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2016年04月13日

第80回 高村光太郎






文●ツルシカズヒコ





 野枝は辻との関係を早く話してしまいたいとあせっていたが、なかなかきっかけがつかめないでいた。

 そのうちに荘太は『中央新聞』の野枝の記事について話し出した。


「僕にはあなたがひとりの方ではないか(ママ)といふ不安があつたのでした。中央新聞 に出たとかいふ記事の事を聞いてからです。そしてさうだとすれば大変失礼な事をしたと思つたのです。けれども僕が手紙を書いた時には、ちッともさういふ事は知らなかつたのですから。」

 といふと、野枝氏は肯いて、

「ええ、あれはこのごろよく新聞の人や何かが会ひたいと言つて来て、前にはそのたび会つてよくお話したのですけど、それがいつでも誤つて書かれたりしますで(ママ)、今ではそれをなるたけお断りする事にしてゐるのです。それで中央新聞の人にも平塚さんだけ会つて(?) 私は会いませんでした。さうするとあんな事を書かれてしまひまして。」

 と僕には事実を打ち消すと取られるやうな口調で答へた。


(木村荘太「牽引」/『生活』1913年8月号)

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 野枝自身はこう記している。


 そのうちに、此の間の中央新聞の記事の話になりましたときには、私は、あれは、全部偽りだと云ふ事を、話したのです。

 そして、G氏と、私の間には何もない全く新聞の伝へたのは虚偽だけれども、私と、Tといふ男と同棲してゐるのは事実だと云ふ事を、別に話さうと、私がその話をし出す緒(いとぐち)を見つけてゐるうちに、木村氏の方では、私が、あの新聞の記事を否定した事によつて、私の周囲には、別に、男がゐないといふ風に思つてしまつたらしいのです。

 その時気はつきましたが私はすぐにとり消せなかつたのです。

 帰つて、手紙にでも委(くは)しく書かうと、思つてしまつたのです。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p164/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p28)


 Gとは巣鴨小学校教師・後藤清一郎である。

 荘太は『魔の宴』では、こう回想している。


 挨拶が済んで、向い合って話すうちに、私は聞いた新聞の記事のことについて糺(ただ)した。

 すると、

「あれはなんでもありません。みんな嘘ばかり書いてあるのです」との答えだったので、私はホッととした。

 ことがことだったから、初対面にそう立ち入ってもいえず、翻訳のことまではいわなかったが、対手(あいて)の否定が全面的な語気だったので、もうこれでよいとした。


(木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』_p204/『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』_p166)





 野枝と荘太の話は『青鞜』や青鞜社のこと、それに対する最近の誹謗中傷、婦人問題などになった。

 話題が広がってきたので、野枝も発言しやすくなった。

 『フュウザン』に載った、『青鞜』に関する記事が話題になった。

 「動揺」の「解題」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p399)によれば、「『フュウザン』第四号(一九一三年三月)に載ったS・K(木村荘八)と署名のある『消息』のこと」である。

 『魔の宴』(p204~205)、『日本人の自伝18』(p166~167)によれば、『フュウザン』の六号活字の「消息」の話の口火を切ったのは野枝だった。

 平塚らいてうが、『フュウザン』同人の高村光太郎に、青鞜社主催の公開研究会の講義を頼んだところ、講義はできないが、講義録なら書いてもよいとの返答を得た。

 しかし、『青鞜』は高村が講義をするような広告を出してしまった。

 この広告に対して、『フュウザン』が「消息」で、抗議をしたのだった。

 野枝は「S・K」を木村荘太だと思いこんでいたようで、『青鞜』の手落ちではあるが、わざわざ公に書かなくてもよいのではないかと、荘太に言ったのである。

 荘太は、高村が不愉快に思っていると聞いてはいが、個人として行動している自分にとっては、どうでもよいことだった。





 野枝はこう書いている。

 T氏は高村光太郎。


 ……私は、何だかT氏がしきりに、怒つてお出になつたと云ふ事を木村氏に聞いて、何故その位に、怒つてお出になるのなら、もつと男らしく正面から青鞜社に、抗議を申して下さるとか、又はフユーザンで書くにしても御自身で、ちやんと、書いて下さらないのだらうと思ふと、何となく忌々(いまいま)しくなつて来ました。

 そして、また、新しく、あの六号の活字をまざまざと目の前に浮べて見ました。

「……たのまれた訳ではないが青鞜社でもこの頃そんなやうな商売をはじめたさうだ。」といつたやうな事が書いてあつたそしてその下に、S、Kといふ頭文字が書いてあつた事を思ひ出したから私は臆面もなく、あんな事を書かれては本当につまりません、私共は二月からあの事で随分な迫害を、うけながらどれだけの時間や労力を、費したでせう、商売や道楽と一緒にされては耐(たま)りませんつて、云つたりしました。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p165~166/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p29)





 荘太は長尾が生田長江から聞いたという翻訳のことも確かめたいと思ったが、部屋の隅にいる哥津を妙に感じて、とうとう直接にそれを聞くことができなかった。

 哥津も交えて三人はいろいろと雑談をした。

 野枝は仕事のことばかり多く語った。

 真面目にやっている自分たちの仕事が世間から誤解され中傷されていること、当分、自分たちはひっこんで勉強してゆくよりほかはないこと……。

 荘太は女の解放や新しい男女関係を、男も要求すべきだと言った。

 野枝はジッと聞き入った。

 荘太は自分の「心」の一端を、野枝にこう伝えたという。


 柴田柴庵(しばた・さいあん)が訳したストリントベリのユートピア物語、現代社会で一しょになれない医学生の男女が、社会主義の実現された理想社会で一しょになる、という小説の訳文が、生だという評もあるが、あの調子はむしろ好きだ、という点などではかの女と私の意見は一致した。

 で、その日は私はあんまり立ち入ったことは結局話せなかったが、そのなかで私の心が洩らせたような話としては、その近くにエマースンの「スウェデンボルグ論」で読んだスウェデンボルグの説に、天国での結婚は夫婦がおなじ真理を見ることで結ばれる、とあるというのに私が打たれていたのを伝えたようなことぐらいが、話せたにとどまった。


(木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』_p166~167/『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎_p204~205)





 午後五時ごろ、三人は文祥堂を出た。

 三人は明石町など築地近辺を散歩してから、銀座に出ることにした。

 おしゃべりをしながらずいぶん歩いて、そろそろ店に燈りが点き始めるころ、三人は銀座へ出て街角で別れた。

 荘太は別れ際に「野枝氏が一瞬間僕を見上げて、さうして僕はその好意のハッキリと読み得た短かい凝視を深く心の底に仕舞つ」(「牽引」)たが、野枝は「銀座の角でお別れするまでの間にもさして、深い印象をその人から受ける事は出来ませんでした」(「動揺」)。

 野枝が帰宅すると、まもなく辻も帰ってきた。

 野枝は軽い調子で笑いながら言った。

「今日、木村さんに会いましたよ」

「そうかい、どんなだったい?」

 辻はくすぐったいような真面目なような表情をして訊いた。

「どんなって……」

 野枝はそう言いかけて困ってしまった。

 ただ髪をきれいに分けて、眼鏡をかけた色白な明るい顔の輪郭と敏(さと)しげな眼、その他のことは浮かんで来なかったからだ。

 あまりにも不用意に荘太に会ってしまったことが、辻にも自分にも恥ずかしくなり、そして荘太にもすまないような気がしてきた。

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 荘太はその日、銀座に近い京橋区采女町(うねめちょう)の牛鍋店「いろは」の母のもとに立ち寄り、そこに泊まることにした。

 荘太はすぐに野枝に宛てた手紙を書き始めた。


 ……あなたがひよつとすると御一人の方ではないかも知れないといふ掛念に非常に悩まされてゐたのでした。

 ……さう云う掛念は去りました。

 ……あなたに対する愛の種子がこれから日毎に成長する事を感じます。

 ……若しもあなたに私を尚ほ知らうとなさるお心がありましたらばこの後もまたお会ひする事をお許し下さるようにお願ひしたいのです。

 ……実は私は已(すで)にあなたを愛してゐました。

 ですから私は今日若しあなたがその私の愛を激しく裏切る方であつたら、(私は随分人の外観に対する選択なぞもあるものですから)実にこの上のない不幸だと思つてゐたのでした。

 で私はその運命の前に盲目に震えてゐたのでした。

 私はもつと自分の運命を信じていいといふ勇気を得ました。

 ……今日特に第一にあなたにお訪ねしたく思つてゐて小林さんがゐたもんですから言はずにゐました事があります、ある友達が生田長江氏の許であなたのお訳しなすつたエレンケイは他の方(あなたに交渉のある方と云う意味で)の手になつたと聞いたと数日前私に伝へた事なのでした。

 六月廿三日


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p168~172/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p31~32)





 荘太はこの手紙を書き終えると、すぐに投函し銀座を散歩した。

 散歩から戻ると、荘太はまた野枝に手紙を書いた。


  私は今いろいろあなたの事を思ひ浮べつゝ歩きました。

 でやはりこの事を申し上げやうといふ決心をして帰りました。

 実は私は何れあなたの手を執りたいとしてゐるのです。

 私には近くにあなたにお目に懸り度いといふ気が頻(しき)りにします。

 私は自分を露骨に直接にあなたに接触させ過ぎるかも知れません、大変失礼な事を申してゐるのかも知れません。

 併し私にかう云う凡てを云はせるものはあなたです。

 私の心の中のあなたが何でも構はずに話していゝといはれるやうに私には思はれるのです。

 二十三日夜


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p183~185/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p38~39)


 荘太はこの手紙もすぐに投函した。





 荘太と野枝のラブアフェアの始まり、野枝の荘太に対する心情について、らいてうはこんな分析をしている。

 
 それは木村氏に対する純なる恋愛からではない。

 ……自分の上に注がれる思ひ上つた男の真実さうな恋に対して何かは知らず、すまないやうな気の毒のやうな気がしたのだ。

「動揺」に現はれた処丈で見るとあの事件の間、只の一度も自分が妊娠の身であるといふことは意識的には野枝さんの頭に上つて来なかつたらしい。

 だが私は之が不思儀でならない。

 女自身は自分の妊娠といふことに対して元来これ程無意識なものであらうか。

 お腹の中にゐる子供とそれほど無関係でゐられるものなのだらうか。

 之れでまたいゝものなのであらうか、自分に経験のないことを口にするのは僭越かも知れないが、一寸不思儀でならない。

 いま一つ野枝さんを動かした他の理由がある。

 それはふたりの中の或る類似点である。

 都会人でないだけに遊戯的もしくは技巧的な分子を全く見出さない、野枝さんのあの真面目な全力的な人格が木村氏の随分故意な、不自然な若い男の常として思ひきり独合点な内容の貧しい興奮ではあるが……いつも調子の高い緊張し切つた気分と直に共鳴し、そこに野枝さんが常に憧憬していた或力を感じたのだ。


(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号・3巻11号_p88~89)





鈴木貞太郎『天国と地獄』

築地2




★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』(朝日新聞社・1950年5月30日)

★『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』(平凡社・1981年12月10日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 12:22| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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