2019年12月13日
『忠臣蔵』・・・ホントにご存じですか?
日本人が最も好む仇討ち話
明日12月14日は赤穂浪士の討ち入り(赤穂事件)があった日です。(元禄十五年 1702年)※旧暦年
赤穂浪士の討ち入りとは、いわゆる『忠臣蔵』のことです。
『忠臣蔵』といえば、最近は堤真一さんと岡村隆史さん主演の映画『決算!忠臣蔵』が話題ですね。
この映画も、赤穂浪士が実際に討ち入りした時期に合わせての上映ということになります。
おそらくこの映画が作られるきっかけとなったのは、2014年に公開された『超高速! 参勤交代』(主演:佐々木蔵之介)のヒットによるものと思われます。
これら最近の時代劇映画は、やたら見栄えするカッコいい描き方よりも、諸藩の実情を考慮したコミカルな内容のものがウケているようですね。
『忠臣蔵』は日本人が最も好きな仇討ち話として、この時期の“日本の定番”なのですが・・・最近はどうなのでしょう?
年配の方々に問えば「バカにするな!」と言われてしまうほど誰でも知ってて当然の物語ですが、若い人たちは『忠臣蔵』の名称は知っていても、その内容についてはそれほど知らない人も多いのでは?と思ってしまうのです。
というわけで、今回は(今更と思われつつも)『忠臣蔵』について語りたいと思います。
きっかけは江戸城松の廊下で起こった “刃傷事件”
元禄十四年(1701年)3月14日
この日、播州(播磨国 現在の兵庫県)赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり 以下、内匠頭)は、江戸城において天皇の勅使を迎えるための大事な饗応役(きょうおうやく=接待係)を任されていました。
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ 以下、上野介)は、公家を接待する際の式典作法などに詳しく、内匠頭の指南役(しなんやく=指導係)でした。
内匠頭は、指南役の上野介とのやり取りの中で(許し難い侮辱行為)があったとし、松の廊下において
「この間の遺恨おぼえたるか!」
と叫び、持っていた脇差(短刀)で上野介の額を斬りつけました。
内匠頭はすぐに取り押さえられ、上野介も命に別状はありませんでしたが、将軍の居城である江戸城内(殿中)での刃傷沙汰など言語道断の大事件です。
激怒した将軍・綱吉は内匠頭に即刻切腹を命じ、内匠頭の赤穂藩5万3千石は取り潰しとなってしまいました。
一方、上野介は抵抗せず刀も抜かなかったとして、一切お咎めはありませんでした。
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亡き主君の無念を晴らすべく決起する忠臣たち
この刃傷事件の一報が赤穂藩にもたらされたのは、事件から5日後の3月19日のことでした。
浅野家の筆頭家老であった大石内蔵助(おおいしくらのすけ)は、幕府の裁定に納得がいかず、籠城して幕府に抗議することを主張します。
しかし、次席家老の大野九郎兵衛は、幕府の心証を損なわないために籠城などせず、後にお家再興を図るべきだと主張したため、家中の意見は大きく分かれました。
最初は籠城を主張した内蔵助ですが、彼もやはりお家再興を望んでいたので、周囲の説得に応じる形で一旦城を明け渡し幕府の裁定に従うこととなりました。
その後、幕府が浅野家を赦免することはなく、お家再興が叶わないことを知った内蔵助は、亡き主君の無念を晴らすため、ついに上野介を討ち果たす決意をしました。
元禄十五年(1702年)12月14日 深夜
内蔵助以下赤穂浪士四十七人は、江戸本所松坂町にある吉良邸前におのおの武器を手に集結、討ち入りを決行します。
この時、吉良邸には100人ほどの家臣がおりましたが、実際に内蔵助たちと戦った者は40人程度だったといわれています。
およそ二時間に及ぶ激闘の末、ついに物置小屋に隠れていた上野介を捕え討ち取ることに成功しました。
そして、討ち取った上野介の首は主君・内匠頭の墓前に捧げられました。
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忠臣たちの処分に悩む幕府
赤穂浪士の仇討ち劇はすぐに江戸中で大評判となり、主人への忠義が尊ばれた時代だったので、庶民たちはこぞって赤穂浪士の討ち入りを称賛しました。
しかし、幕府の立場としては、理由はどうあれ深夜に大勢で他人の家に押し入り人を殺す、いわば“強盗殺人まがい”のことをした彼らを庶民と一緒になって褒め称えるわけにはいきません。
もし幕府が彼らの行動を認めてしまったら、江戸の秩序が保たれないばかりでなく、幕府の最初の裁定(内匠頭の切腹と上野介の無罪)が間違いだったと認めることにもなってしまうからです。
とはいえ、多くの庶民感情を考慮すると、彼らに非情な処分を下した場合、庶民の不満が幕府に向けられるのは必至です。
こうした諸事情から幕府が悩んだ末に出した結論は、赤穂浪士全員の切腹です。
一見、非情な裁定と思われるかもしれませんが、当時の武士社会において、打ち首などの処刑ではなく、名誉の切腹なら彼らの武士としての面目が保たれるためです。
一方の吉良家はどうなったかというと、上野介の養嗣子・義周(よしちか)は父を守れなかった不手際を咎められ、所領没収のうえ信濃(長野県)へ流罪というやや理不尽な裁定が下されます。
そして4年後、義周は配流先において21歳の若さで病死し、室町幕府以来の名門・吉良家は断絶してしまいました。
幕府は刃傷事件の時とは逆に吉良家に厳しい処分を下すことで、幕府に対する庶民の不満を除こうとしたのではないでしょうか。
元禄十六年(1703年)2月4日
赤穂浪士たちは潔く切腹し、彼らは主君の眠る泉岳寺(港区高輪)に葬られました。
まとめ
- 討ち入りのきっかけは浅野内匠頭が江戸城内で起こした刃傷事件
- 主君を失った浅野家の家臣たちは主君の無念を晴らすべく吉良邸討ち入りを決意した
- 討ち入りをした浪士たちへの裁定に悩んだ幕府は彼らを切腹処分とし、武士としての名誉だけは保たせた
次回は、物語としての『忠臣蔵』が実際の史実とどう違うのかを検証しますのでお楽しみに!
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