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2016年04月20日
第105回 羽二重餅
文●ツルシカズヒコ
『青鞜』一九一三(大正二)年十二月号で野枝は沼波瓊音(ぬなみ・けいおん)著『芭蕉の臨終』を紹介している。
先月あたりから私には落ちついて物をよむ暇はなかつた。
今月になつて、よう/\第一に手にしたのがこの「芭蕉の臨終」だつた。
そうして私は、それを近頃になくしんみりとうれしく読むことが出来た。
(「芭蕉の臨終」/『青鞜』1913年12月号・第3巻第12号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p45)
解題によれば、長男・一(まこと)出産のため青鞜社の仕事を休んでいただろう、野枝の復帰後の初仕事のようだ。
「先月」は十月、「今月」は十一月のことであろう。
この年の秋から冬にかけて、らいてうと奥村は足の向くまま歩き回った。
当時の東京はどこへ足を伸ばしても、閑静な場所がいたるところにあった。
道灌山、日暮里、田端、小台の渡、飛鳥山、時には小石川植物園のあたりなど、よく歩きまわったところですが、その道みち、長身長髪の奥村と、小柄な女学生姿のわたくしが手をとりあってたのしそうに歩いている格好は、二人は夢中で、気づきませんでしたが、さぞ、当時としては人目にたったことでしょう。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p481)
動坂を下りて、田端の高台の方へ向かう道の近くに、きゃしゃな門構えの「つくし庵」があった。
野枝に紹介されたお汁粉屋で、ふたりは足休めによくこの店の門をくぐった。
門のくぐり戸に鳴子がついていて、開けるとカラカラ鳴り、店内はいつも客が少なく静かで清潔だった。
日暮里芋坂の名代の羽二重餅も閑静な店だった。
お酒が飲めない奥村は、餅やお汁粉は何度もお代わりした。
しかし、ふたりの逢い引きはなかなかままならい。
本郷区駒込曙町のらいてうの自宅を奥村が訪ねれば、平塚家の空気が重苦しくなった。
奥村は原田潤も部屋を借りていた京橋区築地の南小田原町の下宿を出て、らいてうの自宅に近い小石川区原町の下宿に移ったが、らいてうがしばしば出入りするので、大家から「年ごろの娘もいるので、しつけに悪いから出てほしい」と奥村が追い立てられる羽目になった。
仕方なく北豊島郡巣鴨町の保持の自宅兼青鞜社事務所のらいてうの部屋で待ち合わせるとーー。
……小母さんは、いつもきまってふたりの側に食っついて磯巾着のように離れず、一方義眼の片目でぶえんりょに睨んでいる様子はさながら厳しい監視である。
(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p159)
実家を出て奥村と同棲する決意をしたらいてうは、一九一三(大正二)年八月十七日、「八項目の質問状」を記した手紙を奥村に書いた。
一、今後、ふたりの愛の生活の上にどれほどの苦難が起こってもあなたはわたしといっしょにそれに堪えうるか。世間や周囲のどんな非難や嘲笑、圧迫がふたりの愛に加えられるようなことがあっても、あなたはわたしから逃げださないか。
一、もしもわたしが最後まで結婚を望まず、むしろ結婚という(今日の制度としての)男女関係を拒むものとしたら、あなたはどうするか。
一、結婚はしないが同棲は望むとすればどう答えるか。
一、結婚も同棲も望まず、最後までふたりの愛と仕事の自由を尊重して別居を望むとしたらあなたはどうするか。
一、恋愛があり、それにともなう欲求もありながら、まだ子どもは欲しくないとしたらあなたはどう思うか(奥村が特別に子ども好きなのをわたくしはよく知っていた)。
一、今後の生活についてあなたはどんな成算があるのか。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p489~490)
質問はこんな感じだったが、奥村の回答はらいてうを満足させるに足るものだった。
らいてうの家出は実行あるのみになった。
一九一三(大正二)年十二月三十一日、大晦日の夜。
らいてうと奥村は、行きつけの「メイゾン鴻ノ巣」で晩餐をともにして、いよいよ始まる同棲生活への決意を新たにした。
窓ガラスの外の川水(かわも)に灯影のうつる夜景が、ひとしお胸に迫って、美しく思われました。
……甘くたのしい情緒のなかにも、心はやはりきびしく引きしまるのでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p490)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第104回 サアカスティック
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年の秋が深まるにつれ、野上弥生子と野枝の親交も深まりを増していった。
野枝はこう記している。
その頃、私と野上彌生子さんは疎(まばら)な生籬(いけがき)を一重隔てた隣合はせに住んでゐた。
彌生子さんはソニヤ、コヴアレフスキイの自伝を訳してゐる最中であつた。
私達二人は彌生子さんの日当りのいゝ書斎で、又は垣根をへだてゝ朝夕の散歩の道でよく種々なことについて話しあつた。
(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年4月17日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p144/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p201)
野枝は特に弥生子のソニアについての感想を楽しみに聞いた。
「ソニアとケイなんかいくつも違いはないのね。エンマ・ゴルドマンだってそうでしょう。ストックホルムにシャロット、レフラアとソニアが仲よく暮らしていたときに、ケイもやはりそこにいたんですね。ストリンドベルヒもそうです。ストリンドベルヒが何かの席上で数学をやる女なんか、女じゃないというようなことを言ったのについて、ソニアがレフラアに宛てて書いた手紙なんか面白いわ」
弥生子は熱心に自分で調べた年齢を数字に書いて、野枝に見せたりした。
ふたりは垣根越しに夢中になって、毎日のようにいろいろなことを話し合った。
「勉強しなきゃね。私は本当にあんまり駆け出し方が早いので、自分ながらいやで仕方がないんです。ケイなんか、五十過ぎで初めて書き出したんですものね。やはり向こうの人は偉いのね。日本じゃ五十だと、死ぬのを待っているような人が多いんですものね。私は本当にそうなりたくないわ。いつまでも勉強して進んで行きたいわ。段々に年をとってゆくにつれて、自分の子供たちにどんどん残されていくようなことには、なりたくないわね」
「ええ、勉強を忘れさえしなければねえ。とにかく私たちは一番勉強しやすい位置にいるんですもの、朝も晩も自分の体近くに書物がとり散らかっているのに読まないのは嘘よ。とにかく、子供の話相手にもなってやれないというのは悲しいことだわね、そうは思わない?」
「そうですとも。私たちが私たちの親とか周囲の人たちに向かって持つような、嫌な心持ちを子供に再び繰り返させようとは思いませんわ」
ときおり、らいてうのことも話題になった。
「平塚さんの傍には何故、余り人がゐつかないんでせうね、それに大変悪く云はれなさるのね」
「えゝ私もそれは不思議だと思つてゐますのよ、あんないゝ方なんですのにね」
「他人に向つて傲慢だなんて処はないんですかね」
「傲慢だなんてよく云われてゐなさるんですけれど、さうでもないやうですよ、かなり私なんかには明けつ放しですよ、何でもよくお話なさいますし、親切ですしね。」
「さう、つまりあの方は大変聡明なのね、でも私はあの方にもうすこしシンセリテイな処があればいゝと思ひますよ、大変デリケートだし、聡明ではあるんだけれど、あの方自身に対してもう少し謙遜であつて欲しいやうな気がしますよ。」
(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年4月17日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p146~147/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p202)
野枝は弥生子に励まされては、努めて書物を読んだり考えたりした。
ふたりは会うたびに、めったに無駄話はしなかった。
読んだ本の話、感想というようなことばかりを話し合った。
「あなたは告白ということをどんなふうに思って? 私は告白する人はそれをやっていまえばなんでもない清々しい気持ちになるけれど、それを聞かされた方の人はたまらないと思うわ。たとえば、ウォーレン夫人とヴィヴィがそうでしょう。二十幾年かを包み隠してきた夫人が、その生涯を告白し終わってから“ああ、いい気持ちだ”っていうでしょう。するとヴィヴィが“こんどは眠られないのは私らしい”って言うわね。あの気持ちがそうだと思うわ」
「それはそうね。隠しておくということは、無理をしていることですものね。不安や恐怖や不快を忍んで無理をしていたのに、それを打ち捨ててしまうのだから、これほど重荷の下りることはないでしょうね」
「『春のめざめ』を読んで?」
「ええ、すっかり。ありがとう、大変面白かってよ」
フランク・ヴェーデキントの戯曲『春のめざめ』は、弥生子の夫、野上豊一郎がこのころ翻訳していたようなので、弥生子も読み、弥生子は野枝に貸したのであろう。
「あなたは、どう思って?」
「大人の嘘がどんなに残忍なものかということを考えて恐ろしくなりましたよ」
「だけどもしウエンドラのお母さんの立場にあなたがなったとして、子供から質問されたときに、立派にそれを説明することができる?」
「そのところが非常に難しいところだと思うわ。やはり子供自身が気づくまではそのままにしておいた方がいいような気もしますけれど、とにかく考えなければならない問題です。何かでこんなことを書いてあったのを見たことがあるんです。小さい娘を持った母親がね、下婢だかが子供を生んだので、どうして生まれたかという質問をされたんです。母親は何かの花を顕微鏡で見せて雌雄の説明をし、植物の種子播布も動物の種族保存も同一だということを話したというようなことが書いてありました。そういうふうに科学的な立場から説明してやるのは大変いいことだと思うんですが、やはり立派な基礎知識がなくてはできないことですね」
「そうね、それは大変いいことね。たくさんの人たちがそういう態度をもってすることができればいいわね」
ふたりは熱心にそういう話をした。
「私はサアカスティックだなんて言われるんだけれど、このごろはよくしゃべるようになったわ。私は一時は本当に暗かったのよ。人間というものが本当に嫌いになったことがあるの。それが少しずつよくなってきたわ」
弥生子は野枝に親しい笑顔を向けて、いつまでもいつまでも倦まずに話した。
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第103回 少数と多数
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年、秋。
野上弥生子にとって野枝は最も親しい友達になっていた。
九月初旬、二番目の子供を出産するために駒込の病院に入院した弥生子は、二週間目に新たな小さい男の子を抱いて帰宅し、下婢から裏の家にも出産があったことを知らされた。
弥生子が子供にお湯などを使わせていると、裏の方からも高い威勢のいい泣き声が聞こえた来た。
「赤さんが泣いているわね、やっぱし男の子かしら」
「さあ、どうでございましょう。あの泣き声で見るとお嬢さんらしくもございませんですねぇ」
「大変だろうねぇ、初めてだのに。あのお若さではね」
伸子は子供の泣き声を聞く度に、自分と同じ任務のために、夜も眠らず、自分のあらゆる自由と欲望を犠牲にして世話をしてゐる若い母親が、其処にも一人ゐのだと云ふ事を痛切に感じました。
その結婚が普通の順序を取つてゐない事、それから来るすべての不便を知る故に、且つは自分の初産当時はどんなに無経験であつたか、それがためにどんなに狼狽(うろた)へ苦しんだかを知る故に、伸子が垣根一重のこちらから彼女の事を思ふ時には、それはすべて、自然の同情となりました。
早く赤ん坊を見度ひやうな気もしてゐました。
(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上彌生子全集 第三巻』_p298)
野枝はある日、男の赤ん坊を抱いて弥生子を訪ねてきた。
「まあ、大きな目!」
弥生子はひと目見て、そう思った。
「この赤さんはまたなんて大きいんでしょう」
ふたりは子供を取っ替えっこして抱いてみたり、名前を聞き合ったり、両方の顔の特徴を批評したりして笑った。
弥生子の子供は大きさと重さでは優っていたが、顔立ちは野枝の子供の方が整って可愛かった。
「これで肝(かん)が強くて困るんですよ。何か気に入らないで泣き始めようものなら、どうしたって止めやしないのです」
「お父様似なんでしょうね」
弥生子は青い、神経質そうな顔をした野枝の同棲者の顔を思い浮かべた。
「おっ母さんなんか、そう言いますよ。そっくりだって」
野枝の家には姑と小姑が同居していた。
野枝は同棲者のことを語るとき、それまでの「先生」から「夫」を用いるようになった。
ある日、野枝は髪を丸髷に結ってやってきた。
彼女によく似合っていた。
束髪だと背中の赤ん坊との釣り合いが、子守り娘以上に見えないくらい子供子供した野枝だったが、髷に結った彼女には母親らしい威厳と美があった。
「おっ母さんですよ」
玄人も及ばないようなその髷が、野枝の姑の手によるものであることを知った弥生子は驚いた。
弥生子の家族と野枝の家族は、お互い逢えば言葉を交わす仲になっていった。
弥生子は野枝の姑一家が、江戸文化末期の爛熟した雰囲気の中から生まれた、いわゆる都会人なるものの好典型であることを知るようになった。
お母さんが弾くのだと云ふ三味線は、植木屋や小役人の家の多い郊外のそこいらの空気の中で響くべき種類のものではなさそうでありました。
ぢつと聞いてゐますとそんな貧しげな小さい家で奏されてゐる音楽のやうではありませんでした。
それ程それは熟練しきつた立派な芸術でありました。
その三味線が鳴り始めると、伸子はペンを置いたり、書物をよみさしたまゝにしたりして遠くから耳をすましました。
老女の声は朗々と若やかに響きました。
その瞬間の音楽は単に勧進帳や老松ではない。
再び返つて来ぬ過去の美と若さと、栄華と夢を恋ひ、思ひ、悲しむ彼女自身の「幻想曲」であるかの如く感じられました。
Oさんーーにも亦母親に劣らない音楽がありました。
それはよく聞こえてゐたあの尺八であります。
たま/\その二つのものが合奏される時などは、椎の木の下のその小さい家は、零落や窮乏や、すべての物質的苦悩を忘却し去つて、近所のどの家にもない、派手/\しい自由な享楽に充されて見えました。
(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上彌生子全集 第三巻』_p300)
「O」は辻のことである。
「風変わりな面白い家ですわねぇ」
弥生子の家では、よくこんな好意的な批評をしていた。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p503)によれば、一九一三(大正二)年九月、青鞜社は創立二周年を期して社則の改正に踏み切った。
改正した「青鞜社概則」は『青鞜』十月号(第三巻十号)に掲載された。
まず、第一条の「本社は女流文学の発達を計り」を「本社は女子の覚醒を促し」に変えた。
男子「客員」や「賛助員」(女流文学者)もなくし、組織を改編整理することにより、女性解放路線での同志的結束を打ち出した。
『青鞜』の発行と発売を委託していた東雲堂との関係も、『青鞜』十月号(第三巻十号)を最後に切れた。
東雲堂への委託により最盛期三千部の部数を誇っていた『青鞜』は、保持の提案で編集費の値上げを東雲堂に要求したが、一蹴されてしまった。
荒木郁子のツテで神田区南神保町の尚文堂に一任することになったが、売り上げ部数は減少に転じていった。
『青鞜』十一月号(第三巻十一号)に、野枝はエマ・ゴールドマン「少数と多数」を訳載した。
私は現代の傾向を要約して「量(コンティティ)」であると云ひたい。
群衆と群集精神とは随所にはびこつて「質(クオリティ)」を破壊しつつある。
今や私どもの全生活――生産、政治、教育――は全く数と量との上に置かれてゐる。
且て自己の作品の完全と質とにプライドを持つてゐた労働者は自己に対しては無価値に一般人類にとつては有害な多額の物品を徒(いたずら)に産出する無能の自働機械に変つてしまつた。
かくして「量」は人生の慰藉と平和とを助くるに反し、唯だ人間の重荷を増加した。
(「少数と多数」/『青鞜』1913年11月号・第3巻第11号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p703/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p29)
原文は以下。
If I were to give a summary of the tendency of our times, I would say, Quantity.
The multitude, the mass spirit, dominates everywhere, destroying quality.
Our entire life -production, politics, and education - rests on quantity, on numbers.
The worker who once took pride in the thoroughness and quality of his work, has been replaced by brainless, incompetent automatons, who turn out enormous quantities of things, valueless to themselves, and generally injurious to the rest of mankind.
Thus quantity, instead of adding to life's comforts and peace, has merely increased man's burden.
(「Minorities versus Majorities」/Emma Goldman『Anarchism and Other Essays』)
★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index