2019年01月14日
クロア篇−1章1
山中の岩壁に洞窟があった。洞窟の中は横幅および高さがある。広さは人ひとりが雨宿りに利用するには広すぎるほど。その洞窟内に、一体の獣が逃げこんだ。それを二人の男女が追いかける。獣は洞窟内の突き当たりで止まり、追跡者のいるほうへ向きなおった。
獣は虎に似た特徴をもち、燃えるような朱色の毛皮を逆立たせている。いまにも飛びかからんという姿勢で人間に牙を見せた。獣は闘争心にあふれている。そんな猛獣を目前にした人間は落ち着きはらっていた。彼らは簡単な武装をしており、獣との応戦はこの場へ行きつくまでに何度か交わした。形勢は人側が優位である。だが二人は慢心しなかった。追い詰められた獣が死力をふるうあがきには、容易に人命を刈り取る暴力が内在するからだ。
長身の女は先端に宝石のついた杖を構える。
「こわがる必要はなくってよ」
杖の先端で獣の喉元をしめす。彼女のねらいは一点、獣の喉に埋まる赤い石だ。
女は杖の柄にある小さな突起物を押した。宝石がいきおいよく射出する。弾丸となった宝石は獣へ直進した。獣は跳躍し、女の攻撃を回避する。宙に上がった獣の頭上に、網が展開した。これは女の後方にひかえた男が放ったものだ。網の端々には重りがついていた。その重量にしたがって網は下降する。獣は網の下敷きとなり、地べたへ落下した。朱色の獣は網を外そうともがく。そのせいで余計に網が絡まっていった。これで拘束は成功した。
「でかしたわ、ダムト。あとは赤い石を壊すだけ……」
獣はうなり声をあげた。咆哮を放つために頭をもたげた瞬間を、女は見逃さなかった。
あらわになった獣の首元に、杖を一突きする。ぱきん、と乾いた音が鳴る。同時に獣の叫びが洞窟を震わせる。男女はあわてて耳をふさぎ、轟音に耐えた。
耳をつんざく音が鳴りやんだ。朱色の獣はぐったりとその場に伏す。そのさまを確認した女は堂々と獣のそばでしゃがんだ。地面にはたったいま破壊した赤い石がちらばっている。女は赤い欠片をつまみ、その石を観察する。
「この石が魔獣を支配する道具ね。さ、回収してちょうだい」
女はあまり関心のない雑事をダムトという男に押し付けた。従者である彼は素直に応じる。ダムトは持参した空の巾着をひろげ、石の破片を入れていく。彼の視線は次第に獣へうつる。
「クロア様、魔獣のほうはいかがします?」
ダムトが主人に問うた。しかし彼は主人が獣をどうするつもりなのかわかっていた。この問いは彼なりの確認である。
クロアはふふんと鼻をならす。
「持ち帰るわ。石付きの魔獣を救助したあとは、仲間に引き入れるものなのよ」
それはクロアがここ最近の伝聞で知ったやり取りだった。赤い石によって正気を失った魔獣を、人が打ち倒し、その健闘をたたえて魔獣が人の仲間になるという。
「そういう事例はありますけど、この魔獣がクロア様を認めるかは別の話でしょう?」
ダムトはクロアの見込みが軽率だと言いたげだ。この従者はいつも主人に対して不遜な物言いをする。そのわるいクセが出たのだとクロアは不快に感じる。
「またそんなイジワルを言うのね」
「危機管理の面で苦言を申しているのです。魔獣がみな、助けられた恩義を感じる保証はありません。むしろ人がしでかした不始末を恨んで、我々に牙をむくやもしれません」
赤い石に狂わされた魔獣とは人の手によって生み出された生き物だ。魔獣を苦しめる人と助けた人が別ではあっても、他種族である生き物から見れば同じ人間の仕業だと判断するおそれはある。クロアは従者の意見が正論だろうと思い、
「そのときはもう一回、負かすわ」
と、彼らが想像する魔獣と大差ない好戦的な判断をくだした。
「領民への被害が出ないようにしてくださいね」
ダムトは主人の意向にそむかぬ助言をしておいた。主人はこの魔獣を欲する理由がある。だからどんな説得も聞きはしないというあきらめがついていた。
従者の赤い石を集める作業はおわった。彼は石の入った袋を自身の腰に提げる。次に魔獣の捕獲に使用した投網を再度魔獣に巻きつけ、申し訳程度に拘束を強める。彼が魔獣を担ごうとしたのを、クロアが止める。
「わたしが運ぶわ」
魔獣の運搬はクロア個人のわがままだ。そのため、クロアは自分の手で行なうべきことだと思っていた。なにより、単純な腕力ではクロアのほうが秀でている。それが彼女の生まれついての特性だ。人でない魔障の者の血が、その身体能力を開花させていた。
クロアは魔獣を仕留めた杖を腰の携帯用帯に差した。空いた両手を魔獣の腹の下に入れる。獣の巨躯を軽々と持ち上げ、右肩に獣の腹を乗せる。獣の後ろ足が自身の胸当てにかかった。獣を担いだ状態で歩いてみると、獣の太く長い尾を引きずってしまう。クロアは空いている左手で尻尾を持つ。毛の密集した尾はふわふわして温かい。
「あら、いい毛並みね」
「愛玩用にするのですか?」
「まさか。かわいいだけのものはいらないわ」
クロアは実用性のあるものをこのむ。そうでないと玩具をほしがる子どものようだ、という強迫観念にも似た嫌悪があった。幼く見られたくない理由は両親にある。クロアの両親はいまだに娘を子どもあつかいして、単独での私的な遠出を許可しない。こたびの魔獣討伐も、民衆を助ける名目での公的な職務である。クロア個人が希望した外出ではない。
(これだけの成果をあげたら、一人前だと思ってもらえるかしら)
クロアたちが追ってきた魔獣は町民をおびやかしていた。当然、町の安全を守る兵は魔獣を倒そうとしたが、彼らでは力かなわず、クロアに出番が回ってきた。難敵をくだしたクロアにはきっと周囲の称賛がもらえる。こうした功績を積み重ねていけば、いずれクロアは両親から一人立ちを認められるだろう。
いっぱしの大人あつかいされることは誇らしい。反面、厄介だと思う気持ちもあった。クロアが立派な大人になってしまうと、親の跡目をいつでも引き受けてよいということになる。それは父親が重大な責務を背負う立場でいる以上、困難が多数待ち受けることを意味する。その重圧は測りしれない。とにかくいまのクロアでは到底掌握できない責務だと思っている。大人が有する自由はほしいが、課せられる義務の多さには尻込みしてしまう──いつしか、そんな矛盾した思いを抱えるようになった。
討伐の成果を得た二人は洞窟を出る。外には装飾品を帯びた有翼の馬がいた。この馬は二人がこの場へ到着するまでの移動手段にもちいた。一般名称を飛馬という。
ダムトが飛馬の鞍に手を置く。鞍の幅は一般的な成人が二人乗れるくらいだ。
「魔獣の重さはどうです? 人間二人分なら飛馬に運ばせることもできますが」
「たぶんそれぐらいだわ。乗せてみましょ」
クロアは魔獣の後ろ足を鞍に乗せようとした。だが飛馬は離れていく。クロアがまた一歩飛馬に寄ってみても結果は同じ。
「怖いのかしら」
「捕食される側ですからね」
飛馬は意識のない魔獣をおそれているらしい。クロアはその根性にあきれる。
「だらしない飛馬ね。これが飛竜だったら魔獣の一匹くらい、なんてことないでしょうに」
「戦闘向きの調練をしていない個体なんでしょう」
クロアは飛馬での魔獣運搬をあきらめ、自力で運ぶことにした。ダムトが飛馬の手綱を握り、町へと歩を進めた。帰路の最中、二人は今日の討伐を反省する。
「無事捕縛できたからよいものの、魔獣退治は普通、こんな少人数で行なうものではないですよ」
「わたしとあなた以上の適役がいないのだもの。当然の結果よ」
「そんな状態が異常だとは思いませんか」
「思ってどうなるの。思うだけで強い兵士があつまるのなら、お父さまは苦労してないわ」
クロアの父は現役の領主。住民に危害を加える物事への対処が政務のうちに数えられる。実情、その危害に対して領主は十全な対策が実行できていない。彼自身には戦う能力があるのだが、たったひとりの将が奮闘しても、やれることには限界がある。
(どーしたら強い人があつまるのかしらね?)
その問題はこの地域を管轄する領主が長年なやみ続けてきたことだった。
獣は虎に似た特徴をもち、燃えるような朱色の毛皮を逆立たせている。いまにも飛びかからんという姿勢で人間に牙を見せた。獣は闘争心にあふれている。そんな猛獣を目前にした人間は落ち着きはらっていた。彼らは簡単な武装をしており、獣との応戦はこの場へ行きつくまでに何度か交わした。形勢は人側が優位である。だが二人は慢心しなかった。追い詰められた獣が死力をふるうあがきには、容易に人命を刈り取る暴力が内在するからだ。
長身の女は先端に宝石のついた杖を構える。
「こわがる必要はなくってよ」
杖の先端で獣の喉元をしめす。彼女のねらいは一点、獣の喉に埋まる赤い石だ。
女は杖の柄にある小さな突起物を押した。宝石がいきおいよく射出する。弾丸となった宝石は獣へ直進した。獣は跳躍し、女の攻撃を回避する。宙に上がった獣の頭上に、網が展開した。これは女の後方にひかえた男が放ったものだ。網の端々には重りがついていた。その重量にしたがって網は下降する。獣は網の下敷きとなり、地べたへ落下した。朱色の獣は網を外そうともがく。そのせいで余計に網が絡まっていった。これで拘束は成功した。
「でかしたわ、ダムト。あとは赤い石を壊すだけ……」
獣はうなり声をあげた。咆哮を放つために頭をもたげた瞬間を、女は見逃さなかった。
あらわになった獣の首元に、杖を一突きする。ぱきん、と乾いた音が鳴る。同時に獣の叫びが洞窟を震わせる。男女はあわてて耳をふさぎ、轟音に耐えた。
耳をつんざく音が鳴りやんだ。朱色の獣はぐったりとその場に伏す。そのさまを確認した女は堂々と獣のそばでしゃがんだ。地面にはたったいま破壊した赤い石がちらばっている。女は赤い欠片をつまみ、その石を観察する。
「この石が魔獣を支配する道具ね。さ、回収してちょうだい」
女はあまり関心のない雑事をダムトという男に押し付けた。従者である彼は素直に応じる。ダムトは持参した空の巾着をひろげ、石の破片を入れていく。彼の視線は次第に獣へうつる。
「クロア様、魔獣のほうはいかがします?」
ダムトが主人に問うた。しかし彼は主人が獣をどうするつもりなのかわかっていた。この問いは彼なりの確認である。
クロアはふふんと鼻をならす。
「持ち帰るわ。石付きの魔獣を救助したあとは、仲間に引き入れるものなのよ」
それはクロアがここ最近の伝聞で知ったやり取りだった。赤い石によって正気を失った魔獣を、人が打ち倒し、その健闘をたたえて魔獣が人の仲間になるという。
「そういう事例はありますけど、この魔獣がクロア様を認めるかは別の話でしょう?」
ダムトはクロアの見込みが軽率だと言いたげだ。この従者はいつも主人に対して不遜な物言いをする。そのわるいクセが出たのだとクロアは不快に感じる。
「またそんなイジワルを言うのね」
「危機管理の面で苦言を申しているのです。魔獣がみな、助けられた恩義を感じる保証はありません。むしろ人がしでかした不始末を恨んで、我々に牙をむくやもしれません」
赤い石に狂わされた魔獣とは人の手によって生み出された生き物だ。魔獣を苦しめる人と助けた人が別ではあっても、他種族である生き物から見れば同じ人間の仕業だと判断するおそれはある。クロアは従者の意見が正論だろうと思い、
「そのときはもう一回、負かすわ」
と、彼らが想像する魔獣と大差ない好戦的な判断をくだした。
「領民への被害が出ないようにしてくださいね」
ダムトは主人の意向にそむかぬ助言をしておいた。主人はこの魔獣を欲する理由がある。だからどんな説得も聞きはしないというあきらめがついていた。
従者の赤い石を集める作業はおわった。彼は石の入った袋を自身の腰に提げる。次に魔獣の捕獲に使用した投網を再度魔獣に巻きつけ、申し訳程度に拘束を強める。彼が魔獣を担ごうとしたのを、クロアが止める。
「わたしが運ぶわ」
魔獣の運搬はクロア個人のわがままだ。そのため、クロアは自分の手で行なうべきことだと思っていた。なにより、単純な腕力ではクロアのほうが秀でている。それが彼女の生まれついての特性だ。人でない魔障の者の血が、その身体能力を開花させていた。
クロアは魔獣を仕留めた杖を腰の携帯用帯に差した。空いた両手を魔獣の腹の下に入れる。獣の巨躯を軽々と持ち上げ、右肩に獣の腹を乗せる。獣の後ろ足が自身の胸当てにかかった。獣を担いだ状態で歩いてみると、獣の太く長い尾を引きずってしまう。クロアは空いている左手で尻尾を持つ。毛の密集した尾はふわふわして温かい。
「あら、いい毛並みね」
「愛玩用にするのですか?」
「まさか。かわいいだけのものはいらないわ」
クロアは実用性のあるものをこのむ。そうでないと玩具をほしがる子どものようだ、という強迫観念にも似た嫌悪があった。幼く見られたくない理由は両親にある。クロアの両親はいまだに娘を子どもあつかいして、単独での私的な遠出を許可しない。こたびの魔獣討伐も、民衆を助ける名目での公的な職務である。クロア個人が希望した外出ではない。
(これだけの成果をあげたら、一人前だと思ってもらえるかしら)
クロアたちが追ってきた魔獣は町民をおびやかしていた。当然、町の安全を守る兵は魔獣を倒そうとしたが、彼らでは力かなわず、クロアに出番が回ってきた。難敵をくだしたクロアにはきっと周囲の称賛がもらえる。こうした功績を積み重ねていけば、いずれクロアは両親から一人立ちを認められるだろう。
いっぱしの大人あつかいされることは誇らしい。反面、厄介だと思う気持ちもあった。クロアが立派な大人になってしまうと、親の跡目をいつでも引き受けてよいということになる。それは父親が重大な責務を背負う立場でいる以上、困難が多数待ち受けることを意味する。その重圧は測りしれない。とにかくいまのクロアでは到底掌握できない責務だと思っている。大人が有する自由はほしいが、課せられる義務の多さには尻込みしてしまう──いつしか、そんな矛盾した思いを抱えるようになった。
討伐の成果を得た二人は洞窟を出る。外には装飾品を帯びた有翼の馬がいた。この馬は二人がこの場へ到着するまでの移動手段にもちいた。一般名称を飛馬という。
ダムトが飛馬の鞍に手を置く。鞍の幅は一般的な成人が二人乗れるくらいだ。
「魔獣の重さはどうです? 人間二人分なら飛馬に運ばせることもできますが」
「たぶんそれぐらいだわ。乗せてみましょ」
クロアは魔獣の後ろ足を鞍に乗せようとした。だが飛馬は離れていく。クロアがまた一歩飛馬に寄ってみても結果は同じ。
「怖いのかしら」
「捕食される側ですからね」
飛馬は意識のない魔獣をおそれているらしい。クロアはその根性にあきれる。
「だらしない飛馬ね。これが飛竜だったら魔獣の一匹くらい、なんてことないでしょうに」
「戦闘向きの調練をしていない個体なんでしょう」
クロアは飛馬での魔獣運搬をあきらめ、自力で運ぶことにした。ダムトが飛馬の手綱を握り、町へと歩を進めた。帰路の最中、二人は今日の討伐を反省する。
「無事捕縛できたからよいものの、魔獣退治は普通、こんな少人数で行なうものではないですよ」
「わたしとあなた以上の適役がいないのだもの。当然の結果よ」
「そんな状態が異常だとは思いませんか」
「思ってどうなるの。思うだけで強い兵士があつまるのなら、お父さまは苦労してないわ」
クロアの父は現役の領主。住民に危害を加える物事への対処が政務のうちに数えられる。実情、その危害に対して領主は十全な対策が実行できていない。彼自身には戦う能力があるのだが、たったひとりの将が奮闘しても、やれることには限界がある。
(どーしたら強い人があつまるのかしらね?)
その問題はこの地域を管轄する領主が長年なやみ続けてきたことだった。
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