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2018年06月16日
拓馬篇−6章◆
美弥とヤマダは銀髪の教師の部屋へ訪れた。美弥はもともと彼の部屋番号を知っており、部屋主の案内がなくとも訪問できた。ヤマダとの話し合いの場はここでも自室でもかまわないのだが、せっかくの機会なのでお邪魔させてもらう。
美弥がヤマダに自室への招待を渋った理由は他愛もないことだった。ただ彼女を困らせたかった。そのきっかけは以前、美弥は知人の喫茶店におとずれた時に、従業員に暑苦しい男子と出会ったことにある。その手引きをしたのがヤマダだという。当時、美弥はその男子の熱気に困らされた。その仕返しをしてやったつもりだ。彼女を追いかえす意思はなく、あれこれしゃべったあとで、気が変わったふうに装う予定だった。
そうとは知らないヤマダは玄関で靴をぬいだ矢先、きょろきょろする。
「先生?」
ヤマダは物音のする部屋へ入った。そこは台所だ。電子ポットの湯をわかす音が聞こえる。部屋主の男性も台所で作業していた。彼は生徒たちにふりかえる。
「オヤマダさん、皿やフォークは必要ですか?」
「うーん、小皿はあったらたすかる。マフィンを持ってきたんだよ」
ヤマダは紙袋から透明なプラスチックの容器を出した。長方形の容器に円形の焼き菓子がぎっしり詰まっている。
「ではおしぼりも用意しますね」
シドは戸棚に向かった。その背中にヤマダが話しかける。
「あ、うん……なんかわるいね、先生は関係ないのに」
「気に病む必要はありません。私が好きでやっていることです」
彼は戸棚から直径十センチほどの平皿と、四角くたたんだ布を二枚ずつ出した。ヤマダは容器を紙袋に一時もどす。
「マフィンは先生のぶんも残しておくね。あとで食べて」
「なんでしたら容器も残していってください。後日、洗ってお返しします」
シドは皿をかるくスポンジで洗い、水切り置き場に置いた。そこにはぬれたマグカップも底を天井に向けた状態で置いてある。カップが二つあることから、それらは美弥たちが使うために洗浄したものだと知れた。皿と同じく戸棚にあった綺麗な状態だろうに、やることが徹底している。
(潔癖症……なのかしら?)
美弥にはこの教師が神経質な男性には見えなかった。彼はよく平然と野良猫をなでる。雑菌だらけの生き物を、むしろ愛おしんでいる人だ。一連の綺麗好き加減とは相反するような気がした。
シドはおしぼりとは別の、台拭きを用意する。それをヤマダが「わたしが拭くね」と受け取り、居間へ入った。美弥もなにか雑用をこなそうと思い、どうすべきか部屋主にたずねる。
「私はなにをしたらいい?」
「そうですね、これでぬれた食器を乾拭きしてもらえますか」
シドは水切り場の上に垂れ下がるタオルを取る。それを美弥に渡した。美弥は手を洗っていないのだが、彼は気にしないらしい。
(潔癖じゃないわ、これは……)
彼が過剰に環境の清浄に努める動機は、ただそのように躾けられた結果のように美弥は感じた。
美弥が食器の口をつける部分を手で触れずに拭く最中、ヤマダが台所にもどってくる。シドは「話がおわったらそのまま帰っていいですからね」と言い、また外へ行った。彼は本気で他人に部屋を間借りさせた。その無防備さに、美弥があきれはてる。
(お金を盗られるとか……心配にならないの?)
正真正銘のお人好しか、と美弥は教師への疑念にかげりをいだいた。だからといって彼の探りを入れずにはいられない。うさんくささを美弥が嗅ぎとった、その事実はどうあっても覆らないのだ。
台所の調理台にはシドが用意したおしぼり二本と、インスタント飲料のスティック粉末を立てて入れたケースがある。ヤマダは飲料を指差して「どれ飲む?」と美弥に聞いてくる。美弥は適当にえらんだ。
カップはヤマダが運ぶと言うので、美弥はおしぼりと皿を先に居間へ運んだ。居間にはロフトベッドやロフトへ続く階段兼棚がある。どれも美弥の部屋にあるものと同じだ。ちがうのはベッド下の勉強机にある文具類や、棚に置いた調度品の種類くらい。美弥は机の棚に収納されたノート類に心が惹かれる。そこに部屋主の素性がわかるなにかがあるのではないかと期待した。
美弥が調査にかかるまえに、ひとまず両手に持つものを座卓におろす。座卓にはヤマダが持参した焼き菓子が容器に入ったまま置いてある。容器の蓋を開けてみると、どれも色やトッピングが異なるこだわりぶりだ。美弥のためにここまで手のこんだもてなしを用意している。
(なにを言い出すつもりなんだか……)
事前の知人の電話では『キリちゃんがあなたにお願いしたいことがあるんですって』と聞かされた。「キリちゃん」とはヤマダのこと。おそらく彼女の下の名前の一部だ。学内ではその名でよばれないため、美弥の馴染みはなかった。
(この際、なんで名字のあだ名でよばれてるのか聞いてみようかな)
などと普通の雑談も視野に入れはじめたころ、ヤマダが熱い飲み物の入ったカップを持ってくる。ようやく美弥たちは座談会をはじめた。
二人はおしぼりで手を拭いた。ヤマダが「これオススメだよ」と生地にチョコチップがまじる薄ピンク色の焼き菓子を皿にうつす。美弥はその皿を受け取りつつも「話ってなに?」と本題にせまった。ヤマダは手を止める。
「美弥ちゃんに知らせたいことがあるの。例の大男さんのことなんだけど」
美弥は思いのほか自分の興味のある話題だと知り、前傾姿勢になる。
「なにかわかったの?」
「あんまり進展はないんだ。期待させちゃってごめん」
美弥が少々食い気味で聞いたせいか、ヤマダは消沈する。だが彼女はまっすぐ美弥を見る。
「でも真相をつかむために、美弥ちゃんに協力してもらいたくて、おねがいしにきたの」
「なにをするの?」
「次の金曜日の夜、お姉さんをむかえに行くふりをしてほしい」
「なんのために?」
「大男さんをおびきよせるために」
「そんなことであの男の人がくる?」
「あの人が出てくるときって、美弥ちゃんにちょっかいをかける人がいたときだったよね。そういう仕掛け人はこっちで用意する。うまくいくかはわからないけど……これが最後の挑戦になると思う」
「この機会をのがしたら、もうできないの?」
「うん。たまたま強力な助っ人と予定が合ってて、たのめるのは今回かぎりになりそう」
真実を知りたければヤマダの要請を受けるべき──と美弥は安直に思う。それがまことに安直であるか、自問自答する。
(どうする? ほかにやり方なんて……いや、それよりもリスクは?)
現段階ではヤマダの計画に加わるか否かの判断ができない。美弥は詳細をたずねる。
「あなたは実際にどうやろうと思っているの?」
「ざっくり言うと……まず美弥ちゃんが駅にむかうでしょ。その道中でうちのオヤジにぐうぜん会って、その時にオヤジが美弥ちゃんに絡んでくると。それを大男さんが止めにくる、って感じ」
あらましを聞くかぎりは可も不可もない段取りだ。美弥は肝心な部分を質問する。
「そこで男の人がやってきたとしたら、どうやって話を聞き出すの?」
「それは捕まえられたあとにじっくり聞こうかなーって」
「どうやって捕まえるのよ?」
「えっと、うちのオヤジの友だちがその日にくるんだよ。その人がかなり強いから、タッちゃんたちとも協力して大男さんを倒してもらって、そのあとは知り合いの警察官の人に身柄を拘束してもらおうかと」
「あなたに警察官の知り合いがいるの?」
「うーん、正確にはタッちゃんの知り合いね。わたしは会ったことないし、話をするのもタッちゃんまかせ」
「タッちゃん」は根岸のあだ名だ。彼は普段から拓馬ともよばれているので、それは美弥にも聞き覚えがある。根岸の知人に警察官がいて、その人物とヤマダが連携しているようだが、両者に直接のやり取りはないらしい。
「変なの、根岸くんがいちいち間に入って連絡してるの?」
「うん、いつもそう」
「あの子、自分からはそんな計画に関わらないでしょうに」
「たしかに、わたしが直接話せたら手間がはぶけるんだろうけど……警察官の人がやりたがらないんだよね」
「どうして?」
「こっちはいちおう女子高生でしょ? むこうは男性。そういう関わり合いは聞こえがわるいんじゃないかなぁ。インターネットで知り合った男女が〜っていう事件はぼちぼち起きるしさ」
そんな変なことをする人じゃないけど、とヤマダは見知らぬ男性を弁護した。このご時世、自衛をするにこしたことはない。品行方正を求められる公務員ならさもありなん、と美弥はヤマダの見解を聞いて合点がいった。
美弥はインスタントのコーヒーを一口ふくむ。いろいろ事情を聞いてみたところ、ヤマダの誘いを断る理由はない。美弥にも大男に聞きたいことはある。
「なんであの男の人が私を気にかけてるのか……わかるかもしれないのね」
「いっしょにやってくれる?」
「ええ、これが最後だものね」
「よかった! じゃ、わたしも食べるねー」
本日の責務を果たせたヤマダがこげ茶色のマフィンを取る。
「これココアが入ってるんだよ。美弥ちゃんに渡したのは、いちご牛乳入りね。いちばん甘いの。コーヒーに合うと思うよ」
「ほかのカラフルなやつは?」
「野菜ジュースで色づけしてる。着色料を使ったほうが見た目はあざやかになるんだけどね、せっかくなら栄養のある食材を使いたくって」
その心がけは食事が偏りがちな一人暮らしの人間にはありがたいものだ。体への気遣いがこもる焼き菓子を、美弥は食べはじめた。味はホットケーキにいちごの風味がまざった感じがする。味は美弥の好みである。店でもマフィンを出せばいいのに、とひそかに思った。
美弥がひとつたいらげると、室内の調査への気持ちが再燃する。
(そっちも、いましかできないことなのよね……)
美弥はおしぼりで手の油を拭きとる。ヤマダが「もうおなかいっぱい?」と聞いてきたので、美弥は首を横にふる。
「ほかに気になることがあって」
「シド先生のこと?」
「ええ、なにか隠していそうでしょ」
美弥はベッド下の机に近づいた。背後から「やめとこうよ」と制止の声がかかる。かまわずに卓上の本棚に手をかけた。教科書や専門書には目もくれず、薄いノートを取る。職員会議のメモなどの仕事に関係する内容はハズレと見做して、もとにもどした。その作業を繰り返すうち、表紙に数字のみが書いてあるノートを見つける。これは私用のメモかもしれないと思い、美弥は開こうとした。ところがノートはそれ自体が板きれであるかのごとく、まったく開かない。ページの一枚一枚がぴっちりくっついているのだ。
「なにこれ……糊付けしてあるの?」
背表紙のほうからノートをつかみ、ふってみる。結果は変わらない。美弥の手中にあるものは、ノートの体裁をつくろった板だ。記録物として用を成さないそれを、机上に置く。
「表にあるものはぜんぶダメね。ま、私たちがくるまえに片付けたんでしょうけど……」
「まだ探すの?」
「そうよ。ひとつ、絶対に持ってるのに見つかってないものがあるんだから」
「先生が『絶対に持ってるもの』……手帳?」
「そう、授業のときにもよく持ってきてる」
生徒にも持ち歩く者がいるほど普遍的な文具だ。美弥の記憶によれば、シドの手帳は無難な黒色。美弥は黒い表紙を捜索対象とし、机の引き出しを開けた。すると一発で目当ての手帳を発見する。
(ふん! やることが甘いわ)
美弥はよろこびいさんで手帳を開きにかかった。手帳の裏表紙から表表紙までをつなぐ帯をつかむ。帯をぐっと引っ張るが、びくともしない。帯の先端にある留め具が異様に固いのだ。力任せにこじ開けようとするが、接着剤で固められたかのように、てこでもうごかない。
「なんなの、さっきから……あの教師がいつも使ってるやつじゃないの?」
美弥の盗み見が阻害され続けている。小さな悪事を止められること自体は拒むべきではないとはいえ、この局地的な妨害は理解しがたい。
「まさか馬鹿力な人にしか開けられないってわけじゃないでしょうね……」
「そんなに固いの?」
手帳がヤマダの手に渡る。彼女が帯に指をひっかけると、いとも簡単に外れてしまった。その際に力をこめた様子はない。
「え?」
「んん? ふつーに開くけど……」
ヤマダが手帳のページをぱらぱらめくる。
「なんで開いたのかな……あたたまると開くタイプ?」
「そんな使い勝手のわるい手帳があるものかしら」
「んー、よくわかんないね」
ヤマダは八月のカレンダーのページを開いて「なにも書いてないね」とつぶやく。
「海外に行く予定って、べつの手帳に書いてあるのかな……」
あれほど美弥に盗み見を引き止めていたヤマダだが、やはりシドに対する興味はあるのだ。そのことを美弥はつつく。
「なぁんだ、やっぱりあなたも気になるんじゃないの」
「先生が退職したあとのことは、ね。」
「いままでにやってきたことはいいの?」
「うん。そんなの、意味もなく他人がほじくりかえすことじゃないから」
ヤマダは手帳を引き出しにもどした。彼女が手帳を開くことができた理由はわからない。だが物は試しだ。美弥は板であったノートも彼女に持たせる。
「それも開けてみて」
「だーめ。勝手に見ちゃいけないよ」
ヤマダはノートを棚に押しこんだ。美弥が「手帳は見たくせに」と毒づくと、ヤマダは美弥とは反対ににこやかになる。
「こっちはたぶん、日記でしょう? わたしが他人に日記を読まれたらイヤだもん。予定表はまだ他人に見せても平気だけどさ」
「自分の基準で、やっていい線引きを決めてるの?」
「まあだいたい。でも許可がないことは基本的にぜんぶダメだからね。これでおしまいにしようよ」
融通のきかない子だ、と美弥は内心舌打ちする。だが嫌悪感はわかない。倫理的にはヤマダのほうが正解に近いうえ、その実直さは信頼のおける人物だという証拠でもある。
「あなたがいたんじゃ、家(や)探しできそうにないわ」
美弥がお手上げ宣言をすると、ヤマダはにやりと笑う。
「やるときはもっと行儀のなってない子をつれてこなきゃね」
「そんな子、いっしょにきてくれるわけない。普段から私とケンカしちゃいそうだもの」
美弥はシドの身辺調査を放棄した。座卓にもどり、ヤマダとの会話を再開する。
美弥はヤマダが依頼してきた計画に加わる者に関する質問をかさねた。計画の説明中に出てきたヤマダの父親のことや、あの強靭な大男を屈服しうるヤマダの知人。その二人について、ヤマダは素直に答えた。しかし、根岸を介して意志疎通を図る警察官の話になると急に話しにくそうになる。その人物と接触しているのは根岸ゆえに、彼女にまで情報がいかないのかもしれない。そう考えた美弥はほどほどに会話を切り上げた。
二人は帰り支度をする。使った食器とおしぼりを台所に運んだ。ヤマダが「やっぱ洗っておこうか」と言い、食器を洗いはじめる。その時に部屋主が帰宅した。彼は美弥たちに「ほうっておいていいんですよ」と声をかけるが、ヤマダは手を止めない。
「いーのいーの。いつもやってることだから、やらないとむずがゆくなるよ」
ヤマダが慣れた手つきで皿洗いを終える。
「んじゃ、これでわたしは帰るね。先生、親切にしてくれてありがとう!」
美弥には「またあしたねー」と別れのあいさつを交わし、ヤマダは手ぶらで去った。美弥もそれに続く。帰り際にシドにふりむく。
「あの子のマフィン、まだテーブルに残ってるから」
「はい。ありがたくいただきます」
バカ丁寧な返事だ。こころなしか彼がうれしそうなので、美弥は冗談半分の助言をする。
「もっとほしかったら、あの子に言ったら? 用意してくれると思うけど」
「そんな厚かましいことは言えませんよ」
「そう? 先生はあの子に貸しがたくさんあるんじゃないの」
ヤマダたちが起こす騒動に対し、この教師は一方的な損害を受けているという認識が美弥にはある。貧乏くじを引かされているはずのシドは笑って「そんなことはありません」と答える。
「私はオヤマダさんからたくさんもらっていますよ」
「なにを?」
「表現がむずかしいですね」
「『愛』とか言うんじゃないでしょうね?」
「それに近いと思います」
シドが恥ずかしげもなく肯定した。美弥は自身の発言を否定されると思っていたので、きょとんとしてしまう。
「え……本当に?」
「勘違いはしないでください。異性としての愛情ではないですから」
「ま、まあそうよね。教師なんだし……」
美弥はそそくさと退室した。すぐにそれまでの応対について顧みる。あの教師はどうにも調子が狂う相手だ。根本的に美弥と感性が合わないのかもしれないとさえ思う。
(……イヤなことはしてこないんだから、どうだっていいのよね)
シドが内包するあやしさは解消されないものの、そのせいで美弥に不利益が出る気配はない。美弥は彼への疑念をまたも胸中に封じたまま、自室へもどった。
美弥がヤマダに自室への招待を渋った理由は他愛もないことだった。ただ彼女を困らせたかった。そのきっかけは以前、美弥は知人の喫茶店におとずれた時に、従業員に暑苦しい男子と出会ったことにある。その手引きをしたのがヤマダだという。当時、美弥はその男子の熱気に困らされた。その仕返しをしてやったつもりだ。彼女を追いかえす意思はなく、あれこれしゃべったあとで、気が変わったふうに装う予定だった。
そうとは知らないヤマダは玄関で靴をぬいだ矢先、きょろきょろする。
「先生?」
ヤマダは物音のする部屋へ入った。そこは台所だ。電子ポットの湯をわかす音が聞こえる。部屋主の男性も台所で作業していた。彼は生徒たちにふりかえる。
「オヤマダさん、皿やフォークは必要ですか?」
「うーん、小皿はあったらたすかる。マフィンを持ってきたんだよ」
ヤマダは紙袋から透明なプラスチックの容器を出した。長方形の容器に円形の焼き菓子がぎっしり詰まっている。
「ではおしぼりも用意しますね」
シドは戸棚に向かった。その背中にヤマダが話しかける。
「あ、うん……なんかわるいね、先生は関係ないのに」
「気に病む必要はありません。私が好きでやっていることです」
彼は戸棚から直径十センチほどの平皿と、四角くたたんだ布を二枚ずつ出した。ヤマダは容器を紙袋に一時もどす。
「マフィンは先生のぶんも残しておくね。あとで食べて」
「なんでしたら容器も残していってください。後日、洗ってお返しします」
シドは皿をかるくスポンジで洗い、水切り置き場に置いた。そこにはぬれたマグカップも底を天井に向けた状態で置いてある。カップが二つあることから、それらは美弥たちが使うために洗浄したものだと知れた。皿と同じく戸棚にあった綺麗な状態だろうに、やることが徹底している。
(潔癖症……なのかしら?)
美弥にはこの教師が神経質な男性には見えなかった。彼はよく平然と野良猫をなでる。雑菌だらけの生き物を、むしろ愛おしんでいる人だ。一連の綺麗好き加減とは相反するような気がした。
シドはおしぼりとは別の、台拭きを用意する。それをヤマダが「わたしが拭くね」と受け取り、居間へ入った。美弥もなにか雑用をこなそうと思い、どうすべきか部屋主にたずねる。
「私はなにをしたらいい?」
「そうですね、これでぬれた食器を乾拭きしてもらえますか」
シドは水切り場の上に垂れ下がるタオルを取る。それを美弥に渡した。美弥は手を洗っていないのだが、彼は気にしないらしい。
(潔癖じゃないわ、これは……)
彼が過剰に環境の清浄に努める動機は、ただそのように躾けられた結果のように美弥は感じた。
美弥が食器の口をつける部分を手で触れずに拭く最中、ヤマダが台所にもどってくる。シドは「話がおわったらそのまま帰っていいですからね」と言い、また外へ行った。彼は本気で他人に部屋を間借りさせた。その無防備さに、美弥があきれはてる。
(お金を盗られるとか……心配にならないの?)
正真正銘のお人好しか、と美弥は教師への疑念にかげりをいだいた。だからといって彼の探りを入れずにはいられない。うさんくささを美弥が嗅ぎとった、その事実はどうあっても覆らないのだ。
台所の調理台にはシドが用意したおしぼり二本と、インスタント飲料のスティック粉末を立てて入れたケースがある。ヤマダは飲料を指差して「どれ飲む?」と美弥に聞いてくる。美弥は適当にえらんだ。
カップはヤマダが運ぶと言うので、美弥はおしぼりと皿を先に居間へ運んだ。居間にはロフトベッドやロフトへ続く階段兼棚がある。どれも美弥の部屋にあるものと同じだ。ちがうのはベッド下の勉強机にある文具類や、棚に置いた調度品の種類くらい。美弥は机の棚に収納されたノート類に心が惹かれる。そこに部屋主の素性がわかるなにかがあるのではないかと期待した。
美弥が調査にかかるまえに、ひとまず両手に持つものを座卓におろす。座卓にはヤマダが持参した焼き菓子が容器に入ったまま置いてある。容器の蓋を開けてみると、どれも色やトッピングが異なるこだわりぶりだ。美弥のためにここまで手のこんだもてなしを用意している。
(なにを言い出すつもりなんだか……)
事前の知人の電話では『キリちゃんがあなたにお願いしたいことがあるんですって』と聞かされた。「キリちゃん」とはヤマダのこと。おそらく彼女の下の名前の一部だ。学内ではその名でよばれないため、美弥の馴染みはなかった。
(この際、なんで名字のあだ名でよばれてるのか聞いてみようかな)
などと普通の雑談も視野に入れはじめたころ、ヤマダが熱い飲み物の入ったカップを持ってくる。ようやく美弥たちは座談会をはじめた。
二人はおしぼりで手を拭いた。ヤマダが「これオススメだよ」と生地にチョコチップがまじる薄ピンク色の焼き菓子を皿にうつす。美弥はその皿を受け取りつつも「話ってなに?」と本題にせまった。ヤマダは手を止める。
「美弥ちゃんに知らせたいことがあるの。例の大男さんのことなんだけど」
美弥は思いのほか自分の興味のある話題だと知り、前傾姿勢になる。
「なにかわかったの?」
「あんまり進展はないんだ。期待させちゃってごめん」
美弥が少々食い気味で聞いたせいか、ヤマダは消沈する。だが彼女はまっすぐ美弥を見る。
「でも真相をつかむために、美弥ちゃんに協力してもらいたくて、おねがいしにきたの」
「なにをするの?」
「次の金曜日の夜、お姉さんをむかえに行くふりをしてほしい」
「なんのために?」
「大男さんをおびきよせるために」
「そんなことであの男の人がくる?」
「あの人が出てくるときって、美弥ちゃんにちょっかいをかける人がいたときだったよね。そういう仕掛け人はこっちで用意する。うまくいくかはわからないけど……これが最後の挑戦になると思う」
「この機会をのがしたら、もうできないの?」
「うん。たまたま強力な助っ人と予定が合ってて、たのめるのは今回かぎりになりそう」
真実を知りたければヤマダの要請を受けるべき──と美弥は安直に思う。それがまことに安直であるか、自問自答する。
(どうする? ほかにやり方なんて……いや、それよりもリスクは?)
現段階ではヤマダの計画に加わるか否かの判断ができない。美弥は詳細をたずねる。
「あなたは実際にどうやろうと思っているの?」
「ざっくり言うと……まず美弥ちゃんが駅にむかうでしょ。その道中でうちのオヤジにぐうぜん会って、その時にオヤジが美弥ちゃんに絡んでくると。それを大男さんが止めにくる、って感じ」
あらましを聞くかぎりは可も不可もない段取りだ。美弥は肝心な部分を質問する。
「そこで男の人がやってきたとしたら、どうやって話を聞き出すの?」
「それは捕まえられたあとにじっくり聞こうかなーって」
「どうやって捕まえるのよ?」
「えっと、うちのオヤジの友だちがその日にくるんだよ。その人がかなり強いから、タッちゃんたちとも協力して大男さんを倒してもらって、そのあとは知り合いの警察官の人に身柄を拘束してもらおうかと」
「あなたに警察官の知り合いがいるの?」
「うーん、正確にはタッちゃんの知り合いね。わたしは会ったことないし、話をするのもタッちゃんまかせ」
「タッちゃん」は根岸のあだ名だ。彼は普段から拓馬ともよばれているので、それは美弥にも聞き覚えがある。根岸の知人に警察官がいて、その人物とヤマダが連携しているようだが、両者に直接のやり取りはないらしい。
「変なの、根岸くんがいちいち間に入って連絡してるの?」
「うん、いつもそう」
「あの子、自分からはそんな計画に関わらないでしょうに」
「たしかに、わたしが直接話せたら手間がはぶけるんだろうけど……警察官の人がやりたがらないんだよね」
「どうして?」
「こっちはいちおう女子高生でしょ? むこうは男性。そういう関わり合いは聞こえがわるいんじゃないかなぁ。インターネットで知り合った男女が〜っていう事件はぼちぼち起きるしさ」
そんな変なことをする人じゃないけど、とヤマダは見知らぬ男性を弁護した。このご時世、自衛をするにこしたことはない。品行方正を求められる公務員ならさもありなん、と美弥はヤマダの見解を聞いて合点がいった。
美弥はインスタントのコーヒーを一口ふくむ。いろいろ事情を聞いてみたところ、ヤマダの誘いを断る理由はない。美弥にも大男に聞きたいことはある。
「なんであの男の人が私を気にかけてるのか……わかるかもしれないのね」
「いっしょにやってくれる?」
「ええ、これが最後だものね」
「よかった! じゃ、わたしも食べるねー」
本日の責務を果たせたヤマダがこげ茶色のマフィンを取る。
「これココアが入ってるんだよ。美弥ちゃんに渡したのは、いちご牛乳入りね。いちばん甘いの。コーヒーに合うと思うよ」
「ほかのカラフルなやつは?」
「野菜ジュースで色づけしてる。着色料を使ったほうが見た目はあざやかになるんだけどね、せっかくなら栄養のある食材を使いたくって」
その心がけは食事が偏りがちな一人暮らしの人間にはありがたいものだ。体への気遣いがこもる焼き菓子を、美弥は食べはじめた。味はホットケーキにいちごの風味がまざった感じがする。味は美弥の好みである。店でもマフィンを出せばいいのに、とひそかに思った。
美弥がひとつたいらげると、室内の調査への気持ちが再燃する。
(そっちも、いましかできないことなのよね……)
美弥はおしぼりで手の油を拭きとる。ヤマダが「もうおなかいっぱい?」と聞いてきたので、美弥は首を横にふる。
「ほかに気になることがあって」
「シド先生のこと?」
「ええ、なにか隠していそうでしょ」
美弥はベッド下の机に近づいた。背後から「やめとこうよ」と制止の声がかかる。かまわずに卓上の本棚に手をかけた。教科書や専門書には目もくれず、薄いノートを取る。職員会議のメモなどの仕事に関係する内容はハズレと見做して、もとにもどした。その作業を繰り返すうち、表紙に数字のみが書いてあるノートを見つける。これは私用のメモかもしれないと思い、美弥は開こうとした。ところがノートはそれ自体が板きれであるかのごとく、まったく開かない。ページの一枚一枚がぴっちりくっついているのだ。
「なにこれ……糊付けしてあるの?」
背表紙のほうからノートをつかみ、ふってみる。結果は変わらない。美弥の手中にあるものは、ノートの体裁をつくろった板だ。記録物として用を成さないそれを、机上に置く。
「表にあるものはぜんぶダメね。ま、私たちがくるまえに片付けたんでしょうけど……」
「まだ探すの?」
「そうよ。ひとつ、絶対に持ってるのに見つかってないものがあるんだから」
「先生が『絶対に持ってるもの』……手帳?」
「そう、授業のときにもよく持ってきてる」
生徒にも持ち歩く者がいるほど普遍的な文具だ。美弥の記憶によれば、シドの手帳は無難な黒色。美弥は黒い表紙を捜索対象とし、机の引き出しを開けた。すると一発で目当ての手帳を発見する。
(ふん! やることが甘いわ)
美弥はよろこびいさんで手帳を開きにかかった。手帳の裏表紙から表表紙までをつなぐ帯をつかむ。帯をぐっと引っ張るが、びくともしない。帯の先端にある留め具が異様に固いのだ。力任せにこじ開けようとするが、接着剤で固められたかのように、てこでもうごかない。
「なんなの、さっきから……あの教師がいつも使ってるやつじゃないの?」
美弥の盗み見が阻害され続けている。小さな悪事を止められること自体は拒むべきではないとはいえ、この局地的な妨害は理解しがたい。
「まさか馬鹿力な人にしか開けられないってわけじゃないでしょうね……」
「そんなに固いの?」
手帳がヤマダの手に渡る。彼女が帯に指をひっかけると、いとも簡単に外れてしまった。その際に力をこめた様子はない。
「え?」
「んん? ふつーに開くけど……」
ヤマダが手帳のページをぱらぱらめくる。
「なんで開いたのかな……あたたまると開くタイプ?」
「そんな使い勝手のわるい手帳があるものかしら」
「んー、よくわかんないね」
ヤマダは八月のカレンダーのページを開いて「なにも書いてないね」とつぶやく。
「海外に行く予定って、べつの手帳に書いてあるのかな……」
あれほど美弥に盗み見を引き止めていたヤマダだが、やはりシドに対する興味はあるのだ。そのことを美弥はつつく。
「なぁんだ、やっぱりあなたも気になるんじゃないの」
「先生が退職したあとのことは、ね。」
「いままでにやってきたことはいいの?」
「うん。そんなの、意味もなく他人がほじくりかえすことじゃないから」
ヤマダは手帳を引き出しにもどした。彼女が手帳を開くことができた理由はわからない。だが物は試しだ。美弥は板であったノートも彼女に持たせる。
「それも開けてみて」
「だーめ。勝手に見ちゃいけないよ」
ヤマダはノートを棚に押しこんだ。美弥が「手帳は見たくせに」と毒づくと、ヤマダは美弥とは反対ににこやかになる。
「こっちはたぶん、日記でしょう? わたしが他人に日記を読まれたらイヤだもん。予定表はまだ他人に見せても平気だけどさ」
「自分の基準で、やっていい線引きを決めてるの?」
「まあだいたい。でも許可がないことは基本的にぜんぶダメだからね。これでおしまいにしようよ」
融通のきかない子だ、と美弥は内心舌打ちする。だが嫌悪感はわかない。倫理的にはヤマダのほうが正解に近いうえ、その実直さは信頼のおける人物だという証拠でもある。
「あなたがいたんじゃ、家(や)探しできそうにないわ」
美弥がお手上げ宣言をすると、ヤマダはにやりと笑う。
「やるときはもっと行儀のなってない子をつれてこなきゃね」
「そんな子、いっしょにきてくれるわけない。普段から私とケンカしちゃいそうだもの」
美弥はシドの身辺調査を放棄した。座卓にもどり、ヤマダとの会話を再開する。
美弥はヤマダが依頼してきた計画に加わる者に関する質問をかさねた。計画の説明中に出てきたヤマダの父親のことや、あの強靭な大男を屈服しうるヤマダの知人。その二人について、ヤマダは素直に答えた。しかし、根岸を介して意志疎通を図る警察官の話になると急に話しにくそうになる。その人物と接触しているのは根岸ゆえに、彼女にまで情報がいかないのかもしれない。そう考えた美弥はほどほどに会話を切り上げた。
二人は帰り支度をする。使った食器とおしぼりを台所に運んだ。ヤマダが「やっぱ洗っておこうか」と言い、食器を洗いはじめる。その時に部屋主が帰宅した。彼は美弥たちに「ほうっておいていいんですよ」と声をかけるが、ヤマダは手を止めない。
「いーのいーの。いつもやってることだから、やらないとむずがゆくなるよ」
ヤマダが慣れた手つきで皿洗いを終える。
「んじゃ、これでわたしは帰るね。先生、親切にしてくれてありがとう!」
美弥には「またあしたねー」と別れのあいさつを交わし、ヤマダは手ぶらで去った。美弥もそれに続く。帰り際にシドにふりむく。
「あの子のマフィン、まだテーブルに残ってるから」
「はい。ありがたくいただきます」
バカ丁寧な返事だ。こころなしか彼がうれしそうなので、美弥は冗談半分の助言をする。
「もっとほしかったら、あの子に言ったら? 用意してくれると思うけど」
「そんな厚かましいことは言えませんよ」
「そう? 先生はあの子に貸しがたくさんあるんじゃないの」
ヤマダたちが起こす騒動に対し、この教師は一方的な損害を受けているという認識が美弥にはある。貧乏くじを引かされているはずのシドは笑って「そんなことはありません」と答える。
「私はオヤマダさんからたくさんもらっていますよ」
「なにを?」
「表現がむずかしいですね」
「『愛』とか言うんじゃないでしょうね?」
「それに近いと思います」
シドが恥ずかしげもなく肯定した。美弥は自身の発言を否定されると思っていたので、きょとんとしてしまう。
「え……本当に?」
「勘違いはしないでください。異性としての愛情ではないですから」
「ま、まあそうよね。教師なんだし……」
美弥はそそくさと退室した。すぐにそれまでの応対について顧みる。あの教師はどうにも調子が狂う相手だ。根本的に美弥と感性が合わないのかもしれないとさえ思う。
(……イヤなことはしてこないんだから、どうだっていいのよね)
シドが内包するあやしさは解消されないものの、そのせいで美弥に不利益が出る気配はない。美弥は彼への疑念をまたも胸中に封じたまま、自室へもどった。
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2018年06月14日
拓馬篇−6章◇
日曜日の朝九時すぎ、ヤマダは学校関係者が居住するアパートへ訪れた。手には自家製の焼き菓子の入った紙袋がある。これは美弥への贈りもの。依頼の報酬兼訪問に対する詫びのつもりだ。手土産を理由に門前払いを回避できる保証はないが、無いよりは礼にかなっていると考えた結果だった。
来訪のきっかけは前日の喫茶店勤務の際に美弥が来店しなかったこと。五月の連休後からヤマダの勤務時には彼女を見かけなくなったので、この事態は多少なりとも覚悟していた。美弥の足が店から遠のいた原因は三郎の臨時勤務のせいではないかとヤマダは考えている。ヤマダが三郎を従業員としてよんだ手前、そのことも詫びたほうがよいのかとひそかに思い続けていた。その話題は今日ヘタに触れてしまうと今週の計画に支障が出そうなので、秘匿することに決めた。
肝心の美弥の部屋について、ヤマダは知らない。美弥とは知人同士な店長にたずねたが、かんばしい返答はなかった。だが連絡はとれるというので、その場で話をこぎつけてもらった。
店長と美弥の話し合いのすえ、九時半から十時の間に美弥が自身の部屋のまえで待ってくれることになった。しかし確実に果たされる取り決めではない。応対した店長によれば、美弥の反応はよいともわるいとも言えないらしく、約束をすっぽかす可能性があるという。その時はあきらめて、と店長にさとされた。ヤマダは素直に同意したが、内心ではまだ手はあると考えた。
(たまたま外出する先生たちに聞ければ……)
そちらはむしろヤマダが最初から考案していた手段だ。店長による連絡の主効果は、美弥に来客がくる心積もりをしてもらうことにある。
ただし、美弥が店長との約束を放棄してまでヤマダに会いたくないのであれぱ、居場所をつかんだとしても意義はない。まともな会話は不成立におわるだろう。それゆえ別の手助けが必要だとも思った。美弥と接点があり、なおかつ彼女に一定の信頼を寄せられている、そんな教師の手助けが。
ヤマダはアパートの敷地内へ入る。アパートの各部屋の玄関がならぶ光景が目についた。玄関がつらなる通路には金属製の柵が設置してある。柵越しの一階通路に、なにやらうごくものが見える。黒シャツを着た男性の背中だ。その姿は休日もスーツ姿で過ごすという教師に酷似している。彼の髪は特徴的な銀色。ヤマダは幸先がよいという手応えを感じる。この教師こそが、いちばんヤマダの助力となるアパート住民だ。
「シド先生?」
教師がふりかえる。彼は雑巾で玄関のドアを拭いていたらしい。手には水色のゴム手袋が装着してあった。いつものサングラスの下にはおどろいたような顔がある。
「オヤマダさんがここにくるのは、はじめてですね」
「うん、今日は美弥ちゃんに用事があるの。先生は美弥ちゃんの部屋がどこか、知ってる?」
シドの表情がやわらぐ。答えてくれるものかとヤマダは期待したが、彼は首を横に振る。
「知ってはいますが、私が勝手に教えてよいものか判断にこまりますね」
表情に反して、シドはヤマダの婉曲的な要求に応じなかった。それが正直な彼の答えだ。その誠実さこそが美弥にも信頼される一因だとヤマダは思っているので、わるい気はしない。
「いまは教えてくれなくていいの。美弥ちゃんにはわたしが会いにいくことを伝えてあるから。しばらくしたら部屋のまえに美弥ちゃんが出てくることになってるんだけど、約束の時間をすぎても美弥ちゃんにきてもらえなかったら、そのときに教えて」
「約束の時間……いつごろですか?」
「十時まで」
「貴女は予定よりずいぶん早くきたようですが、なんの用でスザカさんと会うのです?」
ヤマダは紙袋を掲げる。
「手作りのお菓子を食べながらおしゃべり」
その説明にウソはない。だが目的とする会話内容は不明瞭だ。ヤマダは説明不足を指摘されないよう先手を打つ。
「ほんとは先生もさそいたいんだけどね、ちょっと話の中身がねー」
「女の子だけの話、ですか?」
的確な援護がきた。ヤマダはさっそくその推測に乗っかる。
「そう! もし先生の心が女の子になれたら、いっしょにきていいよ」
ありえないことを口走るヤマダに、シドは温和な笑みを見せる。
「無理でしょうね。私は物心ついたころより男性の価値観を植えつけられてきましたから、いまさら変更がききそうにありません」
ごく自然な男性の自己形成だ。解説しなくともわかる理由を順序立てて説明するところが彼らしい。ヤマダは「それが普通だと思う」と笑顔で肯定した。
ガチャっという金属音が鳴った。音の出所は上階。おそらくはドアの開閉音だと思い、ヤマダが視線をあげる。二階通路に女性が立っている。ゆったりしたロングスカートを穿いた美弥だ。待ちあわせの開始時刻から二十分ばかし前倒しになるが、彼女は約束を守ってくれたのだとヤマダはよろこぶ。
「美弥ちゃん、おはよう!」
ヤマダが笑顔であいさつする。だが美弥は困ったような顔でだまっている。彼女はヤマダのために部屋から出てきたのではなさそうだ。
「……言ってた時間より早いじゃない」
「あ、うん。アパートにくるまでにかかる時間がわかんなくてさ。美弥ちゃんはほかに用事があって、出かけるの?」
「さっきから物音がしてたのを、確かめたくて」
「物音? 話し声……じゃなくて?」
「話し声? だれと?」
美弥の疑問に答えるかのように、シドが柵を跳び越えてくる。片手で柵の手すりにつかまり、両足を薙ぐさまはアクション映画のワンシーンに似ていた。その無駄によい運動神経は、角度的にヤマダだけが観賞できた。
シドは自然体でヤマダのとなりにならび、「私です」と言う。
「さきほどスザカさんのお部屋のドアも掃除していました。貴女はその音を気にされたのですね。不快でしたらもうやめますが」
「べつにイヤじゃない。清掃の人がしばらくこれないってお知らせがあったから、変だと思っただけ」
清掃業者の代わりにシドが掃除をこなしているらしい。そのことをヤマダが察すると「先生はボランティアできれいにして回ってるの?」とたずねる。
「てっきり自分の部屋だけきれいにしてるのかと……」
「せっかくですから皆さんの分も掃除しておこうと思いまして。それはそうと、お二人はどこでお話しをするのですか?」
「え、どこでって──」
ヤマダは美弥を見つめる。しかし彼女は気乗りしなさそうでいる。
「……私の部屋、ちらかってるから」
客を入れたくないという遠回しな拒絶だ。空気をよめない人なら「掃除してあげようか」などと言い出すかもしれないが、ヤマダは美弥相手にそんな無謀なまねをしたくなかった。
ヤマダがどう会話をつづけようか手をこまねいていると、シドが「私の部屋を貸しましょうか」と提案する。
「今朝掃除したばかりですから、お二人が快適にすごせるかと思います」
他人の部屋のドアをも清掃する掃除好きが言うのだから、彼の部屋は整理整頓が行きとどいているという説得力はあった。
「お二人の話がすむまで、私は外にいます。部屋にある食器や飲み物は好きに使っていいですし、それならスザカさんも問題ないのではありませんか?」
「それは、そうだけど……」
美弥が口ごもる。申し出を飲むには抵抗があるのだ。その感覚はヤマダも共感できる。
「どうして、あなたはそこまで他人に尽くせるの?」
一見見返りを求めていない行為とて、本質は見返りを期待している。そこには詐欺師的な悪行もあれば、自己満足や後ろめたさの解消などの内的事情もある。理由のない善意などないのだ。警戒心の強い美弥はシドの目的がなんなのかわからず、こわさを感じているのだろう。
「先生はいい人なんだと思うけれど、いきすぎてて不安になる」
「私は貴女たちが好きです。貴女たちが親しくしていると私はほほえましくなります。それでは理由になりませんか?」
ヤマダは彼の主張を動物に置き換えるといたく納得した。犬でも猫でも、自分が好きな動物同士が仲良くじゃれたりくっついていたりする様子を見ると癒される。それに近い気持ちなのだと解釈した。
「じゃあ掃除は? このアパートにすむ全員が好きだとでも言うの」
「掃除は私の趣味です」
「そんなに好きならそういう仕事に就けばいいじゃない」
刺のある言い方だった。今日の美弥は不機嫌なようだ。相対するシドの態度は平時と変わらない。
「何時間も毎日やりたいとは思いません。どうにも私は……人とかかわるのが好きなようです」
美弥は黙った。会話の間断をぬってヤマダがシドへ質問をする。
「生徒を部屋にあがらせちゃって、だいじょうぶ? 次やるテストを見られたり──」
シドは「平気です」と笑顔で断言する。
「貴女がそんなことをしないと、私は信じています」
うまい言い方だ。そんなふうに持ち上げられて、なお不道徳な行為をするやからはなにを言っても悪さをする。そういった悪童ではないヤマダたちへの牽制には効果的だ。
「ポットのお湯をわかしてきますね」
教師はふたたび柵を越える。直後に手袋をぬぎ、柵の手すりにかける。シドは清掃でよごれていない手でドアノブをうごかし、自室へもどった。
ヤマダは上階を見上げる。美弥は柵の手すりにつかまっていた。
「ねえ美弥ちゃん、シド先生の部屋でお話ししてもいい?」
「そうね、なんだかそういう流れになったし……」
美弥は気まずそうな表情で通路を進む。彼女の行く方向へ、ヤマダも歩いた。ヤマダは美弥がシドの提案に気後れしているのではないかと思い、声をかける。
「先生の部屋に行きづらいなら美弥ちゃんの──」
「いーえ、行ってやるわ」
美弥の言葉に闘争心めいた感情がこもっている。だれへの闘志なのか、ヤマダは特定できない。
「美弥ちゃん? なにか、意気込んでる?」
「部屋のどこかに、あの教師の本性がわかるものがあるかもしれないでしょ」
「本性って……シド先生を信用してないの?」
もしやさきほどの攻撃的な物言いはシドの人柄を試していたのか、とヤマダは推測した。
「ああいういい人が絶対いない、とは言わない。うちのお姉ちゃんがそうだもの。でもめったにいないでしょ」
「そうかなぁ……」
ヤマダの周囲にはクセが強いが善良な人が多い。美弥とは共通の知人にあたる店長とその夫も、そういったたぐいの人物だ。だからといって世の中、いい人ばかりいるわけでないとヤマダは認識しているつもりだ。美弥の言い分がわからないでもない。ただ、特別シドが偽善者だとは感じられなかった。どこかしら無理をしている、と違和感をおぼえるフシがあるものの、それは新人教師ゆえの不慣れのせいだと思った。
「あなたに言ってもしかたないでしょうね」
美弥が立ち止まった。ヤマダを見下ろすその顔に、物憂げな感情があらわれる。
「あなたは、めぐまれてるから」
ヤマダは美弥との隔たりを感じた。しかしショックは受けない。人それぞれちがっていて当たり前なのだ。そのちがいに対する敵意を向けていないだけ、美弥は友好的である。
美弥が階段を下りていく。彼女と合流するように、ヤマダもアパートの裏手へ進んだ。
来訪のきっかけは前日の喫茶店勤務の際に美弥が来店しなかったこと。五月の連休後からヤマダの勤務時には彼女を見かけなくなったので、この事態は多少なりとも覚悟していた。美弥の足が店から遠のいた原因は三郎の臨時勤務のせいではないかとヤマダは考えている。ヤマダが三郎を従業員としてよんだ手前、そのことも詫びたほうがよいのかとひそかに思い続けていた。その話題は今日ヘタに触れてしまうと今週の計画に支障が出そうなので、秘匿することに決めた。
肝心の美弥の部屋について、ヤマダは知らない。美弥とは知人同士な店長にたずねたが、かんばしい返答はなかった。だが連絡はとれるというので、その場で話をこぎつけてもらった。
店長と美弥の話し合いのすえ、九時半から十時の間に美弥が自身の部屋のまえで待ってくれることになった。しかし確実に果たされる取り決めではない。応対した店長によれば、美弥の反応はよいともわるいとも言えないらしく、約束をすっぽかす可能性があるという。その時はあきらめて、と店長にさとされた。ヤマダは素直に同意したが、内心ではまだ手はあると考えた。
(たまたま外出する先生たちに聞ければ……)
そちらはむしろヤマダが最初から考案していた手段だ。店長による連絡の主効果は、美弥に来客がくる心積もりをしてもらうことにある。
ただし、美弥が店長との約束を放棄してまでヤマダに会いたくないのであれぱ、居場所をつかんだとしても意義はない。まともな会話は不成立におわるだろう。それゆえ別の手助けが必要だとも思った。美弥と接点があり、なおかつ彼女に一定の信頼を寄せられている、そんな教師の手助けが。
ヤマダはアパートの敷地内へ入る。アパートの各部屋の玄関がならぶ光景が目についた。玄関がつらなる通路には金属製の柵が設置してある。柵越しの一階通路に、なにやらうごくものが見える。黒シャツを着た男性の背中だ。その姿は休日もスーツ姿で過ごすという教師に酷似している。彼の髪は特徴的な銀色。ヤマダは幸先がよいという手応えを感じる。この教師こそが、いちばんヤマダの助力となるアパート住民だ。
「シド先生?」
教師がふりかえる。彼は雑巾で玄関のドアを拭いていたらしい。手には水色のゴム手袋が装着してあった。いつものサングラスの下にはおどろいたような顔がある。
「オヤマダさんがここにくるのは、はじめてですね」
「うん、今日は美弥ちゃんに用事があるの。先生は美弥ちゃんの部屋がどこか、知ってる?」
シドの表情がやわらぐ。答えてくれるものかとヤマダは期待したが、彼は首を横に振る。
「知ってはいますが、私が勝手に教えてよいものか判断にこまりますね」
表情に反して、シドはヤマダの婉曲的な要求に応じなかった。それが正直な彼の答えだ。その誠実さこそが美弥にも信頼される一因だとヤマダは思っているので、わるい気はしない。
「いまは教えてくれなくていいの。美弥ちゃんにはわたしが会いにいくことを伝えてあるから。しばらくしたら部屋のまえに美弥ちゃんが出てくることになってるんだけど、約束の時間をすぎても美弥ちゃんにきてもらえなかったら、そのときに教えて」
「約束の時間……いつごろですか?」
「十時まで」
「貴女は予定よりずいぶん早くきたようですが、なんの用でスザカさんと会うのです?」
ヤマダは紙袋を掲げる。
「手作りのお菓子を食べながらおしゃべり」
その説明にウソはない。だが目的とする会話内容は不明瞭だ。ヤマダは説明不足を指摘されないよう先手を打つ。
「ほんとは先生もさそいたいんだけどね、ちょっと話の中身がねー」
「女の子だけの話、ですか?」
的確な援護がきた。ヤマダはさっそくその推測に乗っかる。
「そう! もし先生の心が女の子になれたら、いっしょにきていいよ」
ありえないことを口走るヤマダに、シドは温和な笑みを見せる。
「無理でしょうね。私は物心ついたころより男性の価値観を植えつけられてきましたから、いまさら変更がききそうにありません」
ごく自然な男性の自己形成だ。解説しなくともわかる理由を順序立てて説明するところが彼らしい。ヤマダは「それが普通だと思う」と笑顔で肯定した。
ガチャっという金属音が鳴った。音の出所は上階。おそらくはドアの開閉音だと思い、ヤマダが視線をあげる。二階通路に女性が立っている。ゆったりしたロングスカートを穿いた美弥だ。待ちあわせの開始時刻から二十分ばかし前倒しになるが、彼女は約束を守ってくれたのだとヤマダはよろこぶ。
「美弥ちゃん、おはよう!」
ヤマダが笑顔であいさつする。だが美弥は困ったような顔でだまっている。彼女はヤマダのために部屋から出てきたのではなさそうだ。
「……言ってた時間より早いじゃない」
「あ、うん。アパートにくるまでにかかる時間がわかんなくてさ。美弥ちゃんはほかに用事があって、出かけるの?」
「さっきから物音がしてたのを、確かめたくて」
「物音? 話し声……じゃなくて?」
「話し声? だれと?」
美弥の疑問に答えるかのように、シドが柵を跳び越えてくる。片手で柵の手すりにつかまり、両足を薙ぐさまはアクション映画のワンシーンに似ていた。その無駄によい運動神経は、角度的にヤマダだけが観賞できた。
シドは自然体でヤマダのとなりにならび、「私です」と言う。
「さきほどスザカさんのお部屋のドアも掃除していました。貴女はその音を気にされたのですね。不快でしたらもうやめますが」
「べつにイヤじゃない。清掃の人がしばらくこれないってお知らせがあったから、変だと思っただけ」
清掃業者の代わりにシドが掃除をこなしているらしい。そのことをヤマダが察すると「先生はボランティアできれいにして回ってるの?」とたずねる。
「てっきり自分の部屋だけきれいにしてるのかと……」
「せっかくですから皆さんの分も掃除しておこうと思いまして。それはそうと、お二人はどこでお話しをするのですか?」
「え、どこでって──」
ヤマダは美弥を見つめる。しかし彼女は気乗りしなさそうでいる。
「……私の部屋、ちらかってるから」
客を入れたくないという遠回しな拒絶だ。空気をよめない人なら「掃除してあげようか」などと言い出すかもしれないが、ヤマダは美弥相手にそんな無謀なまねをしたくなかった。
ヤマダがどう会話をつづけようか手をこまねいていると、シドが「私の部屋を貸しましょうか」と提案する。
「今朝掃除したばかりですから、お二人が快適にすごせるかと思います」
他人の部屋のドアをも清掃する掃除好きが言うのだから、彼の部屋は整理整頓が行きとどいているという説得力はあった。
「お二人の話がすむまで、私は外にいます。部屋にある食器や飲み物は好きに使っていいですし、それならスザカさんも問題ないのではありませんか?」
「それは、そうだけど……」
美弥が口ごもる。申し出を飲むには抵抗があるのだ。その感覚はヤマダも共感できる。
「どうして、あなたはそこまで他人に尽くせるの?」
一見見返りを求めていない行為とて、本質は見返りを期待している。そこには詐欺師的な悪行もあれば、自己満足や後ろめたさの解消などの内的事情もある。理由のない善意などないのだ。警戒心の強い美弥はシドの目的がなんなのかわからず、こわさを感じているのだろう。
「先生はいい人なんだと思うけれど、いきすぎてて不安になる」
「私は貴女たちが好きです。貴女たちが親しくしていると私はほほえましくなります。それでは理由になりませんか?」
ヤマダは彼の主張を動物に置き換えるといたく納得した。犬でも猫でも、自分が好きな動物同士が仲良くじゃれたりくっついていたりする様子を見ると癒される。それに近い気持ちなのだと解釈した。
「じゃあ掃除は? このアパートにすむ全員が好きだとでも言うの」
「掃除は私の趣味です」
「そんなに好きならそういう仕事に就けばいいじゃない」
刺のある言い方だった。今日の美弥は不機嫌なようだ。相対するシドの態度は平時と変わらない。
「何時間も毎日やりたいとは思いません。どうにも私は……人とかかわるのが好きなようです」
美弥は黙った。会話の間断をぬってヤマダがシドへ質問をする。
「生徒を部屋にあがらせちゃって、だいじょうぶ? 次やるテストを見られたり──」
シドは「平気です」と笑顔で断言する。
「貴女がそんなことをしないと、私は信じています」
うまい言い方だ。そんなふうに持ち上げられて、なお不道徳な行為をするやからはなにを言っても悪さをする。そういった悪童ではないヤマダたちへの牽制には効果的だ。
「ポットのお湯をわかしてきますね」
教師はふたたび柵を越える。直後に手袋をぬぎ、柵の手すりにかける。シドは清掃でよごれていない手でドアノブをうごかし、自室へもどった。
ヤマダは上階を見上げる。美弥は柵の手すりにつかまっていた。
「ねえ美弥ちゃん、シド先生の部屋でお話ししてもいい?」
「そうね、なんだかそういう流れになったし……」
美弥は気まずそうな表情で通路を進む。彼女の行く方向へ、ヤマダも歩いた。ヤマダは美弥がシドの提案に気後れしているのではないかと思い、声をかける。
「先生の部屋に行きづらいなら美弥ちゃんの──」
「いーえ、行ってやるわ」
美弥の言葉に闘争心めいた感情がこもっている。だれへの闘志なのか、ヤマダは特定できない。
「美弥ちゃん? なにか、意気込んでる?」
「部屋のどこかに、あの教師の本性がわかるものがあるかもしれないでしょ」
「本性って……シド先生を信用してないの?」
もしやさきほどの攻撃的な物言いはシドの人柄を試していたのか、とヤマダは推測した。
「ああいういい人が絶対いない、とは言わない。うちのお姉ちゃんがそうだもの。でもめったにいないでしょ」
「そうかなぁ……」
ヤマダの周囲にはクセが強いが善良な人が多い。美弥とは共通の知人にあたる店長とその夫も、そういったたぐいの人物だ。だからといって世の中、いい人ばかりいるわけでないとヤマダは認識しているつもりだ。美弥の言い分がわからないでもない。ただ、特別シドが偽善者だとは感じられなかった。どこかしら無理をしている、と違和感をおぼえるフシがあるものの、それは新人教師ゆえの不慣れのせいだと思った。
「あなたに言ってもしかたないでしょうね」
美弥が立ち止まった。ヤマダを見下ろすその顔に、物憂げな感情があらわれる。
「あなたは、めぐまれてるから」
ヤマダは美弥との隔たりを感じた。しかしショックは受けない。人それぞれちがっていて当たり前なのだ。そのちがいに対する敵意を向けていないだけ、美弥は友好的である。
美弥が階段を下りていく。彼女と合流するように、ヤマダもアパートの裏手へ進んだ。
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