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2018年08月01日
拓馬篇−10章1 ★
拓馬とヤマダは無口な仲間を連れて、蜘蛛がねぐらとする校舎にもどった。二階へ続く階段は依然として極太の白い糸で装飾されている。これが大蜘蛛の縄張りだ。その範囲は二つの校舎をつなぐ連絡通路にはおよんでいない。
拓馬たちが階段をのぼりきる直前、ヤマダが仲間に引き入れた武者の霊が前方へ行く。彼は下向きに矢を弓につがえていた。臨戦態勢のようだ。
(見えてなくても、わかるのか)
武者はすでに異形の気配を捕捉している。その証に、武者は二階廊下へ出るとすぐさま矢を放った。奇怪な音が響く。蜘蛛のうなり声だろうか。音が止むのを待たずに武者は二本目の矢を撃った。武者は自発的に健闘する。その様子に拓馬の胸がおどる。
「本当にやっつけてくれそうだな」
拓馬がヤマダに同意を求めたところ、彼女は両手をひざにつき、つらそうに立っている。
「どうした? 調子がわるいのか」
「いきなり、体が重くなってきて……」
「やせ我慢してたんじゃないか?」
ヤマダは拓馬の足を引っ張るまいと、無理をしていたのかもしれない。なにせ彼女は少女の異形に活力をうばわれていた。その回復が未完全なのだと拓馬は推しはかった。
「ううん、急に、だよ」
「そうか? とりあえず、ここの蜘蛛を退散させたら休むか」
蜘蛛退治をすぐに放棄してもよいのだが、武者を止める方法がわからなかった。そのため拓馬は物陰から人外の闘争を見守った。
当初は武者の優勢に見えた。だが蜘蛛がねばり、糸を武者の体にまきつけて、弓攻撃を妨害する。身動きの取れにくくなった武者は跳び、窓へぶつかる──と思いきや窓をすり抜けた。糸でつながっていた蜘蛛もつられて外へ行く。二体の人外は落下せず、すっと掻き消えていった。
(いなくなった?)
拓馬はあわてて窓に駆け寄る。地面にも宙にも、彼らの姿はない。ひょっとしたらこの窓なら外に出られるのだろうか。そんな淡い期待から窓を開ける。外へ手を出そうとするも、見えない壁に押し返された。
(窓の外は行けないのか?)
一階は中庭に出られるため、おそらく一階の窓ならこんな妨害はされない。二階以上の高さになると、出入りが禁じられるようだ。
(なんであいつらだけ……?)
人外たちのみが忽然と消えたことに拓馬は釈然としなかった。だが目下の目的は狐の捜索である。狐捜しをはばむ障害がなくなったいま、やるべきことはひとつだ。
「とにかく、順番に教室を──」
見ていく、と拓馬が言いかけた。振り返るとヤマダの姿がない。視線を下へずらしてみると、彼女は階段上で突っ伏していた。段の角が彼女の頬に当たっている。
「おいおい、そんなとこで寝るな!」
倒れるなら床にしとけ、と小言を言いながら、拓馬は介抱しにむかった。以前ジュンがノブにやっていた、意識不明者を運ぶ方法にならう。まずはヤマダの体を仰向きにする。脇の下へ自分の腕を通して彼女に腕組みをさせ、その両腕を持って二階へ引き上げる。彼女が背負うリュックサックを下ろし、上半身を壁に寄りかからせた。
(ここで休ませて、いいのか?)
安全な場所へ移りたいが、どこが適切な休憩場所だか判断しようがなかった。通常、体調不良の者は保健室で休むものだ。しかし保健室とて異形がいつ出現するか知れたものではない。
(ヘタにうろつくのも危険だしな……)
人ひとりを運びながらの移動は体力を消耗する。そのうえ、襲撃を受けた際の逃走にも支障が出る。おまけに場所を移動すればするほど、異形との遭遇率も高まるだろう。むやみな移動は避けるべきだ。危険がせまるまでは待機するのが賢明だと拓馬は考えた。
いつでもうごけるよう、拓馬はヤマダのリュックサックを背負った。横から、上から、下から異形が現れないかと周囲に気を配る。
視界による警戒を続けて数分が経つ。まだなにも起きない。この後もあたりに平穏が続くようなら、ねむる女子を置いて狐捜索に行けるが──
(でも目をはなした隙をつかれるってこと、きっとあるよなぁ)
異形は神出鬼没。ものの数秒であっても、連中は無抵抗な人間に接近できるはずだ。
(ムチャする意味はないな……)
拓馬はおとなしく待機を続けた。
拓馬自身にも若干の睡魔がにじり寄ってきたころ、足音が聞こえた。人のようだ。その根拠は三つ。異形は足を鳴らさない。幽霊は地に足をつけて歩かなかった。赤毛は飛行で移動する。となると、それ以外の人、あるいは人型の異形だ。
(さっきの女の子なら、いいんだが)
現状、男のほうがくると抵抗すらできずにやられる。拓馬は自分たちに協力的な少女の到来に期待を寄せた。
足音の出所は連絡通路。拓馬が通路へ一点集中すると、銀髪の少女を発見した。シド及び大男でないことを拓馬はよろこんだ。
少女は拓馬のもとにくる。ねむるヤマダを見て、不思議そうに拓馬の顔をのぞく。
「こんなところにヤマダをいさせていいの?」
「安全な場所がどこだかわかんねーんだ。お前、知ってるか?」
「はじめに、ここへきたときにいたとこ。あそこがいいよ」
「追試をやる予定だった教室のことか?」
「うん、むこうのすみのへや。あそこはいちばん境《さかい》がうすくなってて、外をこわがる仲間はちかよらない」
「俺らが最初にいた教室が安全なのか……」
言われてみれば、拓馬たちが気絶している間は何者にもおそわれなかった。それが黒い異形たちにとっての不可侵な領域ゆえか。
「それに、シズカはあのへやにくる。使いがそこからきてた」
安全圏かつシズカとの合流場所──とくれば絶好の休憩場所だ。
「それを早く教えてくれよ!」
拓馬は明朗に言い、ヤマダを横抱きで持ち上げた。シドのように軽々とはいかないが、空き教室までは持ちこたえられる。一気に駆け抜けようとしたものの、少女が「わたしがもとうか?」とたずねてきた。
「え……お前が、こいつを?」
「うん」
エリーは拓馬と同じ持ち方でヤマダを抱えた。そのさまはシドと同じく、重さを苦にしない屈強さがある。拓馬はちょっとした敗北感を覚える。
「お前たちはみんな力持ちなのか?」
「たぶん、そう」
こともなげに答えられてしまった。少女は先天的な能力の優秀さを誇る様子なく歩きだした。拓馬も空き教室へ移動を開始する。少女のとなりで歩く最中、ヤマダが倒れた原因について少女にたずねてみる。
「武者の霊を連れて蜘蛛を追っ払ったら、ヤマダが倒れちまったんだ。なんでだろうな」
「しえき、してたから、かな」
「なんだ、その『しえき』って。はたらかせるっていう意味の『使役』か?」
「そう。シズカのつかいとおなじ」
シズカに例えられると拓馬は納得がいった。シズカも、自身の活力と引き換えに異界の獣を呼び出し、活動させている。その関係を構築する術を、ヤマダが意識せずに行なっていた、ということになる。
「あの武者も……ヤマダの力をつかって、蜘蛛と戦ったのか」
「そう。それに、わたしがヤマダから力をとってたせいもあるかも」
その見解は拓馬もうすうす勘付いていた。ふと、なぜ少女がヤマダの力を欲したのか気になりはじめる。
「そういえば、なんでお前は人から力を吸い取ろうとしてた?」
「おはなし、するため……」
「本当に、それだけか?」
会話だけなら黒い化け物の状態でもできはしていた。発話がスムーズにいかない不便さはあっただろうが、会話が成立しないほどではなかったと拓馬は思う。
「化け物の姿でもしゃべれただろ?」
「うん……」
「お前が人に化ける目的……俺らと話をすること以外にもあったんじゃないか?」
「わかんない。そうしろっていわれた」
「お前が人に化けると、いいことがあるのか?」
「たぶん、そう」
少女自身がよくわからないでやっていたことらしい。その目的は司令塔に聞くほかに手立てはなさそうだ。少女に命令をくだす者──そのことに拓馬の意識が向いたとき、とある疑念が再燃する。
(赤毛とは『シド先生が犯人だ』って話をしたけど……確認はとってないな)
拓馬は確実に少女が知っている質問をしかける。
「お前に指示だしてる仲間って、先生なのか?」
少女は答えない。そのへんは口止めされているのだろうか。
「もうだいたいわかってんだ。言ってくれてもよくないか?」
「いっちゃだめっていわれてる」
「マジメなやつだな……」
彼女の実直さはかの英語教師と似通っている。その態度が暫定的な返答としておき、拓馬たちは二階の空き教室に着いた。拓馬は教室の後方の床にリュックサックを置く。
「この上にそいつの頭がのるように、寝かせてくれるか」
ヤマダを運んできた者は床に両膝をつき、そっとヤマダをおろした。
「手伝ってくれて、ありがとうな」
拓馬は感謝ついでに、さらなる依頼をする。
「なぁ、こいつを見ててくれないか?」
「どうして?」
「俺はキツネを捜しにいく。そのためにあそこから蜘蛛を追いだしたんだしな」
「できない」
意外にも少女がきっぱり断る。
「もうじき、シズカがくる。わたしは会っちゃいけない」
「人間じゃないからって、シズカさんは誰彼かまわず倒す人じゃないぞ」
少女はすっくと立ち、なにもいわずに教室を飛び出した。その動作が俊敏だったために、拓馬が引き止める隙はなかった。
(そんなにシズカさんって、人以外には危険な存在なのか?)
赤毛もシズカを忌避していた。あちらは裏であくどいことをしていそうなので、シズカに成敗される事態は理解できる。しかし少女のほうはいまひとつ、シズカが打倒すべき意義を見いだせなかった。
遠ざかる足音を聞きながら、拓馬は幼馴染を見る。
(どうするかな……)
教室で時間をつぶすか、単独で行動するか。どちらが最善なのか決めかね、ひとまず適当な椅子に座って、考えることにした。
拓馬たちが階段をのぼりきる直前、ヤマダが仲間に引き入れた武者の霊が前方へ行く。彼は下向きに矢を弓につがえていた。臨戦態勢のようだ。
(見えてなくても、わかるのか)
武者はすでに異形の気配を捕捉している。その証に、武者は二階廊下へ出るとすぐさま矢を放った。奇怪な音が響く。蜘蛛のうなり声だろうか。音が止むのを待たずに武者は二本目の矢を撃った。武者は自発的に健闘する。その様子に拓馬の胸がおどる。
「本当にやっつけてくれそうだな」
拓馬がヤマダに同意を求めたところ、彼女は両手をひざにつき、つらそうに立っている。
「どうした? 調子がわるいのか」
「いきなり、体が重くなってきて……」
「やせ我慢してたんじゃないか?」
ヤマダは拓馬の足を引っ張るまいと、無理をしていたのかもしれない。なにせ彼女は少女の異形に活力をうばわれていた。その回復が未完全なのだと拓馬は推しはかった。
「ううん、急に、だよ」
「そうか? とりあえず、ここの蜘蛛を退散させたら休むか」
蜘蛛退治をすぐに放棄してもよいのだが、武者を止める方法がわからなかった。そのため拓馬は物陰から人外の闘争を見守った。
当初は武者の優勢に見えた。だが蜘蛛がねばり、糸を武者の体にまきつけて、弓攻撃を妨害する。身動きの取れにくくなった武者は跳び、窓へぶつかる──と思いきや窓をすり抜けた。糸でつながっていた蜘蛛もつられて外へ行く。二体の人外は落下せず、すっと掻き消えていった。
(いなくなった?)
拓馬はあわてて窓に駆け寄る。地面にも宙にも、彼らの姿はない。ひょっとしたらこの窓なら外に出られるのだろうか。そんな淡い期待から窓を開ける。外へ手を出そうとするも、見えない壁に押し返された。
(窓の外は行けないのか?)
一階は中庭に出られるため、おそらく一階の窓ならこんな妨害はされない。二階以上の高さになると、出入りが禁じられるようだ。
(なんであいつらだけ……?)
人外たちのみが忽然と消えたことに拓馬は釈然としなかった。だが目下の目的は狐の捜索である。狐捜しをはばむ障害がなくなったいま、やるべきことはひとつだ。
「とにかく、順番に教室を──」
見ていく、と拓馬が言いかけた。振り返るとヤマダの姿がない。視線を下へずらしてみると、彼女は階段上で突っ伏していた。段の角が彼女の頬に当たっている。
「おいおい、そんなとこで寝るな!」
倒れるなら床にしとけ、と小言を言いながら、拓馬は介抱しにむかった。以前ジュンがノブにやっていた、意識不明者を運ぶ方法にならう。まずはヤマダの体を仰向きにする。脇の下へ自分の腕を通して彼女に腕組みをさせ、その両腕を持って二階へ引き上げる。彼女が背負うリュックサックを下ろし、上半身を壁に寄りかからせた。
(ここで休ませて、いいのか?)
安全な場所へ移りたいが、どこが適切な休憩場所だか判断しようがなかった。通常、体調不良の者は保健室で休むものだ。しかし保健室とて異形がいつ出現するか知れたものではない。
(ヘタにうろつくのも危険だしな……)
人ひとりを運びながらの移動は体力を消耗する。そのうえ、襲撃を受けた際の逃走にも支障が出る。おまけに場所を移動すればするほど、異形との遭遇率も高まるだろう。むやみな移動は避けるべきだ。危険がせまるまでは待機するのが賢明だと拓馬は考えた。
いつでもうごけるよう、拓馬はヤマダのリュックサックを背負った。横から、上から、下から異形が現れないかと周囲に気を配る。
視界による警戒を続けて数分が経つ。まだなにも起きない。この後もあたりに平穏が続くようなら、ねむる女子を置いて狐捜索に行けるが──
(でも目をはなした隙をつかれるってこと、きっとあるよなぁ)
異形は神出鬼没。ものの数秒であっても、連中は無抵抗な人間に接近できるはずだ。
(ムチャする意味はないな……)
拓馬はおとなしく待機を続けた。
拓馬自身にも若干の睡魔がにじり寄ってきたころ、足音が聞こえた。人のようだ。その根拠は三つ。異形は足を鳴らさない。幽霊は地に足をつけて歩かなかった。赤毛は飛行で移動する。となると、それ以外の人、あるいは人型の異形だ。
(さっきの女の子なら、いいんだが)
現状、男のほうがくると抵抗すらできずにやられる。拓馬は自分たちに協力的な少女の到来に期待を寄せた。
足音の出所は連絡通路。拓馬が通路へ一点集中すると、銀髪の少女を発見した。シド及び大男でないことを拓馬はよろこんだ。
少女は拓馬のもとにくる。ねむるヤマダを見て、不思議そうに拓馬の顔をのぞく。
「こんなところにヤマダをいさせていいの?」
「安全な場所がどこだかわかんねーんだ。お前、知ってるか?」
「はじめに、ここへきたときにいたとこ。あそこがいいよ」
「追試をやる予定だった教室のことか?」
「うん、むこうのすみのへや。あそこはいちばん境《さかい》がうすくなってて、外をこわがる仲間はちかよらない」
「俺らが最初にいた教室が安全なのか……」
言われてみれば、拓馬たちが気絶している間は何者にもおそわれなかった。それが黒い異形たちにとっての不可侵な領域ゆえか。
「それに、シズカはあのへやにくる。使いがそこからきてた」
安全圏かつシズカとの合流場所──とくれば絶好の休憩場所だ。
「それを早く教えてくれよ!」
拓馬は明朗に言い、ヤマダを横抱きで持ち上げた。シドのように軽々とはいかないが、空き教室までは持ちこたえられる。一気に駆け抜けようとしたものの、少女が「わたしがもとうか?」とたずねてきた。
「え……お前が、こいつを?」
「うん」
エリーは拓馬と同じ持ち方でヤマダを抱えた。そのさまはシドと同じく、重さを苦にしない屈強さがある。拓馬はちょっとした敗北感を覚える。
「お前たちはみんな力持ちなのか?」
「たぶん、そう」
こともなげに答えられてしまった。少女は先天的な能力の優秀さを誇る様子なく歩きだした。拓馬も空き教室へ移動を開始する。少女のとなりで歩く最中、ヤマダが倒れた原因について少女にたずねてみる。
「武者の霊を連れて蜘蛛を追っ払ったら、ヤマダが倒れちまったんだ。なんでだろうな」
「しえき、してたから、かな」
「なんだ、その『しえき』って。はたらかせるっていう意味の『使役』か?」
「そう。シズカのつかいとおなじ」
シズカに例えられると拓馬は納得がいった。シズカも、自身の活力と引き換えに異界の獣を呼び出し、活動させている。その関係を構築する術を、ヤマダが意識せずに行なっていた、ということになる。
「あの武者も……ヤマダの力をつかって、蜘蛛と戦ったのか」
「そう。それに、わたしがヤマダから力をとってたせいもあるかも」
その見解は拓馬もうすうす勘付いていた。ふと、なぜ少女がヤマダの力を欲したのか気になりはじめる。
「そういえば、なんでお前は人から力を吸い取ろうとしてた?」
「おはなし、するため……」
「本当に、それだけか?」
会話だけなら黒い化け物の状態でもできはしていた。発話がスムーズにいかない不便さはあっただろうが、会話が成立しないほどではなかったと拓馬は思う。
「化け物の姿でもしゃべれただろ?」
「うん……」
「お前が人に化ける目的……俺らと話をすること以外にもあったんじゃないか?」
「わかんない。そうしろっていわれた」
「お前が人に化けると、いいことがあるのか?」
「たぶん、そう」
少女自身がよくわからないでやっていたことらしい。その目的は司令塔に聞くほかに手立てはなさそうだ。少女に命令をくだす者──そのことに拓馬の意識が向いたとき、とある疑念が再燃する。
(赤毛とは『シド先生が犯人だ』って話をしたけど……確認はとってないな)
拓馬は確実に少女が知っている質問をしかける。
「お前に指示だしてる仲間って、先生なのか?」
少女は答えない。そのへんは口止めされているのだろうか。
「もうだいたいわかってんだ。言ってくれてもよくないか?」
「いっちゃだめっていわれてる」
「マジメなやつだな……」
彼女の実直さはかの英語教師と似通っている。その態度が暫定的な返答としておき、拓馬たちは二階の空き教室に着いた。拓馬は教室の後方の床にリュックサックを置く。
「この上にそいつの頭がのるように、寝かせてくれるか」
ヤマダを運んできた者は床に両膝をつき、そっとヤマダをおろした。
「手伝ってくれて、ありがとうな」
拓馬は感謝ついでに、さらなる依頼をする。
「なぁ、こいつを見ててくれないか?」
「どうして?」
「俺はキツネを捜しにいく。そのためにあそこから蜘蛛を追いだしたんだしな」
「できない」
意外にも少女がきっぱり断る。
「もうじき、シズカがくる。わたしは会っちゃいけない」
「人間じゃないからって、シズカさんは誰彼かまわず倒す人じゃないぞ」
少女はすっくと立ち、なにもいわずに教室を飛び出した。その動作が俊敏だったために、拓馬が引き止める隙はなかった。
(そんなにシズカさんって、人以外には危険な存在なのか?)
赤毛もシズカを忌避していた。あちらは裏であくどいことをしていそうなので、シズカに成敗される事態は理解できる。しかし少女のほうはいまひとつ、シズカが打倒すべき意義を見いだせなかった。
遠ざかる足音を聞きながら、拓馬は幼馴染を見る。
(どうするかな……)
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2018年07月27日
拓馬篇−9章◆
羽田校長はひとり、校長室の自席で物思いにふけっていた。彼の頭は現在行われている追試にある。
(ふふふ……よもやあの二人だけの時間ができようとは!)
追試の監督者は若い男性教師、追試を受ける者は女子生徒。たがいに親しい間柄だ。双方ともに奥手な性分ゆえに、大それたことが起きるはずもない。ただ校長はあの二人が一緒にいるというだけで幸福な気持ちになれた。
(うーん、シドくんは最後までよいネタを提供してくれたな)
新人教師はこの学期で離職する約束になっている。校長は内心ずっと居てほしいと思っているが、無理を言って相手を困らせることはしたくない。そのため教師の要望通りに任期を終わらせようと考えている。去りゆく教師の置き土産が、今日の追試だ。
(追試はどうなっているかな)
ごく普通の筆記試験に決まっている。そうとわかっていながら、校長は二人の様子を確かめたくて、腰を浮かした。その時、電話が鳴る。電話機のランプは事務室からの内線を示していた。校長は受話器を取る。
「もしもし、校長です」
『いま、警察官を名乗る方がお越しになっています。捜査のために校内を出歩く許可を得たいとのことです。いかが致しますか?』
女性事務員が校長に判断を仰いでいる。この学校で警察沙汰になるような出来事があっただろうか、と校長は疑問に思う。
「警察官……?」
『はい、警察手帳をお持ちでした』
「直接会って決めよう。その方は事務室にいるのかね?」
『はい、お待ちいただいております』
「すぐに向かう。もうすこし待ってもらいたまえ」
電話を切った校長はすぐさま廊下へ出た。事務室は校長室の隣りである。校長が事務室の戸口へ向かったところ、事務室の来客応対用のアクリル窓のそばに若い男性がいた。二十代の半ばといった年頃だが、白いワイシャツとスラックス姿は学生のようにも見える。
「あ、校長先生、はじめまして」
肩掛け鞄を掛けた男性が一礼した。校長も礼儀としてお辞儀をする。
「はい、私が校長の羽田ですが……あなたはどういう警察の方なんですか?」
警官を名乗る男性は穏やかな表情で鞄から手帳を出す。校長は若い警官の姓名と顔写真を見せられた。名字に目をやったあと、警官の所属する地名に注目した。
「おれは露木(つゆき)と言います」
「露木さん、ですか。あなたは他県の警察官でいらっしゃるようだが」
「そうなんです。こちらはおれの管轄外なんですけど、うちの県で起きた事件と同じことがこの地区にも発生しまして、その捜査にうかがったんです」
「ほう、どんな事件なのか、聞いてもよろしいかな?」
「高校生が襲われて、昏睡状態におちいる事件です」
意識不明になった自校の生徒というと、校長の耳に入ってはいない。
「失礼ですが、たずねる学校をお間違えでは? うちの生徒に、そんな被害を受けた子は──」
「ええ、被害者は他校の生徒ですよ。けれど、こちらの教師や生徒とも関わりのある子です」
「うちの教師と生徒……」
他校との交流は校長の知らぬところで多々起きている。部活の練習試合なり展覧会なり、多岐に渡る。
「その関わりは部活動で……ですか?」
「いえ、ハッキリ言ってしまえば喧嘩ですね」
校長が即座に思いついたのは、他校の少年と乱闘を起こした教師と生徒たちだ。敵対した少年たちのうち、ひとりは近隣の名だたる学校の所属だと聞いている。
「まさか雒英(らくえい)の生徒のことですか?」
露木はにっこり笑いながらうなずく。
「ご明察のとおりです。そちらの学校では有益な情報が得られませんので、こちらに足を運びました。なに、捜査と言っても簡単なこと。事情を知っていそうな人のお話を聞くだけです。騒ぎになるようなことはしませんから、協力していただけますか?」
露木が温厚な表情でたずねてくる。校長が断る理由はない。しかし憂慮すべきことがある。
「露木さんの所望する教師と生徒は学校にいるんですが、いまは大事な試験中でして」
「話すのは試験が終わってからでかまいません。その試験会場を教えてもらえますか?」
「では私が案内しましょう。露木さんのことは私から監督者に伝えます」
露木は「ご親切にありがとうございます」と謝辞を述べ、階段をのぼる校長のあとについていった。
二人は追試を行なっている教室へ着いた。廊下から様子をさぐってみるも、中に人はいない。
「おや? もう終わったんだろうか……」
校長は空き教室へ入ってみた。黒板には生徒への激励の言葉が英語で綴ってある。追試が終了しているのなら、真面目な監督者が消していそうな痕跡だ。
「んん? シド先生らしくないな、これは」
校長がとまどっているかたわら、露木は教卓へ接近する。教卓に残された紙切れを一枚手に取った。それを真剣な目つきで見ている。
「どうやらほかの場所で試験をやっているみたいですね」
「なんと。そんなことが書いてあるのですか?」
「いや、この紙自体はおれへの招待状ですよ」
露木が紙を校長に見せる。罫線の印字された紙に「Dear Mr.T Please come see me. from S」と書いてあった。
「『ミスターT』……ツユキのTですか」
「そうみたいですね。おれ宛てに『会いにきてくれ』と言っています」
「あなたはシド先生とお知り合いなんですか?」
「ええ、まあ……過去を知っている仲ですよ」
校長は露木を見る目が変わる。一介の公務員だと思っていたが、一気に身内のような親近感が湧く。
「ほう! どういった経緯で──」
二人の関係を校長がさぐろうとしたが、露木は「校長先生」と校長の言葉に被せてくる。
「案内していただいて、ありがとうございました」
露木は笑顔で会釈する。その和やかな雰囲気に校長が飲まれそうになった。
(いかん! はぐらかれるところだった)
露木は不自然に会話を打ち切ろうとしている。事情聴取すべき対象が不在で、その行方も知れないというのに。
「なにをおっしゃる。そのメモ書きには場所が書いていないでしょう?」
「目星はついています。あとはおれに任せて、校長先生にはお引き取り願いましょう。彼は校長の手引きなしでも、おれに会ってくれるみたいです」
露木はあからさまに校長の同伴をこばみ出した。そんなことで引き下がる校長ではない。
「事情を説明したまえ。なぜシド先生は露木さんの訪問があると知っていたのだね?」
「今日でなくてはいけなかったのです。すくなくとも彼の都合ではね」
「先生は露木さんが学校に来るとは一言も言わなかった。どうして彼は私たちに知らせなかったとお思いで?」
「お互いの意思疎通がうまく取れなかったんですよ。おれは正面切って彼と話し合いたいのですが、彼はそうでないらしい」
「先生がそういったシャイボーイだとは思えませんな」
「申し訳ない。これ以上の問答はご免こうむります」
露木は紙切れを持ったまま、廊下へ出ようとした。校長はあわてて引き止める。
「露木さん、どこへ行かれる?」
「先生のもとへいそぎます。彼を待たせてはあとが怖いので」
露木が早足で立ち去った。彼の歩行には迷いがない。
(本当に先生たちの居場所を知っている……?)
と思ったのも束の間で、外部の男性はトイレへ入っていく。校長はがっくりした。
(いそぐんじゃないのかね!)
しかし好都合である。トイレ内では逃げ場がない。窓からの逃走も、二階では容易にできないことだ。校長はこっそり男子トイレへ足を踏み入れた。人影はない。ドアのある洋式トイレに隠れたかと思い、ドアを開けてみる。鍵の手応えはなく、中に人もいなかった。
(もしや窓から脱出を?)
そんな常人離れした運動能力をもつ人なのか、と半信半疑になりながら、校長は窓を全開にする。興奮していたせいで、レール上を移動する窓が少々跳ね返った。
校舎の外には露木の姿がなかった。代わりに下校途中らしき生徒が歩いている。
(いない……ではアレか、いないと見せかけて天井に張り付くやつ!)
校長は窓の上を見上げる。ここにはいない。こちらは入口から視界に入る位置なので、いないのは最初からわかっていた。
(うしろか!)
校長は相手の身軽さに対抗して、機敏に振り向く。
「ザッツ・ニンジャ!」
校長は頭に思いついた語句を適当に発した。非日常的な状況に置かれていて、気分が高揚しているせいだ。言葉自体に意味はない。
しかし意気揚々と見た天井にも、人の姿はなかった。
(じゃあアレだ。隙を見て、すでにここを出たと!)
追跡者がなにかに注意を逸らしている合間を縫って、逃走する──そんなスパイじみたアクションを校長は想像した。即座にトイレの出入り口へ行き、あたりを見回す。
「ザッツ・ニ──」
ちょっと気に入ってきたワードを校長は途中で止めた。長身の男子生徒が目の前にいる。校長は露木以外の人が通りがかるとは思っていなかった。そのため、自身の態度は変質者に見えていないものかと一気に冷静になる。
ばったり会った男子生徒は校長のよく知る人物だった。先の期末試験で、またもトップの成績をおさめた秀才である。
「お、おや、椙守くんかね」
「はい、そうですが……」
椙守は校長を怪しんでいる。「なにをひとりで盛り上がっているんだ」と言わんばかりに冷めた目だ。校長は名誉の回復を図るまえに、露木の行方をたずねる。
「このトイレから、二十代の男の人が出てこなかったかね?」
「いえ、僕は見ていません」
「むむむ、そうか……」
校長の予想はことごとく外れた。露木はまことに消えてしまったようだ。
「あの、校長はどうしてここに……?」
椙守は当然の疑問を口にする。校長が校長室から遠いトイレへわざわざ行く理由がないのだ。正直に事情を話しても、この現実主義者な生徒は信じてくれないだろう。それどころか校長を変人あつかいしかねない──もうすでにそう見られている自覚はあったが、別種の変人属性を付与されたくなかった。
校長は追究を回避するため、椙守の機嫌をとりにかかる。
「いやはや、きみはまたまた優秀な試験結果を出したそうだね。すごいことだよ」
しかし椙守の表情は変わらない。
「いつものことですから」
彼の胸に校長の言葉はまったく響いていない。校長は新種の噂をもとにアプローチをしかける。
「きみは学校の成績に出にくいこともがんばっているようだね」
「うちの花屋のことですか?」
「それもあるが、特筆すべきはきみの肉体改造だよ。ずいぶん、たくましくなってきたんじゃないか?」
椙守は運動のできない秀才タイプであったが、ここ最近は筋トレにめざめているという。正直なところ、その成果が体に反映されているのか、校長はわからない。彼の身体にはからっきし関心がなかったので、比較できる記憶がないのだ。
生徒が求めているであろう褒め言葉をかけると、椙守はようやく少年らしい素直なよろこびを表に出す。
「え……わかるんですか?」
「ああ! 男らしさが増してきたようだ。その調子でいけば小山田くんもきみを放っておかなくなるだろうね」
校長の差し出がましい感想は椙守の喜色を吹き飛ばした。だがさっきまではなかった照れが内在している。
「そんなやましい気持ちでやってるんじゃありません」
「ははは、そうかね。これは失礼なことを言ってしまった。おじさんの冗談だと思って、わすれてほしい」
「校長が言うと冗談に聞こえません」
椙守はぷいっと顔をそむけて、男子トイレへすすむ。校長の目論見通り、どうにか話をはぐらかせた。
(ふぅ、あの子にはやはり小山田くんの話題が効果テキメンのようだ)
その女子生徒は、英語の追試を受ける対象である。しかし試験会場に生徒はいなかった。彼女も大事な用事をすっぽかす人間ではないはずだが。
(先生と生徒の二人で……どこかへ行った?)
そうとしか考えられない。この推測に至った校長は打ち震えた。
(なんということだ……!)
校長の全身に、熱い感情が駆け巡る。
(愛の逃避行か!)
校長はにやけた顔をさげて、校舎内を巡回しはじめた。とうに露木の行方はどうでもよくなっている。校長の脳内には、純情な教師と生徒の親しげな場面が展開されていた。
(ふふふ……よもやあの二人だけの時間ができようとは!)
追試の監督者は若い男性教師、追試を受ける者は女子生徒。たがいに親しい間柄だ。双方ともに奥手な性分ゆえに、大それたことが起きるはずもない。ただ校長はあの二人が一緒にいるというだけで幸福な気持ちになれた。
(うーん、シドくんは最後までよいネタを提供してくれたな)
新人教師はこの学期で離職する約束になっている。校長は内心ずっと居てほしいと思っているが、無理を言って相手を困らせることはしたくない。そのため教師の要望通りに任期を終わらせようと考えている。去りゆく教師の置き土産が、今日の追試だ。
(追試はどうなっているかな)
ごく普通の筆記試験に決まっている。そうとわかっていながら、校長は二人の様子を確かめたくて、腰を浮かした。その時、電話が鳴る。電話機のランプは事務室からの内線を示していた。校長は受話器を取る。
「もしもし、校長です」
『いま、警察官を名乗る方がお越しになっています。捜査のために校内を出歩く許可を得たいとのことです。いかが致しますか?』
女性事務員が校長に判断を仰いでいる。この学校で警察沙汰になるような出来事があっただろうか、と校長は疑問に思う。
「警察官……?」
『はい、警察手帳をお持ちでした』
「直接会って決めよう。その方は事務室にいるのかね?」
『はい、お待ちいただいております』
「すぐに向かう。もうすこし待ってもらいたまえ」
電話を切った校長はすぐさま廊下へ出た。事務室は校長室の隣りである。校長が事務室の戸口へ向かったところ、事務室の来客応対用のアクリル窓のそばに若い男性がいた。二十代の半ばといった年頃だが、白いワイシャツとスラックス姿は学生のようにも見える。
「あ、校長先生、はじめまして」
肩掛け鞄を掛けた男性が一礼した。校長も礼儀としてお辞儀をする。
「はい、私が校長の羽田ですが……あなたはどういう警察の方なんですか?」
警官を名乗る男性は穏やかな表情で鞄から手帳を出す。校長は若い警官の姓名と顔写真を見せられた。名字に目をやったあと、警官の所属する地名に注目した。
「おれは露木(つゆき)と言います」
「露木さん、ですか。あなたは他県の警察官でいらっしゃるようだが」
「そうなんです。こちらはおれの管轄外なんですけど、うちの県で起きた事件と同じことがこの地区にも発生しまして、その捜査にうかがったんです」
「ほう、どんな事件なのか、聞いてもよろしいかな?」
「高校生が襲われて、昏睡状態におちいる事件です」
意識不明になった自校の生徒というと、校長の耳に入ってはいない。
「失礼ですが、たずねる学校をお間違えでは? うちの生徒に、そんな被害を受けた子は──」
「ええ、被害者は他校の生徒ですよ。けれど、こちらの教師や生徒とも関わりのある子です」
「うちの教師と生徒……」
他校との交流は校長の知らぬところで多々起きている。部活の練習試合なり展覧会なり、多岐に渡る。
「その関わりは部活動で……ですか?」
「いえ、ハッキリ言ってしまえば喧嘩ですね」
校長が即座に思いついたのは、他校の少年と乱闘を起こした教師と生徒たちだ。敵対した少年たちのうち、ひとりは近隣の名だたる学校の所属だと聞いている。
「まさか雒英(らくえい)の生徒のことですか?」
露木はにっこり笑いながらうなずく。
「ご明察のとおりです。そちらの学校では有益な情報が得られませんので、こちらに足を運びました。なに、捜査と言っても簡単なこと。事情を知っていそうな人のお話を聞くだけです。騒ぎになるようなことはしませんから、協力していただけますか?」
露木が温厚な表情でたずねてくる。校長が断る理由はない。しかし憂慮すべきことがある。
「露木さんの所望する教師と生徒は学校にいるんですが、いまは大事な試験中でして」
「話すのは試験が終わってからでかまいません。その試験会場を教えてもらえますか?」
「では私が案内しましょう。露木さんのことは私から監督者に伝えます」
露木は「ご親切にありがとうございます」と謝辞を述べ、階段をのぼる校長のあとについていった。
二人は追試を行なっている教室へ着いた。廊下から様子をさぐってみるも、中に人はいない。
「おや? もう終わったんだろうか……」
校長は空き教室へ入ってみた。黒板には生徒への激励の言葉が英語で綴ってある。追試が終了しているのなら、真面目な監督者が消していそうな痕跡だ。
「んん? シド先生らしくないな、これは」
校長がとまどっているかたわら、露木は教卓へ接近する。教卓に残された紙切れを一枚手に取った。それを真剣な目つきで見ている。
「どうやらほかの場所で試験をやっているみたいですね」
「なんと。そんなことが書いてあるのですか?」
「いや、この紙自体はおれへの招待状ですよ」
露木が紙を校長に見せる。罫線の印字された紙に「Dear Mr.T Please come see me. from S」と書いてあった。
「『ミスターT』……ツユキのTですか」
「そうみたいですね。おれ宛てに『会いにきてくれ』と言っています」
「あなたはシド先生とお知り合いなんですか?」
「ええ、まあ……過去を知っている仲ですよ」
校長は露木を見る目が変わる。一介の公務員だと思っていたが、一気に身内のような親近感が湧く。
「ほう! どういった経緯で──」
二人の関係を校長がさぐろうとしたが、露木は「校長先生」と校長の言葉に被せてくる。
「案内していただいて、ありがとうございました」
露木は笑顔で会釈する。その和やかな雰囲気に校長が飲まれそうになった。
(いかん! はぐらかれるところだった)
露木は不自然に会話を打ち切ろうとしている。事情聴取すべき対象が不在で、その行方も知れないというのに。
「なにをおっしゃる。そのメモ書きには場所が書いていないでしょう?」
「目星はついています。あとはおれに任せて、校長先生にはお引き取り願いましょう。彼は校長の手引きなしでも、おれに会ってくれるみたいです」
露木はあからさまに校長の同伴をこばみ出した。そんなことで引き下がる校長ではない。
「事情を説明したまえ。なぜシド先生は露木さんの訪問があると知っていたのだね?」
「今日でなくてはいけなかったのです。すくなくとも彼の都合ではね」
「先生は露木さんが学校に来るとは一言も言わなかった。どうして彼は私たちに知らせなかったとお思いで?」
「お互いの意思疎通がうまく取れなかったんですよ。おれは正面切って彼と話し合いたいのですが、彼はそうでないらしい」
「先生がそういったシャイボーイだとは思えませんな」
「申し訳ない。これ以上の問答はご免こうむります」
露木は紙切れを持ったまま、廊下へ出ようとした。校長はあわてて引き止める。
「露木さん、どこへ行かれる?」
「先生のもとへいそぎます。彼を待たせてはあとが怖いので」
露木が早足で立ち去った。彼の歩行には迷いがない。
(本当に先生たちの居場所を知っている……?)
と思ったのも束の間で、外部の男性はトイレへ入っていく。校長はがっくりした。
(いそぐんじゃないのかね!)
しかし好都合である。トイレ内では逃げ場がない。窓からの逃走も、二階では容易にできないことだ。校長はこっそり男子トイレへ足を踏み入れた。人影はない。ドアのある洋式トイレに隠れたかと思い、ドアを開けてみる。鍵の手応えはなく、中に人もいなかった。
(もしや窓から脱出を?)
そんな常人離れした運動能力をもつ人なのか、と半信半疑になりながら、校長は窓を全開にする。興奮していたせいで、レール上を移動する窓が少々跳ね返った。
校舎の外には露木の姿がなかった。代わりに下校途中らしき生徒が歩いている。
(いない……ではアレか、いないと見せかけて天井に張り付くやつ!)
校長は窓の上を見上げる。ここにはいない。こちらは入口から視界に入る位置なので、いないのは最初からわかっていた。
(うしろか!)
校長は相手の身軽さに対抗して、機敏に振り向く。
「ザッツ・ニンジャ!」
校長は頭に思いついた語句を適当に発した。非日常的な状況に置かれていて、気分が高揚しているせいだ。言葉自体に意味はない。
しかし意気揚々と見た天井にも、人の姿はなかった。
(じゃあアレだ。隙を見て、すでにここを出たと!)
追跡者がなにかに注意を逸らしている合間を縫って、逃走する──そんなスパイじみたアクションを校長は想像した。即座にトイレの出入り口へ行き、あたりを見回す。
「ザッツ・ニ──」
ちょっと気に入ってきたワードを校長は途中で止めた。長身の男子生徒が目の前にいる。校長は露木以外の人が通りがかるとは思っていなかった。そのため、自身の態度は変質者に見えていないものかと一気に冷静になる。
ばったり会った男子生徒は校長のよく知る人物だった。先の期末試験で、またもトップの成績をおさめた秀才である。
「お、おや、椙守くんかね」
「はい、そうですが……」
椙守は校長を怪しんでいる。「なにをひとりで盛り上がっているんだ」と言わんばかりに冷めた目だ。校長は名誉の回復を図るまえに、露木の行方をたずねる。
「このトイレから、二十代の男の人が出てこなかったかね?」
「いえ、僕は見ていません」
「むむむ、そうか……」
校長の予想はことごとく外れた。露木はまことに消えてしまったようだ。
「あの、校長はどうしてここに……?」
椙守は当然の疑問を口にする。校長が校長室から遠いトイレへわざわざ行く理由がないのだ。正直に事情を話しても、この現実主義者な生徒は信じてくれないだろう。それどころか校長を変人あつかいしかねない──もうすでにそう見られている自覚はあったが、別種の変人属性を付与されたくなかった。
校長は追究を回避するため、椙守の機嫌をとりにかかる。
「いやはや、きみはまたまた優秀な試験結果を出したそうだね。すごいことだよ」
しかし椙守の表情は変わらない。
「いつものことですから」
彼の胸に校長の言葉はまったく響いていない。校長は新種の噂をもとにアプローチをしかける。
「きみは学校の成績に出にくいこともがんばっているようだね」
「うちの花屋のことですか?」
「それもあるが、特筆すべきはきみの肉体改造だよ。ずいぶん、たくましくなってきたんじゃないか?」
椙守は運動のできない秀才タイプであったが、ここ最近は筋トレにめざめているという。正直なところ、その成果が体に反映されているのか、校長はわからない。彼の身体にはからっきし関心がなかったので、比較できる記憶がないのだ。
生徒が求めているであろう褒め言葉をかけると、椙守はようやく少年らしい素直なよろこびを表に出す。
「え……わかるんですか?」
「ああ! 男らしさが増してきたようだ。その調子でいけば小山田くんもきみを放っておかなくなるだろうね」
校長の差し出がましい感想は椙守の喜色を吹き飛ばした。だがさっきまではなかった照れが内在している。
「そんなやましい気持ちでやってるんじゃありません」
「ははは、そうかね。これは失礼なことを言ってしまった。おじさんの冗談だと思って、わすれてほしい」
「校長が言うと冗談に聞こえません」
椙守はぷいっと顔をそむけて、男子トイレへすすむ。校長の目論見通り、どうにか話をはぐらかせた。
(ふぅ、あの子にはやはり小山田くんの話題が効果テキメンのようだ)
その女子生徒は、英語の追試を受ける対象である。しかし試験会場に生徒はいなかった。彼女も大事な用事をすっぽかす人間ではないはずだが。
(先生と生徒の二人で……どこかへ行った?)
そうとしか考えられない。この推測に至った校長は打ち震えた。
(なんということだ……!)
校長の全身に、熱い感情が駆け巡る。
(愛の逃避行か!)
校長はにやけた顔をさげて、校舎内を巡回しはじめた。とうに露木の行方はどうでもよくなっている。校長の脳内には、純情な教師と生徒の親しげな場面が展開されていた。
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