2018年10月12日
拓馬篇後記−1
一学期の期末試験がおわった直後の土曜、早朝。拓馬は散歩に出かけた。同伴者は白黒模様の飼い犬。この犬のための外出だ。現在の時分は夏。散歩はすずしい早朝か夜、できればその両方におこなうと決めていた。この日課は家族で分担している。ふだんの拓馬は登校に遅刻しない程度の早起きにとどまるため、朝の散歩はよく親にまかせる。今日は寝覚めがよかったので、拓馬がその役目を負った。拓馬自身が運動は好きな性分である。おまけに最近までピリピリした空間ですごしていた。その気分を払拭がてら、体をうごかしたいと思っていた。
(やっぱ試験のストレス、俺にもあったのかな)
もともと拓馬は学業成績が安定しているほうだ。特別よいわけではないが、落第するほどではない。そのためほかの生徒が泣きごとを言いだす試験期間であっても、平常心をたもてた。期末試験なにするものぞ、とばかりに平気な面構えでいたのだ。試験が終了した休日に調子がよくなっている現状、無意識な負担はかかえていたようでもある。
(まだ安心はできないけどな……)
その不安は拓馬以外の者に向かっている。それは幼馴染の試験結果だ。彼女は確実に不合格になっている科目がひとつある。それは最近拓馬たちが関わっている、人でない生き物が引き起こしたこと。彼女に非がなくとも、追試か補習はまぬがれられない。そのことを拓馬は気の毒に思った。
(帰りがけにトーマを見せにいこうかな)
相手は動物好きな女子。一科目を落第したその日、拓馬は飼い犬とのふれあいを彼女にすすめた。気落ちしていた彼女は人好きな犬に歓迎されるうち、表情があかるくなった。あれ以降、彼女は飼い犬と出会っていない。またいい気晴らしになるかと思い、拓馬は帰り際の留意点を頭の片隅においた。
閑静な住宅地のかたわらで、果樹園がひろがる道へ出た。収穫時期のちかい果物が木に生(な)っている。このあたりにくると飼い犬は歩く速度を落とし、鼻をすんすんとせわしなくうごかした。かすかに香る甘いにおいをたのしんでいるらしい。本当は嗅ぐだけでなく食べられればなおよいのだろうが、散歩中は無理なことだ。そうとわかっている犬はただゆっくりと果樹園のそばを歩く。緩慢な犬の動作を見慣れている拓馬は関心を進行方向へそそぐ。道の向こうから大柄な男性がやってくるのを発見した。男性は半袖短パン姿で軽快に走っている。拓馬は走る男性に既視感をおぼえる。
(あれ……師範代か?)
彼はかつて拓馬が師事した空手の先生だ。姓を大畑(おばたけ)という。拓馬が幼稚園にかようころからの知り合いである。拓馬は彼を好意的に思っているものの、いささか難点も感じている。彼はおおらかで心根のよい中年だ。その鍛えぬいた肉体を露出したがる傾向がある。そこから幼馴染が「おはだけおじさん」あるいは「おはだけさん」とあだ名をつけた。そうよばれるたびに大畑は「おじさんはオバタケだぞー」と訂正するものの、別段そのあだ名をきらうそぶりはなかった。
走る男性は拓馬のほうへ近づいてくる。その体つきはやはり拓馬が見慣れた人物のものだ。半袖のシャツの生地が太い二の腕と大胸筋にぴっちり這っていて、ボディラインが強調されていた。ワンサイズ大きい服を着ればよいのに、と窮屈さをきらう拓馬は思ってしまうが、そこは人それぞれのこのみだ。
たがいの顔が見てとれる距離になってから男性が「拓馬くん!」と声をかける。
「エイミーちゃん……の、散歩か?」
息切れをしながら大畑が立ち止まった。拓馬は首を横にふる。
「こいつはトーマです。エイミーはまえに飼ってた犬」
以前の飼い犬はすでに他界した。もとは純血種の繁殖用によそで飼われていたボーダーコリーの雌だった。出産がむずかしくなったのを機に根岸宅へもらわれた。引き取りの目的は、役目をおえた犬の余生を看取る、といってもいいのかもしれない。だが引き取り時の雌犬はまだシニア犬ではない年齢だった。
雌犬は根岸家で十年以上愛され、拓馬が中学生のころに死んだ。愛犬をうしなったときの拓馬は精神的に不安定になり、その回復のために雌犬と似た容姿の犬をあらたにむかえた。それがトーマである。こちらの犬は雑種犬だそうだが、その風貌と愛嬌は以前の犬に通じる。
「おお、そうだった」
シャツに汗がにじむ中年は理解を示した。彼にも犬の事情は伝えてあるのだ。拓馬との直接的な人間関係は拓馬の小学校卒業あたりで切れているが、住む地区が同じなこともあって、その後も根岸家と大畑との交流を続いた。そのつど、めぼしい情報は共有している。それなのにこの中年は過去の記憶をいまだに引きずる。
「どうも拓馬くんが道場をはなれたあとのことは、おぼえにくい」
「まだ四十代でしょう。物忘れするトシじゃないですよ」
「きみが去ったあのころで、自分の時間が止まっているみたいだ」
「んな失恋した人みたいなこと言わないでくださいよ。気色わるい」
拓馬はあえて嫌悪感を大げさに出した。この大畑は無自覚にホモくさいところがある。そう感じさせる主要原因はおもに二点。その手の人にこのまれやすい男らしい風貌と、まぎらわしい言動のせいだろう。拓馬がおさないころはぜんぜん気にしなかったが、成長していろいろと知識が増えると、どうにも見方が変わった。ただしそういった不愉快なことをされたおぼえはないし、妻子がいる男性なのでそのケは無いと言える。拓馬の辛辣さは大畑に誤解の生じぬ立ち居ふるまいを指導するのもかねた牽制だ。大畑は「すまんすまん」と簡単にあやまる。
「未練たらしい言い方だったかな」
「なにを言っても俺は道場にもどる気はありません。部活入ってるし」
習い事をやめたきっかけは、学校で運動部に入るから、という理由だった。現在はほとんど部活動をしていないのだが、そのことは伏せた。
暑がる大畑はなにかひらめいたようで「あー」と言う。
「道場のことなんだが……門下生じゃなくて、手伝いをやるのは、どうだろう?」
「手伝い?」
「来週と再来週の日曜午前中に、空手の無料体験会をやるんだ」
体験会、と聞いて拓馬は頭に引っ掛かるものがあった。どこかでそんな文言を見た気がした。
「何人くるかわからなくて、人手がほしい。だから今日明日中にでも拓馬くんにたのむつもりだったんだよ」
「なんで俺なんです?」
「素人に指導ができる技量の持ち主で、手が空いていそうだから、だ。ちゃんと手間賃は出す。あとで体験会のチラシをもっていくから、考えてみてくれないか」
「考えるだけなら、まあ……」
あいまいな返事にもかかわらず大畑は「そうか!」と角ばった顔をほころばせた。筋肉質な腕をあげて手をふる。それはただの別れの仕草なのだが、どこか筋肉を誇示するようなポーズだと拓馬には見えた。
(やっぱ試験のストレス、俺にもあったのかな)
もともと拓馬は学業成績が安定しているほうだ。特別よいわけではないが、落第するほどではない。そのためほかの生徒が泣きごとを言いだす試験期間であっても、平常心をたもてた。期末試験なにするものぞ、とばかりに平気な面構えでいたのだ。試験が終了した休日に調子がよくなっている現状、無意識な負担はかかえていたようでもある。
(まだ安心はできないけどな……)
その不安は拓馬以外の者に向かっている。それは幼馴染の試験結果だ。彼女は確実に不合格になっている科目がひとつある。それは最近拓馬たちが関わっている、人でない生き物が引き起こしたこと。彼女に非がなくとも、追試か補習はまぬがれられない。そのことを拓馬は気の毒に思った。
(帰りがけにトーマを見せにいこうかな)
相手は動物好きな女子。一科目を落第したその日、拓馬は飼い犬とのふれあいを彼女にすすめた。気落ちしていた彼女は人好きな犬に歓迎されるうち、表情があかるくなった。あれ以降、彼女は飼い犬と出会っていない。またいい気晴らしになるかと思い、拓馬は帰り際の留意点を頭の片隅においた。
閑静な住宅地のかたわらで、果樹園がひろがる道へ出た。収穫時期のちかい果物が木に生(な)っている。このあたりにくると飼い犬は歩く速度を落とし、鼻をすんすんとせわしなくうごかした。かすかに香る甘いにおいをたのしんでいるらしい。本当は嗅ぐだけでなく食べられればなおよいのだろうが、散歩中は無理なことだ。そうとわかっている犬はただゆっくりと果樹園のそばを歩く。緩慢な犬の動作を見慣れている拓馬は関心を進行方向へそそぐ。道の向こうから大柄な男性がやってくるのを発見した。男性は半袖短パン姿で軽快に走っている。拓馬は走る男性に既視感をおぼえる。
(あれ……師範代か?)
彼はかつて拓馬が師事した空手の先生だ。姓を大畑(おばたけ)という。拓馬が幼稚園にかようころからの知り合いである。拓馬は彼を好意的に思っているものの、いささか難点も感じている。彼はおおらかで心根のよい中年だ。その鍛えぬいた肉体を露出したがる傾向がある。そこから幼馴染が「おはだけおじさん」あるいは「おはだけさん」とあだ名をつけた。そうよばれるたびに大畑は「おじさんはオバタケだぞー」と訂正するものの、別段そのあだ名をきらうそぶりはなかった。
走る男性は拓馬のほうへ近づいてくる。その体つきはやはり拓馬が見慣れた人物のものだ。半袖のシャツの生地が太い二の腕と大胸筋にぴっちり這っていて、ボディラインが強調されていた。ワンサイズ大きい服を着ればよいのに、と窮屈さをきらう拓馬は思ってしまうが、そこは人それぞれのこのみだ。
たがいの顔が見てとれる距離になってから男性が「拓馬くん!」と声をかける。
「エイミーちゃん……の、散歩か?」
息切れをしながら大畑が立ち止まった。拓馬は首を横にふる。
「こいつはトーマです。エイミーはまえに飼ってた犬」
以前の飼い犬はすでに他界した。もとは純血種の繁殖用によそで飼われていたボーダーコリーの雌だった。出産がむずかしくなったのを機に根岸宅へもらわれた。引き取りの目的は、役目をおえた犬の余生を看取る、といってもいいのかもしれない。だが引き取り時の雌犬はまだシニア犬ではない年齢だった。
雌犬は根岸家で十年以上愛され、拓馬が中学生のころに死んだ。愛犬をうしなったときの拓馬は精神的に不安定になり、その回復のために雌犬と似た容姿の犬をあらたにむかえた。それがトーマである。こちらの犬は雑種犬だそうだが、その風貌と愛嬌は以前の犬に通じる。
「おお、そうだった」
シャツに汗がにじむ中年は理解を示した。彼にも犬の事情は伝えてあるのだ。拓馬との直接的な人間関係は拓馬の小学校卒業あたりで切れているが、住む地区が同じなこともあって、その後も根岸家と大畑との交流を続いた。そのつど、めぼしい情報は共有している。それなのにこの中年は過去の記憶をいまだに引きずる。
「どうも拓馬くんが道場をはなれたあとのことは、おぼえにくい」
「まだ四十代でしょう。物忘れするトシじゃないですよ」
「きみが去ったあのころで、自分の時間が止まっているみたいだ」
「んな失恋した人みたいなこと言わないでくださいよ。気色わるい」
拓馬はあえて嫌悪感を大げさに出した。この大畑は無自覚にホモくさいところがある。そう感じさせる主要原因はおもに二点。その手の人にこのまれやすい男らしい風貌と、まぎらわしい言動のせいだろう。拓馬がおさないころはぜんぜん気にしなかったが、成長していろいろと知識が増えると、どうにも見方が変わった。ただしそういった不愉快なことをされたおぼえはないし、妻子がいる男性なのでそのケは無いと言える。拓馬の辛辣さは大畑に誤解の生じぬ立ち居ふるまいを指導するのもかねた牽制だ。大畑は「すまんすまん」と簡単にあやまる。
「未練たらしい言い方だったかな」
「なにを言っても俺は道場にもどる気はありません。部活入ってるし」
習い事をやめたきっかけは、学校で運動部に入るから、という理由だった。現在はほとんど部活動をしていないのだが、そのことは伏せた。
暑がる大畑はなにかひらめいたようで「あー」と言う。
「道場のことなんだが……門下生じゃなくて、手伝いをやるのは、どうだろう?」
「手伝い?」
「来週と再来週の日曜午前中に、空手の無料体験会をやるんだ」
体験会、と聞いて拓馬は頭に引っ掛かるものがあった。どこかでそんな文言を見た気がした。
「何人くるかわからなくて、人手がほしい。だから今日明日中にでも拓馬くんにたのむつもりだったんだよ」
「なんで俺なんです?」
「素人に指導ができる技量の持ち主で、手が空いていそうだから、だ。ちゃんと手間賃は出す。あとで体験会のチラシをもっていくから、考えてみてくれないか」
「考えるだけなら、まあ……」
あいまいな返事にもかかわらず大畑は「そうか!」と角ばった顔をほころばせた。筋肉質な腕をあげて手をふる。それはただの別れの仕草なのだが、どこか筋肉を誇示するようなポーズだと拓馬には見えた。
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