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2016年04月23日
第113回 色欲の餓鬼
文●ツルシカズヒコ
野枝は『青鞜』一九一四年七月号に「下田次郎氏にーー日本婦人の革新時代に就いて」(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)を発表。
東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)教授であり、女子教育において良妻賢母思想を基調とした論陣を長く張った下田次郎を批判した。
『婦人評論』(一九一四年六月一日)に掲載された下田次郎「日本婦人の革新時代」への反論である。
野枝はまず下田が捏造された新聞や雑誌の記事やそれを真に受けた世評で、自分たち「新しい女」を軽率に論じていることを批判している。
下田は西欧と今日の日本の「新しい女」を比較し、西欧の「新しい女」は尊敬できるが、日本の「新しい女」は周囲から新しくさせられただけで尊敬できないと論じた。
野枝はらいてうがエレン・ケイの理解者であり、自分もエマ・ゴールドマンの理解者であるから、下田が信奉するイギリスのヴクトリア朝が生み出した良妻賢母思想などより、より深い自覚を持っていると反論した。
初夏、野上弥生子の家はそれまでのところから五、六軒下手の二階家に引っ越した。
その家は野枝の家のちょうど後ろに当たり、同じ一廓の地続きだった。
弥生子の二階の書斎から、野枝の家の目標として眺めていた椎の暗緑色の偉大な毬が間近に見えた。
廊下に立てば野枝の家の中まで見下ろされた。
二人は日に何度となく顔を合せ、声を聞き合ひました。
何か急に話し度い事でも出来ると手襷(たすき)をかけながらでも飛んで行きました。
彼女はまた、実際忙しかった。
子を育てると共に自分自身の人間としての成長をも怠るまいとする努力は、普通の母親の二倍の骨折りでなければなりません。
その上家庭の面倒と生活の苦痛がありました。
彼女は、でもそれに対して、何処まで辛抱強い、勇気を示しました。
それを見てゐると、伸子は彼女の為めに一緒に泣いて祈つて上げたいやうな感激を覚える時さへありました。
「あの人をよくしてあげ度ひ。」
伸子の心持ちにはこれより外の何物もありませんでした。
そしてそんな善い友達を手近に持つてゐた自分の幸福をも感謝しました。
(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上弥生子全集 第三巻』_p310)
弥生子は野枝を通じて、近くに住むらいてうや岩野清子を知った。
みんなはよく野枝の家に集まった。
涼しい夏の幾夜を、彼らは愉快な笑い声の中に過ごした。
「みんながこのまま仲よく手を引いて進めばいいのだ。それでいいのだ」
弥生子は勇気を感じ、光明を感じ、希望を感じた。
九月になると、弥生子は大分にいる父の病を聞いて、一家を上げて帰省した。
この間の野上家の留守宅を預かったのが野枝だった。
当時のことをらいてうは、こう回想している。
……広い野上さんのお家の方へ行って、食事をすることもまれにありました。
野枝さんが野上さんの家を、自分の家のようにして遠慮なしに道具を使い、きれいなふとんを出して、赤ちゃんを寝かせたりするのを見て、こちらは気が咎めたものです。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p519)
七月二十八日の『東京朝日新聞』に「困った女の問題」と題して、警保局・安河内麻吉(やすこうち・あさきち)の談話が載った。
その中に「青鞜社とか云う連中」は「色欲の餓鬼」という発言があった。
らいてうと二月に男児の母になっていた岩野清子は内務省を訪れ安河内に面会を求めたが、図書課長が応対に出て「言責」問題はウヤムヤにされた。
『青鞜』八月号「最近の感想」で、野枝は雑誌『エゴ』に載った千家元麿の脚本「家出の前後」を大推薦している。
『エゴ』は『白樺』の衛星誌と言われていた。
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第112回 妙義神社
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年六月、らいてうと奥村は北豊島郡巣鴨町一一六三番地から、北豊島郡巣鴨町上駒込四一一番地に引っ越した。
青鞜社の事務所の住所もここに移ったことになる。
野枝の家とは道路ひとつ隔てた妙義神社前の貸家だった。
野枝が家事の苦手ならいてうに、炊事を引き受けてもよいと申し出たからである。
らいてうが月十円の実費を持ち、野枝のところに昼と夜の食事をしに行くことになった。
そのころ辻と野枝は辻の家族とは別居し、一(まこと)との三人暮らしだった。
辻はいつも三畳の書斎の真ん中に机を置き、スピノザの石版刷りの額の下で翻訳のペンを運んでいた。
辻の息抜きは尺八を吹くことだった。
あのころ、辻さんのお母さんたちとは……別居していたからでしょうが、家のなかには、炊事道具などほとんどなく、金盥(かなだらい)がすき焼鍋に変わったり、鏡を裏返して、俎板(まないた)代わりに使われたりしていました。
茶碗などもないので、一枚の大皿に、お菜とご飯の盛りつけです。
野枝さんは、料理が下手というより、そんなことはどうでもいいというふうで、コマ切れのシチューまがいのものを、ご飯の上へかけたものなど、得体の知れないものをよくつくりました。
仕事は手早い代りに、汚いことも、まずいことも平気です。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p518)
野枝の手料理はともかく、食後の会話は盛り上がった。
辻は音楽や絵画にも造詣が深かったので、奥村ともよく話が合った。
帝劇の女優と結婚した原田潤も巣鴨に越してきて仲間に加わり、座は盛り上がった。
……こんなとき、野枝さんは大きくふくらんだ白い胸元をひらいて、赤ちゃんにお乳をふくませながら、みんなの話に大きな声でよく笑い、また、よく怒ったものでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p519)
しかし、らいてうと野枝の共同炊事は一ヶ月も続かなかった。
生まれつき肉嫌いで、食べ物の好き嫌いが激しい奥村が我慢しきれなかったからである。
野枝は『青鞜』六月号に二本の原稿を書いた。
●「S先生に」
「S先生」は上野高女の教頭・佐藤政次郎(まさじろう)である。
佐藤は野枝の上野高女五年時の担任・西原和治とともに、このとき(一九一四年)上野高女にまだ奉職していた(ふたりは同校を一九一五年三月に退職)。
当連載の第三十五回「出奔(七)」に「S先生に」の主旨を記したが、野枝は恩師であった佐藤を批判した。
私はあの事件で子供から一足とびに大人になました。
私は学校で先生方に伺つたお講義が何の役にも立たないことを確かめ得ました。
(「S先生に」/『青鞜』1914年6月号・第4巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p80)
●「読んだものから」
中川臨川「天才と永遠の女性」(『創造』一九一四年五月号)、早川鉄治「現代婦人の欠点」(『婦人評論』一九一四年五月一日)に対する反論である。
野枝はこの反論の最後をこう結んでいる。
どの方面に向ふ人にしても、日本人には深刻がない。
私はそれが一番不満だ。
根ざしが深くないからだ。
道徳だつて宗教だつて皆徹底したものは一つもない。
容易に形式だけは新らいしものをとり入れてゐる。
内容は依然として旧い。
そして『調和』してゐると喜こんでゐる。
私は『調和』を悪(にく)む。
『中庸』を悪む、徹底しなければ力は出ない。
『どつちつかず』には、自己の信条と云ふものがない。
日本人は日本固有の何物も持たない。
本当の国民性と云ふやうな何物にも動かない力強い内的特点は一つもない情ない国民だ。
(「読んだものから」/『青鞜』一九一四年六月号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第111回 染井の森
文●ツルシカズヒコ
「散歩いたしませんか」
こう言って誘いに来た野枝と連れ立って、野上弥生子が家から近い染井の森へ行ったのは、ある春の日だった。
野枝は一(まこと)をおんぶしていた。
弥生子は下婢の背中に下の子(野上茂吉郎)を預け、そのかわり四つになる小さい兄(野上素一)の手を引いていた。
「なんといういい日でしょうね」
「この四、五日はまた特別ね」
「鶯がよく啼くじゃありませんか」
「こんな季節になると、ここいらに住んでいるのが本当に、幸せだというような気持ちがいたしますよ」
ふたりはこんな感嘆詞を連ねながら、墓地の方へ歩いて行った。
野枝が案内するという森は、その墓地の後ろに当たり、付近に広大な別邸を持つ岩崎男爵の所有地だったが、弥生子はその存在すら知らなかった。
「まあ、そんなところがあるのですか」
「あの森をまだ知らなかったのですか」
墓地を通り抜けながら、ふたりはそこに眠っているいく人かの知人のことなどを静かに話した。
森は樹木の多いわりに、明るく朗らかだった。
午前十一時ごろの日光が樹木に添って一直線に降っていた。
初めは松ばかりだったが、奥に入るにしたがって、杉、檜(ヒノキ)、楓(カエデ)、栗、欅(ケヤキ)のごとき樹木が光の中に現れた。
他にも雑多な樹や草が生い茂っていたが、弥生子はいつものごとく植物学の知識の欠乏を痛感した。
「私はときどき自分は何ひとつ正確に知っていることはないのだと考えて、悲しくなることがありますよ」
弥生子はゲーテの『伊太利紀行』を読んだばかりだったが、この書物が農業誌と地質誌と建築学の考証であるのに驚いた。
万有を吸収したといっていい偉大なゲーテにとっては、なんでもないことなのだろうが、それほどの天才と虫のような自分たちを比較するのは僭越であるのは承知の上だったが、弥生子の感激は純粋だった。
「うんと勉強してお互いに偉くなりましょうね。ええ、きっとなりましょう」
ふたりは宣誓のようにいつも取り交わすこの言葉を、この日も熱心に繰り返した。
一(まこと)を出産した野枝は、独身者が多い青鞜社の仲間とは毛色の異なる弥生子に接近していった。
長くさし出した栗の枝の下に、ふたりは並んで足を投げ出しながら、その日もいろいろなことを話した。
最後に話題が人間の衣食問題になったとき、弥生子は野枝とその家庭に横たわる苦しい事情を知った。
野枝の青いやつれの目立つ顔を見ていると、弥生子は悲しくなった。
しかし、森の美しい光景はそれ以上、貧乏話を続けていはいられないほど、輝やかしく愉快な魅力に充ちていた。
弥生子の四つの男の子と下婢が向こうの茂みの方へ走り出した。
彼の白い前掛けと女中の赤い帯が、樹幹の間にちらちらした。
「あのくらいになるともう世話なしですわね。坊やも早く大きくなってちょうだい」
野枝は背中から下ろして抱いている子供に向かってこう言い聞かせ、もうお乳のころだといって胸を開けた。
「ぢゃ、あなたにもひとつ御馳走しませうね。」
伸子は下婢から先刻受取つて、側の草原におねんねこにくるんで寝かしておいた子供を自分も抱きあげて乳をやりました。
子供は二人とも可なり智慧づいてゐました。
而して空いた胃袋を充たさうとして乳房に搦む舌の力にも、男性らしい強さがありました。
一種の性的感覚であるとまで見なされてゐるその触覚(タッチ)は、彼等の赤ん坊臭い、甘い皮膚の匂ひと共に母親の胸には、特殊な快さでなければなりませんでした。
痛い位ゐ張りきつた乳腺が、汐の引くやうに軽く萎えて行くだけでもいゝ気持ちでありました。
その時ほとんど天の真ん中に沖した太陽は、その栗の枝を通して樹下の若い母親達の授乳を照らしました。
葉を辷(すべ)つた光りの斑点が、二人のひろげた胸や、其処に埋めてゐる赤ん坊の頭の上にちら/\しました。
「斯うしてゐると何んだか眠くなるわねぇ。」
彼女は重い瞼をあげて眩しさうに笑ひました。
伸子には今日の風変りな授乳が面白く顧られました。
いつもこんないゝお天気で、そしてこんな野天でのんきに暮らしてゐたら、それこそ一枚の毛皮と木の実を食べても生きて行かれそうな気がしました。
(「彼女」/『中央公論』1917年2月号/『野上弥生子全集 第三巻』_p307308)
赤ん坊ばかりではなく、母親たちの胃の腑も昼食を欲するころ合いであったが、弥生子はまだここを離れたくはない気がした。
「ねぇ、いいことがあるわ、ここでお弁当を食べましょうよ」
帰りに花でも買えばと思って、弥生子は二十銭銀貨を一枚帯の間に挟んでいた。
下婢を呼んでそれを渡し、巣鴨町の通りに出てパンでも買って来るように命じた。
「僕も行きたいなァ」
下婢と子供とふたりで行くことになった。
三十分ほどで餡パンを買った使いが帰って来た。
四人で五つずつの分け前になった。
「ああ、おいしい、おいしい」
歩き回ったので実際おいしくもあったが、同時に少し誇張した悦びを見せて、みんな笑いながら、風変わりな場所での風変わりなランチをすませた。
「生活難なんて考えようじゃないでしょうか。これだけ食べられれば、とにかく胃袋は一杯なんですものね」
どうにでもなっていくものだから、あまり余計な心配はしないようにという心で弥生子は野枝を慰めた。
自分も決して富んでいる隣人ではないけれども、できるだけのことはしてあげたい気持ちになった。
森を出るときには、その半日によって、ふたりの友情は一層の深まりを持った。
★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第110回 読売婦人附録
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年、保持研子(よしこ)がこの年の『青鞜』五月号を最後に青鞜社を去り、創刊時の発起人はらいてうただひとりになった。
『青鞜』八月号が保持の結婚の報を伝えている。
白雨氏……結婚、小野氏と改名。社の事務は全くとられないことになりました。
(「編輯室より」/『青鞜』1914年8月号・第4巻第8号)
「白雨」は保持のペンネームであるが、結婚相手の小野東は南湖院に入院していた患者で、二年前の夏に馬入川(ばにゅうがわ)で船遊びした際に棹をさばいた回復期の元気な青年だった。
『青鞜』の発行所の尚文堂が四月号を最後に手を引き、発行所は再び東京堂に戻った。
『青鞜』の売れ行きは落ちていった。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』によれば、保持はひとまず郷里に帰り、青鞜社事務所はらいてうの自宅に置かれた。
『青鞜』に関する一切の仕事が、らいてうひとりの肩にかかるようになった。
……ひとりで駆け歩いていた書店との交渉も、みんな不調に終わり……。
毎日毎日、雑用に追いまくられるおもいで、五月、六月、七月、八月と号を重ねてどうにかやってはゆきましたものの、自分の原稿も書かねばならないというあわただしさに加えて、毎月の欠損を、自分たちの生活とともに心配してゆかねばなりません。
「青鞜」の発行部数は、東雲堂時代を頂点に、だんだん下り坂に向かう一方ですが、以前のように欠損はみんな母に押し付けるわけにはもうゆきません。
静かな自分の時間をもちたい、静かに考えたい、静かに読み、静かに書きたいーーこのままでは、自分自身の心の世界が失われてしまいそうだと、わたくしはおそれずにはいられませんでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p545)
野枝は保持が関わるようになったころの『青鞜』について、こう書いている。
……社の……新らしい計画のために職を辞して来たY氏……が内部で働かれることになつたのですが氏のともすれば感情に依つてのみ人を知らうとする態度は書店との交渉に何時も嫌はれ勝ちでした。
そうして経営の方面にY氏がかゝつて私がそれを手伝ひ平塚氏を助けて小林氏が編輯をすることになりました。
けれどもその頃からもうもとのまゝの発行部数では少し多いと考へられるやうになりました。
さうして私と小林氏は専ら書くことになつて一と先づ編輯の手伝ひ経営の手伝ひも止めて仕舞ひました。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p149)
『青鞜』一九一四年三月号に野枝が書いた「編輯室より」が掲載されているが、以後、しばらく野枝は「編輯室より」を書いていないので、野枝が「編輯の手伝ひ経営の手伝ひも止めて」いたのは、この年の春から夏ごろにかけてだろう。
野枝はその間について、こう書いている。
その間可なり社の事情とは遠くなつてゐましたのでよくは知りません。
けれど平塚氏とY氏の間に何かのことがあつたらしいことは察せられます。
種々の折衝があつた後平塚氏が一人で経営されることになりました。
で経営の困難とその上たつた一人で何から何まで小面倒な仕事を執ると云ふことは……平塚氏にとつてどの位辛かつたかと云ふ事は私にも充分お察しが出来ます。
そしてそれは殆ど半年間続きました。
私は氏のその仕事に出来る丈けのお手伝ひはしたいと思ひましたけれど……子供のこと家のことに大半の時間を割かれそしてなを喰べることの労苦にも服しなければならないと云ふやう忙しい生活の中からとてもお手伝ひが出来さうにも思はれませんでした。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p149~150)
野枝は『青鞜』五月号に以下の原稿を書いた。
●「西川文子氏の『婦人解放論』を読む」
一九一三(大正二)年三月一日、西川文子、木村駒子、宮崎光子によって新真婦人会が創立され、同年四月に三人の合著『新らしき女の行く可き道』がを刊行された。
同年五月に雑誌『新真婦人』創刊され、西川文子『婦人解放論』が刊行されたのは一九一四(大正三)年二月だった。
野枝の訳著『婦人解放の悲劇』が刊行されたのは、『婦人解放論』が刊行された翌月だった。
野枝としては「婦人解放」について有意義な批評をするつもりだったが、「読んで行くに従つて論文と云ふやうな厳格なものを読んでゐるのではなくありふれた婦人雑誌の経験談」を読まされているような気持ちになり、批評する気にはならなくなった。
そして、こう批判した。
浅薄な皮相な新しいものに向つての理解を旧いものに向つて結びつけやうとする著者の態度は私共にとつて呪ふべきものである。半理解ーーこれほどいやなものはない。
旧いものは旧い者で徹底すれば其処に矢張り意義が生れて来る。
新しいものを往く処まで往けば基が築ける力が出て来る。
そして後の正々堂々たる本当の火花を散らしての生命と生命の戦こそ私達を真実に強くするものなのだ。
(「西川文子氏の『婦人解放論』を読む」/『青鞜』1914年5月号・第4巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p69)
●「読んだものの評と最近雑想」
『読売新聞』は一九一四(大正三)年四月、小橋三四子(こばし・みよこ)を編輯主任にして、与謝野晶子と田村俊子を社員として迎え「婦人附録」を設けた。
「婦人附録」は一九一九年に「よみうり婦人欄」となる。
『読売新聞』に新設された「婦人附録」を読んだ野枝は、こう批判している。
……この頃大分世間でも婦人問題と云ふ言葉を聞くやうになつたので少し注意して見ると、どれも/\実に愚劣なことばかり云つてゐ。
近く読売新聞に婦人附録が附くやうになつた。
私達はそれで世間の人たちが非常に婦人問題と云ふものに対しての考へが間違つてゐる事を知つた。
殆んどすべて私達とはずつと違つたいゝ加減な考へを持つてゐるらしい。
果たして婦人問題があんな人々の云ふやうな浅い処から出たものならば八毛ケ間敷(やかまし)くさはぎ立てる必要はない。
私は婦人附録の最初に出た、今日本で最も女子教育などに影響を及ぼす重要な地位にゐる人々の婦人に対する定見のないことおよびその無責任さ加減に呆れてしまつた。
馬鹿々々しくなつた。
皆すべて新らしきものに対して無理解であると云はれることを恐れるかのやうに、流行の言葉を用ひ而(しこう)して流行の新らしい女のことに云ひ及ぼしてゐる。
併しその云ふ処の根本の思想は、依然として個性を無視した道徳から一歩も出てはゐない。
やがてそれは読売婦人附録の態度であるとも云へる。
何と云ふ不徹底な沸(に)えきらない編輯振りであらう。
私達は本当に自己の智識や内生活をもっと/\充実させて今に/\本当のムーヴメントを起して根底からあゝ云ふ愚劣な思想を覆へさなけばならない。
私達は世間に出て本当にえらい者になる前に先(ま)づ自己に対して、真実な勇者であらねばならない。
(「読んだものの評と最近雑想」/『青鞜』1914年5月号・第4巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p73~74)
「読んだものの評と最近雑想」によれば、野枝は『文章世界』と『中央公論』を読んでみた。
『文章世界』では大家である正宗白鳥と田山花袋のエッセイはつまらないと評し、長田秀雄(ながた・ひでお)の喜劇「妊婦授産所」、小山内薫「蒲公英の花」を評価している。
『中央公論』では田村俊子「炮烙(ほうらく)の刑」を高く評価している。
……私が今まで読んだ同氏のものゝ中ではすぐれたものゝ一つであると信じる。
(「読んだものの評と最近雑想」/『青鞜』1914年5月号・第4巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p75)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index