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2016年02月27日

ボウゾフ城(二月廿四日)



 これまでも、深夜の十二時を過ぎてから記事を書き始めたことはあったが、今回ついに夜になって前日分を書き始めるという事態が生じてしまった。久しぶりに連日でお酒を飲んでしまって、昨日は一昨日の分を何とか書き上げたところで力尽きてしまったのだ。ここで昨日の分はあきらめて一日日付を飛ばして、今日の分を書くという処置をとってしまうと、自分に甘い私のこと、おそらくさまざまな理由をつけて書かない日が増えていくのが目に見えているので、十二時までに昨日の分を書き上げて、今日の分を書き始めることにする。

 日本語で城と言った場合に、チェコ語ではフラット(hrad)とザーメク(zámek)に相当する。フラットのほうは、山の中に立てられた戦争用のお城で、日本人がヨーロッパのお城と言った場合に思い浮かべそうなものである。強いて訳し分ければ城塞となるだろうか。一方のザーメクは平地に築かれていることが多く、戦うためというよりは、住むための、また領地経営のためのもので、強いて訳せば城館だろうか。大きな庭園がついていることが多いし。
 チェコで、日本人が考える典型的なヨーロッパのお城と言うと、先ず頭に浮かぶのが、カレル四世が王家伝世の宝物を収蔵するために建てたというカルルシュテイン、ブルノから北西に少しビソチナの方に入っていったところにあるペルンシュテイン、そして今回取り上げるオロモウツ地方にあるボウゾフなどである。城跡まで対象を広げると、ヤナーチェクの生地フクバルディ、プシェロフから少し東にベチバ川を遡ったところの丘の上に川沿いの隊商路を見下ろすように建っていたヘルフシュティーンなども入ってくるだろう。

 ボウゾフ城は、オロモウツからリトベルを通って更に北、平地に張り出してきた丘陵地帯の丘の上に建てられた城である。城下にはボウゾフという名前の村があり、オロモウツからバスで出かける場合には、リトベルで乗り換えてこの村に到着することになる。ただバスの便によっては、ボウゾフ村内でも本集落を通らず、別の停留場で下ろされて、お城のある村まで山を登る羽目になることもあるので注意が必要である。
 このお城は、典型的な中世の城のように見えるが、実は19世紀末から20世紀の初頭にかけて当時の所有者であったドイツ騎士団の団長が、築城の専門家で、当時の最先端の知識を生かして中世風の城塞に改築をした結果が現在の外観だと言う。内装までは完全に中世風にはなっておらず、一部当時の最新技術である電気が使えるようになっている。世界史で名前だけは知っていたドイツ騎士団というものが20世紀にまで存在し続けていたことも驚きだったが、それどころか現在まで存在し続けていて、没収された資産であるボウゾフ城の返還を求めて裁判を起こしていると言う話を聞いたときには、この21世紀に騎士団などというもが存在する意味があるのだろうかと考えてしまった。
 ボウゾフ城を、ドイツ騎士団から没収したのは、チェコスロバキアを解体してボヘミア・モラビア保護領を設置したナチスドイツであった。中でもナチスのSSの指導者であったハインリッヒ・ヒムラーがこの城を気に入り、SSの所有する城にしようという計画を立てていたらしい。そして第二次世界大戦末まで、この城にSSの特別部隊が駐屯しており、その部隊が近くの村であるヤボジチコで起こった村民の虐殺事件を起こしたと言う。ちなみに、チェコ政府としてはナチス・ドイツが接収したものに関しては資産の返還に応じていないので、ボウゾフ城も、ドイツ騎士団に返還されることはなく、チェコの国家の資産のままである。

 また、15世紀にチェコ王に選ばれたボデブラディのイジーの生地については、いくつかの説があるらしいのだが、そのうちの一つがボウゾフ生誕説なのだという。仮にそうであったとしても、当時の姿は改修の結果まったく残ってはいないのではあるが。
 お城の見学は、自由に見て回れるのではなく、ガイドに連れられてグループで部屋ごとに見て回ることになるのだが、見学コースの最後に中庭に出てくる。そこにある井戸に硬貨を投げ込んでつるべの先の桶に入ったら、またボウゾフに戻ってこられるというお話があるらしく、以前井戸さらいをかねて考古学的な調査を行ったところ、さまざまな遺物と共に大量の硬貨が、かなり古いものも、発見されたらしい。私も以前行ったときに試してみたことがあるのだが、結構狙った通りに落ちてくれずに何枚か投げたうち一枚入ったかどうかという結果に終わったような気がする。いや、あのとき以来一度も言っていないような気もするから、一枚も入らなかったのかもしれない。

 とまれ、オロモウツの近くでは、いやチェコ全体を通しても、これほど中世の雰囲気を感じられる場は少ない。観光客であふれかえり、観光客のための施設でけばけばしいまでの外観を持つに到ったプラハで中世に浸れる幸せな人たちには何も言うまい。
 ボウゾフ城は、改修の結果獲得した外観ということで、歴史的記念物としての評価が高くないため、世界遺産への登録なんてことはありえなさそうだけど、下手な世界遺産を見に行くよりはボウゾフを見に行ったほうがはるかに満足度は高い。四月から十月ぐらいにかけての観光シーズンには、オロモウツに来て、「ボウゾフを見ずして帰るなかれ」と断言しておこう。私も、二十年以上前に、そんなことを泊まっていたホテルの人に言われて、よくわからないのに、何とかバスに乗って出かけたのだから。

2月25日23時30分。



 この本、いい本なんだけどねえ。ドイツからチェコに入って、モラビアのほうまで来ないのが残念である。続編でモラビア編をやってくれないものだろうか。この記事に書いたもの以外にも、レドニツェ、バルティツェ、ブフロフ、ブフロビツェ、ソビネツなどなど、一見の価値あるお城はごまんとあるんだけど。2月26日追記。



ドイツ〜チェコ古城街道 [ 阿部謹也 ]


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