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2018年12月17日
ショートショート(超短編)――第10話
第10話 思い出の清算
2006年8月の終わりのことだった。洋子が死亡して5年目の年だ。2001年の8月30日に自らの命を絶って、既に、5年の月日が流れていた。その間、私は何度も何度も彼女が夢の中に出てきて、うなされて目を覚ましたことがあった。もういい加減に何とかならないかという気持ちがあった。ごたごたで別れて10年以上経っていた。あれは1994年のことだった。何故か、忘れにくい年に物事が起こっている。1994年とは私たちがアメリカから戻って来た年でもある。勿論、アメリカから戻って来たからこそ、別れることになったのでもある。しかし、いつも因果なものだと思う。自分にとって忘れがたい事柄が起こった年に何かが起こっている。人生とはそんなものなんだろうと思うときがある。1981年から82年と初のアメリカ留学の年に洋子が本格的に病気を発症して、日本に戻って来た。その後、1993年94年と再度アメリカ留学の年に、また、同じように発症した。病気だと分かっていても、いや、分かっているからこそ最後の決断をしたのかも知れない。別れる必要はなかったのではないかという気持ちが、だからこそいつまでもついて回っているのだろう。勿論、これでよかったという気持ちもあることは確かだ。しかし、2001年に死亡してから、彼女が頭の中に現れる回数が増えていたことは間違いない。死亡したからこそそうなったのかもしれない。だが、区切りをつけてから長い月日が経過するにも拘わらず、悶々とした心の状況を何とか解消したいという気持ちが強かった。それで、明子に墓参りをするかと持ち出してみた。
長崎は久しぶりだった。昔、長崎に住んでいたころ、広島に帰ってくるとき、まだ高速道路もできていないころだった。車で10時間も12時間もかかって、やってきていた。車のほうが安いからといって、随分無理をしたものだ。また、洋子や明子に無理強いしたものだと思いながら、今度も車だが、高速道路を利用した。途中の景色を楽しんだり、長崎で足が必要だということもあって車にしたのだが、心の片隅には、昔の状況を再現してみたいという気持ちがあったことは事実だ。勿論、昔と違って、時間も短く、車も大きくなっている。節約節約と思って、こせこせしていたころの気持ちがないだけ、当時の状況が再現できているとはいえないが、形の上だけでも、何度も往復した、広島長崎間車の旅を再現したかったのだ。高速道路は少し早めに降りて、昔の景色を確かめたかった。昔の本拠地の諫早で高速道路を降りることにした。周りの景色は殆ど変わっていないと思いたかった。変わっているだろうと思いつつ、変わっていないところを見つけることがひとつの心の狙いだったのかも知れない。全体的には前は空間だったところに新しいビルが建ち、昔の位置に郵便局があるが新たな建物に変わっている。僅かに、昔のままの民家が残っていることに安堵感を持ちながら、昔の位置に同じものがあることにも喜びを感じながら、変わったね、ここは昔のままだなどといいながら、かつて何度も通った国道を長崎に向かった。その途中で明子にはどうしても伝えておきたいことがあった。それは明子が生まれて育った場所である。洋子と所帯を持ち始めた昔の長屋アパートで生まれ育ったのだということを教えてやりたかった。25歳の若い女の子には興味のないことかも知れない。それ以上に、中村アパートといったが、その昔のアパートは取り壊され、すっかりモダンな鉄筋のビルが建ち、いくつかの店が入っていた。その隣にあった矢上運送の社長の家も今はなかった。また、日々の買い物に利用した松尾スーパーの姿もなく、その地は今はビルに変わり幾つかの店が入っていた。その店のひとつで、墓に供える花を買うことにした。
長崎の街の中は後から思うと大きくは変わっていなかった。変わっていたのは自分の頭の中だと分かり、少し残念な気がした。それは、自分では10年以上住んだ街はよく覚えているというつもりだった。だからこそ今回昔をたどろうという気持ちになったのでもあった。しかし、自分の頭の中で、街の姿は徐々に薄らいでいることに気づかされたのである。それというのも、予約したホテルの地理的位置がしっかりと認識されていなかったのである。インターネットでホテルを予約し、そこで地図を見て、中島川沿いに位置していることや、川に沿った道を10メートルも行けば市外電車の軌道に出て、そこは諏訪神社前の停留所ということも地図に載っていた。何となく分かっていたつもりだが、何度も迷ってようやく到着する始末だった。しかし、到着してチェックインを済ませて周りを落ち着いて見てみると、徐々に目の前に見える絵が鮮明になっていくことが分かった。そのホテルは諏訪神社のちょうど向かい側にあって、神社を正面から見ることができた。また、神社の有名な石段もはっきりと見ることができた。そこにはクンチを見るために、何度か来たことがあった。この場所は、洋子が子供のころの大切な遊び場だったであろうし、洋子の既に亡くなっている父親の思い出深い場所でもあるはずだ。長崎の人たちはお祭りが大好きだった。特に長崎クンチでは街をあげての大きな催しであった。このときは長崎っ子の血は最高にたぎる時だった。義父にとってもそれは例外ではなく、欠かさず何らかのかかわりを持っていた。クンチでは神社の石段を大きな神輿を担いで駆け下り、最後に駆け上るのが慣わしだった。男くさい勇壮なそのお祭りの雰囲気が洋子の中にも流れているのだと思っていた。それに、明子が5歳のとき七五三をしたのもこの神社だった。勿論、明子はそんなことを覚えているわけはなかった。心の中で、このようなことを思いながら、一緒に、石段を登ってみた。一番上まで石段を登って周りを見ると、見慣れた景色がまた目に飛び込んできた。それに建物は変わっても、街を取り巻く山の形は変わりようがない。そう思いながら、昔目にしたことのある建物を探しながら、見回してみた。最後に、明子とお参りをして神社の石段を降りていった。
5年ぶりに洋子の実家に近づいていった。5年前洋子が命を断ったのを知りつつ、葬式には出ることができなかった。心の中では出ることに躊躇いを感じていたというのが正直な気持ちだったと思う。ちょうどアメリカにいるときのことだった。あのワールドトレードセンターが爆破され、身動きが取れなくなっていたことも確かなことだ。その年は仕事の関係でアメリカの大学を回ってプログラムの最終調整に入っているときだった。自分ひとりでこの仕事をやっていることもあって、職場には詳しい旅程はおいていなかった。8月の終わりにニュージャージの大学を訪問し、新1年生と一緒にワールドトレードセンターの横を通って、自由の女神の周辺をクルーズするというオリエンテーションにまず参加した。それは例の爆破の約1週間前のことだった。その後、インディアナ州の大学に3泊して、次のオハイオ州の大学に行く前に、週末を利用してミネソタに向かった。ミネソタでは明子が待っていることになっていた。明子はミネソタの大学に来て3年目になっていた。時々メールや電話で話していたが、久しぶりに成長した娘に会うことを楽しみにしていた。また、ミネソタには昔から私自身が世話になっているアメリカ人が住んでいた。若い頃にホームステイをさせてもらって以来、親しく交流を続けている。一時、途切れかけたこともあったが、その短いときを入れると20年以上の付き合いになる。明子も大学に入る前に世話になったことが何度もあった。そのアメリカ人とも久しく会っていなかったので、楽しみであった。空港には予定通りママが迎えに来てくれていた。久しぶりということもあって、会ったときに特別な雰囲気を感じ取ることはできなかった。明子は来ていないなとは思ったが、学校があるので、向こうに着いたときに合流するのだろうといった程度にしか思わなかった。そのためママにあったとき、特別に明子が来ていないということの話をすることはなく、今回の旅のことや今の仕事の状況など、いわゆる世間話程度の話をしていた。車を走らせながら、ママが明子から手紙を受け取っているといって、封筒を渡してくれた。それでも何も特に胸騒ぎを感じることはなかったが、封筒を開けて手紙を読んで洋子の死を知った。私の最初の言葉は「洋子が死んでしまった」だった。なんて言っていいか分からないという感じだった。ようやくその言葉が口に出せて、次の言葉が出てこなかった。それもあってか、ママは明子が飛行機で昨日ミネソタを発って日本に向かっているということ、日本に着くと連絡するからといっていたこと、母の死に動揺しとても悲しんでいたことなどを短く話してくれた。言葉が出ない私はただ、胸が熱くなり涙が止めどなく流れてきて、一層言葉を出すことができなかった。後で分かったことは、洋子の死を知ったときに、明子は私に連絡を取ろうとしていたようだが、詳しい日程を職場に残していなかったために、結局、私に知らせたり、相談できず、友達に励まされながら、直ぐに日本に向けて発つ手筈を整えたようだった。明子は何とか母親の葬式には間に合うことができ、火葬に立ち会うことができたということだった。ミネソタに私が到着して、悶々としながら朝を迎え、シャワーを浴びているときに、明子は電話してきた。その電話ではただ、悲しくて、また、明子が悲しかっただろうと思い、一番悲しいときに傍にいてやれなかったことが悲しく、不憫で胸が締め付けられるような感じで、しっかりとしたことを言葉で伝えることができなかった。ようやく出てきた言葉は、ごめんな明子、間に合った? お父さんは帰れそうにないよ、だった。洋子は、「大丈夫。ただ、言っておきたかったのは、これはお父さんのせいではないからね」といっていた。その後、ミネソタの友人の家にもう一泊して、次の目的地のオハイオの大学に向かった。そこに着いた次の日に、ニューヨークで爆破事件が起きて、すっかり身動きができなくなってしまった。その後、明子は10月終わり頃まで、洋子の姉夫妻の家に世話になっていた。私はニューヨークの事件後、散発的に飛ぶ日本への飛行機を何とか確保して、9月中ごろに日本に帰ってきた。そして、その後、9月の終わりに洋子の墓前にお参りに行った。葬式が終わってまだ、一ヶ月も経ってない頃で、実家の入り口の部屋に祭壇が設けてあり、笑っている洋子が額縁の中に入れられていた。その前でお参りをした。このとき以来の長崎訪問であった。
洋子は義父が元気だった頃に購入した墓に入っていた。私は長崎にいる頃、何度か義父の先祖の墓にお参りをしたりしているので、墓の位置はその先祖の墓があるところだと思っていた。明子は母の死後、2ヶ月ばかり洋子の姉の家に世話になっていた関係上、墓の位置は十分分かっていた。私の頭の中での墓の位置と実際に明子が向かおうとする墓の方向と異なっていて、先に進んでいく明子を見て、いったいどこに向かうのだろうと訝っていた。義父が生前購入していた墓地は実家の直ぐ横の石段をかなり登って行ったところにあった。長崎は盆地のようになったところに町があり、坂が多い。オランダ坂でも有名なように、どこに行っても坂、坂、坂である。訪問したのが夏も終わりかけた時期だったが、まだ暑く、汗をたくさんかきながら墓に到着した。あぁ、ここなんだね、お父さんは別のところを思い描いていたよ。やっぱり明子はよく覚えているね。そうか、そうだ、お葬式の後、暫くここにいたんだよね。あぁ、そうだった。忘れていた。てっきり、別のところにあるとばかり思っていた。ごめんね、お父さんの記憶の通りに向かっていたら、とんでもないところにいっているところだった。ぜーぜー言いながら、何とかそう言い終えることができた。明子は墓に着くなり、大きな聞こえる声で、お久しぶりです、元気だった?お母さん、久しぶりにやってきましたよ、と墓に向かって話しかけた。汗を拭きながら墓を背に目を向けると、目の前に広く街が開けていて、とてもいい眺めである。いい眺めだねといいながら、私の中には、その景色は洋子の実家の縁側から眺める景色と同じで、長くこの地に暮らした思い出が蘇えってきていた。何度も訪れた実家から見た景色が墓から見る景色とまったく同じということに何か分からぬ因縁を感じた。でもそれを明子に明かすことはなかった。母の火葬に悲しい思いをしながら参加した明子だが、今はその素振りを微塵も見せず、むしろテキパキとお参りの準備をしていた。今回、車で長崎に着いたところで花を買っていこうという話になって、途中でスーパーに立ち寄って花を買うことにした。既に25歳になっていてもまだ、子供と思っていたが、明子は自ら進んで花やそれに加えるものを選んだりした。いつまでも子供だと思っていたが、私の出る幕はなくなってきているなと実感し、淋しさもあったが、嬉しい淋しさであった。そこでは線香や蝋燭も買い揃え、水も大きなペットボトル2本を購入した。そんな大きなものはいらないでしょうと、つい口出しをしてしまったが、それが単なる口出しだったことが、墓に来てみて直ぐに分かった。私たちが長崎を訪れたのは8月の旧盆から2週間ばかり経った頃のことということもあって、墓には少し汚れが出始めていた。それに、旧盆の頃に供えたと思える花も萎れていた。中には乾いて枯れてしまったものもあった。明子は枯れた花を手際よく抜いて、買ってきた新しい花をくるんでいた新聞紙に上に置いた。更に、墓の上に散らかったようにある枯れ草や葉っぱを取り、新聞紙の上に置いた。そして、水を墓に少しずつかけながら、長らくご無沙汰してごめんね、お母さん、といいながら、墓を優しく洗っていた。その後、軽く墓を拭いた後、蝋燭を灯して、線香を手向けて、二人で墓の前で手を合わせた。私としては、5年ぶりのことで、これが一つの清算になればいいがと思いながらの祈りであった。現実の無意識の夢も含めて、もう夢の中に、出てこないでほしいという気持ちで祈った。
正直言って、帰り道も、勿論、墓に行くときもだが、洋子の家族に会うのではないかと気になっていた。明子も薄々私の気持ちを察していたように思う。墓の位置を間違いそうになったときも、どのルートを通ると彼らに会う可能性を低くできるかということが私の頭の中に強くあった。帰るときは、別の道を帰ったのだが、頭の中には、一方で、昔よく通った道を通ることで、これを最後のときにしたいという気持ちがあった。洋子の実家を訪問するときに通る道は2通りあったが、墓に行くときに通った道がその一つであった。帰りはもう一つの道を通ることで、昔との決別をはっきりとつけたいという気持ちであった。しかし、この気持ちの裏には、彼らと会う可能性がどちらを通ってもあるという認識もあった。出来ることなら会わないでいきたい、知られることなく墓参りをしたいという気持ちであった。仮にあっても特に話すこともない、気まずいだけだという気持ちがあった。しかし、おかしなことに、今思うに、私の中には、偶然会うのもいいという気持ちもあったような気がする。その深層は分からないが、会うことを望むところもあったような気がする。
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