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2018年07月04日

拓馬篇−7章3 ★

 公園でヤマダらを待つ拓馬は、ふと気がかりなことを思い出した。一緒にいたはずの、シズカの犬をさっきから見ていない。拓馬は犬の所在を気にしたが、あまり心配にはならなかった。犬が不在になる理由はいろいろあるからだ。一つはヤマダたちについて行ったこと、二つは逃げた大男を追いかけること、三つは獣の出番がこずじまいだったためにもう帰ったこと。いない可能性が高いと思いつつも、拓馬は園内を捜してみることにした。
 最初に拓馬が待機していた茂みへ向かう。そこに薄茶色の小型犬がいまも伏せていた。
「なんだ、ずっといたのか」
 拓馬と目が合った犬は茂みを突っ切り、広場へ出てくる。トコトコと歩く先には大の字に寝るノブがいる。その顔の横で、犬が尻をノブに向けて伏せた。もっとも無防備な人を守っているようだ。もしかすると、拓馬の目のとどかないところでも同様に見守っていたのかもしれない。それを拓馬の心配がないよう、わざわざわかりやすい位置まで来てくれたようだ。その配慮はありがたい。だがこの犬が拓馬たちの護衛を優先することに対して、拓馬は違和感をいだく。
(せっかく敵を見つけたのに、そいつの居場所を知ろうとは思わないのか?)
 拓馬たちを降した大男はいずこかへ去っていった。その追跡を図れば今後の対策もしやすくなるだろうに。ただし、これまでの調査に関して犬が派遣されたためしはなかったので、この犬が調査向きの個体ではなさそうなのもたしかだ。
(ほかの子がもう突きとめてる、とか?)
 そんな仮定を思いついた頃合いに、ヤマダとジュンがもどってきた。ヤマダは拓馬に走り寄ってくる。
「やっぱり、あの金髪の子だった」
「オダっていうやつだったか。そいつ、どうなった?」
「ケガはしてないけどぜーんぜん起きないから、病院に運ばれたよ」
「そのことは家族に報せたのか?」
「うん、家族の連絡先が携帯電話に登録してあって、話は通じたみたい」
 あとは病院の人まかせ、とヤマダはそっけなく言った。それが正しい反応だ。どちらかといえば敵対している他人同士ゆえに、深入りをする筋合いはないのだ。
 野暮用がおわり、拓馬たちは帰宅の支度をする。いつの間にかノブは寝返りをうっていて、犬の背中に顔をうずめていた。彼の両腕はしっかりの犬の腹を抱えている。きっとこれが抱き枕状態だ。拓馬は自分がその被害者にならなかったことに安堵した。
 ジュンははじめて見る犬の存在に気付き、「その子はだれの飼い犬?」とたずねる。
「トンちゃんちはペット禁止だと思ってた」
「うん、わたしんちの子じゃないよ。今晩だけタッちゃんがその子をあずかってる」
「ふーむ、首輪が無いね……ワケあり?」
「そう。いろいろフクザツなの。くわしく聞きたい?」
「いや……それより帰ろうか」
 ジュンはノブに「家に帰るよ」と声をかけた。その返答はいびきである。ノブの自力での帰宅は無理そうだ。そのようにジュンも判断したらしく、彼はノブの胴体を抱えた。起こしたノブの右腕を、自身の肩へとのばす。
「トーマ、片側を頼む」
 拓馬もノブの左腕をかついだ。質量のあるノブを、半分背負った状態で立つ。その瞬間、足全体に負荷がかかった。重りのせいで体がふらつきそうになる。どうにかこらえ、直立した。ジュンのほうが拓馬より背が高いためか、相棒役のジュンはやや前屈みだ。姿勢が安定した拓馬たちは酔漢の運送をはじめた。
 男二人が大荷物を運ぶのを先導するように、ヤマダが拓馬たちの前を歩く。ヤマダは武器の入ったリュックサックを背負い、シズカの犬を抱きかかる。彼女は犬にかまけているようで「きみはおりこうさんだね〜」としゃべった。実際ノブに捕まってもあばれなかった犬なので、シズカの命令が行き届いているか、おとなしい気質にはちがいない。
 ヤマダはすっかり一人と一匹の世界に入っている。なので拓馬は気晴らしがてらの話し相手をジュンに絞る。
「ジュンさん、今日はムチャ振りを聞いてくれてありがとな」
「ん? まあね、私はトーマとトンちゃんとも友だちだからね」
 ジュンとは親子ほど年の離れた間柄だが、ひとりの人間として見てくれていることに拓馬は照れくささを感じた。
「それにしてもさっきの男、かなりの猛者だったね。今年は負けが続くよ……」
「ジュンさんが負け続き? 本当に?」
 拓馬にとって身近な武芸者のうち、トップに座する実力者がジュンだと思っている。齢四十を越えた現在、全盛期と勝手がちがうだろうが、それでも拓馬の手のとどかない人だ。
「トーマは買い被りすぎだよ。上には上がいる……だけど若い人に負けるの、堪えるね」
「あの大男の年齢がわかるのか?」
「いや、別の男の人のこと。その人は会長に仕事をもらいにきてたね」
 会長とはジュンが勤務する会社と、その系列で最上位に偉い人物だ。警備の仕事から情報処理の業界まで、いろんな分野で商売をしているらしい。ジュンが勝てなかった武人が就く職務となると、やはり荒事に関係する内容だろう。
「それは警備の仕事の面接で?」
「いんや、普通の学校の先生」
「え……なんで腕試しするんだ?」
「会長は物好きよ。相手がツワモノだと知るとその度合いを測りたくなるね」
 そういう友人は拓馬にもいる。三郎だ。あんな酔狂な人間がほかにもいるのか、と拓馬はなんだかしんどくなるが、そこは無視する。
「えっと、その人は学校の先生になれた?」
「なれたよ。トーマとトンちゃんの学校に青い目の先生がきたはずね」
 今年やってきた、変わった目の色の教師はひとりしかいない。
「シド先生が……なんでジュンさんの会社の偉い人と会えたんだ?」
「うん? そんな名前だったかな」
「あ、シドってのはあだ名なんだ。ほんとは……デイルって言うんだっけな?」
「ああ、それ。彼は元うちの会社系列の人。数年前に傘下に入った会社の者だそうだよ」
「へー、そんな繋がりがあったんだ」
「私よりその先生に協力してもらえればよかったね。いい勝負になったと思うよ」
 戦力的には正しい意見なのだが、そうできない理由を拓馬は説明した。ジュンも本気で言ったわけではないようで、すぐに納得する。
「いい大人が、子どもの火遊びに付きあってられないか」
「俺らの先生って立場じゃなきゃ、手伝ってくれそうな人なんだけどさ……」
「先生をあんまり困らせちゃいけないよ。彼はもうじきお役御免になる身。後腐れがないようにしたいね」
「わかった……っと、ヤマダんちが見えた」
 ノブを二人がかりで運ぶ役目がようやく終わる。玄関の上がり框《かまち》にノブを座らせた。ジュンが「あとは私がやっておくよ」と言う。彼はノブの背後へ回る。ノブに腕組みをさせ、その腕をつかんで引きずった。
 ヤマダが「タッちゃんも入る?」とたずねたが、拓馬は断った。早くシズカに結果を報告したいと思ったためだ。
「じゃあこの子はタッちゃんにあずけるね」
 ヤマダは犬の脇を持って、拓馬に渡した。犬は拓馬の腕の中でじっと抱かれている。そのちいさな頭をヤマダがなでて「また会おうね」と笑顔で送りだした。

 拓馬は子犬を連れて帰宅した。家族が犬に注目するまえに、自室へ向かう。犬を抱えたまま電子機器を稼働させた。その状態でシズカと通話してもよいのだろうが、この犬は正体不明の人外だ。無礼を働くとあとがこわい。そこで寝台の上に犬を放した。犬は寝台でうずくまる。ふくふくとした寝姿だ。愛らしいと拓馬は感じたが、かまわずにおいた。
 シズカとの連絡は早々に開始できた。相手方はとっくに通話態勢をスタンバイしていたらしい。拓馬は手短に、今回の計画は仕損じたことを報告した。シズカが『失敗を気にしなくていいからね』となぐさめる。
『あの人は国のエリート軍人も出しぬく逃げ上手なんだ。捕まえるのはむずかしいよ』
「それを知ってて協力した理由は何です?」
『きみの友だちの三郎くんに、お姉さんがいるのは知ってるね?』
「はい、シズカさんの同僚だと聞いてます」
『お姉さんが弟くんの暴走を心配してる。お姉さんは実家をはなれて暮らしてて、なかなか弟くんの面倒が見れない。弟が正義をふりかざすうちにケガをしたらどうしよう、って不安に思ってる。そこできみたちの出番さ』
「はぁ……」
『きっときみたちの計画に弟くんも加わる。そのとき、一緒に痛い目にあってもらったらおとなしくなるかな、と思ったんだよ』
 つまり玉砕前提で拓馬たちを後押しした、ということだ。その効果が三郎の鎮静化だというなら拓馬にもありがたい。
「これであいつがムチャ言わなくなったら、俺もたすかります」
『うん……あとは、おれの自己満足だな』
 シズカは次点の理由をくわしく話さず、『ほかにもおれに言うことはあるかな』と質疑の立場を入れ替えた。拓馬は今日の出来事をさかのぼって思い出す。ノブを小山田家まで運んだ、その道中で、ジュンが過去にシドと会っていたことを知った、ノブを運びだすまえの拓馬は公園で待ちぼうけていた──
(なんで、すぐ帰らなかったんだっけ?)
 ジュンがいなくなったからだ。彼はヤマダとともにどこかへ行った。その理由は──
「あ、道ばたでたおれてる男子がいたんだ」
『それはどんな子?』
「他校のやつで、俺たちとは仲悪いです。今日は俺の知り合いがそいつを見つけて、ぜんぜん起きなかったから病院に搬送したとか」
『ぜんぜん起きない……で、たおれてるか』
「なんか知ってます?」
『うーん、おれがまえに関わってた事件にそっくりだな。その男の子のこと、くわしく聞かせてもらえるかい』
 拓馬は断片的な情報を伝えた。オダという呼び名で仲間うちによばれたこと、金髪で背は拓馬より高いが顔立ちが女っぽいこと、雒英《らくえい》という進学校の者であること。
『わかった、あとでその子の居場所をさぐってみるよ』
「さぐって、どうするんです?」
『どうしてその子がたおれていたのかを調べる。もし調べがついたら、拓馬くんは理由を聞きたい?』
「気にはなります。でもシズカさんが言いにくかったら遠慮します。そういう事件って、部外者にはあまり言えないんでしょう?」
『お気遣いありがとう。お言葉に甘えて、この件はおれが勝手にやっとくよ』
 会話の終着点が見えてきた。拓馬は最後に犬の処遇をたずねる。
「で……こっちにいる犬はどうします?」
『拓馬くんがやり残したことがないなら、すぐ帰らせる。モフっておかなくていい?』
「俺はいいですよ、犬飼ってるし……」
『それじゃ、しばしのお別れだ』
 寝台で休んでいた犬が体を起こす。ぷるぷると全身をふるわせる。そうして部屋の窓辺に跳びのり、ガラス窓をすり抜けていった。
『今日はお疲れさま。ゆっくり休んでねー』
 本日の課題が終わった。拓馬は椅子にもたれかかり、暗い窓の外を見る。
(あの犬、モフってもよかったのか)
 さきほど犬にふれるのを我慢した瞬間が、なんだか惜しいような気がしてきた。
(まあいいや、とっとと寝よう)
 就寝の前支度として、汗でべたつく体を洗いに風呂場へ向かった。
posted by 三利実巳 at 20:50 | Comment(0) | 長編拓馬 

2018年07月02日

拓馬篇−7章◆ ★

 使い古された音楽が流れる。閉館の合図だ。利用客を追い出そうとする曲を、金髪の少年は不快に感じながら聞いた。少年は仕方なく、机に突っ伏した上半身を起こす。何十分ぶりかに周りを見てみると、図書の貸し出し手続きをする人が受付へ集まっていた。少年は自分に注目する者がいないの確認し、空調の利いた施設を出た。
 外は日が落ちたが、完全には暗くなっていなかった。日長な季節なのはいい。だが少年はこれ以上気温が高くなるのを憂鬱に思う。
(涼しいところ……他にもさがさねえとな)
 屋外は蒸し暑さが残っている。もとが温室で育ってきた少年にはこたえる季節だ。家に帰ればきっと母が快適な温度に調整しているのだろうが、まだ帰宅する気になれない。
(いまは飯食ってる時間かな……)
 あてもなく歩きながら、実家ですごす人々の行動を想像した。母と妹、そして父親──二人めまでに感じた温かい情が、三人めでどん底まで失われる。胸糞がわるくなる記憶を振り払うように、少年は歩みを速めた。
 無心に歩くと体が熱くなる。少年はむだに体力を消耗したくないと思い、手近な休憩場所へむかう。そこは無人の公園だ。以前まではよく滞在した場所だ。ある一件を境に寄りつかなくなった。そのときの辛酸がこみあげてくる。忌々しい思い出だ。その記憶を直視しつつ、公園に設置されたベンチで休んだ。
(あんな、のうのうとした連中に一杯食わされるなんざ……)
 喧嘩には強いと思っていた自分を、上回る同世代がいた。それが腹立たしい。また、その男子を保護しにきた教師もいけ好かない。
(善人ヅラしやがって……)
 教師の口ぶりは穏やかだが、少年への仕打ちは手酷いものだった。教師の警告に従わなかった非が少年にあるとはいえ、納得しきれない。ためらいなく他者の首を締め上げてくる物騒な男だというのに、彼は依然として教師であり続けている。職務で求められる人格と、その残忍な本性が一致しない人物に対して、少年は憤りを感じる。少年の父がそういった二面性のある人間だということも、この不快感に一役買っている。
 あの教師に一泡吹かせてやらねば、少年の気が済まない。しかしどうやって報復したらいいのか、良策は出なかった。多対一で襲撃したとしても勝てる相手ではない。教師は刃物を持つ敵への対処法を心得ていた。あの落ち着きぶりと無駄のない攻撃を考慮するに、修練を積んだ格闘家だとわかる。そんな強者をどのように無力化するか。直接本人にはたらきかけるのでは到底かなわないだろう。
(やっぱり、生徒をかっさらうか?)
 教師に近しい学校関係者を人質にする──その計画は思いつきこそすれ、実行を移すには至らない。自分より強い者には勝てない腹いせに自分より弱い者に八つ当たりする、という行為に嫌悪感があるせいだ。せめて自分と同程度の者に打ち勝ち、その結果をダシに教師を呼びよせる。その段取りを果たすために教師のいる学校近辺を偵察したものの、ある生徒との遭遇によって計画は頓挫した。そいつは行動の読めない女子だ。彼女が巻き起こす奇天烈な言動に、少年はかなり参った。
「くそっ……あのフザけた女……」
 あの女子には怒りとはちがった不快感を味わわせられた。これも不愉快な感情にはちがいないが、女子への憎悪はあまり湧かなかった。女と張りあっても得られるものはない。おまけに、常識の枠から外れた変人をどうこうしようとするのがまちがいだ、と諦観する気持ちが先立った。
 あれこれ思索するうちに、空にはわずかな青も夕日の色さえも無くなった。完璧に夜だ。
 次はどこへ行こう、と少年が思った矢先、じゃりじゃりと砂を踏む音がする。なにかが公園内を歩いているようだ。
「だれだ……?」
 もし自分に敵意のある者が接近していたら。そう警戒した少年はベンチから立ち上がった。足音が近づいてくる。外灯の光が照らす地面に、人影がよぎった。だがその影をつくる人自体はよく見えない。
 少年はポケットに入れた携帯電話のライトを発光させる。光は男の胴体を映した。一般的な身長の男ならば頭のある高さに、胸が見える。相手はかなりの長身だ。くわえて筋骨隆々な体型のように見えた。この体格では少年が勝てる見込みは薄い。負けそうだからといって、少年は強者に媚びへつらう気がさらさらなかった。
「危害は加えない。お前がこちらの要求を飲むのなら」
 低い男の声にはいかなる感情も伴っていない。機械的な言い方が一層凄みを増した。
「他校の生徒へ報復するつもりだろう。それはやめておけ」
 まさにいま考えていたことだ。その計画は実行に移せるかどうか未確定。正直にそう言っても虚偽にならないだろう。にもかかわらず、あまのじゃくな少年はつい虚勢を張る。
「だれに吹きこまれたか知らねえが、いまさらやめてたまるか」
 少年は「外野は黙ってろ」と吐き捨て、男から離れた。自分が練った計画をわけのわからない者に邪魔されたくはない──と頭では理屈をこねたが、それは建前だ。本心ではこの男の尋常でない威圧感に恐怖を感じる。それゆえ逃走を選択した。しかし肥大化した自尊心のせいで、無様に走るのだけはやめた。
「お前のためでもある。やめるんだ」
 後方からの語り掛けを少年は無視した。振り返らずに歩く。すると男の手がぐいっと肩を引っ張り、歩みを止めさせた。少年は意図しない妨害に憤慨する。
「しつこいな! てめえになんの関係があるってんだ」
「やめないと言うのなら、できないようにするほかない」
 その脅しは実現可能なのだと、少年は男の印象から感じた。それでもなお他者に屈さない姿勢をつらぬく。
「オレを痛めつけたってムダだ。仲間たちはオレの指示なしでも実行する」
 男の手が少年の肩から離れた。あきらめたか、と少年は胸をなでおろす。少年が公園を発つ際に、引き止める声は聞こえなかった。
 少年は道路のわきを歩きはじめた。黙々と、さきほど起きたことを整理する。遭遇したのは見知らぬ男だ。やつの要求を飲むことで得する者はだれか。それは少年が復讐を考える出来事に関わった連中だ。そう考えるのが妥当だが、その連中にはさっきの男がふくまれない。声も体も、合致する者がいないのだ。しいていえば低い声は暴力教師と似てたが、彼はあそこまでいかめしい外見ではない。
 謎への仮説を立てられないまま、少年は街灯の下を歩く。いつもは帰りたくない家が、行き先の候補に挙がった。家に帰ればあの男も近寄ってこれないだろう。自分が家族から白い目で迎えられたとしても、もはや慣れたことだ。そんな帰宅念慮が芽生えた瞬間、路面に映る少年の影がゆがんだ。影が増大した──と思うと、首筋をつかまれる。恐怖を感じる間もなく、無理やりに押し倒された。
「お前の仲間三人とも、計画には消極的だ」
 その声は公園にいた男だ。こいつは少年の仲間の様子を見にいっていたらしい。この短時間で仲間の居所をつきとめるとは、ますます異様な男だ。
「三人に中止するように言え。それが皆の幸せになる」
 少年は抗えない圧力を全身に受け、承服の念がよぎった。
「……これが最後だ、私に従え」
 絶体絶命の窮地。そのさなかにいながら、少年は男の言いなりになるのをためらう。無言でいると男は「なにを迷うことがある」と言ってくる。
「その身を危険にさらしてまで、意地を通すべきことか?」
 まったくの正論だ。少年に恥をかかせた連中への仕返しと、少年の体が無事でいることのどちらが大事かはわかりきっている。だが正論を聞き入れる器量は、いまの少年にはない。高圧的な男への反意が燃え上がる。
「……絶対、やってやる……」
 反骨精神のおもむくままに、本意とは多少異なることを口走った。男の意思にそむく表明をした直後、なぜか拘束が解かれる。
「再三の忠告は無意味だったか」
 解放されるのか、という期待も無体に、無骨な手は少年の顔面を襲った。頭が割れそうなほどに握りしめられる。頭をつかまれた姿勢で宙へ持ち上げられた。少年の全体重が自身の頭部へ集中する。その荷重に耐えかねた少年は苦悶の声をあげた。
 少年はすこしでも頭部にかかる圧を下げようとして、自身の体を持ち上げる男の手首をにぎる。懸垂の要領で支点を増やし、体重を分散させたが、痛みはあまり変わらなかった。
 少年の頭部をつかむ手の隙間から、男の顔がのぞく。男は色の濃いサングラスで目元を隠している。少年はせめてもの反抗として、その憎き面構えを見てやることにした。片手で乱暴にサングラスをはぎ取る。存外簡単に外せた。それができたわけは、そんなくだらない抵抗をされるとは男が予想しなかったためだろう。
 街灯が男の顔を照らした。明らかにされた顔に、青い光が二つ浮かぶ。冷たい瞳だ。感情が灯っていないその目を見て、少年は別の人物を想起した。それは己をたやすく負かした教師だ。彼も目の色は青かった。その教師の目つきからも、無慈悲さを感じていた。
 少年は手にしたサングラスを捨て、男の腕を両手でつかむ。
「オレに、なにをする気だ……?」
、体に巣食う恐怖を抑えつけながら問う。前途の明るい回答を得られないとわかっていながら、されるがままでいることは自身の反抗心が許さなかった。
「我が同胞の糧となれ」
 意味不明な言葉が投げられた。と同時に、少年の視界が真っ暗になる。頭部に感じた痛覚はなくなり、体がふわついた。
 どれだけ時間が経ったのか、数分も経たなかったのかわからない。少年はいろんな感覚があやふやになった。
 少年はかたい床の感触を頬や腕から得た。自分が地面に倒れているとわかると、目を開ける。暗がりを照らす灯りが点々とあった。だが色や形は街灯とはちがう。灯りは火のように揺らいでいる。いまどき松明を照明に利用する場所があるのか、となにげなく考えた。
 灯りの下に、うごめく黒い物体を発見する。少年は黒いものがなんなのか気になった。視界を広げるために上体を起こす。両腕を支えにして座位に変えようとしたが、突然腕を引っ張られた。少年の腕をつかむその手は大きい。大柄な男性の手だ。
(さっきの男?)
 少年の予想は当たり、自分を襲った男が少年を捕まえている。いやな予感がするものの、男を遠ざけるには少年の力が足りなかった。
 男は少年を力任せに立たせる。
「皆、喧嘩をせずに分け合え」
 少年は黒い物体の群れの中へ投げられた。硬い床に体を打ちつけ、衝撃にむせかえる。痛みをこらえていると、黒いものたちは少年を取りかこんだ。それぞれが頭部らしき部分に二つの光を灯している。光の多くは赤い色だ。創作の世界ではよく敵意を示す目の色だが、果たして通例通りなのか。少年はそうでないことを祈った。
 不気味な生き物は少年の腕、足、腹など体の至るところに顔らしき部位を近づける。二つの光の下に縦長の楕円形に開いたへこみができ、その中へ少年の肉体の一部を入れた。
(まずい!)
 少年は身の危険を感じた。体をよじるが、無数の生き物は少年の逃亡を見逃してくれない。少年は仰向けの状態で手足を拘束された。自力での脱出がかなわないと判断すると、一縷の望みをかけて、少年以外の人間を捜す。男は冷然と少年を見つめている。
「悔いても遅い。お前には助かる機会を与えた」
 むげにしたのはお前自身──と男に突き放された。
 少年の視界一面に黒い物体が集まってくる。少年は恥も外聞もなく悲痛な声をあげた。次の瞬間、肉をちぎられる痛みが駆け巡る。苦痛は少年の意識が途絶えるまで、無間地獄のように繰り返された。

posted by 三利実巳 at 03:00 | Comment(0) | 長編拓馬 
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