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2021年05月10日

マサリク大統領の手紙(五月七日)



 三つ目は、一番期待していると同時に、一番期待はずれを恐れていたマサリク大統領が日本の子供たちのために書いたという手紙で、現在の講談社の全身である大日本雄弁会講談社が刊行していた雑誌「少年倶楽部」の昭和六年七月号に掲載されている。国会図書館オンラインで確認できる書誌情報の目次では、82ページに1ページだけ掲載されているようだったので、たいした事は書かれていないんじゃないかと危惧したのである。

 実際に届いたコピーを見ると、83ページもあわせて見開き1ページ分の掲載だった。書誌情報では、「チェツコ・スロバキヤ大統領 マサリツク閣下より日本の少年へ」となっていたが、両ページ上部には、右から左への横書きで、「日本の少年諸君へ」と記されている。目次と本文の題名の齟齬は現在でもままあることである
 82ページの本文上部には、「チエツコ・スロバキヤ大統領」とあり、改行して「マサリツク閣下から」と続いている。どちらも右から左への横書きで、それぞれの漢字の右側に縦書きで読み仮名がつけられている。こういうのを見ると、横書きではなくて、一行一文字の縦書きなんだという説に賛成したくなってくる。もちろん明らかな右から左への横書きも存在するから、もろ手を挙げてというわけには行かないけど。

 その下の、ページの右端の一行目に「日本の少年諸君へ」と題名が記され、マサリク大統領についての解説が小さな活字で印刷されている。せっかくなので全文引用しよう。

  

 チエツコ・スロバキヤの全国民から、父とあがめられるマサリツク閣下は、今年八十一歳の高齢でありますが、あふるゝばかりの元気をもつて、国務につくしていらつしやいます。閣下は今から十二年前に、日本にお出でになつたことがあるのです。今度非常にお忙しい中から、諸君へこんな懐かしいお手紙を下さいました。



 残念ながら、どのような伝手でマサリク大統領まで子供たちに向けた手紙を書いてほしいという以来が送られたのかは、書かれていない。他の号にはアインシュタインの日本の子供たちに向けた手紙も掲載されているようだし、どんな規準で人選したのかも知りたいところである。ただ、当時の日本では、マサリク大統領は子供向けの雑誌に取り上げられても、不思議ではないほどには知名度があったということになるから、現在よりも知られていたとは言ってもよさそうだ。

 よくわからないのは、マサリク大統領が「十二年前」に来日したことが書かれているところで、これによると、雑誌が出たのが1931年だから、1919年に来日したことになるが、チェコスロバキア独立直後の困難な時代にそんな余裕があったとは思えない。マサリク大統領は、独立以前にシベリアのチェコスロバキア軍団の帰国に際して日本を経由できるように交渉しに来て、その後アメリカに渡って新国家の承認のための交渉をしていたのだから、遅くとも1918年の前半には日本を離れていたはずである。
 誤解なのか誤記なのかは置いておくとして、本文も引用してしまう。冒頭に「親愛なる少年諸君」という呼びかけを置いた後、以下のように続く。

   

 私はかつて日本へも行つたことがあるから、何かお国のことについて書いてあげるといゝのですが、ほんの数週間足をとゞめたばかりなので、それが出来ないのを残念に思ひます。
 しかし、私は今でも、その時見た日本の幼い人たちのことをわすれません。私は諸君を見るのが大好きでした。
 少年諸君、諸君はお国の生きた花です。しかも、花であるだけでなく、大きくなつて、日本の果実とならなければならぬ人々です。日本の健全な果実、日本をますます立派にする果実に。
 私は同じことを、私の国チエツコ・スロバキヤの少年たちは勿論、世界のあらゆる国々の少年諸君にも望むものであります。
 ではさやうなら、みんな元気で勉強してください。


 最後に日付「一九三一年三月十一日プラーグ市にて」と署名「トーマス・ジー・マサリツク」がある。
 これをマサリク大統領らしいといえるほど、詳しいわけではないけれども、なかなか含蓄のある文章である。「果実」という漢字に「このみ」というルビが振ってあるのが、翻訳者の工夫したところだろうか。2ページ目の上半分に英語の原文も掲載されているのだけど、翻訳文のほうがかなり長くなっているように見える。まあ、よくあることである。編集部での翻訳だったのだろうか。
2021年5月8日23時










posted by olomoučan at 06:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係
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