涼しくなると動きが活発になって
遊んでくれとせがむようになるジュリさん。
今のお気に入りは荷物用の紐。
私が紐を持って歩き回ると
その先端を狙ってジュリさんも付いてくる。
この猫の遊びというものは
いずれにしても獲物を捕るためのものだ。
ネズミのおもちゃも蝶々のおもちゃも
フェルトで作ったボールも、
全て獲物を追いかける行為を
おもちゃで代用している。
よくお年寄りが仕事をリタイアすることによって
急激に老け込んだり、
逆にやることがなかった老人に
仕事を依頼することによってその老人が活き活きとしたり、
ということがある。
よく
人の役に立つのが嬉しい、
などという声を聞く。
仕事をすることによって「ありがとう」と言ってもらえるのが嬉しい、
などというのもよく聞く。
家猫が獲物を取らなくても食事に困らなくなっても
獲物を狙う行為を忘れないのと同じように、
人間も仕事をし続けるように元からできているのではないだろうか。
昔は生活も厳しかったし寿命も短かったから
まだまだ働ける年齢で死んでいた。
昔と違って今は長生きできるから
働き盛りをすぎても生き続けることになる。
だからといって何の仕事もないというのは
生物的に拷問に近い環境なのではないだろうか。
働ける喜び、
それは生物が生物である証明の結果得られるモノのように思える。
年寄りのためと思って仕事をさせないのは
生物的には誤りなのかもしれない。
タグ:猫
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