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2019年09月10日

カレル・ブリュックネル健在(九月八日)



 シグマ・オロモウツの創立100周年記念試合は、出場が危ぶまれていたパベル・ネドビェットもイタリアから駆けつけてくれたし、来られなかったペトル・チェフやトマーシュ・ロシツキーはビデオでメッセージを送ってくれたし、盛大な盛り上がりだったようだ。2004年に代表のコーチを務めていた現監督のシルハビーのメッセージもあったというから、土曜日のコソボでの試合に勝っていれば更なる盛り上がりが期待できたのに……。

 たかだか地方都市のチームに過ぎないシグマ・オロモウツの記念試合に、これだけの選手があつまり、メッセージを寄せてくれたのは、元監督のブリュックネルの存在なしには考えられない。日本でも、10年ぐらい前まではチェコの誇る名将、知将なんてことでヨーロッパのサッカーを追いかけている人の間では有名だったけど、オーストリアの代表監督を引いて以後は、アドバイザーを務めるぐらいであまり表に出てきていないから、すでに忘れられた存在になっているだろう。
 しかし、チェコでは今でも、過去最強のチームというとブリュックネルが作り上げた2004年のヨーロッパ選手権のチームであり、そこから2006年のワールドカップぐらいまでが全盛期として、いまだに記憶に強く残っている。だからブリュックネル以後の代表の体たらくがしばしば批判の対象になって、あのころとは時代が違うんだなんて言葉で総括されてしまうこともある。

 ブリュックネルは選手としては、まだ下部リーグにいた頃のオロモウツで活躍し、1974年からは監督兼任の選手という形で指導を始め、チームを初めて3部リーグに昇格させた。その後も断続的にオロモウツの監督を務め、1982年に初めて一部リーグに昇格したときは別の監督だったけど、1年で降格したあと、84年に二度目の昇格を果たしたときの監督だった。それから2014年に二部に降格するまでは、ずっと一部にいつづけたし、オロモウツのサッカーの基礎を築いた監督だといっても過言ではない。
 90年代半ばに最後に復帰したときには。1995/96年のシーズンに一部で準優勝というシグマ100年の歴史の中で最高の成績を残している。その前には、90/91年、91/92年の2シーズンを連続で3位で終え、翌年のUEFAカップでは、91/92年は準々決勝まで進出して、レアル・マドリッド相手にホームで1−1の引き分け、マドリッドで0−1で負けて敗退。92/93年は3回戦で、ユベントスにホームで1−2と健闘したものの、トリノでは0−5で敗退。オロモウツが予選はともかくとして、ヨーロッパのカップ戦の本選で勝ち進んだのは、ブリュックネルに率いられたこの2シーズンしかないのである。

 その後、U21代表の監督に就任し、2000年のヨーロッパ選手権では準優勝、2002年には優勝という結果を出し、2002年のワールドカップ予選で敗退が決まったあと、前任のホバネツの後を受けて、A代表の監督に就任。そして優秀な選手はいるけどチームに成りきっていなかった代表を立て直して、最強チームに育て上げたのである。あの時代は誰が監督をやっても、ブリュックネルと同じぐらいの結果を出せたはずだという人もいるのだけど、ブリュックネル前後の監督の成績を考えると、大間違いである。

 ところで、今回の100周年記念試合には、オロモウツのサッカーの恩人であるブリュックネルが今年の11月に80歳を迎えるお祝いも兼ねていた。これもまた、元代表の選手たちがオロモウツまで来てくれた理由になっている。シグマからのお祝いと感謝の印として、アンドル・スタジアムの観客席の一部にブリュックネルの名前が付けられることになった。
 これに対する反応が、ひねくれ爺のブリュックネルらしくてファンとしては嬉しかった。「誕生日は11月なのに、今から誕生日おめでとうなんて言われてもなあ」とか、「こういう記念ってのは50周年とか100周年とかだけやればいんだよ。80なんて中途半端な数字で」なんてことを、例によって不機嫌そうな口調でコメントしていた。そこで横からシグマの監督を務めたウリチニーが、「こんなこと言ってるけど、俺は目に涙ためてるの見たぞ」とコメント。感情を見せるのを嫌う人だからなあ。

 試合について楽しんだかと質問されたのには、「俺は試合を楽しむというのが嫌いなんだ。俺は勝ちたいんだ。勝つために試合をするんだ」と言って、日本でも信奉者の多い試合を楽しむという考えを切って捨てていた。この負けず嫌いについてはネドビェットも、ハーフタイムのミーティング中に不甲斐ないプレーに対する怒りのあまり、手に持っていたペンを選手たちに向かって投げつることもあったなんて懐かしそうに回想していた。
 試合のほうは、本気で勝ちに行ったブリュックネル率いる代表が、9−2とこの手の記念試合では珍しく大勝。コレルが4点取ったのだけど、試合中にウリチニーがブリュックネルのところに来て、手がつけられないからコレルを引っ込めてくれないかなんて相談したとか、ブリュックネルはそれを拒否して、そんなこと言うからお前は駄目なんだと言い返したとか、この爺さんたち二人、仲がいいんだなあと思わされる話も聞こえてきた。
 監督稼業を振り返って、監督というのは年をとればとるほど、経験を積めば積むほど能力が上がるものだなんて言っていた。60台で監督やってたころもまだまだガキだったというから、もう一回監督やってる雄姿を見たいと思ってしまった。さすがに健康上の問題もあるから難しいだろうけど。

 実はこの100周年記念試合を行なうにあたって、最大の難関がブリュックネルだったらしい。ブリュックネルなしには成り立たない企画なのに、なかなかうんと言ってくれなくてというのは、自らも出場したロゼフナルの証言である。そうなると、次は、本人も記念になると言っている100周年、ブリュックネルの百歳を祝う記念試合だ。こっちがそこまで生きていられるかが不安だけど。
2019年9月8日24時30分。











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