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2016年04月21日
第107回 武者小路実篤
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年あたりから、『青鞜』には反論や論争スタイルの文章が掲載されるようになった。
各人の勉強の成果が徐々に実り、反論、論駁の論陣を張れるようになったのだ。
その急先鋒が野枝だった。
武者小路実篤が『白樺』誌上で、野枝が『青鞜』に掲載した「動揺」について、こう批判した。
青鞜のN氏は僕の「世間知らず」を軽蔑してゐるそうである。
さうしてその女主人公C子を軽蔑してゐるさうである。
それはいゝ。
しかしそれなのになぜ進んでもつと軽蔑される資格を十二分にもつてゐる、もつと無自覚で落ちつきのわるい、入り込む処に入り込んでゐない、自己とT氏とを軽蔑しないのだらう。
それを軽蔑し切る力があるか、或はそれをジヤスチフアイし切る力があれば「世間知らず」の価値がわかるべきはづだ。
女らしくいゝ加減の処で都合のいゝ処で自分の考をとめておくから他人の心待ちに同感が起し憎いのだ。
他人の運命に同感が起し憎いのだ。
女と云ふものは他の女の運命に公平な同感を起せないものだ。
自己の型以外に出て落ちつきある運命をつくつてゐる女にまで同感を起し得ないものだ。
さうして其処に女が主婦として又母として小さい世界の女王として満足の出来る処なのだ。
自分はN氏の運命、R氏の運命に向つて尊敬する気もないが軽蔑する気もない。
たゞ無用な処にひつかゝつて云はなくつてもいゝ処にC子に対する女らしい軽蔑を見せたがるので一寸不快を感じたから以上のことをかいた。
(「六号感想」/『白樺』1913年12月号・第4巻第12号_p129~130)
「N」は野枝、「T」は辻、「R」はらいてうのことである。
「C子」は一時、青鞜社の社員であった竹尾房子(宮城ふさ)で、前年二月に武者小路と房子は結婚していた。
野枝はこう反論した。
「武者小路氏に」
十二月号白樺の誌上で私が「世間知らず」を軽蔑してゐるさうだとのことをお書きになつたのを拝見して私は本当に意外に存じました。
私は他人の作品に対して無闇とさう軽蔑したり悪く云つたりしたことは御座いません。
殊に私はもうずつと以前からあなたのお書きになるものは可なり深い注意と尊敬をもつて忠実に拝見して居ります。
私はC子氏に対しては仰しやる通りに或る侮蔑を持つて居ります。
然しそれは、あなたには些の関係もないC子氏で御座います。
私にとつてはそのC子とくらべられることは本当に不快で御座いました。
ですからその通りのことを書きました。
それからまたあなたは私とTのことについてお書き下さいましたが何のことだか私はその解釈に苦しみます。
あなたは私共の生活についてあゝ云ふことを憚らず仰しやれるほどよく私共を御存じですか……。
それから「女らしくいゝ加減な処で考へを止めて置くから他人の心持ちに同感することが出来ないのだ」とい云ふやうなこともあなたの勘違いから出てゐるのです。
あなたのゐるまわりにはどんな女の方達がゐらつしやるか存じませんが屹度(きつと)狭量な何の考へもない浅薄な方達ばかりだと見えます。
「無用な処に引つかゝつて云はなくてもいゝところにC子に対する女らしい侮蔑を見せたがるので不快を感じた」と云ふお言葉では一層なんだかあたなの方が狭い御了見だと云ひたくなります。
決して云はなくともいゝことではないのです。
私は自分の感じたことを率直に書きました。
あなたこそ本当に無用な処に引つかゝつてつまらない侮蔑を見せたがつてゐらつしやるでは御座いませんか。
(「編輯室より」/『青鞜』1914年1月号・第4巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p53~54)
『中央公論』(一九一三年十一月号)に掲載された野上弥生子の小説「指輪」に対する批評を、中村狐月(こげつ)が『読売新聞』(同年十一月十五日)「十一月の創作(上)」に書いた。
野枝は「指輪」を名作だと思っていたので、狐月を批判した。
……久しぶりの御作の故か十一月の創作中で一番期待したものだつた。
……先づ女らしい情緒が至る処に少しの嫌味もなくなだらかに出て素直な処が気持よく感ぜられた。
物の観方考へかた細かな筆致、描き出された情景、すべての点において、優しい女らしさを失はない作だと思つた。
その点に於て私は婦人作家のうちでこの位美しい純な作をものする人はあるまいと思ふ。
読売新聞で中村狐月(こげつ)氏の、この作に対する評をよんで私は本当に不快に思つた。
何故なら中村氏は女を無視してゐるのだ。
……同氏には女の生活が解らないのだ。
「女と云ふものはいらないものだ。何故男が子供を生むことが出来ないのだらう……女と云ふものはあんな下だらない仕事をする為めに生れて来たるのだ……」と云ふやうな乱暴なことを云つてゐる。
こんな人にどうしてこの作なんかヾ解らう?
批評家は、寛く深い万遍なき理解を有する人でなくてはならぬ筈である。
中村氏の如きは狭い/\自己の或る心持を標準として批評する人である。
かう云ふ小さな愚かな批評家は遠慮なく葬つてしかるべきである。
(「編輯室より」/『青鞜』1914年1月号・第4巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p54~55)
『新婦人』一月号に「新しき婦人の男性観」という野枝の談話が載った。
記者によって勝手に作られた内容だったので、野枝は憤怒した。
然しそれは私がその雑誌の記者と称する人に話したことゝは大変に相違した事柄である。
私は到底それを読んで憤怒を覚えずにはゐられなかつた。
又、多数の人たちに自分の談話としてそれが読まれるのだと思つたとき私は涙がにじむ程の恥かしさを感じた。
私は矢張り物を言はないで書いてゐたい。
もうほんとに
おはなしなんかするもんぢやないとしみ/″\思ふ。
(「編輯室より」/『青鞜』1914年3月号・第4巻第3号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p66~67)
二月、前年暮れに青鞜社事務所に泥棒が入り、青鞜社は事務所を北豊多摩郡巣鴨町一一六三から巣鴨町一二二七へ移転した。
神田区美土代(みとしろ)町の東京基督教青年会館で「青鞜社第一回公開講演会」が開催され、千人の聴衆を集めてから一年。
「雑音」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p200~201)によれば、『青鞜』の周辺は火が消えたようになり、毎日のように顔を合わせていた社員もばらばらに一週に一度か二度くらい事務所に顔を出すくらいになった。
急激な世間の圧迫にまったく屏息してしまったという風評は辛かったが、この暇にみんなが勉強に没頭するしかなかった。
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第106回 ウォーレン夫人
文●ツルシカズヒコ
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』によれば、らいてうが実家を出たのは、一九一四(大正三)年一月十三日であった。
らいてうはこの日、女中に手伝ってもらい、円窓の部屋にあった机、本箱、書棚、書物、衣類や手まわりのものを入れた行李一個、ふとん包みなどを、出入りの俥屋(くるまや)に運ばせた。
らいてうと奥村の新居は、青鞜社の事務所に近い、北豊島郡巣鴨町一一六三番地、とげぬき地蔵前の裏通り、廃兵院の近くの小さな二階家だった。
植木屋の広い庭の中にぽつんと建つ離れ家で、ふたりはその閑静さが気に入った。
一階が八畳、二階が六畳で、一階を奥村のアトリエにして二階をらいてうの仕事部屋にした。
家賃は六、七円。
奥村が板に刻んで彩色した表札を出すと、醇風美俗に反する共同生活への嫌がらせのためかすぐに盗まれ、その後も表札の盗難は後を絶たなかった。
実家を出るに際し、らいてうはあふれる涙を拭いながら長い長い手紙をしたため、「御両親様」と宛名を記した封筒に入れて母に手渡した。
……特に御両親に申上げて置かねればならないことがあります。
……御両親ももう御承知の昨年初夏から始終私のところへ訪ねて参りました、そして私が若い燕だの、弟だのと呼んで居りましたHといふ私よりは五つも年下のあの若い画をかく男とふたりで、出来る丈自由なそして簡易な共同の生活を始めやうとしてゐることなのでございます。
一体私は妹や弟を有たないといふやうなことも多少関係してゐるのか自分より年下のものーーそれが男でも女でもーーに対して優しくしてやりたいやうな、可愛がつてやりたいやうな心持を有つて居りましたが……いつも愛の対象として現はれてくるものはずつとの年下の者ばかりでした。
そして私はそれらの人に対して姉らしい又は母らしい時には恋人らしい接吻を与へて参りました。
……その人達の中で……私の心を動かしたのは静かな、内気なHでした。
私は五分の子供と三分の女と二分の男を有つてゐるHがだん/\たまらなく可愛いゝものになつて参りました。
そして姉や母の接吻はいつか恋人のそれらしく変つて行きました。
私によつて始めて恋を知つた彼はほんとうに純な心で私を愛してくれます。
私はもう何時迄も解決をつけずにずる/\べつたりに二人が不安な状態を継続し、静かな落付いた心から遠ざかり、訪問したり、されたりする為めに多くの時間を奪はれ、自分達が何より尊重してゐる仕事の邪魔になるといふことにこれ以上堪へられなくなつて参りました。
……私が現行の結婚制度に不満足な以上、そんな制度に従ひ、そんな法律によつて是認して貰ふやうな結婚はしたくないのです。
私は夫だの妻だのといふ名だけにでもたまらない程の反感を有つて居ります。
それに恋愛のない男女が同棲してゐるのならおかしいかも知れませんけれど……恋愛のある男女が一つ家に住むといふことほど当前のことはなく、ふたりの間にさへ極められてあれば形式的な結婚などはどうでもかまふまいと思ひます。
ましてその結婚が女にとつて極めて不利な権利義務の規定である以上尚更です。
それのみか今日の社会に行はれる因習道徳は夫の親を自分の親として、不自然な義務や犠牲を当前のことゝして強いるなどいろんな不條理な束縛を加へるやうな不都合なことも沢山あるのですから、私は自から好んでそんな境地に身を置くやうなことはいたしたくありません。
それから子供のことですが、私共は今の場合(先へ行つてどうなるものかそれは今の私にはまだ分りません)子供を造らうとは思つて居ません。
実際のところ私には今のところ子供が欲しいとか、母になりたいとかいふやうな欲望は殆どありませんし、Hもまだ独立もしてゐませんから世間一般の考から云つても子供を造る資格がありません。
どうぞ其辺の御心配も御捨て下さることを御願ひいたします。
尤もお母さんの仰有るやうな意味で形式的に結婚しない男女の間に子供の出来るといふことは只不都合なことである、恥づべきことであるといふやうな考を有つものでないこと丈は申添へておきます。
私は決心した以上は出来る丈早く実行いたしたいと思ひますし、もう総の準備も整つて居りますから、この上は御両親の御快諾下さる日を只管に御待ちして居るばかりでございます。
(大正三、一、一〇)
(「独立するに就いて両親に」_p110~116/『青鞜』1914年2月号・第4巻第2号/『現代思想大系17 ヒューマニズム』_p148~152)
『青鞜』一月号の附録は「ウォーレン夫人の職業合評」だった。
らいてう、西崎花世、KI(岩野清子)、野枝が書いている。
売春婦を扱ったバーナード・ショウの問題作だったが、坪内逍遥訳の戯曲『ウォーレン夫人とその娘』を四人が読んで書いたようだ。
しかし、冒頭で野枝はこう書いている。
脚本を読んで見て私は殆ど手の出しやうのないのに驚いてしまつた。
とても自分の貧弱な頭ではそれ/″\に立派な解釈をつけて批評して行くことは六ケ(むずか)しい……。
(「ウォーレン夫人とその娘」/『青鞜』1914年1月号・第4巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p47)
悪戦苦闘したようだ。
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★『現代思想大系17 ヒューマニズム』(筑摩書房・1964年3月15日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index