私の父は、非常に自我の強い人で、要介護になって、ほとんどベッドの上だけで暮らしている今でも、自分が要介護老人でほとんど寝たきりだということへの自覚がまったくない。
自分は介護老人でなく、元気な老人で、多少不都合なところを息子に世話してもらっているだけ、という認識だ。(息子が親の世話をするのは当たり前なのに、なぜ息子は苦しいとか大変そうにしているのだろうか?)という思いが、たぶん彼の本音、変わらぬ基本的な状況認識なのだと思う。
そして、その無自覚、無理解が、介護をしている人間にとっては、最もつらく、苦しく、いつのまにか心をいらだたせて疲弊させる。
「どれだけ大変だと思っているのよ!」こんな言葉が、思わず口をついて出てしまうのが、長く介護をしている人に共通することだという話をよく耳にする。
少し前にNHKで放送された俳優の織本順吉さんの老いのドキュメンタリーの中でも、世話をしている奥様が、このような言葉を思わず織本さんにぶつけていた。私もよくわかる。恥ずかしながら私もそうだ。同じようなことをつい言ってしまったことがある。
一生懸命世話をしているのに、自分の努力や苦労がほとんど相手に伝わっていないこと、相手の無理解こそが、実は介護する人間の心の力を奪っていくのだ。これは、世話をしているものでないとたぶん実感できないと思うが、誰の上にも起きる事なので、今回あえて書いた。
実は今夜も、父が、「俺は元気で、自分で歩いているしゴルフにも時々行っている。(と自分ではいまだに思っている。)ちっとも介護老人ではないと思う。それなのに、なんでお前はそんなに大変そうにするんだ・・」と言いだした。この6年間、いちばんつらいのが、彼が自分の置かれている状況を客観的に理解できないところだった。一人ではもう歩けないと何度説明しても、出かけようとしたこともあった。最近は、本当に体が動かなくなったので、立とうとして、「あれ、今日はなんで起きられないんだ、なんで歩けんのだ?・・・まあ今日はやめておこうか・・・」というような感じになるが、自分の正確な状況認識にはどうしても至らない。
「ああ、俺も年をとってすっかり体が衰えて歩けなくなってしまったんだなあ・・」と言う風には、これまで一度もならないのである。
毎日こうしたことが起きると、どんなに心の優しい人でも、たぶん疲れてくると思う。心が荒れて少しずつささくれだってくる。無力感が拡大していく。
自分で言うのはなんだが、私は、これまでの人生で、たぶん<優しい人、温厚な人、穏やかな人>と思ってくださる人が多かったのではないかと思う。自分でもまあ、そこそこ穏やかで優しいタイプの人間だと思っていたし、あまり怒ったりはしなかった。しかし、心が傷ついていると、時には声を荒らげることも起きてくるのだ。自分でも驚くことだった。
介護と言うのは、ある意味長期の疲弊戦だと思う。毎日少しずつ、じわじわと心と体が疲れていく。終わりが見えない苦労への苛立ちも、静かに心をむしばむ。それをうまくコントロールしながら、なんとか一生懸命やっていこうとする。優しい気持ちを持っている人であればあるほど、自分の心の中に潜む闇のような部分が顔を出した時には、時に自責の念にもかられる。自分の中の自己矛盾、心にたまる澱のようなものに驚くのだ。そんな人たちが、きっと日本中にたくさんいらっしゃる。
だから、誰かに話したり、私のように、こうして文章にしたりすることによって、心にたまる澱や、心のガスを抜くことが必要なのだ。
<あなただけではありませんよ、みんな同じです。>
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