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2018年07月12日
拓馬篇−7章6 ★
試験結果がすべて発表され、問題の解説を授業で聞く日々。一通りの解説が終わったあとは、試験で一定の点数未満を取得した者に科目ごとの追試が課せられる。そしてヤマダは英語の追試日を言い渡された。その追試は彼女ひとりだけに行なわれる。やはり順調にいけば赤点保持者が出ない試験内容だった。
チャイムが鳴り、本日の授業はすべて終えた。拓馬は机の上でうつ伏せになるヤマダに、「追試、がんばれよ」とねぎらう。今日の放課後に彼女限定の追試があるのだ。監督者は平易な試験の答案を作成した教師自身だという。余計な職務が増えたものだ、と拓馬はシドの不運も案じた。
「あ、根岸くんは待って」
たったいま授業を行なった女性教師が拓馬を引き止める。彼女は久間という。ヤマダが居眠りを強いられた試験の、監督者だった。
「雑用を頼まれてほしいの。事務室に届いた本を図書室まで運ぶんだけれど」
「なんで俺が……」
「本摩先生がそうおっしゃていたから。かわりに掃除当番はしなくていいという条件」
このタイミングではあまり得でない条件だ。これがテスト明けの掃除なら話がちがう。その理由は試験期間中に掃除が免除されること。免除の要因は、生徒が学校に滞在する時間がすくなくてゴミが出にくいという理屈と、生徒がより多くの時間を勉学に励めるようにとの配慮による。引き替えに試験が終了した後日には念入りに掃除をさせられる。それゆえ回避するならもっと早い時期がよかった。
「荷物運びのほうがしんどいだろ」
「腕力あるんだから平気よ。さきに本摩先生に顔を合わせておいてね」
拓馬が雑務を承諾しないまま、久間は退室した。拓馬は軽いため息をひとつ吐く。
「はー、まだやるとは言ってねえのに……」
反抗的な態度の拓馬に「いいじゃない」とヤマダが話しかける。彼女は机に片頬をくっつけている。
「頼りにされてるってことでしょ?」
「いいように使われてるだけだ」
そう答えたものの、ヤマダに反抗してもなんの解決にもならない。おまけに、ヤマダのほうが精神的につらい立場なのだ。
(こいつの運のわるさとくらべりゃな……)
拓馬はゴネないことに決める。
「……まあいいや、とっとと済ませてくる」
拓馬は職員室へむかう。廊下にもほかの教室にも、活発になる生徒があふれていた。夏休みが間近にせまる喜びゆえだ。
拓馬は自身のクラスと同じ階にある職員室に着く。「失礼します」と決まりきった挨拶をしてから入室する。室内は机上にある大量の本やファイル、棚に陳列するレターケースや教材、コピー機など文具関係の物がひしめく。かつ、備えつけのコーヒーメーカーが生みだす香りがひそか充満する。職員はコーヒーを自由に飲めるそうだ。食事風景を見ていないと噂のシドも、この飲料は飲むという。
拓馬は仕事机に座る本摩に声をかけた。この中年が拓馬に雑用を押しつけた依頼主だ。本摩は背もたれつきの椅子を回転させた。人の良さそうな笑みを浮かべている。
「きたな。久間先生から頼みごとは聞いただろう。やってくれるか?」
「かまわないけど、俺を指名するわけは?」
「体力のある生徒で、ヒマそうだったから」
本摩は部活動のことを言っている。追試のない生徒の多くは放課後、部活動にいそしむ。本摩が雑用を頼みやすい三郎なども、熱心に部活に打ちこむ。拓馬は空手部に所属するが、ほぼ名前だけの幽霊部員である。無駄な体力の消費をさせても問題がない生徒だ。
「責任感の強い根岸なら安心だしな。終わったら帰っていいぞ」
拓馬は中年の笑顔にほだされた。手早く用事を完遂させようと思ったところ、珍妙な会話を耳にする。それは理系の老教師と社会科系の若輩教師の談義だ。
「ヤスくん、情報はあったかね」
「ええと、調べてみたら、ソロモン諸島には金髪で色黒の人たちがいるそうです。でも、髪と目の両方が色のうすい地黒の人というと、ちょっと……」
二人は銀髪の教師の風貌を話題にしている。拓馬は牛歩戦術で歩き、彼らの言葉に耳を傾けた。探究心の豊かな老教師は「人体の神秘が詰まっておるやもしれん」とはしゃいだ。
(やっぱり、先生の外見はいろいろ変わってるんだな)
だからどうということはない。見た目が風変わりであっても、シド自身は生徒にやさしい教師だ。そんな好人物がまもなく退職する事実がものさびしかった。
感傷にひたるのをやめ、拓馬は一階へくだる。職員玄関のすぐそばに事務室がある。事務室の戸をノックしたのち、入室する。
「図書室に運ぶ本はありますか?」
女性事務員が刺すような視線で応えた。この女性は三宅という。仕事が的確だが愛想はよくないと評判だ。彼女以外にも若い女性事務員がいる。そちらは愛想が抜群によいのだが仕事面に不安がある。両者の中間が理想的な事務員、とよく言われていた。
三宅の冷たい視線は生まれ持っての顔つきだ。そうと知る拓馬は自然体で応答を待った。
「コピー機の横にあるダンボールです」
壁際に設置されたコピー機を見る。そのそばに茶色い箱がひとつ置いてあった。
「運んだら司書か図書委員に新書が入ったと伝えてください。よろしくお願いします」
拓馬は「あいよ」と返事をし、箱のまえでしゃがむ。箱の底に指をかけた。腰を痛めないように注意して立つ。戸へ振り返ると、三宅が戸を開けてくれた。さすが仕事のできる人だ、と拓馬は彼女の気遣いに感心しつつも表には出さない。事務員の脇を通り、「失礼しまーす」と挨拶してから事務室を出た。
次に反対校舎の二階へ向かう。図書室は廊下の突き当たりの部屋だ。室内には数人の生徒と、女性の司書がいた。拓馬は荷物を手近な机に置く。それを見た司書が「配達、ごくろう!」と陽気に話しかけてくる。
「図書委員じゃない子にまかせてゴメンね。かよわそうな子が集まってたもんだから、助かったわ」
続いて図書委員の名木野が拓馬のもとに寄ってくる。
「お疲れさま。あの、もうひとつ根岸くんに頼みごとがあるんだけど……いい?」
名木野は英和辞典を見せる。辞典には図書館所蔵の証のシールが表紙に貼ってあった。
「この辞書をヤマちゃんに……追試で使っていいんだって」
「持ちこみ可の追試なのか」
「初耳だよね。だって試験の英単語って、授業で教わったとこしか出ないもの」
「なにを解かせるつもりだろうな……?」
拓馬は違和感を抱えながら辞典を受け取った。英語の追試会場は二階の空き教室。生徒数によってはクラスとして使用する教室だ。拓馬は連絡通路を通過して職員室の前を過ぎ、二年生の教室前廊下を歩いた。道中、見かける生徒の数は減っていた。各々が自身のやるべきことをしに行ったのだろう。
拓馬は自分のクラスをのぞいた。教室にはヤマダの姿と荷物がない。彼女はすでに空き教室へ行ったようだ。その空き教室をのぞくと、ひとり生徒がぽつねんと着席している。拓馬の足音に気付いた女子が戸口を振り返る。
「あ、タッちゃんどうしたの?」
「お前に辞書を渡してくれって頼まれたんだ。ほら」
拓馬は届けものをヤマダに手渡す。ヤマダは不思議そうに分厚い本を見ていた。
「それを試験中に見ていいんだとよ」
「へー、そうなの」
「先生から聞いてないのか?」
「うん、文房具を持ってきて、ってだけ言われてる」
受験者も試験の詳細を知らないとは。なんだかキナ臭さがただよってきた。
「辞典くらいわたしが取りにいけたのにな」
「それか、先生が持ってきてくれればいい。どうせ試験監督するんだし」
関係者内で物事を完結させないあたりが奇妙である。ヤマダは「さびしいのかもよ」と面妖なことを口走る。
「きっと先生はタッちゃんにもここにいてほしいんだよ」
「どういう発想だ」
「先生はタッちゃんとも仲良いでしょ。最後の思い出づくり用に、タッちゃんがここへくるように仕向けたんじゃない?」
「つっても、俺は追試をやらないし……」
拓馬はなにげなく黒板に視線を移した。白のチョークで「Wishing you good fortune」と書いてある。
「これ、シド先生の字だよな」
「うん、『健闘を祈る』とか『幸運を祈る』ってことかな。試験にピッタリだね」
「グッドラックじゃねえんだ?」
「ラックもフォーチュンも同じように使えるよ」
ヤマダは会話をするぶんには英語の不出来な生徒ではない。それが筆記問題になるとうだつがあがらなかった──この追試は不慮の事故で起きたものだが。
配達業をこなした拓馬は帰ろうとした。が、目のはしに異様な影をとらえる。紫色の光の球だ。それはひとつだけではなく、次々に窓から教室へと、押し寄せてくる。
紫の鬼火が拓馬を貫通する。とくに痛みはなかった。しかしヤマダの様子が変わる。
「なんか、変」
ヤマダは両腕を抱いた。彼女は全身を強張らせて、椅子から転げ落ちる。拓馬は倒れる女子をたすけようとした。だがまばゆい閃光に視界を妨げられる。異様な力の流れが、拓馬たちの意識を途絶えさせた。
チャイムが鳴り、本日の授業はすべて終えた。拓馬は机の上でうつ伏せになるヤマダに、「追試、がんばれよ」とねぎらう。今日の放課後に彼女限定の追試があるのだ。監督者は平易な試験の答案を作成した教師自身だという。余計な職務が増えたものだ、と拓馬はシドの不運も案じた。
「あ、根岸くんは待って」
たったいま授業を行なった女性教師が拓馬を引き止める。彼女は久間という。ヤマダが居眠りを強いられた試験の、監督者だった。
「雑用を頼まれてほしいの。事務室に届いた本を図書室まで運ぶんだけれど」
「なんで俺が……」
「本摩先生がそうおっしゃていたから。かわりに掃除当番はしなくていいという条件」
このタイミングではあまり得でない条件だ。これがテスト明けの掃除なら話がちがう。その理由は試験期間中に掃除が免除されること。免除の要因は、生徒が学校に滞在する時間がすくなくてゴミが出にくいという理屈と、生徒がより多くの時間を勉学に励めるようにとの配慮による。引き替えに試験が終了した後日には念入りに掃除をさせられる。それゆえ回避するならもっと早い時期がよかった。
「荷物運びのほうがしんどいだろ」
「腕力あるんだから平気よ。さきに本摩先生に顔を合わせておいてね」
拓馬が雑務を承諾しないまま、久間は退室した。拓馬は軽いため息をひとつ吐く。
「はー、まだやるとは言ってねえのに……」
反抗的な態度の拓馬に「いいじゃない」とヤマダが話しかける。彼女は机に片頬をくっつけている。
「頼りにされてるってことでしょ?」
「いいように使われてるだけだ」
そう答えたものの、ヤマダに反抗してもなんの解決にもならない。おまけに、ヤマダのほうが精神的につらい立場なのだ。
(こいつの運のわるさとくらべりゃな……)
拓馬はゴネないことに決める。
「……まあいいや、とっとと済ませてくる」
拓馬は職員室へむかう。廊下にもほかの教室にも、活発になる生徒があふれていた。夏休みが間近にせまる喜びゆえだ。
拓馬は自身のクラスと同じ階にある職員室に着く。「失礼します」と決まりきった挨拶をしてから入室する。室内は机上にある大量の本やファイル、棚に陳列するレターケースや教材、コピー機など文具関係の物がひしめく。かつ、備えつけのコーヒーメーカーが生みだす香りがひそか充満する。職員はコーヒーを自由に飲めるそうだ。食事風景を見ていないと噂のシドも、この飲料は飲むという。
拓馬は仕事机に座る本摩に声をかけた。この中年が拓馬に雑用を押しつけた依頼主だ。本摩は背もたれつきの椅子を回転させた。人の良さそうな笑みを浮かべている。
「きたな。久間先生から頼みごとは聞いただろう。やってくれるか?」
「かまわないけど、俺を指名するわけは?」
「体力のある生徒で、ヒマそうだったから」
本摩は部活動のことを言っている。追試のない生徒の多くは放課後、部活動にいそしむ。本摩が雑用を頼みやすい三郎なども、熱心に部活に打ちこむ。拓馬は空手部に所属するが、ほぼ名前だけの幽霊部員である。無駄な体力の消費をさせても問題がない生徒だ。
「責任感の強い根岸なら安心だしな。終わったら帰っていいぞ」
拓馬は中年の笑顔にほだされた。手早く用事を完遂させようと思ったところ、珍妙な会話を耳にする。それは理系の老教師と社会科系の若輩教師の談義だ。
「ヤスくん、情報はあったかね」
「ええと、調べてみたら、ソロモン諸島には金髪で色黒の人たちがいるそうです。でも、髪と目の両方が色のうすい地黒の人というと、ちょっと……」
二人は銀髪の教師の風貌を話題にしている。拓馬は牛歩戦術で歩き、彼らの言葉に耳を傾けた。探究心の豊かな老教師は「人体の神秘が詰まっておるやもしれん」とはしゃいだ。
(やっぱり、先生の外見はいろいろ変わってるんだな)
だからどうということはない。見た目が風変わりであっても、シド自身は生徒にやさしい教師だ。そんな好人物がまもなく退職する事実がものさびしかった。
感傷にひたるのをやめ、拓馬は一階へくだる。職員玄関のすぐそばに事務室がある。事務室の戸をノックしたのち、入室する。
「図書室に運ぶ本はありますか?」
女性事務員が刺すような視線で応えた。この女性は三宅という。仕事が的確だが愛想はよくないと評判だ。彼女以外にも若い女性事務員がいる。そちらは愛想が抜群によいのだが仕事面に不安がある。両者の中間が理想的な事務員、とよく言われていた。
三宅の冷たい視線は生まれ持っての顔つきだ。そうと知る拓馬は自然体で応答を待った。
「コピー機の横にあるダンボールです」
壁際に設置されたコピー機を見る。そのそばに茶色い箱がひとつ置いてあった。
「運んだら司書か図書委員に新書が入ったと伝えてください。よろしくお願いします」
拓馬は「あいよ」と返事をし、箱のまえでしゃがむ。箱の底に指をかけた。腰を痛めないように注意して立つ。戸へ振り返ると、三宅が戸を開けてくれた。さすが仕事のできる人だ、と拓馬は彼女の気遣いに感心しつつも表には出さない。事務員の脇を通り、「失礼しまーす」と挨拶してから事務室を出た。
次に反対校舎の二階へ向かう。図書室は廊下の突き当たりの部屋だ。室内には数人の生徒と、女性の司書がいた。拓馬は荷物を手近な机に置く。それを見た司書が「配達、ごくろう!」と陽気に話しかけてくる。
「図書委員じゃない子にまかせてゴメンね。かよわそうな子が集まってたもんだから、助かったわ」
続いて図書委員の名木野が拓馬のもとに寄ってくる。
「お疲れさま。あの、もうひとつ根岸くんに頼みごとがあるんだけど……いい?」
名木野は英和辞典を見せる。辞典には図書館所蔵の証のシールが表紙に貼ってあった。
「この辞書をヤマちゃんに……追試で使っていいんだって」
「持ちこみ可の追試なのか」
「初耳だよね。だって試験の英単語って、授業で教わったとこしか出ないもの」
「なにを解かせるつもりだろうな……?」
拓馬は違和感を抱えながら辞典を受け取った。英語の追試会場は二階の空き教室。生徒数によってはクラスとして使用する教室だ。拓馬は連絡通路を通過して職員室の前を過ぎ、二年生の教室前廊下を歩いた。道中、見かける生徒の数は減っていた。各々が自身のやるべきことをしに行ったのだろう。
拓馬は自分のクラスをのぞいた。教室にはヤマダの姿と荷物がない。彼女はすでに空き教室へ行ったようだ。その空き教室をのぞくと、ひとり生徒がぽつねんと着席している。拓馬の足音に気付いた女子が戸口を振り返る。
「あ、タッちゃんどうしたの?」
「お前に辞書を渡してくれって頼まれたんだ。ほら」
拓馬は届けものをヤマダに手渡す。ヤマダは不思議そうに分厚い本を見ていた。
「それを試験中に見ていいんだとよ」
「へー、そうなの」
「先生から聞いてないのか?」
「うん、文房具を持ってきて、ってだけ言われてる」
受験者も試験の詳細を知らないとは。なんだかキナ臭さがただよってきた。
「辞典くらいわたしが取りにいけたのにな」
「それか、先生が持ってきてくれればいい。どうせ試験監督するんだし」
関係者内で物事を完結させないあたりが奇妙である。ヤマダは「さびしいのかもよ」と面妖なことを口走る。
「きっと先生はタッちゃんにもここにいてほしいんだよ」
「どういう発想だ」
「先生はタッちゃんとも仲良いでしょ。最後の思い出づくり用に、タッちゃんがここへくるように仕向けたんじゃない?」
「つっても、俺は追試をやらないし……」
拓馬はなにげなく黒板に視線を移した。白のチョークで「Wishing you good fortune」と書いてある。
「これ、シド先生の字だよな」
「うん、『健闘を祈る』とか『幸運を祈る』ってことかな。試験にピッタリだね」
「グッドラックじゃねえんだ?」
「ラックもフォーチュンも同じように使えるよ」
ヤマダは会話をするぶんには英語の不出来な生徒ではない。それが筆記問題になるとうだつがあがらなかった──この追試は不慮の事故で起きたものだが。
配達業をこなした拓馬は帰ろうとした。が、目のはしに異様な影をとらえる。紫色の光の球だ。それはひとつだけではなく、次々に窓から教室へと、押し寄せてくる。
紫の鬼火が拓馬を貫通する。とくに痛みはなかった。しかしヤマダの様子が変わる。
「なんか、変」
ヤマダは両腕を抱いた。彼女は全身を強張らせて、椅子から転げ落ちる。拓馬は倒れる女子をたすけようとした。だがまばゆい閃光に視界を妨げられる。異様な力の流れが、拓馬たちの意識を途絶えさせた。
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2018年07月10日
拓馬篇−7章X
月明かりの下、男は家屋の屋根づたいに移動する。現在その筋骨隆々な巨体は物理的に存在しない。おかげで家々を踏み壊さずにいられた。
男はある家屋を目指した。そこへ到着するまで、己が姿を誇示していく。そうすることで、捕獲対象が男を察知するのを期待した。
何者とも遭遇せず、男は通いなれた家の庭に立った。庭のすみに色とりどりの草花が息づいている。その家の婦人が丹精こめて育てたものだ。この家でまちがいない、と男が再確認する。
男が家屋を見上げた。屋根に白い狐が四肢をそろえて座している。それはこの世の生き物でない。その証拠に夏季ではありえない、冬毛相当の分厚い毛皮をまとっていた。
狐の豊かな被毛が月光を浴びている。男には神秘的な獣に見えた。同時に愛くるしくもあった。できることなら、敵の立場では出会いたくなかった獣だ。
毛皮を輝かせた狐は男を見おろす。
「人でない者が何用か?」
狐が女性の声で問うた。この化け狐は基本的に女性型だ。元いた世界では妙齢な美女として有名な個体だが、こちらでは力の消耗を避けるためか獣型でいる。臨戦態勢になれば人型へ化けるはず、と男は見込んだ。
「おまえに用があって来た」
男は屋根へ跳び乗ろうとする。狐が太い尻尾を横薙ぎに振った。尾から強い風が巻き起こる。男は突風に押され、庭へもどされた。それ以上狐は仕掛けてこない。
「かかってこないのか?」
「不埒者を滅せよ、とはうけたまわっておらん。疾(と)く去れ」
狐は防戦に徹するつもりだ。こう距離を保たれていては、至近距離での戦闘を得意とする男に勝機がない。狐の戦意を高める必要がある。
「妖狐が人間の若造の言いなりになる、か」
男は噂に知る、狐の誇り高さを利用することにした。
「ずいぶんと格が落ちたものだ」
あからさまな挑発ではかえって警戒される。男はあえて礼儀をわきまえない正直者をよそおう。
「いや、以前の主は名前だけの輩だったな」
狐の足元に巻いていた尾が荒々しく薙ぐ。今度は風が発生しなかった。挑発が利いているのかいないのか。確信がないながらも男は口上を続ける。
「すべての生者を統べる力を持ちながら、力の使い方をあやまり、身を滅ぼした」
古くから民間に言い伝えられてきた伝説だ。男は当時を知らぬ。男が当事者である狐にあれこれ批評する義理はなかった。それゆえ狐の心中を掻き乱すには適切な話題だと判断する。
「民草(たみくさ)に語られる道化のことなぞ見棄てて当然だ」
狐は主君を見限ってはいない──そのことは男の耳に入っていた。時を経て、主君が帰還する瞬間を夢見ている。そのため、狐は主が好む道具や宝飾品を収集しているという。狐がいまの人間に仕えるのも、主君の精神体が異界へ流れおちたのを捜索するためだとか。その忠義心は見上げたものだ。しかし男は狐への無理解を示しつづける。
「王の名が聞いて呆れるな」
狐が牙を見せはじめた。男への敵意を表出しているようだ。
「愚昧(ぐまい)な王を悪しざまに言われて、気が立ったか?」
「──しめ」
「いまの主人とは関係のない話だろう。せいぜいあの若造にかわいがられるといい」
「小童が、口をつつしめ!」
狐は心酔する主君を侮辱されたために激昂した。姿を五つに増やし、男に襲いかかる。
狐得意の幻術は男の予想ずみだ。男は突進してきた狐たちをかるくいなす。体当たりをかます者、爪を振るう者、噛みつきにくる者、そのどれもが男への攻撃を当てられずに地に立った。再度攻勢を仕掛けてきたが、男はそれらを無視する。
最後方にいる狐めがけ、男は距離を詰める。間合いに入った瞬間に平手を突きだした。狐の下あごから頭部をつかむ。その勢いで、狐を地面へ押しつけた。すると周囲の幻影が消える。
「なぜ……見破れた?」
「見破ってはいない。術者は後方に控えるのが相場だと思ったまで」
男は捕えた狐の力を放出させる。あたりに黒いもやが立ちこめた。
力をうばわれていく狐がきゅーきゅー鳴く。その鳴き声が男の精神攻撃になる。
(人型に化けてくれればやりやすかったんだが……)
その利点は攻撃の当てやすさ以上に、男の心的負担が関係する。男は小動物には思い入れが強い。元来、獣を痛めつけることは趣味でなかった。その反面、人間の怨嗟や断末魔には慣れていた。
力を失った狐は気絶した。男はぐったりした狐を拾う。両腕に抱え、狐の上等な被毛をなでる。ささやかな幸福感が湧きあがった。しかし愛玩のために狐を捕獲したのではない。
(こいつを餌にする……次は──)
柔らかい毛皮を惜しむように触れつつ、男は家屋をすり抜ける。室内に照明は灯っていない。住民はみな床に就いているようだ。男はこの家でもっとも年若い者の部屋へ向かった。
年少の住民のもとへ難なくたどりつく。室内は年相応の教材と文具類が机に並ぶ。その中には護符と天然石も散らばっている。御守りの類は寝台の小さな棚にもあった。その寝台に、男の第二の目的物が寝息を立てている。
(また、力を貸してほしい)
男は片腕に狐を抱いたまま、空いた手で長髪の子どもの額をなでる。この子に何度ふれただろうか。この機会も終わりの時が近づいている。
(ツユキとの決着をつける……)
そのための歓待の場はすでに企画した。あとは支度をすすめるのみ。男の支度とは、活力あふれる子から力を分けてもらうこと。
(これが最後だ)
男は慈しみをこめて、子どもの頭をなでた。
男はある家屋を目指した。そこへ到着するまで、己が姿を誇示していく。そうすることで、捕獲対象が男を察知するのを期待した。
何者とも遭遇せず、男は通いなれた家の庭に立った。庭のすみに色とりどりの草花が息づいている。その家の婦人が丹精こめて育てたものだ。この家でまちがいない、と男が再確認する。
男が家屋を見上げた。屋根に白い狐が四肢をそろえて座している。それはこの世の生き物でない。その証拠に夏季ではありえない、冬毛相当の分厚い毛皮をまとっていた。
狐の豊かな被毛が月光を浴びている。男には神秘的な獣に見えた。同時に愛くるしくもあった。できることなら、敵の立場では出会いたくなかった獣だ。
毛皮を輝かせた狐は男を見おろす。
「人でない者が何用か?」
狐が女性の声で問うた。この化け狐は基本的に女性型だ。元いた世界では妙齢な美女として有名な個体だが、こちらでは力の消耗を避けるためか獣型でいる。臨戦態勢になれば人型へ化けるはず、と男は見込んだ。
「おまえに用があって来た」
男は屋根へ跳び乗ろうとする。狐が太い尻尾を横薙ぎに振った。尾から強い風が巻き起こる。男は突風に押され、庭へもどされた。それ以上狐は仕掛けてこない。
「かかってこないのか?」
「不埒者を滅せよ、とはうけたまわっておらん。疾(と)く去れ」
狐は防戦に徹するつもりだ。こう距離を保たれていては、至近距離での戦闘を得意とする男に勝機がない。狐の戦意を高める必要がある。
「妖狐が人間の若造の言いなりになる、か」
男は噂に知る、狐の誇り高さを利用することにした。
「ずいぶんと格が落ちたものだ」
あからさまな挑発ではかえって警戒される。男はあえて礼儀をわきまえない正直者をよそおう。
「いや、以前の主は名前だけの輩だったな」
狐の足元に巻いていた尾が荒々しく薙ぐ。今度は風が発生しなかった。挑発が利いているのかいないのか。確信がないながらも男は口上を続ける。
「すべての生者を統べる力を持ちながら、力の使い方をあやまり、身を滅ぼした」
古くから民間に言い伝えられてきた伝説だ。男は当時を知らぬ。男が当事者である狐にあれこれ批評する義理はなかった。それゆえ狐の心中を掻き乱すには適切な話題だと判断する。
「民草(たみくさ)に語られる道化のことなぞ見棄てて当然だ」
狐は主君を見限ってはいない──そのことは男の耳に入っていた。時を経て、主君が帰還する瞬間を夢見ている。そのため、狐は主が好む道具や宝飾品を収集しているという。狐がいまの人間に仕えるのも、主君の精神体が異界へ流れおちたのを捜索するためだとか。その忠義心は見上げたものだ。しかし男は狐への無理解を示しつづける。
「王の名が聞いて呆れるな」
狐が牙を見せはじめた。男への敵意を表出しているようだ。
「愚昧(ぐまい)な王を悪しざまに言われて、気が立ったか?」
「──しめ」
「いまの主人とは関係のない話だろう。せいぜいあの若造にかわいがられるといい」
「小童が、口をつつしめ!」
狐は心酔する主君を侮辱されたために激昂した。姿を五つに増やし、男に襲いかかる。
狐得意の幻術は男の予想ずみだ。男は突進してきた狐たちをかるくいなす。体当たりをかます者、爪を振るう者、噛みつきにくる者、そのどれもが男への攻撃を当てられずに地に立った。再度攻勢を仕掛けてきたが、男はそれらを無視する。
最後方にいる狐めがけ、男は距離を詰める。間合いに入った瞬間に平手を突きだした。狐の下あごから頭部をつかむ。その勢いで、狐を地面へ押しつけた。すると周囲の幻影が消える。
「なぜ……見破れた?」
「見破ってはいない。術者は後方に控えるのが相場だと思ったまで」
男は捕えた狐の力を放出させる。あたりに黒いもやが立ちこめた。
力をうばわれていく狐がきゅーきゅー鳴く。その鳴き声が男の精神攻撃になる。
(人型に化けてくれればやりやすかったんだが……)
その利点は攻撃の当てやすさ以上に、男の心的負担が関係する。男は小動物には思い入れが強い。元来、獣を痛めつけることは趣味でなかった。その反面、人間の怨嗟や断末魔には慣れていた。
力を失った狐は気絶した。男はぐったりした狐を拾う。両腕に抱え、狐の上等な被毛をなでる。ささやかな幸福感が湧きあがった。しかし愛玩のために狐を捕獲したのではない。
(こいつを餌にする……次は──)
柔らかい毛皮を惜しむように触れつつ、男は家屋をすり抜ける。室内に照明は灯っていない。住民はみな床に就いているようだ。男はこの家でもっとも年若い者の部屋へ向かった。
年少の住民のもとへ難なくたどりつく。室内は年相応の教材と文具類が机に並ぶ。その中には護符と天然石も散らばっている。御守りの類は寝台の小さな棚にもあった。その寝台に、男の第二の目的物が寝息を立てている。
(また、力を貸してほしい)
男は片腕に狐を抱いたまま、空いた手で長髪の子どもの額をなでる。この子に何度ふれただろうか。この機会も終わりの時が近づいている。
(ツユキとの決着をつける……)
そのための歓待の場はすでに企画した。あとは支度をすすめるのみ。男の支度とは、活力あふれる子から力を分けてもらうこと。
(これが最後だ)
男は慈しみをこめて、子どもの頭をなでた。
タグ:拓馬