アフィリエイト広告を利用しています
<< 2024年02月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29    
検索
リンク集
最新コメント
チェコの銀行1(十二月二日) by ルイ ヴィトン 時計 レディース hウォッチ (03/20)
メンチンスキ神父の謎(四月卅日) by にっしやん (12/30)
メンチンスキ神父の謎(四月卅日) by にっしゃん (12/30)
メンチンスキ神父考再び(七月卅日) by にっしゃん (12/30)
カレル・チャペクの戯曲残り(二月朔日) by K (08/16)
最新記事
カテゴリーアーカイブ
記事ランキング
  1. 1. 『ヨハネス・コメニウス 汎知学の光』の刊行を寿ぐ(四月十日)
  2. 2. no img 『羊皮紙に眠る文字たち』『外国語の水曜日』(三月十九日)
  3. 3. no img コメンスキー――敬虔なる教育者、あるいは流浪の飲んだくれ(九月廿七日)
  4. 4. no img すべての功績はピルスナー・ウルクエルに(一月廿六日)
  5. 5. no img 「トルハーク」再び(三月廿日)
  6. 6. no img トルハーク四度(十月二日)
ファン
タグクラウド










ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

広告

posted by fanblog

2017年07月17日

失われたチェコの領土2(七月十四日)



 二つ目の失われた領土はチェコ語で「チェスカー・ファルツ」と呼ばれるドイツのバイエルン州の北東部である。西ボヘミアのドイツに突き出した部分から南西に尻尾のように垂れ下がる形でニュルンベルクの近くまで延びている領域が、一時期とはいえチェコの王冠に結び付けられていた。この地域を獲得したボヘミア王は、カレル四世である。
 カレル四世は、二人目の王妃アナ・ファルツカーとの結婚と買収によって1355年にこの地域の領有権を得た。アナは当時バイエルン地方を領有していたウィッテルスバッハ家の出身で、結婚の持参金代わりに領土を割譲されたのだろうか。同時に、当時財政的に困窮していたウィッテルスバッハ家からチェスカー・ファルツの大部分を購入したのだという。
 この地域がファルツと呼ばれるのは、ラインファルツ地方と同様に、領主のウィッテルスバッハ家が、宮中伯という特殊な爵位を得ていたことによるようだ。本来王宮をさす普通名詞であった「ファルツ」が、その長官である宮中伯(ファルツ伯)の地位を有するウィッテルスバッハ家の一族の領地を指す固有名詞に変わった変わったらしい。

 カレル四世は、当時のバイエルンで最大の交易の中心地で裕福な都市であったニュルンベルクの近くまで領土が広がったという利点を生かすべく、積極的に設備投資を行い多くの建造物を建てると同時に、減税などの商工業への支援策を実施した。このチェスカー・ファルツをボヘミアとニュルンベルクを結ぶ隊商路として定着させようとしたものと考えられている。
 そのカレル四世の意図を示す証拠といえそうなものが、ラウフという町のお城に残っている。カレル四世が建設した当地の城塞にはチェコの守護聖人である聖バーツラフに捧げられた礼拝堂があり、広間の壁には、当時チェコの王冠に属していた領土や町の112にも及ぶ紋章が描かれているのだ。そこに長期にわたってチェコのものにしようという意志を見て取ったとしてもあながち間違いではあるまい。

 しかし、このカレル四世の意志は長続きしなかった。1373年には、チェスカー・ファルツの大部分に多額のお金を加えて、ウィッテルスバッハ家の領有していたブランデンブルク辺境伯領と交換してしまうのである。残された部分もカレルの後継者バーツラフ四世の時代に失われた。その後、フス派戦争の後のポデブラディのイジーの時代に一時回復されたこともあるが、1779年に最終的にチェコの王冠領から離れることになった。
 1778年にボヘミアの女王でもあったオーストリア大公マリア・テレジアが、チェスカー・ファルツの一部がチェコの王冠領であることを口実にバイエルンの領有を求めた。これによって反対するプロシアとの間で、いわゆるバイエルン継承戦争が勃発した。この戦争の講和の条件として、オーストリアは、ひいてはボヘミア王はバイエルンの領有権を放棄することになる。チェスカー・ファルツは、チェコの王冠領から完全に失われたのである。

 三つ目の失われた領土は、カレル四世がチェスカー・ファルツを捨てて獲得したブランデンブルク辺境伯領である。チェコ名はブラニボルスコであるが、名前の由来となった町ブラニボルはもともとスラブ人が建設したものだという。
 12世紀に最初にブランデンブルク辺境伯領に封じられたアスカニエル家が1319年に断絶した後、辺境伯領を手に入れたのはバイエルンを領有していたウィッテルスバッハ家だった。ウィッテルスバッハ家は、上記のようにカレル四世に領地バイエルンの一部を売却せざるを得ないような経済的危機に見舞われていたのだが、それだけでは足らず、更なる金銭を得るために、チェスカー・ファルツとブランデンブルク辺境伯領の交換をカレル四世に申し出ることになる。
 カレル四世にとっても、多額の金銭を追加する必要はあったとはいえ、ラウジッツの北に直結する広大なブランデンブルク辺境伯領は、バイエルンの一部に過ぎなかったチェスカー・ファルツよりも魅力的だったのだろう。ウィッテルスバッハ家からの申し出を受け入れることをためらわなかったらしい。それが1373年のことである。

 しかし、ブランデンブルク辺境伯領がチェコの王冠の下にあったのは、それほど長い期間ではなかった。すでに15世紀の前半には、カレル四世の息子でハンガリー王、兄バーツラフ四世の死後ボヘミア王を兼ね、後に神聖ローマ帝国皇帝にも選出されたジクムントが、ホーエンツォレルン家をブランデンブルク辺境伯領に封じている。
 ジクムントはボヘミア王としては、フス派戦争の真っ只中でフス派との抗争に明け暮れ、思うに任せない日々を送り、最後はチェコを出てハンガリーに戻る途中ズノイモで病死している。兄のバーツラフ四世もそうだが、チェコの王冠の領土を拡大し大きく発展させたカレル四世の息子達の時代には、すでに没落が始まっていたのである。

 このとき、ブランデンブルク辺境伯領を獲得したホーエンツォレルン家は、その後勢力を拡大し、プロシア王国として、オーストリアのハプスブルク家と対立しチェコの歴史にも大きな影響を与えることになる。もともとドイツ西部を拠点としていたホーエンツォレルン家がドイツ東部に拠点を確保し発展する基礎を築いたのがこのブランデンブルク辺境伯領の獲得だと考えると、余計なことをしてくれたものである。

7月15日11時。



物語チェコの歴史 森と高原と古城の国 (中公新書) [ 薩摩秀登 ]







この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/6499188

この記事へのトラックバック
プロフィール
olomoučanさんの画像
olomoučan
プロフィール


チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。