか。いや、当時は初出とか、文庫化とか認識していなかったので、十年以上前に書かれた本を新しいと思って嬉々として読んでいたんじゃないかという気もする。

 閑話休題。
 小谷野敦氏の「僕」嫌いは、面白い。面白いのだが、今一つピンと来ない。この文章で、氏は、「僕」と「私」を比べて、「私」を選ぶ理由を語っているのだが、その一つは「僕」は子供の言葉で「私」は大人の言葉であるというものである。個人的には、「僕」と「私」の境界線は、大体私的領域と公的領域の境界線に重なると考えているのだが、公と私の判別がつかないのが子供だと考えれば、「僕」は子供の使う言葉と言ってもいいのかもしれない。では、「俺」はどうなんだというのが知りたくなるのだが、氏のエッセイには、あろうことか「俺」が出てこないのである。それがどうもピンと来ない理由なのではないかと思う。尤も氏が「私」を選ん理由の一つが男女平等主義だということだから、僕以上に男の言葉としてのイメージの強い「俺」は使わないのであろうが、氏の抱いている「俺」についての感情も読んでみたいものである。
 むしろ、氏が引用している上野千鶴子氏の「僕」に対する感覚のほうがわかるような気がした。「僕を使う男は軟弱な感じがする」とは、確かにどうでもいいことではあるけど、当たっているような気がする。一時期芥川賞作品ぐらいは読まなきゃと思って片っ端から読んでいたことがあるのだが、三田誠広あたりの「僕」が語り手の小説を読んで、俺よりも僕を頻繁に使っていた当時の自分は確かに軟弱者で、今風に言えばへたれだったなあと思う。人間としての本質があのころから変わったわけでもないし、人間的に成長したなんてこともないのだが、外国語嫌いを克服し、曲がりなりにも外国で暮らせているのだから、多少はたくましくなったと思いたいところではある。

 ところで、昔のことを思い出してみると、小説や漫画の登場人物の影響で使ってみたけど、似合わないのですぐにやめてしまったものもいくつかある。中学生の時だっただろうか、SF系の小説で出てきた「俺」と「僕」の中間ぐらいの印象のある「おいら」を使ってみたところ、友人に大笑いされ、自分でも似合わないことを自覚したのですぐにやめることになったし、大学時代に知り合いが使っていた「おれっち」や、漫画や小説で使われていた「あちき」とか「あっし」なんかは、実際に人前で使ってみる前に、誰もいないところで口に出してみた瞬間に、後悔してしまったのだった。使ってみたいと思うのと、実際に使えるのとは別物なのである。その一方で、「わし」とか「わい」のような言葉にはまったく食指が動かなかった。これは関西っぽい感じが合わなかったのだと思う。

 今は使えないが、いずれは使ってみたいというものもある。以前の職場の上司が使っていた「小生」、これは今の自分ではまだ似合わないような気がして使えない。もう少し年を取って貫禄がついてから(無理かなあ)、「小生はですねえ」などと言ってみたいものである。それから、「それがし」も、いつか、ふさわしい機会を得て使ってみたい。そのふさわしい機会が思い浮かばないのが、困りものなのであるが。ただ、同じく古めかしい感じのする「拙者」は、本来謙称でありながら、どこか尊大な感じがするせいか使いたいという気にはならない。
 また、これは話し言葉ではなく書くときに使う言葉だろうが、平安時代の古記録にしばしば使われる「下官」も使いたいものである。戦前の軍人あたりなら「小官」とでも言いそうなところだが、平安時代至上主義者としてはやはり「下官」なのである。



 ハードディスクの中のファイルを確認していたら、出てきた。一応けりがついているようなので、一部修正して投稿。どうでもいいちゃあどうでもいい話だけど、このブログの記事なんてそんなのばっかだしね。
 小谷野敦氏の本は、記事内で取り上げたものは出てこなかったので、一番読みたいと思ったこれ。馬琴には興味はあるんだけどなかなか手が出せないんだよなあ。江戸期の日本語ってわかりにくいし。3月3日追記。


馬琴綺伝 [ 小谷野敦 ]


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