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2016年04月22日

第109回 猫板






文●ツルシカズヒコ



 野枝が訳した『婦人解放の悲劇』に鋭敏に反応したのが大杉だった。

 大杉はまず女子参政権運動者とエマ・ゴールドマンとの違いをこう指摘している。


 女子参政権運動者等は、在来の男子の所謂政治的仕事を人間必須の仕事と認めて、女子も亦男子と同じく此仕事に与る事を要求する。

 然るにゴルドマンは、此在来の男子の所謂政治的仕事を人間の仕事として否認し、従つて男子も女子も共に此の仕事の破壊に与らなければならぬ事を要求する。


(「婦人解放の悲劇」/『近代思想』1914年5月号_p16)

 
 そして、大杉はエレン・ケイとエマ・ゴールドマンの違いを述べた。


 ……エレン・ケイに至つては、たとえば彼の政治などを人間の仕事でないとして、直ちに其等のものゝの破壊を企てると云ふやうな思想はない。

 又エレン・ケイは主として人生を恋愛の方面から観た。

 ゴルドマンは主として経済と政治との上から観た。

 これ等の諸点は、わかり切つたやうな事ではあるが、それを余程明白にして置かないと、新婦人論の真の概念が得られない。


(「婦人解放の悲劇」/『近代思想』1914年5月号_p16)

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 そして、大杉はエレン・ケイに私淑するらいてうと、エマ・ゴールドマンに私淑する野枝を、こう批評した。


 僕はまだ、らいてう氏のエンマ・ゴルドマンに対する思想の如何を、全く知る事が出来ない。

 けれども氏の平素の議論から想像すると、或は野枝氏程の同感を持ち得まいかと思はれる。

 そしてゴルドマンによつて『まだ自分達はやつとこの頃意識が動き出したばかりだ』と自覚した野枝氏は、此点に於て、或はらいてう氏を多少追越してゐるのではないかと思ふ。

 僕は、僕等と同主義者たるエンマ・ゴルドマンに、野枝氏が私淑したからと云ふので、直ちに氏をほめ上げるのではない。

 かう云つては甚だ失礼かも知れんが、あの若さでしかも女と云ふ永い間無知に育てられたものゝ間に生れて、あれ程の明晰な文章と思想とを持ち得た事は、実に敬服に堪えない。

 これは僕よりも年長の他の男子が等しくらいてう氏に向つても云ひ得た事であらうが、しかしらいてう氏の思想は、ほんやりした或所で既に固定した観がある。

 僕はらいてう氏の将来よりも、寧ろ野枝氏の将来の上に余程属目すべきものがあるやうに思ふ。


(「婦人解放の悲劇」/『近代思想』1914年5月号_p17)


 堺利彦も『へちまの花』(第4号・1914年5月1日)の書評欄「提灯行列」で反応した。


 青鞜の人達がエンマ、ゴールドマンに触れて来たのは少し注意して置くべき事である。

 そしてチヨツト拾い読した丈の所でも、訳文の中々しつかりして、女らしい弱味がなく、明晰に兼ぬるに勁抜を以てすといふような趣きのあるに感服した。


(「婦人解放の悲劇」解題/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p470)





 野枝は『青鞜』四月号に「惑い」を書いた。

「惑い」によれば、野枝は上野高女五年の三学期ころから、辻に対する愛を意識下で育んでいたと自己分析している。

 注目すべきは、辻にはおきんちゃんという相思相愛らしき「恋人」がいたにもかかわらず、野枝は力ずくでライバルのおきんちゃんを退け、辻の愛を奪い獲ったことである。

 堀保子、神近市子から大杉を奪った恋の勝利者としての野枝はよく知られているが、実は辻との同棲でもおきんちゃんから辻を奪った恋の勝利者だったのだ。





 赤いメリンスの半幅帯をいつもきりっと締めて、小柄で体が締まった田舎娘といった感じの野枝は、新参ながら、編集室ではなかなか役に立つ存在になっていた。

 寄贈本の書評なども、辻が手伝っていたのかもしれないが、手際よくまとめていた。

 いつもニコニコしている野枝だったが、青鞜社への攻撃に一番向きになって怒るのも彼女だった。


 ……わたくしは後にも先にも、野枝さんほど血の気の多い、口惜しがりやを見たことがありません。

 決してだまっていられず、その新聞なり、雑誌なりをたたきつけてすぐペンをとり、反駁分を書くのでした。
 
 時には「私、これから帰ってすぐに書いてやるわ」などといい捨てて、読みさしの雑誌を持ったまま、編集室を出てゆくようなことも幾度かありました。

 そんな野枝さんに対して「いそいで書いては駄目よ」と注意するのですが、感情が先走って我慢のできない性質ですから、ゆっくり考えて、理論的にものを書くということができない人でした。

 筆も早く、即座になんでも書ける人ですが、理論的に突込まれると、やはり弱いのでした。

 けれども、行動と感情が一つになって、たいへんな勢いで噴き上るようなところは、わたくしなどには、むしろ羨ましいほどに思われたものです。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p494~495)





 前年九月に長男・一(まこと)を出産した後、野枝は一を連れて編集室に出るようになった。


 目のくりっとした、可愛い赤ん坊は、女ばかりの編集室の人気者でしたが、こちらが仕事に熱中しているさなかでも、時をかまわず泣かれるのには閉口したものです。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p496)


 らいてうによれば、野枝は人の迷惑に対して驚くほど鈍感なところがあった。


 ……赤ん坊が動き回るようになって、畳の上に粗相をするようなことがあっても、ちょっと形ばかりおむつで拭いておくという程度で、後始末ということをしません。

 縁側から庭先へ、赤ん坊に排便させたあとなども、そのまま帰ってしまうので、いつも保持さんが文句をいいながら後始末をするのでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p496)


 野枝の自宅も汚かった。


 ……わたくしもよく出入りしていた野枝さんの住居では、紙屑でもなんでも庭へ掃き出して、庭がゴミの山になっているのに、平気で暮らしておりました。

 ……その点では辻さんも同様で……気が揃っていたようでした。

 物を書くにしても、赤ん坊が騒いでいるそばで、自分の机というものもなしに、長火鉢の猫板の上などでも、さっと書き上げる神経の太さと、精力はおどろくばかりでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p496~497)


※伊藤野枝訳『婦人解放の悲劇』/国立国会図書館デジタル資料




★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:17| 本文

第108回 『婦人解放の悲劇』






文●ツルシカズヒコ



『青鞜』一九一四年三月号に野枝は「従妹に」を書いた。


 ……実におはづかしいものだ。

 私はあのまゝでは発表したくなかつた。

 併(しか)し日数がせつぱつまつてから出そうと約束したので一端書きかけて止めておいたのをまた書きつぎかけたのだけれどもどうしても気持がはぐれてゐて書けないので、胡麻化してしまつた。


(「編輯室より」/『青鞜』1914年3月号・第4巻第3号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p66)


『青鞜』同号「編輯室より」には、前年九月に生まれた一(まこと)の子育てと『青鞜』編集者としての仕事の両立の難しさが垣間見られる、こんな発言もある。


 時間が欲しい。

 もっともっと確(しつか)りした智識が欲しい。

 中島氏訳の「サアニン」をよんだ。

 感想を書きたいけれども充分に断片的に浮んで一つ/\の考へを統一するに要する丈けの時間を持たない。

 一々しつかりした断定を下すに躊躇しなくてもいゝ程の自信のある根底の智識を持たないのがはづかしいと思ふ。


(「編輯室より」/『青鞜』1914年3月号・第4巻第3号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p66)

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 紅吉と神近市子が東雲堂書店から『蕃紅花』(さふらん)を創刊したのは三月だった。

『蕃紅花』は尾竹竹坡の資金援助を受け、いかにも紅吉好みの芸術的な香りが高く、富本憲吉の表紙絵で挿絵も多い贅沢な雑誌だった。

 編集のやり方などどこか『青鞜』に似通うものがあり、また執筆者にも紅吉と親しかった小林哥津らが加わっていた。


 このころ、紅吉は青鞜社にもわたくしの家にもずっときにくい事情になっていましたから、わたくしにはこの雑誌の発行についてはむろん一言の相談もうけていません。

 また社へもわたくしへも雑誌を寄贈してこなかったようにおもいます。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』)


『蕃紅花』を手伝うようになった哥津は、やがて紅吉の仲介で尾竹竹坡の弟子の小林祥作と結婚することになる。

『蕃紅花』は長くは続かずこの年の十月号で終刊になり、翌月の十一月、紅吉は陶芸家の富本憲吉と結婚した。

 花嫁姿の紅吉の写真を見たらいてうは、唖然とした。


 習俗に殉じたようなその振袖、高島田の写真に、私はあきれるだけでなく、紅吉にかけた期待が大きかっただけ、失望をさらに新たにしました。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』)





 この春ごろ、荒木郁子の紹介で『青鞜』の発行販売を岩波書店が引き受ける話がまとまりかけたが、直前で破談になった。

 伊藤野枝訳『婦人解放の悲劇』が東雲堂書店から出版されたのは三月二十五日だった。

 野枝の処女出版である。

 菊半截判、定価六十銭。

婦人解放の悲劇」「結婚と恋愛」「少数と多数」「恋愛と道徳」、ピポリット・ハヴエル「エンマ・ゴルドマン小伝」、以上、五編を野枝が訳した。

「結婚と恋愛」と「エンマ・ゴルドマン小伝」はこの単行本にために訳出したもので、他の三編は『青鞜』に掲載したものの再録である。

 ハアベロツク・エリス「エレン・ケイ小伝」も収録されているが、これはらいてうによる翻訳である。

 野枝は「自序」で辻の力を仰いだことを明言している。


 私のこの仕事はまたTによって完成されたものであることを忘れません。

 もし私の傍にTがゐなかつたら、とても私のまづしい語学の力では完成されなかつたでせう。

 この事は特にハッキリとお断りいたして置きます。


「婦人解放の悲劇」自序」/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p12 ※「『婦人解放の悲劇』に就て」が『青鞜』四巻三号に掲載されたが、自序はそれに加筆したもの)


『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』によれば「この訳は、いずれも野枝さんの名前になっていますが、婦人問題にも興味を持っていた辻さんが、野枝さんを教育しようという一心で、ゴールドマンの著作や伝記を訳したのでした」(p497)。

 そして、らいてうが『婦人解放の悲劇』に自分が訳した「エレン・ケイ小伝」の収録をしたのは、「貧乏のどん底で赤ちゃんの生まれた辻さん一家の生活をほんの少しでも潤すことが出来ればとの願いもあってのこと」(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p518)だった。






「婦人解放の悲劇」自序で、野枝はエレン・ケイとエマ・ゴールドマンについてこう書いている。


 エレン・ケイに就いては自分は彼女の思想の中に、自分達と同じ系統をもつた意見を発見し彼女の議論に共鳴する或る者を見出すことが出来る。

 彼女の思想に興味を持つことは出来るけれども自分にはそれ以上に彼女に親しみを持つことは出来ない。

 ゴルドマンに於けるが如き親しみを感じないのは何故だらう。

 唯自分は……彼女の主張が自分達のそれに共通であるといふ点に興味を持つて、それを紹介したに過ぎない。

 ゴルドマンに就いて自分は沢山の言ひたいことを持つてゐる。

 まことに彼女の受けたなみ/\ならぬ圧迫と苦闘を思ひその透徹せる主張と不屈なる自信とまた絶倫の勇気と精力に思ひ到るとき云ひしれぬ悲壮な感に打たれる。

 そして自分たちのそれに思ひくらべるとき其処に大いなる懸隔を見出す。

 そしてまだ/\自分達の苦悶はなまぬるくそして圧迫は軽い。

 この時にあたつて自分はゴルドマンの如き婦人を先覚者として見出し得たことを限なく嬉しくなつかしく思ふ。


(「婦人解放の悲劇」自序」/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p11~12)



※伊藤野枝訳『婦人解放の悲劇』/国立国会図書館デジタル資料



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:07| 本文

2016年04月21日

第107回 武者小路実篤






文●ツルシカズヒコ



 一九一四(大正三)年あたりから、『青鞜』には反論や論争スタイルの文章が掲載されるようになった。

 各人の勉強の成果が徐々に実り、反論、論駁の論陣を張れるようになったのだ。

 その急先鋒が野枝だった。

 武者小路実篤が『白樺』誌上で、野枝が『青鞜』に掲載した「動揺」について、こう批判した。


 青鞜のN氏は僕の「世間知らず」を軽蔑してゐるそうである。

 さうしてその女主人公C子を軽蔑してゐるさうである。

 それはいゝ。

 しかしそれなのになぜ進んでもつと軽蔑される資格を十二分にもつてゐる、もつと無自覚で落ちつきのわるい、入り込む処に入り込んでゐない、自己とT氏とを軽蔑しないのだらう。

 それを軽蔑し切る力があるか、或はそれをジヤスチフアイし切る力があれば「世間知らず」の価値がわかるべきはづだ。

 女らしくいゝ加減の処で都合のいゝ処で自分の考をとめておくから他人の心待ちに同感が起し憎いのだ。

 他人の運命に同感が起し憎いのだ。

 女と云ふものは他の女の運命に公平な同感を起せないものだ。

 自己の型以外に出て落ちつきある運命をつくつてゐる女にまで同感を起し得ないものだ。

 さうして其処に女が主婦として又母として小さい世界の女王として満足の出来る処なのだ。

 自分はN氏の運命、R氏の運命に向つて尊敬する気もないが軽蔑する気もない。

 たゞ無用な処にひつかゝつて云はなくつてもいゝ処にC子に対する女らしい軽蔑を見せたがるので一寸不快を感じたから以上のことをかいた。


「六号感想」/『白樺』1913年12月号・第4巻第12号_p129~130)

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「N」は野枝、「T」は辻、「R」はらいてうのことである。

「C子」は一時、青鞜社の社員であった竹尾房子(宮城ふさ)で、前年二月に武者小路と房子は結婚していた。

 野枝はこう反論した。


「武者小路氏に」

 十二月号白樺の誌上で私が「世間知らず」を軽蔑してゐるさうだとのことをお書きになつたのを拝見して私は本当に意外に存じました。

 私は他人の作品に対して無闇とさう軽蔑したり悪く云つたりしたことは御座いません。

 殊に私はもうずつと以前からあなたのお書きになるものは可なり深い注意と尊敬をもつて忠実に拝見して居ります。

 私はC子氏に対しては仰しやる通りに或る侮蔑を持つて居ります。

 然しそれは、あなたには些の関係もないC子氏で御座います。

 私にとつてはそのC子とくらべられることは本当に不快で御座いました。

 ですからその通りのことを書きました。

 それからまたあなたは私とTのことについてお書き下さいましたが何のことだか私はその解釈に苦しみます。

 あなたは私共の生活についてあゝ云ふことを憚らず仰しやれるほどよく私共を御存じですか……。

 それから「女らしくいゝ加減な処で考へを止めて置くから他人の心持ちに同感することが出来ないのだ」とい云ふやうなこともあなたの勘違いから出てゐるのです。

 あなたのゐるまわりにはどんな女の方達がゐらつしやるか存じませんが屹度(きつと)狭量な何の考へもない浅薄な方達ばかりだと見えます。

「無用な処に引つかゝつて云はなくてもいゝところにC子に対する女らしい侮蔑を見せたがるので不快を感じた」と云ふお言葉では一層なんだかあたなの方が狭い御了見だと云ひたくなります。

 決して云はなくともいゝことではないのです。

 私は自分の感じたことを率直に書きました。

 あなたこそ本当に無用な処に引つかゝつてつまらない侮蔑を見せたがつてゐらつしやるでは御座いませんか。


(「編輯室より」/『青鞜』1914年1月号・第4巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p53~54)





『中央公論』(一九一三年十一月号)に掲載された野上弥生子の小説「指輪」に対する批評を、中村狐月(こげつ)が『読売新聞』(同年十一月十五日)「十一月の創作(上)」に書いた。

 野枝は「指輪」を名作だと思っていたので、狐月を批判した。


 ……久しぶりの御作の故か十一月の創作中で一番期待したものだつた。

 ……先づ女らしい情緒が至る処に少しの嫌味もなくなだらかに出て素直な処が気持よく感ぜられた。

 物の観方考へかた細かな筆致、描き出された情景、すべての点において、優しい女らしさを失はない作だと思つた。

 その点に於て私は婦人作家のうちでこの位美しい純な作をものする人はあるまいと思ふ。

 読売新聞で中村狐月(こげつ)氏の、この作に対する評をよんで私は本当に不快に思つた。

 何故なら中村氏は女を無視してゐるのだ。

 ……同氏には女の生活が解らないのだ。

「女と云ふものはいらないものだ。何故男が子供を生むことが出来ないのだらう……女と云ふものはあんな下だらない仕事をする為めに生れて来たるのだ……」と云ふやうな乱暴なことを云つてゐる。

 こんな人にどうしてこの作なんかヾ解らう?

 批評家は、寛く深い万遍なき理解を有する人でなくてはならぬ筈である。

 中村氏の如きは狭い/\自己の或る心持を標準として批評する人である。

 かう云ふ小さな愚かな批評家は遠慮なく葬つてしかるべきである。


(「編輯室より」/『青鞜』1914年1月号・第4巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p54~55)





『新婦人』一月号に「新しき婦人の男性観」という野枝の談話が載った。

 記者によって勝手に作られた内容だったので、野枝は憤怒した。

 
 然しそれは私がその雑誌の記者と称する人に話したことゝは大変に相違した事柄である。

 私は到底それを読んで憤怒を覚えずにはゐられなかつた。

 又、多数の人たちに自分の談話としてそれが読まれるのだと思つたとき私は涙がにじむ程の恥かしさを感じた。

 私は矢張り物を言はないで書いてゐたい。

 もうほんとに
おはなしなんかするもんぢやないとしみ/″\思ふ。


(「編輯室より」/『青鞜』1914年3月号・第4巻第3号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p66~67)


 二月、前年暮れに青鞜社事務所に泥棒が入り、青鞜社は事務所を北豊多摩郡巣鴨町一一六三から巣鴨町一二二七へ移転した。

 神田区美土代(みとしろ)町の東京基督教青年会館で「青鞜社第一回公開講演会」が開催され、千人の聴衆を集めてから一年。

「雑音」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p200~201)によれば、『青鞜』の周辺は火が消えたようになり、毎日のように顔を合わせていた社員もばらばらに一週に一度か二度くらい事務所に顔を出すくらいになった。

 急激な世間の圧迫にまったく屏息してしまったという風評は辛かったが、この暇にみんなが勉強に没頭するしかなかった。



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 21:29| 本文

第106回 ウォーレン夫人






文●ツルシカズヒコ



『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』によれば、らいてうが実家を出たのは、一九一四(大正三)年一月十三日であった。

 らいてうはこの日、女中に手伝ってもらい、円窓の部屋にあった机、本箱、書棚、書物、衣類や手まわりのものを入れた行李一個、ふとん包みなどを、出入りの俥屋(くるまや)に運ばせた。

 らいてうと奥村の新居は、青鞜社の事務所に近い、北豊島郡巣鴨町一一六三番地、とげぬき地蔵前の裏通り、廃兵院の近くの小さな二階家だった。

 植木屋の広い庭の中にぽつんと建つ離れ家で、ふたりはその閑静さが気に入った。

 一階が八畳、二階が六畳で、一階を奥村のアトリエにして二階をらいてうの仕事部屋にした。

 家賃は六、七円。

 奥村が板に刻んで彩色した表札を出すと、醇風美俗に反する共同生活への嫌がらせのためかすぐに盗まれ、その後も表札の盗難は後を絶たなかった。

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 実家を出るに際し、らいてうはあふれる涙を拭いながら長い長い手紙をしたため、「御両親様」と宛名を記した封筒に入れて母に手渡した。

 
 ……特に御両親に申上げて置かねればならないことがあります。

 ……御両親ももう御承知の昨年初夏から始終私のところへ訪ねて参りました、そして私が若い燕だの、弟だのと呼んで居りましたHといふ私よりは五つも年下のあの若い画をかく男とふたりで、出来る丈自由なそして簡易な共同の生活を始めやうとしてゐることなのでございます。

 一体私は妹や弟を有たないといふやうなことも多少関係してゐるのか自分より年下のものーーそれが男でも女でもーーに対して優しくしてやりたいやうな、可愛がつてやりたいやうな心持を有つて居りましたが……いつも愛の対象として現はれてくるものはずつとの年下の者ばかりでした。

 そして私はそれらの人に対して姉らしい又は母らしい時には恋人らしい接吻を与へて参りました。

 ……その人達の中で……私の心を動かしたのは静かな、内気なHでした。

 私は五分の子供と三分の女と二分の男を有つてゐるHがだん/\たまらなく可愛いゝものになつて参りました。

 そして姉や母の接吻はいつか恋人のそれらしく変つて行きました。

 私によつて始めて恋を知つた彼はほんとうに純な心で私を愛してくれます。

 私はもう何時迄も解決をつけずにずる/\べつたりに二人が不安な状態を継続し、静かな落付いた心から遠ざかり、訪問したり、されたりする為めに多くの時間を奪はれ、自分達が何より尊重してゐる仕事の邪魔になるといふことにこれ以上堪へられなくなつて参りました。

 ……私が現行の結婚制度に不満足な以上、そんな制度に従ひ、そんな法律によつて是認して貰ふやうな結婚はしたくないのです。

 私は夫だの妻だのといふ名だけにでもたまらない程の反感を有つて居ります。

 それに恋愛のない男女が同棲してゐるのならおかしいかも知れませんけれど……恋愛のある男女が一つ家に住むといふことほど当前のことはなく、ふたりの間にさへ極められてあれば形式的な結婚などはどうでもかまふまいと思ひます。

 ましてその結婚が女にとつて極めて不利な権利義務の規定である以上尚更です。

 それのみか今日の社会に行はれる因習道徳は夫の親を自分の親として、不自然な義務や犠牲を当前のことゝして強いるなどいろんな不條理な束縛を加へるやうな不都合なことも沢山あるのですから、私は自から好んでそんな境地に身を置くやうなことはいたしたくありません。

 それから子供のことですが、私共は今の場合(先へ行つてどうなるものかそれは今の私にはまだ分りません)子供を造らうとは思つて居ません。

 実際のところ私には今のところ子供が欲しいとか、母になりたいとかいふやうな欲望は殆どありませんし、Hもまだ独立もしてゐませんから世間一般の考から云つても子供を造る資格がありません。

 どうぞ其辺の御心配も御捨て下さることを御願ひいたします。

 尤もお母さんの仰有るやうな意味で形式的に結婚しない男女の間に子供の出来るといふことは只不都合なことである、恥づべきことであるといふやうな考を有つものでないこと丈は申添へておきます。


 私は決心した以上は出来る丈早く実行いたしたいと思ひますし、もう総の準備も整つて居りますから、この上は御両親の御快諾下さる日を只管に御待ちして居るばかりでございます。

(大正三、一、一〇)


(「独立するに就いて両親に」_p110~116/『青鞜』1914年2月号・第4巻第2号/『現代思想大系17 ヒューマニズム』_p148~152)





『青鞜』一月号の附録は「ウォーレン夫人の職業合評」だった。

 らいてう、西崎花世、KI(岩野清子)、野枝が書いている。

 売春婦を扱ったバーナード・ショウの問題作だったが、坪内逍遥訳の戯曲『ウォーレン夫人とその娘』を四人が読んで書いたようだ。

 しかし、冒頭で野枝はこう書いている。


 脚本を読んで見て私は殆ど手の出しやうのないのに驚いてしまつた。

 とても自分の貧弱な頭ではそれ/″\に立派な解釈をつけて批評して行くことは六ケ(むずか)しい……。


(「ウォーレン夫人とその娘」/『青鞜』1914年1月号・第4巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p47)

 
 悪戦苦闘したようだ。



★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『現代思想大系17 ヒューマニズム』(筑摩書房・1964年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 20:58| 本文

2016年04月20日

第105回 羽二重餅





文●ツルシカズヒコ



『青鞜』一九一三(大正二)年十二月号で野枝は沼波瓊音(ぬなみ・けいおん)著『芭蕉の臨終』を紹介している。


 先月あたりから私には落ちついて物をよむ暇はなかつた。

 今月になつて、よう/\第一に手にしたのがこの「芭蕉の臨終」だつた。

 そうして私は、それを近頃になくしんみりとうれしく読むことが出来た。


(「芭蕉の臨終」/『青鞜』1913年12月号・第3巻第12号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p45)


 解題によれば、長男・一(まこと)出産のため青鞜社の仕事を休んでいただろう、野枝の復帰後の初仕事のようだ。

「先月」は十月、「今月」は十一月のことであろう。

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 この年の秋から冬にかけて、らいてうと奥村は足の向くまま歩き回った。

 当時の東京はどこへ足を伸ばしても、閑静な場所がいたるところにあった。


 道灌山、日暮里、田端、小台の渡、飛鳥山、時には小石川植物園のあたりなど、よく歩きまわったところですが、その道みち、長身長髪の奥村と、小柄な女学生姿のわたくしが手をとりあってたのしそうに歩いている格好は、二人は夢中で、気づきませんでしたが、さぞ、当時としては人目にたったことでしょう。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p481)


 動坂を下りて、田端の高台の方へ向かう道の近くに、きゃしゃな門構えの「つくし庵」があった。

 野枝に紹介されたお汁粉屋で、ふたりは足休めによくこの店の門をくぐった。

 門のくぐり戸に鳴子がついていて、開けるとカラカラ鳴り、店内はいつも客が少なく静かで清潔だった。

 日暮里芋坂の名代の羽二重餅も閑静な店だった。

 お酒が飲めない奥村は、餅やお汁粉は何度もお代わりした。

 しかし、ふたりの逢い引きはなかなかままならい。

 本郷区駒込曙町のらいてうの自宅を奥村が訪ねれば、平塚家の空気が重苦しくなった。

 奥村は原田潤も部屋を借りていた京橋区築地の南小田原町の下宿を出て、らいてうの自宅に近い小石川区原町の下宿に移ったが、らいてうがしばしば出入りするので、大家から「年ごろの娘もいるので、しつけに悪いから出てほしい」と奥村が追い立てられる羽目になった。

 仕方なく北豊島郡巣鴨町の保持の自宅兼青鞜社事務所のらいてうの部屋で待ち合わせるとーー。


 ……小母さんは、いつもきまってふたりの側に食っついて磯巾着のように離れず、一方義眼の片目でぶえんりょに睨んでいる様子はさながら厳しい監視である。

(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p159)





 実家を出て奥村と同棲する決意をしたらいてうは、一九一三(大正二)年八月十七日、「八項目の質問状」を記した手紙を奥村に書いた。


 一、今後、ふたりの愛の生活の上にどれほどの苦難が起こってもあなたはわたしといっしょにそれに堪えうるか。世間や周囲のどんな非難や嘲笑、圧迫がふたりの愛に加えられるようなことがあっても、あなたはわたしから逃げださないか。

 一、もしもわたしが最後まで結婚を望まず、むしろ結婚という(今日の制度としての)男女関係を拒むものとしたら、あなたはどうするか。

 一、結婚はしないが同棲は望むとすればどう答えるか。

 一、結婚も同棲も望まず、最後までふたりの愛と仕事の自由を尊重して別居を望むとしたらあなたはどうするか。

 一、恋愛があり、それにともなう欲求もありながら、まだ子どもは欲しくないとしたらあなたはどう思うか(奥村が特別に子ども好きなのをわたくしはよく知っていた)。

 一、今後の生活についてあなたはどんな成算があるのか。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p489~490)





 質問はこんな感じだったが、奥村の回答はらいてうを満足させるに足るものだった。

 らいてうの家出は実行あるのみになった。

 一九一三(大正二)年十二月三十一日、大晦日の夜。

 らいてうと奥村は、行きつけの「メイゾン鴻ノ巣」で晩餐をともにして、いよいよ始まる同棲生活への決意を新たにした。


 窓ガラスの外の川水(かわも)に灯影のうつる夜景が、ひとしお胸に迫って、美しく思われました。

 ……甘くたのしい情緒のなかにも、心はやはりきびしく引きしまるのでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p490)



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)



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第104回 サアカスティック






文●ツルシカズヒコ


 一九一三(大正二)年の秋が深まるにつれ、野上弥生子と野枝の親交も深まりを増していった。

 野枝はこう記している。


 その頃、私と野上彌生子さんは疎(まばら)な生籬(いけがき)を一重隔てた隣合はせに住んでゐた。

 彌生子さんはソニヤ、コヴアレフスキイの自伝を訳してゐる最中であつた。

 私達二人は彌生子さんの日当りのいゝ書斎で、又は垣根をへだてゝ朝夕の散歩の道でよく種々なことについて話しあつた。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年4月17日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p144/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p201)

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 野枝は特に弥生子のソニアについての感想を楽しみに聞いた。

「ソニアとケイなんかいくつも違いはないのね。エンマ・ゴルドマンだってそうでしょう。ストックホルムにシャロット、レフラアとソニアが仲よく暮らしていたときに、ケイもやはりそこにいたんですね。ストリンドベルヒもそうです。ストリンドベルヒが何かの席上で数学をやる女なんか、女じゃないというようなことを言ったのについて、ソニアがレフラアに宛てて書いた手紙なんか面白いわ」

 弥生子は熱心に自分で調べた年齢を数字に書いて、野枝に見せたりした。

 ふたりは垣根越しに夢中になって、毎日のようにいろいろなことを話し合った。

「勉強しなきゃね。私は本当にあんまり駆け出し方が早いので、自分ながらいやで仕方がないんです。ケイなんか、五十過ぎで初めて書き出したんですものね。やはり向こうの人は偉いのね。日本じゃ五十だと、死ぬのを待っているような人が多いんですものね。私は本当にそうなりたくないわ。いつまでも勉強して進んで行きたいわ。段々に年をとってゆくにつれて、自分の子供たちにどんどん残されていくようなことには、なりたくないわね」

「ええ、勉強を忘れさえしなければねえ。とにかく私たちは一番勉強しやすい位置にいるんですもの、朝も晩も自分の体近くに書物がとり散らかっているのに読まないのは嘘よ。とにかく、子供の話相手にもなってやれないというのは悲しいことだわね、そうは思わない?」

「そうですとも。私たちが私たちの親とか周囲の人たちに向かって持つような、嫌な心持ちを子供に再び繰り返させようとは思いませんわ」





 ときおり、らいてうのことも話題になった。


「平塚さんの傍には何故、余り人がゐつかないんでせうね、それに大変悪く云はれなさるのね」

「えゝ私もそれは不思議だと思つてゐますのよ、あんないゝ方なんですのにね」

「他人に向つて傲慢だなんて処はないんですかね」

「傲慢だなんてよく云われてゐなさるんですけれど、さうでもないやうですよ、かなり私なんかには明けつ放しですよ、何でもよくお話なさいますし、親切ですしね。」

「さう、つまりあの方は大変聡明なのね、でも私はあの方にもうすこしシンセリテイな処があればいゝと思ひますよ、大変デリケートだし、聡明ではあるんだけれど、あの方自身に対してもう少し謙遜であつて欲しいやうな気がしますよ。」


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年4月17日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p146~147/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p202)





 野枝は弥生子に励まされては、努めて書物を読んだり考えたりした。

 ふたりは会うたびに、めったに無駄話はしなかった。

 読んだ本の話、感想というようなことばかりを話し合った。

「あなたは告白ということをどんなふうに思って? 私は告白する人はそれをやっていまえばなんでもない清々しい気持ちになるけれど、それを聞かされた方の人はたまらないと思うわ。たとえば、ウォーレン夫人とヴィヴィがそうでしょう。二十幾年かを包み隠してきた夫人が、その生涯を告白し終わってから“ああ、いい気持ちだ”っていうでしょう。するとヴィヴィが“こんどは眠られないのは私らしい”って言うわね。あの気持ちがそうだと思うわ」

「それはそうね。隠しておくということは、無理をしていることですものね。不安や恐怖や不快を忍んで無理をしていたのに、それを打ち捨ててしまうのだから、これほど重荷の下りることはないでしょうね」

「『春のめざめ』を読んで?」

「ええ、すっかり。ありがとう、大変面白かってよ」

 フランク・ヴェーデキントの戯曲『春のめざめ』は、弥生子の夫、野上豊一郎がこのころ翻訳していたようなので、弥生子も読み、弥生子は野枝に貸したのであろう。

「あなたは、どう思って?」

「大人の嘘がどんなに残忍なものかということを考えて恐ろしくなりましたよ」

「だけどもしウエンドラのお母さんの立場にあなたがなったとして、子供から質問されたときに、立派にそれを説明することができる?」

「そのところが非常に難しいところだと思うわ。やはり子供自身が気づくまではそのままにしておいた方がいいような気もしますけれど、とにかく考えなければならない問題です。何かでこんなことを書いてあったのを見たことがあるんです。小さい娘を持った母親がね、下婢だかが子供を生んだので、どうして生まれたかという質問をされたんです。母親は何かの花を顕微鏡で見せて雌雄の説明をし、植物の種子播布も動物の種族保存も同一だということを話したというようなことが書いてありました。そういうふうに科学的な立場から説明してやるのは大変いいことだと思うんですが、やはり立派な基礎知識がなくてはできないことですね」

「そうね、それは大変いいことね。たくさんの人たちがそういう態度をもってすることができればいいわね」

 ふたりは熱心にそういう話をした。

「私はサアカスティックだなんて言われるんだけれど、このごろはよくしゃべるようになったわ。私は一時は本当に暗かったのよ。人間というものが本当に嫌いになったことがあるの。それが少しずつよくなってきたわ」

 弥生子は野枝に親しい笑顔を向けて、いつまでもいつまでも倦まずに話した。



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)



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第103回 少数と多数






文●ツルシカズヒコ


 一九一三(大正二)年、秋。

 野上弥生子にとって野枝は最も親しい友達になっていた。

 九月初旬、二番目の子供を出産するために駒込の病院に入院した弥生子は、二週間目に新たな小さい男の子を抱いて帰宅し、下婢から裏の家にも出産があったことを知らされた。

 弥生子が子供にお湯などを使わせていると、裏の方からも高い威勢のいい泣き声が聞こえた来た。

「赤さんが泣いているわね、やっぱし男の子かしら」

「さあ、どうでございましょう。あの泣き声で見るとお嬢さんらしくもございませんですねぇ」

「大変だろうねぇ、初めてだのに。あのお若さではね」


 伸子は子供の泣き声を聞く度に、自分と同じ任務のために、夜も眠らず、自分のあらゆる自由と欲望を犠牲にして世話をしてゐる若い母親が、其処にも一人ゐのだと云ふ事を痛切に感じました。

 その結婚が普通の順序を取つてゐない事、それから来るすべての不便を知る故に、且つは自分の初産当時はどんなに無経験であつたか、それがためにどんなに狼狽(うろた)へ苦しんだかを知る故に、伸子が垣根一重のこちらから彼女の事を思ふ時には、それはすべて、自然の同情となりました。

 早く赤ん坊を見度ひやうな気もしてゐました。


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上彌生子全集 第三巻』_p298)

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 野枝はある日、男の赤ん坊を抱いて弥生子を訪ねてきた。

「まあ、大きな目!」

 弥生子はひと目見て、そう思った。

「この赤さんはまたなんて大きいんでしょう」

 ふたりは子供を取っ替えっこして抱いてみたり、名前を聞き合ったり、両方の顔の特徴を批評したりして笑った。

 弥生子の子供は大きさと重さでは優っていたが、顔立ちは野枝の子供の方が整って可愛かった。

「これで肝(かん)が強くて困るんですよ。何か気に入らないで泣き始めようものなら、どうしたって止めやしないのです」

「お父様似なんでしょうね」

 弥生子は青い、神経質そうな顔をした野枝の同棲者の顔を思い浮かべた。

「おっ母さんなんか、そう言いますよ。そっくりだって」

 野枝の家には姑と小姑が同居していた。

 野枝は同棲者のことを語るとき、それまでの「先生」から「夫」を用いるようになった。

 ある日、野枝は髪を丸髷に結ってやってきた。

 彼女によく似合っていた。

 束髪だと背中の赤ん坊との釣り合いが、子守り娘以上に見えないくらい子供子供した野枝だったが、髷に結った彼女には母親らしい威厳と美があった。

「おっ母さんですよ」

 玄人も及ばないようなその髷が、野枝の姑の手によるものであることを知った弥生子は驚いた。

 弥生子の家族と野枝の家族は、お互い逢えば言葉を交わす仲になっていった。

 弥生子は野枝の姑一家が、江戸文化末期の爛熟した雰囲気の中から生まれた、いわゆる都会人なるものの好典型であることを知るようになった。





 お母さんが弾くのだと云ふ三味線は、植木屋や小役人の家の多い郊外のそこいらの空気の中で響くべき種類のものではなさそうでありました。

 ぢつと聞いてゐますとそんな貧しげな小さい家で奏されてゐる音楽のやうではありませんでした。

 それ程それは熟練しきつた立派な芸術でありました。

 その三味線が鳴り始めると、伸子はペンを置いたり、書物をよみさしたまゝにしたりして遠くから耳をすましました。

 老女の声は朗々と若やかに響きました。

 その瞬間の音楽は単に勧進帳や老松ではない。

 再び返つて来ぬ過去の美と若さと、栄華と夢を恋ひ、思ひ、悲しむ彼女自身の「幻想曲」であるかの如く感じられました。

 Oさんーーにも亦母親に劣らない音楽がありました。

 それはよく聞こえてゐたあの尺八であります。

 たま/\その二つのものが合奏される時などは、椎の木の下のその小さい家は、零落や窮乏や、すべての物質的苦悩を忘却し去つて、近所のどの家にもない、派手/\しい自由な享楽に充されて見えました。


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上彌生子全集 第三巻』_p300)


「O」は辻のことである。

「風変わりな面白い家ですわねぇ」

 弥生子の家では、よくこんな好意的な批評をしていた。





『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p503)によれば、一九一三(大正二)年九月、青鞜社は創立二周年を期して社則の改正に踏み切った。

 改正した「青鞜社概則」は『青鞜』十月号(第三巻十号)に掲載された。

 まず、第一条の「本社は女流文学の発達を計り」を「本社は女子の覚醒を促し」に変えた。

 男子「客員」や「賛助員」(女流文学者)もなくし、組織を改編整理することにより、女性解放路線での同志的結束を打ち出した。

『青鞜』の発行と発売を委託していた東雲堂との関係も、『青鞜』十月号(第三巻十号)を最後に切れた。

 東雲堂への委託により最盛期三千部の部数を誇っていた『青鞜』は、保持の提案で編集費の値上げを東雲堂に要求したが、一蹴されてしまった。


 荒木郁子のツテで神田区南神保町の尚文堂に一任することになったが、売り上げ部数は減少に転じていった。

『青鞜』十一月号(第三巻十一号)に、野枝はエマ・ゴールドマン「少数と多数」を訳載した。


 私は現代の傾向を要約して「量(コンティティ)」であると云ひたい。

 群衆と群集精神とは随所にはびこつて「質(クオリティ)」を破壊しつつある。

 今や私どもの全生活――生産、政治、教育――は全く数と量との上に置かれてゐる。

 且て自己の作品の完全と質とにプライドを持つてゐた労働者は自己に対しては無価値に一般人類にとつては有害な多額の物品を徒(いたずら)に産出する無能の自働機械に変つてしまつた。

 かくして「量」は人生の慰藉と平和とを助くるに反し、唯だ人間の重荷を増加した。


(「少数と多数」/『青鞜』1913年11月号・第3巻第11号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p703/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p29)


 原文は以下。


 If I were to give a summary of the tendency of our times, I would say, Quantity.

 The multitude, the mass spirit, dominates everywhere, destroying quality.

  Our entire life -production, politics, and education - rests on quantity, on numbers.

 The worker who once took pride in the thoroughness and quality of his work, has been replaced by brainless, incompetent automatons, who turn out enormous quantities of things, valueless to themselves, and generally injurious to the rest of mankind.

 Thus quantity, instead of adding to life's comforts and peace, has merely increased man's burden.


(「Minorities versus Majorities」/Emma Goldman『Anarchism and Other Essays』)



★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)



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2016年04月19日

第102回 出産






文●ツルシカズヒコ


 野枝は辻の力を借りて、エマ・ゴールドマン『Anarchism and Other Essays』に収録されている「婦人解放の悲劇」を『青鞜』九月号に訳載した。


 解放は女子をして最も真なる意味に於て人たらしめなければならない、肯定と活動とを切に欲求する女性中のあらゆるものがその完全な発想を得なければならない。

 全ての人工的障碍が打破せられなければならない。

 偉(おおい)なる自由に向ふ大道に数世紀の間横たはつてゐる服従と奴隷の足跡が払拭せられなければならない。

 これが婦人解放運動そも/\の目的であつた。

 然るにその運動の齎(もた)らした結果はと云ふと反つて女子を孤立せしめ、女性にエツセンシヤルである幸福の泉を彼女から奪つてしまつたのである。

 単なる外形的解放は近代の婦人を人工的の者と化し去つた。


(「婦人解放の悲劇」/『青鞜』1913年9月号・第3巻第9号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p732~733/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p14)

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 この部分の原文は以下である。


 Emancipation should make it possible for woman to be human in the truest sense.

 Everything within her that craves assertion and activity should reach its fullest expression; all artificial barriers should be broken, and the road towards greater freedom cleared of every trace of centuries of submission and slavery.

 This was the original aim of the movement for woman's emancipation.

 But the results so far achieved have isolated woman and have robbed her of the fountain springs of that happiness which is so essential to her.


(「The Tragedy of Woman's Emancipation」/Emma Goldman『Anarchism and Other Essays』)





 本来、「婦人解放の悲劇」は寒村が『近代思想』九月号に訳載するはずだった。


 寒村が本号に訳す筈であつた『婦人解放の悲劇』は、青鞜社の方で九月号に出すさうだからお譲りする事にした。

(大杉栄「大久保より」/『近代思想』1913年9月号)


 寒村は野枝が『青鞜』九月号に訳載した「婦人解放の悲劇」に言及し、青鞜社同人にこう問い質している。


 高等教育と職業の自由と、選挙権の獲得と、凡て是らの謂ゆる『婦人解放』が、婦人から人情の自由を奪ひ、愛の権利を奪ひ、全く悲劇に終れる事……は、ゴールドマン既に之を説き……僕等の同ずる処である。

 問題は……婦人解放が、いかにして成就さるべきか、に在る。

 そしてゴールドマンは、此の問題が他の一切の重大な社会問題と等しく、無政府主義に於ける社会革命を外にして解決の途なしとせる事、また諸君の夙にしらるゝ処と思ふ。

 或る点まではゴールドマンと同じ意見を懐抱するがその手段方法に至つて、社会革命によらず無政府主義によらず、所謂自己完成と、芸術的遊戯とによるのである乎。

 ……ゴールドマンを米国の平塚雷鳥となさゞらん事を望む。


(荒畑寒村「六雑誌瞥見」/『近代思想』1913年10月号)





 野枝が長男・一(まこと)を実家で出産したのは、一九一三(大正二)年九月二十日だった。

 野枝が『青鞜』編集部に宛てた手紙が同誌十月号「編輯室より」に掲載されている。

 この号の「編輯室より」の担当は小林哥津。

 
 野枝さんにはこの廿日午後九時に可愛い坊ツちやんが出来ました。

 ふたりとも大変丈夫です。

「母として子を育てて行くことが自分に出来るかどうか不安です。さう思ひますと、何だか悲しくもなつて来ます。この子のためにこれから私がどの位までに左右されるかと思ふと情なくなります。何だか恐ろしい気がします。けれど私は今迄のコンヴエンシヨナルな情実から世のつねの平凡な、子の犠牲になつてしまふ母にはなりたくないと思ひます。なつては大変だと思ひます。」


(「編輯室より」/『青鞜』1913年10月号・第3巻第10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p456~457)





「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)には「九月二〇日、上駒込三二九番地の自宅で長男一(まこと)を出産」とある。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、野枝はこの夏、辻と一緒に今宿に帰省し実家で出産している。

 野枝は両親や叔父・代準介と和解したのだろうかという疑問が湧いてくるが、代家(代準介の曽孫が矢野寛治の妻・千佳子)にはこう伝わっているという。


 代準介は野枝の「わがまゝ」や「出奔」を読むも、意に介さない。

 野枝からの誹謗中傷表現を不憫にも思い、「あれはあれで、闘っているのだろう」と言ったと我が家には伝わる。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p88)


『伊藤野枝と代準介』によれば、このころ代準介は、今にたとえればボーイスカウトとガールスカウトが一体化したような「玄洋遊泳協会」を今宿に設立し、野枝を教導として帰省させたという。

 野枝は素直に従ったのかという疑問が湧いてくるが、こういうことのようだ。


 この帰郷は木村との仲に切をつけることに役立った。

 野枝は青鞜に書いた創作の中身とは異なり、叔父の言いつけ手伝いには素直であった事がよく分かる。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p90)


昭和の漂泊者・辻まこと



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)



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2016年04月18日

第101回 エマ・ゴールドマン






文●ツルシカズヒコ



 大杉と荒畑寒村が編集発行していた『近代思想』八月号に、「夢の娘ーーエンマ・ゴールドマン」が掲載された。

「夢の娘ーーエンマ・ゴールドマン」は、エマ・ゴールドマン『Anarchism and Other Essays』に収録されている、ヒポリット・ハヴェルによる「エマ・ゴールドマン小伝」を、寒村が抜粋訳したものだった。

 寒村はその冒頭で青鞜社の面々を挑発する文章を書いている。


 僕は此の一篇を、彼の社会改革を除いて個人的解放の存せざるを悟らず、女性の奴隷的境遇が現社会の経済組織の所産なるを知らず、自己完成と称する羊頭をかけて芸術的遊戯の狗肉を売れる、謂ゆる『新らしい女』に示したいと思ふ。

(荒畑寒村「夢の娘ーーエンマ・ゴールドマン」/『近代思想』1913年8月号)

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 野枝は『近代思想』八月号に掲載された「夢の娘ーーエンマ・ゴールドマン」に触発されたという。

 野枝は自分と『近代思想』との関わりについて、こう書いている


 私は何にも知らずに、そのうすつぺらな創刊号を手にしたのであつた。

 私の興味は一度に吸ひ寄せられた。

 号を逐ふて読んでゐるうちに、だん/\に雑誌に書かれるものに対する興味は、其人達の持つ思想や主張に対する深い注意に代つて行つた。

 そのうちに私の前に、もつと私を感激させるものが置かれた。

 それは、エンマ・ゴルドマンの、特に、彼女の伝記であつた。


(「転機」/『文明批評』1918年1月〜2月号・第1巻第1号〜第2号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p403~404/『定本 伊藤野枝全集 第一巻_p230)





 そして野枝はさっそくエマ・ゴールドマンの伝記を読んでみた。


 頭の上には、真青な木の葉が茂り合つて、真夏の焼けるやうな太陽の光りを遮ぎつてゐた。

 三四間前の草原には、丈の低い樫の若木や栗の木が生えてゐるばかりで、日蔭げをつくる程の木さへなく、他よりずつと高くのびた草の、深々とした真青な茂みの上を遠慮なく熱い陽が照つて、草の葉がそよぐ度びによく光る。

 とし子は、森の奥から吹いて来る冷たい風を後ろに受けながら、坐つて、草の葉の照りをうつむいた額ぎわに受けながら、ぢつと書物の上に目を伏せてゐた。それは、

『伝道は、或る人の想像するやうに、「商売」ではない。何故なら、何人でも奴隷の勤勉を以て働らき、乞食の名誉を以て死ぬかも知れないやうな「商売」には従事しないだらう。かくの如き職業に従事する人々の動機は、ありふれた商売とは違つてゐなければならない。誇示よりは深く――利害よりは強く――。』
 
 と云ふ言葉を冒頭においた、エンマ・ゴルドマンの伝記であつた。


(「乞食の名誉」/『文明批評』1918年4月号・第1巻第3号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p348~349/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p258)





「とし子」は野枝のことである。

『伝道は、或る人の想像するやうに……』の原文は、以下である。


 Propagandism is not, as some suppose, a "trade," because nobody will follow a "trade" at which you may work with the industry of a slave and die with the reputation of a mendicant.

 The motives of any persons to pursue such a profession must be different from those of trade, deeper than pride, and stronger than interest.


(Hippolyte Havel「Biographical Sketch」/Emma Goldman『Anarchism and Other Essays』)





 野枝は「エマ・ゴールドマン小伝」を読んだ感動を、こう書いている。


 自分は彼女の小伝を読むにあたつて自分のもつた大いなる興味と親しみと熱烈な或る同情と憧憬を集注させて、いろいろな深いところから来る感激にむせびつゝ読んだ。

『何と云ふすばらしい、そして生甲斐のある彼女の生涯だらう!』

 自分はある感慨に打たれながら心の中でかう叫んだ。


『婦人解放の悲劇』自序/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p11)





 寒村が抜粋訳した「夢の娘ーーエンマ・ゴールドマン」には、冒頭の『伝道は、或る人の想像するやうに……』の下りがないので、野枝は英文の原書『Anarchism and Other Essays』を入手したのであろう。

『定本 伊藤野枝全集 第四巻』解題によれば、エマ・ゴールドマンらマザーアースのグループが幸徳秋水らが連座した大逆事件に対する抗議運動をしたことなどを理由に、日本政府はアナキズム関連の洋書の輸入を厳しく規制していた。

 では、野枝は『Anarchism and Other Essays』をどこから入手したのだろうか。

『定本 伊藤野枝全集 第四巻』解題は、辻潤を通してか、あるいは直接的に大杉や寒村から本を借用したのではないかと推測している。

 野枝の英語力では原文を読みこなせないので、辻の助けを借りて日本語に訳したと思われる。



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)



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第100回 アンテウス






文●ツルシカズヒコ


 野上夫妻の故郷は大分県臼杵(うすき)だったが、野枝の故郷が大分県の隣県である福岡県だったことは、弥生子と野枝に一層の親しみを抱かせた。


「ぢやあなたは泳げるでせう。」

「えゝ、あなたは?」

「私も、だけど私は泳ぎは極下手の部類ですよ。」

 伸子は全く一丁ほど泳げるか泳げないかでありましたが、彼女にはそれは自信がある技らしく見えました。

 高い櫓から飛ぶ事も、水に潜る事も男の子に負けずにやつたのだと云つて南国の夏の海に特有な開つ放しの自由な楽しみを追想するような熱情を現して話しました。

「お転婆だつたのねぇ。」

 二人は声を出して、笑ひ合ひました。


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上彌生子全集 第三巻』_p290~291)


「伸子」は弥生子のことである。

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 ふたりは長い間知り合った友達のように無邪気に話し合ったが、野枝は自分の現在の境遇については、多くを語らなかった。

 その長い対座の間、弥生子が知り得たのは野枝が今年十九歳であること、都下の女学校の卒業生であり、今はその先生の家に同居していること、および青鞜社との関係についてであった。

 野枝はらいてうの話もよくした。

「あなたはまだ逢ったことはないのですか」

 弥生子は前年の秋のある展覧会の会場での、一分以上ではない一瞥の会見を語った。

 野枝は逢ってみたらいいだろう、きっといい話し相手になれる人だからと勧めたが、弥生子はまだそんな気にはなれなかった。

 弥生子はらいてうの書いたものを通じてその説も理解していたが、らいてうの本質的傾向に関してはかなりの疑問と懼(おそ)れがあった。

 弥生子にとってらいてうは一種のスフィンクスであった。

 けれど、野枝はらいてうの若い嘆美者であった。

 野枝がらいてうを語る言葉には、深い信頼と妹らしい愛慕があった。





 弥生子は野枝のことを南国に育った娘特有の多血質であり、強い知識欲を有し、人生に対する態度にも年にしては大胆なところがあると見ていた。

 そして、それは野枝の率直な表情や疑念のない快活な話しぶりに調和されて、図々しいような感じになることは決してなかった。

 そのうちに、弥生子は野枝の家が野上家と垣根一重の裏であることを知った。

 それは一本の古い椎の古木の下に一郭をなしている、三、四軒のちんまりした小家の群れのひとつだった。

 オルガンを弾いたり、尺八を吹いたり、歌ったり、男女の賑やかな笑い声がする一家族がそこいらに住んでいること、野枝が若い男とよく連れ立って出て行くことなど、弥生子は女中を通じて知った。

 弥生子は野枝が『青鞜』八月号に発表した「動揺」を読み、野枝が辻と同棲するに到った経緯、そして野枝という人間について多くのことを知った。





 あの子供のやうな無邪気な頬と目の持主が、こんな複雑な人情の波を潜り抜けて来たのかと思ふと、伸子は不思議な位ゐでありました。

 同時にそれ等の出来事に対して、彼女が如何にも正直な徹底した態度を現はしてゐるのが伸子の心をひきつけました。

 善い事も、悪い事も、美も醜も一切を偽はりませんでした。

 虚飾や胡魔化しに馴れた世間の多くの女達には、想像もされない卒直を以つて自己を解剖台に投げ出す誠実と勇気がありました。

 この態度の前には一つの失敗は一つの経験であり、負ける事は更に打ち勝つ事でなければなりません。

 土に転ぶ度に新らたな力を握って立ち上るアンテウスの強さが、彼女の強さでありました。

 その明るい、開けつ放しな行き方は、重々しく落ちついた、同時に底の測られないやうなA子の性格と鮮やかな対照を作る事となつたのでありました。

 且つその一篇は彼女の内的生活の真摯とよき傾向を示す一記録であつた計りでなく、その文学的才能のたしかさを証拠立つるものでありました。

 彼女はもう単なる正直そうな、可愛らしい娘だけではありませんでした。

 伸子は新たな尊敬を以つて若い隣人を見ました。

 而して二人の間によき友情の芽ぐみつゝある事を楽しみの目を以つて見てゐました。


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上彌生子全集 第三巻』_p295~296)


「A子」はらいてうのことである。



★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:36| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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