2018年06月14日
拓馬篇−6章◇
日曜日の朝九時すぎ、ヤマダは学校関係者が居住するアパートへ訪れた。手には自家製の焼き菓子の入った紙袋がある。これは美弥への贈りもの。依頼の報酬兼訪問に対する詫びのつもりだ。手土産を理由に門前払いを回避できる保証はないが、無いよりは礼にかなっていると考えた結果だった。
来訪のきっかけは前日の喫茶店勤務の際に美弥が来店しなかったこと。五月の連休後からヤマダの勤務時には彼女を見かけなくなったので、この事態は多少なりとも覚悟していた。美弥の足が店から遠のいた原因は三郎の臨時勤務のせいではないかとヤマダは考えている。ヤマダが三郎を従業員としてよんだ手前、そのことも詫びたほうがよいのかとひそかに思い続けていた。その話題は今日ヘタに触れてしまうと今週の計画に支障が出そうなので、秘匿することに決めた。
肝心の美弥の部屋について、ヤマダは知らない。美弥とは知人同士な店長にたずねたが、かんばしい返答はなかった。だが連絡はとれるというので、その場で話をこぎつけてもらった。
店長と美弥の話し合いのすえ、九時半から十時の間に美弥が自身の部屋のまえで待ってくれることになった。しかし確実に果たされる取り決めではない。応対した店長によれば、美弥の反応はよいともわるいとも言えないらしく、約束をすっぽかす可能性があるという。その時はあきらめて、と店長にさとされた。ヤマダは素直に同意したが、内心ではまだ手はあると考えた。
(たまたま外出する先生たちに聞ければ……)
そちらはむしろヤマダが最初から考案していた手段だ。店長による連絡の主効果は、美弥に来客がくる心積もりをしてもらうことにある。
ただし、美弥が店長との約束を放棄してまでヤマダに会いたくないのであれぱ、居場所をつかんだとしても意義はない。まともな会話は不成立におわるだろう。それゆえ別の手助けが必要だとも思った。美弥と接点があり、なおかつ彼女に一定の信頼を寄せられている、そんな教師の手助けが。
ヤマダはアパートの敷地内へ入る。アパートの各部屋の玄関がならぶ光景が目についた。玄関がつらなる通路には金属製の柵が設置してある。柵越しの一階通路に、なにやらうごくものが見える。黒シャツを着た男性の背中だ。その姿は休日もスーツ姿で過ごすという教師に酷似している。彼の髪は特徴的な銀色。ヤマダは幸先がよいという手応えを感じる。この教師こそが、いちばんヤマダの助力となるアパート住民だ。
「シド先生?」
教師がふりかえる。彼は雑巾で玄関のドアを拭いていたらしい。手には水色のゴム手袋が装着してあった。いつものサングラスの下にはおどろいたような顔がある。
「オヤマダさんがここにくるのは、はじめてですね」
「うん、今日は美弥ちゃんに用事があるの。先生は美弥ちゃんの部屋がどこか、知ってる?」
シドの表情がやわらぐ。答えてくれるものかとヤマダは期待したが、彼は首を横に振る。
「知ってはいますが、私が勝手に教えてよいものか判断にこまりますね」
表情に反して、シドはヤマダの婉曲的な要求に応じなかった。それが正直な彼の答えだ。その誠実さこそが美弥にも信頼される一因だとヤマダは思っているので、わるい気はしない。
「いまは教えてくれなくていいの。美弥ちゃんにはわたしが会いにいくことを伝えてあるから。しばらくしたら部屋のまえに美弥ちゃんが出てくることになってるんだけど、約束の時間をすぎても美弥ちゃんにきてもらえなかったら、そのときに教えて」
「約束の時間……いつごろですか?」
「十時まで」
「貴女は予定よりずいぶん早くきたようですが、なんの用でスザカさんと会うのです?」
ヤマダは紙袋を掲げる。
「手作りのお菓子を食べながらおしゃべり」
その説明にウソはない。だが目的とする会話内容は不明瞭だ。ヤマダは説明不足を指摘されないよう先手を打つ。
「ほんとは先生もさそいたいんだけどね、ちょっと話の中身がねー」
「女の子だけの話、ですか?」
的確な援護がきた。ヤマダはさっそくその推測に乗っかる。
「そう! もし先生の心が女の子になれたら、いっしょにきていいよ」
ありえないことを口走るヤマダに、シドは温和な笑みを見せる。
「無理でしょうね。私は物心ついたころより男性の価値観を植えつけられてきましたから、いまさら変更がききそうにありません」
ごく自然な男性の自己形成だ。解説しなくともわかる理由を順序立てて説明するところが彼らしい。ヤマダは「それが普通だと思う」と笑顔で肯定した。
ガチャっという金属音が鳴った。音の出所は上階。おそらくはドアの開閉音だと思い、ヤマダが視線をあげる。二階通路に女性が立っている。ゆったりしたロングスカートを穿いた美弥だ。待ちあわせの開始時刻から二十分ばかし前倒しになるが、彼女は約束を守ってくれたのだとヤマダはよろこぶ。
「美弥ちゃん、おはよう!」
ヤマダが笑顔であいさつする。だが美弥は困ったような顔でだまっている。彼女はヤマダのために部屋から出てきたのではなさそうだ。
「……言ってた時間より早いじゃない」
「あ、うん。アパートにくるまでにかかる時間がわかんなくてさ。美弥ちゃんはほかに用事があって、出かけるの?」
「さっきから物音がしてたのを、確かめたくて」
「物音? 話し声……じゃなくて?」
「話し声? だれと?」
美弥の疑問に答えるかのように、シドが柵を跳び越えてくる。片手で柵の手すりにつかまり、両足を薙ぐさまはアクション映画のワンシーンに似ていた。その無駄によい運動神経は、角度的にヤマダだけが観賞できた。
シドは自然体でヤマダのとなりにならび、「私です」と言う。
「さきほどスザカさんのお部屋のドアも掃除していました。貴女はその音を気にされたのですね。不快でしたらもうやめますが」
「べつにイヤじゃない。清掃の人がしばらくこれないってお知らせがあったから、変だと思っただけ」
清掃業者の代わりにシドが掃除をこなしているらしい。そのことをヤマダが察すると「先生はボランティアできれいにして回ってるの?」とたずねる。
「てっきり自分の部屋だけきれいにしてるのかと……」
「せっかくですから皆さんの分も掃除しておこうと思いまして。それはそうと、お二人はどこでお話しをするのですか?」
「え、どこでって──」
ヤマダは美弥を見つめる。しかし彼女は気乗りしなさそうでいる。
「……私の部屋、ちらかってるから」
客を入れたくないという遠回しな拒絶だ。空気をよめない人なら「掃除してあげようか」などと言い出すかもしれないが、ヤマダは美弥相手にそんな無謀なまねをしたくなかった。
ヤマダがどう会話をつづけようか手をこまねいていると、シドが「私の部屋を貸しましょうか」と提案する。
「今朝掃除したばかりですから、お二人が快適にすごせるかと思います」
他人の部屋のドアをも清掃する掃除好きが言うのだから、彼の部屋は整理整頓が行きとどいているという説得力はあった。
「お二人の話がすむまで、私は外にいます。部屋にある食器や飲み物は好きに使っていいですし、それならスザカさんも問題ないのではありませんか?」
「それは、そうだけど……」
美弥が口ごもる。申し出を飲むには抵抗があるのだ。その感覚はヤマダも共感できる。
「どうして、あなたはそこまで他人に尽くせるの?」
一見見返りを求めていない行為とて、本質は見返りを期待している。そこには詐欺師的な悪行もあれば、自己満足や後ろめたさの解消などの内的事情もある。理由のない善意などないのだ。警戒心の強い美弥はシドの目的がなんなのかわからず、こわさを感じているのだろう。
「先生はいい人なんだと思うけれど、いきすぎてて不安になる」
「私は貴女たちが好きです。貴女たちが親しくしていると私はほほえましくなります。それでは理由になりませんか?」
ヤマダは彼の主張を動物に置き換えるといたく納得した。犬でも猫でも、自分が好きな動物同士が仲良くじゃれたりくっついていたりする様子を見ると癒される。それに近い気持ちなのだと解釈した。
「じゃあ掃除は? このアパートにすむ全員が好きだとでも言うの」
「掃除は私の趣味です」
「そんなに好きならそういう仕事に就けばいいじゃない」
刺のある言い方だった。今日の美弥は不機嫌なようだ。相対するシドの態度は平時と変わらない。
「何時間も毎日やりたいとは思いません。どうにも私は……人とかかわるのが好きなようです」
美弥は黙った。会話の間断をぬってヤマダがシドへ質問をする。
「生徒を部屋にあがらせちゃって、だいじょうぶ? 次やるテストを見られたり──」
シドは「平気です」と笑顔で断言する。
「貴女がそんなことをしないと、私は信じています」
うまい言い方だ。そんなふうに持ち上げられて、なお不道徳な行為をするやからはなにを言っても悪さをする。そういった悪童ではないヤマダたちへの牽制には効果的だ。
「ポットのお湯をわかしてきますね」
教師はふたたび柵を越える。直後に手袋をぬぎ、柵の手すりにかける。シドは清掃でよごれていない手でドアノブをうごかし、自室へもどった。
ヤマダは上階を見上げる。美弥は柵の手すりにつかまっていた。
「ねえ美弥ちゃん、シド先生の部屋でお話ししてもいい?」
「そうね、なんだかそういう流れになったし……」
美弥は気まずそうな表情で通路を進む。彼女の行く方向へ、ヤマダも歩いた。ヤマダは美弥がシドの提案に気後れしているのではないかと思い、声をかける。
「先生の部屋に行きづらいなら美弥ちゃんの──」
「いーえ、行ってやるわ」
美弥の言葉に闘争心めいた感情がこもっている。だれへの闘志なのか、ヤマダは特定できない。
「美弥ちゃん? なにか、意気込んでる?」
「部屋のどこかに、あの教師の本性がわかるものがあるかもしれないでしょ」
「本性って……シド先生を信用してないの?」
もしやさきほどの攻撃的な物言いはシドの人柄を試していたのか、とヤマダは推測した。
「ああいういい人が絶対いない、とは言わない。うちのお姉ちゃんがそうだもの。でもめったにいないでしょ」
「そうかなぁ……」
ヤマダの周囲にはクセが強いが善良な人が多い。美弥とは共通の知人にあたる店長とその夫も、そういったたぐいの人物だ。だからといって世の中、いい人ばかりいるわけでないとヤマダは認識しているつもりだ。美弥の言い分がわからないでもない。ただ、特別シドが偽善者だとは感じられなかった。どこかしら無理をしている、と違和感をおぼえるフシがあるものの、それは新人教師ゆえの不慣れのせいだと思った。
「あなたに言ってもしかたないでしょうね」
美弥が立ち止まった。ヤマダを見下ろすその顔に、物憂げな感情があらわれる。
「あなたは、めぐまれてるから」
ヤマダは美弥との隔たりを感じた。しかしショックは受けない。人それぞれちがっていて当たり前なのだ。そのちがいに対する敵意を向けていないだけ、美弥は友好的である。
美弥が階段を下りていく。彼女と合流するように、ヤマダもアパートの裏手へ進んだ。
来訪のきっかけは前日の喫茶店勤務の際に美弥が来店しなかったこと。五月の連休後からヤマダの勤務時には彼女を見かけなくなったので、この事態は多少なりとも覚悟していた。美弥の足が店から遠のいた原因は三郎の臨時勤務のせいではないかとヤマダは考えている。ヤマダが三郎を従業員としてよんだ手前、そのことも詫びたほうがよいのかとひそかに思い続けていた。その話題は今日ヘタに触れてしまうと今週の計画に支障が出そうなので、秘匿することに決めた。
肝心の美弥の部屋について、ヤマダは知らない。美弥とは知人同士な店長にたずねたが、かんばしい返答はなかった。だが連絡はとれるというので、その場で話をこぎつけてもらった。
店長と美弥の話し合いのすえ、九時半から十時の間に美弥が自身の部屋のまえで待ってくれることになった。しかし確実に果たされる取り決めではない。応対した店長によれば、美弥の反応はよいともわるいとも言えないらしく、約束をすっぽかす可能性があるという。その時はあきらめて、と店長にさとされた。ヤマダは素直に同意したが、内心ではまだ手はあると考えた。
(たまたま外出する先生たちに聞ければ……)
そちらはむしろヤマダが最初から考案していた手段だ。店長による連絡の主効果は、美弥に来客がくる心積もりをしてもらうことにある。
ただし、美弥が店長との約束を放棄してまでヤマダに会いたくないのであれぱ、居場所をつかんだとしても意義はない。まともな会話は不成立におわるだろう。それゆえ別の手助けが必要だとも思った。美弥と接点があり、なおかつ彼女に一定の信頼を寄せられている、そんな教師の手助けが。
ヤマダはアパートの敷地内へ入る。アパートの各部屋の玄関がならぶ光景が目についた。玄関がつらなる通路には金属製の柵が設置してある。柵越しの一階通路に、なにやらうごくものが見える。黒シャツを着た男性の背中だ。その姿は休日もスーツ姿で過ごすという教師に酷似している。彼の髪は特徴的な銀色。ヤマダは幸先がよいという手応えを感じる。この教師こそが、いちばんヤマダの助力となるアパート住民だ。
「シド先生?」
教師がふりかえる。彼は雑巾で玄関のドアを拭いていたらしい。手には水色のゴム手袋が装着してあった。いつものサングラスの下にはおどろいたような顔がある。
「オヤマダさんがここにくるのは、はじめてですね」
「うん、今日は美弥ちゃんに用事があるの。先生は美弥ちゃんの部屋がどこか、知ってる?」
シドの表情がやわらぐ。答えてくれるものかとヤマダは期待したが、彼は首を横に振る。
「知ってはいますが、私が勝手に教えてよいものか判断にこまりますね」
表情に反して、シドはヤマダの婉曲的な要求に応じなかった。それが正直な彼の答えだ。その誠実さこそが美弥にも信頼される一因だとヤマダは思っているので、わるい気はしない。
「いまは教えてくれなくていいの。美弥ちゃんにはわたしが会いにいくことを伝えてあるから。しばらくしたら部屋のまえに美弥ちゃんが出てくることになってるんだけど、約束の時間をすぎても美弥ちゃんにきてもらえなかったら、そのときに教えて」
「約束の時間……いつごろですか?」
「十時まで」
「貴女は予定よりずいぶん早くきたようですが、なんの用でスザカさんと会うのです?」
ヤマダは紙袋を掲げる。
「手作りのお菓子を食べながらおしゃべり」
その説明にウソはない。だが目的とする会話内容は不明瞭だ。ヤマダは説明不足を指摘されないよう先手を打つ。
「ほんとは先生もさそいたいんだけどね、ちょっと話の中身がねー」
「女の子だけの話、ですか?」
的確な援護がきた。ヤマダはさっそくその推測に乗っかる。
「そう! もし先生の心が女の子になれたら、いっしょにきていいよ」
ありえないことを口走るヤマダに、シドは温和な笑みを見せる。
「無理でしょうね。私は物心ついたころより男性の価値観を植えつけられてきましたから、いまさら変更がききそうにありません」
ごく自然な男性の自己形成だ。解説しなくともわかる理由を順序立てて説明するところが彼らしい。ヤマダは「それが普通だと思う」と笑顔で肯定した。
ガチャっという金属音が鳴った。音の出所は上階。おそらくはドアの開閉音だと思い、ヤマダが視線をあげる。二階通路に女性が立っている。ゆったりしたロングスカートを穿いた美弥だ。待ちあわせの開始時刻から二十分ばかし前倒しになるが、彼女は約束を守ってくれたのだとヤマダはよろこぶ。
「美弥ちゃん、おはよう!」
ヤマダが笑顔であいさつする。だが美弥は困ったような顔でだまっている。彼女はヤマダのために部屋から出てきたのではなさそうだ。
「……言ってた時間より早いじゃない」
「あ、うん。アパートにくるまでにかかる時間がわかんなくてさ。美弥ちゃんはほかに用事があって、出かけるの?」
「さっきから物音がしてたのを、確かめたくて」
「物音? 話し声……じゃなくて?」
「話し声? だれと?」
美弥の疑問に答えるかのように、シドが柵を跳び越えてくる。片手で柵の手すりにつかまり、両足を薙ぐさまはアクション映画のワンシーンに似ていた。その無駄によい運動神経は、角度的にヤマダだけが観賞できた。
シドは自然体でヤマダのとなりにならび、「私です」と言う。
「さきほどスザカさんのお部屋のドアも掃除していました。貴女はその音を気にされたのですね。不快でしたらもうやめますが」
「べつにイヤじゃない。清掃の人がしばらくこれないってお知らせがあったから、変だと思っただけ」
清掃業者の代わりにシドが掃除をこなしているらしい。そのことをヤマダが察すると「先生はボランティアできれいにして回ってるの?」とたずねる。
「てっきり自分の部屋だけきれいにしてるのかと……」
「せっかくですから皆さんの分も掃除しておこうと思いまして。それはそうと、お二人はどこでお話しをするのですか?」
「え、どこでって──」
ヤマダは美弥を見つめる。しかし彼女は気乗りしなさそうでいる。
「……私の部屋、ちらかってるから」
客を入れたくないという遠回しな拒絶だ。空気をよめない人なら「掃除してあげようか」などと言い出すかもしれないが、ヤマダは美弥相手にそんな無謀なまねをしたくなかった。
ヤマダがどう会話をつづけようか手をこまねいていると、シドが「私の部屋を貸しましょうか」と提案する。
「今朝掃除したばかりですから、お二人が快適にすごせるかと思います」
他人の部屋のドアをも清掃する掃除好きが言うのだから、彼の部屋は整理整頓が行きとどいているという説得力はあった。
「お二人の話がすむまで、私は外にいます。部屋にある食器や飲み物は好きに使っていいですし、それならスザカさんも問題ないのではありませんか?」
「それは、そうだけど……」
美弥が口ごもる。申し出を飲むには抵抗があるのだ。その感覚はヤマダも共感できる。
「どうして、あなたはそこまで他人に尽くせるの?」
一見見返りを求めていない行為とて、本質は見返りを期待している。そこには詐欺師的な悪行もあれば、自己満足や後ろめたさの解消などの内的事情もある。理由のない善意などないのだ。警戒心の強い美弥はシドの目的がなんなのかわからず、こわさを感じているのだろう。
「先生はいい人なんだと思うけれど、いきすぎてて不安になる」
「私は貴女たちが好きです。貴女たちが親しくしていると私はほほえましくなります。それでは理由になりませんか?」
ヤマダは彼の主張を動物に置き換えるといたく納得した。犬でも猫でも、自分が好きな動物同士が仲良くじゃれたりくっついていたりする様子を見ると癒される。それに近い気持ちなのだと解釈した。
「じゃあ掃除は? このアパートにすむ全員が好きだとでも言うの」
「掃除は私の趣味です」
「そんなに好きならそういう仕事に就けばいいじゃない」
刺のある言い方だった。今日の美弥は不機嫌なようだ。相対するシドの態度は平時と変わらない。
「何時間も毎日やりたいとは思いません。どうにも私は……人とかかわるのが好きなようです」
美弥は黙った。会話の間断をぬってヤマダがシドへ質問をする。
「生徒を部屋にあがらせちゃって、だいじょうぶ? 次やるテストを見られたり──」
シドは「平気です」と笑顔で断言する。
「貴女がそんなことをしないと、私は信じています」
うまい言い方だ。そんなふうに持ち上げられて、なお不道徳な行為をするやからはなにを言っても悪さをする。そういった悪童ではないヤマダたちへの牽制には効果的だ。
「ポットのお湯をわかしてきますね」
教師はふたたび柵を越える。直後に手袋をぬぎ、柵の手すりにかける。シドは清掃でよごれていない手でドアノブをうごかし、自室へもどった。
ヤマダは上階を見上げる。美弥は柵の手すりにつかまっていた。
「ねえ美弥ちゃん、シド先生の部屋でお話ししてもいい?」
「そうね、なんだかそういう流れになったし……」
美弥は気まずそうな表情で通路を進む。彼女の行く方向へ、ヤマダも歩いた。ヤマダは美弥がシドの提案に気後れしているのではないかと思い、声をかける。
「先生の部屋に行きづらいなら美弥ちゃんの──」
「いーえ、行ってやるわ」
美弥の言葉に闘争心めいた感情がこもっている。だれへの闘志なのか、ヤマダは特定できない。
「美弥ちゃん? なにか、意気込んでる?」
「部屋のどこかに、あの教師の本性がわかるものがあるかもしれないでしょ」
「本性って……シド先生を信用してないの?」
もしやさきほどの攻撃的な物言いはシドの人柄を試していたのか、とヤマダは推測した。
「ああいういい人が絶対いない、とは言わない。うちのお姉ちゃんがそうだもの。でもめったにいないでしょ」
「そうかなぁ……」
ヤマダの周囲にはクセが強いが善良な人が多い。美弥とは共通の知人にあたる店長とその夫も、そういったたぐいの人物だ。だからといって世の中、いい人ばかりいるわけでないとヤマダは認識しているつもりだ。美弥の言い分がわからないでもない。ただ、特別シドが偽善者だとは感じられなかった。どこかしら無理をしている、と違和感をおぼえるフシがあるものの、それは新人教師ゆえの不慣れのせいだと思った。
「あなたに言ってもしかたないでしょうね」
美弥が立ち止まった。ヤマダを見下ろすその顔に、物憂げな感情があらわれる。
「あなたは、めぐまれてるから」
ヤマダは美弥との隔たりを感じた。しかしショックは受けない。人それぞれちがっていて当たり前なのだ。そのちがいに対する敵意を向けていないだけ、美弥は友好的である。
美弥が階段を下りていく。彼女と合流するように、ヤマダもアパートの裏手へ進んだ。
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