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2016年04月24日

第117回 下田歌子






文●ツルシカズヒコ




 結局、『青鞜』の「三周年記念号」は十月号(第四巻第九号)になった。

 野枝は『青鞜』同号に「遺書の一部より」と「下田歌子女史へ」を書いている。

『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の「解題」によれば、「下田歌子女史へ」は『新日本』九月号の「現代思想界の八先覚に与ふる公開状」に掲載されるはずだった。

「丁度新日本では戦争がはじまつて記事が輻輳(ふくそう)して困るから十月にまはすと云つて来た」(「下田歌子女史へ」本文はしがき/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)ので、原稿を返してもらい『青鞜』に掲載したのである。

「戦争」とは第一次世界大戦のことで、日本は第三回日英同盟協約により八月二十三日、ドイツ帝国へ宣戦布告し連合国の一員として参戦した。

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 下田歌子は明治天皇の皇后、美子(はるこ/昭憲皇太后)の寵愛を受け、伊藤博文の庇護もあり(伊藤の愛人だったと言われている)、華族女学校学監(後に学習院教授兼女学部長)を経て、自ら創設した実践女学校校長を務める女子教育界の女帝だった。

 英国の良妻賢母教育を視察するためロンドンに滞在中の一八九五(明治二十八)年五月、歌子はバッキンガム宮殿で十二単を着てヴィクトリア女王に謁見した。

 野枝はこの原稿を「嫌でたまらないものを二度も三度も催促をうけて無理な努力で書いた」(本文はしがき)のである。

 なぜなら、野枝は歌子にまったく興味がなかったからだ。

 それもそのはずだ。

 一八五四(安政元)年生まれの歌子は、野枝より四十歳以上も年長の天皇崇拝者である。

 しかし、野枝は実際に歌子に面会して、原稿を書いてみようと思い、面会を申し入れる葉書を書いた。

 その理由をこう書いている。


 私は棚橋絢子(たなはし・あやこ)とか跡見花蹊(あとみ・かけい)とか云ふ人たちがあなたのお仲間であるかないか知りませんがおなじに並んでゐらつしやるあのお婆さん達なら実際てんからそんなはがき処か書くことをうけ合ひはしません。

 けれどもあなたはあの人たちよりもいろんな意味から所謂(いわゆる)「えたいの知れない人」であることが私の注意を少し引きました。


(「下田歌子女史へ」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p115)


 歌子からの返信はなかった。

 しかし、野枝にとって天皇を崇拝する国家主義者である歌子は、あまりに思考がかけ離れ過ぎて批判の対象にはなりえなかったが、野枝は野望に向かって自力で道を切り拓いてきた、「一筋縄ではいかない女」であり「肝っ玉の座り処のある」歌子の「才能」を認めている。





 野枝は『廿世紀』十月号「女と男の戦」特集に「喧嘩両成敗」を書いた。

 野枝はエマ・ゴールドマンの言葉を引用している。


 私は男と女が半分づゝ持寄つて合はせたものが完全な一つの世界であることを信ずる。

 私の敬愛するゴルドマンはその両性の関係について「両性関係の真意義は征服者被征服者と云ふが如き関係を許さない……」と云つた。

 ノラが家出をしたことは妻であり母であることをいとふたのではなくて、「八年間見ず知らずの他人と同棲して子供を生んだと云ふことに気がついたからだ。二人のあかの他人が一生の親密の関係を造ると云ふより以上に陋劣な堕落したことがあり得やうか」とゴルドマンは云つた。


(「喧嘩両成敗」/『廿世紀』1914年10月号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p119~121)

 ノラの下りの原文は以下である。

Nora leaves her husband, not − as the stupid critic would have it − because she is tired of her responsibilities or feels the need of woman’s rights, but because she has come to know that for eight years she had lived with a stranger and borne him children. Can there be any thing more humiliating, more degrading than a life long proximity between two strangers?

(「Marriage and Love」/Emma Goldman『Anarchism and Other Essays』)





『青鞜』十月号の編集を終えたらいてうは十月十二日、奥村と一緒に千葉県の御宿海岸に旅立った。

 らいてうは『現代と婦人生活』という本を日月社から上梓し、その稿料の一部を印刷所への支払いの一部にあて、その残りを御宿滞在費にあてた。

 らいてうは留守中のことは、すべて野枝に頼んだ。

 岩野清子はこの年の二月に男児の母になっていたし、保持も哥津も既婚者になっていた。

 らいてうが頼れるのは、野枝しかいなかった。


 十一月号と十二月号の編集のことも、野枝さんに無理とは思いながら押しつけたのでした。

 ……わたくしにとっては、身近な野枝さんが、いまは一番たよりになる存在なのでした。

 赤ちゃんをかかえて、人一倍忙しい野枝さんですけれど、若さのあふれた笑顔で、「お留守の間のことは引受けます。辻にも手伝ってもらいますから……」と、旅に出るわたくしを励ましてくれるのをほんとうにうれしく思いました。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p546~547)

 
 野枝はこう記している。


 永い間不如意な経済の遣繰りや方々の書店との交渉やそれからまだ外の細々とした面倒な仕事と雑誌編輯で疲れ切つたらいてう氏は十月十二日に千葉県の御宿村へ行つた。

 後に残された私はそれ等の仕事をすつかりしなければならなかつた。

 二ケ月位はどんな苦しいことでも忍ぶ義務があるとらいてう氏は十一日に私が社に行つたときに笑ひ笑ひ云つた。

 私も苦しむでも仕方がないと思つた。


(「編輯室より」/『青鞜』1914年11月号・第4巻第10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p130)




★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:17| 本文

第116回 世界大戦






文●ツルシカズヒコ



 一九一四(大正三)年、九月。

 創刊「三周年記念号」になるはずだった『青鞜』九月号は、休刊になった。

『青鞜』の一切の仕事をひとりで背負うことになったらいてうは、疲れていた。

 部数も東雲堂書店時代を頂点に下り坂に向かう一方だった。

 堀場清子は『青鞜』の部数減と第一次世界大戦との因果関係を指摘している。

 
 一九一〇年に始まった“女の時代”に、終りが来ていた。

 それは“青鞜の時代”の終りをも意味する。

 戦争が起れば窒息させられ、平和が蘇えれば息を吹きかえすーー女性解放運動の鉄則に添った現象が、この時はじめて日本社会にも生起していた。


(堀場清子『青鞜の時代ーー平塚らいてうと新しい女たち』_p219)

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 山川菊栄は第一次世界大戦について、後年こう回想している。


 大正三(一九一四)年の夏、七・八月の交、ジッとしていてもあぶら汗のにじみ出るような暑い、暑い日でした。

 私は庭に向かった風通しのいい茶の間で、新聞をひろげて外電の大きな活字にくい入るように見入っていました。

 すると頭のうえで父の声がしました。

「たいへんなことになるぞ、これは。ヨーロッパ中の戦争だ。たいへんなことになる。世界中めちゃくちゃだ」。

 父はそれきり黙って考えこみ、じつに沈痛な顔つきで畳の上を、のっし、のっしと歩きまわっていました。

 今から思えば、父は戦火のなかのヨーロッパの美しい都市、むかし世話になった人々の姿を思っておののいたのではなかったでしょうか。

 しかしそのときの私は、またお父さんが大げさなことを、と思っただけでした。

 というのは、私がまだ学生時代、例の時事問題の時間に国際情勢が話題になるごとに、やれモロッコ問題だ、近東の利権だとか、ドイツやイギリス、フランスの間にゴタゴタのたえまがなく、しかもいつでも最後のドタン場にはなんとか危機がきりぬけられたので、こんどもなんとかなるものとタカをくくっていたのでした。

 それがみごとに裏ぎられて、たちまち父のいったとおりになった。

 なんという恐ろしさ!

 私の父の見通しが当ったこととともに、この恐しい現実の前に頭をさげました。

 人間の世の中にはどんなことでも起りかねない、世界戦争なんてそんなばかなことが、と頭から問題にしなかったようなことでさえも。

 私はあの日の驚き、あのときうけたショックを今でも忘れることができません。

 じりじりてりつけるあの日の暑さをまだ肌に感じ、庭に鳴く蝉の声さえもまだきこえてくるような気がするほどです。

 じっさいあの日から世界は変りました。


(山川菊栄『おんな二代の記』_p210~211)


 第一次世界大戦が勃発した一九一四年夏、菊栄は二十四歳、麹町区四番町の実家に住んでいた。

 菊栄の父・竜之助は食肉製造・貯蔵の研究のためヨーロッパに滞在経験があった。





 『定本 伊藤野枝全集 第二巻』解題によれば、『婦人評論』一九一四年六月一日に、下田次郎「日本婦人の革新時代」が掲載され、新しい女は「その主張の真の根底を有し、真の自覚をして居る訳では」なく、周囲から新しくさせられただけだと批判した。

 野枝は『青鞜』一九一四年七月号に「下田次郎氏にーー日本婦人の革新時代に就いて」を書き、下田に反論した。

 これに対して、石橋臥波が『婦人評論』一九一四年八月十五日に「新しき女の反省を促すーー伊藤野枝女史に与へて」を寄稿し、名指しで野枝に反論。

 石橋臥波は鬼の研究などで知られる民間学者。

 野枝は『反響』一九一四年九月号に「石橋臥波氏に答えて再考を促す」を書き、石橋に反論した。

 『反響』は生田長江と森田草平の共同編輯の文芸思想雑誌である。

 当時の日本の常識ではアメリカは先進国なのだが、エマ・ゴールドマンはそのアメリカを批判している。

 エマ・ゴールドマンに刺戟を受けた野枝は、そこまで自分は深く思考していると反論した。





 大杉と荒畑寒村は『近代思想』九月号を最後に、『近代思想』(第一次)を廃刊にして、十月から月刊の『平民新聞』を発刊することにした。

 文学的哲学的になりすぎた『近代思想』に嫌気がさし、もっと実際の社会運動に直結した出版物を出したくなったからである。

 大杉が渡辺政太郎(わたなべ・まさたろう)と小石川区竹早町の辻と野枝の家を訪れたのは、『平民新聞』創刊のための金策になんとか目処が立った九月のある日だった。

 渡辺は大杉の同志であり、辻の知り合いでもあった。

 大杉がこのときのことを書き記している。





『ほんとうによくいらして下さいました。もう随分久しい前から、お目にかかりたいお目にかかりたいと思つてゐたんですけれど。』

 彼女は初対面の挨拶が済むと親しみ深い声で云つた。

『まあ随分お丈夫さうなんで、わたしびつくりしましたわ。病気で大ぶ弱つてゐらつしやるやうにも聞いてゐましたし、それにSさんの「OとA」の中に「白皙長身」なぞとあつたものですから、丈はお高いかも知れないが、もつと痩せ細つた蒼白い、ほんとうに病人々々した方とばかり思つてゐたんですもの。』

『ハハゝゝゝゝ。すつかり当てがはづれましたね、こんなまつ黒な頑丈な男ぢや。』

 一言二言話してゐるうちに、二人はこんな冗談まで交はし合つてゐた。


(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p553~554/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p242~243)


「Sさんの『OとA』」とは、堺利彦が『近代思想』創刊号(一九一二年十月号)に書いた、大杉と荒畑の人物評のことである。

 大杉は二年前の『近代思想』に載った、そんな記事を野枝がよく覚えていることが不思議だった。


 ……そして曽つてS社の講演会で、丁度校友会ででもするやうに莞爾々々(にこにこ)しながら原稿を朗読した、まだ本当に女学生女学生してゐた彼女が、すつかり世話女房じみて了つた姿に驚いて、暫く黙つて彼女の顔を見つめてゐた。

 眉の少し濃い、眼の大きくはないが、やさしさうな、しかし智的なのが、其の始終莞爾々々しながら綺麗な白い歯並を見せてゐる口もとの、あどけなさと共に、殊に目立つて見えた。


(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p554/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p243)





 しばらくして大杉が帰ろうとすると、野枝はあわてたように引き止めた。

「まあ、いいじゃありませんか。もう辻も帰って来ますから」

「辻」という言葉を耳にして、大杉は少し面食らった。

 今の今まで赤ん坊に乳房をふくませながら話している野枝と対面していて、辻のことは大杉の頭にちっとも浮かんでこなかったからだった。

「それに辻もお会いしたがっているんですから」

 大杉は仕方なしにまた腰を下ろした。

 辻はすぐに帰って来た。

 しかし、大杉は野枝との受け答えには、なんでもないことにでも何かの響きを感じたが、辻との話には少しもそんな響きを感じなかった。



★堀場清子『青鞜の時代ーー平塚らいてうと新しい女たち』(岩波新書・1988年3月22日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 21:43| 本文

第115回 ヂョン公






文●ツルシカズヒコ



 辻一家が上駒込から小石川区竹早町に引っ越したのは、一九一四(大正三)年の夏だった。

 野上弥生子「小さい兄弟」では、時間軸が一九一五(大正四)年に設定されているが、この辻一家の引っ越しについての描写もある。

「いやだな、野枝さん。なぜ引っ越さなきゃいけないの?」

 素一は、隣りの若い叔母さんである、野枝の顔を見るたびに、そう言って不平を鳴らした。


 いよ/\引越の日になるとN子さんの家の裏口ーー即ち友一から云へば、彼の家の広い前庭ーーに一台の荷馬車が這入つて来たり……雑多な家具調度が、家の外に運び出されて、縄で梱られたり、筵で包まれたりする物珍らしい光景が現はれました。

 ヂョンは興奮した態度で、異様な諸道具の積み重なりの間を駆け廻り、嗅ぎ廻り、検査して騒ぎました。

 運ばれる荷物を待つて木の下に繋がれてゐた荷馬車の馬に対しては、殊に示威的に吠えました。

 栗毛色の尻つ尾がその大きな身体から独立した生き物ででもあるかの如く、長い毛の房を振つて動く度に、一層勢ひ立つて吠えました。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p146~147)

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 荷物の片付けがすんで、人々が別れの挨拶に来るようになると、素一は感傷的になってきた。

 ヂョンは引っ越しの最後のものだった。


 ……N子さんの良人のTさんが、何んにも知らず、気楽らしく植込の下に寝転んでゐたヂョンを引つ張つて来ました。

「とても結(いは)かなくちや駄目ですね。」

 Tさんは斯う云つて用意してゐた綱を出して、それをヂョンの頸環に結びつけました。

「ぢゃ、左様なら。」

 終(つい)に別れの言葉が行く人と留まる人々の間に取り交わされました。

 けれどもヂョンは動かうともしませんでした。

 頸環に綱をつけられるまで、何の気もなくのんきにしてゐた彼も、今その綱を持つて強制的に自分を引き立てようとする主人を見ては……彼は綱の引く力に抵抗するため、後半身と後足に有りつたけの力を籠め、踏み反らした前足の間に頭を落しながら、主人を見上げて啼きました。

 その灰色のつぶらな目には、主人の異様な振舞に対する訴と哀求がありました。

「行くんだ、行くんだ! さあ確(しつ)かりしないか。」

 Tさんが斯う云つても、その言葉を解する能力のない不幸な家畜はただ悶えて啼きました。

 而(そ)してどうにかして免かれようとしたにも拘らず、矢張り引きずられて行きました。

「たうとうヂョン公も行つちまつた!」

 人々は庭に立つてそれを見送つてしまふと、落胆(がつかり)したやうにぞろ/\家へ入りました。

 黙つて一緒に帰つて来た友一の目には涙がありました。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p148~149)





 野上家では以前、ミナという純血のスコッチ・コリーを飼っていたことがあったが、弥生子によればミナの凛々しい外貌とヂョンのそれとは、天才と凡庸との差があったという。


 公平に云ふとヂョンは、寧ろ普通以下の見すぼらしい犬なのであります。

 身体も余り大きくはなく、彼の唯一の上衣なる毛皮は、頭と、脊中の一部と、左足の上の方に広い黒斑(くろぶち)を有つた白地でありました。

 それも床の下などの柔かい土の中に寝転ぶため、白さが決して純白に保たれないで、いつも汚れ滲んでゐるのも、彼をして一層貧乏臭く見えさせました。

 素直で、温順であるだけは何よりの取り得ではあつたが、それ以外には大した特長も見栄えもない犬で、若し何等の関係もなくそれを路傍で見たならば、きつと穢ならしい耄ぼれ犬として冷やかに看過されたかも知れませんでした。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p150~151)





 野上豊一郎、弥生子夫妻は、ヂョンなんかより「いい犬」をまた飼いましょうよと言って、「友一」こと素一の落胆を和らげようとした。

 素一もミナの朧げな記憶が甦り、ヂョンへの哀惜が徐々に薄らいで来た。

 それから一時間ほど経ち、野上家の面々はヂョンのことなどほとんど忘れかけ、それぞれの日常に戻っていた、そのときだった。

 前庭の方から不意に聞き慣れた犬の吠え声が聞こえた。

「おや、ヂョン公じゃないか?」

 弥生子がこう言った瞬間、素一は廊下に飛び出していた。

「ヂョン公だ! ヂョン公だ! お母様、ヂョン公が帰って来ましたよ!」





 彼は特別に犬の方へ呼びかける必要はありませんでした。

 ヂョンは彼の姿を見、彼の声を耳にすると同時に真つしぐらに駆けて来ましたから。

 飛びつく。

 吠える。

 嘗め廻す。

 かと思うと、ぢつとしてゐられないかのやうに滅茶苦茶に廊下の前を駆け廻る。

 鼻を鳴らす。

 耳をぴったり伏せて、千切れる程尻尾を振る。

 ーー言葉を知らないから、たゞ自分に出来得る限りの、表情と身振と声のあらゆる方法で、再び彼等を見た嬉しさを表はさうとする家畜の心持は、其処へ駆け寄つた人たちに、深い感動を起こさせないではすみませんでした。

 美しい情熱の交流は人間と動物の差別を撤しました。

 人々はみんな涙ぐましい心になつて彼の泥だらけの手を取つたり、頭を撫ぜたりして悦びました。

 頸環にはTさんが引つ張つて行く時に結びつけた綱が、そのまゝ五六寸ほどちぎれたまゝ残つてゐました。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p153)





 ヂョンは綱を引きちぎって来たのである。

 弥生子は子供の失望を紛らわすためとはいえ、昔の飼い犬まで引き合いに出して、彼を貶めたことを恥じた。


「ヂョン公! ヂョン公!」

 彼女は茶箪笥の抽斗から煎餅の袋を出して、自分でそれを投げてやり、子供達にも投げさせました。

 掌に近づいて来る彼の灰色の眼には、一点の遅疑も曇もありませんでした。

 彼女はその善良な瞳の前に恥ぢました。

「大事にしてあげなさいよ。折角帰つて来たんですもの。可愛いぢやありませんか。ね、いゝヂョン公よ。」

 彼女は今度は一生懸命で彼を褒める人になりました。

 友一は又友一で己惚れていゐました。

「ヂョン公は僕の友達だもの。Tさんなんかについて行きやしないや。」


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p154)


 ヂョンが帰って来たので預かついますから、心配しないで下さいというハガキを、野上豊一郎が辻に宛てて書いた。

 そして、脅かしてもすかしてもヂョンはついて来ることを嫌がり、白山下まで来たとき、綱を噛み切って逃げてしまったので、野上家へ帰っていたら当分お世話をお願いしたいという、辻の手紙が野上家に届いた。





 しかし、ヂョンの愛情が野枝の家より野上の家に厚かったわけではなさそうだった。


 何故なれば、彼は友一の家に纏はると同様の親しみと忠実を以つて、空家になつた元の家を守つてゐましたから。

 見捨てられた淋しい家の前に、彼は不断と変らぬのんきな様子をして寝転んでゐました。

 家の人たちが遊びにでも出掛けた一時の留守を預かつて居るかのやうに。

「ヂョンには、つまり、人間のする引越と云ふものが呑み込めなかつたのですわねぇ。」

 曽代子達は一つぱしをかしい事のやうに云つてそれを笑ひましたが、その後からまたただ笑つてばかりはすまされない或る事を考へさせられました。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p154~155)





 弥生子は野枝たちが道楽で引っ越したのではないことを、知っていた。


 ……犬には自由があり、その天賦の能力たる吠えること、主家を忠実に守る事に依つて、善き飼主から酬いられる糧は豊かであり彼等の小屋の藁の床は暖かであります。

 けれども、現代の多くの生活ーーことに精神的の仕事に生きようとする或る一部の人々の生活には……犬の有つほどの安定があるであらうか。

 彼等は自分の天賦と信ずる仕事を専念にしたと云つても、それからは何等物質的の酬いも待ち設けられないでありませう。

 犬が門を守る代りに鼠を捕らされる様な、不自然な、苦しい労力を費してさへ、家畜の得るだけの容易い糧は得られず、彼等の有つ程の快い家は死ぬまで有たされないのでした。

 ……強欲な家主の建てた小屋から小屋を渡り歩かなければならない、知識的な労働者の群! 

 彼等は或点に於いて犬よりも悲惨であります。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p155)



★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 20:30| 本文

第114回 三角山






文●ツルシカズヒコ



 辻と野枝が北豊島郡巣鴨町上駒込三二九番地から小石川区竹早町八二番地に引っ越し、辻の母・美津、辻の妹・恒(つね)と同居を始めたのは、一九一四(大正三)年の夏だった。

 上駒込に住んでいた当時の野枝と野上弥生子の親交については、野枝は「雑音」その他で書いているし、弥生子も野枝を主人公にした小説「彼女」を書いている。

 弥生子は「小さい兄弟」という小説も書いていて、その中にも隣人である野枝と辻について、あるいは野枝の家の飼い犬「ヂョン」についての言及があり、そして野上家と辻家があった「染井」についての当時の風景描写などもあるので、「小さい兄弟」の中から紹介してみたい。

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「小さい兄弟」の初出は、『読売新聞』一九一六(大正五)年一月一日から三月十七日まで六十二回にわたり連載された「二人の小さいヴアガボンド」であるが、単行本収録時に「小さい兄弟」に改題された。

「小さい兄弟」の時間軸は一九一五(大正四)年に設定されているが、実際には野枝たちはすでに前年、染井から小石川区竹早町に引っ越していた。

 この小説の中の「曽代子(そよこ)」が弥生子、「友(とも)一」が長男・素一、「邦夫」が次男・茂吉郎である。

 野上家の女中の「きみ」の実家は野上家の近所にあり、実家の家業は植木屋だが、当時の染井には植木職人が多く住んでいたという土地柄が、こんなところにも反影されている。

 染井の一帯が新興住宅街になりつつあった状況を、弥生子はこう書いている。


 今までは大概植木屋ばかりで、その他は土地が高くなるにつれて、透いた植木畑の一部から幾らかでもいゝ金を得ようとして彼等が急拵(こしら)へに建てた長屋、青い木立などに囲まれた一寸した小家、斯う言ふ家並の……。

(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p101)





 近所には通称「三角山」と呼ばれている小さな森があったという。


 ……その森は、都市の膨張に連れて漸次に破壊されつゝある郊外の自然と、都市化と云ふその暴力に依つて痛ましく傷つけられた畸形な風物を想像させる一例でありました。

(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p132)


 三角山の森は一辺は郊外電車の堀割に沿っていて、一辺は墓地に通じる大通りに面し、最も短い一辺は市街電車の方へ行くのに、堀割の橋を越えないで行く近道に面している、不等辺三角形をしていた。


 そんな事情から、昔の暗い重々しい森林の威力は失はれて了つたが、木立が浅くなつたと共に日光が明かに照り通し、下草も青々と陽気な緑色に萌え拡がつて、明快な、小公園の風致を備えてゐました。

 実際その稜形の森一つに依つて、其一端から穏やかな斜面になつた堀割の土手、それにかゝつてゐる白く塗つた鉄橋、其向側の路に続くI男爵家の別邸の長い/\代赭色(たいしゃいろ)の煉瓦塀、これ等の対照は、その郊外の玄関をどれ程絵画的にしてゐるか分りませんでした。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p133)


 三角山の森は付近の住民からいろいろの意味で親しまれたが、夏期には日射しを遮る木陰を慕って子守りが乳母車を押して来たという。

 当連載101回」に、野枝が夏、森の中で「エマ・ゴールドマン小伝」を読み耽るシーンがあるが、この森は「三角山の森」だと推測できる。





 三角山の森は格好の子供たちの遊び場でもあり、弥生子の長男・素一も近所の悪童連とよくそこで遊んだ。


 ……森の楽隊なる蝉の盛んな根気のよい合奏の下で、有らゆる競技が始まります。

 其昆虫狩りは元よりとして、木登り、深い夏草の上での角力、斜面を芋虫のやうにころ/\下まで転がり落ちる競争、または奥の方の一段根深い叢から、大きな青大将を突つき出して、寄つてたかつて叩き殺した上、下を走る電車目がけて投げつける程の悪戯もしました。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p133~134)


 弥生子は自分の家と野枝の家との位置関係を、こう書いている。


 ……家は通りからずつと奥に引つ込んでゐて、玄関から表門に達するまでには、花崗岩(みかげ)の長方形の敷石の四十枚以上を数えなければなりませんでした。

 ……宏壮な邸宅のやうに思はれますが、事実は大違ひであります。

 その敷石はそれに沿うて建つてゐる三軒の家と共同の通路であり、その門さへ……姓名一つのみを掲げて置く自由のない一種の共同門でありました。

 ……同じ構内の家の一つに……友達でN子さんと呼ぶ人の一家が住まつてゐました。

 ヂョンは……その家の飼犬なのでした。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p144~145)


 素一とジョンはすぐに親友になり、敷石と門とが共通であるように、いつの間にかジョンは野上家と辻家の両家のペットになった。





「ヂョン公! ヂョン公! ヂョン公!」

 斯う呼ばれて、彼は両家族の間をあちこち駆け廻りました。

 殊に……友一は、この動物のために幾らその生活を豊富にされたか分りませんでした。

「ヂョンヂョ公! ヂョンヂョ公! ヂョンヂョ公!」

 彼は戯れにこんな呼び方をしてをかしがりました。

 どう呼ばれようと、彼の声が庭の方に聞こえさへすれば、ヂョンは何処からでもすぐと駆けつけ、敬畏と親愛のしるしとして手をペラ/\嘗めたり、はしゃいだ元気のいゝ吠え方をして、友一の周囲を二三遍飛び廻つたりしました。

 時に依るとジョンは後足だけで立つて、頬まで嘗めずりました。

 縁側に坐つてからかつてゐる時などは、踏石に坐つてゐる犬の頭が、丁度彼の顔を嘗めるに都合のよい位置になるのでした。

「ほら御覧なさいまし。今朝ほどお顔を洗はなかつたから、ヂョン公に嘗められたので御座いますよ。」

 時々顔を洗ふ事を面倒がつてきみを手古ずらせる悪い癖を、それに結びつけて彼女から冷やかされると、友一は非常に自尊心を傷つけられる気がしました。

「僕洗つたよ。きみやが行つちまつてから洗つたんぢやないか。」

 彼はこんな嘘を反抗的にわざと威張つてつきましたが、でも小さい心の中では真面目にその批評を訝(いぶ)かりました。

「今朝顔を洗はなかつたのを、どうしてヂョン公が知つてるのだらう?」


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p145~146)



※野上弥生子「三人の子供は皆学者」




★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:03| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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