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2016年04月09日
第73回 瓦斯ラムプ
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月、巣鴨の保持の住居兼青鞜社事務所の庭には様々な花が咲いていた。
らいてうも、清子も、野枝もホワイトキャップに殺されずに生きていた。
関西から帰京した奥村が、曙町のらいてうの自宅を訪れたのは六月七日だった。
奥村は門の前まで来たが、入りかねて、置き手紙をポストに入れて帰った。
関西旅行から一昨日戻りました。
そして今俄に思い立ってお訪ねしたくなり、お宅の門の前まで来ることは来ましたが、ご在宅やらお留守やら分らないので残念ながらこのまま帰ります。
ご病気だったそうですが、もうすっかり快いのですか。
ではまたーー
六月七日 曙町郵便局にて 浩
(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p97)
この手紙を読んだらいてうは、すぐに大塚窪町の新妻莞気付で返信をした。
二、三日して、奥村が大塚の新妻の下宿を訪ねると、新妻は「平塚から君に郵便が来ている」と言って、奥村に手紙と小包を渡した。
奥村は帰りの電車の中でまず手紙に目を通した。
私の家の門はあなたのためにはいつでも開いている筈でございます。
西嶋という方は、あなたのお歌を《詩歌》で拝見したときお見受けした方のようにも記憶しますけれど、初めての方に逢うということは、また手紙を出すということには私は妙な不安と恐怖をもっております。
それで同氏へはあなたからよろしくおっしゃって下さいまし。
ではお待ちしておりますから。
六月八日 昭
(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p98)
らいてうのこの手紙の「西嶋」、つまり新妻莞に関する部分は、ちょっと説明が必要である。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p478)によれば、新妻がらいてうの家を訪れ面会を申し入れたことがあったが、らいてうはその意図がわからず面会を断った。
らいてうが奥村に宛てた手紙を、新妻が密かに開封していたことを、この時点では奥村もらいてうもまだ知らない。
下宿に戻った奥村は、小包を開け『円窓より』にはさんであった、小さい紙切れに書いてあった文面を読んだ。
「燕の来るシイズンがきたのでしょうか」という書き出しの文面である。
『円窓より』にはさんであったこの手紙のほうが、「六月八日」の日付けの手紙よりも、前に書かれたものである。
この日も奥村は曙町のらいてうの自宅を訪れたが、彼女が留守で会えず、「しかし、どうして西嶋の所などをご存じなのか、それが不思議でなりません。表記の所に居ります」と自分の住所を明記した手紙を出した。
さらに奥村は、新妻に対する自分の疑惑や不信感を綴った手紙をらいてうに書いた。
奥村が曙町のらいてう宅を訪れ、九ヶ月ぶりにふたりが再会したのは、六月十三日の夜だった。
やがて取次の女中が彼を案内したのは、内玄関につづく別棟の数寄屋ふうのふた間つづきの昭子の部屋である。
隣りの部屋は客の応接に使われ、水屋に当たるこの書斎は、東の円窓近く机が北壁に面して置いてあり、廊下からはいった横のーーつまり机に向って左寄りの壁には浩の自画像が掛けてある。
机のそばに座布団を進められて、浩が腰を下すとまもなく、女中と入代りに袴姿の昭子がはいって来た。
そして彼と差向いに坐ったとき、しばらく、とふたりの口から同時にかすかな言葉が漏れて、互に顔を見交したままいっときどちらからも口が利けなかった。
泪にうるんだ四つの瞳が瓦斯ラムプの光に耀(かがや)いた。
ーーおからだはもう?
ーーええ、すっかりいいの……。
(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p104)
らいてうは、こう記している。
梅雨の夜空の重くたれこめた、静かな晩でした。
その夜、円窓の灯影のなかに、ややはにかみを浮かべながら、ひたむきにわたくしを見つめる彼の目(まな)ざしは、どれほど多くのことを語りかけたことでしょうか。
純な、ひたむきな、そしてなにか哀愁を湛えた彼の瞳を、わたくしもまた力をこめて自分の瞳のなかに包みました。
もはや、燕の手紙も、恨みも、疑惑も一瞬にして消え去り、向かい合う二人の心の絆は、どうしようもない力で、つよく、かたく結ばれてしまったのです。
もう言葉は、なんの必要もないのでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_474)
野枝がらいてうの書斎を訪れると、奥村は大阪から帰って来て円窓の部屋へたびたび来ているらしく、奥村が描いた見慣れない海の絵が三枚置いてあった。
絵に対する批評眼を持たない野枝だったが、紅吉の侮蔑の的になった油絵の自画像とは、比べものにならないくらい上出来だと思った。
「気が弱いっていうのかおとなしいっていうのか、そりゃ本当にかわいそうなくらいよ。ここに黙ってじっと坐っているんですよ、いつまでもいつまでも。そうしちゃあ、奥から、あんまり遅くなりますからもうお帰りになってはいかがでございますかなんて、女中が言ってくるんです。でも別に気持ちを悪くするでもなく、黙って帰るんですよ。原田さんとはだいぶ長く千葉の方にいたらしいわ」
野枝は聞き役だったが、話題が変わったので紅吉のことを話した。
「此間紅吉の処に往きましたらね、大変綺麗な方がゐらつしやいましたよ、市川さんとかつて、すこし、ませた、嫌な表情をする人ですけれどね、」
「あゝ、さう、それは今、紅吉の愛の対象になつてゐる人でせう、何でも美術学校か何かの方」
「えゝ、さうですつて、此の間から大分方々連れて歩いてゐるんですつて、哥津ちやんの処へはおしやく見たいな姿で連れ込んだんですつて、可なり夢中らしいわ」
「さう、私はまだ見ないけれど、このあいだ手紙をよこしてたいへんきれいな人だつて自慢して来ましたよ、是非見たいものですね」
「紅吉があなたの処へ? 手紙なんかよこすんですか」
「えゝよこしてよ」
「随分ね、私はまあ、何日かうちから、どの位、あなたの悪口を聞いたか知れませんよ、まつたくあの人は可愛い人ね」
「あの人の機嫌を気にしてゐたら大変だからうつちやつておく方がいゝんですよ、まあ夢中になつてゐられる間だけ夢中にさしとくんですね」
「でも奥村さんの帰つてらしつたことを聞いたら、何て云ふでせうね」
「自分のことで一杯だからさう気になりはしないでせう」
二人は何となしに一緒に笑つた。
(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年4月10日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p133~134/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p195~196)
★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第72回 円窓より
文●ツルシカズヒコ
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p458~459)によれば、一九一三(大正二)年五月一日、らいてうの処女評論集『圓窓より』(東雲堂)が発行されたが、発売と同時に発禁になった。
「世の婦人達に」が収録されていたからである。
発禁理由は家族制度破戒と風俗壊乱だった。
野枝はこうコメントしている。
らいてうの「圓窓より」が禁止になりました。
私は何と云つていゝか分りません。
何故にと云ふ事も分りません。
当分は何も云へません。
私の感想もあぶなつかしくてとても書く気になりません。
私は自分の感想として書くものに彼是云はれるのが一番いやです、主張ならばとにかくですが、自分の感想の内容については、私自身にのみ絶対の権利があるのです。
私は誰にも何にも云つてもらひ度くありません。
(「編輯室より」/『青鞜』1913年6月号・3巻6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p30)
『圓窓より』は「世の婦人達に」を削除し装幀も変え、六月に『扃(とざし)のある窓』と改題して出版された。
下田歌子、鳩山春子、嘉悦孝子、津田梅子ら、女子教育家も「軽率にも、無責任にも、ジャーナリズムの描くところの青鞜社なるものを目の敵にし」(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』p462~463)て見当外れの批判をした。
らいてうの母校である日本女子大の校長、成瀬仁蔵の「欧米婦人界の新傾向」が『中央公論』四月号に載ったが、らいてうから見れば「俗論に媚び」た批判であり、「世の婦人達に」はこの成瀬仁蔵の「欧米婦人界の新傾向」に対する挑戦、反論だった。
府下巣鴨町に事務所が移ってから、らいてうはそれまで円窓の部屋に迎えていた来客を事務所の方で会うことにした。
毎日のようにらいてうの書斎に行っていた、野枝の足も次第に遠のいていった。
『青鞜』一九一三年六月号の「編輯室より」は、野枝が執筆している。
ホワイトキャップや『圓窓より』のほかに、野枝はこんなことを書いている。
□五月の第一日曜日に茶話会を開きましたが、事務所にお集下すつたのは、内部の四人をのぞく他、多賀さんが一寸(ちょつと)ゐらして下すつたのと岩野さんきりでした。これから一々おしらせ致しませんが、毎週金曜日の他、毎月第一日曜日になるべく御都合の出来る方はゐらして下さいまし。
□こんな理屈を今更らしく云つた処で仕方がありませんが私はそれが一番いやなのです。全くこの頃は何にも云へません。それから先月号も大変つまらないと云はれましたが私共もつまらないと云ふ事はあくまで自覚して居ります。此処しばらくはやむを得ませんとつい弱さうな事も云はなければなりません。
□九月号には、皆うんと書くつもりでゐます。思い切つたものをおめにかける事が出来るかと思ひます。
□今しばらくの間は、お互ひに沈黙して勉強するのが一番だと思ひます。皆様に出来る丈け御勉強をおすゝめ致します。各自の内部の充実と云ふ事が すべての場合に於て最も望ましい事なのです。
□入社、伊藤智恵
□青鞜創刊号は方々から送つて下さいましたので もう沢山です。
(「編輯室より」/『青鞜』1913年6月号・3巻6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p28~31)
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の解題(p455)によれば、「多賀さん」とは『青鞜』一九一一年十二月号に入社が報じられている多賀巳都子のこと。
五月初旬のある日だった。
その日、野枝はらいてうの書斎を訪ね、おおかたの話し合いを終えたころ、らいてうが思い出したように微笑みながら呟いた。
「ねえ、燕が大阪から手紙をよこしてよ」
「さう?」
私は眼をまるくして開いた。
「何時かね、もう、紅吉に脅かされて行つて仕舞つた時に、残(のこり)惜しい気がしたから燕だから時が来ればまた帰つて来るでせうと云ふやようなこと私が云つて置いたのよ、それを忘れずにゐてよこしましたよ」
「さう、今大阪にゐらつしやるの」
「えゝ、もう近いうちに帰るでせう」
(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年4月10日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p131~132/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p194)
三月の末に帝国劇場で公演し大当たりした近代劇協会の『ファウスト』は、五月一日から大阪の北浜帝国座で十日間の公演をしていたので、出演者のひとりだった奥村も上阪していた。
北浜の旅館・水明館に宿泊していた奥村は、こう回想している。
……或る日、孔雀は大阪朝日新聞を持って彼の部屋にはいって来た。
浩が指差されたところを見ると、学芸消息欄に広岡の病気を伝えている。
浩は俄に気になった。
孔雀はすぐに見舞を出せという。
それで彼は……居どころ知らさず、名前も書かず、女優の誰かに貰った箕面の風景の絵はがきで昭子に見舞を書いた。
(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p93)
『青鞜』五月号「編輯室より」には「らいてうは十日ばかり前からひどい熱に苦しめられてずつと床について居ます」とある。
『定本 伊藤野枝全集 第一巻』収録の「雑音」(p194)によれば、らいてうと野枝は奥村について、こんな会話を交わしている。
「だけど、奥村さんってよほど気の弱い方なんですね。あんな紅吉に脅かされて行っておしまいなさるなんて」
「ええ、だけど、紅吉もあのときはずいぶん興奮していましたからね」
「そうですかね。だけど、この前、紅吉に会ったときに、奥村さんとは上山さんのところですっかり仲直りをしたなんて言っていましたよ」
「あの人の言うことですもの、しかし嘘じゃないかもしれないわ」
野枝はまだ奥村のことを知らなかったので、他に話すこともなく、その話はそれでおしまいになった。
奥村から絵葉書を受け取ったらいてうは、奥村に手紙を出していた。
……近代劇協会と「詩歌」発行所の両方へ奥村の住所を問い合わせると、大塚窪町の新妻莞さんのアドレスを報らせてきました。
むろんそこが奥村の下宿先と信じたわたくしは、処女出版の「円窓より」に手紙を添えて、その宛先へ送りました。
奥村はわたしくから離れたとき、「燕ならば季節がくればまた飛んでくるでしょう」と書き送ってきましたが、その季節の春が来て、燕は元の巣に帰ってきました。
ところがそれは、わたくしの手紙を見たからではありませんでした。
どういうお考えか、新妻さん気付で送った奥村宛の手紙をこの人は押えてしまい、奥村の手には渡さなかったのでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p473)
そのころ奥村のねぐらは、築地のむさ苦しい貧乏長屋の二階で、原田潤と同居していた。
関西を旅していた奥村がそのねぐらに戻ったのは、六月の初めだった。
らいてうが『円窓より』に添えた手紙の文面は、こうだった。
燕の来るシイズンがきたのでしょうか、ほんとうに!
私は何だか夢のような気がして只もうあれから興奮しつづけています。
どうぞあの頃の私をちょっとでも思い出して見て下さい。
あのことがどれほど大きく私を悲しませ失望させたかを!
(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p99)
辻と野枝が芝区芝片門前町から、北豊島郡巣鴨町上駒込三二九番地の借家に移ったのも五月だった。
隣家は『青鞜』の寄稿者でもある野上彌生子の家だった。
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index