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2018年08月03日
拓馬篇−10章◇ ★
ヤマダが目を開けた。どこかの建物の天井が視界に映る。それがなんの建物なのかわからず、ぼーっとした。
一秒一秒を経るごとに、寝起きのヤマダは直近の記憶がよみがえっていく。この場は異質な空間だ。ヤマダは古馴染みと新参の仲間と一緒に、大蜘蛛の怪物をどうにかしようとした。そんな危険な冒険を共にした相棒が、声をかけてこない。
「タッちゃん、どこ?」
返事はなかった。床に寝ていたヤマダはむくりと上体を起こす。教室内に人の姿はない。拓馬はどこかへ行ったのだろうか。まずは椅子に座ろうと思い、床に手をつく。その際に紙にふれた。床に落ちていた紙は、自分が常日頃から使うメモ用紙だった。そこに拓馬の字で書かれた一文がある。
(ここで待っていればいいんだね……)
メモによって事の次第をつかめた。拓馬の行き先はわかるが、そこへ向かうのは得策でない。もし行きちがいになれば拓馬に余計な心配をかけさせる。なにより、ヤマダは自分で思うほど本調子ではない。この空間で二度も昏倒したのだ。一度めは覚悟のうえで行なった結果だが、二度めはまったくの想定外。もし三度めが自分ひとりのときに発生したなら、命はないかもしれない。
(えーと、わたしのカバンは……)
ヤマダは自分のリュックサックが手元にないのに気付き、その行方をさがした。私物は机上にある。立ち上がってその机に近づいてみると、さらに隣りの机上に自分の文具が散乱していた。
(タッちゃんが使っていったんだ)
それらはヤマダへの伝言を書く目的にとどまらず、体育館前のクイズを解こうと苦心した様子もうかがい知れる。
(なぞなぞに飽きちゃって、キツネをさがしに行ったみたい)
解答に必要なピースも机上に放置されている。これを失っては困るので、ヤマダはリュックサックのポケットにもどした。というのも解答に使う文字自体はすでにメモに控えてある。答えを考えるのにピースは必要でなかった。
(あ、そうだ……ここ、どこの教室?)
ヤマダは自分の現在位置を把握するため、窓の外を見た。連絡通路がある。それは二階の教室からよく見かける景色だ。
(二階の……試験をやる教室かな?)
連絡通路が見える角度的に、追試の会場となる教室だと感じた。その確認がてら黒板に注目する。そこには「Wishing you good fortune」と書かれてあった。追試の場でまちがいない。
「『幸運を祈る』……か」
最初にその文を読んだときは、ごく普通の激励文だと受け流していた。いまでは一種の嫌味だ。怪物が住む学校に囚われていては、幸運もへったくれもない。
あえて良かったことを挙げるとすれば、幼馴染が日常的に接する世界を垣間見れたこと。だがそれももう充分だ。もはや疲れてしまった。
(……へこたれちゃいけない)
ヤマダは自身のうしろむきな思考を、反省する。
(タッちゃんはひとりでもがんばってるんだから)
自分もなにかやらねば、と己を叱咤する。その発想にもとづき、ヤマダは体育館の扉の問題に取りかかった。問題にまつわる資料一式はすでに机上にある。拓馬が座っていたであろう椅子に、腰をおろした。
最終問題で求められる答えは、幸運をつかさどる女神の名前。かつ、七文字の語句。
(『幸運』って……ラック以外にもあったね)
解答に思い当たるふしがあり、黒板を再度見る。ヤマダはチョークで書かれた英単語のひとつに着目し、その文字数をひとつずつ数えた。ラックと意味が被る英単語は、七文字だ。
(あ、これかな!)
これぞと思った英単語を、文字の置き換え表で丸をつけたアルファベットと見比べる。符合するアルファベットを順番に、表の余白に書いた。順調な筆運びだった。しかし六文字めを書いたところで手が止まる。
「最後のスペルが合わないや……」
惜しいことに、ひとつだけピースと文字がちがう。
(最後の文字を変えたら……女神の名前になるってこと?)
正答らしき単語が辞書に載っているか、確かめる。静かな室内でページをめくると、紙がこすれ合う音が明瞭に聞こえた。
ヤマダが辞書を繰るうち、紙では発生しえない音も耳にとどいた。かつん、こつん、と高く乾いた音。その音は廊下から響く。
(タッちゃんがきたの?)
ヤマダはぬかよろこびした。だがすぐに、拓馬があんな足音を出すだろうか、と冷静に考える。彼の内履きはスポーツシューズだ。あの靴裏のゴムでは、固いものを叩くような音は鳴らない気がする。
(え……じゃあ、だれ?)
別人の到来を予想したヤマダは、大急ぎで持ち物を片付けた。これは室内の人の気配を消すためであり、逃走準備でもある。
リュックサックを抱えながら、廊下側の教室の壁を背にして、しゃがむ。この位置なら教室の戸の窓から室内を見られても、発見されにくいと考えた。
無人をよそおった教室内で、ヤマダは息を殺す。耳をそばだてたところ、足音がやんでいた。
(廊下でとまってる?)
ヤマダは何十秒か様子をうかがった。物音はまったくしない。自身の衣擦れや呼吸だけが耳に入った。
(べつのところに行った?)
これ以上、身をひそめていても進展がなさそうだ。そう判断したヤマダは壁からはなれる。その際、机より上に頭があがらないよう注意を払った。
まずは教室の戸の窓を見上げ、そこになにもないのを確認する。次に廊下の様子を見に、教室前方の戸の窓から確認する。異物は発見できなかった。
(このへんにはいないのかな)
身をかがめた姿勢のまま、戸をすこし開けた。そっと顔の半分を出してみる。廊下にはなにもいなかった。足音を鳴らした者はほかの教室に入ったか、べつの通路へ行ったかしたのだろう。
(人さわがせだねー)
心臓によくないことを体験させてくれた対象に不満を抱きつつも、ヤマダは胸をなでおろした。安堵したヤマダは戸を閉める。謎解きを再開しようとして、うしろへ向きなおった。その途端──
「ひぎゃー!」
と、ヤマダは情けない悲鳴をあげた。教室にいないはずの人影が、そこに立っている。
「亡霊でも見たような顔をしていますね」
背後にいたのは、銀髪の英語教師だ。突然の教師出現に際して、ヤマダは我をわすれる。
「そりゃおどろくよ! ドッキリ映像だもん! いやホラー演出だよ、ゲームならCERO-B以上になるね!」
正誤のわからないことを早口でまくしたてた。対する教師はほほえんで、首を左右にゆっくりうごかす。
「貴女のボキャブラリーは私の理解を超えます」
落ち着きはらった態度だ。ふだん通りのシドの姿を見て、ヤマダは平静を取りもどしてくる。
「あの、先生は……なにしにここへきたの?」
ヤマダは自分が発した質問でありながら、違和感をおぼえた。本来ならこの二階の教室で、追試を行なう予定だった。その監督者である教師が現れること自体は必然なのだが。
女子生徒の困惑をよそに、男性教師はとびっきりの笑みを見せる。
「貴女を連れ去りにきました」
ヤマダはぽかんとした。その宣言はとっくに果たされた行為だと思っていたためだ。
ヤマダが呆然としているとシドも呆気にとられる。
「おや、今度はおどろきませんか」
「だってもう、連れこんでるよね。このヘンな学校に」
「これが私の仕業だと、貴女は思っていると?」
「うん、きっかけはこれ」
ヤマダがスカートのポケットに手をつっこむ。職員室で入手した小瓶を、蓋と瓶の底を指で持ちながら出した。それはシドの仕事机の引き出しにあったものだ。
小瓶には紫色の宝石のかけらが入っている。ヤマダはその割れた宝石の残骸を見つめる。
「これ、うちのお母さんが持ってたものだよね?」
ヤマダは自分でもおどろくほど自然体で質問をはじめた。小瓶を発見した当初は、持ち主にどう問いただしていいやら混乱していた。
(こうなったら、腹くくるしかない)
もう開き直った。この武闘派な教師と会ったが最後、逃げられはしない。だったらやれるだけのことをしてやろう、という捨て身の覚悟ができあがっていた。
「先生にはあげてないはずなの。先生がこの学校にくるまえに、お母さんがべつの男の人にあげたから」
母が家族に話した内容では、その男性は小さな女の子の命を救った若者だったという。母が彼と話を深めていくうちに彼を気に入り、出会った記念として小瓶を渡したそうだ。また、その男性は父をしのぐほど体が大きかったとも聞いた。そして彼は、銀髪で、色黒の、青い目をした人だったらしい。
「その男の人が……先生なんでしょ?」
教師と大男は体格が完全に別物だ。それをわかっていて、ヤマダは二人が同じ人物であると断定する。
「いまとはちがう、大男の姿で、お母さんと会ってた」
並みの人間ではできない変装である。そんな荒唐無稽な話を是とする根拠は、エリーと名付けた化け物にある。
「……先生はエリーの、黒いオバケの子の仲間なんでしょう。……人間じゃないから、どんな姿にも変身できる。だってエリーが、わたしたちのまえで人に化けたんだから」
ヤマダが一方的な質問を展開した。返答をはさめるだけの間隔をあけているのだが、聞き手の反応はない。
「あの子たちは人を食うって、ここで会った異界の人が言ってた。本当なの? 教えてよ、先生!」
質問の締めにショッキングな内容をたずねた。正直なところ、その問いの返答は期待していない。ただ無反応をつらぬく相手の心をうごかしたかった。
待望の返答は、せまりくる手のひらだった。ヤマダは反射的に背を向ける。やはり逃走はできず、大きな手がヤマダの首をつかむ。逃げようと前へ出した足は空振りした。
(うぅ……わかっちゃいたけど……)
頸動脈を押さえられて、瞬時に死の恐怖が体中を走る。ヤマダは手にもつ荷物すべてを手放した。両手を使って、自分の首を絞める手を引きはがそうとする。懸命にもがくが、指一本とて離れる気配はない。力の差は歴然だった。
(このまま、負けたくない……)
絶望的な苦境に立たされながらも、一矢報いてやりたい、という闘志がふつふつ湧く。しかしその思いを成就するだけの力がなかった。
シドの右腕がヤマダを両腕ごと拘束した。そして彼の顔がヤマダの耳に触れる。
「貴女の思っていることがすべて真実だとしたら、どうしますか?」
ヤマダの全身に鳥肌が立った。これは耳元でささやかれたことへの拒絶反応だ。
(ちかい! 悪寒がする!)
このような不快な状況下において、唯一の安息がうまれた。ヤマダの首をつかむ手がゆるんだのだ。生命の危機を脱したおかげで、ヤマダの体のこわばりがいくらか解消された。
ヤマダの首を絞めていたシドの左手が、徐々に顔のほうへ上がる。肌をすべっていく感触が、ヤマダの嫌悪感を最大限に増幅させた。
「助平! 色魔! けだもの! 色事師! 淫乱教師ーっ! わたしの体が目当てで、だましてたんだなーっ!」
渾身の罵倒を浴びせた。暴言を吐かれた側はかすかに笑い「やはりボキャブラリーが豊かですね」と感心した。余裕綽綽な態度だ。
(くそっ、勝利を確信した悪党の余裕か!)
言葉での反撃は効き目がなかった。そうこうしている間にも彼の左手はヤマダの顔にせまってくる。指輪をはめた人差し指が口元に近付いた。
(ええい、これが最終手段!)
ヤマダはその指先に噛みつく。大抵、手をかまれた者はひるむ。その隙に逃げられれば、と一縷の望みをかけたが、手は遠ざからない。何度か噛みなおしてみる。手を噛まれた相手が痛がる素振りはない。
(だったら手加減しない! 噛みちぎるつもりでやってやる!)
全力で噛もうとして口を開けた。すると指は口深くに侵入する。歯が指輪にがちっと当たった。指輪を噛んだせいでできた隙間に、中指も入る。二本の指で舌を押さえられた。
「貴女の指摘は半分正解で半分外れです」
体中から、とくに口から黒い煙のようなものが立ちこめる。
「いまの私は貴女の肉体にみなぎる活力を必要としていますが、それが目的で人里にまぎれているのではありません」
煙が放出していくにつれ、ヤマダの全身が脱力感に見舞われる。エリーと名付けた少女が人型へ変ずるにあたり、ヤマダが力を分けた時と同じ感覚だ。あの時も黒い異形に全身を抱えられ、口をふさがれた。
(これが、補給スタイル……?)
口内に指を入れるのも力をうばう態勢だったか、と理解した時にはもう遅かった。立つ力を失い、化けの皮がはがれた教師に体をあずける。ヤマダの元気が失われたせいか、煙がうすれていく。そしてシドの手は口元を離れた。唾液にまみれたはずの指はぬれていなかった。
混濁する意識の中、重いまぶたを閉じる。床をとらえていた足裏の感触が消えた。代わりに背中とひざ裏に重力を感じ、体の片側にぬくもりが伝わってきた。横抱きにされているらしい。
(どこに、つれてく……)
そう聞きたかったが、声は出なかった。最後のあがきとして、握りこぶしをシドの胸に当てた。ずり落ちる拳の小指に、硬い感触がした。それは小さな宝石を三つあしらったネクタイピン。小山田家の亡き長男が将来的に使うために作られ、父の友人が父に贈ったものだ。現在は期限付きでシドに貸し出している。
(まだ、使ってるんだ……)
自分が与えたものを、身に着けている──その事実はヤマダの胸にほんのり温かみを生じさせた。
「次に貴女が目覚めたとき……すべてが終わっています」
廊下に響く足音にかさねて、男性の低い声が聞こえる。
「最良の結末が訪れることを祈りなさい」
どんな表情で発した言葉なのか、もうわからない。その声色はどこまでもやさしかった。
一秒一秒を経るごとに、寝起きのヤマダは直近の記憶がよみがえっていく。この場は異質な空間だ。ヤマダは古馴染みと新参の仲間と一緒に、大蜘蛛の怪物をどうにかしようとした。そんな危険な冒険を共にした相棒が、声をかけてこない。
「タッちゃん、どこ?」
返事はなかった。床に寝ていたヤマダはむくりと上体を起こす。教室内に人の姿はない。拓馬はどこかへ行ったのだろうか。まずは椅子に座ろうと思い、床に手をつく。その際に紙にふれた。床に落ちていた紙は、自分が常日頃から使うメモ用紙だった。そこに拓馬の字で書かれた一文がある。
(ここで待っていればいいんだね……)
メモによって事の次第をつかめた。拓馬の行き先はわかるが、そこへ向かうのは得策でない。もし行きちがいになれば拓馬に余計な心配をかけさせる。なにより、ヤマダは自分で思うほど本調子ではない。この空間で二度も昏倒したのだ。一度めは覚悟のうえで行なった結果だが、二度めはまったくの想定外。もし三度めが自分ひとりのときに発生したなら、命はないかもしれない。
(えーと、わたしのカバンは……)
ヤマダは自分のリュックサックが手元にないのに気付き、その行方をさがした。私物は机上にある。立ち上がってその机に近づいてみると、さらに隣りの机上に自分の文具が散乱していた。
(タッちゃんが使っていったんだ)
それらはヤマダへの伝言を書く目的にとどまらず、体育館前のクイズを解こうと苦心した様子もうかがい知れる。
(なぞなぞに飽きちゃって、キツネをさがしに行ったみたい)
解答に必要なピースも机上に放置されている。これを失っては困るので、ヤマダはリュックサックのポケットにもどした。というのも解答に使う文字自体はすでにメモに控えてある。答えを考えるのにピースは必要でなかった。
(あ、そうだ……ここ、どこの教室?)
ヤマダは自分の現在位置を把握するため、窓の外を見た。連絡通路がある。それは二階の教室からよく見かける景色だ。
(二階の……試験をやる教室かな?)
連絡通路が見える角度的に、追試の会場となる教室だと感じた。その確認がてら黒板に注目する。そこには「Wishing you good fortune」と書かれてあった。追試の場でまちがいない。
「『幸運を祈る』……か」
最初にその文を読んだときは、ごく普通の激励文だと受け流していた。いまでは一種の嫌味だ。怪物が住む学校に囚われていては、幸運もへったくれもない。
あえて良かったことを挙げるとすれば、幼馴染が日常的に接する世界を垣間見れたこと。だがそれももう充分だ。もはや疲れてしまった。
(……へこたれちゃいけない)
ヤマダは自身のうしろむきな思考を、反省する。
(タッちゃんはひとりでもがんばってるんだから)
自分もなにかやらねば、と己を叱咤する。その発想にもとづき、ヤマダは体育館の扉の問題に取りかかった。問題にまつわる資料一式はすでに机上にある。拓馬が座っていたであろう椅子に、腰をおろした。
最終問題で求められる答えは、幸運をつかさどる女神の名前。かつ、七文字の語句。
(『幸運』って……ラック以外にもあったね)
解答に思い当たるふしがあり、黒板を再度見る。ヤマダはチョークで書かれた英単語のひとつに着目し、その文字数をひとつずつ数えた。ラックと意味が被る英単語は、七文字だ。
(あ、これかな!)
これぞと思った英単語を、文字の置き換え表で丸をつけたアルファベットと見比べる。符合するアルファベットを順番に、表の余白に書いた。順調な筆運びだった。しかし六文字めを書いたところで手が止まる。
「最後のスペルが合わないや……」
惜しいことに、ひとつだけピースと文字がちがう。
(最後の文字を変えたら……女神の名前になるってこと?)
正答らしき単語が辞書に載っているか、確かめる。静かな室内でページをめくると、紙がこすれ合う音が明瞭に聞こえた。
ヤマダが辞書を繰るうち、紙では発生しえない音も耳にとどいた。かつん、こつん、と高く乾いた音。その音は廊下から響く。
(タッちゃんがきたの?)
ヤマダはぬかよろこびした。だがすぐに、拓馬があんな足音を出すだろうか、と冷静に考える。彼の内履きはスポーツシューズだ。あの靴裏のゴムでは、固いものを叩くような音は鳴らない気がする。
(え……じゃあ、だれ?)
別人の到来を予想したヤマダは、大急ぎで持ち物を片付けた。これは室内の人の気配を消すためであり、逃走準備でもある。
リュックサックを抱えながら、廊下側の教室の壁を背にして、しゃがむ。この位置なら教室の戸の窓から室内を見られても、発見されにくいと考えた。
無人をよそおった教室内で、ヤマダは息を殺す。耳をそばだてたところ、足音がやんでいた。
(廊下でとまってる?)
ヤマダは何十秒か様子をうかがった。物音はまったくしない。自身の衣擦れや呼吸だけが耳に入った。
(べつのところに行った?)
これ以上、身をひそめていても進展がなさそうだ。そう判断したヤマダは壁からはなれる。その際、机より上に頭があがらないよう注意を払った。
まずは教室の戸の窓を見上げ、そこになにもないのを確認する。次に廊下の様子を見に、教室前方の戸の窓から確認する。異物は発見できなかった。
(このへんにはいないのかな)
身をかがめた姿勢のまま、戸をすこし開けた。そっと顔の半分を出してみる。廊下にはなにもいなかった。足音を鳴らした者はほかの教室に入ったか、べつの通路へ行ったかしたのだろう。
(人さわがせだねー)
心臓によくないことを体験させてくれた対象に不満を抱きつつも、ヤマダは胸をなでおろした。安堵したヤマダは戸を閉める。謎解きを再開しようとして、うしろへ向きなおった。その途端──
「ひぎゃー!」
と、ヤマダは情けない悲鳴をあげた。教室にいないはずの人影が、そこに立っている。
「亡霊でも見たような顔をしていますね」
背後にいたのは、銀髪の英語教師だ。突然の教師出現に際して、ヤマダは我をわすれる。
「そりゃおどろくよ! ドッキリ映像だもん! いやホラー演出だよ、ゲームならCERO-B以上になるね!」
正誤のわからないことを早口でまくしたてた。対する教師はほほえんで、首を左右にゆっくりうごかす。
「貴女のボキャブラリーは私の理解を超えます」
落ち着きはらった態度だ。ふだん通りのシドの姿を見て、ヤマダは平静を取りもどしてくる。
「あの、先生は……なにしにここへきたの?」
ヤマダは自分が発した質問でありながら、違和感をおぼえた。本来ならこの二階の教室で、追試を行なう予定だった。その監督者である教師が現れること自体は必然なのだが。
女子生徒の困惑をよそに、男性教師はとびっきりの笑みを見せる。
「貴女を連れ去りにきました」
ヤマダはぽかんとした。その宣言はとっくに果たされた行為だと思っていたためだ。
ヤマダが呆然としているとシドも呆気にとられる。
「おや、今度はおどろきませんか」
「だってもう、連れこんでるよね。このヘンな学校に」
「これが私の仕業だと、貴女は思っていると?」
「うん、きっかけはこれ」
ヤマダがスカートのポケットに手をつっこむ。職員室で入手した小瓶を、蓋と瓶の底を指で持ちながら出した。それはシドの仕事机の引き出しにあったものだ。
小瓶には紫色の宝石のかけらが入っている。ヤマダはその割れた宝石の残骸を見つめる。
「これ、うちのお母さんが持ってたものだよね?」
ヤマダは自分でもおどろくほど自然体で質問をはじめた。小瓶を発見した当初は、持ち主にどう問いただしていいやら混乱していた。
(こうなったら、腹くくるしかない)
もう開き直った。この武闘派な教師と会ったが最後、逃げられはしない。だったらやれるだけのことをしてやろう、という捨て身の覚悟ができあがっていた。
「先生にはあげてないはずなの。先生がこの学校にくるまえに、お母さんがべつの男の人にあげたから」
母が家族に話した内容では、その男性は小さな女の子の命を救った若者だったという。母が彼と話を深めていくうちに彼を気に入り、出会った記念として小瓶を渡したそうだ。また、その男性は父をしのぐほど体が大きかったとも聞いた。そして彼は、銀髪で、色黒の、青い目をした人だったらしい。
「その男の人が……先生なんでしょ?」
教師と大男は体格が完全に別物だ。それをわかっていて、ヤマダは二人が同じ人物であると断定する。
「いまとはちがう、大男の姿で、お母さんと会ってた」
並みの人間ではできない変装である。そんな荒唐無稽な話を是とする根拠は、エリーと名付けた化け物にある。
「……先生はエリーの、黒いオバケの子の仲間なんでしょう。……人間じゃないから、どんな姿にも変身できる。だってエリーが、わたしたちのまえで人に化けたんだから」
ヤマダが一方的な質問を展開した。返答をはさめるだけの間隔をあけているのだが、聞き手の反応はない。
「あの子たちは人を食うって、ここで会った異界の人が言ってた。本当なの? 教えてよ、先生!」
質問の締めにショッキングな内容をたずねた。正直なところ、その問いの返答は期待していない。ただ無反応をつらぬく相手の心をうごかしたかった。
待望の返答は、せまりくる手のひらだった。ヤマダは反射的に背を向ける。やはり逃走はできず、大きな手がヤマダの首をつかむ。逃げようと前へ出した足は空振りした。
(うぅ……わかっちゃいたけど……)
頸動脈を押さえられて、瞬時に死の恐怖が体中を走る。ヤマダは手にもつ荷物すべてを手放した。両手を使って、自分の首を絞める手を引きはがそうとする。懸命にもがくが、指一本とて離れる気配はない。力の差は歴然だった。
(このまま、負けたくない……)
絶望的な苦境に立たされながらも、一矢報いてやりたい、という闘志がふつふつ湧く。しかしその思いを成就するだけの力がなかった。
シドの右腕がヤマダを両腕ごと拘束した。そして彼の顔がヤマダの耳に触れる。
「貴女の思っていることがすべて真実だとしたら、どうしますか?」
ヤマダの全身に鳥肌が立った。これは耳元でささやかれたことへの拒絶反応だ。
(ちかい! 悪寒がする!)
このような不快な状況下において、唯一の安息がうまれた。ヤマダの首をつかむ手がゆるんだのだ。生命の危機を脱したおかげで、ヤマダの体のこわばりがいくらか解消された。
ヤマダの首を絞めていたシドの左手が、徐々に顔のほうへ上がる。肌をすべっていく感触が、ヤマダの嫌悪感を最大限に増幅させた。
「助平! 色魔! けだもの! 色事師! 淫乱教師ーっ! わたしの体が目当てで、だましてたんだなーっ!」
渾身の罵倒を浴びせた。暴言を吐かれた側はかすかに笑い「やはりボキャブラリーが豊かですね」と感心した。余裕綽綽な態度だ。
(くそっ、勝利を確信した悪党の余裕か!)
言葉での反撃は効き目がなかった。そうこうしている間にも彼の左手はヤマダの顔にせまってくる。指輪をはめた人差し指が口元に近付いた。
(ええい、これが最終手段!)
ヤマダはその指先に噛みつく。大抵、手をかまれた者はひるむ。その隙に逃げられれば、と一縷の望みをかけたが、手は遠ざからない。何度か噛みなおしてみる。手を噛まれた相手が痛がる素振りはない。
(だったら手加減しない! 噛みちぎるつもりでやってやる!)
全力で噛もうとして口を開けた。すると指は口深くに侵入する。歯が指輪にがちっと当たった。指輪を噛んだせいでできた隙間に、中指も入る。二本の指で舌を押さえられた。
「貴女の指摘は半分正解で半分外れです」
体中から、とくに口から黒い煙のようなものが立ちこめる。
「いまの私は貴女の肉体にみなぎる活力を必要としていますが、それが目的で人里にまぎれているのではありません」
煙が放出していくにつれ、ヤマダの全身が脱力感に見舞われる。エリーと名付けた少女が人型へ変ずるにあたり、ヤマダが力を分けた時と同じ感覚だ。あの時も黒い異形に全身を抱えられ、口をふさがれた。
(これが、補給スタイル……?)
口内に指を入れるのも力をうばう態勢だったか、と理解した時にはもう遅かった。立つ力を失い、化けの皮がはがれた教師に体をあずける。ヤマダの元気が失われたせいか、煙がうすれていく。そしてシドの手は口元を離れた。唾液にまみれたはずの指はぬれていなかった。
混濁する意識の中、重いまぶたを閉じる。床をとらえていた足裏の感触が消えた。代わりに背中とひざ裏に重力を感じ、体の片側にぬくもりが伝わってきた。横抱きにされているらしい。
(どこに、つれてく……)
そう聞きたかったが、声は出なかった。最後のあがきとして、握りこぶしをシドの胸に当てた。ずり落ちる拳の小指に、硬い感触がした。それは小さな宝石を三つあしらったネクタイピン。小山田家の亡き長男が将来的に使うために作られ、父の友人が父に贈ったものだ。現在は期限付きでシドに貸し出している。
(まだ、使ってるんだ……)
自分が与えたものを、身に着けている──その事実はヤマダの胸にほんのり温かみを生じさせた。
「次に貴女が目覚めたとき……すべてが終わっています」
廊下に響く足音にかさねて、男性の低い声が聞こえる。
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2018年08月02日
拓馬篇−10章2 ★
防音部屋のような静寂さの中、拓馬は自分のすべきことを思い悩む。
(シズカさんを待つにしても、ぼーっとしているわけにいかないよな)
この場でやれること。それは体育館の扉に設置してあった最終問題の答え探しだ。
(七文字の単語を答えるんだっけか……?)
七つの解答用の小道具はそろっている。しかし解答は未着手だ。おそらくヤマダもまだ答えの候補を見つけていない。
(ちょっくら考えてみるか)
問題の訳文のメモや、問題を訳す際に参考にした異界の文字一覧表などはすべてヤマダが所有している。それらは、ヤマダの枕として利用中のリュックサックに入れてある。
(枕代わりはやめとこう)
気を利かせたつもりだったが、結果的に物事を煩雑にするだけにおわった。拓馬は「ごめんな」とつぶやきながら、そっとヤマダの頭を床におろす。彼女の荷物を持ち、席に着いた。必要な文具類一式を机にならべる。そのうちのリング式のメモ帳を開いた。パラパラとページをめくり、この場に関わる記載をさがす。ストンと折りたたんだ紙が机に落ちた。紙を開いてみると、それは異界の文字をアルファベットに置き換える表だった。文字に七箇所、丸が描いてある。
(この七文字……で合ってるか、いちおう確認しとくか)
拓馬は現物の解答用ピースをさがした。文具類があった収納スペースには見当たらない。リュックサックの外側についた正面ポケットに硬い感触があり、そこのファスナーを開くと文字の書いたピースがあった。鷲づかみで机上へ取り出す。ピースの向きはなにが正しいのかわからないため、一覧表を見ながらととのえていった。
(丸をつけたところ……と対応してるな)
次にこのピースを使って解くべき問題文のメモをさがす。一覧表をはさんでいたメモ帳に、記載があった。
(幸運の女神の名前……か)
拓馬には心当たりがない分野だ。
(この答えはたぶん、和名じゃないよな)
母音は「U」「A」「O」の三つ、母音のまえにつくべき子音は「F」「R」「N」「T」の四つ。「N」を「ん」と読むのなら子音と母音の数は合う。だが「ん」のつく四文字の女神は記憶にない。そもそも日本の神さまは長い名前が多く、四文字では足りない。
(日本で『幸運』っつうざっくりした運担当の神さまはいない気がするし……)
運は運でも商売運であったり恋愛運、健康運なりと、日本ではよく細分化されている。神さまも分業しているのだ。
(やっぱ西洋か)
外国の名前ならば、解答に必要とする子音はどれも母音なしで発音できる。どんな配列だろうと名前として読めそうだ。
(総当たりでためすとしたら、何通りになるんだろ?)
拓馬は適当なメモ用紙を出した。数学でならった計算式を書いていく。
(異なる七つの文字を、一列にならべるのは、七の階乗か)
七かける六かける五……と続いて二まで書いた。本来の数式では一もかけるのだが、答えを出す際には無意味な計算ゆえに省略した。
(五〇四〇通り……ひとつずつ一秒間でためしたとしても、一時間はかかるな)
一時間は三六〇〇秒。そうと知っているので大ざっぱな算定が簡単にできた。しかし知らぬ知識はどれだけ頭をなやませてもわかるはずがない。
(シド先生が作った問題だと、いじわるはしてこないと思うんだけどな)
あの素直な教師ならきっと、どこかに答えを用意している──たとえば彼が拓馬たちに持たせた辞書に。
(箱の問題で一個、辞書に答えが載ってるのがあったな)
それは拓馬が答えを導いた問題だ。問題文にある英単語を、辞書で調べるだけで解答できた。そんなふうに、辞書を検索すれば見つかる答えなのかもしれない。拓馬は辞書を引っ張りだした。キーワードとなる「God」をさがす。項目はあったが、その用例にそれらしい女神の名前は書いてなかった。
(ダメか……)
そう何度も同じ手段は通じないらしい。あきらめてほかの可能性を考えていくと、他力本願的な発想に行き着く。
(もしかして、シズカさんが知ってる言葉なのか?)
赤毛の洞察では、体育館前の問題はシズカ向けにつくられているという。異界の文字で表記した問題文だけでなく、答えもシズカ用であるのなら、拓馬たちの長考は休憩と同じことになる。
(やっぱりキツネを見つけようかな……)
シズカの到来を恐れる少女の言動をかえりみるに、異形はこの教室に近寄らない、シズカとはもうすこしで合流がかなう。拓馬がヤマダを置いて、狐捜索に出かけてもよい条件はそろっている。
(しばらくここにいて、なんともなかったんだし……)
拓馬は数分前まで蜘蛛の住処だった校舎を見る。窓越しに確認したところ、蜘蛛も黒い化け物たちもいなかった。
(いまがチャンスじゃないか?)
拓馬はヤマダ向けの書置きをする。拓馬の不在中、寝起きの彼女が拓馬を捜しに教室を離れる事態はありうる。そうならないよう、配慮した。
拓馬は紙に「俺が戻るまでここにいろ」と自身の名を添えて書く。その紙をヤマダの腹に置いた。謎解きに使った文具類は帰ってきたときにまた使うと思い、そのまま放置した。
廊下を出ると、こちらの校舎にも黒い化け物が一体も見当たらなかった。
(あの赤毛がなにかしたのか?)
拓馬はこの好都合な状況を、別行動する同志がつくりだしたものだと仮説を立てておいた。胸中の謎を処理できた拓馬は連絡通路を通り、白い糸が残る校舎に立った。こちらの廊下を一見したところ、廊下の端と端は糸の被害がすくないようだ。拓馬の位置にちかい末端の部屋は自習用の学習室である。
(こっちのほうは、指差されてなかったな)
少女が示した狐の居場所を思うに、この階の両端は不在だと直感した。
(普通の教室から見ていこう)
手始めに直近の教室に入る。室内に糸はなく、異形の姿もない。拓馬は安心して教室を調べた。教卓の下、机と椅子の間、掃除ロッカーの中などをくまなくしらべた。ひととおり目を通して、獣はいないと判断する。
(この教室はハズレだ)
次の教室に移る。隣の教室は二つあるうちのひとつの戸口に糸が絡まっていた。もう一方の戸は無事だったため、そこから入室する。出入口が片方のみの教室にいて、拓馬は緊張した。
(ここで入口に化け物が出てきたら、どうすっかな)
自身の状況をあやぶんだが、危険な存在は現れず、杞憂ですんだ。この教室も丹念に捜索したが不発だったため、次へと向かう。
三つめの教室は戸口が両方とも糸で覆われていた。拓馬は糸の被害が比較的すくない引き戸を左右に揺さぶり、糸をはがす。がたがたと何度も戸をうごかしたのち、入室できた。
糸で覆われた教室に入ったとたん、教卓の下にある白い物陰が目についた。犬や猫が寝入る仕草のように、丸まったなにか。
(キツネか!)
拓馬は歓心をおさえながら教卓に接近した。かがんでみるとその白い物体は獣だとわかった。分厚い尻尾はまぎれもなく狐のもの。拓馬は狐をやさしく抱き上げた。狐は呼吸をしておらず、うごいていない。まるで死骸のようだ。だが体の熱は失われていないように感じた。これがエリーと名付けられた異形の言う、生きても死んでもいない状態か。この仮死状態はヤマダかシズカが接触すると解除されるという。
(ねてるヤマダに触らせても、復活するのかな?)
ささやかな疑問を持ちつつ、拓馬は狐を抱いて空き教室へもどる。白い糸の張った廊下をふたたび行き、連絡通路へ出る。するとさっきまでいなかった異形が床からぬっと顔を出した。拓馬は面食らう。それが一体だけでなく、複数体が一挙に出現したため、足を止めざるをえなかった。黒い物体たちは道をふさいでいるのだ。
(これは突っ切れないな……)
拓馬は迂回ルートを通ることに決めた。即座に思いついた経路は二種類。一階の連絡通路を通り二階にもどるか、二階職員室付近の連絡通路を通るか。
(階段の上り下りは地味にキツい……)
体力の温存が図れる、職員室前経路を選ぶことにした。化け物たちは動作の緩慢な連中なようで、拓馬の脚力についてこれず、拓馬は難なく逃走できた。
(シズカさんを待つにしても、ぼーっとしているわけにいかないよな)
この場でやれること。それは体育館の扉に設置してあった最終問題の答え探しだ。
(七文字の単語を答えるんだっけか……?)
七つの解答用の小道具はそろっている。しかし解答は未着手だ。おそらくヤマダもまだ答えの候補を見つけていない。
(ちょっくら考えてみるか)
問題の訳文のメモや、問題を訳す際に参考にした異界の文字一覧表などはすべてヤマダが所有している。それらは、ヤマダの枕として利用中のリュックサックに入れてある。
(枕代わりはやめとこう)
気を利かせたつもりだったが、結果的に物事を煩雑にするだけにおわった。拓馬は「ごめんな」とつぶやきながら、そっとヤマダの頭を床におろす。彼女の荷物を持ち、席に着いた。必要な文具類一式を机にならべる。そのうちのリング式のメモ帳を開いた。パラパラとページをめくり、この場に関わる記載をさがす。ストンと折りたたんだ紙が机に落ちた。紙を開いてみると、それは異界の文字をアルファベットに置き換える表だった。文字に七箇所、丸が描いてある。
(この七文字……で合ってるか、いちおう確認しとくか)
拓馬は現物の解答用ピースをさがした。文具類があった収納スペースには見当たらない。リュックサックの外側についた正面ポケットに硬い感触があり、そこのファスナーを開くと文字の書いたピースがあった。鷲づかみで机上へ取り出す。ピースの向きはなにが正しいのかわからないため、一覧表を見ながらととのえていった。
(丸をつけたところ……と対応してるな)
次にこのピースを使って解くべき問題文のメモをさがす。一覧表をはさんでいたメモ帳に、記載があった。
(幸運の女神の名前……か)
拓馬には心当たりがない分野だ。
(この答えはたぶん、和名じゃないよな)
母音は「U」「A」「O」の三つ、母音のまえにつくべき子音は「F」「R」「N」「T」の四つ。「N」を「ん」と読むのなら子音と母音の数は合う。だが「ん」のつく四文字の女神は記憶にない。そもそも日本の神さまは長い名前が多く、四文字では足りない。
(日本で『幸運』っつうざっくりした運担当の神さまはいない気がするし……)
運は運でも商売運であったり恋愛運、健康運なりと、日本ではよく細分化されている。神さまも分業しているのだ。
(やっぱ西洋か)
外国の名前ならば、解答に必要とする子音はどれも母音なしで発音できる。どんな配列だろうと名前として読めそうだ。
(総当たりでためすとしたら、何通りになるんだろ?)
拓馬は適当なメモ用紙を出した。数学でならった計算式を書いていく。
(異なる七つの文字を、一列にならべるのは、七の階乗か)
七かける六かける五……と続いて二まで書いた。本来の数式では一もかけるのだが、答えを出す際には無意味な計算ゆえに省略した。
(五〇四〇通り……ひとつずつ一秒間でためしたとしても、一時間はかかるな)
一時間は三六〇〇秒。そうと知っているので大ざっぱな算定が簡単にできた。しかし知らぬ知識はどれだけ頭をなやませてもわかるはずがない。
(シド先生が作った問題だと、いじわるはしてこないと思うんだけどな)
あの素直な教師ならきっと、どこかに答えを用意している──たとえば彼が拓馬たちに持たせた辞書に。
(箱の問題で一個、辞書に答えが載ってるのがあったな)
それは拓馬が答えを導いた問題だ。問題文にある英単語を、辞書で調べるだけで解答できた。そんなふうに、辞書を検索すれば見つかる答えなのかもしれない。拓馬は辞書を引っ張りだした。キーワードとなる「God」をさがす。項目はあったが、その用例にそれらしい女神の名前は書いてなかった。
(ダメか……)
そう何度も同じ手段は通じないらしい。あきらめてほかの可能性を考えていくと、他力本願的な発想に行き着く。
(もしかして、シズカさんが知ってる言葉なのか?)
赤毛の洞察では、体育館前の問題はシズカ向けにつくられているという。異界の文字で表記した問題文だけでなく、答えもシズカ用であるのなら、拓馬たちの長考は休憩と同じことになる。
(やっぱりキツネを見つけようかな……)
シズカの到来を恐れる少女の言動をかえりみるに、異形はこの教室に近寄らない、シズカとはもうすこしで合流がかなう。拓馬がヤマダを置いて、狐捜索に出かけてもよい条件はそろっている。
(しばらくここにいて、なんともなかったんだし……)
拓馬は数分前まで蜘蛛の住処だった校舎を見る。窓越しに確認したところ、蜘蛛も黒い化け物たちもいなかった。
(いまがチャンスじゃないか?)
拓馬はヤマダ向けの書置きをする。拓馬の不在中、寝起きの彼女が拓馬を捜しに教室を離れる事態はありうる。そうならないよう、配慮した。
拓馬は紙に「俺が戻るまでここにいろ」と自身の名を添えて書く。その紙をヤマダの腹に置いた。謎解きに使った文具類は帰ってきたときにまた使うと思い、そのまま放置した。
廊下を出ると、こちらの校舎にも黒い化け物が一体も見当たらなかった。
(あの赤毛がなにかしたのか?)
拓馬はこの好都合な状況を、別行動する同志がつくりだしたものだと仮説を立てておいた。胸中の謎を処理できた拓馬は連絡通路を通り、白い糸が残る校舎に立った。こちらの廊下を一見したところ、廊下の端と端は糸の被害がすくないようだ。拓馬の位置にちかい末端の部屋は自習用の学習室である。
(こっちのほうは、指差されてなかったな)
少女が示した狐の居場所を思うに、この階の両端は不在だと直感した。
(普通の教室から見ていこう)
手始めに直近の教室に入る。室内に糸はなく、異形の姿もない。拓馬は安心して教室を調べた。教卓の下、机と椅子の間、掃除ロッカーの中などをくまなくしらべた。ひととおり目を通して、獣はいないと判断する。
(この教室はハズレだ)
次の教室に移る。隣の教室は二つあるうちのひとつの戸口に糸が絡まっていた。もう一方の戸は無事だったため、そこから入室する。出入口が片方のみの教室にいて、拓馬は緊張した。
(ここで入口に化け物が出てきたら、どうすっかな)
自身の状況をあやぶんだが、危険な存在は現れず、杞憂ですんだ。この教室も丹念に捜索したが不発だったため、次へと向かう。
三つめの教室は戸口が両方とも糸で覆われていた。拓馬は糸の被害が比較的すくない引き戸を左右に揺さぶり、糸をはがす。がたがたと何度も戸をうごかしたのち、入室できた。
糸で覆われた教室に入ったとたん、教卓の下にある白い物陰が目についた。犬や猫が寝入る仕草のように、丸まったなにか。
(キツネか!)
拓馬は歓心をおさえながら教卓に接近した。かがんでみるとその白い物体は獣だとわかった。分厚い尻尾はまぎれもなく狐のもの。拓馬は狐をやさしく抱き上げた。狐は呼吸をしておらず、うごいていない。まるで死骸のようだ。だが体の熱は失われていないように感じた。これがエリーと名付けられた異形の言う、生きても死んでもいない状態か。この仮死状態はヤマダかシズカが接触すると解除されるという。
(ねてるヤマダに触らせても、復活するのかな?)
ささやかな疑問を持ちつつ、拓馬は狐を抱いて空き教室へもどる。白い糸の張った廊下をふたたび行き、連絡通路へ出る。するとさっきまでいなかった異形が床からぬっと顔を出した。拓馬は面食らう。それが一体だけでなく、複数体が一挙に出現したため、足を止めざるをえなかった。黒い物体たちは道をふさいでいるのだ。
(これは突っ切れないな……)
拓馬は迂回ルートを通ることに決めた。即座に思いついた経路は二種類。一階の連絡通路を通り二階にもどるか、二階職員室付近の連絡通路を通るか。
(階段の上り下りは地味にキツい……)
体力の温存が図れる、職員室前経路を選ぶことにした。化け物たちは動作の緩慢な連中なようで、拓馬の脚力についてこれず、拓馬は難なく逃走できた。