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2021年04月24日

『欧米学校印象記』(四月廿一日)



 次に、国会図書館オンラインで見つけたチェコスロバキアが登場する、いや正確にはプラハが登場する戦前の本は、井上貫一著『欧米学校印象記』(同文館、1923.11.25)である。「はしがき」によれば、著者は岡山県の人で、刊行の前年に県の依頼でアメリカからヨーロッパを回って各国の教育事情について視察したらしい。
 目次を見ると、最初はアメリカの部から始まり、イギリスの部を経て、大陸諸国の部と並んでいる。その大陸諸国の部の16番目の章が「チエツクの都プラーグに来て」で、17番目が「ソコール大會を見る」となっている。学校の視察を行ったはずだが、具体的な学校を訪問した様子はかかれず、ただ、現状は学校の増設と教員の養成に忙殺されていることが記されるのみである。

 この本が興味深いのは、プラハに到着そうそう日本語ができるチェコ人が登場するところにある。プラハに向かう途中で知り合いになった人が紹介してくれた「ホテルグラーフ」にタクシーで向かい、支払いにまごついていたら、ホテルのボーイが「それでよろしい」と口を出したというのである。著者が支払いに使おうと選んだお金が正しいことを教えてくれたのだろうか。
 そして、食堂の一角に日本人用の食卓が準備されていて、プラハの大学に留学している学生と食卓を共にしたことが記される。このチェコスロバキアと日本の国交が樹立されて二年内外の時期に、すでに日本から留学生がプラハに来ていたという事実に驚かされる。もしかしたら明治維新後の欧米に、新しい学問を学ばせるために留学生を多く派遣していた時期から、プラハに来ていたのかもしれないが、ウィーンやベルリンに留学した人の名前は思い出せても、チェコスロバキア独立以前にプラハに留学した日本人の存在は寡聞にして知らない。

 食事の後に、「モルダウ」の川風に吹かれようと散歩に出た著者に、「どこへ行きますか」とつたない日本語で声をかける人がいたという。プラハで日本語を聞いた著者の感想は、「日本では迂闊な人は未だに名も知らぬ中欧の新興国チエツクスロバキアの首府に来て、かく無造作に日本語をきかされ、好感を示される事はチエツク救援の代償としては安価ではあるがともかくも愉快である」というもの。「中欧」という表現がこの時期に登場するのも気になるけれども、チェコの人が日本人に対して日本語を使うのが、チェコ軍団救援のお礼の意味を持つというのはどうなのだろうか。
 独立以前から日本に興味を持って、日本に行ったり日本語を学んだりする人がいたのは間違いないが、チェコ軍団救援がきっかけで日本語を勉強し始めたなんて人がいたのだろうか。日本に滞在したチェコ軍団所属の兵士がプラハに戻ってきた後に、日本で覚えた言葉を広めたなんて可能性もあるかもしれない。とまれ、日本におけるチェコスロバキアよりも、チェコスロバキアにおける日本のほうがよく知られていたということは言ってもよさそうだ。

 その後に、プラハの建設伝説として、「女王リブツサ」の伝説を紹介する。これがリブシェの事なのは明白だが、その伝説は、古文の美文調で書かれているのだが、誰かの日本語訳を引用したのか、著者が聞いた伝説を翻訳したのかは不明。リブシェと結婚してチェコ人の王となったプシェミスルについては書かれていない。

 それから、ドイツの新聞記者と会って、このチェコスロバキアの将来について、30パーセントという、少数民族と言うにはいささか多すぎる数のドイツ系の住民の存在を理由に、この新しく生まれた国の将来を憂うようなことを記している。世界恐慌以後のチェコスロバキアとドイツ、ドイツ系住民の関係を知っていれば、慧眼だといいたくもなるけどどうなのだろう。戦争が終わって数年、まだ産業も完全に復興していなかっただろうし、経済的な余裕の無さが、チェコスロバキア人とドイツ人の対立の先鋭化につながっていた可能性はあるから、チェコスロバキアの将来を悲観的に見るのが普通だったのかもしれない。

 「チエツクの都プラーグに来て」の章の最後の部分で、プラハに二つの主要な駅があることが紹介されているのだが、その名前が、「マサリツク・バンホーフ」と「ウヰルソン・バンホーフ」となっている。マサリク駅は今もあるし、ウィルソン駅は今の中央駅のことだけど、「バンホーフ」はないだろう。他の部分で、チェコ人たちはプラハの街角からドイツ語を消そうと奮闘しているなんて書いているのだから、駅に「バンホーフ」なんて表示が出ていたとは思えない。

 チェコの体操団体であるソコルについての章では、「ソコールに唯一の掟があつて酒を飲むものは除名される」と書かれている。これ現在も続いているのだろうか。チェコ各地にあるソコロブナとよばれるソコルの集会所、もしくは体育館にはレストランが併設されていることが多く、堂々とビールの看板が出ているのだけど。「チェトニツケー・フモレスキ」に出てきた大戦間期のソコロブナでもレストランでビールを提供していた。ああ、そうか、ソコルのメンバーもチェコ人だし、ビールは酒じゃないと解釈するのか。ソコロブナのレストランでビール以外のお酒を販売しているかどうかは知らないので、この説の真偽は確認できないけど。
2021年4月22日24時30分。











posted by olomoučan at 07:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係
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