2019年02月13日
クロア篇−4章3
老爺の監視はなくなった。クロアは発言力のある外野がいなくなったおかげで気持ちがゆるむ。
(これで観戦に身が入る──?)
と思いかけたが、べつの事態も思いつく。
「カスバンがいないんだったら、試合はしなくてもいいのかしら」
クロア自身はそれが適切な判断だと考えていない。ティオの実力がいかほどか、この目でたしかめたいと思っていた。
だがユネスにはそんなクロアの思いなど関係ない。今朝がた上の者たちが決めたことを、彼はいきなり押し付けられている。つまり良いようにこき使われているのだ。それゆえ、クロアは規定にない職務の不履行をユネスが選択してもよいことを暗に提示した。
色黒の術戦士は自身の短いあご鬚をなでる。彼のあごに触れる手は、右。彼の右手は極端に握力が落ちているものの、日常の動作に不都合はなかった。
「んー、そうしたいのは山々なんですがね」
手抜きの誘いを試験官が難色をしめす。クロアはその反応におどろいた。ユネスは不良ではないが品行方正な官吏でもない。クロアの提案を飲む余地のある男なのだ。
「将軍からは『クロア様の助力となる戦士を見極めよ』とも言われたんです。手合わせをしなかったとバレたら、どやされますよ」
ユネスが苦笑いした。彼はボーゼンによる叱責回避を理由に、任務を遂行するべきだと主張したいらしい。
「あら……ボーゼンがそんなことを?」
「将軍は公女贔屓なんです。予定通り、やらせてください」
「わかったわ。術士としてのあなたの力も、見せてちょうだい」
クロアとユネスの会話は終わった。力をためされる少年はいよいよ試験がはじまることを察し、弓矢をかまえる。
「試合開始の合図は?」
「あんたが一本射れば、それが始まりだ」
ユネスは無防備に突っ立っている。術の発動待機もしていない。相手が力を見せる時間を充分に確保するために、積極的な攻撃を控える気でいる。しかしティオは自分をなめた態度だととらえたらしい。弦を引きしぼり、自身の眉尻を吊り上げる。
「ぜったい、当ててやる!」
弦が弾けた。矢はユネスの胸へ飛来する。壮年の術士は横へ一歩うごいた。矢は乾いた音を立てて落ちる。
ティオが続けざま矢を放った。矢はユネスの移動先を捕えていたが、彼が屈んでことで、またも外れた。
「矢は残り十本だ。よくねらえ」
忠告が終わる直後、新たな矢が地面を滑走した。ユネスの前方に落ちた矢は、弦を引ききらぬうちに発射されたようだった。速射を意識するあまり、飛距離が出なかったらしい。
「あと九本。こっちも当てさせてもらうぞ」
いよいよ試験官が攻勢に入る。彼の手元に小さな水の粒が集まり、膨張していく。最初に披露した水球と同等の大きさになるまでの所要時間は、ティオの矢の準備よりみじかい。
水球が弓士めがけて飛ぶ。ティオは矢をつがえたまま、横へ走る。避けた先で矢を放った。次なる水球と上下にすれ違う。
矢はユネスに当たらなかった。矢の下を通った水球は、回避の遅れたティオの太ももに当たる。水が一面に地面をぬらす。被弾者が「くっそ」と悔しがった。そうしている間にも術の攻撃はせまり、一方的な試合が継続する。
弓士は矢を撃つ姿勢を保てず、回避に専念する。徐々になさけない顔になっていった。少年の戦意は見るからに失われていく。勝利を確信したユネスが水球を手の上に浮かせた状態で、少年に声をかける。
「降参するか?」
ティオは自身の足元を見た。雨が降ったように変色し、表面がぬかるんだ地面。靴のあとが幾重にもできている。これらは防戦に徹した証拠だ。
「……ああ、オレに勝ち目……ないな」
ティオががっくり肩を落とす。ユネスは水球を握りつぶし、その場に水をしたたらせた。
試合を終えたユネスが訓練場の出入口へきて、鎖を外した。周囲を覆っていた障壁が消える。
「クロア様、この結果で納得してもらえるか?」
ユネスは少々申し訳なさそうに聞く。せっかくクロアが見つけてきた戦士が不合格になったことを、彼も残念に思っているのだ。しかしこうなることはクロアも予測できていた。
「ええ。二人とも、よく戦ってくれたわ」
敗者は場内をとぼとぼ歩き、自分が飛ばした矢を回収する。ティオの意気消沈した姿は一同の同情を誘った。が、ユネスは大いに笑う。
「はっはっは! そう落ちこむなよ」
「え?」
ティオはしゃがんだ姿勢のまま試験官の顔を見上げた。
「賊の討伐隊にゃ入れられんが、弓部隊なら歓迎するぞ」
「だけど、高速移動の爺さんが言ってたことと……」
「いーんだよ。武官の編成に関しちゃ将軍の権限が強いんだ。さっきのじーさんは将軍が決めたことを変えられん」
「オレは一本も当てられなかったのに、いいの?」
「お前は的をねらえる正確さがある。その精度はいまいる正規兵よりもいい」
「精度って言っても、当たってないし……」
「今回、おれに当てられなかったのはお前が実戦に慣れていないせいだ。あわてたり、相手のうごきを予測できなかったりな。ようは経験不足」
ユネスはティオの敗因を列挙する。
「あとな、弓士は普通、一対一での戦いなんかしなくていいんだ。できりゃあこしたことはないが、そんな芸当は並みの弓兵に要求しない。おれの攻めに耐えられただけ、お前はよくがんばったよ」
みるみるうちにティオの顔に自信と活力がもどってきた。ユネスがひらひらと手を振る。
「んじゃ、矢が回収できたら将軍に会ってみるか?」
「ああ!」
新米の弓兵がよろこんで、自分が使用した矢をすべて集めた。
(これで観戦に身が入る──?)
と思いかけたが、べつの事態も思いつく。
「カスバンがいないんだったら、試合はしなくてもいいのかしら」
クロア自身はそれが適切な判断だと考えていない。ティオの実力がいかほどか、この目でたしかめたいと思っていた。
だがユネスにはそんなクロアの思いなど関係ない。今朝がた上の者たちが決めたことを、彼はいきなり押し付けられている。つまり良いようにこき使われているのだ。それゆえ、クロアは規定にない職務の不履行をユネスが選択してもよいことを暗に提示した。
色黒の術戦士は自身の短いあご鬚をなでる。彼のあごに触れる手は、右。彼の右手は極端に握力が落ちているものの、日常の動作に不都合はなかった。
「んー、そうしたいのは山々なんですがね」
手抜きの誘いを試験官が難色をしめす。クロアはその反応におどろいた。ユネスは不良ではないが品行方正な官吏でもない。クロアの提案を飲む余地のある男なのだ。
「将軍からは『クロア様の助力となる戦士を見極めよ』とも言われたんです。手合わせをしなかったとバレたら、どやされますよ」
ユネスが苦笑いした。彼はボーゼンによる叱責回避を理由に、任務を遂行するべきだと主張したいらしい。
「あら……ボーゼンがそんなことを?」
「将軍は公女贔屓なんです。予定通り、やらせてください」
「わかったわ。術士としてのあなたの力も、見せてちょうだい」
クロアとユネスの会話は終わった。力をためされる少年はいよいよ試験がはじまることを察し、弓矢をかまえる。
「試合開始の合図は?」
「あんたが一本射れば、それが始まりだ」
ユネスは無防備に突っ立っている。術の発動待機もしていない。相手が力を見せる時間を充分に確保するために、積極的な攻撃を控える気でいる。しかしティオは自分をなめた態度だととらえたらしい。弦を引きしぼり、自身の眉尻を吊り上げる。
「ぜったい、当ててやる!」
弦が弾けた。矢はユネスの胸へ飛来する。壮年の術士は横へ一歩うごいた。矢は乾いた音を立てて落ちる。
ティオが続けざま矢を放った。矢はユネスの移動先を捕えていたが、彼が屈んでことで、またも外れた。
「矢は残り十本だ。よくねらえ」
忠告が終わる直後、新たな矢が地面を滑走した。ユネスの前方に落ちた矢は、弦を引ききらぬうちに発射されたようだった。速射を意識するあまり、飛距離が出なかったらしい。
「あと九本。こっちも当てさせてもらうぞ」
いよいよ試験官が攻勢に入る。彼の手元に小さな水の粒が集まり、膨張していく。最初に披露した水球と同等の大きさになるまでの所要時間は、ティオの矢の準備よりみじかい。
水球が弓士めがけて飛ぶ。ティオは矢をつがえたまま、横へ走る。避けた先で矢を放った。次なる水球と上下にすれ違う。
矢はユネスに当たらなかった。矢の下を通った水球は、回避の遅れたティオの太ももに当たる。水が一面に地面をぬらす。被弾者が「くっそ」と悔しがった。そうしている間にも術の攻撃はせまり、一方的な試合が継続する。
弓士は矢を撃つ姿勢を保てず、回避に専念する。徐々になさけない顔になっていった。少年の戦意は見るからに失われていく。勝利を確信したユネスが水球を手の上に浮かせた状態で、少年に声をかける。
「降参するか?」
ティオは自身の足元を見た。雨が降ったように変色し、表面がぬかるんだ地面。靴のあとが幾重にもできている。これらは防戦に徹した証拠だ。
「……ああ、オレに勝ち目……ないな」
ティオががっくり肩を落とす。ユネスは水球を握りつぶし、その場に水をしたたらせた。
試合を終えたユネスが訓練場の出入口へきて、鎖を外した。周囲を覆っていた障壁が消える。
「クロア様、この結果で納得してもらえるか?」
ユネスは少々申し訳なさそうに聞く。せっかくクロアが見つけてきた戦士が不合格になったことを、彼も残念に思っているのだ。しかしこうなることはクロアも予測できていた。
「ええ。二人とも、よく戦ってくれたわ」
敗者は場内をとぼとぼ歩き、自分が飛ばした矢を回収する。ティオの意気消沈した姿は一同の同情を誘った。が、ユネスは大いに笑う。
「はっはっは! そう落ちこむなよ」
「え?」
ティオはしゃがんだ姿勢のまま試験官の顔を見上げた。
「賊の討伐隊にゃ入れられんが、弓部隊なら歓迎するぞ」
「だけど、高速移動の爺さんが言ってたことと……」
「いーんだよ。武官の編成に関しちゃ将軍の権限が強いんだ。さっきのじーさんは将軍が決めたことを変えられん」
「オレは一本も当てられなかったのに、いいの?」
「お前は的をねらえる正確さがある。その精度はいまいる正規兵よりもいい」
「精度って言っても、当たってないし……」
「今回、おれに当てられなかったのはお前が実戦に慣れていないせいだ。あわてたり、相手のうごきを予測できなかったりな。ようは経験不足」
ユネスはティオの敗因を列挙する。
「あとな、弓士は普通、一対一での戦いなんかしなくていいんだ。できりゃあこしたことはないが、そんな芸当は並みの弓兵に要求しない。おれの攻めに耐えられただけ、お前はよくがんばったよ」
みるみるうちにティオの顔に自信と活力がもどってきた。ユネスがひらひらと手を振る。
「んじゃ、矢が回収できたら将軍に会ってみるか?」
「ああ!」
新米の弓兵がよろこんで、自分が使用した矢をすべて集めた。
タグ:クロア
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