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2019年12月27日

永延二年正月の実資(十二月廿四日)



 永延二年の『小右記』は、略本系統の写本しか残っていないため、記事が読める日のほうが少ない。そこで、この月の記事の欠けている日にどんなことが起こっているのか、『大日本史料』を元に簡単に穴埋めをしようと思いついた。

 一日は、清涼殿の東庭で群臣が天皇に拝礼する小朝拝が行なわれている。この時期、行なわれない年もある儀式で、花山天皇の時代に、何の連絡もなく中止になったのを批判する記事を読んだ記憶もある。小朝拝自体が、百官を集めて行われる、本来の朝拝を簡略化した略儀であることを考えると、花山朝の儀式運営が適当で、代替わりを経て通常の状態に戻ったと考えることができそうだ。実資としては小野宮流の頼忠が関白の地位を失って、九条流の兼家が摂政になったのは、望ましいことではなかっただろうが、同時に摂政兼家の就任で朝廷の運営が正常化されたことは歓迎すべきことだったはずだ。『日本紀略』には、左大臣源雅信、右大臣藤原為光以下が参入したことが記されている。

 二日は、中宮と東宮が宮中で行う大饗という名の宴会。本来の予定通り二日に開催されるのは珍しいような気もする。中宮はまだ円融天皇の中宮の藤原遵子、東宮はのちの三条天皇である。ただし、前年の寛和三年にも二日に大饗が行われたことが『小右記』に記され、そのときは中宮ではなく、一条天皇の生母である皇太后藤原詮子が担当しているから、この年も詮子が行った可能性が高い。『日本紀略』には、「二宮大饗」とあるのみ。

 三日は、天皇が上皇、もしくは皇太后を訪問する朝覲行幸が行なわれている。引用されているのは『栄花物語』だが、「日本古典文学全集」版の頭注によれば、二年後の正暦元年のできごとを誤って永延二年のものとした可能性もあるらしい。このとき上皇としては冷泉、円融、花山の三人の上皇が存在するわけだが、一条天皇が訪問したとすれば、父の円融上皇のはずである。仮にこの都市の出来事であるなら、一条天皇の蔵人頭で、円融上皇にも仕えていた実資も同行したか。

 六日は叙位、もしくは叙位の議。このころ、六日に叙位で位階を進めるものを選定するための叙位の議が、七日に授位が行なわれた。『日本紀略』のこの日の条には「叙位議」とのみ。他に『公卿補任』に七日に叙された例が見られることから、六日に叙位の議が行なわれたと考えられる。

 七日に叙位とともに行なわれたのは、白馬節会である。天皇が紫宸殿に出御し、左右馬寮が南庭に引き出す白馬をご覧になった儀式。馬の数は廿一疋とされた。七日節会とも呼ばれており、『日本紀略』には、「節会」としかないが、七日の条にある時点で白馬節会であることに疑いはない。花山天皇は馬好きでしばしば儀式でもないのに馬を牽かせて実資に批判されていたが、一条天皇はどうであろうか。

 八日からは御斎会。十四日までの七日にわたって行われる。同じ時期に真言院では「後七日修法」も行われており、『大日本史料』では両方の名称で立項されている。

 九日には蔵人の補任が行なわれ、平惟仲が蔵人に任じられている。現時点では右中弁で廿日条にも登場する。『小右記』での初出は、前年の寛和三年三月、昇殿を許されたことが記されている。

 十五日には、『日本紀略』『公卿補任』の記載に寄れば、藤原伊周に禁色が許されている。祖父の兼家が摂政となり、父道隆がその後継者と目されていたがゆえの特別扱いだろうが、『小右記』が現存していれば、何らかの批判の言葉が読めたに違いない。この時期の伊周の扱いというのは、特別扱いされることの多かった藤原北家の本流の中でも特別で、ありえないぐらいのスピードで昇進を遂げている。当然実務経験を積む機会もなかったわけで、使えない公卿、ひいては大臣になってしまうわけである。

 十六日は、踏歌節会の日だが、『小右記』の記事が現存する。それによれば、新中納言の藤原道兼が紫宸殿の「御後」と呼ばれる場所に侯じ、権大納言道隆が内弁の役を務めるなど、摂政兼家の息子たちが中心となって儀式が進められている。ただ、内弁道隆の差配にはあれこれ問題があったようで実資の批判にさらされている。道隆と道兼なら、実資は道兼のほうに親近感を感じていたような印象も受ける。

 十七日は、何らかの理由で射礼が延期されているが、『日本紀略』にも詳しいことは書かれていない。

 廿日は、『日本紀略』によれば、正月の外記政の始めである「政始」も行われたことになっているが、『小右記』に記事が残るのは、摂政兼家邸での大饗についてだけである。前年もこの時期、十九日に行っている。この日の大饗については、欠落があるようで、非常にわかりにくいのだけど、出席者が並び立つのに順番が問題にされている。この辺は、位階と官職とどちらを優先するのかなんて問題があって、難しいのである。
 本来大臣大饗に際して天皇から下賜される甘栗と蘇のうち、蘇が西海道の国からまだ届いていないために、下賜されなかった。大臣を兼任していない摂政の行った、この日の大饗は大臣大饗とは微妙に違っていて、本来二疋のはずの引出物の馬が一疋になっている。
 また伊周と並ぶ無能公卿として実資に批判されることの多い藤原公季が、季節にそぐわない色の下襲を着用しており、実資に批判される。特に節会や大饗のような重要な儀式の際には、季節に合わない色は着用しないものだという。

 『日本紀略』によれば、翌廿一日に左大臣の、廿三日に右大臣の大饗が行われているが、現存する『小右記』にその記事はなく、廿一日条には、前日の夕刻に蘇が鎮西から献上されたことだけが記される。その後に、蘇と甘栗を勅使に「賜ふ」というのが、左大臣大饗へ勅使を遣わしたということなのだろう。勅使を務めたのは、摂政兼家の孫兼隆である。

 『小右記』の廿九日条は、前半が欠落しているが、内容から地方官の叙任、つまり縣召の除目が行われたことがわかる。確実に読めるのは実資の母の兄弟である藤原永頼が讃岐に、高階敏忠が肥前に任じられたことぐらい。どちらも問題含みで、特に後者に関しては「未だ聞かざる事なり」と強く批判している。こんなことが多くて細かくは書かないという。『大日本史料』に引く『公卿補任』で実資の気に障りそうなのを探すと、道長が廿三歳にして権中納言に昇進しているが、参議に任じられることなく中納言というのは異例も異例である。
 実資は最後に右大臣為光が、息子の誠信を参議に任ずるように懇願していることを記す。為光は自分が大臣を辞任してもいいから息子を参議にとまで言ったらしい。このときは許容されなかったが、一月後の二月末に実現してしまい、上臈でありながら参議に任じられなかった実資を怒らせることになる。ただし、藤原誠信は参議から昇進することができず、後に弟斉信が中納言に昇進したことを恨んで亡くなったとも言われる。
2019年12月24日24時。











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