2018年01月12日
拓馬篇−1章◇
けたたましい音が鳴る。耳をつんざく高音域だ。その音色が少年の覚醒をうながした。
図体の大きい少年は微妙に赤のまじる黒い視界のなかにいる。周囲の状況が目視できない。直感をたよりに腕を頭の上へとうごかした。
室内に響く音と視界の色は早朝の合図だった。そのように習慣で身についた感覚が理解している。音の出所は頭上に位置することも、体がおぼえていた。
動員した手に固い感触が伝わる。その物体のわずかな凹凸の部分をさぐり、手のひらで押さえた。音がやむ。少年は騒音がなくなったことで一安心した。
少年は音の発生機に手をついたまま、体を横向きにする。
「学校に、行かんと──」
登校の意思に反して体は休息を続ける。眠りの誘いに抵抗できず、少年の動きは静止した。
あわただしい足音が近づいてきた。ふすまを勢いよく開ける音が間近に聞こえると、少年は本能で危険をさとった。
「また二度寝して!」
せっかちな肉親の声だった。直後に冷たい液体を顔に吹きかけられる。二度、三度と噴霧攻撃を受ける。少年は触感による覚醒を余儀なくされた。手で顔をぬぐい、ようやく目を開ける。目の前には普段着姿の母親がいる。少年とは似ても似つかぬ細身の中年だ。彼女はタオルを息子の顔に投げつける。
「顔ふいて! 洗面所にいく時間だってもうないよ!」
どうも寝過ごしたらしい。少年は遅刻の可能性を感じながら、母の命じるとおりに顔をごしごしふいた。手をおろすとタオルがパッと取られる。空いた手に白いワイシャツが落とされた。学校指定の衣服だ。
「制服に着替えて! そのシャツのうえから着れるでしょ!」
少年は上体を起こした。着ていた半袖のシャツはそのままに、制服の袖を腕に通す。無我の境地のていでボタンをちまちま留めていると「移動中にやりな!」と今度は制服のズボンを投げ渡された。母はさすがにパンツ一丁姿の息子は見たくないらしく、廊下へ出る。
「今日は授業ないんだろ? 手ぶらでダッシュして行きなよ」
母は霧吹きとタオルを回収し、一階へ降りていった。少年は部屋着のズボンを布団のうえに脱ぎ捨て、制服を着た。この格好で登校しても見た目には問題ないが、まだ不足がある。母がくれなかった靴下や制服のジャケット等を身に着ける。ふすまを乱雑に閉めてから自身も一階へ降りた。
一家の台所へ入ると母がいた。野菜や果物を細かく砕くジューサーの片付けをしている。そういった添加物のない野菜ジュースは美容によいと聞いてからは定期的に作っているのだ。見てくれの善し悪しに頓着のない少年には関心のうすい努力だった。自分の母親が美人か不美人なのかさえ、よくわかっていない。
「かーちゃん、メシある?」
とっとと行け、と言われるのが順当であったが、一応たずねる。母は泡のついた手で、食卓にある透明なコップを指差した。コップの中には不透明な薄緑色の野菜ジュースが入っている。量にして缶ジュース一本分あるかないか。これを朝食として飲めとの仰せだ。
「わしにゃ足りんよー」
「帰ってくるまで我慢しな」
なにも口にしないよりはいい。少年はひと息に母お手製のジュースを飲む。甘い風味からはバナナやリンゴが入っていると感じた。天然の甘さが野菜類の青くささを消していて、飲みやすかった。
「ごちそーさん!」
コップを食卓へ置いた。すぐに台所横の勝手口で靴を履く。ここが玄関だ。家の正面は一家が経営する飲食店の出入口になっている。室内側に掛けたのれんをくぐり、外へ出る。いってらっしゃい、という声が聞こえた気がした。その声は少年が定刻通りの登校をする際と同じ調子だった。
少年は町中を駆けていく。体を動かしていると頭も連動する。
(時計……見んかったのう)
現在の時刻は不明だ。彼は目覚まし時計に触れていながら、その盤面をちらりとも見ていなかった。いまこの時点ですでに遅刻しているのか、急げば間に合う程度の余裕はあるのか、はっきりしない。
(時間を知っておっても、どーにもならんか)
どちらであろうと走らねばならぬ状況は同じだ。少年は雑念を払い、疾走に注力した。
学校に近づくほどに少年と同じ制服を着た若者は増えるはずだが、一人も登校中の生徒を見かけない。少年はいよいよ自身の窮地を実感しはじめた。しかし生来のおおらかさが焦燥感を抑えこみ、走力のパフォーマンスを崩すことなく校内に入る。
屋内には静けさがたちこめる。その静寂はすでに始業式が開始したことを示していた。少年は教室には寄らず、式場である体育館に向かうことにした。なるべく足音がうるさく響かぬよう、注意しながら走る。体育館への曲がり角にさしかかったところ、前方に人影を見つけた。灰色のスーツを着た大人の男性だ。
(この人も遅刻か?)
始業式に用のある者は生徒と教師の二種類に限る。男性のいでたちは教師のようだが、少年に見覚えはなかった。
(なんでもいいや、とっとと入る)
小事にこだわらない少年は男性を警戒せず、後を追うように接近する。男性は体育館の鉄扉を開いた。人ひとりが通れるすきまを空けたまま、中へ入らない。少年は男性の行動を不思議に思いつつ扉に近づくと、男性が後ろを振りむく。
「お先にどうぞ」
男性が人の良さそうな微笑で言う。
「静粛にお入りください」
他人に静けさを求めるにふさわしい小声だった。少年は落ち着きのある男性に信頼感をいだく。地声の大きい少年は小声での応対が苦手であり、こっくりうなずいた。言われるままに体育館へ入る。館内はスピーカーを通した教員の声がこだましている。整列する生徒の数名が、少年のいる扉のほうへ視線を向けた。少年は生徒の視線を意に介さない。
(どの列にならぶか……?)
同学年の知り合いがいる列を探す。列はクラス別に並んでいるようだが、この際学年が合っていればいいと考えた。
少年は同年の友人を発見する。足音を忍ばせ、列に加わった。乱れた呼吸をなるべく周囲にもらさぬよう調整しつつ、目的を果たした達成感を胸に秘めた。
しばらく教員のスピーチに耳を傾ける。次第に入館前に会った男性が気になり、教師が立ちならぶ壁際を見やる。灰色のスーツ姿の男性がいた。彼は教師陣にまぎれている。
(やっぱり先生か)
少年は合点がいった。そのまま新任らしき教師を見ていると、彼は教師の一団から離れていく。鉄扉を開け、姿を消してしまった。
(遅刻で早退?)
その行為は休みがちな怠け者のようだ。しかしそんな不真面目な人には見えなかった。少年はあの教師になんらかの事情があったのだと思い、式典にふたたび意識を向けた。
図体の大きい少年は微妙に赤のまじる黒い視界のなかにいる。周囲の状況が目視できない。直感をたよりに腕を頭の上へとうごかした。
室内に響く音と視界の色は早朝の合図だった。そのように習慣で身についた感覚が理解している。音の出所は頭上に位置することも、体がおぼえていた。
動員した手に固い感触が伝わる。その物体のわずかな凹凸の部分をさぐり、手のひらで押さえた。音がやむ。少年は騒音がなくなったことで一安心した。
少年は音の発生機に手をついたまま、体を横向きにする。
「学校に、行かんと──」
登校の意思に反して体は休息を続ける。眠りの誘いに抵抗できず、少年の動きは静止した。
あわただしい足音が近づいてきた。ふすまを勢いよく開ける音が間近に聞こえると、少年は本能で危険をさとった。
「また二度寝して!」
せっかちな肉親の声だった。直後に冷たい液体を顔に吹きかけられる。二度、三度と噴霧攻撃を受ける。少年は触感による覚醒を余儀なくされた。手で顔をぬぐい、ようやく目を開ける。目の前には普段着姿の母親がいる。少年とは似ても似つかぬ細身の中年だ。彼女はタオルを息子の顔に投げつける。
「顔ふいて! 洗面所にいく時間だってもうないよ!」
どうも寝過ごしたらしい。少年は遅刻の可能性を感じながら、母の命じるとおりに顔をごしごしふいた。手をおろすとタオルがパッと取られる。空いた手に白いワイシャツが落とされた。学校指定の衣服だ。
「制服に着替えて! そのシャツのうえから着れるでしょ!」
少年は上体を起こした。着ていた半袖のシャツはそのままに、制服の袖を腕に通す。無我の境地のていでボタンをちまちま留めていると「移動中にやりな!」と今度は制服のズボンを投げ渡された。母はさすがにパンツ一丁姿の息子は見たくないらしく、廊下へ出る。
「今日は授業ないんだろ? 手ぶらでダッシュして行きなよ」
母は霧吹きとタオルを回収し、一階へ降りていった。少年は部屋着のズボンを布団のうえに脱ぎ捨て、制服を着た。この格好で登校しても見た目には問題ないが、まだ不足がある。母がくれなかった靴下や制服のジャケット等を身に着ける。ふすまを乱雑に閉めてから自身も一階へ降りた。
一家の台所へ入ると母がいた。野菜や果物を細かく砕くジューサーの片付けをしている。そういった添加物のない野菜ジュースは美容によいと聞いてからは定期的に作っているのだ。見てくれの善し悪しに頓着のない少年には関心のうすい努力だった。自分の母親が美人か不美人なのかさえ、よくわかっていない。
「かーちゃん、メシある?」
とっとと行け、と言われるのが順当であったが、一応たずねる。母は泡のついた手で、食卓にある透明なコップを指差した。コップの中には不透明な薄緑色の野菜ジュースが入っている。量にして缶ジュース一本分あるかないか。これを朝食として飲めとの仰せだ。
「わしにゃ足りんよー」
「帰ってくるまで我慢しな」
なにも口にしないよりはいい。少年はひと息に母お手製のジュースを飲む。甘い風味からはバナナやリンゴが入っていると感じた。天然の甘さが野菜類の青くささを消していて、飲みやすかった。
「ごちそーさん!」
コップを食卓へ置いた。すぐに台所横の勝手口で靴を履く。ここが玄関だ。家の正面は一家が経営する飲食店の出入口になっている。室内側に掛けたのれんをくぐり、外へ出る。いってらっしゃい、という声が聞こえた気がした。その声は少年が定刻通りの登校をする際と同じ調子だった。
少年は町中を駆けていく。体を動かしていると頭も連動する。
(時計……見んかったのう)
現在の時刻は不明だ。彼は目覚まし時計に触れていながら、その盤面をちらりとも見ていなかった。いまこの時点ですでに遅刻しているのか、急げば間に合う程度の余裕はあるのか、はっきりしない。
(時間を知っておっても、どーにもならんか)
どちらであろうと走らねばならぬ状況は同じだ。少年は雑念を払い、疾走に注力した。
学校に近づくほどに少年と同じ制服を着た若者は増えるはずだが、一人も登校中の生徒を見かけない。少年はいよいよ自身の窮地を実感しはじめた。しかし生来のおおらかさが焦燥感を抑えこみ、走力のパフォーマンスを崩すことなく校内に入る。
屋内には静けさがたちこめる。その静寂はすでに始業式が開始したことを示していた。少年は教室には寄らず、式場である体育館に向かうことにした。なるべく足音がうるさく響かぬよう、注意しながら走る。体育館への曲がり角にさしかかったところ、前方に人影を見つけた。灰色のスーツを着た大人の男性だ。
(この人も遅刻か?)
始業式に用のある者は生徒と教師の二種類に限る。男性のいでたちは教師のようだが、少年に見覚えはなかった。
(なんでもいいや、とっとと入る)
小事にこだわらない少年は男性を警戒せず、後を追うように接近する。男性は体育館の鉄扉を開いた。人ひとりが通れるすきまを空けたまま、中へ入らない。少年は男性の行動を不思議に思いつつ扉に近づくと、男性が後ろを振りむく。
「お先にどうぞ」
男性が人の良さそうな微笑で言う。
「静粛にお入りください」
他人に静けさを求めるにふさわしい小声だった。少年は落ち着きのある男性に信頼感をいだく。地声の大きい少年は小声での応対が苦手であり、こっくりうなずいた。言われるままに体育館へ入る。館内はスピーカーを通した教員の声がこだましている。整列する生徒の数名が、少年のいる扉のほうへ視線を向けた。少年は生徒の視線を意に介さない。
(どの列にならぶか……?)
同学年の知り合いがいる列を探す。列はクラス別に並んでいるようだが、この際学年が合っていればいいと考えた。
少年は同年の友人を発見する。足音を忍ばせ、列に加わった。乱れた呼吸をなるべく周囲にもらさぬよう調整しつつ、目的を果たした達成感を胸に秘めた。
しばらく教員のスピーチに耳を傾ける。次第に入館前に会った男性が気になり、教師が立ちならぶ壁際を見やる。灰色のスーツ姿の男性がいた。彼は教師陣にまぎれている。
(やっぱり先生か)
少年は合点がいった。そのまま新任らしき教師を見ていると、彼は教師の一団から離れていく。鉄扉を開け、姿を消してしまった。
(遅刻で早退?)
その行為は休みがちな怠け者のようだ。しかしそんな不真面目な人には見えなかった。少年はあの教師になんらかの事情があったのだと思い、式典にふたたび意識を向けた。
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