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2016年04月16日

第90回 牽引






文●ツルシカズヒコ



 「牽引」(p27~28)によれば、辻の家を出た荘太は巣鴨橋まで馳けた。

 電車の中で荘太は辻の苦痛を想像したが、自分と野枝の牽引と結合は自然だから仕方がないと思うほかなかった。

 神保町から青山行きに乗り、半蔵門で降りると、新宿行きの電車はなかなかやって来ない。

 荘太はそこから三、四丁、下宿まで馳け出した。

 息せき切って着いた荘太は、入口のガラス戸越しに中を覗いた。

 土間には見覚えのある下駄が脱ぎ棄ててあった。

 荘太が階段を駆け上がり急いで部屋に入ると、野枝はムンクの『アウグスト・ストリンドベリ』がかけてある入口の壁際に座っていた。

 息が弾んでなかなか言葉にならない。

 荘太は野枝に軽く頭を下げた。

 野枝も頭を下げたが、どう挨拶をしていいのかまごついた。

 荘太は野枝の真っ白な血の気のない顔を見て驚き、恋をしている女の顔ではないと思った。

「たいへんお待ちになったでしょう」

「ええ、そんなんでもありませんでした。出がけに社に寄りますと人が来たもんですから、遅くなって。それから処がわからなかったもんですから、たいへんに探しました」

「処? 僕は手紙にちゃんと図を書いておいたでしょう」

「私、その手紙を拝見しません」

 と言って野枝は首を傾げた。

 荘太は不快を感じた。

 番地を書かずに出した手紙さえ届いたのに、ちゃんと書いたものが届かぬはずはないと思った。

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 荘太は『魔の宴』では、こう書いている。


「あの手紙で、昨日と今日の昼前と待つたんですけど、来られないんで、電報打つたんですけれど、それでももし来られないと、と思つて、お宅まで行つて来たんです。」

「電報は頂きましたけど手紙つて申しますと?」

「え、あの手紙を見ていないんですか。あなたの会いたいつていう手紙の返事に、二十九日か三十日お待ちしますつて、出したあの手紙を?」

「拝見していません。」

 とっさに、閃めくように私の頭に浮んだのは、あのいま、会つて来た、小柄な、若いのだか、年取つたのだか解らぬような顔をして、角帯をちょこんと締めていた男の顔だつた。

 あの男が奪つたのだ、と思つた。

「あなたが僕に下すつた、あとのほうの二通の手紙は、あなたのかたには見せられずに出したのでしょうね。」と聞くと、やつぱり、

「見せませんでした。」との答えだ。

「しかし、僕の手紙があなたの手に渡らなかつたのはへんですね。」

「……」

 私はデリカシーのために、あなたのひとの手にあるのではないでしょうか、というのは控えた。


(木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想_p237~238/『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎_p192~193)





 一時間以上も待ち続けて、ようやく戻った荘太と自身の心境について、野枝はこう記している。


 木村氏は、電車を半蔵門で降りて駆けて来たのでと云つて、何となしに、せか/\した調子でした。

 私は、この間かなり落ち付いたらしい人だと思つたのに、わざとらしく見えるまでに落ち付かない様子にまづ木村といふ人からズーとつきはなれた別の人のやうな気がしました。

 目前の人があの最後の手紙を書いた人とは何だか思ひにくう御座いました。

 同時に私の気持は恐ろしく引きしまつて、ズーつと、沈んでしまひました。

 そして、何でも伺ひませうといふやうな、余裕のある落ちつきを取る事が出来ました。

 たゞ私の心の中に動いてゐるのは、先刻の手紙の中の「大変な運命の途云々」といふ言葉でした。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p229/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p62)



 麹町区平河町の荘太の下宿で、荘太と野枝は向き合っていた。

 野枝宛ての手紙を彼女に渡さなかった辻ーー野枝もふたりの男の価値はおのずからわかるはずだと、荘太は思った。

 荘太は昂然として語り、ふたりの男の選択は野枝にあるはずだと迫るような語気で話した。

 荘太はこの日の朝、福士幸次郎から手紙を受け取った。

 荘太と野枝のラブを絶賛する文面だった。

 荘太は感動のあまり涙を流した、その手紙を野枝に見せた。


 自分は君のラヴが之れ程まで立派に出た事に就いて今迄知らない幸福を感じてゐる。

(無車君のC子さんとも違ふと思ふ。 思ひ切つて言ふならあれは無車君といふ人の人格のラヴだと思ふ。君のはさうでない。もつと覚めた意識が互ひに愛になつてる。いふ迄もない事だが。)

 それだけ君のラヴが人事でない気がする。

 万人のものだといふ気が更にする。

 君一人の幸福でないといふ気が痛切に来る。

 女の人のハス(夫)はそれは気の毒だ。

 然し自分はこの結末がきつとよい事を信じてゐる。

 ハスの問題は後廻しにしてもいいと思ふ。

 気にする事は少しもないと思ふ。

(ハスに呉れといふ事は決して crime ではない。 今の処それは最上だ。君の出づべき当然の道だと思ふ。一番立派な事だと思ふ。)


(木村荘太「牽引」_p29/『生活』1913年8月号)





「無車」は武者小路実篤のこと、「C子」は一時、青鞜社の社員であった竹尾房子(宮城ふさ)、この年の二月に武者小路と房子は結婚していた。

 野枝はこの手紙についてこう書いている。


 ……その手紙の中に白樺のM氏とかなりに青鞜社で迷惑を感じたC子氏の恋に比較されてあるのを読んで私は嫌な気がした。

 ……それ等の若い人たちの噂からうはさを生んで飛んだ違つた色を帯びたローマンスにでもなつて、また青鞜社の名でも出されては、困るというやうな事まで考えました。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p235~236/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p65)





 野枝が読み終えると、荘太が言った。

「僕は今強くあなたを愛しています」

 野枝は黙って肯いた。

 荘太は懐ろに入れていた野枝の最後の手紙を出して尋ねた。

「僕はこの手紙をあなたが書いた気持ちをよくお伺いしたいのです」

「……ええ」

 と野枝はしばらく間を置いてから言った。

「私いろいろお話したいことがあったのですけど、今日さっきの電報でただビックリしてしまったものですから、今、ちっとも何だかわからなくなってしまっているのです」

 荘太は野枝が自分に牽引されていると解釈していた。

 自分は辻より優良で、野枝の真の幸福は自分の手中にのみあると思っていると言った。

 ただ自身が欲するままに圧倒して、野枝を奪いたくない、ただ自然な結合の前に謙虚に跪(ひざまず)きたいのだと長く話した。

 野枝の額にたらたら汗が流れ始めた。

 野枝はしきりにハンカチでそれを拭いた。

 荘太が尋ねた。

「で、あなたには辻さんに対する愛があるのですね」

 野枝が即座に答えた。

「ええ、あります」





 荘太はまたいらいらした。

 どうにでもなれという気になった荘太は、なおも話し続けた。

 自分の過去や現在についても打ち明けた。

 野枝の書く才能を買っていた荘太は、自分が伍するグループで野枝の才能を開花させてみたかった。

 荘太は仲間たちのことを話し、女には今またさらに進んだ問題が展けている、そのためにはただ女が飛躍することだ、僕はそのすべてを備えていると語った。

 荘太は高村光太郎の詩「失はれたるモナ・リザ」のモデルであり、光太郎の愛人だった吉原の娼婦を自分が奪った話もした。

 嵐のように湧き起こる創作意欲に駆られて書き始めた小説も野枝に見せた。

 野枝は終始、俯いて聞いていた。

 荘太の話す調子が軽くて口早やなので、まとまったものとして頭に入って来なかった。

 パッショネイトな言葉で語られても、本体のパッションが何も野枝には伝わらなかった。

 多血質で動かされやすい野枝だったが、荘太の饒舌には共鳴するものがなかった。

 とにかく、野枝の気分は逸れてしまった。



★木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』(朝日新聞社・1950年5月30日)

★『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』(平凡社・1981年12月10日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:38| 本文

第89回 自我主義






文●ツルシカズヒコ



 木村荘太「牽引」によれば、一九一三年(大正二年)六月三十日の夕方、辻の家を訪れた荘太に「私が辻です」と辻が名乗ったが、荘太はそれが野枝と共棲している男だとすぐには気づかなかった。

 荘太が尋ねた。

「伊藤さんおいでですか?」

「いません、どなたです?」

 辻がなんとも言えない表情をしているのを見て、荘太はハッとなり、名乗った。

「木村です」

「さ、どうぞお上がり下さい」
 
 部屋に上がった荘太が、すぐに尋ねた。

「野枝さんはどちらへお出でになりました?」

「わかりません」

「いつごろお出かけになりました?」

「今日、私は出かけていまして、その留守に行ったのです」

 荘太は野枝が自分のところに行ったに違いないと思い、気が急いた。

「あ、そうですか。一昨日、野枝さんから会いたいという手紙いただいたので、昨日と今日とお待ちするという返事を差し上げました。お出でにならないものですから、 それで電報を打ったのです」

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 気が急いている荘太に、辻が意外なことを言った。

「あなたの弟の荘八くんですが、僕が小学校の教師をしているころ、彼に英語の初歩を家庭教師したことがあるんです。妙なご縁ですな……」(「牽引」p38)

 荘太は野枝に下宿で待っていてもらうよう、女中に言いおいてきたことを伝え、すぐに帰ろうとした。

 荘太は無意識のうちに自分は辻を圧倒しているのを感じ、対等の力で迫って来ない人に敬意を払えないと思った。

 荘太は下宿に来ているにちがいない野枝のことを思い、一刻も早く下宿に戻りたかったが、辻がそれを引き止めた。


「それじゃあ。」といつて別れかけると、

「ちょつと。」と引き止めた。

 そしてその男は、机の上にあつた、罫紙に書きかけの大分ある書きものを手にとつて、

「これがこのことについて僕の気持をいま書いているものなんです。これ見て下さい。」

 といって私に渡した。


(木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想_p236/『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎_p192)


 「牽引」によれば、辻は机の上にあつた書きかけの原稿紙を荘太の前に出した。

 荘太が辻に宛てた手紙の返事として書いたものだった。

 それにはこう記されていた。


 御手紙拝見いたしました。

 私の心には今さまざまのものが湧き起つて居ります。

 なにから申し上てよいか解りません。

 私は先づあなたの御手紙が私のこれまで受取つたものの中で最も誠實なる人間の心を現はしてゐるものだといふことを感ぜずにはゐられません。

 而して私は今又改めて深く自己に対する省察の機を與へられたことを感謝いたします。

 若し私どもがあなたの御手紙によつて何等の激励をも与へられない様なものでありましたら如何でせう-私どもは又自己の生命の力をハッキリ感ずることが出来たのです。

 私はあなたを理解することが出来ると信じます。(勿論私の程度の範囲内に於て)

 而して 又あなたが私を理解して下さることを信じて居ります。

 あなたは私が初めからあなたを信じたといふことに就て感謝を表はしておいでです。

 しかしその私の信頼には人間の弱点が供つてゐたことを私は告白いたします。

 しかし私は努めてそれに打勝たうと試みました。

 御手紙は皆な気持よく拝見いたしました。

 殊に昨日御手紙の中に現はれた偉大なる信念(ここまで読むと僕は馬鹿々々しくなつた。今までの好意が全く消え失せた。僕はこのごろ實に屡々(しばしば)烈しく衆愚の言行に自身の愛を裏切られて苦しむ。今もまた新らしく僕はその事を感ぜずにゐられなかつた。でもとにかく僕は急いで終ひまで走り読みした。/この赤字の部分は荘太の感想※ツルシ註)に対しては無限の尊敬を払ひたいと思ひます。

 私の微かに認め得た光が忽然として全地に漲ぎり溢れた如く感ぜられました。

 愛他主義と自我主義との完全なる一致を信ずることの出来ないものは一生迷つて生さなければならないでせう。

 私もこれには随分と苦しめられました。

 且て幼稚な基督教徒でありました私は愛他主義の信者で御座いました。

 しかしその後私の愛他主義には多くの不純なる分子の混合せられてゐることを発見しました。

 過去の宗教を脱した私はやがて自我主義者になりました。

 勿論私は進みました。

 しかしその自我主義は徹底したものではありませんでした。

 ただ自我主義が愛他主義よりも更らに純であるといふ様なことを漠然と信じて居りました。

 けれども私の自我主義はいたる処に恐しい矛盾を感じてゐました。

 私は強ひてエゴイストを装ふてゐたのです。

 ですが又そう安々と二者の調和一致を信ずることも出来ませんでした。

 私は今出来得る丈あなたに私を御知らせしたいと思つて居ります。

 そうして私が如何位の程度迄あなたに接触することが出来るかを見たいと思ひます。

 私は今如何したら最もよく私を御知らせすることが出来るかと色々考へました末、クダ~~しい思想上の経歴や境遇を御話いたすより一層手取早く又明らかに自分といふものを見て頂くことが出来ると信じますので、昨年暫時野枝子と別れて居りました節、彼女に宛てて書きましたものから少々抜いて御目にかけることにいたしました。或は御迷惑かも知れませんが何卒御一読下さることを切に御願ひいたします。


(木村荘太「牽引」_p25~26/『生活』1913年8月号)





「昨年暫時野枝子と別れて居りました節、彼女に宛てて書きましたもの」とは、一九一二年夏から秋にかけて、野枝が自ら末松との離婚の話し合いのために今宿に帰郷した際に、辻が野枝に宛てた手紙のことであろう。

 その文面に「三十一日」「一日」という日づけがあるが、それは「八月三十一日」と「九月一日」のことだろうか。


 辻が野枝に宛てて書いた手紙から、抜粋した文章は以下である。


 人間は自分のほんとうの心持といふものを中々そのままに現はすことが出来ないものだ。

 現はす様なことを口にしながらやつぱり俺れを兎角いつわりたいものだ。

 私は汝に対する心持を今出来るだけ欺かずに書いてみたいと思ふ・・・若し過去のことを充(ママ) るならどうか真実のことを話して呉れ。

 そうすれば己も気がすむ・・・俺は汝に堅い決心を促がした時に、まづ俺がかなりにさらけ出されてゐるものを汝にみせて、俺はこんな男だ、こんな男でよければそれを充分承知の上で一緒に生活してくれ・・・俺は自分の全てをさらけ出してその上で俺を愛して呉れる様な女でなければ満足し得ないのである。

 俺はやはり理解といふことを求める。

 俺は改めていふ――今まで己の接した女の中で最もよく俺を理解したものは汝である。

 俺は先づこの点に於て感謝しなければならない。

 それから汝の方から云つても恐らく俺が一番よく汝を理解してやつた男なのかも知れない、と俺は思つてゐる。

 俺はだから先づ俺が最も敬愛し、眞に愛をそそぎ得ると信じた女に書いた手紙を汝に見せた。

 然し俺はその女から逆に理解を得なかつた。

 俺は強ひて求めたくなかつた。

 理解のない女を如何して愛し得やう。

 理解と信仰のない愛は虚偽の愛てある・・・


 (木村荘太「牽引」_p26/『生活』1913年8月号)





 辻が女に書いた手紙とは、御簾納(みその)キンに書いた手紙のことであろう。

 この手紙について、野枝はこう言及している。

「町子」は、野枝のことである。


 その手紙を町子が男の本箱の抽斗(ひきだし)に見出した時に、彼女は全身の血がみんな逆上することを感じながらドキ/\する胸をおさへた。

『あの女だ、あの女だ。』

 息をはづませながら彼女はそふ思つた。

 そして異常な興奮をもつてその表書を一寸(ちょっと)の間みつめてゐた。

 やがてすぐに非常な勢をもつて憎悪と嫉妬がこみ上げて来るのを感じた。

 彼女はもうそれを押へることが出来なかつた。

 直ぐに裂いて捨てたいほどに思つた。

 忌々(いまいま)しい見まい/\と思ふ半面にはどんな態度で男があの女に書いてゐるか矢つ張りどうしても見ないではゐられない様にも思つた。

 併しかし現在自分が愛してゐる男、自分ひとりのものだと思つてゐる男が他の女に愛を表す語をつらねた其の手紙を見るのは何となく不安でそして恐ろしいやうな苦しいやうな気がして、見まい/\とした。

 けれどもどうしても見ないではゐられなかつた。
 
 読んで行くうちにも彼女は色々な気持ちにさせられた。

 たつた一本の手紙だが、そしてそれを読み終るまでに十分とは懸らない僅かの間に彼女の心臓は痛ましい迄に虐待された。

 嫉妬、不安、憤怒、憎悪、あらゆる感情が露はに、あらしのやうな勢をもつて町子の身内を荒れまはつた。

 そしてそのうちにも自分に対するとはまるで違つた男の半面をまざ/\と見せつけられた。

 其処に対した、愚劣な、無智な女と、男を見た。

 狂奔する感情を制止する落付きをどうしても見出すことは出来なかつた。

 今はたゞ彼女はその感情の中に浸つて声をあげて、身をもだえて泣くより仕方がなかつた。

 彼女はまるで男が全く彼女から離れたやうに思ひ、そして男の持つた違つた世界を見た彼女はとりつく島もないやうな絶望の淵に沈んで行つた。

 漸く幾らかの落ちつきを見出すとやがて男に対するいろんな感情がだん/\うすれて行くのを不思議な気持ちでぢつと眺めた。

 やがてすべての憤怒、憎悪が女の方に漸次に昂たかぶつて来た。

 そして何とも云ひやうのない口惜しさと不愉快な重くるしさが押しよせて来た。

 それは明かにあの女に対する強烈な嫉妬だと云ふことは意識してゐた。

 併しその気持をおさへて何でもないやうにおちついてゐることは出来なかつた。

 それに男の何でもないやうな顔をしてゐるのが憎らしかつた。

 町子はもうその手紙をズタ/\に引きさいて男の顔に叩きつけてやりたかつた。

 たとへそれは日附けはかなり今と隔りがあるにしてもそれつきりであつたとは思へない、彼女が此処に来たときまではたしかに続いてゐたのだ。

 彼女はたしかにそれを知つてゐる、続いて起つた連想はかの女の頭をなぐるやうに強く何物かを思ひ起さした。

 男との関係がはじめから今までの長い/\シーンの連続の形に於て瞬間に彼女の眼前をよぎつて過ぎた。

 そしてその強く彼女を引きつけた処に尤(もっと)も彼女の不安なあるものが隠れてゐた。

 それは彼女を彼女の中にも隠れてゐて絶えずなやましてゐた疑惑の黒い塊であつた。

 機会を見出して塊はずん/\広がつて彼女の心上をすつかり覆つてしまつた。


(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・4巻4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p263~265/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p109~110)





 以下、辻が今宿に帰郷している野枝に宛てて書いた手紙からの抜粋した文章の続き。


 今日は朝から嫌な日だ。

 涼しい様な蒸し暑い様なそれで雲足が非常に早く如何してもあれ気味だ。

 俺は朝飯をすますとすぐと出かけた。

 行きたくない処へ行くのだから気が少しも進まない。

 實に今日は耐らない(ママ)気持の悪い日だ。

 かへりがけに雨に降られてこないだ一寸話して置いたヴァイオリン弾きの処で雨止をして午近くに戻つてきた。

 午後からも只だ仰向にひつくりかへつてゐると、身体がアチコチと痛んで足の筋が妙につる。

 そうして倦怠が節々にからみついてゐると見えて、俺は幾度か身体の向を変へてみた。

 それでも駄目だ。

 乱れた妄想が無暗に湧き起る。

 俺はとう~~また恐しく暗い気持を抱かねば ならない様になつた。

 夜になつてからは殊に喰入る様な淋しさがおそふてきて、俺はさなきだに(そうでなくとも※ツルシ註)汝の事を考へずにはゐられなかつた・・・さぞ切ない青ざめた日を迭つてゐることだらう。

 俺はだがこの間の手紙にはかなり強さうなことを書いたから幾分かあれで慰められてゐるだらうが、なんにしろ離れてゐては埒があかない。

 そう思ふともう我慢がしきれなくなる程、汝が恋しくなる。

 いつそ如何なつてもかまはないから二人で行くところまで行つてみやうかといふ様なことを考へる。

 突きつめた上で生きるとも死ぬともどつちかに方がつくことだらう。

  兎に角こんな風な生活をしてゐたら必ず生命が縮まるに相異ない・・・・・・(三十一日)



 とう~~暴風雨になつた。

 暁方眼が醒めると恐しい風の音と雨のしぶきが、入り交じつて聞えてくる。

 俺は一端起きてみたが身体に熱があつてけだるいのでまた床に入つた。

 ウ ト~~したかと思ふとその内おびやかされる様に眼が醒めた。

 郵便だつた。

 俺は思はず胸の鼓動を感じた。

 母と妹とはその時もう起きてゐた。

 俺は確かに汝からの手紙に相異ないと思つて、床の中で封を開く前の危倶を抱いた。

 俺は飯をすますと嬉しさと懐かしさと不安との入り混つた妙な心持で封を開いた。

 而して一気に読み終つた。

 読み終つた時、俺は非常な憤りを覚えた。

 習俗に対する強い反抗である。

 こんなことと知つたらオメ~~汝をかへすのではなかつた。

 實にばかげた徒労であつた。

 がしかしだ。

  俺等はかくの如き苦しみを忍ばなければならないといふことは、これによつて更に深く強く俺等が結び合されるのであると考へると、そこに云ふべかざる希望と歓喜とが湧き起つてくる。

 俺は徒らに感情に走るのではない。

 落付て考へての上である・・・あらゆる絶望と圧迫とを蒙りながら悶え苦しみ哭き――そうして愈々痛切なる夢に生きるのである。

 俺等は幸福だ。(一日)

 この二三日は實に耐らなく苦しい情調にゐる。

 私は自分がそれを充分に書き現すことの出来ないのをひたすら悲しむばかりだ・・・俺は朝から晩まで汝の事を考へてゐる。

 而してもうどうなつてもいいから遇ひたいと思ふ。

 それ以外にない。

 後はどうなつても只だ遇ふことが出来さへすればいい。

 話が破れたらすぐ出て来ると云つた。

 俺は早く破れてしまへばいいと思つてゐる。

 それにしても汝が無事に再び上京することが出来るだらうか、と考へるとそれがもう非常に不安な暗い苦しい気分を誘つてくる・・・ それに昨日などは又夕方から食ふ米がないと云つて母が心配し初めた、俺はもうどうでもなれと思つて黙つてゐた・・・俺は全く肝癪が起つてきた。

 こんな時、もし汝がもう少し弱い女で一緒に死んでくれと云つたら、俺は前後を考へて而して矢張落着て死に得るかも知れない・・・だが 又一方では妙に冷やかな理智が頭を擡げて俺を冷笑する。

 そうして感情の玩具になつて泣 いたりわめいたりしてゐるのを如何にも気の毒な風に見下してゐる・・・・。

 なんにしても俺は痛切に汝を求めてゐるのだ、到底空想で相抱いてゐると云つた丈では如何して満足し得やう・・・もし汝が変心して俺から離れてでも行く得(ママ)なことがあつたら、俺はもうその時はどんな痛ましい苦い~~杯を飲まなければならないであらう。

 そう考へてくるともうまるで意識といふものを失つてしまふ様だ・・・・俺はどうか今の様にいつまでも俺を愛してくれと汝に訴る。


(木村荘太「牽引」_p26~27/『生活』1913年8月号)


「牽引」(p27~28)によれば、ザッとだが、読み終えた荘太は、「お互いにアンダアスタンディングがゆき違うと困りますから」といふ辻の言葉をほとんど聞き流して戸外へ出た。





★木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』(朝日新聞社・1950年5月30日)

★『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』(平凡社・1981年12月10日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)







●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:13| 本文

第88回 アウグスト・ストリンドベリ






文●ツルシカズヒコ



 木村荘太「牽引」によれば、六月三十日、荘太はこの日の朝早く目が覚めてしまった。

 荘太は野枝を空しく待ち続けた。

 時計が昼の十二時を打った。

 いてもたってもいられなくなった荘太は、野枝が男に引き止められているさまや、急に過度の傷心のために身体を悪くして寝ているさまを想像した。

 荘太は外に飛び出し、後先を考えず、野枝に電報を打った。

「ケフゼヒキテクダサイ」

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 この日の朝、辻はいつものように出かけた。

 出かけ際、野枝はひとり取り残されるような気がして心細くなった。

 特に月曜日の朝が嫌だった。

 野枝が湯に行こうとして仕度をしていると、電報が来た。

 自分宛てだったのでびっくりした野枝が電報を裏返すと、「キムラ」とあった。

 なぜ電報なんか寄こしたんだろう、行こうか行くまいか……。

 電文を読み当惑してしまった野枝は、とにかく、湯に入って考えることにした。

 湯に入りながら野枝は考えた。

 自分さえ確かなら会っても大丈夫だろう……。

 湯から上がりすぐに帰宅して出かけた。





 昼に電報を出した荘太は、下宿に帰り原稿紙に文字を連ねた。

 荘太は自分が陥っている境遇と苦悩を書き連ねた。

 夕方になっても野枝がやって来る気配はない。

 静かに待っていられなくなった荘太は、出かけて野枝に会うことにした。

 もしそこに男がいたら、荘太はその男にも会う気になった。

 留守に伊藤という人が来たら、この手紙を渡して戻るまで待たせておいてくれと女中に言い置いて、荘太は下宿を出た。

 野枝は出がけに辻の眼鏡をかけた。

 崖を歩いていると眩暈がした野枝は、保持のところに駆け込んだ。

 保持は四時すぎに品川に行くという。

 それまで保持は近所に出かけた。

 保持の妹と野枝は横になり、野枝は枕を借りて少し寝た。

 四時ごろに帰って来るはずの保持は、なかなか帰って来なかった。

 野枝がいっそ会いに行かないことにしようかと思っていると、保持が帰って来た。

 ふたりは一緒に出かけた。

 神保町で保持と別れた野枝は、青山行きの電車に乗り見附上で降りた。

 このあたりに不案内な野枝だったが、なんとか荘太の下宿を探し当てることができた。





 女中に案内されて荘太の部屋に行くと、荘太は留守だった。

 別の女中が荘太の手紙を持ってきて野枝に渡した。


 私はあなたの処へ行きます。

 若しお出下すつたのなら誠に相済みませんが少々お待ちなすつて下さい。

 ふたりは大変な運命の途にゐるのですから必ずお待ち下さい。

 直ぐ帰ります。

 さうしてお話します。

 何でも本を御覧になつてゐて下さい。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p227/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p60~61)


 染井は番地が滅茶苦茶に飛んでいる。

 荘太は何度も行ったり来たりして、散々探しあぐねた末に、 ようやくそれらしい家の前へ出た。

 窓越しに外から見える机に座っている人が見えたので、尋ねてみた。

「このへんに辻さんとおっしゃる方は?」

「私が辻です」

 と、その人が言った。





 野枝は荘太の部屋にじっと座っていた。

 女中から渡された手紙を読んだ野枝は「大変な運命の途にゐるーー」とはなんだろうと思い、馬鹿にされているような気もした。

 わざわざ染井の家まで来て伝えたい大事なこととはなんだろう。

 何時ごろ出かけたのだろう。

 荘太の帰りは遅くなりそうだ、今日も義母を迎えに行けないだろう。

 いろいろなことが野枝の頭の中に浮かんだ。

 また眩暈がしそうな気がしてきた。

 机には原稿紙が取り散らかっていた。

 壁にはムンクの『アウグスト・ストリンドベリ』とゴッホの『自画像』が架けてあった。

 風がないので、野枝の襟元と額から汗がにじみ出てきた。

 三十分ばかり待ったが、荘太が帰って来る気配はなかった。

 そこに出ていたソニアの自伝を眺めながら、野枝は考えをめぐらせていた。

 わかりにくい染井の奥の辻の家を荘太は探し当てることができただろうか。

 荘太は辻と会っただろうか、会って話をしているだろうか、どんな話をしているだろうか……。


 木村氏が私に会ひたいといふ用事は何だらう。

 私はもう考へあぐんでしまつて、ボンヤリしてしまひました。

 何の為めに、知らない人の室にぢつと座つてゐるのか分らなくなつてしまひました。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p228/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p61)





 このとき、野枝は十八歳、荘太は二十四歳である。

 らいてうは二十七歳だった。

「塩原事件」で世間を騒がせ、浅草区松葉町の海禅寺の住職・中原秀岳との「大人の交際」も体験していたらいてうは、ヒートアップしている野枝と荘太について、こう分析している。


 ……野枝さんは……木村氏に対する「淡い恋」といふものを是認してゐるが……野枝さんの動した感情の中には自(おのづ)から二つに区別すべきものがあると思ふ。

 その一つはフレンドシツプで今一つはラヴだ。

 しかもそのラヴ決して「淡い恋」などゝいはるべき性質のものではない。

 寧ろパツシヨネートラヴとでもいふべきものだつたと思ふ。

 このラヴは主としてあの当時の野枝さんの生理状態に原因する閃光的な殆ど内臓や筋肉にばかり係るものとして瞬間に消滅して仕舞つたが、一方は主として魂にかゝはる比較的長き生命のあるものとして尚今後も自然にまかせておけば生長発達すべきものだつたと思ふ。

 併し男は多くの場合その相手たる女の友情を理解しない。

 男性に共通な自惚は女性との親友関係を直に恋愛だと早合点させる。

 そして恋人として取扱はうと只管(ひたすら)にあせる。

 ……かういふ時、女はその男の案外自分を知つてくれなかつたといふことに対して或る腹立たしさと、軽侮の念を有つやうになる。

 そして……今迄の厚い友情までも害して仕舞ふやうな不幸に終る場合は随分あり勝ちなことだと思ふ。

 木村氏も亦実にかゝる男の一人であつた。


(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号・3巻11号_p96~97)



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:39| 本文

第87回 ピアノラ






文●ツルシカズヒコ


 一九一三(大正二)年六月二十八日、午後四時ごろ、野枝はじっと座っていることができないので家を出た。

 音楽会の切符は三枚あったので、保持を誘ってみようかと思った。

 一枚は辻の妹の恒に渡し、後で青鞜社の事務所に来るように言った。

 歩くのさえ嫌なので駒込から山手線で巣鴨まで行った。

 五時すぎに保持と恒と三人で出かけた。

 会場には野枝たちの方が早く着いたので、辻とは一緒の席ではなかった。

 音楽を聞いてる間も、例のことが絶えず野枝の頭に浮かんでいた。

 いい曲がたくさんあったが、野枝はピアノラでは呆気ないような気がしたし、ざわざわしていて得意気に歩き回っている女たちの、軽薄な見え透いた衒気たっぷりの様子にうんざりした。

 野枝は来るんじゃなかったと思い、保持をわざわざ引っぱって来たのが気の毒になった。

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 会場を遅れて出ると、辻と辻の友達のSさんが待っていた。

 野枝はなるべく不快な思いを消そうとして、冗談を言ったりしてみんなで駿河台下の停留所まで来た。

 電車を待っている間に、野枝はふと思いついて辻に言ってみた。

「あのね、あなたに木村さんからお手紙が来ててよ」

「僕にかい、本当に? お見せ」

「ここにあるものですか、うちにありますよ」

「そうかい」

 辻はそれっきり何も言わなかった。

 Sさんと別れて四人で電車に乗った。

 野枝は前の入口に立っていた。

 涼しい風が寒いほど野枝の顔に当たった。

 乗客が減るにつれて、後ろから乗った辻が前の方に来た。

 野枝は辻の顔を見ると不愉快な思いが湧き上がってきた。

 席がすいてきても、野枝は辻と並んで座ることができなかった。

 巣鴨で降りて真っ暗な中を、岩崎の塀にそったぼこぼこした道を歩いた。

 恒がいなかったら、野枝は泣き出したかもしれなかった。

 恒が急いで歩けないことを知っていながら、急いで歩かねば堪えられないほど野枝は苦しくなった。

 家に帰り着いても、野枝は自分が不愉快になっているから辻も不快なのだと充分承知しながらも、どうしても気をとり直すことができなかった。

 辻もおもしろくなさそうな顔をしていた。

 野枝は大急ぎで床の中に入ったが眠れなかった。

 辻は手紙を読み終えて、何かぐずぐず書くか読むかしているようだった。





  暫くしてTは、

「お前は私に見せない手紙を木村さんに出したね」と詰るやうに云ひました。

「えゝ」

「何故僕に見せない、どんな事を書いたんだ」

「だつてあのほらあなたに見せた手紙ねあれを出すときに、少し原稿紙に書き添えて出したの、だから、あなたに見せるひまがなかつたんです」

「何書いたんだい」

「別に何も書きませんわ、なんだか忘れてしまつたわ」

「自分の書いた手紙を忘れる奴があるもんか」

「だつて忘れたんですもの本当に」

「その他にはもう書かないかい」

「えゝ、書かないわ」

「本当かい」

「えゝ、本当」

「さう」

「書いてよ、もう一つ」

「嘘だろう」

「嘘じやないわ」

「本当かい」

「えゝ」

「何書いたの」

「何にも書かない」

「何にも書かないつてあるもんか」

「本当云へばね、嘘なの」

「何だ馬鹿な」


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p221~223/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p57~59)





 野枝はとうとう誤魔化した。

 白状すればよかったと思ったが、原稿紙に書いた手紙はなんのために書いたのか、すっかり野枝は忘れていた。

 別にたいしたことは書かなかったと思い、眠ってしまった。

 らいてうは、このあたりの野枝を手厳しく批判している。


 私は無意識な、無責任な抑へ処のない在来の所謂「女」に対するやうなたよりなさを感じた。

 女の心理に元来自分の言行に対して責任を負ふことの出来ぬものなら、そしてそれを左程苦痛としないやうに出来てゐるものなら、しかもそれが女の弱味であり、武器であるといふならそれも仕方あるまいけれど。

 かうした動じ易い、或パツシヨンの中に包まれて前後を忘れて仕舞ふ女の心理についてあまり多くの経験を有たぬ男なら、あの手紙を見て、自分の方へ女が投じて来たものと早合点するに無理もない。

 さうでなくともかういふ場合は男に共通な自惚が可成り手伝ふものだから。

 誤解は誤解に違ひないが、咎めることは出来ない誤解だ。

 殊に木村氏の如き性急な、自己の外、落付いて他を見る余裕のない程心の張り詰めた男に於ては猶更さうだ。


(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号・3巻11号_p93)





 一九一三年(大正二年)六月二十九日は日曜日だった。

 野枝は体調がよくなかったので、朝から横になっていた。

 辻と野枝が交わした手紙を入れた袋を野枝が持ち出すと、辻は嫌がって片づけろ片づけろと言っていたが、木村荘太との一件が起きてから、辻はその袋を持ち出して拾い読みしたりしている。

 野枝はそれをなんとなくうれしく、勝ち誇ったような気持ちで眺めていた。

 午前中に人が来た。

 義母はその人のところに出かけているらしい。

 辻と野枝が追い出したかのような口吻だった。

 ひと月ほど、辻の母・美津は家を出て行方がわからなくなっていた。

 その人は、老人の旧いコンベンショナルな頭で判断したことを並べ立てて帰って行った。

 野枝は腹立たしさよりも先に可笑しくなってしまった。

 恒とふたりで夜、美津を迎えに行くことにして、午後から野枝と辻はふたりが交わした手紙を日付順にそろえた。





 野枝は荘太から手紙が来るのが恐くもあり、待ち遠しくもあった。

 手紙は来なかった。

 荘太がもう会う必要がないと判断したなら、好都合だと野枝は思った。

 夕方、野枝が義母を迎えに行こうとしていると、保持と彼女の妹が訪れて康楽園のダリアを見に行こうと誘われた。

 義母を迎えに行くのは翌日にして、野枝と辻たちが出かけようとしていると、昨夜の音楽会で一緒になったSさんが来た。

 みんなで家を出た。

 時間が遅かったので康楽園には入れなかった。

 野枝たちは「ちまき」に入った。

 その店はいつか野枝がらいてうや田村俊子、岩野清子と来たことのある店だった。

 それから野枝たちは染井に帰って、保持たちを送りながら巣鴨まで行き、保持のところでしばらく遊んだ。

 保持の家を出て巣鴨から山手線に乗り、駒込でSさんと別れ、野枝と辻は暗い道を歩いて帰宅した。

 荘太はこの日の夕方、福士幸次郎のところから下宿に帰り、野枝が来るのを待ち続けた。

 不安に苦しみながら、荘太はさらにいっそう自分が野枝に牽かれていくのを感じ出した。





★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)





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posted by kazuhikotsurushi2 at 15:02| 本文

第86回 アルトルイズム






文●ツルシカズヒコ


 一九一三(大正二)年六月二十八日の朝、辻はその日の夕方に開かれる南盟倶楽部の音楽会に来るようにと、切符を置いて出かけた。

 野枝は落ちつかない気持ちで部屋の掃除をしたり、そこらの書物を引っ張り出したりしていると、思いがけなく木村荘太からの手紙が来た。

「一度お会ひしたい」と書いて昨日、投函した手紙の返事にしては早いなと思いながら野枝は開封した。

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 ……ある尊敬する、友達に宛ててかういふ葉がきを書きました。

「恋が終つた。ロストに終つた。この数日間僕は随分よく生きた。毎日手紙を書きつづけた。それで今日その返事が来た。その返事で以て僕の運命が定まつた。がしかし僕は大きなものを得た。僕は女の真実を得た。僕はちつとも今苦しくはない。といふのは嘘であるかも知れない。苦しい、苦しい。 けれども僕には、その苦しさを蔽ふ力と明るさがある。……」

 今これを書いてゐる時、窓の外には真黒な八ツ手の葉の上を風が渡つて、その風が私を蘇らすやうにして頬に触れます。

 さうです。

 私は蘇へる思ひです。

 あなたと、あなたの方とそれから私と、この三人の関係が今私にはハッキリと解るのです。

 今の私の気持は前便の手紙を書いた私とはかなり違つてゐます。

 私のあなたに懐いたラヴはもう消えました。

 この数日間あはたゞしい激越な短命な生き方をしたラヴはもう終りました。

 ……私はアルトルイズムとイゴイズムとが完全に一致する事を信じてゐる一人です。

 ……さういふ思想が世界の基督以来の最大な思想であるのを信じようとする一人です。

 この信念が今私には自身のラヴを終らしめよと命ずるのです。

 ラヴからかう云ふ友情へ私の心はこの数時間のうちに至極自然な推移をしました。

 ……それは不自然なセルフ、サクリファイスのためでもなんでもありません。

 少しもフオオスド(forced=強制/筆者註)されたものではありません。

 あなたの方に対する手紙を同封します。

 それには凡ての経過をあなたがその方に御話し下すつた事を予想した上で書きます。

 ではこれで失礼します。              

 二十六日夜半


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p212~216/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p53~55)





 荘太は辻宛てに同封した手紙に、こう書いた。


 拝啓 未知の私からして、あなたにこの度の一切の事をお詫びを申し上げます。

 ……さうしてあなたが最初から私を信じて居て下すつた事を此上なく感謝致します。

 今私には私(ひそ)かにあなたの信認に背かなかつたと云ふだけの自信があります。

 野枝さんと私とはこの数日間自由な信実な接触を致しました。

 さうしてよくお互いの境界をすつかり領解し合ひました。

 ……私はシンシアリティを自己の最大の宝にしたく思つて居ります。

 いつかあなたと自然にお会ひする時が来るかも知れません。

 私はその時少しも蔭を伴はずしてお会ひが出来る事を期します。

 ほんとうにあなたには私は非常な感謝を致します。

 六月廿六日夜


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p216~217/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p55)





 野枝は荘太が本当に尊敬すべき真率な人格者であり、事件の幕切れが非常に心地よいものに思えた。

 野枝の心は明るく晴れかかってきたが、黒い小さなかたまりが浮かんできた。

 「私はあなたにどうしてももう一度お会ひしたいと思ひます」と書いて出した昨日の手紙である。

 もう荘太に会う必要はないから、それを伝えようと野枝はペンを執った。

 しかし、あの手紙は荘太の平静な心を翻してしまったかもしれない、大急ぎでその取り消しを書かねばならない、手紙はもう着いているだろうか、もう手遅れかもしれない……。

 焦った野枝の頭は混乱し、ペンは動かなくなった。

 野枝は返事を待って弁明し、辻にもそのときに説明することにした。

 義母の美津や義妹の恒が昼寝している間も、野枝は机の前に立ったり座ったりして落ちつかなかった。

 辻のあのたまらない暗い顔が浮かんできて涙を流した。





 荘太の「牽引」によればこの日、六月二十八日、荘太は牛込の千家元麿の家で昼ごろ目を覚ました。

 前日の二十七日、荘太は千家の家に行き、岸田劉生岸田辰彌兄弟などがいたので徹夜で話し込んだ。

 荘太は自分がラブアフェアの渦中にいることをみんなに話した。

 荘太は、千家の家でも野枝に手紙を書いた。


 自分は前便の手紙で尚いひ洩らした事があるのを感じてゐる。

 そして自分はある責任を覚えつつあなたにその事を話したく思つてゐる。

 それはあなたの幸福に更に資さうとするためだ。

 就いては至急御都合で今一度御会ひしたい。


(木村荘太「牽引」/『生活』1913年8月号)


 という旨を書いた。


 夜、手紙を投函せずに下宿に帰ると、野枝からの手紙が来ていた。

 女中に聞くと昼ごろ届いたという。

 荘太は中味はともかく、野枝から手紙が来たことがうれしかった。

 一気に目を通すと、荘太の心は跳ね返るように弾んだ。

 これは野枝からのまぎれもない恋文だと思った。





 荘太は一昨日に受け取った二通の手紙を読み返してみた。

 原稿紙にペンで書かれた「二十五日夜九時」の手紙には「私は心からあなたを愛します。本当に、本当に心から」とあり、墨文字で書かれた「六月二十四日」の手紙には「親しいお友達として御交りして頂き度いと思ひます」とある。

 荘太はここで自分が勘違いしていたことに気づいた。

 荘太は「二十五日夜九時」の手紙を最初に読み、それから「六月二十四日」の手紙を読んだ。

 日付けが書いてあるから間違えようもないのだが、興奮していた荘太は野枝の最後の答えが「六月二十四日」のものと思い込んでいたのである。

 そして三通の手紙の内容を日付けの順番に添って読み返した荘太は、「あなたと離れて行く事が非常に哀しく思はれます」という野枝をこのままにしておいていいのかと思った瞬間、自分の恋も強烈に盛り返すのをひしひしと感じた。

 荘太にはひとの女を取ったり、ひとの女を自分に引き寄せようという興味はなかったが、荘太自身が心を寄せその心を寄せる男の価値を女も感じて向こうから身を寄せてくるならば迎えようと思った。
 
 この結合を妨げるものは何もないはずだ、同棲している男にだってーー荘太はそう考えた。

 荘太はまだ投函していない手紙の余白にこう書き加えた。





 今御手紙を拝しました。

 御出で下さい。

 御待ちします。

 来なければいけません。

 あなたはほんとに生きられるのです。

 どうしても来なければいけません。

 必らず必らず。

 恐れてはいけません。

 僕はあなたを生かします、明二十九日夜分から三十日の夕方までは僕は必ず在宅します。

 是非来なければいけないのです。


(木村荘太「牽引」/『生活』1913年8月号)





 荘太は下宿の道筋の図を書き添え、家を出て投函した。

 そして築地行きの電車に乗った。

 電車の中で荘太は野枝からの手紙の消印を調べてみた。

 二十八日午前八時と十時の間に巣鴨を出て、麹町へは十時と十二時の間に着いている。

 荘太が野枝と辻宛てに書いた手紙を投函したのは二十七日の昼少し過ぎだった。

 自分の書いたすべての手紙を野枝は読んいるはずだと、荘太は思った。

 荘太が黒髪橋の先の福士幸次郎の家へ着いたのはもうだいぶ遅くなってからだった。

 荘太は福士にもまた一切のことを話した。





★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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