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2016年04月25日

第119回 自己嫌悪






文●ツルシカズヒコ



「ああ、またどうしても行かなければならないのか……」

 上野高女五年時のクラス担任だった西原和治の家を訪れると、いつも西原は野枝が黙っていても察して金を出してくれるが、そういう用事で西原に会わなければならないことが、野枝はたまらなく苦痛だった。

 辻は口もきかずにブラリと家から出て行った。

 その後姿を見送りながら、野枝はまた西原のところへ行こうか行くまいかと迷っていた。

 美津がどうしても都合してくれという金が、そうまで必要な金でないことはわかっていた。

 神田へはいつものように知り合いの家で四、五日、呑気な日を送るために行くので、少々の手みやげを買う金や、小遣いや、雇人たちへのわずかな心づけが入用なのであった。

 野枝はそれよりもまだもっと苦しい必要に迫まられるときがあるのだと思うと、なるべくなら嫌な思いをして西原のところに行きたくはなかった。

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 けれど、明日にも美津がどうかして出かけようとしているのに、それが出かけられないとなると、またつまらない不快な愚痴や嫌味を聞かねばならない、それも苦しかった。

 野枝は辻がどうかしてくれるかもしれないとも思ってみたが、それは自分が嫌な思いをしないですましたいという願望であり、ああしてブラリと出かけたところで、金策に出かけたのではないことはよくわかっていた。

 辻も自分もまだ一人前の人間じゃない、自分たちの歩く道さえまだ定まってはいない。

 満足に食べていくことさえできないのだ。

 それだのに、子供を連れて、年老いた母親にすがられて、どう彷徨しなければならないのだろう?

 これから先、どんなに母親を苦しめ、自分たちも苦しまなければならないことか?

 考えつめていくと、野枝の目にはその将来の惨めさに対する涙がしみ出すのだった。

「このままでは仕方がない。どうにかしなければ……」

 現在の生活のどこかに間違いがあることに気づきながら、それから出ることができないのは、第一には野枝の辻に対する愛には別段なんの変化もないからである。

 しかし、彼との関係が断てない間は、彼を通じての間接の関係を奇麗に断ってしまえないことも事実だった。





 またもうひとつ、野枝にとって新たな絆を持った子供は離しがたいものであり、辻の係累にとってもそうだった。

 そうなると、辻と子供とに執着がある間は、野枝はこの不自由から逃がれることは到底できないのであった。

 といって、辻を棄て子供を棄てて、自分の自由を通すことができるかどうかーー野枝にとって、問題はまたいっそう大きくなってくるのだった。

 辻と別れることも、子供と別れることも、本当に自分の行くべき道の障碍となる場合には止むを得ないーー野枝はここまで考えてみた。

 しかし、それを実行に移せるか否かは、自分の本当の道に対する所信によって決せられることである。

 所信――それがまた、困難なひとつの考へごとだった。

 何かのきっかけから、野枝が一生懸命にそういふことを考えているうちに、時間はずんずん経っていった。

 そして、日が暮れ夜が明けると、先刻、あるいは昨日、ムキになって感じた不自由や不平や不満は、もうそれほど近くに迫ってはいないのだった。

 野枝の思考はそこで中断する。

 そして、また不平が頭をもたげ出すと、初めから考へ直していく。

 こうして、結局どうすることもできずに、引きずられて来た。

 野枝はその不甲斐なさをたまたま反省することがあっても、それは自分の力が及ばないような矛盾や不条理や運命だと、大ざっぱに諦めてしまうよりほかはなかった。





 野枝が西原のところを訪れると、西原は嫌な顔も見せずに金を都合してくれた。

 西原に金を都合してもらうたびに、野枝はまともに西原の顔を見ることができないような片身の狭い思いを募らせ、卑屈になっていくような自分に対する自己嫌悪が胸に迫ってきた。

 あれほど意地を張って今宿の両親と争ったのだって、こういう生活をするためではなかったのだ。

 本当に一生懸命に勉強して、並みの親がかりの女たちとは少しは違った道を歩いてみせるためだった。

 こうした暮らしをするくらいなら、あれほどの辛い思いをして両親に楯つくまでもなかったかもしれない。

 もしこれがありのままに国許にでも知れたら、どんなに非難を受けることだらう?

 野枝の気持は重く沈んでいった。

 今こうして、母親のために嫌な用事をたしに来ていても、細かな家内の人々の感情のいきさつまでは、なかなか他人には明かせなかった。

 西原がこうして、なんのいわれもない金を惜し気もなく野枝のために出してくれるのも、少しでも野枝を自由にしてやりたいためだった。

 けれど、野枝が苦労して金策をしてきても、家内の人たちにとって、それは極めて当然のことだった。

 といって、野枝はそういうことを明らさまに西原に告げることもできなかった。

 こうして顔を合わすたびに、西原は何も他のことは口にせずに、ただ野枝が家庭生活の中に引き込まれてしまうことだけを気づかってくれる。

 西原は今まで、野枝の行為に対して非難がましいことを言ったことは一度もなかった。

 いつでも黙って、見ていた。

 それだけ、野枝の方でも彼に対しては、いい加減な態度ではいられなかった。





 云ふがまゝに、嫌やな顔も見せずに、出してくれた金を受取ると逸子はほつとした。

『どうだい、少しは勉強するひまは出来るかい?』

 龍一は重い唇を動かしてきいた。

『駄目です。一日中、用事に遂(お)はれ通しですわ、これぢや仕様がないとおもつてゐるのですけれど』

『子供がゐちやそれもさうだらうが、他の人と違つて、あんたは何とかして勉強だけは続けなきやいけないよ……』

『えゝ』

『谷さんの仕事が、早く見つかるといゝね、そしたら、少しは楽になれるだらう。何しろ毎日の食ふことの心配からしなくちやならないやうぢや、なか/\落ちつく事も出来まいね』

『えゝ、これでその方の心配がなくなればずつと違いますわ、だけど彼の人も何時の事だかあてにはならないんですもの、私も、もう少し何とか考へなければならないと、おもつちやゐるんですけれど』

 彼女は、何時までも龍一と、そんな話をつゞけるのは、何んとなくだん/\に自分の肩身を狭めるやうな辛さを感じるので思ひ切つていとまを告げて帰つた。



「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p300~303/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p281~283)




★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:16| 本文

第118回 義母






文●ツルシカズヒコ




 野枝は『新日本』一九一八(大正七)年十月号に「惑い」を寄稿している。

 創作のスタイルで書いているので仮名を使用しているが、「谷」は辻、「逸子」は野枝、「母親」は辻美津(ミツ)、乳飲み子である「子供」は一(まこと)である。

「谷が失職してからもう二年になる」とあるので、時の設定は一九一四(大正三)年である。

 辻一家はこの年(一九一四年)の夏に北豊島郡巣鴨町上駒込三二九番地から小石川区竹早町八二番地に引っ越したが、「逸子はつい二三ケ月前までゐた郊外の、殊更に澄み切つた秋の空気が、忘れられないのであつた」とあるので、季節は十月〜十一月ごろと推測できる。

「惑い」には家計のやりくりに苦しむ逸子に金銭援助をしてくれる「龍一」という人物が登場するが、堀切利高『野枝さんをさがして』は、この「龍一」のモデルは野枝の上野高女時代の恩師である西原和治だと推測している。

 以下、「惑い」に従って話を進めてみたい。

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 野枝は窓から真っ青な秋空を見上げながら、この日の朝に交わされた辻と義母・美津とのやりとりを思い浮かべた。

「本当にどうかしてもらわないじゃ困るよ、明日はぜひ神田の方に出かけなきゃならないんだからね」

 美津はそう言って、辻の生返事にしきりに念を押していた。

 といって、彼女が決して辻を当てにしているのではないことは、次の間で聞いている野枝にはよくわかっていた。

 そして、また苦しい金策をしなければならないのだなと思うと、野枝はなんとも言えない嫌な気持ちになった。

 月々の決まった入用の金にもこと欠いて苦しみ通しているのに、たとえわずか五円ばかりの金でも、きっと出来るという当ては、いつも馳け込む女学校時代の恩師である西原和治のところをおいて、他にはまるでなかった。

「なにも明日にかぎったことじゃないんだろう? 神田なら――」
 




 辻はいつものように、気のりのしない調子で相手になっていた。

「そんな呑気なこと言っちゃ困りますよ。もうこの間から行かなきゃならないはずのが、延び延びになってるんじゃないか。明日はどうしても行くはずにしてあるんですよ」

「金がないと行けないのかい?」

「あたり前ですよ、そんなこと」

「俺だって別に当てがあるわけじゃないんだから、きっと出来るかどうかわからないよ」

「それじゃ困るじゃないか。たまに頼むんだもの、なんとかしてくれたってよさそうなもんだね」

「だけどなにもそう、神田に行くのに大騒ぎすることはないじゃないか、たいした用があるんじゃなし、遊びに行くのに――」

「誰がわざわざ肩身の狭い思いをして、遊びになんか出かけるものか。お母さんはいくら落ちぶれても、長いつき合いの人たちに義理を欠くようなことをするのは御免ですよ。第一、お前の恥になるじゃないか」

「俺は恥になろうと何しようと、ちっともかまわないよ。お母さんももういい加減に、あんな下らない交際は止めてしまっちゃどうだい?」

「余計なお世話だよ、そんなことまでお前の指図を受けてたまるもんかね。それよりは少し自分のことでも考えてみるがいいや。なんだい本当に、親に散々苦労をさして、一人前になりながら、たった一人の親を楽にさすことも知らないで、大きな顔をおしでないよ。親を苦しめることばかりが能じゃないよ。いつまでもいつまでもブラブラしていて、世間の手前も恥ずかしい。私しゃお前のおかげでどこに行っても、肩身を狭めなきゃあならない。全体どんな了見でいるのか知らないが、親のことなんかどうなってもいいのかい。お母さんが行く先々で、お前のことをなんて言ってるか知ってるかい。そのうちにゃあ、少しはどうにかなると思うから口惜しい思いをしながらも耐えているものの――いつまでも呑気にしていられたんじゃあ、私の立つ瀬はありゃしない。よく考えて御覧、下らない奴からなんとかかんとか言われて、お前だってそれで済ましちゃいられまい。ワタシャそんな意気地なしには生みつけやしないよ」





「お母さんは生みつけない気でも、俺はこういう人間なんだよ。下らない奴の言うことなら、なにもいちいちと気にする必要はないじゃないか」

「下らない奴に言われないでも済むことを、いろいろ言われるから口惜しいんじゃないか。お前はかまわないだろうけれど、お母さんは嫌だよ」

「お母さんも随分わからないなあ。下らない、何も知らない奴に言われなくてもいいことを言われるのだから、何言われたってかまわないじゃないか。何が口惜しいんだい? 相手にならなきゃあいいじゃないか、すましておいでよ。だから下らない奴とのつき合いなんか、よせってんだよ」

「お前さんと私とは違うって言ってるじゃないか。お前さんはいくらでもすましておいでよ、ワタシャ嫌だよ」

「じゃ勝手にするさ」

「ああ、するとも。だからどうとも、もっと私の肩身の広いようにしておくれ」

「俺がそんなこと知るもんか」

「知らないとは言わさないよ。どうしてそんな口がきけるんだい! お母さんの肩身を狭くしたのはお前じゃないか」





「冗談云つちや困るよ。お母さんさえ馬鹿な真似をしなきやあ、何一つ不自由しないでも済むんじやないか。俺があたり前なら勉強ざかりを十年も棒にふつたんだってお母さんが無茶をやつたせいぢやないか! お母さんはもう若いときから、散々勝手な真似をして来たんぢやないか。俺だって偶(たま)にや自由な体にでもならなくつちややり切れるもんか。世間の奴らが何を云やがったって、俺は嫌な奴に頭を下げて少しばかりの金を貰ふよりは、少々食ふに困つたつて、かうやつてる方がいゝんだからそのつもりでゐてくれ。楽をしやと思ふなら俺の事なんか当てにしないでゐても貰ひたい」

「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p281/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p271)


「まあ、本当に呆れた了見だね、お前はそれで済ます気でも、世間がそれじゃ通しませんよ。俺を当てにするなって、それじゃ誰を当てにすればいいんだい? 私ばかりじゃないよ。お前には子供もいるんですよ、子供はどうして育つんですよ、親や子供の面倒も見られないでどうするつもりなんだい。金もないくせに、一生懐手で通すなんてことができると思うのかねえ。そんな了見じゃ、これから先だってどんなひどい目に遇わされるか知れたもんじゃない。本当になんて言い草だい!年老(としと)った私がこれから先、幾年生き延びると思うの。明日にもどうかわからないものを捕へて、俺を当てにするななんてよく言えた。それじゃ、まるで死んでしまえって言うようなもんじゃないか。死ねならワタシャいつでも死んで見せるけれど、今までなんのために苦労して来たと思うのだい! まあそんなことを言っていいものかどうか、ようく考えてみるがいい」





 もう相手にはしないというように、辻は黙ってしまった。

 勢いこんだ美津の言葉もだんだんに愚痴っぽい調子になり、いつか震えるような涙声になって聞こえなくなった。

 野枝は黙って聞いていた。

 こうした機会に繰り返される義母の愚痴はいつも同じだった。

 野枝はそれを聞くのが堪らなく嫌だった。






★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:17| 本文

2016年04月24日

第117回 下田歌子






文●ツルシカズヒコ




 結局、『青鞜』の「三周年記念号」は十月号(第四巻第九号)になった。

 野枝は『青鞜』同号に「遺書の一部より」と「下田歌子女史へ」を書いている。

『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の「解題」によれば、「下田歌子女史へ」は『新日本』九月号の「現代思想界の八先覚に与ふる公開状」に掲載されるはずだった。

「丁度新日本では戦争がはじまつて記事が輻輳(ふくそう)して困るから十月にまはすと云つて来た」(「下田歌子女史へ」本文はしがき/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)ので、原稿を返してもらい『青鞜』に掲載したのである。

「戦争」とは第一次世界大戦のことで、日本は第三回日英同盟協約により八月二十三日、ドイツ帝国へ宣戦布告し連合国の一員として参戦した。

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 下田歌子は明治天皇の皇后、美子(はるこ/昭憲皇太后)の寵愛を受け、伊藤博文の庇護もあり(伊藤の愛人だったと言われている)、華族女学校学監(後に学習院教授兼女学部長)を経て、自ら創設した実践女学校校長を務める女子教育界の女帝だった。

 英国の良妻賢母教育を視察するためロンドンに滞在中の一八九五(明治二十八)年五月、歌子はバッキンガム宮殿で十二単を着てヴィクトリア女王に謁見した。

 野枝はこの原稿を「嫌でたまらないものを二度も三度も催促をうけて無理な努力で書いた」(本文はしがき)のである。

 なぜなら、野枝は歌子にまったく興味がなかったからだ。

 それもそのはずだ。

 一八五四(安政元)年生まれの歌子は、野枝より四十歳以上も年長の天皇崇拝者である。

 しかし、野枝は実際に歌子に面会して、原稿を書いてみようと思い、面会を申し入れる葉書を書いた。

 その理由をこう書いている。


 私は棚橋絢子(たなはし・あやこ)とか跡見花蹊(あとみ・かけい)とか云ふ人たちがあなたのお仲間であるかないか知りませんがおなじに並んでゐらつしやるあのお婆さん達なら実際てんからそんなはがき処か書くことをうけ合ひはしません。

 けれどもあなたはあの人たちよりもいろんな意味から所謂(いわゆる)「えたいの知れない人」であることが私の注意を少し引きました。


(「下田歌子女史へ」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p115)


 歌子からの返信はなかった。

 しかし、野枝にとって天皇を崇拝する国家主義者である歌子は、あまりに思考がかけ離れ過ぎて批判の対象にはなりえなかったが、野枝は野望に向かって自力で道を切り拓いてきた、「一筋縄ではいかない女」であり「肝っ玉の座り処のある」歌子の「才能」を認めている。





 野枝は『廿世紀』十月号「女と男の戦」特集に「喧嘩両成敗」を書いた。

 野枝はエマ・ゴールドマンの言葉を引用している。


 私は男と女が半分づゝ持寄つて合はせたものが完全な一つの世界であることを信ずる。

 私の敬愛するゴルドマンはその両性の関係について「両性関係の真意義は征服者被征服者と云ふが如き関係を許さない……」と云つた。

 ノラが家出をしたことは妻であり母であることをいとふたのではなくて、「八年間見ず知らずの他人と同棲して子供を生んだと云ふことに気がついたからだ。二人のあかの他人が一生の親密の関係を造ると云ふより以上に陋劣な堕落したことがあり得やうか」とゴルドマンは云つた。


(「喧嘩両成敗」/『廿世紀』1914年10月号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p119~121)

 ノラの下りの原文は以下である。

Nora leaves her husband, not − as the stupid critic would have it − because she is tired of her responsibilities or feels the need of woman’s rights, but because she has come to know that for eight years she had lived with a stranger and borne him children. Can there be any thing more humiliating, more degrading than a life long proximity between two strangers?

(「Marriage and Love」/Emma Goldman『Anarchism and Other Essays』)





『青鞜』十月号の編集を終えたらいてうは十月十二日、奥村と一緒に千葉県の御宿海岸に旅立った。

 らいてうは『現代と婦人生活』という本を日月社から上梓し、その稿料の一部を印刷所への支払いの一部にあて、その残りを御宿滞在費にあてた。

 らいてうは留守中のことは、すべて野枝に頼んだ。

 岩野清子はこの年の二月に男児の母になっていたし、保持も哥津も既婚者になっていた。

 らいてうが頼れるのは、野枝しかいなかった。


 十一月号と十二月号の編集のことも、野枝さんに無理とは思いながら押しつけたのでした。

 ……わたくしにとっては、身近な野枝さんが、いまは一番たよりになる存在なのでした。

 赤ちゃんをかかえて、人一倍忙しい野枝さんですけれど、若さのあふれた笑顔で、「お留守の間のことは引受けます。辻にも手伝ってもらいますから……」と、旅に出るわたくしを励ましてくれるのをほんとうにうれしく思いました。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p546~547)

 
 野枝はこう記している。


 永い間不如意な経済の遣繰りや方々の書店との交渉やそれからまだ外の細々とした面倒な仕事と雑誌編輯で疲れ切つたらいてう氏は十月十二日に千葉県の御宿村へ行つた。

 後に残された私はそれ等の仕事をすつかりしなければならなかつた。

 二ケ月位はどんな苦しいことでも忍ぶ義務があるとらいてう氏は十一日に私が社に行つたときに笑ひ笑ひ云つた。

 私も苦しむでも仕方がないと思つた。


(「編輯室より」/『青鞜』1914年11月号・第4巻第10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p130)




★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:17| 本文

第116回 世界大戦






文●ツルシカズヒコ



 一九一四(大正三)年、九月。

 創刊「三周年記念号」になるはずだった『青鞜』九月号は、休刊になった。

『青鞜』の一切の仕事をひとりで背負うことになったらいてうは、疲れていた。

 部数も東雲堂書店時代を頂点に下り坂に向かう一方だった。

 堀場清子は『青鞜』の部数減と第一次世界大戦との因果関係を指摘している。

 
 一九一〇年に始まった“女の時代”に、終りが来ていた。

 それは“青鞜の時代”の終りをも意味する。

 戦争が起れば窒息させられ、平和が蘇えれば息を吹きかえすーー女性解放運動の鉄則に添った現象が、この時はじめて日本社会にも生起していた。


(堀場清子『青鞜の時代ーー平塚らいてうと新しい女たち』_p219)

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 山川菊栄は第一次世界大戦について、後年こう回想している。


 大正三(一九一四)年の夏、七・八月の交、ジッとしていてもあぶら汗のにじみ出るような暑い、暑い日でした。

 私は庭に向かった風通しのいい茶の間で、新聞をひろげて外電の大きな活字にくい入るように見入っていました。

 すると頭のうえで父の声がしました。

「たいへんなことになるぞ、これは。ヨーロッパ中の戦争だ。たいへんなことになる。世界中めちゃくちゃだ」。

 父はそれきり黙って考えこみ、じつに沈痛な顔つきで畳の上を、のっし、のっしと歩きまわっていました。

 今から思えば、父は戦火のなかのヨーロッパの美しい都市、むかし世話になった人々の姿を思っておののいたのではなかったでしょうか。

 しかしそのときの私は、またお父さんが大げさなことを、と思っただけでした。

 というのは、私がまだ学生時代、例の時事問題の時間に国際情勢が話題になるごとに、やれモロッコ問題だ、近東の利権だとか、ドイツやイギリス、フランスの間にゴタゴタのたえまがなく、しかもいつでも最後のドタン場にはなんとか危機がきりぬけられたので、こんどもなんとかなるものとタカをくくっていたのでした。

 それがみごとに裏ぎられて、たちまち父のいったとおりになった。

 なんという恐ろしさ!

 私の父の見通しが当ったこととともに、この恐しい現実の前に頭をさげました。

 人間の世の中にはどんなことでも起りかねない、世界戦争なんてそんなばかなことが、と頭から問題にしなかったようなことでさえも。

 私はあの日の驚き、あのときうけたショックを今でも忘れることができません。

 じりじりてりつけるあの日の暑さをまだ肌に感じ、庭に鳴く蝉の声さえもまだきこえてくるような気がするほどです。

 じっさいあの日から世界は変りました。


(山川菊栄『おんな二代の記』_p210~211)


 第一次世界大戦が勃発した一九一四年夏、菊栄は二十四歳、麹町区四番町の実家に住んでいた。

 菊栄の父・竜之助は食肉製造・貯蔵の研究のためヨーロッパに滞在経験があった。





 『定本 伊藤野枝全集 第二巻』解題によれば、『婦人評論』一九一四年六月一日に、下田次郎「日本婦人の革新時代」が掲載され、新しい女は「その主張の真の根底を有し、真の自覚をして居る訳では」なく、周囲から新しくさせられただけだと批判した。

 野枝は『青鞜』一九一四年七月号に「下田次郎氏にーー日本婦人の革新時代に就いて」を書き、下田に反論した。

 これに対して、石橋臥波が『婦人評論』一九一四年八月十五日に「新しき女の反省を促すーー伊藤野枝女史に与へて」を寄稿し、名指しで野枝に反論。

 石橋臥波は鬼の研究などで知られる民間学者。

 野枝は『反響』一九一四年九月号に「石橋臥波氏に答えて再考を促す」を書き、石橋に反論した。

 『反響』は生田長江と森田草平の共同編輯の文芸思想雑誌である。

 当時の日本の常識ではアメリカは先進国なのだが、エマ・ゴールドマンはそのアメリカを批判している。

 エマ・ゴールドマンに刺戟を受けた野枝は、そこまで自分は深く思考していると反論した。





 大杉と荒畑寒村は『近代思想』九月号を最後に、『近代思想』(第一次)を廃刊にして、十月から月刊の『平民新聞』を発刊することにした。

 文学的哲学的になりすぎた『近代思想』に嫌気がさし、もっと実際の社会運動に直結した出版物を出したくなったからである。

 大杉が渡辺政太郎(わたなべ・まさたろう)と小石川区竹早町の辻と野枝の家を訪れたのは、『平民新聞』創刊のための金策になんとか目処が立った九月のある日だった。

 渡辺は大杉の同志であり、辻の知り合いでもあった。

 大杉がこのときのことを書き記している。





『ほんとうによくいらして下さいました。もう随分久しい前から、お目にかかりたいお目にかかりたいと思つてゐたんですけれど。』

 彼女は初対面の挨拶が済むと親しみ深い声で云つた。

『まあ随分お丈夫さうなんで、わたしびつくりしましたわ。病気で大ぶ弱つてゐらつしやるやうにも聞いてゐましたし、それにSさんの「OとA」の中に「白皙長身」なぞとあつたものですから、丈はお高いかも知れないが、もつと痩せ細つた蒼白い、ほんとうに病人々々した方とばかり思つてゐたんですもの。』

『ハハゝゝゝゝ。すつかり当てがはづれましたね、こんなまつ黒な頑丈な男ぢや。』

 一言二言話してゐるうちに、二人はこんな冗談まで交はし合つてゐた。


(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p553~554/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p242~243)


「Sさんの『OとA』」とは、堺利彦が『近代思想』創刊号(一九一二年十月号)に書いた、大杉と荒畑の人物評のことである。

 大杉は二年前の『近代思想』に載った、そんな記事を野枝がよく覚えていることが不思議だった。


 ……そして曽つてS社の講演会で、丁度校友会ででもするやうに莞爾々々(にこにこ)しながら原稿を朗読した、まだ本当に女学生女学生してゐた彼女が、すつかり世話女房じみて了つた姿に驚いて、暫く黙つて彼女の顔を見つめてゐた。

 眉の少し濃い、眼の大きくはないが、やさしさうな、しかし智的なのが、其の始終莞爾々々しながら綺麗な白い歯並を見せてゐる口もとの、あどけなさと共に、殊に目立つて見えた。


(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p554/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p243)





 しばらくして大杉が帰ろうとすると、野枝はあわてたように引き止めた。

「まあ、いいじゃありませんか。もう辻も帰って来ますから」

「辻」という言葉を耳にして、大杉は少し面食らった。

 今の今まで赤ん坊に乳房をふくませながら話している野枝と対面していて、辻のことは大杉の頭にちっとも浮かんでこなかったからだった。

「それに辻もお会いしたがっているんですから」

 大杉は仕方なしにまた腰を下ろした。

 辻はすぐに帰って来た。

 しかし、大杉は野枝との受け答えには、なんでもないことにでも何かの響きを感じたが、辻との話には少しもそんな響きを感じなかった。



★堀場清子『青鞜の時代ーー平塚らいてうと新しい女たち』(岩波新書・1988年3月22日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 21:43| 本文

第115回 ヂョン公






文●ツルシカズヒコ



 辻一家が上駒込から小石川区竹早町に引っ越したのは、一九一四(大正三)年の夏だった。

 野上弥生子「小さい兄弟」では、時間軸が一九一五(大正四)年に設定されているが、この辻一家の引っ越しについての描写もある。

「いやだな、野枝さん。なぜ引っ越さなきゃいけないの?」

 素一は、隣りの若い叔母さんである、野枝の顔を見るたびに、そう言って不平を鳴らした。


 いよ/\引越の日になるとN子さんの家の裏口ーー即ち友一から云へば、彼の家の広い前庭ーーに一台の荷馬車が這入つて来たり……雑多な家具調度が、家の外に運び出されて、縄で梱られたり、筵で包まれたりする物珍らしい光景が現はれました。

 ヂョンは興奮した態度で、異様な諸道具の積み重なりの間を駆け廻り、嗅ぎ廻り、検査して騒ぎました。

 運ばれる荷物を待つて木の下に繋がれてゐた荷馬車の馬に対しては、殊に示威的に吠えました。

 栗毛色の尻つ尾がその大きな身体から独立した生き物ででもあるかの如く、長い毛の房を振つて動く度に、一層勢ひ立つて吠えました。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p146~147)

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 荷物の片付けがすんで、人々が別れの挨拶に来るようになると、素一は感傷的になってきた。

 ヂョンは引っ越しの最後のものだった。


 ……N子さんの良人のTさんが、何んにも知らず、気楽らしく植込の下に寝転んでゐたヂョンを引つ張つて来ました。

「とても結(いは)かなくちや駄目ですね。」

 Tさんは斯う云つて用意してゐた綱を出して、それをヂョンの頸環に結びつけました。

「ぢゃ、左様なら。」

 終(つい)に別れの言葉が行く人と留まる人々の間に取り交わされました。

 けれどもヂョンは動かうともしませんでした。

 頸環に綱をつけられるまで、何の気もなくのんきにしてゐた彼も、今その綱を持つて強制的に自分を引き立てようとする主人を見ては……彼は綱の引く力に抵抗するため、後半身と後足に有りつたけの力を籠め、踏み反らした前足の間に頭を落しながら、主人を見上げて啼きました。

 その灰色のつぶらな目には、主人の異様な振舞に対する訴と哀求がありました。

「行くんだ、行くんだ! さあ確(しつ)かりしないか。」

 Tさんが斯う云つても、その言葉を解する能力のない不幸な家畜はただ悶えて啼きました。

 而(そ)してどうにかして免かれようとしたにも拘らず、矢張り引きずられて行きました。

「たうとうヂョン公も行つちまつた!」

 人々は庭に立つてそれを見送つてしまふと、落胆(がつかり)したやうにぞろ/\家へ入りました。

 黙つて一緒に帰つて来た友一の目には涙がありました。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p148~149)





 野上家では以前、ミナという純血のスコッチ・コリーを飼っていたことがあったが、弥生子によればミナの凛々しい外貌とヂョンのそれとは、天才と凡庸との差があったという。


 公平に云ふとヂョンは、寧ろ普通以下の見すぼらしい犬なのであります。

 身体も余り大きくはなく、彼の唯一の上衣なる毛皮は、頭と、脊中の一部と、左足の上の方に広い黒斑(くろぶち)を有つた白地でありました。

 それも床の下などの柔かい土の中に寝転ぶため、白さが決して純白に保たれないで、いつも汚れ滲んでゐるのも、彼をして一層貧乏臭く見えさせました。

 素直で、温順であるだけは何よりの取り得ではあつたが、それ以外には大した特長も見栄えもない犬で、若し何等の関係もなくそれを路傍で見たならば、きつと穢ならしい耄ぼれ犬として冷やかに看過されたかも知れませんでした。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p150~151)





 野上豊一郎、弥生子夫妻は、ヂョンなんかより「いい犬」をまた飼いましょうよと言って、「友一」こと素一の落胆を和らげようとした。

 素一もミナの朧げな記憶が甦り、ヂョンへの哀惜が徐々に薄らいで来た。

 それから一時間ほど経ち、野上家の面々はヂョンのことなどほとんど忘れかけ、それぞれの日常に戻っていた、そのときだった。

 前庭の方から不意に聞き慣れた犬の吠え声が聞こえた。

「おや、ヂョン公じゃないか?」

 弥生子がこう言った瞬間、素一は廊下に飛び出していた。

「ヂョン公だ! ヂョン公だ! お母様、ヂョン公が帰って来ましたよ!」





 彼は特別に犬の方へ呼びかける必要はありませんでした。

 ヂョンは彼の姿を見、彼の声を耳にすると同時に真つしぐらに駆けて来ましたから。

 飛びつく。

 吠える。

 嘗め廻す。

 かと思うと、ぢつとしてゐられないかのやうに滅茶苦茶に廊下の前を駆け廻る。

 鼻を鳴らす。

 耳をぴったり伏せて、千切れる程尻尾を振る。

 ーー言葉を知らないから、たゞ自分に出来得る限りの、表情と身振と声のあらゆる方法で、再び彼等を見た嬉しさを表はさうとする家畜の心持は、其処へ駆け寄つた人たちに、深い感動を起こさせないではすみませんでした。

 美しい情熱の交流は人間と動物の差別を撤しました。

 人々はみんな涙ぐましい心になつて彼の泥だらけの手を取つたり、頭を撫ぜたりして悦びました。

 頸環にはTさんが引つ張つて行く時に結びつけた綱が、そのまゝ五六寸ほどちぎれたまゝ残つてゐました。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p153)





 ヂョンは綱を引きちぎって来たのである。

 弥生子は子供の失望を紛らわすためとはいえ、昔の飼い犬まで引き合いに出して、彼を貶めたことを恥じた。


「ヂョン公! ヂョン公!」

 彼女は茶箪笥の抽斗から煎餅の袋を出して、自分でそれを投げてやり、子供達にも投げさせました。

 掌に近づいて来る彼の灰色の眼には、一点の遅疑も曇もありませんでした。

 彼女はその善良な瞳の前に恥ぢました。

「大事にしてあげなさいよ。折角帰つて来たんですもの。可愛いぢやありませんか。ね、いゝヂョン公よ。」

 彼女は今度は一生懸命で彼を褒める人になりました。

 友一は又友一で己惚れていゐました。

「ヂョン公は僕の友達だもの。Tさんなんかについて行きやしないや。」


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p154)


 ヂョンが帰って来たので預かついますから、心配しないで下さいというハガキを、野上豊一郎が辻に宛てて書いた。

 そして、脅かしてもすかしてもヂョンはついて来ることを嫌がり、白山下まで来たとき、綱を噛み切って逃げてしまったので、野上家へ帰っていたら当分お世話をお願いしたいという、辻の手紙が野上家に届いた。





 しかし、ヂョンの愛情が野枝の家より野上の家に厚かったわけではなさそうだった。


 何故なれば、彼は友一の家に纏はると同様の親しみと忠実を以つて、空家になつた元の家を守つてゐましたから。

 見捨てられた淋しい家の前に、彼は不断と変らぬのんきな様子をして寝転んでゐました。

 家の人たちが遊びにでも出掛けた一時の留守を預かつて居るかのやうに。

「ヂョンには、つまり、人間のする引越と云ふものが呑み込めなかつたのですわねぇ。」

 曽代子達は一つぱしをかしい事のやうに云つてそれを笑ひましたが、その後からまたただ笑つてばかりはすまされない或る事を考へさせられました。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p154~155)





 弥生子は野枝たちが道楽で引っ越したのではないことを、知っていた。


 ……犬には自由があり、その天賦の能力たる吠えること、主家を忠実に守る事に依つて、善き飼主から酬いられる糧は豊かであり彼等の小屋の藁の床は暖かであります。

 けれども、現代の多くの生活ーーことに精神的の仕事に生きようとする或る一部の人々の生活には……犬の有つほどの安定があるであらうか。

 彼等は自分の天賦と信ずる仕事を専念にしたと云つても、それからは何等物質的の酬いも待ち設けられないでありませう。

 犬が門を守る代りに鼠を捕らされる様な、不自然な、苦しい労力を費してさへ、家畜の得るだけの容易い糧は得られず、彼等の有つ程の快い家は死ぬまで有たされないのでした。

 ……強欲な家主の建てた小屋から小屋を渡り歩かなければならない、知識的な労働者の群! 

 彼等は或点に於いて犬よりも悲惨であります。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p155)



★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)



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第114回 三角山






文●ツルシカズヒコ



 辻と野枝が北豊島郡巣鴨町上駒込三二九番地から小石川区竹早町八二番地に引っ越し、辻の母・美津、辻の妹・恒(つね)と同居を始めたのは、一九一四(大正三)年の夏だった。

 上駒込に住んでいた当時の野枝と野上弥生子の親交については、野枝は「雑音」その他で書いているし、弥生子も野枝を主人公にした小説「彼女」を書いている。

 弥生子は「小さい兄弟」という小説も書いていて、その中にも隣人である野枝と辻について、あるいは野枝の家の飼い犬「ヂョン」についての言及があり、そして野上家と辻家があった「染井」についての当時の風景描写などもあるので、「小さい兄弟」の中から紹介してみたい。

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「小さい兄弟」の初出は、『読売新聞』一九一六(大正五)年一月一日から三月十七日まで六十二回にわたり連載された「二人の小さいヴアガボンド」であるが、単行本収録時に「小さい兄弟」に改題された。

「小さい兄弟」の時間軸は一九一五(大正四)年に設定されているが、実際には野枝たちはすでに前年、染井から小石川区竹早町に引っ越していた。

 この小説の中の「曽代子(そよこ)」が弥生子、「友(とも)一」が長男・素一、「邦夫」が次男・茂吉郎である。

 野上家の女中の「きみ」の実家は野上家の近所にあり、実家の家業は植木屋だが、当時の染井には植木職人が多く住んでいたという土地柄が、こんなところにも反影されている。

 染井の一帯が新興住宅街になりつつあった状況を、弥生子はこう書いている。


 今までは大概植木屋ばかりで、その他は土地が高くなるにつれて、透いた植木畑の一部から幾らかでもいゝ金を得ようとして彼等が急拵(こしら)へに建てた長屋、青い木立などに囲まれた一寸した小家、斯う言ふ家並の……。

(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p101)





 近所には通称「三角山」と呼ばれている小さな森があったという。


 ……その森は、都市の膨張に連れて漸次に破壊されつゝある郊外の自然と、都市化と云ふその暴力に依つて痛ましく傷つけられた畸形な風物を想像させる一例でありました。

(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p132)


 三角山の森は一辺は郊外電車の堀割に沿っていて、一辺は墓地に通じる大通りに面し、最も短い一辺は市街電車の方へ行くのに、堀割の橋を越えないで行く近道に面している、不等辺三角形をしていた。


 そんな事情から、昔の暗い重々しい森林の威力は失はれて了つたが、木立が浅くなつたと共に日光が明かに照り通し、下草も青々と陽気な緑色に萌え拡がつて、明快な、小公園の風致を備えてゐました。

 実際その稜形の森一つに依つて、其一端から穏やかな斜面になつた堀割の土手、それにかゝつてゐる白く塗つた鉄橋、其向側の路に続くI男爵家の別邸の長い/\代赭色(たいしゃいろ)の煉瓦塀、これ等の対照は、その郊外の玄関をどれ程絵画的にしてゐるか分りませんでした。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p133)


 三角山の森は付近の住民からいろいろの意味で親しまれたが、夏期には日射しを遮る木陰を慕って子守りが乳母車を押して来たという。

 当連載101回」に、野枝が夏、森の中で「エマ・ゴールドマン小伝」を読み耽るシーンがあるが、この森は「三角山の森」だと推測できる。





 三角山の森は格好の子供たちの遊び場でもあり、弥生子の長男・素一も近所の悪童連とよくそこで遊んだ。


 ……森の楽隊なる蝉の盛んな根気のよい合奏の下で、有らゆる競技が始まります。

 其昆虫狩りは元よりとして、木登り、深い夏草の上での角力、斜面を芋虫のやうにころ/\下まで転がり落ちる競争、または奥の方の一段根深い叢から、大きな青大将を突つき出して、寄つてたかつて叩き殺した上、下を走る電車目がけて投げつける程の悪戯もしました。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p133~134)


 弥生子は自分の家と野枝の家との位置関係を、こう書いている。


 ……家は通りからずつと奥に引つ込んでゐて、玄関から表門に達するまでには、花崗岩(みかげ)の長方形の敷石の四十枚以上を数えなければなりませんでした。

 ……宏壮な邸宅のやうに思はれますが、事実は大違ひであります。

 その敷石はそれに沿うて建つてゐる三軒の家と共同の通路であり、その門さへ……姓名一つのみを掲げて置く自由のない一種の共同門でありました。

 ……同じ構内の家の一つに……友達でN子さんと呼ぶ人の一家が住まつてゐました。

 ヂョンは……その家の飼犬なのでした。


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p144~145)


 素一とジョンはすぐに親友になり、敷石と門とが共通であるように、いつの間にかジョンは野上家と辻家の両家のペットになった。





「ヂョン公! ヂョン公! ヂョン公!」

 斯う呼ばれて、彼は両家族の間をあちこち駆け廻りました。

 殊に……友一は、この動物のために幾らその生活を豊富にされたか分りませんでした。

「ヂョンヂョ公! ヂョンヂョ公! ヂョンヂョ公!」

 彼は戯れにこんな呼び方をしてをかしがりました。

 どう呼ばれようと、彼の声が庭の方に聞こえさへすれば、ヂョンは何処からでもすぐと駆けつけ、敬畏と親愛のしるしとして手をペラ/\嘗めたり、はしゃいだ元気のいゝ吠え方をして、友一の周囲を二三遍飛び廻つたりしました。

 時に依るとジョンは後足だけで立つて、頬まで嘗めずりました。

 縁側に坐つてからかつてゐる時などは、踏石に坐つてゐる犬の頭が、丁度彼の顔を嘗めるに都合のよい位置になるのでした。

「ほら御覧なさいまし。今朝ほどお顔を洗はなかつたから、ヂョン公に嘗められたので御座いますよ。」

 時々顔を洗ふ事を面倒がつてきみを手古ずらせる悪い癖を、それに結びつけて彼女から冷やかされると、友一は非常に自尊心を傷つけられる気がしました。

「僕洗つたよ。きみやが行つちまつてから洗つたんぢやないか。」

 彼はこんな嘘を反抗的にわざと威張つてつきましたが、でも小さい心の中では真面目にその批評を訝(いぶ)かりました。

「今朝顔を洗はなかつたのを、どうしてヂョン公が知つてるのだらう?」


(「小さい兄弟」/『野上彌生子全集 第三巻』_p145~146)



※野上弥生子「三人の子供は皆学者」




★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)




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2016年04月23日

第113回 色欲の餓鬼






文●ツルシカズヒコ



  野枝は『青鞜』一九一四年七月号に「下田次郎氏にーー日本婦人の革新時代に就いて」(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)を発表。

 東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)教授であり、女子教育において良妻賢母思想を基調とした論陣を長く張った下田次郎を批判した。

『婦人評論』(一九一四年六月一日)に掲載された下田次郎「日本婦人の革新時代」への反論である。

 野枝はまず下田が捏造された新聞や雑誌の記事やそれを真に受けた世評で、自分たち「新しい女」を軽率に論じていることを批判している。

 下田は西欧と今日の日本の「新しい女」を比較し、西欧の「新しい女」は尊敬できるが、日本の「新しい女」は周囲から新しくさせられただけで尊敬できないと論じた。

 野枝はらいてうがエレン・ケイの理解者であり、自分もエマ・ゴールドマンの理解者であるから、下田が信奉するイギリスのヴクトリア朝が生み出した良妻賢母思想などより、より深い自覚を持っていると反論した。

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 初夏、野上弥生子の家はそれまでのところから五、六軒下手の二階家に引っ越した。

 その家は野枝の家のちょうど後ろに当たり、同じ一廓の地続きだった。

 弥生子の二階の書斎から、野枝の家の目標として眺めていたの暗緑色の偉大な毬が間近に見えた。

 廊下に立てば野枝の家の中まで見下ろされた。


 二人は日に何度となく顔を合せ、声を聞き合ひました。

 何か急に話し度い事でも出来ると手襷(たすき)をかけながらでも飛んで行きました。

 彼女はまた、実際忙しかった。

 子を育てると共に自分自身の人間としての成長をも怠るまいとする努力は、普通の母親の二倍の骨折りでなければなりません。

 その上家庭の面倒と生活の苦痛がありました。

 彼女は、でもそれに対して、何処まで辛抱強い、勇気を示しました。

 それを見てゐると、伸子は彼女の為めに一緒に泣いて祈つて上げたいやうな感激を覚える時さへありました。

「あの人をよくしてあげ度ひ。」

 伸子の心持ちにはこれより外の何物もありませんでした。

 そしてそんな善い友達を手近に持つてゐた自分の幸福をも感謝しました。


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上弥生子全集 第三巻』_p310)
 




 弥生子は野枝を通じて、近くに住むらいてうや岩野清子を知った。

 みんなはよく野枝の家に集まった。

 涼しい夏の幾夜を、彼らは愉快な笑い声の中に過ごした。

「みんながこのまま仲よく手を引いて進めばいいのだ。それでいいのだ」

 弥生子は勇気を感じ、光明を感じ、希望を感じた。

 九月になると、弥生子は大分にいる父の病を聞いて、一家を上げて帰省した。

 この間の野上家の留守宅を預かったのが野枝だった。

 当時のことをらいてうは、こう回想している。

 
 ……広い野上さんのお家の方へ行って、食事をすることもまれにありました。

 野枝さんが野上さんの家を、自分の家のようにして遠慮なしに道具を使い、きれいなふとんを出して、赤ちゃんを寝かせたりするのを見て、こちらは気が咎めたものです。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p519)





 七月二十八日の『東京朝日新聞』に「困った女の問題」と題して、警保局安河内麻吉(やすこうち・あさきち)の談話が載った。

 その中に「青鞜社とか云う連中」は「色欲の餓鬼」という発言があった。

 らいてうと二月に男児の母になっていた岩野清子は内務省を訪れ安河内に面会を求めたが、図書課長が応対に出て「言責」問題はウヤムヤにされた。

『青鞜』八月号「最近の感想」で、野枝は雑誌『エゴ』に載った千家元麿の脚本「家出の前後」を大推薦している。

『エゴ』は『白樺』の衛星誌と言われていた。



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)



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第112回 妙義神社






文●ツルシカズヒコ


 一九一四(大正三)年六月、らいてうと奥村は北豊島郡巣鴨町一一六三番地から、北豊島郡巣鴨町上駒込四一一番地に引っ越した。

 青鞜社の事務所の住所もここに移ったことになる。

 野枝の家とは道路ひとつ隔てた妙義神社前の貸家だった。

 野枝が家事の苦手ならいてうに、炊事を引き受けてもよいと申し出たからである。

 らいてうが月十円の実費を持ち、野枝のところに昼と夜の食事をしに行くことになった。

 そのころ辻と野枝は辻の家族とは別居し、一(まこと)との三人暮らしだった。

 辻はいつも三畳の書斎の真ん中に机を置き、スピノザの石版刷りの額の下で翻訳のペンを運んでいた。

 辻の息抜きは尺八を吹くことだった。

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 あのころ、辻さんのお母さんたちとは……別居していたからでしょうが、家のなかには、炊事道具などほとんどなく、金盥(かなだらい)がすき焼鍋に変わったり、鏡を裏返して、俎板(まないた)代わりに使われたりしていました。

 茶碗などもないので、一枚の大皿に、お菜とご飯の盛りつけです。

 野枝さんは、料理が下手というより、そんなことはどうでもいいというふうで、コマ切れのシチューまがいのものを、ご飯の上へかけたものなど、得体の知れないものをよくつくりました。

 仕事は手早い代りに、汚いことも、まずいことも平気です。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p518)


 野枝の手料理はともかく、食後の会話は盛り上がった。

 辻は音楽や絵画にも造詣が深かったので、奥村ともよく話が合った。

 帝劇の女優と結婚した原田潤も巣鴨に越してきて仲間に加わり、座は盛り上がった。


 ……こんなとき、野枝さんは大きくふくらんだ白い胸元をひらいて、赤ちゃんにお乳をふくませながら、みんなの話に大きな声でよく笑い、また、よく怒ったものでした。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p519)


 しかし、らいてうと野枝の共同炊事は一ヶ月も続かなかった。

 生まれつき肉嫌いで、食べ物の好き嫌いが激しい奥村が我慢しきれなかったからである。





 野枝は『青鞜』六月号に二本の原稿を書いた。

●「S先生に」

「S先生」は上野高女の教頭・佐藤政次郎(まさじろう)である。

 佐藤は野枝の上野高女五年時の担任・西原和治とともに、このとき(一九一四年)上野高女にまだ奉職していた(ふたりは同校を一九一五年三月に退職)。

 当連載の第三十五回「出奔(七)」に「S先生に」の主旨を記したが、野枝は恩師であった佐藤を批判した。

 
 私はあの事件で子供から一足とびに大人になました。

 私は学校で先生方に伺つたお講義が何の役にも立たないことを確かめ得ました。


(「S先生に」/『青鞜』1914年6月号・第4巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p80)


●「読んだものから」

 中川臨川「天才と永遠の女性」(『創造』一九一四年五月号)、早川鉄治「現代婦人の欠点」(『婦人評論』一九一四年五月一日)に対する反論である。

 野枝はこの反論の最後をこう結んでいる。





 どの方面に向ふ人にしても、日本人には深刻がない。

 私はそれが一番不満だ。

 根ざしが深くないからだ。

 道徳だつて宗教だつて皆徹底したものは一つもない。

 容易に形式だけは新らいしものをとり入れてゐる。

 内容は依然として旧い。

 そして『調和』してゐると喜こんでゐる。

 私は『調和』を悪(にく)む。

『中庸』を悪む、徹底しなければ力は出ない。

『どつちつかず』には、自己の信条と云ふものがない。

 日本人は日本固有の何物も持たない。

 本当の国民性と云ふやうな何物にも動かない力強い内的特点は一つもない情ない国民だ。


(「読んだものから」/『青鞜』一九一四年六月号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p)



★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



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第111回 染井の森






文●ツルシカズヒコ




「散歩いたしませんか」

 こう言って誘いに来た野枝と連れ立って、野上弥生子が家から近い染井の森へ行ったのは、ある春の日だった。

 野枝は一(まこと)をおんぶしていた。

 弥生子は下婢の背中に下の子(野上茂吉郎)を預け、そのかわり四つになる小さい兄(野上素一)の手を引いていた。

「なんといういい日でしょうね」

「この四、五日はまた特別ね」

「鶯がよく啼くじゃありませんか」

「こんな季節になると、ここいらに住んでいるのが本当に、幸せだというような気持ちがいたしますよ」

 ふたりはこんな感嘆詞を連ねながら、墓地の方へ歩いて行った。

 野枝が案内するという森は、その墓地の後ろに当たり、付近に広大な別邸を持つ岩崎男爵の所有地だったが、弥生子はその存在すら知らなかった。

「まあ、そんなところがあるのですか」

「あの森をまだ知らなかったのですか」

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 墓地を通り抜けながら、ふたりはそこに眠っているいく人かの知人のことなどを静かに話した。

 森は樹木の多いわりに、明るく朗らかだった。

 午前十一時ごろの日光が樹木に添って一直線に降っていた。

 初めは松ばかりだったが、奥に入るにしたがって、杉、檜(ヒノキ)、楓(カエデ)、栗、欅(ケヤキ)のごとき樹木が光の中に現れた。

 他にも雑多な樹や草が生い茂っていたが、弥生子はいつものごとく植物学の知識の欠乏を痛感した。

「私はときどき自分は何ひとつ正確に知っていることはないのだと考えて、悲しくなることがありますよ」

 弥生子はゲーテ『伊太利紀行』を読んだばかりだったが、この書物が農業誌と地質誌と建築学の考証であるのに驚いた。

 万有を吸収したといっていい偉大なゲーテにとっては、なんでもないことなのだろうが、それほどの天才と虫のような自分たちを比較するのは僭越であるのは承知の上だったが、弥生子の感激は純粋だった。

「うんと勉強してお互いに偉くなりましょうね。ええ、きっとなりましょう」

 ふたりは宣誓のようにいつも取り交わすこの言葉を、この日も熱心に繰り返した。

 一(まこと)を出産した野枝は、独身者が多い青鞜社の仲間とは毛色の異なる弥生子に接近していった。

 長くさし出した栗の枝の下に、ふたりは並んで足を投げ出しながら、その日もいろいろなことを話した。

 最後に話題が人間の衣食問題になったとき、弥生子は野枝とその家庭に横たわる苦しい事情を知った。

 野枝の青いやつれの目立つ顔を見ていると、弥生子は悲しくなった。

 しかし、森の美しい光景はそれ以上、貧乏話を続けていはいられないほど、輝やかしく愉快な魅力に充ちていた。





 弥生子の四つの男の子と下婢が向こうの茂みの方へ走り出した。

 彼の白い前掛けと女中の赤い帯が、樹幹の間にちらちらした。

「あのくらいになるともう世話なしですわね。坊やも早く大きくなってちょうだい」

 野枝は背中から下ろして抱いている子供に向かってこう言い聞かせ、もうお乳のころだといって胸を開けた。


「ぢゃ、あなたにもひとつ御馳走しませうね。」

 伸子は下婢から先刻受取つて、側の草原におねんねこにくるんで寝かしておいた子供を自分も抱きあげて乳をやりました。

 子供は二人とも可なり智慧づいてゐました。

 而して空いた胃袋を充たさうとして乳房に搦む舌の力にも、男性らしい強さがありました。

 一種の性的感覚であるとまで見なされてゐるその触覚(タッチ)は、彼等の赤ん坊臭い、甘い皮膚の匂ひと共に母親の胸には、特殊な快さでなければなりませんでした。

 痛い位ゐ張りきつた乳腺が、汐の引くやうに軽く萎えて行くだけでもいゝ気持ちでありました。

 その時ほとんど天の真ん中に沖した太陽は、その栗の枝を通して樹下の若い母親達の授乳を照らしました。

 葉を辷(すべ)つた光りの斑点が、二人のひろげた胸や、其処に埋めてゐる赤ん坊の頭の上にちら/\しました。

「斯うしてゐると何んだか眠くなるわねぇ。」

 彼女は重い瞼をあげて眩しさうに笑ひました。

 伸子には今日の風変りな授乳が面白く顧られました。

 いつもこんないゝお天気で、そしてこんな野天でのんきに暮らしてゐたら、それこそ一枚の毛皮と木の実を食べても生きて行かれそうな気がしました。


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号/『野上弥生子全集 第三巻』_p307308)





 赤ん坊ばかりではなく、母親たちの胃の腑も昼食を欲するころ合いであったが、弥生子はまだここを離れたくはない気がした。

「ねぇ、いいことがあるわ、ここでお弁当を食べましょうよ」

 帰りに花でも買えばと思って、弥生子は二十銭銀貨を一枚帯の間に挟んでいた。

 下婢を呼んでそれを渡し、巣鴨町の通りに出てパンでも買って来るように命じた。

「僕も行きたいなァ」

 下婢と子供とふたりで行くことになった。

 三十分ほどで餡パンを買った使いが帰って来た。

 四人で五つずつの分け前になった。

「ああ、おいしい、おいしい」

 歩き回ったので実際おいしくもあったが、同時に少し誇張した悦びを見せて、みんな笑いながら、風変わりな場所での風変わりなランチをすませた。

「生活難なんて考えようじゃないでしょうか。これだけ食べられれば、とにかく胃袋は一杯なんですものね」

 どうにでもなっていくものだから、あまり余計な心配はしないようにという心で弥生子は野枝を慰めた。

 自分も決して富んでいる隣人ではないけれども、できるだけのことはしてあげたい気持ちになった。

 森を出るときには、その半日によって、ふたりの友情は一層の深まりを持った。



★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)



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第110回 読売婦人附録






文●ツルシカズヒコ



 一九一四(大正三)年、保持研子(よしこ)がこの年の『青鞜』五月号を最後に青鞜社を去り、創刊時の発起人はらいてうただひとりになった。

『青鞜』八月号が保持の結婚の報を伝えている。


 白雨氏……結婚、小野氏と改名。社の事務は全くとられないことになりました。

(「編輯室より」/『青鞜』1914年8月号・第4巻第8号)


「白雨」は保持のペンネームであるが、結婚相手の小野東は南湖院に入院していた患者で、二年前の夏に馬入川(ばにゅうがわ)で船遊びした際に棹をさばいた回復期の元気な青年だった。

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『青鞜』の発行所の尚文堂が四月号を最後に手を引き、発行所は再び東京堂に戻った。

『青鞜』の売れ行きは落ちていった。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』によれば、保持はひとまず郷里に帰り、青鞜社事務所はらいてうの自宅に置かれた。

『青鞜』に関する一切の仕事が、らいてうひとりの肩にかかるようになった。


 ……ひとりで駆け歩いていた書店との交渉も、みんな不調に終わり……。

 毎日毎日、雑用に追いまくられるおもいで、五月、六月、七月、八月と号を重ねてどうにかやってはゆきましたものの、自分の原稿も書かねばならないというあわただしさに加えて、毎月の欠損を、自分たちの生活とともに心配してゆかねばなりません。

「青鞜」の発行部数は、東雲堂時代を頂点に、だんだん下り坂に向かう一方ですが、以前のように欠損はみんな母に押し付けるわけにはもうゆきません。

 静かな自分の時間をもちたい、静かに考えたい、静かに読み、静かに書きたいーーこのままでは、自分自身の心の世界が失われてしまいそうだと、わたくしはおそれずにはいられませんでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p545)





 野枝は保持が関わるようになったころの『青鞜』について、こう書いている。


 ……社の……新らしい計画のために職を辞して来たY氏……が内部で働かれることになつたのですが氏のともすれば感情に依つてのみ人を知らうとする態度は書店との交渉に何時も嫌はれ勝ちでした。

 そうして経営の方面にY氏がかゝつて私がそれを手伝ひ平塚氏を助けて小林氏が編輯をすることになりました。

 けれどもその頃からもうもとのまゝの発行部数では少し多いと考へられるやうになりました。

 さうして私と小林氏は専ら書くことになつて一と先づ編輯の手伝ひ経営の手伝ひも止めて仕舞ひました。


(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p149)





『青鞜』一九一四年三月号に野枝が書いた「編輯室より」が掲載されているが、以後、しばらく野枝は「編輯室より」を書いていないので、野枝が「編輯の手伝ひ経営の手伝ひも止めて」いたのは、この年の春から夏ごろにかけてだろう。

 野枝はその間について、こう書いている。


 その間可なり社の事情とは遠くなつてゐましたのでよくは知りません。

 けれど平塚氏とY氏の間に何かのことがあつたらしいことは察せられます。

 種々の折衝があつた後平塚氏が一人で経営されることになりました。

 で経営の困難とその上たつた一人で何から何まで小面倒な仕事を執ると云ふことは……平塚氏にとつてどの位辛かつたかと云ふ事は私にも充分お察しが出来ます。

 そしてそれは殆ど半年間続きました。

 私は氏のその仕事に出来る丈けのお手伝ひはしたいと思ひましたけれど……子供のこと家のことに大半の時間を割かれそしてなを喰べることの労苦にも服しなければならないと云ふやう忙しい生活の中からとてもお手伝ひが出来さうにも思はれませんでした。


(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p149~150)





 野枝は『青鞜』五月号に以下の原稿を書いた。

●「西川文子氏の『婦人解放論』を読む」

 一九一三(大正二)年三月一日、西川文子、木村駒子、宮崎光子によって新真婦人会が創立され、同年四月に三人の合著『新らしき女の行く可き道』がを刊行された。

 同年五月に雑誌『新真婦人』創刊され、西川文子『婦人解放論』が刊行されたのは一九一四(大正三)年二月だった。

 野枝の訳著『婦人解放の悲劇』が刊行されたのは、『婦人解放論』が刊行された翌月だった。

 野枝としては「婦人解放」について有意義な批評をするつもりだったが、「読んで行くに従つて論文と云ふやうな厳格なものを読んでゐるのではなくありふれた婦人雑誌の経験談」を読まされているような気持ちになり、批評する気にはならなくなった。

 そして、こう批判した。


 浅薄な皮相な新しいものに向つての理解を旧いものに向つて結びつけやうとする著者の態度は私共にとつて呪ふべきものである。半理解ーーこれほどいやなものはない。

 旧いものは旧い者で徹底すれば其処に矢張り意義が生れて来る。

 新しいものを往く処まで往けば基が築ける力が出て来る。

 そして後の正々堂々たる本当の火花を散らしての生命と生命の戦こそ私達を真実に強くするものなのだ。


(「西川文子氏の『婦人解放論』を読む」/『青鞜』1914年5月号・第4巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p69)





●「読んだものの評と最近雑想」

『読売新聞』は一九一四(大正三)年四月、小橋三四子(こばし・みよこ)を編輯主任にして、与謝野晶子と田村俊子を社員として迎え「婦人附録」を設けた。

「婦人附録」は一九一九年に「よみうり婦人欄」となる。

『読売新聞』に新設された「婦人附録」を読んだ野枝は、こう批判している。

 
 ……この頃大分世間でも婦人問題と云ふ言葉を聞くやうになつたので少し注意して見ると、どれも/\実に愚劣なことばかり云つてゐ。

 近く読売新聞に婦人附録が附くやうになつた。

 私達はそれで世間の人たちが非常に婦人問題と云ふものに対しての考へが間違つてゐる事を知つた。

 殆んどすべて私達とはずつと違つたいゝ加減な考へを持つてゐるらしい。

 果たして婦人問題があんな人々の云ふやうな浅い処から出たものならば八毛ケ間敷(やかまし)くさはぎ立てる必要はない。

 私は婦人附録の最初に出た、今日本で最も女子教育などに影響を及ぼす重要な地位にゐる人々の婦人に対する定見のないことおよびその無責任さ加減に呆れてしまつた。

 馬鹿々々しくなつた。

 皆すべて新らしきものに対して無理解であると云はれることを恐れるかのやうに、流行の言葉を用ひ而(しこう)して流行の新らしい女のことに云ひ及ぼしてゐる。

 併しその云ふ処の根本の思想は、依然として個性を無視した道徳から一歩も出てはゐない。

 やがてそれは読売婦人附録の態度であるとも云へる。

 何と云ふ不徹底な沸(に)えきらない編輯振りであらう。

 私達は本当に自己の智識や内生活をもっと/\充実させて今に/\本当のムーヴメントを起して根底からあゝ云ふ愚劣な思想を覆へさなけばならない。

 私達は世間に出て本当にえらい者になる前に先(ま)づ自己に対して、真実な勇者であらねばならない。

(「読んだものの評と最近雑想」/『青鞜』1914年5月号・第4巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p73~74)





「読んだものの評と最近雑想」によれば、野枝は『文章世界』と『中央公論』を読んでみた。

『文章世界』では大家である正宗白鳥と田山花袋のエッセイはつまらないと評し、長田秀雄(ながた・ひでお)の喜劇「妊婦授産所」、小山内薫「蒲公英の花」を評価している。

『中央公論』では田村俊子「炮烙(ほうらく)の刑」を高く評価している。


 ……私が今まで読んだ同氏のものゝ中ではすぐれたものゝ一つであると信じる。

(「読んだものの評と最近雑想」/『青鞜』1914年5月号・第4巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p75)




★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 13:15| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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