2018年07月12日
拓馬篇−7章6 ★
試験結果がすべて発表され、問題の解説を授業で聞く日々。一通りの解説が終わったあとは、試験で一定の点数未満を取得した者に科目ごとの追試が課せられる。そしてヤマダは英語の追試日を言い渡された。その追試は彼女ひとりだけに行なわれる。やはり順調にいけば赤点保持者が出ない試験内容だった。
チャイムが鳴り、本日の授業はすべて終えた。拓馬は机の上でうつ伏せになるヤマダに、「追試、がんばれよ」とねぎらう。今日の放課後に彼女限定の追試があるのだ。監督者は平易な試験の答案を作成した教師自身だという。余計な職務が増えたものだ、と拓馬はシドの不運も案じた。
「あ、根岸くんは待って」
たったいま授業を行なった女性教師が拓馬を引き止める。彼女は久間という。ヤマダが居眠りを強いられた試験の、監督者だった。
「雑用を頼まれてほしいの。事務室に届いた本を図書室まで運ぶんだけれど」
「なんで俺が……」
「本摩先生がそうおっしゃていたから。かわりに掃除当番はしなくていいという条件」
このタイミングではあまり得でない条件だ。これがテスト明けの掃除なら話がちがう。その理由は試験期間中に掃除が免除されること。免除の要因は、生徒が学校に滞在する時間がすくなくてゴミが出にくいという理屈と、生徒がより多くの時間を勉学に励めるようにとの配慮による。引き替えに試験が終了した後日には念入りに掃除をさせられる。それゆえ回避するならもっと早い時期がよかった。
「荷物運びのほうがしんどいだろ」
「腕力あるんだから平気よ。さきに本摩先生に顔を合わせておいてね」
拓馬が雑務を承諾しないまま、久間は退室した。拓馬は軽いため息をひとつ吐く。
「はー、まだやるとは言ってねえのに……」
反抗的な態度の拓馬に「いいじゃない」とヤマダが話しかける。彼女は机に片頬をくっつけている。
「頼りにされてるってことでしょ?」
「いいように使われてるだけだ」
そう答えたものの、ヤマダに反抗してもなんの解決にもならない。おまけに、ヤマダのほうが精神的につらい立場なのだ。
(こいつの運のわるさとくらべりゃな……)
拓馬はゴネないことに決める。
「……まあいいや、とっとと済ませてくる」
拓馬は職員室へむかう。廊下にもほかの教室にも、活発になる生徒があふれていた。夏休みが間近にせまる喜びゆえだ。
拓馬は自身のクラスと同じ階にある職員室に着く。「失礼します」と決まりきった挨拶をしてから入室する。室内は机上にある大量の本やファイル、棚に陳列するレターケースや教材、コピー機など文具関係の物がひしめく。かつ、備えつけのコーヒーメーカーが生みだす香りがひそか充満する。職員はコーヒーを自由に飲めるそうだ。食事風景を見ていないと噂のシドも、この飲料は飲むという。
拓馬は仕事机に座る本摩に声をかけた。この中年が拓馬に雑用を押しつけた依頼主だ。本摩は背もたれつきの椅子を回転させた。人の良さそうな笑みを浮かべている。
「きたな。久間先生から頼みごとは聞いただろう。やってくれるか?」
「かまわないけど、俺を指名するわけは?」
「体力のある生徒で、ヒマそうだったから」
本摩は部活動のことを言っている。追試のない生徒の多くは放課後、部活動にいそしむ。本摩が雑用を頼みやすい三郎なども、熱心に部活に打ちこむ。拓馬は空手部に所属するが、ほぼ名前だけの幽霊部員である。無駄な体力の消費をさせても問題がない生徒だ。
「責任感の強い根岸なら安心だしな。終わったら帰っていいぞ」
拓馬は中年の笑顔にほだされた。手早く用事を完遂させようと思ったところ、珍妙な会話を耳にする。それは理系の老教師と社会科系の若輩教師の談義だ。
「ヤスくん、情報はあったかね」
「ええと、調べてみたら、ソロモン諸島には金髪で色黒の人たちがいるそうです。でも、髪と目の両方が色のうすい地黒の人というと、ちょっと……」
二人は銀髪の教師の風貌を話題にしている。拓馬は牛歩戦術で歩き、彼らの言葉に耳を傾けた。探究心の豊かな老教師は「人体の神秘が詰まっておるやもしれん」とはしゃいだ。
(やっぱり、先生の外見はいろいろ変わってるんだな)
だからどうということはない。見た目が風変わりであっても、シド自身は生徒にやさしい教師だ。そんな好人物がまもなく退職する事実がものさびしかった。
感傷にひたるのをやめ、拓馬は一階へくだる。職員玄関のすぐそばに事務室がある。事務室の戸をノックしたのち、入室する。
「図書室に運ぶ本はありますか?」
女性事務員が刺すような視線で応えた。この女性は三宅という。仕事が的確だが愛想はよくないと評判だ。彼女以外にも若い女性事務員がいる。そちらは愛想が抜群によいのだが仕事面に不安がある。両者の中間が理想的な事務員、とよく言われていた。
三宅の冷たい視線は生まれ持っての顔つきだ。そうと知る拓馬は自然体で応答を待った。
「コピー機の横にあるダンボールです」
壁際に設置されたコピー機を見る。そのそばに茶色い箱がひとつ置いてあった。
「運んだら司書か図書委員に新書が入ったと伝えてください。よろしくお願いします」
拓馬は「あいよ」と返事をし、箱のまえでしゃがむ。箱の底に指をかけた。腰を痛めないように注意して立つ。戸へ振り返ると、三宅が戸を開けてくれた。さすが仕事のできる人だ、と拓馬は彼女の気遣いに感心しつつも表には出さない。事務員の脇を通り、「失礼しまーす」と挨拶してから事務室を出た。
次に反対校舎の二階へ向かう。図書室は廊下の突き当たりの部屋だ。室内には数人の生徒と、女性の司書がいた。拓馬は荷物を手近な机に置く。それを見た司書が「配達、ごくろう!」と陽気に話しかけてくる。
「図書委員じゃない子にまかせてゴメンね。かよわそうな子が集まってたもんだから、助かったわ」
続いて図書委員の名木野が拓馬のもとに寄ってくる。
「お疲れさま。あの、もうひとつ根岸くんに頼みごとがあるんだけど……いい?」
名木野は英和辞典を見せる。辞典には図書館所蔵の証のシールが表紙に貼ってあった。
「この辞書をヤマちゃんに……追試で使っていいんだって」
「持ちこみ可の追試なのか」
「初耳だよね。だって試験の英単語って、授業で教わったとこしか出ないもの」
「なにを解かせるつもりだろうな……?」
拓馬は違和感を抱えながら辞典を受け取った。英語の追試会場は二階の空き教室。生徒数によってはクラスとして使用する教室だ。拓馬は連絡通路を通過して職員室の前を過ぎ、二年生の教室前廊下を歩いた。道中、見かける生徒の数は減っていた。各々が自身のやるべきことをしに行ったのだろう。
拓馬は自分のクラスをのぞいた。教室にはヤマダの姿と荷物がない。彼女はすでに空き教室へ行ったようだ。その空き教室をのぞくと、ひとり生徒がぽつねんと着席している。拓馬の足音に気付いた女子が戸口を振り返る。
「あ、タッちゃんどうしたの?」
「お前に辞書を渡してくれって頼まれたんだ。ほら」
拓馬は届けものをヤマダに手渡す。ヤマダは不思議そうに分厚い本を見ていた。
「それを試験中に見ていいんだとよ」
「へー、そうなの」
「先生から聞いてないのか?」
「うん、文房具を持ってきて、ってだけ言われてる」
受験者も試験の詳細を知らないとは。なんだかキナ臭さがただよってきた。
「辞典くらいわたしが取りにいけたのにな」
「それか、先生が持ってきてくれればいい。どうせ試験監督するんだし」
関係者内で物事を完結させないあたりが奇妙である。ヤマダは「さびしいのかもよ」と面妖なことを口走る。
「きっと先生はタッちゃんにもここにいてほしいんだよ」
「どういう発想だ」
「先生はタッちゃんとも仲良いでしょ。最後の思い出づくり用に、タッちゃんがここへくるように仕向けたんじゃない?」
「つっても、俺は追試をやらないし……」
拓馬はなにげなく黒板に視線を移した。白のチョークで「Wishing you good fortune」と書いてある。
「これ、シド先生の字だよな」
「うん、『健闘を祈る』とか『幸運を祈る』ってことかな。試験にピッタリだね」
「グッドラックじゃねえんだ?」
「ラックもフォーチュンも同じように使えるよ」
ヤマダは会話をするぶんには英語の不出来な生徒ではない。それが筆記問題になるとうだつがあがらなかった──この追試は不慮の事故で起きたものだが。
配達業をこなした拓馬は帰ろうとした。が、目のはしに異様な影をとらえる。紫色の光の球だ。それはひとつだけではなく、次々に窓から教室へと、押し寄せてくる。
紫の鬼火が拓馬を貫通する。とくに痛みはなかった。しかしヤマダの様子が変わる。
「なんか、変」
ヤマダは両腕を抱いた。彼女は全身を強張らせて、椅子から転げ落ちる。拓馬は倒れる女子をたすけようとした。だがまばゆい閃光に視界を妨げられる。異様な力の流れが、拓馬たちの意識を途絶えさせた。
チャイムが鳴り、本日の授業はすべて終えた。拓馬は机の上でうつ伏せになるヤマダに、「追試、がんばれよ」とねぎらう。今日の放課後に彼女限定の追試があるのだ。監督者は平易な試験の答案を作成した教師自身だという。余計な職務が増えたものだ、と拓馬はシドの不運も案じた。
「あ、根岸くんは待って」
たったいま授業を行なった女性教師が拓馬を引き止める。彼女は久間という。ヤマダが居眠りを強いられた試験の、監督者だった。
「雑用を頼まれてほしいの。事務室に届いた本を図書室まで運ぶんだけれど」
「なんで俺が……」
「本摩先生がそうおっしゃていたから。かわりに掃除当番はしなくていいという条件」
このタイミングではあまり得でない条件だ。これがテスト明けの掃除なら話がちがう。その理由は試験期間中に掃除が免除されること。免除の要因は、生徒が学校に滞在する時間がすくなくてゴミが出にくいという理屈と、生徒がより多くの時間を勉学に励めるようにとの配慮による。引き替えに試験が終了した後日には念入りに掃除をさせられる。それゆえ回避するならもっと早い時期がよかった。
「荷物運びのほうがしんどいだろ」
「腕力あるんだから平気よ。さきに本摩先生に顔を合わせておいてね」
拓馬が雑務を承諾しないまま、久間は退室した。拓馬は軽いため息をひとつ吐く。
「はー、まだやるとは言ってねえのに……」
反抗的な態度の拓馬に「いいじゃない」とヤマダが話しかける。彼女は机に片頬をくっつけている。
「頼りにされてるってことでしょ?」
「いいように使われてるだけだ」
そう答えたものの、ヤマダに反抗してもなんの解決にもならない。おまけに、ヤマダのほうが精神的につらい立場なのだ。
(こいつの運のわるさとくらべりゃな……)
拓馬はゴネないことに決める。
「……まあいいや、とっとと済ませてくる」
拓馬は職員室へむかう。廊下にもほかの教室にも、活発になる生徒があふれていた。夏休みが間近にせまる喜びゆえだ。
拓馬は自身のクラスと同じ階にある職員室に着く。「失礼します」と決まりきった挨拶をしてから入室する。室内は机上にある大量の本やファイル、棚に陳列するレターケースや教材、コピー機など文具関係の物がひしめく。かつ、備えつけのコーヒーメーカーが生みだす香りがひそか充満する。職員はコーヒーを自由に飲めるそうだ。食事風景を見ていないと噂のシドも、この飲料は飲むという。
拓馬は仕事机に座る本摩に声をかけた。この中年が拓馬に雑用を押しつけた依頼主だ。本摩は背もたれつきの椅子を回転させた。人の良さそうな笑みを浮かべている。
「きたな。久間先生から頼みごとは聞いただろう。やってくれるか?」
「かまわないけど、俺を指名するわけは?」
「体力のある生徒で、ヒマそうだったから」
本摩は部活動のことを言っている。追試のない生徒の多くは放課後、部活動にいそしむ。本摩が雑用を頼みやすい三郎なども、熱心に部活に打ちこむ。拓馬は空手部に所属するが、ほぼ名前だけの幽霊部員である。無駄な体力の消費をさせても問題がない生徒だ。
「責任感の強い根岸なら安心だしな。終わったら帰っていいぞ」
拓馬は中年の笑顔にほだされた。手早く用事を完遂させようと思ったところ、珍妙な会話を耳にする。それは理系の老教師と社会科系の若輩教師の談義だ。
「ヤスくん、情報はあったかね」
「ええと、調べてみたら、ソロモン諸島には金髪で色黒の人たちがいるそうです。でも、髪と目の両方が色のうすい地黒の人というと、ちょっと……」
二人は銀髪の教師の風貌を話題にしている。拓馬は牛歩戦術で歩き、彼らの言葉に耳を傾けた。探究心の豊かな老教師は「人体の神秘が詰まっておるやもしれん」とはしゃいだ。
(やっぱり、先生の外見はいろいろ変わってるんだな)
だからどうということはない。見た目が風変わりであっても、シド自身は生徒にやさしい教師だ。そんな好人物がまもなく退職する事実がものさびしかった。
感傷にひたるのをやめ、拓馬は一階へくだる。職員玄関のすぐそばに事務室がある。事務室の戸をノックしたのち、入室する。
「図書室に運ぶ本はありますか?」
女性事務員が刺すような視線で応えた。この女性は三宅という。仕事が的確だが愛想はよくないと評判だ。彼女以外にも若い女性事務員がいる。そちらは愛想が抜群によいのだが仕事面に不安がある。両者の中間が理想的な事務員、とよく言われていた。
三宅の冷たい視線は生まれ持っての顔つきだ。そうと知る拓馬は自然体で応答を待った。
「コピー機の横にあるダンボールです」
壁際に設置されたコピー機を見る。そのそばに茶色い箱がひとつ置いてあった。
「運んだら司書か図書委員に新書が入ったと伝えてください。よろしくお願いします」
拓馬は「あいよ」と返事をし、箱のまえでしゃがむ。箱の底に指をかけた。腰を痛めないように注意して立つ。戸へ振り返ると、三宅が戸を開けてくれた。さすが仕事のできる人だ、と拓馬は彼女の気遣いに感心しつつも表には出さない。事務員の脇を通り、「失礼しまーす」と挨拶してから事務室を出た。
次に反対校舎の二階へ向かう。図書室は廊下の突き当たりの部屋だ。室内には数人の生徒と、女性の司書がいた。拓馬は荷物を手近な机に置く。それを見た司書が「配達、ごくろう!」と陽気に話しかけてくる。
「図書委員じゃない子にまかせてゴメンね。かよわそうな子が集まってたもんだから、助かったわ」
続いて図書委員の名木野が拓馬のもとに寄ってくる。
「お疲れさま。あの、もうひとつ根岸くんに頼みごとがあるんだけど……いい?」
名木野は英和辞典を見せる。辞典には図書館所蔵の証のシールが表紙に貼ってあった。
「この辞書をヤマちゃんに……追試で使っていいんだって」
「持ちこみ可の追試なのか」
「初耳だよね。だって試験の英単語って、授業で教わったとこしか出ないもの」
「なにを解かせるつもりだろうな……?」
拓馬は違和感を抱えながら辞典を受け取った。英語の追試会場は二階の空き教室。生徒数によってはクラスとして使用する教室だ。拓馬は連絡通路を通過して職員室の前を過ぎ、二年生の教室前廊下を歩いた。道中、見かける生徒の数は減っていた。各々が自身のやるべきことをしに行ったのだろう。
拓馬は自分のクラスをのぞいた。教室にはヤマダの姿と荷物がない。彼女はすでに空き教室へ行ったようだ。その空き教室をのぞくと、ひとり生徒がぽつねんと着席している。拓馬の足音に気付いた女子が戸口を振り返る。
「あ、タッちゃんどうしたの?」
「お前に辞書を渡してくれって頼まれたんだ。ほら」
拓馬は届けものをヤマダに手渡す。ヤマダは不思議そうに分厚い本を見ていた。
「それを試験中に見ていいんだとよ」
「へー、そうなの」
「先生から聞いてないのか?」
「うん、文房具を持ってきて、ってだけ言われてる」
受験者も試験の詳細を知らないとは。なんだかキナ臭さがただよってきた。
「辞典くらいわたしが取りにいけたのにな」
「それか、先生が持ってきてくれればいい。どうせ試験監督するんだし」
関係者内で物事を完結させないあたりが奇妙である。ヤマダは「さびしいのかもよ」と面妖なことを口走る。
「きっと先生はタッちゃんにもここにいてほしいんだよ」
「どういう発想だ」
「先生はタッちゃんとも仲良いでしょ。最後の思い出づくり用に、タッちゃんがここへくるように仕向けたんじゃない?」
「つっても、俺は追試をやらないし……」
拓馬はなにげなく黒板に視線を移した。白のチョークで「Wishing you good fortune」と書いてある。
「これ、シド先生の字だよな」
「うん、『健闘を祈る』とか『幸運を祈る』ってことかな。試験にピッタリだね」
「グッドラックじゃねえんだ?」
「ラックもフォーチュンも同じように使えるよ」
ヤマダは会話をするぶんには英語の不出来な生徒ではない。それが筆記問題になるとうだつがあがらなかった──この追試は不慮の事故で起きたものだが。
配達業をこなした拓馬は帰ろうとした。が、目のはしに異様な影をとらえる。紫色の光の球だ。それはひとつだけではなく、次々に窓から教室へと、押し寄せてくる。
紫の鬼火が拓馬を貫通する。とくに痛みはなかった。しかしヤマダの様子が変わる。
「なんか、変」
ヤマダは両腕を抱いた。彼女は全身を強張らせて、椅子から転げ落ちる。拓馬は倒れる女子をたすけようとした。だがまばゆい閃光に視界を妨げられる。異様な力の流れが、拓馬たちの意識を途絶えさせた。
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