2019年12月11日
人喰い熊の恐怖! 三毛別羆事件
日本史上最悪の獣害事件
近年、山での餌が不足しているためか、熊が街中に出没するニュースをよく耳にします。
今年の夏にも札幌市郊外の住宅地にヒグマが何度も出没して話題となりました。
また、3年前の平成二十八年 (2016年)には、 秋田県鹿角市でツキノワグマがタケノコ採りに来ていた人を襲撃し4人が死亡、3人が重傷を負った事件も発生しています。
熊が人を襲う事例は昔から数多くありますが、その中でも最も悲惨な事件がこの時期の日本で起きていたことをご存じでしょうか?
それは、北海道で起きた三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)です。
事件現場に復元された家と巨大なヒグマ
これは、大正四年(1915年)12月9日から14日にかけて、北海道苫前郡苫前村三毛別(現 苫前町三渓)六線沢で発生し、エゾヒグマが数度にわたり民家を襲い、開拓民7名が死亡、3名が重傷を負った日本史上最悪の獣害事件です。
この事件については、フジテレビの「アンビリバボー」でも特集され、その衝撃的な内容が話題になった回といわれています。
僕もわりと最近までこの事件について知らなかったのですが、たまたま目にした記事に衝撃を受け、それから様々な文献を読み漁り、関連映像を見るにつれて、さらに背筋が寒くなる思いをしました。
北海道を恐怖に陥れた巨大ヒグマとは?
というわけで、今回は三毛別羆事件について語りたいと思います。
※グロテスクな表現が多いため、苦手な方は予めご遠慮下さい。
最初の悲劇
大正四年(1915年)11月
北海道三毛別六線沢に大きなヒグマが何度か出没したため、住民はマタギ(鉄砲を用いて熊などの野生動物を狩猟する者)を呼んだが、この時はヒグマを仕留めることができなかった。
通常、野生の熊は11月後半くらいから3〜4月にかけて、山の斜面や木の根元などの穴にこもり春になるまで冬眠する。
しかし、中にはあまりの巨体のために自分の身に合う越冬穴を見つけられず、冬眠し損ねた“穴持たず”と呼ばれる熊がいることもある。
この“穴持たず”の熊は、餌の少ない冬山において常に空腹状態でさまよっているので非常に気性が荒いといわれている。
マタギはこの時の大きなヒグマが“穴持たず”になる可能性があるとして住民に注意を呼びかけた。
同年12月9日
三毛別川上流にある太田家では、主人の三郎とこの家に寄宿していた長松要吉が朝から農作業に出掛けた。
家には三郎の内縁の妻である阿部マユ(34)と養子の幹雄(6)の2人が残っていた。
昼頃、要吉が食事のために帰宅すると、幹雄が土間の囲炉裏端の前でぽつんと座っている。
要吉が後ろから声を掛けるも返事がなかったので幹雄の前に回ると、幹雄は喉元をえぐられ側頭部には大きな穴が開けられていて既に死んでいた。
一瞬で恐怖に駆られた要吉はマユを呼んだが人の気配はなく、家の中を見渡すと大きな動物の足跡と何かを引きずったような血の痕跡が残っていた。
この状況から、家に侵入したヒグマがマユと幹雄を襲い、マユはヒグマに引きずられて山へ連れ去られたとみられた。
同10日
ヒグマに連れ去られたマユを探すために結成された捜索隊は早朝から山に入り、森の中を150bほど進んだところで巨大なヒグマと遭遇した。
ヒグマは捜索隊に襲い掛かったが、捜索隊の放った鉄砲音に驚き山奥へ逃げて行った。
ヒグマが現れた周辺を捜索すると、木の根元に血に染まった雪が覆い被せられており、その下に衣服と頭蓋骨や足の一部しか残されていないマユの遺体があった。
雪の下に埋まっていた理由は、ヒグマがマユの遺体を保存食にするための行動だったのだ。
食事宅配サービス【食のそよ風】
地獄絵図と化した明景家
マユの遺体を回収し太田家に戻したので、その晩に太田家ではマユと幹雄の通夜が行われた。
通夜の最中であった午後8時半頃、轟音と共に突如部屋の壁が崩れ、ヒグマが太田家に乱入してきた。
通夜の席はパニックに陥ったが、念のため鉄砲を持ち込んでいた者が発砲したためヒグマはすぐに逃げ出し、この時に被害者は出なかった。
ヒグマは一度獲得した獲物に対し異常なまでに執着する習性があるので、奪われたマユの遺体を取り返しに来たものと思われる。
その後、太田家から500bほど離れた明景(みょうけ)家で悲劇は起きた。
太田家を離れたヒグマが、次に明景家にいた人々を襲ったのだ。
この時、明景家には家族6人に加え、前日の騒動で避難してきた近所の斉藤家の3人と長松要吉の計10人がいたが、要吉を除いては女子供だけだった。
午後9時前、窓を破って明景家に侵入したヒグマは目の前にいる人間を誰彼構わず襲い、家中を暴れ回った。
明景金蔵と斉藤春義の二人の子供は一撃で撲殺され、斉藤巌も激しく噛みつかれた。
巌の次には妊婦だった斉藤タケが襲われ、タケは
「腹破らんでくれ!」
「喉喰って殺して!」
と胎児の命乞いをしたが、ヒグマは上半身からタケを喰った。
先に襲われた太田家にいた人々はヒグマが再び襲ってくることを恐れ、避難して明景家に向かっていた。
明景家に着くと、中からタケと思われる女の断末魔の叫び声、肉を咀嚼し骨を噛み砕く異様な音が響き、熊が暴れ回っている鈍い音が聞こえてきた。
ヒグマを威嚇するため外から空砲を放つと、ヒグマは入口を突き破って逃げて行った。
一行が中に入ると、血しぶきが天井まで飛び散り血の海と化した室内に、無残に食い裂かれたタケと金蔵、春義の遺体、そして下半身を喰われうめき声をあげていた巌(この後死亡)の姿があった。
まさに地獄絵図という他ない、想像を絶する光景がそこに広がっていた。
究極のツナ モンマルシェ
“伝説のマタギ” 現る!
同12日
住民から連絡を受けていた北海道警察がヒグマの討伐隊を組織し三毛別に到着。
その後、討伐隊とヒグマは何度かニアミスを繰り返すが、仕留めるには至らなかった。
同14日
警察の討伐隊とは別に三毛別にやって来た男がいた。
山本兵吉である。
兵吉は若い頃に鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し、「サバサキの兄(あにい)」と異名を持つ人物で、名うてのマタギとして知られていた。
この日の朝、討伐隊は雪の上に残っていたヒグマの足跡を追って山へ入った。
兵吉は討伐隊とは別行動を取り、単独で山に入った。
山頂付近では例のヒグマがふもとから登ってくる討伐隊の気配を感じ取り、待ち構えていた。
別ルートから討伐隊より先に山頂に着いた兵吉は、討伐隊が登ってくる方向に意識が向いているヒグマに気付かれぬよう静かに背後へ廻り込む。
そして、狙いを定めた兵吉の銃が火を吹いた!
一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ち抜いた。
しかし、ヒグマは怯むことなく振り返って兵吉を睨みつける。
即座に兵吉は次の弾を込め、素早く放たれた二発目は眉間を正確に射抜き、ついにヒグマは倒された。
午前10時、銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、住民を恐怖のどん底に陥れた巨大なヒグマの死骸だった。
このヒグマは金毛を交えた黒褐色の雄で、推定7〜8歳と見られ、体重380kg、身の丈2.7mにも及ぶ巨体であり、体と比較して頭部が異常に大きいのが特徴的だった。
一行が撃ち取られたヒグマの死骸を運んで下山すると、事件発生からしばらく晴天が続いていたにも関わらず、にわかに雪が降り始め、やがて吹雪へと天候が急変した。
マタギたちの言い伝えによれば、熊を殺すと空が荒れるという。
この時の天候急変を村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだ。
まとめ
- 三毛別羆事件とは、冬眠をし損ねた“穴持たず”と呼ばれる凶暴なヒグマが次々に住民を襲った惨劇
- この惨劇は7名が死亡(胎児を含む)3名が重傷を負った日本史上最悪の獣害事件
- この凶暴なヒグマを仕留めたのは山本兵吉という名うてのマタギ
この事件は100年以上前の出来事ですが、現代でも人間と野生の熊の共存には様々な課題が残されています。
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/9487814
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック