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2018年01月13日
拓馬篇−1章2
体育館に全校生徒と教師が一堂に会した。壇上には頭皮の面積の多い中年が立っている。この場では物理的にも立場的にもトップに位置する人物だ。その中年が喋りだす。
「全校生徒の皆さん、春休みは満喫されたかな? 今日からは再び学校生活をエンジョイする時期となった! 一同、大いに学び、大いに交友するように! 以上!」
中年は簡潔に話を終わらせ、半歩後ろへ下がった。進行役の若い教師が慌てる。
「羽田校長! お話が短くはありませんか?」
校長が再度マイクに顔を寄せる。
「そうか、ではもう一つ言っておこう。今学期から来る転校生と先生は皆、ステキな人だ! 特に新二年生の諸君、是非とも彼らと親しくなり、心躍らせたまえ!」
進行役の教師は校長の言葉に呆れ、そのまま始業式を進めた。校長は型破りだが他は至極普通な式典の流れだった。生徒たちは新たに振り分けられた教室へと帰る。大勢がぞろぞろと歩く中、流れに逆らう生徒がいた。拓馬のもとにポニーテールの女子がくる。
「タッちゃん、校長の話聞いた? まーたハゲたことを企んでるみたいだね」
「あの様子じゃ、二年に転校生と先生が来るか」
「どんな刺客が来ようと、わたしたちの信念に変わりはないよ」
ヤマダは拓馬の肩を叩いた。彼女の信念とは学内で恋愛をしないことだ。二人は親しい間柄だが恋仲ではない。物心ついた時から共にいた兄弟同然の友人だ。ベタな男女の恋物語を好む校長の格好の標的として、なにかにつけ校長との接触がある。
二人は他愛もない話をしながら二年生の教室へ行く。始業式前に自身のクラスは知っていた。ところがヤマダは他の教室へ入っていく。彼女は黒板に貼ったクラス名簿を見る。それは一度は目を通した印刷紙だ。
「やっぱり、このクラスに転校生は来ないんだね」
「うちのクラスには二人、知らない名前が載っていたのにな」
ヤマダはさらに別のクラスへ入る。どの一覧表にも見知った名前が載るばかり。
「と、いうことは……うちだけ転校生が割り当てられたんだね」
「校長が『転校生はステキな人』だとか抜かしてたな、きっとそういう狙いなんだろ」
「あの校長、よっぽどわたしらを目のカタキにしてんのかな?」
「メインはお前だ。男友だちが多いから」
「くそう、いっそ男に生まれていれば……」
「そのときは女友だちと変な目で見られるんじゃねえの?」
校長はとかく生徒に恋愛を奨励する。その目的は定かではないが、校長には重要な行動理念だ。標的となる生徒は恋愛沙汰に関心が薄い反面、仲の良い異性のいる者たちだった。
「うおーい、拓馬!」
野太い声が廊下から飛んでくる。ひときわ体格の良い男子生徒だ。
「わしらはこっちの教室じゃ、もうすぐ先生が来るぞ!」
拓馬が「いま行く!」と返事をした。早歩きで自分の教室へもどる。まだしっかり覚えていない自席に着くと、まもなく男性教師が入室した。白髪交じりの中年だ。拓馬たちが見慣れた英語教師がクラス全員に話しかける。
「二年三組を受け持つ本摩だ! 皆、よろしく頼むよ」
ヤマダ含めた一部の生徒が「はーい」と答えた。
「クラス分けの一覧を見ただろう。このクラスには転校生が二人やってくる! 新しい仲間は授業が始まったら登校する。紹介はその時にするから楽しみにしておくよーに」
次に本摩は連絡事項が載るプリントを配る。その中に土曜補習の日程があった。補習は週続きだったり隔週だったりと規則性なく行われる。拓馬は今月の補習日を念入りに確認した。
「配布物をもらったら今日は解散! 明日も半日だ。最後の休み気分を味わいなさい」
本摩が教壇から降りるや否や、生徒が活発になる。脇目もふらずに帰宅する者、友人と話す者、他の教室へ行く者など様々だ。拓馬は鞄を担いだ時にヤマダに話しかけられた。
「ねえタッちゃん、気になったことがあってね」
「なんだ?」
「去年……つっても二学期の始業式ね。新任の先生は校長の話の後にステージに立って、挨拶してたでしょ?」
「ぺーぺーのヤス先生か?」
昨年の二学期から勤める教師は教員未経験の若者だった。彼は新任早々、一年生の社会科科目を担当した。この新人は、事情があって休職する教師の代替要員だという。しかし拓馬は現在休職中の教師のことを知らない。一年生の一学期中に関わる機会がなかったのだ。
「うん。でも今日、校長は新しい先生が来ると言ってても、先生の挨拶がなかった」
「そういやそうか。転校生みたく授業日から来るんじゃねえか?」
「新任の先生なら、わし見たぞ」
声も体も大きい男子が会話に入る。二人が他の教室にいた時に声をかけた生徒だ。
「どこで見た……というかジモンはいつ来た? 整列した時にはいなかったような」
「わしはちと出遅れてな。始業式が始まったころに、体育館めがけて走っておった」
「初日から遅刻するか……」
「それはそれ、触れてくれるな!」
失態をつつかれた生徒は豪快に笑った。ヤマダは首をかしげる。
「ジモンのことだから、教室へ行かずに体育館に直行したんでしょ?」
「ん? それがどした?」
「クラス名簿を見るヒマがなかったのに、よく自分のクラスへ迷わず行けたね」
言われればそうだ。始業式後の拓馬たちは自分の席がないとわかっている、ほかのクラスにおもむいていた。そこでジモンに会わなかったのは、彼が正解のクラスを一発で引き当てたからだろう。
「あー、ほら、列の最後にワカがおったから、教えてもらったんじゃ」
ジモンの言う人物は若浜という男子だ。クラスごとに生徒が整列する時は名字の五十音順に並ぶ。そのため、最後のわ音から名字のはじまる彼は列の最後尾にいることが多々あった。
ジモンは「んで先生のことなんだがの」とヤマダへの質疑応答を短く切り上げ、本題に入る。
「わしが体育館に行く途中でよく知らん先生を見かけたんじゃ。グレーのスーツを着た男の人で、その人も体育館に向かっておって」
「そんな人、見たか?」
拓馬はヤマダに尋ねた。ヤマダは「わたしは気づかなかった」と首を横に振った。
「その先生は式が終わる前に帰ったんじゃ。だから気付くもんがおらんかったんじゃろ」
ジモンの言葉に拓馬は引っ掛かる。その男が先生だと断定できる情報がないのだ。
「しっかし、その人が先生とは限らないんじゃ……」
拓馬の主張にヤマダもうなずいた。ヤマダは自身のリュックサックを担ぐ。
「入学式じゃないから保護者も外部の賓客も来ないし、先生か不法侵入者じゃないの?」
本摩先生に聞いてくる、とヤマダは駆け足で廊下に出た。拓馬は彼女に同伴しようか迷ったが、ジモンが新しい教師だと談ずる人物への興味がわかないのでやめておいた。遠ざかる後ろ姿に拓馬が叫ぶ。
「俺は先に帰るからなー!」
わかったー、という返答が廊下に響く。ジモンは「わしも帰るかの」とそっけなく言う。
「ジモンは聞きに行かなくていいのか?」
「授業で会ってのお楽しみにしておくんじゃ」
「そっか……で、カバンは?」
拓馬がジモン本人とその机を見て、荷物がどこにもないのを確認する。
「ない! 授業も弁当もないからの。おかげで全力疾走できたわい!」
拓馬は豪快なジモンに「プリントを持ち帰る用意はしとこうな」と忠告した。
「全校生徒の皆さん、春休みは満喫されたかな? 今日からは再び学校生活をエンジョイする時期となった! 一同、大いに学び、大いに交友するように! 以上!」
中年は簡潔に話を終わらせ、半歩後ろへ下がった。進行役の若い教師が慌てる。
「羽田校長! お話が短くはありませんか?」
校長が再度マイクに顔を寄せる。
「そうか、ではもう一つ言っておこう。今学期から来る転校生と先生は皆、ステキな人だ! 特に新二年生の諸君、是非とも彼らと親しくなり、心躍らせたまえ!」
進行役の教師は校長の言葉に呆れ、そのまま始業式を進めた。校長は型破りだが他は至極普通な式典の流れだった。生徒たちは新たに振り分けられた教室へと帰る。大勢がぞろぞろと歩く中、流れに逆らう生徒がいた。拓馬のもとにポニーテールの女子がくる。
「タッちゃん、校長の話聞いた? まーたハゲたことを企んでるみたいだね」
「あの様子じゃ、二年に転校生と先生が来るか」
「どんな刺客が来ようと、わたしたちの信念に変わりはないよ」
ヤマダは拓馬の肩を叩いた。彼女の信念とは学内で恋愛をしないことだ。二人は親しい間柄だが恋仲ではない。物心ついた時から共にいた兄弟同然の友人だ。ベタな男女の恋物語を好む校長の格好の標的として、なにかにつけ校長との接触がある。
二人は他愛もない話をしながら二年生の教室へ行く。始業式前に自身のクラスは知っていた。ところがヤマダは他の教室へ入っていく。彼女は黒板に貼ったクラス名簿を見る。それは一度は目を通した印刷紙だ。
「やっぱり、このクラスに転校生は来ないんだね」
「うちのクラスには二人、知らない名前が載っていたのにな」
ヤマダはさらに別のクラスへ入る。どの一覧表にも見知った名前が載るばかり。
「と、いうことは……うちだけ転校生が割り当てられたんだね」
「校長が『転校生はステキな人』だとか抜かしてたな、きっとそういう狙いなんだろ」
「あの校長、よっぽどわたしらを目のカタキにしてんのかな?」
「メインはお前だ。男友だちが多いから」
「くそう、いっそ男に生まれていれば……」
「そのときは女友だちと変な目で見られるんじゃねえの?」
校長はとかく生徒に恋愛を奨励する。その目的は定かではないが、校長には重要な行動理念だ。標的となる生徒は恋愛沙汰に関心が薄い反面、仲の良い異性のいる者たちだった。
「うおーい、拓馬!」
野太い声が廊下から飛んでくる。ひときわ体格の良い男子生徒だ。
「わしらはこっちの教室じゃ、もうすぐ先生が来るぞ!」
拓馬が「いま行く!」と返事をした。早歩きで自分の教室へもどる。まだしっかり覚えていない自席に着くと、まもなく男性教師が入室した。白髪交じりの中年だ。拓馬たちが見慣れた英語教師がクラス全員に話しかける。
「二年三組を受け持つ本摩だ! 皆、よろしく頼むよ」
ヤマダ含めた一部の生徒が「はーい」と答えた。
「クラス分けの一覧を見ただろう。このクラスには転校生が二人やってくる! 新しい仲間は授業が始まったら登校する。紹介はその時にするから楽しみにしておくよーに」
次に本摩は連絡事項が載るプリントを配る。その中に土曜補習の日程があった。補習は週続きだったり隔週だったりと規則性なく行われる。拓馬は今月の補習日を念入りに確認した。
「配布物をもらったら今日は解散! 明日も半日だ。最後の休み気分を味わいなさい」
本摩が教壇から降りるや否や、生徒が活発になる。脇目もふらずに帰宅する者、友人と話す者、他の教室へ行く者など様々だ。拓馬は鞄を担いだ時にヤマダに話しかけられた。
「ねえタッちゃん、気になったことがあってね」
「なんだ?」
「去年……つっても二学期の始業式ね。新任の先生は校長の話の後にステージに立って、挨拶してたでしょ?」
「ぺーぺーのヤス先生か?」
昨年の二学期から勤める教師は教員未経験の若者だった。彼は新任早々、一年生の社会科科目を担当した。この新人は、事情があって休職する教師の代替要員だという。しかし拓馬は現在休職中の教師のことを知らない。一年生の一学期中に関わる機会がなかったのだ。
「うん。でも今日、校長は新しい先生が来ると言ってても、先生の挨拶がなかった」
「そういやそうか。転校生みたく授業日から来るんじゃねえか?」
「新任の先生なら、わし見たぞ」
声も体も大きい男子が会話に入る。二人が他の教室にいた時に声をかけた生徒だ。
「どこで見た……というかジモンはいつ来た? 整列した時にはいなかったような」
「わしはちと出遅れてな。始業式が始まったころに、体育館めがけて走っておった」
「初日から遅刻するか……」
「それはそれ、触れてくれるな!」
失態をつつかれた生徒は豪快に笑った。ヤマダは首をかしげる。
「ジモンのことだから、教室へ行かずに体育館に直行したんでしょ?」
「ん? それがどした?」
「クラス名簿を見るヒマがなかったのに、よく自分のクラスへ迷わず行けたね」
言われればそうだ。始業式後の拓馬たちは自分の席がないとわかっている、ほかのクラスにおもむいていた。そこでジモンに会わなかったのは、彼が正解のクラスを一発で引き当てたからだろう。
「あー、ほら、列の最後にワカがおったから、教えてもらったんじゃ」
ジモンの言う人物は若浜という男子だ。クラスごとに生徒が整列する時は名字の五十音順に並ぶ。そのため、最後のわ音から名字のはじまる彼は列の最後尾にいることが多々あった。
ジモンは「んで先生のことなんだがの」とヤマダへの質疑応答を短く切り上げ、本題に入る。
「わしが体育館に行く途中でよく知らん先生を見かけたんじゃ。グレーのスーツを着た男の人で、その人も体育館に向かっておって」
「そんな人、見たか?」
拓馬はヤマダに尋ねた。ヤマダは「わたしは気づかなかった」と首を横に振った。
「その先生は式が終わる前に帰ったんじゃ。だから気付くもんがおらんかったんじゃろ」
ジモンの言葉に拓馬は引っ掛かる。その男が先生だと断定できる情報がないのだ。
「しっかし、その人が先生とは限らないんじゃ……」
拓馬の主張にヤマダもうなずいた。ヤマダは自身のリュックサックを担ぐ。
「入学式じゃないから保護者も外部の賓客も来ないし、先生か不法侵入者じゃないの?」
本摩先生に聞いてくる、とヤマダは駆け足で廊下に出た。拓馬は彼女に同伴しようか迷ったが、ジモンが新しい教師だと談ずる人物への興味がわかないのでやめておいた。遠ざかる後ろ姿に拓馬が叫ぶ。
「俺は先に帰るからなー!」
わかったー、という返答が廊下に響く。ジモンは「わしも帰るかの」とそっけなく言う。
「ジモンは聞きに行かなくていいのか?」
「授業で会ってのお楽しみにしておくんじゃ」
「そっか……で、カバンは?」
拓馬がジモン本人とその机を見て、荷物がどこにもないのを確認する。
「ない! 授業も弁当もないからの。おかげで全力疾走できたわい!」
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2018年01月12日
拓馬篇−1章◇
けたたましい音が鳴る。耳をつんざく高音域だ。その音色が少年の覚醒をうながした。
図体の大きい少年は微妙に赤のまじる黒い視界のなかにいる。周囲の状況が目視できない。直感をたよりに腕を頭の上へとうごかした。
室内に響く音と視界の色は早朝の合図だった。そのように習慣で身についた感覚が理解している。音の出所は頭上に位置することも、体がおぼえていた。
動員した手に固い感触が伝わる。その物体のわずかな凹凸の部分をさぐり、手のひらで押さえた。音がやむ。少年は騒音がなくなったことで一安心した。
少年は音の発生機に手をついたまま、体を横向きにする。
「学校に、行かんと──」
登校の意思に反して体は休息を続ける。眠りの誘いに抵抗できず、少年の動きは静止した。
あわただしい足音が近づいてきた。ふすまを勢いよく開ける音が間近に聞こえると、少年は本能で危険をさとった。
「また二度寝して!」
せっかちな肉親の声だった。直後に冷たい液体を顔に吹きかけられる。二度、三度と噴霧攻撃を受ける。少年は触感による覚醒を余儀なくされた。手で顔をぬぐい、ようやく目を開ける。目の前には普段着姿の母親がいる。少年とは似ても似つかぬ細身の中年だ。彼女はタオルを息子の顔に投げつける。
「顔ふいて! 洗面所にいく時間だってもうないよ!」
どうも寝過ごしたらしい。少年は遅刻の可能性を感じながら、母の命じるとおりに顔をごしごしふいた。手をおろすとタオルがパッと取られる。空いた手に白いワイシャツが落とされた。学校指定の衣服だ。
「制服に着替えて! そのシャツのうえから着れるでしょ!」
少年は上体を起こした。着ていた半袖のシャツはそのままに、制服の袖を腕に通す。無我の境地のていでボタンをちまちま留めていると「移動中にやりな!」と今度は制服のズボンを投げ渡された。母はさすがにパンツ一丁姿の息子は見たくないらしく、廊下へ出る。
「今日は授業ないんだろ? 手ぶらでダッシュして行きなよ」
母は霧吹きとタオルを回収し、一階へ降りていった。少年は部屋着のズボンを布団のうえに脱ぎ捨て、制服を着た。この格好で登校しても見た目には問題ないが、まだ不足がある。母がくれなかった靴下や制服のジャケット等を身に着ける。ふすまを乱雑に閉めてから自身も一階へ降りた。
一家の台所へ入ると母がいた。野菜や果物を細かく砕くジューサーの片付けをしている。そういった添加物のない野菜ジュースは美容によいと聞いてからは定期的に作っているのだ。見てくれの善し悪しに頓着のない少年には関心のうすい努力だった。自分の母親が美人か不美人なのかさえ、よくわかっていない。
「かーちゃん、メシある?」
とっとと行け、と言われるのが順当であったが、一応たずねる。母は泡のついた手で、食卓にある透明なコップを指差した。コップの中には不透明な薄緑色の野菜ジュースが入っている。量にして缶ジュース一本分あるかないか。これを朝食として飲めとの仰せだ。
「わしにゃ足りんよー」
「帰ってくるまで我慢しな」
なにも口にしないよりはいい。少年はひと息に母お手製のジュースを飲む。甘い風味からはバナナやリンゴが入っていると感じた。天然の甘さが野菜類の青くささを消していて、飲みやすかった。
「ごちそーさん!」
コップを食卓へ置いた。すぐに台所横の勝手口で靴を履く。ここが玄関だ。家の正面は一家が経営する飲食店の出入口になっている。室内側に掛けたのれんをくぐり、外へ出る。いってらっしゃい、という声が聞こえた気がした。その声は少年が定刻通りの登校をする際と同じ調子だった。
少年は町中を駆けていく。体を動かしていると頭も連動する。
(時計……見んかったのう)
現在の時刻は不明だ。彼は目覚まし時計に触れていながら、その盤面をちらりとも見ていなかった。いまこの時点ですでに遅刻しているのか、急げば間に合う程度の余裕はあるのか、はっきりしない。
(時間を知っておっても、どーにもならんか)
どちらであろうと走らねばならぬ状況は同じだ。少年は雑念を払い、疾走に注力した。
学校に近づくほどに少年と同じ制服を着た若者は増えるはずだが、一人も登校中の生徒を見かけない。少年はいよいよ自身の窮地を実感しはじめた。しかし生来のおおらかさが焦燥感を抑えこみ、走力のパフォーマンスを崩すことなく校内に入る。
屋内には静けさがたちこめる。その静寂はすでに始業式が開始したことを示していた。少年は教室には寄らず、式場である体育館に向かうことにした。なるべく足音がうるさく響かぬよう、注意しながら走る。体育館への曲がり角にさしかかったところ、前方に人影を見つけた。灰色のスーツを着た大人の男性だ。
(この人も遅刻か?)
始業式に用のある者は生徒と教師の二種類に限る。男性のいでたちは教師のようだが、少年に見覚えはなかった。
(なんでもいいや、とっとと入る)
小事にこだわらない少年は男性を警戒せず、後を追うように接近する。男性は体育館の鉄扉を開いた。人ひとりが通れるすきまを空けたまま、中へ入らない。少年は男性の行動を不思議に思いつつ扉に近づくと、男性が後ろを振りむく。
「お先にどうぞ」
男性が人の良さそうな微笑で言う。
「静粛にお入りください」
他人に静けさを求めるにふさわしい小声だった。少年は落ち着きのある男性に信頼感をいだく。地声の大きい少年は小声での応対が苦手であり、こっくりうなずいた。言われるままに体育館へ入る。館内はスピーカーを通した教員の声がこだましている。整列する生徒の数名が、少年のいる扉のほうへ視線を向けた。少年は生徒の視線を意に介さない。
(どの列にならぶか……?)
同学年の知り合いがいる列を探す。列はクラス別に並んでいるようだが、この際学年が合っていればいいと考えた。
少年は同年の友人を発見する。足音を忍ばせ、列に加わった。乱れた呼吸をなるべく周囲にもらさぬよう調整しつつ、目的を果たした達成感を胸に秘めた。
しばらく教員のスピーチに耳を傾ける。次第に入館前に会った男性が気になり、教師が立ちならぶ壁際を見やる。灰色のスーツ姿の男性がいた。彼は教師陣にまぎれている。
(やっぱり先生か)
少年は合点がいった。そのまま新任らしき教師を見ていると、彼は教師の一団から離れていく。鉄扉を開け、姿を消してしまった。
(遅刻で早退?)
その行為は休みがちな怠け者のようだ。しかしそんな不真面目な人には見えなかった。少年はあの教師になんらかの事情があったのだと思い、式典にふたたび意識を向けた。
図体の大きい少年は微妙に赤のまじる黒い視界のなかにいる。周囲の状況が目視できない。直感をたよりに腕を頭の上へとうごかした。
室内に響く音と視界の色は早朝の合図だった。そのように習慣で身についた感覚が理解している。音の出所は頭上に位置することも、体がおぼえていた。
動員した手に固い感触が伝わる。その物体のわずかな凹凸の部分をさぐり、手のひらで押さえた。音がやむ。少年は騒音がなくなったことで一安心した。
少年は音の発生機に手をついたまま、体を横向きにする。
「学校に、行かんと──」
登校の意思に反して体は休息を続ける。眠りの誘いに抵抗できず、少年の動きは静止した。
あわただしい足音が近づいてきた。ふすまを勢いよく開ける音が間近に聞こえると、少年は本能で危険をさとった。
「また二度寝して!」
せっかちな肉親の声だった。直後に冷たい液体を顔に吹きかけられる。二度、三度と噴霧攻撃を受ける。少年は触感による覚醒を余儀なくされた。手で顔をぬぐい、ようやく目を開ける。目の前には普段着姿の母親がいる。少年とは似ても似つかぬ細身の中年だ。彼女はタオルを息子の顔に投げつける。
「顔ふいて! 洗面所にいく時間だってもうないよ!」
どうも寝過ごしたらしい。少年は遅刻の可能性を感じながら、母の命じるとおりに顔をごしごしふいた。手をおろすとタオルがパッと取られる。空いた手に白いワイシャツが落とされた。学校指定の衣服だ。
「制服に着替えて! そのシャツのうえから着れるでしょ!」
少年は上体を起こした。着ていた半袖のシャツはそのままに、制服の袖を腕に通す。無我の境地のていでボタンをちまちま留めていると「移動中にやりな!」と今度は制服のズボンを投げ渡された。母はさすがにパンツ一丁姿の息子は見たくないらしく、廊下へ出る。
「今日は授業ないんだろ? 手ぶらでダッシュして行きなよ」
母は霧吹きとタオルを回収し、一階へ降りていった。少年は部屋着のズボンを布団のうえに脱ぎ捨て、制服を着た。この格好で登校しても見た目には問題ないが、まだ不足がある。母がくれなかった靴下や制服のジャケット等を身に着ける。ふすまを乱雑に閉めてから自身も一階へ降りた。
一家の台所へ入ると母がいた。野菜や果物を細かく砕くジューサーの片付けをしている。そういった添加物のない野菜ジュースは美容によいと聞いてからは定期的に作っているのだ。見てくれの善し悪しに頓着のない少年には関心のうすい努力だった。自分の母親が美人か不美人なのかさえ、よくわかっていない。
「かーちゃん、メシある?」
とっとと行け、と言われるのが順当であったが、一応たずねる。母は泡のついた手で、食卓にある透明なコップを指差した。コップの中には不透明な薄緑色の野菜ジュースが入っている。量にして缶ジュース一本分あるかないか。これを朝食として飲めとの仰せだ。
「わしにゃ足りんよー」
「帰ってくるまで我慢しな」
なにも口にしないよりはいい。少年はひと息に母お手製のジュースを飲む。甘い風味からはバナナやリンゴが入っていると感じた。天然の甘さが野菜類の青くささを消していて、飲みやすかった。
「ごちそーさん!」
コップを食卓へ置いた。すぐに台所横の勝手口で靴を履く。ここが玄関だ。家の正面は一家が経営する飲食店の出入口になっている。室内側に掛けたのれんをくぐり、外へ出る。いってらっしゃい、という声が聞こえた気がした。その声は少年が定刻通りの登校をする際と同じ調子だった。
少年は町中を駆けていく。体を動かしていると頭も連動する。
(時計……見んかったのう)
現在の時刻は不明だ。彼は目覚まし時計に触れていながら、その盤面をちらりとも見ていなかった。いまこの時点ですでに遅刻しているのか、急げば間に合う程度の余裕はあるのか、はっきりしない。
(時間を知っておっても、どーにもならんか)
どちらであろうと走らねばならぬ状況は同じだ。少年は雑念を払い、疾走に注力した。
学校に近づくほどに少年と同じ制服を着た若者は増えるはずだが、一人も登校中の生徒を見かけない。少年はいよいよ自身の窮地を実感しはじめた。しかし生来のおおらかさが焦燥感を抑えこみ、走力のパフォーマンスを崩すことなく校内に入る。
屋内には静けさがたちこめる。その静寂はすでに始業式が開始したことを示していた。少年は教室には寄らず、式場である体育館に向かうことにした。なるべく足音がうるさく響かぬよう、注意しながら走る。体育館への曲がり角にさしかかったところ、前方に人影を見つけた。灰色のスーツを着た大人の男性だ。
(この人も遅刻か?)
始業式に用のある者は生徒と教師の二種類に限る。男性のいでたちは教師のようだが、少年に見覚えはなかった。
(なんでもいいや、とっとと入る)
小事にこだわらない少年は男性を警戒せず、後を追うように接近する。男性は体育館の鉄扉を開いた。人ひとりが通れるすきまを空けたまま、中へ入らない。少年は男性の行動を不思議に思いつつ扉に近づくと、男性が後ろを振りむく。
「お先にどうぞ」
男性が人の良さそうな微笑で言う。
「静粛にお入りください」
他人に静けさを求めるにふさわしい小声だった。少年は落ち着きのある男性に信頼感をいだく。地声の大きい少年は小声での応対が苦手であり、こっくりうなずいた。言われるままに体育館へ入る。館内はスピーカーを通した教員の声がこだましている。整列する生徒の数名が、少年のいる扉のほうへ視線を向けた。少年は生徒の視線を意に介さない。
(どの列にならぶか……?)
同学年の知り合いがいる列を探す。列はクラス別に並んでいるようだが、この際学年が合っていればいいと考えた。
少年は同年の友人を発見する。足音を忍ばせ、列に加わった。乱れた呼吸をなるべく周囲にもらさぬよう調整しつつ、目的を果たした達成感を胸に秘めた。
しばらく教員のスピーチに耳を傾ける。次第に入館前に会った男性が気になり、教師が立ちならぶ壁際を見やる。灰色のスーツ姿の男性がいた。彼は教師陣にまぎれている。
(やっぱり先生か)
少年は合点がいった。そのまま新任らしき教師を見ていると、彼は教師の一団から離れていく。鉄扉を開け、姿を消してしまった。
(遅刻で早退?)
その行為は休みがちな怠け者のようだ。しかしそんな不真面目な人には見えなかった。少年はあの教師になんらかの事情があったのだと思い、式典にふたたび意識を向けた。
タグ:拓馬