どんな人やものであったとしても
名前をつけることによって
存在が浮かび上がってくるという見方があります。
例えば、自分のことを紹介しようとしても
そこに出てくる説明は
他者との関係性の中にあるものだと見ることが出来ます。
私の出身地は東京都です。
私の好きなフルーツはりんごです。
私の好きなスポーツはサッカーです、といった具合に
自分以外のものによって定義をすることで
どんな存在なのか、という人としての
概念が浮かび上がってきます。
そこで、人としての存在をピンポイントで差すことが出来るのが
その人の”名前”ということになります。
名前のないものについては
存在としての概念がないので
そこに存在としての認識が生まれることはありませんね。
自分とはどんな存在なのか?という行き先をみると
そんな他者との関係性をみることで
そこでどのように存在しているのか、を観ることが出来ると言えます。
自分とは何者か、という問いについて
「心はあるのか」(橋爪大三郎さん著)の中では
このように定義されています。
(引用開始)
自分とは何ものか。他者との関係でそれを理解しようとすると
「誰それ」と名前で呼ばれる存在---他者にとっての他者--として
自分を受けとめることになります。
けれども、自分はどうしても、他者からそうやってみられた存在を
はみ出しているように感じられる。
なぜなら、自分は他者たち全員を含んだこの世界全体と重なるものでもあるからです。
そこで誰もが、他者からみられた自分を越えた、本当の自分とは何だろうと問うようになる。
その答えは、もちろん、簡単には得られません。
こうした世界の構造を見据えながら、そして考えながら、粘りつよく生きていくことを
答えにするほかないのですから。
(引用終了)
自分の存在を越えていく、というのも
どこまでいっても自分の心と向き合って
そこに他者との関係性を紡ぎ上げていく
プロセスにあるのかもしれません。
他者との関係の中に、自分を観る。
そこに人生は観るものだと感じられるものがあります!
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