2018年11月24日
タイでの日常生活(20)ーーロイカトン
今回は11月22日にあった「ロイカトン」に関して記してみます。
この時期の祭りで直ぐに思え出せるのは、アメリカのThanksgiving Day(感謝祭)です。また、日本で言えば「秋祭り」が頭に浮かびます。基本的に秋という時期は収穫の時期で、科学が発展する前の時代は、人々は豊穣に感謝して、お祭りを行ったのだろうと想像しています。それに宗教的意味合いが加味されて、それぞれの宗教的色合いをミックスしながら、人々の間で、伝統的に行われて来たんでしょう。
《ロイカトンの表記、発音》
ロイカトンは別な表記もあるようです。大きな違いではないんでが、「ローイカトン」と言ったり、「ロイカトーン」と言ったり、「ロイクラトーン」と言ったりするようです。元々タイ人はあまり、綴りにこだわらない人たちなので、人によって、時々、発音が異なることがよくあります。
また、タイの中でも、別の呼び名を使うところもあるようです。北部のチェンマイなどの地域では、イーペンといい、コムローイ(別名コムファイ)と言われる、所謂、ちょうちん(灯籠)を空に飛ばしたりするようです。中国でもチェンマイなどと同じように、ちょうちんを飛ばしますから、同じ思いの歴史を持っているのだろうと想像できます。国は違っても、この時期の人々の心は、基本的に共通しているのでしょう。
《ロイカトンの基本》
基本は「秋祭り」ですから、農業との関係で、行われるようになった儀式と考えていいようです。
タイのロイカトンは今回を入れて、3回目になりました。
タイ語で「ロイ」は「流す」の意味で、「クラトン」とは灯籠の意味です。基本は、「川に灯籠を流す」ということが分かります。灯籠は自分で作ってくる人もいますが、その場に行くと、沢山の手作り灯籠を売っています。安いのは20バーツくらいからあり、高いのは100バーツのもあります。その場で追加で、家族総出で、灯籠を作っている人たちもいます。灯籠の材料は、バナナの葉を加工したり、果物や野菜(特に人参)をカットしたり、花や芋なども使って、蓮の花のように見せたりして、その真ん中にローソクを立てています。
《ロイカトンの祝い方》
灯籠を持って、水縁に行き、ローソクに火をつけて、祈りながら、流します。昔だと、無事収穫があったことを感謝したのでしょうが、今は、農民だけではないので、家族の健康や幸せを祈っているのでしょう。川のある地域では、川に灯籠を流しますが、私が住んでいる地域の中心地には、川がありません。その為、人々は池の中に灯籠を流します。
豊穣への感謝と共に、それをもたらしてくれた水への感謝の気持ちも込められていことが、川(水)に流すということからうかがい知ることが出来ます。それと同時に、人によれば、切った爪や髪の毛を流すということです。一種の厄除け的な意味合いもあるようです。
地域によると、盛大に催し物をするところもあるようです。ステージを組んで、踊り子たちがそこでまったり、カラオケを開くところもあるようです。
また、「ロイカトン」の歌もあるようです。そういえば、会場で皆さんが口ずさんでいたのは「ロイかトンの歌」なんでしょう。
《アメリカの秋祭り》
アメリカの秋祭りを思い出してみると、最初に思い出すのが、State Fairです。これはそれぞれの州が開く一種の家畜や農産物の品評会が基本でしたが、今は、それに加えて、一種のエンターテインメントになって来ています。農民だけでなく、一般の人々が楽しみにしているイベントです。開催の時期は8−9月で、開催期間は10日から2週間です。人々は、中心地から出るバスに乗って、会場まで行き、一日中見て回りながら、食べ物などを買って、Fairを楽しむのです。
Thanksgiving dayは日本でも最近、一緒に祝うようになって来たので、よく知られているところです。この起こりはアメリカにイギリスからメイフラワー号に乗って渡って来た清教徒たちが、アメリカンインディアンたちも招いて収穫に感謝して行ったお祭りです。清教徒というと、宗教的色合いが濃いように思えますが、基本は収穫を祝う行事だったと言うことです。
《日本の秋祭り》
稲刈りもほぼ終わった頃から、私の日本の実家にも、幟の季節がやって来ます。要所要所に高い幟が、大人たちによって、建てられて行きました。祭りの始まりだなと、子供心にも分かりました。豊穣への感謝ではなく、おはぎが食べられるということへの喜びです。子供ですから。
「秋祭り」を辞書で引いてみると、やはり「収穫」という語がキーワードになっています。今年の豊穣に感謝し、来年の豊作を心の中で祈るための行事です。
日本の秋祭りというと、私の思い出は、神社での出店や、広い神社の庭で繰り広げられる、喧噪です。鬼やひょっとこに追いかけられたこと、出店でスルメイカを食べたこと、金魚すくいをしたことなど、など。これを少し、冷静に思い出してみると、神社で行われていたということが大事です。お寺ではないのです。即ち、日本の秋祭りは「神道」との関わり合いが強い中で行われていたのだろうと想像できます。しかし、基本は農作の安定を願う人々の気持ち、即ち、自然を畏敬することを、お祭りの中で人々は実感、実践していたのだと思われます。宗教は後付でしょう。
《秋祭りから思うこと》
国の主義主張、宗教の違い等々があるにもかかわらず、秋の祭りを考えてみると、人々の思いは、時代を超えて、共通の思いを持っていた(る)ことが分かります。自然への畏敬の念、豊穣への感謝の気持ち、お互いの一年の努力と苦労を労い合おうとする気持ちが、秋祭りには込められていると思うのです。人間は科学を発展させる時間の中で、心の底にある人間の共通的繋がりを失って来たのかも知れません。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。コメントなどありましたら、お願いします。また、ご訪問下されば幸いです。
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