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2016年04月12日

第79回 文祥堂






文●ツルシカズヒコ






 一九一三(明治三十六)年、六月十八日。

「動揺」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p27)によれば、その日の朝、野枝と辻はいつものように、辻の母・美津や妹・恒(つね)より遅れて起きた。

 ふたりともまだ寝衣(ねまき)のままのところに、木村荘太からの第二信と帯封の『フュウザン』六月号が届いた。

 野枝は手紙に目を通し、辻に渡した。

 辻が野枝より先に『フュウザン』を読みたいと言ったが、野枝はそれを拒んで、辻が外出してから読み始めた。

 荘太が寄稿した「顫動(せんどう)」を読み終えた野枝は、真実なある力がズーッと迫ってくるように感じた。

 そして、保持が言っていた「若い人」という感じがしなかった。

 染井の林の緑が日増しに濃くなり、田圃の菖蒲(しょうぶ)も半ば咲き始めた。

 六月十九日、野枝はらいてうの書斎を訪ね、荘太のことをちょっと話した。

 翌六月二十日、金曜日、青鞜社事務所に社員が集まった。

 野枝とらいてうは以後、しばらく会う機会がなかった。

 六月二十六日、らいてうは奥村と赤城山に向かったからである。

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 六月二十三日の朝、野枝は今月は校正を少し早く切り上げるから、二十六日まではかからないかもしれないという旨の葉書を荘太に書いた。

 先に家を出る辻に、それを投函してもらうことにして、辻が家を出た後、野枝は文祥堂に行った。

 文祥堂には哥津が来ていた。

 以下、「動揺」と「牽引」の記述に沿って、野枝と荘太の初対面のようすをみてみよう。

 その日、徹夜仕事が続いていた荘太は昼ごろに起きた。

 野枝からの葉書が届いていた。

 荘太はすぐ弟の下宿へ行って文祥堂へ電話をかけた。

 電話がかかっていると知らされた野枝は、東雲堂(とううんどう)からだろうかと思いながら、二階の校正室から階下に降りて行った。

「木村荘太です。今、お葉書を拝見しました。もしお差し支へなければ今日これからお伺いしたいと思いますがいかがでしょう」

 野枝はちょっとびっくりしたが、落ち着いた声で答えた。

「ええ、どうぞいらして下さいまし。暇でございますから」

 二階の校正室に戻った野枝は、涼しい窓際に椅子を置いて、哥津の持って来た小説を読みながら荘太を待った。

 荘太はすぐに下宿を出て築地の文祥堂に向かった。

 途中、電車の中でも通りでも「暇でございますから」という快い訛りのある声が耳の底に響き続けた。





 荘太が文祥堂に着いたのは午後三時ごろだった。

 荘太が来たことを知らされた野枝が階段を降りて行くと、金縁眼鏡をかけた荘太は帽子を取ってお辞儀をした。

 荘太の髪はきれいに分けてあった。

 野枝もお辞儀をして、ふたりが簡単に挨拶をすませると、野枝が荘太を二階の校正室に案内した。

 ふたりは二階のテーブルに向き合って座った。

 この日、野枝は眼鏡をかけていた。

 さほどの近眼ではない野枝は普段めったに眼鏡はかけなかったが、校正に行くときにはかけていた。

 髪を銀杏返しに結った哥津は窓際の椅子にもたれて、何か小説を読み始めた。





 荘太は文祥堂二階の校正室に案内された際のことを、「牽引」ではこう記している。


 とうとう文祥堂の前へ行つた。

 僕は入り口に近づいた時、二階の窓のところに依りかか つてゐる後ろ向きの人の髪の毛をチラリと見た。

 胸が躍つた。

 這入つて、聞いて、暫らく 店先に佇んでゐて待つと、その人が階段を降りて来た。

 簡単に挨拶をして、僕はその人の後から階段をつづいて登つて、校正室へ這入ると、そこにはもう一人婦人がゐた。

 僕にはそれが小林歌津(小林清親の娘)だと直ぐに解つた。

 歌津氏は窓際の椅子に靠れて何か小説を読み始めた。

 僕は中央にある大きな卓を隔てて、 野枝氏とはす~ ゙に対ひ合つた。

 僕は野枝氏がまだ極く子供らしい感じの人であるのを少し意外に思つた。

 暫らくするうちその意外なのが却つてシックリその人に合つてゐるらしく思はれて来た。


(木村荘太「牽引」/『生活』1913年8月号)


『魔の宴』では、こう記している。


 ……二階の校正室に通されて、机を隔ててそのひとと向い合つて腰かけると、室にはもうひとり若い女のひとがいて、離れた窓際に立つて行つた。

 髪を銀杏返しに結つた日本風の姿のひとで、明治年かんに名高い版画家、小林清親のむすめの小林哥津さんとあとで解った。

 私と向い合った当のひとのほうは、豊頬(ほうきょう)な丸顔に髪を無造作に束ねて結って、洋銀ぶちの眼鏡をかけ、なりは目立たぬ質素なふうで、単衣(ひとえ)の上に木綿の被布(ひふ)のようなものを着ていた。

 どこかの女工さんといつたぐらいの身なりに見えて、飾りなく、それだけに素顔のなりの顔がそのまま目について、生地を蔽(おお)う付属物がなにもないといつたような感じのひとだつた。


(木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』_p203/『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』_p165)


 野枝はこのとき妊娠七ヶ月だった。

 六月末の暑い時節に薄い被布を着ていたのはそのためであるが、『魔の宴』によれば荘太は野枝の妊娠に気づかなかった。





 話しているうちに、荘太は野枝に対してこんな感想を抱いた。


 その時目の前にゐたのは全然僕の想像と違つた人だ。

 あまりにその人の若かつた。

 あまりに生地のまま過ぎた。

 確かな口調で淀まずぐんぐん自分の事を話す態度――さうしてしかも目が出会ふ時々眞赤になつて下を見てうつむく様子――でまたある時紅潮しながらキッと目を僕にそそいでゐて語り継ぐさま――かういふ態度の矛盾がすべて自然に一つにこの人に結合した印象となつてゐる不思議なチヤアムが、直ぐ僕の心を牽いた。


(木村荘太「牽引」/『生活』1913年8月号)





 野枝は初対面の荘太にこんな印象を持った。


 私は、木村氏の外観とか風采について、いろ/\……想像したり、なんかしてゐませんでしたので、すべて、知らないうちで、不用意に、未知の人に会つたやうな気持ちでした。

 座についてからも私は何を話していゝのか分りませんでした。

 暫くしてから、其の人は、可なり低い声で私に手紙を出した動機とか気持ちと云ふ事を話し出しました。

 しかしその調子は極く軽くて、そして、口早やなので、私の方には、何にも、来るものがありませんでした。

 態度には可なり落ち附いた処が見えないでもありませんのに、一寸、変な気がし出して来ました。

                                         
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p163/『定本 伊藤野枝全集 第一巻_p28)





 野枝は「動揺」で自分が妊娠中だという言及をまるでしていないが、らいてうはそのあたりをこう指摘している。


 女自身は自分の妊娠といふことに対して元来これ程無意識なものなのであらうか。

 お腹の中にゐる子供とそれほど無関係でゐられるものなのだらうか。

 之れでまたいゝものなのであらうか。

 自分に経験のないことを口にするのは僭越かも知れないが、一寸不思儀でならない。


(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号・3巻11号_p88)






東京DOWNTOWN STREET 1980's「兄荘太から解き明かす荘八」

木村荘八の作品/青空文庫






★木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』(朝日新聞社・1950年5月30日)

★『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』(平凡社・1981年12月10日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:55| 本文

第78回 フュウザン






文●ツルシカズヒコ


 木村荘太「牽引」(『生活』1913年8月号)によれば、六月十二日か十三日ごろの晩、長尾豊が荘太を訪ねてきた。

 荘太は友人である長尾に、自分が伊藤野枝に興味を持っていることを話していた。

 長尾はいきなり野枝のことを話し出した。

 数日前、生田長江を訪ねた折りに、野枝について聞いてみたという。

 長尾が長江から得た情報によれば、野枝には「ある人」がいて、それが夫なのかラヴァアなのかわからないが、その人が野枝の署名している翻訳の筆を執っているのだという。

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 長尾はまもなく帰ったが、荘太は「ある人」に対して軽いエンヴイ(嫉妬)を抱き、いい知れぬ当惑の情を感じた。

 すぐに手紙を書いて、長尾から聞いたことが事実かどうか確かめようと思ったが、面倒くさくなってやめた。

 翌日、長尾から葉書が来た。

中央新聞』に野枝の記事が載っていて、それによると彼女には後藤某という内縁の夫があつて、近く出産したのだそうだ、ということが簡単に書いてあった。

 荘太は自分のことを一種の興味で見ているやうな長尾の葉書の書き方に軽い不快を感じ、ますます自分の気持ちが野枝から離れ去るのを感じた。

 もうこの件に関して、自分から何かしようという気が全然なくなった。

 図書館へ行って新聞を見ようと思ったが、 それすら嫌になった。

 返事が来るかもしれない。

 来ないかもしれない。

 とにかく、会うという返事かもしれない。

 事実をハツキリ知らせてくるかもしれない。

 どうでもいい。





 それから十五日まで、荘太はフセーヴォロド・ガルシンの短篇小説の翻訳に没頭した。

 徹夜をして翻訳し終えた原稿を持って、佐藤惣之助の家に行ったのが六月十五日の夕方だった。

フュウザン』の同人が集まっていて、みんなで七月号の編集作業をやった。

 この号から「フュウザン」を「生活」と改題することになったのだ。

 作業を終えると、みんなで打ち上げをやった。

 夜の十時過ぎに高村光太郎がやってきた。

 明け方近くまで話し続けた。





 六月十六日は佐藤の家で昼まで寝て、夕方、下宿に帰ると野枝からの手紙が来ていた。

 手紙を手に取る刹那、荘太はまったく自分の知らない感情を蔵しているのに気がついて、驚愕した。

  手紙の内容によっては、自分が強い打撃を受けるかもしれないと思った。

 荘太は運命と面接するような気持ちがした。

 不安のほか何物も感じなかった。

  そして、やはり自分はこの手紙が来ることを待っていたーーそのことに気づいた。

 荘太は二、三分間、手紙を持ったまま開けることができなかった。

「市外上駒込染井三二九 辻方 伊藤野枝」と書いてある封筒を見詰めていた。

「本式な崩しの草書で、伸びやかに、うまい字」(『魔の宴』_p201)だった。

 荘太はその字に少し圧倒されるのを覚えた。
 
 荘太はますます不安になり、急いで封を破って読み始めた。





 荘太は野枝からの返信について、こう書いている。

 
 僕はこの手紙を何度読み返したらう。

 さうしてこの手紙を書いた人を幾たび想像したらう。

 この人がこの手紙を書いた気持をいくたびいろいろに推し量つたらう。

 繰り返しいくたびか読むうち、僕はだんだんこの手紙が好きになつた。

 僕にはその書き方からして、かなり筆者をよく想像し得るように思へた。

 Nから耳にした事がいつか頭から消えてしまつた。

 この手紙の書き方の自由さが、今度は僕にさういふ事實のあるといふのを疑はした。

 ただ何となくそれを否定するやうな気分にさへも僕にならした。

 といふより僕に全然その事を考へさせなくなつてしまつた。

 僕には野枝氏がかういふ字体で、かういふ返事をよこす人だつたのがただ嬉しかつた。

 そのほかに何もなかつた。

 僕は仕事をしてしまつてから、ゆつくり落ちついて会ひたく思つて、次の日とにかく返事を出した。


(木村荘太「牽引」/『生活』1913年8月号)


 Nは長尾豊である。

 荘太は野枝への第二信を、こうしたためた。


 御返事ありがたく拝見しました。

 それでは二十六日の午後に文祥堂へお伺ひする事に致します。

 電話を一寸伺ふ前におかけしてから上るつもりでをります。

 まづその節申あげます。

 私には今凡(すべ)て自身の上に起つて来る事毎がみな必然のやうに思はれてゐてなりません。

 かうしてあなたとお会ひすることもまたやはり一種の自然な機会のやうに思はれて参りました。

 私をして過日の手紙をあなたに差し上げさせたものはどいふ力でせう。

 あなたがその私に御会ひ下さらうとなさるのもまた何によるものでせう。

 私は敬虔に慇懃に運命と握手しながらあなたに御会ひする日を待ちます。

 私はほんとうにあなたの御手紙を読む事を喜びました。

 あのお手紙で私にあなたがこれまでよりもずつとハッキリ解つたやうに思はれたからなのでした。

 ではその節をお待ちします。

 六月十七日夜

 ○「フユーザン」が手許にありましたから同便にて御送りします。

 来月は「生活」と改題して同人が変更します。

 私はそれにガルシンを訳しました。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・第3第8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p160~161/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p26~27)





 野枝からの最初の手紙を受け取った際の心の高ぶりを、荘太はこう回想している。


 ……本式な崩しの草書で、伸びやかに、うまい字なので、それに心を第一ばんに打たれた。

 そして私はそのとき、水道端から麹町平河町に移って、ひとりでいたのだが、この心躍る会見の場所には、私の好きな旧知の築地を選んで、指定の日そこに行って会うことにして、このいかにも素直な感じのする文面を繰り返し読んで、心に刻みつけた。

 会わしめずに止まぬと期すように、全心力を打ち込めて書いた私の手紙ではあったけれども、その思いをこう予期以上になだらかに受け入れて来ている返事を見て、まず心の通ったことが知れ、胸が喜びにわななき震えた。


(木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』_p202/『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』_p164)





『フュウザン』復刻版



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』(朝日新聞社・1950年5月30日)

★『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』(平凡社・1981年12月10日)









●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:13| 本文

第77回 拝復






文●ツルシカズヒコ



 一九一三(大正二)年六月十四日の朝、野枝は気持ちよく辻を送り出し、机の前に座った。

 木村荘太への手紙の返事を書こうと思った。

 なんと書いていいかちょっと困ったが、とにかく会ってみることにして、思い切って書いた。


 拝復、御手紙はたしかに拝見致しました。

 暫く社の方へまゐりませんでした為めに御返事が後れました申訳が御座いません。

 どうぞあしからず御許し下さい。

 それから先日は社の方へわざ/\御出下すつて後社の方へは二三度まゐりましたけれども社に居る人が忘れてゐて私にさう云つてくれませんでしたので、ちつとも存じませんでした。

 御手紙を拝見して私はたゞはづかしう思ひました。

 私の幼稚なつまらない感想でも読んで下さる方があるかと思ひますとふしぎな気が致します。

 まだ私など他の人に手を引いて頂かなければ歩けない位の子供なので御座いましてこれからすべての事に就いて研究して行かなければなりませんので本当は雑誌に麗々とあんな感想など書ける柄ではないので御座います。

 私は、なるべく勉強したいと思つてゐましてもなまけてばかし居ますのでこの上他人との交渉に忙しくなつたりしてはとてもどうにも出来ませんから、なるべく止む得ない少数の人との他はすべて交りを絶つてゐるのです。

 いろいろの事で私は周囲の人と今は全く絶縁の形です。

 青鞜社の内部四五人の他は誰とも今の処係はり度くないので御座います。

 それで、私はあなたのお手紙を拝見していろ/\考へて見ました。

 あなたは私を知り度いと云つてゐらしやいます、そして私についていろ/\の期待やなんかで待つてゐらつしやるとさう思ひますと期待される程の何物をも持たない私は矢張り自然にお会ひする機会を待つてお目にかゝるのならまだしもですが、強いて機会をはやめると云ふ事が何とはなしに避け度いやうにも思ひました。

 然しまた、まじめなあのお手紙を繰り返して考へて見ますと、どうも矢張りおことはりすると云う事が如何にも傲慢な礼を失した事の様にも思へてまゐります。

 それで兎に角お目にかゝつた結果はどうなりますか分りませんがお望みにおまかせする事に決心致しました。

 時間の御都合や何かもあなたの方でおよろしい時にし私の方はこの次の金曜をのぞく他さしつかへは御座いません。

 もしあなたの方の御都合では金曜日に社にお出下さつてもさしつかへは御座いません。

 二十五六日は大抵校正に築地の文祥堂へまゐります。

 校正も二時間位間をおいて出たり少しづゝ出たりしますので割合にひまで御座いますから印刷所の方が御都合がよかつたら印刷所でもかまひません。

 その他は大抵ひまで御座います。

 然し今月は原稿の集り方がおそう御座いましたら催促にまはつたりしなければならないかも知れませんが大抵は都合が出来ますからあなたの御都合次第でお伺ひします。

 フューザンにおかきになりましたのを是非拝見したいと思つてゐますが社には来てゐませんので一寸ついでがなくてまだ拝見しません。

 近いうちに拝見しやうと存じます。

 六月十四日


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p157~158/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p24~25)

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 野枝は書いてしまうとなんだか安心して、木村荘太という人のことをいろいろ想像してみた。

 辻が帰ってきてこの返事を読んだらなんと言うだろうかなどと考えて、だるい体を横にして辻の帰るのを待った。

 野枝はこのころ、妊娠六ケ月くらいだろうか。

 野枝は辻が帰る夕方が待ちどうしかった。

 退屈なのでもう一度、荘太の手紙を開いて読んだ。


 ……或は御会ひして見た上であなたの個性と僕の個性は相反撥し合ふ性質のものであるかも知れないと思ひます。

 またはあなたが一層ほんとに僕の心に生き始めるやうになるかも知れないと思ひます……。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p159/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p25~26)


 野枝は思った。

「会って反発し合うのならいいけれども……そうでなかったら? 私はどうする? そんなことはない。まず一番に私が辻と共棲している事実を話すことだ。それでも私に愛を持ってくれて、苦痛を語られたらたまらない。どうしよう?」

 しかしーー今、自分と辻の間には寸分の隙間もない。

 どんなに強く来られても、突き放すことができるという自信が湧き上がってきた。

 特に、芝から染井に帰ってきたころから、野枝の辻に対する恋着はいっそう執拗になっていた。

 野枝はひとりで微笑みながら、大きいふたつの袋にいっぱい詰まった、自分と辻の間で交わした手紙を思い出し、苦しい辛い、しかし本当に楽しい自分たちの満一年以上も同じに続いてきた恋を想った。

 夕方、辻が帰宅した。

 辻に手紙を見せ、一緒に外出して投函した。





 荘太から来た第一の手紙を無視できず、返事を書き、ともかく荘太の要求を入れて面会し、その上で辻と同棲している自分の境遇を話そうと思った野枝の心理を、らいてうはこう分析している。


 ともかく野枝さんが第一の手紙の時から無頓着に打捨てゝおかれなかつたといふことは明である。

 T氏に見られては困ると云つて小母さんにあづけたなどはその証拠で、いかにも若々しい女の心が見える。

 けれど誤解してはいけない。

 野枝さんが無頓着でゐられなかつたのは、寧ろ野枝さんの疑ふ処のない若い心があの手紙の全面から受けた誠実に感じたことなのである。

 けれどそこにはなほ一つの理由がある。

 それは自分は木村氏の手紙を同情と理解とを有つて受納し得る女だといふ自信(一種の誇り、わるくいへば自惚だ)と男の申出を只々退けては何等の理解のない無智の女と軽蔑されはしまいかというふ懸念とである。

 自分の価値を認められないといふことは野枝さんのやうな女にとつては殊に不愉快なことであらうから。

 それも一種の虚栄だといふならそれ迄だが、かういふ心から恋愛なしに出来る丈け接近してゆくこの種の女の心を了解する男は少いやうだ。


(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号・3巻11号_p85~86)




★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:03| 本文

2016年04月11日

第76回 中央新聞






文●ツルシカズヒコ



 野枝が木村荘太からの手紙を、青鞜社事務所で受け取ったのは、六月十三日の朝だった。

 野枝がこの日、青鞜社事務所に来たのはこの日が金曜日であり、金曜日は読者と交流を持つ日だったからであろう。

 野枝はこの日のことを、らいてう(R)に宛てる手紙文スタイルで、こう書いている。

 
 R様 こないだの金曜日はゐらつしやるかと思つて待つてゐました。

 私は午前から行つてゐました。

 小母さんといろいろな話をしながら待つてゐましたら勝ちやんが来ました。

 でもすぐに帰つて行きました。

 私は四時頃まであなたを待つてゐました。

 私は堀切へ行つてから非常に疲れてその日までなんだか大変に倦怠(だる)い気持ちが去らずに居ました。

 それとその朝、私は全く知らないーー姓名位は知つてゐましたがーーKと云ふ方からの手紙を読んで、それにも可なり悩ましい気持ちを抱かされてゐたのです。

 小母さんも可なり疲れておゐでのやうした。

 私と小母さんと二人きりでは何だかあの涼しい八畳の座敷もだるい空気が漲つてゐるやうで、何となく気分が重くなつて来るのでした。

 あなたでもゐらしたらまた堀切の話でもしてすこしは気分をはづます事が出来るかと思つてました。

 でもとう/\ゐらつやしやらなかつたのですね、私はまた重い頭を抱えて小母さんの処を出ました。

 例の崕(がけ)の道を歩いてゐますと、あの林の前の叢の真青な笹や草が目にしみてツン/\した青い薄が頭の中を突きさすやうでいやな/\気持でした。

 その日だけは林の中に、はいつて見る気もしませんでした。


(「染井より」/『青鞜』1913年7月号・3巻7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p37)

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 荘太とのラブアフェアについて、野枝がその一部始終を書いたのが「動揺」である。

 これも、らいてうに宛てる手紙文スタイルで書かれている。


 この手紙を受け取ったのはたしか六月十三日の朝だったと覚えて居ります。

「木村荘太」という差出人の名が忘れつぽい私の頭の中の何処かの隅に、二三度も雑誌の上で見た名だと残つて居りました。

 そして、最近にTと二人で本郷を歩いたとき、ふと開けたヒューザンの中に見出した名である事も覚えて居りました。

 私は一応その手紙をよんで見て、何かにハタと躓いたやうな気持ちがしました。

 何とはなしに、当惑して終(しま)いました。

 丁度その日は金曜日でした。

 私はその手紙を小母(おば)さんに見せて、困つた/\と云つては、寝ころんでいろ/\に考へました。

 私は、何だかその手紙をTに見せると、いふ事が大変、恐いやうな気がしました。

 この手紙に対する私の態度がどうであるかといふ事より先きに、私は、この手紙によつて、Tが、どんな持ちを抱かされるかと考へますと、悩ましい気持ちがつきまとってゐるやうな気がしてこまつたものを貰つたと云ふ気がしました。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p153~154/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p23)


 さて、どうしたものか。 

 自分の態度が決まるまではと思い、野枝はいったん保持にこの手紙を預けた。

 しかし、考えを変えた。


 ……私とTの間には何の秘密もないのです。

 Tは今日も夕方、いつもと変らない穏かな気持ちで帰つて来るに相違ないのに、私は暫く、Tにかくしてゐなければならない事を胸に持つて帰らなければならないと思ひますと、何とはなしに、圧(お)しつけられるやうな気持ちがして、矢張り何時ものやうにさつぱり打ち明けてしまつた方がいゝといふやうな気がして、小母さんからその手紙をもらつて、かへりました。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p154~155/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p23)





 帰宅すると辻は出先からまだ帰宅していなかった。

 ぐったりして机の前に座った途端、辻の妹の恒(つね)が部屋に入ってきた。

 この日の朝の『中央新聞』に青鞜社の記事が載っていて、野枝の私行上のことも書いてあるが、まったくのでたらめであるという。

「染井より」解題によれば、「屏息(へいそく)せる新らしい女」というタイトルで、『中央新聞』が記事にした。

 記事は六月十二日付に(上)、六月十三日付に(下)、二日連続で掲載された。

 野枝のでたらめなプライバシー記事が載ったのは六月十三日付の(下)である。


 伊藤野枝は巣鴨小学校の教師後藤清一郎と好い交情(なか)になつて二三日前に安産があつたので既に家庭の人である

(「染井より」解題/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p456)





 恒からだいたいの記事の内容を聞いた野枝は激怒した。

 野枝はすぐに岩野清子の家を訪れ、清子に付き添ってもらい中央新聞社に行った。

 抗議に行ったのであろう。

 名誉毀損だから「訂正記事を載せて謝罪しろ」ぐらいは言ったであろう。

 野枝はこの一件について、「染井より」にはこう書いている。


 屹度(きつと)あの男なんです。

 中央新聞の記者だと云つて尋ねて来た、白田天坡とか云ひましたね。

 あの男に違ひありません。

 本当に世の中に新聞記者ほど下等な、度し難いものはありませんね。

 私の事にしろ小母さんの事にしろ、まるで間違つた事を書いてあります。

 純然たる名誉毀損なのです。

 数多い新聞の中でも最も俗悪な低級な中央にあんな愚劣な記者のゐるのもふしぎではありませんね、私は本当に会はないでよかつたと思ひますよ。

 けれどもあの記者は私たちが会はなかつたと云ふ事を非常に不快に思つたんですよ、で何にも種がとれなかつたので自分勝手にいゝかげんな事を綴り合はして記事をこしらへたんですね。


(「染井より」/『青鞜』1913年7月号・3巻7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p37~38)



 

 さらに、野枝はこの一件について、『青鞜』の「編輯室より」でも、こう言及している。
 

 この間中央新聞の白田天坡といふ記者が事務所に来て皆に会ひ度いと云つたさうです。

 ……小母さん一人だつたので断りますと、その記者は玄関先きに立つて、いつまでも一人で勝手な事をシヤベツて出て行つたさうです。

 その日私は頭痛がして臥つてゐますと、矢張りその記者が来ました。

 勿論私も断りました。

 らいてうもるすで会はなかつたさうです。

 ちつとも種がとれなかつたわけです。

 十二三日頃に……出た、「屏息せる新しい女」といふ題の……青鞜社の記事は滅茶々々なものでした。

 本当に世の中に新聞記者ほど下等な、度し難いものはありませんね、後で私はその記事を読んで見ましたが実に下等な記事なのです。

 あらん限りの悪意を持つて書いたものです。

 私の事にしろ小母さんの事にしろ、まるで間違つた事を書いてあります。

 純然たる名誉毀損なのです。

 数多い新聞の中でも最も俗悪な低級な中央にあんな愚劣な記者がゐるのもふしぎではありませんね、私は本当に会はないでよかつたと思ひますよ。

 ……あの記者は私たちが会はなかつたと云ふ事を非常に不快に思つたんですよ、で何も種がとれなかつたので自分勝手にいゝかげんな事を綴り合はして記事をこしらへたんですね。


(「編輯室より」/『青鞜』1913年7月号・3巻7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p40)





 中央新聞社を出てからも銀座の方で用を足してきたので、帰宅したのは夜の十一時ごろだった。

 辻は起きて仕事をしていた。

 野枝は辻の傍らに座り、木村荘太の手紙を見せた。

 辻は黙って読み終えて、こう言った。

「返事を書いたらよかろう」

 野枝は木村の手紙の文面が真面目なところに引かれていたが、笑いながら返事をしなかった。

 手紙を熱心に繰り返して読んだ辻が言った。

「返事を書かなければいけない……」

 辻は木村の書いたものを読んだことがあり、野枝よりはよほど木村のことについて知っていた。

 それからふたりはいろいろな話をして十二時すぎに臥せった。



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第75回 魔の宴






文●ツルシカズヒコ






 一九一三(大正二)年五月十六日。

 雨が降る中、若い男が北豊島郡巣鴨町の青鞜社事務所を訪れた。

 男の名は木村荘太

 荘太は応対した保持に野枝との面会を請うたが、野枝は不在だった。

 野枝はその後二、三回、事務所に行ったが、保持は荘太が来たことを忘れてしまっていたので、野枝には伝えなかった。

 らいてうは荘太が青鞜社を訪れたときのことを、こう書いている。


 五月の或雨降りの金曜日に私は小母さんと事務所で話しをしてゐると、玄関の方に人が来た。

 取次ぎに出て戻つて来た小母さんは木村といふ人が野枝さんに逢ひたいと云つて来たのだと云つた。

 そしてそれは若い書生風の男だといふことだつた。

 けれど私達は野枝さんからついぞそんな姓の人のことを聞いた覚えもないので、いづれ例の紹介もなしに、又これといふ用事もなしにとりとめもない好奇心から訪問しに来る青年の一人だらう位に思つてそれなり忘れて仕舞つた。


(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号・3巻11号_p84~85)

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 荘太は野枝に興味を持った理由を、こう書いている。


 そのころ、こんな私の注意を引いたひとりの若い女性の姿が現われた。

 そのひとを見てでなく、そのひとの書いたものを読んでだつたが。

 これにすこし遅れるか、前後してか、高村君に寄り添つた女性ーー智恵子さんーーも、当時出ていた雑誌「青鞜」の同人だったが、この新らしい婦人の解放を求めて、雑誌「青鞜」に集まつた若い女性たちのなかに、際立つて若若しく、水水しく、率直な文章を書き、かたわら翻訳ーーしかも、エレン・ケイのものなどーーをもして、雑誌に載せている一女性があつた。

 その仲間のものたちが、鴻の巣あたりで五色の酒を飲んだといつたり、吉原に遊びに行つたりしたいというような、新聞などでの世間的ゴシップの種子になつて、私が過去に見捨てた享楽的な世界の消息などを女だてらに窺う興味に生きるひと群れもあつたようななかに、この私が見いだした若い女性の書くものは、伸び伸びとして、自己の解放にむかつてひたむきに進んで生きようと真実さ、真剣さが感じとられるようなものだつた。

 いく号かにわたつて、それを読むうち、私の注意は興味に変り、興味はそれに引きつけられて行く気持に変つた。

 そして私が、ここに新たな恋愛観、結婚観についたとすれば、この光りのもとに、おなじ光りを見る道連れと手を携えて立ち直れたら、というような夢想もいだかれて、心ではこのひとにあてる気持で心が顫動(せんどう)して書いた稿を、そのまま「顫動」という題にして、雑誌「フュウザン」に出した。

 ……そうして私の前のメートルのスタンダールへの想起には、「愛のない結婚生活で、妻が貞操を守るなどということは、おそらく自然に反する。」という言葉を「恋愛論」から引いて、この言葉を「エレン・ケイの訳者に贈る。」と書いて、最後に載せた。


(木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』_p197~198/『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』_p160)





 エレン・ケイに関しては、らいてうが『青鞜』に翻訳を連載していたが、同誌五月号に載った『恋愛と道徳』の訳者名が野枝になっていたのは、同号「編輯室より」によれば、そのころらいてうが体調を壊し「十日ばかり前からひどい熱に苦しめられてずっと床について居」たからだ。

 しかし、「恋愛と道徳」を翻訳したのは野枝ではなく辻だった。

 青鞜社は毎週金曜日を読者との面会日にしていたので、荘太は五月十六日の金曜日に青鞜社を訪れたのである。

 荘太が「顫動」を寄稿したのは『フュウザン』六月号である。

 野枝に会いに行ったが会えなかった荘太は、手紙を書くことにした。

 その心情を荘太はこう記している。


 そうして私はこういうものを書いた以上、会えたら会つて、そのひとにこのことが告げたい気がして、ある日、巣鴨の青鞜社を訪ねて見た。

 そのひとは編輯に携わつていることが、雑誌で知れていたから。

 と、これには、私はそのひとの受けている思想に関心があるという意味で、こうして訪ねて行つて会うのを憚らぬ、というような公然たるに近い気持を表面に持つて行つていた。

 それと、当時は武者君と「世間知らず」にあるC子さんとの交渉が直き前にあつたのにづづいて、長与君の「盲目の川」に書かれた恋愛のこと、岸田に突然手紙を送つて会つて、結婚した美術女学生上りの婦人蓁【シゲル】さんのことなど、高村君と智恵子さんのことなど以外にも、こんな新らしい男女かんの自由な交渉が身近に繁げ繁げ行われていたことにも誘われるところもあつたのだと思われる。

 が、その訪ねた日には編輯所には向うがいないで会えなかつたから、そのまま帰つて、あとは自分でも、そんなに性急に知らないひとを訪ねたりした軽挙が顧みられうような気もしたり、そうしているうちにも、心が一そう引かれるのを感じたりする思いに、心がそれ以上に定まりかねて日をすごすうち、やがてやつぱり引かれる気持が勝つたままに、こんどは手紙を書いて出した。


(木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』_p198/『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』_p161)


「武者」は武者小路実篤、「C子」は武者小路の最初の妻・竹尾房子(宮城ふさ)で、武者小路の小説『世間知らず』に登場する「C子」。

「長与」は長與善郎、「岸田」は岸田劉生





 麹町区平河町の下宿に住んでいた荘太は、野枝に手紙を書いた。


 拝啓、未知の私から手紙を差し上げる失礼を御ゆるし下さい、さて先月の中程の金曜日に編輯所へ上つてあなたをお訪ねしたのは、私でした、実はその頃からして私はあなたを知り度く思つてゐまして、それで突然御伺ひして見たのでした。

 ……僕には……かなり烈しくあなたに対する興味を抱かせようとしてゐるものがあるのです……私はあなたの書かれるものゝ幼稚さがかなり純らしい処から出てゐるようなのを愛してゐます……僕はかう云ふ自分の気持ちが……幾分ラヴに似てゐる事を驚くのです。

 ……もし御会ひ下さるようでしたら御都合の時処をお知らせ願へば幸甚です。

 或は御会ひして見た上ではあなたの個性と僕の個性は相反撥し合ふ性質のものであるかも知れないと思ひます。

 或はまた只一個の友達として静かに気持よくお話しする事が出来るかも知れないと思ひます。

 尚この手紙はあなたにプライヴエエトのものである事を御承知のほど願ひあげます。

 以上、六月八日夜


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p151~153/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p21~22)





 荘太は翌日、自分の下宿から半と離れていない、紀尾井町三番地の下宿にいる弟(木村荘八)のところへ行き手紙を見せた。

 木村荘太、荘八の父は木村荘平、牛鍋屋のチェーン店を何人もの妾に経営させていたという明治の豪傑である。

 荘太、荘八は妾の子で同腹の兄弟だった。

『定本 伊藤野枝全集 第一巻』の「動揺」解題(p399)によれば、荘太は一八八九年、東京市日本橋区生まれで、当時二十四歳。

 一九〇六年に本郷区の京華(けいか)中学を卒業した後、英語を学び、第二次『新思潮』に参加、一九一一年から翻訳著述を行なっていた。

『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』は、荘太の37後前の回想であるが、リアルタイムの記述である「牽引」では、ここまでの経緯について、荘太はこう記している。


 六月九日の午ごろ、僕は「青鞜」の伊藤野枝氏に宛ててかういふ手紙を書いた。

 直ぐそ れを麹町平河町の僕の下宿から半町と離れてゐない、紀尾井町三番地の下宿にゐる弟(木村荘八)のところへ持つて出懸けて行つて、出して見せた。

 僕は一月ばかり前から弟にこの事を話してゐた。

 手紙の中に書いてある先月中程の金曜に、巣鴨の青鞜事務所へ訪ねて行つて見て、留守で会へずに帰つて来た事も、弟は知つてゐるのだ。

「フユウザン」六月号の僕の感想を読んだ人には疾によく領解して貰へたと思ふが、極く最近に僕は自分の女性観、恋愛観が急速に一変した。

 さうして僕は自由恋愛の使徒になつた。

 あの感想を書いた当時に、眞に自身の要求がそこまで動けば、僕は遠からずそのプロパガンドをする気でゐ た。

 また自分には強くその要求が動いて来さうな気がしてゐた。

 僕は殆んどこのごろ囂(やかま)しくなりかけて来た婦人問題に就いて説かれる日本の人の論議を読んだ事がない。

 それから「青鞜」あたりの人達の事も全く無視してゐた。

 僕はその時前者の方はどうでもいいが後者は無視してゐられなく思はれて来た。

 眞に僕等の近くの女でほんとうに生きようとしてゐる人達があるのだらうか。
 
 その要求を真に感じて進んでゆかうとしてゐる人達があるのだらうか。

 僕は痛切にこの事が知りたくなつた。

 僕が先月雨の土砂降りの日に、突然野枝氏を巣鴨の事務所に訪ねて見たのは、ただ主にかういふ動機からだけであつた――それは丁度僕があの感想を書かうと思ひ立つてゐた時だ。

 元より既にその頃からして僕は漠とした気持で恋愛を求めてゐた。

 眞に自身を生かすべき恋愛を求めてゐた。

 けれどもそれを特に野枝氏に待たうとしてゐるといふ予期は少しもなかつた。

 僕はただ二三号極く最近の「青鞜」を読んで見て、野枝氏が下らない歌や小説を書かずにゐるのが目についたのだ。

 書くものの上に微力にしか現はれてゐないが、しかしあるいい要求を懐いてゐる人らしく感じたのだ。

 それで一番年若い人だといつか何処かでふと耳にしてゐた事が頭に泛(うか)んで来たのだ。

 全く内容を知らないけれど、この春の演説会にこの人がひとり聴衆の前に出て語つた事があつたと聞いてゐた記臆(ママ) が、ひきつづき泛んで来たのだ。

 僕はこれだけの理由で少くともこの人を真面目に進まうとしてゐる人と解釈した。

 またそれに純なところのある人らしいと推定した。

 僕が始めに訪ねて会つて見ようとしたのは、理由は単にこれだけで、若しこの人に対する牽引が起るとしても、それは第二の後の問題なのであつた。

 会つた結果で自然に起るべきそれらの第二の問題の一切を、僕は別段避けようともせねば、期さうともしてゐなかつた。

 それで会へずに帰つてからは、六月の雑誌に僕の感想が出てから野枝氏がそれを読んでから、前に自分が訪ねた事をいつて、さうして手紙を出して見ようと思つた。

 で僕はそれ から半月忙がしい思ひで立て込んだ仕事の中に没頭した。

 月の終りにそれが大方片づくと僕は漸くホッとした。

 野枝氏の事が頭に泛んだ。

 がその時半月以前とは僕はだいぶん変つてゐた。

 僕は一層内へ進んだ。

 一層深い根本のものに次第に余祐(ママ)なく触れて来かけた。

 僕は凡ての一 切を悉く直接に僕のライフに触れてゆかしたいと思つて来てゐた。

 また随つて現在の自身のライフの充實に資さないものは凡て自身の思議から、行為から排除し尽さうと思つて来 てゐた。

 現下の自分自身の生活に深い交渉を齎(もたら)さない事はなんにもすまい。

 そして自身の 生活に交渉する一切はなんでも、どんな事でも飽くまで恐れずに徹底して遣つてゆかう。

 すれば一足一足に自身の生活の深さが増せば、随つてますます深くの底にあるものが生か されて来る。

 自身の生活の大きさが増せば、また随(したが)つてますます自身の面する問題が大きくなる。

 といふのがそれからの僕の第一のモツトオになつて来てゐたのである。

 この意味からして広く社会を対手にプロパガンドするといふ態度が僕には遠くなつた。

  書いて多くの知らない女性を覚醒させようといふより、直ちに近くの僕を牽引するに足るひとりの婦人に触れて、自身の生活の力-恋愛の力にその人を導かうとする要求のみ、全然僕の心を占め終るようになつた。

 さうして僕はその僕の恋愛に、刻下の自身を先づ第一 によく生かしたく思つて来てゐた。

 随つていつか自然と僕の心の中で、野枝氏の姿はさういふ僕の要求の対照(ママ)に変形した。

 前出の手紙を僕が書いた動機は、外でもない、僕がこの自身の要求を自覚したか らなのである。

 でまた僕の今の全然肯定に傾く思索は、僕に一度失つた女性に対する信頼を回復せしめた。今の日本のエンヴァイロンメント(環境)に全然にじられ尽して、その育つ芽を枯らし切られぬ力が、吾々の異性にもまたあると信ずる大きな信頼を僕は心に懐き始めた。

 で僕は感じた.......もう僕はぶつからずにゐられない。

 自分の生活の全部を挙げてぶつからずにゐられない。

 製作と恋愛とまた自身を生かす凡てに僕の全力を傾倒してぶつからずにゐられない......弟は黙つて僕の手紙を読んで、黙つてそれを僕に返した。

「若い綺麗な人ださうだ。」

 と暫らくして僕にいつた。

「とにかく会ふといつてよこせば面白いだらうと思ふ。」

 僕はさういふ自分の気持がやや静平(ママ)でないのを覚えた。

 その時僕の心にも言葉にも、既に対手のよく知つてゐるラヴァアの上を語る時-特に兄弟にそれを語る時-思はずも伴ふやうな微動があつた。

 ふたりはそれなり直ぐに話題をいつもの普通の事に移した。

 さうして暫らく話した後で、 僕は別れて、途で手紙を投函すると、やがて一種の期待を湛へた安らかな心になつた。

 で尚少しそこらを散歩してから帰つた。


(木村荘太「牽引」/『生活』1913年8月創刊号)

 


江戸老人のブログ「明治の豪傑”いろは”木村荘平」

Art & Bell by Tora「生誕120年木村荘八展」

※木村荘八「私のこと




★木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』(朝日新聞社・1950年5月30日)

★『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』(平凡社・1981年12月10日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




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2016年04月10日

第74回 堀切菖蒲園






文●ツルシカズヒコ



 
 一九一三(大正二)年六月中旬。

 野枝がらいてうの書斎を訪れ、奥村の話に一段落ついた後、野枝が堀切菖蒲園の話をらいてうに振った。

 そのちょっと前、らいてうが田村俊子と堀切菖蒲園を訪れていたからである。


「この間の堀切行きは面白かつて?」

「えゝ、面白かつたわ。田村さんがすつかり酔つぱらつて大手をひろげて駆け出す恰好つたら……」

 平塚さんはさも可笑しさうに一人で笑つた。

「田村さんお酒を沢山めし上るの?」

「弱いわ、すぐ酔つちやつてよ」

「さう、二人で歩いてらしやる様子が見えるやうだわ」

「もう時間が遅かつたから割りにつまらなかつたわ、今度一緒に往きませうよ、哥津ちやんや岩野さんを誘つてね」

「えゝ往きませう、私はまだ行つたことはないんです」

「さう一寸いゝわ」

「何時往きます?」

「明日でも明後日でもいゝわ」


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年4月10日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p134~135/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p196)

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 そして、ふたりはその後も引き続き、こんな会話を交わした。

「田村さんはこのごろ、よく貴女を訪ねていらっしゃるのね」

「そうね、気紛れだから、あの人も」

「でもあの方は気が強いようで案外、弱いんじゃないかと思うところがありますね」

「そうね、あの御夫婦の喧嘩だって、気が強いからってのじゃないでしょうね」

「ええ、それはこのあいだ私が伺ったときに話していらっしゃったわ。締め切りが来ても書けないでイライラしていらっしゃると、旦那様が心配なさるんですって。それがまた癪にさわって、つい喧嘩になるんだっておっしゃったわ」

「嘘じゃないでしょうね」

「だけど、私、お書きになったものでなんか見ると、軽蔑し合っていらっしゃるようでいながら、御一緒にいらっしゃるわね。あんななら、お別れになったらいいだろうと思いますがね」

「私は松魚さんは世間じゃつまらない方のように言っているけど、ひょっとするとたいへん偉い人じゃないかって気がするのよ。たいへん偉い人かたいへん意気地のない人か、どっちかだわ。ああやって、一緒にいらっしゃるのだって、きっと俊子さんが別れたくないのだろうと思うの」

「そうかもしれないわね」





「気の弱いところは、荒木さんだってよく似ているわね。深みに入ってしまって、もうどうすることもできないんでしょう」

「荒木さんは今、一緒にいる人とはちっとも愛がないの?」

「ええ、もちろんでしょう。この前、私が行ったら泣いていたわ。辛いんでしょうね。ずいぶん気兼ねをしているようですものね」

「可哀そうだけど、なぜそんな人と一緒にいなければならないんでしょう」

「だって、もう今じゃどうすることもできないでしょう。あの人はたいへん執念深い人だって言うから」

「初めはお金なんでしょう。いつまでもそうやって縛られているなんて馬鹿馬鹿しいわね」

「つまり、あの人は目先だけの悧巧なのよ。あの目白の家を売るのにずいぶん高くあの人に売ったんでしょう。で、その利益はあったけれど、今度は自分自身ってものを失くしてしまったんですよ」

「そう、私そんなことちっとも知らなかったわ。じゃ、あの増田(増田篤夫)って人との関係はどうなんです?」

「あの人には真実愛があったんでしょうけど、妙なふうになっているんでしょう。まあ、弱い弱い人ね」

「馬鹿げてるわ、そんな。いつか野上さんに、そんなこと聞いたのよ。ちっとも知らなかったんですよ。だけど、荒木さんはなんとかしてその束縛から逃れる気はないのかしら?」

「ないことはないんだわ、そうして苦しんでいるんですもの。恐くてできないんでしょう」

「そう? おかしいわね」

「あの人から復讐されるって言うのよ。それを恐がっているのよ」

「そんなこと馬鹿馬鹿しいわ」





「あなたは荒木さんの話を聞いていないから。あの人は復讐を大真面目に考えているんですって」

「私ならそんな嫌な奴のそばで嫌な月日を送るくらいなら、それよりいっそ殺されでもした方がいいくらいのものだわね」

「まあ、そうだわね。だけど荒木さんにはそれだけの勇気はないんだから仕方がないわ」

「あんなにも手練手管を心得ていそうな人だから、もっと何か智慧が出そうなものね。向こうが嫌がるように、こっちから仕向けるとかいうわけにはゆかないもんかしら」

「そんな貴女がやっきになったって駄目よ、自分のことかなんかのように」

「だって気になるんですもの。本当に、アイヌのゼントルマンだなんて悪口言いながら、あんなに縮こまっている人ってありゃしないわ。増田さんって貴公子みたいな人ですってね」

「ええ、たいへんきれいな人だそうね」

「だけど、まったく荒木さんはつまらない目をみているのね」

「自分でそうなっているんですもの、他から手の出しようはないわね。荒木さんに比べると、お姉さん(荒木滋子)って方はずいぶんいろいろなことをなすったって。だけれども、確(しっか)りしたところがあるらしいわね」

「そう、私このあいだ火事のときにちょっとお目にかかったわ」





 青鞜社員の堀切菖蒲園行きの話は、実行に移されたようで、野枝はこう記している。


 □歌津ちやんはお芝居や寄席や新内や歌沢で日を暮らしてゐます。私は、うちにゴロ/\して、いつからいてうと岩野さんと歌津ちやんと私と四人で堀切に行つたときに買つて貰つた小さな独楽をまはして遊んでゐます。

(「編輯室より」/『青鞜』1913年7月号・3巻7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p41)


 堀切から持つて来ましたスウヰートピーは土曜日まで生きてゐました。

(「染井より」/『青鞜』1913年7月号・3巻7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p39)



明治37年の堀切菖蒲園2 ※堀切菖蒲園3 



★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)




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2016年04月09日

第73回 瓦斯ラムプ






文●ツルシカズヒコ



 一九一三(大正二)年六月、巣鴨の保持の住居兼青鞜社事務所の庭には様々な花が咲いていた。

 らいてうも、清子も、野枝もホワイトキャップに殺されずに生きていた。

 関西から帰京した奥村が、曙町のらいてうの自宅を訪れたのは六月七日だった。

 奥村は門の前まで来たが、入りかねて、置き手紙をポストに入れて帰った。


 関西旅行から一昨日戻りました。

 そして今俄に思い立ってお訪ねしたくなり、お宅の門の前まで来ることは来ましたが、ご在宅やらお留守やら分らないので残念ながらこのまま帰ります。

 ご病気だったそうですが、もうすっかり快いのですか。

 ではまたーー

 六月七日 曙町郵便局にて 浩


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p97)

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 この手紙を読んだらいてうは、すぐに大塚窪町の新妻莞気付で返信をした。

 二、三日して、奥村が大塚の新妻の下宿を訪ねると、新妻は「平塚から君に郵便が来ている」と言って、奥村に手紙と小包を渡した。

 奥村は帰りの電車の中でまず手紙に目を通した。


 私の家の門はあなたのためにはいつでも開いている筈でございます。

 西嶋という方は、あなたのお歌を《詩歌》で拝見したときお見受けした方のようにも記憶しますけれど、初めての方に逢うということは、また手紙を出すということには私は妙な不安と恐怖をもっております。

 それで同氏へはあなたからよろしくおっしゃって下さいまし。

 ではお待ちしておりますから。

 六月八日 昭


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p98)





 らいてうのこの手紙の「西嶋」、つまり新妻莞に関する部分は、ちょっと説明が必要である。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p478)によれば、新妻がらいてうの家を訪れ面会を申し入れたことがあったが、らいてうはその意図がわからず面会を断った。

 らいてうが奥村に宛てた手紙を、新妻が密かに開封していたことを、この時点では奥村もらいてうもまだ知らない。

 下宿に戻った奥村は、小包を開け『円窓より』にはさんであった、小さい紙切れに書いてあった文面を読んだ。

「燕の来るシイズンがきたのでしょうか」という書き出しの文面である。

『円窓より』にはさんであったこの手紙のほうが、「六月八日」の日付けの手紙よりも、前に書かれたものである。

 この日も奥村は曙町のらいてうの自宅を訪れたが、彼女が留守で会えず、「しかし、どうして西嶋の所などをご存じなのか、それが不思議でなりません。表記の所に居ります」と自分の住所を明記した手紙を出した。

 さらに奥村は、新妻に対する自分の疑惑や不信感を綴った手紙をらいてうに書いた。

 奥村が曙町のらいてう宅を訪れ、九ヶ月ぶりにふたりが再会したのは、六月十三日の夜だった。


 やがて取次の女中が彼を案内したのは、内玄関につづく別棟の数寄屋ふうのふた間つづきの昭子の部屋である。

 隣りの部屋は客の応接に使われ、水屋に当たるこの書斎は、東の円窓近く机が北壁に面して置いてあり、廊下からはいった横のーーつまり机に向って左寄りの壁には浩の自画像が掛けてある。

 机のそばに座布団を進められて、浩が腰を下すとまもなく、女中と入代りに袴姿の昭子がはいって来た。

 そして彼と差向いに坐ったとき、しばらく、とふたりの口から同時にかすかな言葉が漏れて、互に顔を見交したままいっときどちらからも口が利けなかった。

 泪にうるんだ四つの瞳が瓦斯ラムプの光に耀(かがや)いた。

 ーーおからだはもう?

 ーーええ、すっかりいいの……。


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p104)





 らいてうは、こう記している。


 梅雨の夜空の重くたれこめた、静かな晩でした。

 その夜、円窓の灯影のなかに、ややはにかみを浮かべながら、ひたむきにわたくしを見つめる彼の目(まな)ざしは、どれほど多くのことを語りかけたことでしょうか。

 純な、ひたむきな、そしてなにか哀愁を湛えた彼の瞳を、わたくしもまた力をこめて自分の瞳のなかに包みました。

 もはや、燕の手紙も、恨みも、疑惑も一瞬にして消え去り、向かい合う二人の心の絆は、どうしようもない力で、つよく、かたく結ばれてしまったのです。

 もう言葉は、なんの必要もないのでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_474)





 野枝がらいてうの書斎を訪れると、奥村は大阪から帰って来て円窓の部屋へたびたび来ているらしく、奥村が描いた見慣れない海の絵が三枚置いてあった。

 絵に対する批評眼を持たない野枝だったが、紅吉の侮蔑の的になった油絵の自画像とは、比べものにならないくらい上出来だと思った。

「気が弱いっていうのかおとなしいっていうのか、そりゃ本当にかわいそうなくらいよ。ここに黙ってじっと坐っているんですよ、いつまでもいつまでも。そうしちゃあ、奥から、あんまり遅くなりますからもうお帰りになってはいかがでございますかなんて、女中が言ってくるんです。でも別に気持ちを悪くするでもなく、黙って帰るんですよ。原田さんとはだいぶ長く千葉の方にいたらしいわ」

 野枝は聞き役だったが、話題が変わったので紅吉のことを話した。


「此間紅吉の処に往きましたらね、大変綺麗な方がゐらつしやいましたよ、市川さんとかつて、すこし、ませた、嫌な表情をする人ですけれどね、」

「あゝ、さう、それは今、紅吉の愛の対象になつてゐる人でせう、何でも美術学校か何かの方」

「えゝ、さうですつて、此の間から大分方々連れて歩いてゐるんですつて、哥津ちやんの処へはおしやく見たいな姿で連れ込んだんですつて、可なり夢中らしいわ」

「さう、私はまだ見ないけれど、このあいだ手紙をよこしてたいへんきれいな人だつて自慢して来ましたよ、是非見たいものですね」

「紅吉があなたの処へ? 手紙なんかよこすんですか」

「えゝよこしてよ」

「随分ね、私はまあ、何日かうちから、どの位、あなたの悪口を聞いたか知れませんよ、まつたくあの人は可愛い人ね」

「あの人の機嫌を気にしてゐたら大変だからうつちやつておく方がいゝんですよ、まあ夢中になつてゐられる間だけ夢中にさしとくんですね」

「でも奥村さんの帰つてらしつたことを聞いたら、何て云ふでせうね」

「自分のことで一杯だからさう気になりはしないでせう」

 二人は何となしに一緒に笑つた。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年4月10日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p133~134/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p195~196)



★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第72回 円窓より






文●ツルシカズヒコ





『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p458~459)によれば、一九一三(大正二)年五月一日、らいてうの処女評論集『圓窓より』(東雲堂)が発行されたが、発売と同時に発禁になった。

「世の婦人達に」が収録されていたからである。

 発禁理由は家族制度破戒と風俗壊乱だった。

 野枝はこうコメントしている。


 らいてうの「圓窓より」が禁止になりました。

 私は何と云つていゝか分りません。

 何故にと云ふ事も分りません。

 当分は何も云へません。

 私の感想もあぶなつかしくてとても書く気になりません。

 私は自分の感想として書くものに彼是云はれるのが一番いやです、主張ならばとにかくですが、自分の感想の内容については、私自身にのみ絶対の権利があるのです。

 私は誰にも何にも云つてもらひ度くありません。


(「編輯室より」/『青鞜』1913年6月号・3巻6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p30)

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『圓窓より』は「世の婦人達に」を削除し装幀も変え、六月に『扃(とざし)のある窓』と改題して出版された。

 下田歌子、鳩山春子、嘉悦孝子、津田梅子ら、女子教育家も「軽率にも、無責任にも、ジャーナリズムの描くところの青鞜社なるものを目の敵にし」(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』p462~463)て見当外れの批判をした。

 らいてうの母校である日本女子大の校長、成瀬仁蔵の「欧米婦人界の新傾向」が『中央公論』四月号に載ったが、らいてうから見れば「俗論に媚び」た批判であり、「世の婦人達に」はこの成瀬仁蔵の「欧米婦人界の新傾向」に対する挑戦、反論だった。

 府下巣鴨町に事務所が移ってから、らいてうはそれまで円窓の部屋に迎えていた来客を事務所の方で会うことにした。

 毎日のようにらいてうの書斎に行っていた、野枝の足も次第に遠のいていった。


『青鞜』一九一三年六月号の「編輯室より」は、野枝が執筆している。

 ホワイトキャップや『圓窓より』のほかに、野枝はこんなことを書いている。


 □五月の第一日曜日に茶話会を開きましたが、事務所にお集下すつたのは、内部の四人をのぞく他、多賀さんが一寸(ちょつと)ゐらして下すつたのと岩野さんきりでした。これから一々おしらせ致しませんが、毎週金曜日の他、毎月第一日曜日になるべく御都合の出来る方はゐらして下さいまし。

 □こんな理屈を今更らしく云つた処で仕方がありませんが私はそれが一番いやなのです。全くこの頃は何にも云へません。それから先月号も大変つまらないと云はれましたが私共もつまらないと云ふ事はあくまで自覚して居ります。此処しばらくはやむを得ませんとつい弱さうな事も云はなければなりません。

 □九月号には、皆うんと書くつもりでゐます。思い切つたものをおめにかける事が出来るかと思ひます。

 □今しばらくの間は、お互ひに沈黙して勉強するのが一番だと思ひます。皆様に出来る丈け御勉強をおすゝめ致します。各自の内部の充実と云ふ事が すべての場合に於て最も望ましい事なのです。

 □入社、伊藤智恵

 □青鞜創刊号は方々から送つて下さいましたので もう沢山です。


(「編輯室より」/『青鞜』1913年6月号・3巻6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p28~31)



『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の解題(p455)によれば、「多賀さん」とは『青鞜』一九一一年十二月号に入社が報じられている多賀巳都子のこと。





 五月初旬のある日だった。

 その日、野枝はらいてうの書斎を訪ね、おおかたの話し合いを終えたころ、らいてうが思い出したように微笑みながら呟いた。


「ねえ、燕が大阪から手紙をよこしてよ」

「さう?」

 私は眼をまるくして開いた。

「何時かね、もう、紅吉に脅かされて行つて仕舞つた時に、残(のこり)惜しい気がしたから燕だから時が来ればまた帰つて来るでせうと云ふやようなこと私が云つて置いたのよ、それを忘れずにゐてよこしましたよ」

「さう、今大阪にゐらつしやるの」

「えゝ、もう近いうちに帰るでせう」


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年4月10日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p131~132/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p194)


 三月の末に帝国劇場で公演し大当たりした近代劇協会の『ファウスト』は、五月一日から大阪の北浜帝国座で十日間の公演をしていたので、出演者のひとりだった奥村も上阪していた。

 北浜の旅館・水明館に宿泊していた奥村は、こう回想している。


 ……或る日、孔雀は大阪朝日新聞を持って彼の部屋にはいって来た。

 浩が指差されたところを見ると、学芸消息欄に広岡の病気を伝えている。

 浩は俄に気になった。

 孔雀はすぐに見舞を出せという。

 それで彼は……居どころ知らさず、名前も書かず、女優の誰かに貰った箕面の風景の絵はがきで昭子に見舞を書いた。


 (奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p93)





『青鞜』五月号「編輯室より」には「らいてうは十日ばかり前からひどい熱に苦しめられてずつと床について居ます」とある。

『定本 伊藤野枝全集 第一巻』収録の「雑音」(p194)によれば、らいてうと野枝は奥村について、こんな会話を交わしている。


「だけど、奥村さんってよほど気の弱い方なんですね。あんな紅吉に脅かされて行っておしまいなさるなんて」

「ええ、だけど、紅吉もあのときはずいぶん興奮していましたからね」

「そうですかね。だけど、この前、紅吉に会ったときに、奥村さんとは上山さんのところですっかり仲直りをしたなんて言っていましたよ」

「あの人の言うことですもの、しかし嘘じゃないかもしれないわ」

 野枝はまだ奥村のことを知らなかったので、他に話すこともなく、その話はそれでおしまいになった。

 奥村から絵葉書を受け取ったらいてうは、奥村に手紙を出していた。


 ……近代劇協会と「詩歌」発行所の両方へ奥村の住所を問い合わせると、大塚窪町の新妻莞さんのアドレスを報らせてきました。

 むろんそこが奥村の下宿先と信じたわたくしは、処女出版の「円窓より」に手紙を添えて、その宛先へ送りました。

 奥村はわたしくから離れたとき、「燕ならば季節がくればまた飛んでくるでしょう」と書き送ってきましたが、その季節の春が来て、燕は元の巣に帰ってきました。

 ところがそれは、わたくしの手紙を見たからではありませんでした。

 どういうお考えか、新妻さん気付で送った奥村宛の手紙をこの人は押えてしまい、奥村の手には渡さなかったのでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p473)





 そのころ奥村のねぐらは、築地のむさ苦しい貧乏長屋の二階で、原田潤と同居していた。

 関西を旅していた奥村がそのねぐらに戻ったのは、六月の初めだった。

 らいてうが『円窓より』に添えた手紙の文面は、こうだった。


 燕の来るシイズンがきたのでしょうか、ほんとうに!

 私は何だか夢のような気がして只もうあれから興奮しつづけています。

 どうぞあの頃の私をちょっとでも思い出して見て下さい。

 あのことがどれほど大きく私を悲しませ失望させたかを!


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p99)


 辻と野枝が芝区芝片門前町から、北豊島郡巣鴨町上駒込三二九番地の借家に移ったのも五月だった。

 隣家は『青鞜』の寄稿者でもある野上彌生子の家だった。



★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 13:17| 本文

2016年04月07日

第71回 ホワイトキヤツプ






文●ツルシカズヒコ



 一九一三(大正二)年四月、青鞜社の事務所は本郷区駒込蓬萊町の万年山(まんねんざん)勝林寺から、東京府北豊島郡巣鴨町大字巣鴨一一六三の借家に移転した。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p457)によれば、南湖院の仕事を辞めて青鞜社の仕事に専心することになった、保持の住居の確保のためであり、そして「青鞜」が新聞種になり来訪する新聞記者が多くなり、勝林寺の住職からやんわり立ち退きを言い渡されたからだった。

 院線の巣鴨駅の近く、ひば垣をめぐらした新建ちの三間の借家で、保持の住居も兼ねていた。

 保持、中野初子、哥津、野枝、らいてうが社員の応対に当たった。

 同じころ、岩野泡鳴、清子夫妻も目黒から巣鴨村宮仲に引っ越してきたので、清子もしばしば事務所に顔を出すようになった。

 四月二十日、文部省が婦人雑誌関係の反良妻賢母主義的婦人論の取り締まり方針を決定した。

 そうした官憲の取り締まり強化の中、『青鞜』四月号について警視庁高等検閲係から出頭を命ずる通知が届いた。

 四月二十五日午前十時、警視庁に保持と中野が出向き「日本婦人在来の美徳を乱すところがたくさんある」という注意を受けた。

 特に名指しはされなかったが、当局を刺激したのは、らいてうが『青鞜』四月号書いた「世の婦人達に」だった。


 この小文でわたくしは、良妻賢母主義に対する疑問を提出し、結婚のみにしばられた在来の女の生き方を否定し、現行の結婚制度をーー主として民法親族篇の不条理をあげて、女の新しい生き方を訴えています。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p458)





 野枝は『青鞜』四月号に「この頃の感想」を寄稿している。

 四月二十八日、福島の消印のある封書一通が、巣鴨の青鞜社事務所に舞い込んだ。

 宛名は「事務所内 岩野清子 伊藤野枝 他二名行」とあり、差出人は「ホワイトキヤツプ 党長代理」。

 開封した保持が大まじめに野枝に言った。

「こんな手紙が舞い込んだから、乱暴くらいやられるかもしれません」

 野枝は何が書いてあるのかと思い読んでみた。


 左ノ四名ニ告グ

 汝等ハ偏狭ニシテ「ヒステリイ」的ナル思想ヲ以テ……汝等ノ言ハ常ニ婦人ノ権利ヲ要求シテ、義務ヲ提供セズ……。

 汝等ノ望ムモノハ只、奇激ナル行動及ビ言文ニ依リテ社会ヨリ注目セラレタシト云フ虚栄(虚は誤字)ト岩野抱鳴(抱は誤字)ノ半獣主義ヲ標傍(傍は誤字)シテ己レノ淫心ヲ充タサントスル心ノミナルベシ、汝等対社会ハ、蚤蚊対人間ニ等シク汝等ノタメニ受クル害ハ小ナリト雖モ害ハ害ナリ。

 依テ汝等ヲ左ノ方法ニ依リ全部殺スベシ。

 ……電力ニ依リ、麻酔剤ニ依リ腕力ニ依リ、短銃ニ依リ其他ニ依リテ必ズ殺害ヲ全フスベシ。其期限明言シ難キモ、来月五月一日ヨリ三ケ月間若ハソレ以上ニ渉ル事アルベシ。

 最後ニ、汝等各自ノ死ハ此ノ状ヲ見シ瞬間ヨリ、今ヨリ!!!

 青鞜社中第一期ニ殺スベキモノ

 岩野きよ 林 千歳
 伊藤野枝 荒木いく

 4.27.1913. 

 White Cap.
 ホワイトキヤツプ
 党長代理

 此予告ヲ近時流行セル(日本)ブラツクハンドレターと同視スルモノアラバヨシ右の四人ノ中、何奴ニテモ(モツトモ始メニ)殺害セラレタルトキニ於イテ普通ノ脅迫状ト見シ嘲ヒヲ解ケ。

 我党ノ本部ハ明言シガタシモ准党員ハ九十一名全国ニ渉リテ散在セリ。

    
「編輯室より」/『青鞜』1913年6月号・3巻6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p28~30)


※野枝は〈四月二十六日附〉と「雑音」に書いている。





 野枝はこの脅迫状にこう言及している。


 先づ奇抜な誤字に驚きました。

 驚察なんぞは最もふるつてゐます。

 先づその誤字に印をつけて数へて見ました。

 文字はきれいに極め細かくペンで書いてあります。

 中学あたりに通つてゐる坊ちやんのいたづらか、或は不良少年のいたづら位だらうと思いました。

 とにかくおもしろいと手を叩いて笑つたのです。

 だが林さんを引きづり込んだのはどうした訳だか 一寸見当がつきませんでした。

 青鞜社中でも第一期に殺すべき者なんてありますから、らいてうとでもいふのかと思つたら可笑(おか)しくてたまりませんでした。

 五月一日からとりかゝるさうですが まだ私はかうして編輯室よりを書いたりしてゐますから御安神(あんしん)下さい。

 岩野さんも荒木さんもぶじです。

 林さんもたぶん何事もないだらうと思ひます。

 若し私が編輯室へ出なくなつたらホワイトキヤツプの手にたをれたものと思つて可哀さうに思つて下さい。

 だけども警察もずいぶんですね、ホワイトキヤツプの人たちは大ぜいの人を今まで手に掛けたやうに書いてあるではありませんか、そんな者に横行されては善良なる人間を一番苦しめるのではないせうか。

 私がこう云ひますと、或る人が「ナアニ青鞜社の人たちはいま危険思想だの何だのつてその筋から白眼(にら)まれてゐるのだから却つてホワイトキヤツプの連中に手伝ひしてこの際撲滅しやうなんて云ひますかも知れませんね」と云ひました。


(「編輯室より」/『青鞜』1913年6月号・3巻6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p30)



★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:20| 本文

第70回 荒川堤






文●ツルシカズヒコ



 野枝と岩野清子がらいてう宅を訪ねると、らいてうは折りよく居合わした。

 三人は荒川の方へ歩いて行くことにした。

 本郷区駒込曙町のらいてうの家を出て、駒込富士前町の裏手から田端にかけての道は、野枝がよく知っていた。


 お天気が馬鹿によかった。

 彼方此方に木蓮が咲いてゐた。

 荒川までは大分あつた。

 田端の停車場を出て山の手線の掘割に入らうとする曲がり角近くの断層の処に子供が大勢ゐた。

 平塚さんは小学校の時室外教授に此処に連れられて来たことなどを話した。

 空は綺麗に晴れてゐた。

 私は広々とした田圃道を岩野さんと平塚さんに挟まれて自由に話しながら歩いて行くのに非常な満足を覚えた。

 私は覚えず知らずに愉快になつて声を放つてよく笑つた。

 小台(おだい)近く迄行つたとき平塚さんは、ずつと前によくこの辺に散歩に来たものだと云つて何かを思ひ出すやうな顔付をした。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年2月12日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p88/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p170)


「断層」とは「田端の断層」のことであろう。

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 小台の渡しを渡って荒川堤が見えるようになるころから、三人の後にも前にも花見らしい人たちの姿が続いた。

 荒川堤の桜はまだ六分ぐらいの開き方で、まだ茶屋にもそうたくさんな人の姿は見えなかった。

 三人は川口の渡しの方へとだんだんに上って行った。

 どこまでも行っても桜は尽きなかった。

 野枝はらいてうと清子の間に挟まって歩きながら、本当に子供っぽい気になってはしゃいだ。

 いく度もいく度も洋傘の先で桜の枝を引き下ろしては、美しい花を手折った。

 しかし、野枝はそれをすぐに捨ててしまうので清子に笑われた。

 風がひどくなってきた。
 
 清子は髪に埃がつくのが嫌だと言って、ヴェールを頭からかぶって歩いた。





「栄螺(さざえ)が食べたいわ、食べましょう」

 清子が掛茶屋(かけじゃや)の中を覗き込みながら言った。

「こんなところのはあてにならないわ。アカニシだっていうじゃありませんか」

「そう?」

「こんなところだけでなしに、市内の安料理屋なんかのだって、やはりそうだっていいますよ」

「そうでしょうね、やはり東京じゃ高くて駄目なのでしょうね」

「そうですね、でもたいていの人はアカニシと承知して食べているのですから、アカニシのつぼ焼と書いたらよさそうなものね」

 らいてうはそんなことも言った。

「やはりサザエと言わなければ体裁が悪いのでしょうね。こんど折りがあったら、江ノ島に食べにいきましょう」

「江ノ島なら大丈夫ね。だけどサザエもアカニシも、あんまり味は違わないんですってね」

「そうですってね」

「岩野さん、ずいぶん食べたそうですね」

「ええ、食べたいわ」

「そんなら食べましょうか」

「食べてもいいわ」

 来た道を茶屋の前まで引き返した。

「何だか変ね、よしましょうよ」

「どうして、あなた、食べたいんじゃありませんか」

「だけど変ね」

 そう言ってずんずんまた歩き出した。

 茶屋の若い衆が妙な顔をして三人を見送った。





 野枝たちが話をしながら歩いて行く後から、自転車が走って来て三人を追い抜いた。

 しばらく歩くと、木の下に自転車が立てかけてあり、乗っていた男が野枝たちを見ていた。

 三人は話に気を取られて歩いていた。

 三人が男のそばに近づくと、その男が写真機を持っていることに気づいた。

 直後、その男は三人の姿を写した。

 三人が顔を見合わせていると、その男は自転車をかかえ三人の傍らをすり抜け、大急ぎで駆けて行った。

「まあ、ひどいのね、私たちを写したんですよ」

「いったい、私たちと知って写したのでしょうか。それとも知らずにかしら」

「まさか知ってじゃないでしょう、きっと偶然なんですよ」

「そうかしら、三人が三人妙だから、きっと写したのよ。もし知っているとすれば、またきっと“新しい女の花見”だなんて出ますよ」

「だけど、三人とも講演会には顔をさらしたんだから、知られているのかもしれないわ」

「どんな風に撮れたでしょうね」

「さあ、きっと大変よ」

 目先の景色が変わるように、三人の話題も留まることなくずんずん進んで行った。

 三人はとうとう幾里かの道を歩いて、日暮れに赤羽の停車場に出た。

 電車に乗って腰をかけたときには、本当に三人とも疲れてぐったりした。

 けれども、何とはなしに三人の心は楽しいその日一日に取り交わした談話にやさしく絡まり合って、めいめいに親しい微笑を傾け合った。

 このとき、清子三十一歳、らいてう二十七歳、野枝十八歳である。

 



 らいてうも野枝と清子に突然誘い出されて、綾瀬に菖蒲を見に行ったことがあると回想している。


 こんなとき、きまって清子さんは、厚化粧して、せいいっぱいしゃれこんでくるのですが、この日も、ぼたん色の濃い地色の羽織を着ているのが、おとろえた肌の厚化粧をいっそう目立たせ、さびしいものに見せたのでした。

 清子さんの顔は、平たい大きな顔で、別段美しいという顔ではありませんが、笑うとパッと愛嬌のただよう顔で、なによりも声の美しい人でした。

 ポンポン蒸気に乗って綾瀬までゆき、菖蒲園を中心にあの辺を終日散歩しながら、若い野枝さんのはしゃいだ声に調子を合わせ、清子さんもきれいな声で、よく笑いました。

 その日別れぎわに、「今日は愉快でした。ありがとう」と、挨拶のあとで、「岩野ともう一週間も口をきかないので……」と、ひとり言ともつかずいったことが、そのころ、まだ奥村といっしょになる前のわたくしには、夫婦というものの容易ならぬ葛藤の断面を、見せられた思いで長く心に残りました。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p522)



小台の渡し ※明治後期の荒川堤の桜 ※日本のカメラのはじまり




★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)




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posted by kazuhikotsurushi2 at 12:02| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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