2019年12月16日
史実とは違う!? 『忠臣蔵』の相違点
『忠臣蔵』は史実をもとに創作された “物語”
前回のブログでは赤穂浪士の討ち入りについて語りました。
しかしながら、一つ強調しておきたいのは、赤穂浪士の討ち入り(=赤穂事件)と『忠臣蔵』は全く同じというわけではない、ということです。
赤穂事件は史実ですが、『忠臣蔵』はあくまで物語なのです。
勿論、『忠臣蔵』が赤穂事件を題材に描かれたのは事実ですが、江戸時代の浄瑠璃や歌舞伎、現代の映画やドラマは、見る側の共感を呼んでより感動させるため、史実に様々な脚色が加えられているのです。
例えば、
・討ち入り当日、積雪はあったが天気は晴れていた
・内蔵助は陣太鼓など打ち鳴らしていない
・上野介は物置小屋から引き出されて皆の前で殺されたのではなく、物置小屋で発見された時点で殺された
などが映画やドラマで印象に残るシーンと史実との違いです。
まあ、上に列挙したのは比較的細かな点ですが、他にも『忠臣蔵』の物語との違いや謎が隠されているのです。
というわけで、今回は赤穂浪士の討ち入りと『忠臣蔵』の相違点や疑問などについて語りたいと思います。
実は四十七士ではなく四十六士 !?
まず、赤穂浪士は一般に“四十七士”といわれていますが、実際に討ち入りに参加したのは46人だったのではないかということです。
なぜなら、前回のブログで記したように、事件後幕府は討ち入りした浪士全員に切腹を命じましたが、幕府の記録によると切腹した浪士は46人だったからです。
ここで、その謎のキーマンとなるのが、寺坂吉右衛門という人物です。
彼は赤穂浪士の一人ですが、切腹を命じられていない、つまり、討ち入りには参加していなかったからではないか、ということです。
吉右衛門が参加しなかった理由として、討ち入りの頭数から外されたとする説や、討ち入り直前に逃亡したとする説などがありますが、実際に参加したかどうかも含めて謎とされています。
また、『忠臣蔵』の物語は、江戸時代の『仮名手本忠臣蔵』が元になっていて、仮名手本とは「いろは仮名」47文字のことなので、この47という数字になぞらえて四十七士になったともいわれています。
実はこの「いろは仮名」には、赤穂浪士にまつわる“隠し文字”が残されています。
いろは仮名を順に並べ七文字ずつに区切ると
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす
となり、それぞれ最後の文字を繋ぎ合わせると・・・そう、咎無くて死す、つまり、赤穂浪士の切腹は無実だという訴えが隠されているのです。
しかし、これを公然と主張すると、幕府の裁定を批判したとして処罰されてしまうので、あえて隠し文字にしたということです。
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幕府は討ち入りを黙認していた !?
これについては、内匠頭が起こした刃傷事件から赤穂浪士の討ち入りまで一年九ヶ月もの期間がありながら、なぜ途中で幕府に発覚しなかったのかという謎から出た疑問です。
江戸時代、幕府は広域にわたる情報網と厳しい監視体制を敷くことで事前に反逆の芽を摘み取っていました。
まして、内匠頭の刃傷沙汰は江戸城内で起きた重大事件ですから、内匠頭の残された遺臣たちが幕府に監視されていたのは確実です。
そんな中でもし彼らが不穏な動きをみせれば、すぐ幕府に発覚し未然に防がれていたと思われるのです。
しかし、実際に赤穂浪士の討ち入りは成功しています。
このことから、幕府は赤穂浪士の討ち入りを知っていながら黙認したのではないか?という疑惑があるのです。
では、なぜ幕府は討ち入りを黙認したのでしょうか?
刃傷事件は内匠頭が起こしたとはいえ、そうなった経緯には理由があるでしょうし、同情の余地もあるはずです。
しかし、幕府の裁定は内匠頭に厳しく上野介に甘いというあまりに一方的なものでした。
この不公平と思われる裁定を知った庶民が内匠頭に同情し、幕府に対して不満を募らせたので、幕府もそれを敏感に感じ取ったのではないでしょうか?
そこで、幕府は討ち入りの情報を掴んでいながら黙認し、敢えて赤穂浪士たちに上野介を討たせることで庶民のうっぷんを晴らし幕府への不満を逸らせた、と考えられるのです。
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その他の相違点
@四十七士の衣装はバラバラだった
『忠臣蔵』の映画やドラマでは、四十七士の衣装はカッコ良く統一されてますが、実際には討ち入りすることがバレないよう目立つ格好はせず、火事衣装(火消しの格好)に身をまとい「黒っぽい衣装を着て、もし見咎められたら火消しのフリをしろ」との指示が出ていたそうです。
赤穂浪士の衣装が派手に統一されたのは後に演じられた歌舞伎の影響であり、幕末の新撰組の衣装は歌舞伎の赤穂浪士を真似たものといわれています。
大石内蔵助
A吉良方の小林平八郎は勇敢に戦っていなかった
『忠臣蔵』を何度も見られている方ならご存じだと思うのですが、吉良方の小林平八郎という家臣は赤穂浪士と激闘を繰り広げた末、討死したことになっています。
しかし、記録によると平八郎は討ち入り時に吉良邸からこっそり脱出しようとしていたらしく、浪士たちに捕まり「上野介の居場所を白状しろ」と問い詰められると「自分は下々の者だから知らない」とシラを切り、「下々の者が絹の衣装など着ているか!」と、あっさり斬られたらしいです。
B討ち入りは14日ではなく15日 !?
前回のブログにも討ち入りは「12月14日深夜」と書きましたが、厳密に言うならば15日の午前4時頃ということになります。
これを14日とする所以は、当時の人々は日の出が一日の始まりと考えていたからです。
つまり、真冬の午前4時は夜明け前ですから15日の朝ではなく14日の深夜と考えるのが正しかったのです。
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まとめ
- 赤穂浪士の討ち入りは史実だが『忠臣蔵』はあくまで物語なので、討ち入りと『忠臣蔵』が全く同じわけではない
- 討ち入り後に幕府が命じた浪士の切腹は46人だったことから、討ち入りも47人ではなく46人だった可能性がある
- 幕府は庶民の不満を逸らすため、討ち入りを黙認していたかもしれない
『忠臣蔵』の大きな謎とされている内匠頭が凶行に及んだ理由についてはまた別の機会に語りたいと思います。
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