2018年07月27日
拓馬篇−9章◆
羽田校長はひとり、校長室の自席で物思いにふけっていた。彼の頭は現在行われている追試にある。
(ふふふ……よもやあの二人だけの時間ができようとは!)
追試の監督者は若い男性教師、追試を受ける者は女子生徒。たがいに親しい間柄だ。双方ともに奥手な性分ゆえに、大それたことが起きるはずもない。ただ校長はあの二人が一緒にいるというだけで幸福な気持ちになれた。
(うーん、シドくんは最後までよいネタを提供してくれたな)
新人教師はこの学期で離職する約束になっている。校長は内心ずっと居てほしいと思っているが、無理を言って相手を困らせることはしたくない。そのため教師の要望通りに任期を終わらせようと考えている。去りゆく教師の置き土産が、今日の追試だ。
(追試はどうなっているかな)
ごく普通の筆記試験に決まっている。そうとわかっていながら、校長は二人の様子を確かめたくて、腰を浮かした。その時、電話が鳴る。電話機のランプは事務室からの内線を示していた。校長は受話器を取る。
「もしもし、校長です」
『いま、警察官を名乗る方がお越しになっています。捜査のために校内を出歩く許可を得たいとのことです。いかが致しますか?』
女性事務員が校長に判断を仰いでいる。この学校で警察沙汰になるような出来事があっただろうか、と校長は疑問に思う。
「警察官……?」
『はい、警察手帳をお持ちでした』
「直接会って決めよう。その方は事務室にいるのかね?」
『はい、お待ちいただいております』
「すぐに向かう。もうすこし待ってもらいたまえ」
電話を切った校長はすぐさま廊下へ出た。事務室は校長室の隣りである。校長が事務室の戸口へ向かったところ、事務室の来客応対用のアクリル窓のそばに若い男性がいた。二十代の半ばといった年頃だが、白いワイシャツとスラックス姿は学生のようにも見える。
「あ、校長先生、はじめまして」
肩掛け鞄を掛けた男性が一礼した。校長も礼儀としてお辞儀をする。
「はい、私が校長の羽田ですが……あなたはどういう警察の方なんですか?」
警官を名乗る男性は穏やかな表情で鞄から手帳を出す。校長は若い警官の姓名と顔写真を見せられた。名字に目をやったあと、警官の所属する地名に注目した。
「おれは露木(つゆき)と言います」
「露木さん、ですか。あなたは他県の警察官でいらっしゃるようだが」
「そうなんです。こちらはおれの管轄外なんですけど、うちの県で起きた事件と同じことがこの地区にも発生しまして、その捜査にうかがったんです」
「ほう、どんな事件なのか、聞いてもよろしいかな?」
「高校生が襲われて、昏睡状態におちいる事件です」
意識不明になった自校の生徒というと、校長の耳に入ってはいない。
「失礼ですが、たずねる学校をお間違えでは? うちの生徒に、そんな被害を受けた子は──」
「ええ、被害者は他校の生徒ですよ。けれど、こちらの教師や生徒とも関わりのある子です」
「うちの教師と生徒……」
他校との交流は校長の知らぬところで多々起きている。部活の練習試合なり展覧会なり、多岐に渡る。
「その関わりは部活動で……ですか?」
「いえ、ハッキリ言ってしまえば喧嘩ですね」
校長が即座に思いついたのは、他校の少年と乱闘を起こした教師と生徒たちだ。敵対した少年たちのうち、ひとりは近隣の名だたる学校の所属だと聞いている。
「まさか雒英(らくえい)の生徒のことですか?」
露木はにっこり笑いながらうなずく。
「ご明察のとおりです。そちらの学校では有益な情報が得られませんので、こちらに足を運びました。なに、捜査と言っても簡単なこと。事情を知っていそうな人のお話を聞くだけです。騒ぎになるようなことはしませんから、協力していただけますか?」
露木が温厚な表情でたずねてくる。校長が断る理由はない。しかし憂慮すべきことがある。
「露木さんの所望する教師と生徒は学校にいるんですが、いまは大事な試験中でして」
「話すのは試験が終わってからでかまいません。その試験会場を教えてもらえますか?」
「では私が案内しましょう。露木さんのことは私から監督者に伝えます」
露木は「ご親切にありがとうございます」と謝辞を述べ、階段をのぼる校長のあとについていった。
二人は追試を行なっている教室へ着いた。廊下から様子をさぐってみるも、中に人はいない。
「おや? もう終わったんだろうか……」
校長は空き教室へ入ってみた。黒板には生徒への激励の言葉が英語で綴ってある。追試が終了しているのなら、真面目な監督者が消していそうな痕跡だ。
「んん? シド先生らしくないな、これは」
校長がとまどっているかたわら、露木は教卓へ接近する。教卓に残された紙切れを一枚手に取った。それを真剣な目つきで見ている。
「どうやらほかの場所で試験をやっているみたいですね」
「なんと。そんなことが書いてあるのですか?」
「いや、この紙自体はおれへの招待状ですよ」
露木が紙を校長に見せる。罫線の印字された紙に「Dear Mr.T Please come see me. from S」と書いてあった。
「『ミスターT』……ツユキのTですか」
「そうみたいですね。おれ宛てに『会いにきてくれ』と言っています」
「あなたはシド先生とお知り合いなんですか?」
「ええ、まあ……過去を知っている仲ですよ」
校長は露木を見る目が変わる。一介の公務員だと思っていたが、一気に身内のような親近感が湧く。
「ほう! どういった経緯で──」
二人の関係を校長がさぐろうとしたが、露木は「校長先生」と校長の言葉に被せてくる。
「案内していただいて、ありがとうございました」
露木は笑顔で会釈する。その和やかな雰囲気に校長が飲まれそうになった。
(いかん! はぐらかれるところだった)
露木は不自然に会話を打ち切ろうとしている。事情聴取すべき対象が不在で、その行方も知れないというのに。
「なにをおっしゃる。そのメモ書きには場所が書いていないでしょう?」
「目星はついています。あとはおれに任せて、校長先生にはお引き取り願いましょう。彼は校長の手引きなしでも、おれに会ってくれるみたいです」
露木はあからさまに校長の同伴をこばみ出した。そんなことで引き下がる校長ではない。
「事情を説明したまえ。なぜシド先生は露木さんの訪問があると知っていたのだね?」
「今日でなくてはいけなかったのです。すくなくとも彼の都合ではね」
「先生は露木さんが学校に来るとは一言も言わなかった。どうして彼は私たちに知らせなかったとお思いで?」
「お互いの意思疎通がうまく取れなかったんですよ。おれは正面切って彼と話し合いたいのですが、彼はそうでないらしい」
「先生がそういったシャイボーイだとは思えませんな」
「申し訳ない。これ以上の問答はご免こうむります」
露木は紙切れを持ったまま、廊下へ出ようとした。校長はあわてて引き止める。
「露木さん、どこへ行かれる?」
「先生のもとへいそぎます。彼を待たせてはあとが怖いので」
露木が早足で立ち去った。彼の歩行には迷いがない。
(本当に先生たちの居場所を知っている……?)
と思ったのも束の間で、外部の男性はトイレへ入っていく。校長はがっくりした。
(いそぐんじゃないのかね!)
しかし好都合である。トイレ内では逃げ場がない。窓からの逃走も、二階では容易にできないことだ。校長はこっそり男子トイレへ足を踏み入れた。人影はない。ドアのある洋式トイレに隠れたかと思い、ドアを開けてみる。鍵の手応えはなく、中に人もいなかった。
(もしや窓から脱出を?)
そんな常人離れした運動能力をもつ人なのか、と半信半疑になりながら、校長は窓を全開にする。興奮していたせいで、レール上を移動する窓が少々跳ね返った。
校舎の外には露木の姿がなかった。代わりに下校途中らしき生徒が歩いている。
(いない……ではアレか、いないと見せかけて天井に張り付くやつ!)
校長は窓の上を見上げる。ここにはいない。こちらは入口から視界に入る位置なので、いないのは最初からわかっていた。
(うしろか!)
校長は相手の身軽さに対抗して、機敏に振り向く。
「ザッツ・ニンジャ!」
校長は頭に思いついた語句を適当に発した。非日常的な状況に置かれていて、気分が高揚しているせいだ。言葉自体に意味はない。
しかし意気揚々と見た天井にも、人の姿はなかった。
(じゃあアレだ。隙を見て、すでにここを出たと!)
追跡者がなにかに注意を逸らしている合間を縫って、逃走する──そんなスパイじみたアクションを校長は想像した。即座にトイレの出入り口へ行き、あたりを見回す。
「ザッツ・ニ──」
ちょっと気に入ってきたワードを校長は途中で止めた。長身の男子生徒が目の前にいる。校長は露木以外の人が通りがかるとは思っていなかった。そのため、自身の態度は変質者に見えていないものかと一気に冷静になる。
ばったり会った男子生徒は校長のよく知る人物だった。先の期末試験で、またもトップの成績をおさめた秀才である。
「お、おや、椙守くんかね」
「はい、そうですが……」
椙守は校長を怪しんでいる。「なにをひとりで盛り上がっているんだ」と言わんばかりに冷めた目だ。校長は名誉の回復を図るまえに、露木の行方をたずねる。
「このトイレから、二十代の男の人が出てこなかったかね?」
「いえ、僕は見ていません」
「むむむ、そうか……」
校長の予想はことごとく外れた。露木はまことに消えてしまったようだ。
「あの、校長はどうしてここに……?」
椙守は当然の疑問を口にする。校長が校長室から遠いトイレへわざわざ行く理由がないのだ。正直に事情を話しても、この現実主義者な生徒は信じてくれないだろう。それどころか校長を変人あつかいしかねない──もうすでにそう見られている自覚はあったが、別種の変人属性を付与されたくなかった。
校長は追究を回避するため、椙守の機嫌をとりにかかる。
「いやはや、きみはまたまた優秀な試験結果を出したそうだね。すごいことだよ」
しかし椙守の表情は変わらない。
「いつものことですから」
彼の胸に校長の言葉はまったく響いていない。校長は新種の噂をもとにアプローチをしかける。
「きみは学校の成績に出にくいこともがんばっているようだね」
「うちの花屋のことですか?」
「それもあるが、特筆すべきはきみの肉体改造だよ。ずいぶん、たくましくなってきたんじゃないか?」
椙守は運動のできない秀才タイプであったが、ここ最近は筋トレにめざめているという。正直なところ、その成果が体に反映されているのか、校長はわからない。彼の身体にはからっきし関心がなかったので、比較できる記憶がないのだ。
生徒が求めているであろう褒め言葉をかけると、椙守はようやく少年らしい素直なよろこびを表に出す。
「え……わかるんですか?」
「ああ! 男らしさが増してきたようだ。その調子でいけば小山田くんもきみを放っておかなくなるだろうね」
校長の差し出がましい感想は椙守の喜色を吹き飛ばした。だがさっきまではなかった照れが内在している。
「そんなやましい気持ちでやってるんじゃありません」
「ははは、そうかね。これは失礼なことを言ってしまった。おじさんの冗談だと思って、わすれてほしい」
「校長が言うと冗談に聞こえません」
椙守はぷいっと顔をそむけて、男子トイレへすすむ。校長の目論見通り、どうにか話をはぐらかせた。
(ふぅ、あの子にはやはり小山田くんの話題が効果テキメンのようだ)
その女子生徒は、英語の追試を受ける対象である。しかし試験会場に生徒はいなかった。彼女も大事な用事をすっぽかす人間ではないはずだが。
(先生と生徒の二人で……どこかへ行った?)
そうとしか考えられない。この推測に至った校長は打ち震えた。
(なんということだ……!)
校長の全身に、熱い感情が駆け巡る。
(愛の逃避行か!)
校長はにやけた顔をさげて、校舎内を巡回しはじめた。とうに露木の行方はどうでもよくなっている。校長の脳内には、純情な教師と生徒の親しげな場面が展開されていた。
(ふふふ……よもやあの二人だけの時間ができようとは!)
追試の監督者は若い男性教師、追試を受ける者は女子生徒。たがいに親しい間柄だ。双方ともに奥手な性分ゆえに、大それたことが起きるはずもない。ただ校長はあの二人が一緒にいるというだけで幸福な気持ちになれた。
(うーん、シドくんは最後までよいネタを提供してくれたな)
新人教師はこの学期で離職する約束になっている。校長は内心ずっと居てほしいと思っているが、無理を言って相手を困らせることはしたくない。そのため教師の要望通りに任期を終わらせようと考えている。去りゆく教師の置き土産が、今日の追試だ。
(追試はどうなっているかな)
ごく普通の筆記試験に決まっている。そうとわかっていながら、校長は二人の様子を確かめたくて、腰を浮かした。その時、電話が鳴る。電話機のランプは事務室からの内線を示していた。校長は受話器を取る。
「もしもし、校長です」
『いま、警察官を名乗る方がお越しになっています。捜査のために校内を出歩く許可を得たいとのことです。いかが致しますか?』
女性事務員が校長に判断を仰いでいる。この学校で警察沙汰になるような出来事があっただろうか、と校長は疑問に思う。
「警察官……?」
『はい、警察手帳をお持ちでした』
「直接会って決めよう。その方は事務室にいるのかね?」
『はい、お待ちいただいております』
「すぐに向かう。もうすこし待ってもらいたまえ」
電話を切った校長はすぐさま廊下へ出た。事務室は校長室の隣りである。校長が事務室の戸口へ向かったところ、事務室の来客応対用のアクリル窓のそばに若い男性がいた。二十代の半ばといった年頃だが、白いワイシャツとスラックス姿は学生のようにも見える。
「あ、校長先生、はじめまして」
肩掛け鞄を掛けた男性が一礼した。校長も礼儀としてお辞儀をする。
「はい、私が校長の羽田ですが……あなたはどういう警察の方なんですか?」
警官を名乗る男性は穏やかな表情で鞄から手帳を出す。校長は若い警官の姓名と顔写真を見せられた。名字に目をやったあと、警官の所属する地名に注目した。
「おれは露木(つゆき)と言います」
「露木さん、ですか。あなたは他県の警察官でいらっしゃるようだが」
「そうなんです。こちらはおれの管轄外なんですけど、うちの県で起きた事件と同じことがこの地区にも発生しまして、その捜査にうかがったんです」
「ほう、どんな事件なのか、聞いてもよろしいかな?」
「高校生が襲われて、昏睡状態におちいる事件です」
意識不明になった自校の生徒というと、校長の耳に入ってはいない。
「失礼ですが、たずねる学校をお間違えでは? うちの生徒に、そんな被害を受けた子は──」
「ええ、被害者は他校の生徒ですよ。けれど、こちらの教師や生徒とも関わりのある子です」
「うちの教師と生徒……」
他校との交流は校長の知らぬところで多々起きている。部活の練習試合なり展覧会なり、多岐に渡る。
「その関わりは部活動で……ですか?」
「いえ、ハッキリ言ってしまえば喧嘩ですね」
校長が即座に思いついたのは、他校の少年と乱闘を起こした教師と生徒たちだ。敵対した少年たちのうち、ひとりは近隣の名だたる学校の所属だと聞いている。
「まさか雒英(らくえい)の生徒のことですか?」
露木はにっこり笑いながらうなずく。
「ご明察のとおりです。そちらの学校では有益な情報が得られませんので、こちらに足を運びました。なに、捜査と言っても簡単なこと。事情を知っていそうな人のお話を聞くだけです。騒ぎになるようなことはしませんから、協力していただけますか?」
露木が温厚な表情でたずねてくる。校長が断る理由はない。しかし憂慮すべきことがある。
「露木さんの所望する教師と生徒は学校にいるんですが、いまは大事な試験中でして」
「話すのは試験が終わってからでかまいません。その試験会場を教えてもらえますか?」
「では私が案内しましょう。露木さんのことは私から監督者に伝えます」
露木は「ご親切にありがとうございます」と謝辞を述べ、階段をのぼる校長のあとについていった。
二人は追試を行なっている教室へ着いた。廊下から様子をさぐってみるも、中に人はいない。
「おや? もう終わったんだろうか……」
校長は空き教室へ入ってみた。黒板には生徒への激励の言葉が英語で綴ってある。追試が終了しているのなら、真面目な監督者が消していそうな痕跡だ。
「んん? シド先生らしくないな、これは」
校長がとまどっているかたわら、露木は教卓へ接近する。教卓に残された紙切れを一枚手に取った。それを真剣な目つきで見ている。
「どうやらほかの場所で試験をやっているみたいですね」
「なんと。そんなことが書いてあるのですか?」
「いや、この紙自体はおれへの招待状ですよ」
露木が紙を校長に見せる。罫線の印字された紙に「Dear Mr.T Please come see me. from S」と書いてあった。
「『ミスターT』……ツユキのTですか」
「そうみたいですね。おれ宛てに『会いにきてくれ』と言っています」
「あなたはシド先生とお知り合いなんですか?」
「ええ、まあ……過去を知っている仲ですよ」
校長は露木を見る目が変わる。一介の公務員だと思っていたが、一気に身内のような親近感が湧く。
「ほう! どういった経緯で──」
二人の関係を校長がさぐろうとしたが、露木は「校長先生」と校長の言葉に被せてくる。
「案内していただいて、ありがとうございました」
露木は笑顔で会釈する。その和やかな雰囲気に校長が飲まれそうになった。
(いかん! はぐらかれるところだった)
露木は不自然に会話を打ち切ろうとしている。事情聴取すべき対象が不在で、その行方も知れないというのに。
「なにをおっしゃる。そのメモ書きには場所が書いていないでしょう?」
「目星はついています。あとはおれに任せて、校長先生にはお引き取り願いましょう。彼は校長の手引きなしでも、おれに会ってくれるみたいです」
露木はあからさまに校長の同伴をこばみ出した。そんなことで引き下がる校長ではない。
「事情を説明したまえ。なぜシド先生は露木さんの訪問があると知っていたのだね?」
「今日でなくてはいけなかったのです。すくなくとも彼の都合ではね」
「先生は露木さんが学校に来るとは一言も言わなかった。どうして彼は私たちに知らせなかったとお思いで?」
「お互いの意思疎通がうまく取れなかったんですよ。おれは正面切って彼と話し合いたいのですが、彼はそうでないらしい」
「先生がそういったシャイボーイだとは思えませんな」
「申し訳ない。これ以上の問答はご免こうむります」
露木は紙切れを持ったまま、廊下へ出ようとした。校長はあわてて引き止める。
「露木さん、どこへ行かれる?」
「先生のもとへいそぎます。彼を待たせてはあとが怖いので」
露木が早足で立ち去った。彼の歩行には迷いがない。
(本当に先生たちの居場所を知っている……?)
と思ったのも束の間で、外部の男性はトイレへ入っていく。校長はがっくりした。
(いそぐんじゃないのかね!)
しかし好都合である。トイレ内では逃げ場がない。窓からの逃走も、二階では容易にできないことだ。校長はこっそり男子トイレへ足を踏み入れた。人影はない。ドアのある洋式トイレに隠れたかと思い、ドアを開けてみる。鍵の手応えはなく、中に人もいなかった。
(もしや窓から脱出を?)
そんな常人離れした運動能力をもつ人なのか、と半信半疑になりながら、校長は窓を全開にする。興奮していたせいで、レール上を移動する窓が少々跳ね返った。
校舎の外には露木の姿がなかった。代わりに下校途中らしき生徒が歩いている。
(いない……ではアレか、いないと見せかけて天井に張り付くやつ!)
校長は窓の上を見上げる。ここにはいない。こちらは入口から視界に入る位置なので、いないのは最初からわかっていた。
(うしろか!)
校長は相手の身軽さに対抗して、機敏に振り向く。
「ザッツ・ニンジャ!」
校長は頭に思いついた語句を適当に発した。非日常的な状況に置かれていて、気分が高揚しているせいだ。言葉自体に意味はない。
しかし意気揚々と見た天井にも、人の姿はなかった。
(じゃあアレだ。隙を見て、すでにここを出たと!)
追跡者がなにかに注意を逸らしている合間を縫って、逃走する──そんなスパイじみたアクションを校長は想像した。即座にトイレの出入り口へ行き、あたりを見回す。
「ザッツ・ニ──」
ちょっと気に入ってきたワードを校長は途中で止めた。長身の男子生徒が目の前にいる。校長は露木以外の人が通りがかるとは思っていなかった。そのため、自身の態度は変質者に見えていないものかと一気に冷静になる。
ばったり会った男子生徒は校長のよく知る人物だった。先の期末試験で、またもトップの成績をおさめた秀才である。
「お、おや、椙守くんかね」
「はい、そうですが……」
椙守は校長を怪しんでいる。「なにをひとりで盛り上がっているんだ」と言わんばかりに冷めた目だ。校長は名誉の回復を図るまえに、露木の行方をたずねる。
「このトイレから、二十代の男の人が出てこなかったかね?」
「いえ、僕は見ていません」
「むむむ、そうか……」
校長の予想はことごとく外れた。露木はまことに消えてしまったようだ。
「あの、校長はどうしてここに……?」
椙守は当然の疑問を口にする。校長が校長室から遠いトイレへわざわざ行く理由がないのだ。正直に事情を話しても、この現実主義者な生徒は信じてくれないだろう。それどころか校長を変人あつかいしかねない──もうすでにそう見られている自覚はあったが、別種の変人属性を付与されたくなかった。
校長は追究を回避するため、椙守の機嫌をとりにかかる。
「いやはや、きみはまたまた優秀な試験結果を出したそうだね。すごいことだよ」
しかし椙守の表情は変わらない。
「いつものことですから」
彼の胸に校長の言葉はまったく響いていない。校長は新種の噂をもとにアプローチをしかける。
「きみは学校の成績に出にくいこともがんばっているようだね」
「うちの花屋のことですか?」
「それもあるが、特筆すべきはきみの肉体改造だよ。ずいぶん、たくましくなってきたんじゃないか?」
椙守は運動のできない秀才タイプであったが、ここ最近は筋トレにめざめているという。正直なところ、その成果が体に反映されているのか、校長はわからない。彼の身体にはからっきし関心がなかったので、比較できる記憶がないのだ。
生徒が求めているであろう褒め言葉をかけると、椙守はようやく少年らしい素直なよろこびを表に出す。
「え……わかるんですか?」
「ああ! 男らしさが増してきたようだ。その調子でいけば小山田くんもきみを放っておかなくなるだろうね」
校長の差し出がましい感想は椙守の喜色を吹き飛ばした。だがさっきまではなかった照れが内在している。
「そんなやましい気持ちでやってるんじゃありません」
「ははは、そうかね。これは失礼なことを言ってしまった。おじさんの冗談だと思って、わすれてほしい」
「校長が言うと冗談に聞こえません」
椙守はぷいっと顔をそむけて、男子トイレへすすむ。校長の目論見通り、どうにか話をはぐらかせた。
(ふぅ、あの子にはやはり小山田くんの話題が効果テキメンのようだ)
その女子生徒は、英語の追試を受ける対象である。しかし試験会場に生徒はいなかった。彼女も大事な用事をすっぽかす人間ではないはずだが。
(先生と生徒の二人で……どこかへ行った?)
そうとしか考えられない。この推測に至った校長は打ち震えた。
(なんということだ……!)
校長の全身に、熱い感情が駆け巡る。
(愛の逃避行か!)
校長はにやけた顔をさげて、校舎内を巡回しはじめた。とうに露木の行方はどうでもよくなっている。校長の脳内には、純情な教師と生徒の親しげな場面が展開されていた。
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