夢の世をあだにはかなき身と知れと
教えて還る子は知識なり
和泉式部は救われていたかどうかは分かりませんが、
こういういい歌を残している。
これは、産まれたばかりの赤ん坊が亡くなった。
その時の親の悲しみは大変です。
しかしそれが縁となって仏法を聞く人がある。
わが子の死を縁として。
また友達の死を縁としてより真剣に仏法を求める人がある。
親鸞聖人は両親の死を縁として今度は自分の番だと知らされ、仏道を求め、救いに預かっておられる。
私たちは決して人の死を無駄にしてはならない。
この人生私たち夢の世でありながらなかなか分からない。
その私たちにあだにはかない身であるぞと目の前で見せて下さっている。
私たちが信心決定するにはこの人生、夢の世と分かる人ほど早く信心決定できる。
アッと言うまだなと知らされた人ほど。
あだなる身。
あだとははかない。
今日とも明日とも知れない。
産まれたばかりの赤ん坊も死んでいく。
儚い身である、産まれたばかりの赤ん坊でも死んでいくんだぞと無常を教える。
夢の世だぞ儚い身で有るぞと教えて、阿弥陀如来の極楽浄土へ帰っていった子供は善知識である。
ひょっとしたらその子供は仏様の化身であるかも分からない。
お経を読んでみると仏様は私たちを救うために人間と形を変えて無常を教えてくれる場合もある。
これは仏にならないと分からないが色々私たちを救うために形を変えて、私たちを導くことがあるとお経にあるから。
実際亡くなった人が仏が姿を変えて現れたかどうかは信心決定して阿弥陀如来の極楽浄土に往生しないと分かりませんがそのよう
に味わうことが大事。
あだに儚い身と知りなさいとこう私たちに諸行無常を教えるために子供となって産まれた。
そして目の前で亡くなっていった。
それが仏様なら地獄ではなく極楽に帰りますから。
私からすれば善知識。
本当の幸福に導く善知識と味わわずにおれない。
あなたの周りにもそう言う方。
お婆さんとかお爺さんの死とか。
決して肉親の死を無駄にしてはならない。
今度は我が身だぞ。
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image