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2014年02月08日

洞窟壁画

洞窟壁画(どうくつへきが、英語名:Cave painting)は、通例有史以前の、洞窟や岩壁の壁面および天井部に描かれた絵の総称。現存する人類最古の絵画である。壁画は4万年前の後期旧石器時代より製作されている。これらは社会的に敬われていた年長者や、シャーマンによる作品であると広く一般に信じられている。



目次 [非表示]
1 ヨーロッパ 1.1 ネアンデルタール人作成説

2 アフリカ
3 オーストラリア
4 東南アジア
5 メソアメリカ
6 南米
7 関連項目
8 参考
9 外部リンク


ヨーロッパ[編集]

ヨーロッパ人が最初にマグダレニアン文化の壁画を偶然にも発見したのは、1879年のスペイン、カンタブリア州にあるアルタミラ洞窟でのことで、壁画は学者からいたずらだと考えられた。しかし、近年の壁画への再評価や発見数の増加は壁画の確実性を例証し、基本的な道具のみを使用して壁画を描いた後期旧石器時代における人類の、高レベルな芸術的手腕を示している。更に洞窟壁画は、その時代の文化や信条を表す貴重な手がかりをもたらしている。

多くの遺跡に描かれている壁画が製作された時代は、放射性炭素年代測定のような方法では新旧の物質が混成したサンプルしか採れず、誤った年代の測定結果が出てしまう他、洞窟や岩の突出部は長い年月を経て積み重なった岩屑で概して乱雑しており、未だに継続的な論点である。スペイン、ラス・モネダス洞窟にあるトナカイの絵のように、選んだ対象によっては時代を指摘できるものもあり、この絵はウィスコンシン(ヴュルム)氷期に描かれたとされている。最も古い洞窟壁画はショーヴェ洞窟の絵で、これは3万2千年前のものである。

洞窟壁画の最も一般的な題材は、バイソン、馬、オーロックス、鹿など大型の野生動物で、他に人の手形(壁画を描いた作者の署名であるとも言われる)や、フランスの考古学者アンリ・ブルイユにより「マカロニ」と呼ばれた抽象模様がある。人間を描写したものは珍しく、通常それらは野生の動物を模した壁画よりも抽象的・概略的である。洞窟芸術は、おそらくはオーリニャック文化期のドイツ、ホーレ・フェルス洞窟で始まったとされるが、頂点に達したのはマグダレニアン文化後期のフランス、ラスコー洞窟である。





洞窟壁画の手形。画像はフランス、ペシュメルル洞窟。
絵画は赤色と黄色の黄土、赤鉄鉱、二酸化マンガン、炭で描かれている。時折最初に岩面へ動物の輪郭を刻み込んだものがある他、石のランプが光を供給する。アンリ・ブルイユは当時描かれた壁画について、捕獲できる動物の数を増やすための狩猟のまじないだったのではないかと解釈している。槍の的になっていたように見える粘土像も見つかっていることから、この説はある程度真実味があるが、この像はライオンや熊のような捕食動物の絵は何を表すかについての説明にはなっていない。

より近代的な狩猟採集社会の研究に基づいた最近の学説では、壁画がクロマニョン人のシャーマンにより製作されたと論じられている。その説によれば、シャーマンは洞窟の暗黒の中で隠遁し、トランス状態に入り彼らの想像力或いは洞窟壁面自体から出る絵の概念で壁画を描いたのだという。この説は数ある壁画(深い、または小さな洞窟によくあるもの)や、対象の種類(獲物や捕食動物から人間の手形まで)から考えれば、幾分疎遠な説明である。また天井が高い大空間や音響のよい場所に描かれた壁画は、これらが洞窟に住んでいた集団の宗教的集会や、歌や踊りなどのパフォーマンスの一部として使われた可能性もある。しかし、旧石器時代研究にはつきものだが、物的証拠の不足や、現代の思考力で旧石器時代の考え方を理解しようとすることから結びつく、多くの間違いやすい点が原因で、どの説が正しいかを判断することは不可能である。

洞窟壁画は崖面にも描かれていたが、侵食のために残っているものは殆どない。よく知られている例の一つには、フィンランドのサイマー湖周辺にあるアスツヴァンサルミの岩壁画がある。また近年でも2003年にイギリス、ノッティンガムシャー州クレスウェル断崖で、洞窟絵画が発見されている。

以下は著名な壁画のある洞窟の例である。
ラスコー洞窟、フランス
ラ・マルシュ洞窟、リュサック・レ・シャトー近郊、フランス
ショーヴェ洞窟、バロン・ポン・ダルク近郊、フランス
アルタミラ洞窟、カンタブリア州サンティジャーナ・デル・マル近郊、スペイン
コスキュール海底洞窟、マルセイユ近郊にある入り口が海面下にある洞窟、フランス

ネアンデルタール人作成説[編集]

近年、壁画表面を覆う薄い石灰質を最新の年代測定法で調査した結果、洞窟壁画の一部が4万800年以上前に書かれていたことが判明した。[1][2] この計測が正しいとすれば、これまで最古と見られていたショーヴェ洞窟よりも1万年近く古い。当時、ヨーロッパ大陸では依然としてネアンデルタール人が優勢であり、人類はアフリカ大陸から移住し始めたばかりであった。そのため、ヨーロッパにおける洞窟壁画の幾つか、少なくともスペインのエルカスティーヨ洞窟の壁画については、ネアンデルタール人によって作成された可能性があるという。一方、ヨーロッパ大陸に30万年間も生息し続けていたネアンデルタール人が突如として約4万年前から壁画を描き始めたとは考えにくい、と否定的な見解を述べる研究者もいる。[3] なお、約4万年前の時点でも、人類には既に壁画作成の技術があったと考えられている。以上の仮説は、『サイエンス』誌上において掲載された。[4]

アフリカ[編集]

南アフリカ共和国のオカシュランバ・ドラケンスバーグには、一帯に約8千年前から定住していたサン人が動物や人間を描いた、およそ3千年前に製作されたと思われる壁画があり、それらは宗教的信条を表したものと考えられている。

近年、ある考古学チームがソマリランドにあるハルゲイサ郊外で、ラース・ガール洞窟壁画を発見した。壁画に描かれている絵は牛を崇拝し宗教的儀式を行う、その地域に住んでいた古代の住民を表している。

また洞窟壁画は、アルジェリアの南東にあるタッシリ・ナジェール、リビアにあるタドラット・アカクス、メッサク・セッタフェト、そしてニジェールのアイル山地とチャドのティベスティ山地などサハラ砂漠地方でも発見されている。





メキシコ、ゲレロ州にあるフストラワカ洞窟の壁画。オルメカの支配者を表現しているといわれている。




ペルーの岩陰遺跡のひとつ、トケパラ洞穴の壁画。
オーストラリア[編集]

オーストラリアでも重要な洞窟壁画が発見されている。その中でも特に、カカドゥ国立公園には多くの黄土の壁画がある。黄土は土壌有機物ではないため、壁画の放射性炭素年代測定が不可能である。しかし、壁画の内容からおおよその年代や、少なくとも時代は推測できる。この地域にはヨーロッパ人の帆船を描いた壁画もあり、古代から近年までの壁画が重なり合っている。

東南アジア[編集]

タイやマレーシア、インドネシアにも壁画のある洞窟がある。タイでは、ビルマとの国境に沿った洞窟や急斜面、タイ中心部のペッチャブーン山脈、そしてナコンサワン県のメコン川周辺など、これら全ての地域で壁画を見物することができる。マレーシアでは、2000年前に描かれた国内最古の壁画がペラクのグア・タンブンにあり、一方でニア洞窟国立公園のペインテッド洞窟にある洞窟壁画は、1200年前のものである。またインドネシアでは、スラウェシ島にあるマロスの洞窟遺跡に描かれている手形の壁画が有名で、カリマンタンのサンクリラン地域にある洞窟にも壁画がある。

メソアメリカ[編集]

メソアメリカでは、メキシコ、ゲレーロ州にオルメカ文明の概念を表現した洞窟壁画がオシュトティトラン(Oxtotitlan)やフストラワカ(Juxtlahuaca)などで見られる。また、マヤ文明の遺跡にも洞窟遺跡が多数知られており、そのうち、ロルトゥン(Loltun)、ナフ・トゥイニチ(Naj Tunich)の壁画が著名である。

南米[編集]

ペルー南高地にある石期段階の岩陰遺跡、トケパラ(Toquepala)の狩猟を表現した壁画やアルゼンチン南部のサンタクルス州のクエバ・デ・ラス・マノスの手形の壁画が挙げられる。後者は1999年に世界遺産に登録された。

関連項目[編集]
旧石器時代
先史時代
壁画
ボディ・ペインティング

参考[編集]

以下は翻訳元(w:en:Cave painting)からの出典項目、リンクである。
トーマス・ヘイド、ジョン・クレッグ編集 『Aesthetics and Rock Art』 2005年 ISBN 0-7546-3924-X

支石墓

支石墓(しせきぼ)は、ドルメンともいい、新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種である。基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとる。



目次 [非表示]
1 起源
2 ヨーロッパ
3 東アジア
4 その他の地域 4.1 中東
4.2 インド
4.3 その他



起源[編集]

支石墓という形態がもっとも早く発祥したのは、おそらく西ヨーロッパだったと考えられる。しかし、西ヨーロッパの支石墓が世界各地へ伝播したのではなく、それぞれの社会発展状況に応じて、全く別個に世界の各地域で支石墓が発祥したとする見方が非常に有力となっている。

ヨーロッパ[編集]

ヨーロッパでは、新石器時代から金属器時代初期にかけて支石墓が建造された。その建造範囲は西ヨーロッパにほぼ限定されており、主として大西洋・北海・バルト海沿岸に見られる。紀元前4000年-3000年頃の西ヨーロッパでは、支石墓などの巨石建造物に代表される巨石文化が興っているが、農耕の伝播との関連性を指摘する説が有力である。

紀元前6500年-4500年にかけてヨーロッパ全域に農耕が普及しているが、農耕の開始に伴い特に大西洋沿岸で人口増加が顕著となり、社会的不平等が生じた。そして、上級階層の墓制としてまず、土盛りの素朴な墓が発生し、そのうち巨大な支石墓へ発展したのだと考えられている。その後、紀元前3500年頃に巨大な支石墓が激減し、小規模な支石墓へ移行しているが、このことは上級階層を中心とする社会構造が崩壊し、民主的な共同体にとって代わられたことを示唆している。最終的に紀元前2000年頃、西ヨーロッパの支石墓は消滅したとされる。

支石墓は、元来、土や小石などにより覆われていたが、現在ではその多くが風雨により流され、巨石が露出してしまっている。

西ヨーロッパに見られる支石墓は、ブルトン語でdolmen(ドルメン)という。フランス・ブルターニュ地方に多く見られたことから、当地のブルトン語で「石の机」を意味するdol menを語源としている。また、ウェールズ語に由来するcromlechと呼ばれることもある。ドイツ語ではHünengräber、オランダ語ではHunebedといい、いずれも巨人による築造を暗示する語である。

Hunebedは、ドルメンによく似た形式の石室墓で、新石器時代中期(Funnelbeaker文化)の頃に始まっている。Hunebedは、まず長方形の石室があり、その長辺の片側に羨道が設けられ、そして石室は楕円形の墳丘に覆われるとともに、その周囲に縁石が置かれた。より複雑な構造を持つものもある。

ドイツのメクレンブルクやポモージェでは、都市や町の建設の際に、建築や道路の材料として墓の巨石が使われ、多くのドルメンが失われた。それでもヨーロッパには数千基のドルメンが現存しており、フランスに4000基、イギリスに2000基、ドイツのリューゲン島だけで1000基以上が残されている。

東アジア[編集]

当初は、地上に支石を箱形に並べ、その上に天井石が載るというテーブル状形態を示しており、天井石の下部では葬祀が行なえるようになっていた。中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西北部に分布する。紀元前400年頃から次第に支石が低くなっていき碁盤式といわれ、朝鮮半島西側の中南部と北部九州に見られる。また、青銅器(銅剣など)の副葬も見られ始めた。(要出典)

紀元前500年頃、支石墓は朝鮮半島(無文土器時代)へ伝播した。遺構は半島のほぼ全域で見られ(約4-6万基とされる)、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれている。南へ伝播するに従い、支石は地下へ埋設されるようになり、天井石が地表近くまで下りている。大韓民国では、高くそびえるもの(テーブル式)を「北方式」、低いもの(碁盤式)を「南方式」と分類しており、両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。また、天井石が碁盤状を呈するなど多様な類型を示していることも、朝鮮半島の支石墓の特徴である。紀元前後になると、銅剣(細型銅剣)が副葬されるようになった。(要出典)

朝鮮半島において、分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の全羅南道)である。同地域ではもっとも多い場所で500-600基の支石墓が群集している。支石墓は朝鮮半島の先史時代を大きく特徴づけており、2000年には高敞、和順、江華の支石墓群が世界遺産に登録された。

日本では、中国の浙江省の石棚墓群によく似た支石墓が、縄文時代晩期の長崎県に出現している(原山支石墓群や大野台支石墓群など)。また、屈葬の採用や甕棺を伴うことなど、一定の独自性も認められる。日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を迎えている。
詳細は弥生時代の墓制の項を参照。

その他の地域[編集]

中東[編集]

中東では、イラン高原やゴラン高原(現イスラエル)で支石墓が営まれたとされる。

インド[編集]

インドには古代の巨石遺跡が約4000箇所ほどあるが、明確に支石墓と見られるものは、紀元前1000年頃の南インドに出現した。

その他[編集]

その他、インドネシア・南アメリカ・北部アフリカに見られる。

磨崖仏

磨崖仏(まがいぶつ)は、そそり立つ岩壁や岩壁を龕状に彫った内側に刻まれるなど、自然の岩壁や露岩、あるいは転石に造立された仏像を指す。切り出された石を素材に造立された石仏(独立石仏)は移動することが可能であるが、磨崖仏は自然の岩壁などに造立されているため移動することができない。



目次 [非表示]
1 概要
2 日本の磨崖仏 2.1 主な磨崖仏 2.1.1 国宝
2.1.2 重要文化財
2.1.3 史跡
2.1.4 保全地区


3 脚注
4 関連項目


概要[編集]

自然の岩山に仏像を刻むことはアジアの仏教圏で広く行われ、インドのアジャンター石窟、エローラ石窟、中国の雲岡石窟、龍門石窟などは特に著名である。一般にはこれらの大規模な遺跡は「石窟」「石窟寺院」などと呼び、朝鮮半島や日本などに分布する、比較的小規模な造像を「磨崖仏」と称しているが、両者の区別は必ずしも明確ではない。

日本では、切石から造像した、移動可能なものを「石仏」と呼ぶ傾向が強いが、「臼杵の石仏」のように、磨崖仏のことを「石仏」と呼ぶことも多く、「石仏」「磨崖仏」の区別はさほど厳密なものではない。

日本の磨崖仏[編集]





熊野磨崖仏
日本の磨崖仏の造立開始時期は平安時代初期までさかのぼると言われ、狛坂寺址の三尊磨崖仏(滋賀県栗東市)は最初期の事例とされている。平安時代前期から後期に移行すると、各地に多くの磨崖仏が盛んに造立されるようになり、分布は九州地方、近畿地方、関東地方、北陸地方、東北地方に広がった。中でも大分県には全国の磨崖仏の6〜7割が集中していると言われる。

主な磨崖仏[編集]

国宝[編集]
臼杵磨崖仏 - 大分県臼杵市、平安〜鎌倉時代、特別史跡

重要文化財[編集]
大谷磨崖仏 - 栃木県宇都宮市、平安〜鎌倉時代、特別史跡
元箱根磨崖仏 - 神奈川県箱根町、鎌倉時代、史跡
日石寺磨崖仏 - 富山県上市町、平安時代、史跡
熊野磨崖仏 - 大分県豊後高田市、平安〜鎌倉時代、史跡
菅尾磨崖仏 - 大分県豊後大野市、平安時代、史跡

史跡[編集]
鮭立磨崖仏(さけだちまがいぶつ)、福島県金山町山入鮭立居平、天明のころ
大悲山の石仏(観音堂石仏、薬師堂石仏附阿彌陀堂石仏) - 福島県南相馬市、平安時代
佐貫石仏 - 栃木県塩谷郡塩谷町、平安時代〜鎌倉時代
百体磨崖仏 - (閑居山)茨城県かすみがうら市、鎌倉時代
狛坂磨崖仏 - 滋賀県栗東市、平安時代
笠置山虚空蔵磨崖仏 - 京都府笠置町、平安時代中期
春日山石窟仏 - 奈良県奈良市、平安時代
地獄谷石窟仏 - 奈良県奈良市、平安時代
大野寺磨崖仏 - 奈良県宇陀市、鎌倉時代
木津磨崖仏(神戸市指定記念物、史跡) - 兵庫県神戸市、室町時代
大分元町石仏 - 大分県大分市、平安時代
高瀬石仏 - 大分県大分市、平安時代
元宮磨崖仏 - 大分県豊後高田市、室町時代
鍋山磨崖仏 - 大分県豊後高田市、平安時代
犬飼石仏 - 大分県豊後大野市、平安時代〜鎌倉時代
緒方宮迫東石仏 - 大分県豊後大野市、平安時代末期
緒方宮迫西石仏 - 大分県豊後大野市、平安時代末期
弥谷寺弥陀三尊磨崖仏 - 香川県三豊市、平安時代〜鎌倉時代
倉野磨崖仏 - 鹿児島県薩摩川内市、鎌倉時代末期

保全地区[編集]
当尾磨崖仏文化財環境保全地区(京都府指定)[1] - 路傍に鎌倉時代からの磨崖仏・石仏が多数存在する木津川市当尾地区で、浄瑠璃寺と岩船寺を結ぶルートは特にその密度が高い。

脚注[編集]

1.^ 平成20 年版木津川市統計書 文化財の状況

関連項目[編集]
国宝
重要文化財
史跡
石仏
吉田達也 音楽活動のかたわら石仏や石像など、石の写真を撮り続ける写真家であり、「磨崖仏」をレーベル名にもしている。

宝塔

宝塔(ほうとう)には以下の2つの語義がある。
仏塔の建築形式の1つで、円筒形の塔身を有する一重塔を指す。本項で説明する。
仏塔全般の美称。




目次 [非表示]
1 宝塔の形態と意義
2 宝塔の例 2.1 木造宝塔
2.2 屋内小塔
2.3 石造宝塔

3 参考文献
4 脚注
5 関連項目


宝塔の形態と意義[編集]

宝塔(ほうとう)は、仏塔の建築形式の1つである。形態・形式にかかわらず、仏塔全般を指す美称として宝塔の語を用いる場合もあるが、日本建築史の用語としては、円筒形の塔身に平面方形の屋根をもつ一重塔を指す[1]。円筒の上部を丸く面取りしいわゆる亀腹状にする。屋根の上には通常の層塔と同じく相輪を載せる。木造、金属製、石造のものがあるが、木造建築としての例は極めて少ない。日本の現存作例としては、鞍馬寺経塚遺物中の銅製宝塔(保安元年頃・平安時代後期)が最古である[2]。なお、円筒部に四角い庇を設けるものが見られる。この庇は裳階であり、教義上宝塔になんら変更を加えるものではないが、便宜上これを「多宝塔と称して区別している。

宝塔の例[編集]

木造宝塔[編集]





石造宝塔(鳳閣寺〈奈良県吉野郡〉)本門寺(東京都、重要文化財)1828年(文政11年)建立。

屋内小塔[編集]
慈光寺(埼玉県、重要文化財)1556年(天文25年)建立。
性海寺(愛知県、重要文化財)
長蔵寺(岐阜県、重要文化財)
本門寺(東京都、重要文化財)1830年(文政13年)建立、宝塔内宝塔。

石造宝塔[編集]

石造美術の主要な分野を占める。塔身(円筒部)に扉型や二尊(多宝如来と釈迦如来)を刻むものがある。地方色を示す例として大分県国東の国東塔や鳥取県の赤崎塔がある。
鞍馬寺石造宝塔(京都市・国宝) 塔の下の土中から保安元年銘の経筒が発見された。現存最古の石造宝塔の例と考えられる。
関寺跡「牛塔」(滋賀県・重要文化財) 平安末期 高さ3.3m、屋根は八角形。屋根の上に載る宝殊は後補。前記鞍馬寺宝塔とともに最古に位置する。
満願寺跡宝塔(滋賀県高島市)鎌倉前期 高さ4m。相輪は後補。
浄土寺宝塔(広島県尾道市・重要文化財) 弘安元年銘 高さ2.8m。檀上積みに立つ。
西明寺宝塔(滋賀県甲良町・重要文化財) 嘉元2年銘
石山寺石造多宝塔(滋賀県大津市) 鎌倉中期 現状高さは2mほどだが元は3mほどであったと考えられる。
安養寺慈円僧正宝塔(京都市・重要文化財) 鎌倉中期 高さ約3m、塔身に多宝・釈迦二仏を刻む。  
石山寺目かくし岩(滋賀県)平安時代
六波羅蜜寺阿古屋塚(京都府)鎌倉時代

参考文献[編集]
石田茂作「塔-塔婆・スツーバ」日本の美術77 1972 至文堂
中西亨「日本の塔総観」1970 文華堂
川勝政太郎「石造美術入門」1967 社会思想社

脚注[編集]

1.^ 川勝政太郎『日本石造美術辞典』(東京堂、1978)、p.347; 前久夫『古建築の基礎知識』(光村推古書院、1986)、p.61
2.^ 川勝政太郎『日本石造美術辞典』(東京堂、1978)、p.347

関連項目[編集]
国東塔
多宝塔

五輪塔

五輪塔(ごりんとう)は、主に供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種。五輪卒塔婆、五輪解脱とも呼ばれる。

一説に五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれるが、インドや中国、朝鮮に遺物は存在しない。日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く見られるようになる。このため現在では経典の記述に基づき日本で考案されたものとの考えが有力である。

教理の上では、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪からなり、仏教で言う地水火風空の五大を表すものとする。石造では平安後期以来我が国石塔の主流として流行した。五輪塔の形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝殊型によって表される。密教系の塔で、各輪四方に四門の梵字を表したものが多い。しかし早くから宗派を超えて用いられた。

石造のものは石造美術の一分野として重要な位置を占める。



目次 [非表示]
1 材質と形態
2 構造
3 歴史
4 五輪塔の意義
5 五輪九字明秘密釈
6 宗派と五輪塔 6.1 真言宗
6.2 浄土真宗
6.3 時宗

7 五輪塔の影響
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
11 ギャラリー
12 外部リンク


材質と形態[編集]





舟形光背に彫られた五輪塔
立体化された五輪塔の材質は石造のものが主体をなし、安山岩や花崗岩が多く使われている。古いものには凝灰岩のものが見られる。他に木製、金属製、鉱物製(水晶)、陶(瓦)製、土製の塔もある。

五輪塔は下から四角(6面体)・丸(球)・三角(四角錐または三角錐)・半丸(半球)・上の尖った丸(宝殊型)または尖っていない団子型(団形)を積み上げた形に作られる。製作された時代・時期、用途よって形態が変化するのが特徴である。石造のものは変化に富んでおり、例えば鎌倉時代に多く作られた鎌倉型五輪塔とよばれるもの、一つの石から彫りだされた小柄な一石五輪塔(いっせきごりんとう)、火輪(三角の部分)の形が三角錐の三角五輪塔(伴墓の重源塔に代表される)、地輪(四角)の部分が長い長足五輪塔(ちょうそくごりんとう)、火輪の薄い京都型五輪塔とよばれるものなどがある。京都高山寺の明恵上人(1232年寂)の廟堂内にある五輪塔の火輪には反りがなく軒口もわずかに面を取る程度の珍しいもの。石造五輪塔の火輪は「三角」とするものの、屋根面と軒に反(そ)り、そして厚い軒口を持ちあたかも屋根のように造形するのが一般的である。ただし宝塔の笠によく見られる棟瓦や軒裏の垂木の造り出しは決して見られない(唯一の例外が京都革堂の五輪塔で軒裏に垂木様の刻み出しが見られる)。また、板碑や舟形光背(ふながたこうはい)に彫られたものもや、磨崖仏として彫られたものもあり、浮き彫りや線刻(清水磨崖仏などに見られる)のものもある。石造火輪にはまれに「噛み合わせ式」のものが見られる。これは普通は火輪の上部を削平したうえに風輪を載せるのに対し、あたかも火輪の先端を風輪に突き刺したかように一体化したものであり、代表例として高野山西南院五輪塔(二基)が挙げられる[1]。また古い五輪塔では火輪の上部に層塔の屋根のように露盤を刻みだすものがある。

経典によれば、五輪はそれぞれ色を持ち、地輪は黄、水輪は白、火輪は赤、風輪は黒、そして空輪は全ての色を含む(「一切色」「種種色」)とされ、木造五輪塔の中にはこうした着彩が施されたものがしばしば見られる(空輪は青に塗る)。

特殊な例としては、一般的に塔婆や卒塔婆と呼ばれる木製の板塔婆や角柱の卒塔婆も五輪塔の形態を持つが、五輪塔とは言わず、単に塔婆や卒塔婆という。卒塔婆(ソトーバ)はインドにおける仏舎利を収めたストゥーパの中国における漢字よる当て字で、日本では略して塔婆や塔もといわれる。ただ、塔は近現代の一般的な塔の意味との混同があるため、現代では仏塔という場合が多い(詳しくは、仏塔や塔を参照)。つまり、五輪塔の形=仏塔のように扱われている。木製の角柱の卒塔婆は石造の墓を作るまでの仮の墓として使われることも多い。

構造[編集]

五輪塔は、下から方形=地輪(ちりん)、円形=水輪(すいりん)、三角形(または笠形、屋根形)=火輪(かりん)、半月形=風輪(ふうりん)、宝珠形または団形=空輪(くうりん)によって構成され、古代インドにおいて宇宙の構成要素・元素と考えられた五大を象徴する。これらは「大日経」などの経典に現れる密教の思想の影響が強い。それぞれの部位に下から「地(ア a)、水(ヴァ va)、火(ラ ra)、風(カ ha)、空(キャ kha)」の梵字による種子(しゅじ)を刻むことが多い。四方に種子を刻む場合は四転、例えば地輪に刻むアなら→アー→アン→アクという具合に刻む方角によって変化する。種子は密教の真言(密教的な呪文のようなもの)でもあるので下から読む。

宗派によって、天台宗・日蓮宗では上から「妙・法・蓮・華・経」の五字が、浄土宗では上から「南・無・阿弥・陀・仏」の文字が、禅宗では下から「地・水・火・風・空」の漢字五文字が刻まれる場合もあるが、宗派をとわず種子を彫ることも多い。日蓮正宗では必ず上から「妙・法・蓮・華・経」の五字を刻む。また、種字や文字のない五輪塔も多く存在する。

木製の板塔婆(板卒塔婆)も五輪塔の形態を持つ。これには表に下から「地(ア a)、水(ヴァ va)、火(ラ ra)、風(カ ha)、空(キャ kha)」の梵字による種子を、裏には仏教の智慧をあらわす金剛界の大日如来の種子鑁(バン van)を梵字で書くことが多い。木製には他に角柱の卒塔婆もあり、真言や念仏がかかれることが多い。

歴史[編集]





航海記念塔(石清水八幡宮、重要文化財、京都府八幡市)




岩船寺塔(重要文化財、京都府木津川市)
五大思想(宇宙の構成要素についての考え)は元来インドにあった思想で、五輪塔の成立にはインド思想を構築し直した密教の影響が色濃くみられる。インドや中国、朝鮮に五輪塔造形物は現存しないところから、五輪塔の造立がはじまったのは平安時代後半頃の日本においてと考えられている。大日経の解釈書である「大日経疏」や善無畏「尊勝仏頂脩瑜伽法軌儀」などには五輪塔図が現れるが、これは日本において書写されるうちに塔状に書きなおされたもので、本来は五大(四角、丸、三角、半円、宝殊型)がそれぞれ単独ばらばらに描かれていた。これからも五輪塔が日本において初めて成立したと推定できる。

また、桃山時代の文献でしか知られていないが、醍醐寺円光院の石櫃には応徳二年(1085年)七月銘の高さ一尺ほどの銅製の三角五輪塔が収められていた(『醍醐寺新要録』)。内部に遺骨が納められていたというこの塔はいまも石櫃の中にあるはずで、これが今のところ年代が確かな立体的造形物としては最古の例と考えられる。実際に確認できる石造五輪塔では、奈良春日山石窟仏毘沙門天持物塔(保元二年(1157年)銘)や岩手県平泉町・中尊寺願成就院の有頸五輪塔(宝塔と五輪塔の中間タイプ)、同町・中尊寺釈尊院の五輪塔(「仁安四年(1169年)」の紀年銘)、大分県臼杵の中尾嘉応塔(嘉応二年(1170年)銘)などが最古例である。丸瓦瓦当に刻出された五輪塔も平安期にしばしば見られその最古の例として保安3年(1122年)創建の法勝寺の例が挙げられる。また天養元年(1144年)創建にかかると考えられる「極楽寺」の経塚からは陶(瓦)製の五輪塔が発掘されている(兵庫県神崎郡香寺町常福寺蔵)。金属に遺された例では奈良県徳照寺の梵鐘(長寛二年(1164年)銘)に鋳出された五輪塔像がある。絵画では、平清盛献納の平家納経の箱蓋に描かれたものや平安末期〜鎌倉初期に描かれた餓鬼草紙が古い例として知られている。木製五輪塔はしばしば仏像胎内から発見され、特に運慶ないしその弟子による作品に発見されることが多い。近年海外流出が心配されて騒ぎになった運慶作の真如苑阿弥陀坐像(重文)の胎内にも木製五輪塔(歯を伴う)が収められていることがX線調査の結果分かっている。

石造五輪塔が一般的に造立されるようになったのは鎌倉時代以降で、以後、室町時代、江戸時代を経て現在に至るまで供養塔や墓碑として造塔され続けており、現存するもの以外に考古遺物とし出土するものがある。

初期の五輪塔の普及の要因としては、高野聖による勧進の影響といわれる。平安末期に「五輪九字明秘密釈」を著した覚鑁も元は高野聖といわれる。高野聖による五輪塔による具体的な勧進としては、五輪塔の形をした小さな木の卒塔婆に遺髪や歯などを縛り寺に集め供養する。

真言律宗の僧叡尊や忍性も五輪塔の普及に係わったとされる。

鎌倉時代の奈良東大寺再建にあたり、重源に招かれ宋より日本に渡り、日本に石の加工技術を伝え、後に日本に帰化した石大工伊行末(い・ゆきすえ)の子孫で伊派(いは)といわれる石工集団や、忍性と共に関東へ渡った伊派の分派大蔵派といわれる石工集団が、宋伝来の高度な技術で石塔などの製作を行った。それまで加工の容易な凝灰岩を使った石造五輪塔が一般的だったのに対し、鎌倉期以降花崗岩など硬質の石材を使ったものが多くなるのはこのためと考えられる。伊派や大蔵派が中心になり鎌倉時代以降に作られた五輪塔の形を後に鎌倉型という。また地輪を受ける基礎石の上面に返花座を刻みだしたものを大和式と呼び、これは大和地方から山城南部辺に鎌倉末期から南北朝期にかけての優品が残る。

代表的なものには、当麻北墓五輪塔、石清水八幡宮にある航海記念塔(重要文化財、高さ6メートル)や岩船寺塔(重要文化財、高さ2.35メートル)などがある。三角五輪塔では奈良市三笠霊園内の伴墓五輪塔(伝重源墓塔)がある。

五輪塔の意義[編集]





モダンな現代の五輪塔(京都型からの変形)
仏教で言う塔(仏塔)とは、ストゥーパ(卒塔婆)として仏舎利と同じような意義を持っている。しかし、小規模な五輪塔や宝篋印塔、多宝塔(石造)は当初から供養塔や供養墓として作られたのであろう。中世の一部五輪塔には、地輪内部に遺骨等を納めたものが現存する。また、供養塔・供養墓としての五輪塔は全国各地に存在し、集落の裏山の森林内に、中世のばらばらになった五輪塔が累々と転がっていたり埋もれていたりすることも稀ではない。現在多くの墓地で見られるような四角い墓は、江戸中期頃からの造立であるが、現在でも多くの墓地や寺院で一般的に五輪塔は見ることができる。覚鑁は経典の記述に基づき、五輪を人の五体になぞらえた図を残している(下図参照)。これが入定の姿と解されて墓塔や供養塔として多用されたものと考えられる。

五輪九字明秘密釈[編集]





「五輪九字明秘密釈」の挿絵に五輪塔を合成
覚鑁著作の「五輪九字明秘密釈」とは、「五輪」つまりア・ヴァ・ラ・カ・キャ(胎蔵界の大日如来の真言)と 「九字」つまりオン・ア・ミリ・タ・テイ・セイ・ラ・ウーン(阿弥陀仏の真言)との 「明」つまり真言についての「秘密釈」つまり密教的解釈という意味である。

「五輪九字明秘密釈」には胎蔵界曼荼羅の解釈から阿弥陀仏の極楽浄土と大日如来の密厳浄土は本質的には同じものであり、釈迦や弥勒菩薩、毘廬遮那仏など他の仏やそれぞれの浄土も本質的には同じものであり、往生と即身成仏も本質的には同じものと書かれている。それは五輪塔が宗派を超えて成仏できる仏塔であることを意味する。

五輪塔の円形=水輪は胎蔵界の大日如来の印を表し、三角形=火輪は金剛界の大日如来の印を表している。これは五輪塔が五大に加え空海が『即身成仏儀』に書いた識大をも併せ持つ六大の意味を持つということである。識大とは仏と一体になることを意味し、成仏することを意味する。2つの印を結ぶということはまた、五輪塔が金剛界と胎蔵界の2つの曼荼羅を併せ持つ立体曼荼羅であることをも意味する。

また、五輪塔は成仏するための3つの行い密教の三密を併せ持つ。三密には身密、口密、意密がある
1.身密=手に印を結ぶ。五輪塔は胎蔵界と金剛界の大日如来の印を結ぶ。
2.口密=口で「真言」「陀羅尼」をとなえる。五輪塔に真言を彫ることにより、死者が真言をとなえる形になる。
3.意密=心を集中して「三摩地」の境地に入らせる(座禅をすること)。

五輪塔は、方形=地輪が人が脚を組む形、円形=水輪、三角形=火輪が印を結び、半月形=風輪が顔、宝珠形=空輪が頭と、人が座禅をする形をとっている。これは「大日経疏秘密曼荼羅品」や「尊勝仏頂脩瑜伽法軌儀」の記述を図解したものと考えられる(「金剛輪臍已下」「大悲水輪臍中」「智火輪心上」「風輪眉上」「大空輪頂上」)。

『五輪九字明秘密釈』により宗派を超え、幾重にも成仏の形を持つのが五輪塔の構造や概念と言える(参考資料 小畠広充監修編著『日本人のお墓』)。なお、この著がしばしば五輪塔の起源であるかのように引用されるが、上に述べたようにこの著以前に五輪塔は出現しており、その普及に大いに寄与したと言えても起源とするのは適切でない。

宗派と五輪塔[編集]

真言宗[編集]

真言宗においては、五輪塔が密教思想から出たところから容易に察せられるように、墓塔として五輪塔を建てることは一般的である。

浄土真宗[編集]

浄土真宗では、「五輪塔」やそれを簡略化し薄板で作った「卒塔婆」は用いないとされる。浄土真宗では、先祖供養の教義概念が無いためである[2]。浄土真宗の宗祖とされる親鸞は、「閉願せば、(遺骸を)鴨川にいれて魚にあたうべし」と遺言したと伝えられている[3]が、実際には、弟子たちにより埋葬され、簡素な墓石を東山・大谷に建てられた。その墓石の形状は、西本願寺蔵・専修寺蔵の「御絵伝」には笠塔婆型で、比叡山の横川にある源信の墓を模したものと考えられる[4][5]。しかし、高野山奥の院親鸞墓所にある親鸞供養塔は五輪塔であり、しかも鎌倉期にしか見られない三角五輪塔である。

時宗[編集]

時宗の開祖一遍上人の墓塔は五輪塔で、いまも神戸市内に遺る。




五輪塔の影響[編集]

五輪塔の形が他の仏塔に影響を与えた例をあげる。国東塔を例にあげておく。国東塔は本来宝塔であるが、時代を経る中で五輪塔化した形態がみられるようになる。五輪塔化した宝塔は全国的に存在するという。五輪塔の風輪、空輪の部分が相輪に、水輪が有頸に代われば、宝塔になる。





初期の国東塔(大分県) 様式を重視し精神性が強い






国東塔(大分県)初期のものに比べると視覚的効果が意識される






五輪塔化した国東塔(大分県) 国東塔には蓮華座があるが、五輪塔化した宝塔の場合の違いは相輪のみとなる


脚注[編集]

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1.^ 伴墓の重源塔も噛み合わせ式であるとの見解がある(狭川真一「五輪塔の成立とその背景」2002)。
2.^ 『真宗小事典』法藏館、P.116「卒塔婆」
3.^ 『真宗小事典』法藏館、P.114-115「葬式」
4.^ 『親鸞聖人伝絵』真宗大谷派宗務所出版部、P.136「影像」
5.^ 豊原大成. “「築地本願寺新報」08年12月「報恩講について:建碑」”. 築地本願寺新報社. 2010年12月23日閲覧。

参考文献[編集]
川勝政太郎著『石造美術辞典』1978、東京堂出版川勝政太郎著『石造美術入門』1967、社会思想社川勝政太郎著『新版石造美術』1981、誠文堂新光社薮田嘉一郎著『五輪塔の起源』1967、綜芸舎狭川真一「五輪塔の成立とその背景」2002、『元興寺文化財研究所研究報告2001』所収小畠宏充監修編著『日本人のお墓』第一集、日本石材産業協会石田茂作著『日本佛塔の研究』講談社若杉慧著『日本の石塔』木耳社山川均著『石造物が語る中世職能集団』日本史リブレット、山川出版瓜生津隆真・細川行信 編 『真宗小事典』 法藏館、2000年、新装版。ISBN 4-8318-7067-6。高松信英・野田晋 『親鸞聖人伝絵-御伝鈔に学ぶ』 真宗大谷派宗務所出版部、1987年。ISBN 978-4-8341-0164-5。
関連項目[編集]
仏塔
多層塔
宝篋印塔
無縫塔
宝塔
覚鑁
叡尊
忍性
密教
浄土教(浄土思想)
五大
ヴァーストゥ・シャーストラ

タットワ
西大寺 (奈良市)
極楽寺 (鎌倉市)
般若寺
竹林寺 (生駒市)
額安寺

宝篋印塔

宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。五輪塔とともに、石造の遺品が多い。



目次 [非表示]
1 起源
2 構造
3 意義
4 律宗僧と石工
5 主な宝篋印塔
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目


起源[編集]

中国の呉越王銭弘俶が延命を願って、諸国に立てた8万4千塔(金塗塔)が原型だとされている。これは、インドのアショーカ王が釈迦の入滅後立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して、新たに銅で造った8万4千基の小塔に分納したものだといい、日本にも将来されて現在国内に10基ほどある。

石造宝篋印塔は銭弘俶塔を模して中国において初めて作られ、日本では鎌倉初期頃から制作されたと見られ、中期以後に造立が盛んになった。銭弘俶塔の要素を最も残すのが北村美術館(京都市)蔵の旧妙信寺宝篋印塔・一名「鶴ノ塔」である。ただしこの装飾性の強い塔は古塔の中では特異で孤立しており、いまなおその歴史的位置付けは明瞭でない。在銘最古の宝篋印塔は鎌倉市の某ヤグラから出土した宝治二年(1248年)銘の小型のものである。これは無紋の大きな隅飾りが垂直に立ち上がっており、京都市右京区の高山寺塔や為因寺塔(文永二年銘)に共通する特徴を持ち、これら装飾性の少ないものを特に「籾塔形式」と呼ぶ[1]。これら素朴な籾塔型から次第に装飾性を強めて現在よく知られる石造宝篋印塔のスタイルが確立したものと考えられる。

名称は、銭弘俶塔に宝篋印陀羅尼(宝篋印心咒経/ほうきょういんしんじゅきょう)を納めたことによる。ただし、石造宝篋印塔で実際に塔内から陀羅尼が発見された例はない。本来的には、基礎に宝篋印心咒経の文字を刻む。

構造[編集]





宝篋印塔の各部と名称(図は関東形式)
最上部の棒状の部分は相輪と呼ばれる。相輪は、頂上に宝珠をのせ、その下に請花(うけばな)、九輪(宝輪)、伏鉢などと呼ばれる部分がある。相輪は宝篋印塔以外にも、宝塔、多宝塔、層塔などにも見られるもので、単なる飾りではなく、釈迦の遺骨を祀る「ストゥーパ」の原型を残した部分である。相輪の下には露盤と階段状の刻み(普通は6段)を持つ笠があり、この笠の四隅には隅飾(すみかざり)あるいは「耳」と呼ばれる突起がある。笠の下面も階段状(2段)に刻む。笠の下の四角柱の部分は、塔身(とうしん)という。その下の部分は基礎と呼ばれ、上部を階段状(2段)に刻んで塔身を受ける。隅飾の内側の曲線を二弧ないし三弧に刻むものもあり、またその側面に月輪を陽刻し、その中に種子(しゅじ・種字とも)を刻むものもある。塔身にはしばしば仏坐像や月輪に囲われた種子を刻む。手の込んだものではその月輪をさらに蓮華座で受ける。また基礎の四方の側面には区画の中に格狭間(こうざま)を一個刻む例が多い。さらに基礎石の下に格狭間を伴った返花座を置くものもある(太字=右図参照)。なお特に高位者の墓塔では壇上積みの石段を伴うものがある(醍醐三宝院墓地宝篋印塔など)。

この塔身部に四角の輪郭が刻まれず、基礎部の区画も無いか若しくは一区のものが関西形式と呼ばれる基本の型である(石山寺宝篋印塔写真参照)。塔身に四角の輪郭を刻み基礎部も縁どりにより二区に分け、さらに基礎を輪郭付きの二個の格狭間を伴った返花座で受けるものは関東形式と呼ばれる(右図参照)。名称の通り、関東形式は関東地方に多く分布するが、関西形式は基本形として国内に広く分布する。「関東形式」の命名者川勝政太郎は、この関東形式の出現の契機となったのが神奈川県箱根にある関西形式の「箱根山宝篋印塔(多田満仲塔)」と推定しており、この塔の塔身は周囲に細めの輪郭を巻きその中央に釈迦座像(正面)と種子(側面と背面)を刻んでいる。ただし基礎周囲各面には格狭間を一個だけ刻む。この塔は律宗の僧に従って関東に赴いた大和の石工によって作製されている。

宝篋印塔の基本形式は、以上の通りであるが、時代・地方により、多少の違いが見られる。例えば頂上部の宝珠については、時代が下るとともに、膨らみが失われ、室町期・江戸期を通して先端が尖っていくという特徴がある(この特徴は宝珠全体のもので、先述の五輪塔・宝塔・石灯籠・擬宝珠においても同様である)。隅飾は、同じように時代が下るごとに、外側へ張り出す傾向があり、江戸期には極端に反り返る隅飾になった。基礎部下の基壇も、次第に返花座などの飾りをもたない方形石の基壇となる。基礎石の格狭間の中に、開蓮華、三茎蓮、孔雀像などを刻むものを特に「近江式文様」と呼び、鎌倉後期以降の優品が近江から京都にかけて多数遺る(「近江式」は層塔の基礎石格狭間などに三茎蓮などを刻む場合もいう)。通常、笠は階段状に刻むが、まれに上部を宝形造りに刻むものがある。これは奈良県北部を中心に見られる地方色である(「大和式」と呼ぶ場合もある)。また、塔身・基礎部の大きさの違いをはじめ、塔身に方角に対応した仏の種子や像のレリーフを刻む、二重輪郭をとるなど、塔によって様々な形態がある。このほか特殊な例として笠を3重に重ねた三重宝篋印塔が数例遺る(石山寺三重宝篋印塔ほか)。さらに、残欠でしか残らないため詳細は不明だが、笠部が六角の重層宝篋印塔も造られた。

意義[編集]

滅罪や延命などの利益から、追善(死後に供養すること)・逆修(生前にあらかじめ供養をすませること)の供養塔、墓碑塔として、五輪塔とともに多く造立された。形状がシンプルな五輪塔が僧俗を問わず多くの階層で用いられたのに対して、装飾性の強い宝篋印塔は主に貴顕の間で用いられる傾向がある。

鎌倉地方の丘陵部に多く存在するやぐらには、宝篋印塔が置かれる場合や、宝篋印塔のレリーフが彫られている例がある。ほぼ、五輪塔と同じ意義で用いられたことが考えられるが、作例は五輪塔よりも少ない。

律宗僧と石工[編集]

石造宝篋印塔のような石造美術品、特に中世期のものを見るうえで、律宗僧及びその関係の石工たちの存在に注目しなければならない。中世期は、平安期に比べて石造美術品の造立数は格段の数となり、奈良の西大寺の叡尊や忍性といった律宗僧の戒律復興運動の全国展開により、彼らが招いて、率いた石工たちにより、優れた石造美術品が残された。特に先に触れた「箱根山宝篋印塔」に大和生まれの石工大蔵安氏の名が永仁四年(1296年)銘とともに残されていることは注目に値する。現在も律宗系寺院または律宗系寺院の廃寺の跡においては、このような石造美術品が多い。

主な宝篋印塔[編集]





泣塔(鎌倉市指定文化財)。JR大船工場跡地にある中世の塔。関東形式




円福寺(奈良県生駒市)の塔(2基とも国の重要文化財)。左の塔は永仁元年(1293年)銘、関西形式




温泉寺(兵庫県豊岡市)の塔(手前の石塔、国の重要文化財)。室町時代光福寺塔(埼玉県東松山市) 重要文化財。関東形式
安養院塔(神奈川県鎌倉市) 重要文化財。関東形式
鏡神社塔(滋賀県竜王町) 重要文化財。関西形式
個人所有塔(神奈川県鎌倉市極楽寺) 重要文化財
寂照寺塔(滋賀県日野町) 重要文化財。関西形式
石山寺塔(滋賀県大津市) 重要文化財。関西形式
比都佐神社塔(滋賀県近江八幡市)  重要文化財。関西形式
旧妙信寺「鶴ノ塔」(京都府京都市) 重要文化財
高山寺塔(京都府京都市) 重要文化財。
為因寺塔(京都府京都市) 重要文化財。
縁城寺塔(京都府京丹後市) 重要文化財。関西形式
大覚寺覚勝院墓地塔(京都府京都市) 重要文化財。関西形式
誠心院「和泉式部塔」(京都府京都市)重要文化財
金胎寺塔(京都府和束町) 重要文化財。関西形式
三宝院塔(京都府京都市) 重要文化財。関西形式
勝林院塔(京都府京都市) 重要文化財。関西形式
金禅寺塔(大阪府豊中市) 重要文化財。関西形式
温泉寺塔 (兵庫県豊岡市) 重要文化財。関西形式
広峯神社塔 (兵庫県姫路市) 重要文化財。関西形式
圓福寺塔(奈良県生駒市) 重要文化財。関西形式
生駒市有里共同墓地塔(奈良県生駒市) 重要文化財。関西形式
山口薬師堂塔(奈良県吉野町) 重要文化財。関西形式 
青岸渡寺塔(和歌山県那智勝浦町)  重要文化財。関西形式
野間神社塔(愛媛県今治市)  重要文化財。関西形式
西山興隆寺塔(愛媛県西条市)  重要文化財。関西形式
亀井八幡神社塔(愛媛県上島町)  重要文化財。関西形式
本山寺塔 (岡山県美咲町)  重要文化財。関西形式
浄土寺塔(広島県尾道市)  重要文化財。関西形式
米山寺塔(広島県三原市)  重要文化財。関西形式
仏岩頂上塔(長野県大門町) 県指定史跡。山の頂上の岩の上に一つだけある宝篋印塔。由来などは一切不明。
箱根山塔(多田満仲塔)(神奈川県箱根町) 重要文化財 関西形式(関東形式の祖形)。大和石工大蔵安氏製作。

脚注[編集]

1.^ 「籾塔」とはもともと木製の小型宝篋印塔のことで、その塔内に宝篋印荼羅尼に包んだ籾を収めた。




参考文献[編集]
川勝政太郎『石造美術入門』社会思想社、1967年
川勝政太郎『京都の石造美術』木耳社、1972年
吉川功『石造宝篋印塔の成立』第一書房、2000年
『かまくら子ども風土記』(平成3年版) 鎌倉市教育委員会、1991年
白井永二 『鎌倉事典』 東京堂出版、1999年
『日本石造美術辞典』 東京堂出版、1998年
山川均 『石造物が語る中世職能集団』 2006年

関連項目[編集]
仏塔
板碑
宝塔
五輪塔
国東塔
薩摩塔
梵字

仏塔

仏塔(ぶっとう、サンスクリット語: stûpa ストゥーパ、pagoda パゴダ)とは、インドの墓、あるいは仏教建築物である。塔婆あるいは塔(とう)とも。



目次 [非表示]
1 概説 1.1 ストゥーパとパゴダ

2 各地の仏塔 2.1 インド
2.2 スリランカ
2.3 中国
2.4 日本 2.4.1 その他
2.4.2 板塔婆


3 関連項目
4 外部リンク


概説[編集]

もともとのインドでストゥーパは饅頭のような形に盛り上げられた墓である。
起源
ストゥーパはもともと、仏教の開祖の釈迦が荼毘に付された際に残された仏舎利を納めた塚である。最初は釈迦を祀って、釈迦の誕生した涅槃の地に塔を建てた。その後、仏教が各地へ広まると、仏教の盛んな地域にもストゥーパが建てられ仏舎利を祀るようになった。

その後、ストゥーパが増え仏舎利が不足すると、宝石、経文、高僧の遺骨などを、しかるべき読経などをしたうえで仏舎利とみなすようになった。

古代インドでは、貴人の頭上に傘蓋(さんがい)をかざして歩いたことから、傘蓋は尊貴のシンボルとされ、やがてストゥーパに対する供養としての傘蓋は幾重にも重なり、楼閣・塔となっていった。

塔の頂部につけられる相輪は、原初的な仏塔にある傘蓋の発展したものと言われる。

それが漢の時代に中国に伝わり、木造建築の影響を受けて形が変わった。中国ではストゥーパに「塔」の字が当てられた。
日本
その後、日本に伝播した。日本では五重塔・三重塔・多宝塔など、木材(檜など)を使って建てられることが多い。なお、小型のもの(宝篋印塔や五輪塔など)は石造や金属製(青銅など)のものが多い。形は大きく変わったものの、本来のストゥーパのもつ意味は変わっていない。多くは信者の寄進によって立てられる。

ストゥーパとパゴダ[編集]

英語で仏塔を表す語にはストゥーパ(stupa)とパゴダ(pagoda)がある。いずれも仏塔全般を表しうる言葉であるが、ストゥーパはインド風のものパゴダは中国・日本風のものを意味することが多い。しかしはっきりした区別はなく、パゴダがストゥーパの一種、あるいはストゥーパがパゴダの一種とされることもある。

ただしパゴダは少々意味が曖昧で、仏塔に限らず、層塔のような設計をした通常の寺院を指すこともある。

日本ではしばしば、ミャンマーの仏塔をパゴダと呼ぶことがあるが、パゴダはミャンマーの仏塔を特に意味するわけでも、ミャンマー語由来の語でもない。

各地の仏塔[編集]

インド[編集]

インドに現存する仏塔としては、紀元前3世紀にアショーカ王によって建立されたサンチの塔が有名である。

スリランカ[編集]

スリランカ北部のアヌラーダプラにはかつて首都が置かれ、またスリランカの仏教の中心として大きな寺院がいくつもあった。その遺構としてアバヤギリ・ダーガバ(英語版)を始めとして規模の大きなストゥーパが散在している。

中国[編集]

漢の時代に中国へ伝わったとき、中国本土の建築様式と結合し中国式の仏塔となった。中国の仏塔の頂にある相輪はストゥーパの尖塔をかたどったものである。

ストゥーパはサンスクリット語で、漢訳仏典では卒塔婆と音写され、塔婆(とうば)とも略す。

元朝になると、仏教が再び盛んになり、卒塔婆は再び中国に広まった。この塔は覆鉢式塔(仏舎利塔)と呼ばれる。





応県木塔(仏宮寺釈迦塔)






真身宝塔
法門寺(西安市)






千仏塔
六榕寺(広州市)






大白塔
五台山塔院寺(山西省)






四門塔
神通寺(済南市)


日本[編集]





仏塔とタワー(八坂の塔(手前)と京都タワー(奥))
日本中に仏塔はある。ストゥーパの音写の「卒塔婆(そとば)」もしくは「塔婆(とうば)」を略した「塔(とう)」は、高層仏教建築物を指したわけであるが、それが転じて、細くて高い建築物全般が「塔」と呼ばれるようになっていった。
層塔・多層塔
三重塔や五重塔や多宝塔などのように2階建て以上の仏塔のことを「層塔(そうとう)」や「多層塔(たそうとう)」と呼ぶ。原則的には、奇数層となる。三重塔・五重塔などのように階層が低い場合は木造建築のものが多いが、談山神社の十三重塔のように階層が高くなると石造のものが多い。(なお、三重塔や五重塔でも庭に置くような小さいものは石造のものもある。)





五重塔(法隆寺)






三重塔(一乗寺)






二重塔(切幡寺)






多宝塔(根来寺)






十三重塔(談山神社)


その他[編集]
多宝塔
宝塔
国東塔
相輪橖
仏舎利塔

板塔婆[編集]
追善供養のために用いられる木の板




木製の供養塔。板塔婆とも卒塔婆とも。
詳細は「板塔婆」を参照

しばしば先端がストゥーパのような形に仕上げられており、ストゥーパに由来するものではある。だがこれ自体が信仰の対象ではなく、故人の追善供養のために用いられている。
無縫塔
宝篋印塔
五輪塔

関連項目[編集]

板碑

板碑(いたび)は、主に供養塔として使われる石碑の一種である。板石卒塔婆、板石塔婆と呼ばれ、特に典型的なものとしてイメージされる武蔵型板碑は、秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれる。



目次 [非表示]
1 構造
2 概要
3 参考文献
4 関連項目


構造[編集]

板碑は中世仏教で使われた供養塔である。基本構造は、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものである。頭部に二条線が刻まれる。実際には省略される部位分もある。

概要[編集]





神奈川県鎌倉市材木座五所神社の板碑




下総式板碑(千葉県香取市)
分布地域は主に関東であるが、日本全国に分布する。設立時期は、鎌倉時代〜室町時代前期に集中している。分布地域も、鎌倉武士の本貫地とその所領に限られ、鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられている。

種類としては追善(順修)供養、逆修板碑などがある。形状や石材、分布地域によって武蔵型板碑、下総型板碑などに分類される。

武蔵型とは秩父・長瀞地域から産出される緑泥片岩という青みがかった石材で造られたものをさすが、阿波周辺域からも同様の石材が産出するため、主に関東平野に流通する緑泥片岩製の板碑を武蔵型、四国近辺に流通していたものを阿波型と分類している。また下総型とは主に茨城県にある筑波山から産出される黒雲母片岩製の板碑をさしている。

戦国期以降になると、急激に廃れ、既存の板碑も廃棄されたり用水路の蓋などに転用されたものもある。現代の卒塔婆に繋がる。

板碑は地域・時代等により形態や石材に多様性があり、地域間交流を知る考古資料として注目されている。

参考文献[編集]
服部清五郎『板碑概説』鳳鳴書院、1933年
千々和実『板碑源流考―民衆仏教成立史の研究―』吉川弘文館、1987年
千々和到『板碑とその時代』平凡社、1988年
播磨定男『中世の板碑文化』東京美術、1989年

金石文

金石文(きんせきぶん)は、金属や石などに記された文字資料のこと。紙、布などに筆で書かれた文字に対し、刀剣、銅鏡、青銅器、仏像、石碑、墓碑などに刻出・鋳出・象嵌などの方法で表された文字を指す。土器や甲骨などの類に刻まれたものを含む場合もある。

ここでは主として記念性、永遠性を持った碑文、銘文などについて述べる。ここでは、碑文(ひぶん)は石碑に記した文、銘文(めいぶん)はそれ以外の金石に記した文と考えて用いる。



目次 [非表示]
1 概要
2 造像銘
3 墓碑・墓誌銘
4 鐘銘
5 世界遺産における位置づけ
6 現代人からの金石文
7 脚注
8 関連文献
9 関連項目
10 外部リンク


概要[編集]

中国では、ある事件や人物の記録を後世に残すために記した文を「銘」といい、やがて春秋戦国時代の石鼓文、秦・漢時代以降には始皇七刻石をはじめとして、銘を刻んで「碑」を建てるようになった。このように碑文・銘文は、堅牢な金属や石に記されたのである。したがって碑文・銘文は一定の様式を持ち、また、さまざまな技巧がこらされた。





人物画像鏡
日本では、古くは、福岡県福岡市の志賀島から出土した「漢委奴国王」(漢の倭の奴の国王)の金印、奈良県天理市石上神宮に伝わる七支刀など、中国や朝鮮半島の国から贈与、献上または下賜された遺品がある。また、日本で製作されたものとして、和歌山県橋本市隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡(東京国立博物館に寄託)、千葉県市原市の稲荷台1号古墳出土の鉄剣の銀象嵌銘、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣の金象嵌銘、熊本県江田船山古墳出土大刀(鉄刀)の銀象嵌銘などが知られている。

日本に所在する古碑としては、日本三古碑と呼ばれる上野国(群馬県)多胡碑、下野国(栃木県)那須国造碑、陸奥国(宮城県)多賀城碑が特に著名である。

上記以外の金石文には、碑、墓誌銘、造像銘、鐘銘、器物銘などがある。

世界的にはダレイオス1世が自己の業績を記したベヒストゥン碑文やプトレマイオス5世の徳を讃えたロゼッタ・ストーン、ダルマを統治理念としたアショーカ王の石柱碑・磨崖碑、中国唐代の大秦景教流行中国碑(西安碑林博物館所蔵)、唐と吐蕃とが国境を定めた唐蕃会盟碑などが著名である。

多くが時代の闇の彼方に姿を消すものの、金属や石などの剛健な物に記されていることから、発掘されることにより当時の出来事を鮮明に伝えるものとなる。歴史考古学的に、また言語学的に非常に重要な資料となる。

造像銘[編集]

像を造る際、製作者の名前や製作年度、由来などを記した銘文。東洋では主に仏像を造る際に記された。

中国では南北朝時代の北魏代、「龍門石窟」と呼ばれる洞窟に彫られた磨崖仏に記されたものが有名で、うち秀逸なもの20点が「龍門二十品」として選ばれ、六朝楷書の書蹟として知られる。

日本では飛鳥時代から行われ、法隆寺金堂の釈迦三尊像造像銘や薬師如来像造像銘など多くの遺品が知られる。

墓碑・墓誌銘[編集]





奈良県奈良市此瀬町の太安万侶墓から出土した墓誌と真珠。墓誌は青銅製、共に重要文化財、文化庁蔵、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。
故人を顕彰するため、墓のそばに姓名・生前の業績・記念文を記して建てたもの。一般的に墓域内に「墓碑」として建てるのが普通であるが、中国では一時期建碑が禁じられたことがあったため、碑を石板に変えて棺のそばに埋めた。この場合は「墓誌」と称する。

中国では南北朝時代から隋代にかけて爆発的に流行し、当時の書道の実態を語る史料として大量に出土している。墓碑では「高貞碑」、墓誌では「刁遵墓誌」「張黒女墓誌」などが著名で、六朝楷書の書蹟として知られる。

また西安市(かつての長安)の工事現場で2004年に見つかった日本出身で唐に仕えた井真成の墓誌、大韓民国忠清南道公州市(かつての熊津)の宋山里古墳群百済で1971年に見つかった武寧王の墓誌なども知られる。

日本古代の墓誌の埋納は7世紀末〜8世紀末まで行われ、最盛期は8世紀前半である。銘文をして残存しているものは16点ある。[1]

鐘銘[編集]

寺の梵鐘に寄進者名や製作年度、鐘の功徳、由来などを記した銘文。「国家安康、君臣豊楽」と銘された方広寺のそれが大坂の役の口実となった。

世界遺産における位置づけ[編集]

「文化遺産」に属する。そのなかの「記念工作物」は、
「建築物、記念的意義を有する彫刻及び絵画、考古学的な性質の物件及び構造物、金石文、洞穴住居並びにこれらの物件の組合せであって、歴史上、芸術上又は学術上顕著な普遍的価値を有するもの」
と定義されている(世界遺産条約第一条)。

なお、世界遺産条約では文化遺産として「記念工作物」のほか、「建造物群」と「遺跡」を掲げている。

現代人からの金石文[編集]

多種多様な記録媒体が発達した21世紀初頭においても、またたとえ作成の目的を純粋な情報伝達に限ったとしても、記録としての金石文の必要性が完全に失われたわけではない。情報の受け手として現代の言語が絶滅した時代の人々や地球外知的生命体を想定する場合、必要とされる保存性は紙やインクが持つ耐久性を大幅に超える。また、電子媒体への記録も(たとえ媒体を物理的に保存できたとしても)適切にデコードされることは期待できない。このような理由から、放射性廃棄物の地層処分が行われた場所など、遠未来の人類に確実に残さなければならない情報については、炭化ケイ素セラミックスのプレートに文字として刻印することが検討されている。[2]。

純粋な記録でなく、さまざまな事物の記念物としての側面を持つ金石文は、現代でも事あるごとに造られている。

脚注[編集]
1.^ 花田勝広「土葬から火葬へ」613頁(佐原真、ウェルナー・シュタインハウス監修、独立法人文化財研究所奈良文化財研究所編集『日本の考古学』上巻)
2.^ 原子力環境整備促進・資金管理センター「地層処分にかかわる記録保存の研究」(2010年6月閲覧)

関連文献[編集]
東野治之『日本古代金石文の研究』、岩波書店、2004年6月、(ISBN 4-00-024224-5)
蘇鎮轍『金石文に見る百済武寧王の世界』、彩流社、2001年12月、(ISBN 4882027232)
薮田嘉一郎『石刻-金石文入門』、綜芸舎、1976年11月(ISBN 4-7940-0033-2)
藪田嘉一郎編 『五輪塔の起原〔改訂〕 五輪塔の早期形式に関する研究論文集 』、綜芸舎 1981年(ISBN 4-7940-0034-0) 
郭沫若 『両周金文辞大系考釈』

ペトログリフ

ペトログリフ(英語:petroglyph)とは、象徴となる岩石や洞窟内部の壁面に、意匠、文字が刻まれた彫刻のこと。ギリシア語で石を意味するペトロとグリフ(彫刻)の造語である。日本語ではペトログラフと呼ばれることもあるが、通常は岩絵と呼ばれる。また線刻(画・文字)と呼ばれたり、岩面彫刻、岩石線画、岩面陰刻と訳されることもある。



目次 [非表示]
1 概要
2 内容
3 意義
4 一致
5 日本のペトログリフ
6 主な遺跡 6.1 アジア
6.2 アフリカ
6.3 北アメリカ
6.4 中南米
6.5 太平洋・オセアニア
6.6 ヨーロッパ

7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク


概要[編集]

人類が後生に伝えたいさまざまな意匠や文字を岩石に刻んだもの。筆記具や紙を持たない古代の人々が残した記録として注目されがちであるが、アメリカ合衆国ハワイ州などには16世紀や17世紀にかけて刻まれた比較的新しいものもある。また、近世や現代においても、宗教的な儀式の目的やアートとして刻まれるものも多数存在している。日本では主に漢字伝来以前の物をペトログラフ、漢字伝来以後の物を「碑文」又は「絵」と呼んで区別している。

海外ではペトログリフは勿論、岩石芸術(英語で言うRock art、ペトログラフだけでなく、洞窟の壁画やドルメン、ストーンサークル等も含む)全般の研究が行われており、特に米仏で研究が盛んであり、ユネスコに研究機関があるほか、ハーバード大学などでも研究が行われている。

1970年代にはアメリカでペトログラフ探しが流行したことがあるという。

内容[編集]

最も古いものはウクライナの「カメンナヤ・モグリャ」にあるもので、旧石器時代(約10,000から12,000年前)のものといわれている。7,000から9,000年前頃には絵文字や表意文字のようなものが現れ始めた。この頃は世界中で岩面彫刻はまだ一般的であったが、いくつかの文化では20世紀になって西洋の文化が入ってくるまで、使用し続けていた。ペトログラフは、南極大陸を除く世界中で見つかっている。

それらの場所や作られた時代、イメージのタイプ等から推察される目的については、多くの理論がある。いくつかのペトログリフは、天文学で使う印、地図および記号的なコミュニケーションの他の形式であると思われる。地形あるいは周囲の土地を表す岩面彫刻はGeocontourglyphとして知られている。それは道、川、時間と距離を表しているとも推察される。

さらに、それらは他の儀式の副産物とも考えられる。たとえばインドのものは、ロックゴングという楽器であると確認された。いくつかのペトログリフは、それを作った当時の社会において文化的にあるいは宗教的に重要なものだと考えられる。その重要性は子孫へと伝えられる。スカンジナビアの北欧人の青銅器時代以後の記号は、宗教的な意味に加えて、種族間の領土の境界を表すように見える。

さらに、地域ごとに方言が存在するように見える。たとえば、「シベリアの銘」と呼ばれるはほとんどルーン文字のある初期の形式のような形をしている。しかし、詳しい事は分かっていない。

ヨハネスブルグのヴィトヴァーテルスラント大学の岩石芸術研究所(RARI)が、カラハリ砂漠のサン人の中のシャーマン教と岩石芸術との関係について研究した。サン人の美術品はおもに絵画であるが、それらの背後にある信条は、それらを理解する根拠になるという。RARIウェブサイトによると、研究者は、サン人の信条がその画家の信仰生活に基本的な役割を果たしたことを示した。絵の背後には別の世界がある。踊り手が動物の形で飛び立ち、力を引くことができ、治療、人工降雨および狩猟を導くことができたという。

意義[編集]

おもに考古学的な面と美術的な面から研究が行われている。考古学的には過去の人々の風俗や生活様式、ときには気候などを類推できるほか、文字の誕生を探る上でも貴重な手がかりと考えられている。また美術的な価値についても研究がなされている。

研究における有効性の問題として、岩石の風化により生じる亀裂やくぼみがペトログリフであると誤認される場合のあることや、遺跡の改竄や捏造といった問題が挙げられる。

一致[編集]

世界中で調査され、GPSで記録されたペトログリフを分析した結果、紀元前3000年から7000年頃のペトログラフに、大陸の全域の広い範囲で共通性がある事が分かっている。 よく見られる模様としては、うずくまる人、キャタピラー、梯子、アイマスク、ココペリ(インディアンの神様)、輪留めをかけられた車輪、等が挙げられる。

この理由としては様々な説が考えられている。
世界的移動説

特定のグループが、ある地域から世界中に移ったという説。1853年に、ジョン・コリングウッド・ブルースとジョージ・テイトが唱え、ロナルド・モリスが彼らの104の理論を要約した。

シュメール人が世界中に広まったという説はこの説の親戚である。
遺伝説

他の、より論争の的になっている説明は遺伝によるものである。ユング心理学およびミルチャ・エリアーデの見解では、人間の脳に遺伝学的に相続した構造があるからではないかとしている。
薬物説

幻覚剤を使用して精神が異常状態になったたシャーマンによって作られたことをいう説。デービッド・ルイス=ウィリアムズは、これらの模様は人間の脳に組み込まれたもので、それらが薬や片頭痛および他の刺激によって起こる視覚障害や幻覚によって頭に生まれるのではないかとしている。

この一致を利用して、ペトログラフを「碑文」として解読しようという研究も存在する。この研究を推し進めたのは、ハーバード大学の教授でアメリカ碑文学会会長のバリー・フェルである。フェルは世界中に同じような形のペトログラフがあるのを利用して、シュメール古拙文字やオガム文字等、使える古代文字を総動員してアメリカのペトログラフの解読を試みた。

日本でもこの方法を使って解読が試みられており、日本ペトログラフ協会がシュメール古拙文字等のフェルが用いた文字の他に、日本の仮名や神代文字、中国のロロ文字等も使って解読を試みている。(一部にペトログラフ研究そのものをオカルトと考える人がいるのはこの為でもある。詳しくは神代文字を参照)

バリー・フェルの解読法には批判もあるが、発掘された文字(と思われる物)を解読しようという試みは世界的には古代エジプトのヒエログリフ解読、中国の甲骨文字、ギリシャの線文字Bの解読等、古くから行われている事であり、それ自体は何もおかしいことではない。

日本のペトログリフ[編集]

環太平洋地域にペトログリフの文化が点在し、日本においてもペトログリフの存在が確認されており、幾つかの団体が研究を行っている。

日本ペトログラフ協会は主に考古学的な研究や、解読を行っている。日本ペトログラフ協会の始まりは1986年の下関市の彦島にある磐座の研究である。 その頃、1924年に発見された古代の磐座が平家の財宝のありかを示す岩だという説が流れ、彦島に人が殺到していた。そこで福岡県の支援を受けて学問的な調査を行う事になり、海外の学者に問い合わせたり、ペトログラフ研究が進んだアメリカやフランスの研究所で調査が行われた。このときの研究の流れを汲むのが日本ペトログラフ協会である。

日本先史岩面画研究会は北海道の手宮洞窟やフゴッペ遺跡の研究から発展している組織で、こちらは主に美術的な観点からの調査を行っている。

両会とも世界各地で調査を行っており、海外の学会で発表する等、成果を挙げている。ペトログラフは1994年の時点で120箇所で1200個が発見されている。

主な遺跡[編集]

アジア[編集]





小樽市の手宮洞窟のペトログリフ。






北九州市の淡島神社のペトログリフ。






韓国の盤亀台岩刻画。






香港の西壁






香港の長洲島のペトログリフ。 約3000年前の作とされる。






フィリピンのシエラマドレ山脈






インドのエダッカルのペトログリフ。






カザフスタンのタムガリ






カザフスタンのイリ川。仏教的な事が描かれている。






キルギスのチョルポン・アタにて。

日本 手宮洞窟(北海道小樽市)
フゴッペ洞窟(北海道余市郡)
大面遺跡(青森県弘前市)
水窪遺跡(静岡県磐田市)
笠置山(岐阜県恵那市)
ドルメン遺跡(滋賀県滋賀郡)
宮島(広島県廿日市市)
彦島の杉田丘陵(山口県下関市)
淡島神社(福岡県北九州市)
藤松(光町) 福岡県立大翔館高等学校周辺(福岡県北九州市)(当時、日本ペトログラフ協会会長の吉田信啓が福岡県立大里高校(福岡県立大翔館高等学校の前身)で教師をしていた際に学生らと発見。
幣立神社(熊本県上益城郡山都町)
押戸ノ石(熊本県阿蘇郡南小国町)

韓国 盤亀台岩刻画(蔚山市)

中国 東龍洲
滘西洲
蒲台島
長洲
石壁(香港のランタオ島)
黃竹坑 - 香港仔の近く。
大浪灣(香港島)
龍蝦灣(西貢市)


その他陰山山脈や寧夏回族自治区にもある。
台湾 茂林区

フィリピン アンゴノの岩絵群

アゼルバイジャン コブスタン国立保護区

カザフスタン タムガリ

モンゴル モンゴル・アルタイ山脈の岩絵群


アフリカ[編集]
アルジェリア タッシリ・ナジェール

タンザニア コンドアの岩絵遺跡群

ナミビア トゥウェイフルフォンテーン

ボツワナ チョベ国立公園
ツォディロ

リビア タドラルト・アカクス

マラウイ チョンゴニの岩絵地域






アラヴァ岬の南1kmに存在するペトログリフ
北アメリカ[編集]
アメリカ合衆国 アーチーズ国立公園
アラヴァ岬
オリンピック国立公園
化石の森国立公園
キャニオンランズ国立公園
キャピトル・リーフ国立公園
セドナ
セント・ジョン島
デスヴァレー国立公園
チャコ文化国立歴史公園

アルゼンチン タランパヤ国立公園


中南米[編集]
ニカラグア オメテペ島

メキシコ シエラ・デ・サン・フランシスコの岩絵群

ブラジル セラ・ダ・カピバラ国立公園


太平洋・オセアニア[編集]





ハワイの西側にて。






ハワイ火山国立公園にて。






オロンゴ(Orongo)にあるペトログリフ。二人の鳥人に持ち上げられたマケマケ。

オーストラリア アーネムランド

フランス領 ニューカレドニア

ハワイ諸島
バヌアツ ロイ・マタ首長の領地

イースター島

ヨーロッパ[編集]





イタリア、ヴァルカモニカのペトログラフ






イタリア、ヴァルカモニカのペトログラフ






イタリア、ヴァルカモニカのペトログラフ






イタリア、ヴァルカモニカのペトログラフ






スウェーデン、ターヌムのペトログラフ






スウェーデン、ブラスタッドのペトログラフ






カナリア諸島のペトログラフ






スコットランド、エアシャイアのペトログラフ






スペイン、ガリシア州サンティアゴ・デ・コンポステーラのペトログラフ






スペイン、ガリシア州メイスのペトログラフ






スペイン、ガリシア州ムーロスの盃状穴






スペインガリシア州ポンテ・カルデーラスの鹿の絵と盃状穴

アイルランド ニューグレンジ
ノウス
ドウス
タラの丘

イギリス ノーサンバーランド
ダラム

イタリア ヴァルカモニカの岩絵群

スウェーデン ターヌムの岩絵群

スペイン イベリア半島の地中海沿岸の岩絵

ポルトガル コア渓谷の先史時代の岩絵遺跡群

ノルウェー アルタの岩絵

フィンランド ハンコ

ロシア ペトロザヴォーツクのペトログラフ公園
トムスカヤ・ピサニツァ ケメロヴォの近くにある。


参考文献[編集]
吉田信啓 (1994). ペトログラフ・ハンドブック : ペトログラフ探索調査手帳. 中央アート出版社. ISBN 4886396992
日本先史岩面画研究会
Petroglyph

関連項目[編集]
金石文
洞窟壁画
磨崖仏
板碑
支石墓

金属

金属(きんぞく、metal)とは、展性、塑性(延性)に富み機械工作が可能な、電気および熱の良導体であり、金属光沢という特有の光沢を持つ[1]物質の総称である[2]。水銀を例外として常温・常圧状態では透明ではない固体となり[2]、液化状態でも良導体性と光沢性は維持される[3]。

単体で金属の性質を持つ元素を「金属元素」と呼び[4]、金属内部の原子同士は金属結合という陽イオンが自由電子を媒介とする金属結晶状態にある[5]。周期表において、ホウ素、ケイ素、ヒ素、テルル、アスタチン(これらは半金属と呼ばれる)を結ぶ斜めの線より左に位置する元素が金属元素に当たる。異なる金属同士の混合物である合金、ある種の非金属を含む相でも金属様性質を示すものは金属に含まれる[2]。





ガリウム の結晶。




リチウム。原子番号が一番小さな金属


目次 [非表示]
1 定義 1.1 性質からの定義
1.2 化学結合からの定義
1.3 バンド理論における金属

2 性質 2.1 融点
2.2 硬さ
2.3 変態
2.4 導体、超伝導
2.5 腐食
2.6 破壊

3 金属の分類 3.1 化学的性質による分類
3.2 金属結晶構造による分類
3.3 工業材料分類
3.4 比重
3.5 貴金属と卑金属
3.6 有色金属
3.7 レアメタル

4 合金 4.1 鉄鋼
4.2 アモルファス金属
4.3 機能性金属

5 精錬と加工 5.1 精錬
5.2 鋳造
5.3 塑性加工
5.4 硬化加工

6 人と金属の関係 6.1 宇宙と生命の関係
6.2 金属利用
6.3 人体への影響

7 参考文献
8 注釈
9 脚注 9.1 脚注
9.2 脚注2

10 関連項目
11 外部リンク


定義[編集]

性質からの定義[編集]

その性質から、以下の5つの特徴をすべて備えるものを金属と定義している[6]。
1.常温で固体である(水銀を除く)。
2.塑性変形が容易で、展延加工ができる。
3.不透明で輝くような金属光沢がある。
4.電気および熱をよく伝導する。
5.水溶液中でカチオン(陽イオン)となる。

ただし、金属元素以外でも特定環境下では金属状態となる可能性も指摘され、例えば常温で200GPaの高圧下では水素は金属様性質を帯びると推測されている。これを金属水素と呼称する[7]。

化学結合からの定義[編集]

金属を原子の化学結合で定義する場合、特有の金属結合で説明される。これは、カチオン化した金属元素が規則正しく並び、その間を自由電子が動き回りながら、これらがクーロン力で結びついている結合を指し、常温下でこのような結合状態にある物質を金属と定義している[6]。

原子の配列は、ほとんどの場合、面心立方格子構造 (fcc)、体心立方格子構造 (bcc)、六方最密充填構造 (hcp) のいずれかを取り、元素の種類や同じ元素でも状態によってそれぞれの構造となる。この構造はそれぞれ原子充填率が異なり、金属の塑性変形に影響を与える[6][8]。





外部の力が加わった際の、イオン結合と金属結合に起こる差異
自由電子理論では、金属とは陽子がつくる格子状立体の中を電子が自由に飛び回っている状態 (Drude, 1900)、自由電子の気体の中に鋼体球(陽イオン)が浸かっている状態 (Lorentz, 1923) という表現で、カチオンと電子雲が結合する様子と自由電子のふるまいを説明した[9]。この自由電子の存在が金属の特徴をもたらす。物体に外部の力が加わってズレが生じた際、イオン結合の物質は静電反発が起こり壊れるのに対し、金属は自由電子が取り囲んでいるために結合が安定する[10]。金属光沢は、自由電子がほとんどの可視光をはねかえす、実際は自由電子の集団が様々な波長の光を吸収し再放出するために、全体では反射し光沢を持っている様に見えることによる[11]。導電性には、電荷を持つ電子が自由に動き回りながら電極間に電荷を受け渡すことで寄与している[11]。

バンド理論における金属[編集]





金属、半導体、絶縁体のバンド構造の模式図
原子中の電子が取りうるエネルギーのレベルは、複数の原子が存在する状態下ではおのおのが重ならない電子軌道を取る。量子力学が要請するこの分裂によって生じる軌道は、金属においてアボガドロ数程度の原子が存在する状況ではエネルギーが低いところから順々に埋められ、最も高いエネルギー(フェルミエネルギー)を持つ電子が球状のフェルミ面を形成し、全体として定まった幅を持つ[12]。これは「バンド構造」と呼ばれる(バンド理論)。このバンドには物質によっては電子が軌道を取りえない断絶したエネルギー領域(バンドギャップ、禁制帯)があり、電子が取りうる最大のエネルギー領域がこのバンドギャップ部分にあると、電子軌道はギャップよりも低く原子核に束縛される[13]バンド領域(価電子帯、バレンスバンド)に詰まってしまい、電流は流れない。しかし金属にはこのバンドギャップが無いため、電子は自由に動くことができ、電流が流れる[14]。

半導体は、このバンドギャップが1eV前後であるため、光や熱のエネルギーを加えることで電子の一部をバンドギャップよりもエネルギー位置が高いところにある伝導帯(コンダクションバンド)まで引き上げることが出来、結果通電するようになる物質である[14]。

性質[編集]

融点[編集]

系の自由度を規定するギブスの相律では、物質の状態は以下の式で示される。
F\,=C-P+2ただし、F は、自由度(平衡状態中に取り得る外的因子の数)。
C は、成分の数。
P は、その体系中において存在する相の数。

金属の相律を考える際、わずかな圧力変化が及ぼす影響は無視してかまわないため、変数2が表す示強性のうち圧力を減らした次式を用いる。
F\,=C-P+1
純金属の成分Cは1となるため、上式を変形すると
F\,=2-P
となり、P = 2 すなわち固相と液相が共存する状態での自由度 F は0になる。これは、純金属が一定の融点を持つことを示す。一方、合金では C は2、F は1となり、融け始める温度(固相線温度)と完全に融ける温度(液相線温度)が異なるため、固相線温度を融点と置いている。これら相の変化は、溶融状態の金属を徐々に冷却しながら凝固させ得られる冷却曲線から分析する[15]。

この、一定である純金属の融点(凝固点)は、温度の定点として利用されている。国際温度目盛1990年改訂 (ITS-90) ではスズ、アルミニウム、金、銀などの凝固点が採用されている[15]。

硬さ[編集]

金属は一般には硬いものとしてイメージされ、ひっかき硬さなどの意味に置いては実際に硬いものが多い。しかし、アルカリ金属やアルカリ土類金属のように柔らかいものもある。また、塑性という観点に立てば、むしろ金属は柔らかく(延性があり)加工しやすいのが特徴といえる。工業的に大量に利用されている理由も、強度と加工しやすさのバランスの良さにある。





辷り(すべり)
塑性には、金属原子がどのような構造配列を持っているかも影響を与える。金属の塑性変形は原子密度が高い辷り面(すべりめん)と呼ばれる結晶面に沿って、原子の間隔が広く抵抗が少ないところから間隔が狭い方向(辷り方向)に起こる。この辷り面と辷り方向の組み合わせは「辷り系(すべりけい)」と呼ばれ、原子の構造配列によって数が異なる。それぞれの系の数は、fccが12、bccが48、hcpが4となる。ただし、bcc構造は原子密度が高い領域が無いため、辷りを起こすためには大きなせん断力が必要になる。このような理由から、fcc構造の金属は比較的簡単に塑性を起こし、bcc構造の金属は力が必要だが多様な形に変形させることができる[6]。

金属材料の硬さ評価は、JIS規格にてブリネル硬さ、ビッカース硬さ、ロックウェル硬さ、ショア硬さの4種類の測定法が定められている[16]。ブリネル硬さ試験は鋳物などに限られ、荷重の幅が広いビッカース硬さ試験は柔らかい金属から超硬合金まで対応が可能。ロックウェル硬さ試験は黄銅や焼入れ合金などで用いられる[17]。

変態[編集]

物質が相を固体、液体、気体に変えることを相変態というが、ほとんどの金属はこれ以外に固体状態で結晶構造を変える現象を起こし、これを「固相変態」、「同素変態」または単に「(金属の)変態」と言う。この変態は温度変化によって起こされ、大抵のケースでは低温のfccやhcp構造を取る金属が固有の温度(変態温度)でbcc構造へ変わる。しかし例外として鉄は特殊な変態を見せ、低温時のbcc構造(α-Fe)から、912℃を境界にfcc構造(γ-Fe)へ変り、さらに加熱すると1400℃でbcc構造 (δ-Fe) となる。これは、低温の鉄は磁性が強いために起こる現象と説明されており、この特性が鉄の用途を広げる理由ともなっている[15][8]。

高温の金属が冷却されbcc構造になる変態を「マルテンサイト変態」と言い、これは開始温度 Ms で始まり終了温度 Mf で完了する。逆にbcc構造の金属を加熱し起こす変態は「逆変態」と呼ばれ、温度 As で始まり Af で完了する。これらの温度は Mf<Ms<As<Af の関係にある[18]。

この変態を工学に応用する例には、原子力発電所で利用するウラン処理がある。668℃以下で斜方晶構造 (α-U) のウランは発電において鍛造や圧延加工を施し棒状に成形されるが、これには集合組織が形成されるため何度も加熱するうちに熱膨張を起こして数倍に伸びる。そこで、ウラン棒を加熱し正方晶構造 (β-U) へ変態させた上で急冷し、集合組織を除去する。これによって熱膨張を低減させることができる[15]。

導体、超伝導[編集]

自由電子のふるまいによって、金属の熱伝導率と電気伝導率は高くなり、しかも比例する(ヴィーデマン=フランツ則)。金属は温度が下がると電気伝導性が上がり、逆に温度が上がると伝導性は減少する[6]。これは温度の上昇に伴って伝導電子がより散乱されるためである[10]。この性質から、絶対零度に向けて金属の電気抵抗はゼロになることを検証する過程で、超伝導が1911年にヘイケ・カメルリング・オネスによって発見された。超伝導となる温度(臨界温度、Tc)は金属によって異なり、例えばニオブは9.22K、アルミニウムは1.20Kとなる[10]。





金属腐食の一例:錆
腐食[編集]

金属が酸素と結びつく酸化反応には、激しく起こるものと緩やかに進行するものがある。金属粉が酸化する場合、急な発熱や閃光を伴うことがあり、爆発事故に繋がる場合がある。この現象を逆利用したものがアルミニウム粉末を用いた溶接の手段であるテルミット法や、マグネシウムを利用する写真用フラッシュなどである[15]。

貴金属など一部を除き金属は本来、酸化や硫化された状態が安定している。工業利用では還元反応を用いて化合物を取り除いているが、自然な状態に置いた金属は再び酸素や硫黄などと結びつこうとする性格を持ち、錆や脆化が発生する。これらや、酸による反応などは一般に腐食と呼ばれる。腐食は、「化学的腐食」に相当する溶液による「湿食」や腐食性ガスがもたらす「乾食」がある。「電気化学腐食」は、合金を含め複数の金属が接触しているものに対し、電極の電位差から起きる腐食であり、イオン化傾向が強い金属が陽極(アノード)となって電解腐食(ガルバニ腐食)を起こす[15]。

一方、化学的腐食のうち酸などが金属の表面を侵した段階で、この部分が酸化皮膜化してそれ以上の腐食が起こらなくなる現象がある。例えば鉄を希硝酸に漬けると溶解するが、硝酸濃度を上げ40%を超えると溶解速度は遅くなり始め、65%以上では溶解しなくなる。これは、鉄の表面に数10Å厚の不溶性である酸化鉄(II,III)が生成されるためである。このような状態となった金属を不動態と言う[15]。

破壊[編集]





丸い金属棒の引張試験結果の分類
(a) 脆性破壊
(b) 延性破壊
(c) 完全な延性破壊
塑性がある金属でも、過大な力が掛かれば破壊する。引張破壊を例にすると「脆性破壊」と「延性破壊」に分かれる。ぜい性破壊は亀裂を起因とするもので破壊箇所に塑性変形が見られず、金属の結晶面に沿って破壊が始まり、劈開(ヘキカイ)破面と呼ばれる断面が2km/秒という瞬時に金属に走って断裂する。これは部品設計上の問題が大きい。延性破壊は荷重のため金属が延伸し、その限界に達したところで断裂を起こす。そのため、破断部分に伸び細った様子が見られ、破断面にはディンプルと呼ばれる小さなくぼみが多数観察される。このような破壊に対し、破断面を観察し研究する分野はフラクトグラフィ(破面学)と呼ばれる[15]。

一方で、破壊を引き起こさない程度の力が繰り返し同じ箇所に掛かるような時にも破壊が起こる。これは「金属疲労」もしくは単に「疲労」と呼ばれる[15]。

金属の分類[編集]





金:非鉄金属(貴金属。レアメタルには含まれない。)、面心立方格子構造の結晶を持ち、比重では重金属の範疇に入る。有色金属。
金属の分類にはいくつかの方法がある[6][19]。

化学的性質による分類[編集]
典型金属:(アルカリ金属:Li、Na、K、Rb、Cs。アルカリ土類金属:Ca、Sr、Ba、Ra。)
マグネシウム族元素:Be、Mg、Zn、Cd、Hg
アルミニウム族元素:Al、Ga、In
希土類元素:Y、La、Ce、Pr、Nd、Sm、Eu
スズ族元素:Ti、Zr、Sn、Hf、Pb、Th
鉄族元素:Fe、Co、Ni
土酸元素:V、Nb、Ta
クロム族元素:Cr、Mo、W、U
マンガン族元素:Mn、Re
貴金属(銅族、貨幣金属[20]):Cu、Ag、Au
白金族元素:Ru、Rh、Pd、Os、Ir、Pt。
天然放射性元素:UおよびThを母体とする放射能壊変産物。U、Th、Ra、Rn、アクチノイド [21]。
超ウラン元素:Np、Pu、Am、Cm、Bk、Cf、Es、Fm、Md、No等、ウラン以降の元素[22]。





面心立方格子構造




体心立方格子構造




六方最密充填構造
金属結晶構造による分類[編集]
面心立方格子構造 (fcc):Al、Ca、γ-Fe、Ni、Cu、Rh、Pd、Ag、In、Ir、Pt、Au、Pb
体心立方格子構造 (bcc):Li、Na、K、β-Ti、V、Cr、α-Fe、δ-Fe、β-Sn、Ta、W
六方最密充填構造 (hcp):Be、Mg、α-Ti、Zn、Cd、Nd、Os、Tl

工業材料分類[編集]
鉄鋼炭素鋼:機械構造用炭素鋼、一般構造用炭素鋼など
合金鋼:クロム鋼、ニッケル鋼、不銹鋼(ステンレス鋼)、高速度鋼、工具鋼など
鋳鉄:可鍛鋳鉄、球状黒鉛鋳鉄(ダクタイル鋳鉄)など
非鉄金属銅および合金
アルミニウムおよび合金
ニッケルおよび合金
貴金属:Au、Ag、Pt
低融点金属:Sn、Pb、Bi
その他:Mg、Ti、Znなど

比重[編集]

金属を比重で分類する場合は、比重5を基準に下回るものを軽金属、上回るものを重金属と一般に呼ぶ。しかしこれはあまり厳密な定義ではなく、基準を比重4とする場合[23]もある[19]。
主な軽金属と比重(比重5未満):Li (0.53)、Na (0.77)、K (0.86)、Ca (1.55)、Mg (1.74)、Be (1.85)、Al (2.70)、Ti (4.50)
主な重金属と比重(高比重8種):Ir (22.65)、Pt (21.4)、Au (19.3)、W (19.3)、U (19.1)、Hg (13.6)、Hf (13.3)、Pb (11.3)

貴金属と卑金属[編集]

貴金属と卑金属の分類にはさまざまな考え方がある。イオン化傾向から小さい金属を「貴金属」、大きいものを「卑金属」と呼ぶ概念[24]、これに産出量の少なさや金属光沢の美しいもの(貴金属:precious metals)と大量産出されるもの(卑金属:base metals)を判断に加える概念[25]もある。貴金属は財貨となり、硬貨や貨幣経済を裏打ちする金本位制の基礎など、世界経済を支える役割を担った[26]。また、卑金属から貴金属を生み出すことを目的とした錬金術は、化学の生みの親ともなった[26]。

有色金属[編集]





酸化発色したビスマスの結晶
ほとんどの金属が持つ金属光沢は灰白色であるが、一部に、比較的はっきりした色相を有する金属がある[6][27]。純金属では金や銅、合金では黄銅、丹銅などがある。なお表面が酸化、塩素化、窒化など化学反応を起こした場合、これらの化合物の色や、酸化発色などの構造色[28]によって変色することもある。

レアメタル[編集]

金属を汎用金属(コモンメタル、ベースメタル)と希少金属(レアメタル)に分ける分類もある。レアメタルの基準は以下の1-4のどれか一項目を満たし、かつ5番目の条件にあてはまるものを言う[29]。
1.存在する量が少ない
2.鉱床を作らず、広く薄く分布している
3.鉱床を作っても、特定の国や地域に限定されている
4.鉱物から取り出したり精製したりすることが難しい
5.現代の産業に欠かせない素材である

レアメタルは、典型元素15種類+希土類以外の遷移元素15種類+希土類金属(レアアースメタル)17種類の合計47種類があり、この中には半金属のホウ素、セレン、テルルも含まれる。これらレアメタルはクラーク数の少なさとは必ずしも一致せず、例えば銅は、地殻に含まれる量は少ないが古来青銅器が作られたように鉱石が発掘しやすく精錬も容易だった[29]。

コモンメタルの定義は、「レアメタル以外の金属」「歴史的に文明を支えた鉄、銅、亜鉛、スズ、水銀、鉛、アルミニウム、金、銀の8種類」など複数ある[29]。

以上のように「レア」と「コモン」の差は物質の絶対量ではなく、人類がいかに容易に調達できるか、需給バランスのギャップという点が強い。そのため、精錬技術の向上など製造プロセス革新によってレアメタルに分類される金属がコモンメタル化される可能性があり[30]、その例としてチタンがコモンメタル化されつつある[31]。

合金[編集]

詳細は「合金」を参照

単一の金属を「純金属」という[6]のに対し、複数の金属の化合物を「合金」という。合金は単体の金属が持たない性質を持つことがあり、工業用材料として用いられる金属は多くが合金である[15]。

鉄鋼[編集]

鉄を基礎とする合金(鉄基合金)は鉄鋼と呼ばれ、その潤沢な生産性を背景に様々な分野で活躍している。鉄鋼は本質的に鉄 (Fe) と炭素 (C) の合金であり、その微細組織は Fe-C 二元系が平衡状態にある物質と定義できる。鉄鋼の用途は構造部材が主流とするが、車両や船舶など輸送機械、発電、化学などのプラントや工作機械類、ばね、工具、金型など多岐にわたる[32][33]。

鉄鋼はさらに別の金属を加えた改良が施され、クロムを加えて耐食性を付与した不銹鋼(ステンレス鋼)は100種類以上、優れた磁性を持つ磁石鋼、膨張など温度による影響を排除した不変鋼(インバー、バイメタルなど)、その他にも工具鋼や耐熱鋼、快削鋼など、多様な合金が上市されている[33]。

アモルファス金属[編集]

本来は結晶相を持つ金属が、ある種の合金では規則的な格子を作らずガラスのように非晶性となることがあり、これはアモルファス金属と呼ばれる。1960年、金-シリコン合金で発見されたこの性質は、他に鉄系、アルミニウム系、コバルト系、ニッケル系、マグネシウム系などが知られる[6]。

アモルファス金属は、強い磁性に機械的強度や耐食性に優れ、温度変化による熱膨張や剛性低下の係数が低い。アモルファス金属の製造法には複数の手法が提案されているが、工業的には直接合金を得られる溶融金属の急冷凝固法が優れている[6]。

機能性金属[編集]

合金の中には、特殊な機能を持つ種類がある。ニッケル-チタンや鉄-マンガン-チタン合金などの形状記憶合金、相変態を利用した超弾性合金、金-銅-ジルコイル合金などの超塑性合金、マグネシウムなどを用いる水素吸蔵合金、結晶境界のずれを利用する制振合金などがある[19]。水銀や高価なセシウムに替わる低融点の合金も研究されており、かつて開発されたウッドメタルの毒性を改良したガリンスタンなども提案されている[34]。今後は、レアメタルの用途を代替する合金の開発などが求められている[29]。

精錬と加工[編集]

詳細は「金属加工」を参照

精錬[編集]

地球の環境下において、天然の状態で得られる純金属はごく少数に限られ、ほとんどは酸化物、硫化物、炭酸塩、ケイ酸塩、ヒ化物といった化合物となっている。これらから他の元素を排除して利用に耐えうる金属を取り出す手法を精錬、冶金と言う。その方法は加熱して行う乾式精錬法(乾式冶金法)と、電気分解(電解精錬)や溶液内で抽出する湿式精錬法(湿式冶金法)があり、これらは金属と他の元素間に働く結合力(親和力)などから選ばれる[6]。

金属利用範囲の拡大に伴って高純度の金属が求められるようになり、これらに対応する精錬法も開発されている。ゾーンメルト法(帯域溶融法)は、溶融させた不純物を含む金属を徐々に冷やし、偏析を利用して純度を高める[6]。

鋳造[編集]

金属を工業材料として用いるには、まず溶融させて鋳型に流し込む鋳造から始まる。青銅器時代から用いられたこの金属加工法で作られた鋳物は、そのままでは粗く、不純物の遍在や鋳巣などがあり強度が低い。これらは金属部品の要求性能が高まるにつれ、塑性加工技術の進展や用いられる合金の改良などが施された。鉄では1947年に球状黒鉛鋳鉄、アルミニウム合金では1920年にシルミンの改良法が発案され、溶湯(ようとう、溶融状態の金属)処理法での強度改良に大きく寄与した[35]。

製法も、砂型、金型、ダイカスト、精密鋳造など多種の手段が用いられるようになった。効率向上においては、連続鋳造法の基礎が1933年に発案され、1950年代にプロセス改良を経て実用的な技術として確立された[35]。





鍛造の一例:刀鍛冶
塑性加工[編集]

金属に弾性限界を超える外的な力を与え、永久ひずみを起こして望む形状や寸法に加工することを塑性加工と言う。これには、加熱した状態で行う「熱間加工」と常温で行う「冷間加工」に分類され、前者は再結晶が伴い、後者は常温で再結晶する一部の金属を除いて再結晶化が起こらない[36]。

塑性加工の手法には、圧延、引抜き、押出し、鍛造、深絞り、打抜きなどがあり、このような変形加工を通じて金属の不均一や粗い結晶粒の微細化が起こり、強靭さが増す。また、圧延などでは個々の結晶粒の方向性が揃いながら集合組織を形成するために、表面のエネルギー特性を高める効果もある[36]。

硬化加工[編集]

金属硬度には、「焼入れ」も大きな影響を与える。これは、加熱した金属を急冷却させる工程で、変態を起こさせる暇を与えず水や油に投入して温度を下げ、高温時の結晶状態を維持する手段である。ただし焼入れのみではもろいため、「焼き戻し」という再加熱が対で行われる。この2工程を合わせて調質という[6]。

鍛鉄や、金属を何度も折り曲げるなど外部から繰り返して力を加えると、金属は硬くなる。これは転位論で説明される格子欠陥のひとつ「転移」と呼ばれる原子配列の乱れが金属の塑性を起こす辷り面に生じ[2- 1]、これがやがて点欠陥に固着し、金属全体が動きにくくなる現象である[6]。

人と金属の関係[編集]

宇宙と生命の関係[編集]

人体は、カルシウムを含む6つの多量元素、ナトリウム、カリウム、マグネシウムを含む5つの少量元素で99.4%を構成されている。これに加え必須元素、微量元素が生命活動や酵素の活性などに使われている[37]。

このような金属をつくる元素は宇宙の誕生とともに生成された訳ではない。ビッグバンが起こった後、当初宇宙に満ちていた元素は水素とヘリウムだけだったと考えられる。これが重力によって集まり、産まれた恒星の中でより重い元素は核融合を起こし生成された。ただし太陽程度の星では酸素までであり、より重い質量の恒星でも内部で生成される元素は鉄までに止まる。鉄よりも重い元素は超新星爆発のエネルギーを吸収して初めて核融合を成すといわれる[注 1]。地球が鉄よりも重い金属元素を含み、それらを生物が生命活動に、そして人類がエネルギーとして放射性元素を利用していることは、すなわち太陽系、人類を含む生命を構成し活動を支える物質はかつて爆発し散らばった星のカケラが再集結したものであることを示し、金属の存在はそれを証明している。このことを指し、人類を始め地球生命は「星の子」[38]とも評される[39]。

金属利用[編集]

文明が金属を使用した太古の例では、イラクで出土した紀元前9500年頃の銅製ペンダントが見つかっている[40]。しかしこれは天然にあった純銅をほぼそのまま利用したもので、以後続いた銅の利用は、銅が純粋な形(自然銅)で鉱石となって集まりやすく、しかも地球表面のいたるところに分布していたことが幸いした[41][注 2]。この初期段階で利用された他の金属は、金や銀など酸素と結合しにくい貴金属に限られ、その絶対量も希少だった[40]。





周時代の青銅製通貨
酸化物から金属を得る製錬技術は、世界四大文明が生まれ、人類が数百℃以上の熱源を制御する手段を得て初めて可能となった。紀元前2000頃のエジプトの壁画には足踏みふいごと鋳型が登場する。さらに、銅−砒素および銅−錫合金が発明され、融点を940℃まで下げながら約3倍の強度を持つ青銅が古代中国の殷王朝や地中海のミケーネ文明、ミノア文明および中東などを例に金属器が広く製造、使用されるようになり、青銅器時代が到来した[40]。

地球上に豊富にある鉄は酸化された状態にあり、最古の利用例と言われるエジプトやメソポタミアで発見された紀元前5000-3000年前の鉄製品は、隕鉄を叩いて[42]製造されている。酸化鉄を加熱し還元反応を経る精錬は、諸説あるが[42]紀元前1650年頃のヒッタイトで始められ、彼らが持つ鉄製の武具は高い軍事力の裏打ちとなった。製鉄技術は約200年以上秘匿されてきたが、紀元前1200年頃に「海の民」にヒッタイトが滅ぼされると、製鉄技術の広範な伝播が始まった。なおヒッタイト秘術の真髄は、鉄の精錬そのものではなく炭素を含ませ鋼をつくる技術にあったと思われている[40]。

金属精錬技術の普及とともに、金属は武器だけでなく農耕器具や生活用品にも広く用いられ、また貴金属類も装飾品などに使われている[43]。金属の磁性は方位磁石から羅針盤へと発展し航海技術発展に寄与した[40]。

18世紀以前、人類が使用していた金属は金や鉄、水銀など11種類だけであった[2- 2]。産業革命を迎えると採掘や精錬技術が進み、またドミトリ・メンデレーエフの周期表発表前後は新たな金属が続々と発見された。さらに19世紀以降には様々な化学実験や原子論など考察が金属にも加えられ、原子の構造が順次明らかとなった。20世紀には量子論など金属への根本理解がさらに深まり、さまざまな用途展開が行われている[40]。

人体への影響[編集]

一部の金属は人体に強い毒性を持ち、必須、微量元素に当たる金属の中には過剰摂取で中毒症状を起こすものもある。公害の原因となったカドミウム(イタイイタイ病)、水銀(水俣病)や、グレアム・ヤング事件で使われたタリウムなどが知られる。江上不二夫は、このような元素類は海水中に含まれる濃度が低い点を指摘し、人類に繋がる生物が海中で発生した際に接触する機会がほとんど無く、進化の過程で解毒機構を獲得しなかったものと考察している[44][37]。

2006年に起こったアレクサンドル・リトビネンコ暗殺事件で被害者の体内から検出された放射性元素のポロニウムは、純度50%での致死量は100万分の1グラムと言われる。ただしポロニウムは自然界に存在せず、原子炉で人為的にしか製造されない[37]。

金属が生体に接触してアレルギー反応を示すことがあり、これは金属アレルギーと呼ばれIV型(遅延型)に分類される。金属そのものは抗原性を示さないがアレルゲンとなり、溶出した金属イオンが蛋白質と結合して抗原となる[45][46]。

参考文献[編集]
大澤直 『金属のおはなし』 日本規格協会、2008年(初刷2006年)、第一版第四刷。ISBN 4-542-90275-6。
東北大学金属材料研究所 『金属材料の最前線』 講談社、2009年、第一刷。ISBN 978-4-06-257643-7。
齋藤勝裕 『金属のふしぎ』 ソフトバンククリエイティブ、2009年(初版2008年)、第一版第二刷。ISBN 978-4-7973-4792-0。

新実智光

新実 智光(にいみ ともみつ、1964年3月9日 - )は元オウム真理教幹部。ホーリーネームはミラレパ。教団内でのステージは正大師で、教団が省庁制を採用した後は自治省大臣だった。1986年のオウム真理教の最初に開かれたセミナーから出席し、岡崎一明や大内利裕と並ぶ古株。坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件の実行犯。地下鉄サリン事件では運転手役。2010年2月に死刑が確定。



目次 [非表示]
1 人物
2 オウム真理教での略歴
3 参考書籍
4 脚注
5 関連事件


人物[編集]
高校時代学生時代は、その風貌から「空海」というあだ名をつけられたこともあった。友人にも恵まれ学生生活も楽しむが、高校生時代に地元の駅で目撃した2度の自殺事故に衝撃を受けてから「死とは何か」を考え、精神世界に興味をもつようになり、多くの宗教団体に入信する。麻原の言う「苦を感じなければ修行の道に入らない」との鉄則を高校時代から感じていた。これは生まれつき口唇に傷があったため、その傷を「苦」と感じていたためである。高校時代に、その団体に入れば傷や病気が治ると信じ、ある宗教団体に入信するが、教義は「入信しない者の魂は、神の意思によって滅ぼされる」というものであった。新実は、そこには何ら神の愛はない、単なる神のエゴイズムに過ぎぬと感じ脱会する。これは新実にとって、最初の宗教への挫折となる。その後は、読書に打ち込んだり、仙道的なことや瞑想を行うが次第に宗教から遠ざかり、空手など肉体的鍛錬に興味が移る。大学時代友人の勧めで大学時代の終わりに、再び別の宗教団体に入信するものの、同様に「よいことをしない魂は滅びる」との教義に「存在というものは、この神々の将棋の駒に過ぎないのか、いつでもその神々の意思によってなくなるのだろうか」との思いをいだく。しかし、新実は「私は決してそうではない、私たちには本当の力があるはずだ、神と同じレベルの魂が内在するはずだ」と感じるに至る。このため、神が持つとされる霊力を自分自身も持ちたいと考えるようになる。このときにオカルト雑誌『ムー』や『トワイライトゾーン』などで麻原彰晃の空中浮揚の記事が目にとまり、ヒヒイロカネのプレゼントに応募したことがきっかけで、大学卒業間近の1986年正月、オウムの前身「オウム神仙の会」のセミナーに参加し、そのまま入会する。卒業後は地元の食品会社へ就職し営業担当となるが、二度も自動車事故を起こしたことから、「魔境へ入り込んだ」と信じ込み、会社を半年で退職し出家。オウム入信後麻原に惹かれたのは、他の宗教の多くが「神の啓示を受けた」とするものが多いのに比し、麻原は自分自身で修行をし苦難を乗り越えた「どこにでもいるような人」であったからだという。最初のセミナーで、新実はその雰囲気が自分自身が求めていたものと直感する。そこでバイブレーションに浸りながら修行することで身体の浄化作用を実体験し、宿便が出たり、体調の回復を実感する。この神秘体験によって、深く麻原に帰依するに至る。当初は半信半疑であったもののその考えは180度転換する。シャクティーパットにより、アストラル体の浮遊を感得し、体が痺れ多大な至福感を覚える。このときに「麻原に一生付いていくほかない」と確信する。このときの体感を「生死を越える」に詳しく書いている。麻原に礼を言い、道場へ行くと、突然肉体のクンダリニーが昇り、シャクティー・チャクラーが起こる。ムーラ・バンダ、ウディヤーナ・バンダが起こり、その後背中の方が盛り上がり、首のところでジャーランダラ・バンダが起こり、頭の方へすっと抜けた感じがした。これが精神集中やマントラを唱えるだけで自分自身で抑えられないほどに、すぐに起こるようになる。新実自身によれば「この霊的な変化が本当に自分の内面で起こったことをきっかけとして、やっと信に目覚めさせてもらった」らしい。新実は前世に並々ならぬ興味を持っており、他の信者とも前世を話題にすることが多かった。麻原の4女の松本聡香(ペンネーム)を追い回しては「さとちゃんはどこから来たの」と聞いていたが、聡香が1度だけチベット密教のカギュ派の僧侶の名前を思いつきで答えたところ、逮捕されたあとに面会に来た信者に伝え広めた。[1]。
オウム真理教での略歴[編集]
1987年12月3日、24歳のときにオウム真理教内の独房に2週間こもり、クンダリニー・ヨーガを成就したと麻原彰晃に認定され、大師のステージとミラレパのホーリーネームを授けられる。
1989年の坂本堤弁護士一家殺害事件では坂本一家殺害の実行犯として坂本家に侵入し、坂本の妻(当時29歳)を絞殺した。
1990年2月1990年の衆議院議員選挙に真理党候補として東京10区から出馬し落選した。7月8日、26歳のときにマハー・ムドラーの成就を認定され、正悟師となる。
1992年9月教団のロシア進出に伴い、ロシア支部の初代支部長を務めながら頻繁に日本との間を往復する。
1993年の池田大作サリン襲撃未遂事件を起こした際には、防毒マスクを外したせいでサリンを大量に吸引し重体に陥った。新実は直ちにオウム真理教附属医院に搬送され、治療の結果一命を取り留めた。
1995年の地下鉄サリン事件では千代田線でサリンを散布した林郁夫の送迎役であった。逮捕後、大乗のヨーガの成就を認定され正大師に昇格。

一連のオウム真理教事件で計11件で26人の殺人に関与したとして殺人罪などに問われた。死者26人は麻原彰晃の27人に次ぐ死者数である。

当初オウム真理教男性信者殺害事件では犯行後、茫然自失に陥り、後悔の念をあげたり、坂本堤弁護士一家殺害事件の際は実行犯の中では最も動揺し、精神的に不安定になった為、中川智正や端本悟とそれぞれ5日間独房に監禁され、麻原の説法を聞かされる等し、洗脳された。その後、数年間教団の自治省大臣を務め、信者の指導、監督、スパイ、拷問などを行っているうち、犯罪に対する抵抗感が薄れてきたとされる。凶悪化する一方で信者の殺害等では麻原に指示された苦痛を伴う方法を避け、殺害した者の転生を麻原に伺ったり、共犯者に対して犯行前に意志の確認を行ったり、犯行が未遂や中止などで死亡に至らなかった場合は安堵した、などと人間味も見せている。

法廷では、麻原の著書を読んだり、ヨーガのポーズをとったりするなどし、事件の正当化を主張しているなど、未だに麻原・オウムを盲目的に信仰している。これは前述の神秘体験を実体験していることによると考えられる。職業を「麻原尊師の直弟子」と言い、未だに麻原を師と仰いでいる。犯罪を正当化する一方で「我々が被害者に報いるのは真実を話すことのみ」と語り、「オウムの正史を残すため」として、事件の全貌を率直かつ正確に答えた。現在に至るまでオウムの思想を捨てることなく、「宗教的確信に基づいた殺人」、「全ては因果応報にあり、関係なく死んだのではなく何らかの原因がある」、「あとは死を待つだけ。その瞬間まで修行は続けていく」と最後まで事件の正当性を主張した。

獄中からも、信者たちへ教義の指導を続けていた。2006年7月から2007年4月までの1年間、文通をした麻原の4女松本聡香に、「責任も取れないのに、そんなことをするのはよくないのではないか」と疑問を呈される。4女との面会の際には新実は「すべてはシヴァ神の意思なのですよ」というのに4女は激しく反発したところ責めないでほしい、責めるならやり取りはやめるといい、それ以降2人の交流はなくなる。

第一審・控訴審と死刑判決を受け、上告したが2010年1月19日に棄却。2月16日に判決に対する最高裁への訂正申し立ても棄却され死刑が確定した。オウム真理教事件で死刑が確定するのは10人目[2]。

2014年現在、東京拘置所に収監されている。

参考書籍[編集]
マハーヤーナ(1988年 NO.1O号)

脚注[編集]

1.^ 松本聡香『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』(徳間書店 2010年3月)ISBN 4198627533、ISBN 978-4198627539
2.^ オウム事件の新実被告死刑確定へ 10人目、最高裁上告棄却 47NEWS 2010年1月19日

関連事件[編集]
オウム真理教男性信者殺害事件
坂本堤弁護士一家殺害事件
池田大作サリン襲撃未遂事件
松本サリン事件
薬剤師リンチ殺害事件
男性現役信者リンチ殺人事件
駐車場経営者VX襲撃事件
会社員VX殺害事件
被害者の会会長VX襲撃事件
地下鉄サリン事件(林郁夫の送迎役)



[隠す]

表・話・編・歴
オウム真理教

教団の人物
(太字は死刑囚)
麻原彰晃 - 松本知子 - 石井久子 - 上祐史浩 - 村井秀夫 - 青山吉伸 - 新実智光 - 早川紀代秀 - 遠藤誠一 - 飯田エリ子 - 大内利裕 - 都沢和子 - 井上嘉浩 - 岐部哲也 - 石川公一 - 林郁夫 - 中川智正 - 土谷正実 - 山本まゆみ - 大内早苗 - 小池泰男 - 越川真一 - 宮前一明 - 富永昌宏 - 富田隆 - 端本悟 - 広瀬健一 - 豊田亨 - 中村昇 - 平田悟 - 横山真人 - 渡部和実 - 北村浩一 - 外崎清隆 - 杉本繁郎 - 山形明 - 平田信 - 高橋克也 - 菊地直子 - 中田清秀 - 鹿島とも子 - 村岡達子 - 石井紳一郎 - 二ノ宮耕一 - 野田成人 - 杉浦茂 - 杉浦実 - 荒木浩 - 永岡辰哉 - 広末晃敏


関連の事件
在家信者死亡事件 - 男性信者殺害事件 - 坂本堤弁護士一家殺害事件 - 国土利用計画法違反事件 - オカムラ鉄工乗っ取り事件 - 男性信者逆さ吊り死亡事件 - 亀戸異臭事件 - サリンプラント建設事件 - 池田大作サリン襲撃未遂事件 - 薬剤師リンチ殺人事件 - 宮崎県資産家拉致事件 - 滝本太郎弁護士サリン襲撃事件 - 松本サリン事件 - 男性現役信者リンチ殺人事件 - 江川紹子ホスゲン襲撃事件 - 駐車場経営者VX襲撃事件 - ピアニスト監禁事件 - 会社員VX殺害事件 - 被害者の会会長VX襲撃事件 - 公証人役場事務長逮捕監禁致死事件 - 島田裕巳宅爆弾事件 - 地下鉄サリン事件 - 村井秀夫刺殺事件 - 新宿駅青酸ガス事件 - 都庁小包爆弾事件 - 自動小銃密造事件 - シガチョフ事件 - TBSビデオ問題 - 農水省オウムソング事件 - ソフト開発業務受注問題


組織・施設
モスクワ支部 - 真理党 - サティアン - 富士清流精舎 - 附属医院 - 陸上競技部 - キーレーン - 長老部 - 完全解脱


後継団体
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古史古伝

古史古伝(こしこでん)とは、日本の古代史で主要資料とされている「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」とは著しく異なる内容歴史を伝える文献を一括して指す名称。種類が多い。また超古代文献・超古代文書ともいう。なお、古史古伝は今のところ、いずれも学界の主流からは偽書とみなされている。



目次 [非表示]
1 概論
2 名称由来
3 吾郷清彦による分類 3.1 古典四書
3.2 古伝四書
3.3 古史四書
3.4 異録四書

4 吾郷清彦による分類の発展 4.1 東亜四書
4.2 泰西四書
4.3 地方四書
4.4 秘匿四書

5 一覧 5.1 古史古伝
5.2 神典
5.3 それ以外

6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク


概論[編集]

古史古伝は、
1.写本自体が私有され非公開である、などの理由で史料批判がなされる予定がなく、史料として使えないものも多い
2.超古代文明について言及されている
3.漢字の伝来以前に日本にあったと言われている神代文字で綴られている
4.近代以降の用語が使用されている

等々の理由で古代史研究における歴史学的な価値は非常に低く、古代からの伝来である可能性も極めて低いと考えられている。しかし、古史古伝は種類が多く1〜4の特徴もすべての古史古伝に共通しているわけではなく、それらの諸点についての度合いは各書ごとに様々である。

ただし、いずれの「古史古伝」においても『偽書である「古史古伝」ではなく、真書である』と主張する人々はかつて存在したか、もしくは現存している。

現在では、近代における日本人の国家観・民族観への受容等のあらわれとして、写本作成を行う者の思想に対する研究が始まったところである。写本そのものに史料的価値が認められなくとも、「それらの写本(偽書)をいつ、だれが、どのような背景・目的で作成したのか」を研究することはじゅうぶん学問的な行為といえる。

名称由来[編集]

第2次世界大戦前には「神代史」「太古史」など言われ、戦後(1970年代頃まで)には吾郷清彦が「超古代文書」と呼んでいた。また同じ頃、武田崇元(武内裕)は「偽書」「偽史」「偽典」などといっていたが、「偽書」「偽典」は用語としてすでに確立した別の定義が存在しており紛らわしいので、やがて「偽史」という言い方に統一されていった。

「古史古伝」という言い方は、吾郷清彦が著書『古事記以前の書』(大陸書房、1972年)で最初に提唱したもので、この段階では「古典四書」「古伝三書」「古史三書」とされていたが、著書『日本超古代秘史資料』(新人物往来社、1976年)では、「古典四書」「古伝四書」「古史四書」「異録四書」に発展した。 初期の頃の吾郷清彦は「超古代文書」という言い方を好み、「古史古伝」とは言わなかった。あくまで分類上の用語として「古伝四書」とか「古史四書」といっていたにすぎない。1980年代以降、佐治芳彦がこれをくっつけて「古史古伝」と言い出したのが始まりである。

下記の分類は前述の『日本超古代秘史資料』を基本としているが、その後、他の文献写本が発見されるに従って吾郷清彦自身によって徐々に改訂が繰り返され増殖していった。その分として若干の補足を加えてある。

吾郷清彦による分類[編集]

古典四書[編集]
『古事記』
『日本書紀』
『先代旧事本紀』(旧事紀)
『古語拾遺』

『古語拾遺』を除いて「古典三書」ともいう。この「古典四書」(または古典三書)という分類は、異端としての超古代文書に対して正統な神典としての比較対象のための便宜的な分類であり、「古典四書」はいわゆる超古代文書(古史古伝)ではなく、通常の「神典」から代表的・基本的な四書を出したもので、実質は「神典」の言い替えにすぎない。(神典の範囲をどう定めるかは古来諸説があるがこの四書に加えて『万葉集』『古風土記』『新撰姓氏録』などをも含むことが多い)。

しかし『先代旧事本紀』については若干の説明が必要である。『先代旧事本紀』は江戸時代以来、偽書であるとの評価が一般的であり、当然、吾郷清彦も最初からそれを認識していた。しかしまた同時に、通説と同様に、その価値を全面否定はせず、記紀に次ぐ重要な「神典」とみなされてきた事実には変わりない、と(記紀ほどではないが)評価もしていたのである。

この本来の旧事紀(十巻本)とは別に異本(『先代旧事本紀大成経』(72巻本)・『白河本旧事紀』(30巻本)・『大成経鷦鷯伝』(31巻本))もあり、こちらは論者によっては古史古伝の一種とされることもありがちなのであるが、超古代文書(=古史古伝)は「偽書」の一種ではあっても、「偽書」のすべてが古史古伝かというとそれも疑問であり、吾郷清彦はその著作の中で『旧事紀』の異本を紹介しながらも、これらを古史古伝とはしていないのである。

同様に『天書』(『天書紀』ともいう)・『日本国総風土記』・『前々太平記』の三書を異端古代史書として古史古伝と同様に扱おうとする説(田中勝也など)もあるが、このうち『天書』は古史古伝の類とはいえず、他の二書も超古代文書というほどの内容をもっているわけではない。これらは古典四書の周辺的な類書であり古史古伝に準ずる異端古代史書とはいえても、超古代文書だとか古史古伝そのものに入れるのは相当な無理がある。 (また『新撰姓氏録』を超古代史書として解釈する説もあるが、これは高橋良典の解釈説の内容が超古代史なのであって本文そのものが超古代史なわけではない)

古伝四書[編集]
『ウエツフミ』(大友文書、大友文献ともいう[1])
『ホツマツタヱ』(※漢字ではなくカナ書きするのが吾郷の流儀)
『ミカサフミ』
『カタカムナのウタヒ』(いわゆる「カタカムナ」)


「カタカムナ」を除いて「古伝三書」ともいう。

この「古伝四書」は全文が神代文字で書かれているという外見上の体裁による分類であって、内容に基づく分類ではない。

また、『フトマニ』という書がある。この『フトマニ』は普通名詞の太占(ふとまに)と紛らわしいので吾郷清彦は『カンヲシデモトウラツタヱ』(神璽基兆伝)と名付けた。『フトマニ』『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』の三書は世界観を同じくする同一体系内の一連の書であり「ホツマ系文書」ということができる。一部の肯定派の研究者からは「ヲシテ文献」と一括してよばれる。

また、カタカムナに関係する『神名比備軌』(かむなひびき)や『間之統示』(まのすべし)という漢字文献も「カタカムナ系の文献」として一括できるが、これらカタカムナを含むカタカムナ系の諸文献は「歴史書」ではない。「超古代文書=古史古伝」は、このように歴史書以外をも含む幅広い概念である。

古史四書[編集]
「九鬼神伝精史」(いわゆる「九鬼文書」。『天津鞴韜秘文』(あまつたたらのひふみ)は九鬼文書群の一部である)
「竹内太古史」(いわゆる「竹内文献」。「天津教文書」「磯原文書」ともいう)
「富士高天原朝史」(いわゆる「富士谷文書」(ふじやもんじょ)。「宮下文書」「富士宮下古文献」ともいう)
「物部秘史」(いわゆる「物部文書」)

「物部秘史』を除いて「古史三書」ともいう。

「古史四書」は神代文字をも伝えてはいるものの、本文は漢字のみまたは漢字仮名まじり文で書かれたもの。やはり内容による分類ではない。上記の四つのタイトル(九鬼神伝精史・竹内太古史・富士高天原朝史・物部秘史)は、吾郷清彦が独自に名付けたものである。

竹内文書、大友文書、富士文書を三大奇書ともいう[2]。

異録四書[編集]
『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)。いわゆる「和田家文書」の一つ[3]。
『但馬故事記』(たじまこじき。「但馬国司文書」とも。但馬故事記は本来は但馬国司文書の中の代表的な書物の名)
『忍日伝天孫記』(おしひのつたえてんそんき)
『神道原典』(しんとうげんてん)

『神道原典』を除いて「異録三書」ともいう。

「異録四書」は古伝四書や古史四書に含まれないものをひとまとめにしたもので、いわゆる「その他」の枠であり、古伝四書・古史四書のように四書全体に通じる共通の特徴があるわけではない。

『忍日伝天孫記』と『神道原典』は古文書・古文献ではなく、前者は自動書記、後者は霊界往来による霊感の書である。このように吾郷清彦の「古史古伝」(超古代文書)という概念は「古代から伝わった書物」という意味だけでなく、「自動書記などの霊感によって超古代の情報をもたらす現代の書」まで含む幅広い概念である[4]。吾郷は上記の他にも、超古代文書として『異称日本伝』・『神伝上代天皇紀』・「春日文書」を取り上げているが、このうち『異称日本伝』は松下見林による江戸時代の有名な著作であり、超古代文献とはいえないものであることは、後述の『香山宝巻』と同様である。また「春日文書」は言霊(ことだま)関係の文献[5]であり歴史書ではないが、古史古伝には歴史書以外も含みうるのは、上述のカタカムナの場合と同じである。

吾郷清彦による分類の発展[編集]

東亜四書[編集]
『契丹古伝』(『神頌叙伝』ともいう)
『桓檀古記』
『香山宝巻』
『宝巻変文類』

吾郷は「新しき世界へ」誌(日本CI協会刊)に寄稿した際「東亜四書」という項目を追加している。

構想段階では『香山宝巻』『宝巻変文類』がなく『竹書紀年』『穆天子伝』だったが、この両書を古史古伝だというのは無理があり、後の著作では『竹書紀年』『穆天子伝』をはずし『香山宝巻』『宝巻変文類』を入れた形で発表されている。しかし『香山宝巻』『宝巻変文類』は世間的には有名ではなかったが専門家の世界ではもとから知られたものであり、超古代史文書に入れるのは異論もある。ほかに東アジアに関連するものとして『山海経』『封神演義』をあげる論者もいるが、『山海経』は古来有名な古典であり、一方『封神演義』は小説であり、いくら内容が面白いからといってもこの両書を古史古伝というのは無理がある。それよりも『契丹古伝』や『桓檀古記』とならぶべき超古代文書といえば『南淵書』があげられる。また『桓檀古記』は『揆園史話』や『檀奇古史』などの同系の書物とともに「檀君系文献群」として一括してよぶことができる。

泰西四書[編集]
『ウラ・リンダの書』(『オエラリンダ年代記』ともいう)
『OAHSPE』(オアフスペ、オアースプ等いろいろに読まれる)
『モルモン経』
「アカーシャ年代記」(「アカシックレコード」ともいう[6])

『OAHSPE』『モルモン経』「アカーシャ年代記」は古代から伝来した書物ではなく神の啓示とか、霊感や自動書記などになるものだが、それは古史古伝の定義上問題ないことは上述の通り。同様のものに『宝瓶宮福音書』がある。他に「エメラルド・タブレット」「トートの書」「ナーカル碑文(聖なる霊感の書)」等がある。また『ネクロノミコン』は当初から小説の中の存在として発表されたため建前上も架空の書物だが、実在と信じる人もいるのでその場合は超古代文書の一種となる。

地方四書[編集]
『甲斐古蹟考』
「阿蘇幣立神社文書」(「高天原動乱の秘録」ともいう。幣立神社)
『大御食神社神代文字社伝記』(『美杜神字録』ともいう[7]。吾郷は『美しの杜物語』と名付けた[8]。)
『真清探當證』(ますみたんとうしょう)

『美杜神字録』は神代文字で書かれており定義からいえば「古伝四書」の方に入れてもよさそうではあるが、吾郷はその件については特にふれていない。『美杜神字録』のように地方色豊かなものとして原田実はさらに『伊未自由来記』(いみじ・ゆらいき)・『肯搆泉達録』(かんかんせんだつろく)をあげている。

秘匿四書[編集]
「阿部文書」(阿部でなく「安部文書」とする説もある[9])
「斎部文書」
「清原文書」
「久米文書」

上記の四書は未確認文献である。これらは神代文字を伝えているとか竹内文献と共通する内容があるとかウガヤフキアヘズ朝についての記述があるとか、戦前には様々な噂が広がっていた。阿部文献については、三浦一郎は『九鬼文書の研究』の中で、また宇佐美景堂は『命根石物語』の中で、ともに豊後の阿部家に伝わる古代文字文献について述べており、戦前からの研究者である山根キクや大野一郎らは神武以前の天皇名などを伝えている個所があると主張していた。が、現在のところ何も見つかっていない。残りの三書「斎部文書」「清原文書」「久米文書」も噂の域をでず詳細不明であり、実在しない可能性が高い。

これらの他にもなお「大伴文書」[10]なるものが存在することが判明している[11]。

一覧[編集]

本項ででてきた書物のタイトル一覧。五十音順。

古史古伝[編集]
「アカーシャ年代記」(「アカシックレコード」ともいう)
「阿蘇幣立神社文書」(「高天原動乱の秘録」ともいう)
「阿部文献」(阿部とは別に「安部文書」も存在する)
『異称日本伝』(これを古史古伝に加えるのは異論もあるが本項の中では吾郷の判定に従う)
『伊未自由来記』(いみじ・ゆらいき)
「斎部文書」(いんべもんじょ)
『ウエツフミ』(「大友文書」「大友文献」ともいう)
『ウラ・リンダの書』(『ウラ・リンダ年代記』ともいう)
「エメラルド・タブレット」
『OAHSPE』(オアフスペ、オアースプ等いろいろに読まれる)
「大伴文献」
『大御食神社神代文字社伝記』(『美社神字録』『美しの杜物語』ともいう)
『忍日伝天孫記』(おしひのつたえてんそんき)
『甲斐古蹟考』
「春日文書」
カタカムナ系文書群 『カタカムナのウタヒ』
『神名比備軌』(かむなひびき)
『間之統示』(まのすべし)

『肯搆泉達録』
『契丹古伝』(『神頌叙伝』ともいう)
「清原文書」
「九鬼神伝精史」(いわゆる「九鬼文書」)
「久米文書」
『香山宝巻』(これを古史古伝に加えるのは異論もあるが本項の中では吾郷の判定に従う)
『神伝上代天皇紀』
『神道原典』(しんとうげんてん)
「竹内太古史」(いわゆる「竹内文献」。「天津教文書」「磯原文書」ともいう)
『但馬故事記』(たじまこじき。「但馬国司文書」ともいう)
檀君系文書群 『檀奇古史』
『桓檀古記』
『揆園史話』

『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし。「和田家文書」ともいう)
「トートの書」
「ナーカル碑文(聖なる霊感の書)」
『南淵書』
『ネクロノミコン』
「富士高天原朝史」(いわゆる「富士谷文書」。「宮下文書」「富士宮下古文献」ともいう)
『宝巻変文類』(これを古史古伝に加えるのは異論もあるが本項の中では吾郷の判定に従う)
『宝瓶宮福音書』
ホツマ系文書群(ヲシテ文献) 『ホツマツタヱ』(※古伝四書として書く場合はタイトル仮名書き)
『ミカサフミ』
『カンオシデモトウラツタヱ』(神璽基兆伝)

『真清探當證』
「物部秘史」(いわゆる「物部文書」)
『モルモン経』

神典[編集]
『古事記』
『古語拾遺』
『新撰姓氏録』
『先代旧事本紀』(十巻本)
『日本書紀』
『古風土記』
『万葉集』

それ以外[編集]
旧事紀異本 『先代旧事本紀大成経』(七十二巻本)
『白河本旧事紀』(三十巻本)
『大成経鷦鷯伝』(三十一巻本)

『山海経』
『前々太平記』
『天書』(『天書紀』ともいう)
『竹書紀年』
『日本国総風土記』
『穆天子伝』
『封神演義』

脚注[編集]
1.^ 『ウエツフミ』には宗像本と大友本があるが、「大友文書」という言い方はそのうち大友本をさすというのではなくて、編者の大友能直の名をとったものであり宗像本と大友本を包括する名である。しかし「大友本」と紛らわしいのであまり使われなくなった。
2.^ 鈴木貞一などがこの三書を「三大奇書」といっている。吾郷が戦後、知名度において劣っていたホツマツタヱや九鬼文書などを吾郷が取り上げるまでは、超古代史を語る歴史書としてはこの三書が群を抜いて有名だった。
3.^ 吾郷がこの著書を著した頃には『東日流外三郡誌』以外の和田家文書は知られていなかった。
4.^ 吾郷は古神道の研究家でもあったので、晩年には、古史古伝とはあくまで別枠としてだが『霊界物語』『泥海古記』『神霊正典』『日月神示』を「霊示四書」と呼んでいた。
5.^ 晩年の吾郷は「言霊四書」のリストも考案していた。
6.^ ルドルフ・シュタイナーの著作『アカシャ年代記より』のこととは限らない。『アカシャ年代記より』の著述の元になったもので、目に見えないがすべての過去の事実の跡が虚空(アーカーシャ)に刻まれて記録されており、特定の能力のある者がそれを読み取ることができるという。
7.^ 『美杜神字録』は出版物でもサイト上でも美杜神字解とするものがあるが『美杜神字"解"』は落合直澄による著作(解読文)であり、原書のほうは美杜神字"録"である。
8.^ このタイトルは吾郷の昭和42年に著した解説書のタイトルでもある。
9.^ 「安部文書」ならば実在するものの、原田実・森克明編の「古史古伝事典」(別冊歴史読本編集部編『古史古伝の謎』所収)によると「安部文書」で現在までに見つかっているのは安部家の系図や寺社縁起のみであって、その中に神代伝承は見いだせない。
10.^ 『ウエツフミ』の別名である「大友文書」とは無関係。
11.^ 熊野修験道の秘伝書という「天津蹈鞴秘文」について、伝承者の高松壽嗣はその一部を大伴氏の所伝とみなし、「大伴文書」と呼んでいたという。したがって「大伴文書」が実在するという言い方は可能だが、その中にウガヤフキアヘズ朝伝承は特に見出せない。

参考文献[編集]
吾郷清彦 『日本超古代秘史資料』新人物往来社、1976年。 (上記の復刊版)『日本超古代秘史研究原典 (愛蔵保存版)』大陸書房 ISBN 440402472X

吾郷清彦 『古事記以前の書』大陸書房、1972年。
藤原明『日本の偽書』ISBN 4166603795
原田実『古史古伝論争とは何だったのか』・新人物往来社『歴史読本』2009年8月号
原田実『『古史古伝』異端の神々』ビイングネットプレス、2006年
田中勝也『異端古代史書の謎』大和書房、1986年。
別冊歴史読本編集部編 『「古史古伝」論争』 (上記の再編復刊)『古史古伝の謎』 ISBN 4404024010

別冊歴史読本編集部編 『危険な歴史書「古史古伝」―“偽書”と“超古代史”の妖しい魔力に迫る!』 ISBN 4404027540
別冊歴史読本編集部編 『徹底検証 古史古伝と偽書の謎』 ISBN 4404030770
佐治芳彦『古史古伝入門―正史に埋もれた怨念の歴史 (トクマブックス)』徳間書店 新書 - 1988/10 ISBN 4195037557

関連項目[編集]
大本
新宗教
歴史書
歴史小説
ファンタジー

トロイア戦争

トロイア戦争(Τρωικός πόλεμος, 英語 Trojan War)とは、小アジアのトロイアに対して、ミュケーナイを中心とするアカイア人の遠征軍が行ったギリシア神話上の戦争である。トロイア、あるいはトローアスという呼称は、後の時代にイーリオス一帯の地域につけられたものである。この戦役は、古代ギリシアにおいて、ホメーロスの英雄叙事詩『イーリアス』、『オデュッセイア』のほか、『キュプリア』、『アイティオピス』、『イーリオスの陥落』などから成る一大叙事詩環を構成した。またウェルギリウスはトロイア滅亡後のアイネイアースの遍歴を『アエネーイス』にて描いている。



目次 [非表示]
1 原因
2 戦いの経過
3 戦後
4 考古学におけるトロイア戦争
5 トロイア戦争に関する作品 5.1 原典
5.2 トロイア叢書
5.3 日本語文献
5.4 映画
5.5 ゲーム

6 脚注
7 関連項目


原因[編集]





『パリスの審判』(ルーベンス画)
この戦の起因は、『キュプリア』に詳しい。大神ゼウスは、増え過ぎた人口を調節するためにテミス(秩序の女神)と試案を重ね、遂に大戦を起こして人類の大半を死に至らしめる決意を固めた。

オリンポスでは人間の子ペーレウスとティーターン族の娘テティスの婚儀が行われていたが、エリス(争いの女神)のみはこの饗宴に招待されず、怒った彼女は、最も美しい女神へ捧げると叫んで、ヘスペリデス(不死の庭園)の黄金の林檎を神々の座へ投げ入れた。この供物をめぐって、殊にヘーラー、アテーナー、アプロディーテーの三女神による激しい対立が起り、ゼウスはこの林檎が誰にふさわしいかをトロイアの王子パリスにゆだねた(パリスの審判)。

三女神はそれぞれが最も美しい装いを凝らしてパリスの前に立ったが、なおかつ、ヘーラーは世界を支配する力を、アテーナーはいかなる戦争にも勝利を得る力を、アプロディーテーは最も美しい美女を、それぞれ与える約束を行った。パリスはその若さによって富と権力を措いて愛を選び、アプロディーテーの誘いによってスパルタ王メネラーオスの妃ヘレネーを奪い去った。パリスの妹でトロイアの王女カッサンドラーのみはこの事件が国を滅ぼすことになると予言したが、アポローンの呪いによって聞き入れられなかった。

メネラーオスは、兄でミュケーナイの王であるアガメムノーンにその事件を告げ、かつオデュッセウスとともにトロイアに赴いてヘレネーの引き渡しを求めた。しかし、パリスはこれを断固拒否したため、アガメムノーン、メネラーオス、オデュッセウスはヘレネー奪還とトロイア懲罰の遠征軍を組織した。

この戦争では神々も両派に分かれ、ヘーラー、アテーナー、ポセイドーンがギリシア側に、アポローン、アルテミス、アレース、アプロディーテーがトロイア側に味方した。

戦いの経過[編集]

ボイオーティアのアウリスに集結したアガメムノーンを総大将とするアカイア軍は、総勢10万、1168隻の大艦隊であった。アカイア人の遠征軍はトロイア近郊の浜に上陸し、アキレウスの活躍もあって、待ち構えたトロイア軍を撃退すると浜に陣を敷いた。トロイア軍は強固な城壁を持つ市街に籠城し、両軍は海と街の中間に流れるスカマンドロス河を挟んで対峙した。『イーリアス』の物語は、双方に犠牲を出しながら9年が過ぎ、戦争が10年目に差し掛かった頃に始まる。

戦争末期の状況については、『イーリアス』のほか、『アイティオピス』や『アイアース(Aias)』において語られる。トロイアの勇将ヘクトールとアカイアの英雄アキレウスの没後、戦争は膠着状態に陥った。しかし、アカイア方の知将オデュッセウスは、巨大な木馬を造り、その内部に兵を潜ませるという作戦を考案し(『小イーリアス』では女神アテーナーが考案し)、これを実行に移した。この「トロイアの木馬」の計は、アポローンの神官ラーオコオーンと王女カッサンドラーに見抜かれたが、ラーオコオーンは海蛇に絞め殺され、カッサンドラーの予言は誰も信じることができない定めになっていたので、トロイアはこの策略にかかり、一夜で陥落した。

戦後[編集]





暗殺されるアガメムノーン
アイスキュロスの『アガメムノーン(Agamemnon)』によると、トロイア戦争はアカイア遠征軍の勝利に終わったが、アカイア軍の名だたる指揮官たちも悲劇的な末路をたどった。小アイアースはアテーナーの神殿でカッサンドラーを強姦した事でアテーナーの逆鱗に触れ、船を沈没させられて死亡した。メネラーオスは帰国途中、暴風に悩まされエジプトに漂流し、8年掛かりで帰還。総司令官アガメムノーンは、帰郷後、妻とその愛人によって暗殺された。オデュッセウスは、『オデュッセイア』にあるように、故郷にたどりつくまで10年もの間、諸国を漂流しなければならなかった。

考古学におけるトロイア戦争[編集]

古代都市イーリオスは長く伝説上のものと思われていたが、19世紀末、ハインリッヒ・シュリーマンによりトロイア一帯の遺跡が発掘された。遺跡は9層になっており、シュリーマンは発掘した複数の時代の遺跡のうち、火災の跡のある下から第2層がトロイア戦争時代の遺跡と推測した。後に第2層は紀元前2000年よりも前の地層でトロイア戦争の時代よりもかなり古いものであることが判明した。シュリーマンと共に発掘にあたったデルプフェルトは下から6番めの第6層に破壊や火災のあとがあることから、第6層がトロイア時代のものであると考えた。1930年代にブレゲンによって再調査が行われ、第6層の都市の火災は部分的で破壊に方向性があることから地震の可能性が強いと推測した。そして第7層の都市は火災が都市全体を覆っていることや、破壊の混乱ぶりから人為的なものであると推測する。また、発見された人骨も、胴体と頭部が分離したものが発見されるなど、戦争による人為的な破壊を間接的に証明した。現在では第7層がトロイア戦争のあったと伝えられる時期(紀元前1200年中期)であると考えられている。

トロイア戦争それ自体は、確固たる歴史に編纂されるものではなく、紀元前1700年から紀元前1200年頃にかけて、小アジア一帯が繰り返し侵略をうけた出来事を核として形成されたであろう神話である。しかし、これについては、紀元前1250年頃にトロイアで大規模な戦争があったとする説もあれば、そもそもトロイア戦争自体が全くの絵空事であるという説もないわけではない。

トロイア戦争にまつわる叙事詩の全てが架空のものではないとすれば、その中心はやはりイーリオスの破壊と考えられる。都市が火災に見舞われたことは考古学的に間違いないが、それが侵略によるものかどうかは、可能性としてはかなり高いものの推察の域を出ない。さらに、トロイアの略奪があったとする場合、『イーリアス』に従えばアカイア人による侵略ということになるが、ミュケーナイが宗主権を握っていることや、ここに登場する諸都市がミケーネ文明に栄えた都市であることから、アカイア人が入植する以前のミュケーナイ人による侵攻、あるいはトラーキアやプリギュアの他民族による侵略であったと考えられる。少なくとも、アカイア人であったとする積極的な証拠は存在しない。

トロイア戦争に関する作品[編集]

原典[編集]
『ホメロス イリアス』 松平千秋訳で岩波文庫ほか
『ホメロス オデュッセイア』 松平千秋訳で岩波文庫ほか
『ウェルギリウス アエネイス』 西洋古典叢書:京都大学学術出版会ほか
『アイスキュロス アガメムノン』 ギリシア悲劇全集:岩波書店ほか
『クイントゥス トロイア戦記』 松田治訳 講談社学術文庫
『コルートス ヘレネー誘拐/トリピオドーロス トロイア落城』松田治訳 講談社学術文庫
ピロストラトス 『英雄が語るトロイア戦争』 内田次信訳 平凡社ライブラリー 
『スタシノス キュプリア』
『アルクティノス アイティオピス』
『アルクティノス イリオスの攻略』
以上の三篇はサイト「ギリシア叙事詩断片集」を参照。[1]
トロイア叢書[編集]
伝承としての西洋文学「トロイア戦記」、岡三郎訳・解説で国文社全4巻『ディクテュスとダーレスのトロイア戦争物語』
グイド・デッレ・コロンネ 『トロイア滅亡史』 
ジョヴァンニ・ボッカッチョ 『フィローストラト』 
ジェフリー・チョーサー 『トロイルス』

日本語文献[編集]
『トロイア戦争全史』 松田治 講談社学術文庫
『トロイア戦争とシュリーマン』 ニック・マッカーティ、「シリーズ絵解き世界史」原書房、総監修は本村凌二
『トロイアの黒い船団―ギリシア神話の物語上』 ローズマリ・サトクリフ、山本史郎訳、原書房 ISBN 4562034300
下巻は「オデュッセウスの冒険」で同時刊行『イリアス トロイアで戦った英雄たちの物語』 アレッサンドロ・バリッコ、草皆伸子訳、白水社
『甦るトロイア戦争』 エーベルハルト・ツァンガー、和泉雅人訳、大修館書店
『トロイアの歌 ギリシア神話物語』 コリーン・マクロウ、高瀬素子訳 日本放送出版協会

映画[編集]
『トロイのヘレン』 ロバート・ワイズ監督
『トロイ』 ウォルフガング・ペーターゼン監督

ゲーム[編集]
『トロイ無双』コーエーテクモゲームス

暗黒時代

暗黒時代(あんこくじだい)とは、歴史上のある一定期間、戦乱、疫病、政情不安定などの原因により、社会が乱れ文化の発展が著しく停滞したような時代を指す。



目次 [非表示]
1 概要
2 古代ギリシア
3 中世ヨーロッパ
4 関連項目
5 外部リンク
6 脚注


概要[編集]

具体的には、古代ギリシア文明または中世ヨーロッパでのある時代を指して呼ぶことが多い。また、文明全体に及ぶ大きな事象でなくても、特定の芸術・技術・文化などが為政者や宗教組織から弾圧を受け衰退したり、革新者の不在などの理由で停滞した時期を指して、暗黒時代と呼ぶこともある。

日本においては、社会以外にも企業・団体・集団・著名人の業績・状態・売上実績などが極端に落ち込んだ時期や、スポーツチームの成績が極端に低迷した時期を指して使われる[1]。ことも多い。その他、地方政治などの場では、議会で知事などの首長を野党側政治家が批判する際や、独善的・独裁的な手法で地域に大混乱や亀裂を引き起こしたり、あるいは自身の集票基盤である勢力に振り回されて自治体運営やその規律・財政を荒廃させた首長の在任中を回顧する際などに、「暗黒時代」という表現が用いられることが少なからず見られる。

古代ギリシア[編集]

詳細は「暗黒時代 (古代ギリシア)」を参照

古代ギリシアの暗黒時代は紀元前1200年ごろのトロイア戦争終結から数世紀間の、古代ギリシア文化の停滞期をいう。

伝承によれば、トロイア戦争時に王侯らがみな出征したまま10年間帰らなかったため、国土は荒廃し、弱小な権力者が林立する事態となって、戦争勝利後も王侯らの暗殺などが相次ぎ、当時の文明そのものが崩壊したという。

歴史的には、口承によるギリシア神話の時代が終わり、文字による歴史の記述(ミュトスからロゴスへ)が始まる直前の時代であり、ミュケナイ文明の崩壊期にあたる。

中世ヨーロッパ[編集]

ヨーロッパにおいては、西ローマ帝国滅亡後、ルネサンスの前までの中世を指して暗黒時代とも言われる。ルネサンス初期の人文主義者・ペトラルカが古典古代の失われた時代を "tenebrae"(ラテン語で闇)と呼んだのが「暗黒時代」観の始まりとされ、ルネサンス期の見方では、古代ギリシア・古代ローマの偉大な文化が衰退し、蛮族(主にゲルマン人)の支配する停滞した時代とされていた。また、啓蒙主義の進歩史観のもとでも中世は停滞した時代と考えられてきた。「中世=暗黒時代」という概念は、プロテスタントの歴史家クリストフ・ケラリウスによって提唱された中世という時代区分に端を発し、イギリスの文学者ケア(William Paton Ker)が1904年に著した "The dark ages" によって一般に広められたものである。

だが、イタリア・ルネサンス以前の時代にも古代文化の復興運動(フランク王国9世紀の「カロリング朝ルネサンス」、東ローマ帝国10世紀の「マケドニア朝ルネサンス」、同帝国末期の「パレオロゴス朝ルネサンス」、西ヨーロッパの「12世紀ルネサンス」などが挙げられる。)が存在しており、今は「中世ヨーロッパ=暗黒時代(文化的に停滞した時代)」という見方は否定されている。

現在では、1000年頃までの中世初期を暗黒時代と呼ぶことが多いが、それもまた一面的であるとの批判もある。

関連項目[編集]
キリスト教
ゲルマン人
ジャーヒリーヤ(イスラームにおける暗黒時代)
黄金時代

新アレクサンドリア図書館

新アレクサンドリア図書館(しんアレクサンドリアとしょかん、英: Bibliotheca Alexandrina)は、古代アレクサンドリアに栄えながら、戦火によって失われたアレクサンドリア図書館を甦らせ、古代の学問と博識の中心地としての輝きを取り戻そうと、ユネスコとエジプト政府が共同で建設した巨大な図書館兼文化センターである。

古代アレクサンドリア図書館の滅亡から1500年以上経った2001年8月1日、アレクサンドリア市北部のかつて図書館があったとされる場所に再建された。コンピュータネットワークも駆使し、エジプトやアラブなど地中海諸国の文化文物に関する文献を収集する方針である。歴史上のアレクサンドリア図書館の最盛期より少ない蔵書数40万冊からの出発だが、最終的には800万冊の大図書館を目指しているという。

図書館の建物は11階建てで、総面積約8万5000平方mの巨大な建築構造。建造費は約2億ドルを費やした。そのユニークな意匠は1989年にエジプトが開催した図書館設計のコンペでノルウェーの設計事務所スノヘッタが数百もの候補の中から勝ち取ったもので、直径160メートルの斜めに切り取られた巨大な円柱が地面に埋もれているという特異な形状をしている。蔵書の大部分は地下の書庫に収められる。

アレクサンドリア図書館

アレクサンドリア図書館(アレクサンドリアとしょかん、希: Βιβλιοθήκη της Αλεξάνδρειας)は、紀元前300年頃、プトレマイオス朝のファラオ、プトレマイオス1世によってエジプトのアレクサンドリアに建てられた図書館。

世界中の文献を収集することを目的として建設され、古代最大にして最高の図書館とも、最古の学術の殿堂とも言われている。図書館には多くの思想家や作家の著作、学術書を所蔵した。綴じ本が一般的でなかった当時、所蔵文献はパピルスの巻物であり、蔵書は巻子本にしておよそ70万巻にものぼったとされる。アルキメデスやエウクレイデスら世界各地から優秀な学者が集まった一大学術機関としても知られる。薬草園が併設されていた。



目次 [非表示]
1 略史 1.1 「アレクサンドリア」建設以前
1.2 首都アレクサンドリア
1.3 アレクサンドリア図書館の発展
1.4 「アレクサンドリア図書館」喪失

2 アレクサンドリア図書館の分館
3 脚注
4 出典文献
5 関連文献
6 関連項目
7 外部リンク


略史[編集]

詳細は「アレクサンドリア#歴史」を参照

「アレクサンドリア」建設以前[編集]

マケドニアのアレクサンドロス3世(大王)はアケメネス朝ペルシアを侵略してアナトリアとシリアを奪ったのちエジプトをも奪い、紀元前332年そのエジプト支配の中枢都市としてアレクサンドリアの建設を命じた。アレクサンドロス自身は短い滞在ののちさらに東方への侵略を続け、アレクサンドリアに戻ることはなかったが、紀元前323年のその死ののちは後継将軍の一人プトレマイオス1世がファラオを名乗ってエジプト支配を引き継ぎ、プトレマイオス朝を建て、その首都としてのアレクサンドリアの街造りを押し進めた。

首都アレクサンドリア[編集]

アレクサンドリアには、古代世界の学問の中心として栄えた図書館をはじめとして、学術研究所ムセイオンや、のちに「世界の七不思議」にも選ばれるファロス島の大灯台も建造され、他のヘレニズム都市を圧する威容を誇るようになった。

アレクサンドリア図書館の発展[編集]





アレクサンドリア図書館の内部(想像図)右上に巻子本を収めた棚が、手前に巻子本を抱える人物が描かれている
詳細は「図書館#図書館の歴史」を参照

アレクサンドリア図書館は、書物の収集のためにさまざまな手段をとり、そのためには万金が費やされていた。 書物収集の方法の一つを伝える逸話の一つとして、「船舶版」についての逸話が知られている。ガレノスによれば、プトレマイオス朝当時のアレクサンドリアに入港した船は、積荷に含まれる書物をすべて一旦没収された上で所蔵する価値があるかどうか精査されたという。所蔵が決定された場合には、写本を作成して原本の代わりに持ち主に戻し、同時に補償金が支払われたとされる。このやり方で集められた書物が船舶版と呼ばれている[1][注 1]。 同様にして他の図書館の蔵書を強引に入手したという逸話もある。アテナイの国立図書館はアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスらの貴重な自筆原稿を門外不出のものとして所蔵していた。プトレマイオス3世は担保金をかけてそれを借り出すことを認めさせた後、それを返還する代わりに銀15タレントという膨大な違約金とともに写本のみを返したという[1]。

このようにアレクサンドリア図書館は世界中から文学、地理学、数学、天文学、医学などあらゆる分野の書物を集め、ヘレニズム文化における学術研究にも大きな役割を果たした。

アレクサンドリア図書館で研究され発表された知識は、その後の西洋科学の誕生に大きく貢献した。幾何学のエウクレイデス、地球の直径を計測したエラトステネス、天動説の大家プトレマイオスなど、ヘレニズムにおける学芸の巨人の多くは、この図書館で研究した。また、古代最高の科学者の一人アルキメデスは主にシチリアのシラクサで活動したが、かれも一時的にはアレクサンドリアに滞在したものと推定されている。

大図書館および併設のムセイオンなどの学術施設は当初からプトレマイオス朝の手厚い保護を受け、同王朝の滅亡後はローマ帝国による同様に手厚い保護のもとにあった。

「アレクサンドリア図書館」喪失[編集]

その後、虫害や火災によって図書館の莫大な蔵書のほとんどは、併設されていた薬草園共々灰燼に帰した。そして後世の略奪や侵略による度重なる破壊で、建物自体も失われた。

アレクサンドリア図書館が火災に遭った原因については諸説がある。プトレマイオス朝末期のユリウス・カエサルの侵攻時(ナイルの戦い (紀元前47年))、港の艦隊の火災が延焼して焼失したと考えられるが、その後ローマ帝国の下で復興した。270年代のアウレリアヌス帝時にも内戦による被害を受けている。しかし最悪の打撃は4世紀末以降のキリスト教徒による継続的な攻撃である。5世紀には当時のキリスト教徒大司教の使嗾のもとにヒュパティアの虐殺(415年)などの蛮行を繰り返し、大図書館やムセイオンをも破壊した。このようなキリスト教の蛮行によりヘレニズム学術の貴重な成果の大半が失われた。

アレクサンドリア図書館の分館[編集]

ラコティス地区のセラピス神の神殿(セラペイオン、セラペウム)には、本館をしのぐ規模の分館が存在していたが、391年、異教徒の集会所と見なされ神殿もろとも破壊されている。歴史家オロシウスは同じクリスチャンの手で行われた蛮行を嘆いている。

13世紀になってからアラビアの将軍アムル・イブン・アル=アースが書物をアレクサンドリアの浴場の燃料としたという作り話[要出典]が生まれた。




脚注[編集]

1.^ 図書館は写字生を多数抱えており、組織的に写本を作っていた。また当時の写本は、近代的な製紙技術と印刷技術がなかったため、ナイル川のデルタで栽培されていたパピルスを原料としたパピルス紙を利用していた。

出典文献[編集]

1.^ a b #エル=アバディ1990、89--90頁
モスタファ・エル=アバディ 『古代アレクサンドリア図書館 よみがえる知の宝庫』 松本慎二訳、中央公論社〈中公新書〉、1991年(原著1990年)。ISBN 4121010078。

関連文献[編集]
野町啓 『謎の古代都市アレクサンドリア』(講談社現代新書、2000年/講談社学術文庫、2009年)
ルチャーノ・カンフォラ 『アレクサンドリア図書館の謎 古代の知の宝庫を読み解く』(竹山博英訳、工作舎 1999年)
デレク・フラワー 『知識の灯台 古代アレクサンドリア図書館の物語』(柴田和雄訳 柏書房、2003年)
ジャスティン・ポラード、ハワード・リード 『アレクサンドリアの興亡 現代社会の知と科学技術はここから始まった』(藤井留美訳、主婦の友社 2009年)
ナイルの遺産−エジプト歴史の旅(屋形禎亮監修、山川出版社)

関連項目[編集]
新アレクサンドリア図書館
図書館
アレクサンドロス3世
知恵の館
カリマコス
アレクサンドリア (映画)

外部リンク[編集]
古代アレクサンドリア図書館(インターネット・アーカイブのキャッシュ)
第3のアレクサンドリア図書館を目指して(インターネット・アーカイブのキャッシュ)

ロストテクノロジー

ロストテクノロジーとは、何らかの理由により現代では失われてしまった科学技術である。似た言葉にオーバーテクノロジーが挙げられるが、こちらは時代錯誤の工芸品(オーパーツ)を指し、主に創作の世界において使われる。

本項では主に、過去に開発されながら後世に伝えられず絶えた技術体系について述べる。



目次 [非表示]
1 フィクション作品における位置付け
2 発生の要因
3 ロストテクノロジーの例
4 関連項目


フィクション作品における位置付け[編集]

サイエンス・フィクション(SF)などでは、現実的な科学的見地に立つハードSFのような作品では余り扱われない題材だが、より空想の範囲を広げたガジェットSFやスペースオペラに類する作品においては、オーバーテクノロジーと共にしばしば「理解できない(ブラックボックスの)物品なので、細部の機構的な説明ができない」として、現実的な既存の技術を無視する事が出来るために格好の題材として扱われ、「原理のみが大まかに語られる」という扱われ方をしている。

また、ファンタジーや歴史劇的な世界観にSF的な要素を持ち込む手段としてこのロストテクノロジーが登場することもあるが、こちらはいわゆる超古代文明などの延長的なものに過ぎず、オーパーツなどとの概念上の交雑が見られ、作中の世界観からすれば定義どおりではあるが、現実の「ロストテクノロジー」とは隔たりが大きい。

発生の要因[編集]

ロストテクノロジーが発生する要因は様々であるが、主に以下のことが原因であると考えられている。
後継者が途絶え、技術が失われる(例:ギリシアの火)職人による普遍的な工程が秘儀的な扱いになるなどした結果、後継者となる世代に広く十分に技術が伝承されなくなる。環境の変化により、技術が育まれる基盤が消失する(例:ローマ水道)技術を伝えていた集団の属する文明が衰退したり、社会基盤を喪失したり、あるいは特定の原料が産出される地域から原料が得られなくなるなど。またかつて権力者がその権力と財力で保護していた産業が、後ろ盾となっていた権力を失って衰退するケースも挙げられる。これについては、大規模な天変地異や気候の変化による文化の変質、異文化による侵略と略奪なども要因となる。別のテクノロジーの発展により、衰退する(例:和算)新しい技術が単純により優れていたり、または「品質面ではやや劣るが、コストや時間的に効率よく大量に製造できる」という場合には、旧来技術は失われやすい。これは旧来技術では製造にコストや時間が掛かりすぎる場合、それに見合わない質の高い製品を作るより、新技術でやや質の低い製品を短時間で大量に提供できた方が、社会全体にとって有益であるためである。
ロストテクノロジーの例[編集]
北宋の汝窯の青磁青磁の最高級品として著名。澄み切った青空のような色彩(一部釉薬にメノウを混ぜ込んでピンク色を呈することもある)で知られ、現存数は少ない。復元への試みがなされている。南宋の曜変天目茶碗漆黒を背景に青・群青・銀・黄色など玄妙な光沢・色彩を呈する陶器。世界で3点(ないし4点。すべて日本に存する)しか現存しない。現在、技術復元への努力が一部の陶芸家によって続けられている。共和政ローマおよびローマ帝国のローマ水道大繁栄を誇っていたローマ帝国の分裂、滅亡によって技術が大幅に衰退。東ローマ帝国のギリシアの火国家機密とされていたために、帝国の滅亡とともに製造方法が失われた。古代ローマのガルム(魚醤)ダマスカス鋼古刀と呼ばれる日本刀慶長年間以前に製作された刀を古刀と呼ぶが、この年代を境として日本刀の製作方法や用いられる鉄材に大きな変化があった。慶長年間以降の日本刀を新刀と呼ぶが、不思議なことに鉄の精錬技術が未熟であったはずの古刀期の日本刀の方が、刀鍛冶同士の技術交流や鉄の精錬技術が進んだ新刀期以降の日本刀よりも優れた作品が多いとされている。西洋剣術ヨーロッパでは銃の発達によって戦場で使われる実践剣術は失われ消失した。現在では武術考古学とでも呼ぶべきアカデミックな研究が行われており、古い文献などから復元を試みている研究者や観光資源として再現している人物がいるが、日本の剣術のように代々伝えている伝承者は存在していない。戦艦の主砲第二次世界大戦後は、主に航空母艦の台頭や航空機、ミサイルの発達という理由により、戦艦が無用の存在となり、12インチ(30.5cm)〜20インチ(50.8cm)クラスの大口径砲の製造技術も失われてしまっている。
関連項目[編集]
情報の散逸
暗黒時代
アレクサンドリア図書館
オーパーツ
文化大革命 - 中国の伝統的な文化や技法(の保持者)がプロレタリア革命に対する「反動」とみなされ糾弾された。

ヒヒイロカネ

ヒヒイロカネは、太古日本で様々な用途で使われていたとされる、伝説の金属または合金。緋緋色金、日緋色金とも表記し、火廣金(ヒヒロカネ)、ヒヒイロガネ、ヒヒイロノカネとも呼称し、青生生魂(アポイタカラ)はヒヒイロカネを指すといわれる。現代の様々なフィクションにも登場する。



目次 [非表示]
1 概要
2 竹内文書と酒井勝軍
3 具体的な伝承
4 オウム真理教
5 脚注
6 関連項目


概要[編集]

現在知られているどの金属のいずれかなのかどうか、そもそも一体どのような金属だったのかもわかっていない。古史古伝の一つである『竹内文書』に記されているが、『竹内文書』自体が狩野亨吉により偽書とされており、ヒヒイロカネの実在以前にヒヒイロカネの伝承自体が実在したかどうかも疑われている。[1]具体的な概要が分からないという神秘性から、「神秘的な金属」としてさまざまな現代のフィクションに登場する。

竹内文書と酒井勝軍[編集]

『竹内文書』によれば、神武天皇以後の御世ではかなり希少な金属になっており、祭祀用の鈴や剣、装身具、富山の皇祖皇太神宮本殿の屋根[2]などに用いられたが、時代とともに資源が枯渇したのか、精錬技術が失われていったのか、雄略天皇の時代に日の神十六菊形紋の鏡を二枚作ったのを最後にヒヒイロカネは精錬されなくなったとされている。

酒井勝軍による調査で、草薙の剣ほかヒヒイロカネ製の装飾品を竹内巨麿邸にて発見し、酒井が主宰した月刊誌『神秘之日本』に発表している。その時、酒井が竹内邸で発見したヒヒイロカネ製の装飾品のかなりが「錆びて」おり、酒井が加工することで本来の輝きを取り戻したとされ(八幡書店刊『竹内文献資料集成』に写真が掲載されている)、ヒヒイロカネとはいえ本当に永久不変ではなく、保存状態が悪いと錆びてしまうらしいが、なぜ酒井がヒヒイロカネの加工技術を知っていたかは酒井の家族ですら知らない。なお、世界最高の切れ味を誇るといわれる日本刀の加工技術も、ヒヒイロカネの加工技術が一部使われていると酒井らは考えていた。

ヒヒイロカネ製の装飾品などの神宝は、1935年(昭和10年)12月28日に、秦真次により東京市・靖国神社の遊就館松田常太館長に託されていたが、第二次天津教弾圧事件により、1936年(昭和11年)4月30日、竹内巨麿による神宝を水戸地方裁判所に移す旨の受託書により押収され、その後、東京大空襲で失われた。

古代ギリシャに伝わるオリハルコンとヒヒイロカネは同一の物質であり、ともに「生きた金属=オーラを発する」と酒井は述べている。酒井自身が「これこそがヒヒイロカネである」と仲間に語った物質こそ、岩手県で産出する餅鉄であるが、これは鉄の含有率の高い単なる磁鉄鉱であり、酒井が後に語ったこととして、餅鉄を特殊な技術で純鉄に加工した後、更なる加工を施してヒヒイロカネに仕上げるという。

具体的な伝承[編集]

ヒヒイロカネは現在ではその原料も加工技術も失われたが、太古日本(神武天皇の御世以前=ウガヤ王朝期)では現在の鉄や銅と同様のごく普通の金属として使用されていたとされる。特に合金としてよく出来たものは神具の材料として使われたという。三種の神器もヒヒイロカネで作られているとされる。

その比重は金よりも軽量であるが、合金としてのヒヒイロカネは金剛石(ダイヤモンド)よりも硬く、永久不変で絶対に錆びない性質をもつという。また常温での驚異的な熱伝導性を持ち、ヒヒイロカネで造られた茶釜で湯を沸かすには、木の葉数枚の燃料で十分であったとも伝えられている(エネルギー保存の法則を考えれば熱伝導率では説明できない)。
太陽のように赤い金属とも、輝く金属とも言われる。
触ると冷たい。
表面が揺らめいて見える。
磁気を拒絶する。

オウム真理教[編集]

1985年(昭和60年)、学習研究社のオカルト雑誌『ムー』1985年11月号(第60号)に、オウムの会(後のオウム真理教)教祖麻原彰晃が「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した!?」とする記事を寄稿。オウム真理教ではこのヒヒイロカネを重視していた。

脚注[編集]

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1.^ いちばん手っ取り早い方法は、茨城県の皇祖皇太神宮に伝わるヒヒイロカネで出来ている神宝を鑑定することであるが、今のところそういう動きは出ていない。(布施泰和 『「竹内文書」の謎を解く』 成甲書房 2003年 ISBN 4880861561)
2.^ 上古第22代天疎日向津比売(あまさかりひにむかいつひひめ)身光天津日嗣天日天皇は、富山の皇祖皇太神宮本殿を造営した際、屋根をヒヒイロカネで葺いたと『竹内文書』に記されている。

関連項目[編集]
金属
オリハルコン
古史古伝
ロストテクノロジー
新実智光

ミスリル

ミスリル (mithril) は、J・R・R・トールキンの作品世界中つ国に登場する金属。 銀の輝きと鋼をしのぐ強さを持ち、とても貴重なものとされる。『ホビットの冒険』でトーリン・オーケンシールドからビルボ・バギンズに贈られた、“白銀色のはがね”製のくさりかたびらは、実はミスリル製であった。初期の英語版の翻訳である、日本語版『ホビットの冒険』にはこのような記載はないが、後の英語版ではミスリル製であることが付記されている。

『指輪物語』では、“ミスリルの産地はモリアのみ”、としているが、『終わらざりし物語』では、ヌーメノールでも産したとされる。

ミスリルの名は二つのシンダール語(架空の言語)の単語、「灰色の」を意味するミス(mith)と、「輝き」を意味するリル(ril)からなる。クウェンヤ名はミスタリレ(mistarille)。またまことの銀(true-silver)、モリア銀とも呼ばれる。ドワーフもかれらだけの秘密の名前をミスリルにつけていた。






目次 [非表示]
1 特性
2 希少性
3 ミスリル製の品物
4 後の作品におけるミスリル
5 関連項目


特性[編集]

ガンダルフの述べるところでは、ミスリルは、「銅のように打ち延ばせ、ガラスのように磨ける。銀のような美しさだが、黒ずみ曇ることがない。ドワーフはこれを鋼より強いが軽く鍛えることが出来た」とされる。

エルフもこれを好み、エレギオンのノルドールは、ミスリルからイシルディン(ithildin、「星月」の意)と呼ばれる物質をつくり、モリアの扉を飾る装飾を描いた。イシルディンを用いて描かれたものは、星の光か月の光の下でしか見ることが出来ない。

希少性[編集]

中つ国ではモリアのみでしか採掘ができないため、モリア銀とも呼ばれる貴重な代物であった。しかしドワーフたちがモリア鉱を深く掘りすぎたために、第三紀の1980年に地下に潜んでいたバルログが目覚め、モリアの王国は壊滅してミスリルの採掘が出来なくなってしまった。これをドゥリンの禍と言う。そのため『指輪物語』の時代(第三紀末)では、非常に貴重で高価な代物になってしまっている。

ミスリル製の品物[編集]

『指輪物語』では、ビルボ・バギンズがフロド・バギンズに譲り渡した「ミスリルの胴着」などが出てくる。これは『ホビットの冒険』でスマウグから得た宝の一部である。また、ガラドリエルの所有する三つの指輪の一つ、ネンヤもミスリルで作られている。

後の作品におけるミスリル[編集]

『指輪物語』の影響を受けて後に出てきたファンタジー小説や、『指輪物語』の強い影響下で生まれたD&Dをはじめ、ファイナルファンタジーシリーズ・ドラゴンクエストシリーズなどの最近の日本のRPGに至るまでのさまざまなゲーム作品などにおいて、ミスリルの名を持つ金属が登場しており、どれも貴重で有用な性質を備えている金属として扱われている。

ダマスカス鋼

ダマスカス鋼(ダマスカスこう、英: Damascus steel)は、かつて生産されていた、木目状の模様を持つ鋼である。強靭な刀剣の素材として知られるが、19世紀に生産が途絶えたため製法がはっきり分かっていない。

この鋼材の起源はインド発祥のウーツ鋼であるが、それがシリアのダマスカスで刀剣等に加工されていた。中世の十字軍遠征で兵士が西洋に持ち帰り、ダマスカス刀あるいはダマスカス鋼として西欧世界に知られるようになった。



目次 [非表示]
1 2種類のダマスカス鋼
2 再現の試み
3 デリーの鉄柱
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク


2種類のダマスカス鋼[編集]

現在は異なる2種類の鋼が同様にダマスカス鋼と呼ばれている。本来のダマスカス鋼による刀剣などの製品は10世紀頃から18世紀頃まで現在のシリアにあたる地域で製造されていたが、現在はインドでの鋼材の製造法など、製造技術が失われている。
ウーツ鋼とも呼ばれる高炭素鋼材、インドの一部地域に由来する鉄鉱石を原料とする。ウーツとは地名ではなくサンスクリット語で「硬い」あるいは「ダイヤモンド」の意。その特殊な不純物の組成から、るつぼ内で製鋼されたインゴット内にカーバイド(Fe3C)の層構造を形成し、これを鍛造加工することにより表面に複雑な縞模様が顕れる。刀剣用の高品質の鋼材として珍重された。その後の学術的な研究により、ほぼ完全な再現に成功していたと思われていたが、ドイツのドレスデン工科大学のペーター・パウフラー博士を中心とする研究グループによる調査で、ダマスカス鋼からカーボンナノチューブ構造が発見された[1][2]ことで、現代のダマスカス鋼の再現は完全でないことが判明した。
異種の鋼材を積層鍛造して、ウーツ鋼を鍛造したときに現れるものとよく似た縞模様を表面に浮かび上がらせた鋼材。安来鋼などと混ぜ合わせることにより現在は主に高級ナイフ用に用いられる。模様の映えを優先させる場合、炭素鋼と併せてニッケルが用いられることが多い。鋼材をモザイク上に組み合わせ、折り返し鍛造を行わないことによって任意の模様を浮かび上がらせることも可能である。また、鋼製のチェーンやワイヤーを鍛造することで製作するチェーンダマスカスやワイヤーダマスカスといった鋼材も知られる。

ウーツ鋼、積層鍛造鋼のどちらの場合でも、表面を酸で腐食させ、腐食度によって現れる凹凸や色の濃淡で模様を際立たせることが多い。

再現の試み[編集]





ダマスカス剣をうたった偽物(1580年から1600年ごろの製造)
ダマスカス刀剣の製法は19世紀に途絶えた。材料工学者の J. D. Verhoeven とナイフメーカーの A. H. Pendray らが、現存するダマスカス刀剣を解析することにより、当時の製法で同等の刀剣を鍛造している[3][4]。

製法はまず、鉄鉱石に木炭や生の木の葉をるつぼに入れ、炉で溶かした後にるつぼを割ると、ウーツ鋼のインゴットを得る。次に、ウーツ鋼からナイフを鍛造する。

ダマスカス刀剣の特徴となるダマスク模様として炭素鋼の粒子が層状に配列するためには鋼材に不純物として特にバナジウムが必要であったとされる。このことから、ウーツ鋼とダマスカス刀剣の生産が近代まで持続しなかった原因をインドに産したバナジウムを含む鉄鉱石の枯渇に帰する推測を行っている。

また本研究ではこの模様の再現についても検討を行っている。鍛造中のナイフ表面に縦に浅く彫り込みを入れた後に鍛造を行うことで、彫り込みの形状に沿った模様が生じた。直線状に彫り込んだ場合ははしご模様 (ladder pattern)、丸く彫り込んだ場合はバラ模様 (rose pattern) が生じる様が報告されている。 類似する模様出しの方法に日本伝統工芸の「木目金」(もくめがね)がある。

デリーの鉄柱[編集]

詳細は「デリーの鉄柱」を参照

インドのデリーにあるイスラム教礼拝所など歴史的建造物が集まっているクトゥブ・コンプレックス内には、紀元415年頃に作られたと見られている鉄柱(デリーの鉄柱、チャンドラバルマンの鉄柱とも呼ばれる)がある。

この鉄柱は1600年にわたって雨ざらしの状態であるにも拘らず錆びていないとして良く知られている。ダマスカス鋼が錆びにくいということからこの柱はダマスカス鋼ではないかと考えられたこともある。ただし地中内部は腐ってきている模様。(もっとも、ダマスカス鋼は「錆びにくい鉄」であって「錆びない鉄」ではない)。

オリハルコン

オリハルコン(古典ギリシア語:ὀρείχαλκος, oreikhalkos オレイカルコス、古典ラテン語:orichalcum オリカルクム)は、古代ギリシア・ローマ世界の文献に登場する、銅系の合金と考えられる金属である。最も有名な例としてプラトンが『クリティアス』の中で記述した、アトランティスに存在したという幻の金属が挙げられる。



目次 [非表示]
1 概要
2 古典文献への登場 2.1 初期
2.2 プラトンのクリティアス
2.3 その他

3 近代以降の解釈
4 登場する作品
5 関連項目
6 脚注
7 外部リンク


概要[編集]

「オリハルコン」はギリシア語の単数対格形 ὀρείχαλκον (oreichalkon) に由来する。orihalcon, orichalcon などと綴られることもあるが、これは「オリハルコン」が登場する日本製のゲームが国外へ輸出された際に生まれた新しい綴りである。

語源は、オロス(ὄρος, oros;山)のカルコス(χαλκός, khalkos;銅)。『ホメーロス風讃歌』や、ヘーシオドスの『ヘラクレスの盾』などの詩に初めて登場するが、これらの作品では真鍮(黄銅、銅と亜鉛の合金)、青銅(銅と錫の合金)、赤銅(銅と金の合金)、天然に産出する黄銅鉱(銅と鉄の混合硫化物)や青銅鉱、あるいは銅そのものと解釈・翻訳されている。ラテン語では、オリカルクム(orichalcum)。アウリカルクム(aurichalcum;金の銅)とも呼ばれた。

これに対してプラトンの『クリティアス』では、オレイカルコスは今では名前のみが伝わっている幻の金属として登場しており、他の古典作品におけるオレイカルコス・オリカルクムという単語の扱いとは少し異なる。

少なくともローマ帝政末期の文献では、アウリカルクムが真鍮を意味するようになったことはほぼ確実で、セステルティウスやデュポンディウスなどの真鍮製銀貨の原料として言及されるようになる。現代ギリシア語のオリハルコス(ορείχαλκος , oreichalkos)やイタリア語のオリカルコ(oricalco)は「真鍮」を意味する。

古典文献への登場[編集]

初期[編集]

ヘシオドスが書いたと伝えられている詩『ヘラクレスの盾』の断片の中で、英雄ヘラクレスが「ヘパイストスからの見事な贈り物である、輝けるオレイカルコス製の脛当てを装着した」という一節がある(Hes.Scht.122)。これがオレイカルコスという単語の初出と考えられている。

ホメロスが書いたと伝えられている『ホメロス賛歌』の第6章、アプロディテへの賛歌の中で、女神アプロディテは「両耳よりオレイカルコスと尊き金で出来た装飾品を下げている」と謳われている(h.Hom.6.9)。『ホメロス賛歌』は複数の詩人によって時代をおいて作られた34編の詩の集合体であるが、こちらの方が『ヘラクレスの盾』よりも古いとする説もある。

プラトンのクリティアス[編集]

プラトンがアトランティス伝説を含む『ティマイオス』と『クリティアス』を書いたのは晩年の紀元前360年前後と推測されており、『クリティアス』の作中4箇所5度オレイカルコスという単語が登場する。


(アトランティス島ではありとあらゆる必需品が産出し、)今では名前を残すのみだが、当時は名前以上の存在であったものが、島のいたるところで採掘することができた。即ちオレイカルコスで、その頃知られていた金属の中では、金を除けば最も価値のあるものであった。(114e)



(アトランティス島の)一番外側の環状帯を囲んでいる城壁は、まるで塗りつぶしたかのように銅(カルコス)で覆われており、城壁の内側は錫で、アクロポリスを直接取り囲む城壁は炎のように輝くオレイカルコスで覆われていた。(116b–116c)



(ポセイドンの神殿の)外側は銀で覆われていたが、尖塔は別で、金で覆われていた。一方内側は、天井は総て象牙が被されており、金、銀、及びオレイカルコスで飾られていた。そして残りの壁と柱と床はオレイカルコスが敷き詰められていた。(116d)



(アトランティスを支配する10人の王たちは)ポセイドンの戒律に従っていたが、その法は、初代の王たちによってオレイカルコスの柱に刻まれた記録として伝えられており、その柱は島の中央のポセイドンの神殿に安置されていた。(119c–119d)


このようにプラトンのアトランティス伝説におけるオリハルコンは、武器としては使われておらず、硬さ・丈夫さよりも、希少価値が謳われている。オリハルコンは、真鍮(黄銅)・青銅・赤銅などの銅系合金、黄銅鉱や青銅鉱などの天然の鉱石、あるいは銅そのものと解釈する説が最有力であるが、鉄、琥珀、石英、ダイヤモンド、白金、フレスコ画用の顔料、アルミニウム、絹など、種々の解釈がある。またアトランティス伝説と同様に架空の存在とする説も多い[1]。

なお『クリティアス』の原文中に、カルコス(χαλκός)という単語が登場するが、この単語は真鍮・青銅などの銅系合金をも含む。そのため、装飾品としてのカルコスに対しては、錆びやすい銅ではなく「真鍮」「青銅」などの訳語を当てはめることが多い。そのためオリハルコンは真鍮・青銅とは異なると解釈されることがある。

その他[編集]

アリストテレス は、『分析論後書』の中で言葉の定義について議論しており、定義の曖昧な言葉の例としてオレイカルコスを挙げている(Arist.APo.92b22)。また『異聞集』第58節によると、カルタゴ人が支配するデモネソス島では、キュアノス(κύανος, kyanos)[2]と孔雀石が採取され、更に島の沖合いには素潜りで採掘できる銅の鉱脈がある。シキュオンの町にあるアポロンの銅像は、ここで採掘された銅で作られ、ペネオスにあるオレイカルコスの像も、この島で採掘されたものから作られたという(Arist.Mir.834b25)。

ウェルギリウスの『アエネイス』に「白いオリカルクム (alboque orichalcum)」という言葉が登場するが(Ver.A.12,87)、マウルス・セルウィウス・ホノラトゥス (Maurus Servius Honoratus) の注釈本によると、これは王金(亜鉛25%含有の黄銅)を指す(Serv.A.12.87,12.210)。

ストラボンの『地誌』第13巻によると、トロイアの近郊のイダ山の北西の麓に位置したというアンデイラの町では、燃やすと鉄になる石が採れたが、これをある種の土類と一緒に溶鉱炉で燃やすと、プセウダルギュロス(ψευδάργυρος, pseudargyros;「偽の銀」の意。おそらく亜鉛のこと)が精錬される。このプセウダルギュロスは銅と合金を作り、オレイカルコスと呼ばれるものになる。プセウダルギュロスはトゥモロスの山でも産出した、と記されている(Strabo.xiii.1.56)。

大プリニウスは『博物誌』の中で天然に産出する銅系鉱石の一種としてアウリカルクム(auricalcum;金の胴)について触れており、かつては非常に価値があり珍重されたものの、今では失われてしまっていると述べている(Pli.H.N.34.2)。

フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第11巻のラテン語訳文において、ソロモンの宮殿にアウリカルコム製の器が奉納されていると記述しているものがある。ただしギリシア語原文においては、「金よりも価値のあるカルコス(銅類)の器[3]」と表記されている(J.AJ.11.136)。同様に聖ヒエロニムスによって訳されたラテン語訳聖書(ウルガータ)の『列王記』上(1 Kings 7.45)や『黙示録』(Apoc.1.15; Apoc.2.18)では、それぞれアウリカルクム、オリカルクムという単語が、真鍮に対するラテン語の訳語として使われている。

このほかオレイカルコスが登場する古典ギリシア語文献としては、以下のようなものがある。
ステシコロスの詩の断片(Stesich.88)
イビュコスの詩の断片(Ibyc.Oxy.1790.42)
ロドスのアポローニオスの『アルゴナウティカ』(Apoll.Arg.4.973)
カリマコスの詩の断片(Callim.Lav.Pall.19[4])
パウサニアスの『ギリシア案内記』(Paus.2.37.3)
フィロストラトス (Flavius Philostratus) の『テュアナのアポロニウス伝』(Philostr.VA2.7,20)

10世紀末に完成した百科事典的ギリシア語辞典であるスーダ辞典によると、オレイカルコスは自然に産する金属で、透明な銅のようなものだったが、もはや採掘が不可能となったと解説している。

また、ラテン語のアウリカルクムが登場する作品としては、以下のようなものがある。
プラウトゥスの 『クルクリオ』(Plaut.Cur.1,3,46)
『ミレス・グロリオスス』(Plaut.Mil.3,1,61)
『プセウドルス』 (Plaut.Ps.2,3,22)

スエトニウスの『ローマ皇帝伝』のウィテリウス伝(Suet.Vit.5.1)などがある。

ラテン語のオリカルクムが登場する作品としては、以下のようなものがある。
キケロの『義務論』(Cic.Off.iii.23)
ホラティウスの『詩論』(Hor.A.P.202)

これらの作品のオリハルコンが何を指すかは正確には分からないが、楽器や装飾品の材料として登場することから、真鍮や黄銅鉱と解釈されることが多く、各国語に翻訳されている。

近代以降の解釈[編集]

コロンブスによる新大陸の発見以降、哲学者・文筆家として知られるフランシス・ベーコン の『ニュー・アトランティス』においてユートピアとして新大陸=アトランティスが描かれ、アトランティス伝説への興味が徐々に高まっていった。SFの父と言われるジュール・ヴェルヌの『海底二万里』の作中には海底へ沈んだアトランティスの遺跡が登場する。そしてアメリカの政治家イグネイシャス・ドネリー (Ignatius Donnelly) が、『アトランティス』 (Atlantis: The Antediluvian World) を発表したことにより、アトランティス伝説がブームとなった。

神智学の創設者ブラヴァツキー夫人は、自らの師の所有する『ジャーンの書』を注釈したという人類の歴史を『シークレット・ドクトリン』にまとめ、失われた大陸アトランティスとそこに住む第四根源人種の歴史を記述した。また英国の神智学者ウィリアム・スコット=エリオット (William Scott-Elliot) の『アトランティス物語』によると、アトランティスには「二種の白色の金属と一種の赤色の金属からなる、アルミニウムよりも軽い合金」で作られた戦闘用飛行船が存在し、その動力は「ヴリル (Vril)」[5]と呼ばれるものだったという。スコット=エリオットはこれらの素材・動力源とオリハルコンを特に結び付けていないが、 アトランティス人の生まれ変わりを称する予言者エドガー・エヴァンズ・ケイシーのリーディングによってオリハルコンが未知の新素材や動力源と関連付けられるようになった。ファンタジー小説・ゲームなどに、非常に硬い武器の原料・ロケットの動力源などのモチーフとともにオリハルコンが登場するようになったのはこれ以降であるが、これらのオリハルコンにまつわるモチーフは、古典作品には全く登場しないものである。

登場する作品[編集]

多くの娯楽作品に登場する。以下はその一例である。


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関連項目[編集]
ダマスカス鋼
ミスリル
ヒヒイロカネ
セラミック

超常現象

超常現象(ちょうじょうげんしょう、Paranormal Phenomena)とは、現在までの自然科学の知見では説明されない現象のことである[1]。



目次 [非表示]
1 概要
2 超常現象に分類されることのある事象
3 人物
4 研究家・団体・学問
5 懐疑派
6 出典・脚注
7 関連文献
8 外部リンク


概要[編集]

「Paranormal (超常)」 という表現は1915年–1920年に作り出されたものであり[2]、 paraはラテン語で「〜を超えた」という意味である[3]

Paranormalという表現は、アンブレラ・ターム(広い領域をまとめて呼ぶための用語)であり、サイキック現象(霊能力、超能力)、テレパシー、超感覚的知覚、サイコキネシス、幽霊などを指す語である[3]。この世界に存在すると思われるもののオーソドックスな科学では説明不可能なこと、[3]。あるいは、オーソドックスな科学が調査対象にしていない現象を指している[4]。

超常現象には特殊な能力を持つとされる人間が関わっているもの(予知、透視、念写など)や、偶然では説明がつきそうにない出来事(心霊写真、妖精、妖怪など)や不思議などが含まれる。

「超常」は、かつて宗教の分野だとされてきた諸現象を自然科学の対象とする上での必要性から生じた「超自然」の言い換え語なのではないか、という指摘もある。「超自然現象」は超常現象の元の言い方で、中国語圏や朝鮮語圏では現在でも用いられている。

尚、物理学者のブライアン・ジョセフソンは世に超常現象、心霊現象などと呼ばれる、オーソドックスな科学者が扱いたがらない諸現象も、科学者として積極的かつ肯定的姿勢をもって探求している。




超常現象に分類されることのある事象[編集]
超能力[4] 超感覚的知覚(テレパシー、予知、透視 )
念力

霊能力[4]
霊界通信[4](霊媒、交霊会)
ホーンティング[4]、幽霊、幽霊屋敷[4]
心霊現象
ポルターガイスト現象[4]
妖精(フェアリー)[4]
天使
予知夢[4]
ドッペルゲンガー[4]
憑依[4]
呪い[4]
火星効果[4]
火の玉[4](ウィルオウィスプ、人魂、鬼火、狐火、球電)
人体自然発火現象[4]
電気人間[4]
UFO[4]
地球外生命[4]
タイム・スリップ[4]
形態因果作用[4]
臨死体験[4]
生まれ変わり(Reincarnation、転生)[4]
ゼノグロッシア、真性異言
ファフロツキーズ
シンクロニシティ (精度の高い偶然の一致、暗合、共時性)
妖怪

人物[編集]
ジョン・ディー[4]
ヴァレンタイン・グレイトレイクス(Valentine Greatrakes)[4]
エマニュエル・スウェーデンボルグ
ダニエル・ダングラス・ホーム[4]
エウザピア・パラディーノ(Eusapia Palladino)[4]
アイリーン・ギャレット(Eileen Garrett)[4]
ニーナ・クラギナ(Nina Kulagina)[4]
ユリ・ゲラー[4]
ドリス・ストークス(Doris Stokes)[4]
チコ・ザヴィエル(Chico Xavier)[4]
コーラル・ポルゲ(Coral Polge)[4]
ホセ・アリーゴ(José Arigo)[4]
サティヤ・サイ・ババ(Sathya Sai Baba)[4]
マシュー・マニング(Matthew Manning)[4]
ミシェル・ゴークラン(Michel Gauquelin)
江原啓之

研究家・団体・学問[編集]
研究家ユング[4]
チャールズ・フォート[4]
ロバート・ソーレス(Robert Thouless)[4]
ギュスターヴ・ジュレ(Gustave Geley)[4]
ケネス・バチェルダー(Kenneth Batcheldor)[4]
韮澤潤一郎

研究家関連項目:超心理学者
団体心霊調査協会(Society for Psychical Research、心霊現象研究協会とも)[4]
心霊科学研究会
学問超心理学[4]
心霊科学(霊魂が存在しているとする角度から研究する)

懐疑派[編集]
人物ハリー・フーディーニ(1874 - 1926)(奇術師。当時流行していた降霊術で行われていたインチキを暴いた。)
ハリー・プライス(1881 - 1948)(ゴーストハンター)
ジェームズ・ランディ(1928 - )(奇術師、作家。)
カール・セーガン(1934 – 1996)(天文学者、科学啓蒙家)
リチャード・ドーキンス(1941 - )
スーザン・ブラックモア(1951 - )
大槻義彦(1936 - )
皆神龍太郎(1958 - )
団体サイコップ(CSICOP)
Japan Skeptics
と学会

懐疑派関連項目:トンデモ本、疑似科学、科学における不正行為、アドホックな仮説

オーパーツ

オーパーツは、それらが発見された場所や時代とはまったくそぐわないと考えられる物品を指す。英語の「OOPARTS」からきた語で、「out-of-place artifacts」つまり「場違いな工芸品」という意味。日本語では「時代錯誤遺物」「場違いな加工品」と意訳されることもある。



目次 [非表示]
1 概要
2 経緯
3 参考文献
4 関連項目
5 外部リンク


概要[編集]

オーパーツは、考古学上その成立や製造法などが不明とされたり、当時の文明の加工技術や知見では製造が困難であるか、あるいは不可能と考えられる、主に出土品を指す用語である。ただし、正式な考古学用語ではなく、そういった出土品の存在を強調して考古学上の通説に疑義を唱える意図で主に使われる。

なぜ存在するのか、どのようにして作ったのか、が未だに解明されていないと主張され、未知の(現代科学の水準を超えるような)超古代文明の存在や古代宇宙飛行士説の根拠とされることがしばしばある。実際には全てが説明不可能なものではなく、その時代の技術で作成可能なものも多くある。また、近代の発明でその頃には存在しなかったとされている技術が、一度見い出されて後に失われていた技術(ロストテクノロジー)であるということもあり得る。いわゆる超古代文明や宇宙文明に依らずとも、情報の散逸によって文明が著しく後退した時代もあるため、一度失われた後に再発見された技術や知識も少なくない。一例としては「アレクサンドリア図書館」がある。

出土した時代での製造が困難か(あるいは製造不能か)の判断は発見当時の考古学的・工学的知見をもとに行われるため、例えば現在の感覚では想像がつかないほどの膨大なコスト(時間、人的資源など)を費やして製造した、出土当時の考古学的知識よりもその文明の実際の行動範囲が広かった等といった事情で、のちに製造可能と判断されたものも今なおオーパーツとして語られることが多い。

このほか、出土した遺物の解釈における誤解や分析の失敗・誇張された解釈といった事情から、「実際にありえない」ような器物だとみなされているケースもみられ、一般にオーパーツとして名の挙がる遺物の少なからぬものの解釈に疑問が投げかけられ、議論をかもしている。更には、それらの誤解や誇大解釈が一人歩きして誇張され、前述の超古代文明説を補強する材料として利用されている場合も少なくない。

逆に、それが真にオーパーツだったとしても、歴史学者・考古学者はリスクを恐れて認めないということもあるため、真偽の判断は難しくなってしまっている。

また、オーパーツが一種の見世物としてや好事家の関心を惹く対象でもあるため、売名や詐欺的な動機に絡んで極めて数多くの贋作や捏造に悩まされていることもオーパーツの特徴かつ現実であり、捏造と確定したものから疑惑レベルのものまで含めると、オーパーツとされる遺物のうち、真に学術的にその価値を認められるものはごく僅かという状況である。

経緯[編集]

オーパーツという呼称は、米国の動物学者で超常現象研究家のアイヴァン・T・サンダースンの造語で、同国の作家、レニ・ノーバーゲンの著書を通じて一般に広まった。

サンダースンは発掘品の類のみを指す言葉だとして、伝世品の類はオープス(OOPTH; out of place thingの略)と呼ぶことを提唱していたが、現在ではノーバーゲンのように併せてこう呼ぶことが多い。

参考文献[編集]
『オーパーツの謎―消えた先史文明』(パシフィカ)- レニ・ノーバーゲン(1978年,ASIN B000J8NYT2)
『トンデモ超常現象99の真相』(と学会)- 山本弘 、志水一夫 、皆神龍太郎(1997年,ISBN 9784862480033)
『新・トンデモ超常現象56の真相』(太田出版)- 皆神龍太郎、志水一夫、加門正一(2001年,ISBN 9784872335989)
『オーパーツ大全・失われた文明の遺産』(学研)- クラウス・ドナ+ラインハルト・ハベック=共著 プシナ岩島史枝=訳(2005年,ISBN 9784054024014)

関連項目[編集]
オーパーツ一覧
オーバーテクノロジー
超古代文明
超常現象

先史時代

先史時代(せんしじだい、英: Prehistory、羅: præ=英: before + 希: ιστορία=英: history)は、「歴史時代(有史時代)」以前の歴史区分に当たり、文字を使用する前の人類の歴史である[1]。1838年にスウェーデンのスヴェン・ニルソン(en)が著した『Skandinaviska Nordens Urivanare,Lund (北欧スカンディナヴィアの原住民)』において用語「forhistoria (先史)」を用い[2][注 1]、1851年にダニエル・ウィルソン(en)が著作『The Archaeology and Prehistoric Annals of Scotland (スコットランドの考古学と先史時代の年代)』で英語圏に紹介し[2]、1865年にジョン・ラボックが『Pre-historic Times (先史時代)』を発表[3]して以来、英語の単語として「prehistoric」が広く使われるようになった[4][5]。



目次 [非表示]
1 概要
2 定義
3 人類の発生
4 石器時代 4.1 旧石器時代
4.2 中石器時代
4.3 新石器時代

5 金属以前の技術 5.1 土器の発明
5.2 農耕の開始

6 青銅器時代
7 鉄器時代
8 先史時代という概念 8.1 先史時代が想像されなかった頃
8.2 ヨーロッパにおける概念の成立
8.3 中国の先史時代
8.4 日本の先史時代
8.5 新しい先史時代像

9 先史時代の人類史
10 関連項目
11 参考文献
12 脚注 12.1 注釈
12.2 脚注
12.3 脚注2

13 外部リンク


概要[編集]

先史時代の対象範囲は、定義に忠実ならば宇宙開闢以来の時間範囲が該当する。しかし一般的には地球上で生命誕生が起こってからの時代が取扱われ、特に人類が出現してから以降と捉えられることが多い[6][7]。この人類発祥後の時代は三時代法(en)というそれぞれの時に使われた主要な道具類の種類に基づく石器時代(旧石器時代、新石器時代[8])、青銅器時代、鉄器時代という連続した時間(en)ごとの期間区分(en)が用いられ、それ以前は地層が形成された時期を元とした層位学的(en) 地質記録(en)に基づいて地質時代単位で分けられる。ただし、マカリスター(en)などは石器時代に先行する加工性に優れる木材を利用した木器時代を提唱し、また人類史において道具を使わない時代というものも想定される[9]。また、新石器時代と青銅器時代の間に銅器時代が入る場合もある。

「先史時代」と「歴史時代」を明瞭に区別する基準は、その時期に記された文献の存在有無による[10]。文字が初めて用いられたのは地域によって異なるが青銅器時代後期から鉄器時代中期の頃と分析されており、この時期から地域的な有史時代が始まる。しかし、先史時代と有史時代との間には神話や伝承など口述記録が伝える「原史時代」または「中間時代」 (Intermediate Age) も置かれる[10]。そのため、歴史家は文字記録だけに頼らず、考古学に代表される自然科学や社会学的分析を取り入れて、太古の歴史(en)に対する解析を行う[10]。

定義[編集]





イギリスのストーンヘンジ。おおよそ4,500-4,000年前の新石器時代に建てられた。
定義において文書記録が無いとされる先史時代は、それを取り扱う際に時代の見極めが特に重要となる。しかしはっきりとそれを断定できる手法は19世紀になるまで開発されていなかった[11]。そのため、初期の先史時代研究は、発掘・地質および地理調査・自然や文字を持たない民族の習慣を分析するなどの、考古学や形質論的人類学に頼らざるを得なかった[6]。また、遺伝学者(en)による人口分布や歴史的な言語学もこの研究に見識を提供した[7]。文化人類学は婚姻や貿易の起源や波及の様子を知らしめ、先史時代の人類がどのような文化背景の中にあったかについて豊富な情報を提供した[7]。この他にも、古生物学、生物学、花粉学(en)、天文考古学、比較言語学、人類学、分子遺伝学など多くの自然科学・社会科学が先史時代分析に情報をもたらした。

先史時代における人類の歴史は、記録された編年的歴史だけでは判断することは不可能であり、もっぱら遺跡や遺物などの発掘を通じた考古文化的分析から得ることになる[12]。

先史時代の終わりについても、有意な学術的歴史記録が発生する時期という点で見る限り、地域ごとに異なってくる。例えば、エジプトは紀元前3200年頃には記録が作られ始めるために先史時代は終焉したと言えるが、ニューギニア島は同様の意味では紀元後の1900年前後に先史時代を終えたと言わざるを得なくなる。アメリカ大陸についても、以前はクリストファー・コロンブスによる発見以前を「先史時代」と扱うこともあった[13]。

アウグスト・シュライヒャーとフリードリヒ・マックス・ミュラーは言語学の観点から先史時代と有史時代を区分した。これによると、先史時代の言語とは単独の音節を並べるような状態から膠着や屈折などの形態を持つに至る段階であり、これが権力の発生とともに文法の整理など共通言語としての体裁が整いつつ文字言語が成立したという。マラメルによると、これらは人間集団の知性が言語に及ぼす変化について、法則的に説明する試みである。[14]

人類の発生[編集]

猿から進化して人類が誕生した時期は、約400万年前と言われる。最古の人類化石はアウストラロピテクスなど猿人であり、彼らは二足歩行をして非常に簡単な石製道具を使用した[15]。彼らの発生や進化の過程には様々な説が提示されている。

石器時代[編集]

旧石器時代[編集]

詳細は「旧石器時代」および「アフリカ単一起源説」を参照





ミトコンドリアDNAを集団遺伝学で分析した結果から得られた初期の人類の移動(en)図。数字は現代を起点に1000年単位で遡った時期を表す。
「旧石器時代」 (Paleolithic) は「石器時代の古い頃」を意味し、石を道具として用い始めた時期を指す石器時代の初期に当たる時代区分となる。これもさらに区分され、初期に当たる前期旧石器時代(en)はホモ・サピエンスの前段階に当たるホモ・ハビリス(と近縁種)が石器類を使い始めた約250万年前頃に相当する[16]。

初期のホモ・サピエンス登場は、約20万年前の中期旧石器時代(en)となり、彼らは初歩的な言語を扱うのに充分な能力を獲得する変化が、頭蓋骨の顎部骨格を分析した結果から認められた[17]。現在の人類に直結する新人が現れたのは約4万年前頃であり[15]、彼らが使う石器や骨角器など使用する道具類は精巧で種類も豊富になり[18]、埋葬(en)[15]や原始的な音楽(en)[19]が見られるようになった事も中期旧石器時代の特色である。

芸術(en)は約30,000年から約10,000年前の後期旧石器時代には始められていたと言われる。フランスのラスコー洞窟の壁画やヴィレンドルフのヴィーナスが製作されたのもこの時期に相当する。また、数の概念もつくられたらしく、コンゴ民主共和国で出土したヒヒの骨に刻まれた記号は最古の数表現と思われる。[16]

旧石器時代に人類は、狩猟採集社会[20]で遊牧民的な生活を送っており、その社会(en)も非常に小規模で平等なものだったが、豊富な食糧調達が可能なところや、貯蔵方法の発展によって首長や社会階層を持つような複雑な共同体を構成していたところもあった。

中石器時代[編集]

詳細は「中石器時代」を参照





丸木舟.
「中石器時代」(Mesolithic, Middle Stone Age) は、石器時代の中ごろに当る約20,000年前から約9,000年前の時期[16]を指すが、これは人類の技術発展に基づいた区分である。この時期は約10,000年前に当たる更新世の終わり頃に始まり、地域によって様々な農耕の導入を終わりの契機とする。

近東など一部地域では、更新世の終わり頃には農耕が始まっており、そのようなところでは中石器時代の定義は短い期間のあやふやなものになる。また氷河の影響を受ける地域では「亜旧石器時代」という用語が適する。逆に第四期氷河時代(en)終焉によって自然環境が好転する恩恵を受けた地域は、はっきりした中石器時代を迎えた。北欧では、広がる湿地帯から食糧をたくさん得ることが出来た。同様に、マグレモーゼ文化やアジール文化(en)なども豊富な資源を背景に人類が発展を見せた。ヨーロッパ北部ではこのような時代は6000年前まで続いた。

この時代の遺跡は少なく点在状態にあり、古代のごみ捨て場である貝塚程度しかめぼしいものが見つからない場合もしばしばである。しかし貝塚はその当時の生活様式に関する情報を与える。食糧は貝殻類に限らず動物や鳥類の骨など、また既に犬を飼う習慣を持っていた事、時に人骨や石器類も発見される[21]。

多くの地域で、中石器時代を特色づけるものは小さな燧石を用いた道具類であり、細石器やマイクロビュラン(en)、漁具、石製手斧(en)などがある。また、場所によってはカヌーや弓なども木製具も発見されている。このような技術はアフリカのアジール文化で起り、北部アフリカのイベロ-マウリシオ(en)文化やレバントのケバラン(en)文化を通じてヨーッロッパに伝わった。この他にも独立した発見も無視されてはいない。

中石器時代の文化は主にホモ・サピエンスが担ったが、ネアンデルタール人のような種族もまた共存しており、彼らも痕跡を残した。





マルタ島ハジャー・イム(en)遺跡群にあるジュガンティヤ期(en)の寺院の門。[22]
新石器時代[編集]

詳細は「新石器時代」を参照

「新石器時代」は、原始的な技術や社会構造が発達し、石器時代にピリオドを打つ時代である。人類は環境適応能力の高さを発揮し、生活領域を拡大し、狩猟社会だけでは利用できなかった生活資源を活用し始めた[20]。約9,000年に始まる[16]この時代には村落の形成や農耕、動物の家畜化、道具類の発展、巨石建造物[16]、そして戦争の痕跡が確認できる。この用語「新石器時代」は、通常では旧世界を指し、アメリカ大陸やオセアニアなどで結果的に金属加工技術を発生させなかった文化段階をも指して使われる。

金属以前の技術[編集]





早期の縄文式土器
土器の発明[編集]

詳細は「土器」を参照

古い土器は、日本の縄文式土器やバイカル湖周辺など紀元前13000年頃には製作が始まり[23][24]、乾燥地帯では紀元前6000年頃と推測されるメソポタミア最古の土器[25]などに先行していた。製作方法も当初の手こねから、型に嵌めるもの、そしてとぐろ巻きなど進化し、合わせて装飾や彩色も発展した[26]。

土器は主に貯蔵や調理または食器として用いられ、やがて用途が広がり鑑賞や埋葬用などにも使われるようになった。これら土器の特徴を分析することは、社会集団の発展や交流などを突き止める手がかりとなる[27]。

農耕の開始[編集]

詳細は「農耕」を参照

発祥から先史時代前半までの人類は、生存能力に劣り常に滅亡の可能性に晒されていた。火を使い加工する手段を得てはいたが、食糧は多くの植物性およびわずかな動物性食物に頼り、常に飢餓の危険にさらされながら、より住みやすい土地を求めて移動を繰り返していた[28]。そのため、集団の信仰や習俗には多産を祈念し推奨する要素が多く生じ、またジェンダーの観念も生殖に重きが置かれていた。この停滞状態を脱し、人口が増加に転じた主たる理由は、農耕や牧畜など食糧生産手段の変革[20]があった。[29]

先史時代の研究家ヴィア・ゴードン チャイルド(en)が提示した「新石器革命(英語版)」(農耕革命)の概念によると、紀元前10世紀頃にシュメールで農耕が始まり、紀元前9500年から紀元前7000年頃にはインドやペルーでもこれと独立に行われ始めたという。さらに紀元前6000年頃にはエジプト、紀元前5000年頃には中国、そして紀元前2700年頃にはメソアメリカで農耕は広まった。

中東の肥沃な三日月地帯が重視されがちだが、複数の作物や家畜を育成する農耕システムは考古学的分析からアメリカ州や東アジア・東南アジアでもほぼ同時期か若干早く発生していた。シュメールでは紀元前5500年頃には組織化された灌漑や専従労働(en)も始まっていた。それまで集落が依存していた岩石を用いた石器は青銅器や鉄器に取って代わられ、これら新しい道具は農作業のみならず戦争にも使われるようになった。ユーラシア大陸では銅や青銅の道具が発達し、紀元前3000年頃に地中海沿岸東部で発明された製鉄技術は中東を経由して中国まで伝わり、農具や武器へ利用された。





紀元前1000年頃の世界の技術・社会構造の状態

狩猟採集社会

遊牧・牧畜社会

単純農耕社会

複合農耕・首長支配社会

国家社会

非居住地区

鉄器時代, c. 1000 BCE.

青銅器時代, c. 1000 BCE.

アメリカ大陸では金属器の発展は遅く、紀元前900年頃のチャビン文化(en)勃興を待たねばならなかった。モチェ文化では金属は武具やナイフ・器などに用いられ、金属資源に乏しいインカ文明(en)でも、チムー王国に征服された頃までには金属片をつけた鋤が実用化されていた。しかしその一方で、ペルーでは考古学的調査の進捗は限定的であり、古来の記録媒体であったキープはスペインのインカ帝国征服(en)によってほとんどが焼却されてしまい、資料に乏しい。ほとんどの都市遺産は未だ発掘されていない。

メソポタミアのユーフラテス川やチグリス川、エジプトのナイル川、インド亜大陸のインダス川、中国の黄河や長江のように文明の揺りかごは川や谷が担った。一方、オーストラリアのアボリジニや南アフリカのサン人にような遊牧的な民族は、農耕を自文化に取り入れた時期は比較的近年になってからのことである。

農耕はその作業において分業を促進し、そこから複雑な社会構造とも言える文明を作り[30]、国家や市場を形成した。技術は自然を利用する術を授け、交通や通信手段を発達させた。

青銅器時代[編集]





紀元前1200年頃の古代エジプトで、牡牛(en)に金属器のプラウを曳かせる図
詳細は「青銅器時代」を参照

青銅器時代は三時代法のひとつに数えられ、いくつかの文明において新石器時代の次に到来した。ただし金属製錬そのものは新石器時代に発明されたものと考えるべきであり、金属器が広まるまでの間には「金石併用時代」(Enenlithio Age) または「石青鋼期」 (Stone-Bronze Period) と呼ばれる過渡期が存在した[31]。

この時代には人類の文化が発達し、露天状態の鉱石から銅やスズを精錬し、合金である青銅を成型する金属加工技術が体系化され、広範囲に伝播した時代を指す。紀元前3000年頃までの西アジアで作られた青銅器に銅/スズ合金が無い点から分かる通り、自然状態の銅鉱石は多く不純物として砒素を含み、銅/スズ原鉱は稀少だった。青銅は「形の表現において適切であり扱いやすい」[2- 1]8性質を持ち、数々の道具や武器および装飾品などが作られた[32]。

青銅器時代は筆記が発明され、初期の記録が為された時代でもある。最古の歴史記録のひとつであるメソポタミアでは、紀元前2600年頃のシュルッパクの粘土板に刻まれた文字が発見されている。これらは主に行政・財政上の収支や土地配分などの記録であったが、当時の社会体制を知ることができる点では歴史記述のひとつとみなすことができる[33]

鉄器時代[編集]

詳細は「鉄器時代」および「古典古代」を参照

考古学では「鉄器時代」とは鉄冶金(en)技術が実現した時代区分を指す。鉄を使用は農作業の効率を高め、信仰や芸術の発展など文明へ大きな革新をもたらした。そうして、哲学史的にも「枢軸時代」と呼ばれる世界同時的な変化を生んだ。

先史時代という概念[編集]

先史時代が想像されなかった頃[編集]

古代インドや古代ギリシア・ローマでは、歴史とは繰り返すものという円環的時間概念があった。ギリシアのトゥキディデス、ピュタゴラスはこの考えを前提に置き、プラトンは『テアイテトス』にて歴史が循環する期間を36,000年と試算し、これは「プラトン年 (Platonic Year) 」または「プラトン的転回 (Platonic Revolution)」と呼ばれる。この流れを受けてローマのクリュシッポス、ストア派のエピクテトス、マルクス・アウレリウス・アントニヌス(『自省録』第七巻)そしてポリュビオス、アリストテレスらも歴史を循環するものと捉え[34]、未開の時代は想定されなかった。

ケルト人は文字をほとんど使わない一方で、その存在はカエサルの『ガリア戦記』など多くの歴史記述の中で他称として用いられて来た。この民族についての研究は15世紀頃から活発になるが、民族起源論や言語学としてのケルト語研究などが主流であり、当時は「ケルト」とは西ヨーロッパの先史時代という概念で捉えられていた。これらは19世紀に考古学が確立し、遺跡調査や人類学的分析などを通じ、ケルト人とは石器・青銅器時代人、ガリア人は鉄器時代人という大きな区別のもとケルト文化圏という概念に変化した。[35]

中世ヨーロッパ全般の歴史認識はキリスト教的歴史観である普遍史が支配しており、天地創造とアダムとイヴ誕生以来の歴史は聖書に記述されており、いわゆる「先史」の概念は存在しなかった[36]。大航海時代が到来し地球規模の地理および民族の知識が蓄積され、文字を持たない人間社会の存在が知られると、その位置づけについて考察が及んだ。この中に「未開の人類」を想定した例がコンドルセの『人間精神進歩史』(1793年-1794年)である。彼は、文字を持たない人間について、1)群団を作った状態 2)遊牧民族 の2段階を想定した。ただしこれはあくまでアメリカやアフリカおよびアジア辺境に実際に住む民族を色分けした交差系列的分類であり、普遍史観を壊すようなものではなかった[37]。

ヨーロッパにおける概念の成立[編集]

先史時代的人間の社会や生活に想像を巡らした先駆的な例はジャン=ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』(1755年)で語られる、自然の中で言語も家族も持たずに理性ではなく感情で生きる自由人に見ることができる。これとほぼ同じ考えはイマヌエル・カントも『人類史の憶測的起源』(1786年)で触れているが、どちらも「憶測でしかない」と断っている[38]。

このような先史時代概念を歴史上に組み込む役割は啓蒙思想が担った。ヴォルテールは『歴史哲学』(1765年)にて、理性を持つ以前の人類を、文字を持たない禽獣がごとき状態があったと主張した[39][2- 2]。大学の歴史学者の中からは、ドイツのゲッティンゲン大学歴史学研究室からヨハン・クリストフ・ガッテラー(1727年 - 1799年)(en)やアウグスト・ルートヴィッヒ・フォン・シュレーツァー(1753年 - 1809年)(en)らが、普遍史観による創世紀元を否定し先史的な時代を想定した[40]。

科学面から先史時代を想定して人物にビュフォンがいる。1778年の『自然の諸時期』では、熱い火の玉から地球が生まれたという想定を基本に歴史を想定し、誕生した人類は地震や噴火などの激動する自然や、肉食動物に捕食される危険の中で生き残るための工夫を重ねて技術を発展させたという説を唱えた。その一例が、当時雷がつくると考えられていた石斧であり、これは人類が石を尖らせて作ったものと述べた。[41]

さらに、積み重なった考古学的発掘品の整理をするためにコペンハーゲン博物館のクリスチャン・トムセンが『北方古代文化研究入門』(1836年)にて三時代法の古代の歴史を区分した[42]。生物学界からはチャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859年)が人間を含む生物の進化段階を述べ、それを裏付ける化石人骨の発見が続いた[43]。このような数々の思想や発掘証拠などが積み重なり、ウィルソンやラボックらの「先史時代」という概念が一般化した。

中国の先史時代[編集]

中国には、西洋的な先史時代の概念が確立されてからも「石器時代が無かった」と長く考えられていた。これは、中国人は文化的に青銅器や玉(ヒスイ)には興味を持つが石器には関心を払うことが無かった点や、自分たちの祖先が石器を使うような野蛮人ではなかったという中華思想的文明観があったものと陳舜臣は述べている[44]。これは中国国内だけの考えではなく、フランスの東洋学者ラクペリ(en)は、1894年に論文『中国古代文明西洋起源説』(Western Origin of the Early Chinese Civilisation) にて、中国人は文明を持った段階で西方(バビロニア)から民族移動して来たという説を唱え、アメリカのベルトルト・ラウファー(en)も同様に、中国には石器時代は無かったと考えた[45]。

1920年前後、地質調査のために招聘されていたスウェーデンのユハン・アンデショーンは、石炭の採掘地である周口店周辺を調査中に発掘した化石の中に人類の特徴を備えた歯を見つけ、さらに詳しい調査を行った末の1929年に完全な頭骨を発見した。これが北京原人であり、中国にも先史時代があったことが判明した[46]。その後も石器時代の各段階の遺跡が続々と発見され、新石器時代から有史時代までを繋ぐ仰韶文化、龍山文化などの全容が解明された[47]。

日本の先史時代[編集]

詳細は「日本列島の旧石器時代」を参照

日本の先史時代に対する科学的研究は、大森貝塚を発見・調査したエドワード・S・モース(1877年・明治10年来日)に始まる[48][49]。1879年(明治12年)には調査結果が纏められた『大森貝塚』に加え、ハインリッヒ・フォン・シーボルトが『考古説略』で考古学手法を解説するとともに、北海道から九州までの貝塚や古墳を調査し、日本考古学の論文を発表したことに始まる[49]。日本の先史時代は、旧石器時代から始まり、弥生時代から古墳時代にかけて終焉したものと置かれる[1]。

日本の旧石器時代は浜田耕作らが発掘作業を続けて考古学的証拠を探し続けたが、第二次世界大戦後の1949年になってやっと岩宿遺跡が見つかり、その存在が確認された[45]。

新しい先史時代像[編集]

古典的な先史時代のイメージでは、狩猟採集に頼った不安定な食糧調達手段しか持ち得ない人類は常に飢餓の危機に晒され、そのため生活領域も人口も制限される状態(成長の限界)が長く続いていたと考えられた。これを転回させた出来事が農耕の開始であり、トマス・ロバート・マルサス(『人口論』)やルイス・ヘンリー・モーガン(「文化進化説」)やヴィア・ゴードン・チャイルド(「新石器革命(英語版)」)などは、農耕という技術革新が人口増加を吸収する環境を実現し、これがさらなる文化の変革を生んだという説を唱えた。[20]

この、ひとつの定説に対する疑問が1960年代から提唱され始めた。現代に生きる狩猟採集民族を観察した結果から、その生活は必ずしも厳しいものではなく、また農耕という手段を持たないわけではないという報告がなされた。また考古学的調査から、先史時代における狩猟社会と農耕社会の比較において、生存率や栄養状態などはむしろ定住を必要とする農耕社会の方が劣り、必ずとも後者の社会を選択する必然性にも疑問が挟まれ、むしろ更新世末期の気候変動など外的要因によって豊かな狩猟社会が一時的に不安定な状態に陥り、避難的に穀類採取へ向かった結果が農耕発生に繋がったという考えもある。[20]

これには反論もあり、寒冷期と農耕の発生時期が合わない点や、気候変動の影響は地域的であり、また容易に回復することなどが挙げられている。M.コーエンはこれらを指摘した上で、狩猟社会においても緩やかに増加した人口が臨界点に達し、それまで食糧と認識されなかった小さな獲物や木の実などを食べるように食域拡大が起こり、さらなる人口増加がついには味覚に劣り大きな労力を投入しなければならない穀類採取そして農耕へ展開したと主張した。[20]

先史時代の人類史[編集]

以下にあるすべての年代表記は、人類学、考古学、遺伝学、地質学や言語学から推測されたものである。そのため、最新の研究によって変更される場合がある。
旧石器時代・中石器時代120,000年前:解剖学的に現代人と言えるホモ・サピエンスがアフリカで生まれる。
300,000年前:人類の人口が推計100万人に達する。[50]
300,000年前から30,000年前:ネアンデルタール人のムスティエ文化がヨーロッパで発生[51]。
75,000年前:トバ火山大噴火(トバ・カタストロフ理論)[52]
70,000年前から50,000年前:ホモ・サピエンスがアフリカからアジアに拡がる[53]。次の1000年間に、この人類の子孫に当たる集団の居住域は南インド、マレー諸島、オーストラリア、日本、中国、シベリア、アラスカそして北アメリカ北西部まで広がった。[53]
後期旧石器時代32,000年前:オーリニャック文化がヨーロッパで発生。
30,000年前から28,000年前:フランスのヴェゼール渓谷で、トナカイの狩猟が行われた。(ヴェゼール渓谷の先史的景観と装飾洞窟群)[54]
28,500年前:アジアもしくはオーストラリアを経由して、人類がニューギニア島へ到達。[55]
28,000年前から20,000年前:ヨーロッパでグラヴェット文化(en)が起り、銛、針、鋸が発明された。
26,000年前から24,000年前:繊維の利用が広がり、籠や衣類、袋、籠、網や女性が用いたベビーキャリーなどが作られた。
25,000年前から23,000年前:チェコ、モラヴィアのドルニ・ヴィエストニッツェ遺跡(en)から非常に古い土偶が発見された。これらは主に粘土を焼いて製作されたものである[24]。これらは、発見された人類最古の定住を示す証拠と目されている[56]。
20,000年前から18,000年前:フランスでシャテルペロン文化が興る[57]。
16,000年前から14,000年前:フランス、ピレネー山脈のテュク・ドドゥベール洞窟にて、ヨーロッパバイソンを描いた洞窟壁画が発見された[58]。
14,800年前から12,800年前:北アフリカ気候が湿潤期となった。後に乾燥してサハラ砂漠となったこの地域は、当時水が豊富かつ肥沃であり、帯水層で満たされた[59]。
13,000年前:北東アジアで土器の製作が始まった[24]。
中石器時代10,000年前:人類の人口が推計500万人に達する。[50]
新石器時代8000年前から7,000年前:現代のイラク北部に当たるメソポタミア北域で農耕が始まる。栽培されたものはオオムギやコムギ。当初はビールやグルーアル(粥)(en)またはスープに調理され、後にパンが作られた[60]。当時の初期農耕では耕作において棒がよく用いられたが、やがて数世紀後には原始的なプラウに取って代わった[61]。エリコに周囲8.5m、高さ8.5mの円筒型石塔が築かれたのもこの時期である[62]。
青銅器時代4000年前:農耕の普及により人類の人口が推計8700万人に達する。[50]
3700年前:楔形文字が発明され、文字記録が始まる。
3000年前:ストーンヘンジの建造が始まる。初期のそれは、56本の木製の柱と円形の溝や傾斜で築かれたものだった[63]。

関連項目[編集]
文明
原始宗教
情報の散逸
古人類学
人類の進化
気候変動
環境
地球の歴史/地質時代
紀元前10千年紀以前

参考文献[編集]
西村眞次 『人類学概論:文化人類学』 早稲田大学出版部、1924年。
中谷仁 『センター世界史B各駅停車』 星雲社、2006年。ISBN 4-434-07159-9。
岡崎勝世 『世界史とヨーロッパ』 講談社現代新書、2003年。ISBN 4-06-149687-5。
陳舜臣 『中国発掘物語』 講談社、1991年。ISBN 4-06-185023-7。

脚注[編集]

超古代文明

超古代文明(ちょうこだいぶんめい)とは、先史時代に存在したとされる、高度に発達した文明のこと。



目次 [非表示]
1 概要
2 主な超古代文明
3 有名な提唱者
4 関連文献 4.1 肯定的な立場に立つ文献
4.2 懐疑的な立場に立つ文献

5 関連項目


概要[編集]

「超古代文明」は、有史以来の文明(四大文明など)が成立したとされる紀元前4000年頃より以前(先史時代)に存在したとされる、非常に高度な文明や不明な点が多い文明を指す呼称である。

ムーやアトランティスなどの伝承や創作文学などを発端とするものが多い。これらの文明には、現代文明をしのぐ卓越した技術によって繁栄したが、自らの超技術に溺れて自滅したり、驚異的な天変地異によって消滅したというロマンチックな物語が付随し、様々な都市伝説や噂が広がり考古学でも議論が続くテーマでもある。これらはしばしばファンタジーや創作の世界におけるテーマとされ、さらにはその根源を現代の人智を超越する心霊や宇宙人に基づく神秘主義 に求めることもある。

物証として遺構や遺物が提示されることもあり、このうち一部はオーパーツなど学術的な検証研究の途上の遺物を含むことがあるものの、そのほとんどが論拠が無い、信憑性が浅薄、贋作や捏造などの理由で検証の対象となり得ず、一般的にはオカルトの類と認識されている。

にも関わらず、こうした失われた超技術の復活や、未知なものへの憧憬や畏敬は盲信を生じやすいため、しばしばカルトが引用するなどして利用することがある。

主な超古代文明[編集]
アトランティス
ムー大陸の文明
レムリア
赤城文明→崇教真光の教祖である岡田光玉が提唱

有名な提唱者[編集]
ジェームズ・チャーチワード:著書『失われたムー大陸』など。
エーリッヒ・フォン・デニケン:著書『未来の記憶』など。
グラハム・ハンコック:著書『神々の指紋』など。

関連文献[編集]

肯定的な立場に立つ文献[編集]
山田久延彦 『日本にピラミッドが実在していた!! 皆神山が語る驚異の超古代文明』 徳間書店〈Tokuma books〉、1985年1月。ISBN 4-19-503038-2。
前川光 『人類は二度生まれた 超古代文明の推理』 大日本図書、1986年3月。ISBN 4-477-11903-8。
佐藤有文 『超古代文明の謎 歴史の定説をくつがえす驚異の古代遺産』 グリーンアロー出版社〈グリーンアロー・ブックス〉、1989年5月。ISBN 4-7663-3109-5。
鈴木旭 『日本超古代文明の謎 新・日猶同祖論――日本は世界文明発祥の地だった』 日本文芸社〈Rakuda books〉、1989年12月。ISBN 4-537-02158-6。
木村信行 『日本超古代文明の神秘』 日本歴史研究所、1990年11月。
ジェームズ・チャーチワード 『ムー大陸の子孫たち 超古代文明崩壊の謎』 小泉源太郎訳、大陸書房〈大陸文庫〉、1991年5月。ISBN 4-8033-3323-8。 ジェームズ・チャーチワード 『ムー大陸の子孫たち 超古代文明崩壊の謎』 小泉源太郎訳、青樹社〈Big books〉、1997年6月。ISBN 4-7913-1034-9。

高沢七郎 『超古代文明のメッセージ』 未来文化社、1992年2月。ISBN 4-947546-49-2。
平川陽一 『失われた超古代大陸の謎 幻の超古代文明に秘められた謎を解く!』 日本文芸社〈にちぶん文庫〉、1993年1月。ISBN 4-537-06105-7。
平川陽一 『大仮説で解く超古代文明の謎 地球に何が起こったか!?』 ベストセラーズ〈ワニ文庫〉、1994年1月。ISBN 4-584-30407-6。
中矢伸一 『神示が明かす超古代文明の秘密 「封印された真実の神」の言葉から神国日本の本源を探る!』 日本文芸社〈Rakuda books〉、1994年3月。ISBN 4-537-02400-3。
鈴木旭 『古代文字が明かす超古代文明の秘密 文字発生のルーツと日本古代史の真相を探る』 日本文芸社〈Rakuda books〉、1994年8月。ISBN 4-537-02422-4。
フランク・アルパー 『アトランティス 超古代文明とクリスタル・ヒーリング』 高柳司訳、コスモ・テン・パブリケーション、1994年10月。ISBN 4-87666-041-7。
南山宏ほか 『世界超古代文明の謎 「大いなる太古の沈黙の遺産」を探究する!』 日本文芸社〈知の探究シリーズ〉、1995年8月。ISBN 4-537-07800-6。
『オーパーツの謎と不思議 驚異の物体に隠された超古代文明の秘密』 超古代研究会編、日本文芸社〈にちぶん文庫〉、1996年1月。ISBN 4-537-06155-3。
佐治芳彦ほか 『日本超古代文明のすべて 「大いなるヤマトの縄文の遺産」を探究する!』 日本文芸社〈知の探究シリーズ〉、1996年4月。ISBN 4-537-07803-0。
影山莠夫 『オーパーツ奇跡の真相 超古代文明の不思議を解明する』 ベストセラーズ〈ワニ文庫〉、1996年5月。ISBN 4-584-30484-X。
佐和宙 『超古代文明は宇宙人がつくった 人類創世に隠された驚愕の秘密』 日本文芸社〈にちぶん文庫〉、1996年8月。ISBN 4-537-06159-6。
『オーパーツと超古代文明の謎 人類のルーツに隠された異星人の刻印』 超古代研究会編、日本文芸社〈にちぶん文庫〉、1996年11月。ISBN 4-537-06161-8。
佐治芳彦 『超古代文明の謎 甦った神々の記憶 人類の祖先“神々”の指紋と足跡を求めて』 日本文芸社、1997年1月。ISBN 4-537-02553-0。
『超古代文明と神々の謎 太古に封印された宇宙人の遺産』 古代文明研究会編、日本文芸社〈にちぶん文庫〉、1997年3月。ISBN 4-537-06162-6。
中江克己 『神々の足跡 失われた超古代文明の謎』 PHP研究所〈PHP文庫〉、1997年3月。ISBN 4-569-56996-X。
鈴木旭・最上孝太郎 『失われた世界超古代文明 「太古に刻された神々の足跡」を探究する!』 日本文芸社〈知の探究シリーズ〉、1997年4月。ISBN 4-537-07809-X。
『幻の超古代文明』 Quark編集部編、講談社〈Quarkスペシャル〉、1997年5月。ISBN 4-06-177214-7。
佐和宙 『超古代文明奇跡の真相 ピラミッドが知っている人類創生の秘密』 ベストセラーズ〈ワニ文庫〉、1997年5月。ISBN 4-584-30531-5。
ジェームズ・チャーチワード 『失われたムー大陸 第一文書』 小泉源太郎訳、角川春樹事務所〈ボーダーランド文庫 1〉、1997年6月。ISBN 4-89456-315-0。
ジェームズ・チャーチワード 『ムー帝国の表象 第三文書』 小泉源太郎訳、角川春樹事務所〈ボーダーランド文庫 6〉、1997年7月。ISBN 4-89456-329-0。
佐和宙 『超古代文明は神々がつくった 太古に刻印された驚愕の真相』 日本文芸社〈にちぶん文庫〉、1997年9月。ISBN 4-537-06165-0。
岡田英男 『「超真相」アトランティス謎と真実 南極に栄えた超古代文明の秘密』 ベストセラーズ〈ワニ文庫〉、1997年10月。ISBN 4-584-30553-6。
W・レイモンド・ドレイク 『宇宙人の超古代史』 笠原哲正訳、角川春樹事務所〈ボーダーランド文庫 14〉、1997年10月。ISBN 4-89456-356-8。
トニー・アール 『衝撃のムー文明』 小泉源太郎訳、角川春樹事務所〈ボーダーランド文庫 16〉、1997年10月。ISBN 4-89456-358-4。
高橋克彦・南山宏 『超古代文明論 オーパーツが証す神々の存在』 徳間書店、1997年11月。ISBN 4-19-860776-1。
赤間剛 『世界超古代文明神々のミステリー』 廣済堂出版〈廣済堂文庫〉、1997年12月。ISBN 4-331-65257-2。
南山宏 『オーパーツ 超古代文明の謎』 二見書房〈二見wai wai文庫〉、1998年2月。ISBN 4-576-98005-X。
高橋克彦・南山宏 『超古代文明論 オーパーツが証す神々の存在』 徳間書店〈徳間文庫〉、2001年1月。ISBN 4-19-891439-7。
岩田明 『日本超古代文明とシュメール伝説の謎 世界最古の文明は中央アジアの高峰にあった』 日本文芸社、2001年4月。ISBN 4-537-25038-0。
『海に沈んだ超古代文明』 クォーク編集部編、講談社、2002年8月。ISBN 4-06-210880-1。
南山宏 『アトランティスの謎』 大矢正和絵、講談社〈講談社青い鳥文庫 超古代文明ドキュメント 1〉、2004年9月。ISBN 4-06-148662-4。
『神々の遺産・オーパーツの謎 超古代文明は警告する!』 学習研究社〈ムー謎シリーズ〉、2005年7月、増補改訂版。ISBN 4-05-604076-1。
『「海底遺跡」超古代文明の謎』 奈須紀幸監修、講談社〈講談社+α文庫〉、2005年11月。ISBN 4-06-256979-5。
朱鷺田祐介 『超古代文明』 新紀元社〈Truth in fantasy 71〉、2005年12月。ISBN 4-7753-0435-6。
飛鳥昭雄・三神たける 『失われたムー大陸の謎とノアの箱舟 大洪水以前の超古代文明の鍵を握る聖典「ナーカル碑文」は実在した!!』 学習研究社〈Mu super mystery books〉、2006年5月。ISBN 4-05-403092-0。
『失われた世界の超古代文明 時空の彼方に消えた幻の超古代大陸の謎』 超古代文明検証会編、日本文芸社、2008年3月。ISBN 978-4-537-25581-2。
『驚異オーパーツと超古代文明の謎』 超古代文明検証会編、日本文芸社〈にちぶんmook〉、2008年4月。ISBN 978-4-537-12133-9。
古代文明研究会 『超古代文明file 決定版』 学習研究社〈ムーspecial〉、2008年4月。ISBN 978-4-05-403715-1。 古代文明研究会 『世界の超古代文明file 完全版』 学研パブリッシング〈ムーspecial〉、2010年7月。ISBN 978-4-05-404630-6。

『ムーマックス 禁断のオーパーツと超古代文明の謎』 学習研究社〈Gakken mook〉、2008年12月。ISBN 978-4-05-605348-7。
『禁断の日本超古代文明!!』 コミック・ムー編集部・Spice communications・湯浅ひろゆき・松澤寿美・久留学編、赤峰亮介・岩村俊哉・沖田龍児・すねやかずみ・根本哲也・守和生作画、Jayro脚本、学習研究社〈ムーコミックス. 歴史群像コミック〉、2009年3月。ISBN 978-4-05-607044-6。

懐疑的な立場に立つ文献[編集]
チャールズ・J・カズー・スチュワート・D・スコット Jr. 『超古代史の真相』 志水一夫訳、東京書籍、1987年9月30日。ISBN 4-487-76062-3。
ピーター・ジェイムズ・ニック・ソープ 『古代文明の謎はどこまで解けたか』I――失われた世界と驚異の建築物・篇、皆神龍太郎監修、福岡洋一訳、太田出版〈Skeptic library 7〉、2002年7月5日。ISBN 4-87233-668-2。
ピーター・ジェイムズ・ニック・ソープ 『古代文明の謎はどこまで解けたか』II――地上絵と伝説に隠された歴史・篇、皆神龍太郎監修、福岡洋一訳、太田出版〈Skeptic library 8〉、2004年1月15日。ISBN 4-87233-811-1。
ピーター・ジェイムズ・ニック・ソープ 『古代文明の謎はどこまで解けたか』III――捏造された歴史とオカルト考古学・篇、皆神龍太郎監修、福岡洋一訳、太田出版〈Skeptic library 9〉、2004年12月7日。ISBN 4-87233-888-X。
ライアン・スプレイグ・ディ・キャンプ 『プラトンのアトランティス』 小泉源太郎訳、角川春樹事務所〈ボーダーランド文庫 18〉、1997年12月18日。ISBN 4-89456-365-7。
と学会 『トンデモ超常現象99の真相』 洋泉社、1997年3月26日。ISBN 4-89691-251-9。
皆神龍太郎・志水一夫・加門正一 『新・トンデモ超常現象56の真相』 太田出版、2001年8月3日。ISBN 4-87233-598-8。 皆神龍太郎・志水一夫・加門正一 『新・トンデモ超常現象60の真相』 楽工社、2007年1月26日。ISBN 978-4-903063-07-2。 - 『新・トンデモ超常現象56の真相』(太田出版、2001年)の増補改訂版。

アトランティス

アトランティス(古典ギリシア語: Ατλαντίς)は、古代ギリシアの哲学者プラトンが著書『ティマイオス』[1]及び『クリティアス』[2]の中で記述した、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことである。強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。

1882年、アメリカの政治家イグネイシャス・ロヨーラ・ドネリー(英語版)が著書『アトランティス―大洪水前の世界』[3]を発表したことにより「謎の大陸伝説」として一大ブームとなり、更にオカルトと結びつくことで多くの派生研究を生んだ。 近年の研究によって、地中海にあるサントリーニ島の火山噴火によって、紀元前1400年ごろに突然滅んだミノア王国がアトランティス伝説のもとになったとする説が浮上してきた。また、ヘラクレスの柱をダーダネルス海峡とし、トロイア文明と重ねる人もいる。しかし、大西洋のどこかにアトランティスがあると信じる人も未だ存在する。もっとも、現代の構造地質学が示すところによれば大陸規模の土地が短時間で消失することはまずあり得ないため、実在説の多くは島などの消失がモデルになったものとしている。

なお、アトランティスの直接的モデルとなるような事件そのものが存在しないという説も有力である点に注意されたい。



目次 [非表示]
1 アトランティスの語源 1.1 アトラス神
1.2 アトラスの海、アトラス山脈とアトラスの名前を冠する諸民族

2 プラトンのアトランティス伝説 2.1 作品構想と背景
2.2 『ティマイオス』
2.3 『クリティアス』 2.3.1 アトランティスと戦った時代のアテナイ
2.3.2 アトランティスの建国神話
2.3.3 アトランティスの都
2.3.4 都に隣接する大平原と軍制
2.3.5 アトランティスの堕落

2.4 他作品における言及

3 関連する記述 3.1 ギリシア・ローマ時代の文献
3.2 出所不明瞭の情報 3.2.1 ムー大陸
3.2.2 レムリア大陸と神智学


4 代表的な諸説 4.1 地中海説
4.2 大西洋説
4.3 プレートテクトニクス理論に基づく大西洋説
4.4 南極説
4.5 大海進説
4.6 インド説

5 科学的研究
6 エジプト文明との関係の指摘
7 フィクションへの影響
8 グーグル・アースによる探索
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
12 外部リンク


アトランティスの語源[編集]

本来古代ギリシア語の「Ατλαντίς アトランティス」という語は、ギリシア神話のティーターン族の神 Ἀτλας アトラスの女性形であり、「アトラスの娘」「アトラスの海」「アトラスの島」などを意味する[注 1]。

アトラス神[編集]

「Ἀτλας アトラス」は(1)『支える』を意味する印欧祖語の dher に由来する(2)ベルベル諸語の語が元で、ベルベル人のアトラス山脈への信仰に由来するなど、その語源には諸説ある。アトラス神への言及はホメロス(紀元前9-8世紀頃に活躍)の『オデュッセイア』が初出で、「大地と天空を引き離す高い柱を保つ」と謳われている(Hom.Od.i.52)。 一方、ヘシオドス(紀元前700頃に活躍)の『神統記』以降は、ティーターノマキアーにおいてティーターン族側に加担した罪で、地の果てで蒼穹を肩に背負う姿として叙述されるようになり、フルリ人やヒッタイト人の神話に登場するウベルリの影響を受けたものと考えられている。また、アトラスが立つ地の果ての向こうの大洋には島があり、ニュクス(夜)の娘達とされるヘスペリデスが、ゴルゴン族の傍らで黄金の林檎を守っているとされ(Hes.Theog.213-216,275-280,517-521) 、後にアトラスの娘達として知られるプレイアデスやアトランティデスなどと同一視されるようになる(Diod.iv.27.2; Paus.v.17.2,vi.19.8)。

アトラスの海、アトラス山脈とアトラスの名前を冠する諸民族[編集]

プラトンの対話集に先立ち 「Ατλαντίς アトランティス」という表現は大西洋を意味する地名として使われている。ヘロドトス(紀元前484頃-420頃)は『歴史』の中で大西洋を「アトランティスと呼ばれる、柱[注 2]の外の海」と記述した(Herod.i.203.1)。以降、大西洋は今日に至るまで「アトラスの海」や「アトラスの大洋」と呼ばれるようになったのである[注 3]。

またヘロドトスはアトラス山脈について初めて言及しているが、山脈としてではなく単独の雪山としてリビア内陸のフェザン地方にそびえているものとして記述し、その山麓の砂漠に暮らす、日中の太陽を呪い、名前を持たない古典ギリシア語: Ἀτάραντες(アタランテス人)と、肉食をしないために夢を見ない古典ギリシア語: Ἄτλαντες(アトランテス人)に触れている(Herod.iv.184-185)。

シケリアのディオドロス(紀元前1世紀に活躍)は『歴史叢書』の中で、アフリカの大西洋岸(モロッコ西岸)に聳えるアトラス山と、その麓でギリシア人並の文明生活を送っている古典ギリシア語: Ἀτλάντιοι アトランティオイ人について記載している。アトランティオイ人の神話によると、ウーラノスがアトランティオイ人に都市文明をもたらし、その後ティーターン達が世界を分割統治した際にアトラスが大西洋岸の支配圏を得たが、アトラスはアトラス山の上で天体観測を行い、地球が球体であることを人々に伝えたという。また、アトラス王は弟ヘスペロスの娘ヘスペリティスと結婚して7人の美しい娘達(ヘスペリデス、アトランティデス)の父となり、エジプトのブシリス王の依頼を受けた海賊に誘拐されてしまった娘達をヘラクレスが救った際に、その礼としてヘラクレスの最後の功業を手伝ったのみならず、天文の知識を教えたが、これがギリシア世界でアトラスの蒼穹を担ぐアトラス伝説へと変化してしまったという(iii.56-57,iii.60-61,iv.27)。

ストラボン(紀元前64頃-紀元23頃)の『地誌』においては、アトラスはマウレタニアの山脈として認識されるようになり、ベルベル人はデュリス山脈と呼ぶと紹介している。また、ストラボンは、ジブラルタル海峡以西のアフリカ沿岸世界については、古来より嘘にまみれた様々な創作のせいで、真実の報告を見分けるのは難しいとも述べている(Strabo.xvii.3.2(p.825–826))。

ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス, 23-79)の『博物誌』は、歴史家ポリュビオス(紀元前200頃-118頃)や クラウディウス帝時代のローマの遠征軍がマウレタニアで得た知識を元に、現地の言葉でディリス山脈とも呼ばれるアトラス山脈の地理を詳しく記述しており、古典時代のギリシア人の北西アフリカにおける不正確な地理的知識は、当時この地との交易を支配していたカルタゴ人の航海者ハンノ[4]以来、さまざまな空想の混じった伝聞が流布してしまったことによるものと指摘している(Plin.Nat.v.2-5(s1))[注 4]。アトランテス人に関してはヘロドトスのアタランテス人の特徴と混ぜて引用し、リビアの砂漠の奥に住むと記述している(Plin.Nat.v.14(s4))。また、ポリュビオスの報告として、アフリカのアトラス山脈の大西洋側の末端の山の沖合いに、ケルネ島とアトランティス島があると記述している(Plin.Nat.vi.60(s36))。

ポンポニウス・メラ(英語版)[5]は『世界地理』の中で大西洋岸に面したアトラス山を紹介し(Mela.iii.101(s4))、また、リビアの内陸に住むアトランテス人についても、ほぼ大プリニウスと同様の内容を記述している(Mela.i.23(s1),i.43(s2))。

クラウディオス・プトレマイオス(90頃-168頃)は『地理学』の中で、アトラス山脈の大西洋側の末端に相当する岬の山として、大アトラス山(経度8°北緯26°30′[注 5])と小アトラス山(経度6°北緯33°10′)について座標を与えている(Ptol.Geo.iv.1.2)。

パウサニアス(2世紀に活躍)の『ギリシア案内記』はリビアの砂漠の中に住む民族としてヘロドトスのアトランテス人を引用し、この民族は大地の広さを知っており、リクシタイ人[6]とも呼ばれることを記している。また、砂漠の中のアトラス山からは3つの川が流れ出るが、全て海へ流れ込む前に蒸発してしまうという(Paus.i.33.5–i.33.6(s.5))。

プラトンのアトランティス伝説[編集]

作品構想と背景[編集]

『ティマイオス』と『クリティアス』は、プラトンがシュラクサイの僭主ディオニュシオス2世の下で理想国家建設に失敗した後、晩年にアテナイで執筆した作品と考えられている。両作品はプラトンの師匠である哲学者ソクラテス(紀元前470頃-399)、プラトンの数学の教師とも伝えられているロクリスの政治家・哲学者ティマイオス(紀元前5世紀後半)、プラトンの曾祖父であるクリティアス(紀元前500頃-420頃)[注 6]、そして、シュラクサイの政治家・軍人ヘルモクラテス(紀元前450頃-408/407)の4名の対談の形式で執筆されている。『ティマイオス』では主にティマイオスが宇宙論について語り、『クリティアス』では主にクリティアスが実家に伝わっているアトランティス伝説について語っている。ヘルモクラテスは一連の作品群で語りの役割を果たしていないが、作品中ソクラテスによって第三の語り手と紹介されていることか(Pl.Criti.108a)、 アトランティスとアテナイの間の戦争に関して軍人ヘルモクラテスに分析させた、『ヘルモクラテス』という作品が構想されていたという説が、プラトンの対話集の英訳で知られる英国の古典学者ベンジャミン・ジャウエット(英語版)などにより提唱されている[注 7]。

クリティアスの家で行われたとされるこの対談が現実のものであったとするのなら、ニキアスの和約が成立した紀元前421年8月頃のパンアテナイア祭りの最中で、(Pl.Criti.21a)クリティアスの孫のプラトンはまだ6歳の少年としてこの話を横で聞いたということになる。また、対談には病気で欠席した人間がいることになっている[注 8](Pl.Criti.17a)。

核となる伝説は、アテナイの政治家ソロン(紀元前638頃-559頃)がエジプトのサイスの神官から伝え聞いた話を親族にして友人のドロピデ(Dropides, 紀元前6世紀前半頃)に伝え、更にその息子のクリティアス(紀元前580頃-490頃)が引き継ぎ、更に同名の孫のクリティアスが10歳の頃に90歳となった祖父のクリティアスからアパトゥリア祭(英語版)の時に聞かされた事として、対話集の中で披露されている(ソロンとクリティアス、プラトンの血縁関係はクリティアス (プラトンの曾祖父)参照)(Pl.Tim.20d-21e)。 作中の神官によると、伝説の詳細は手に取ることのできる文書に文字で書かれていることになっている(Pl.Tim.24a)。ソロンはこの物語を詩作に利用しようと思って固有名詞を調べたところ、これらの単語は一度エジプトの言葉に翻訳されていることに気付いた。そこでソロンはエジプトで聞いた伝説に登場する固有名詞を全てギリシア語風に再翻訳して文書に書き残し、その文書がクリティアスの実家に伝わったという(Pl.Criti.112e-113b)。ソロンは結局帰国後も国政に忙しかったため、この伝説を詩に纏めることができなかったとされている(Pl.Tim.21c-21d)。

『ティマイオス』[編集]

『ティマイオス』の冒頭でソクラテスが前日にソクラテスの家で開催した饗宴で語ったという 理想国家論が要約されるが、その内容はプラトンの『国家』とほぼ対応している。そして、そのような理想国家がかつてアテナイに存在し、その敵対国家としてアトランティスの伝説が語られる。

アマシス2世(英語版)アアフメス2世、紀元前600頃-526年)が即位した後の紀元前570-560年頃、ソロンは賢者としてエジプトのサイスの神殿に招かれた。そこでソロンは、デウカリオンの洪水伝説で始まる人類の歴史の知識を披露する。



すると神官たちの中より非常に年老いた者が言われた「おおソロンよ、ソロン。ヘレネス(ギリシア人)は常に子供だ。ヘレン(ギリシア)には老人(賢者)がいない」

− Pl.Tim.22b

神官は、古来より水と火により人類滅亡の危機は何度も起こってきており、ギリシアではせっかくある程度文明が発達しても度重なる水害により都市とともに教養ある支配階級が絶滅してしまうため、歴史の記録が何度も失われてしまったが、ナイル河によって守られているエジプトではそれよりも古い記録が完全に残っており、デウカリオン以前にも大洪水が何度も起こったことを指摘する。また、女神アテナと同一視される女神ネイトが神官達の国家体制を建設してまだ8000年しか時間が経っていないが、[注 9] アテナイの町はそれよりさらに1000年古い9000年前(即ち紀元前9560年頃)に成立しており、女神アテナのもたらした法の下で複数の階層社会を形成し、支配層に優れた戦士階級が形成されていたことを告げる。

その頃ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)の入り口の手前の外洋であるアトラスの海[7]にリビアとアジアを合わせたよりも広い、アトランティスという1個の巨大な島が存在し、大洋を取り巻く彼方の大陸との往来も、彼方の大陸とアトランティス島との間に存在するその他の島々を介して可能であった。アトランティス島に成立した恐るべき国家は、ヘラクレスの境界内(地中海世界)を侵略し、エジプトよりも西のリビア全域と、テュレニアに至るまでのヨーロッパを支配した。その中でギリシア人の諸都市国家はアテナイを総指揮として団結してアトランティスと戦い、既にアトランティスに支配された地域を開放し、エジプトを含めた諸国をアトランティスの脅威から未然に防いだ。



しかしやがて異常な地震と大洪水が起こり、過酷な一昼夜が訪れ、あなた方(=アテナイ勢)の戦士全員が大地に呑み込まれ、アトランティス島も同様にして海に呑み込まれて消えてしまった。それ故その場所の海は、島が沈んだ際にできた浅い泥によって妨げられ、今なお航海も探索もできなくなっている。

− Pl.Tim.25c-d

ここでクリティアスは太古のアテナイとアトランティスの物語の簡単な紹介を終え、以降ティマイオスによる宇宙論へ対談の話題が移る。

『クリティアス』[編集]

作品の冒頭の記述から、この作品は先の『ティマイオス』の対談と同じ日に行われた続編にあたる対談であることが示唆されている。ティマイオスにおける宇宙論に引き続き、今度はクリティアスがアテナイとアトランティスの物語を披露する。

アトランティスと戦った時代のアテナイ[編集]

9000年以上前、ヘラクレスの柱の彼方に住む人々とこちらに住む人々の間で戦争が行われた時、それぞれアテナイとアトランティスが軍勢を指揮した。当時のアテナイ市民は私有財産を持たず、多くの階層に分かれてそれぞれの本分を果たしていた。また、当時のアテナイは現在よりも肥沃であり、約2万人の壮年男女からなる強大な軍勢を養うことが出来たし、アテナイのアクロポリスも遥かに広い台地であったが、デウカリオンの災害から逆算して三つ目に当たる彼の大洪水により多くの森が失われ、泉が枯れ、今日のような荒涼とした姿になってしまった。また洪水のたびに山岳に住む無学の者ばかりが生き残るため、今日アテナイには当時の統治者の名前ぐらいしか伝わっていない。エジプトの神官は当時のアテナイの王の名前として、ケクロプス[8]、エレクテウス(英語版)[9]、エリクトニオス[10]、エリュシクトン[11]などを挙げたとソロンは証言している。

アトランティスの建国神話[編集]

アトランティス島の南の海岸線から50スタディオン (約9.25 km)の位置に小高い山があり、そこで大地から生まれた原住民エウエノル(英語版)[12]が妻レウキッペ(英語版)[13]の間にクレイト[14]という娘を生んだ。アトランティスの支配権を得た海神ポセイドーンはクレイトと結ばれ、5組の双子の合計10人の子供が生まれた。即ち『アトラスの海』 (大西洋) の語源となった初代のアトランティス王 アトラス、スペインのガデイラに面する地域の支配権を与えられたエウメロス[15]ことガデイロス[16]、アンペレス[17]、エウアイモン[18]、ムネセウス[19]、アウトクトン[20]、エラシッポス[21]、メストル [22]、アザエス[23]、ディアプレペス[24]で、ポセイドーンによって分割された島の10の地域を支配する10の王家の先祖となり、何代にも渡り長子相続により王権が維持された。ポセイドーンは人間から隔離するために、クレイトの住む小高い山を取り囲む三重の堀を造ったが、やがてこの地をアクロポリスとするアトランティスの都、メトロポリス[25]が人間の手で形作られていった。

アトランティスの都[編集]

アクロポリスのあった中央の島は直径5スタディオン(約925m)で、その外側を幅1スタディオン(約185m)の環状海水路が取り囲み、その外側をそれぞれ幅2スタディオン(約370m)の内側の環状島と第2の環状海水路、それぞれ幅3スタディオン(約555m)の外側の環状島と第3の環状海水路が取り囲んでいた。一番外側の海水路と外海は、幅3プレトロン(約92.5m)、深さ100プース(約30.8m)、長さ50スタディオン(約9.25km)[注 10]の運河で結ばれており、どんな大きさの船も泊まれる3つの港が外側の環状海水路に面した外側の陸地に設けられた。3つの環状水路には幅1プレトロン(約30.8 m)の橋が架けられ、それぞれの橋の下を出入り口とする、三段櫂船が一艘航行できるほどのトンネル状の水路によって互いに連結していた。環状水路や運河はすべて石塀で取り囲まれ、各連絡橋の両側、即ちトンネル状の水路の出入り口には櫓と門が建てられた。これらの石の塀は様々な石材で飾られ、中央の島、内側の環状島、外側の環状島の石塀は、それぞれオレイカルコス(オリハルコン)、錫、銅の板で飾られた。内外の環状水路には石を切り出した跡の岩石を天井とする二つのドックが作られ、三段櫂の軍船が満ちていた。

中央島のアクロポリスには王宮が置かれていた。王宮の中央には王家の始祖10人が生まれた場所とされる、クレイトとポセイドーン両神を祀る神殿があり、黄金の柵で囲まれていた。これとは別に縦1 スタディオン(約185m)、横3プレトロン(約92.5m)の大きさの異国風の神殿があり、ポセイドーンに捧げられていた。ポセイドーンの神殿は金、銀、オレイカルコス、象牙で飾られ、中央には6頭の空飛ぶ馬に引かせた戦車にまたがったポセイドーンの黄金神像が安置され、その周りにはイルカに跨った100体のネレイデス像や、奉納された神像が配置されていた。更に10の王家の歴代の王と王妃の黄金像、海外諸国などから奉納された巨大な神像が神殿の外側を囲んでいた。神殿の横には10人の王の相互関係を定めたポセイドーンの戒律を刻んだオレイカルコスの柱が安置され、牡牛が放牧されていた。5年または6年毎に10人の王はポセイドンの神殿に集まって会合を開き、オレイカルコスの柱の前で祭事を執り行った。即ち10人の王達の手によって捕えられた生贄の牡牛の血で柱の文字を染め、生贄を火に投じ、クラテル(葡萄酒を薄めるための甕)に満たした血の混じった酒を黄金の盃を用いて火に注ぎながら誓願を行ったのち、血酒を飲み、盃をポセイドーンに献じ、その後礼服に着替えて生贄の灰の横で夜を過ごしながら裁きを行い、翌朝判決事項を黄金の板に記し、礼服を奉納するというものである。

また、アクロポリスにはポセイドーンが涌かせた冷泉と温泉があり、その泉から出た水をもとに『ポセイドーンの果樹園』とよばれる庭園、屋外プールや屋内浴場が作られたほか、橋沿いに設けられた水道を通して内側と外側の環状島へ水が供給され、これらの内外の環状島にも神殿、庭園や運動場が作られた。さらに外側の環状島には島をぐるりと一回りする幅1スタディオン(約185m)の戦車競技場が設けられ、その両側に護衛兵の住居が建てられた。より身分の高い護衛兵の居住は内側の環状島におかれ、王の親衛隊は中央島の王宮周辺に住むことを許された。 内側の3つの島々に王族や神官、軍人などが暮らしていたのに対し、港が設けられた外側の陸地には一般市民の暮らす住宅地が密集していた。更にこれらの市街地の外側を半径50 スタディオン(約9.25km)の環状城壁が取り囲み、島の海岸線と内接円をなしていた。港と市街地は世界各地からやって来た船舶と商人で満ち溢れ、昼夜を問わず賑わっていた。

都に隣接する大平原と軍制[編集]

アトランティス島は生活に必要な諸物資のほとんどを産する豊かな島で、オレイカルコスなどの地下鉱物資源、象などの野生動物や家畜、家畜の餌や木材となる草木、 ハーブなどの香料植物、葡萄、穀物、野菜、果実など、様々な自然の恵みの恩恵を受けていた。

島の南側の中央には一辺が3000スタディオン(約555km)、中央において海側からの幅が2000スタディオン(約370km)の広大な長方形の大平原が広がり、その外側を海面から聳える高い山々が取り囲んでいた。山地には原住民の村が沢山あり、樹木や放牧に適した草原が豊かにあった。この広大な平原と周辺の山地を支配したのはアトラス王の血統の王国で、平原を土木工事により長方形に整形した。平原は深さ1プレトロン(約31m)、幅1スタディオン(約185m)の総長10000スタディオン(約1850km)の大運河に取り囲まれ、山地から流れる谷川がこの大運河に流れ込むが、この水は東西からポリスに集まり、そこから海へ注いだ[注 11]。大運河の中の平原は100スタディオン(約18.5km)の間隔で南北に100プース(約31m)の幅の運河が引かれていたが、更に碁盤目状に横断水路も掘られていた。運河のおかげで年に二度の収穫を上げたほか、これらの運河を材木や季節の産物の輸送に使った。

平原は10スタディオン平方(約3.42km2)を単位とする6万の地区に分割され、平原全体で1万台の戦車と戦車用の馬12万頭と騎手12万人、戦車の無い馬12万頭とそれに騎乗する兵士6万人と御者6万人、重装歩兵12万人、弓兵12万人、投石兵12万人、軽装歩兵18万人、投槍兵18万人、1200艘の軍船のための24万人の水夫が招集できるように定められた。山岳部もまたそれぞれの地区に分割され、軍役を負った。アトラス王の血統以外の他の9つの王家の支配する王国ではこれとは異なる軍備体制が敷かれた。

アトランティスの堕落[編集]

アトランティスの支配者達は、原住民との交配を繰り返す内に神性が薄まり、堕落してしまった。それを目にしたゼウスは天罰を下そうと考えた。


「(ゼウスは)総ての神々を、自分達が最も尊敬する住まい、即ち全宇宙の中心に位置し、生成に関わる総てのものを見下ろす所(オリュンポス山)に召集し、集まるとこう仰った」(Pl.Criti.121c)

ここで『クリティアス』の文章は途切れる。

他作品における言及[編集]

プラトンのアトランティス伝説は他の作品で引用されており、特にプルタルコス、アイリアノス、プロクロスは、プラトンの原文に載っていない情報を提供している。
ストラボン『地誌』ストラボンは『地誌』の中で、ポセイドニオス(紀元前135頃-51)の著作である『大洋(オケアノス)について』(オリジナルのテキストは現存せず)の内容批判を行っているが、ストラボンの引用により、ポセイドニオスのアトランティス伝説に対する見解が残っている。ポセイドニオスは<例えばキンブリア人とその仲間の民族が移動を行ったのは、元々住んでいた土地が突然海に浸食されたことによるものと推測されるように>、プラトンのアトランティス伝説について、<「詩人(=ホメロス)がアカイア勢の防壁について行ったのと同様に、創作者(=ソロン または プラトン)が消し去った」などという意見があるが、プラトンが言うように真実を含んでいるとみなすべきである>と考えていたという。ストラボンはポセイドニオスの考えについては批判的だが、地殻変動に関してはポセイドニオスと同じ考えを持っており、プラトンのアトランティス伝説に関しては特に否定も肯定もしていない(Strabo.ii.3.6(p.102))。なお、「詩人が創作し、破壊した」というのは、<トロイア戦争におけるイリオン湾のアカイア勢の防壁はホメロスの創作で、辻褄合わせのためにトロイア戦争終了後に防壁もろとも洪水で破壊されたことにした>という意味であり、ストラボンによると、プラトンの弟子であるアリストテレス(紀元前384-322)の見解とされている(Strabo.xiii.1.36(p.598))。 アリストテレスがプラトンを批判した文章が様々残っていることから、これらの文を組み合わせ、既にプラトンの生きていた時代からアリストテレスは、アトランティス伝説についてもトロイア戦争の防壁と同じようにプラトンの創作物とみなしたと解釈する人もいる。キケロ『ティマエウス』、『最高善と最大悪について』、『国家』マルクス・トゥッリウス・キケロ(紀元前106-43)はプラトンの『ティマイオス』をラテン語へ翻訳したが、現在残っている断片は宇宙論に関する部位のみであり(Pl.Tim.27d-37e, 38c-43b, 46b-47b)、アトランティス伝説に関する部位の翻訳は残っていない(Cic.Tim.)。またキケロの『最高善と最大悪について』と『国家』によると、ロクリスのティマイオスはプラトンの数学の師匠であったという(Cic.de Fin.v.29; de Re Publ.i.10)。プルタルコス『対比列伝』、『イシスとオシリスについて』プルタルコス(46頃-119以降)の『対比列伝』の『ソロン伝』によると、ソロンはアテナイで改革を行った後(紀元前594年)、海外を10年間旅し(紀元前593-584)、その最初にエジプトのカノープスを訪れ[注 12] 、その際ソロンはヘリオポリスのプセノピス[26]、サイスのソンキス[27]という博識な神官と親交を深め、特にサイスの神官から失われたアトランティスの物語を聞いたという(Plut.Sol.26.1)。このアトランティスの伝説、とりわけアテナイ人の関わる神話(ロゴス[28]とミュートス[29])についてソロンは執筆を始めたが結局中止してしまった(Plut.Sol.31.3)。ソロンの血縁者であったプラトンは、アトランティスの物語を書き上げようとしたが、結局作品を書き終える前に亡くなり、今日アテナイのオリュンピエイオンの神殿に収められているプラトンの全作品の内、アトランティスの物語(=『クリティアス』)だけが未完に終わってしまい、本当に残念なことだとプルタルコスは感想を述べている(Plut.Sol.32.2)。このことから少なくともプルタルコスの時代には、すでに『クリティアス』は未完の作品として伝わっていたことが判る。なおプルタルコスの別の作品『イシスとオシリスについて』の中でも、ギリシア人の賢者とエジプトの神官との交友の一例として、ソロンとサイスのソンキスの親交が挙げられている(Plut.de Is. et Osir.10)。アイリアノス『動物の特性について』アイリアノス (本名クラウディウス・アエリアヌス(英語版)、175頃-235頃)は『動物の特性について』の中で、サルデーニャやコルシカ沖で冬場を過ごし、しばしば波打ち際で人すら襲うというタラッティオス・クリオス[30](『海の羊』) と呼ばれる海獣(シャチと解釈されることが多いが、イッカク説もある) について語っているが、大洋近くに住む住民に伝わる寓話として、ポセイドンの子孫であるアトランティスの王達は王の権威の象徴であるクリオスの雄の皮で作られた帯を頭に巻き、王妃達はクリオスの雌の巻き毛を身に着けていたという話を紹介している(Ael.NA.ix.49,xv.2)。ピロン『世界の堕落について』ユダヤ人の哲学者 アレクサンドリアのピロン(紀元前20頃-紀元50頃)は『世界の堕落について』(但し贋作と考えられている)の中で、プラトンのティマイオスからの引用として、リビアとアジアを合わせたよりも広かったアタランテスの島が異常な地震により一昼夜で消滅したことに言及している(Philo.Incor.xxvi)。大プリニウス『博物誌』大プリニウスは『博物誌』において、「プラトンの言うことを信じるのなら、大西洋[31]に広大な土地があったが」という前置きとともに、海に大地が削り取られた例として言及している(Plin.Nat.ii.90(s92))。これとは別に、アトランティスという名前の島がアトラス山脈の沖合いに現存していることを示唆している(Plin.Nat.vi.60(s36))。アテナイオス『食卓の賢人たち』ナンクラティスのアテナイオス(紀元200頃に活躍)は『食卓の賢人たち』の中で、食後のデザートに関する薀蓄としてプラトンのアトランティス伝説に登場する作物(Pl.Criti.115a-b)を引用している(Athen.Deipn.xiv.640d-e)。テルトゥリアヌス『外套について』クイントゥス・セピティミウス・フロレンス・テルトゥリアヌス(155頃-220頃)は『外套について』の中で、大地の姿形が変化した一例として、大西洋にあったというリビアやアジアと同じ大きさの島が消えた事を挙げている(Tertul.De Pallio.i.2.21)。ポルピュリオス『プロティノス伝』ポルピュリオス(234頃-305頃)の『プロティノス伝』によると、ネオプラトニスムの創始者といわれるプロティノス(205頃-270)の弟子ゾティコス(英語版)(265頃死去)は、コロポンのアンティマコス(英語版)(紀元前400頃に活躍)の詩を校正し、『アトランティコン』[32](アトランティスの物語)という詩の完成度を高めたという(Porph. Vit. Plot.7.12-16)。詩の内容は現存しない。大アルノビウス『異邦人に対して』大アルノビウス(英語版)(紀元3世紀末-330頃)は『異邦人に対して』の中で、1万年前にネプトゥヌスのアトランティカ[33]と呼ばれた島が沈み、多くの人々が消滅したというプラトンの言葉を信用していいのかどうかを自問している(Arnob.Adv.Gent.i.5.1)。アンミアヌス・マルケリヌス『歴史』アンミアヌス・マルケリヌス(330頃-395)は『歴史』の中で、地震で誘発される現象を隆起(brasmatiae)、断層(climatiae)、沈下(chasmatiae)、轟音(mycematiae)の4種類に分類しており、地盤沈下の一例として、ヨーロッパよりも広い島が大西洋に沈んだことを挙げている(Ammian.Marcell.xvii.7.13-14)。ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』ディオゲネス・ラエルティオス(3世紀頃に活躍)の『哲学者列伝』の『プラトン伝』によると、アレクサンドリアの図書館の館長であったビュザンティオンのアリストパネス(英語版)(紀元前264頃-180)がプラトンの作品を纏めた際、トリロギア(三部作集)の第1編に『ティマイオス』と『クリティアス』を収録した(Diog.Laert.iii.61–62(s.37))。一方ティベリオス・クラウディオス・トラシュルス(英語版)(紀元前1世紀-紀元36頃)はプラトンの作品を研究して年代順に9編のテトラロギア(四部作集)に纏め、その第8編に『ティマイオス』と『クリティアス』を収めたが、それぞれに『自然について』[34]、『アトランティコス』[35](アトランティスの物語)という副題をつけたという(Diog.Laert.iii.56–60(s.35))。カルキディウス『ティマエウス注解』




バチカン図書館所蔵 カルキディウス著『ティマエウス注解』『ティマイオス』は400年頃にカルキディウス(4世紀-5世紀)によって再びラテン語に翻訳された。キケロのラテン語訳とは異なり、アトランティス伝説の部位を含む大部分のテキスト(Pl.Tim.17a-53c)が現存す(Calcidius,In Tim.5-68)。[注 13]。プロクロス『ティマイオス注解』ネオプラトニスムの哲学者として知られるリュキアのプロクロス・ディアドコス(英語版)(410頃-475)は、プラトンの『ティマイオス』に関する注釈『ティマイオス注解』を残しており、ネオプラトニスムに立脚したプラトンの作品の解釈が示されている。 1.当時すでに多くの人たちは、プラトンの記述が寓話であると考えており、アパメイアのヌメニオス(2世紀後半に活躍)、アメリオス(英語版)(3世紀後半に活躍)、オリゲネス(3世紀後半に活躍)、ディオニュシオス・カッシオス・ロンギノス(英語版)(3世紀後半に活躍)、ポルピュリオス、カルキスのイアンブリコス(250頃-330頃)、シュリアノス(英語版)(5世紀前半に活躍)などの解釈が紹介されている(Procl.Comm.Tim.24b-25e)。
2.ソロイのクラントル(英語版)(紀元前4世紀後半に活躍)は、プラトンの弟子であるカルケドンのクセノクラテス(紀元前396頃-314)の弟子で、始めてプラトンの書物に注釈をつけたとされる。現在では失われてしまったクラントルの古註によると、クラントルはアトランティスの伝説は総て真実だと主張しており、生前のプラトンは、アトランティスの物語を嘲笑する者に対しては、エジプト人にアテナイとアトランティスの歴史を尋ねろと反論したとのことである。また、クラントルは証拠として、この伝説が神殿の柱に今なお刻まれていると神官たちが主張していることを挙げている(Procl.Comm.Tim.24a-b)。
3.プロクロスが参考にしたあるエジプトの史書によると、ソロンはサイスの町ではパテネイト[36]、ヘリオポリスではオクラピ[37]、セベンニュトスではエテモン[38]という神官から知識を得たとされており、プルタルコスが記した神官の名前 (サイスのソンキス、ヘリオポリスのプセノピス)と異なる(Procl.Comm.Tim.31d)。
4.歴史家マルケッルス[39](紀元前1世紀頃に活躍)の『エティオピア誌』(現存せず) によると、大西洋の沖合いにはペルセポネーに捧げられた7つの島と、更に外側のプルトンとポセイドーンとアンモン(アメン)に捧げられた3つの島があり、ポセイドーンに捧げられた島は2番目に大きく、1000スタディオン(約185km)の大きさがあるという。かつては大西洋全域を支配したという広大なアトランティス島の住民の末裔がこの島に住んでおり、アトランティスの文化を継承していると記述している(Procl.Comm.Tim.54f-55a)。
コスマス『キリスト教地誌』アレクサンドロスのコスマス・インディコプレウステス(6世紀中頃に活躍)は『キリスト教地誌』の中で、大地を取り囲む大洋の外を天空を支える大地が取り囲んでいるという地勢観を正統化するために、『ティマイオス』の記述を引用している。プラトンやアリストテレスに褒め称えられ、プロクロスによって注釈をなされているティマイオスによると、ガデイラの西の大洋にあったアトランティス島は10の王国からなり、10世代の間栄えたが、アテナイとの戦争の後に神罰として沈められたとあり、これはまさに天地創造から10世代後に起こったノアの大洪水そのものであり、おそらくティマイオスは、カルデア人から世界最初の歴史家であるモーセの書を知り、大洋の彼方からやって来た10人の王、海の下に消えたアトランティス島、住民を動員した軍隊によるヨーロッパとアジアを征服などといった話を総て創作して付け加えたのだという(Cosmas Indi.Topog.Christ.xii.376–377,381)。また、ソロモン(Solomon)と言う名のエジプト人がプラトンに向かって「ヘレネス(ギリシア人)は常に子供であり、誰も老人(賢者)にならず、またいにしえからの教えも全くない」などと言ったのは、他国のことを知らないギリシア人が自分たちこそが文字や法律を発明したなどと思い上がっているからであり、リュクルゴスやソロンなどといった輩よりも、モーセの方が偉大な立法者であると主張してい(Cosmas Indi.Topog.Christ.xii.379-380)。コスマスはこのように『ティマイオス』に書かれている内容を色々混同して紹介していることから、コスマス本人はプラトンの原文を読んだことが無く、伝聞で内容を知ったと思われる。この時代よりプラトンを含む古代ギリシアの思想は反キリスト的とみなされ、アトランティス伝説も12世紀中頃のホノリウスの著作までしばし忘れ去られる。ホノリウス『世界の模写』オータンのホノリウス(英語版)(1080頃-1156頃)は『世界の模写』の中で、プラトンの名前を引用し、アフリカとヨーロッパを合わせたよりも広い巨大な島が、惨劇により凍った海[40]の下に沈んだことを述べている(Honorius Aug.Imago Mundi i.35)。ホノリウスはカルキディウスのラテン語訳でアトランティス伝説を知ったと思われる。『世界の模写』はラテン語から様々な口語体に訳されており、例えばウィリアム・キャクストン(1420頃-1492)は1489年に 『The Mirrour of the World』という題名で英語訳を出版している。
関連する記述[編集]

ギリシア・ローマ時代の文献[編集]

覇権国家の崩壊伝説をモチーフとした類似の物語は、他の文献にも登場する。
ディオドロス『歴史叢書』シケリアのディオドロスの『歴史叢書』は、同時代のハリカルナッソスのディオニュシオス(Dionysios、紀元前1世紀に活躍)の著作(該当する作品は現存せず)にまとめられたリビアの諸民族に関する内容を参考にしながら、アフリカのに暮らす女人族である アマゾネス人[41]の歴史を記している。トロイア戦争などで黒海沿岸に住むアマゾネスが有名だが、これとは別にアフリカに住んでいたアマゾネスがおり、こちらの方が歴史が古い。アトラス山の近くのアフリカの大西洋側にトリトン川[42]の水が流れ込むトリトニスの湿地帯[43]があり、巨大なヘスペラ島[44]があった。島は様々の農産物と畜産物に恵まれ、また、火山があり、ルビー、紅玉髄、エメラルドなどの鉱物を産した。この島に暮らす諸民族の一つであったアマゾネスは女性上位社会で、男性が家事・子育てをし、女性が政治と兵役を担った。女性は戦闘で乳が邪魔にならないように嬰児のうちに右側の乳房[45]を焼いており、そのためにアマゾネス(乳無し)と呼ばれた。アマゾネスはエチオピア系のイクテュイパゴイ人が暮らす神聖なメネ[46]の町を除き全島を掌握し、続いて湖周辺の諸民族を征圧した。そして、トリトニス島に突き出た半島に、アマゾネスの都ケロネソス[47](ギリシア語で『半島』)を建設した。ミュリナ(英語版)[48]がアマゾネスの女王になると、歩兵3万人、騎兵3,000頭からなる軍勢を組織し、まず近隣のアトランティオイ人(上述)の町ケルネ[49]を破壊し、住民を虐殺した。これを恐れた他の町のアトランティオイ人は降伏し、アマゾネスの支配下に入った。アトランティオイ人は別の女人族であるゴルゴネス人の制圧を女王ミュリナに依頼したが、ゴルゴネス人の地の制圧には失敗した。当時エジプトの王はイシスの子のホロスであったが、ミュリナはエジプト王ホロスと同盟を結び、アラビア人の暮らすシリア、トロス山脈、カイコス川までの大プリュギア地方を戦争により制圧し、キリキア人を支配下においた。また、レスボス島には自分の姉妹の名前に由来する町ミュティレネ[50]を建設したほか、配下の腹心の女将にちなんだキュメ(英語版)[51]、ピタナ(英語版)[52]、プリエネ(英語版)[53]などの殖民市をイオニア海側に建設した。女王ミュリナが難破した際に立ち寄った島には、『聖なる島』サモトラケ[54]と名付けた。やがて女王ミュリナは、トラキアの亡命中の王モプソス(英語版)[55]とスキタイの亡命中の王シピュロス(英語版)[56]の連合軍との戦いに敗れて死に、大多数が戦死したアマゾネス軍はアフリカの地に退却した。その後ペルセウスとその曾孫のヘラクレスにより、それぞれ女人族のゴルゴネス人、アマゾネス人は滅びてしまい、その記念にヘラクレスは柱を立てた。その後トリトニス湖の大西洋に近い側が地震により裂け、湖は消失してしまった(Diod.iii.52-55,Diod.iii.74)。アイリアノス『多彩な物語』アイリアノスは、『多彩な物語』の中で、キオスのテオポンポス(英語版)(紀元前380頃-4世紀末)の史書(該当作品は今日残っていない)に載っていた物語を掲載しているが、もしかしたらテオポンポスの創作かもしれないと断りを入れている。プリュギアの王ミダスがセイレノスと親交を結んだ時、次のような物語がセイレノスの口より紡がれた。<我々の世界を取り巻く彼方の大陸には、我々の世界とは違う生物や文明が存在するが、そこにはマキモス[57](『好戦』)とエウセベス[58](『敬虔』)という対照的な二つの都市国家が存在する。金銀が豊富なマキモスは戦争に明け暮れて多くの部族を支配し、2千万人を下らぬ人口を有していたが、その多くは戦場で石や木製の棍棒で寿命を終えた。ある時マキモスは我々の世界を征服しようと1千万人の軍隊を連れてオケアノスを渡り、ヒュペルボレオイ[59](『極北の人々』)の地を訪れたが、その清貧な生活ぶりに落胆して、軍隊を連れ帰ってしまった。また、彼方の大陸のメロペス人[60]が住む領域に、アノストス[61](戻れぬ地)という場所があり、そこの水を飲むと死んでしまう。>(Ael.V.H.iii.18)
なお、ストラボンは『地誌』の中で、ホメロスの創作を詮無い事と弁護し、歴史家たちの同じような無知を告発する文脈として「テオポンポスが伝えたメロピス地方[62]」に言及している。テオポンポスの史書が実在したことを示すとともに、ストラボン本人はテオポンポスが書き記した一連の大陸の物語を真実とは見なさなかったことを示唆する(Strabo.vii.3.6(p.299))。

出所不明瞭の情報[編集]

ムー大陸[編集]





ディエゴ・デ・ランダ著『ユカタン事物記』に記載されたランダ・アルファベット 画像は1863年にシャルル・エティエンヌ・ブラッスールによって再版されたもの




マドリード(トロ=コルテシアヌス)絵文書
1862年頃フランスの聖職者シャルル=エティエンヌ・ブラッスール・ド・ブルブール(Abbé Charles-Étienne Brasseur de Bourbourg, 1814-1874)は、マドリードの王立歴史学会の図書室でユカタン司教ディエゴ・デ・ランダ・カルデロン(1524-1579)が書き残した『ユカタン事物記』を発見し、 マヤ文字とスペイン語のアルファベットを対照させた表(ランダ・アルファベット)を見出した。ブラッスールはランダ・アルファベットを使ってトロアノ絵文書(後にエルナン・コルテスが所蔵していたとされるコルテシアヌス絵文書と合わせてマドリード絵文書と呼ばれるようになる)をキチェ語で解読し、トロアノ絵文書には「ムー」(Mu)と呼ばれる王国が大災害によって陥没した伝説が描かれており、アトランティス伝説と類似性があると1863年に発表した。今日この翻訳が完全に誤りであったことが証明されているが、この論文により「ムー」という単語が生まれた。

アメリカ合衆国の政治家ドネリーは、ブラッスールによるトロアノ絵文書の解読を新大陸の文明がアトランティス文明の末裔であることの重要な証拠として捉え、大洪水以前に大西洋に存在したアトランティス大陸こそが総ての人類の文明の揺り篭であると 1882年発表の『アトランティス―大洪水前の世界』の中で主張した。この書によりアトランティス伝説の大衆化が進んだ。またジャージー島出身の遺跡写真家として知られるオーギュスト・ル・プロンジョン(英語版)(1825年-1908年)もまたランダ・アルファベットによりトロアノ絵文書を翻訳し、アトランティス大陸崩壊後にムーの女王モーがエジプトに渡り、女神イシスとしてエジプト文明を作ったと主張した。

1930年代にはアメリカ在住の英国人作家ジェームズ・チャーチワード(1852年-1936年)によって太平洋に存在したというムー大陸が主張される。

レムリア大陸と神智学[編集]

レムリアを参照。




代表的な諸説[編集]


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アトランティスの繁栄と滅亡について、それらの直接的なモデルが実在したとする考えは人気のあるもので、多くの説が唱えられてきた。その主たる論点は、「ヘラクレスの柱」解釈をめぐる位置問題とアトランティスを滅ぼしたとされる「洪水」の年代問題の考証である。

なお、一般に学術的にはアトランティスについて直接的モデルとなった歴史的事実が存在するとは考えられていない(つまり単なる伝承か、プラトンによる創作と考えられている)。

地中海説[編集]

サントリーニ島の火山噴火説が現在有力。サントリーニ島は阿蘇山のような巨大なカルデラの島であり、サントリーニ島の爆発による津波によって滅んだミノア王国(ミノア文明)をアトランティスとする。年代、及び位置についてはプラトンの誇張としている。

誇張説とは、プラトンの記録が単位について全て1桁多く誤って記述しているとするもので、エジプトの司祭が100をあらわす象形文字と1000をあらわす象形文字を誤って記録したためという。年代は、プラトンの9000年前でなく900年前ならほぼ一致するし、アトランティスの大きさも記録の10分の1であれば納得できるとされている。

ガラノプロスはアトランティス伝説に登場する「ヘラクレスの柱」が、この場合ジブラルタル海峡を指すのではなく、現在のギリシャ南部にあるマタパン岬--当時の言葉で言えばマレアスとテナロンだとされ、地形上の特性にかなっているという--であると見ている。ガラノプロスはプラトンがアトランティスを青銅器文明だと述べているといい、ミノア文明が青銅器文明であることに合致するという。

また、周辺の海底に文明の痕跡が沈んでいるのが発見されているマルタ島の巨石文明をアトランティスとする説も唱えられている。この説では、暦の違いを把握していなかったプラトンが年代を大きく見積もりすぎたとしており、その点を修正すると、島内の神殿遺跡などと同じ5000年前あたりになるとする。

大西洋説[編集]

プラトンの叙述をそのまま適用すると大西洋にアトランティスがあることになる。しかし大陸と呼べるような巨大な島が存在した証拠はないので、アゾレス諸島やカナリア諸島などの実在する島や、氷河期の終了に伴う海水面の上昇によって消えた陸地部分がアトランティスとされることが多い。

カナリア諸島は、黄金のリンゴがあるというヘスペリデス島のモデルだと考えられている。 多くの古代史家の著作に記載され、グイマーのピラミッドなどの遺跡が発見されていることや10人の王の伝説などから支持されることが多い。

大西洋上には、アゾレス海台に位置するアゾレス諸島があるが、すべて火山島である。元々、アゾレス海台自体がひとつの大きな陸地であったものが、火山の大噴火によって、火山内部に空洞が発生し、その後この空洞が陥没したために海底沈んだという説も出されており、アゾレス諸島は当時の陸地の高山部分であるという説も出されている。

新しいところでは、2013年5月6日、ブラジル・リオデジャネイロの南東1500キロメートル沖にある海面下1キロメートルの海底台地調査において陸地でしか形成されない花崗岩が大量に見つかり、「この海底台地はかつて大西洋上に浮かぶ最大幅1000キロメートルの小大陸であったことが判明した」と、日本の海洋研究開発機構とブラジル政府が共同発表した。ブラジル政府は今回の調査結果について「伝説のアトランティス大陸かもしれない陸地がブラジル沖に存在していた重要な証拠」と強調した。日本とブラジルは、今後さらにこの海底台地を調査するとしている。

旧約聖書にあるタルシシュをアトランティスと見なす説も根強い。タルシシュはイベリア半島にあったとされるタルテッソスであると考えられており、現在ドニャーナ国立公園となっている。現在は湿地原として知られているが、古代は島であり、心部に遺跡が確認されている。海の民の拠点の一つという説もあり、高度な文明を持つ侵略国家というアトランティスのイメージとも合致する。ただし年代に関しては、大きな問題が残る。

この他、イギリス説もしばしば指摘される。ブリテン島やアイルランド、アイリッシュ海に沈んだ島など様々な候補がある。アイルランドにはケルト人の伝承として、イスの海没の伝説がある。

一方、アメリカ大陸がアトランティス島であるという説も根強い人気がある。マヤ文明や、近年ではアマゾン文明の発見がなされる中で、その文明がアトランティスに当たるのではないか、という説もある。

大西洋沿岸を生息域とする生物の一部には、奇妙な習性を持つものもいるが、その原因として、巨大な陸地(=アトランティス)の沈没を上げる説が出されている。

プレートテクトニクス理論に基づく大西洋説[編集]

現在の構造地質学、すなわちプレートテクトニクス理論に基づくと称する説もある。これは、大西洋の両岸の海岸線を近づけてもキューバのあたりで大きく隔たりがあることに意味があるとして、これを「何かが沈んだ空白地帯」と主張するものである。この「空白地帯」は大陸よりずっと小さいが日本列島ぐらいの規模はあり、ここにアトランティスがあったとする。[要出典]あるいは、大陸移動前の南北アメリカ大陸とユーラシア大陸、アフリカ大陸がひとつであった時代、大陸棚がぴたりと一致するのは南アメリカ大陸とアフリカ大陸の海岸線だけであり、ヨーロッパ、アフリカ、カナダの間の北大西洋上には、空間ができるが、これが沈没した陸地であるとの説もある(「アトランティスの沈んだ日」クラウス・グレーバー)。なお、アトランティスの大きさについては、プラトン自身もリビアとアジア(当時のギリシャ人の考えるアジアは、アナトリア半島の事である)を合わせた大きさであると書いており、大陸というより大きな島サイズである。

南極説[編集]

オカルト雑誌ライターの南山宏が提唱する説で、ポールシフト(地球の自転軸移動)以前の南極大陸こそがアトランティスであるという説。この説の特徴は「アトランティスは沈んでいない」ので構造地質学的な問題が全く発生しないとされている点であるが、そもそも大陸の気候帯が急激に変動するような自転軸移動自体が地質学的にありえないとされているので大陸沈没同様荒唐無稽な説である(詳細はポールシフトの項を参照)。

なお、南極大陸から恐竜などの温暖な気候帯の生物の化石が発見されているのは事実であるが、プレートテクトニクスでは何万年もかけて大陸が移動した証拠とされている。

大海進説[編集]

紀元前9560年頃にアトランティスが海中に沈んだとするのは、氷河期の終焉による海面の上昇とかつての陸地の水没を指すとする説。五島勉のアスカ超古代文明説もこの説の一種といえ、最近ではスンダ古大陸文明説、沖縄古大陸説などもこの系統から派生している。

インド説[編集]

「アトランティス大陸の正体はインド亜大陸であり、沈んだのではなくて、運河が通航できなくなったがために通交が不能になった[要出典]」とする説。[注 14]

科学的研究[編集]
1939年 - ギリシアの考古学者マリナトスが、クレタ島の北岸に位置するアムニソスにある宮殿を調査。宮殿の崩壊が津波によるものであることを発見。同時に火山灰が厚く堆積していることも確認した。
1956年 - アテネ大学の地震学者ガラノプロスがサントリーニ島を調査。炭素14法で、島の噴火が紀元前1400年ごろであることが分かった。
1967年 - マリナトスがサントリーニ島の南端に位置するアクロテリで火山灰の中から宮殿を発見。クレタ島とサントリーニ島が、あわせてミノア王国であったとするフレスコ画を発見。
2013年5月6日、日本の海洋研究開発機構と、ブラジル政府は、「しんかい6500」を使用した調査において、リオデジャネイロ沖の大西洋で、陸地でしか見られない花崗岩が大量に見つかったと発表した。ブラジル政府は、「伝説のアトランティス大陸のような陸地が存在した極めて強い証拠」と発表している[63]。

エジプト文明との関係の指摘[編集]

『エメラルド・タブレット』は「エジプトのギザの大ピラミッドの中から発見されたとの伝説をもつが、これには歴史的に伝承されたものと近年モーリス・ドリールにより発見された「世界最古の書籍」である原本と称するものがあり、その原本には、その著者はアトランティスの祭司王トートであり、タブレットIの文頭にて『われアトランティス人トートは、諸神秘の精通者、諸記録の管理者、力ある王、正魔術師にして世々代々生き続ける者なるが…』と書かれているといわれている。

また、グラハム・ハンコックの『神々の指紋』によれば、原本にはギザのピラミッドはトートが造ったとも記載されていることからエジプト文明の源流がアトランティスにあることも推測ができるとしている。

ただし原本のエメラルド・タブレットは、原史料の公開もなく他に写本もないことから学者からはその正確性を疑問視されている。

フィクションへの影響[編集]





ジュール・ヴェルヌ作『海底二万里』中のアトランティスの遺跡の挿し絵(1869年)『アトランティード』 - ピエール・ブノアの冒険小説(1918年)。アトランティスの所在を北アフリカに求めた作品で、サハラ砂漠に潜むアトランティス人の末裔を描いた。
『マラコット深海』 - コナン・ドイルのSF小説(1929年)。大西洋の深海に潜った生物学者一行が海底都市で生き延びていたアトランティス人たちと遭遇する。
『謎の大陸アトランティス』- 1961年制作のアメリカ映画。高度な文明を誇ったアトランティスは世界征服を企むが、神の怒りに触れ、一夜にして大海に没する。ジョージ・パル監督によるスペクタキュラーなSFXシーンが見物の冒険活劇。
『指輪物語』- 作品中のヌーメノールはトールキンによるアトランティス伝説の変形である。
『アトランティスから来た男』- 1977年から1978年にかけてアメリカ・NBCで製作放映されたのSF海外ドラマ。主人公マーク・ハリスは海棲人類でアトランティス大陸の最後の生き残りであるという設定。
『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍) - アトランティスは惑星開発委員会による意図的な開発であり、高度な科学文明を有していた。海中に沈んだ後はエジプトに過去の文明を伝えながら遺民が生活している。プラトンが登場し、アトランティスの文明について調査旅行を行う。
『海底二万里』- ジュール・ヴェルヌの古典的SF小説。潜水艦小説のはしりでもある。作中でアトランティスの海底遺跡が登場。記事冒頭のイラストは初版の挿絵である。
『海のトリトン』 - 手塚治虫の漫画作品あるいは海洋冒険アニメ。1972年に放送され、アニメブームを経てからは1979年に劇場公開された。アニメではトリトン族の滅亡はアトランティス人とポセイドン族のストーリーが書かれ、原作版では一部、ムー大陸の事が書かれている。
『ふしぎの海のナディア』 - ガイナックスによるSFアニメ。1990年にNHK総合で放送された。主人公ナディアはアトランティス人の末裔であり、アトランティス復活を狙う秘密結社ネオアトランティスに追われている。「原案『海底二万里』」を謳い、『神秘の島』にも影響を受けている。
『アトランティス 失われた帝国』 - ディズニーによるアニメ映画。
『風の大陸』 - 竹河聖のファンタジー小説。一万年以上前のまだアトランティスが沈んでいなかった時代を描いた仮想歴史小説。『巡検使カルナー』など時代を違えたシリーズ作品も複数ある。
次の3作品はムー大陸と対になって登場。いずれもムーが主人公側、アトランティスが敵側という傾向にある。 『ムーの白鯨』- 東京ムービー制作のテレビアニメ。アトランティス人は好戦的な山の民とされる。
『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』-大西洋にある海底の国としてムー(太平洋)とともに登場する。
『太陽の子エステバン』- NHK総合で放送された冒険SFアニメ。終盤での敵オルメカ人はアトランティスの末裔とされる。

昭和『ガメラ』 - エスキモーの伝説に伝わる古代アトランティスの怪獣とされている。
平成『ガメラ』 - アトランティス人が生み出した巨大生命体とされている。
『電撃戦隊チェンジマン』 - 現生の地球人はアトランティスに植民したアトランタ星人と原住の人類との雑種という設定。
『イリヤッド-入矢堂見聞録-』 -東周斎雅楽原作、魚戸おさむ画の本格考古学アドベンチャー・ロマン漫画。アトランティス伝説の謎へ挑む考古学者に、秘密結社“山の老人”の影が忍び寄る。2002年よりビッグコミックオリジナルに連載。
『天空のエスカフローネ』 - 1996年にテレビ東京で放映された全26話のテレビアニメ。物語の舞台になったのが、地球で生き残った古代アトランティス人が作り出した惑星ガイア。
『スターゲイト アトランティス』 - 2004年より米国にて(日本では2006年より)放送されているSF TVドラマ。アトランティスの人々はエンシェントと呼ばれる超古代文明を擁する種族で遥か昔に地球を離れ、ペガサス銀河へ移住し、大部分がアセンション(昇天)したということになっている。
『アトランティス7つの海底都市』 - ケヴィン・コナー監督によるSF映画(1978、英)。アトランティスを築いたのは地球人ではなく、火星人だったと言う、荒唐無稽ながらユニークな設定となっている。大ダコを始めとする数々の怪獣の登場も見所。
『黄金バット』- 昭和初期に紙芝居として描かれたヒーロー。戦後にデザインが現在の形にリニューアルされた際、主人公・黄金バットの出自がアトランティスの守護神という設定にされた。また、この設定はこの作品を原型とした漫画『ワッハマン』でも受け継いでいる。
『ネイモア・ザ・サブマリナー』- アメリカのコミック社マーベル・コミックから、沈没したアトランティス王国の王子ネイモアが活躍するヒーロー作品が発行されている。
『小須田部長』(『笑う犬』シリーズのコント) - アトランティス大陸アトランティス2丁目から来た「アトラン太郎」くんのハガキを元に懸賞品を届けると言う名目でアトランティスを捜索し、ついに小須田はアトランティス大陸を発見し、そこに引っ越すことに。郵便物は宇都宮の管轄だったらしい。しかも太郎くんの家は餃子屋で「アトラン餃子」という名物を販売していた。
『ヘラクレスの栄光IV 神々の贈り物』- 1994年に発売されたスーパーファミコン用ゲームソフト。物語の始まりの地が「アトランティス」というアトランティス大陸がモデルの国。
『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』-かつてデュエルモンスターズが関わった戦いによって海底に沈んだが、一万年後によみがえると遺跡に記されている。また、秘密結社ドーマはこの大陸の力を使っている。
『空想科学世界ガリバーボーイ』-芦田豊雄、広井王子原作のロールプレイングゲームおよびSF冒険アニメ。いずれも1995年に発売、放送された。アトランティスを題材としているアニメ作品としては珍しく、地中海説を採用している。
『アドナ妖戦記』-嵩峰龍二のシリーズ小説。一夜にして海中に没した「運命の夜」から四千年前のアトランティス大陸が舞台。
『アトランティカ』-2008年よりサービスが開始されているオンラインゲーム。プレイヤーはアトランティスの末裔として、かつて世界中を混乱に陥れたアトランティス文明の謎を解いていく。

グーグル・アースによる探索[編集]

グーグル・アースの第5.0版で海底の地形が確認できるようになり、「31 15'15.53N 24 15'30.53W」の位置に人工的なグリッド線が見つかった。一部ネット上で、これはアトランティス大陸の痕跡ではないかとの騒ぎになった。グーグル社の会見では、これはソナーをつけたボートの軌跡が撮影されたものであるとしている。

脚注[編集]
注1.^ 古代ギリシア語の古典ギリシア語: θάλασσαタラッサ(=海)や古典ギリシア語: νη̃σοςネーソス(=島)は女性名詞である
2.^ ここで言う「柱」とはヘラクレスの柱のことである。
3.^ 羅: Atlanticum Mare、英語 Atlantic (Ocean) など。
4.^ ハンノの航海の記録はカルタゴのバアル・ハンモン神殿に青銅板に刻まれて奉納されていたが、カルタゴの滅亡と共に現物は失われており、『カルケドン王ハンノによりクロノス神殿へ奉納された、ヘラクレスの柱の彼方のリビュアの地の航海に関する記述』というギリシア語抄訳で現在にその内容が伝わっている。ケルネ島(現在の西サハラのダフラ)に植民市を建設したことや、その他後世に乱雑に引用されるアフリカ西岸の地名が伝わる。
5.^ プトレマイオスが『地理学』を記述するに当たり基準として設定した本初子午線は、当時西の果てと考えられていたカナリア諸島であり、グリニッジ子午線より西へ約20°ずれている。グリニッジ基準の東経とプトレマイオス記載の経度では、実際は地中海世界内で約30°ほどずれている。
6.^ このクリティアスは、アテナイの三十人僭主として独裁政治を行った、プラトンの母親の従兄のクリティアス(紀元前460頃-403)であるとする説が従来有力であり、スコットランドの古典学者ジョン・バーネット(英語版)によってプラトンの曾祖父説が脚光を浴びるようになった。詳しくはクリティアス (プラトンの曾祖父)参照。
7.^ 『ヘルモクラテス』という続編の存在について唯一触れているのが、カルキディウスの『ティマエウス注解』で、ソクラテス(プラトンはソクラテスの言葉・思想をそのまま書き残したと考えられていた)は『国家』の続編として『ティマイオス』、『クリティアス』、『ヘルモクラテス』という連作を作ったと言及している(Calcidius,In Tim.6)。しかしながら、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』によると紀元前2世紀の段階で既に『ヘルモクラテス』という作品は存在しなかったことが示唆されている(Diog.Laert.iii.61-62(s.37))。
8.^ 病欠した人物はプラトンだとする説もあるが、当時のプラトンはまだ子供である。もっとも敵国の有力者同士がこのような対談をするはずがなく、あくまでもプラトンの創作の架空対談であり、病欠した人物というのは対談に真実味を出すためのプラトンの文学的テクニックであるとする解釈も一般的である。
9.^ この部分は(1)エジプトが建国されてから8000年、(2)ネイトを保護神とするサイスの町が建設されてから8000年、(3)サイス王朝が建国されてから8000年、の三通りの解釈がされて来ており、特にアトランティス伝説としては「アトランティスはエジプトの歴史よりも古い」という(1)の解釈が広まっているが、文中では神官がアテナイと「我々の」都市の制度の比較をし、サイスとアテナイを建設したとされるアテナの偉業を讃え(Pl.Tim.24a-24d)、エジプトが有史来正確に歴史を伝えていることを強調していることから(Pl.Tim.21b-22b)、(2)の解釈が一番妥当である。
10.^ 運河の長さが50スタディオンだとすると、海岸から中央のアクロポリスまでの距離は50 + 3 + 3 + 2 + 2 + 1 + 5/2=63.5スタディオンということになり、海岸からアクロポリスまでの距離(50スタディオン)、(Pl.Criti.112c)町を取り囲む城壁の半径(50スタディオン)(Pl.Criti.117e)などの記述と矛盾する。
11.^ これらの記述から大平原は東西3000スタティオン、南北2000スタディオンの長方形で、アトランティスの都はこの長方形の大平原の南端に位置し、海岸線との間に挟まれていたことになる。大運河の水がアトランティスの都の海水路に注いでいるのなら、都の一番外側の海水路の北側と大運河を結ぶ水路が存在しているはずであるが、都を迂回する形の河が流れていたことも考えられる。なお、2000スタディオンの幅を「平原の」中央から海までの距離と解釈し、歪な四角形(例えば東西の辺が3000と4000スタディオン、南北の辺が1000と2000スタディオン)を描く考えもあるが、徴兵制度の項目で説明で説明される平原の面積(600万平方スタディオン)と合致しない(Pl.Criri.119a)。
12.^ 紀元前593年頃にソロンがエジプトを旅したとなると、アマシス王の時代(紀元前570-526)とするプラトンの文章と矛盾する(Pl.Tim.21e)。
13.^ カルキディウスのラテン語訳は12世紀以降欧州で読まれるようになったが、特に『ティマイオス』に登場する宇宙論については詳しい解説を残しており、ヨーロッパ中世の宇宙論の基礎の一つとなった。但しカルキディウスはアトランティス伝説の部分に関しては翻訳をしただけで、解説は残していない
14.^ 実際に古代エジプトにも、ナイル川から紅海へ抜ける運河が存在した(中国・隋代の京杭大運河に比べれば総延長は遥かに短く、技術的には不可能ではなく、トンデモ説の類いではない)のだが、常に浚渫工事を行わないと砂に埋もれてしまうがために、放置されて使い物にならなくなったのである。プラトンの記述の「島が沈んだ際にできた浅い泥によって妨げられ、今なお航海も探索もできなくなっている。」という箇所に着目した説である。しかしながら古代エジプトの運河は、紀元前270年ないし269年にプトレマイオス2世が閘門つき水門を設置したという記録があり、これはプラトンよりも後世の出来事であるため、年代的な矛盾がある。[要出典]
出典、原語
1.^ 古典ギリシア語: Тίμαιος
2.^ 古典ギリシア語: Κριτίας
3.^ 英: Atlantis, the Antediluvian World
4.^ Hanno、紀元前5世紀頃
5.^ 1世紀に活躍
6.^ 古典ギリシア語: Λίξιται
7.^ 古典ギリシア語: Ἀτλαντικός πελαγος、大西洋
8.^ 古典ギリシア語: Κέκρωψ
9.^ 古典ギリシア語: Ἐρεχθεύς
10.^ 古典ギリシア語: Ἐριχθόνιος
11.^ 古典ギリシア語: Ἐρυσίχθων
12.^ 古典ギリシア語: Εὐήνωρ
13.^ 古典ギリシア語: Λευκίππη
14.^ 古典ギリシア語: Κλειτώ
15.^ 古典ギリシア語: Εὔμηλος
16.^ 古典ギリシア語: Γάδειρος
17.^ 古典ギリシア語: Ἀμφήρης
18.^ 古典ギリシア語: Εὐαίμον
19.^ 古典ギリシア語: Μνησεύς
20.^ 古典ギリシア語: Αὐτόχθον
21.^ 古典ギリシア語: Ἐλάσιππος
22.^ 古典ギリシア語: Μήστωρ
23.^ 古典ギリシア語: Ἀξάης
24.^ 古典ギリシア語: Διαπρεπής
25.^ 古典ギリシア語: μητρόπολις
26.^ 古典ギリシア語: Ψένωφις
27.^ 古典ギリシア語: Σω̃γχις
28.^ 古典ギリシア語: λόγος、論理
29.^ 古典ギリシア語: μυ̃θος、寓話
30.^ 古典ギリシア語: θαλάττιος κρἱός
31.^ 羅: atlanticum mare
32.^ 古典ギリシア語: Ἀτλαντικόν
33.^ 羅: Atlantica Neptuni
34.^ 古典ギリシア語: περἱ φύσεως
35.^ 古典ギリシア語: Ἀτλαντικός
36.^ 古典ギリシア語: Πατενεΐτ
37.^ 古典ギリシア語: Ὀχλα̃πι
38.^ 古典ギリシア語: Ἐθήμων
39.^ 古典ギリシア語: Μαρκελλός
40.^ 羅: concretum mare
41.^ 古典ギリシア語: Ἀμαζόνες
42.^ 古典ギリシア語: Тρίτων
43.^ 古典ギリシア語: Тριτωνίς
44.^ 古典ギリシア語: Ἐσπέρα
45.^ 古典ギリシア語: μαστός
46.^ 古典ギリシア語: Μήνη
47.^ 古典ギリシア語: Χερρόνησος
48.^ 古典ギリシア語: Μύρινα
49.^ 古典ギリシア語: Κέρνη
50.^ 古典ギリシア語: Μυτιλήνη
51.^ 古典ギリシア語: Κύμη
52.^ 古典ギリシア語: Πιτάνα
53.^ 古典ギリシア語: Πριήνη
54.^ 古典ギリシア語: Σαμοθράκη
55.^ 古典ギリシア語: Μόψος
56.^ 古典ギリシア語: Σίπυλος
57.^ 古典ギリシア語: Μάχιμος
58.^ 古典ギリシア語: Εὐσεβη̃ς
59.^ 古典ギリシア語: Ὑπερβορέοι
60.^ 古典ギリシア語: Мέροπές
61.^ 古典ギリシア語: Ἄνοστος
62.^ 古典ギリシア語: Мεροπίς
63.^ “大西洋にアトランティスの痕跡? しんかい、陸特有の岩発見”. 共同通信. (2013年5月6日). オリジナルの2013年5月8日時点によるアーカイブ。 2013年5月7日閲覧。
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レムリア

レムリア (英語: Lemuria) は、イギリスの動物学者フィリップ・スクレーター(1829年 - 1913年)が1874年に提唱した、インド洋に存在したとされる仮想の大陸説[1][2]。

また、オカルト系の書物において同一名称の大陸が登場するが、上記の動物学の仮説とはまったくの別物である。



目次 [非表示]
1 科学
2 オカルト 2.1 大陸

3 タミル人の伝える水没した陸地
4 創作物・オカルト 4.1 レムリアを扱った作品

5 脚注
6 参考文献
7 関連項目


科学[編集]

アフリカのマダガスカル島にはキツネザルが生息しており、この仲間は世界中でここからしか知られていない。しかし化石種がインドから発見されており、また近縁の原猿類はこの島を挟んでアフリカ中部と東南アジアのマレー半島・インドネシアにのみ生息する。このようにインド洋を隔てた両地域には近縁な生物が見られる(隔離分布)。

これを説明するために、スクレーターは5000万年以上前のインド洋にインドの南部、マダガスカル島、マレー半島があわさった大陸が存在したのではないかと考え、キツネザル(レムール、Lemur)にちなみ「レムリア大陸」と名付けた[3][4][5]。また、ドイツの動物学者エルンスト・ヘッケルは自著『自然創造史』 (Natürliche Schöpfungsgeschichte) でレムリア大陸こそ人類発祥の地であると主張した[6]。そのほかにも一部の地質学者がインド洋沿岸地域の地層の構造が酷似していることから似たような説を唱えている。

しかし、インド洋を含め、大洋によって隔てられた地域間の生物相の類似については、1912年の気象学者アルフレート・ヴェーゲナーの大陸移動説によっても説明がなされた。当初はレムリア大陸説をはじめとする陸橋説が優勢だったが、1950年代より大陸移動説が優勢となった。1968年にプレートテクトニクス理論の完成により大陸移動説の裏付けが確実なものとなり、レムリア大陸説は否定された[7][8]。

オカルト[編集]

レムリア大陸説は、神智学協会創設者の1人、ブラヴァツキー夫人によって1888年に刊行された著書『シークレット・ドクトリン』において登場した[9]。レムリアは大陸であり、大陸が存在した位置はインド洋ではなく太平洋にあると発表し、神秘学者達の間では高い支持を得た[9]。また、レムリア大陸における文明が地球上の他の文明より盛んであった時代は、第3根本人種、レムリア時代などと呼ばれるなどと述べた[10]。天帝サナト・クマラが金星より、地球における神(ロゴス)の反映になる任を司るために、1850万年前に「大いなる犠牲」としてエーテル界に顕現されたのが、このレムリア時代であると主張した[11]。サナト・クマラが地球に顕現された事により、動物人間の状態であった人類は、本当の意味での魂のための器[12]として完成し、この時代に、肉体とエーテル体は完全に結び付いた、などと主張した。

大陸[編集]

レムリア大陸は最大時には太平洋をまたがって赤道を半周する、現在のユーラシア大陸と同位の面積があったが、およそ7万5千年という長い年月にわたる地殻変動により大半が減少し、最後には日本の東方にオーストラリア程度の大陸が2つ残り、やがて完全に沈没したと説かれた[13]。

沈没期の最後に残った2つの大陸の事をムー大陸とレムリア大陸とに別ける神秘学者や秘教学者もいるが、最初の巨大大陸時をムー大陸と呼ぶ者もいる。ジェームズ・チャーチワードはムー大陸の起源をレムリア大陸であるとした[9][14]。どちらの大陸も同一の霊的背景にある事は、多くのアカシック・リーディングに依る書物で説かれ、文明の終期にはラ・ムーが指導者に当たっていた事が説かれている[13]。

アメリカ合衆国の著作家バーバラ・ウォーカーは、伝説上の大陸名の「レムリア」とは、本来は「レムレスの世界」、すなわち「亡霊の世界」のことを意味していた、と自書で述べている[15]。

現在においては、オカルトおよびニューエイジ界に幅広く影響を与えており、プレアデス星団の人々との関わりや、レムリア人の現代への転生、レムリア人が水晶として転生した「レムリアン・クリスタル」等が信じられている[要出典]。

タミル人の伝える水没した陸地[編集]





クマリ・カンダムの位置。動物学の仮説におけるレムリア大陸と同一視されている
タミル人が古代に著したサンガム文学の叙事詩や中世の伝説などには、海中に没した王国がしばしば登場する。今日のタミル人の間ではこの王国はクマリナドゥ(Kumarinadu)またはクマリ・カンダム(Kumari Kandam)と呼ばれている。19世紀末から20世紀初頭にかけて、タミル人民族主義者の間ではクマリ・カンダムとレムリアを同一視し、レムリア人が人類の文明を築き、その末裔がタミル人だとする超古代文明説が唱えられていた。[要出典]

創作物・オカルト[編集]

アトランティス大陸説のようにプラトンの著作に代表されるような文献は、レムリア大陸および文明説では存在しない。しかし、それが逆に舞台設定の自由度を高め、創作物の舞台に設定されることがある。たとえばロバート・E・ハワード[16]やリン・カーター[17]は、古代レムリアを舞台とした作品を書いた 。また、ラブクラフトの『クトゥルー神話』においてもしばしば言及される[18]。

また神智学系の多くの書物において、ムー大陸=レムリア大陸説が主張され、その位置については太平洋にユーラシア大陸と同位の大陸が存在したと説かれる[19]。当然ながら太平洋に存在したと説く以上は、動物学上の疑問点を解決する学説としてかつて提唱されたレムリア大陸とは、全く関係無い事になる。

レムリアを扱った作品[編集]
『はるかなるレムリアより』(高階良子:講談社 ISBN 4-06-260593-7)
『レムリアン・サーガ』シリーズ(リン・カーター:ハヤカワ文庫)
神聖紀オデッセリア(ゲーム/スーパーファミコン):ビック東海
スーパースターフォース(ゲーム/ファミコン):テクモ
黄金の太陽(ゲーム/ゲームボーイアドバンス):キャメロット
Ever17 -the out of infinity-(ゲーム/DC、PS2、PC、PSP、XBOX360):KID/5pb./サイバーフロント

ヘレナ・P・ブラヴァツキー

ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー (Helena Petrovna Blavatsky)、1831年8月12日 – 1891年5月8日) は、神智学を創唱した人物で、神智学協会の設立者。

著書の訳書はH・P・ブラヴァツキーかヘレナ・P・ブラヴァツキーとして出ている。通称ブラヴァツキー夫人。ブラバッキーと誤記されることもある。ドイツ/ロシア系で、ロシア語でのフルネームはエレーナ・ペトローヴナ・ブラヴァーツカヤ (Елена Петровна Блаватская, Eelena Petrovna Blavatskaya) である(ブラヴァーツカヤはブラヴァーツキーの女性形)。旧姓フォン・ハーン (von Hahn)。

神智学はキリスト教・仏教・ヒンドゥー教・古代エジプトの宗教をはじめ、さまざまな宗教や神秘主義思想を折衷したものである。この神智学は、多くの芸術家たちにインスピレーションを与えたことが知られている。例えば、ロシアの作曲家スクリャービンも傾倒したし、イェイツやカンディンスキーにも影響を与えた。

ロシア首相を務めたセルゲイ・ヴィッテ伯爵は従弟である。2人の共通の祖母が、名門ドルゴルーコフ家の公女にして博物学者のエレナ・パヴロヴナ・ドルゴルーコヴァである。



目次 [非表示]
1 生涯 1.1 幼少期
1.2 結婚後
1.3 在米期
1.4 在印期

2 年譜
3 著書
4 関連書
5 脚註
6 関連項目
7 外部リンク


生涯[編集]

幼少期[編集]

1831年ウクライナ・エカチェリノスラフ(現ドニプロペトロウシク)にて、ドイツ系貴族で騎兵砲撃隊長のペーター・フォン・ハーンを父として、ロシアの名門出身で女権主義者で小説家のヘレナ・アンドレヤヴナ・フォン・ハーンを母として誕生。

幼いころから精霊や賢者の存在を信じていたという。性格的には激しい気性の持ち主であったという。1844年には父親とともにパリとロンドンに行き音楽教育を受け、ピアノ演奏などを習得した。

結婚後[編集]

1848年、アルメニアのエリヴァン地方副知事の職にあり、20歳以上も年上であったニキフォル・ブラヴァツキー将軍と結婚した。結婚は長続きせず、数ヶ月で家を出て何度も住まいを変えた。この夫婦のケースでは法律上離婚が困難であり、エレナもブラヴァツキー夫人という名で呼ばれることを選んだ。

以降、世界各国を放浪し様々な職業についた。エジプトに行き心霊協会を組織してみたり、パリではイギリス出身の高名な霊媒のダニエル・ダングラス・ホームの助手となり自らも霊媒の素養を身につけた。またフランス系のフリーメイソンのメンバーとも交流したという。またこの時期にインドにも行ったという(のちに自身の著書で「1856年から7年間チベットに滞在し、導師たちの教えを受けた」と記述しているが、状況や彼女の他の年譜とも矛盾し、これについては信じがたい)。

在米期[編集]





1875年
そして1873年にはニューヨークにたどり着いた。

1874年、ヴァーモント州チッテンデンで行われていたエディ兄弟の降霊会において、ヘンリー・スティール・オルコット大佐と出会った。1875年、オルコットはエジプトのルクソール同胞団に所属する“トュイティト・ベイ”なる人物から手紙を受け取るようになった。ここで登場するトュイティト・ベイは後に神智学の「マハトマ」という概念に変化してゆくことになる。これは意味としてはおおむね“古代から継承されている霊知を少数の賢者にのみ伝える未知の上位者”を意味しており、こうした発想というのは元をたどるとフリーメーソンの厳格戒律派やイギリス薔薇十字協会などに見られたものである。 

1875年9月7日、ブラヴァツキー夫人の自宅にて、ジョージ・フェルトを講演者とし「エジプト人の用いた比率の失われた基準」と題した講演が行われた。





ブラヴァツキー夫人とオルコット大佐
1875年11月17日、神智学協会を正式に創設。初代会長には、オルコット大佐が就任し、協会の運営を取り仕切ることになった。副会長はジョージ・フェルト、図書室司書はチャールズ・サザラン(フリーメイソンのメンバーでイギリス薔薇十字協会会員)、評議員に霊媒のエマ・ブリテン、”交信秘書”としてブラヴァツキー夫人、顧問弁護士としてW.Qジャッジ(この人物は後にアメリカ神智学協会会長になる)、という構成であった。設立当初は相当活気があったという。 1877年に Isis unveiled 『ベールを取られたイシス』(ベールをとったイシス )を出版。ここで説かれた内容は、イシス密儀のような古代の霊知を復興することで真の霊性を養うことや、ドグマ化したキリスト教と唯物論化したscienceの害を排することや、心霊主義は止めるべきだ、ということである。ブラヴァツキー夫人は、心霊主義とは異なる霊魂観を持っていて、人間は死とともにそのアストラル体のほうは分離し しばらくの間アストラル界にとどまるとし、真我のほうはブッディ=アートマと結びついて休息的待機状態に入る、とした。そして心霊主義において霊媒が交信しているとしているのは真我のほうではなく ”アストラル体の殻”にすぎない、と語った。

神智学協会のメンバーでキリスト教の教えを重視する人や心霊主義を重視する人は結局、協会を離れてゆき、活動は停滞することになった。

在印期[編集]

インドへ移動し再起をはかることにし、1878年12月19日に蒸気船で一行はニューヨークからロンドンへ移動。1879年1月3日到着。イギリスにて短い滞在期間ながらイギリス神智学協会の会員らと交流した後、リヴァプールから出港、インドのボンベイへと向かい、2月16日に到着。翌17日には歓迎会が盛大に開かれた。

インドでは歓迎された。19世紀はヨーロッパ列強がアジア・アフリカを植民地化し蹂躙してゆく時代であった。1877年にはイギリスのヴィクトリア女王が ”インド皇帝 ”に就任した。イギリスは、他の列強諸国が暴力主義的になりすぎ失敗したことを他山の石として、土着の文化を尊重しつつ内面からも支配するという巧妙な方針を採用した。とはいうもののイギリス文化やキリスト教を上位に位置づけようとしていた面は多々あり、インドの人々は違和感を覚えていた。そこに神智学という、キリスト教を拒否し、インド思想を教義にとりこんだ神智学協会が登場したのでインド人たちはそれを歓迎したのである。特にアーリヤ・サマージの人々からは歓迎された。

インドの地において神智学にはより多くのインド思想が導入されてゆくことになった。インド人の神智学協会会員のダモダールやスッバ・ロウなどが協力し、ヒンドゥー教や仏教から様々な教えがとりこまれた。ただし、理解や導入に限界はあり、西洋の神秘学との折衷的な手法が採用された。理解できたり、利用できる思想は取り込むものの、それができない部分はカバラーや新プラトン主義などの考え方で補完する、ということをしたのである。

1884年にSPRのリチャード・ホジソンがインドに赴いて執拗な調査を行い、神秘的な現象がトリックであると結論づけたホジソン・レポート(英語版)が1885年に公表された。これによりブラヴァツキー夫人が詐欺師であるというレッテルが貼られることになった。後の1986年に英心霊現象協会は、ホジソン報告は同社団の正式な手続きによるものではなく、ブラヴァツキー夫人は偉大な霊能家であったという文書を発出している(個人文書扱いにしたということ)[1]。

[icon] この節の加筆が望まれています。

年譜[編集]
1831年ウクライナ・エカチェリノスラフ(現ドニプロペトロウシク)にて、ペーター・フォン・ハーンを父として、ヘレナ・アンドレヤヴナを母として誕生する。
1848年、20歳以上も年上のニキフォル・ブラヴァツキーと結婚。だが、3ヶ月もたたずに出奔。
以降、世界各国を放浪、様々な職業につき、イギリス出身の高名な霊媒のダニエル・ダングラス・ホームの助手となり霊媒の技術を身につける。
1873年、アメリカ国民となり、神秘主義作家、神秘思想家として活動。
1875年11月17日、ニューヨークに「神智学協会」を創設し、神智学協会の初代会長には、ヘンリー・スティール・オルコットが就任した。
1877年Isis unveiled『ヴェールを脱いだイシス神』執筆。
1879年、アーリヤ・サマージの運動に共鳴し、神智学協会の本部はインドのアディヤールに移転。神智学協会の機関紙として『ザ・セオソフィスト(神智学徒)』と『ルシファー』を刊行。クートフーミ導師(マハトマ)とモリヤ導師教えを受けたと主張しはじめる。大師(マスター)から物質化した手紙を受け取っているともしていたが、疑問に思う人も存在し、物議をかもしていた。
1884年イギリスSPRのリチャード・ホジソンにより神智学協会を解雇された女性の報復に基づいて、留守中に心霊現象の真偽を調べられる(1885年にホジソン・レポート(英語版)が公表される)。
1884年イギリス、ロンドンに移動した。
1888年『秘密教義(シークレット・ドクトリン)』を執筆。
1889年『神智学の鍵』執筆。
1889年『沈黙の声』執筆。

晩年には秘教部門を神智学協会の中につくり、神智学の教えの最重要部分を神智学協会の中枢の会員に伝授したと主張した。
1891年5月8日死去。

著書[編集]





執筆中のブラヴァツキー夫人H・P・ブラヴァツキー 『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論 上』 竜王文庫 ISBN 4-89741-317-6
H・P・ブラヴァツキー 『神智学の鍵』 竜王文庫 ISBN 978-4-89741-316-7
H・P・ブラヴァツキー 『沈黙の声』 竜王文庫 ISBN 4-89741-001-0
H・P・ブラヴァツキー 『実践的オカルティズム』 竜王文庫 ISBN 4-89741-319-2
H・P・ブラヴァツキー 『夢魔物語』 竜王文庫 ISBN 978-4-89741-321-1
H・P・ブラヴァツキー 『ベールをとったイシス 第1巻』 竜王文庫ISBN-10: 4897416000
H・P・ブラヴァツキー 『インド幻想紀行 ヒンドスタンの石窟とジャングルから』 ちくま学芸文庫 ISBN 978-4-480-08754-6
ヘレナ・P・ブラヴァツキー 『シークレット・ドクトリンを読む』 出帆新社 ISBN 978-4-915497-72-8
H・P・ブラヴァツキー『ブラヴァツキーのことば365日』ウィニーフレッド・パーレィ編纂 アルテ ISBN 978-4434135996

関連書[編集]
ハワード・マーフェット 『H・P・ブラヴァツキー夫人 - 近代オカルティズムの母』 田中恵美子訳 竜王文庫ISBN 4-89741-308-7
アン・バン・クロフト『20世紀の神秘思想家たち』 吉福伸逸訳、平河出版社
ジャネット・オッペンハイム 『英国心霊主義の抬頭―ヴィクトリア・エドワード朝時代の社会精神史』 和田芳久訳 (いわゆるスキャンダルについて) ISBN 4-87502-191-7
ライアン・スプレイグ・ディ・キャンプ 『プラトンのアトランティス』 小泉源太郎訳 (『秘密教理』 の出典について) ISBN 4-89456-365-7 大陸書房刊 『幻想大陸』 の改題再刊
ルネ・ゲノン『世界の終末 現代世界の危機』田中義廣訳 平河出版社、1986年
ダニエル・コーエン 『世界謎物語』 岡達子訳 (要領の良い略伝あり) ISBN 4-390-11340-2
カート・ヴォネガット 『ヴォネガット、大いに語る』 飛田茂雄訳 (夫人側の主張のみでまとめてみたトンデモ略伝を収録) ISBN 4-387-84014-5 ISBN 4-15-050150-5

脚註[編集]

1.^ “Press Release of Society for Psychical Research - 1986”. 2011年1月23日閲覧。

関連項目[編集]

ウィキメディア・コモンズには、ヘレナ・P・ブラヴァツキーに関連するカテゴリがあります。

英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
ヘレナ・P・ブラヴァツキー


ロシア語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
ヘレナ・P・ブラヴァツキー

神智学
神智学協会
伝説上の大陸
アトランティス
レムリア

養蜂箱

養蜂箱(ようほうばこ、英語:beehive)は、その中でミツバチが生活し、子供を育てるための密閉された構造である。天然のハチは、天然の構造体に住むが、養蜂場で養殖されたハチは「養蜂箱」と呼ばれる人工の巣箱で生活する。ミツバチ属の種のみが養蜂箱に住むが、飼育されているのはセイヨウミツバチ(Apis mellifera)とトウヨウミツバチ(Apis cerana)のみである。





リトアニアのStripeikiaiにある木製の養蜂箱
養蜂箱の内部には、ミツロウという物質でできた六角形の小部屋が密に詰まっており、ハニカム構造と呼ばれている。ミツバチはこの小部屋を、蜂蜜や花粉等の食物を蓄えたり、卵、幼虫、さなぎ等を育てたりするのに用いている。



目次 [非表示]
1 天然の養蜂箱
2 人工の養蜂箱 2.1 古代の養蜂箱
2.2 伝統的な養蜂箱 2.2.1 泥と粘土でできた巣箱
2.2.2 植物でできた巣箱
2.2.3 木の洞でできた巣箱

2.3 近代の養蜂箱 2.3.1 ラングストロスの巣箱
2.3.2 National hive


3 シンボルとしての養蜂箱
4 破壊
5 出典
6 外部リンク


天然の養蜂箱[編集]

ミツバチは、洞窟、石の割れ目、木の洞等を天然の巣として用いる。他の属では空中に作る種もいる。巣は、互いに平行な複数のハニカムと、比較的大きなスペースからできている。入口は1つである。セイヨウミツバチは約45リットルの容量の巣を作り、10リットル以下や100リットル以上の巣を作ることはない[1]。巣を作る場所の高さは1mから5mを好み、入口は南側で下を向いていることが多い。また、親のコロニーからは300m以上離れている[2]。通常、巣は何年にも亘って使われる。巣の入り口付近は滑らかになるように作られ、内壁はプロポリスの薄い膜でコーティングされる。ハニカムは巣の上部と下部で壁にくっついているが、縁に沿って、細い通路が残される[3]。巣の内部の基本的な構造は、全てのミツバチで似通っている。蜂蜜は上半分に蓄えられ、花粉の貯蔵、子供の飼育等は下半分で行われる。落花生形の女王の部屋は、通常巣の下部に作られる[1]。

人工の養蜂箱[編集]

人工の養蜂箱は、蜂蜜の製造と穀物の受粉の2つの目的で使われる。また、受粉のために穀物のある場所まで移動されることがある[4]。養蜂箱のデザインには、いくつもの特許がある。

古代の養蜂箱[編集]





西洋の伝統的なドーム形状の養蜂箱。このような形を「ビーハイブ」と呼ぶ用法は現代英語にも見られる。アラビア語文献をラテン語訳した医学書『健康全書』(Tacuinum Sanitatis)に掲載されている図版より
ミツバチは、エジプトでは古代から飼育されてきた[5]。エジプト第5王朝ニウセルラーの時代のコナーラクのスーリヤ寺院の壁からは、労働者が養蜂箱の穴に煙を吹きつけ、養蜂箱を取り出す様子が描かれている[6]。北部と南部の統一後の上エジプトのシンボルは養蜂箱であり、このデザインはエジプト第3王朝の時代から使われていた[7]。また、全てのファラオのファラオ名にも付けられた。蜂蜜の生産を行っていたことを示す碑文がエジプト第26王朝のパバサの墓から見つかった[8]。

ヘブライ大学の考古学者Amihai Mazarは、イスラエルのテル・レホブの遺跡から、少なくとも30個の完全な養蜂箱が見付かったと語っている。これは、3000年前の聖書の時代から進んだ蜂蜜産業が存在していたことの証拠である。藁や未焼成粘土から作られた養蜂箱は、多くが壊れていたが、合計100個もが整然と並んで発掘された。

ハイファ大学のEzra Marcusは、この発見は、文章や壁画で知られていた近東の古代のハチ飼育についての知見を与えるだろうと語った。また、巣のそばから像が発見され、ハチの飼育に宗教的な意味があった可能性が指摘される。この遺跡で見られるハチの飼育は、これまで発見された中で最も古いものである[9]。

伝統的な養蜂箱[編集]

伝統的な養蜂箱は、ハチのコロニーに対して単純に閉鎖空間を提供するだけのものである。内部構造は用意されていないため、ハチは巣の内部に自力でハニカム構造を作る。ハニカムはしばしば交差し、接着していて、壊さない限り動かない。収穫者は巣を壊して蜂蜜を採取する。これらは徐々に巣箱に置き換わり、最終的に近代的な装置に取って変わられることになった。

伝統的な養蜂箱では、蜂蜜は、巣を破壊して絞って採取される。そのため、昔の蜂蜜にはミツロウが多く含まれた。

泥と粘土でできた巣箱、植物でできた巣箱、木の洞でできた巣箱の3種類に大別される。

泥と粘土でできた巣箱[編集]





マルタ島の粘土の養蜂箱
エジプトでは現在でも泥で作った巣が用いられている。未焼成粘土と藁と糞を混ぜ合わせ、細長い円筒形にしたものである[10]。地中海東部では、粘土のタイルで巣を作る。焼成粘土で作られた円筒は、古代エジプト、中東、及びギリシア、イタリア、マルタ島の一部で、多くの場合はいくつかを重ねて養蜂箱に使われていた。飼育者は一方の端から煙を入れてハチを追い出し、蜂蜜を収穫した。

植物でできた巣箱[編集]





イングランドの伝統的な藁の養蜂箱作り
ヨーロッパの北部や西部では、藁や草で編んだバスケットが養蜂箱に用いられる。最も単純な形では、下部に出入り口用の1つの穴があるものである。これもやはり内部の構造はないため、ハチは自前でハニカム構造を作る必要がある。この方式では、生産者が内部の病気を調べることができない、蜂蜜を採取する際にしばしば巣全体が壊れてしまうという2つの欠点がある。生産者は蜂蜜を採るために完全にハチを追い出すか、殺してしまい、万力で圧搾して抽出することになる。

後に、小さなバスケットを上部に開けた小さな穴に被せるものが現れた。これで、ハチの子供を失わずに蜂蜜を採取することができるようになった。

木の洞でできた巣箱[編集]

アメリカ合衆国南東部では、20世紀になるまで木の洞の一部に養蜂箱が作られていた。ゴムの木を使うことが多かったことから、英語ではbee gumsと呼ばれる。

洞のある木は養蜂場に直立で置かれ、ハニカム構造を作る助けとするために棒が置かれる場合もある。植物でできた巣と同じように、蜂蜜を採る時にはハチを殺して巣を破壊する必要がある。これは、燃えた硫黄を含む金属容器を洞の中に入れることによって行われる。

近代の養蜂箱[編集]





セルビアにあるDadant-Blathの養蜂箱
近代的なデザインの養蜂箱は、19世紀に最初に現れるが、そこへの移行段階は18世紀に既に見られる。

移行過程については、1768年から1770年にThomas Wildmanによって、以前の方法と比べて、蜂蜜を採取するのにハチを殺す必要がないところが利点だと記されている[11]。例えばWildmanは、藁の巣の上下に平行に木の棒をわたし、ハチがハニカムを作りやすいようにした[12]。

1814年、ウクライナで最初に商業的な養蜂を始めたPetro Prokopovychは、巣脾を初めて発明した。操作は簡単になったが、巣脾の間の適切な距離を決める必要があった。その距離は、1845年にJan Dzierżonによって、1/2インチであると記された。1848年、Dzierżonは巣箱の横板に溝をつけ、そこで巣脾を固定する方法を紹介した。「ラングストロスの巣箱」はDzierżonの巣箱のデザインを継承したもので、移動可能な巣脾を備え上部が解放された初めての巣箱だった。

「ラングストロスの巣箱」は、ハニカムを支える移動式の巣脾を上部の棒で支える構造をしている。これにより、養蜂家は病気や寄生虫を検査することができ、また、新しいコロニーを作るために簡単に巣を分けることもできる。

スロベニアでは18世紀から養蜂箱の板は通例は柔らかい木で作られていて、油絵の具で描かれている。

ラングストロスの巣箱[編集]





ラングストロスの巣箱
発明者であるLorenzo Langstrothにちなんで名付けられ、最も普及している。

Langstrothは、1860年にこのデザインに対する特許を取得した[13][14]。それ以来標準的なスタイルとして世界の75%以上の養蜂家に使用されている。サイズや巣脾の数の違いにより、Smith、Segeberger Beute (German)、Frankenbeute (German)、Normalmass (German)等があり、商業用に改良されたものや地域に応じたものもある。

National hive[編集]

National hiveはイギリスで最も広く使われている養蜂箱である。真四角で、取ってとなる切り込みが入っている。巣脾は、一般的なラングストロスのものよりも小さく、長い持ち手がついている。

シンボルとしての養蜂箱[編集]

養蜂箱は、フリーメイソンの重要なシンボルの1つである。工業と協力を象徴し、マスター・メイソンの講義の際には目立つ所に掲げられる。

また養蜂箱は、アメリカ合衆国ユタ州のシンボルの1つでもある。ミツバチと共に描かれ、初期のモルモン開拓者にとって工業と機知を象徴していた。ジョセフ・スミス・ジュニアのようなモルモン開拓者のリーダーの中には、フリーメイソンの者もいた。養蜂箱は、その他のいくつかのフリーメイソンのシンボルと共に、現在でもモルモン教の伝統や文化の中に現れている。

養蜂箱は紋章学で、工業のシンボルを表している。

ニュージーランドのウェリントンにある円形の国会議事堂は「ビーハイブ」(養蜂箱)と呼ばれている。ニュージーランド議会のウェブサイトのアドレスもwww.beehive.govt.nzである。





「ビーハイブ・ステイト」の愛称があるユタ州の州章。中央にドーム状の蜂の巣箱(ビーハイブ)が置かれている






ウェリントンのニュージーランド国会議事堂。ドーム状の形状からビーハイブと呼ばれる


破壊[編集]

人間は、時に公共安全やハチの病気の拡大防止のためにハチの巣を破壊する。アメリカグマも蜂蜜を得るため、ハチの巣を破壊することがある。[15]フロリダ州では1999年にアフリカナイズドミツバチの巣を破壊した[16]。アーカンソー州では、病気になったハチの巣を焼くか、埋めるか、エチレンオキシドで燻蒸するか、水酸化ナトリウムで殺菌するかしなければならないという条例がある[17]。

宿曜道

宿曜道(すくようどう)とは、平安時代、空海をはじめとする留学僧らにより、密教の一分野として 日本へもたらされた占星術の一種。密教占星術、宿曜占星術などともいう。

概要[編集]

その内容は、インド占星術(ギリシャ由来の西洋占星術とインド古来の月占星術が習合し独自に発展したもの)、道教由来の天体神信仰、陰陽五行説等が習合した雑多なものである。 基本的に、北斗七星・九曜・十二宮・二十七宿または二十八宿などの天体の動きや七曜の曜日の巡りによってその直日を定め、それが凶であった場合は、その星の神々を祀る事によって運勢を好転させようとする。

所依の教典は、『宿曜経』・『梵天火羅九曜』・『七曜星辰別行法』などである。三九秘宿という独特の技法があり、これを簡略化したものが、一般に「宿曜占星術」として流布している。

密教では、造像・修法・灌頂などを行う際には吉日良辰を選ぶこととされており、一行の『大日経疏』では、吉日良辰の選定は阿闍梨の資質が問われる大切な作業とされていた。

そのために、空海・円仁・円珍らが『宿曜経』を日本に請来し、仁観が深く研究した。957年(天徳元年)、日延が呉越より符天暦を持ち帰ったことによりその研究が盛んになり、法蔵が応和元年(963年)に時の村上天皇の御本命供の期日を巡って陰陽道の賀茂保憲と論争を行っており、この時期に日本の宿曜道が確立したと見られている。なお、『二中歴』では法蔵をもって日本の宿曜道の祖としている。こうした経緯から宿曜師は密教僧である例が多く、誕生月日などを元にして星占いを行ってその結果を記した「宿曜勘文」を作成したり、長徳元年(995年)には、興福寺の仁宗に対して暦道と共同で暦を作成するようにという「造暦宣旨」が下されている(興福寺は法相宗であるが、この時代には真言宗との関係も強かったとされる)。ただし、長暦2年(1038年)に暦道と宿曜道との全面対立により宿曜道側が造暦から撤退しているが、以後も日食・月食の発生日時や大月・小月や閏月を巡って暦道と激しく争った。また、宿曜勘文などや星供・祭供などの祈祷の奉仕を通じて権力者と結びついて、法隆寺や西大寺などの別当に任命される者もいた。平安時代後期には能算・明算父子が活躍して白河天皇や摂関家に仕え、続く平安時代末期には天台宗の流れを汲む珍賀と興福寺及び真言宗の流れを汲む慶算という2名の優れた宿曜師が出現して互いに技術を磨きながら権力者と連携して勢力を争い、一族・門人によって流派が形成される程であった。だが、南北朝時代以後の貴族社会の衰退とともに宿曜道も没落の道を辿り、長寛3年(1165年)に珍賀が創建して宿曜道の拠点となった北斗降臨院が応永24年(1417年)に焼失すると、以後歴史から姿を消すこととなる。

『源氏物語』桐壺にも、主人公・光源氏が誕生した際、宿曜師にその運命を占わせる場面が出てくる。

参考文献[編集]
山下克明「宿曜道の形成と展開」(『平安時代の宗教文化と陰陽道』(岩田書院、1996年) ISBN 978-4-900697-65-2 所収)

関連項目[編集]
陰陽道
符天暦
禄命

占星術

占星術(せんせいじゅつ)または占星学(せんせいがく)は、太陽系内の太陽・月・惑星・小惑星などの天体の位置や動きなどと人間・社会のあり方を経験的に結びつけて占う技術(占い)。古代バビロニアを発祥とするとされ、ギリシア・インド・アラブ・ヨーロッパで発展した西洋占星術・インド占星術と、中国など東アジアで発展した東洋占星術に大別することができる。



目次 [非表示]
1 概要 1.1 発祥
1.2 インド・アラブ・ヨーロッパ
1.3 中国

2 占星術と科学 2.1 天文学との関連
2.2 占星術と自然科学
2.3 占星術と心理学
2.4 未来予測の信頼性
2.5 学者による検証
2.6 惑星の定義見直しによる影響

3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
6 関連書


概要[編集]

発祥[編集]

古代バビロニアで行われた大規模な天体観測が起源であり、ギリシア・インド・アラブ・ヨーロッパ・中国へ伝わったといわれている。おもに国家や王家の吉凶判断に使われた。バビロニア占星術は紀元前3世紀頃にギリシアに伝わり、個人の運勢を占うホロスコープ占星術に発展した。占星術を指す単語は、古典ギリシア語のアストロロギア(astrologia)に由来する。アストロロギア(astrologia)のアストロ(astro)という接頭辞は古典ギリシア語の astron 星でありastrologiaとは星について考えたことという意味になる。アストロノミア(astronomia、英語のastronomy)天文学とはastrologiaのなかで星の動きなどについての学問であった(nomos は秩序の意味)。ちなみに、astrologistは占星術者である。

インド・アラブ・ヨーロッパ[編集]

2世紀頃にはインドに伝わりインド占星術として現在でも盛んである。現在一般に流布しているのは、ギリシアからアラブ・ヨーロッパで行われている西洋占星術と言われるもので、現在日本で星占いとして流布している通俗的な占いも西洋占星術と起源を同じくすると考えられる太陽占星術である。

中国[編集]

古代中国において「天文」とは、古代世界の他の文明でもそうであったように、狭義の天文学と観測される天象による占いとが渾然一体となったものであった。バビロニア占星術とは異なり、天体の配置ではなく日食、月食、流星、彗星、新星や超新星の出現、そして星の見え方など天変現象に注目したものであった。これは天変は天が与える警告であるという「災異説」の思想に則ったものである。これは現代で天変占星術とよぶ人もいる。

ただしバビロニア起源と考えられる黄道十二宮を使った占星術の影響を受けて成立したと考えられる六壬神課の基本構造が戦国-秦-漢の時代には確立していた。六壬神課の式盤はサインとハウスで構成されたホロスコープに中国独自の十二天将を配布したものを表現している。この後、唐の時代にインド占星術を漢訳した『宿曜経』が伝来し、七政四餘となった。『宿曜経』は当時の日本でも受容され宿曜道となった。しかしその後は実際の天文観測情報が国家に独占されたこともあり、煩雑な天文計算の必要がない暦をベースとした占術が主流となって行く。

占星術と科学[編集]

近現代において、占星術は科学ではない。占星術は、プトレマイオス以来の地球中心説(天動説)の宇宙観を引きずっており、地動説に基づく現代科学とはまったく別の考え方に基づく技術と考えられる。

天文学との関連[編集]

占星術は天文学の母胎でもあった。ケプラーの法則で有名なヨハネス・ケプラーは天文学者・数学者であると同時に占星術師でもあった[1]。ドイツ観念論を代表する哲学者ヘーゲルが大学教師の職に就くための就職論文がDissertatio philosophica de Orbitis Planetarum. (『惑星の軌道に関する哲学的論考』通称『惑星軌道論』[2])であり、その中で惑星の運動を本質的に解明したのは物理学的に解析したニュートンよりもむしろケプラーであると評した[3]。 そしてケプラーが「このおろかな娘、占星術は、一般からは評判のよくない職業に従事して、その利益によって賢いが貧しい母、天文学を養っている」[4]と書いたように、権力者が占星術には金を出すが、天文学には支援しないという状況があったことも、この両者がある時期まで一体的に発展してきた一つの社会的要因と考えられる[5]。

占星術と自然科学[編集]

近世以降においては占星術は自然科学の体系から完全に離れてしまっている。人間の性格や運勢、国家の運命などを、天体の動きと結びつけることも、科学的には行われていない。現代の多くの占星術専門家も、現代自然科学の枠組で占星術を理解することはきわめて困難であると考えている。
ソルボンヌ大学の心理学者ミッシェル・ゴークランは火星と職業の相関関係を調査した。(科学とは何の関連もない。)
ドイツのナチス副総統ルドルフ・ヘスの顧問占星術師カール・エルンスト・クラフトは占星術を統計学的に調査した(統計学的な調査は科学的な一手法なだけで、それと科学かどうかは別問題である。)
ソルボンヌ大学のディーン・ルディアはユング占星術、すなわち「占星術の心理学的アプローチ」に対し、「心理学の占星術的アプローチ」を行い、後の西洋占星術における「サビアン占星術」に貢献した。

占星術と心理学[編集]

近代において占星術に積極的に取り組んだ研究者は、むしろカール・ユングに代表される心理学者などである。ユングは因果律ではないシンクロニシティ、あるいは「意味のある偶然の一致」という考え方を示そうとして、占星術を援用した。この事情もあり、イギリスを中心とする現代の占星術師や占星術研究家と称する人々の中には、心理学を援用しようと試みている人も少なくない。

1970年代に欧米で、心理療法の分野の研究をしながら占星術を学ぶ人が増えたことにより心理占星学が発達したといわれている。人間の心を扱う研究は古代の占星術が扱うテーマの1つであったともいわれている。先駆者としてディーン・ルディア、リズ・グリーンなどがあげられている。

未来予測の信頼性[編集]

西欧中世のスコラ哲学者トマス・アクィナスが「星は誘えど、強制せず」と喝破したように、占星術の体系は決定論ではなく、しかも人それぞれの経験や主観によって解釈にぶれがある。このため現代科学が求める再現性を保証するのはきわめて困難である。

学者による検証[編集]

パリで一人の科学者が無料占星術の広告を新聞に掲載。応募要綱には出生地と出生時間を条件に付記、この応募に150通の手紙が寄せられた。”条件”とはフランスの連続殺人犯と同一のものであるが、それは差出人には伏せて占星術の結果をアンケート用紙を同封して報告。応募者の94%が「占いは当たっている」と返答した。[6]

惑星の定義見直しによる影響[編集]

惑星の定義見直しによる影響については、西洋占星術の項を参照。

脚注[編集]
1.^ クリストファー・ヒル 『十七世紀イギリスの民衆と思想 People and Ideas in 17th Century England』クリストファー・ヒル評論集 3、小野功生、箭川修、圓月勝博訳、法政大学出版局〈ウニベルシタス〉、1998年11月(原著1986年)(日本語)。ISBN 4-588-00620-7。 啓蒙と自然(W) Aufklärung und Natur (W) (Zusammenfassung) 大阪教育大学 正塚,晴康の引用注による
2.^ ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル 『惑星軌道論 Dissertatio philosophica de Orbitis Planetarum.』 村上恭一訳、法政大学出版局〈ウニベルシタス〉、1991年1月(原著1801年)(日本語)。ISBN 9784588003240。
3.^ Nishikawa. “定年後の読書ノート 惑星軌道論” (日本語). 2009年7月25日閲覧。
4.^ ケネス・J・デラノ 『エピソード占星術 嘘かまことか Astrology-fact or fiction ?』 市場泰男訳、社会思想社〈現代教養文庫〉、1980年8月(原著1973年)、94頁(日本語)。ISBN 4-390-11024-1。における、ウォルター・W・ブライアント『ケプラー』1920年からの引用による。
5.^ もっともこの発言でケプラー自身は占星術に対して否定的であったととらえるむきもあるかもしれないが、ケプラーはアスペクトをサイン間の角度から惑星間の角度に再定義するなど、占星術に対して後世に残る貢献を果たしている。
6.^ 「カール・セーガン 科学と悪霊を語る」カール・セーガン (著) 新潮社 (1997年(平成9年)9月) ISBN 4105192035

関連項目[編集]
西洋占星術 星占い(星座占い)

インド占星術
東洋占星術 宿曜道

心理占星学
疑似科学
バーナム効果
コールド・リーディング

外部リンク[編集]

ウィキメディア・コモンズには、占星術に関連するカテゴリがあります。
占星術史いろいろ
占星術の歴史
占星術の歴史について

※冥王星の惑星降格に対する占い師達の見解(一例)
冥王星が小惑星に
冥王星の惑星降格と占星術
惑星の定義
冥王星問題、再び

関連書[編集]
中山茂『占星術』 紀伊国屋書店 ISBN 4-314-00985-3
バートン,タムシン 豊田彰 訳『古代占星術―その歴史と社会的機能』法政大学出版局 ISBN 4-588-35602-X
H.J.アイゼンク、D.K.B.ナイアス 岩脇三良 訳『占星術―科学か迷信か』誠信書房 ISBN 4-414-30408-3

神秘学

神秘学(しんぴがく)は、オカルティズムまたはオキュルティスム(仏: occultisme、英: occultism、独: Okkultismus)の日本語訳の一つである。オカルト主義、隠秘学、玄秘学[1]とも。Geheimwissenschaft の日本語訳でもある[2]。



目次 [非表示]
1 概説
2 脚註
3 参考文献
4 関連書籍
5 関連項目


概説[編集]

オカルティズムは、本来は占星術、錬金術、魔術などの実践を指し[3]、これらを学律 (disciplines) と捉えて occult sciences (オカルト学、隠秘学)と総称することもある。一般的には、オカルティズムの語は近代の西洋神秘思想、秘教的メイソンリーなどのある種の秘密結社、魔術結社などの教義、世界観、知識体系やその実践などに適用される。事実上、しばしばエソテリシズム(秘教)と同じ意味に用いられる[3]。オカルティズムを諸実践・諸技法に限定し、その背景にある理論的信念体系をエソテリシズムと呼んで区別したり、エソテリシズムの下位概念とする向きもあるが、一般的には両者の意味・用法は錯綜しており、区別は曖昧である[3]。

オカルティズムと呼びうるものは古代より行われており、ルネサンス期になるとオカルト哲学・オカルト諸学という言葉が使われるようになった。フランスのエゾテリスム史家アントワーヌ・フェーブル(英語版)の推定によれば、オキュルティスムという言葉自体は19世紀の魔術思想家アルフォンス・ルイ・コンスタンが最初に用いたものであり、その英語形であるオカルティズムはA・P・シネット(英語版)によって1880年代に英語圏に導入されたという[3]。オカルティズムの近代的形態は、産業革命と自然科学の進展の時代にあって、心霊主義や幻想文学とともに、近代西欧の合理主義や実証主義の風潮に対するオルタナティブな思潮として登場したとも評される。とはいえ、基本的にはそれ以前のさまざまなオカルティズムの延長線上に多発した諸潮流であって、一つのまとまりのある思想運動であったわけではない[4]。

オカルティズムのオカルトとはラテン語の occulo (隠す)の派生語 occultus (隠れたる)に由来する「隠されたもの」を意味する言葉であり。これらのように「隠されて」きたとされる、非西洋の諸伝承にもしばしば転用される。後にルドルフ・シュタイナーなどによって普遍的概念とすべく自省的に名称が再定義され、直観によって、存在するものと先験的に想定する「超自然的な存在や法則(オカルト)」なるものをとらえようとする技術、および、そういった精神的営みの結果得られた知識体系を指す。

宗教と深いつながりがあり、哲学や芸術とも密接に関わってきた。「学」とついているが、一般にいわれる学問とはその真理に至る認識方法が根本的に異なる。この点については高橋巌が神秘学の側から『神秘学講義』(角川選書)の中で詳細に論じている。

合理的な理性によって万物を理解しようとする近代の自然科学とは相反するが、近代の神秘学もまた近代の産物なるがゆえには自然科学の成果を取り入れることがよくある。

脚註[編集]

1.^ 日夏耿之介、齋藤磯雄の用いた訳語。
2.^ 英語の occult science に相当するドイツ語。高橋巖がルドルフ・シュタイナーの著書 Die Geheimwissenschaft im Umriss の訳題を『神秘学概論』としている。
3.^ a b c d アントワーヌ・フェーブル「オカルティズムとは何か」(『エリアーデ・オカルト事典』)
4.^ アントワーヌ・フェーヴル 『エゾテリスム思想』 田中義廣訳、白水社〈文庫クセジュ〉、1995年、106頁。

神智学

神智学(しんちがく、Theosophy)とは、19世紀にブラヴァツキー夫人を中心として設立された神智学協会に端を発する神秘主義、密教、秘教的な思想哲学体系である。全ての宗教、思想、哲学、科学、芸術などの根底にある一つの普遍的な真理を追求することを目指している。



目次 [非表示]
1 概要 1.1 語源
1.2 3つの柱
1.3 基本的な思想

2 代表的な流れ 2.1 第一世代

3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク


概要[編集]

語源[編集]

神智学(Theosophy)という用語は、古代ギリシャ語の θεοσοφία(Theosophia)を語源としており、直訳すると「神聖な叡智」という意味になる。3世紀のギリシャの思想家であるアンモニオス・サッカスとその弟子達(オリゲネス、プロティノスなど)が使い始めたという[1]。また、Theosophia という用語は、近世初期の神秘主義思想にも使用例が見られる。

3つの柱[編集]

一般的な神智学の思想は、次の三つを柱としている[2]。
全宇宙の根底には、一つの絶対的で人智を超えた至高の神霊や無限の霊力が存在しており、見えるものも見えないものも含めた万物の根源になっている、という思想
普遍的な魂からの放射である人間は、その至高の神霊と同一の本質を共有しているがために初めから永遠で不滅である、という思想
「神聖な仕事」を通じて神々の働きを実現すること

基本的な思想[編集]

神智学は、様々な宗教や神秘思想、オカルトを1つの真理の下で統合することを目指しているので、その中では、当然、様々な宗教や神秘主義、オカルトが扱われることになり、例えば、古代エジプトの神秘主義、ヘルメス思想、ギリシャ哲学、キリスト教、新プラトン主義、グノーシス主義、カバラ、ヴェーダ、バラモン教、ヒンドゥー教、ヨーガ、仏教、ゾロアスター教、フリーメーソン、薔薇十字団、魔術、錬金術、占星術、心霊主義、神話、などが様々な文脈の中で引用されたり語られたりしている。

神智学の主張によると、宗教、神秘主義、オカルトの奥義は、それが支配する力の大きさや危険性から、どの時代においても一部の選ばれた少数の人間にのみ伝授され守られてきたという。宗教、神秘主義、オカルトに関する知識は、自分自身の内的な認識、超能力、神秘体験、霊覚、直接的な観察などによって得られるとされるが宗教、神秘主義、オカルトの思想家たちは、古代のエジプトやインドの賢者たちも含めて、外部の様々な現象を分析し客観性や合理性を重視する実証主義的な現代の科学者達よりもある意味では優れた認識や理解を持っているという。

そうした、宗教、神秘主義、オカルトの教義に精通し、神秘の奥義を伝授されている人間は、一般的に「秘教の秘伝への参入者」と呼ばれるが、その中でも特に奥義を体得している者達は、様々な超常的な力(物質化、テレパシーなど)を持っていたり、肉体を通常よりもかなり長い期間に渡って維持していたり、宇宙の諸現象の理解や人類への愛の面で卓越していたりするという。神智学協会の設立者であるブラヴァツキー夫人は、それらの参入者達に師事して教えを授かったとされる。神智学では、それらのオカルトの達人達を「偉大な魂」(マハトマ)や「大師」(マスター)と呼んでいる。また、それらの大師達の組織を「ハイアラーキー」、グレート・ホワイト・ブラザーフッドと呼んでいる。オカルトの達人の名前として、モリヤ、クートフーミ、ヒラリオン、ジュワルクールなどの名前があがっており、ブラヴァツキー夫人とアルフレッド・パーシー・シネットにより19世紀末にマハトマ-書簡で話題となった。

神智学の具体的な思想としては、万物の一元性、宇宙や文明や人種の周期的な発生と衰退、三位一体の顕現、太陽系や人間の七重構造、厳正な因果律、輪廻転生、太古の文明、超能力、高次の意識、原子や鉱物や惑星の進化、生命体の進化に伴う天体間の移動、などが説かれている。

代表的な流れ[編集]

第一世代[編集]

神智学協会が設立されて間もない頃の代表的な論者としては、ブラヴァツキー夫人、ヘンリー・スティール・オルコット、アルフレッド・パーシー・シネットなどがいる。

ブラヴァツキー夫人の著書としては、神智学協会の設立の経緯や神智学の基本的な思想についてQ&A形式で答える『神智学の鍵』、人類や宇宙の創造や進化ついての壮大な思想を展開する『シークレット・ドクトリン(秘密教義)』、霊性進歩の弟子道を説いた『沈黙の声』、夫人の最初の著作である『ヴェールを剥がれたイシス』、19世紀後半のインドを神秘主義的紀行の形で著した『インド幻想紀行』などがある。ウィニーフレッド・パーレィがブラヴァツキー夫人の著作から編さんした『ブラヴァツキーのことば365日』も日本語訳が刊行されている。

脚注[編集]

1.^ H. P. Blavatsky, The Key to Theosophy, The Meaning of the Name
2.^ H. P. Blavatsky, The Key to Theosophy, What was the object of this system?

参考文献[編集]
H.P.ブラヴァツキー 『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論 上』 竜王文庫 1988年 ISBN 89741-317-6
H.P.ブラヴァツキー 『神智学の鍵』 竜王文庫
H.P.ブラヴァツキー 『ベールをとったイシス 第1巻』 竜王文庫
H.P.ブラヴァツキー 『沈黙の声』 竜王文庫
H.P.ブラヴァツキー 『実践的オカルティズム』 竜王文庫
H.P.ブラヴァツキー 『夢魔物語』 竜王文庫
H.P.ブラヴァツキー 『インド幻想紀行 ヒンドスタンの石窟とジャングルから』 ちくま学芸文庫
『ブラヴァツキーのことば365日』ウィニーフレッド・パーレィ編さん アルテ 星雲社 ISBN 978-4434135996
ハワード・マーフェット 『H・P・ブラヴァツキー夫人 - 近代オカルティズムの母』 田中恵美子訳 ISBN 4897413087
『神智学大要 第一巻 エーテル体』 アーサー・E・パウエル編著 出帆新社
『神智学大要 第二巻 アストラル体(上)』 アーサー・E・パウエル編著 出帆新社
『神智学大要 第二巻 アストラル体(下)』 アーサー・E・パウエル編著 出帆新社
『神智学大要 第三巻 メンタル体(上)』 アーサー・E・パウエル編著 出帆新社
『神智学大要 第三巻 メンタル体(下)』 アーサー・E・パウエル編著 出帆新社
『神智学大要 第四巻 コーザル体(上)』 アーサー・E・パウエル編著 出帆新社
『神智学大要 第四巻 コーザル体(下)』 アーサー・E・パウエル編著 出帆新社
『神智学大要 第五巻 太陽系(上)』 アーサー・E・パウエル編著 出帆新社
『神智学大要 第五巻 太陽系(下)』 アーサー・E・パウエル編著 出帆新社
リードビーター『チャクラ』平河出版社
リードビーター『神智学入門』たま出版
リードビーター『アストラル界』竜王文庫
リードビーター『透視力』竜王文庫
リードビーター『大師とその道』竜王文庫
リードビーター(リイド・ピーター)『神秘的人間像』文曜書院 1940年
ベサント、リードビーター『想念形体・思いは生きている』竜王文庫
クーパー 『神智学入門―古代の叡智を求めて』
クリシュナムルティ『大師のみ足のもとに』竜王文庫
アランデール『クンダリニ』竜王文庫
ジャッジ『オカルティズム対話集』竜王文庫
ピアースン『神智学の真髄』出帆新社
E・ノーマン・ピアースン 『時空と意識 神智学による錯覚の克服』たま出版 1984年 ISBN 4-88481-120-8
コリンズ『蓮華の書』村松書館
ウッド『瞑想入門』たま出帆
ヘンリー・エス・オルコット『仏教問答』原成美訳
ルネ・ゲノン 『世界の終末 現代世界の危機』 田中義廣訳 平河出版社、1986年
アン・バン・クロフト 『20世紀の神秘思想家たち』 吉福伸逸訳、平河出版社
『プラトンのアトランティス』 小泉源太郎訳 (『シークレット・ドクトリン』 の出典について) ISBN 4894563657 大陸書房刊 『幻想大陸』 の改題再刊


関連項目[編集]
神智学協会
ブラヴァツキー夫人
ヘンリー・スティール・オルコット
アニー・ベサント
神秘学
人智学
アントロポゾフィー
仏教
オカルト
魔術
錬金術
精神世界
内視現象

ルドルフ・シュタイナー

ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner, 1861年2月27日 - 1925年3月30日(満64歳没))は、 オーストリア帝国(1867年にはオーストリア・ハンガリー帝国に、現在のクロアチア)出身の神秘思想家 。アントロポゾフィー(人智学)の創始者。哲学博士。



目次 [非表示]
1 概略
2 人物と業績 2.1 文芸
2.2 哲学
2.3 霊的な知識(精神科学/霊学)
2.4 社会改革
2.5 教育 2.5.1 学校教育
2.5.2 幼児教育
2.5.3 治療教育
2.5.4 七年周期による教育
2.5.5 四つの気質

2.6 芸術
2.7 建築
2.8 芸術観念
2.9 医学
2.10 農業
2.11 宗教刷新

3 生涯 哲学者として(前半) 3.1 幼少時代 ウィーン以南のオーストリア各地 1861-1872
3.2 実業学校時代 ヴィーナー・ノイシュタット 1872-1879
3.3 学業時代 ウィーン 1879-1890
3.4 ヴァイマール時代 1890-1896
3.5 ベルリン時代初期 1897-1901

4 生涯 神秘思想家として(後半) 4.1 アントロポゾフィー発展の第一段階 1902-1909
4.2 アントロポゾフィー発展の第二段階 1910-1916
4.3 アントロポゾフィー発展の第三段階 1917-1923
4.4 晩年 1924-1925

5 死後
6 日本への紹介
7 評価 7.1 シュタイナーを評価した人々

8 シュタイナーの思想に対する批判
9 著作 9.1 ルドルフ・シュタイナー全集 9.1.1 A.著作
9.1.2 B.講義録
9.1.3 C.芸術作品の複製品(主なもの)
9.1.4 D.ルドルフ・シュタイナー全集に宛てた寄稿論文集

9.2 本として出版されたもの
9.3 論文集
9.4 遺稿管理局による資料公開
9.5 その他の日本語に訳された文献

10 シュタイナー以外の著者による参考文献
11 外部リンク
12 脚注


概略[編集]

シュタイナーは20代でゲーテ研究者として世間の注目を浴びた[1]。1900年代からは神秘的な結社神智学協会に所属し、ドイツ支部を任され、一転して物質世界を超えた“超感覚的”(霊的)世界に関する深遠な事柄を語るようになった。「神智学協会」幹部との方向性の違いにより1912年に同協会を脱退し、自ら「アントロポゾフィー協会(人智学協会)」を設立した。「アントロポゾフィー(人智学)」という独自の世界観に基づいてヨーロッパ各地で行った講義は生涯6千回にも及び、多くの人々に影響を与えた。また教育、芸術、医学、農業、建築など、多方面に渡って語った内容は、弟子や賛同者たちにより様々に展開され、実践された。中でも教育の分野において、ヴァルドルフ教育学およびヴァルドルフ学校(シュタイナー学校)が特に世界で展開され、日本でも、世界のヴァルドルフ学校の教員養成で学んだ者を中心にして、彼の教育思想を広める活動を行っている。

人物と業績[編集]

文芸[編集]

当時22歳の学生であったシュタイナーはゲーテの自然科学に関する著作を校訂し、序文を書く仕事を依頼され、13年間かけて完成させた。その成果は1897年に『ドイツ国民文学』という叢書の第一巻として出版された。このシュタイナーの業績は識者たちから高く評価された。

哲学[編集]

ロストック大学(Universität Rostock)で哲学の博士号を取得し、その学位論文を編集して『真理と科学』GA3として出版した。

1894年には哲学的主著『自由の哲学』GA4を出版し、その5年後には自身のゲーテ研究の集大成として『ゲーテの世界観』GA6を出版したが、哲学の研究者たちからはほとんど評価を得ることができなかった。

「自由の哲学」ではあるゆる哲学の試みを検討しつつも、複眼的視点においてその欠陥を確定し、別の観点を試みている。シュタイナーは伝記の中で、霊的な物の見方の準備をした試みを哲学において行ったと言い、その当時の自分の哲学を「客観的観念論」[要出典]と名づけた。霊的なものを受け入れる土台つくりに若い頃は励んでいた。自由とは結局、一つの物の見方より、より多くの物の見方を得た時のみ、得る事が出来るというような事を指示しているが、これがシュタイナーの言いたかった霊的なものへの暗示とも言える。

霊的な知識(精神科学/霊学)[編集]

シュタイナーによれば、人間の持っている通常の五感では事物の表面しか捉えることはできず、人間の死後に五感を越えたより高次の7つの超感覚(霊的感覚/器官・チャクラ)によって初めて、事物の本質を把握することができるという。そして、その超感覚は誰しもが潜在的に持っているものであり、生きている間は瞑想や思考の訓練によって引き出すことができるとした。ゆえに自分が語っている霊的な事柄も万人が確かめることができるものだとして具体的な修行法を本で公開した。しかし、霊媒や降霊術等の、理性的な思考から離れて感情に没入する“神秘主義”については、科学的でなく、間違った道であると警鐘を鳴らしていた。シュタイナーは「精神“科学”」という言葉にも表れているように、霊的な事柄についても、理性的な思考を伴った自然科学的な態度で探求するということを、最も重要視していた。この姿勢が降霊術などを用いたり、東洋の神秘主義に傾いて行った神智学協会と袂を分かつことになった原因の一つでもあった。

自著『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』では具体的な霊的体験を得るための修行法を描いているが、二部を作る前に世を去った。また自身が40歳になるまでは霊的な指導を引き受けなかったのは、40歳までに霊的な指導を引き受けると誤謬に陥り易くなるためだとも言う(発明は40歳までなのは人類の道徳を退行させ、40歳以後は人類の道徳に貢献するものにもなる、と主張されている。)。

社会改革[編集]

人類史上初めての世界的戦争である第一次世界大戦後の最中にあって、戦争を初めとした社会問題の解決策として、「社会有機体三層化運動」を提唱した。社会という有機体を精神生活(文化)、法生活(政治)、経済生活の三つの部分が独立しながらも、精神生活においては「自由」を、法生活(政治)においては「平等」を、経済生活においては「友愛」を原則として、この3つが有機的に結びつくことが健全な社会のあり方であると説いた。当時のドイツの外務大臣を初めとする国家の指導者たちにこの提案を知らせたが、政治的に採用されるには至らず、長い間顧みられなかったが、1970年代後半ころ再び検討され出し、1980年代の西ドイツの緑の党 (Die Grünen)の創立理念に影響を与えた。

教育[編集]

学校教育[編集]

シュタイナーの人間観に基づき、独自の教育を行う「自由ヴァルドルフ学校」は、1919年にシュトゥットガルトの煙草工場に付属する社営学校として開校された。この工場に働く労働者の子弟が生徒であったため、初等・中等教育および職業教育を行う総合学校の形態をとった。このタイプの学校がドイツ内外で次々に設立された。現在ドイツのそれらは自由ヴァルドルフ連盟に属している。ヨーロッパ地区では「ヴァルドルフ学校」または「ルドルフ・シュタイナー学校」と総称され、600校(うちドイツに200校)ほどが各国連盟ごとに存在している。日本およびアジア各国においては「シュタイナー教育」という呼称が一般的である。日本およびアジアには正規の連盟がなく、したがって認証の基準もないまま、各フリースクールが勝手に名乗っている現状である。学校法人シュタイナー学園(神奈川県相模原市緑区)や東京賢治の学校自由ヴァルドルフシューレ(鳥山敏子代表)など数校が交流を試みている。ヴァルドルフ学校は自称のそれまでを含めると世界中に900校以上あるといわれる。

幼児教育[編集]

シュタイナーは、1920年6月の、さきの学校での教員会議で「ほんとうは、幼稚園の頃から子どもを預かることができるとよいのです。子どもたちを受け持つ時間が長ければ長いほどよいのです。就学以前の子どもたちを受け入れることができるはずです。(中略)幼い子どもたちの教育の方が重要なのです」と発言するなど、幼児教育の重要性を説き、彼の指導のもと、E.M.グルネリウスによってシュタイナー幼稚園を設立する意向であった。しかし、彼の存命中に叶わず、亡くなった翌年の1926年にグルネリウスらによって、シュタイナー教育の理念に基づく幼稚園が始まった。[2]

治療教育[編集]

障害を持つ子供達を受け持っていた学生たちがシュタイナーから受けた助言をもとに、ドイツのイェーナ近郊に治療教育施設「ラウエンシュタイン治療教育院」を作った。ちょうど同じころスイス・アーレスハイムの臨床治療院(現在はイタ・ヴェークマンクリニックと呼ばれている)では、心身に何らかの障害を持つ子どもたちが入院し、その入院施設が後に発展して、1924年に治療教育施設「ゾンネンホーフ」が成立した。シュタイナーは治療のために薬以外にも、音楽、絵画、彫塑、オイリュトミーなどの芸術や宗教による特別の教育を示した。イギリスにおいては治療教育は、シュタイナー教育の代名詞と言われるほど評価が高い。

七年周期による教育[編集]

シュタイナーによれば人間は7年毎に体を完成させてゆき、63歳で成長の頂点を迎えるとしている。

7歳までを肉体、14歳までをエーテル体、21歳までをアストラル体の完成とし、それ以降は自我が独立して発達するとし、それ以前の期間を教育が必要な時期とした。

四つの気質[編集]

シュタイナーは四体液説の粘液の分類を取り入れており、自我が優勢な胆汁質、アストラル体が優勢な多血質、エーテル体が優勢な粘液質、肉体が優勢な憂鬱質があり、それぞれの気質の中心によって、子供を分類して対応を変えている。この気質は誰もが四つ持っているが、優勢なものが一つあり、個人における四気質を調和へと導くことが教育の課題であるとしている。

芸術[編集]
神秘劇超感覚的世界というテーマを含んだ新しい劇である「神秘劇」を四作創作した。現在でも毎年、スイスのドルナッハで上演されている。オイリュトミー音や言葉の質を身体の動きによって表現する独自の芸術を考案した。これはシュタイナー教育のカリキュラムや障害児に対する治療教育にも用いられている。
建築[編集]

第2ゲーテアヌム(1928 - )

自分達が内部で行うにふさわしい建物の形が必要だとの考えから、シュタイナーがゲーテアヌムと呼ばれる独特の形姿を持つ建物の設計を行った。最初に建設されたゲーテアヌムは、2つの天蓋が有機的に交わる木製の建築物だったが、火事により消失。現在はミュンヘンのピナコテーク・デア・モデルネに模型が置かれている。

第二ゲーテアヌムについては、彼自身が粘土で模型を制作、現場で建築作業を直接指導し、小ドームの絵の大半を自ら描いた[1]。普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)があり、人智学運動の中心地となっている[1]。

芸術観念[編集]

シュタイナーは芸術を感覚界における超感覚界の表現だとしており、美は理念(イデア)の表現ではなく、表現によるイデアそのものだとしている。美的な体験はアストラル体(感情、感受的心魂の表現)を通じるものだとし、芸術によるいくつかの療法も行っている。

医学[編集]

シュタイナーは医師や薬剤師、医学生などを前に自らの霊学に基づく医学に関する講演を多く行った。また医師たちの診療に同行し、助言を与えたりした。その結果、オランダの女医イタ・ヴェーグマン博士の主導で、「臨床医療研究所」や製薬施設が作られた。シュタイナーが示した治療法や薬剤に関する示唆は多くの医師の関心を呼び、研究がなされ、様々な国で薬剤が生産されるようになった。その一つが現在、シュタイナーの理念に基づいて、自然の原料のみを使った化粧品や食品を製造している会社「Weleda」(ヴェレダ)である。

農業[編集]

シュタイナーは有機農業のような地球次元だけでなく、天体の動きなど宇宙との関係に基づいた「農業暦」にしたがって、種まきや収穫などを行うという自然と調和した農業、「バイオダイナミック農法」(ビオダイナミック、ビオディナミとも、BIO-DYNAMIC)を提唱した。

ヨーロッパを初め世界各国で研究・実践されている。シュタイナーの農業理念に基づいて設立されたドイツ最古の認証機関であるデメター(demeter)は有機農法の連盟の中でも代表的な団体であり、厳格な検査によって、バイオダイナミック農法の商標の認証を行っている。日本では1985年に千葉県(現在は熊本県)の農場で「ぽっこわぱ耕文舎」が日本で初めて「バイオダイナミック農法」を始めた。

宗教刷新[編集]

神学者たちや宗教に関心を持つ学生たちのキリスト教改革の求めに応じて、神学についての講義を行い、新しいキリスト教の秘跡の儀式を伝授した。それらを元に司祭たちが宗教革新運動を始め、キリスト者共同体が設立された。運動の中心は司祭の養成学校のあるドイツのシュトゥットガルトで、イギリス、オランダ、スカンディナヴィアにもある。全ての人種、民族、宗教、国籍、性別、階級、信念などから独立しているアントロポゾフィーの創始者である彼が、特定の宗教団体(つまりここではキリスト教)の設立に助力をするという行動は、例外的なものである。この団体は普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)から独立したれっきとした宗教組織で、シュタイナーはこの組織に属さないで外部から司祭達に助言を与え続けた。

生涯 哲学者として(前半)[編集]

幼少時代 ウィーン以南のオーストリア各地 1861-1872[編集]
1861年2月27日 オーストリア=ハンガリー帝国の国境近くの町クラリエヴェク(現在のクロアチア)にてオーストリア帝国南部鉄道の鉄道員(公務員)である、ヨーゼフ・シュタイナーの第一子として誕生[1](両親は前年5月16日に結婚)。
1862年(1歳)ミュードリングへ転居。
1863年(2歳)年頭 僅か半年でミュードリング を去り、ポッチャッハ(何れも現在のオーストリア領)へ転居。彼は8歳までそこで生活する、また妹(レオポルディーネ)と弟(グスタフ)が生まれたのもこの土地である(家族は合計五人で、これ以降家族が増えることはなかった)。    
1868年(7歳)この頃、物質世界を超えた超感覚的(霊的)世界を感知するようになったという。
1869年(8歳)父親の転勤のため、ノイドゥルフルへ転居する。
1870年(9歳)学校の代用教員に幾何学に関する本を借り、幾何学に魅了される。
1871年(10歳)、カトリック教会のミサに出席し、大きな感銘を受け、また教区のリベラルなカトリック神父を通して地動説を知る。フリーメーソンの支部に出会うものの、心的な関係性は生まれない。隣町ウィーナー・ノイシュタットの医師カール・ヒッケルを通してドイツ文学を知る。駅にある無線電信で電気を知る。読むことには問題はなかったが、正しく文字を綴ることに苦労した

実業学校時代 ヴィーナー・ノイシュタット 1872-1879[編集]
1872年(11歳)ノイドゥルフルから5km離れた隣町ウィーナー・ノイシュタットにある実業学校に徒歩で通学する。一年生の時には学習に苦労するが、徐々に学力を身に付け、最終的には「優等生」と評されるようになる[3] 。
1873年(12歳)学校の年報の中あった原子と分子に関する論文に触発され、自然科学の文献を読みあさる。
1874年(13歳) 機械論的な世界解釈と、大好きな幾何学に没頭する。
1876年(15歳)、ヒッケル医師を通して哲学者テーオドール・レッシングを知る。
1877年(16歳)小遣いを貯めてカントの『純粋理性批判』を購入し、一人で読みふける。またヘルバルト主義的哲学の研究にも没頭する。
1879年(18歳)実業学校を卒業。この年、ある一人の薬草収集家と出会い、人類の歴史の中で、密かに、霊的な叡智が受け継がれて来たことを知り、これまで、人に話して来なかった自分の霊的な経験を語る。また、その男を通じて、知り合った、シュタイナー自身が“霊的な教師”と呼ぶ男から人生についてのアドバイスいくつか受けたという。

学業時代 ウィーン 1879-1890[編集]
インツァースドルフ(ウィーンから南東南へ約5km離れた近郊都市)への転勤のため、そこから2km離れたオーベルラーに住む。実業学校の卒業生には大学入学資格がなかったため、奨学金を得て高専に進むことにする。入学までの夏休みには(新学期は秋に始まるので)、フィヒテの知識学に没頭する。
10月、ウィーン工業高等専門学校(現ウィーン工科大学)の実業学校教職コース[要出典]に入学し、主に数学、生物学、物理学、化学を学ぶ。また、ウィーン大学などでも聴講生として講義を聞く。[4]事物の根本をすべて物質に還元して説明する自然科学と自身の霊的経験とのギャップに悩む。
1881年(20歳) 通学の電車の中でフェリックス・コグッツキー(1833-1909)に出会い交友を深め、後にトゥルーマウの自宅を度々訪問するようになる。
1882年(21歳) 家族はブルン・アン・ゲビルゲ(ウィーンから南西へ約10km離れた都市)に転居。
『原子論的概念に対する唯一可能な批判』と題する論文をフリードリッヒ・テオドール・フィッシャーに送る。この頃彼は、音楽に対して非常な難色を示すようになり、決定的なアンチ=ワーグナーを主張するようになる。(後には「音楽で霊的秘儀を解釈しようとしているリヒャルト・ワーグナーを研究しなければなりません」と語っている)
1883年(22歳)3月当時の著名な出版家、ヨーゼフ・キルシュナーは無名の学生であった22歳のシュタイナーの才能に注目し、ゲーテの自然科学に関する著作を校訂し、序文を書く仕事を依頼する。(14年後の1897年に完成)
ドイツ文学史の教授カール・ユリウス・シュルーアーを通して、ゲーテに触れ、ゲーテに関する基礎的な研究を始め、この頃『ファウスト』を初めて読む。そして、霊を否定する近代の自然科学では生命の本当の姿を捉えることはできが、自然(物質)と霊(精神)の間の架け橋を示すゲーテの世界観に可能性を感じる。シュタイナーはシュルーアーの観念論を更に発展させ、自らそれを「客観的観念論」と呼ぶようになる。ライトリンガーの実験室にて、物理学講座を選択し、特に光学に関する知識を得、後の『ゲーテの色彩論』の編集の際に、光の本質を理解する為の基礎を築く。
10月、教職資格を取得することなくウィーン工業高等専門学校を中退。
1884年(23歳) ウイーンの商人の家で家庭教師としての副業を開始する。その10歳になる息子は水頭症で発達が遅れていたが、シュタイナーの献身的な働きにより、2年後には健康状態も改善され、ギムナジウムに入学することができた。後には医者になる。哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマンの『人倫的意識の現象学』の研究に専念する。
1886年(25歳) キュルシュナーからシュタイナーを紹介されたシュペーマンは1886年シュタイナーの処女作となる『ゲーテ世界観の認識要綱』を出版する。
10月『ゲーテの自然科学論文集』の副読本として、初の著作『ゲーテ的世界観の認識論要綱』GA2を出版する。
1888年(27歳) 1月から7月に掛けて『ドイツ週報誌』の編集をする。
キュルシュナー編集の辞典の縁もあり、美学に関する研究を進め、特にアレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテンとエドゥアルト・フォン・ハルトマンの美学史に専念し、その研究内容はヴァイマールの「ゲーテ協会」にて『新たな美学の父としてのゲーテ』という題名の講義によって公開される。ロベルト・ハマーリングの『ホムンクルス』に強い感銘を受ける。プロテスタント系の牧師と興味深い出会いをする。豊富な交友関係とは裏腹に、内的な孤独に見舞われる。
1889年(28歳)初めてニーチェの『善悪の彼岸』を読む。またフォン・ハルトマンに初めて面会し、またローザ・マイレーダーとも知り合う。冬にウィーンの神智学徒フリードリッヒ・エックシュタインと知り合う。

ヴァイマール時代 1890-1896[編集]
1890年(29歳) ウィーンの『国民新聞』に演劇評論を連載。秋にワイマールへ転居し、ゲーテ=シラー遺稿保管局にて働くようになる。ワイマール版(ゾフィー版)ゲーテ全集の編纂に於いて、ゲーテの自然科学論文集の出版に携わる。
この時期エルンスト・ヘッケルに面会している。
1891年(30歳)ロストック大学のハインリッヒ・フォン・シュタイン教授に学生資格のない社会人として自費で論文指導(Externe Promotin)を受けることを許され、『認識論の根本問題――特にフィヒテの知識学を考慮して』と題する論文で哲学博士の学位を取得する。ただし、評価は「可」(ausreichend 合格4段階評価の一番下)だった。[5]
1892年(31歳) 5月 その論文に加筆・訂正したものを『真実と科学』GA3として出版。夏にはそれ迄のユンケル通り12番から、アンナ・オイニケの住むプレラー通り2番に転居。この時期いくつかの哲学、及び哲学史に関する著述をする、この中には1894年11月に刊行された『自由の哲学』GA4も含まれる。
1894年(33歳) 教授資格申請論文は評価されず失敗に終る。
1895年(34歳) 5月『フリードリッヒ・ニーチェ 時代の闘士』GA5を出版。
1896年(35歳) 「ゲーテ=シラー遺稿保管局」を退職。

ベルリン時代初期 1897-1901[編集]
1897年(36歳) ベルリンへ転居。
22歳から手がけたゲーテの自然科学論文の校訂作業が完了し、『ゲーテの自然科学論文集』が出版される。
7月 ゲーテ研究の集大成とも言える『ゲーテの世界観』GA6を出版。その本の最終章においてはゲーテとヘーゲルの関係性について述べている。
オットー・エーリッヒ・ハルトレーベンと共に『文芸雑誌』Magazins für Literatur(そこでの記事はGA29-32に収録)を創刊。「自由文芸協会」、「自由演劇協会」と「ジョルダーノ・ブルーノ同盟」にて活動。シオニズムに対して強い拒絶を示す。
1898年(37歳) 自身の編集による『演劇』を創刊、しかし翌年末には廃刊。
1899年(38歳) 1月13日からヴィルヘルム・リープクネヒト(1826-1900)に依って設立された労働者教養学校Arbeiter-Bildungsschuleで授業(歴史、話術・文章表現など)を始め、この仕事は1904年まで続く。この学校はやや社会主義的な色彩を持った教育施設であった。
10月31日 未亡人であるアンナ・オイニケ(1853-1911)と結婚し、フリーデナウ、カイザー通り95番に転居。
1900年(39歳) ドイツの作家ルードヴィッヒ・ヤコボフスキー(1868-1900)によって設立された「来るべき者達」と交流。
9月末『文芸雑誌』の仕事を辞める。初秋に、ブロックドルフ伯爵及びに伯爵夫人にベルリンの「神智学文庫」での講演を依頼され9月22日はニーチェについて、同月29日にはゲーテについての講義を行う。
10月6日より神秘主義に関する連続講義を開始、この内容は翌年自身の手に拠って纏められ出版されるGA7。これ以降、シュタイナーは、講演活動を活発に行うようになる。

生涯 神秘思想家として(後半)[編集]

アントロポゾフィー発展の第一段階 1902-1909[編集]
1902年(41歳) 1月17日に神智学協会の会員になる。
7月 マリー・フォン・ジーフェルス(1867-1948)と共にロンドンでの第13回ヨーロッパ支部年集会に出席。
9月には昨年に自身が行った講義を編集した『神秘的な事実としてのキリスト教と古代の秘儀』GA8が出版される。
10月19日 神智学協会ドイツ支部を設立し、同時に事務総長に就任(シュタイナーの妻マリー・シュタイナーによれば、この神智学協会の指導者になることについてシュタイナーは相当な躊躇をしていたという)。
1903年(42歳) 年頭にゼー通り40番に転居。
3月「建築家の家」という会場にて公開講義を開始し、この活動は1918年まで続く。
5月、雑誌『ルシファー』(後に『ルシファー=グノーシス』)を創刊し、その出版にあたる(そこでの記事はGA34に収録)。ワイマール、ケルン、ハンブルクなどのドイツ各地でも活動を始める。
10月、モッツ通り17番に再び転居(現在彼らの記念プレートが掛かっている)。
1904年(43歳) 5月『テオゾフィー』(邦訳では『神智学』)GA9を出版。それまでは自身の世界観を明らかにしていなかったが、この著作によって自身の思想の根幹を初めて公にした。雑誌『ルシファー』はウィーンの雑誌『グノーシス』に合併し『ルシファー=グノーシス』とその雑誌名を改める。
6月 現代人にふさわしい、霊的感覚を啓発するための修行法を示す『いかにしてより高次の認識を獲得するか』と題する連載を開始し、当初予定よりも倍近く長く続き(翌年まで続く)、後に一冊の本として出版されるGA10。
7月からは同誌にシュタイナー自身の霊視によって観察した宇宙や人間の進化の様子を描いた『アカシャ年代記より(AUS DER AKASHA.CHRONIK)』の連載が始まるが、この内容が彼の生前一冊の本として出版される事はなかった。同月アムステルダムにて神智学会議に出席。またこの年、マルクス主義である労働者教養学校側から、神秘思想家であるシュタイナーへの反対意見が生まれたが、生徒の支持が強く授業は続行される事になる。
1905年(44歳) 1月21日、同校指導部からの妨害により退職。
5月7日神智学協会の創始者ブラヴァツキー夫人について「霊的使命を持った人物は人々から生涯の外的側面によって判断されるため必然的に、はじめは誤解を、否、誹謗を受けざるを得ない」という旨を述べる。
10月 ロンドンでの神智学会議に出席する。
1906年(45歳) ベルリン以外では初めての連続講義をパリにて開催、またエドゥアルト・シュレーにもこの時期初めて逢う。
7月にはパリでの神智学会議に出席。フランクフルト・アム・マインや、ブレーメンなどでの、ドイツ各地での神智学支部の設立に関わる。
1907年(46歳)神智学協会会長であるヘンリー・スティール・オルコット(1832-1907)が2月17日に死去し、アニー・ベサントが第二代会長に就任する。
5月 シュタイナーが協会に参加してから初めてのドイツでの神智学会議は、ミュンヘンで開かれる。彼はそこでのインテリア設計を請け負い、自身の思想を建築的空間に可視的に表現する事を試みる。またシュレー作の『エレウシスの神聖劇』も上演される。
1908年(47歳) 8月1日 マリー・フォン・ジーフェルスは「哲学-神智学出版」(後に「哲学-人智学出版」)を設立する。この年にシュタイナーは初めてスカンディナヴィア地方を旅し、同時に各地で講義活動を行う。
1909年(48歳) ドイツの詩人クリスティアン・モルゲンシュテルン(1871-1914)に出会う。
8月、ミュンヘンでシュレー作の『ルシファーの子供たち』を上演。
12月、自身の霊学的研究の集大成とも呼べる『神秘学概論』GA13を脱稿。

アントロポゾフィー発展の第二段階 1910-1916[編集]
1910年(49歳) 初頭 後にシュタイナーの主著となる『神秘学概論』を出版。前著『神智学』にはなかった宇宙進化論を記載。
8月ミュンヘンで神秘劇第一部『秘儀参入の門』が上演される。これ以降シュタイナーの活動は、建築、彫刻・彫塑、絵画、音楽、言語芸術(言語造形)、運動芸術(オイリュトミー)などの各芸術分野に及ぶ。
1911年(50歳) 1月 アニー・ベサントの養子ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895-1986)を救世主とする「東方の星教団」がインドで設立され、まだ若かったジッドゥ・クリシュナムルティ(が、チャールズ・W・リードビターを初め、何人かの神智学協会の代表者らにより、“来るべき世界教師”、“キリストの再来”として宣伝されるようになる。
3月、妻のアンナ・シュタイナーが他界。
8月、ミュンヘンで神秘劇第二部『魂の試練』が上演される。
1912年(51歳) 8月、神秘劇第三部『境域の守護者』が上演される。同月、新しく作られる協会の名称として「アントロポゾフィー」を提案する。
9月 アントロポゾフィーが生み出した最も有名な運動芸術オイリュトミーが形作られ始める(正確には1908年五月の時点で既にその胎動が見られる。アントロポゾフィー協会(人智学協会)設立の準備を始める。
12月 神智学協会ドイツ支部は分裂に至り、世界組織とドイツの支部、結社の間に瞬く間に亀裂が見られるようになる。シュタイナーのグループはアニー・ベサントの養子、ジッドゥ・クリシュナムルティ(を来るべきキリストとして仰ぐことを拒んで、神智学協会を脱退する。同月28日彼はケルンでアントロポゾフィー協会を設立する。この協会は、ドイツ外の国々の神智学協会とも繋がりを持つようになっていく。また『アントロポゾフィー的魂の暦』が出版されたのもこの年である。
1913年(52歳) 2月3日アントロポゾフィー協会第一回総会がベルリンにて開催される。建設省の芸術担当者の反対により、「ヨハネス建築」(後にはゲーテアヌムと呼ばれる建物)が許可されない。
5月中旬に建築候補地としてドルナッハが挙がり、同18日にそれを決断。
8月にはミュンヘンにて神秘劇第四部『魂の覚醒』が上演される。
9月20日にはゲーテアヌムの礎石奉納の儀式を行う。
1914年(53歳) 3月31日には無二の友人であり最も良き理解者である詩人クリスティアン・モルゲンシュテルンを亡くす。
7月28日 第一次世界大戦勃発。
12月24日 マリー・フォン・ジーフェルスと再婚。また1914年から1923年にかけてシュタイナーはベルリンとドルナッハを行き来し、両都市をその居住地とする。
1915年(54歳) ゲーテアヌムの舞台の、背景の中心に据えられるべき「人類の代表者」と題する彫刻の製作に取り掛かる。またゲーテアヌムの大小二つの天井画を描く。

アントロポゾフィー発展の第三段階 1917-1923[編集]
1917年(56歳) 以降、シュタイナーの活動は実践的な社会運動へと及ぶ。彼は、自ら理念を携えて、様々な社会生活の領域に登場した。此の年に彼の中に社会有機体三分節化論の理念が浮かび、その実現に勤しむがそれは徒労に終わる。
1918年 11月11日第一次世界大戦終結。
1919年(58歳) 社会有機体三層化論に賛同したシュトゥットガルトのタバコ会社工場主エミール・モルトから従業員の師弟教育のために学校をつくってほしいと依頼される。
9月7日 シュトゥットガルトに「自由ヴァルドルフ学校」を開校。社会運動への参加に伴い敵対者が伴う。
『ドイツ国民及び文化世界に!』を出版。
12月23日から翌年1月3日にかけて同地で第一回自然科学講座が開催される。
1920年(59歳) 3月21日から4月9日にかけて第一回医学講座がドルナッハにて開かれる。これによってシュタイナーは、イタ・ヴェーグマンと共にアントロポゾフィー医学(シュタイナー医学)の創始者とされることになった。:ドイツに株式会社「来るべき日」、スイスに「フトゥルム」を設立。
9月26日午後五時 ゲーテアヌム開館。この頃から毎週のようにアントロポゾフィー非難の記事が新聞に掲載されるようになる。
1921年(60歳) 2月 月刊誌『ディ・ドライ』を創刊。
4月には治療オイリュトミー講座を開く。
6月、ドルナッハの隣町アーレスハイムに、イタ・ヴェーグマン拠って「臨床治療研究所」が開設される。
8月 週刊誌『ダス・ゲーテアヌム』を創刊。この頃、自らの自伝を書いた。
11月 ノルウェーのオスロ大学で「経済の根本問題」と題して講演。
1922年(61歳) 7月24日-8月6日 「国民経済学講座」が開かれる。
9月にキリスト者共同体の創設に寄与した。
12月31日 午後十時、火災によってゲーテアヌムが炎上、翌朝焼失。
1923年(62歳) 1月 体調が優れない中、週刊誌『ゲーテアヌム』で自伝『我が生涯の歩み』GA28の連載を始める。(翌々年の自身の死によってそれは中断、未完に終わる)。
12月25日-翌1924年1月1日 降誕祭会議を開催。それまでのアントロポゾフィー協会(人智学協会)を刷新し普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)として新しく発足。またその心臓部となる「霊学の為の自由大学」(翌年2月15日第一講開催)を設立する。本部はゲーテアヌムに置くものとされた。

晩年 1924-1925[編集]
1924年(63歳) 元日、ゲーテアヌム再建の為の構想を発表する。
1月13日には普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)の週刊報告誌『報告書』を創刊し、降誕祭会議に参加出来なかった者達の為にもその会議の内容を公開した。
2月15日には霊学の為の自由大学に於ける第一学級講座(クラッセン・シュトゥンデKlassenstunde)を開講する。此の講座は後に第二学級、第三学級と設立される予定であったが、シュタイナーの死によって中断された。
2月16日以降、彼の「本来の」使命であったカルマに関する連続講義(それは50回にも亘り、9月28日まで続く)をドルナッハにて開始し、その内容を凝縮したものを各地で講演し(これらは合計30回を越える)、降誕祭会議以降アントロポゾフィー運動と、普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)は同義identischになったと説き、協会の重要性について熱弁して回った。
同月、音楽オイリュトミー講座を開く。
3月末には、1月に日の目を見た「新しいゲーテアヌム」の1/100スケールの立体モデルを粘土で製作することに熱中した。三日三晩アトリエに籠もり切ったシュタイナーは「熱に浮かされたように」創作に集中し、3月26日に模型が完成し、僅か五週間で図面が引く。
6月、コーバーヴィッツでいわゆる「農業講座」が開かれ、かの有名なバイオ=ダイナミック農業の基礎を築く。この方法で作られた野菜は、ドイツではデメターDemeterというマークがつけられている。
6月から翌7月 言語オイリュトミー講座及びに治療教育講座がドルナッハにて行われる。
9月、ドルナッハにて演劇講座。9月28日午後8時からの講演を20分で中断し、病床に就く。三月に出来上がった
12月1日 「新しいゲーテアヌム」の建築許可が下りる。このコンクリート作りのいわゆる「第二ゲーテアヌム」の建設が実際に始まったのは翌年に入ってからであり、完成したのは1928年、即ち彼の死の三年後であった。
1925年(64歳) 元日深夜、卒倒、高熱により食欲は減衰。3月26日病状は好転するものの、3月29日病状は悪化、3月30日午前4時頃 イタ・ヴェーグマンに苦痛を訴え、5時頃に普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)理事である、アルベルト・シュテッフェン、ギュンター・ヴァックスムートが病室に呼ばれる。午前10時頃、ルドルフ・シュタイナー他界。
4月1日 夜に葬儀が執り行われる。死の三日前までシュタイナーは「人類の代表者」にのみを振っており、また死の前日には第二ゲーテアヌムの内部建築のために使用するアトリエの完成について訊ねているなど、その制作意欲は最後まで衰える事はなかった。

死後[編集]
1928年 第二ゲーテアヌムが完成。
国家社会主義の時代(ナチスドイツ時代)には、アントロポゾフィーは、さまざまな規制を加えられ、もとよりその個人主義により、ナチスの全体主義と対立せざるを得ない立場にあり、闘いながら自らを守っていくしかなかった。加えて人は、アントロポゾフィーをフリーメーソンとのつながりで理解した。
1933年11月15日、国家社会主義のテューリンゲン州の経済相は、生物学的力動的(バイオダイナミック)な生産方式の宣伝普及を禁止した。
1935年11月1日 ドイツのすべての普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)が、ラインハルト・ハイドリヒ の訓令により禁止された。アドルフ・ヒトラーも既に1921年の論文(「国の指導者か、国民への犯罪者か」)において、「社会有機体の3分化」を「諸民族の正常な精神状態を破壊するユダヤ人の策謀」と罵倒していた。
1948年10月27日 マリー・シュタイナー(旧姓ジーフェルス)が他界。
1992年 日本アントロポゾフィー協会(東京)でも精神科学自由大学の活動(クラッセン・シュトゥンデ)が始まる[6]。
2000年5月 日本で「日本アントロポゾフィー(人智学)協会」が設立される(2002年11月、NPO法人として認証を受ける[6])

日本への紹介[編集]

1925年から14年、ドイツ人哲学者フリッツ・カルシュが旧制松江高等学校(現島根大学)にて教鞭をとっていたが、その授業の中で人智学を教えている。彼はマールブルク大学在学中にゲーテアヌムでシュタイナーと直接会ったのをきっかけに人智学に傾倒しており、人智学に関して綴ったノートを妻エッメラ宛に送っている。また、長女メヒテルトは関連文献の英語訳者として活動、次女フリーデルンはマールブルクのシュタイナー学校に通い、自由ヴァルドルフ学校でシュタイナー教育に従事、日本人親子を指導したとされる[7]。

1920年代には、シュタイナーの設計した「ゲーテアヌム」を現地で見て感激した早稲田大学の今井兼次教授によって、日本の建築関係者達の間で知られるようになった。

1970年代頃から、娘の教育のため、家族でドイツに留学した早稲田大学教授の子安美知子が『ミュンヘンの小学生 : 娘が学んだシュタイナー学校 』(中公新書 1975年)を初めとした一連の教育体験報告が反響を呼び、新しい教育方法としてシュタイナーの思想が注目された。

1980年代になって、哲学関係の出版社「イザラ書房」がシュタイナーの翻訳出版を始める。

1996年には、NHKのNHK衛星第2テレビジョンの「素晴らしき地球の旅」という番組でシュタイナー教育が紹介された。

また、イタ・ヴェークマン医師とシュタイナーが共同で創始したシュタイナー医学に関しては、2004年春から、日本でも「ゲーテアーヌム精神自由大学」の主催で医師向けの専門的な訓練が日本国内でも開始されている現状があり、2005年5月5日には「日本アントロポゾフィー医学のための医師会」というものが設立されている。

2000年4月14日から8月27日には東京のワタリウム美術館で、2001年3月3日(土)〜4月5日(木) にはKPOキリンプラザ大阪で, シュタイナーが書き留めたノートを展示する「ルドルフ・シュタイナー 100冊のノート展」が開催された。

評価[編集]

シュタイナーの存命時は1914年までにヨーロッパに広い範囲に支持者ができた。第一次世界大戦後にシュタイナーの名が大きく知られることになり評価する人が増えた[8]。

シュタイナーを評価した人々[編集]
ブルーノ・ワルター(ドイツ・ユダヤ系の高名な指揮者。晩年に普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)に入会した。キリスト者共同体にも関係していた。)
ヴィクトル・ウルマン(チェコの作曲家、ユダヤ人だったためナチスのアウシュヴィッツ強制収容所で命を落とした。)
ソール・ベロー(カナダ出身のアメリカのノーベル賞作家)
ヨゼフ・ボイス(ドイツの芸術家)
マイケル・チェーホフ(ロシアの名優。革命後アメリカに渡りユル・ブリンナー、グレゴリー・ペックなどハリウッドの俳優を教育した。ロシア時代にシュタイナーの影響を強く受けている)
ミヒャエル・エンデ(シュタイナー学校に2年ほど通い、キリスト者共同体にも関係していた。シュタイナーから思想的に影響は受けているけれども、芸術に関してはシュタイナーとは意見を異にすると語った)
マリリン・モンロー(シュタイナーの著作を愛読していた)
前田日明(プロレスラー。シュタイナーの著作の愛読者)
今井兼次(建築家。シュタイナーの設計したゲーテアヌムに感動し、シュタイナーを日本で初めて紹介)
笠井叡(日本の舞踏家・オイリュトミスト。シュタイナー学校に留学し、帰国後、ワークショップや翻訳などオイリュトミーおよびシュタイナー思想の普及活動に従事する。息子も人智学関係である。)
江原啓之(スピリチュアルカウンセラー。シュタイナーのようにスピリチュアリズムをアカデミックな思想として確立させたいとしている[9]。)
雁屋哲(漫画『美味しんぼ』の原作者。子どもたちをシドニーのシュタイナー学校に通わせた)[10]

シュタイナーの思想に対する批判[編集]

ルドルフ・シュタイナーのラジカルな業績は、その存命時から既に多くの議論を巻き起こした。主な批判としては、大学の学識経験者たちが認めない、「人智学の科学性」の宣言、教会関係者が非難する「キリスト論のグノーシス主義的な諸前提」、並びに「人種差別的」とみなされたシュタイナーの民族論である。しかしながらシュタイナーの思想は、カルマの法則により同じ民族の元には再び生まれてこない「生まれ変わりの思想」を前提としており、その思想を全くもたない一般社会においては、これが常に大きな誤解のもととなっている。シュタイナーは本当のオカルティズム(神秘学、霊学)の実現のためには、民族を超えた生まれ変わりを前提としているので、「自分の属している民族という殻から脱しなければならない。」、「一つの民族だけに役立つような霊性を持ってはならない。」「人間は輪廻転生をとおして、さまざまな人種に受肉していきます。ですから、仮にだれかが『ヨーロッパ人は黒人や黄色人種よりも優れている』と異議を唱えようとも、実際は、そのようなハンディキャップは大きな意味で全く存在しないのです。」と述べている[11]。

シュタイナーの霊的な能力を生前から敵視していたのは、アドルフ・ヒトラーと、彼と1919年に出会って以来、彼の精神的指導者でもありトゥーレ協会の中心人物でもあったディートリヒ・エッカート(エックハルト)であった。エッカートは「シュタイナーの霊的洞察力の前にあっては、何事も隠しおおせるものではない。彼とその入門者たちは、我が『卜ゥーレ協会』の性質に異を唱え、我らの会合や入門儀式の全てを霊的地点から監視している……」とし、ヒトラーはナチス結成時の党大会で、「我々はシュタイナーとその追随者を許してはならない!なぜなら彼は、シュリーフェン作戦、ひいては第一次世界大戦におけるドイツ敗北の直接の戦犯だからである。」と、シュタイナーをあからさまに批判した。第1ゲーテアヌムを放火したのもナチの関係者ではないかという情報があるが、事件の解明には至っていない[12]。一方、シュタイナーも彼らの台頭を危険視しており、彼らがまだ無名だった1923年に起こしたミュンヘン一揆の時には、「もし、この組織が今後、大きな勢力を奮うことになれば、それは中部ヨーロッパに大きな不幸をもたらすでしょう。」と評していた[13]。

著作[編集]

ルドルフ・シュタイナー全集[編集]

シュタイナーの講義の多くは、専門の職人による速記録や、聴衆がメモで残した記録などが現存しており、シュタイナーの生前はそれらをもとに私家版や雑誌掲載のかたちで発表されていた。後年それらはシュタイナー自身の著作を含め、「ルドルフ・シュタイナー出版」(Rudolf Steiner Verlag)によって、『ルドルフ・シュタイナー全集』(Rudolf Steiner Gesamtausgabe)というかたちで系統的に出版されており、2006年現在に於いては最も手に入れ易く、またポピュラーな版となっている。また、それは354巻のシリーズであるが、その編纂は現在も未だ完了しておらず、その為に必要な時間は四半世紀とも半世紀とも言われている。全集の著作権は、スイスのドルナッハの「ルドルフ・シュタイナー遺稿管理局」にある。 ルドルフ・シュタイナー全集は「著作」・「講義録」・「芸術作品の複製品」の三つに分類されており、全集は部門・分野ごとに分割された後、年代順に「全集」を表すGesamtausgabeという言葉の頭文字をとり、GA〜番とナンバリングされている。

A.著作[編集]
GA1-28 I. 本として出版されたもの(生前、死後を含む)
GA29-36 II. 論文集
GA38-45 III. 遺稿管理局による資料公開

B.講義録[編集]

ルドルフ・シュタイナーの著作は決して少なくはないが、講義録の分量はその十倍にも数に上る。講義録は以下の様に三分割されており、「II.」のような学問的ないわゆる「アントロポゾフィー一般」の内容を扱ったものは「〜講義」とよばれ、「III.」の様に職業や芸術などの言わば専門分野を扱った、具体的な内容のものは「〜講座」と呼ばれる。上記の生涯に関する記述においては紙面の都合上、基本的には後者のみ掲載した。
GA51-84 I. 公開講義
GA88-270 II. アントロポゾフィー協会(人智学協会)員の為の講義
GA271-354 III. 専門分野の為の講義と講座(1:芸術、2:教育、3:医学、4:自然科学、5:社会論、6:神学者、7:労働者)

C.芸術作品の複製品(主なもの)[編集]

出版社はシュタイナーの絵画作品のレプリカ(ポスターや絵葉書)、絵画の授業に使った習作、オイリュトミーの動き方や形態に関するスケッチ、黒板絵、ゲーテアヌムの写真などを画集として出版している。それらは芸術Kunstに関するものなのでK〜番という表記でナンバリングされている。
K12 ゲーテアヌムのステンドグラスに関するものK23/1-23/8,24 オイリュトミーのフォルムK58/1-58/29 黒板絵の画集
D.ルドルフ・シュタイナー全集に宛てた寄稿論文集[編集]

平均約60頁でB5の小冊子で、2006年現在122巻まで発行されている。1949年以降年平均2巻強のペースで刊行されており、現在も刊行中。

本として出版されたもの[編集]

( )内は日本語に翻訳され出版されたもの
GA1 Einleitungen zu Goethes Naturwissenschaftlichen Schriften, 1884-1897 『ゲーテの自然科学論文集へ宛てた序文』
GA2 Grundlinien einer Erkenntnistheorie der Goetheschen Weltanschauung, 1886 
(『ゲーテ的世界観の認識論要綱』浅田豊(訳) 筑摩書房 1991年 6月 ISBN 4480842160)GA3 Wahrheit und Wissenschaft, 1892 『真実と科学』
GA4 Philosophie der Freiheit, 1894 
(『自由の哲学』 高橋巌(訳) [ちくま学芸文庫] 筑摩書房 2002年7月 ISBN 978-4480087140)GA5 Friedrich Nietzsche, ein Kämpfer gegen seine Zeit(『フリードリッヒ・ニーチェ 時代の闘士』), 1895 
GA6 Goethes Weltanschauung, 1897 
(『ゲーテの世界観』 溝井高志(訳)晃洋書房 1995年3月31日 ISBN 978-4771007604)GA7 Die Mystik im Aufgange des neuzeitlichen Geisteslebens und ihr Verhältnis zur modernen Weltanschauung, 1901 『近世的精神生活の黎明における神秘主義と、近代的世界観とその関係性』
GA8 Das Christentum als mystische Tatsache, 1902 
(『神秘的な事実としてのキリスト教と古代の秘儀』 西川隆範(訳) アルテ、星雲社 2003年1月20日 ISBN 4434028170)GA9 Theosophie. Einführung in übersinnliche Welterkenntnis und Menschenbestimmung, 1904 
(『神智学』高橋巌(訳) 筑摩書房 2000年7月 原書第九版 ISBN 4480085718)GA10 Wie erlangt man Erkenntnisse der höheren Welten, 1904月 
(『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(高橋巌(訳) [ちくま学芸文庫] 筑摩書房 2001年10月 ISBN 4480086641)GA11 Aus der Akasha-Chronik, 1904–08 
(『アカシャ年代記より』高橋巖(訳) 国書刊行会 1994年6月 ISBN 978-4336036247)GA12 Die Stufen der höheren Erkenntnis, 1905-1908 『より高次の認識の階梯』
GA13 Die Geheimwissenschaft, 1909
(『神秘学概論』高橋巌(訳) [ちくま学芸文庫] 筑摩書房 1998年1月 ISBN 978-4480083951 )GA14 Vier Mysteriendramen, 1910-13 
(『泉の不思議―四つのメルヘン』西川隆範(訳) イザラ書房 1993年9月25日 ISBN 978-4756500533)GA15 Die geistige Führung des Menschen und der Menschheit, 1911 『人間と人類の霊的な導き』
GA16 Ein Weg zur Selbsterkenntnis des Menschen, 1912 『人間の或る自己認識への道』
GA17 Die Schwelle der geistigen Welt, 1913 
(『霊界の境域』神秘学叢書 西川隆範(訳) 水声社 1985年11月 ISBN 978-4891761615)GA18 Die Rätsel der Philosophie, 1914 
(『哲学の謎』山田明紀(訳) 水声社 2004年3月 ISBN 978-4061492868)GA20 Vom Menschenrätse, 1916 『人間の謎より』
GA21 Von Seelenrätseln, 1917 『魂の謎より』
GA22 Goethes Geistesart, 1918 『ゲーテの霊性』
GA23 Die Kernpunkte der sozialen Frage, 1919
(『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』 ルドルフ・シュタイナー選集第11巻  高橋巌(訳) イザラ書房 1991年4月 ISBN 4-7565-0036-6)GA24 Aufsätze über die Dreigliederung des sozialen Organismus, 1919 『社会有機体三層化の為の論文集』
GA25 Drei Schritte der Anthroposophie, 1922 『アントロポゾフィーの三段階』
GA26 Anthroposophische Leitsätze, 1924/1925 
(『人智学指導原則』 西川隆範(訳) 水声社 1992年9月20日 ISBN 489176256X)GA27Grundlegendes für eine Erweiterung der Heilkunst nach geisteswissenschaftlichen Erkenntnissen, 1925 『霊学的認識に基づいた治療芸術の拡張の為の基礎』
GA28 Mein Lebensgang, 1923-25 『我が生涯の歩み』(自伝)
(『シュタイナー自伝(1)』伊藤勉(訳) ぱる出版 2001年7月 ISBN 4893868888)(『シュタイナー自伝(2)』伊藤勉(訳) ぱる出版 2001年7月 ISBN 4893868896)
論文集[編集]
GA30 Methodische Grundlagen der Anthroposophie 1884-1901 『アントロポゾフィーの方法論的基礎 1884-1901』
GA31 Gesammelte Aufsätze zur Kultur- und Zeitgeschichte 1887-1901. 『文化史・現代史に関する論文集 1887-1901』
GA32 Gesammelte Aufsätze zur Literatur 1884-1902 『文学に関する論文集 1884-1902』
GA33 Biographien und biographische Skizzen 1894-1905. Schopenhauer - Jean Paul - Uhland - Wieland. 『伝記と伝記的小作品 1894-1905 ショーペンハウエル、ジャン・パウル、ウーランド、ヴィーランド』
GA34 Lucifer-Gnosis 1903-1908. 『ルシファー=グノーシス アントロポゾフィーの基礎的論文集 1903-1908』
GA35 Philosophie und Anthroposophie. Gesammelte Aufsätze 1904-1918. 『哲学とアントロポゾフィー 論文集1904-1918』
GA36 Der Goetheanumsgedanke inmiten der Kulturkrisis der Gegenwart1921-1925. 『今日の文化危機の真っ只中に於けるゲーテアヌム思考 1921-1925』

遺稿管理局による資料公開[編集]
GA38 Briefe, Bd.1, 1881-1890 『書簡 1881-1890 第一巻』
GA39 Briefe, Bd.2, 1890-1925 『書簡 1890-1925 第二巻』
GA40 Wahrspruchworte 『真実の言葉』
GA44 Entwürfe, Fragmente und Paralipomena zu den vier Mysteriendramen 『「神秘劇」の草稿』
GA45 Anthroposophie. Ein Fragment aus dem Jahre 1910 『アントロポゾフィー 1910年のフラグメント』

その他の日本語に訳された文献[編集]
『第五福音書』(西川隆範(訳) イザラ書房 1986年4月 ISBN 4756500226)
『ルドルフ・シュタイナー教育講座(1) 教育の基礎としての一般人間学』 (高橋巌(訳) 筑摩書房 1989年1月 ISBN 4480354212)
『ルドルフ・シュタイナー教育講座(2) 教育芸術 1方法論と教授法』 (高橋巌(訳) 筑摩書房 1989年2月 ISBN 4480354220)
『ルドルフ・シュタイナー教育講座(3) 教育芸術 2演習とカリキュラム』 (高橋巌(訳) 筑摩書房 1989年3月 ISBN 4480354239)
『病気と治療』(西川隆範(訳) イザラ書房 1992年4月 ISBN 4756500447)
『民族魂の使命』(西川隆範(訳) イザラ書房 1992年8月 ISBN 978-4756500465 )
『音楽の本質と人間の音体験』(西川隆範(訳) イザラ書房 1993年3月 ISBN 475650051X )
『シュタイナー教育の実践』西川隆範(訳) イザラ書房 1994年5月24日 ISBN 4756500595)
『シュタイナーのカルマ論 カルマの開示』(高橋巌(訳) 春秋社 1996年1月 ISBN 4393322088)
『農業講座 農業を豊かにするための精神科学的な基礎』(訳:新田義之 イザラ書房 2000年5月 ISBN 4756500870)
『オカルト生理学』 (高橋巌(訳) 筑摩書房 2004年8月 ISBN 4480088741)
『治療教育講義』 ちくま学芸文庫 (高橋巌(訳) 筑摩書房 2005年5月 ISBN 978-4480089083)
『色彩の本質◎色彩の秘密』(西川隆範(訳) イザラ書房 2005年12月 ISBN 475650096X)
『シュタイナー経済学講座 国民経済から世界経済へ』(西川隆範(訳) 筑摩書房)

シュタイナー以外の著者による参考文献[編集]
フランス・カルルグレン(著) 高橋明男(訳)『ルドルフ・シュタイナーと人智学』 水声社 1992年12月 ISBN 4891762780
コリン・ウィルソン(著)中村保男(訳)・ 中村正明(訳) 『ルドルフ・シュタイナー その人物とヴィジョン』 河出書房新社  1986年7月 ISBN 4-309-24088-7
アン・バン・クロフト(著)  吉福伸逸(訳)『20世紀の神秘思想家たち』 平河出版社
メアリー・ルティエンス(ラッチェンス)(著)、高橋重敏(訳) 『クリシュナムルティ 目覚めの時代』 めるくまーる
ルネ・ゲノン(著)  田中義廣(訳)『世界の終末 現代世界の危機』 平河出版社 1986年
本村佳久「有機的建築の研究-R.シュタイナーの建築思想について」『広島女学院大学論集』47、1997年
A・Pシェパード(著)、中村正明(訳)『シュタイナーの思想と生涯』 青土社 1998年6月10日 ISBN 4791756320
本村佳久「H.ヘーリング・R..シュタイナーの建築思想」『広島女学院大学生活科学部紀要』7、2000年
マンフレッド・クリューガー(著)、鳥山雅代(訳)『瞑想 芸術としての認識』(水声社 2007年5月 ISBN 4891766276)
セルゲイ・O・プロコフィエフ(著)、和田悠希・遠藤真理(共訳)『赦しの隠された意味』 涼風書林 2011年






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表・話・編・歴
ルドルフ・シュタイナー

教え
神秘学 - アントロポゾフィー - 人智学 - エーテル体 - アストラル体 - オーラ - チャクラ - 社会三層化論 - 輪廻 - 転生 - 瞑想 - ヨーガ - アカシックレコード - 霊視 - レムリア - アトランティス - 天使 - 堕天使 - ルシファー - アンラ・マンユ(アーリマン)


実践・活動
シュタイナー教育 - ヴァルドルフ学校 - オイリュトミー


「人智学協会」関連人物
子安美知子 - 高橋巌 - 新田義之 - ブルーノ・ワルター - ヨーゼフ・ボイス - 笠井叡 - 鳥山敏子


関連人物
ブラヴァツキー夫人 - 神智学協会 - ジッドゥ・クリシュナムルティ - ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ - フリードリヒ・ニーチェ - イマヌエル・カント - ソール・ベロー - 今井兼次 - ミヒャエル・エンデ - 前田日明 - マイケル・チェーホフ


問題・批判
オカルト - 人種差別[要出典]


公式ウェブサイト
日本アントロポゾフィー協会 - 普遍アントロポゾフィー協会 Official Web site(ドイツ語)



外部リンク[編集]
日本語サイト
NPO法人 日本アントロポゾフィー協会一般社団法人普遍アントロポゾフィー協会−邦域協会日本四国アントロポゾフィークライスひびきの村小林直生 慢遊と厳座(シュタイナーの生涯のエピソード多数)入間カイのアントロポゾフィー研究所(シュタイナー「アントロポゾフィー指導原理」翻訳解説含む)風韻坊ブログ(入間カイ氏の個人ブログ)アントロポゾフィーの時間アームチェア人智学日本人智学協会(代表者:高橋巖)日本アントロポゾフィー医学のための医師会 J-PAAM (シュタイナー医学実践をめざす医師らのサイト、国際アントロポゾフィー医学ゼミナール)イザラ書房(シュタイナーの著作を専門に出版している会社)水声社(シュタイナーの神秘学、シュタイナー教育、シュタイナー医学関連の書籍を中心にすえている会社)「シュタイナー通信プレローマ」はシュタイナー関係の記事、イベント紹介などをする季刊誌らせん教室(シュターナーの思想の基礎にあるゲーテの自然観を中心に学ぶ福岡の学習会)シュタイネリアン密教家 西川隆範 (シュタイナーの著作の訳者、西川隆範のサイト)西川隆範:シュタイナー人智学の研究佐藤公俊のホームページ(シュタイナーに関する翻訳や著書を出版している)FRONNOW MULTI REPORTシュタイナー研究室風のトポス 神秘学遊戯団(シュタイナー講義録翻訳多数含む)SkepDic 日本語版 (エンコードの日本語(JIS)で表示)音魂大全の中の:シュタイナーのページ精巧堂ストアドイツ語サイト
シュタイナーの生涯と著作ルドルフ・シュタイナーの簡潔な紹介英語サイト
「Rudolf Steiner」 - Skeptic's Dictionaryにある「ルドルフ・シュタイナー」についての項目。(英語)
英文を中心としたルドルフ・シュタイナーの著書・講演録のアーカイブルドルフ・シュタイナーマニュアル(PDF、ドイツ語、英語)
脚注[編集]

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1.^ a b c d フランス・カルルグレン(著)、高橋明男(訳)『ルドルフ・シュタイナーと人智学』(「水声社 1992年12月1日」
2.^ 高橋弘子 『日本のシュタイナー幼稚園』(水声社 1995年12月) ISBN 978-4891763206
3.^ ルドルフ・シュタイナー『シュタイナー自伝 I』人智学出版社、1982年、35ページ。
4.^ Helmut Zander: Anthroposophie in Deutschland, Göttingen 2007
5.^ Helmut Zander: Anthroposophie in Deutschland, Göttingen 2007
6.^ a b 日本アントロポゾフィー協会オフィシャルホームページ
7.^ "歴史の狭間に埋もれた教育界の偉人・カルシュ博士 若松秀俊"(JanJanBlog)
8.^ A・Pシェパード(著)中村正明(訳)『シュタイナーの思想と生涯』青土社 1998年6月10日
9.^ 江原啓之 『江原啓之 本音発言』(講談社 2007年10月19日)ISBN 978-4062141215
10.^ 雁屋哲『シドニー子育て記―シュタイナー教育との出会い』 遊幻舎  2008年11月 ISBN 978-4990301934
11.^ (『ゲーテアヌム通信』1990年10月号、ルドルフ シュタイナー (著)、西川 隆範 (訳) 『民族魂の使命』(イザラ書房 1992年8月)p87,p237、ISBN 978-4756500465
12.^ "ゲーテアヌム炎上"
13.^ "ヒトラー vs R・シュタイナー"

人智学

人智学(じんちがく)とは、逐語訳では「人間の叡智」を意味するドイツ語: Anthroposophie (ギリシア語:ανθρωποσοφια) の日本訳語として一般に用いられる言葉である。語源はギリシア語であり、人間を示す ανθρωπος (anthropos, アントローポス)と、叡智あるいは知恵を示す σοφια (sophia, ソピア)を合成したものである。19世紀末から20世紀初頭にかけてドイツ語圏を中心とするヨーロッパで活躍した哲学者・神秘思想家のルドルフ・シュタイナー(1861-1925)が自身の思想を指して使った言葉(これについてはアントロポゾフィーの項に詳しい)として有名であるが、この言葉自体は近世初期にすでに使用されている。



目次 [非表示]
1 歴史 1.1 16世紀
1.2 イグナツ・パウル・ヴィタリス・トロクスラー
1.3 イマヌエル・ヘルマン・フィヒテ
1.4 ギデオン・シュピッカー
1.5 ロベルト・ツィンマーマン

2 ルドルフ・シュタイナーの人智学
3 言葉について
4 関連項目


歴史[編集]

16世紀[編集]

人智学(Anthroposophie, アントロポゾフィー)という概念は、近世初期の時点ですでにその使用が確認されている。ルネサンス・プラトン主義者で秘教学者として有名なドイツのハインリヒ・コルネリウス・アグリッパに端を発するとみなされている、著作者不明の魔術書『古代魔術のアルバテル 至高の叡智の研究』(Arbatel de magia veterum, summum sapientiae studium, 1575)において、人智学(神智学も同様)は「善の科学」に分類されており、「自然的事物に関する知識」あるいは「人間的事象における狡猾さ」と訳されている。

イグナツ・パウル・ヴィタリス・トロクスラー[編集]

19世紀初頭には、スイスの医師であり哲学者でもあるイグナツ・パウル・ヴィタリス・トロクスラー(Ignaz Paul Vitalis Troxler, 1780-1866)が「人智学」という概念を受け継ぎ、それを著作『生智学の要素』(1806年)にて生智学(独: Biosophie, ビオゾフィー)〔βιος/bios:生命 + σοφια/sophia:叡智〕に分類した。生命哲学の、そしてまた何よりもトロクスラーに学んだ自然哲学者シェリングの先駆者という意味において、生智学は「自己認識を通して得る自然認識」を意味している。トロクスラーは人間の自然に関する認識のことを人智学と呼んだ。彼に従えば、全ての哲学は人智学にならなければならない、また全ての哲学とは同時に自然認識でなければならない。それは「本来的な人間」に基づいた「客観化された人間学」(objektivierte Anthropologie)と考えられていた。必然的に神と世界は、人間の自然において神秘的過程を通して統一されるのである。

イマヌエル・ヘルマン・フィヒテ[編集]

かの有名なヨハン・ゴットリープ・フィヒテの息子であり、またゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの弟子(右派)でもあるイマヌエル・ヘルマン・フィヒテ も、この概念を使用している。彼は著書『人類学 人間の魂に関する学問』(1856年)の中で人智学とは「精神が行う委曲を尽くした承認のみ」における「人間の根本的自己認識」であるとした。「神的な精神の居合わせあるいは実証を、自らの内側に向けることのみ」以外の方法で、「人間の精神」はしかしそれを真に根本的にあるいは徹底的に認識することはできないとした。

ギデオン・シュピッカー[編集]

宗教哲学者であるドイツのギデオン・シュピッカー(Gideon Spicker, 1872-1920)は「宗教に、哲学的形式をもって自然科学的な基礎を与える」ことに心血を注ぎ、信仰と知識あるいは宗教と自然科学の葛藤を、自らの人生と思考の根本問題であるとみなした。彼は「最も高貴な自己認識」という意味において人智学の要綱を以下のように表現した。


科学においての問題は事物の認識である、一方哲学においての問題はこの認識に関する認識を裁く最終的な審判である。従って人間が持つべき本来の研究課題とは、人間自身に関するものである。同時にそれは哲学の研究であり、その究極の到達点は自己認識あるいは人智学である。(『シャフツベリー伯爵の哲学』、1872年)

シュピッカーの理想は、理性と経験の適用下における自己責任に基づいた認識として、宗教の中での神と世界の統一を包括するものであった。

ロベルト・ツィンマーマン[編集]

オーストリアの哲学者でありヘルバルト主義者でもあるロベルト・ツィンマーマン(Robert Zimmermann, 1824-98)は、いわゆる「哲学序論」の創始者でもある。彼は1882年の自らの著作において「人智学」という言葉を選んだ(『人智学概論 実念論的基礎に基づいた観念論的世界解釈体系のための草稿』、1882年)。その哲学講義を若かりし日にルドルフ・シュタイナーも聴講したことがあるというツィンマーマンは、「通俗的な体験の見地が担う制約と矛盾」を自らの体系において克服するために「人間知の哲学」を構築しようとした。それは経験の科学に端を発するものであるが、同時に論理的思考が必要とされる場合、それを超越するものでもあった。

ルドルフ・シュタイナーの人智学[編集]

詳細は「アントロポゾフィー」を参照

1880年代中盤からゲーテ研究家ならびに哲学者として活躍していたルドルフ・シュタイナーは、1900年代に入った頃からその方向性を一転させ、神秘的な事柄について公に語るようになった。その年の秋にベルリンの神智学文庫での講義を依頼され、シュタイナーはこれに応じる。1902年1月には正式に神智学協会の会員となり、ドイツを中心にヨーロッパ各地で講義などの精力的な活動を繰り広げる。1912年、アニー・ベサントらを中心とする神智学協会幹部との方向性の違いから同会を脱退、同年12月に当時の神智学協会ドイツ支部の会員ほぼ全員を引き連れてケルンにて人智学協会を設立する。

それまで神智学と呼んでいた自身の思想をシュタイナーがどの時点で人智学と呼ぶようになったかは不明であるが(当然協会を移転した1912年前後であると予想されるが、正確な日時は不明)、1916年にツィンマーマンからの影響に関して以下のように述べている。


我々の持つ事柄(Sache)に、いかなる名前を与えるかという問題には、長い年月を要した。そんな中、非常に愛すべき人物が私の脳裏に浮かんだ。何故なら私が青年時代にその講義も聴講したことのある哲学の教授ロベルト・ツィンマーマンは、自らの主著を『人智学』と呼んでいたからである。(『論文集』全集36番176P.)

言葉について[編集]

ここでは「人智学」と「アントロポゾフィー」の二つの訳語を採用した。「人智学」は近世以降にヨーロッパを中心に哲学者たちの間で使用されていた意味において、そして「アントロポゾフィー」はドイツの哲学者・神秘思想家ルドルフ・シュタイナーが、自らの思想を指す意味において使用した。換言すれば、アントロポゾフィーは人智学に含まれ、前者は後者よりも狭い意味を持つといえる。二つの訳語を用いる理由は、第一は一般的な言葉である「人智学」をシュタイナーの思想のみに限定しないためであるし、第二はシュタイナーが Anthroposophie を訳さずに原語のまま使用することを希望したからである。

関連項目[編集]
アントロポゾフィー
ルドルフ・シュタイナー
神智学

アントロポゾフィー

アントロポゾフィー(独: Anthroposophie)とは、オーストリア帝国出身の神秘思想家ルドルフ・シュタイナーが自身の思想を指して使った言葉である。またこれは、一般に人智学と訳されている言葉の音訳である。「アントロポゾフィー」と「人智学」の違いに関しては語源の節(→4.1 語源)で説明する。



目次 [非表示]
1 概念 1.1 『テオゾフィー(神智学)』
1.2 『神秘学概論』
1.3 認識の道
1.4 哲学的側面
1.5 総括 1.5.1 著作について


2 発展 2.1 芸術運動
2.2 社会実践
2.3 総括

3 思想的概要 3.1 人間論 3.1.1 <わたし>とは
3.1.2 人生論

3.2 宇宙論
3.3 修行論

4 言葉について 4.1 語源
4.2 発音
4.3 二つの協会

5 参考文献 5.1 アントロポゾフィー一般に関して
5.2 さらに詳しい情報

6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク


概念[編集]

シュタイナーの思想を知るにあたって最も優れた資料は彼自身の手によって著された著作であり、講義録ではない[1]。しかしながら彼の著作の中で『アントロポゾフィー』という表題を担うものは存在しない[2]。この事実が、アントロポゾフィーという概念を明らかにすることを困難にしている。

『テオゾフィー(神智学)』[編集]

それまでは新進気鋭の哲学者ならびにゲーテ研究家として活躍していたシュタイナーは、20世紀の初頭から神秘思想家としての活動を開始する。1902年以降はテオゾフィー(神智学)協会に所属し、そこで講義活動を行った(1912年に同協会を脱退し、アントロポゾフィー協会を設立)。そして1904年に出版された『神智学』によって、初めて彼の思想の全体像が公の場に体系的に示されることとなった。
→生涯の詳細はルドルフ・シュタイナーを参照。

テオゾフィー(神智学)協会脱退後、シュタイナーは自らがそれまで「テオゾフィー(神智学)」と呼んでいたものは全て「アントロポゾフィー(人智学)」であり、テオゾフィー(神智学)協会に属していながらもそこで述べていた思想は彼独自のものであり、テオゾフィー(神智学)協会の教義とは一切関係ないものであると述べた。

ところが、この本は初版以降、1910年、1914年、1918年、1922年と少なくとも四回以上著者自身の手によって見直され、訂正・加筆がなされたにも拘らず、その表題が『アントロポゾフィー』と改められることはなかった。

『神秘学概論』[編集]

『テオゾフィー(神智学)』には、アントロポゾフィーの最も中心的なテーマであるとされる宇宙進化論に関する記述が含まれていなかった。その内容は本来『テオゾフィー(神智学)』の最終章として著わされる予定であったが、当時の彼にはそれが未だ不可能であったことを後の著作の前書きに述べている。

この『テオゾフィー(神智学)』の初版から5年後の1910年に、既述の宇宙進化論を含んだ、いわば完全な形で彼の思想体系が示されたが、なぜかその表題は『神秘学概論』というものであった(上記の「後の著作」とはこの本のことである)。

『テオゾフィー(神智学)』の場合と同様、この本も著者自身の手によって入念に推敲が繰り返され、1912年、1920年、1925年(死の三ヶ月前)と少なくとも三回は訂正・加筆がなされたにも拘らず、表題が『アントロポゾフィー』とされることはやはりなかった。

認識の道[編集]

シュタイナーは、自らの思想はその著作において最も的確に表現されている、としばしば主張していたのにも拘らず、その著作において「アントロポゾフィーとは〜である」といった固定的な表現には一貫して否定的であった。彼の人生も晩年を迎え、1923年から翌年にかけて行われたクリスマス会議の後から、その死までの約一年間が、生涯における云わば最盛期であるといえるが、ちょうどその時期の1924年の2月17日にアントロポゾフィーに関して決定的ともいえる発言(文書にて)がなされた。それが以下のものである。



アントロポゾフィーは認識の道であり、それは人間存在(本性)の霊的なものを、森羅万象の霊的なものへ導こうとするものである。
『アントロポゾフィー指導原則』第一条より抜粋

この表現からも明らかなように、アントロポゾフィーは何らかの「知識」の総体ではなく、認識の道という「過程」であるとシュタイナーは理解していた。そして通常「認識の限界」と呼ばれているものは、個人の努力によって拡張可能なものであり、その手法こそが一般に「修行」と呼ばれている精神的鍛錬なのである。

シュタイナーは『いかにして人は高い世を知るにいたるか』という著作において修行法を詳細に著わしているので、この著作に示された具体的な修行の道こそ、アントロポゾフィーであるということが出来る。しかしこの本では、冒頭の「はしがき」において一度だけ「アントロポゾフィー」という言葉が使われる以外、本文では一切使用されない。これは彼は意図的にその言葉の使用を避けていたという可能性もある。なぜなら彼はその本によって、現代の人間に適応した修行の方法を著したのであり、アントロポゾフィー的な修行方法を示したわけではないからである。

複雑であるが、まとめるとこういうことになる:アントロポゾフィーとは「認識の道」であるが、単純に修行の手段ではない、また神秘修行の手段が今日の人間の意識に適応しているか否かは、アントロポゾフィーであるか否かと同義ではない。

哲学的側面[編集]

19世紀の最後約20年間の間、彼はゲーテ研究あるいは哲学者としての自らの研究に没頭していたわけであるが、その当時の業績がアントロポゾフィーに無関係なものなのかといえば、そうではない。例えば『自由の哲学』の第七章を見ても明らかなように、認識の限界を否定する彼の態度はすでに神秘主義的であると言って差し支えない。

『自由の哲学』は1894年に出版された後、長らく売り切れた状態になっていたが(事実上の絶版)、すでに神秘思想家として活動していた1918年に、シュタイナーは入念に訂正・加筆(例えば第一章は全面的に書き換えられ、章題さえも変わっている)を施した後に、新版として再び出版した。この事実は、彼が自身の初期の著作の内容を肯定していることを示している。その際に書き加えられた前書きにおいて彼は、この本には霊的体験の世界に関する記述は一切含まれていないが、それはそのための哲学的基礎であり、また同時にこの本は霊学的な研究結果に関わりを持とうと思わない者のための本でもある、と書いている。さらに彼はそこで、この『自由の哲学』は他の霊学的著作(例えば既述の三冊)に対して全く隔絶された位置を占めている反面、最もそれらに緊密に結びついたものである、と結んでいる。

彼の哲学的業績をアントロポゾフィーと呼ぶことはできない、しかし前者は後者に至るためのいわば「前段階」であるといえる。逆にアントロポゾフィーとは、『自由の哲学』という確固とした哲学的基盤を持った、たぐいまれな神秘思想であると言える。

ちなみにシュタイナーはその晩年に、自身の著作において最も重要なものは『自由の哲学』であるという発言も残している。

総括[編集]

シュタイナーは自身の思想をアントロポゾフィーと呼ぶことには(1912年のテオゾフィー協会を脱退するまで彼はそれを「テオゾフィー」と呼んでいたが、後に彼はそれが後に「アントロポゾフィー」と呼ぶものと同一である、と述べたことに関してはすでに述べた)何の抵抗も示さなかったが、前述のようにアントロポゾフィーを単なる思想の枠に留めるような発言(著作も含めて)は一切しなかった。アントロポゾフィーの思想的一面を彼は「精神科学」と呼んだ。他の精神科学(独: Geisteswissenschaft)との混同を避けるため、この精神科学は通常「シュタイナーによる、アントロポゾフィー的に方向付けられた精神科学」と呼ばれている。

アントロポゾフィーは単なる思想ではなく、またシュタイナーによる精神科学と同義でもない。また認識の道ではあるが単なる修行の手段でもない。それは学問以上の意味を含むものであるため、「人智学」と「学」を使って訳することは多くの場合好まれない。シュタイナー自身、この言葉を翻訳せずに原語のまま使用することを希望した。「アントロポゾフィーは単なる学問ではない。」これが本項において「アントロポゾフィー」と音訳されている一つ目の理由である(二つ目は後述)。

著作について[編集]

アントロポゾフィーの思想的側面は『自由の哲学』(1894年)、『テオゾフィー(神智学)』(1904年)、『いかにして人は高い世を知るにいたるか』(1904/05年)、『神秘学概論』(1910年)の四著書に集約される。しばしばこれらは「四大主著」などと呼ばれ、シュタイナーの著作の内で最も重要視される。この言葉は、アントロポゾフィー関連図書において何が中心的で、何が「その他のもの」であるかを区別するために考え出された言葉であり、講義録の翻訳や関連図書の数が増えるにつれ、日本でも少しずつ重要な意味を持ち始めている。

発展[編集]

ルドルフ・シュタイナーの霊学、すなわちのアントロポゾフィーは、以下のように発展した。

芸術運動[編集]

学問としてのアントロポゾフィーは1910年の『神秘学概論』の出版によってその頂点を迎えた。確かに、これ以降もシュタイナーは精神科学の研究を続け新しい研究結果を発表したが、それは常に専門分野に関するもので、思想としての全体像を補う「部分」であった。

芸術運動としてのアントロポゾフィーの最初の胎動は、その学問的隆盛以前の1907年に既に見出される。この年の聖霊降臨祭に開催されたミュンヘン会議においてシュタイナーは、インテリア設計において自らの思想(不可視なもの)を芸術を通して可視的な空間に表現することを試みた(但し、当時彼はプラトン的芸術解釈を否定していた)。そして、この試みは徐々に発展しアントロポゾフィー芸術運動の象徴的な存在である「ヨハネス建築」の設計に至る。ミュンヘンでのヨハネス建築の計画は当局の建設許可が下りなかったために頓挫したが、スイスのバーゼル近郊都市ドルナッハの土地を提供され、1913年9月に建設が始まる。1918年以降は「ゲーテアヌム」と呼ばれるこの木造建築は、1922年の大晦日に未完成のままで放火にあい消失した。同一の場所には、それまでとは全く異なる外観を持つコンクリート建築が建てられ、それは1923年末に創立された普遍アントロポゾフィー協会の本部となり現存する。これは第二ゲーテアヌムと呼ばれ、消失した木造建築は第一ゲーテアヌムと呼ばれるのが一般的である。

1908年頃にオイリュトミーという全く新しい運動芸術・舞踏芸術がアントロポゾフィーによって始まる。これは日本で最も有名な「シュタイナー芸術」である。オイリュトミーはシュタイナーが死去する1925年まで長い年月をかけて徐々に発展し、最終的には治療オイリュトミーという形で医療の現場にも用いられるようになる。特にドイツでは、治療オイリュトミーによる医療行為に対しても保険が適用されるほど一般に認知されている。

1910年から1913年までの四年間、シュタイナーは毎年夏に戯曲『神秘劇』を新たに書き下ろし、それはミュンヘンで上演された。その内容は主人公であるヨハネス・トマジウス(上記の「ヨハネス建築」は彼の名前に由来)をはじめとする、近代的な人間の精神的成長の過程を描いたものである。それまでは学問として「一般的に」しか描くことができなかった人間の成長を、シュタイナーは芸術を通して「具体的に」描こうと試みたのである。1912年に上演された神秘劇第三部の中では、上記のオイリュトミーが初めて上演されたので、この年は本来の芸術としての「オイリュトミー誕生の年」であると認知されている。

社会実践[編集]

神秘劇は本来七部または十二部構成の予定であったが、第一次世界大戦の影響によってその劇作活動は中断を余儀なくされた。第一次世界大戦の惨状の後、1918年頃から彼は社会組織の三構成運動に心血を注ぐようになるが、これは翌1919年に破綻する。それに続くようにヴァルドルフ教育(シュタイナー教育)運動が始まり、同年9月には最初の学校、自由ヴァルドルフ学校シュトゥットガルトが設立される。ヴァルドルフ教育運動は、日本でもっとも有名なアントロポゾフィーの社会実践である。

アントロポゾフィーの社会実践は、このヴァルドルフ教育運動を皮切りに医療・農業・養護教育・自然科学と様々な職業分野が改新され、それに伴う施設は現在では全世界で10,000を超える[1]l。

ちょうどこの時期に宗教運動の改新にも助力し、キリスト者共同体の設立にもアントロポゾフィーは大きな力を発揮した。これはアントロポゾフィーの社会実践の一環とみなされるのが一般的であるが、この見方は正しくない。なぜならこの運動は、創立当初からアントロポゾフィー協会とは全く関係のない、独立した宗教団体だからである。とはいえ、あらゆる人種・民族・宗教などから独立していると公言するアントロポゾフィー協会[2]の初代理事長に後に就任するシュタイナーが、特定の宗教運動(すなわちキリスト教)に積極的に助力したという事実は不可解であるといえる。こうした関連性から、この運動創始の数年後に公の場(主に講義の中)でシュタイナーが、自分は「私的人間として」キリスト者共同体の設立に関与したということを頻繁に強調するようになった事実を理解することができる。→詳しくはキリスト者共同体を参照。

総括[編集]

このように、アントロポゾフィーは最終的に社会実践へ向かう。だからこそ以上の三段階(学問、芸術、社会実践)の発展、すなわち全ての発達を、まとめてアントロポゾフィーと呼ぶのである。あるいはそれらの三段階は、アントロポゾフィーの成長の三段階であるともいえる(そのことはシュタイナー自身も述べている)。シュタイナー自身「アントロポゾフィーは学問として出発し、芸術を通してその命を吹き込まれる」(太字引用者)と述べており、そしてそれは社会実践という最も実用的で世俗的な結論に至る。だからこそ、シュタイナーはアントロポゾフィーが単なる知的好奇心の充足のために用いられることに強い嫌悪感を示しているのである。アントロポゾフィーは社会的貢献を果たして初めて、その完結した状態に至るということができる。すなわち、単なる学問、単なる芸術であるうちはアントロポゾフィーの前段階でしかないのである。

このような意味において、冒頭で便宜的に述べられた「自身の思想」という表現は正しくない。単なる思想(学問)ではなく、芸術、社会実践と発展していく実体の全てをアントロポゾフィーと理解する者は、それは「思想」ではなく「生命」であるとみなす。そしてシュタイナーは思想ではなく、生命を培う場として普遍アントロポゾフィー協会を創立した。

思想的概要[編集]

ここでは精神科学の中心的なテーマを記述する。

人間論[編集]

人間の本質に関する研究。通常の人間が、人間において目という感覚器官を通して知覚することができる存在を、肉体(物理的身体 der physische Leib)と名付け、それは「人間の一肢体(部分、構成要素 Glied)」であると位置づけ、それより更に「高次の」構成要素は超感覚的であり、通常の人間はそれを知覚することができないとする。精神科学ではそれらの超感覚的「肢体」を、肉体の上にさらに六ないしは八つ認め、それら全てを「全体としての人間 der ganze Mensch」とする。

<わたし>とは[編集]

上の「人間論」で述べられた「人間の本質」において、最も重要な要素である Ich (ドイツ語の一人称の代名詞であるが、ここでは「わたし」とする)に関する研究。<わたし>そのものに関する描写は「人間論」ですでになされているので、歴史における<わたし>の成立過程に関する描写がなされる。下の「宇宙論」において「現在の地球に至るまでの時間的な生成過程」がメインテーマであるように、ここでは「現在の<わたし>に至るまでの時間的な生成過程」が描写される。前者が「博物学 Natural history」であるのに対して、後者は「歴史学」であるとも言える。

人生論[編集]

人間の人生を支配している法則についての研究。死後の生活に関する記述や、再受肉(生まれ変わり)Reinkarnation の思想へと至る。

宇宙論[編集]

現在の地球、あるいは宇宙が生成した過程に関する研究。人間と同様、地球もまた再受肉する存在であるとみなし、現在の地球のいわば「前世」に関する描写がなされる。

修行論[編集]

以上の二項目に関する描写は、全て超感覚的観照に基づいてなされており、それを通常の人間は持っていない。しかし精神科学は、全ての人間がこのような超感覚的な観照能力をいわゆる「修行」を通して得られるものとし、その獲得に関する方法論が展開される。修行の道には七つの発達段階があり、以上の五項目に関する研究(勉強、学習 Studium)そのものが修行の第一段階であるとみなしている。




言葉について[編集]

語源[編集]

アントロポゾフィーという言葉は、ギリシア語で人間を示す ανθρωπος (anthropos アントローポス)と叡智あるいは知恵を示す σοφια(sophia ソピア)を合成したものである。言葉自体はシュタイナーの造語ではなく、近世初期にはすでにその使用が確認されている。それ以降はイグナツ・パウル・ヴィタリス・トロクスラー(Ignaz Paul Vitalis Troxler,1780-1866)や、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテの息子であり、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの弟子(右派)であるイマヌエル・ヘルマン・フィヒテにおいてもこの言葉の使用が認められる。→詳しくは人智学を参照。

発音[編集]

一般に「アントロポゾフィー」と音訳されるが、これはドイツ語での発音に準拠したものであり、その理由はシュタイナーの発音がそうであったからに他ならない。古典ギリシア語から作られた他の語彙と同様、欧米の各国語においてそれぞれに異なる表記と発音が行われており、日本においてそれをどう表記・発音するかは個人の自由である(日本ではドイツ語発音による音訳が主流であるが、ドイツ語圏以外でシュタイナーの思想を学んだ日本人にとっては必ずしも「自然なもの」とは言えない)。例えば英語的に発音すると θ (th) の発音が無声歯摩擦音の [θ] になるし、イタリア語をはじめとするラテン語圏では語尾が a となる。古典ギリシア語的に有気音の φ (ph) を p と気息音の h に分けて読んだり、p だけ発音することもできる。

しかしながら日本人がギリシア語的発音を真似て最後の発音をaにする場合はいくらかの問題が伴う。なぜならシュタイナーは、講義においてアントロポゾフィーとアントロポソフィアを使い分けている場合があるからである。

二つの協会[編集]

また訳語について議論する場合、日本に見られる特殊な状況に鑑みる必要がある。日本におけるシュタイナー研究の第一人者である高橋巖は1985年に日本人智学協会を設立したが、これはスイスのドルナッハに本部ゲーテアヌムを置く普遍アントロポゾフィー協会の日本の邦域協会ではなかった。1986年2月のゲーテアヌム理事会に於いて、同協会は日本ルドルフ・シュタイナー・ハウス(1982年に上松佑二が設立)とともに、邦域協会の前段階とみなされた。1989年に日本ルドルフ・シュタイナー・ハウスは日本アントロポゾフィー協会ルドルフ・シュタイナー・ハウスと改名し、以後二つの協会が存在するようになる。1993年ヨハネ支部が設立され、1994年以降の数年間にわたる邦域協会設立準備会と1999年3月のゲーテアヌム理事会を経て、2000年5月に上松佑二を中心とするメンバーによって、日本アントロポゾフィー協会が、普遍アントロポゾフィー協会の正式な日本の邦域協会として設立された。二協会は互いに独立した団体であり、両者を区別するためにもAnthroposophieという一つの言葉に対して二つの訳語が並立することは避けられない(以上の固有名詞による理由に加えて、概念の相違によって二つの訳語が存在する理由に関しては人智学を参照)。また現在(2013年)では普遍アントロポゾフィー協会の日本支部として、NPO法人日本アントロポゾフィー協会と一般社団法人普遍アントロポゾフィー協会−邦域協会日本の二つの協会、及び四国アントロポゾフィークライスが存在している。

参考文献[編集]
ルドルフ・シュタイナー全集
Steiner, Rudolf: Einführung in die Anthroposophie. Dornach : Rudolf-Steiner-Verlag, 1992. ISBN 3-7274-6560-3
Steiner, Rudolf: Einführung in die Geisteswissenschaft. München : Archiati, 2004. ISBN 3-937078-25-8

アントロポゾフィー一般に関して[編集]
Becker, Kurt E.: Anthroposophie.Revolution von innen, Fischer Verlag, Frankfurt, 1984
Ziegler, Renatus: Anthroposophie : Quellentexte zur Wortgeschichte. In: Beiträge zur Rudolf Steiner Gesamtausgabe, Heft Nr. 121, Herbst 1999 (Hrsg.: Rudolf Steiner-Nachlassverwaltung, Dornach)
Heisterkamp, Jens: Was ist Anthroposophie? Eine Einladung zur Entdeckung des Menschen. Dornach : Verl. am Goetheanum, 2000. ISBN 3-7235-1089-2
Baumann-Bay, Lydie und Andreas: Achtung, Anthroposophie! : ein kritischer Insider-Bericht. Zürich : Kreuz, 2000. ISBN 3-268-00255-2
Badewien, Jan: Die Anthroposophie Rudolf Steiners. München : Evangelischer Presseverband für Bayern, 1994. ISBN 3-583-50662-6
Barz, Heiner: Anthroposophie im Spiegel von Wissenschaftstheorie und Lebensweltforschung. Zwischen lebendigem Goetheanismus und latenter Militanz. Weinheim : Deutscher Studien-Verlag, 1994. ISBN 3-89271-458-4
Lutterbeck, Ernst: Anthroposophie verstehen : eine Einführung nach persönlichen Erfahrungen. Paderborn : Möllmann, 1997. ISBN 3-931156-21-4

さらに詳しい情報[編集]
Binder, Andreas: Wie christlich ist die Anthroposophie? Standortbestimmungen aus der Sicht eines evangelischen Theologen. Stuttgart : Urachhaus Verlag 1989. ISBN 3-87838-611-7 (2. Aufl.)
Kriele, Martin: Anthroposophie und Kirche. Erfahrungen eines Grenzgängers. Freiburg im Breisgau; Basel; Wien : Herder, 1996. ISBN 3-451-23967-1
Okruch, Stefan: Wirtschaft und Anthroposophie - Darstellung und Kritik des Konzepts Rudolf Steiners. Bayreuth : Verlag PCO, 1993. ISBN 3-925710-50-7
Werner, Uwe: Anthroposophen in der Zeit des Nationalsozialismus : 1933 - 1945. München : Oldenbourg, 1999. ISBN 3-486-56362-9
Ravagli, Lorenzo: Unter Hammer und Hakenkreuz : der völkisch-nationalsozialistische Kampf gegen die Anthroposophie. Stuttgart: Verlag Freies Geistesleben, 2004. ISBN 3-7725-1915-6
Bierl, Peter: Wurzelrassen, Erzengel und Volksgeister : die Anthroposophie Rudolf Steiners und die Waldorfpädagogik. Aktualisierte und erweiterte Neuausgabe. Hamburg : Konkret-Literatur-Verlag, 2005. ISBN 3-89458-242-1

脚注[編集]

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1.^ シュタイナーは、生涯の最後の四半世紀の間に約六千回にも及ぶ講義を行い、そこで自身の思想、すなわちアントロポゾフィーに関して語った。それらの講義の多くは速記形式で記録され、後にシュタイナー遺構管理局によって講義録として出版・公開されており、その数は300冊を超える。→シュタイナー全集参照。
多くの場合、講義録の聴衆であった人々は、彼の著作を読み、よく理解したいわば「上級者」であった。それゆえ速記された講義録の内容は、つねに神秘思想としてのアントロポゾフィーの基礎(基本)を欠いた、いわば「内輪向け」の内容であると言える。対して著作はあらゆる読者を想定して書かれており、その内のいくつかは初版以降も何度も見直され、書き直されているという事実(死の数ヶ月前に改定が加えられたものもある)を見れば、彼の著作がその思想を知るにあたって最も信憑性の高い資料であり、講義録はそれに対しては資料価値の低いといえる。よって、ここではもっぱらシュタイナー自身の著作のみを参考文献とする。
2.^ 上述のシュタイナー遺構管理局から、全集45番として『アントロポゾフィー』という著作が出版されているが、それは彼が『神秘学概論』とアントロポゾフィー協会設立の間の時期である1910年(正確には『神秘学概論』は1909年12月の時点ですでに脱稿しており、出版されたのが1910年1月である。またシュタイナーが神智学協会に代わる新しい協会の名前に「アントロポゾフィー」を挙げたのは1912年8月のことである)に書いたフラグメント(断片)である。無論そのことは明記された上での公表である。ちなみに内容は彼が独自に考えて出した感覚論である。

関連項目[編集]
ルドルフ・シュタイナー
アントロポゾフィー協会
人智学

世界観

世界観(せかいかん、Cosmologyまたはworldview)とは、世界についての統一的な見方・考え方のこと。人生観より広い範囲を包含する。一方で日本のポストモダンの文芸評論においては、ライトノベルなどにおける仮想現実的な世界設定を意味することもある。これについては「文芸評論のなかでの世界観」として最後に述べる。



目次 [非表示]
1 概要
2 哲学的世界観の定義
3 哲学的世界観の成立過程 3.1 近代哲学における世界観の成立

4 哲学的世界観の諸相 4.1 原理次元における分類
4.2 原理の性格による分類 4.2.1 唯物論
4.2.2 観念論(唯心論)
4.2.3 ダイナミズム的一元論

4.3 様態と構造による分類
4.4 方法論による分類

5 東洋思想における世界観
6 イスラームにおける世界観
7 神学的世界観
8 その他の対立する世界観
9 文芸評論のなかでの世界観
10 脚注
11 参考文献
12 関連項目


概要[編集]

世界観とは、世界の諸問題、すなわち、「世界とは何なのか」、「どうして存在するのか」、「そのなかで人間はいかなる位置を占めるのか」などの問いに答えようとするものである。したがって、世界観とは、人生観や生き方と結びついた世界に対する態度およびその表明であるとみなすことができ、それゆえ、世界観はその個人が属する民族、国家、時代、地域、社会、職業、階級などによってきわめて多種多様であって、極端にいえば個人個人の体験や環境によって、一人ひとり全員異なるものである。

しかし、それが「世界観」と呼ばれる限りにおいては、個々人によって異なる世界観も共通の構造をもっている。つまり、根底には各人の生活体験に由来する「気分」や「現実把握」といった情感的な部分があり、それを基礎として、その時代、その社会の客観的な知の集積としての「世界像」がその上に立てられる。世界像とは、世界を外から眺めるような態度であり、そこでは、世界はあくまでも客観的な分析の対象であり、論証等によってしばしば修正される性格のものである。さらに「世界観」を背景にして、「理想」や「善」などの意志的側面、行動原則など実践の指針が与えられる。

世界観は哲学に限らず、宗教や芸術、口承文学や伝承、日常生活、年中行事や祭礼などにもあらわれる。たとえば、アイヌ民族に特有の世界観はユーカラやウエペケレなどの口承文芸にあらわれる。世界観は歴史的に形成されてきたものであり、また、個人個人の人生においても転換の契機を有している。社会においても統合や対立、選択や分裂などの多様な諸相を含んでおり、世界観そのものも歴史をもつものである。

なお、「世界観」の語の最初の用例は、近代哲学においてドイツ観念論の大成者とされるイマヌエル・カントが『判断力批判』(1790年)の中で使用した用語 "De-Weltanschauung.ogg Weltanschauung[ヘルプ/ファイル]"(ドイツ語)の訳語(英: worldview, 仏: Weltanschauung, 露: Мировоззрение)であった。したがって以下、近代哲学における世界観を念頭におきつつ解説する。

哲学的世界観の定義[編集]

世界観は、その現実をみることから導きだされる認識論を含む。世界観の批判はもう一つの世界観によって行われる。したがって近代以降、哲学的な物事の理解には必然的に世界観が伴うとされ、現代においても哲学論争が主に世界観の対立という形でおこなわれている。

哲学的世界観の成立過程[編集]

世界観は人間と絶対的他者である自然、社会を媒介するものである。また、自然、社会に対するあらゆる価値判断は大なり小なり特定の世界観を背景にしている。以下このような世界観が哲学的に成立していく過程を記述する。

個人を世界に投げ出されたアトム的存在とみるならば、世界は個人にとって絶対的他者である。個人とおなじくアトム的存在である別の個人との関係性でさえ、世界と同じ絶対の他者的関係性をもつ。この意味でわれわれは常に他者との関係性という限りにおいて世界を評価することになる。世界が絶対的他者であるならば、われわれにとって世界との完全な同一化は不可能である。これは世界の理解に一定の限界を認めることであり、不可知論を伴う。世界観とはこのような不可知論的立場で最終的には解決されえない個人と世界との自他性を解決するために措定された、人間の意識レベルにおいての世界の何らかの投影像である。世界観がしばしば擬人化を含んでいることもこのためである。

世界観は個人にとって他者である世界の属性を持っているが、客観的存在としての世界とは異質であり、その意味において個人内に存在している。絶対的他者である世界の側から見れば、個人に従属している観念である。客観的存在である世界は普遍的に存在すると考えられるのに、世界観をめぐって論争や対立がおこるのはこのためである。

近代哲学における世界観の成立[編集]

次に近代哲学史における歴史的な経緯について述べる。

18世紀に全盛を迎えた啓蒙主義は理性によって、万人が公平に認める世界の根本的な原理を考えることが可能であるとした。この考え方は、なにか絶対的な真理(たとえば宗教)によりかからずにわれわれ自身が自立して思考することができるということを保証した。啓蒙主義は自然科学的な成果に基づいたものであり、社会科学や哲学の分野でもこのような根本原理を理性によって明らかにすることは有意義であるとされた。このような理性万能主義の立場にたてば、理性そのものは普遍で不変であり万人に共通であるから誤りようがなく、われわれが何かについて異なる見解を持っているとすれば、それは認識の違いによるものであるという結論にゆきつく。啓蒙主義の主流がイギリス経験論であり、根本的に認識論の立場が重要視されたのも以上の理由による。

しかし、イギリス経験論はこの認識論を深めていった結果、観察者である個人が絶対的他者である世界をありのままに認識することが不可能であるということを認めざるを得なくなった。無限的存在である世界に対して個人はつねに有限的であるから、理性がたとえ無限の可能性を持っていたとしても、個人が有限である以上理性はある段階で時間的空間的に世界とは切り離されてしまうのである。常識的に言えば、われわれは江戸時代に生きることはできないし、いま日本にいるわれわれが同時にアメリカに存在することはできない。この限りにおいて個人と世界の間には永遠なる断絶が存在するのである。

啓蒙主義以前であればこのような問題は世界に対して絶対的な真理を主張する宗教によりかかることによって解決可能であったかもしれない。だが啓蒙主義はすでに宗教を科学の世界から追放してしまったのである。近代哲学がこの宗教に代わる代弁者としてもってきたのが世界観であったといえる。このような世界観は近代哲学に理性以上にラディカルな姿勢をもちこむ一方、世界観の対立という厄介な問題をもたらした。近代哲学は問題の所在を世界観に大きく依存してしまったために、世界観の対立がしばしば哲学の本質問題とされている。この意味で啓蒙主義における理性のような普遍的な価値を、近代以降の哲学は永遠に失ってしまった。

哲学的世界観の諸相[編集]

ここでは代表的な世界観を適宜分類しながら概観し、その特質を明らかにする。

原理次元における分類[編集]

歴史的には多元論的世界観が一元的世界観に先行すると考えられており、一般的に古代的なアニミズムや多神教は多元論的世界観を持つとされている。
一元論は、次項で述べる二元論の立場からより徹底したもので、二つの対立的な原理のうちの一方に他方を従属させる考え方である。歴史的にはデカルトの物心二元論を受けて、精神を否定して唯物論になるか、あるいは物質を否定して唯心論になるか、あるいは両者を媒介する現象的側面を重視してある種のダイナミズムをとる。
二元論は、世界内に二つの対立的な原理を想定し、その間の闘争や予定調和を説くことによって世界の存在理由を設定する。宗教的にはゾロアスター教などの善悪二元論、哲学的にはデカルトの物心二元論が有名である。この思考法はしばしば行為の善・悪といった価値判断と結びつき、社会における道徳を構成する基となっている。
多元論は世界内に多くの原理を想定し、主に既定調和的・予定調和的な世界観を提供するものである。現代においては多文化共存主義など主流な社会理論・政治理論の一部はこの形態を取っている。

原理の性格による分類[編集]

唯物論[編集]

唯物論とは世界の根本的な原理は何らかの物質的性格を持つとする考え方。
弁証法的唯物論 - それまでの唯物論が機械論的であったのとは対照的に弁証法的、そしてヘーゲルらの弁証法が観念論的であったのに対して唯物論的であるのがその特徴。1840年代にマルクスとエンゲルスが提唱、レーニンらが発展。物質的存在を世界の根本原理とし、その優位性を説く考え方。
機械論的唯物論 - 形而上学的思考方法をとる非弁証法的な唯物論。弁証法的唯物論に相対する。ラ・メトリーの『人間機械論』が有名。ドルバックなどもこれに含まれる。

観念論(唯心論)[編集]

世界の根本的な原理は何らかの精神的性格を持つとする考え方。 唯心論はしばしば観念論と同義とされるが、観念論は狭義においては独我論をさすこともある。
狭義の観念論(⇔実念論) - 外界を一切否定し、純粋な観念そのものを根本原理とする考え方。独我論。バークリー、シュテルナーなどがこの立場に分類される。
素朴実在論 - 外界は意識から独立に存在しており、なおかつ感覚知覚を通して意識的に知覚される現象は即ち外界であり、それは実在(現実)の忠実な模写、反映であると見做す立場。
現象論 (phenomenalism) - 物自体の認識を断念し、感覚知覚を通して体験された現象のみで満足するか、あるいは現象の背後(にあるであろう)物自体の存在を否定し、意識に与えられた事象(即ちここでは現象)のみに実在と認める立場。無論一元的。唯現象論。
先験論 (transcendentalism) - カントや、新カント派の批判主義哲学をこう呼ぶ。あらゆる感覚に先立つ根本原理を精神の側に存在すると主張する立場。また超感覚的認識を主張するエマーソンやヘーゲルもこれに含まれる。超越論。先験主義。

ダイナミズム的一元論[編集]
モナド論 (monadology) - 物質原理と精神原理を統合した一つの原理としてモナドを主張する。ライプニッツが主張した。
原子論 (atomism) - 哲学的原子論は何らかのアトム的粒子を想定し、その離合集散によってあらゆる世界的事象が表現されるとした。デモクリトスなどが有名。
その他のダイナミズム (dynamism) - そのほかにも、世界の根本原理は可能力やある種の運動法則にあるとし、これが物質、運動、存在など全てを統括する唯一の原理であるという考え方は古来珍しいものではない。アリストテレスがとくに有名。

様態と構造による分類[編集]
有機体論的世界観 (目的論的世界観とも)。世界全体を生き物とみる世界観でアリストテレス以来の伝統をもつ。古来、中国やインドなどでも支配的な世界観であり、一般的に農耕社会において有力な世界観である。
機械論的世界観 -世界を等質な部品の組み合わせとみる世界観でルネ・デカルトにより定式化されて世界各地に波及した。

方法論による分類[編集]

以上の原理の性格的側面による分類以外に、原理の研究態度による分類が可能である。
経験論(帰納法) - 世界の根本原理は事象の分析的な研究によって経験的に把握することが出来るという考え方。おもに実験主義、科学主義の立場を取る。ベーコン、ロック、バークリーなどのイギリス経験論が代表的。
合理論(演繹法) - 単純明快な基礎原理を設定し、そこから理論構築的に根本原理を把握することが出来るという考え方。数学的な理論主義、道徳主義な立場をとる。デカルト、ライプニッツ、ウォルフが有名。

東洋思想における世界観[編集]

広大な東洋世界では、唯一神教に宗教・思想的に統一されていた西洋社会とは異なり、東洋思想においては一定の歴史的段階を持って変質していく世界観が提示されていることが多く、そのため原理自体が歴史的に流動的であるとされ、原理的に世界像を描き出すことはそれほど主要な哲学的問題とはされず、しばしば実用面が重視された。とはいえ東洋思想も独自の世界観をもっているため、それを記述する。
古代中国哲学における世界観 - 中国においては戦国時代に諸子百家と呼ばれる多様な思想家を輩出し、さまざまな考え方を主張した。中国思想における論理学派として有名な名家は名辞の真理性を主張した。彼らによれば「白い馬」とは「白」と「馬」であり、「白」という観念と「馬」という観念こそ真理であるとする観念論を唱えた。このような名家の主張に対して、法家では実際的で物質的な「実」と「名」を一致させることが真理であると主張し、儒家は教化主義的立場から「実」に真理を求めた。また陰陽家は「陰」と「陽」の調和と対立による世界観を主張した。漢の時代皇帝支配が徹底され儒学が国教的な位置をしめるようになると儒教の実際主義がますます支配的となった。天変地異は実際の皇帝の施策と影響しあうということが信じられ、自然現象がしばしば政治的に論議された。しかし同時に儒教のこのような実際主義は陰陽思想や法家的立場を実際面から尊重するものでもあり、名家のような名辞主義は早くに没落したが、儒教の知識人主義的な書誌尊重の風潮とともにこれらの思想も維持や儒教への吸収がされた。これは儒教思想が基本的には多神教の立場を取っていたことにもよる。また儒教はその復古主義的性格からだいたいにおいて歴史主義的な世界観を持っていた。
理気二元論 - 北宋・南宋代中国に流行した二元論的世界観。実際には理のほうに優位性を認めており、厳密な二元論ではない。そのため中国では一般的に理学(宋明理学)と呼びならわされている。南宋の朱熹(朱子)が有名。仏教や道教の影響のもとに陰陽二元論から発達するかたちで成立した。陰陽二元論においては理(実在)はその気の陰陽の影響に基づくものであるから、基本的に気で哲学的問題は完結していた。しかし理気二元論は世界の絶対法則である理(実在)の筋道である道が気の陰陽を規定するという立場を主張した。しかしこの道とは理そのものに発しているものであるから、気を現象的に捉えるならば、理に本質を設定することになる。朱熹はこの立場を徹底し、理を物質的実在そのものよりも上位の一種の法則的存在として設定したため、理は実在そのものよりもむしろ観念的存在となり、観念論的傾向が強められた。
理気一元論 - 明代中国の王陽明が中心となって提唱した一元論的世界観。理を尊重する立場は朱子学と変わらないが、「心」そのものが理とする唯心的な主張(「心即理」)を展開し、朱子学が知識優位で原理主義的であるのを批判して実践主義を唱えた。「知行合一」、つまり行動と知識の一体性を主張した。中国では前述の理学に対して心学と呼ばれるが、のちに独我論的立場を強め急進化し、政治的に弾圧された。

イスラームにおける世界観[編集]
イスラーム哲学における世界観 - イスラーム哲学においてはクルアーン(コーラン)に「真理は神の下し賜うところ」と明記されているため、それ自体を疑うものはまず存在しなかった。しかしギリシャ的な自由意志の問題がイスラームにはいってくると、アッラーフの真理表現をめぐって論争がおこなわれた。自由意志を保証する理性がアッラーフの本質であるとし、これを尊重するムアタズィラ派がアッバース朝時代最盛期を迎えるが、悟性による素朴な実感にアッラーフの真理を見出すガザーリーが出現するに及んで、哲学的な世界観論争には一応の決着をみた。彼以後のイスラーム哲学は神秘主義的傾向を強めていく。
イスラーム教における世界観 - 一神教のなかでも特に徹底しており、後述する「神学的世界観」に記した世界観が支配的である。なお、イスラームに特有の世界観としてキリスト教徒やユダヤ教徒を「啓典の民」とする考えがある。これは、イスラームが年代的に新しい「若い宗教」であることに起因する。そこではムハンマドは最後にして最大の預言者として位置づけられ、『旧約聖書』『新約聖書』は他の預言者(モーセやイエスなど)が神からの啓示を得て記された「啓典」とみるのである。

神学的世界観[編集]
一神教(monotheism) - イスラム教やユダヤ教のように、一つの神を認めてこれを信仰する宗教。一般によくある見解は、これを唯一の「神的存在」のみを認めるものとするものである。これは明らかな誤解である。その証拠に旧約聖書に於ける創造の神エロヒムは複数形であるし、イスラム教においても天使は信仰の対象となっている。一神教とは唯一の神(故に上では「一つの神」という表現を用いた)しか認めない宗教ではなく、飽くまで神の表象において一という概念が最も重要な意味を持つ(あるいは極めて密接に結びついている)場合を指す。
多神教(polytheism) - 一神教とは違い複数の神々を同時に崇拝する宗教をさす。原始的諸宗教や古代の宗教の多くはこれに属する。自然現象を人格化したものや、人間生活の様々な局面を投影した独自の性格と形姿をもつ神々に対する信仰。
汎神論(pantheism) - 神と世界を同一視する立場。一神教と多神教が物質原理と精神原理の二元的であるのに対して、これは極めて一元的である。いずれにせよ多神教よりもさらに多くの神を認める立場として理解してはならない。古代においてはウパニシャッドやソクラテス以前のギリシャ思想、近代に入るとスピノザ、ゲーテ、シェリングなどの思考にはこの立ち場が見られる。
汎心論(panpsychism) - 全ての存在に心を認める立場。物質原理と精神的実体を統合したライプニッツのモナド論なども必然的にこれに含まれる。ホワイトヘッドの世界神化説もその一つの例として認めることが出来る。物活論。

その他の対立する世界観[編集]

運命論 (fatalism) ⇔決定論 (determinism)

懐疑論 (skepticism) ⇔不可知論 (agnosticism)

文芸評論のなかでの世界観[編集]

民族学などで用いられる本来の「世界観」とは異なる用法として[1]、日本の出版業界において漫画やライトノベルを対象とする、ポストモダンの文芸評論における用語としての「世界観」がある[2]。本来の意味から転じて、「フィクションにおける世界設定」の意味で用いられる[3]。大塚英志や東浩紀らはとくにライトノベルを「キャラクター小説」と呼び、「世界観」を含むメタ物語的な要素に比重をおくものとして捉え、既存の文学とは一線を画すものと規定している。

この場合の世界観とは、フィクションの世界の登場人物が、その物語の中の世界をどのように観て、受け止めているかという設定のことである[4]。現実世界に直接的な影響を及ぼそうというものではないため、哲学的には世界観という範疇には収められない。哲学的な世界観とは、上に述べた哲学的根本衝動を持つ者が現実を把握しようと努めるときに得るものであり、世界に対して規定的に働きかけるものだからである。しかしながら、大塚英志によれば、現実世界とイコールではないにしても作品世界は現実世界の一面を表象していると考えられ、作品世界を通して間接的に現実世界を評価することは有意義であるという。読者は物語世界に根差した価値観を持つ登場人物の視点を通じ、物語の世界を観ることになるのである[4]。

この「世界観」には以下のような特徴的な性格をあげることが出来る。
登場人物の設定、動作にある種の法則性を規定する
作品内の用語(仮想言語も含む)やその用法を規定する
作品内における舞台背景や時代背景、歴史にある種の法則性を規定する
ストーリー性に法則性を規定する(具体例としては水戸黄門では黄門様が事件解決に必ず印籠を使うことなど)
上記以外の作品の世界設定全般を規定する

この意味における世界観は作品単体の世界設定にとどまらず、続編作品や派生作品などの二次作品の世界設定に継承され、またそれを保証するものである。同時に作者が設定した世界設定をこえて、その作品の読者や派生した作品すべてと世界設定を共有することができ、このような世界観を通して作品に関わるあらゆる人がその構築、発展に参加していくことができるという考えを大塚は示している。

大塚によれば、以前は単に「設定」と呼ばれていたものを「世界観」と言い換えるような言い回しを耳にするようになったのは1980年代半ば頃で、アニメ業界から漫画業界に持ち込まれる一方、こうした設定を出版物として扱うテーブルトークRPGが日本に持ち込まれる過程で広まったのではないかと述べている[1]。

脚注[編集]

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1.^ a b 大塚 2006, pp. 202-204
2.^ 大塚英志によれば、「『世界観』とはキャラクターの世界の『観』方である」と定義される(大塚 2003, p. 220)。東浩紀によれば、「物語の様式を規定するジャンル的な規範意識」の「下位にある脱ジャンル的あるいはメタジャンル的なデータベース」(東 2007, p. 48)の一つで、「ジャンルを横断して共有される」「世界設定」(東 2007, p. 31)のことである。
3.^ 榎本秋 『ライトノベルを書きたい人の本』 成美堂出版、2008年10月10日、86頁。ISBN 978-4-415-30387-1。
4.^ a b 大塚 2006, pp. 205-206

参考文献[編集]
ヴィルヘルム・ディルタイ 『世界観の研究』 山本英一訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1935年。
マルティン・ハイデッガー 『存在と時間』上・中・下、桑木務訳、岩波書店〈岩波文庫〉。
長尾龍一 『争う神々』 信山社出版〈信山社叢書〉、1998年。ISBN 4000108670。
長尾龍一 『古代中国思想ノート』 信山社出版〈信山社叢書〉、1999年。ISBN 4797251077。
『中国思想史』 東京大学中国哲学研究室編、東京大学出版会、1952年。
『中国思想文化辞典』 溝口雄三ら編、東京大学出版会、2001年。
井筒俊彦 『イスラーム思想史』 中央公論新社〈中公文庫〉、1991年。
大塚英志 『キャラクター小説の作り方』 講談社〈講談社現代新書〉、2003年。 大塚英志 『キャラクター小説の作り方』 角川書店〈角川文庫〉、2006年。ISBN 4-04-419122-0。

東浩紀 『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』 講談社〈講談社現代新書〉、2007年。
ネルソン・グッドマン 『世界制作の方法』 菅野盾樹, 中村雅之訳、みすず書房、1987年。 ネルソン・グッドマン 『世界制作の方法』 菅野盾樹訳、筑摩書房、2008年。ISBN 4480091254。


関連項目[編集]

主義の一覧
観念論(イデア論、ドイツ観念論、二元論、独我論)
唯物論、心身問題の哲学
機械論、生気論
楽天主義、厭世主義

性善説、性悪説
人生観
宇宙観
世界像 (de:Weltbild)
ハレとケ
環境決定論
表象
認識論

須弥山

須弥山(しゅみせん、旧字体:須彌山、サンスクリット:Sumeru)は、古代インドの世界観の中で中心にそびえる山。インド神話ではメル山、メルー山、スメール山ともいう。



目次 [非表示]
1 概要
2 仏教における須弥山世界観
3 須弥山に例えられる物
4 創作作品で登場する須弥山
5 関連項目
6 参考文献
7 外部リンク


概要[編集]

古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖なる山であり、この世界軸としての聖山はバラモン教、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教にも共有されている。

インドで形成された宗教のうち、とりわけ仏教が中国や日本に、ヒンドゥー教がインドネシアなどに伝播するにともない、この世界観も伝播した。ジャワ島にはスメル山という名の山もあり、別名はマハ・メル山(偉大なるメル山を意味する)である。

仏教の世界観では、須弥山をとりまいて七つの金の山と鉄囲山(てっちさん、Cakravāḍa)があり、その間に八つの海がある。これを九山八海という。

「須弥」とは漢字による音訳で、意訳は「妙高」という。

仏教における須弥山世界観[編集]





須弥山の概念図
『倶舎論』によれば、風輪の上に水輪、その上に金輪がある。また、その最上層をなす金輪の最上面が大地の底に接する際となっており、これを金輪際(こんりんざい)という。なお、このことが俗に転じて、物事の最後の最後までを表して金輪際と言うようになった。

我々が住むのは海水をたたえた金輪に浮かぶ贍部洲(閻浮提、Jambūdvīpa)であり、須弥山中腹には日天と月天がまわっている。須弥山の高さは八万由旬(yojana)といわれ、中腹に四大王天がおり四洲を守る。さらにその上の山頂の忉利(とうり)天には帝釈天が住むという。須弥山の頂上に善見城がありインドラ(帝釈天)が住んでいる。

須弥山には甘露の雨が降っており、それによって須弥山に住む天たちは空腹を免れる。

なお、シュメールと須弥山(Mount Meru、Sumeru)とアンシャルにはそれぞれ類似性が指摘されている(詳しくは阿修羅の項目を参照)

須弥山に例えられる物[編集]
カイラス山はチベット仏教で須弥山と同一視され、周囲の山々を菩薩に見立てた天然の曼荼羅とみなし、聖地とする。
日本庭園の須弥山形式 - 中央に突出する岩を須弥山に例える石組。





飛鳥資料館に展示される須弥山石組の一部
創作作品で登場する須弥山[編集]
「PAL神犬伝説」では須弥山が登場する。
「聖伝-RG VEDA-」は古代インド神話を舞台にした物語で善見城も登場する。
『百億の昼と千億の夜』では梵天王の説明で宇宙論的展開を見せる。

関連項目[編集]
世界軸
三界
十界(天台宗の場合)
六道
六欲天
天部
兜率天
とう利天(本来の表記は「忉利天」)
四天王
シャチー
ユグドラシル

参考文献[編集]
定方晟 『須弥山と極楽―仏教の宇宙観』講談社〈講談社現代新書〉、1973

三千大千世界

三千大千世界(さんぜんだいせんせかい、梵語: Trisāhasramahāsāhasralokadhātu)は、仏教用語で10億個の須弥山世界が集まった空間を表す言葉。略して「三千世界」「三千界」「大千世界」ともいう。

1つの世界[編集]

仏教の宇宙論では、須弥山(しゅみせん)の周囲に四大洲(4つの大陸)があり、そのまわりに九山八海があるとする。これが我々の住む1つの世界(1須弥山世界)で、上は色界(しきかい、三界の一つ)の梵世(Brahmaloka)から、下は大地の下の風輪にまで及ぶ範囲を指す。

3つの千世界[編集]

上述した1つの世界が1000個集まって小千世界となり、小千世界が1000個集った空間を中千世界と呼び、中千世界がさらに1000個集ったものを大千世界という。大千世界は、大・中・小の3つの千世界から成るので「三千大千世界」とも呼ばれる。 このように、「三千大千世界」とは「大千世界」と等しい概念で、1000の3乗個、すなわち10億個の世界が集まった空間のことを指している。

仏国土との関係[編集]

1つの三千大千世界は1人の仏が教化できる範囲であるともされるため、1つの三千大千世界を1仏国土(buddhakṣetra)ともよぶ。

我々が住んでいる世界を包括している仏国土(三千大千世界)の名前は娑婆(サハー、sahā)である。阿弥陀如来が教化している極楽(sukhāvatī)という名前の仏国土は、サハー世界の外側、西の方角にあるため西方極楽浄土と呼ばれる。薬師如来の東方浄瑠璃世界や阿閦如来の妙喜世界なども同様にサハー世界の外に存在する。


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宇宙論

宇宙論(うちゅうろん、英語:cosmology)あるいはコスモロジーとは、「宇宙」や「世界」などと呼ばれる人間をとりかこむ何らかの広がり全体[1]、広義には、それの中における人間の位置、に関する言及、論[2]、研究などのことである。

コスモロジーには神話、宗教、哲学、神学、科学(天文学、宇宙物理学)などが関係している。

「cosmologyコスモロジー」という言葉が初めて使われたのはクリスティアン・ヴォルフの 『Cosmologia Generalis』(1730)においてであるとされている。

本項では幅広く、神話、宗教、哲学、神学などで扱われたコスモロジーも含めて扱う。



目次 [非表示]
1 概論
2 宇宙論の歴史 2.1 古代インド
2.2 様々な神話 2.2.1 関連項目

2.3 古代ギリシャ 2.3.1 関連項目

2.4 新約聖書
2.5 プトレマイオス
2.6 イスラーム世界 2.6.1 関連項目

2.7 ヨーロッパ中世 2.7.1 関連項目

2.8 現代 2.8.1 関連項目


3 脚注
4 参考文献
5 関連項目


概論[編集]

古代においても、人間は自身をとりかこむ世界について語っていた。

古代インドではヴェーダにおいて、「無からの発生」や「原人による創造」といった宇宙創生論が見られ、後には「繰り返し生成・消滅している宇宙」という考え方が現れたという。

古代ギリシャにおいては、エウドクソス、カリポス、アリストテレスらが、地球中心説を構築した。アリストテレスはcelestial spheresは永遠不変の世界で、エーテルを含んでいる、と考えた。

ヨーロッパ中世のスコラ哲学においても、アリストテレス的なコスモロジーが採用された。

ヨーロッパにおいては19世紀ごろまで、コスモロジーは形而上学の一分野とされ、自然哲学において扱われていた[3]。

現在の自然科学の宇宙論につながるそれは、天体は地上の物体に働いているのと同じ物理法則に従っていることを示唆するコペルニクスの原理と、それらの天体の運動の数学的理解を初めて可能にしたニュートン力学に端を発している。これらは現在では天体力学と呼ばれている。

現代の宇宙論は20世紀初めのアルベルト・アインシュタインによる一般相対性理論の発展と、非常に遠い距離にある天体の観測技術の進歩によって始まった。

天文学・宇宙物理学における宇宙論は、我々の宇宙自体の構造の研究を行なうもので、宇宙の生成と変化についての根本的な疑問に関連している。

20世紀には宇宙の起源について様々な仮説を立てることが可能になり、定常宇宙論、ビッグバン理論、あるいは振動宇宙論などの説が提唱された。

1970年代ころから、多くの宇宙論研究者がビッグバン理論を支持するようになり、自らの理論や観測の基礎として受け入れるようになった。

宇宙論の歴史[編集]

「宇宙論の年表」も参照

古代インド[編集]

ヴェーダ(紀元前1000年頃から紀元前500年頃)の時代から、すでに無からの発生、原初の原人の犠牲による創造、苦行の熱からの創造、といった宇宙生成論がある、という。また、地上界・空界・天界という三界への分類もあったという[4]。

後の時代、繰り返し生成・消滅している宇宙という考え方が成立したという[4]。これには業(ごう、カルマン)の思想が関連しているという[4]。

この無限の反復の原因は、比較的初期の仏教においては、衆生の業の力の集積として理解されていた[4]という。それが、ヒンドゥー教においては、創造神ブラフマーの眠りと覚醒の周期として表象(シンボライズ)されるようになったという(ブラフマーは後にヴィシュヌに置き換わった)[4]。

様々な神話[編集]

世界各地には、神によって世界が作られたとする言及、物語、説が多数存在する。それらは創造神話や創世神話とも呼ばれている。

関連項目[編集]
九つの世界 (北欧神話のコスモロジー)

古代ギリシャ[編集]

紀元前700年ころに活動したヘシオドスの『神統記』の116行目には「まず最初にchaos カオスが生じた」とある。古代ギリシャ語の元々の意味では「chaos」は《大きく開いた口》を意味していた。まずそのchaosがあり、そこから万物が生成した、とされたのである。そしてそのカオスは暗闇を生んでいるともされた。

ピタゴラス学派の人々は宇宙をコスモスと呼んだ。この背景を説明すると、古代ギリシャでは「kosmosコスモス」という言葉は、調和がとれていたり秩序がある状態を表現する言葉であり、庭園・社会の法・人の心などが調和がとれている状態を「kata kosmon(コスモスに合致している)」と表現した。同学派の人々は、数を信仰しており、存在者のすべてがハルモニアやシンメトリアといった数的で美的な秩序を根源としていると考え、この世界はコスモスなのだ、と考えた。このように見なすことにより同学派の人々は、一見すると不規則な点も多い天文現象の背後にひそむ数的な秩序を説明することを追及することになった。その延長上にプロラオスやエウドクソスらによる宇宙論がある。





ペトルス・アピアヌス[5]によって描かれた“Cosmographia”。古代から中世にかけてのコスモロジー。(アントワープ、1539年)
古代ギリシャのエウドクソス(紀元前4世紀ころ)は、地が中心にあり、天体がそのまわりを回っているとした(→地球中心説、天動説)。27の層からなる天球が地を囲んでいると想定した。 古代ギリシャのカリポス(紀元前370-300頃)は、エウドクソスの説を発展させ、天球を34に増やした。

アリストテレス(紀元前384-322年)は『形而上学』において、エウドクソスおよびカリポスの説を継承・発展させた。 やはりこの地が中心にあり、天球が囲んでいる、とした。ただし、エウドクソスやカリポスは天球が互いに独立していると考えていたのに対し、連携があるシステムとし、その数は48ないし56とした。各層は、それぞれ固有の神、自らは動かず他を動かす神(en:unmoved mover)によって動かされている、とした。こちら側の世界は四元素で構成されているとし、他方、天球は四元素以外の第五番目の不変の元素、エーテルも含んでいると考えた。天球の世界は永遠に不変であると考えていた。

関連項目[編集]
ソクラテス以前の哲学者
自然法論

新約聖書[編集]

詳細は「聖書の宇宙論」を参照

『七十人訳聖書』においてはκόσμος(kosmos)という言葉以外にoikumeneという言葉も用いられていた。キリスト教神学においては、kosmosの語は、「この世」の意味でも、つまり「あの世」と対比させられる意味でも用いられていたという。

プトレマイオス[編集]





アルマゲスト(George of Trebizond によるラテン語版、1451年頃)
クラウディオス・プトレマイオス(2世紀ごろ)は『アルマゲスト』において、もっぱら天球における天体の数学的な分析、すなわち太陽、月、惑星などの天体の軌道の計算法を整理してみせた。そして後の『惑星仮説』において自然学的な描写を試み、同心天球的な世界像、すなわち地球が世界の中心にあるとし、その周りを太陽、月、惑星が回っていることを示そうとした。惑星の順は伝統に従い、地球(を中心として)、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星だとした。

イスラーム世界[編集]

イブン・スィーナーはアリストテレスの論、プトレマイオスの論、ネオプラトニズムの混交した説を述べた。彼は、地球を中心とした9の天球が同心円的構造を成しているとし、一番外側に「諸天の天」、その内側に「獣帯天の天球」、土星天、木星天、火星天、太陽天、金星天、水星天、月天、そしてその内側に月下界(地球)がある、とした。「諸天の天」から月天までの9天は全て第五元素であるエーテルから構成されており不変であり、それに対して月下界は四元素の結合・分解によって生成消滅を繰り返しているとした。9天は地球を中心に円運動を行っている。そして、その動力因は各天球の魂である。魂の上に、各天球を司っている知性(ヌース)がある。一者(唯一神、アッラー)から第一知性が流出(放射)し、第一知性から第二知性と第一天球とその魂が流出(放射)する。その流出(放射)は次々に下位の知性でも繰り返されて、最後に月下界が出現したとする[4]。

関連項目[編集]
イスラム科学、イスラーム哲学

ヨーロッパ中世[編集]

ヨーロッパ中世において行われていたスコラ哲学においては、アリストテレスの説を採用し、彼の『自然学』および四元素説も継承していた。そして、月下界(人間から見て、月よりもこちら側寄りの世界)は四元素の離散集合によって生成消滅が起きている世界だが、天上界は(月からあちら側の世界は)、地上の世界とは根本的に別の世界だと想定されており、円運動[6]だけが許される世界で、永遠で不生不滅の世界であるとされていた[7][8]。そして、天上界は固有の第五元素から構成される、とされていた[7]。

関連項目[編集]
天国、エデンの園、地獄

現代[編集]

「現代宇宙論」も参照

西欧では、(19世紀の学者もそうであったが)20世紀初頭の物理学者らも、宇宙は始まりも終わりもない完全に静的なものである、という見解を持っていた。

現代的な宇宙論研究は観測と理論の両輪によって発展した。

1915年、アルベルト・アインシュタインは一般相対性理論を構築した。アインシュタインは物質の存在する宇宙が静的になるように、自分が導いたアインシュタイン方程式に宇宙定数を加えた。しかしこのいわゆる「アインシュタイン宇宙モデル」は不安定なモデルである。この宇宙モデルは最終的には膨張もしくは収縮に至る。一般相対論の宇宙論的な解はアレクサンドル・フリードマンによって発見された。彼の方程式はフリードマン・ロバートソン・ウォーカー計量に基づく膨張(収縮)宇宙を記述している。

1910年代にヴェスト・スライファーとやや遅れてカール・ウィルヘルム・ヴィルツは渦巻星雲の赤方偏移はそれらの天体が地球から遠ざかっていることを示すドップラーシフトであると解釈した。しかし天体までの距離を決定するのは非常に困難だった。すなわち、天体の角直径を測ることができたとしても、その実際の大きさや光度を知ることはできなかった。そのため彼らは、それらの天体が実際には我々の天の川銀河の外にある銀河であることに気づかず、自分達の観測結果の宇宙論的な意味についても考えることはなかった。

1920年4月26日、アメリカ国立科学院においてハーロー・シャプレーとヒーバー・ダウスト・カーチスが、『宇宙の大きさ』と題する公開討論会を行った。一方のシャプレーは、「我々の銀河系の大きさは直径約30万光年程度で、渦巻星雲は球状星団と同じように銀河系内にある」との説を展開し、対するカーチスは、「銀河系の大きさは直径約2万光年程度で、渦巻星雲は、(この銀河系には含まれない)独立した別の銀河である」との説を展開した。この討論は天文学者らにとって影響が大きく、「The Great Debate」あるいは「シャプレー・カーチス論争」と呼ばれるようになった。

1927年にはベルギーのカトリック教会の司祭であるジョルジュ・ルメートルがフリードマン・ルメートル・ロバートソン・ウォーカーの式を独立に導き、渦巻星雲が遠ざかっているという観測に基づいて、宇宙は「原始的原子」の「爆発」から始まった、とする説を提唱した。これは後にビッグバンと呼ばれるようになった。1929年にエドウィン・ハッブルはルメートルの理論に対する観測的裏付けを与えた。ハッブルは渦巻星雲が銀河であることを証明し、星雲に含まれるケフェイド変光星を観測することでこれらの天体までの距離を測定した。彼は銀河の赤方偏移とその光度の間の関係を発見した。彼はこの結果を、銀河が全ての方向に向かってその距離に比例する速度(地球に対する相対速度)で後退していると解釈した。この事実はハッブルの法則として知られている。ただしこの距離と後退速度の関係は正確には比較的近距離の銀河についてのみ確かめられたものだった。観測した銀河の距離が最初の約10倍にまで達したところでハッブルはこの世を去った。

宇宙原理の仮定の下では、ハッブルの法則は宇宙が膨張していることを示すことになる。このアイデアからは二つの異なる可能性が考えられる。一つはルメートルが発案し、ジョージ・ガモフによって支持・発展されたビッグバン理論である。もう一つの可能性はフレッド・ホイルの定常宇宙モデルである。定常宇宙論では銀河が互いに遠ざかるにつれて新しい物質が生み出される。このモデルでは宇宙はどの時刻においてもほぼ同じ姿となる。長年にわたって、この両方のモデルに対する支持者の数はほぼ同数に分けられていた。

しかしその後、宇宙は高温高密度の状態から進化してきたという説を支持する観測的証拠が見つかり始めた。1965年の宇宙マイクロ波背景放射の発見以来、ビッグバン理論が宇宙の起源と進化を説明する最も良い理論と見なされるようになった。1960年代終わりよりも前には、多くの宇宙論研究者は、フリードマンの宇宙モデルの初期状態に現れる密度無限大の特異点は数学的な理想化の結果出てくるものであって、実際の宇宙は高温高密度状態の前には収縮しており、その後再び膨張するのだと考えていた。このようなモデルをリチャード・トールマンの振動宇宙論と呼ぶ。1960年代にスティーヴン・ホーキングとロジャー・ペンローズが、振動宇宙論は実際にはうまくいかず、特異点はアインシュタインの重力理論の本質的な性質であることを示した。これによって宇宙論研究者の大部分は、宇宙が有限時間の過去から始まったとするビッグバン理論を受け入れるようになった。[9]

ただし現在でも一部の研究者は、ビッグバン理論のほころびを指摘し、定常宇宙論やプラズマ宇宙論などの宇宙論を支持している。

関連項目[編集]
サイクリック宇宙論
多元宇宙論
エヴェレットの多世界解釈
ブレーンワールド、エキピロティック宇宙論
宇宙ひも
創造科学
シミュレーション仮説
サイエンス・ファンタジー

脚注[編集]

1.^ 「cosmos」は元はギリシャ語のκόσμοςコスモスであり、これは「秩序」という意味で「chaosカオス」(=無秩序)と対比させられていた。また「cosmos」は同時に「全ての存在」を意味していたと解説されることもある。
2.^ 「cosmology」という語は、cosmo - logyという構成になっている。logyの意味については、-logyの項を参照可
3.^ ニュートンも自然哲学者を自認していた。
4.^ a b c d e f 廣松渉 『岩波哲学・思想事典』 岩波書店、1998年、133頁。ISBN 4000800892。
5.^ en:Peter Apian
6.^ 完全性を具現している、とされた。
7.^ a b 岩波書店『哲学・思想 事典』、「第五元素」の項
8.^ 大枠として、スコラ哲学では「聖なる天界」と「俗なる地上界」とに分けて世界を理解していたのである。
9.^ 宇宙論研究者の大多数が現在のところ、観測結果を説明するモデルとしてはビッグバン理論が最も適切であろう、と見なしている。それを支持している人々を中心として、ビッグバン理論を組み入れた理論体系を「標準的宇宙論」という名で呼ぶこともある。

参考文献[編集]
スワンテ・アーレニウス 『史的に見たる科学的宇宙観の変遷』 寺田寅彦訳、岩波書店〈岩波文庫774-775〉、1931年。 スワンテ・アーレニウス 『史的に見たる科学的宇宙観の変遷』 寺田寅彦訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1951年12月15日。
スワンテ・アーレニウス 『宇宙の始まり 史的に見たる科学的宇宙観の変遷』 寺田寅彦訳、第三書館、1992年11月1日。ISBN 978-4-8074-9226-8。


関連項目[編集]
世界観
人間観、人間
神の存在証明
三千大千世界
グノーシス主義
アントロポゾフィー
アストラル旅行
天の川
天文学
物理学 - 宇宙物理学 - 一般相対性理論 - 素粒子物理学
宇宙の年表
宇宙論パラメータ
宇宙の大規模構造

天体論 (アリストテレス)

『天体論』(希: Περὶ οὐρανοῦ[1]、羅: De Caelo、英: On the Heavens)とは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスによって書かれた、天体(宇宙)についての自然哲学書。

従来の四元素説に加えて、第5の元素(第一元素)としてのいわゆる「アイテール」(エーテル)と、それに支えられた宇宙の円運動、「アイオーン」としての宇宙の唯一性・不滅性、地球が宇宙の中心で静止しているとする「天動説」等が述べられている。



目次 [非表示]
1 構成
2 内容
3 日本語訳
4 脚注・出典
5 関連項目


構成[編集]

全4巻から成る。
第1巻 - 天体について。全12章。 第1章 - 自然研究の対象は物体、大きさ、属性、運動、その諸原理である --- 完全な数は「3」、3方向(3次元)に分割的なことで物体は多であり完全に完結している、このことは部分である元素についても全体である宇宙についても言える、場所的運動には中心から離れる「上への運動」(遠心運動)、中心に向かう「下への運動」(向心運動)、中心を回る「円運動」の3つがある、単純運動は単純物体に複合運動は複合物体に属する
第2章 - 四つの元素の他に第五の物体的実体が存在する、その運動は連続的・恒常的で完全な運動、すなわち「最初の円運動」である
第3章 - 円運動する物体は重さも軽さも持たない、不生・不滅・不増・不減、永遠にして不老・不受・不滅である --- 3つの確証 --- 1.世間一般の神々への信仰、2.伝承と経験的事実、3.語源 --- 古人はこの最初の物体が存在する最高の場所を「アイテール」と名づけた
第4章 - 「円運動」には(「上への運動」と「下への運動」のような)反対の運動が無い
第5章 - どんな物体も無限ではない --- 1.「第一物体」も円運動する限り無限ではない、空間的にも時間的にも有限である --- 7つの論証
第6章 - 2.その他の単純物体もどれも無限ではない
第7章 - 3.無限な物体があり得ないことの一般的考察
第8章 - 一つの天界(宇宙)しかあり得ない --- 1.三つの物体的元素の本性に従った運動およびそれらの占める場所の考察による論証
第9章 - 2.形相と質料の原理による論証
第10章 - 天界(宇宙)は生成も消滅もしない --- 1.先行する諸説の批判
第11章 - 2.「生成しない」「生成する」「消滅する」「消滅しない」「できる」「できない」の語義の検討とその定義
第12章 - 3.宇宙は生成消滅しないことの証明

第2巻 - 天体について(つづき)。全14章。 第1章 - 前章の確証
第2章 - 上下・左右の場所的対立の原理が天界にも備わることの意味について
第3章 - なぜ宇宙の内には多くの運動と多くの物体とが存在するのか
第4章 - 天は完全な球形である
第5章 - なぜ最初の天は一方向に回転し、多方向に回転しないのか
第6章 - 最初の天の運動は均一的である
第7章 - 諸星について --- 1.諸星は火から成ってない
第8章 - 2.諸星の運動は諸星が付着する諸々の天球の運動による
第9章 - 3.運動する諸星の間に「天球の階調」があるというのは事実ではない
第10章 - 4.諸星の順序について
第11章 - 5.諸星の形は球形である
第12章 - 二つの難問とその解決
第13章 - 大地(地球)について --- どこに位置しているか、静止しているか、運動しているか、どんな形状をしているか --- 1.先行する諸説(ピュタゴラス派、プラトン、クセノパネス、タレス、アナクシメネス、アナクサゴラス、デモクリトス、エンペドクレス等)への批判
第14章 - 2.大地(地球)は宇宙の中心に位置し静止している、形状は球形であまり大きくない

第3巻 - 月下の物体について。全8章。 第1章 - 生成に関する先人たちの説、特に物体を面に分解する説への批判
第2章 - 全ての単純物体は本性に従った運動と静止を持っている、本性に従った運動は「中心からの上昇」か「中心への下降」かのどちらか、本性に反した運動について、生成についての一般的結論
第3章 - 生成する物体について --- 1.元素とは何か
第4章 - 2.元素の数は限られている
第5章 - 3.諸元素は一つに還元できない
第6章 - 4.諸元素はそれ自身永遠ではなく、相互に生成し合う
第7章 - 5.元素の生成の仕方について
第8章 - 6.元素を形で区別する試みを排す

第4巻 - 月下の物体について(つづき)。全6章。 第1章 - 相対的に軽い・重いものが存在するだけでなく、絶対的に軽い・重いものが存在する
第2章 - 1.同じものの数量の多寡による軽重説への批判、2.空虚・充実体・質料の数・大きさによる軽重説への批判
第3章 - 四元素が示す色々な運動の説明
第4章 - 四元素の差異と属性
第5章 - 四元素の質料は一つでもあり、元素と同数でもある
第6章 - 物体の形はその運動の上昇・下降の方向を規定しない、単に遅速の原因となるに過ぎない


内容[編集]

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日本語訳[編集]
『アリストテレス全集 4』 村治能就、戸塚七郎訳、岩波書店

脚注・出典[編集]

1.^ 直訳すると、「ウーラノス(天)について」。

関連項目[編集]
アリストテレス
自然学 (アリストテレス)
宇宙論
アイテール (神話)
アイオーン
天動説
天文学
宇宙物理学

自然学 (アリストテレス)

『自然学[1]』(希: Φυσικῆς ἀκροάσεως (physikes akroaseos)、羅: Physica, Physicae Auscultationes、英: Physics)とは、古代ギリシアの哲学者アリストテレスによる自然哲学の研究書である。

アリストテレスは、「万学の祖」と呼ばれ、様々な領域の研究を行った傑出した哲学者であり、自然学的な研究も数多く残しており、現代の天文学、生物学、気象学 等々等々に相当する領域でも研究業績を残している。この『自然学』はそうした自然学研究群の基礎を構成し、なおかつアリストテレス哲学の中でも重要な位置を占めている[2]。

本書は全8巻で構成されており、第1巻から第2巻までは原理についての論述、第3巻では運動と無限なものについて、第4巻では場所、空間、時間について、第5巻から第8巻では運動と変化について考察されている。自然を研究する上でまず一般的な原理に基づきながら徐々に個別な対象を分析している。



目次 [非表示]
1 構成
2 内容 2.1 各巻概略

3 後世における受容・評価
4 注釈
5 訳書
6 参考文献
7 関連文献
8 出典・脚注


構成[編集]

全8巻から成る。
第1巻 - 自然学の領域と原理の概説。全9章。 第1章 - 自然学の対象と研究方法上の心得
第2章 - 自然の「第一原理」の数や種類についての諸難問、自然的実在はエレア派が想定するような「一者」ではない
第3章 - エレア派の論議に対する論理的検討
第4章 - 原理についての自然学者たちの所見会とこれらに対する批判
第5章 - 原理は反対のものどもである
第6章 - 原理は数において二つまたは三つ
第7章 - 生成過程の分析により著者の見解 --- 原理の数は二つ(質料と形相)または三つ(質料と形相と欠除)であること --- の正しさが示される
第8章 - この正しい見解によって原理についての諸難問が解決される
第9章 - 「第一原理」(質料と形相と欠除)についての補説

第2巻 - 自然学の対象と四原因。全9章。 第1章 - 自然・自然的とは何か、自然と技術
第2章 - 自然学の対象と「自然学研究者」の任務、彼らと「数学研究者」及び「第一哲学研究者」との相違
第3章 - 転化の四原因、自体的原因と付帯的原因
第4章 - 偶運と自己偶発、これらについての他の人々の見解
第5章 - 偶運とか自己偶発とかは存在するか、またどのように存在するか、偶運の定義
第6章 - 自己偶発と偶運の相違、これらは転化の自体的原因ではない
第7章 - 自然学研究者はその四原因の全てから考察し把握せなばならない
第8章 - 自然の合目的性、エンペドクレス等の機械的必然論への批判
第9章 - 自然の世界における必然性の意義

第3巻 - 運動、無限。全8章。
  【運動について】 第1章 - 運動の種類、運動の暫定的定義
第2章 - この定義を確証するための補説
第3章 - 動かすものと動かされるもの、それらの現実化、運動の定義
【無限について】
第4章 - 無限なものについての先人の諸見解、その存在を認める人々の説と彼らがそれを想定する理由、無限の諸義
第5章 - 実体としての無限なものを認めるピュタゴラス派の説とその批判、無限な感覚的物体は存在しない
第6章 - 無限なものは可能的に存在する、加えることによる無限と分割することによる無限、無限とは何か
第7章 - 諸種の無限なもの、数における無限と量における無限、空間的な大きさ及び時間の長さに関する無限と運動の関係、無限は四原因のいずれに関するものか
第8章 - 無限なものを現実的に存在するとする諸見解に対する批判

第4巻 - 場所、空虚、時間。全14章。
  【場所について】 第1章 - 場所の存否、それが何であるかについての諸難問
第2章 - 場所とは何か、それはものの質料なのか形相なのか
第3章 - 何ものかの内にあるということの諸義、ものはそのもの自らの内に存在するのか、場所は場所の内に存在するのか
第4章 - 場所の本質についての4つの見解、場所の定義
第5章 - この定義の補説、天界の外にこれを包む場所は存しない、第1章の諸難問に対する解答
【空虚について】
第6章 - 空虚についての他の人々の諸見解
第7章 - 一般に「空虚」という語で何が考えられているか、空虚の存在を肯定する諸説への反論
第8章 - 物体から離れて独立な空虚は存在しない、物体によって占められる空虚も存在しない
第9章 - 空虚はいかなる物体の内部にも存在しない
【時間について】
第10章 - 時間の存否についての諸難問、時間についての種々の見解
第11章 - 時間とは何か、時間と運動との関係、時間の定義、時間と「今」との関係
第12章 - 時間の諸属性、ものごとが時間の内にあるということの諸義
第13章 - 時間の過去・現在・未来と時間関係の諸語(いつか、やがて、先程、昔、突然など)の意味
第14章 - 時間論補稿 --- 時間と意識との関係、時間と天体の円運動との関係など

第5巻 - 諸運動の分類。全6章。 第1章 - 運動・転化の研究のための予備的諸考察、転化とその分類
第2章 - 運動の分類、動かされ得ないもの
第3章 - 「一緒に」「離れて」「接触する」「中間に」「継続的」「接続的」「連続的」の意味
第4章 - 運動が一つと言われる、その多くの意味
第5章 - 運動の反対性
第6章 - 運動と静止の反対性、「自然的」「反自然的」な運動と静止の反対性

第6巻 - 分割と転化、移動と静止。全10章。 第1章 - 連続的なものは不可分なものから成ることはできず、常に可分的である
第2章 - 前章の詳細
第3章 - 「今」は不可分なものであり、どんなものも「今」においては運動も静止もしていない
第4章 - 転化するものは全て可分的である、運動は時間と諸部分の運動とに関して可分的である、時間・運動・現に運動している状態・運動しているもの・運動の領域は全て同じように可分的である
第5章 - 転化し終えたものは転化し終えたまさにその時には転化の終端の内にある、転化し終えるのは不可分な時としての「今」においてである、転化するものにも転化する時間にも最初というものが無い
第6章 - 転化するものは転化の直接的な時間のどの部分においても転化している、転化しているものはより先に転化し終えたのであり転化し終えたものはより先に転化していた
第7章 - 運動するもの、距離、時間の有限と無限
第8章 - 停止の過程と静止について、運動するものがその運動の時間において静止しているあるものに対応していることは不可能である
第9章 - ゼノンの運動否定論への論駁
第10章 - 部分の無いものは運動し得ない、円環的な移動を除いて転化は無限でありえない

第7巻 - 動者。全5章。 第1章 - 動くものは全て何かによって動かされる、どんな他のものによっても動かされることのない第一の動かすものがある
第2章 - 動かすものと動かされるものとは接触していなければならない
第3章 - 性質の変化は全て感覚的諸性質に関する
第4章 - 運動の速さについての比較
第5章 - 力が重いものを動かす働きに関する原理

第8巻 - 第一動者(不動の動者)と宇宙。全10章。 第1章 - 運動は常にあったし常にあるだろう
第2章 - 前章に反対する見解への反駁
第3章 - 時には運動し時には静止している事物がある
第4章 - 動くものは全て何かによって動かされる、特に自然的に動くものについて
第5章 - 第一の動かすものは他のものによって動かされるのではない、第一の動かすものは動かされ得ないものである
第6章 - 第一の動かすものは永遠で一つである、それは付帯的にさえ動かされない、第一の動かされるものも永遠である
第7章 - 移動が第一の運動である、移動以外のどんな運動・転化も連続的でない
第8章 - 円運動のみが連続的で無限である
第9章 - 円運動が第一の移動である、以上のことの若干の再確認
第10章 - 第一の動かすものは部分も大きさも持たず宇宙の周辺にある


内容[編集]

各巻概略[編集]

【第1巻】 kinesis(キネーシス、“運動”[3])やmetabole(メタボーレ、変化)が可能であるためにはどのような原理が必要なのか、という問いが立てられる。そしてアリストテレス以前の哲学者たちの説が検討され、eidos(エイドス、形相)、steresis(ステレーシス、欠如態、hylee(ヒュレー、質料)の3つの原理が運動や変化を説明するのに必要でありかつ十分である、と述べる。

【第2巻】 ここでアリストテレスは自然学の対象と方法を規定する。まず自然物を「運動や静止の原理をそれ自体のうちにもつもの」と定義する。次に「〜のphysis」(「 〜のフュシス(自然)」)という表現の意味を分析し、それは「〜のヒュレー(質料)」と「〜のエイドス(形相)」の2つの意味でありうるとし、エイドスのほうが優先されるべきだ、と述べる。そして、ヒュレーとエイドスからなるものとして自然物を研究するのが自然学だ、とする。

また原因という概念が分析される。原因の中でも基本的なものとして質料因、形相因、目的因、始動因の4つを挙げ(四原因説)、さらに、派生的なそれとして付帯原因、偶然などにも言及し、自然学というのは上記基本的原因のすべてを解明すべきだ、と述べる(なお、目的因を認めないような機械論的考え方には反対する)。

【第3巻、第4巻】 運動の概念と、それに関係する連続・無限・場所・空虚・時間等の概念について考察する。

【第5巻】kinesisに関する問題

【第6巻】連続性の問題(ゼノンのパラドックス など)

【第7巻】kinesisに関する問題

【第8巻】kinesisするものは何かによって動かされるという事実から、その何かを動かした何かを遡ってゆけば、不動の動者(全ての運動を引き起こした究極の原因で、それ自身は動かないもの)が存在する、と論証する。

後世における受容・評価[編集]

アリストテレスが本書で展開した世界観は古代ギリシア・ローマ時代、さらにはラテン語に翻訳されヨーロッパの中世でも学ばれ、学問の基礎づけに用いられ重用された。

16世紀中葉に太陽中心説がコペルニクスによって提唱され、その説が検討に値する学説だと人々に認知されるにつれ、地球中心説に基づいていたアリストテレスの宇宙論に深く結びついていた彼の運動論も少しずつ疑問視されるようになっていった[4] 。

注釈[編集]

古代ギリシアでもアリストテレス以外にも自然を考察の対象とした哲学者はいた。先行者らの中には機械論的な自然観を唱える者もいた。だが、アリストテレスはそうした自然観の問題点を見据え、それを超えたものを提供する。

アリストテレスは、自然物はそれ自体が運動または静止の原理を内包している、としている。木や石や水などといった自然物の中でも、それ自体によって存在するものと、外部の原因によって存在するものがある、と区別しており、それ自体で存在するものはkinesisと静止の原理を備えている、とした。自然哲学における原理とはkinesis(キネーシス)であるとする。そして実体についてのkinesisとは生成と消滅であり、分量についてのkinesisとは増大と減少、質料についてのkinesisは変質、位置についてのkinesisは移動、とした。そしてkinesisとは、デュナミス(可能的なもの)への発展的な過程だ、とする。

訳書[編集]
『アリストテレス全集』第3巻「自然学」出隆、岩崎共訳、岩波書店
『アリストテレス・自然学』松本厚訳、弘文堂
『アリストテレス哲学入門』出隆、岩波書店

参考文献[編集]
土屋賢二 「自然学」『哲学・ 思想 事典』、1998年。

関連文献[編集]
千葉恵(1982)「『自然学』A巻における生成の問題 : 質料概念の形成をめぐって」哲學 75, 19-45, 1982 [1]
千葉恵(1994)「アリストテレス「自然学」II9における目的と必然性」西洋古典學研究 42, 47-56 1994-03[2]
千葉恵(2004)「アリストテレスにおける力と運動 : 可能態、完全現実態そして現実活動態」北海道大学文学研究科紀要 113, 2004-07 [3]

出典・脚注[編集]
1.^ 書名は日本語で『物理学』とも訳されることもある
2.^ 土屋賢二 「自然学」『哲学・ 思想 事典』、1998年。
3.^ kinesisは「運動」あるいは「変化」。kinesisをmetaboleと対比して訳すためか、kinesisを日本語では「運動」と訳してしまうことがなかば定番化してしまっているが、英語でもchangeと訳すことがあるように日本語でも「変化」と訳したほうが通常の語感としてはしっくりくる。kinesisは「変化」と訳し、その代わりにmetaboleの訳語のほうを他の語に置き換えるほうが無難とも言えるのである。
4.^ 横山雅彦 「運動」『哲学 ・ 思想事典』、1998年。

詭弁論駁論

『詭弁論駁論』(きべんろんばくろん、希: Περὶ σοφιστικῶν ἐλέγχων、羅: De Sophisticis Elenchis, 英: On Sophistical Refutations)とは、アリストテレスの著作であり、『オルガノン』の中の一冊。

「論証」(希: αποδειξις、apodeiksis、アポデイクシス)について論じられる『分析論前書』『分析論後書』、「弁証術」(希: διαλεκτική、dialektike、ディアレクティケー)について論じられる『トピカ』に対して、本書では、「詭弁」(希: σόφισμα、sophism)について論じられる。

元々は、『トピカ』の一部、すなわち第9巻として位置付けられる書籍だったと考えられる[1]。



目次 [非表示]
1 構成
2 内容
3 訳書
4 脚注・出典
5 関連項目


構成[編集]

全34章から成る。
第1-2章 - 序論 第1章 - 真の推論・論駁と、詭弁的論駁との一般的区別
第2章 - 対話形式の議論の4種類 --- 1. 教示的、2. 弁証術的、3. 検証的、4. 論争的

第3-15章 - 虚偽が犯される諸形式 第3章 - 論争的議論の5つの目標 --- 1. 論駁、2. 誤謬、3. 逆説、4. 語法違反、5. 無意味なお喋り
第4-11章 - 論駁 第4章 - A. 「言葉遣い」による論駁 --- 1. 語義曖昧、2. 文意不明確、3. 結合、4. 分離、5. 抑揚、6. 表現形式
第5章 - B. 「言葉遣い」以外による論駁 --- 1. 付帯性、2. 端的・限定的表現、3. 無知、4. 論点先取、5. 帰結、6. 虚偽原因、7. 論点統合
第6章 - 以上の詭弁的論駁の全ては、無知に帰する
第7章 - その原因は適切な区別立ての欠如にある
第8章 - C. 形式的には妥当だが、実質的には外形的にしか妥当しない論駁
第9章 - 論駁の数は無限であり挙げ尽くすことは不可能、共通原理に基づく諸々の論駁を成立させるトポスを把握することが弁証家の任務
第10章 - 言葉(表現)に対する議論と、思想に対する議論を、区別することの非妥当性、教示的議論と弁証術的議論
第11章 - 検証的議論と弁証術的議論、論争的(詭弁的)議論と弁証術的議論、教示的議論と弁証術的議論、論争的議論の2つの型

第12章 - 誤謬・逆説 - 誤謬に陥らせる方法、逆説に陥らせる方法
第13章 - 無意味なお喋り - 無意味なお喋りに陥らせる方法
第14-15章 - 語法違反 第14章 - 語法違反に陥らせる方法、総括
第15章 - 有効に問いを立て議論する方法


第16-33章 - 虚偽の解決 第16-18章 - 序論 第16章 - 詭弁的論駁研究の有用性と、練習の必要性
第17章 - 外見的な解決法
第18章 - 真の解決法

第19-33章 - 論駁の解決法 第19章 - A. 「言葉遣い」による論駁に対する解決法 --- 上述1-2に対して
第20章 - 上述3-4に対して
第21章 - 上述5に対して
第22章 - 上述6に対して
第23章 - 「言葉遣い」による論駁に対する解決法の一般的規準
第24章 - B. 「言葉遣い」以外による論駁に対する解決法 --- 上述1に対して
第25章 - 上述2に対して
第26章 - 上述3に対して
第27章 - 上述4に対して
第28章 - 上述5に対して
第29章 - 上述6に対して
第30章 - 上述7に対して
第31章 - 「無意味なお喋り」に引き込む議論に対する解決法
第32章 - 「語法違反」に導く議論に対する解決法
第33章 - 虚偽の解決における難易の諸段階


第34章 - 結語 (『トピカ』全体の総括、「弁証術」と「弁論術」の比較)

内容[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。

訳書[編集]
『アリストテレス全集 2 』 村治能就、宮内璋訳 岩波書店 1970年

脚注・出典[編集]

1.^ 『アリストテレス全集2』岩波書店pp505-506

トピカ (アリストテレス)

『トピカ』(希: τόποι、羅: Topica, 英: Topics)とは、アリストテレスの著作であり、『オルガノン』の中の一冊。

『分析論前書』『分析論後書』では、「論証」(希: αποδειξις、apodeiksis、アポデイクシス)について述べられるのに対して、この『トピカ』では、「弁証術」(希: διαλεκτική、dialektike、ディアレクティケー)について論じられる。

タイトルのラテン語「トピカ」(羅: topica)は、ギリシア語の「トポイ」(希: τόποι、単数形は「トポス」(希: τόπος))の訳語であり、「場所」を意味する。本書では、(通念(endoxa)に立脚する性格を持った)弁証術的推論における、各種の(正当・妥当な)「場合分け」「観点」「手順」「規則」「注意点」といった程度の意味で用いられている。

本書で取り上げられる「トポス」の数は、
「付帯性」に関する「トポス」が103
「類」に関する「トポス」が81
「特性」に関する「トポス」が69
「定義」に関する「トポス」が84

であり、合計337の「トポス」が述べられている[1]。



目次 [非表示]
1 構成
2 内容
3 訳書
4 脚注・出典
5 関連項目


構成[編集]

以下の全8巻から成る。
第1巻 - 18章 第1章 - 序説 --- この論考の意図、推論の性質と種類 --- 1.演繹的推論(論証)、2.弁証術的推論、3.見かけだけの推論(論争的推論)、4.誤謬推理
第2章 - この論考の用途 --- 知的訓練、他人との会談、哲学的知識に対する有用性
第3章 - 提起された方法の限界
第4章 - 論議の主題(問題)と材料(命題)
第5章 - 4つの述語形態 --- 1.定義、2.特性、3.類、4.付帯性 (※本書では2巻以降、この分類を逆順に取り上げていく)
第6章 - 述語形態はどこまで別々に取り扱われ得るか
第7章 - 「同じ」という言葉の種々の用法 --- 1.数的、2.種的、3.類的
第8章 - 述語形態の4分類の正当性、帰納立証と推論立証
第9章 - 十のカテゴリーと述語形態との関係
第10章 - 弁証術的な命題
第11章 - 弁証術的な問題、弁証術的な提言
第12章 - 弁証術的な推論 --- 帰納と演繹的推論
第13章 - 推論をうまく遂行するための4つの道具
第14章 - 命題の確保、倫理的・論理的・自然学的な命題と問題
第15章 - 名の多義性の区別 --- 相反、種の違い、現存と不在、中間、矛盾、欠如と所持、屈折、同名異義、同類の上位下位、反対類の上位下位、複合語による定義、定義の多義性、程度、種差
第16章 - 種差への注目
第17章 - 類似性の考察
第18章 - 多義性発見の有用性、種差発見の有用性、類似性発見の有用性

第2巻 - 付帯性の述語付けに関する諸々の「トポス」、11章 第1章 - 一般的問題と特殊的問題、属性に立脚した問題の特殊な困難さ、2つの共通した誤り
第2章 - 付帯性に関する「トポス」 --- 1.非付帯性の証明、2.基体(主語)についての吟味、3.付帯性とその基体の定義、4.問題の命題への転換、5.一般的命名に従っての定義とそうでない定義
第3章 - 多義性を取り扱うための「トポス」 --- 1.一つの言葉の多義性、相手が気付かなければ自分に都合のいい意味を用いていい、2.相手が気付いている場合は意味を区別して都合のいいものを選択、目的と手段、自体的と付帯的
第4章 - その他の「トポス」 --- 1.よく知られた名への転換、2.反対なものは類において検討、類と種、3.現前の事象(基体)の定義吟味とそれに立脚した論議、4.目下の立論が依拠する命題の検討、5.時間要因の考慮
第5章 - 代替命題の提示によって議論を広げるための「トポス」 --- 1.攻撃容易な主張を相手から導く際のソフィスト的論法の有用性、2.一つの主張に続くものが否定されることでその主張も否定される
第6章 - その他の「トポス」 --- 1.二つの述語の内で一方だけが必然的に帰属することを示す場合、2.相手を攻撃する際には名の意味を屈折させた方がいい、3.一般的「真」と必然的「真」の区別、4.名称と事物の区別
第7章 - 相反するものとその組み合わせに関する「トポス」 --- 1.一つの命題に関するいくらかの相反する語の中から適切なものを選択、2.同じ基体(主語)に相反する付帯性の一方が述語となれば他方はなれない、3.あるものに述語付けられるものはその反対の述語を含み得ない、4.ある付帯性を受け入れうるものはその付帯性を受け入れない
第8章 - 4種類の対立に立脚した「トポス」 --- 1.矛盾的な対立、2.反対的な対立、3.欠如と所持、4.総体的な関係にあるもの
第9章 - 同列語と屈折語を用いる「トポス」 --- 1.一つの同列語について真なることは他の同列語についても真である、2.反対なもの(主語)には反対なもの(述語)が述語付けられるかの検討、3.ある事物の生成消滅はそれが属する善悪を示す
第10章 - 事物の類似性と程度の差に基づく「トポス」 --- 1.類似のものどもにおいて、一方のものに真であるなら他方のものにも真である、2.「より多く」「より少なく」の観点から引き出される4つの論議、3.「同じ程度」から引き出される3つの論議
第11章 - その他の「トポス」 --- 1.付加の結果から論議する仕方、2.「より多く」「より少なく」の程度のにおいて述語付けされるものは無条件に帰属する、3.条件付きで述語付けされるものは無条件にも述語付けされ得る

第3巻 - 付帯性の述語付けに関する諸々の「トポス」(補遺)、6章 第1章 - 2つ以上の述語選択のための「トポス」 --- 1.より長く持続的、より多く安定、思慮ある人・善い人・正しい人・優れた人・多くの人・全ての人が選ぶものを選ぶべき、2.特定のまさにそれであるべきところのものは、類の中にないものよりものよりも選ばれるべき、3.それ自身ゆえに望ましいものは、他のものゆえに望ましいものよりも選ばれるべき、4.それ自体で善の原因たるものは、付帯的に善いもの・本性的にそうでないものよりも選ばれるべき、5.絶対的・本性的に善いものは、ある個人にとって善いもの・本性的にそうでないものよりも選ばれるべき、6.より善いものに帰属するものが選ばれるべき、7.目的は手段よりも選ばれるべき、8.実行可能なものは、不可能なものよりも選ばれるべき、9.目的の序列、10.それ自体目的であるものは、他のために目的であるものよりも選ばれるべき (例えば前者は「友情」「正義」、後者は「富」「強さ」)
第2章 - 色々な観点からの「トポス」 --- 付随するものどもの観点から引き出される「トポス」 --- 1.
第3章 - 2つの述語を比較・選択するための「トポス」 --- 1.同じ種に属する二つのものの内では、固有な徳を持つもの・より多くの徳を持つものが選ばれるべき、臨在するものの働きの有無・多少、働きかける対象の観点からの選択、2.屈折・用法・行為・働きの観点からの選択、3.一つの共通なものを基準にした際は、より多く善いものが選ばれるべき、二つのものを基準とした際は、より大きなものが選ばれるべき、4.付加の観点から、二つのものの内、小さいものに加わって全体をより大きくするものが選ばれるべき、除去の観点についても同様、5.選択の根拠、「それ自身ゆえ」と「その思惑のゆえ」の比較、思惑の定義、「それ自身ゆえ」が選ばれるべき、「望ましい」の種類と目的、3つの目的(有益、善さ、快楽)を同程度に持つもの・より多く持つものが望ましい、より善い目的を持つものが選ばれるべき、避けるべきものについても同様
第4章 - 比較評価する述語を付ける際に、前述の「トポス」をいかに用いるか
第5章 - 付帯性を比較級で述語付けるための「トポス」
第6章 - 部分的・特殊的な述語付けの場合 --- 1.前述の構成的・破壊的な一般的「トポス」は適用できる(対立するもの・同列なもの・屈折するものから引き出された「トポス」、より多く・より少なく・同じ程度から引き出された「トポス」)、2.同じ類からも破壊的な論議は引き出せる、3.問題が無規定の場合、一通りの仕方でしか覆すことができない、確立する場合には「一般的」と「部分的」の二通りがある、問題が規定された場合、あるものが規定された時は2通りの仕方で、一つのものが規定された時は3通りの仕方で破棄できる、更に厳密に規定された時は4通りの仕方で破棄できる、4.あるものが帰属する・しないと相手が述べた場合の「トポス」

第4巻 - 類の「トポス」、6章 第1章 - 1.類は述語付けされるあるものと同じ種に属する全てのものを含まねばならない、2.付帯性が帰属したりしなかったりする点で類とは区別される、3.類と種は同じカテゴリーに入らねばならない、4.種は類に与るが、類は種に与らない、5.あるものに種が述語付けされるならば、類もまた述語付けされる、6.いかなる種にも与らない述語は、類にも与らない、7.類は種よりも広い範囲に適用される、8.種的に異ならないものどもの類は同じである
第2章 - 9.一つの種が二つの類に入る時は、それらの類の一方は他方に包含される、10.あらゆる上位の類は種について本質の点で述語付けされなくてはならない、11.類はその種が述語付けされるものに本質の点で述語付けされる、12.類の定義は種に与るものとどもにあてはまる、13.種差は類として与えられてはならない、14.種差を種として類の内においてはならない、15.類を種の内においてはならない、16..種差を種の内に、類を種差の内においてはならない、17.類のいかなる種差も種に述語付けされないならば、類は種に述語付けされない、18.類は種より本性上先、19.類と種差は種に伴う
第3章 - 20.類の内におかれたものは、その類に反対なものには述語付けされない、21.種は類について同名異義的に用いられてはならない、22.ただ一つだけの種を持つ類は存在しない、22.比喩的な言葉の使用は人を誤らせやすい、
1.反対なものどもについての「トポス」、命題を確立する場合に、反対なものどもを用いる3通りの仕方、2.屈折語と同列語についての「トポス」
第4章 - 3.関係の同等性の観点から引き出された「トポス」、4.生成と消滅の観点から引き出された「トポス」、5.事物の能力と使用の観点から引き出された「トポス」、6.状態と欠除の対立関係から引き出された「トポス」、命題を破棄する2通りの仕方と命題を確立する1通りの仕方、7.矛盾的対立・否定の関係から引き出された「トポス」、8.相対的に対立するものどもから引き出された「トポス」、9.屈折語の観点から引き出された「トポス」、10.類に対立するものは種に対立するものの類であるという観点から引き出された「トポス」、11.ある関係語の誤った使用から引き出された「トポス」
第5章 - 述語付けにおける共通の誤りについて --- 1.状態と現実活動の混同、状態と能力の混同、2.種に付随するものを類として立てる誤り、3.異なった能力に入るべきものを類と種として同じところに入れる誤り、4.種を類に部分として与らせる誤り、5.種を類と解して全体のものを能力に関係させる誤り、6.非難されるべきもの・避けるべきものを能力に関係させる誤り、7.それ自身で望ましいものを能力に入れる誤り、8.いくつかの類に入るものを一つの類に入れる誤り、9.類を種差とすること、またその逆の誤り、10.様態を、様態を受けるものそのものの類とする誤り、11.様態を、様態を受けるものそのものとする誤り
第6章 - 諸々の「トポス」 --- 1.類として与えられたものは主語として種を含み、それに与るものどもは種的に異なっていなければならない、2.全てのもの、例えば「一」や「存在」は類とも種とも成し得ない、3.類は基体となる種についてのみ述語付けされる、4.類と種は同義的に述語付けされる、5.二つの反対のものどものより優れたものをより劣った類に入れてはならない、6.「より多く」「より少なく」「同じ程度」の観点からの判定(ある命題を覆す場合、ある命題を立てる場合)、7.類は本質の点で種について述語される、8.類を種差から切り離す原理3つ、9.諸々の実例

第5巻 - 特性について、9章 第1章 - 特性の4つの種類、「自体的」な特性と「相対的」な特性、相対的な特性についての二つないし四つの問題、「恒常的」な特性と「一時的」な特性、特性を与えることは種差を与えること、これらの特性が論議に対する適合性、「相対的」な特性は「付帯性」に関する「トポス」において検討すべき
第2章 - 特性が正しく与えられているかどうかを検討するための「トポス」 --- 1.特性はその主体より一層知られていなくてはならない、2.与えられた特性は以下の場合、覆される (1.使用された名・語や説明方式(命題)が多義的な場合、2.主語について多義的な語がある場合、3.同じ語を何度も用いる場合、4.与えられた語が一般的に適用できるものである場合、5.多くの特性を区別することなく同じ主体に与える場合、
第3章 - 6.当の対象そのものが与えられた特性の内に含まれている場合、7.当の対象に対立するもの・当の対象より可知的でないものが特性として与えられている場合、8.与えられた特性が必ずしも常に随伴するとは限らず、ある時は特性でなくなくものである場合、9.現在だけの特性を与え、それをはっきりさせない場合、10.与えられた特性が感覚にとってのみ明らかなものである場合、11.特性として与えられたものが定義である場合、12.特性が対象の本質を調べることなく与えられた場合)
第4章 - 与えられた一つの名・語が特性としてあるものに帰属するかどうかを検討するための「トポス」 --- 以下の場合、特性として与えられたもの(語)は特性ではない --- 1.特性として与えられたものが個々の対象(主体・主語)に真として述語付けられない場合、2.その名が真として述語付けられるものに真として述語付けられない場合、またその逆の場合、3.個々の対象(基体)を特性として与えた場合、4.個々の対象に種差として帰属するものを特性として与えた場合、5.名を持つものよりもその名に先後するものを特性として与えた場合、6.同じものどもにおいて同じものが特性でない場合、7.種において同じものどもが種において同じものが特性でない場合、8.主体にだけの特性であるものが付帯性と結び付いた時、特性でない場合、またその逆の場合
第5章 - 命題を覆すための「トポス」 --- 1.本性状帰属するものを常に帰属するとしたかどうかを見る、2.いくつかの特性がどのように何ものの特性として与えられているかを明らかにする、3.そのものをそれ自身の特性としたかを見る、4.同質部分からできているものにおいて、全体が部分について真でないかどうか、また部分の特性が全体について述語付けされていないかどうか検討
第6章 - 対立の型についての「トポス」 --- 1.反対的な対立、2.相対的な対立、3.状態と欠除の対立、4.述語にだけ適用される肯定と否定の矛盾的対立、5.述語と主語と両方に適用される肯定と否定の矛盾的対立、6.主語にのみ適用される矛盾的対立 --- 対立分肢(分割の同列語)から引き出された「トポス」
第7章 - 屈折語から引き出された「トポス」、特性として与えられた関係に類似の諸関係から引き出された「トポス」、与えられた特性と二つの主語の間に同様の関係があることから引き出された「トポス」、生成消滅の過程から引き出された「トポス」、特性として与えられたものを事物のイデアに言及することから引き出された「トポス」
第8章 - 「より多く」「より少なく」という程度の観点から引き出された「トポス」、特性として与えられたものと主語との関係と同じ程度の関係ある述語関係から引き出された「トポス」、異なった述語と異なった主語の間における同じ程度の関係についての「トポス」、特性として与えられた述語の主語と別の述語との関係についての「トポス」、特性として与えられたものと別の主語(主体)との間の関係についての「トポス」
第9章 - 2つの「トポス」 --- 1.存在しないものに特性を可能性において与えた時は、特性は覆される、2.特性を最上級において与えたならば、その特性は覆される

第6巻 - 定義について、14章 第1章 - 定義を扱う際の問題の5分類
第2章 - 曖昧な表現をいかにして避けるか
第3章 - 冗長をいかにして避けるか
第4章 - 提出された説明方式(命題)が定義であるかどうかを検べる「トポス」、定義の内の諸項が「より先なるもの」「より知られ得るもの」であるための「トポス」 ---- 定義が「より知られ得るもの」を用い損ねたことをいかに摘出するか、定義が「より先なるもの」を構成要素として用い損ねたことをいかに摘出するか --- 1.対立するものによって対立するものが定義された場合、2.定義されるべきものそのものを用いた場合、3.相関的なものを相関的なものによって定義した場合、4.上位のものを下位のもので定義した場合
第5章 - 定義における類の使用に関する「トポス」 --- 1.類を落としたかどうか、2.与えられた定義が定義の対象のもとに入るすべてのものに適用されているかどうか、3.与えられた定義の対象はより善いものではなくより悪いものに関係して言われているかどうか、4.類が正しく構成されているかどうか、5.対象を最も近い類に入れることに失敗していないかどうか
第6章 - 定義における種差の使用に関する「トポス」 --- 1.事物に特有の種差を考慮、2.類は否定によって分割されるかどうか、3.種か類を種差として与えたかどうか、4.種差は個物を指示するか付帯的に帰属するものであるかどうか、5.種差もしくは種は、類について述語付けされるか、類は種差にについてあるいは種は種差について述語付けされるならば、定義はなされなかったことになる、6.同じ種差が異なる類に属するかどうか、7.場所あるいはパトスを種として与えたかどうか、8.関係的なものの種差が関係的になっていないかどうか、またその関係は適切かどうか、9.定義が最初の関係において与えられたかどうか、10.受動的性質ないし心理状態がそれだと定義されながら、受け入れない場合は過ちが犯されている、11.定義と定義されるものの間に、あらゆる時間を考慮に入れた場合、不和が生ずるかどうか見る
第7章 - 定義を吟味する仕方 --- 1.何かより善い定義があるかどうか、2.事物(定義の対象)は「より多く」を受け入れるが定義はそれを受け入れるかどうか、3.定義の対象と定義とでは2つのものを受け入れる程度が、前者はより多く後者はより少なく言われるかどうか、4.別々に取り上げられた二つのものに関係して定義はなされるかどうか、5.類と種差は何か不一致があるかどうか
第8章 - 関係的なものを吟味するための「トポス」 --- 1.定義の対象が何かに関係しているならば、定義のうちにはそれが関係しているものが述べられているかどうか、2.生成あるいは現実活動に対する何らかの関係が述べられたかどうか、3.生成あるいは現実活動に対する何らかの関係が述べられてたかどうか、4.量・性質・場所を定義することに失敗したかどうか、5.欲望の定義に「見かけ」ということが付加されたかどうか
第9章 - 以下のことどもを提議するための「トポス」 --- 1.状態、2.関係的なものども(関係語)、3.対立するものどもと反対なものども、4.欠除、5.誤って呼ばれた欠除
第10章 - 同じような屈折から引き出された「トポス」、定義される語のイデアに述べられた定義があてはまるかどうかについての「トポス」、多義的な語の定義を吟味するための「トポス」
第11章 - 複合語の定義についての「トポス」 --- 1.定義は複合語の全体を説明しているか、2.定義はその対象である複合物と同じ部分から出来ているかどうか、3.用いられた名詞がいっそう不明瞭なものかどうか、4.同じ意義を持たない新語を用いたかどうか、5.語の入れ替えは類の交換を含んでいないかどうか
第12章 - 定義を吟味する更なる「トポス」 --- 1.種々の定義が与えられた時、他のものと共通であるかどうか、2.説明方式(命題)が与えられるべき対象は実在するものだが説明方式(命題)は実在しないものかどうか、3.関係存在を定義する時、関係している対象を多くの関係存在の中に含めて述べる時は、全体的あるいは部分的に虚偽、4.与えられた定義が事物のありのままの定義ではなくて、事物の善くある、あるいは完成されたものの定義である場合がある、5.それ自身で選ばれるものを、他のために選ばれるようもののように定義されていないかどうかを見る
第13章 - 以下の定義をいかに扱うべきか --- 1.あるものは「AとB」である、2.あるものは「AとB」から成るものである、3.あるものは「A+B」である
第14章 - 色々な「トポス」 --- 1.あるものが所要その結合した全体であると定義されたら、その結合の仕方や性質について検べる、2.相反するものどもの一方のものによって定義されたものは、他方のものによって定義されたもの以上により多くを主張し得ない、3.定義全体を攻撃できない時は、その部分を攻撃するか、修正を行う、4.全ての定義の攻撃に対しては、自分自身で目の前のものを的確に提議するか、相手がうまく述べた規定を取り上げるかするのが要諦

第7巻 - 定義について(補足)、5章 第1章 - 「同じ」であると言われるものどもを取り扱う「トポス」 --- 1.「同等性」は屈折語、同列語、対立語の観点から証明され得る、2.同じ二つのものの一方が最上級の性質を持つと言われる時、他方についてもこのことは真であるかどうか、3.同じ二つのものは第三のものと同じであるかどうか、4.同じ二つのものの付帯性が同じであるかどうか、5.二つのものが同じカテゴリーと類の内にあって同じ種差を持っているかどうか、6.二つのものが両方同時に増大・減少するかどうか、7.同じ二つのものに同じものが付加された結果はどうなっているか、8.一つの仮定の結果として、同じ二つのものの一方は破棄され、他方は破棄されないかどうか、9.同じ二つのものには同じものが述語付けされるかどうか、10.類的・種的に同じであっても、数的に同じかどうか、11.同じ二つのものの内、一方は他方無しに存在しうるかどうか
第2章 - 前章の「トポス」は、定義を破壊するのに役立つが、定義を確立するのには役立たない
第3章 - 定義を確定するための「トポス」 --- 1.定義を確認する仕方、2.相反する類と種差から目の前のものの類と種を引き出し、反対なものの定義から目前のものの定義を確立するようにする仕方、3.定義を確立するために屈折語や同列語を用いること、4.相互に同じような関係にあるものどもの観点から論議し定義を作ること、5.他の定義と比較して一つの定義を作ること
第4章 - 何が最も有効な「トポス」であるかの註記
第5章 - 定義やその構成要素を覆したり確立したりすることについての註記 --- 1.定義を確立することより覆すことの方が容易、2.同じことは特性や類についても真、3.付帯性については一般的には覆すことの方が容易、部分的には確立することの方が容易、4.定義は四つの内で最も覆すのが容易で、確立するのが最も困難、5.特性はその次に覆すのが困難、6.付帯性は覆すのに最も困難で、確立するのが最も容易

第8巻 - 弁証術の訓練、14章 第1章 - 問いを出す順序と問いを作る仕方、哲学者と弁証家の仕事の比較、問いの作成 --- 1.推論がそれによって行われる必然性およびその他の前提について、必然的前提の用い方、必然的前提以外の前提の用い方 (1.帰納のために、2.結論を隠すために (1.結論を長引かせる、2.論議の順序を変える、3.現在当面の語と同列の語に関係した定義によって普遍的な前提を確立すること、4.こちらが望む譲歩の対象を隠すこと、類似性によって相手の承認を獲得すること、5.他のいろいろな工夫 --- 自己自身に反論を突きつけること、あまり真剣にならぬこと、命題を必要以上に増やすこと)、3.粉飾するために、4.明瞭さのために)
第2章 - 2.諸々の帰納法、弁証家には推論、大衆には帰納法が用いられるべき、3.色々の反論(抗議)、4.不可能なことによる論議、5.問いを出すことについての諸々の助言
第3章 - 弁証術的論議における色々な程度の困難について --- 1.最初のものども(原理)と最後のものども(帰結)は覆すのが困難だが、立てるのは容易、2.最初の原理に近い初めのものどもは攻撃しにくい、3.多義的な名を用いた定義は最も攻撃しにくい、4.問題(相手の立論)を攻撃しにくい時の種々の困難、5.拙劣に述べられた定義から生じる攻撃の困難さ、幾何学の例、6.立論そのものよりも困難な仮定を作るべきであるか
第4章 - 答えに関して、問い手と答え手のなすべきこと
第5章 - 訓練や試練のための論議を作る一定の「トポス」 は今までに無かった、答え手の手続きは彼自身の立論の性質による --- 1.一般的な問い (1.一般的に斥けられる(通念的でない)場合、2.一般的に承認される(通年的である)場合、3.一般的に承認されも斥けられもしない場合、他人の意見による場合)
第6章 - 2.特殊な問い (1.この問いは通念的で論議に適切であるべき
第7章 - 2.この問いは多義的でなく分明に述べるべき
第8章 - 3.この問いは反対や反論を許すべきでない)
第9章 - 立論や定義を守る「トポス」、答え手は自分の立論に予め攻撃を加えておくこと、通念的でない立論は守れない
第10章 - 虚偽の推論には、その虚偽の原因を探求しなければならない
第11章 - 論議と結論に関する点 --- 1.論議そのものと論議する人に対する批判は同じではない、2.問い手の側は論争的な論議を避けなくてはならない、3.論議が答え手の責任でいかにして拙劣なものになるか、4.一つの論議それ自身は批判されるべきだが、問題に関しては推奨しうる、その逆の場合もある、5.哲学的・論証的推論と攻撃的・弁証術的推論と詭弁的・論争的推論と矛盾の弁証術的推論、6.二つの前提の結合から結果する結論、7.不必要に長い手続きによって証明することの誤り
第12章 - 論議における明快さ --- 3つの種類、論議における虚偽、1.四つの種類、2.どの程度非難に値するか、3.摘発のための試問
第13章 - 最初にある論点を要求する(巧みに避ける)こと、その五つの仕方、反対なものどもを要求する(最初の論点(問い)と反対なものを要請する)、その五つの仕方
第14章 -弁証術的論議における訓練と稽古についての色々の指示 --- 1.論議を転換することの有効性、2.賛否の論議の吟味の有効性、3.よく出会う問題の最初の立論についての色々な論議を知っていることの有益さ、4.相手にできるだけ分からないように、一つの論議を多くの論議に分け、できるだけ一般的なものにしておくべき、5.帰納法の訓練は若者に、推論の訓練は経験者に与えるべき、6.行き当たりばったりの人を相手に論議すべきではない、7.普遍的な論議に対して特別に十分準備しておくべきである、これは多くの場合に役立つ


内容[編集]

分析論後書

『分析論後書』(ぶんせきろんこうしょ、希: Αναλυτικων υστερων、羅: Analytica Posteriora, 英: Posterior Analytics)とは、アリストテレスの著作であり、『オルガノン』の中の一冊。

文字通り、「分析的推論」としての「論証」(希: αποδειξις、apodeiksis、アポデイクシス)、いわゆる「三段論法」(希: συλλογισμός, syllogismos、シュロギスモス[1])のあり方について述べられている。『分析論前書』がその具体的内容だったのに対して、この『分析論後書』では、それを取り巻く基礎的な思想が述べられる。



目次 [非表示]
1 構成 1.1 第1巻(論証の構造)
1.2 第2巻(探求の道)

2 内容
3 訳書
4 脚注・出典
5 関連項目


構成[編集]
第1巻 - 34章
第2巻 - 19章

の全2巻から成る。

第1巻(論証の構造)[編集]
【1.序論】 第1章 - 「予め知ること」の必要とその性質について

【2.「論証による知識」について】 第2章 - 「論証による知識」について、論証の原理の持つべき諸性質と種類について
第3章 - 「論証による知識」に関する二つの謬見と循環論証の不毛性について
第4章 - 「全てについて」(全称的)と「そのもの自体に即して」(自体的)と「全体について」(普遍的) --- 論証される事柄の持つべき諸性質
第5章 - 事物の「全体についての論証」ではないものを「全体についての論証」と思い誤らせる錯誤について
第6章 - 論証は「必然な原理」から出発し「必然な事柄」に関して成立しなくてはならない
第7章 - 事物を論証するにあたっては「類」を異にするものから出発して論証しなくてはならない
第8章 - 永遠な事物に関する「限定抜きの論証」と可滅な事物・随時に生起する事物に関する「付帯的・条件付きの論証」について
第9章 - 事物を論証するにあたっては「事物に固有の原理」から出発して論証しなければならない

【3.「論証の原理」について】 第10章 - 「論証の原理」とその種類について --- 「固有の原理」と「共有の原理」、論証科学が関わる三つの要素(「基礎定立」「要請」「定義」)
第11章 - 「共有の原理」と個々の論証科学の関係をめぐる問題点

【4.「科学的な知識」をめぐる問題点】 第12章 - 科学的な探求の手続きめぐる2-3の問題点 --- 科学的な問い、「科学的な知識」に反する無知、誤謬推論、異議、分析、論証過程の拡張)

【5.「科学的な論証」とその諸性質】 第13章 - 「事実に関する推論」と「根拠に関する推論」について
第14章 - 第一格が最も「科学的な知識」にふさわしい推論である

【6.論証を構成する項系列とその要素】 第15章 - 「不可分な否定の項連関」について

【7.誤謬と無知】 第16章 - 推論によって生じる錯誤 --- 1.「不可分な肯定・否定の項連関」に関して
第17章 - 2.「不可分でない肯定・否定の項連関」に関して
第18章 - 「感覚の欠如」から生じる「知識の欠如」について (知の否定としての無知)

【8.論証を構成する項系列とその要素(続)】 第19章 - 論証を構成する項系列は無限なものであり得るか --- 1.上方に向かって、2.下方に向かって、3.中間に向かって
第20章 - 高系列が上方・下方に向かって有限であれば中間に向かっても有限である
第21章 - 肯定の論証における項系列が有限であるとすれば否定の論証におけるそれも有限である
第22章 - 論証における項系列が上方・下方に向かって有限であることに関する弁証論・分析論からの証明
第23章 - 以上の諸論(19-22章)からの結論、全ての項連関の構成要素としての「無中項」の「不可分な項連関」について

【9.「科学的な論証」とその諸性質(続)】 第24章 - 「全体的な論証」が「部分的な論証」よりも優れている
第25章 - 「肯定の論証」が「否定の論証」よりも優れている
第26章 - 「直截証示の論証」が「不可能な帰結に導く論証」(帰謬法)よりも優れている

【10.「科学的な知識」をめぐる問題点(続)】 第27章 - 「科学的知識」の間にある「明確性の差別」について
第28章 - 一つの「科学的知識」とは何か
第29章 - 「同一の結論」についてあり得る「多数の論証」について
第30章 - 偶運から来るものについては論証があり得ない
第31章 - 感覚によっては「科学的知識」は得られない
第32章 - 全ての「科学の推論の原理」が同じものではあり得ない
第33章 - 「知識」と「臆見」について
第34章 - 「頭脳明敏」について


第2巻(探求の道)[編集]
【1.序論】 第1章 - 「探求される事柄」の四種
第2章 - 探求されるのは全て「中項」であることについて

【2.定義論】 第3章 - 「定義」と「論証」をめぐる弁証論 --- 1.同じものについて、同じ点に関して「定義」と「論証」が同時にありうるか
第4章 - 2.「事物の本質」(の「定義」)について「推論」や「論証」がありうるか
第5章 - 3.「分割法」は「定義」を推論しうるか
第6章 - 4.「基礎定立」から出発して「事物の本質」(の「定義」)を推論しうるか
第7章 - 5.定義する者は「事物の本質」を証明しうるか
第8章 - 新たな出発、「事物の本質」を認識する道 --- 1.そのものの「原因」がそのもの「自体」と異なるものについて
第9章 - 2.そのものの「原因」がそのもの「自体」と異ならないものについて
第10章 - 以上の帰結、「定義」の四種

【3.原因論】 第11章 - 四種の「原因」について、これらの原因が全て「中項」であることについて
第12章 - 「原因」と「結果」が継起・生起するものにおける「原因」の推論について

【4.定義論(続)】 第13章 - 「事物の本質」に含まれる要素を探索する方途、この点に関する「分割法」の効用

【5.原因探求の方途】 第14章 - 「問題」の設定について
第15章 - 「類において同一」な問題と「相互に従属関係」にある問題について
第16章 - 「原因」と「結果」の相互随伴関係
第17章 - 同上
第18章 - 個々のものにとっての「第一原因」

【6.原理の認識】 第19章 - 「論証の原理」の認識について


内容[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。

訳書[編集]
『アリストテレス全集 1 』 山本光雄、井上忠、加藤信朗訳 岩波書店 1971年

脚注・出典[編集]

1.^ 原義は「推論術」といった程度の意味。

分析論前書

『分析論前書』(ぶんせきろんぜんしょ、希: Αναλυτικων πρότερων、羅: Analytica Priora, 英: Prior Analytics)とは、アリストテレスの著作であり、『オルガノン』の中の一冊。

文字通り、「分析的推論」としての「論証」(希: αποδειξις、apodeiksis、アポデイクシス)、いわゆる「三段論法」(希: συλλογισμός, syllogismos、シュロギスモス[1])のあり方について述べられている。



目次 [非表示]
1 構成 1.1 第1巻
1.2 第2巻

2 内容
3 訳書
4 脚注・出典
5 関連項目


構成[編集]
第1巻 - 46章
第2巻 - 27章

の全2巻から成る。

第1巻[編集]
【1.推論式の構造】 【1.序説】 第1章 - 『分析論』の主題は「論証」である、「前提」「項」「推論」の意義、「完全な推論」と「不完全な推論」、「全体の内においてあること」と「全てについて述語されること」
第2章 - 「前提」(命題)の三様相、「単純様相前提」の換位
第3章 - 「必然様相前提」「許容様相前提」の換位

【2.推論の三格】 第4章 - 「単純様相推論」第一格
第5章 - 「単純様相推論」第二格
第6章 - 「単純様相推論」第三格
第7章 - 諸格に共通な諸性格 --- 1.大・小両項の交換による特殊な推論の成立、2.全不完全推論の第一格への還元、3.全推論の第一格全称推論への還元
第8章 - 両前提「必然様相」の推論
第9章 - 両前提の一方が「必然様相」、他方が「単純様相」の推論第一格
第10章 - 両前提の一方が「必然様相」、他方が「単純様相」の推論第二格
第11章 - 両前提の一方が「必然様相」、他方が「単純様相」の推論第三格
第12章 - 「必然様相」または「単純様相」の結論に必要な前提の様相
第13章 - 「許容様相推論」序説 --- 1.厳密な意味での「許容様相」と相補換位、2.その展開の二側面、3.「許容様相推論」の両前提
第14章 - 両前提「許容様相」の推論第一格
第15章 - 両前提の一方が「許容様相」、他方が「単純様相」の推論第一格
第16章 - 両前提の一方が「許容様相」、他方が「必然様相」の推論第一格
第17章 - 1.「許容様相推論」第二格序説、2.「許容様相」全称否定前提の単純換位不可能、3.両前提「許容様相」の推論第二格
第18章 - 両前提の一方が「許容様相」、他方が「単純様相」の推論第二格
第19章 - 両前提の一方が「許容様相」、他方が「必然様相」の推論第二格
第20章 - 1.「許容様相推論」第三格序説、2.両前提「許容様相」の推論第三格
第21章 - 両前提の一方が「許容様相」、他方が「単純様相」の推論第三格
第22章 - 両前提の一方が「許容様相」、他方が「必然様相」の推論第三格

【3.付説】 第23章 - 全推論は三つの格のいずれかにおいて成立し、かつ全て「第一格全称推論」へ還元される
第24章 - 前提の「量」(特に全称の重要性)と「質」(様相などを含めて)
第25章 - 推論における「項」「前提」「結論」の数
第26章 - 各「格式」によって証明・反証される命題の種類 (命題の種類別による証明・反証の難易)


【2.推論作成(「中項」発見)の方法】 第27章 - 「中項」発見のための原則 --- 1.主述連関による存在の三領域、2.前提として、すなわち「中項」として選出されるべき事項の分割、3.前提の全称の重要性、4.述語または主語として選出されるべきでない事項、5.「たいていは」という様相における選出、6.超越述語は「中項」となりにくい
第28章 - 「中項」選出各論 --- 1.問題分析各論、2.同上再論、3.第一にして最も一般普遍な「中項」、4.「中項」選出による推論諸格の成立、5.超越述語は「中項」と成り得ない、6.推論不成立に至る「中項」模索の方式、7.反対または不両立に基づく「中項」選出
第29章 - 「中項」選出余論 --- 1.帰謬法における「中項」選出、2.帰謬法以外の仮定法推論における「中項」選出、3.仮定付加による特称推論の全称化、4.様相推論における「中項」選出、5.総括
第30章 - 個別学における「中項」ないし「推論」の諸原理選出、「経験」と「論証」
第31章 - 「分割法」への批判

【3.推論格型式への分析法】 第32章 - 既成の推論風議論からの「両前提」「中項」の析出と各格への還元
第33章 - 諸項の連関方式の類似による錯誤
第34章 - 項抽出にまつわる誤謬
第35章 - 一語によって表現されない項に基づく錯誤
第36章 - 項の主郭・斜格による「〜である」の多義性
第37章 - 述語類型をめぐる「〜である」及び「真とされる」の多様性
第38章 - 増複項を持つ推論の分析、そのための「中項」析出
第39章 - 語と説明方式の代置
第40章 - 大項の限定・不限定
第41章 - 1.「Aが〜であるものの全てにBが〜である」と「Aがその全てに〜であるものの全てにBが〜である」の差異、2.諸項の「抽出挙示」は解説のために過ぎない
第42章 - 「複合推論」の分析
第43章 - 定義を目指す推論は定義項の内の問題点を項とせよ
第44章 - 1.仮定からの諸推論一般の還元不可能性、2.帰謬法推論の還元不可能性、3.その他の仮定からの諸推論も還元不可能
第45章 - 諸格相互への還元分析
第46章 - 否定をめぐる諸考察 --- 1.「これではない」と「これではないものである」、2.「これである」「これでない」「これではないものである」「これでないものではない」の相互連関、3.欠如態も「これではないものである」と同様、4.部分否定、5.「これではない」と「これではないものである」の証明方式、6.「強選言命題」二組の連関方式、7.「矛盾」をめぐる錯誤


第2巻[編集]
【1.推論の変種】 第1章 - 同一前提からの多結論
第2章 - 偽前提からの真結論(偽装推論)第一格
第3章 - 偽前提からの真結論(偽装推論)第二格
第4章 - 偽前提からの真結論(偽装推論)第三格
第5章 - 第一格推論の循環証明
第6章 - 第二格推論の循環証明
第7章 - 第三格推論の循環証明
第8章 - 第一格推論の変換
第9章 - 第二格推論の変換
第10章 - 第三格推論の変換
第11章 - 帰謬推論第一格
第12章 - 帰謬推論第二格
第13章 - 帰謬推論第三格
第14章 - 帰謬法と直截証示法との連関
第15章 - 矛盾対立する両前提からの推論

【2.誤謬論その他】 第16章 - 「論点先取」の誤謬
第17章 - 偽結論の原因の認定とその誤謬
第18章 - 偽結論の原因の所在
第19章 - 「論争法」1 - 防衛と攻撃の手法.
第20章 - 「論争法」2 - 論駁
第21章 - 錯誤と知識の共存
第22章 - 1.項転換を含む諸項連関の問題、2.望ましいことと望ましくないことの比較量刑

【3.推論類似の方法】 第23章 - 「帰納法」
第24章 - 「例証法」
第25章 - 「還元法」(帰着法)
第26章 - 「異義」
第27章 - 「徴標法」


内容[編集]

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訳書[編集]
『アリストテレス全集 1 』 山本光雄、井上忠、加藤信朗訳 岩波書店 1971年

範疇論 (アリストテレス)

『範疇論』(はんちゅうろん、希: Κατηγορίαι、羅: Categoriae, 英: Categories)とは、アリストテレスの著作であり、『オルガノン』の中の一冊。『カテゴリー論』とも。

文字通り、様々な概念・言葉の「分類」について述べられている。



目次 [非表示]
1 題名
2 構成
3 内容
4 訳書
5 脚注・出典
6 関連項目


題名[編集]

本書の題名は、以下のように、古代の註釈家たちによって様々な名で呼ばれてきた[1]。「十のカテゴリー」といった呼称が散見されるのは、第4章にて10の分類が挙げられていることに因む。
『諸カテゴリーについて』
『十のカテゴリー』
『十のカテゴリーについて』
『十の類について』
『あるものの類について』
『諸カテゴリー、あるいは十の最も類的な類について』
『普遍的な言葉について』

構成[編集]

15の章から成り、それらは内容上、
1章 - 後で用いられる「同名異義的」「同名同義的」「派生名的」が説明される
2-9章 - 本編
10-15章 - 「対立」「反対」「より先」「運動」「同時に」「持つ」といった詞が使われる色々な場合の区別

の3つに分けることができる[2]。

この内、「post-praedicamenta」と総称される3番目の10-15章は、アリストテレスの作でなく、後世の挿入(ただし、紀元前200年以前のわりと早い時期)ということが、定説となっている[3]。

内容[編集]

第1章

同名異義的(ホモーニュモン、希: ὁμώνυμον (homonymon)) - 名称だけが共通で、本質的定義が異なるもの。(例:「動物」という名称で呼ばれる「人間」と「像」[4])
同名同義的(シュノーニュモン、希: συνώνυμον (synonymon)) - 名称も本質的義も同じもの。(例:「動物」という名称で呼ばれる「人間」と「牛」)
派生名的(パローニュモン、希: παρώνυμον (paronymon)) - 語尾変化によって生じたもの。(例:「文法学」(γραμματική)から「文法家」(γραμματικός)、「勇気」(ανδρεία)から「勇者」(ανδρείος))

第2章
表現方法には、
結合無し(単語)による表現 (例:「人間」「牛」「走る」「勝つ」)
結合(文)による表現 (例:「人間は走る」「人間は勝つ」)

の2種類がある。

概念の内、あるものは、
1.ある「基体[5]」(主語)についての述語になるが、いかなる「基体」(主語)の内にも無い。(例:「人間」は、「特定の人間」(基体)の述語となるが、どの「基体」の内にも無い)
2.ある「基体」(主語)についての述語にはならないが、「基体」(主語)の内にある。(例1:「特定の文法知識」は、「霊魂」(基体)の内にあるが、いかなる「基体」(主語)の述語にもならない、例2:「ある特定の白」は、「物体」(基体)の内にあるが、いかなる「基体」(主語)の述語にもならない)
3.ある「基体」(主語)についての述語になると共に、「基体」(主語)の内にある。(例:「知識」は、「霊魂」(基体)の内にあり、「文法的知識」(基体)の述語となる)
4.ある「基体」(主語)についての述語にならず、「基体」の内にも無い。(例:「特定の人間」「特定の馬」)

(なお、上記の話は要するに、
「ある「基体」の述語になるか否か」によって、「種・類」と「個」が、
「なんからの「基体」の内にあるか否か」によって、「実体」と「非実体」(性質・量)が、

それぞれ振り分けられ、その組み合わせで作られた4分類であり、分かりやすくまとめると、
1.「実体」のカテゴリーにおける「種・類」
2.「実体」以外のカテゴリーにおける「個」
3.「実体」以外のカテゴリーにおける「種・類」
4.「実体」のカテゴリーにおける「個」

ということになる[6]。)

第3章

「あるもの(A)が、基体(主語)としてのあるもの(B)についての述語となる関係にある」場合、その述語となるあるもの(A)について言われるものは、全て基体(B)に対してもあてはまる。(例:「特定の人間」(基体・主語、A)と「人間」(述語、B)の場合、「動物」は「人間」(述語、B)の述語となるので、「特定の人間」(基体・主語、A)の述語ともなる。)
「異なった「類」で、互いに他の下に配されない関係にある」場合、その「種差」も異なっている。(例:「動物」と「知識」の場合、「動物」の「種差」は、「陸棲的」「有翼的」「水棲的」「二足的」などによって表されるが、それらは「知識」の「種差」とはならない。)

第4章
単語表現が意味するものは、
1.「実体」(例:人間、馬)
2.「量」(例:2ペーキュス、3ペーキュス)
3.「質」(例:白い、文法的)
4.「関係」(例:二倍、半分、より大きい)
5.「場所」(例:リュケイオン、市場)
6.「時」(例:昨日、昨年)
7.「体位」(例:横たわっている、坐っている)
8.「所持」(例:靴を履いている、武装している)
9.「能動」(例:切る、焼く)
10.「受動」(例:切られる、焼かれる)

のいずれかである。

第5章
「実体」について。
「第一実体」 - (第2章の4) (例:「特定の人間」、「特定の馬」)
「第二実体」 - (第2章の1) (例:「人間」「馬」)

第6章
「量」について。

第7章
「関係」について。

第8章
「質」について。

第9章
「能動」「受動」について。

訳書[編集]
『新版アリストテレス全集 1 』 中畑正志、早瀬篤訳 岩波書店 2013年
『アリストテレス全集 1 』 山本光雄、井上忠、加藤信朗訳 岩波書店 1971年

命題論 (アリストテレス)

命題論』(めいだいろん、希: Περὶ Ἑρμηνείας、羅: De Interpretatione, 英: On Interpretation)とは、アリストテレスの著作であり、『オルガノン』の中の一冊。

文字通り、様々な(真偽判定の対象となる)「命題文」のあり方について述べられている。原題は、「表現について」「説明について」「解釈について」といった程度の意味。



目次 [非表示]
1 構成
2 内容
3 訳書
4 脚注・出典
5 関連項目


構成[編集]

14の章から成り、1−13については内容上、
1-4章 - 事物、思想、音声(話し言葉)、文(書き言葉)の相互関係、文要素としての名詞・動詞の定義
5-11章 - 肯定と否定、単純命題と複合命題、普遍的・特殊的・個別的の区別、対立・真偽・肯定否定・時制(現在・過去・未来)など
12-13章 - 様相(可能・不可能・必然)

の3つに分けることができる[1]。

最後の14章に関しては、それまでに完了している議論に対する追加的なものであり、真作性に疑義を呈する意見もある[2]。

内容[編集]

第1章
序論。名詞・動詞、否定・肯定・表現・文などの定義の必要性。

名詞・動詞それ自体は、真でも偽でもない。

第2章
「名詞」について。
「名詞」 - 「約束」によって[3]意味を持つ音声。「時」を含まない。

第3章
「動詞」[4]について。
「動詞」 - それの持つ固有の意味に、「時」を合わせ示す。

第4章
「文」について。
「文」 - 意味を持った音声。
「命題文」 - 真偽が存在する文。

第5章
命題文の肯定・否定、単純・複合。

第6章

「矛盾対立命題」 - 同一のものについて肯定と否定が対立するもの。

第7章
事物の普遍と個別。

第8章
基体(主語)の単一性。

第9章
時制(過去・現在・未来)と真偽。

過去・現在については真偽が成立するが、未来の個別的なものについては決定できない。

第10章
肯定命題・否定命題のバリエーション。

第11章
表現対象の複数性と、弁証術。

第12章
「様相」(可能・許容・不可能・必然)について。

第13章
「様相」(可能・許容・不可能・必然)と、肯定命題・否定命題のバリエーション。

第14章
命題の関係性についての判断。

訳書[編集]
『新版アリストテレス全集 1 』 中畑正志、早瀬篤訳 岩波書店 2013年
『アリストテレス全集 1 』 山本光雄、井上忠、加藤信朗訳 岩波書店 1971年

オルガノン

『オルガノン』(希: Όργανον、羅: Organum)は、古代ギリシアの哲学者アリストテレスにより執筆された論理学に関する著作群の総称。



目次 [非表示]
1 概要
2 アリストテレス以前
3 構成
4 内容
5 日本語訳
6 脚注・出典
7 関連項目
8 外部リンク


概要[編集]

『オルガノン』は、『ニコマコス倫理学』や『形而上学』等の著作と同様、アリストテレス自身によってこのようにまとめられたものではなく、彼の死後、その著作の継承者達によって編纂され、このように命名された。

「オルガノン」(希: Όργανον)とは、ギリシャ語で「道具」(tool)の意味であり、文字通り、「真実を探求するための道具」としての「論理学」にまつわる著作群であることを表現している。

この著作は古代ローマへと継承され、その滅亡期に至るまで、重要な教養の1つとして重宝された。ローマ帝国末期である4世紀のキリスト教の代表的なラテン教父であるアウグスティヌスも、『範疇論』を学んだことを自伝的著書『告白』の中で述べている。

イスラム圏を経由して中世ヨーロッパにアリストテレスの思想が再輸入され、13世紀のアリストテレス・ルネサンス(スコラ学)によってヨーロッパで評価されてから現代にいたるまで、論理学についての古典的・標準的な著作として参照され続け、圧倒的な影響を後世に与えている。「論理学」という概念とその基礎は、この書によって確立されたといっても過言ではない。

イマヌエル・カントは、『純粋理性批判』の第2版序文の冒頭で、「論理学はアリストテレス以来、いささかの後退もなく確実な道を歩んできたし、更に言えば、既に自己完了している観がある」と、その偉大な功績と完成度を讃えている。

アリストテレス以前[編集]

アリストテレスの論理(学)についての考えは、彼一代によって一挙に築かれたものではなく、エレア派のゼノン、ソクラテス、プラトン等によって脈々と継承・洗練されてきた弁証術(弁証法、ディアレクティケー、dialectic)が下敷きとなっている。

弁証術(ディアレクティケー、dialectic)の元々の意味は「対話」「質疑応答」「問答」のことだが、少なくともアリストテレスの師であるプラトンの段階では、それが定義・綜合(総合)・分析(分割)を備えた、推論技術のことを指すようになっていた[1]。

(しかし、アリストテレスは、この「弁証」(dialectic)を、「蓋然」的な通念(endoxa, エンドクサ)を前提にしたものとして下位に位置づけ、「真かつ第一」の前提から始まる恒真的(apodictic)な「論証」(demonstration)とは区別している。)

構成[編集]
1.『範疇論』(『カテゴリー論』)(希: Κατηγορίαι、羅: Categoriae、英: Categories)
2.『命題論』(希: Περὶ Ἑρμηνείας、羅: De Interpretatione、英: On Interpretation)
3.『分析論前書』(希: Αναλυτικων πρότερων、羅: Analytica Priora、英: Prior Analytics)
4.『分析論後書』(希: Αναλυτικων υστερων、羅: Analytica Posteriora、英: Posterior Analytics)
5.『トピカ』(希: τόποι、羅: Topica、英: Topics)
6.『詭弁論駁論』(希: Περὶ σοφιστικῶν ἐλέγχων、羅: De Sophisticis Elenchis、英: On Sophistical Refutations)

内容[編集]

本書では範疇、命題、論法、詭弁などの論理の諸問題が考察されており、構成としては『範疇論』『命題論』『分析論前書』『分析論後書』『トピカ』『詭弁論駁論』の6巻から成り立っている。

範疇についてはアリストテレスは10個の範疇(カテゴリー)を挙げている。それは実有、量、質、関係、場所、時間、位置、状態、作動、受動の範疇であり、この範疇は『形而上学』でも前提として使用されている。

このような範疇に基づけば、命題とはある存在するものについて分離または結合されていることを論理的に規定するものである。そして命題を構成する主語と述語の区別、判断の種別、対象や変形について考察されている。

この命題を結合する方式として三段論法がある。三段論法では若干の命題によって規定された事柄により、異なる事柄が必然的に帰結する論理が作用する。

そしてアリストテレスは学問的な推論がどのような形式を備えているべきかについて、学問の出発点はそれぞれの領域における公理と前提、定義にあると考える。そして推論は根源的で必然的な前提から出発するもの、蓋然的な前提から出発するもの、蓋然的に見せかける前提から出発する三つの形式があると指摘する。

最後の形式をアリストテレスは論理的な誤りをもたらすものとして検討しており、その原因について言語の内部に属する6種類の原因と言語の外部に属する7種類の原因が明らかにされている。

日本語訳[編集]
アリストテレス 『カテゴリー論 命題論 分析論前書 分析論後書』 山本光雄・井上忠・加藤信朗訳、岩波書店〈アリストテレス全集 第1巻〉、1993年10月6日。ISBN 4-00-091281-X。
アリストテレス 『トピカ 詭弁論駁論』 村治能就・宮内璋訳、岩波書店〈アリストテレス全集 第2巻〉、1993年11月8日。ISBN 4-00-091282-8。
アリストテレス 『トピカ』 池田康男訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書 G050〉、2007年7月。ISBN 978-4-87698-168-7。
アリストテレス 『範疇論・命題論』 安藤孝行訳、増進堂、1949年。

脚注・出典[編集]

1.^ プラトン 『パイドロス』 藤沢令夫訳、岩波書店〈岩波文庫 青601-5〉、1967年1月16日、p. 111。ISBN 4-00-336015-X。

関連項目[編集]
論理学
フランシス・ベーコン - 演繹(三段論法)中心のアリストテレスの『Organum』(オルガノン)(に染まっていたスコラ学の徒)に対抗し、帰納の重要性を説いた『Novum Organum』(ノヴム・オルガヌム、New Organon)を執筆し、自然科学的・実証主義的発想の基礎を築いた。
ゴットロープ・フレーゲ - アリストテレスの命題論理を拡張し、述語論理、高階論理を確立しつつ、数理論理学の基礎を築いたことで、アリストテレス以来の論理学の変革者の一人と評される。
バートランド・ラッセル - フレーゲの業績を引き継ぎつつ、ラッセルのパラドックスを克服すべく、論理に階層を持ち込み、型理論(階型理論)を確立したことで、同じくアリストテレス以来の論理学者の一人と評される。
クルト・ゲーデル - 述語論理の完全性定理を証明し、古典論理学を完成させた。また、ラッセル等の『プリンキピア・マテマティカ』の試み等に対して、不完全性定理を証明し、アリストテレス以来の論理学の限界を示した。

プラトン

プラトン(プラトーン、古代ギリシャ語: Πλάτων、Platon、羅: Plato、紀元前427年 - 紀元前347年)は、古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。

プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べた[1]。『ソクラテスの弁明』や『国家』等の著作で知られる。現存する著作の大半は対話篇という形式を取っており、一部の例外を除けば、プラトンの師であるソクラテスを主要な語り手とする[2]。



目次 [非表示]
1 概説
2 生涯 2.1 少年・青年期
2.2 第一回シケリア旅行
2.3 学園開設
2.4 第二回シケリア旅行
2.5 第三回シケリア旅行

3 哲学 3.1 イデア論 3.1.1 問答法(弁証法・弁証術)
3.1.2 数学・幾何学
3.1.3 天文学・自然学・神学
3.1.4 魂論
3.1.5 倫理学
3.1.6 政治学・法学
3.1.7 教育論

3.2 感性論・芸術論

4 著書 4.1 編纂と真贋問題
4.2 印刷と普及
4.3 執筆時期 4.3.1 初期-中期(30代-40代)
4.3.2 中期-後期(50代-60代)
4.3.3 最後期(70代)

4.4 一覧 4.4.1 初期
4.4.2 中期
4.4.3 後期

4.5 邦訳

5 後世への影響
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク


概説[編集]

プラトンは、師ソクラテスから問答法(弁証法)と、(「無知の知」や「行き詰まり」(アポリア)を経ながら)正義・徳・善を理知的かつ執拗に追求していく哲学者(愛知者)としての主知主義的な姿勢を学び、国家公共に携わる政治家を目指していたが、三十人政権やその後の民主派政権の惨状を目の当たりにして、現実政治に関わるのを避け、ソクラテス死後の30代からは、対話篇を執筆しつつ、哲学の追求と政治との統合を模索していくようになる。この頃既に、哲学者による国家統治構想(哲人王思想)や、その同志獲得・養成の構想(後のアカデメイアの学園)は温められていた[3]。

40歳頃の第一回シケリア旅行にて、ピュタゴラス学派と交流を持ったことで、数学・幾何学と、輪廻転生する不滅の霊魂(プシュケー)の概念[4]を重視するようになり、それらと対になった、感覚を超えた真実在としての「イデア」概念を醸成していく。

帰国後、アカデメイアに学園を開設し、初期末・中期対話篇を執筆。「魂の想起(アナムネーシス)」「魂の三分説[5]」「哲人王」「善のイデア」といった概念を表明していく。また、パルメニデス等のエレア派にも関心を寄せ、中期後半から後期の対話篇では、エレア派の人物をしばしば登場させている。

後期になると、この世界そのものが神によってイデアの似姿として作られたものである[6]とか、諸天体は神々の「最善の魂」の知性(ヌース)によって動かされている[7]といった壮大な宇宙論・神学的描写が出てくる一方、第一回シケリア旅行時にシュラクサイのディオンと知り合ったことを縁として、僭主ディオニュシオス2世が支配するシュラクサイの国制改革・内紛に関わるようになったことで、現実的な「次善の国制」を模索する姿勢も顕著になる。

なお、後述するようにレスリングが得意であったらしい。また、パンクラチオンを「不完全なレスリングと不完全なボクシングが一つとなった競技である」と評したことも知られている。

生涯[編集]





ラファエロ画「アテナイの学堂」 フレスコ画。なお、これはレオナルド・ダ・ヴィンチ自画像がモデルとされる。
少年・青年期[編集]

紀元前427年、アテナイ最後の王コドロス(英語版)の血を引く貴族の息子として、アテナイにて出生[8]。

祖父の名にちなんで「アリストクレス」と命名された[9]が、体格が立派で肩幅が広かった (古希: πλατύς) ため[10]、レスリング[11]の師匠であるアルゴスのアリストンに「プラトン」と呼ばれ、以降そのあだ名が定着した。

若い頃はソクラテスの門人として哲学と対話術などを学びつつ、政治家を志していたが、三十人政権やその後の民主派政権における惨禍を目の当たりにし、現実政治に幻滅を覚え、国制・法律の考察は続けたものの、現実政治への直接的な関わりは避けるようになった[3]。特に、紀元前399年、プラトンが28歳頃、アテナイの詩人メレトス(英語版)の起訴によって、ソクラテスが「神々に対する不敬と、青年たちに害毒を与えた罪」を理由に裁判にかけられ、投票によって死刑に決せられ、毒杯を仰いで刑死した[12]ことが、その重要な契機となった。

その後、第一回シケリア旅行に出かけるまでの30代のプラトンは、最初期の対話篇を執筆しつつ、後に「哲人王」思想として表明される政治と哲学を結びつける構想や、後にアカデメイアの学園として実現される同志獲得・養成の構想を、既にこの頃、密かに温めていたことが、『第七書簡』等で告白されている。

(なお、アリストテレスによれば、プラトンは若い頃、ソクラテスよりもまず先に、対話篇『クラテュロス』にも題して登場させているクラテュロスに、ヘラクレイトスの自然哲学を学び、その「万物流転」思想(感覚的事物は絶えず流転しているので、そこに真の認識は成立し得ない)に、生涯に渡って影響を受け続けたという[13]。)

第一回シケリア旅行[編集]

この後、紀元前388年(-紀元前387年)、39歳頃、プラトンはアテナイを離れ、イタリア、シケリア島(1回目のシケリア行)、エジプトを遍歴した。この時、イタリアでピュタゴラス派およびエレア派と交流をもったと考えられている。また、20歳過ぎの青年ディオンに初めて会ったのも、この時である[3]。

学園開設[編集]

紀元前387年、40歳頃、プラトンはシケリア旅行からの帰国後まもなく、アテナイ郊外の北西、アカデメイアの地の近傍に学園を設立した。そこはアテナイ城外の森の中、公共の体育場が設けられた英雄アカデモス(英語版)の神域であり、プラトンはこの土地に小園をもっていた[14]。場所の名であるアカデメイアがそのまま学園の名として定着した。アカデメイアでは天文学、生物学、数学、政治学、哲学等が教えられた。そこでは対話が重んじられ、教師と生徒の問答によって教育が行われた。

紀元前367年、プラトン60歳頃には、アリストテレスが17歳の時にアカデメイアに入門し、以後、プラトンが亡くなるまでの20年間学業生活を送った。プラトン没後、その甥のスペウシッポスが跡を継いで学頭となり、アリストテレスはアカデメイアを去った。

第二回シケリア旅行[編集]

紀元前367年(-紀元前366年)、60歳頃、ディオン[15]らの懇願を受け、シケリア島のシュラクサイへ旅行した(2度目のシケリア行)。シュラクサイの若き僭主ディオニュシオス2世を指導して哲人政治[16]の実現を目指したが、プラトンが到着して4ヶ月後に、流言飛語によってディオンは追放されてしまい、不首尾に終わる[3]。

第三回シケリア旅行[編集]

紀元前361年(-紀元前360年)、66歳頃、ディオニュシオス2世自身の強い希望を受け、3度目のシュラクサイ旅行を行うが、またしても政争に巻き込まれ、今度はプラトン自身が軟禁されてしまう。この時プラトンは、友人であるピュタゴラス派の政治家アルキュタスの助力を得て、辛くもアテナイに帰ることができた。

シュラクサイにおける哲人政治の夢は紀元前353年、プラトンが74歳頃、ディオンが54歳の若さにして政争により暗殺されたことによって途絶えた。

プラトンは晩年、著述とアカデメイアでの教育に力を注ぎ、紀元前347年(紀元前348年とも)、80歳で没した。

哲学[編集]





ラファエロ画, 1509年 プラトンとアリストテレス。
イデア論[編集]

一般に、プラトンの哲学はイデア論を中心に展開されると言われる。

最初期の対話篇を執筆していた30代のプラトンは、「無知の知」「アポリア(行き詰まり)」を経ながら、問答を駆使し、正義・徳・善の「単一の相」を目指して悪戦苦闘を続けるソクラテスの姿を描き、「徳は知識である」といった主知主義的な姿勢を提示するに留まっていたが、40歳頃の第一回シケリア旅行において、ピュタゴラス派と交流を持ったことにより、初期末の『メノン』の頃から、「思いなし」(思惑、臆見、doxa ドクサ)と「知識」(episteme エピステーメー)の区別、数学・幾何学や「魂」との結びつきを明確に打ち出していくようになり、その延長線上で、感覚を超えた真実在としての「イデア」の概念が、中期対話篇から提示されていくようになった。

生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアという理想的な範型があり、イデアこそが真の実在であり、この世界は不完全な仮象の世界にすぎない。不完全な人間の感覚ではイデアを捉えることができず、イデアの認識は、かつてそれを神々と共に観想していた記憶を留めている不滅の魂が、数学・幾何学や問答を通して、その記憶を「想起」(anamnêsis、アナムネーシス)することによって近接することができるものであり、そんな魂が真実在としてのイデアの似姿(エイコン)に、かつての記憶を刺激されることによって、イデアに対する志向、愛・恋(erôs、エロース)が喚起されるのだとした。

こうした発想は、『国家』『パイドロス』で典型的に描かれており、『国家』においては、「太陽の比喩」「線分の比喩」「洞窟の比喩」などによっても例えられてもいる。プラトンは、最高のイデアは「善のイデア」であり、存在と知識を超える最高原理であるとした。哲学者は知を愛するが、その愛の対象は「あるもの」である。しかるに、ドクサ(思いなし、思い込み)を抱くにすぎない者の愛の対象は「あり、かつ、あらぬもの」である。このように論じてプラトンは、存在論と知識を結びつけている。

『パルメニデス』『テアイテトス』『ソピステス』『政治家』といった中期の終わりから後期にかけては、エレア派の影響も顕著になる。

『ティマイオス』では、この世界・宇宙は、善なる製作者(デミウルゴス)たる神によって、永遠なるイデアを範型として模倣・制作したものであることが語られる。『法律』では、諸天体が神々の「最善の魂」の知性(ヌース)によって動かされていることを説明する。

問答法(弁証法・弁証術)[編集]

プラトンは、師ソクラテスから問答法(弁証法、ディアレクティケー)を受け継いだ。『プロタゴラス』『ゴルギアス』『エウテュデモス』といった初期対話篇では、専らソフィスト達の弁論術(レートリケー)や論争術(エリスティケー)と対比され、妥当性追求のための手段とされるに留まっていたそれは、中期の頃から対象を自然本性にしたがって「多から一へ」と特定するための推論技術として洗練されていき[17]、数学・幾何学と並んで、「イデア」に近付くための不可欠な手段となる。

『国家』においては、数学的諸学と共に、「哲人王」が修めるべき教育内容として言及される。

『メノン』から中期にかけては「仮設(ヒュボテシス)法」、後期からは「分割(ディアイレシス)法」といった手法も登場する。

これらは後に、アリストテレスによって、「論理学」へと発展されることになる(『オルガノン』)。

数学・幾何学[編集]

プラトンは、第一回シケリア旅行でピュタゴラス派と交流を持ったことで、『メノン』以降、数学・幾何学を重視して頻繁にそれを話題に上げるようになった。そしてこれらは、感覚を超えた真実在としての「イデア」概念を支える重要な根拠ともなった。

彼の学園アカデメイアにおいても、数学・幾何学が特に重視されたことはよく知られている。『国家』や『法律』においても、国制・法律を保全し、その目的である善を追求していく国家主導者としての「哲人王」や「夜の会議」構成員には、必須の教育内容として言及され、その重視姿勢は晩年に至るまで一貫している。

天文学・自然学・神学[編集]

中期・後期にかけての対話篇においては、「イデア」論をこの世界・宇宙全体に適用する形で、自然学的考察がはかられていった。

初期の『ゴルギアス』においても既に、ソクラテスとカリクレスの問答を通して、「自然」(ピュシス)と「社会法習」(ノモス)の(「善」を目的とするという点での)一体性に、言及されているが、中期の『パイドン』では、アナクサゴラスの自然哲学を、補助原因に過ぎない「必然」に囚われ、真の原因たる「善」を見落としていると批判する形で、プラトンの自然観が、従来の自然哲学とは異なることが明示され始める。

『パイドロス』では、3つ目に提示された物語において、天球を駆け、その外側のイデアを観想する神々と魂の姿が描かれ、後期の『政治家』では、エレアからの客人によって神々による天体の統治についての物語が、『ティマイオス』ではティマイオスによって、善なる製作者(デミウルゴス)たる神によって、この世界・宇宙がイデア界の似姿として作られたことが、語られる。

そして、最後の対話篇である『法律』では、第10巻を丸々使って、無神論に対する反駁や、諸天体は神々の「最善の魂」、その知性(ヌース)によって動かされていること、神々は人間を配慮していて宇宙全体の善を目指していること等の論証を行う。これは、プラトンにとっての「神学論」であると同時に、歴史上初の「自然神学」(哲学的神学)であるとされる[18]。

このように、プラトンにとっては、自然・世界・宇宙と神々は、不可分一体的なものであり、そしてその背後には、善やイデアがひかえている。

こうした発想は、アリストテレスにも継承され、『形而上学』『自然学』『天体論』などとして発展された。

魂論[編集]

プラトンの思想を語る上では、「イデア」と並んで、「魂」(プシュケー)が欠かせない要素・観点となっている。そして、両者は密接不可分に関連している。

初期の『ソクラテスの弁明』『クリトン』『プロタゴラス』『ゴルギアス』等においても既に、「魂を善くすること」や、死後の「魂」の行き先としての冥府などについて言及されていたが、第一回シケリア旅行においてピュタゴラス派と交流を持った後の、『メノン』以降の作品では、本格的に「魂」(プシュケー)が「イデア」と並んで話の中心を占め、その性格・詳細が語られていくようになっていく。

『メノン』においては、「(不死の)魂の想起」(アナムネーシス)がはじめて言及され、「学ぶことは、想起すること」という命題が提示される。中期の『パイドン』においては、「魂の不死」について、問答が行われる。

『国家』においては、理知、気概、欲望から成る「魂の三分説」が説かれ、末尾では「エルの物語」が語られる。『パイドロス』においては、「魂」がかつて神々と共に天球を駆け、その外側の「イデア」を観想していた物語が語られる。

後期末の『法律』第10巻では、「魂」こそが運動の原因であり、諸天体は神々の「最善の魂」によって動かされていることなどが述べられる。

このようにプラトンの思想においては、「魂」の概念は「善」や「イデア」と対になり、その思想の根幹を支える役割を果たしている。

なお、アリストテレスも、『霊魂論』において、「魂」について考察しているが、こちらは感覚・思考機能を司るものとして、今日で言うところの脳科学・神経科学的な趣きが強い考察となっている。

倫理学[編集]

プラトンは、師ソクラテスから、「徳は知識である」という主知主義的な発想と、問答を通してそれを執拗に追求していく愛智者(哲学者)としての姿勢を学んだ。初期のプラトンは、そうした師ソクラテスが、正義・徳・善などの「単一の相」を目指して悪戦苦闘を続ける様を描いていたが、第一回シケリア旅行におけるピュタゴラス派との交流を経て、中期以降の対話篇では、その目指されるべきものが、「善のイデア」であるという方向性で、固まっていった。

『国家』においては、国家の守護者たる「哲人王」が目指すべきものとして「善のイデア」が提示され、その説明のために「太陽の比喩」「線分の比喩」「洞窟の比喩」が示された。

後期末の『法律』においては、第10巻にて、神々は人間を配慮しており、その配慮は宇宙全体の善を目指しているのだということが論証され、第12巻においては、「哲人王」に代わる、国制・法律保全、及びその目的である「善」達成のための機構としての「夜の会議」の構成員もまた、「哲人王」と同じような教育と資質が求められることが述べられる。

こうしてプラトンは、人間が「自然」(ピュシス)も「社会法習」(ノモス)も貫く「善のイデア」を目指していくべきであるとする倫理観をまとめ上げた。

そしてこの倫理観は、『国家』『法律』において、「哲人王」「夜の会議」と関連付けて述べられていることが示しているように、プラトンの政治学・法学の基礎となっている。

アリストテレスもまた、『形而上学』から『倫理学』を、『倫理学』から『政治学』を導くという形で、そして、「最高の共同体」たる国家の目的は「最高善」であるとして、プラトンのこうした構図をそのまま継承・踏襲している。

政治学・法学[編集]

プラトンが、若い頃から一貫して政治・国制・法律に対する強い関心を持ち続け、晩年に至るまでその考察を続けていたこと、また、彼にとって政治と哲学は不可分な関係にあり、両者の統合を模索し続けていたことは、彼の一連の著作の内容や『第七書簡』のような書簡の文面からも明らかである。

アテナイにおける三十人政権や、その後の民主派政権の現実を目の当たりにして、現実政治に幻滅し、直接関わることは控えていたが、そんな30代で書いた初期の『ソクラテスの弁明』『クリトン』でも既に、国家・国制・法律のあるべき姿を描こうとする姿勢が顕著であり、『ゴルギアス』においては、真の「政治術」とは、「弁論術」(レートリケー)のような「迎合」ではなく、「国民の魂を善くする」ことであらねばならず、ソクラテスただ1人のみが、そうした問題に取り組んでいたのだということを、描き出している。

このように、プラトンは当初から政治と哲学の統合を模索しており、中期以降に示される「哲人王」思想や、後にアカデメイアの学園として実現される同志獲得・養成の構想を、この頃既に持っていたことが、『第七書簡』でも述べられている。そして、第一回シケリア旅行にて、シュラクサイのディオンという青年に出会い、彼に自分の思想・哲学を伝授したことをきっかけとして、後にシュラクサイという現実国家の改革(及び内紛)にも、実際に携わっていくことになる。


プラトンの著作の中で群を抜いて圧倒的に文量の多い二書、10巻を擁する中期の『国家』と、12巻を擁する後期末の『法律』、この二書はその題名からも分かるように、いずれも国家・国制・法律に関する書である。こうしたところからも、プラトンがいかにこの分野に強い志向・情熱を持っていたかが伺える。

この二書はいずれも、「議論上で、理想国家を一から構築していく試み」という体裁が採られている。

『国家』では、「哲人王」思想が披露される他、
「優秀者支配制」(アリストクラティア[19])
「名誉支配制」(ティモクラティア)
「寡頭制」(オリガルキア)
「民主制」(デモクラティア)
「僭主独裁制」(テュランニス)

という5つの国制の変遷・転態の様を描いたり、「妻女・子供の共有」や、俗に「詩人追放論」と表現されるような詩歌・演劇批判を行っている。


(なお、『国家』と『法律』の中間には、両者をつなぐ過渡的な対話篇として、後期の『政治家』がある。ここでは、現実の国制として、
「王制」(バシリケー) - 法律に基づく単独者支配
「僭主制」(テュランニス) - 法律に基づかない単独者支配
「貴族制」(アリストクラティア[20]) - 法律に基づく少数者支配
「寡頭制」(オリガルキア) - 法律に基づかない少数者支配
「民主制」(デモクラティア) - 多数者支配(法律に基づくか否かでの区別無し)

が挙げられ、
上記の諸国制とは異なる、知識・技術と善への志向を持った「哲人王」による理想政体実現の困難さ
法律の不十分性と有用性
上記の現実的国制の内、法律が順守された際には、「単独者支配」「少数者支配」「多数者支配」の順でマシな体制となり、逆に、法律が軽視された際には、「多数者支配」「少数者支配」「単独者支配」の順でマシな体制となる



法律遵奉時

法律軽視時


最良
単独者支配(王制) 多数者支配(民主制)

中間
少数者支配(貴族制) 少数者支配(寡頭制)

最悪
多数者支配(民主制) 単独者支配(僭主制)

などが述べられ、現実的な「次善の国制」が模索されていく。)


『法律』では、その名の通り、専ら法律の観点から、より具体的・実践的・詳細な形で、各種の国家社会システムを不足なく配置するように、理想国家「マグネシア」の構築が進められる。第3巻においては、アテナイに代表される民主制と、ペルシアに代表される君主制という「両極」の国制が、いずれも衰退を招いたことを挙げ、スパルタやクレタのように、両者を折衷した
「混合制」

が望ましいことが述べられる。第10巻においては、無神論批判と敬神の重要性が説かれる。最終第12巻では、国制・法律の保全と、それらの目的である「善」の護持・探求のために、『国家』における「哲人王」に代わり、複数人の哲人兼実務者から成る「夜の会議」が提示され、話が終わる。


なお、アリストテレスは、『政治学』の第2巻において、上記二書に言及し、その内容に批判を加えているが、他方で、「善」を国家の目的としたり、プラトンを踏襲した国制の比較検討をするなど、プラトンの影響も随所に伺わせている。

教育論[編集]

プラトンにとって、哲学・政治と密接に関わっている教育は、重大な関心事であり、実際40歳にしてアカデメイアに自身の学園を開設するに至った。

プラトンの教育論・教育観は、『国家』の2巻-3巻、6巻-7巻、及び『法律』の7巻に典型的に描かれているが、「徳は何であるか、教えうるのか」「徳の教師を自認するソフィスト達は何を教えているのか」等の関連論も含めれば、初期の頃からほぼ全篇に渡って教育論が展開されていると言っても過言ではない。

そして、総じて言えば、数学・幾何学や問答法(弁証法)を中心とした、「善のイデア」を見極めていける・目指していけるようにする教育、それをプラトンは国の守護者、指導者、立法者であるべき哲学者たちに必要な教育だと考えており、アカデメイアでもそうした教育が行われていた。


また、『第七書簡』においては、ディオニュシオス2世が半可通な理解で哲学の知識に関する書物を著したことを批判しつつ、「師資相承」のごとき、いわゆる「知の飛び火」論が展開されている。哲学(愛知)の営みが目指している真実在(イデア)へは、
1.「名辞」(オノマ)
2.「定義」
3.「模造」
4.「知識」

の4つを経由しながら、接近していくことになるが、これらはどれも真実在(イデア)そのものとは異なる不完全なものであり、「言葉」や「物体」を用いて、対象が「何であるか」ではなく「どういうものであるか」を差し出すものでしかない。そして、それらはその脆弱さゆえに、論駁家によって容易に操縦されてしまうものでもある。

したがって、哲学(愛知)の営みが目指している真実在(イデア)に関する知性は、教える者(師匠)と教えられる者(弟子)が生活を共にし、上記の4つを突き合わせ、好意に満ちた偏見も腹蔵もない吟味・反駁・問答が、一段一段、行きつ戻りつ行われる数多く話し合いによってはじめて、人間に許される限りの力をみなぎらせて輝き出すし、優れた素質のある人の魂から、同じく優れた素質のある人の魂へと、「飛び火によって点じられた燈火」のごとく生じさせることができるものであり、いやしくも真剣に真実在(イデア)を目指し、そうしたことをわきまえている哲学者(愛知者)であるならば、そうした特に真剣な関心事は、魂の中の最も美しい領域(知性)にそのまま置かれているし、それを知っていると称して、みだりに「言葉」という脆弱な器に、ましてや「書かれたもの」という取り換えも効かぬ状態に、それをあえて盛り込もうとはしない、というのがその論旨である。

これと同じ主旨の話は、『パイドロス』の末尾においても述べられている[21][22]。

感性論・芸術論[編集]

プラトンは経験主義のような、人間の感覚や経験を基盤に据えた思想を否定した。感覚は不完全であるため、正しい認識に至ることができないと考えたためである。

また、『国家』においては、芸術(詩歌・演劇)についても否定的な態度を表している[23]。視覚で捉えることができる美は不完全なものであり、完全な三角形や完全な円や球そのものは常住不変のイデアである。芸術はイデアの模倣にすぎない現実の事物をさらに模倣するもの、さらには事物の模倣にすぎないものに人の関心を向けさせるものである、として芸術に低い評価を下した。

著書[編集]

Plato Silanion Musei Capitolini MC1377.jpg
プラトンの著作
初期:
ソクラテスの弁明 - クリトン
エウテュプロン - カルミデス
ラケス - リュシス - イオン
ヒッピアス (大) - ヒッピアス (小)
初期(過渡期):
プロタゴラス - エウテュデモス
ゴルギアス - クラテュロス
メノン - メネクセノス
中期:
饗宴 - パイドン
国家 - パイドロス
パルメニデス - テアイテトス
後期:
ソピステス - 政治家
ティマイオス - クリティアス
ピレボス - 法律
第七書簡
偽書及びその論争がある書:
アルキビアデスI - アルキビアデスII
ヒッパルコス - 恋敵 - テアゲス
クレイトポン - ミノス - エピノミス
書簡集(一部除く) - 定義集
正しさについて - 徳について
デモドコス - シーシュポス
エリュクシアス - アクシオコス
ハルシオン


プラトンの著書として伝わるものには、対話篇と書簡がある。

編纂と真贋問題[編集]

プラトンの著作として伝承された文献の中には、真偽の疑わしいものや、多くの学者によって偽作とされているものも含まれている。

プラトンの著書の真贋はすでに紀元前のアレクサンドリアの文献学者によって議論されている。現在伝わる最初の全集編纂は紀元前2世紀に行われた。古代ローマのトラシュロスは、当時伝わっていたプラトンの著作を、その内容ごとにまとめ、以下のように、9編の4部作(テトラロギア)集に編纂した。
1.『エウテュプロン』『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』
2.『クラテュロス』『テアイテトス』『ソピステス』『政治家』
3.『パルメニデス』『ピレボス』『饗宴』『パイドロス』
4.『アルキビアデスI』『アルキビアデスII』『ヒッパルコス』『恋敵』
5.『テアゲス』『カルミデス』『ラケス』『リュシス』
6.『エウテュデモス』『プロタゴラス』『ゴルギアス』『メノン』
7.『ヒッピアス (大)』『ヒッピアス (小)』『イオン』『メネクセノス』
8.『クレイトポン』『国家』『ティマイオス』『クリティアス』
9.『ミノス』『法律』『エピノミス』『書簡集』

現在の「プラトン全集」は、慣行によりこのトラシュロスの全集に準拠しており、収録された作品をすべて含む。ただしトラシュロスはすでにこの時、いくつかの作品はプラトンのものであるかどうか疑わしい、としている。

プラトンの真筆であると研究者の間で合意を得ている著作のうち、最も晩年のものは『法律』である。ここでは『国家』と同じく、政治とは何かということが語られ、理想的な教育についての論が再び展開されるが、哲人王の思想は登場しない。また、特筆すべきことに『法律』ではソクラテスではなく無名の「アテナイから来た人」が語り手を務める。多くの研究者は、この「アテナイからの人」をプラトン自身とみなし、この語り手の変化は、プラトンがソクラテスと自分との思想の違いを強く自覚するに至ったことを示唆しており、そのゆえにソクラテスを登場させなかったのだと考えている。

『法律』の続編として書かれたであろう『エピノミス』(『法律後篇』)では哲人王の思想が再び登場するが、『ティマイオス』の宇宙観と『エピノミス』の宇宙観が異なること、文体の乱れなどから、ほとんどの学者は『エピノミス』を弟子あるいは後代の偽作としている。ただし『エピノミス』は最晩年のプラトンがその思想を圧縮して書き残したものだと考えている学者も少数ながら存在する。

プラトンはイソクラテスの影響を受け、中期より文体を変えていることが分かっている。文章に使われる語彙や母音の連続などを調べる文体統計学により、現代ではかなりの作品の執筆順序について学者間の意見は一致している。たとえばトラシュロスが『クリトン』の後においた『パイドン』(ソクラテスの死の直前、ピュタゴラス学派の二人とソクラテスが対話する)は、中期の作品に属することが分かっている。ただしその内容から、いくつかの作品については執筆年代についての論争がある。

印刷と普及[編集]

古代にトラシュロス等によって編纂されたプラトンの著作は、写本によって継承されてきたが、一般に普及するようになったのは、ルネサンス期に入り、印刷術・印刷業が確立・発達した15-16世紀以降である。

当時、様々な印刷工房によって古典的著作が出版されたが、中でもフランス(スイス)のロベール・エティエンヌ、アンリ・エティエンヌのエティエンヌ父子の印刷工房によって、16世紀に出版されたプラトン全集の完成度が高く、現在でも「ステファヌス版」[24]として、標準的な底本となっている。これはページごとにギリシャ語原文とラテン語訳文の対訳が印刷されたものであり、各ページには、10行ごとにA, B, C... とアルファベットが付記されている。現在でも、プラトン著作の訳文には、「348A」「93C」といった数字とアルファベットが付記されることが多いが、これは「ステファヌス版」のページ数・行数を表している。

ただし、現在における翻訳出版においては、直接的には、イギリスの古典学者ジョン・バーネット(英語版)の校本として、1900-1907年に「オクスフォード古典叢書」(Oxford Classical Texts、OCT)の一部として出版された、通称「バーネット版」等が底本として用いられることが多い。

執筆時期[編集]

初期-中期(30代-40代)[編集]

執筆推定年代については、まず、『ソクラテスの弁明』『クリトン』『ラケス』『リュシス』といった最初期の著作は、プラトンが30代後半の頃、すなわち紀元前388年-紀元前387年の第一回シケリア旅行に行く前に、書かれたものであるという見解[25]で、概ね合意されている。

また、初期末の『メノン』、そして、『饗宴』『パイドン』といった中期の作品は、ピタゴラス学派の影響が色濃いこともあり、紀元前388年-紀元前387年の第一回シケリア旅行の後、またその直後の紀元前387年にアカデメイアの学園が開設された後に、すなわち40代になってから、数年の間に書かれたものであるという見解[26][27][28][29]も、概ね合意されている。

両者の境界線にあるのが、『ゴルギアス』であり、これが書かれたのは第一回シケリア旅行の前であるという見解[30]と、後であり『メノン』とほぼ同時期だという見解[31]に分かれる。

中期-後期(50代-60代)[編集]

続く『国家』『パイドロス』は、紀元前375年辺りの時期、すなわち50代で書いたと推定される[32][33]。

中期末の『テアイテトス』は、紀元前368年-紀元前367年頃、プラトンが60歳頃、すなわち紀元前367年-紀元前366年の第二回シケリア旅行にて、シュラクサイの政争に巻き込まれる前後に書かれたものだと推定されている[34]。

『テアイテトス』と内容的にも連続している後期対話篇『ソピステス』『政治家』などは、その後、プラトンが紀元前367年-紀元前366年の第二回シケリア旅行から帰って来て以降の、60代で書かれたと推定される[35]。『ティマイオス』『クリティアス』は、その次に書かれた。

最後期(70代)[編集]

後期末(最後)の対話篇である『法律』は、紀元前361年-紀元前360年の第三回シケリア旅行から帰国した後の、紀元前358年に書いたと推定される『第三書簡』や、紀元前352年に書いたとされる『第七書簡』『第八書簡』との内容的な関連性も見られるので[36]、紀元前350年代半ばから、死去する紀元前347年に至るまでの70代に書かれたと推定される[37]。

『法律』と同じく、最後期に分類[38]される『ピレボス』も、同じく第三回シケリア旅行後の紀元前350年代、『法律』の直前ないし並行する形で執筆されたと推定される。

一覧[編集]

初期[編集]

主にソクラテスの姿を描く。
『ソクラテスの弁明』(古希: Ἀπολογία Σωκράτους)
『クリトン』(古希: Κρίτων)
『エウテュプロン』(古希: Εὐθύφρων)
『カルミデス』(古希: Χαρμίδης)
『ラケス』(古希: Λάχης)
『リュシス』(古希: Λύσις)
『イオン』(古希: Ἴων)
『ヒッピアス (大)』(古希: Ιππίας Μείζων)
『ヒッピアス (小)』(古希: Ιππίας Ελάττων)
『プロタゴラス』(古希: Πρωταγόρας)
『エウテュデモス』(古希: Εὐθύδημος)
『ゴルギアス』(古希: Γοργάς)
『クラテュロス』(古希: Κρατύλος)
『メノン』(古希: Mενων)

中期[編集]

イデア論、魂の想起説、「哲人王」思想を展開。
『饗宴』(古希: Συμπόσιον - シュンポシオン)
『パイドン』(古希: Φαίδων)
『国家』(古希: Πολιτεία - ポリテイア)
『パイドロス』(古希: Φαῖδρος)
『パルメニデス』(古希: Παρμενίδης)
『テアイテトス』(古希: Θεαίτητος)

後期[編集]

「自然」「宇宙」全体へと、より一層踏み込む。「哲人王」に代わり「夜の会議」を提示。
『ソピステス』(古希: Σοφιστής)
『政治家』(古希: Πολιτικός - ポリティコス)
『ティマイオス』(古希: Τίμαιος περὶ φύσεως)
『クリティアス』(古希: Κριτίας) ※未完
『ピレボス』(古希: Φίληβος)
『法律』(古希: Νόμοι - ノモイ)
『第七書簡』

邦訳[編集]
田中美知太郎・藤沢令夫編 『プラトン全集 (全14巻)』 岩波書店、数度重刷。
著作の約半数が数社で文庫化している。

後世への影響[編集]

プラトンの西洋哲学に対する影響は弟子のアリストテレスと並んで絶大である[39]。

プラトンの影響の一例としては、ネオプラトニズムと呼ばれる古代ローマ末期、ルネサンス期の思想家たちを挙げることができる。「一者」からの万物の流出を説くネオプラトニズムの思想は、成立期のキリスト教やルネサンス期哲学、さらにロマン主義などに影響を与えた(ただし、グノーシス主義やアリストテレス哲学の影響が大きく、プラトン自身の思想とは様相が異なってしまっている)。

プラトンは『ティマイオス』の中の物語で、制作者「デミウルゴス」がイデア界に似せて現実界を造ったとした。この「デミウルゴス」の存在を「神」に置き換えることにより、1世紀のユダヤ人思想家アレクサンドリアのフィロンはユダヤ教とプラトンとを結びつけ、プラトンはギリシアのモーセであるといった。『ティマイオス』は西ヨーロッパ中世に唯一伝わったプラトンの著作であり、プラトンの思想はネオプラトニズムの思想を経由して中世のスコラ哲学に受け継がれる。

なお、アトランティスの伝説は『ティマイオス』および『クリティアス』に由来する。

カール・ポパーは、プラトンの『ポリティア』などに見られる設計主義的な社会改革理論が社会主義や国家主義の起源となったとして、プラトン思想に潜む全体主義を批判した[40]。

脚注[編集]

1.^ “ヨーロッパの哲学の伝統のもつ一般的性格を最も無難に説明するならば、プラトンに対する一連の脚註から構成されているもの、ということになる”[1](『過程と実在』)。ちなみに、ホワイトヘッドによるこのプラトン評は「あらゆる西洋哲学はプラトンのイデア論の変奏にすぎない」という文脈で誤って引用されることが多いが、実際には、「プラトンの対話篇にはイデア論を反駁する人物さえ登場していることに見られるように、プラトンの哲学的着想は哲学のあらゆるアイデアをそこに見出しうるほど豊かであった」という意味で評したのである。
2.^ カール・ポパー「開かれた社会とその敵」(未來社)、佐々木毅「プラトンの呪縛」(講談社学術文庫)、「現代用語の基礎知識」(自由国民社、1981年)90p、「政治哲学序說」(南原繁、1973年)
3.^ a b c d 『第七書簡』
4.^ 「肉体(ソーマ)は墓(セーマ)である」の教説はオルペルス教的と評される。ただし、E・R・ドッズは通説を再考し、これがオルペウス教の教義であった可能性は低いとみている(『ギリシァ人と非理性』 p.182)。
5.^ 『国家』436A、580C-583A、『ティマイオス』69C
6.^ 『ティマイオス』
7.^ 『法律』第10巻
8.^ プラトンの家系図については曾祖父クリスティアスの項を参照。
9.^ ディオゲネス・ラエルティオスによると、プラトンの本名はアリストクレスである。
10.^ 額が広かったためとの伝もある。
11.^ 当時の名門家では文武両道を旨とし知的教育と並んで体育も奨励され、実際、プラトンはイストミア祭のレスリング大会で2度も優勝している。オリンピアの祭典では優秀な成績を上げられず、学問の道に進みソクラテスに弟子入りしている。
12.^ この裁判を舞台設定としたのが『ソクラテスの弁明』である。
13.^ 『形而上学』第1巻987a32
14.^ シュヴェーグラー『西洋哲学史』によれば、この地所はプラトンの父の遺産という。また、ディオゲネス・ラエルティオスによれば、プラトンが奴隷として売られた時にその身柄を買い戻したキュレネ人アンニケリスが、プラトンのためにアカデメイアの小園を買ったという。
15.^ ディオゲネス・ラエルティオスがアリスティッポスの説として述べるところによれば、ディオンはプラトンの恋人(稚児)であった。プラトンは、他にもアステールという若者、パイドロス、アレクシス、アガトンと恋仲にあった。また、コロポン生まれの芸娘アルケアナッサを囲ってもいた。『ギリシア哲学者列伝 (上)』岩波文庫、271-273頁。
16.^ 対話篇『国家』に示される。
17.^ 『パイドロス』266B
18.^ 『プラトン全集13』岩波書店p814
19.^ 一般的には「貴族制」を指すが、プラトンは語義通り「優秀者」による支配の意味で用いている。
20.^ 『国家』においては「優秀者支配制」の意味で用いられていたが、ここでは本来の意味である「貴族制」の意味で用いられている。
21.^ 『パイドロス』277D-279B
22.^ ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』に代表されるように、『パイドロス』のこの箇所の記述を、「書き言葉批判」「音声中心主義」と考える者もいるが、上記『第七書簡』の記述からも分かるように、プラトンは「書き言葉」「話し言葉」を問わず、「言葉」全般を不完全なものとみなしてそこへの依存を批判しているのであり、『パイドロス』のこの箇所の記述を、「書き言葉批判」「音声中心主義」と解釈するのは明確な曲解・誤解である。
23.^ 『国家』第10巻
24.^ 「ステファヌス」(Stephanus)とは、フランス姓「エティエンヌ」(Étienne)のラテン語表現。
25.^ 『プラトン全集1』岩波書店 p367, 419
26.^ 『メノン』岩波文庫pp161-163
27.^ 『饗宴』岩波文庫p8
28.^ 『プラトン全集1』岩波書店 p419
29.^ 『パイドン』岩波文庫p196
30.^ 『ゴルギアス』p299
31.^ 『メノン』岩波文庫pp162-163
32.^ 『国家』(下)岩波文庫p433
33.^ 『パイドロス』岩波文庫p191
34.^ 『テアイテトス』岩波文庫p295
35.^ 『プラトン全集3』岩波書店 p396, 435
36.^ 『プラトン全集13』岩波書店pp822-828
37.^ 『プラトン全集13』岩波書店p829
38.^ 『プラトン全集4』岩波書店p409
39.^ アリストテレスの思想の成立に師プラトンが大きく関与したことは論を俟たない。ただし、その継承関係には議論があり、アリストテレスはプラトンの思想を積極的に乗り越え本質的に対立しているとするものと、プラトンの思想の本質的な部分を継承したとするものとに大きく分かれる。
40.^ 収富信留『プラトン 理想国の現在』(慶応義塾大学出版会、2012年)

ロドス島

ロドス島(ギリシア語: Ρόδος / Ródos ; 英: Rhodes)は、エーゲ海南部のアナトリア半島沿岸部に位置するギリシャ領の島。ドデカネス諸島に属し、ギリシャ共和国で4番目に大きな面積を持つ。ロードス島との表記も用いられる(#名称節参照) 。

島で最大の都市であるロドスの街は、古代以来港湾都市として栄え、世界の七不思議の一つである「ロドス島の巨像」が存在したことでも知られる。また、その中世期の街並みは「ロドスの中世都市」の名で世界遺産に登録されている。



目次 [非表示]
1 名称
2 地理 2.1 位置・広がり
2.2 地勢
2.3 主要な都市・集落

3 歴史 3.1 古代
3.2 中世
3.3 近代
3.4 地震

4 社会 4.1 産業・経済
4.2 住民・宗教

5 行政区画 5.1 自治体(ディモス)

6 交通 6.1 空港

7 文化・観光 7.1 観光
7.2 スポーツ
7.3 文化

8 人物 8.1 出身者

9 脚注
10 参考文献
11 外部リンク


名称[編集]

日本ではしばしば「ロードス」と表記されるが、これはドイツ語表記 Rhodos に近い。ギリシャ語による発音はロードスとロドスの中間である。古典ギリシア語表記 Ῥόδος である。この島は現在ビーチリゾートになっており、観光に訪れる日本人は多いが、現地ギリシャ人の発音はロードスに近い。 このほか、この島に関係の深い言語ではそれぞれ以下のように呼ばれた。
イタリア語: Rodi (ロディ島)
オスマン語: ردوس / Rodos
ラディーノ語: Rodi あるいは Rodes

英語では Rhodes (ローズ島)あるいは Rhode (ロード島)と呼ぶ。アメリカ合衆国のロードアイランド州(Rhode Island)の名は直接には同州のロード島に由来するが、この島の名はロドス島にちなむとされる説もある(異説あり)。

地理[編集]





ロドス島
位置・広がり[編集]

ロドス島はドデカニサ諸島の東部、アナトリア半島沿岸部に位置する。エーゲ海の南限を形成する島の一つで、ギリシャ共和国の主要な島の中では最も東に位置する(これより約125km東にはカステロリゾ島などがある)。ロドスの街は、州都エルムポリから南東へ約313km、クレタ島のイラクリオから北東へ約305km、トルコのアンタルヤから南南西へ約227kmの距離にある。ロドス島はアテネとキプロス島のほぼ中間にあたっており、ロドスの街は首都アテネから南東へ約433km、キプロス島のニコシアから西北西へ約485kmの距離である。

北東―南西に長い菱型の島で、長さは約80km、幅は最大約34kmある。面積は約1,400km2で、約220kmの海岸線を持つ。

ロドス島の北には約18kmを隔ててアナトリア半島(トルコ・ムーラ県)がある。最も近いトルコの都市は、ロドスの街から北へ約47kmにあるマルマリスで、マルマリスとロドスとの間は航路で結ばれている。島の西には約10kmを隔ててハルキ島とアリミア島(ギリシャ語版)、北西には約20kmを隔ててシミ島(英語版)、南西には約45kmを隔ててカルパトス島がある。

Compass Rose English North.svg シミ島(英語版) (20km) アナトリア半島 (18km) Compass Rose English North.svg
ハルキ島 (10km)
アリミア島 (10km) 北 カステロリゾ島 (125km)
西 ロドス島 東

カルパトス島 (45km)

地勢[編集]

島の最高峰は、島の西海岸中央部にそびえるアタヴィロス山 (el:Αττάβυρος) 。島は山がちな地形であるが、北部と南部に平野が広がっている。島最大の空港であるロドス国際空港は、西岸北部の平野に位置する。







アタヴィロス山







島の北東部、アルハンゲロスの海岸







島の北西部、空港周辺







島の東部、リンドス付近の景観



主要な都市・集落[編集]

人口3000人以上の都市・集落は以下の通り(2001年国勢調査時点)。
ロドス(ロドス地区) - 52,318人
イアリソス(英語版)(イアリソス地区) - 10,107人
アルハンゲロス(英語版)(アルハンゲロス地区) - 5,500人
アファンドウ(英語版)(アファンドウ地区) - 5,494人
カリテア(英語版)(カリテア地区) - 4,370人
クレマスティ(英語版)(ペタルデス地区) - 4,372人

島最大の都市・ロドスの街は、島の東北端に位置しており、その南西にイアリソス、クレマスティがある。2004年時点で、島の人口約13万人のうち内6万人あまりがロドスの街の周辺で生活している。人口のほとんどは島の北半分に暮らしており、島の島の東側には北からカリテア、アファンドウ、アルハンゲロス、リンドスなどの町が連なる。東海岸に突き出した半島に位置するリンドス(人口810人)は、古代遺跡と海水浴場で知られている。







島の北西岸、イアリソスからロドス方面







島の東岸、リンドス







島の北東部、アルハンゲロス



歴史[編集]

古代[編集]

この島には新石器時代から人が住んでいたが、その頃の痕跡はわずかしか残っていない。紀元前16世紀にはミノア文明の人々が、そして紀元前15世紀にアカイア人が到来し、さらに紀元前11世紀にはドーリア人がこの島へとやってきた。ドーリア人たちはのちに本土のコス、クニドス、ハリカルナッソスに加えてリンドス、イアリソス、カメイロスという3つの重要な都市(いわゆるドーリア人の6ポリス)を建設した。

アケメネス朝が小アジアにまでその勢力を拡大するとロドスもその影響を否が応にも受けざるを得ない位置にあったが、ペルシャ戦争後の紀元前478年にロドス島の諸都市はアテナイを中心とするデロス同盟に加わった。この後紀元前431年にはペロポネソス戦争が勃発するが、ロドス島はデロス同盟の一員ではあったものの中立的な立場をとりつづけた。戦争が終わる紀元前404年ペロポネソス戦争でギリシアは疲弊し、それがまた侵略を招くこととなった。紀元前357年にハリカルナッソスのマウスロス王によってロドス島は征服され、紀元前340年にはアケメネス朝の支配下に入った。しかしその後紀元前332年に、東征中のアレクサンドロス3世がロドス島をアケメネス朝の支配から解放し、自己の勢力圏の一部とした。





ロドス島
アレクサンドロスの死後、後継者問題からその配下の将軍らによる戦乱が起こり、プトレマイオス1世、セレウコス、アンティゴノスらが帝国を分割した。 このいわゆるディアドコイ戦争の間ロドス島は主に交易関係を通じてエジプトに拠るプトレマイオスと密接な関係にあったが、ロドスの海運力がプトレマイオスに利用されることを嫌ったアンティゴノスは息子デメトリオスに軍を率いさせてロドスを攻撃させた。これに対してロドス側はよく守ってデメトリオスの攻撃を凌ぎきり、翌年攻囲戦の長期化を望まないアンティゴノスとプトレマイオス双方が妥協して和平協定が成立した。この時デメトリオスの軍が遺していった武器を売却して得た収益をもとに、今日アポロの巨像としてその名を残している太陽神ヘーリオスの彫像が造られた。

ロドス島はエジプトのプトレマイオス朝との交易の重要な拠点となると同時に、紀元前3世紀のエーゲ海の通商を支配した。海における商業と文化の中心地として発展し、その貨幣は地中海全域で流通していた。哲学や文学、修辞学の有名な学府もあった。

紀元前190年、セレウコス朝の攻撃を受けるもこれを退けた。この時の勝利を記念して、エーゲ海北端のサモトラケ島に翼をもった勝利の女神ニーケーの像が建てられた。(→サモトラケのニケ)紀元前164年にローマ共和国と平和条約を結び、以後ローマの貴族たちのための学校としての役割を担うことになる。両者の関係は、当初はローマの重要な同盟国として様々な特権が認められていたが、のちにローマ側によりそれらは剥奪されていき、ガイウス・ユリウス・カエサル死後の戦乱の最中にはカシウスによる侵略を受け都市は略奪された。

紀元前後、後にアウグストゥスの後を継ぎ皇帝となるティベリウスがこの地で隠遁生活を送ったほか、パウロが訪れキリスト教を伝えた。297年、それまでのローマの同盟国という地位からその直接統治下に移ったが、ローマ帝国分裂後は東ローマ帝国領となった。

中世[編集]

東ローマ領であった一千年の間には、ロドス島はさまざまな軍隊によって繰り返し攻撃された。

東ローマ帝国が衰亡しつつあった1309年、ロドス島は聖ヨハネ騎士団(別名・ホスピタル騎士団)に占領され、ロドス島騎士団と称されるこの騎士団のもと都市は中世ヨーロッパ風に作り変えられた。騎士団長の居城などのロドス島の有名な遺跡の多くはこの時期に造営されたものである。騎士団は島内に堅固な城塞を築き、1444年のエジプトのマムルーク朝の攻撃や1480年のオスマン帝国のメフメト2世の攻撃を防いだが、1522年にスレイマン1世の大軍に攻囲され遂に陥落した。騎士団の残った者たちはマルタ島へ移っていった。

ロドス島の征服は、オスマン帝国にとっては東地中海の海路の安全、つまり、イスタンブルとカイロの間の円滑な商品流通に寄与するものであった。その後、1669年にヴェネツィア共和国支配下のクレタ島がオスマン帝国に征服されたが、その際には、ロドス島から軍が送られていた。

近代[編集]

1912年、トルコ領だったロドス島はイタリアによって占領され、1947年にはドデカネス諸島ともにギリシャに編入された。

なおここではギリシャとトルコによるロドス島支配の交代に関する多くの出来事は省略している。

地震[編集]

ロドス島の歴史は大地震の歴史でもある。(地震の年表)下記のロードス島として記録されているものだけではなく、他にギリシャの地震で被害を受けている。
紀元前226年 ギリシャ、ロードス島で地震。港口にあった巨像が倒壊する。
155年 ギリシャ東部ロードス島で地震、ロードス市(BC407年建設)全滅。
1304年8月9日 ギリシャ東部ロードス島で地震 - M 8。
1856年10月12日 ギリシャ、クレタ島、ロードス島で地震 - M 8.0、死者35人。

社会[編集]

産業・経済[編集]





ロドスワイン
島の経済は観光によって成り立っており、産業部門の中でサービス業がもっとも発達している。

ロドス島は、ワイン生産地域の一つである(ギリシャワイン参照)。ギリシャの原産地名称保護制度によって、「ロドスワイン」(赤ワイン・白ワイン)は最上級のO.P.A.P.に、甘口ワインの「マスカット・オブ・ロドス」はO.P.E.に指定され、厳しい基準によって名称が管理されている。

工業は小規模で、地元での消費のために輸入した材料を加工する程度である。

このほか島の産業には、農業、牧畜業、漁業がある。

住民・宗教[編集]

島で最も優勢な宗教はギリシャ正教である。少数派ではあるが、ローマカトリックの存在も顕著である。カトリックの信徒の多くは、この島がギリシャ領になった後も島に残ったイタリア人の末裔である。このほか、オスマン帝国時代からの名残りとして、ムスリム(イスラム教徒)のマイノリティもいる。

島のユダヤ人(ユダヤ教徒)コミュニティは、西暦1世紀にさかのぼる歴史を持つ。1557年に建設されたカハル・シャローム (Kahal Shalom Synagogue) はギリシャ最古のシナゴーグであり、現在も旧市街のユダヤ人街にある。ユダヤ人たちの活動のピークであった1920年代には、ロドスの街の3分の1までがユダヤ人であった。1940年代には、さまざまな民族的背景を持つ2000人ほどのユダヤ人がいたが、ドイツによるホロコーストによってそのほとんどが移送・殺害された。第二次世界大戦後、カハル・シャロームは海外の支援者の手によって再建されたが、島に普段暮らすユダヤ人は少ないため、定期的な宗教行事は行われていない。





ロドスのスレイマン・モスク






カハル・シャロームの外観






カハル・シャローム


行政区画[編集]


ロドス
Ρόδος


所在地



ロドスの位置




ロドス


座標 北緯36度10分 東経28度0分座標: 北緯36度10分 東経28度0分


域内の位置 [表示]



2011 Dimos Rodou.png


行政

国: ギリシャ
地方: 南エーゲ
県: ロドス県
ディモス: ロドス

人口統計 (2001年)

ディモス
- 人口: 117,007 人
- 面積: 1,407.9 km2
- 人口密度: 83 人/km2
その他
標準時: EET/EEST (UTC+2/3)

自治体(ディモス)[編集]

ロドス市(Δήμος Ρόδου)は、南エーゲ地方ロドス県に属する基礎自治体(ディモス)である。ロドス市はロドス島全域を市域とする。

現在のロドス市は、カリクラティス改革(2011年1月施行)にともない、(旧)ロドス市など10の自治体が合併して発足した。旧自治体は、新自治体を構成する行政区(ディモティキ・エノティタ)となっている。

下表の番号は、下に掲げた「旧自治体」地図の番号に相当する。面積の単位はkm2、人口は2001年国勢調査時点。



旧自治体名

綴り

政庁所在地

面積

人口


1 ロドス Ρόδος ロドス 19.5 53,709
2 アルハンゲロス(英語版) Αρχάγγελος アルハンゲロス (el) 115.4 7,779
4 アタヴィロス(英語版) Αττάβυρος エムボナス 3,225 3,225
5 アファンドウ(英語版) Αφάντου アファンドウ (el) 46.1 6,712
8 イアリソス(英語版) Ιαλυσός イアリソス 16.7 10,107
9 カリテア(英語版) Καλλιθέα ファリラキ (en) 109.8 10,251
11 カミロス Κάμειρος ソロニ (en) 211.8 5,145
17 リンドス Λίνδος リンドス (el) 178.9 3,633
20 ノティア・ロドス(英語版) Νότια Ρόδος イェナディ (en) 379.1 4,313
22 ペタルデス(英語版) Πεταλούδες クレマスティ (el) 89.2 12,133








ドデカニサ県の旧自治体(2010年まで)







ロドス市(2011年から)



交通[編集]

空港[編集]
ロドス国際空港(英語版)
ロドス・マリツァ空港 (Rhodes Maritsa Airport)
カラトス飛行場

ロドス島には3つの飛行場がある。民間で用いているのはロドス国際空港1つのみで、残る2つは軍用である。

ロドス国際空港は、ロドスの街から南西へ約19kmに位置する。古代オリンピックで活躍した格闘選手・ロドスのディアゴラス(英語版)にちなみ、「ディアゴラス空港」の愛称が付けられている。

文化・観光[編集]

観光[編集]
ロドスの中世都市ユネスコの世界遺産に登録されている。
スポーツ[編集]
サッカープロサッカークラブとして、ディアゴラスFC (Diagoras F.C.) とロドスFC (Rodos F.C.) があり、ともにロドスを本拠としている。2011/12シーズンはフットボールリーグ(2部リーグ)に属しているディアゴラスFCは、ドデカニサ諸島がオスマン帝国支配下にあった1905年に創設された伝統あるチームで、1986年から1989年にはギリシャ・スーパーリーグ(1部リーグ)に所属していたこともある。1968年創設のロドスFCも1部リーグに属した経験を持つが(1978–80, 81–83)、2011/12シーズンは3部リーグで戦っている。バスケットボールプロバスケットボールチームとして、1部リーグに属するコロッソス・ロドスBC (Kolossos Rodou B.C.) が本拠を置いている。
ロドス島は国際アイランドゲームズ協会に加盟しており、同協会が2年に1度開催するアイランドゲームズ(英語版)に代表を送っている。2007年にはロドス島でアイランドゲームズが開催された (2007 Island Games) 。

文化[編集]
「ここがロドスだ、ここで跳べ!」(ラテン語: Hic Rhodus, hic salta!)とは、イソップ寓話の「ほら吹き男」の話をもとにした成句。あるほら吹きの競技選手が遠征先のロドス島から帰り、「ロドスでは大跳躍をした、みながロドスに行ったらロドスの人が証言してくれるだろう」と吹聴するが、これを聞いた男が「それが本当なら証人はいらない、ここがロドスだと思って跳んでみろ」と言い返したというものである。ヘーゲルが『法の哲学』で、マルクスが『資本論』で、それぞれこの成句を引用していることで知られる。日本語訳には「ここがロードス島だ、ここで跳べ!」「さあ跳べ、ここがロドスだ!」などのバリエーションがあり、解釈によっては「ここがロードス島だ、ここで踊れ!」などとも訳される。
映画『ナバロンの要塞』や『オフサイド7』の野外撮影の多くはロドス島で行われた。

人物[編集]

出身者[編集]
リンドスのクレオヴロス(英語版) - 紀元前6世紀の哲学者・僭主。「ギリシャ七賢人」の一人。
ロドスのディアゴラス(英語版) - 紀元前5世紀の格闘家。
ディノクラティス - 紀元前4世紀の建築家(出身地には異説あり)
メムノン - (紀元前380年 - 紀元前333年)ペルシャに仕えた傭兵隊長。
リンドスのカレス(英語版) - 紀元前3世紀の彫刻家。「ロドス島の巨像」の作者とされる。
ロドスのレオニダス - 紀元前2世紀の陸上競技選手。
ロドスのアゲサンドロス(英語版) - 紀元前1世紀の彫刻家。「ラオコーン像」の作者の一人。

脚注[編集]


参考文献[編集]
塩野七生『ロードス島攻防記』
秀村欣二/伊藤貞夫著『世界の歴史2 ギリシアとヘレニズム』講談社、1976年
P・プティ/A・ラロンド著(北野徹訳)『ヘレニズム文明』文庫クセジュ(白水社)、2008年

リュケイオン

リュケイオン(Lykeion)は、アテナイの東部郊外に所在したアポロン・リュケイオス(Apollon Lykeios)[1]の神殿があった神域であり、アカデメイア、キュノサルゲス等と並ぶ、代表的なギュムナシオン(体育場)の所在地でもあった。

青年たちの教育に熱心だったソクラテスは、足繁くアカデメイアやこのリュケイオンのギュムナシオン(体育場)の青年たちを見て回っていたことが、プラトンの対話篇『リュシス』などにも描かれている。



目次 [非表示]
1 アリストテレスの学園
2 その他
3 脚注
4 関連項目


アリストテレスの学園[編集]

紀元前335年に、アリストテレス(のパトロンであったアレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世))によって、この地に彼らの学園が開設されたので、(プラトンのアカデメイアの場合と同じように)この地名がそのまま彼らの学園名として継承された。

アリストテレスは、リュケイオンの散歩道を歩きながら弟子たちと哲学や学問の論議を交わしたとされ、このことから、アリストテレスとその弟子たちをして逍遙学派(ペリパトス学派、hoi Peripatetikoi,散歩をする人々)との呼び名が生まれた。リュケイオンは盛んになったが、アレクサンドロス大王の死後、アテナイで反マケドニアの風潮が高まり、王の家庭教師であったアリストテレスは追放の身となる。

その他[編集]

リュケイオンの名は、現在もフランスの国立高等学校の名称リセ(Lycée)という言葉にも名残りを残している。

脚注[編集]

1.^ 狼のアポロン。狼はアポロンの主なトーテム。リュカイオスとも。

関連項目[編集]
アテナイ
ギュムナシオン
アカデメイア
アリストテレス
逍遥学派

アリストテレス

アリストテレス(アリストテレース、古希: Ἀριστοτέλης - Aristotélēs、羅: Aristotelēs、前384年 - 前322年3月7日)は、古代ギリシアの哲学者である。

プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば「西洋」最大の哲学者の一人と見なされる。また、その多岐に亘る自然研究の業績から「万学の祖」とも呼ばれる。イスラーム哲学や中世スコラ学、更には近代哲学・論理学に多大な影響を与えた。また、マケドニア王アレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)の家庭教師であったことでも知られる。

名前の由来はギリシア語の aristos (最高の)と telos (目的)から [1]。



目次 [非表示]
1 生涯 1.1 幼少期
1.2 アカデメイア期
1.3 アレクサンドロス大王とリュケイオン

2 思想 2.1 論理学
2.2 自然学(第二哲学)
2.3 形而上学(第一哲学) 2.3.1 原因について
2.3.2 範疇論

2.4 倫理学
2.5 政治学
2.6 文学

3 著作 3.1 論理学
3.2 自然学 3.2.1 生物・動物学

3.3 形而上学
3.4 倫理学
3.5 政治学
3.6 レトリックと詩学
3.7 偽書

4 後世への影響
5 エピソード
6 脚注
7 参考文献
8 外部リンク


生涯[編集]

幼少期[編集]

紀元前384年、トラキア地方のスタゲイロス(後のスタゲイラ)にて出生。スタゲイロスはカルキディケ半島の小さなギリシア人植民町で、当時マケドニア王国の支配下にあった。父はニコマコスといい、マケドニア王アミュンタス3世の待医であったという。幼少にして両親を亡くし、義兄プロクセノスを後見人として少年期を過ごす。このため、マケドニアの首都ペルラから後見人の居住地である小アジアのアタルネウスに移住したとも推測されているが、明確なことは伝わっていない。

アカデメイア期[編集]

判っているのは、紀元前367年、17-18歳にして、「ギリシアの学校」とペリクレスの謳ったアテナイに上り、そこでプラトン主催の学園、アカデメイアに入門したということである。修業時代のアリストテレスについては真偽の定かならぬさまざまな話が伝えられているが、一説には、親の遺産を食い潰した挙句、食い扶持のために軍隊に入るも挫折し、除隊後に医師(くすし)として身を立てようとしたがうまく行かず、それで結局プラトンの門を叩いたのだと言う者もいた[2]。いずれにせよ、かれはそこで勉学に励み、プラトンが死去するまでの20年近い年月、学徒としてアカデメイアの門に留まることになる。アリストテレスは師プラトンから「学校の精神」と評されたとも伝えられ、時には教師として後進を指導することもあったと想像されている。紀元前347年にプラトンが亡くなると、その甥に当たるスペウシッポスが学頭に選ばれる。この時期、アリストテレスは学園を辞してアテナイを去る。アリストテレスが学園を去った理由には諸説あるが、デモステネスらの反マケドニア派が勢いづいていた当時のアテナイは、マケドニアと縁の深い在留外国人にとって困難な情況にあったことも理由のひとつと言われている[3]。その後アカデメイアは、6世紀に東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世(在位 527年 - 565年)によって閉鎖されるまで続いた。

アレクサンドロス大王とリュケイオン[編集]

紀元前347年、37歳頃、マケドニア王フィリッポス2世の招聘により、当時13歳であった王子アレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)の師傅となった。アリストテレスは弁論術、文学、科学、医学、そして哲学を教えた。

教え子アレクサンドロスが王に即位(紀元前336年)した翌年の紀元前335年、49歳頃、アテナイに戻り、自身の指示によりアテナイ郊外に学園「リュケイオン」を開設した(リュケイオンとは、アテナイ東部郊外の、アポロン・リュケイオスの神域たる土地を指す)。弟子たちとは学園の歩廊(ペリパトス)を逍遥しながら議論を交わしたため、かれの学派は逍遥学派(ペリパトス学派)と呼ばれた。

アレクサンドロス大王の死後、アテナイではマケドニア人に対する迫害が起こったため、紀元前323年、61歳頃、母方の故郷であるカルキスに身を寄せた。しかし、そこで病に倒れ(あるいは毒人参をあおったとも)、紀元前322年、62歳で死去している。

思想[編集]


Bust of Aristotle.jpg



アリストテレスの著作は元々550巻ほどあったともされるが、そのうち現存しているのは約3分の1である。ほとんどが講義のためのノート、あるいは自分用に認めた研究ノートであり、公開を想定していなかったため簡潔な文体で書かれている。さまざまな経緯を経て、ロドス島のアンドロニコスの手に渡り、紀元前30年頃に整理・編集された。それが現在、『アリストテレス全集』と呼称されている文献である。したがって、われわれに残されている記述はアリストテレスが意図したものと異なっている可能性が高い。

キケロらの証言によれば、師プラトン同様、アリストテレスもいくつか対話篇を書いたようであるが、まとまった形で伝存しているものはない。

アリステレスは、「論理学」があらゆる学問成果を手に入れるための「道具」(オルガノン)であることを前提とした上で、学問体系を「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分し、理論学を「自然学」、「形而上学」、実践学を「政治学」、「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。

論理学[編集]

アリストテレスの師プラトンは、対話によって真実を追究していく弁証論を哲学の唯一の方法論としたが、アリストテレスは経験的事象を元に演繹的に真実を導き出す分析論を重視した。このような手法は論理学として三段論法などの形で体系化された。

アリストテレスの死去した後、かれの論理学の成果は『オルガノン』 (Organon) 6巻として集大成され、これを元に中世の学徒が論理学の研究を行った。

自然学(第二哲学)[編集]

「形相」および「質料」も参照

アリストテレスによる自然学に関する論述は、物理学、天文学、気象学、動物学、植物学等多岐に亘る。

プラトンは「イデア」こそが真の実在であるとした(実在形相説)が、アリストテレスは、可感的かつ形相が質料と不可分に結合した「個物」こそが基本的実在(第一実体)であり、それらに適応される「類の概念」を第二実体とした(個物形相説)。さまざまな物体の特性を決定づけているのは、「温」と「冷」、「乾」と「湿」の対立する性質の組み合わせであり、これらの基礎には火・空気・水・土の四大元素が想定されている。これはエンペドクレスの4元素論を基礎としているが、より現実や感覚に根ざしたものとなっている。

アリストテレスの宇宙論は同心円状の階層構造として論じられている。世界の中心に地球があり、その外側に月、水星、金星、太陽、その他の惑星等が、それぞれ各層を構成している。これらの天体は、前述の4元素とは異なる完全元素である第5元素「アイテール(エーテル)」から構成される。そして、「アイテール」から成るがゆえに、これらの天体は天球上を永遠に円運動しているとした。さらに、最外層には「不動の動者」である世界全体の「第一動者」が存在し、すべての運動の究極の原因であるとした。イブン・スィーナーら中世のイスラム哲学者・神学者や、トマス・アクィナス等の中世のキリスト教神学者は、この「第一動者」こそが「神」であるとした。

アリストテレスの自然学研究の中で最も顕著な成果を上げているのは生物学、特に動物学の研究である。 その研究の特徴は系統的かつ網羅的な経験事実の収集である。数百種に亘る生物を詳細に観察し、かなり多くの種の解剖にも着手している。特に、海洋に生息する生物の記述は詳細なものである。また、鶏の受精卵に穴を空け、発生の過程を詳しく観察している。 一切の生物はプシューケー(希: ψυχη、和訳では霊魂とする)を有しており、これを以て無生物と区別されるとした。この場合のプシューケーは生物の形相であり(『ペリ・プシューケース』第2巻第1章)、栄養摂取能力、感覚能力、運動能力、思考能力によって規定される(『ペリ・プシューケース』第2巻第2章)。また、感覚と運動能力をもつ生物を動物、もたない生物を植物に二分する生物の分類法を提示している(ただし、『動物誌』第6巻第1章では、植物と動物の中間にいるような生物の存在を示唆している)。

さらに、人間は理性(作用する理性〔ヌース・ポイエーティコン〕、受動理性〔ヌース・パテーティコン〕)によって現象を認識するので、他の動物とは区別される、としている。

形而上学(第一哲学)[編集]

原因について[編集]

アリストテレスは、かれの師プラトンのイデア論を継承しながらも、イデアが個物から遊離して実在するとした考えを批判し、師のイデアと区別して、エイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念を提唱した。

アリストテレスは、世界に生起する現象の原因には「質料因」と「形相因」があるとし、後者をさらに「動力因(作用因)」、「形相因」、「目的因」の3つに分けて、都合4つの原因(アイティア aitia)があるとした(四原因説)(『形而上学』A巻『自然学』第2巻第3章等)。

事物が何でできているかが「質料因」、そのものの実体であり本質であるのが「形相因」、運動や変化を引き起こす始源(アルケー・キネーセオース)は「動力因」(ト・ディア・ティ)、そして、それが目指している終局(ト・テロス)が「目的因」(ト・フー・ヘネカ)である。存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが、素材としての可能態(デュナミス)であり、それと、すでに生成したもので思考が具体化した現実態(エネルゲイア)とを区別した。

万物が可能態から現実態への生成のうちにあり、質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたものは、「神」(不動の動者)と呼ばれる。

範疇論[編集]

アリストテレスは、述語(AはBであるというときのBにあたる)の種類を、範疇として下記のように区分する。すなわち「実体」「性質」「量」「関係」「能動」「受動」「場所」「時間」「姿勢」「所有」(『カテゴリー論』第4章)。ここでいう「実体」は普遍者であって、種や類をあらわし、述語としても用いられる(第二実体)。これに対して、述語としては用いられない基体としての第一実体があり、形相と質料の両者からなる個物がこれに対応する。

倫理学[編集]

アリストテレスによると、人間の営為にはすべて目的があり、それらの目的の最上位には、それ自身が目的である「最高善」があるとした。人間にとって最高善とは、幸福、それも卓越性(アレテー)における活動のもたらす満足のことである。幸福とは、たんに快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または、人間の霊魂が、固有の形相である理性を発展させることが人間の幸福であると説いた(幸福主義)。

また、理性的に生きるためには、中庸を守ることが重要であるとも説いた。中庸に当たるのは、恐怖と平然に関しては勇敢、快楽と苦痛に関しては節制、財貨に関しては寛厚と豪華(豪気)、名誉に関しては矜持、怒りに関しては温和、交際に関しては親愛と真実と機知である。ただし、羞恥は情念であっても徳ではなく、羞恥は仮言的にだけよきものであり、徳においては醜い行為そのものが許されないとした。

また、各々にふさわしい分け前を配分する配分的正義(幾何学的比例)と、損なわれた均衡を回復するための裁判官的な矯正的正義(算術的比例)、これに加えて〈等価〉交換的正義とを区別した。

アリストテレスの倫理学は、ダンテ・アリギエーリにも大きな影響を与えた。ダンテは『帝政論』において『ニコマコス倫理学』を継承しており、『神曲』地獄篇における地獄の階層構造も、この『倫理学』の分類に拠っている。 なお、かれの著作である『ニコマコス倫理学』の「ニコマコス」とは、アリストテレスの父の名前であり、子の名前でもあるニコマスから命名された。

政治学[編集]

アリストテレスは『政治学』を著したが、政治学を倫理学の延長線上に考えた。「人間は政治的動物である」とかれは定義する。自足して、共同の必要のないものは神であり、共同できないものは野獣である。両者とは異なって、人間はあくまでも社会的存在である。国家のあり方は王制、貴族制、ポリティア、その逸脱としての僭主制、寡頭制、民主制に区分される。王制は、父と息子、貴族制は夫と妻、ポリティアは兄と弟の関係にその原型をもつと言われる(ニコマコス倫理学)。

アリストテレス自身は、ひと目で見渡せる小規模のポリスを理想としたが、アレクサンドロス大王の登場と退場の舞台となったこの時代、情勢は世界国家の形成へ向かっており、古代ギリシアの伝統的都市国家体制は過去のものとなりつつあった。

文学[編集]

アリストテレスによれば、芸術創作活動の基本的原理は模倣(ミメーシス)である。文学は言語を使用しての模倣であり、理想像の模倣が悲劇の成立には必要不可欠である。作品受容の目的は心情の浄化としてのカタルシスであり、悲劇の効果は急転(ペリペテイア)と、人物再認(アナグノーリシス)との巧拙によるという。古典的作劇術の三一致の法則は、かれの『詩学』にその根拠を求めている。

著作[編集]

Aristoteles Louvre.jpg
アリストテレスの著作
論理学:
オルガノン:
範疇論 - 命題論
分析論前書 - 分析論後書
トピカ - 詭弁論駁論
自然学:
自然学 - 天体論
生成消滅論 - 気象論
霊魂論 - 自然学小論集
動物誌
動物部分論 - 動物運動論
動物進行論 - 動物発生論
形而上学:
形而上学
倫理学:
ニコマコス倫理学
大道徳学
エウデモス倫理学
政治学:
政治学
アテナイ人の国制
その他:
弁論術 - 詩学


ウィキクォートにアリストテレスに関する引用句集があります。

アリストテレスは、紀元前4世紀に、アテナイに創建された学園「リュケイオン」での教育用のテキストと、専門家向けの論文の二種類の著作を著したとされているが、前者はいずれも散逸したため、今日伝承されているアリストテレスの著作はいずれも後者の専門家向けに著述した論文である。

現在の『アリストテレス全集(英語版)』は、ロドス島出身の学者であり逍遥学派(ペリパトス派)の第11代学頭でもあったアンドロニコス(英語版)が紀元前1世紀にローマで編纂した遺稿が原型となっている。ただし、プラトンの場合と同じく、この中にも(逍遙学派(ペリパトス派)の後輩達の作や、後世の創作といった)アリストテレスの手によらない偽書がいくつか混ざっている。

ルネサンス期に至り、15-16世紀頃から印刷術・印刷業が確立・発達するに伴い、アリストテレスの著作も様々な印刷工房から出版され、一般に普及するようになった。

現在は、1831年に出版された、ドイツの文献学者イマヌエル・ベッカー(英語版)校訂、プロイセン王立アカデミー刊行による『アリストテレス全集』、通称「ベッカー版」が、標準的な底本となっている。これは各ページが左右二段組み(二分割)になっているギリシャ語原文の書籍である。現在でも、アリストテレス著作の訳文には、「984a1」といった数字とアルファベットが付記されることが多いが、これは「ベッカー版」のページ数・左右欄区別(左欄はa、右欄はb)・行数を表している。

なお、現在『アリストテレス全集』に含まれている作品の内、『アテナイ人の国制』だけは、1890年にエジプトで発見され、大英博物館に引き取られたパピルス写本から復元されたものであり、「ベッカー版」には含まれておらず、その後に追加されたものである。

論理学[編集]
『オルガノン』(古希: Όργανον) 『範疇論』(古希: Κατηγορίαι、『カテゴリー論』とも)
『命題論』(古希: Περὶ Ἑρμηνείας)
『分析論前書』(古希: Αναλυτικων πρότερων)
『分析論後書』(古希: Αναλυτικων υστερων)
『トピカ』(古希: τόποι)
『詭弁論駁論』(古希: Περὶ σοφιστικῶν ἐλέγχων)


自然学[編集]
『自然学』(古希: Φυσικῆς ἀκροάσεως)
『天体論』(古希: Περὶ οὐρανοῦ)
『生成消滅論』(古希: Περὶ γενέσεως καὶ φθορᾶς)
『気象論』(古希: Μετεωρολογικῶν)

生物・動物学[編集]
『霊魂論』(古希: Περὶ Ψυχῆς)
『自然学小論集』(古希: Μικρὰ φυσικά)
『動物誌』(古希: Περὶ Τὰ Ζῷα Ἱστορίαι)
『動物部分論』(古希: Περὶ ζώων μορίων)
『動物運動論』(古希: Περὶ ζώων κινήσεως)
『動物進行論』(古希: Περὶ πορειας ζωων)
『動物発生論』(古希: Περὶ ζωων γενεσεως)

形而上学[編集]
『形而上学』(古希: Μεταφυσικά)

倫理学[編集]
『ニコマコス倫理学』(古希: Ἠθικὰ Νικομάχεια)
『大道徳学』(古希: Ηθικά Μεγάλα、マグナ・モラリア)
『エウデモス倫理学』(古希: Ηθικά Εὔδημια)

政治学[編集]
『政治学』(古希: Πολιτικά)
『アテナイ人の国制』(古希: Ἀθηναίων πολιτεία)

レトリックと詩学[編集]
『弁論術』(古希: τέχνη ῥητορική)
『詩学』(古希: Περὶ ποιητικῆς)

偽書[編集]
『宇宙論(英語版)』(古希: Περὶ κόσμου)
『気息について(英語版)』(古希: Περὶ πνεύματος)
『小品集』
『問題集(英語版)』(古希: Προβλήματα)
『徳と悪徳について(英語版)』(古希: Περὶ αρετων και κακιων)
『経済学(英語版)』(古希: Οἰκονομικων、『オイコノミコス』とも)
『アレクサンドロスに贈る弁論術(英語版)』(古希: Ρητορική προς Αλέξανδρον)

後世への影響[編集]

後世「万学の祖」と称されるように、アリストテレスのもたらした知識体系は網羅的であり、当時としては完成度が高く、偉大なものであった。かれの多岐に亘る学説は、13世紀のトマス・アクィナスによる神学への導入を経て、中世ヨーロッパの学者たちから支持されることになる。しかし、アリストテレスの諸説の妥当な部分だけでなく、混入した誤謬までもが無批判に支持されることになった。

例えば、現代の物理学、生物学に関る説では、デモクリトスの「原子論」「脳が知的活動の中心」説に対する、アリストテレスの「4元素論」「脳は血液を冷やす機関」説等も信奉され続けることになり、中世に至るまでこの学説に異論を唱える者は出てこなかった。

さらに、ガリレオ・ガリレイは太陽中心説(地動説)を巡って生涯アリストテレス学派と対立し、結果として裁判にまで巻き込まれることになった。当時のアリストテレス学派は、望遠鏡を「アリストテレスを侮辱する悪魔の道具」と見なし、覗くことすら拒んだとも言われる。古代ギリシアにおいて大いに科学を進歩させたアリストテレスの説が、後の時代には逆にそれを遅らせてしまったという皮肉な事態を招いたことになる。

ただ、その後の哲学におけるアリストテレスの影響も忘れてはならない。例えば、エドムント・フッサールの師であった哲学者フランツ・ブレンターノは、志向性という概念は自分が発見したものではなく、アリストテレスやスコラ哲学がすでに知っていたものであることを強調している[4]。

エピソード[編集]

ウニ類の正形類とタコノマクラ類がもっている口器をアリストテレスの提灯と呼ぶ。アリストテレスがこの口器の構造を調べて記録していることから、その名がつけられた[5]。

A・E・ヴァン・ヴォークトのSF作品『非Aの世界』のAはアリストテレスのことで、一般意味論から出た言葉である。

1941年からギリシャで発行されていた旧1ドラクマ紙幣に肖像が使用されていた。

脚注[編集]

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1.^ “Behind the Name: Meaning, Origin and History of the Name Aristotle”. behindthename.com. 2011年6月20日閲覧。
2.^ 山本光雄 『ギリシア・ローマ哲学者物語』 講談社〈講談社学術文庫〉、2003年、154頁。ISBN 9784061596184。
3.^ 中畑正志「プラトンとアリストテレス」(『哲学の歴史 第1巻 哲学誕生 〔古代I〕』中央公論社、2008年、p641)
4.^ フランツ・ブレンターノ『経験的立場からの心理学』(Psychologie vom empirischen Standpunkt.)
5.^ 「ところで、ウニの口は始めと終りは連続的であるが、外見は連続的でなく、まわりに皮の張ってない提灯に似ている」(アリストテレース 『動物誌』上、島崎三郎訳、岩波書店〈岩波文庫 青604-10〉、1998年12月16日、p. 174。ISBN 4-00-386011-X。)

形而上学

形而上学(けいじじょうがく、希: μεταφυσικά,羅: Metaphysica,英: Metaphysics,独: Metaphysik)とは、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である[1][2][3]。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根本原因)や、物や人間の存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものについて考える[4]。対立する用語は唯物論である[1]。他に、実証主義や不可知論の立場から見て、客観的実在やその認識可能性を認める立場[1]や、ヘーゲル・マルクス主義の立場から見て弁証法を用いない形式的な思考方法のこと[1]。



目次 [非表示]
1 概要
2 歴史 2.1 古代
2.2 中世
2.3 近世
2.4 現代 2.4.1 分析的形而上学


3 形而下学
4 毛沢東の批判による中国での影響
5 脚注
6 参考文献 6.1 文献情報

7 関連項目
8 外部リンク


概要[編集]

形而上学は、哲学の伝統的領域の一つとして位置づけられる研究で、歴史的には、アリストテレスが「第一哲学」(希:he prt philosophia)と呼んだ学問に起源を有し、「第二哲学」は自然哲学、今日でいうところの自然科学を指していた。

形而上学における主題の中でも最も中心的な主題に存在(existence)の概念があるが、これは、アリストレスが第二哲学である自然哲学を個々の具体的な存在者についての原因を解明するものであるのに対し、第一哲学を存在全般の究極的な原因である普遍的な原理を解明するものであるとしたことに由来する。そして存在をめぐる四つの意味を検討してから存在の研究は実体(substance)の研究であると見なして考察した。アリストテレスの研究成果は中世のスコラ哲学における普遍論争の議論へと引き継がれることになる。近代になるとデカルトはあらゆる存在を神の存在によって基礎付けてきた中世の哲学を抜本的に見直し、あらゆる存在証明の論拠を神の自明な存在から、思推している人間の精神に置き換えて従来の形而上学を基礎付け直そうとした。このような近代的な考え方はバークリーの独我論的な存在論にも認めることができる。バークリーは存在することとは知覚されることであるという原理を示し、唯一確かな実体とは自らの知覚だけだと主張する。ハイデガーの研究は存在が成立する上で不可欠な条件を明確化し、その条件とは自己が存在しなくなる死を問いかけながら自己から脱出(脱自)する自由な存在の在り方をしていることだと論じた。

形而上学では、存在論の他に、神、精神、自由の概念等が伝統的な主題とされ、精神や物質もしくは数や神のような抽象的な事柄が存在するか、また人間という存在は複雑に組み立てられた物質的な体系として定義できるかどうか、などが問われてきた。

形而上学の研究には心理学的、宇宙論的、存在論的、神学的な関心に基づいた研究もあるにもかかわらず、形而上学は哲学的方法に基づいた研究であり、物理学や心理学や生物学といった科学的方法に基づいた自然諸科学や、特定の聖典や教義に基づいた神学と区別される。

歴史[編集]

古代[編集]





アリストテレス
歴史の中で、形而上学的な問題の研究であれば、古代ギリシアに遡ることができる[5]。ソクラテス以前の哲学者と呼ばれる古代ギリシアの哲学者は、万物の根源を神でなく、人によってその内実は異なるにせよ何らかの「原理」(アルケー)に求めたのであって、哲学はもともと形而上学的なものであったともいえる。

ソクラテスやプラトンも、現象の背後にある真の原因や真実在、「ただ一つの相」を探求した。

しかし、形而上学の学問的な伝統は、直接的には、それらを引き継いだ古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『形而上学』に始まる[5]。彼の著作は西暦30年頃アンドロニコスにより整理されたが、その際『タ・ピュシカ』(希: τὰ φυσικά, ta physika、自然(についての書))に分類される自然学的書作群の後に、その探求の基礎・根本に関わる著作群が置かれた。その著作群は明確な名を持たなかったので、初期アリストテレス学派は、この著作群を、『タ・メタ・タ・ピュシカ』(τὰ μετὰ τὰ φυσικά、自然(についての書)の後(の書))と呼んだ。これが短縮され、『メタピュシカ』(希: μεταφυσικά、羅: metaphysica)として定着、後の時代の各印欧語の語源となり、例えば英語では「メタフィジックス」(metaphysics)という語となった。

上記のごとく、書物の配置に着目した仮の名称「meta physika(自然・後)」が語源なのだが、偶然にも、その書物のテーマは"自然の後ろ"の探求、すなわち自然の背後や基礎を探るものであり、仮の名前が意味的にもぴったりであったので、尚更その名のまま変更されずに定着した。[6]アリストテレスの著作物の『形而上学』では存在論、神学、普遍学と呼ばれ西洋形而上学の伝統的部門と現在みなされている三つの部分に分けられた。また、いくつかのより小さな部分、おそらくは伝統的な問題、すなわち哲学的語彙集、哲学一般を定義する試みがあり、そして『自然学』からのいくつかの抜粋がそのまま繰り返されている。
存在論は存在についての研究である。それは伝統的に「存在としての (qua) 存在の学」と定義される。
神学はここでは神あるいは神々そして神的なものについての問いの研究を意味する。
普遍学は、全ての他の探求の基礎となるいわゆるアリストテレスの第一原理の研究と考えられる。そのような原理の一つの例は矛盾律「あるものが、同時にそして同じ点で、存在しかつ存在しないことはありえない」である。特殊なリンゴは同時に存在し、かつ存在しないことはありえない。普遍学あるいは第一哲学は、「存在としての (qua) 存在」を扱う―それは、誰かが何かある学問の個別的な詳細を付け加える前に全ての学問への基礎となるものである。これは、因果性、実体、種、元素といった問題を含む。

中世[編集]

アリストテレスの形而上学は、その後、中世におけるアンセルムスやアクィナスなどによる神学的な研究を経ながら発展してきた。中世のスコラ学では、創造者たる神を万物の根源であるとして、神学的な神の存在証明を前提とし、普遍、存在、自由意思などなどの形而上学的問題を取り扱ったのである。

近世[編集]

近代に入ると、デカルトは、スコラ学的な神学的な神の存在証明を否定し、絶対確実で疑いえない精神を、他に依存せず存在する独立した実体と見、その出発点から、理性によって神の存在(及び誠実さ)を証明するという方法をとった。ジョン・ロックはデカルトの生得説を批判したが、やはり神の存在は人間の理性によって証明できるとした(いわゆる宇宙論的証明)。

これらの大陸合理論、経験論に対して、人間自身の理性的な能力を反省するカントは、神の存在証明は二律背反であるとして理性の限界を示し、理論的な学問としての形而上学を否定した[5]。カントは、その著書『プロレゴメナ』において、それまでの形而上学を「独断論」と呼んで批判し、ヒュームが独断論のまどろみから眼覚めさせたとした。以後、哲学の中心的なテーマは、認識論へと移っていった。

現代[編集]

19世紀から20世紀の現代の形而上学の時代になると、近代に解明された理性と経験の対立を踏まえながら、存在論的な研究が発展することになる。生の哲学を展開したアンリ・ベルクソン、現象学を発展させたハイデガーなどは新しい形而上学の方法論によりながら人間の存在をめぐる意識や社会について研究している[5]。

20世紀前半に活躍したウィーン学団は論理実証主義を奉じ、その立場から形而上学を攻撃した。その代表的論客カルナップは意味の検証理論に則り、形而上学の命題は経験的にも論理的にも検証ができないがゆえに無意味であると主張した。彼によれば、経験的に形而上学で出てくる「存在」や「形相」のような語が用いられている命題の正しさを検証できないし、そのような命題は論理的にも検証できない。彼は分析命題と総合命題の区別に則っており、ここで論理的に検証できるのは分析命題である[7]。

形而上学を定義することの困難の一部は、何世紀も前にアリストテレスの編者に根源的に形而上学的と考えられなかった問題が、次々に形而上学に加えられてきたことにある。また、何世紀にも渡って形而上学的と考えられていた問題が、概して現在、宗教哲学、心の哲学、知覚の哲学、言語哲学、科学哲学といった、その独特の分離した副次的主題へと追いやられている点にある。

分析的形而上学[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。

1970年代以降の、分析哲学の手法を用いて様相、因果性、個体と普遍者、時間と空間、自由意志といった形而上学的主題を扱う哲学を分析的形而上学と称することがある。もともと分析哲学の潮流においても、同一性や決定論のように形而上学的主題は扱われていたが、「形而上学」という呼称は独断的という意味あいをもつネガティブなものだった。この状況が変化した契機には、様相論理学やメレオロジーなど形式的な体系が成功をおさめたことが挙げられる。これによって、可能性や必然性といった現実を超えたことがらを扱う様相の形而上学的理論が登場することになった。可能性や必然性といった様相概念を論じる意義に対しては、形而上学の排斥を掲げた論理実証主義を批判し総合・分析の区別に疑義を呈したクワインも否定的であった。これは、典型的な分析的形而上学者もであり、クワインの弟子でもあるデイヴィド・ルイスが、様相実在論で個体とその集合を基礎に据えた存在論を可能世界にまで拡張したことと対照的である。その他、バークリ研究から出発し科学的世界観と普遍者の実在論の調停を目指したD.M.アームストロングや、現象学の薫陶を受けたロデリック・チザムなど、多様な哲学的背景をもった分析的形而上学者がいるのも特徴的である。

形而下学[編集]

形而下学は、実体のない原理を研究の対象とする形而上学の反対であって、実体のあるものを対象とする応用科学の学問。

『易経』繋辞上伝にある「形而上者謂之道 形而下者謂之器」という記述に依拠すると、「道」は、世界万物の本質、根源であり、形のないもの。その形のないものがいざ実体のあるものに変遷した場合、『易経』はその状態を「形而下」とし、その状態にある物質を「器」と呼ぶ。「道」は「器」の根源であるに対して、「器」は「道」の発展形。

フランシス・ベーコンによれば、学問を形而下学(フィジックス)と形而上学の二つに分け、前者は原因のうち質料因や作用因を探求するものとして、自然・博物学(自然誌)と形而上学の中間に位置づける。形而上学は形相因や目的因を扱うものとしている。ベーコンの自然哲学の見地によれば、形相とは物そのもの、あるいは物の性質を構成する基本的要素としての単純性質のことであって、その数は無限にあるようなものではなく、限定されたものである。いわゆる物理法則のようなものではなく、ましてや「物の魂」とか抽象的な原理というようなものではない。これは自然科学の領域だけのことではなく、判例やコモンローの中にも隠されており、慎重な観察や体系的探求により発見できるとする[8]

毛沢東の批判による中国での影響[編集]

1949年中華人民共和国建国以後、1952年に『矛盾論』[9]の発表につづき、毛沢東はソ連の政治体制への不満が噴出。スターリンなどの路線は、時代と環境の要素を加味できず、マルクス主義の単純コピー(「形而上学」、「教条主義」)だと強く批判した[10]。さらにその直後の文化大革命において、毛沢東語録の一部として「形而上学」という語彙が「唯心論」という意味合いで新聞などで多用された。その影響により、「形而上学」は今日に至るも中国では一般的には貶す言葉として使用されている。

脚注[編集]

1.^ a b c d 『岩波哲学小事典』「形而上学」の項目
2.^ アリストテレスは形而上学を「第一哲学」と位置づけていた。それは個別の存在者ではなく、存在するもの全般に対する考察であり、だからこそ形而上学という語は「meta」と「physics」の合成語として成り立っている。
3.^ 形而上学の「形而上」とは元来、『易経』繋辞上伝にある「形而上者謂之道 形而下者謂之器」という記述の用語であったが、明治時代に井上哲次郎がmetaphysicsの訳語として使用し広まった。中国ではもとmetaphysicsの訳語に翻訳家の厳復による「玄学」を当てることが主流であったが、日本から逆輸入される形で「形而上学」が用いられるようになった。中国語・日本語の漢字をめぐって 牧田英二(講座日本語教育 早稲田大学語学教育研究所 1-Jul-1971 )[1]を参照。メタフィジカについてはメタも参照。
4.^ 竹田青嗣著『中学生からの哲学「超」入門』ちくまプリマー新書、2009年 pp74-76
5.^ a b c d 後掲加藤
6.^ 印欧諸語のmetaphysics、Metaphysikなどの訳語として、日本語をはじめとする漢字文化圏では、「形而上学」を当てており、これは『易経』繋辞上伝の“形而上者謂之道、形而下者謂之器”(形よりして上なる者これを道と謂い、形よりして下なる者これを器と謂う)という表現にちなんだ造語である。印欧語のmetaには、「〜の背後に」のほかにも「〜を超えた」という意味があり、自然を規定する超越者の学という意味では(語源を表現しきれていないことを除いては)学の内容をよくあらわしている。
7.^ 「書評:ヴィクトル・クラーフト「ウィーン学団」-科学と形而上学」大垣俊一(関西海洋生物談話会Argonauta7:20-30.2002)[2][3]
8.^ 「近代産業主義の紀元」黒河内晋(ソシオサイエンスvol.6 2000-3)[4][5]PDF-P.7
9.^ 毛沢東「矛盾論」
10.^ 唯物辩证法终将代替形而上学 −−毛泽东哲学思想浅谈

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神話

神話(しんわ、英:Myth、Mythology)は、人類が認識する自然物や自然現象、または民族や文化・文明などさまざまな事象を、世界が始まった時代における神など超自然的・形而上的な存在や文化英雄などとむすびつけた一回限りの出来事として説明する物語であり、諸事象の起源[1]や存在理由を語る説話でもある[2][3]。このような性質から、神話が述べる出来事などは、不可侵であり規範として従わなければならないものとして意義づけられている[2][3]。

英語のMythology(ミソロジー)には「物語としての神話」と「神話の研究」のふたつの意味がある[4]。例えば「比較神話学」(comparative mythology)は異なる文化圏の神話を比較研究する学問であり[5]、一方で「ギリシア神話」(Greek mythology)とは古代ギリシアの神話物語の体系を指す。単語「myth」は口語にてしばしば「誤った根拠」を指して使われる[6][7]が、学問的に使われる場合は、その真偽を問うことは無い[7][8]。民俗学では、神話とは世界や人類がいかにして現在の姿となったかを説明する象徴的な物語と定義される[8][9][10]が、他の学問分野では単語「myth」の使い方が異なり[10][11][12]、伝統的な説話を広く包括する意味合いを持たせている[13]。

上で触れたように、比喩的な用法では根拠も無く絶対的事実だと思われている事象を例えて用いる言葉[1]にも使われ、「日本の『安全神話』が崩れた」といった例で使われる場合もある。これらは、現実が隠蔽され、人々の考え方や行動が何かしら誤った方向に固定化してしまった「常識」とも言える[14][15]。



目次 [非表示]
1 神話の本質 1.1 典型的な特徴
1.2 神話・伝説・昔話

2 神話の起源 2.1 父権制の成立と神話
2.2 エウヘメリズム
2.3 寓話
2.4 擬人化
2.5 神話と儀式の関係
2.6 神話の変化や統合

3 神話の役割
4 神話の研究 4.1 近代以前の理論
4.2 19世紀の理論
4.3 20世紀の理論 4.3.1 民族学的考察
4.3.2 心理学的考察
4.3.3 その他の考察

4.4 比較神話学

5 「神話」の意味の変化
6 「神話」という語
7 関連項目
8 出典
9 脚注
10 読書案内
11 外部リンク


神話の本質[編集]





ギュスターヴ・モロー1868年作『プロメテウス』。最初のプロメテウス神話はヘシオドスの証言にあり、それはアイスキュロスの筆と思われる悲劇的な三部作形式に纏められた。神話の共通テーマ「火」を代表する物語である[16]。
典型的な特徴[編集]

神話の主要登場人物は神や超自然的なヒーローが多い[17][18][19]。支配者や聖職者は神話を神聖なものとして是認し、宗教と密接に関係させることがあり[17]、そのような社会では神話は遠い昔の「真実の物語」とみなされる[17][18][20][21]。実際に、多くの社会では古い物語を二つ、1)「実話」である神話 2)「嘘の話」である寓話、に区分している[22][23]。神話は一般的に、世界が現在の形をなす前の根源的な時代のことを描写し[17]、そこで世界がどのようにして今の有り様となったか[8][9][10][24]、そしてさまざまな習慣や社会組織、さらに禁忌がどうして成り立ったかを説明する[17][24]。

神話・伝説・昔話[編集]

神話はストーリーを持つ物語の形式で、人間を取り巻く様々なものについての過去の出来事を語る。このようなモチーフは伝説や昔話でも扱われるが、これらと神話とは密接に関連するものの学問用語として明瞭に区分されている[2][25]。

神話は始原的な出来事を伝えるものに対し、伝説・昔話は過去のある時点の出来事について語られる。また、単一の事象を伝える点では神話と伝説は似ており、伝説は神話同様真実を伝える物語と受け取られるが[17]、基本的に固有名詞を持つ人物を主人公とし、その活躍した場所も限定され、時代も世界がほぼ現在のように様相が固まった後を舞台とする[17]ため歴史的記載に近く、神話のような広い対象の根源になるものではなく、神聖的性格も帯びてもいない[2]。主人公も神話のような神や超人ではなく、あくまで人間が主役となっている[17]。

昔話は異なる時と場所で何度か起こった出来事の典型を表す話であり、真実を表現したものではないか、もしくは神聖な物語ではないものと認識される[2][17]。例えば『桃太郎』も、鬼退治はどこででも起こりうる争乱の数ある一つと捉えることが出来るため、神話とも伝説とも異なる性格を持つ[2]。

神話・昔話・伝説の3つは伝統的な古い説話を区分する手段に用いられる[26]が、これを物語る各文化では必ずしも厳密な線引きが出来ている訳ではない[2][27]。文化圏によっては神話と伝説に明瞭な差異を持っていないところもあれば[28]、ひとつの同じ説話についても、ある集団はそれを真実と捉えてそれゆえ神話と考え、別の集団は虚構と捉えてそれは昔話と考えるような場合もある[29][30]。神話が宗教の一部に組み込まれたような状態では昔話的な特徴が強調されて、登場人物も人間の英雄や巨人や妖精などへ再解釈されてしまう[18]。

ただし神話・昔話・伝説は伝統的な古い説話を分類するほんの一部分でしかなく、これら以外にも逸話やジョークのようなものもある[26]。さらには古い説話そのものも民俗学の一分野でしかなく、他にも舞踊や伝統装束、音楽など多岐に渡る[30]。

神話の起源[編集]





インド神話の女神カーリー。男性側観念から見た女性の暗い面としてドゥルガーから分離したものとみなされる[31]。
父権制の成立と神話[編集]

神話と墳墓のシンボルとの関係を調べたJ・J・バッハオーフェンは、1861年の著作『母権制』にて、神話は母権制社会が父権制へ変遷する過程で構築されたと論説した。その段階を、初期の乱婚制母系社会から一夫一妻制を経て大地母神・デーメーテール型の母権へと変わり、やがて古代ギリシア・ローマを典型とする父権優位型神話体系が成立したと述べた[32][33]。ここには根底に、母親は自ずと母親たりえるが、父親がアイデンティティを持つには説明が不可欠で、この主張のために神話が創られたという[34]。

この背景が影響し、神話の女神や女性に見られる性質には、男性側の観念が反映した要素がある。ひとつはギリシアのアルテミスやインドのドゥルガーのような豊穣がある。ただしそこには単に恵みをもたらすのみならず、全てを呑み込むような過剰な部分も併せ持つ[31]。他にも処女と母親という相反する性質の同居があり、日本のアマテラス、ギリシアのアテーナーそしてキリスト教の聖母マリアらがこの例に当たる。これも男性が女性に抱く理想[35]が反映し、後に難しい理屈をつけたものと言える[31]。

エウヘメリズム[編集]

詳細は「エウヘメリズム」を参照

ひとつの理論として、神話とは歴史的な出来事が歪められて説明されたものという考えがある[36][37][38]。これによると、語り部が歴史的な出来事を繰り返し何度も詳述するうちに、登場人物が神格化され神話が成立したという[37][38]。例えば、風の神アイオロスの神話は、ある王が臣下に帆を使い風を読むよう命令した故事が発展したものという解釈がある[37]。紀元前5世紀のヘロドトスとプロディコスも同様の主張をしており[38]、このような考え方は紀元前320年頃の小説家で、ギリシア神話の神々は人間の伝説が変化したものと主張したエウヘメロス(en)にちなみエウヘメリズムと言う[38][39]。

寓話[編集]

神話は寓話を元にしているという説がある。それによると、アポローンは火、ポセイドーンは水と言った具合に自然現象を扱う寓話が神話に変化したという[38]。また哲学的概念や霊的概念を表す寓話を元にした神話もあり、例えばアテーナーは賢明な判断、アプロディーテーは願望を示すという[38]。19世紀のサンスクリット文献学者のフリードリヒ・マックス・ミュラーは神話の寓話的理論を纏め、当初神話は自然を語る寓話として形成されたが、やがて文字通りに解釈するようになったと主張した。例えば、「raging」という表現は元々は海が「荒れ狂う」ことを表現していたが、これがやがて海を司る神の「激怒する」性格を現すようになったと言う[40]。

擬人化[編集]

いくつかの考察によれば、神話は無生物や力の擬人化という説もある。それによれば、古代の崇拝は炎や空気などの自然現象に向けられ、徐々にこの信仰対象が神に変化したという[41]。例えば、神話的思考論(en)によれば古代人は何を見るにしても単なる物ではなく人格を帯びているという見方を持っていたという[42]。したがって自然現象はそれぞれの神の所業であると考え、その思考が神話形成へ繋がったと主張している[43]。

神話と儀式の関係[編集]

神話と儀式の関連を解説した神話‐儀式理論[44]の極端な説では、神話とは儀式を説明するために作られたという[45]。聖書学者のウィリアム・ロバートソン・スミス(en)によって提唱された[46]この主張では、古代人が何らかの目的を持って儀式を始めた時には神話とは何ら関係が無かった。しかし時が過ぎ元々の目的が忘れ去られたときに、人々はなぜ儀式を行うかを説明するために神話を創り出し、それを祝するためという理由で儀式を行うようになったという[47]。人類学者のジェームズ・フレイザーも似通った説を唱え、古代人の信仰は人智が及ばぬ法則を信じることで始まり、やがてそのような感情を失ってしまった際に神話を創り出し、それまで行っていた魔術的な儀式を、神を鎮める儀式にすりかえたと主張した[48]。

しかし現在では、神話と儀式の関係には普遍的な判断をつけずそれぞれの民族ごとに判断すべきという意見で一致している。儀式が先行し後に神話が作られたというフレイザーらの説を立証する証拠はほとんど見つからず、逆にアメリカインディアンのゴースト・ダンスの例のように神話が先行して存在し、儀式は神話の補強として発達する例が多い[2]。

神話の変化や統合[編集]

神話は民族や文化を単位に生まれる。古代、小規模であったこれらの単位は征服や統合を通じて集合し、やがては国家単位の大きな統一的文化・文明へと発展した。これに伴い神話も段階的にまとまり、体系付けられた。松村武雄はこれら神話の統合された構成について、「横に展開」と「縦に展開」とに分類し、前者の例としてギリシア・ゲルマン・ケルトなど西ヨーロッパの神話が網のように存在する状態を示し、後者の例として日本の天孫系神話を挙げている[49]。

中国の神話はこのような体系化がなされず断片的・孤立的なところを特徴とするが、個別の神話の中には三皇五帝に見られる3つの異なる大洪水があるように「横に展開」や「縦に展開」に相当する箇所もある。これらは、神話が固定化した時期に当該地域がどのような政治的・文化的な体系を成していたかが影響し、中国は例外的に神話が統合されない傾向にあった可能性が考えられる[49]。

神話の役割[編集]





ケンタウロス。獣性と人間性がせめぎ合う象徴。
神話が担う役割のうち最も重要なものは、行動規範を定めることにある[50][51]。神話の中で語られる象徴は、時に道徳的な解説を含む出来事の結果を示す場合がある。人間と動物の特徴を合わせ持つような登場人物はまさに人間の典型として描き出される。例えばケンタウロスは人間男性の上半身と馬の下半身を持つが、人間部分は合理性を象徴し、動物部分は野性的本能を表す。この特異な姿は、人間心理が動物的本能に脅かされる状態を意味する[52]。この例は、神話の価値は文化的または精神的な根拠の憶説を述べる点にあるだけでなく、道徳的な解釈が成り立つ象徴群を描写するところにもある。その時には必ずしも神の説話を登場させる必要は無く、何らかの概念を具現化する象徴が示されれば良い。例えば、ギリシア神話では鳩は「権力」や「肥沃」、犬の悪い意味は「死者」があり、神話概念を引継ぐ詩集『変身物語』では熊は「自然の変化」を象徴する[52]。

近代以前、人生体験は宗教や物語的な宇宙観と密接に関係し、切り離すことができなかった。それは、当時の宗教とは「入信するもの」ではなく、人生のすべての面において存在し、宗教や物語的宇宙観は人生そのものを構築していたことを示す[53]。この時代、神話はいわゆる「宗教的な体験」を提供する一翼を担った。神話物語は人を現実社会から切り離して神話の時代へ誘い、神聖なるものに触れる機能を持った[20][51][54]。事実、神話時代の状況を再現しようと試みる社会も存在し、そこでは現実社会に生きる人間に原初の時代に存在した神の癒しをもたらそうとしている例もある[55]。この背景には、人間の道徳を定義するものではない技術と直面する科学に対して、「宗教的な体験」は過去の徳目への理解に繋がる指向性がある点が挙げられる[56]。

神話の機能では、神話そのものと神話時代の観念とを区分することは重要である。クロード・レヴィ=ストロースは、神話とは科学と同様に、意識的人間と自然との間にある関係から自ずと導き出されたものと示した。文化は、例えば陰湿な者を蛇に喩えたように、人間のふるまいを表現するために神話学的存在を設けた。それが、時が経つにつれて「蛇男の神話」へと変貌した。しかしながら、神話時代の観念とは、現代的視点からすると紛う方無く虚構であり、人類が神話を編み出す以前のいかなる時間軸上に存在していない[57]。

神話の研究[編集]

歴史的に神話研究の重要な取り組みは、ジャンバッティスタ・ヴィーコ、フリードリヒ・シェリング、フリードリヒ・フォン・シラー、カール・グスタフ・ユング、ジークムント・フロイト、リュシアン・レヴィ=ブリュール、クロード・レヴィ=ストロース、ノースロップ・フライ、ソヴィエト流派、神話‐儀礼理論派らによってもたらされた[58]。本項では、神話解釈のトレンドを解説する。異なる神話の比較検証については比較神話学(en)を参照願う。

近代以前の理論[編集]

神話の批判的解釈はソクラテス以前の哲学者まで遡ることが出来る[59]。エウヘメロスは初期の重要な神話学者であり、彼は歴史的事実の変質が神話となったと唱えた。プラトンは『パイドロス』にてこれを批判し、この神話学門分野をソクラテスの言として「恐ろしく奇妙でぎこちなく、全く巧妙さが無い」と述べている。プラトン派ではより深く包括的な洞察が行われた。例えばサルティウス(en)[60]は神話を5つの種類に分けた。神学的、物理的(または自然の法則との関連)、アニマスティック(または魂との関連)、物質的そしてこれらの混合である。この分類は最終的に2-3に纏め直されたが、この考え方は神話研究の嚆矢となった。

プラトンが『国家』にて詩人が語る神話は教育上害悪だという主張(詩人追放論)を展開した事は有名だが、その一方で多種類の神話を著作中に引用した。その後のプルタルコス、ポルフュリオス(en)、プロクルス(en)、オリュンピオドロス(en)、ダマスキオス(en)らプラトン派の思想家も伝統的な神話やオルペウス神話の象徴を明白に解釈する著述を行った[61]。

ルネッサンス期には多神教の神話へ再び関心が向けられ、16世紀には『Theologia mythologica』(1532年)のような神話に関する書籍が著された。

19世紀の理論[編集]

神話を扱う学究的理論は19世紀後半に提示された[59]。この時代の考えでは神話は失われたり時代遅れであったりする思考として扱われたが、一方で神話は近代科学に相当する原始的な概念という解釈も行われた[62]。この頃の研究手段には、歴史学、文献学、民族学的手法が持ち込まれた[2]。特にインド・ヨーロッパ語族の比較言語学進展に伴ってこの言語を用いる地域の各神話が研究され、もっぱら言語学的要素を重視した神話研究が進展した[2]。

E.B.タイラー(en)の解釈では、神話とは、人智の及ばぬ自然の法である自然現象を文章として説明する試みだったと言い、それはやがてアニミズムに繋がる無生物に霊魂を見出す[63]古代人の試みと考えられた[64]。テイラーは、このような人間の思考が様々な段階を踏んで神話的な解釈から科学的な考察へ進歩したと主張した。これにはあまり同調する学者はおらず、リュシアン・レヴィ=ブリュールは「原始的な知性というものは人の精神状態そのものであり、歴史的な発展をする段階などではない」と反駁した[65]。

フリードリヒ・マックス・ミュラーは神話を「言語疾病」[63]と呼び、抽象的表現や中性的に捉える概念が言語上で充分に発達していなかったために創られた、そのため擬人的な何かに語らせたり、自然現象そのものを神のような意思を持つ存在と認識するような手段で概念を捉え言語化したと考えた[66]。ただし今日では、この理論はあまり重要視されていない[2]。

人類学者のジェームズ・フレイザーは、神話とはそもそも自然の法則を誤訳した魔術的な儀式をさらに誤って解釈したものとみなした[67]。彼は、人間は不可思議な事象を客観的な魔術的法則とみなし、それが願望を聞き届けるような性格ではないと判ると自然法則とみなすことを諦め、なにかしらの神が自然を制御していると思うようになり、それが神話への傾倒に繋がったと主張した。この過程において、伝統的に行われてきた儀式を神話の出来事の再現する行動だと再解釈して続けるようになるとも述べた。しかし最終的に人類は、自然とは自然の法則に従っているのだと認識し、そして科学を通じてその法則を見つけるようになり、神話は時代遅れなものへと押しやられてゆくと言い、フレイザーはこの一連の過程を「魔法に発し、宗教を通じて科学へ至る」と表現した[48]。また彼は世界中に数ある神話の部分類似点に着目し、進化論的な普遍化を施した。ただしこれは強引な手法との批判がなされた[2]。

この頃には、科学の発展に伴って神話は近代科学思想の洗礼を受けざるを得なくなった。その結果、神話はそれ自体の信憑性を失うことになった[68]。19世紀後半には社会文化的進化論を基礎に置き、神話は未開状態の習俗から発生したものとみなすアンドルー・ラングなどが現れた[2]。

20世紀の理論[編集]

20世紀に入ると、前世紀の神話研究における主要な考えであった神話と科学の対立という見方は否定された。一般に、「20世紀の理論は、神話を時代遅れの疑似科学とはみなさない傾向にあり、科学を理由に神話を無視するようなことはしない」と述べてられている[68]。神話研究にも構造主義人類学や心理学からのアプローチが行われた[2]。この潮流は、レオ・フロベニウスなどドイツの民族学者たちが世界中の神話を収集し、分布や文化史上の意義を定めたことが貢献した[2]。

民族学的考察[編集]

神話収集に寄与したドイツの民族学者らは前時代的解釈に縛られていたが、これを進める役割をアードルフ・イェンゼンが担った。彼は農作物の始原を語る神話の一種「ハイヌヴェレ型神話」と初期栽培民文化の関連性に、さらに儀礼のタイプを考慮に加えてひとつの一貫した世界像を洗い出した。この世界像を基礎に据えて初めて、各神話や儀礼を正確に解釈できるとイェンゼンは主張した[2]。

ヘルマン・バウマンはイェンゼンと逆の手法で神話を解釈した。彼は各創世神話に見られる宇宙観に着目した。このような世界観を構築するには、それぞれの文化がある程度発達していなければならず、バウマンは過去の研究者が未開状態の人類が創った神話から順を追ったのに対し、高い文化社会の神話を分析の対象とした。これによって、高文化地域の神話が周辺の未開社会へ影響を与えることが明らかとなった[2]。

心理学的考察[編集]

スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングを筆頭に、世界の神話には背景に心理学的なものがあるという考えを置いた理解も進んだ。ユングは、すべての人間は生まれながらの心理的な力(psychological force)を無意識に共有する(集合的無意識)と主張し、これを「元型」(archetypes)と名づけた。彼は、異文化間の神話に見られる類似性から、このような普遍的な原型が存在することを明らかにできると考え[69]、この元型が表現された一つの形態が神話だと論じた[70]。

ジョーゼフ・キャンベル(en)は、人間心理を洞察した中で、人の生き方に応用できるものを神話から得られると主張した。例えば、キャンベルが主張するところによると神話第一の機能は「神秘な存在に対する畏敬の念を想起させ支持させる」ことにあり[71]、さらに「各個人に自己の精神を現実的に秩序づけるよう導く」ことに役立つと言及した[72]。

ユングやキャンベル同様、クロード・レヴィ=ストロースも神話は心の有り様を反映したものだと唱えた。ただし彼は、この有り様とは無意識や衝動ではなく明確な精神機構、特に対立する神話素の組み合わせである二項対立[73]があると考えた[74]。

ミルチャ・エリアーデは『神話と夢想と秘儀』や『The Myth of the Eternal Return』の付記に、現代人が感じる不安は神話や神聖なるものの拒絶に帰すると論じた。

その他の考察[編集]

ハンス・ブルーメンベルクは、神話には「威嚇(Terror)」と「詩情(Poesie)」という互いに背反する二つの機能が対立する構図を取ると分析した。前者は人間社会が有する制度や規範または抑圧などをイメージさせる物語を提示し、それを強制させる機能を言う。後者は生命本来が持つ自然性や原初の話にある自由さを提示し、世界を人間の相似をして認識させ、人間の精神を高める想像をもたらす機能を意味する。ブルーメンベルクはこの二つの機能が対立するのではなく、「距離(Distanz)」を持ちながら共存すると言い、具体的には「威嚇」を感じ取りながらそこから適度に離れた位置で「詩情」を感じ取る構造が神話の特色と言及した[75]。





古いベルギー紙幣。ケレース、ネプトゥーヌス、ケーリュケイオンが図柄に使われている。
比較神話学[編集]

詳細は「比較神話学」を参照

異なる文化における神話を比較する学問を比較神話学という[5]。その主題は各神話の中にある類似性を見つけ出すことにあり[5]、そこから神話に流れる共通の基礎的部分を見出そうとする試みである。この基礎的な部分とは、例えばある同じ自然現象に直面した各民族が意図せず似通った神話を創り出すような場合にありうる、普遍的な発想の源、もしくは多様な神話に分岐する大元の「神話の種」(protomythology)とみなされる可能性がある[5]。

19世紀には、神話解釈において比較神話学的手法が活発になり、その普遍性探求が行われた[76]。しかし現代、このような比較検討の手法には研究者から疑問も提示され、神話の普遍性に囚われるべきではないとの意見もある[77]。この傾向に抗う例のひとつはジョーゼフ・キャンベル(en)の『千の顔を持つ英雄』(en)であり、この中でジョーゼフは、全ての神話上の英雄には基本的に同じパターン(ヒーローズ・ジャーニー)が見られるという。このモノミス(en)理論は神話研究の主流派には認められていない[77]。

「神話」の意味の変化[編集]

神話は、古代ギリシアにおいてはミュトスとして伝えられ、ホメーロスの『イーリアス』『オデュッセイア』、ヘシオドスの『神統記』『仕事と日』などのように、霊感を受けた詩人が神々の行為を権力者に語る歌の形式となった。これらは神が人に真実を語る力関係の基、聞き手である強者・男性的価値観に副うようにつくられていた。それに対しロゴスは説明する言葉であり、弱者が強者に使う、多少の嘘を含みながらも説得力を持たせることを目的としていた[78]。

これが、現在用いられるミュトス=真実ではない「虚構」、ロゴス=知性や理性に裏打ちされた「真理」へ逆転した転換点は、ギリシア民主制の誕生にある。市民が話し合いながら政治を進める体制では、必要な議論は神がかった詩人の言葉ではなく、理性や知性を働かせ、相手を説得する言葉でなければならない。これを背景に、ロゴスこそが真実という概念が固められ、相反してミュトスが虚偽の意味合いを持つようになった[78]。

「神話」という語[編集]

日本の古典には、「神語(かんがたり)」という語はあるが、「神話」という語はない。これは明治20年代に、英語の「myth」を「神話」と訳した事で用いられる様になった翻訳漢字であり、中国や朝鮮の古典にもない言葉である[79]。これは、本来、神話と呼ばれるものが語られるものであって、文字によって書き残される様になったのは後である為とされる。したがって、神話という語は近代から用いられる様になった比較的新しい語である。

関連項目[編集]
一般創造神話、大洪水、伝承、建国神話、神話学、エラノス会議、非神話化神話の原型文化英雄、死神、地母神、ヒーロー、死と再生の神、天空神、太陽神、トリックスター地域の神話日本神話、ユーカラ(アイヌ神話)、朝鮮神話(檀君神話)、中国神話、インド神話、アラビア神話、イラン神話、バビロニア神話、メソポタミア神話、ウガリット神話、ギリシャ神話、ローマ神話、ケルト神話、ゲルマン神話、スラヴ神話、北欧神話、フィンランド神話、旧約聖書、エジプト神話、マヤ神話、アステカ神話、インカ神話、ハワイ神話一覧神の一覧、伝説の生物一覧遺跡イリオス、イス (伝説都市)、瓜生島、ヘイアウ、御嶽 (沖縄)、チャシその他クトゥルフ神話、神楽、加上説

女神

女神(めがみ)とは、女性の姿を持つ神のこと。

解説[編集]

多神教においては、往々にして神にも性別が存在し、そのうち女性の神を女神と称する。対して男性の神を男神(おがみ)と呼ぶ。

美しい若い女性や、ふくよかな体格の母を思わせる姿のものが多い。中にはモイライの様な年老いた女神や、カーリーの様な恐ろしい姿の者もいる。大地や美や性愛を司る神は、各地においてたいてい女神である。それらは往々にして母性と結びつけられ、まとめて地母神と呼ばれる。

神に人間のような性別があるかどうかは議論や研究の対象であり、神には性別が無いとする立場からは、単に外見が人間の女性に酷似する神とされる。

当然ながらアブラハムの宗教のような一神教においては、唯一の存在である神には性別は存在せず、従って女神も存在しない。

一方、フランス革命以降のフランスにおいては、キリスト教から脱する考えにおいて、信仰の対象ではなく単なる象徴として、女神が奉られた(自由の女神)。またヨーロッパの多神教時代の民話などを、近代以降に翻案するにあたっても、具体的な神から単なる女神へと置き換えられる場合が多い(金の斧など)。

日本神話(高天原神話)における役割[編集]

性差が存在することによって、一神教のような男性優位の社会を主張する流れとは異なる物語の形成に繋がっている。例として、イザナギ・イザナミの婚姻譚において、男から先に声をかけなかったために失敗したといった流れがあり、一見すると男性優位の物語として語られているように見えるが、その後、産まれた男神であるヒルコを廃し(流し)、女神たるヒルメを立てているところは女性優遇といえるものであり、河合隼雄は著書『中空構造日本の深層』において、男性優位と女性優位の物語を交互に語らせることで、カウンターバランスを成立させ、男女が互いに欠点を補い合うことで安定化を図っているとした社会思想を神話によって語らせているとしている(アマテラスとスサノオの「清い心を示す勝負」では、スサノオ=男神を勝たせている)。一種、女神の存在は、一方の性を優遇するといった一辺倒な社会の否定に繋がっている。

『神皇正統記』に「陽神(おかみ)陰神(めがみ)」と表記されているように、陰陽思想の下では女神は「陰」に比定される(『神統記』内では陰神の表記が度々用いられている)。また、日本では女神の呼称の他に「姫神(ひめがみ)」という言葉を用い、これに対して男神を「彦神(ひこがみ)」と呼称する(『広辞苑 第六版』岩波書店より)。

関連項目[編集]
神話 日本神話
ギリシア神話
ローマ神話
エジプト神話
北欧神話
ゲルマン神話
ケルト神話
スラヴ神話
フィンランド神話
中国神話
朝鮮神話
インド神話
イラン神話
バビロニア神話・メソポタミア神話
マヤ神話
アステカ神話
インカ神話
クトゥルフ神話 - 怪奇小説家ラヴクラフトの著作を源流とする怪奇小説上の創作神話。多くの怪奇小説家が関与している。

宗教 多神教

神の一覧
自由の女神像

日本の神の一覧

日本の神の一覧(にほんのかみのいちらん)は、日本神話および神道の神や民俗信仰の神、その他の日本の宗教の神および日本に土着した外国の神の一覧である。

ただし、仏教由来の神(-如来、-菩薩、-明王、-天)や習合神(-明神、-権現)はここには加えないので仏の一覧を参照。
項目の見方神名(読み)(別表記、別名):⇒纏り(備考)
下記の項目分けは便宜的なものである。神名の表記や読み方は一例であって同じ神でも様々な表記があることに注意すること。また、命(…のみこと)、尊(…のみこと)、神(…かみ、…のかみ、しん、じん)などの神号の部分は基本的に省略する。グループにある神(例:宗像三女神)などは括らず各カテゴリに並べる。神の数え方は「-柱(はしら)」。編集の際には、ただ神命を記載するだけでなく“:”の後に簡単な紹介(祀られる神社や出典文献)を記載しておくと後の修正に困らない。


目次 [非表示]
1 日本神話由来の神 1.1 あ行 1.1.1 あ 1.1.1.1 あま・あめ

1.1.2 い・う・え・お

1.2 か行
1.3 さ行
1.4 た行
1.5 な行
1.6 は行
1.7 ま行
1.8 や行
1.9 ら行・わ行

2 陰陽道(道教)の神
3 民俗信仰の神
4 主な人神、現人神 4.1 日本人
4.2 外国人

5 琉球の神
6 アイヌのカムイ
7 新宗教/その他の神
8 日本の神に付随する用語集
9 関連項目


日本神話由来の神[編集]

あ行[編集]

あ[編集]
青沼馬沼押比売神(あおぬまぬおしひめ)
赤城大神(あかぎ)
浅間大神(あさま)
阿加流比売(あかるひめ)
飽咋之宇斯能(あきぐいのうしの)
秋比売神(あきびめ)
秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびおとこ)
阿久斗比売(あくとびめ)
阿邪美都比売命(あざみつひめ)
阿邪美能伊理比売命(あざみのいりびめ)
足柄之坂本神(あしがらのさかもと):坂の神 
味耜高彦根神、阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこね)
葦那陀迦神(あしなだか) :「古事記」にみえる女神。 大国主神の妹。
足名稚命、脚摩乳命(あしなづち):⇒脚摩乳・手摩乳
葦原色許男神(あしはらのしこお):⇒大国主
阿須波神(あすは)
阿曇大浜(あずみのおおはま):阿曇(あずみ)氏の祖
吾田媛(あたひめ)
阿比良比売命、吾平津媛(あひらひめ、あひらつひめ)
熱田大神(あつた):⇒天叢雲剣(草薙剣)・三種の神器
阿曇磯良(安曇磯良)(あづみのいそら)
姉倉比売(あねくらひめ)
穴戸神(あなと)

あま・あめ[編集]
天津国玉神(あまつくにたま)
天津久米命(あまつくめ)
天津彦根命、天津日子根命(あまつひこね)
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえず):⇒鵜葺草葺不合
天津日高日子番能迩迩芸命(あまつひこひこほのににぎ):⇒瓊瓊杵
天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみ):⇒火遠理
天津日高彦瓊瓊杵尊(あまつひたかひこににぎ):⇒瓊瓊杵
天津日高彦火火出見尊(あまつひたかひこほほでみ):⇒火遠理
天津麻羅(あまつまら)
天津甕星(あまつみかぼし)
天照御魂神(あまてるみたま) :⇒天火明、天照大神、饒速日など諸説ある
天照大神(あまてらす):⇒三貴子
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命 (あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ):⇒饒速日
天知迦流美豆比売神(あましるかみづひめ)
天石門別神、天石戸別神(あまいわとわけ)
天活玉命(あめのいくたま)
天宇受売命(あめのうずめ)
天表春命(あめのうわはる)
天之忍男(あめのおしお)
天之忍許呂別(あめのおしころわけ)
天忍日命(あめのおしひ)
天之忍穂耳命(あめのおしほみみ)
天之尾羽張神(あめのおはばり)
天迦久神(あめのかく)
天香山命(あめのかぐやま)
天香語山命(あめのかごやま):⇒天香山命
天之久比奢母智神(あめのくひざもち)
天之闇戸神(あめのくらと)
天児屋根命(あめのこやね)
天之狭霧神(あめのさぎり)
天探女(あめのさぐめ)
天之狭土神(あめのさづち)
天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)
所造天下大神(あめのしたつくらしし):⇒大国主
天下春命(あめのしたはる)
天手力男命(あめのたぢからお)
天種子命(あまのたねこ)
天之都度閇知泥神(あめのつどへちぬ)
天之常立神(あめのとこたち)
天鳥船神(あめのとりふね)
天羽槌雄命(あめのはづちお)
天一根(あめのひとつね)
天比登都柱(あめひとつはしら)
天日照命(あめのひでり)
天夷鳥命(あめのひなどり):⇒建比良鳥命
天日腹大科度美神(あめのひばらおおしなどみ)
天日槍命、天之日矛(あめのひぼこ)
天日鷲命(あめのひわし)
天之吹男神(あめのふきお):⇒家宅六神
天両屋(あめふたや):⇒両児島
天太玉命(あめのふとだま):⇒布刀玉命
天之冬衣神(あめのふゆきぬ)
天火明命(あめのほあかり)
天穂日神、天之菩卑能命(あめのほひ)
天目一箇神(あめのまひとつ)
天之御影神(あめのみかげ)
天之甕主神(あめのみかぬし)
天道根命(あめのみちめ)
天若日子、天稚彦(あめのわかひこ、あめわかひこ)
天之水分神(あめのみくまり):⇒水分神
天御虚空豊秋津根別(あめのみそらとよあきつねわけ)
天之御中主神(あめのみなかのぬし)
天八意思兼(あめのやごころおもいかね):⇒思兼神(おもいかね)
荒河刀弁(あらかとべ):紀国の国造
淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけしま)
沫那芸神(あわなぎ)
沫那美神(あわなみ)
阿波神(あんば)

い・う・え・お[編集]
伊古奈比刀iいこなひめ)
伊古麻都比古神(いこまつひこ)
伊古麻都比賣神(いこまつひめ)
伊弉諾尊、伊耶那岐命(いざなぎ)
伊弉冉尊、伊耶那美命(いざなみ)
石凝姥命(いしこりどめ)
伊豆山神(いずさんじん):⇒火牟須比(ほのむすひ)、伊弉諾尊(いざなぎ)、伊弉冉尊](いざなみ))
伊須流伎比古(いするぎひこ)
伊勢津彦(いせつひこ):『伊勢国風土記』逸文に見える神
五十猛神(いそたける、いたける)
市杵嶋姫神(いちきしまひめ):⇒宗像三神
一目連神(いちもくれん):⇒天目一箇神
伊豆那姫命(いづなひめ)
伊豆能売(いづのめ)
稲背脛命(いなせはぎ):天穂日神の子
葦夜神(いや)
五百箇磐石尊(いおついわむら)
磐裂神・根裂神(いはさ・ねさく)
磐筒男神(いはつつのを)
磐筒女神(いはつつのめ)
石土毘古神(いわつちびこ):⇒家宅六神
石巣比売神(いわすびめ):⇒家宅六神
磐長媛命(いわながひめ)
宇迦之御魂神(うかのみたま)
鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえず)
保食神(うけもち)
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢ)
蛤貝比売、宇武賀比売命(うむぎひめ、うむかひめ):⇒蛤貝比売・蚶貝比売
表筒男命(うわつつのお):⇒住吉三神
宇比邇神・須比智邇神(うひぢに・すひぢに)
榎本神(えのもと)
淡海之柴野入杵(おうみのしばぬいりき)
大麻比古命(おおあさひこ)
意富斗能地神・大斗乃弁神(おおとのぢ・おおとのべ)
大雷(おおいかづち、おほいかつち):⇒八雷神
意富加牟豆美命(おおかむづみ)
大口真神(おおぐちまがみ)
大国主命(おおくにぬし)
大事忍男神(おおごとおしお)
大綿津見神(おおわたつみ):⇒ワタツミ
大気津姫神(おおげつひめ)
大年神(おおとし):⇒年神
大戸日別神(おおとひわけ):⇒家宅六神
大直毘神(おおなおび):⇒直毘神
大己貴神(おおなむち):⇒大国主
大日孁貴神(おおひるめ):⇒天照大御神
大禍津日神(おおまがつひ):⇒禍津日神
大宮能売神(おおみやのめ):⇒八神殿
大物忌神(おおものいみ)
大物主神(おおものぬし)
大屋都比賣神(おおやつひめ):⇒大屋都姫・都麻津姫
大屋毘古神(おおやびこ):⇒家宅六神・五十猛神
大山咋神(おおやまくい)
大山祇神(おおやまつみ)
淤加美神(おかみ)
奥山津見神(おくやまつみ)
思金神(おもいかね)
淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神(おもだる・あやかしこね)

か行[編集]
軻遇突智(かぐつち)
風木津別之忍男神(かざけつわけのおしお):⇒家宅六神
春日神(かすが)
家宅六神(かたくろくしん)
金屋子神(かなやこ)
金山彦神(かなやまひこ)
金山姫神(かなやまひめ)
神大市姫神(かみおおいちひめ)
神直毘神(かみなおび):⇒直毘神
神皇産霊神(かみむすび)
賀茂建角身神(かもたけつぬみ):⇒八咫烏
賀茂玉依姫(かもたまよりひめ):⇒玉依姫
迦毛大御神(かも):⇒阿遅鉏高日子根神
賀茂別雷神(かもわけいかづち)
加夜奈留美、賀夜奈流美(かやなるみ)
韓神(から)
鹿屋野比売神(萱野姫神)(かやのひめ)
蚶貝比売、枳佐加比売命(きさがいひめ、きさかひめ):⇒蛤貝比売・蚶貝比売
木祖神(きのおや):⇒杉原大神
木俣神(きのまた)
吉備津彦(きびつひこ)
吉備津媛(きびつひめ)
金鵄(きんとび、きんし):⇒八咫烏
久延毘古(くえびこ)
久久能智神(くくのち)
菊理媛神(くくりひめ)
櫛磐間戸神(くしいわまど)
櫛玉命(くしたまのみこと):⇒饒速日命
櫛名田姫神(くしなだひめ)
櫛真智命(くしまち)
九頭龍大神(くずりゅう)
国之闇戸神 (くにのくらと)
国之狭霧神 (くにのさぎり)
国之狭土神 (くにのさつち)
国之常立神(くにのとこたち)
国之水分神 (くにのみくまり):⇒水分神
熊野速玉男神(くまのはやたまのお):熊野速玉大社
熊野牟須美神(くまのふすみ):熊野那智大社
熊野久須毘命(くまのくすび)
闇淤加美神、闇龗神(くらおかみ)
闇御津羽神(くらみつは)
闇山津見神(くらやまつみ)
黒雷(くろいかづち、くろいかつち):⇒八雷神
家都御子神(けつみこ):熊野本宮大社
苔牟須売神(こけむすめ)
巨勢姫明神、巨勢祝(こせのひめ、こせのほおり、こせのはふり)
事解之男神(ことさかのお)
事代主神(ことしろぬし)
木花咲耶姫神(このはなさくやひめ)
木花知流姫神(このはなちるひめ)

さ行[編集]
賢彦名神(さかしなひこな)
折雷(さくいかづち、さくいかつち):⇒八雷神
福井神(さくいのかみ)
辟田彦、杉原彦(さくたひこ、すぎはらひこ):⇒杉原大神
辟田姫(さくたひめ):⇒杉原大神
猿田彦(さるたひこ)
佐保姫(さほひめ)
寒川比古命(さむかわひこ)
寒川比女命(さむかわひめ)
塩土老翁(しおつちのおじ)
磯城津彦命(しきつひこ)
思子淵神(しこぶち):⇒七シコブチ
下照姫神(したてるひめ)
志那都比古神(しなつひこ)
級長戸辺命(しなとべ):⇒志那都比古神
白山比盗_(しらやまひめ):⇒菊理媛神
杉原大神(すぎはら)
少彦名神(すくなひこな)
須佐之男命、素盞嗚尊(すさのを):⇒、三貴子
須勢理毘売命(すせりびめ)
住吉三神(すみよし):⇒住吉大神
諏訪大明神、須波大明神(すわ)
瀬織津姫命(せおりつひめ)⇒祓戸大神
底筒男命(そこつつのお):⇒住吉三神
ソソウ神:⇒諏訪大神

た行[編集]
高淤加美神、高龗神(たかおかみ)
高皇産霊神(たかみむすび)
高照姫神(たかてるひめ)
湍津姫神(たぎつひめ)
田心姫神(たごりひめ)
健磐龍命(たけいわのたつ)
建葉槌命(たけはづち)
建比良鳥命(たけひらとり)
建御雷之男神 (たけみかづちのお)
武水別神(たけみずわけ)
建御名方神 (たけみなかた):⇒諏訪(須波)大神
建御名方富命彦別神 (たけみなかたとみのみことひこがみわけ)
竜田姫 (たつたひめ)
手力男命 (たぢからお):⇒天手力男命
玉祖命(たまのおや)
玉依姫神(たまよりひめ)
千鹿頭神(ちかと):⇒諏訪大神
撞榊厳魂天疎向津姫命(つきさかきいつみたまあまさかるむかつひめ)
月読命(月読尊、月弓尊、月夜見尊)(つくよみ、つくゆみ、つきよみ):⇒三貴子
角杙神・活杙神(つぬぐい・いくぐい)
土雷(つちいかづち、つちいかつち):⇒八雷神
都麻津比賣神(つまつひめ):⇒大屋都姫・都麻津姫
手名稚命、手摩乳命(てなづち):⇒脚摩乳・手摩乳
年神、歳神、大年神、御年神、若年神、大歳神、正月様、恵方様、歳徳神(とし)
豊受比売(とようけひめ)
豊雲野神(とよくもの)
豊玉姫神(とよたまひめ)
豊日別大神(とよひわけ)

な行[編集]
ないの神(地震の神)
丹生都姫(にうつひめ)
中筒男命(なかつつのお):⇒住吉三神
泣沢女神(なきさわめ)
鳴雷(なるいかづち、なるいかつち):⇒八雷神
饒速日命(にぎはやひ)
邇邇芸命(ににぎ)
奴奈川姫(ぬなかわひめ)

は行[編集]
波自加弥神(はじかみ)
八幡神(はちまん、やはた)
埴安神(はにやす)、埴山姫神(はにやまひめ)
祓戸大神(はらえど)
早池峰大神(はやちね)
比佐津媛(ひさつひめ)
一言主神(ひとことぬし)
火之迦具土神(ひのかぐつち):⇒軻遇突智
比売大神(姫大神)(ひめ)
蛭子神(ひるこ)
伏雷(ふすいかづち、ふすいかつち):⇒八雷神
経津主神、布都努志命(ふつぬし)
布刀玉命、太玉命(ふとだま)
火遠理命(ほおり)
火須勢理命(ほすせり)
火照命(ほでり)
火雷大神(ほのいかづち):⇒八雷神
火牟須比・火産霊(ほむすび):⇒軻遇突智

ま行[編集]
御食津神(みけつ):⇒八神殿
三島神(みしま)
溝咋姫神(みぞくいひめ)
道俣神(みちまた):⇒岐の神
罔象女神(みづはのめ)
御年神(みとし):⇒年神
水内神(みのち)
水光姫(みひかりひめ)
武塔神(むとう)

や行[編集]
八重事代主神(やえことしろぬし):⇒事代主
矢川枝姫命(やがわえひめ)
八雷神(やくさのいかつち)
八坂刀売神(やさかとめ)
八十禍津日神(やそまがつひ):⇒禍津日神
八咫烏(やたがらす)
八束水臣津野命(やつかみずおみつぬ):⇒国引き神話
倭大国魂神(やまとおおくにたま)
山彦、山幸彦(やまひこ、やまさちひこ):⇒火遠理命
八意思兼神(やごころおもいかね):⇒思兼神

ら行・わ行[編集]
若雷(わかいかづち、わかいかつち):⇒八雷神
若宇加能売神(わかうかのめ)
稚日女尊(わかひるめ)
和加布都努志能命(わかふつぬし)
稚産霊(わくむすび)
別雷大神(わけいかづち、わけいかつち):⇒賀茂別雷命

陰陽道(道教)の神[編集]
黄幡神(王番神、おうばん):⇒八将神
河伯(かはく)
関聖帝君(かんせいていくん):⇒関帝
玄武(げんぶ):⇒四神、十二天将
騰蛇(とうだ):⇒十二天将
六合(りくごう):⇒十二天将
天空(てんくう):⇒十二天将
天后(てんこう):⇒十二天将
大裳(たいも・たいじょう):⇒十二天将
勾陣(こうじん):⇒十二天将
金神(こんじん)
歳刑神(さいけい、さいぎょう):⇒八将神
歳殺神(さいさつ、さいせつ):⇒八将神
歳破神(さいは):⇒八将神
十二天将(じゅうにてんしょう)
寿老人(じゅろうじん)
神農(しんのう)
朱雀(すざく)⇒四神、十二天将
青龍(せいりゅう)⇒四神、十二天将
鍾馗(しょうき)
青面金剛(しょうめんこんごう)
太陰神(たいおん):⇒八将神、十二天将
大金神(だいこんじん)
太歳神(たいさい):⇒八将神
大将軍(だいしょうぐん):⇒八将神
天一神(てんいち、てんいつ):⇒十二天将、中神、方位神
歳徳神(としとく)
白龍(はくりゅう)
八将神(はっしょうじん)
姫金神(ひめこんじん)
白虎(びゃっこ)⇒四神、十二天将
豹尾神(ひょうび):⇒八将神
風神(ふうじん)
福禄寿(ふくろくじゅ)
方位神(ほうい):⇒方角神
巡金神(めぐりこんじん):⇒金神
雷神(らいじん)

民俗信仰の神[編集]
アラハバキ神(荒脛神)
淡島明神(あわしま)
石神(いし):⇒磐座・神体、(しゃくじん・しゃくじ):⇒道祖神
犬神(いぬがみ)
宇賀神(うがじん)
姥神(うばがみ)
浦島太郎(水江浦島子)
うわばみ
胞衣神(えながみ):後産の神
えびす(戎、夷、胡、恵比寿、恵比須、蛭子)
鬼(おに)
おしら様
蚕神
河童(かっぱ)
座敷小僧(ざしきこぞう)
座敷童子(ざしきわらし)
シーサー
志多羅神(しだらがみ)
七福神(しちふくじん)
辰子姫(たつこひめ)
付喪神(九十九神)(つくもがみ)
天狗(てんぐ)
天道(てんとう)
天女(てんにょ)
天白神(てんぱく)
道祖神(どうそじん)
ビリケン
貧乏神(びんぼうがみ)
船霊(ふなだま)
疱瘡神(ほうそう)
ミシャグジ(みしゃぐじ様)※別称、別表記は数百種あるため割愛
洩矢神(もりや、もれや)屋敷神(やしきがみ)
疫病神(やくびょうがみ)
夜刀神(やとの)
屋根神(やね)

主な人神、現人神[編集]

日本人[編集]
青木昆陽
足鏡別王(あしかがみわけのみこ)
安倍晴明
天押帯日子命(あめのおしたらしひこ):⇒天足彦国押人命
在原業平
安徳天皇:⇒水天宮
安閑天皇
五十鈴姫神(いすずひめ)
磐鹿六雁命(いわかむつかり)
上杉謙信
応神天皇:⇒八幡神
大石良雄ほか赤穂浪士
大江元就(毛利元就)
太安万侶:多坐弥志理都比古神社
織田信長
弟橘媛(乙橘媛、おとたちばなひめ)
小野道風
小野篁
間宮林蔵、最上徳内、松浦武四郎ら開拓神社の諸祭神
柿本人麻呂
桓武天皇
菊池武時
菊池武重
北畠親房
北畠顕家
楠木正成(大楠公)
楠木正行(小楠公)
栗林忠道ほか硫黄島守備隊
継体天皇
児玉源太郎
坂上苅田麻呂(苅田比古)
坂上苅田麻呂の后(苅田比売)
坂上田村麻呂
高望王
西郷隆盛
西郷従道
佐伯鞍職
坂本龍馬
佐倉惣五郎
三条實美
相馬師常
早良親王(祟道天皇)
四条山蔭中納言藤原政朝
聖徳太子 :聖徳太子神社
大国豊知主命(島津義久)
精矛厳健雄命(島津義弘)
島津斉彬
昭和天皇
神功皇后:⇒住吉神、八幡神
神武天皇:(神倭伊波礼琵古命・神日本磐余彦尊・かむやまといわれひこ)
崇徳天皇
菅原道真(天満神、天神、菅原道真):⇒火雷大神
仙台四郎
大正天皇
平将門
建稲種命(たけいなだね)
高津姫
高杉晋作
武田信玄
田道間守(たぢまもり)
橘周太
梅岳霊神(立花道雪)
松陰霊神(立花宗茂)
瑞玉霊神(立花ァ千代)
武振彦命(伊達政宗)
東郷平八郎
徳川家康
高譲味道根之命(徳川光圀)
豊臣秀吉(豊臣秀吉)
中山忠光
鍋島直正
新田義貞
二宮尊徳
乃木希典
仁康親王:⇒雨夜尊(あめや)
稗田阿礼(ひえだのあれ):賣太神社・稗田神社
平田篤胤
広瀬武夫
藤原鎌足
藤原秀郷
藤原時平
藤原師賢
前田利家
松平慶永
水戸光圀
聡敏大明神(水野勝成)
源満仲
源義家
源頼光
源頼朝
明治天皇
昭憲皇太后
毛利敬親
和気清麿
和気広蟲
山内豊信
日本武尊
倭姫(やまとひめ)
結城宗宏
吉田松蔭
靖国神社に祀られる軍人・軍属を主とする246万6532柱(2004年10月17日現在)の英霊
軍神
六芸神(ろくげい)

外国人[編集]
高麗若光
鄭成功
林浄因
ジョン・キャンベル(靖国神社) :⇒常陸丸事件
ロベルト・コッホ(北里神社)

琉球の神[編集]
天帝
あまみく(阿摩美久)、あまみきよ、しねりきよ、あーまんちゅ
あーまん
キンマモン

アイヌのカムイ[編集]

カムイは、アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在である。
コタンカラカムイ
コタンコロカムイ(カムイチカプ)
フリ
パヨカカムイ
アペフチカムイ(火の神様)
キムンカムイ(山の神様;一般的にヒグマを指す。キンカムイとも。)
ウェンカムイ(悪の神様;一般的に人間を襲うヒグマを指す。キムンカムイが変化したもの。)
レプンカムイ(沖の神様;一般的にシャチを指す。)
オキクルミ(オキキリムイ)

新宗教/その他の神[編集]
教派神道系 天地金乃神(てんちかねのかみ)- 金光教
艮の金神(うしとらのこんじん)- 大本教

諸派系 天理王命(てんりおう)=親神(おやがみ)- 天理教
大光明主神(みろくおおみかみ)- 世界救世教系諸教団の多く
御親元主真光大御神(みおやもとすまひかりおおみかみ)- 真光系諸教団の大部分


日本の神に付随する用語集[編集]
荒神(あらかみ、あらがみ、こうじん)
市神(いち):⇒神大市姫神・大宮能売神・市杵嶋姫神など
井戸神(いどがみ):⇒木俣神・水神
稲荷神(いなり)
氏神(うじがみ)
厩神(うまやがみ)
海の神:⇒海神(わたつみ、うながみ、かいじん)
陰陽道(おんみょうどう)
竃神(かまど)
御霊信仰(ごりょうしんこう)
古神道(こしんとう):ここでは外来宗教が入る前の原始神道を差す。
別天つ神(ことあまつ)
金精神(こんせい)
地主神(じぬしの、ぢぬしの)
神代七代(じんだいしちだい、かみよななよ)
水神(すい)
造化三神(ぞうかさんしん)⇒別天つ神
祖神:⇒氏神(そしん)
祖霊信仰(それいしんこう)
祟り神(たたり)
田の神(た)
岐の神 (ちまた)
鎮守神 (ちんじゅ)
天神様(てんじんさま)
道教(どうきょう) 
独神(ひとりがみ)
人神(ひとがみ)
仏神(ぶっしん):⇒仏の一覧
御子神(みこ)
ミサキ神:⇒八咫烏
三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのじんぎ)
御酒殿神(みさかどののかみ)
三貴子(みはしらのうずのみこと)
四至神(みやのめぐり)
民間信仰(みんかんしんこう)
宗像三神(むなかた)
厄神(やく)
屋敷神(やしき)
屋根神(やね)
山の神(やまの)
ヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智、八俣遠呂知)
龍神(りゅう、たつ):⇒竜

主 (宗教)

主(しゅ)は、宗教上の用語である。



目次 [非表示]
1 アブラハムの宗教 1.1 英語のLord
1.2 キリスト教の用例

2 ヒンドゥー教
3 その他の宗教
4 各言語の主
5 「ぬし」
6 関連項目
7 脚注


アブラハムの宗教[編集]

アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)での主は、神(ヤハウェ / アッラーフ)を指す。キリスト教の場合は特に、神またはイエス・キリスト(救世主イエス・キリスト)または聖霊を指す(三位一体も参照)。

英語のLord[編集]

英語圏では、多くのキリスト教徒の聖書(ジェイムズ王訳等の)で、ヘブライ語の名前 יהוה (ラテン文字化: YHWH)は、 LORD (en:All caps) または Lord (スモールキャピタル)が当てられている。英語での最初期の用法は、ベーダ・ヴェネラビリスのようなイギリスの聖書の翻訳者による。

この用法は、声に出して読み上げる時に、יהוה (YHWH) の代わりに口語のヘブライ語の言葉 אֲדֹנָי / יְהֹוָה / Adonai / アドナイ(「私の主」を意味する)を読み上げるユダヤ教徒の実践に従っている。ニュー・アメリカン・スタンダード聖書 (en:New American Standard Bible) は、次のように説明している。
「まだもうひとつの名前がある。特に彼の格別で正式な名前として当てられている。それは、神聖な4文字YHWH (יהוה)(出エジプト記 3:14 と イザヤ書 42:8)。この名前は、ユダヤ教徒に発音されてこなかった。偉大で不可侵の神聖な名前であることへの畏怖があるためである。このようにして、それは一貫してLord(スモールキャピタル)と英語訳されてきた。YHWH (יהוה) の英語訳の唯一の例外は、その主の言葉のすぐ間近にあり、それは、Adonai(אֲדֹנָי / יְהֹוָה / アドナイ)である。その場合、それは混乱を避けるため規則的にGod(スモールキャピタル)と英語訳される。」[1]
ヘブライ語での実践に従って、七十人訳聖書は専らギリシア語の言葉Κύριος(ラテン文字化: Kyrios、キュリオス、「主」を意味する)を、יהוה (YHWH) の翻訳に使っていた。原始キリスト教の旧約聖書の時、キリスト教徒による神聖な名前を「主」 (Lord) とした翻訳の実践は、直接それに由来する。

キリスト教の用例[編集]
主イエスの変容
正教会#十二大祭 主の割礼祭
主の迎接祭 (en:Presentation of Jesus at the Temple)
主のエルサレム入城(聖枝祭)
主の昇天祭
主の顕栄祭(主の変容祭)
主の洗礼祭
主の降誕祭(クリスマス)

主日 枝の主日(受難の主日)
棕櫚の主日
赦罪の主日
復活の主日

音楽 主よ御許に近づかん - 賛美歌。
主イエス・キリスト、汝こよなき宝 - 交声曲。バッハ作品主題目録番号113番。
主よ、深き淵よりわれ汝を呼ぶ - 交声曲。バッハ作品主題目録番号131番。

主の十字架クリスチャン・センター - カリスマ派の教会団体。
主、憐れめよ(キリエ)
主の祈り
q:アウグスティヌス#『告白』 - ウィキクォートにてアウグスティヌスによる「主」に関する引用句。
en:Lord Bishop - アングリカン・コミュニオンの主教。

ヒンドゥー教[編集]

ヒンドゥー教の、バガヴァーン(ヒンディー語: भगवान 英語: Bhagavan)という称号は「主」と日本語に訳される。ヒンドゥー教の神学で、多神教の神々の唯一神的な側面を表現するため、スヴァヤン・バガヴァーン(バガヴァーン御自身、Svayam Bhagavan、主)が使用される。バガヴァーンは、「幸いなる者」の意味で、神の尊号として使用されるが、バガヴァーン・クリシュナのように使用されるとき、「主クリシュナ」と日本語では呼ばれる。

「三神一体」も参照

その他の宗教[編集]
バアル(ヘブライ語: בעל‎ アラビア語: بعل‎ ラテン文字化: ba‘alu)は、北西セム語の称号で、「主」を意味し、神々や土地の神々の精霊たちに使っていた。いくつかの文献で、その言葉はハダド (en:Hadad) を指す。神々の主であるその名前は僧侶だけが口にすることを許されていた。ヘブライ語聖書 (en:Hebrew Bible) でのバアルを参照すると、預言者エリヤがバアルの僧侶と対立するような時、ハダドよりも土地の神々に言及している[2]。
ベル (en:Bel) は「主」 (Lord) を意味し、バビロニアの神マルドゥクの共通の称号である。
エン (en:En) は「主」 (Lord) を意味し、シュメールの神々エンキ とエンリルを指す。
ギリシア神話に登場するアドーニスは、語源的には、ヘブライ語の「主」と同系列の可能性がある。

各言語の主[編集]
アラビア語: الرب‎(アッ=ラッブ)
ドイツ語: Herr(ヘア)
ギリシア語: Κύριος(キュリオス)
英語: Lord(ロード)[3]
スペイン語: Señor(セニョール)
フィンランド語: Lordi
フランス語: Seigneur(セニュール)
ヘブライ語: אֲדֹנָי / יְהֹוָה(アドナイ)[4]
イタリア語: Signore(シニョーレ)[5] / Domine(ドミネ)[6] / 親しみを込めたイタリア語: Domineddio(ドミネッディオ)
日本語: 主(ひらがな: しゅ カタカナ: シュ)
朝鮮語: 주(チュ) / 韓文漢字: 主(チュ)
ラテン語: Dominvs(ドミヌス) / Domine(ドミネ)[7]
ロシア語: Лорд(ロード)
トルコ語: Lort
中国語: 主(拼音: zhǔ ジュウ)

「ぬし」[編集]

日本神話および神道においては、「主」の読み方は「ぬし」である(そうでない場合もある)。神々や人物の名称に伴われる。

神々の用例としては、天地開闢に現れる天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、大地を象徴する大国主、大国主の子孫である事代主(ことしろぬし)、天之甕主(あめのみかぬし)等がいる。

関連項目[編集]

ウィクショナリーに主の項目があります。
en:Names of God(神の名)
en:Names of God in Judaism(ユダヤ教の神の名)
en:God in Judaism(ユダヤ教の神)
en:God in Abrahamic religions(アブラハムの宗教の神)
天主
ドミヌス

ドミヌス

ドミヌス (Dominus、複数形: Domini、女性形: Domina) は、ラテン語の単語である。ドミナスとカナ表記をする場合もある。マスター (en:Master) または所有権者 (Owner) 、のちに封建領主 (Lord) を意味するようになった。






目次 [非表示]
1 古代ローマから中世ヨーロッパ
2 教会とアカデミー
3 使用法
4 関連項目
5 参考文献
6 脚注


古代ローマから中世ヨーロッパ[編集]

主権の称号として、共和政ローマ下のその用語は、古代ギリシアの僭主の全連合であった。それは初期プリンキパトゥスの間に拒否され、最終的にディオクレティアヌスの治世におけるローマ皇帝の公式の称号になった (284年から 476年のローマ帝国の政治機構が当時運営されていたドミナートゥスの用語が、ここに由来する) 。フランス語で"Sieur" [1] と等価であるドミヌス (Dominus) は、封建制の上位および中間 (en:Mesne) の封建領主への、ラテン語の称号であった。

教会とアカデミー[編集]

ドミヌスはまた、教会あるいは学術の称号である。教会における称号は、英語の"Sir" (サー) に与えられた。それは聖職者の宗教改革以前に共通した接辞であり、例えばウィリアム・シェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』でのSir Hugh Evans (サー・ヒュー・エヴァンス) のそれである。学術分野では、学士号 (en:Bachelor of Arts) 用の称号であり、そのためケンブリッジ大学等の大学で依然使われている。短縮形"Dom" (ドム) は、ローマ教会の司祭への栄誉の接頭語として用いられている。特に、ベネディクト会その他の修道会のメンバーに用いられる。

使用法[編集]

敬称Dom (ドム) はまた、ポルトガルの栄誉の称号であり、かつてブラジルでもそうであった。王室等のメンバーに用いられ、君主により授与された。スペイン語形式"Don" (ドン) もまた称号であり、かつて貴族に限られ適用された。やがて上流階級のどのメンバーにも適用される礼儀と敬意のひとつになった。女性形"Doña" (ドニャ) は同様に、レディーに適用される。イタリア語では、称号Don (ドン) あるいはDonna (ドンナ) もまた、カトリック聖職者の司教および、かつての貴族や南イタリアから区別された人々に指定される。ルーマニア語では、"Domn" (女性形 "Doamna") という言葉は共に中世の統治者の称号であり、名誉のしるしである。

英語で口語"Don"の、大学における特別研究員かカレッジのチューターでの用法の由来は、権限や地位のある者に対するスペイン語の称号としての適用または、学術的なDominus (ドミヌス) の用法としての適応である。オックスフォード英語辞典によると、その言語感覚の最初期の用法は、Souths Sermons (1660年) に出現する。英語の侮蔑的俗語、"Dan" (ダン) 、は最初"Master"同様に敬意の称号としてであった。詩に対する特殊な文学用法は、エドマンド・スペンサーによるDan Chaucer (ダン・チョーサー) という用法によるものである。それは純潔な英語の源泉である。

関連項目[編集]

主 (宗教)
ドミヌス・フレヴィ教会 (en:Dominus Flevit Church) - エルサレムの教会。
教皇
ローマ法
専制公
セプティミウス・セウェルス
ベネディクト会
ドミヌス・イエズス (en:Dominus Iesus) - ローマ教皇庁教理省 (en:Congregation for Catholic Education) 宣言。
ベネディクトゥス・ドミヌス・デウス - 聖歌「主なる神をたたえよ」。

カタルーニャ語

カタルーニャ語(カタルーニャご、català [kətəˈɫa])はスペイン東部のカタルーニャ地方に居住しているカタルーニャ人の言語。よく見られるカタロニア語という表記は地方名の英語名に由来する。インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する。

カタルーニャ地方のほか、バレンシア地方、バレアレス諸島、アラゴン地方のカタルーニャとの境界地域、南フランス・ルシヨン地方(北カタルーニャ)、イタリア・サルデーニャ州アルゲーロ市などに話者がいる。

アンドラ公国では公用語になっており、またスペインではガリシア語、バスク語と並んで地方公用語(カタルーニャ、バレンシア、バレアレス諸島各自治州)となっている。なお、バレンシア地方では同地で話されているこの言語を、カタルーニャ語のバレンシア方言であるか、バレンシア語であるかと言う議論がある。



目次 [非表示]
1 歴史
2 特徴
3 正書法と発音
4 文法
5 言語の独自性と問題
6 関連項目
7 参考文献
8 脚注
9 外部リンク


歴史[編集]

カタルーニャ語は、ピレネー山脈東部の南北両側麓で話されていた俗ラテン語から派生している。ガロ=ロマンス語、イベロ=ロマンス語、北イタリアで話されていたガロ=イタリア語の特徴と原点を同じくする。アラゴン連合王国のレコンキスタによって、カタルーニャ語は南へ西へ広がり、バレンシア州やバレアレス諸島で話されるようになった。15世紀、バレンシア黄金時代にカタルーニャ語文学は頂点に達する。

しかし、ピレネー条約によってフランスへ割譲された北カタルーニャ(ルシヨン)ではカタルーニャ語の公での使用が禁止されてしまう。スペインにおいても、スペイン継承戦争の敗者であったカタルーニャでは、フェリペ5世が布告した新国家基本法によって、行政および教育の場でのカタルーニャ語使用が禁止された。

19世紀末にはカタルーニャ・ルネサンスと呼ばれる文芸復興運動(ラナシェンサ)が起こり、成果を見せた。

ところが、1936年に勃発したスペイン内戦と後のフランシスコ・フランコによる独裁政権により、地方語は激しい弾圧を受け、カタルーニャ語も公的な場から追放、公の場ではFCバルセロナのホームスタジアムカム・ノウ内を除いて一切の使用が禁止され、再び暗黒時代に入る。

フランコ独裁後期、カタルーニャの民俗および宗教行事が再開され、これらの行事の際にカタルーニャ語を使用することが容認された。1975年11月のフランシスコ・フランコの死後、フアン・カルロス国王の治世下でスペインの民主化が進むなか、40年近くの間使用が禁止されていたカタルーニャ語も復権した。

特徴[編集]

言語学的には、ラテン語(より正確には俗ラテン語)から変化したロマンス語の一つで、歴史的関係により、南フランス(オクシタニア)の地方言語であるオクシタン語に近い。エスノローグの分類ではオクシタン語とともにオクシタニー・カタロニア語を構成するとしているが、言語学者にはこの説を支持していないものが多い。他のロマンス語と比較すると、カタルーニャ語には以下の特徴がある。
母音の数が8つと、スペイン語(カスティーリャ語)よりも多い(ちなみに鼻母音は存在しない)。
人名に前置する人称冠詞が存在する。
他のイベロ・ロマンス語同様英語のbe動詞に相当する繋辞動詞として、ser(ésser)とestarを持つが、その使用はカスティーリャ語と若干異なる。
フランス語(オイル語)の en やイタリア語(中央イタリア方言)の ne、あるいはフランス語の y やイタリア語の ci に相当する副詞的代名詞en、hiがある(現代スペイン語には存在しない)。
多くのロマンス語で「行く」を意味する動詞と動詞の不定詞で、近接未来を表す動詞迂言形を構成する(仏語:aller + 動詞の不定詞、西語:ir a + 動詞の不定詞など)が、カタルーニャ語ではanar+動詞の不定詞で過去を表す。
人称代名詞が me や te などではなく em や et(あるいは m'、t')といった、やや特徴的な形になる。

正書法と発音[編集]


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表・話・編・歴
カタルーニャ語アルファベット


母音a /a/
e, è /ɛ/
e, é /e/ /ə/: a, e が強勢のない位置に来ると /ə/ になる。

o, ò /ɔ/
o, ó /o/
o (無強勢部)/u/
u /u/
子音p /p/
b, v /b/: カスティーリャ語とほぼ同じ。母音間で摩擦音化。語末では無声化する。
t /t/ tn, tm; tl, tll: t が鼻音、側面音に同化し、単一の長い子音になる

d: 母音間で摩擦音化。語末では無声化する。また語末で、-ld, -nd, -rds のつづりでは d のみ発音されない。
c(a, o, u の前), qu(e, i の前)/k/
qu(a, o, u の前), qü(e, i の前)/kw/
c(e, i の前), ç(a, o, u の前、語末)/s/
g(a, o, u の前), gu(e, i の前)/g/: 母音間で摩擦音化。語末では無声化する。語末で、さらに n の後にある場合は発音されない。
gu(a, o, u の前), gü(e, i の前)/gw/
g(e, i の前), j(a, o, u の前)/ʒ/
s /s/, 母音間で /z/
母音後の ix /ʃ/
tx, (母音後)ig /tʃ/
tg(e, i の前), tj(a, o, u の前)/dʒ/
n /n/
m /m/
ny /ɲ/
l /l/ l・l: /ll/

ll /ʎ/
r /ɾ/: 語末では発音されないことが多い。
rr /r/

文法[編集]

「カタルーニャ語の文法」を参照

言語の独自性と問題[編集]


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カタルーニャ語の分布図 着色された地域に主に分布する。図上部の黒い太線はフランス、スペイン、アンドラの国境線。図内の細い黒線は州界。図上はフランスピレネー=オリアンタル県、中央がカタルーニャ州、左下がバレンシア州、島部はバレアレス諸島。図中央に引かれた紫色の線によって西カタルーニャ語と東カタルーニャ語の2つの方言に分かれる
日本語母語話者の感覚では、「カタルーニャ語は、スペイン語の方言のひとつである」と理解されてしまうことが多いが、これは、かなり不正確な理解であるといえる。これはロマンス諸語における近代語・国家語の成立過程に関わるものである。

ロマンス諸語は、古代ローマのラテン語が、各地でいわば方言化したのち(俗ラテン語)、同一の古典語・文語(ラテン語)を持つにも関わらず、フランスを筆頭に複数の主権国家が成立する過程で、複数の地域の口語方言が、それぞれに言文一致の近代語および義務教育で教えられる国家語として標準語を確立していった。これは、同一文語圏において、口語でも単一の近代語が確立した日本語や中国語とは対照的であり、「日本語」や「中国語」という場合の概念の内包外延と、「イタリア語」や「フランス語」の概念の内包外延はかなり異なるものとなっている。同じことが、スペイン語においても言える。すなわち、日本語話者にわかりやすい例えでいえば、「カタルーニャ語は、スペイン語の方言の一つである。」というのは「大阪弁は、東京弁の方言のひとつである。」というような奇妙な言説になってしまう。

実際、方言連続体としてのロマンス語の実態は明確で、カタルーニャ語とスペイン語の近似性は85%、イタリア語との近似性は82%であり、日本語の感覚でいえば「方言が複数言語に分立した」状態であるといってもよい。

さらに、カタルーニャはマドリッドに対抗する民族主義の伝統が強く、かつカタルーニャ語は「スペイン語の一方言」ということは、政治的問題をもはらむことになる。

しかし、実際にはスペイン全土で、スペイン語(カスティーリャ語)が国家語として教えられてきており、かつフランコ将軍時代にはこれが徹底された歴史的経緯も持つことから、世界にありふれた共通語と方言のような様相を呈する場面もある。

カタルーニャ語圏で、スペイン語(カスティーリャ語)が通じないということはまずない。しかし、カスティーリャ語は、「マドリッドの中央政府の役人が使う『よそ行きのことば』」であり、「カタルーニャ語はカタルーニャ人が日常使う母語である」という理解がある。

一方、カタルーニャは、スペイン国内でも経済的先進地域であり、カスティーリャやアンダルシアなどのスペイン国内の他地域からの移住者も多いが、彼らはスペイン語を使い、カタルーニャ語を解することが出来ない。さらに、スペイン語はアメリカ大陸で広く用いられているため、米州のスペイン語圏からの移民も、スペイン語は使えてもカタルーニャ語を解さない。このことから、カタルーニャでは、カタルーニャ語は社会的階層の高い富裕な地元民が用いる言語であり、スペイン語は社会的階層の低い貧しい余所者の使う言語である、という理解もある。これに、カタルーニャ独特の事情として、地元企業が従業員採用の際、カタルーニャ語の能力を問うことが多く、さらに拍車をかける。

これらの事情は、大阪における大阪弁と日本語共通語の関係、または上海における上海語と中国語(普通話)の関係とよく似た状態にある。ただし、大阪や上海などと異なり、カタルーニャでは官民挙げたカタルーニャ語使用推奨のバックアップ体制が存在することが大きな相違点である。スペイン語は世界中で話者人口4億2千万を誇る世界有数の言語であり、市場が非常に大きい。そのためスペイン語でのソフトウェアやアニメ吹替えなどが、カタルーニャでも氾濫している。それに対し、言語人口が600万ほどしかないカタルーニャ語圏の人間は、カタルーニャ語でソフトウェアをなかなか手にすることができず、仕方なくスペイン語のソフトウェアを買うしかない場合も多々ある。カタルーニャ州政府は、このような状況に対して、Microsoft Windows や Microsoft Word などのカタルーニャ語版の作成のために、特に補助金を出す意向である。

デウス

デウス(deus, Deus)は、ラテン語(およびポルトガル語・カタルーニャ語・ガリシア語)で神を表す言葉。この語形は男性単数主格であり、厳密には1人の男神を表す。デーウスと発音されることもあるが、ラテン語本来の発音はデウスである。

古典期には男神一般を表す一般名詞 deus だった(ただし古典ラテン語に小文字はなかった)。この意味は「デウス・エキス・マキナ」のような成句で見られる。しかしキリスト教の普及により、固有名詞 Deus で唯一神教の唯一神(通常はキリスト教の神すなわちヤハウェ)を意味するようになった。この使い分けは英語の god/God と同じである。日本語では deus も Deus も通常区別せず「神」と訳す。

日本では戦国時代末期、キリシタンの時代に、キリスト教の神を表す言葉として用いられた。

語源論[編集]

インド・ヨーロッパ祖語の *dyēus 「天空、輝き」に由来する。*dyēus (ディヤウス)はプロト・インド・ヨーロッパ人の多神教の最高神であり、ギリシア語のゼウスやラテン語のデウス、サンスクリットのデーヴァ、古ノルド語のテュール等の語源となった。また「父なる」という添え名を付した形 *dyēus ph₂ter は *Pltwih₂ Mh₂ter 「大地母神」と対をなす呼称で、ラテン語のユーピテルの源となった。

デウスは、ロマンス諸語の単語、たとえばフランス語の dieu、イタリア語の dio、スペイン語の dios、ポルトガル語の deus などを生んだ。英語の deity や divine も、デウスと同根のラテン語の単語に由来する。

デウスは男性単数形であり、女性形(女神)はデア dea、男性複数形(男神たち)はデイ deī またはディ dī、女性複数形(女神たち)はデアエ(古典語ではデアイ)deae となる。

日本のカトリックにおけるデウス[編集]

フランシスコ・ザビエルは来日前、日本人のヤジロウとの問答を通してキリスト教の「神」を日本語に訳す場合、大日如来に由来する「大日」(だいにち)を用いるのがふさわしいと考えた。しかし、これはヤジロウの仏教理解の未熟さによるもので、後に「大日」という語を用いる弊害のほうが大きいことに気づかされることになる。1549年に来日したザビエルたちが、「大日を拝みなさい」と呼びかけると僧侶たちは仏教の一派だと思い、歓迎したといわれている。

やがてザビエルはキリスト教の「神」をあらわすのに「大日」という言葉を使うのはふさわしくないことに気づき、ラテン語デーウスをそのまま用いることにした。「大日を拝んではなりません。デウスを拝みなさい」とザビエルたちが急に言い出したため、僧侶たちも驚いたという。キリシタンの時代、デウスはダイウスともいわれていたため、キリスト教の反対者たちは「彼らが拝んでいるのは大きな臼(大臼)である」「ダイウソ(大嘘)である」といって誹謗したという話が残っている。なお、デウスの語源である上記ディヤウスと大日如来との関連は定かではない。

その後、宣教師たちや日本人キリスト教徒たちの研究によって「デウス」の訳語としていくつかのものが考えられた。それらは「天帝」「天主」「天道」などであり(語源的には天部である)、「デウス」と併用して用いられた。彼らは「神」という言葉は日本の多神教的神を表すもので、自然や動物、人間にすら当てはめられる言葉なのでデウスの訳語にふさわしくないと考えていた。もっとも、本来のラテン語の「デウス」は、上述の通り古代ローマの多神教の神々を表す言葉であり、一部のローマ皇帝、つまり人間が「デウス」に列せられる事もあった。

明治以降に漢文訳聖書の影響を受けた日本語訳聖書がキリスト教の神を「神」と翻訳し、日本の正教会・カトリック教会・プロテスタントのいずれにおいても、これが今に至るまで定着している。

「神#キリスト教における訳語としての「神」」も参照

神(かみ)とは、人間の民族性・地域性・文化・伝統などの歴史的背景を経て、その宗教的風土や伝統的風土の中で醸成された、人知を超えて尊敬・崇拝される存在ないし概念のことをいう。



目次 [非表示]
1 定義
2 漢字の「神」 2.1 初出
2.2 神農

3 神の性質についての様々な考え方
4 多神教と唯一神教の性格
5 唯一神教 5.1 ユダヤ教の神
5.2 キリスト教の神 5.2.1 三位一体
5.2.2 キリスト教における訳語としての「神」

5.3 イスラームの神
5.4 福音書における神

6 多神教 6.1 ヒンドゥー教
6.2 神道
6.3 仏教 6.3.1 仏教における神
6.3.2 ブッダ(仏)と神


7 自然科学との関係 7.1 神の死

8 サムシング・グレート
9 参考文献
10 出典・脚注
11 関連項目
12 外部リンク


定義[編集]

神は、神話や伝説や経典に登場する憧れや尊敬や信仰の対象となる存在である。人知を超えた絶対的存在(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など)、アニミズム的発想で自然界の万物を擬人化(神格化)した存在、神社に祭られている生前優れた業績で名を馳せた人物や祖先、天皇への尊称、優れた能力を発揮する人物、非常にありがたい人やものといった、様々な概念に用いられる語彙であるとされる[2]。

漢字としての「神」には、「不可知な自然の力」「不思議な力」「目に見えぬ心の働き」「ずばぬけてすぐれたさま」「かみ」といった意味が含まれる[1]。古典ギリシア語: "Θεός"、英語: "God"の訳語としても「神」は使われるが、キリスト教における"Θεός"、"God"を中国語訳・日本語訳する際に、「神」をあてることの是非について19世紀から議論がある(後述)。ただしキリスト教化される以前の古代ギリシャ時代の"Θεός"にも、訳語として「神」は用いられている。このように「神」と訳される非日本語言語の概念まで含めれば、その内容は多岐にわたる。

漢字の「神」[編集]

初出[編集]

春秋左氏伝‐荘公三十二年の記載が、漢字の「神」の初出とされる。 「神」は、天文をコントロールし、耕地を与える技術を持っていた聡明で正直な呪術師であったことが記されている[3]。すなわち、ここでの神は、農業指導者として農事暦に天文や気象の周期と作物の関係を記録して種まきの時期を選び、また食物を計画的に収穫・備蓄して人を動員し、興亡を左右した人間のことを説明している。

神農[編集]

漢字の「神」が付せられた最も古い人名は神農(しんのう)である。神農は中国神話や、江戸時代に官学として説かれた道学における三皇五帝の三皇の一人。百草を嘗めて効能を確かめ、諸人に医療と農耕の術を教えたという。神農は炎帝(5500-6000年前)と一体視され、また、炎帝の妻は東海の外れに住み十日を産んだ羲和とされる。

湯島聖堂・神農廟(東京都文京区湯島)湯島聖堂内の神農廟に祀られ、毎年11月23日に「神農祭」が行われる。

薬祖神社(大阪府堺市戎之町)堺天神菅原神社の摂社として少彦名命とともに祀られ毎年11月23日に「薬祖祭」が斎行される。

少彦名神社(大阪市中央区)には少彦名命とともに奉られ、毎年11月22日・23日に「神農祭」が行われる。

百家姓によると、神姓は神農を起源とするとされている。

神の性質についての様々な考え方[編集]

神の性質に関して、その唯一性を強調する場合一神教、多元性を強調する場合多神教、遍在性を強調する場合汎神論が生まれるとされる。ただし汎神論はしばしば一神教、多神教の双方に内包される。また、古代から現在まで神話的世界観の中で、神は超越的であると同時に人間のような意思を持つものとして捉えられてきたが、近代科学の発展と無神論者からの批判を受け、このような神理解を改めるべきという意見も現れている。

世界的に見ると、神を信じている人は多く(アブラハムの宗教だけでも30億人を超える[4])、神に基づいて自身の生活様式を整えている人、"神とともに生きている"と形容できるような人は多い。

人知を超えた存在であると考えられることや、人間や動物のように社会や自然の内に一個体として存在していることは観察できないことから、神の存在を疑う者も多い。神の不在を信じる者は無神論者と呼ばれ、マルクス主義は無神論の立場に立つ。また、実存主義者の一部も無神論を主張する。

また神が存在するかどうかは知りえないことであると考える者は不可知論者と呼ばれる。

神がどのような存在であるかについての様々な考え方は、宗教や哲学などに見ることができる。以下にその主なものを挙げる。これらの考え方がそれぞれに両立可能なのか不可能なのかは個人の解釈にもより、一概には言えない。
造物主(ギリシア語ではデミウルゴス)、第一原因としての神。全ての物事の原因を辿って行った時に、全ての原因となる最初の創造(創世)行為を行った者として、想定される神。
アニミズム(汎霊説)における神。洞窟や岩、山、水(泉、滝)など自然界の様々な物事(あるいは全ての物事)に固有の神。それらの物事に「宿っている」とされる。
守護神、恩恵を与える者としての神。神は祈り、信仰、犠牲などに応じて現世や来世における恩恵を与えてくれる存在であるとする考え方がある。
人格神。神が人と同じような姿や人格を持つとする考え方がある。
現実世界そのものとしての神。この世界のありようがそのまま神のありようであるとする。例えばアインシュタイン[要出典]やスピノザはこのような考え方を採ったことで知られている。汎神論。

多神教と唯一神教の性格[編集]


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この節は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため偏った観点から記事が構成されているおそれがあります。議論はノートの「多神教優越主義」節を参照してください。(2010年12月)

一神教のうち唯一神教では唯一の絶対的な超越者である『唯一つの神』(神以前には何もないとされることが多い)を信じるため、自宗教を絶対化して他の宗教に対して排他的になる側面(例:十字軍、ジハードなど)がある。一方多神教では多数の神を信じる為、他宗教の神を自宗教の神に取り入れやすい側面があるが、異なる思想の宗教に対して排他的な場合もある(廃仏毀釈など)。

多神教や単一神教においては、多数の神が同時に考えられ、しばしば唯一神教の神より人間的で過ちも犯す存在である。自然の存在や現象が神となることもあれば、実在の人間が信仰を集め現人神となることもある。

実在した人を起源に持たない神を以降「自然神」と記述する。自然神には、自然の一部、太陽や山や川、岩や古木などが信仰の対象となる自然信仰であり、しばしば人格を持つ神へと昇華されたもの、あるいは、哲学的概念が神格化されたものなどがある。

実在した人を起源に持つ神を以後「人間神」と記述する。生前に著名な働きをしたり、神との接触を得た人間などが神として信仰されるものである。

日本の神道では有力者が悲痛な最期を遂げ、その後に大きな災害などが起きた場合、その人物を大きく祭りあげる事がある(例:御霊信仰)。災害の原因をその者の怨みにあるとして、祭りあげることで怨みを解消し、さらには災害をもたらした強大な力が自分たちに利益をもたらしてくれることを期待する(祟り(たたり)の神を、逆に守護神へと転化する例)。

なお、多神教と一神教とは必ずしも明確に区分されるものではなく、一神教とされる宗教の中にも多神教的側面があるものは多く、多神教とされる宗教の中にも一神教的側面があるものは多い。

唯一神教[編集]

唯一神教の例としてユダヤ教、キリスト教、イスラム教がある。

いずれも、旧約聖書を経典とし、同一の神を信じている。ユダヤ教においてはモーセの時代にそれ以前の宗教から新しい体系が作り上げられたとされる。ユダヤ教を元に、イエス・キリストの教えからキリスト教が誕生し、さらにムハンマドによってイスラム教が生じた。

これらは唯一神教ではあるが、神以外にも人間を超えた複数の知的存在があることを認めている。天使が代表例であり、人間以上だが神以下の存在である。天使はある時は普通の人の形をして現われたり、人とは違う形をして現われたりする。「神の働き」は神だけが行うことができ、その他の存在は「神にお願いすること、執り成しができる」だけである。聖母マリアへの崇敬も、厳密には敬愛であり、少なくとも教義上では区別している。聖母マリアはお願いをイエス・キリストに伝えてくれる存在ではあるが、神と同等の存在ではない。

またキリスト教では、聖人が特定の地域、職種などを守護したり、特定のご利益をもたらすとするという信仰がある。ただし、キリスト教のなかでもカトリックなどは聖人崇敬を行っているが、プロテスタント諸教派のなかには聖人崇敬を行わない教派もある。また、聖人崇敬を行う教派であっても、崇拝する対象はあくまでも神であり、神ではない聖人は崇敬の対象であり崇拝の対象ではない。イスラム世界ではジンという人間と天使の間に位置する精霊が想定されている(『千夜一夜物語』(アラビアン・ナイト)に登場する魔法のランプのジンが有名)。

実際、一神教内部においても例えばインドのように多神教を信仰している人々と共存している地域だと、一神教の人々も場合に応じて多神教の聖地を崇拝したり神格のようなものを認知することがしばしば行なわれる。無論一神教と多神教が両立不可能かというのは個々人の解釈にもよる問題であり、成文化された教義と現実的な宗教行為が齟齬することも多く、宗教と社会の関係は動態的に捉えなければ単純な図式化に陥る可能性が有る。

ユダヤ教の神[編集]

「アドナイ(ヤハウェ)」も参照

「トーラー」の第1巻「べレシート(キリスト教翻訳では創世記)」第1章では、天地創造の6日目までに登場する神の名は男性名詞複数形のエロヒーム(אלהים)のみである。また、第2章に記された天地創造の7日目もエロヒームのみである。[5]

しかし、第2章における天地創造の詳述では、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」と、エロヒームが併記され、かれらは、草木とイーシュ(男)であるアダム(人)を創造して良し悪しの知識の木から取って食べてはならないと命じ、その後にアダム(人)からイシャー(女)を創造したことが記されている。[6]

また、第三章では、イシャー(女)が蛇に促されて禁断の実を食べアダム(人)にも与えたので彼も食べたために、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」とエロヒームは、蛇がイシャー(女)の子孫のかかとを砕きイシャー(女)の子孫から頭を砕かれるように呪い、イシャー(女)には、苦悩と分娩を増やしに増やし苦痛の中で男児たちを産みイーシュ(男)に支配されると言い渡し、アダム(人)にも、顔に汗して食べ物を得ようと苦しむと言い渡し、土を呪ったことが記されている。そして、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」とエロヒームは、彼らの一人のようになったアダム(人)が命の木からも取って食べ永遠に生きないよう、アダム(人)をエデンの園から追い出し、また、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東に回されている燃える剣とケルビムを置いたことが記されている。[7]

「申命記・詩篇・箴言・知恵の書」などにおいて神を信じる人々のあるべき生き方が示され、サムエル記・列王記・マカバイ記・エステル記などにおいて神を信じた人々の生き方が示される。

なお、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」をそのまま声に出して読まない訳は、「神の名」を唱えてはいけないと伝えられている。

ただし、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」は、次の通り、イスラエルの祭司族であり書紀族でもあるレビ族の嗣業を指す[8]。
口語訳聖書申命記10章9節‐そのためレビは兄弟たちと一緒には分け前がなく、嗣業もない。あなたの神、主が彼に言われたとおり、主みずからが彼の嗣業であった。
新共同訳聖書申命記10章9節‐それゆえレビ人には、兄弟たちと同じ嗣業の割り当てがない。あなたの神、主が言われたとおり、主御自身がその嗣業である。
欽定訳聖書申命記10章9節‐Wherefore Levi hath no part nor inheritance with his brethren; the LORD is his inheritance, according as the LORD thy God promised him.

日本の高等学校公民科の教科書や一般の出版物では、ユダヤ教の神を、ヘブライ文字で「ヨッド・へー(無声声門摩擦音)・ヴァヴ(軟口蓋接近音)・へー(無声声門摩擦音)」という子音で綴られた「יהוה」(エ・ハヴァー)のみとし、その発音をYah・weh[9]のカタカナ読みとして「ヤハウェ」と明記している。しかし、ヘブライ語としての実際の発音は、子音で「ヘット(無声軟口蓋摩擦音)・ヴァヴ(軟口蓋接近音)・ヘー(無声声門摩擦音)」と綴るアダムの妻の名「חוה」(ハヴァー)に非常に近い[10]。カタカナでその発音を表記するのは非常に難しく、「ה」と「ו」と「ח」は、日本語で表記すると「ハ」のヴァリエーションにも聞こえる。なお、このアダムの妻の名は、キリスト教口語訳聖書や新共同訳聖書でエバと表記されているが、日本ではイヴと表記されることも多い。

キリスト教の神[編集]

三位一体[編集]

詳細は「三位一体」および「イエス・キリスト」を参照





アンドレイ・ルブリョフによるイコン『至聖三者』。旧約においてアブラハムを3人の天使が訪れた事を三位一体の神の象徴的顕現として捉える伝統が正教会にはあるが、そのもてなしの食卓の情景を描いたイコンを元に3人の天使のみが描かれたもの。
キリスト教のうち殆ど(正教会[11]・東方諸教会[12]・カトリック教会[13]・聖公会[14]・プロテスタント[15][16][17][18]など)が、「父と子と聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。

伝統的なキリスト教の多数派では、ナザレのイエスはキリストであり、三位一体(至聖三者)の第二位格たる子なる神であり、完全な神でありかつ完全な人であると理解されている[19][20][21][22][23][24][25]。。

三位一体論の定式の確認の多くは、古代の公会議(正教会で全地公会議と呼ばれる一連の公会議)においてなされた。

キリスト教における訳語としての「神」[編集]

「デウス#日本のカトリックにおけるデウス」も参照

カトリック教会においてはかつては「天主」の訳語が用いられていた。プロテスタントには「真神」という用語もあった[26]。隠れキリシタンによるゴッドの訳には、「ゴクラク」「オタイセツ」などがあったという[27]。

[28]漢字である「神」が、ヘブライ語: "אלהים"‎、古典ギリシア語: "Θεός"、英語: "God"の訳語に当てられたのは、近代日本でのキリスト教宣教に先行していた清におけるキリスト教宣教の先駆者である、ロバート・モリソン(Robert Morrison)による漢文聖書においてであった。しかしながら訳語としての「神」の妥当性については、ロバート・モリソン死後の1840年代から1850年代にかけて、清における宣教団の間でも議論が割れていた。この論争は中国宣教史上、"Term question"(用語論争)と呼ばれる。この論争の発生には、アヘン戦争後、清国でのキリスト教宣教の機会が格段に増大し、多くの清国人のためにより良い漢文訳聖書が求められていた時代背景が存在していた。

用語論争において最大の問題であったのは、大きく分けて「上帝」を推す派と「神」を推す派とが存在したことである。前者はウォルター・メドハーストなど多数派イギリス人宣教師が支持し、後者をE.C.ブリッジマンをはじめとするアメリカ人宣教師達が支持した。

こんにちでも、その妥当性については様々な評価があるが、いずれにせよ、和訳聖書の最も重要な底本と推定される、モリソン訳の流れを汲むブリッジマン・カルバートソンによる漢文訳聖書は、「神」を採用していた。殆どの日本語訳聖書はこの流れを汲み[29]、「神」が適訳であるかどうかをほぼ問題とせずに[30]、こんにちに至るまで「神」を翻訳語として採用するものが圧倒的多数となっている。

イスラームの神[編集]

「アッラーフ(الله Allâh)」も参照

旧約聖書の創世記において、アブラハムの子であり異母兄弟であるイサクとイシュマエルがおり、このうちイサクがユダヤ一族の祖である旨の記述がある。イスラームの聖典であるアル=クルアーン(コーラン)にはイシュマエルがアラブ人の祖であるとの記述がある。なお、イシュマエルとはヘブライ語での読み方であり、アラビア語ではイスマーイールとなる。 また、インジール(福音書)に描写されたイーサー(イエス)は神性を有する存在ではなく、ムハンマドやモーセなどのように神の預言者の一人であるとみなされている。

ちなみに、イスラーム信徒に広く使われているアラビア語の中の、神を意味する単語で「アッラーフ」または「アラー」「アッラー」(アラビア語: الله‎ ラテン文字化: Allâh)がある。これは、普通名詞である場合と、固有名詞である場合がある。

福音書における神[編集]

キリスト教、ネストリウス派、イスラム教が教典とする福音書において、「言は神」である。
口語訳聖書ヨハネによる福音書1章1節‐初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
新共同訳聖書ヨハネによる福音書1章1節‐初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
欽定訳聖書ヨハネによる福音書1章1節‐In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

また、このことをトーラーに引くと、主は祭司族として書記を務めたレビ族の嗣業[31]であるゆえに、「主イエス・キリストは神であり、言であり、レビ族の嗣業」であることを意味する。

多神教[編集]

多神教の例として、インドのヒンドゥー教と日本の神道がある。どちらも、別の宗教の神を排斥するより、神々の一柱として受け入れ、他の民族や宗教を自らの中にある程度取り込んできた。日本でも明治の神仏分離令によって分離される以前は、神道と仏教はしばしば神仏や社寺を共有し混じりあっていた。

多神教においても、原初の神や中心的存在の神が体系内に存在することがある。そうした一柱の神だけが重要視されることで一神教の一種、単一神教とされることもあり、その区別は曖昧である。

ヒンドゥー教[編集]

ヒンドゥー教の人間神は、自然神の生まれ変わりであったり、生前に偉大な仕事をなした人であったりする。 現在のヒンドゥー教は、次に挙げる三つの神を重要な中心的な神として扱っている。

シヴァは世界の終わりにやって来て世界を破壊して次の世界創造に備える役目をしている。

ヴィシュヌは、世界を三歩で歩くと言われる太陽神を起源としており、世界を維持する役目がある。多くのアヴァターラとして生まれ変わっており、数々の偉業をなした人々がヴィシュヌの生まれ変わりとしてヒンドゥー教の体系に組み込まれている。仏教の開祖ゴータマ・ブッダも、ヒンドゥー教の体系においてはヴィシュヌの生まれ変わりとされ、人々を惑わすために現われたとされる。

ブラフマー(梵天)は、世界の創造と、次の破壊の後の再創造を担当している。人間的な性格は弱く、宇宙の根本原理としての性格が強い。なお、自己の中心であるアートマンは、ブラフマーと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。

神道[編集]

詳細は「神 (神道)」を参照

本居宣長は「尋常(よのつね)ならず人の及ばぬ徳(こと)のありて、畏(かしこ)きもの」と定義したが、神道においては、神の定義は一義的には定めにくい。教義と言えるようなものを持たず、歴史的経緯により、様々な異質な要素が混在した信仰であるからである。「八百万の神」と言われ「八百万」は数が多いことの例えである。神道は古代律令国家によりその体系が整えられたが、陰陽道や仏教の影響を強く受け、明確な信仰体系を持たない時代が長く続いた。明治期に仏教の影響を排除する神仏分離が行われ、一神教を意識した体系として「国家神道」が再構成されている。これにより、神道における神は天照大神から「現人神」とされる天皇に至る流れを中心として位置づけられた。しかし、この改変は徹底したものではなく、土着的な要素も依然多く残った。第二次世界大戦後、神社神道は国家と分離され、それまで非宗教とされていた神道は宗教として位置づけなおされたが、現在もなお神仏習合・国家神道の名残はそれぞれ強く残り、依然として異質の要素が雑然と混在した信仰である。仏教の影響を受ける以前の神道を「古神道(原始神道)」と呼び区別する場合もある。しかし、明治以降の「国家神道」も、江戸時代に研究が進んだ「古神道」の考え方を多く取り入れて形成された側面がある。

仏教[編集]


仏教

Dharma wheel

基本教義

縁起 四諦 八正道
三法印 四法印
諸行無常 諸法無我
涅槃寂静 一切皆苦
中道 波羅蜜 等正覚

人物

釈迦 十大弟子 龍樹

信仰対象

仏の一覧

分類

原始仏教 部派仏教
大乗仏教 密教
神仏習合 修験道

宗派

仏教の宗派

地域別仏教

インド スリランカ
 中国 台湾 チベット
日本 朝鮮
東南アジア タイ


聖典

経蔵 律蔵 論蔵

聖地

八大聖地

歴史

原始 部派
上座部 大乗
ウィキポータル 仏教

表・話・編・歴


仏教は、本来は神のような信仰対象を持たない宗教であった。原始仏教は煩悩から解放された涅槃の境地に至るための実践の道であり、超越的な存在を信仰するものではなかった。現在は神と同じ様に崇拝されている開祖のゴータマ・シッダルタも、神を崇拝することを自分の宗教に含めず、また自身を神として崇拝することも許さなかった。

時代が下るにつれ、ゴータマらの偉大な先人が、悟りを得たもの(仏)として尊敬を集め、崇拝されるようになり、仏教は多神教的な色彩を帯びていく。仏教にはヒンドゥー教の神が含まれ、中国の神も含まれ、日本に来ては神道と混ざりあった。仏教が様々な地域に浸透していく中で、現地の神々をあるいは仏の本地垂迹として、あるいは護法善神として取り込んだのである。したがって、仏教も一部の宗派では神を仏より下位にあって仏法を守護するものと位置づけ、ある面では仏自体も有神教の神とほぼ同じ機能を果たしている。

日本の神社で弁財天として祭られている神も、そもそもは仏教の護法神(天部の仏)として取り込まれたヒンドゥー教の女神サラスヴァティーであり、仏教とともに日本に伝わったものである。これはやがて日本の市杵島姫神と習合した(神仏習合、本地垂迹説)。

仏教における神[編集]


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この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2012年6月)

仏教を考える場合、釈迦の教えとそれを継承していった教団のレベルと、土着信仰を取り込んだ民衆レベルとを混同しないで、それぞれについて議論する必要がある。

釈迦は、人間を超えた存在としての神に関しては不可知論の立場に立ち、ヴェーダーンタの宗教を否定・捨てた人であるという主張もある。一方で、釈迦は人間を超えた存在(非人格的)を認めており、ただ単にその理解の仕方がキリスト教やヒンドゥー教などの人格神とは異なるだけという意見もある。

浄土真宗の親鸞は、日本の神を拝むことを禁止し、和讃で、俗人が「鬼・神」を崇めるのを嘆いている。このため、浄土真宗では神棚を祭らない。[独自研究?]

同様に、現代日本では仏教はもっぱら霊魂の永遠不滅を前提とした葬式を扱う宗教と見られることが多いが、元々仏教では死後も残る魂(アートマン)のようなものを否定する立場であり、ここにおいても民衆の信仰の形とは大きな差異がある(釈迦は、自己の魂(アートマン)が死後も残るのかとの議論に対し、回答をしない(無記)という態度をとり、この態度は、アートマンが残り輪廻するというヴェーダーンタの宗教を拒否しているとも受け取れる)。

なお、「梵天の勧請」の神話には、釈迦が悟った後、「悟りは微妙であり、欲に縛られた俗人には理解できない。布教は無駄である。」として沈黙していたので、神(デーバ)の一人梵天(ブラフマン)が心配してやって来て「俗人にもいろいろな人がいるので、悟った真理を布教するよう」に勧めて要請し、釈尊がそれを受け入れたという物語などが残っている。

一方、民衆レベルでは、仏もこの記事で扱うところの広い意味での「神」の一種であるといえる。日本では死亡を「成仏」と、死者を「仏」と呼称するに至る。この場合の仏とは、参拝し利益を祈願する対象であって、かつての原始仏教でそうであったような「教えを学び、悟る・覚醒する」という対象ではない。ただし、日本における仏は、キリスト教の訳語としての「神」が定着する以前からの存在であり、一般的な日本語において神と仏とは区別して用いられる(神像と仏像など)。

ブッダ(仏)と神[編集]

一般に、仏教では解脱には無用なので神の存在を扱わない。

なお大乗仏典の華厳経には、人間がこの世で経験するどのようなことも全て神のみ業であるとの考え方は、良い事も悪い事も全て神によるのみとなって、人々に希望や努力がなくなり世の中の進歩や改良が無くなってしまうので正しくないと説かれているが、これは神の存否について議論したものというわけではない。

自然科学との関係[編集]

日常的には、今日における自然科学の発達は、『神』の存在に対して否定的に働くものと考えられることは少なくない。 しかし、西ヨーロッパやイスラム世界における自然科学の発達は神への信仰と深く結びついており、自然は神の言語であるだとか、自然科学によって世界を解明することはそのような精密な被造物を創造した神の偉大さを讃えることにつながるとされ、アイザック・ニュートンやヨハネス・ケプラーなど宗教的情熱を背景として自然科学の発達に大きく貢献した科学者は数多いという意見もある(理神論など)。

実際ヨーロッパでは神の存在について研究する神学は長きにわたって学問上の基礎科目であり、オックスフォード大学もケンブリッジ大学も、ハーバード大学も元は神学校である。

これに関連して、ゼロの概念を生んだインドや製紙法・火薬・羅針盤の三大発明をなした中国ではなく、なぜ西ヨーロッパにおいて自然科学が大いに発展したのかについて、自然の中に神を見出すのではなく、神を自然とは全く異なる「万物の創造者」と考え、自然を克服の対象として捉える宗教観が根底にあるのではないかという主張が、主としてヨーロッパ中心主義者によって唱えられることもある。しかしこれは近代以降におけるヨーロッパのみを特別視し、それ以前のヨーロッパの技術的・科学的後進性を無視したエスノセントリズムに過ぎないとの批判もある。

また、人間はその生物学的本質として、神の存在を必要とするという指摘もある。すなわち、時間の概念を認識し、かつ「死」の概念を理解することができるのは人間の高度に発達した大脳においてのみであり、いずれ死を迎えるという未来に対して不安を抱く。死を始めとする自らの努力においてはどうしようもない未来に対する巨大な不安を和らげる為に人知を超越した神の存在を設定しようとする、というものである。

このような性質から、永続的な不安を感じることの少ない若い世代においては神への強い信仰は得られにくく、死という最も大きい不安を感じることの多い年配の世代になればなるほどに神への信仰を持つ率が高くなると言われている。また両親が信仰を持つことなどからの影響で信仰心を持つ場合も少なくないが、逆に家庭内での不和等が生みだす永続的な不安感を持つ者は絶対的な他者への救いを求めることへ繋がりやすく、新興宗教がその受け皿となることも多い。

神の死[編集]

かつては無条件に神またはそれに類する超越的存在は信じられ、疑うことは稀であったが近代に入り科学が諸分野で成功を挙げるようになると、唯物論など神を介しない思考も先進諸国を中心に力を得てきた。長らく神学を継承しながらも批判的に発展してきた哲学でもその風潮を受け、19世紀にはニーチェが有名な「神の死」を指摘した。その影響を受け戦後の一時期実存主義というものが盛んになった。今日では無条件に「神」を信ずる者は中世などに比べ多くはないとされる。ニーチェが提起した「神の死」は善悪の行いを基準とした「死後の世界」の崩壊を招きニヒリズムをもたらした。

サムシング・グレート[編集]

村上和雄が述べた宇宙の大いなる存在。生命の存在は進化論だけでは十分に説明できないと考え、サムシング・グレートと呼ぶ存在を想定し自身の立場が「知的設計論者の意見に近い」と述べている。

参考文献[編集]
『宗教と科学の接点』河合隼雄(岩波書店)
『心理禅―東洋の知恵と西洋の科学』佐藤幸治(創元社)
『科学者とキリスト教―ガリレイから現代まで』渡辺正雄(講談社)
『アインシュタイン、神を語る―宇宙・科学・宗教・平和』ウィリアム ヘルマンス 著,雑賀紀彦 翻訳(工作舎)
『神の文化史事典』松村一男・平藤喜久子・山田仁史編(白水社)

出典・脚注[編集]

1.^ a b 引用元・出典:『漢字源』961頁、学研、1996年4月1日改訂新版第3刷
2.^ 小学館『大辞泉』548頁 - 549頁、1998年11月20日発行 第一版増補新装版 ISBN 4095012129
3.^ 春秋左氏伝‐荘公三十二年 中国哲学書電子化計画
4.^ Preston Hunter, Major Religions of the World Ranked by Number of Adherents
5.^ ヘブライ語対訳英語聖書 Genesis 1
6.^ ヘブライ語対訳英語聖書 Genesis 2
7.^ ヘブライ語対訳英語聖書 Genesis 3
8.^ ヘブライ語対訳英語聖書 Deuteronomy 10:9
9.^ ヘブライ語対訳英語聖書 Genesis 3
10.^ ヘブライ語対訳英語聖書 Genesis 3:20
11.^ 正教会からの出典:信仰-信経:日本正教会 The Orthodox Church in Japan
12.^ 東方諸教会からの出典:■信仰と教義(シリア正教会)
13.^ カトリック教会からの出典:教皇ベネディクト十六世の2006年6月11日の「お告げの祈り」のことば
14.^ 聖公会からの出典:英国聖公会の39箇条(聖公会大綱)一1563年制定一
15.^ ルーテル教会からの出典:私たちルーテル教会の信仰
16.^ 改革派教会からの出典:ウェストミンスター信仰基準
17.^ バプテストからの出典:Of God and of the Holy Trinity.
18.^ メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353
19.^ 正教会からの参照:Jesus Christ, Son of God, Incarnation(アメリカ正教会)
20.^ カトリック教会からの参照:Christology(カトリック百科事典)
21.^ 聖公会からの参照(但しこの「39カ条」は現代の聖公会では絶対視はされていない):英国聖公会の39箇条(聖公会大綱)一1563年制定一
22.^ ルーテル教会からの参照:Christ Jesus.(Edited by: Erwin L. Lueker, Luther Poellot, Paul Jackson)
23.^ 改革派教会からの参照:ウェストミンスター信仰基準
24.^ バプテストからの参照:Of God and of the Holy Trinity., Of Christ the Mediator. (いずれもThe 1677/89 London Baptist Confession of Faith)
25.^ メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p73 - p75, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353
26.^ 鈴木範久『聖書の日本語』岩波書店
27.^ 高島俊男『お言葉ですが…〈11〉』連合出版・2006年
28.^ 本節の出典:柳父章『ゴッドと上帝』筑摩書房・1986年(120頁から131頁)、ISBN 4480853014
29.^ 出典:柳父章『ゴッドと上帝』筑摩書房・1986年(160頁 - 162頁)、ISBN 4480853014
30.^ 全く問題にされなかった訳では無い。1938年にはキリスト教神学者前島潔が、「神」という用語について論文を書いている。出典:柳父章『ゴッドと上帝』筑摩書房・1986年(122頁)、ISBN 4480853014
31.^ ヘブライ語対訳英語聖書 Deuteronomy 10:9

軌道エレベータ

軌道エレベータ(きどうエレベータ、(英: Space elevator))は、惑星などの表面から静止軌道以上まで伸びる軌道を持つエレベーター。

宇宙空間への進出手段として構想されているが、当初は夢物語と思えていた。しかしカーボンナノチューブの発見後、現状の技術レベルでも手の届きそうな範囲にあるため、実現に向けた研究プロジェクトが日本やアメリカで始まっている。



目次 [非表示]
1 概要 1.1 現行方式との比較

2 呼称
3 歴史
4 建造方法
5 派生アイデア
6 技術的課題
7 建造可能性以外の課題
8 軌道エレベータを主題とした作品 8.1 SF小説
8.2 漫画
8.3 アニメ
8.4 映画
8.5 楽曲
8.6 ゲーム

9 脚注 9.1 注釈
9.2 出典

10 参考文献
11 関連項目
12 外部リンク


概要[編集]





軌道エレベータの概念図




軌道エレベータの基部の想像図(海上を移動できるようにしたもの)
地上から静止軌道以上まで延びる構造物(塔、レール、ケーブルなど)に沿って運搬機が上下することで宇宙と地球の間の物資を輸送できる。動力を直接ケーブル等に伝えることで、噴射剤の反動を利用するロケットよりも安全に、かつ遥かに低コストで宇宙に物資を送ることができる。

かつては軌道エレベータを建設するために必要な強度を持つ素材が存在しなかったため、軌道エレベータはSF作品などの中で描かれる概念的な存在でしかなかった。その後、理論的には必要な強度を持つものとしてグラファイト・ウィスカー(針状の炭素)などが発見された。さらに、20世紀末になってカーボンナノチューブが発見されたことにより、その早期の実現を目指した研究プロジェクトが発足している。

概念としては、静止軌道上の人工衛星を、重心を静止軌道上に留めたまま地上に達するまで縦長に引き伸ばし、そのケーブルを伝って昇降することで、地上と宇宙空間を往復するのを想像すれば良い。その際、全体の遠心力が重力を上回るように、反対側(外側)にもケーブルを伸ばしたり、十分な質量を持つアンカー(いかり)を末端に設ける。ケーブルの全長は約10万 km で、下端(地上)、静止軌道、上端の三ヵ所に発着拠点が設けられる。上端の移動速度はその高度における脱出速度を上回っているため、燃料なしでも地球周回軌道から脱して惑星間空間に飛び出すこともできる。

エレベータという呼称が使われているが、ケーブルを介して籠を動かすのではなく、固定された軌道を伝って籠が上下に移動する。ケーブルは下に行くほど重力が強まり遠心力が弱まる一方、上に行くほど重力が弱まり遠心力が強まる。したがってケーブルのどの点においても張力がかかる。その大きさは、その点より上の構造物に働く重力と遠心力の絶対値の差である。荷物を上げ下げする際にコリオリ力が発生するが、地球につなぎ止められているため全体が逆さの振り子のように働き、元の位置を自然に維持する。

ケーブルは一定の太さではなく、静止軌道から両端に向かって徐々に細くなっていくテーパー構造である。ただし、地上から数kmの部分は風や雷の影響を避けるため、10倍ほどに太くし、さらに上空数百kmまではケーブルの構成物質が酸素の原子と反応して劣化(酸化)するのを防ぐため、金属で薄くコーティングする必要がある。

地上側の発着拠点(アース・ポート)は、一般に言われるように赤道上にしか建設できないわけではないが、赤道上であればケーブルにかかる張力を小さくできるので最適である。緯度が上がるほどケーブルにかかる張力が大きくなり、また赤道以外ではケーブルが地面に対して垂直にはならないため、赤道から極端に離れた場所に建設するのは難度が高くなる。2004年に開かれた軌道エレベータ建設に関する国際会議では、アース・ポートは赤道から南北それぞれ緯度35度以内に建設すべきであることが示された。建設地点としての適性を赤道で100%とすれば、35度で50%となり、そこから先は急速に減少するという。ただし、これは緯度だけを問題にした場合であり、それ以外にも、気象条件や周辺地域の政治的安定性など考慮すべきことは多い。また、ケーブルの振動や熱による伸縮への対策、低軌道の人工衛星や大きなスペースデブリとの衝突の回避などのために、アース・ポートは地上に固定するのではなく海上を移動可能なメガフロートとすることが望ましい。地球の重力場は完全に均一ではないため、赤道上に作るなら西経90度(ガラパゴス諸島付近)および東経73度(モルディブ付近)が最も安定させやすい[1]。ブラッドリー・C・エドワーズらはいくつかの建設候補地を挙げ、その中でも東太平洋の赤道付近とインド洋のオーストラリア西方沖を有望視している[2][3]。

現行方式との比較[編集]

現在、地球上から宇宙空間へ人間や物資を運ぶ手段はソユーズなどの化学ロケットしか存在しない。

ロケットを宇宙への物資運搬手段として考えた場合、地球の重力に抗して宇宙空間まで移動するのに莫大な燃料を消費する。ロケットは、原理的に本体の重量の大半(およそ90 % 以上)を燃料が占めるので効率が悪い。また、燃料として非対称ジメチルヒドラジンや塩素を含む固体燃料などを使用するものは、燃料そのものが有害物質であったり、燃焼時に有毒物質を発生したりして、環境を汚染している。爆音や有毒ガスの発生以外にも、信頼性や事故発生時の安全措置の面でも不安がある。

このため、将来恒常的に大量の物資・人員を輸送することを念頭に置いた場合、経済的で無公害の輸送手段が望まれる。現在、ロケットに代わるさまざまな輸送手段が検討されているが、軌道エレベータはその一つである。

籠の昇降には電気動力を使い、ロケットのように燃料を運び上げる必要がないため、一度に宇宙空間に運び出す(または宇宙から運び降ろす)荷を大幅に増やすことができる。また、上るときに消費した電力は位置エネルギーとして保存されているので、降りで回生ブレーキを使って位置エネルギーを回収すれば、エネルギーの損失がほとんどなく、運転費用が非常に安くて済む。一つの試算によると現行ロケットの場合、物資1ポンドあたりの輸送コストが4 - 5万ドルであるのに対し、軌道エレベータの場合約100ドル(1kg当たり220ドル)となる[4]。電力供給に関しては、昇降機にパラボラアンテナを装備してマイクロ波ないしは遠赤外レーザーの形で送電する方法も考えられている。加えて人工衛星やISS(国際宇宙ステーション)などでも使用されている太陽電池や燃料電池が用いられると予想される。環境への影響や安全面などを考慮して、ケーブルを通じて供給するべきだという意見もあるが、カーボンナノチューブはそれに必要なだけの伝導性を持たず実用的ではない。

昇降機がケーブルと接触した状態のまま動く場合、その速さは200km/h程度で、アース・ポートから静止軌道までは約1週間(上端までは更に5日間)かかることになる。特別な訓練を受けた宇宙飛行士でなくとも宇宙に行くことができるが、非常に時間が掛かるため、利用者にストレスを与えないように、旅客用の昇降機には高い居住性を持たせる必要がある。リニアモーターなどを使用すればもっと時間を短縮でき、例えば昇りのとき1Gで加速し、中間点からは1Gで減速すると約1時間で静止軌道に到着する(この場合、中間地点での速度は64,000km/hに達する)ことになるが、現在研究中のプランでは磁気浮上方式は検討対象外になっている。ちなみに、ISSは近地点高度278km、遠地点高度460kmの範囲の軌道に維持されている。この程度の高度でよければ、200km/h程度の速度でもごく短時間に到達できる。

なお、通常のエレベータと違い、1本のケーブルを複数の昇降機が同時に利用することになる。

呼称[編集]

軌道塔、宇宙エレベータ、同期エレベータ、静止軌道エレベータなどとも呼ぶ。旧ソ連での発案者ユーリイ・アルツターノフの命名から「天のケーブルカー」、旧約聖書(創世記)におけるヤコブの話に因んで「ヤコブの梯子」、童話『ジャックと豆の木』から「ビーンストーク(豆の木)」と呼ばれることもある。日本では芥川龍之介の蜘蛛の糸に喩えられることがあり、吊り下げられている構造上も一番近い表現ではあるが、物語として糸が切れる終わり方をするために、どちらかと言えば軌道エレベータの実現に懐疑的な見方から用いられる表現である。欧米では同様に懐疑的な表現として「バベルの塔」がある。

歴史[編集]

軌道エレベータの着想は、宇宙旅行の父コンスタンチン・ツィオルコフスキーが1895年に既に自著の中で記述している。ツィオルコフスキーはパリで見たエッフェル塔に強い印象を受け、死後の1959年に刊行された著書の中で、赤道上から天に向って塔を建てていくと、次第に遠心力が強くなり、ある点(静止軌道半径)で遠心力と重力が釣り合うと述べている[5]。同じく1959年、ユーリイ・アルツターノフが逆に静止軌道上からその上下にケーブルを伸ばす前述のような軌道エレベータの構想(天のケーブルカー)を発表した[6]。

軌道エレベータを構築する上で一番の問題は、静止軌道まで約36,000kmも伸ばしたケーブルが自重によって切れてしまうのを防ぐことである。

1975年、ジェローム・ピアソンは、軌道エレベータの材料に関する研究を行った[7]。その結果、上空に行くに従い重力が小さくなり、かつ遠心力が強くなることを考慮すると、引っ張り強さ/密度(破断長)が4,960kmほどの物質(すなわち一様な重力場で、一様な太さのケーブルを4,960km下に伸ばすまで切れない)が必要なことがわかった。この数値はすべて一様な太さの軌道エレベータを構築した場合で、特に引っ張り力のかかる部分を太くするテーパー構造(末細り型)にした場合、多少改善されるものの、現実の物質と比較してみると、鋼鉄が50km、ケブラー繊維が200km程とまったく足りない。

そのため、長い間、軌道エレベータは空想上の素材や未来の工学として概念的なものとして扱われてきた。しかし、1982年に、破断長約1,000 km で、理論的にはテーパー構造の軌道エレベータを建造できる強度のグラファイト・ウィスカーが発見された。さらに1991年に極めて高い強度を持つカーボンナノチューブが発見されたことにより、実用化可能と言われるようになった。

2031年10月27日の開通を目指し(当初は2018年4月12日を予定していた)、1メートル幅のカーボンナノチューブでできたリボンを、赤道上の海上プラットフォーム上から10万キロ上空まで伸ばすプロジェクトを、全米宇宙協会などが進める[8]。1999年にNASAの二つのグループが初めて[9][10]、続いて2000年に援助を受けた研究により元ロスアラモス国立研究所員のブラッドリー・C・エドワーズ博士がそれぞれ軌道エレベータの理論的な実現性に関して報告している。これらの研究報告に基づき、LiftPort社がアメリカ、ワシントン州シアトル郊外のブレマートンに設立され、NASAからの援助を受けて軌道エレベータの早期実現へ向けた研究開発を行っている[11]。

2005年9月、米リフトポート・グループ(英語版)社は同社が開発中の宇宙エレベータの上空での昇降テストを行った。今回のテストは、カーボンナノチューブではないケーブルを使用して気球に接続し、次第に気球の高度を上げていき、3回目では高度約1,000フィート(約304.8m)に達した。実験写真を見る限りでは、SFなどで登場する塔のようなものではなく、上空から垂らしたケーブルを箱が昇っていくというシンプルなものである。

日本においては、2009年から宇宙エレベーター協会主催の宇宙エレベーター技術競技会が開かれている。ルールは毎年改定され、2010年第2回大会では上空の気球から幅5 cm のベルト状のテザーを垂らし、高度300 m まで上昇・下降するというものであった[12]。

2012年2月には大林組が建設の視点から、宇宙エレベーターの可能性を探る構想を広報誌『季刊大林』に載せ、2050年の実現を目指すと報道された[13]。

建造方法[編集]

代表的な建造方法として、長大な吊り橋を建設する場合と同じ方法を採ることが提唱されている。まず静止軌道上に人工衛星を設置し、地球側にケーブルを少しずつ下ろしていく。その際、ケーブル自体の重さによって重心が静止軌道から外れないように、反対側にもケーブルを伸ばす。地球側に伸ばしたケーブルが地上に達すると、それをガイドにしてケーブルをさらに何本も張って太くし、構造物を構築する。

この手法を小説『楽園の泉』(1979年)で提唱したアーサー・C・クラークは、ケーブルの素材として無重力環境でしか作れない物質を設定したため、小惑星帯から適切な鉱物を含む小惑星を運搬してきて静止軌道に設置し、工場を建設して静止軌道上で製造する工法を取ったが、この場合はまず小惑星を動かす段階で大量の資材を地球から持ち出さなければならず、「軌道エレベータを建造するために多数のロケットを打ち上げる」という本末転倒な事態になってしまう。しかしカーボンナノチューブは地上でも製造可能であり、ガイド用の細いケーブルと必要最小限の付帯設備だけはロケットで静止軌道まで運ばなければならないが、あとはケーブルを伝って地上側から敷設していく(上端に達した敷設装置は、そのままアンカーの一部になる)ことができると考えられている。なお、アース・ポートを赤道以外の場所に建設する場合でも、最初のケーブルの下端が赤道に向かって降りてくるのを捕まえ、建設予定地まで移動させなければならない。

現在の構想では、最終的にはケーブルの長さ1kmあたり7kg、アンカーまで含めた全体の質量は約1,400tとなる。建設費は100億ドルから200億ドル(1兆円から2兆円)とされている[14]ただし、実際に十人単位の人を運べるものを建設する場合、値段はより高額となると考える研究者もいる[15]。なお、国際宇宙ステーションの建設・運用には1,000億USドル以上の費用が掛かっているが、こちらはすべてをロケットで打ち上げているため単純比較はできない。

SF作家のチャールズ・シェフィールドは、小説『星ぼしに架ける橋』(1979年)の中で、宇宙空間で建造した全長数万kmの軌道エレベータを、回転させながら一端を大気圏に突入させ、巨大な縦穴の底に接地したところで穴の壁を丸ごと爆破した岩雪崩で強引に押さえつけて固定するという、小説ならではのスリルある豪快なアイデアを示している。アーサー・C・クラークはこれを「髪の毛が逆立つような方法。この部分だけは信じられない。許可が下りないのは確かである」と評した。

なお、クラーク・シェフィールドの両作品とも現実の21世紀初頭より宇宙開発が進み、既に多数のロケットが地球と宇宙を行き来している世界の物語である。

派生アイデア[編集]
月面での建造月は地球に比べ重力が小さく、大気の影響も受けない。しかし、自転速度が遅く、公転と同期しているので、月と地球の引力の中心点(ラグランジュ点)にアンカーを置かなければならない。これは、建設地点・運用が大きく制限されることを意味する。また地表からラグランジュ点までの距離は最も近いL1でも56,000kmであり、地球−静止軌道間の36,000km以上である。そして、月のような低重力・真空の環境下では、SSTOやマスドライバーなど他の低コストな打ち上げ手段も現実的な選択肢となりえることを考慮しなくてはならない。火星での建造アーサー・C・クラークは軌道エレベータを題材にしたSF小説『楽園の泉』において、火星での建設可能性について言及している。ここでは地上駅を赤道直下にある巨峰パヴォニス山に、終端に衛星ダイモスを用いるとしており、月同様に低重力や大気の影響を受けないために地球の1/10ほどのコストで建造できるとしている。また材料についてもダイモスに無尽蔵に存在する炭素を用いて超炭素繊維を現地生産するとしている。ダイモスより内側を回っているもうひとつの衛星フォボスとの衝突回避の手段についても示されている。むしろ問題は火星に建設する必要性の問題だが、これも同作では、火星のテラフォーミングのために地表を温める反射鏡を火星で製造して(既に火星には多くの人々が定住しており、鏡の材料が地上でしか入手できない設定)宇宙に持ち上げるために使用するとされている。
地上からある程度の高さまで、ケーブルを2本ないしそれ以上に分岐させ、複数のアース・ポートを設けるというアイデアも提唱されている。様々な技術的問題点が指摘されたが、地球より重力が弱い月や火星になら建設できるかもしれない。それ以外にも、さまざまなアイデアを追加した変種が提唱されている。
宇宙のネックレス赤道上に多数の軌道エレベータを建設し、それらを静止軌道よりも少し上の部分で互いにケーブルでつなぎ、力学的に安定させる方法。ケーブルは常に遠心力で円形に広がり各軌道エレベータを左右から引っ張るので、赤道上ならどこでも軌道エレベータを建設できる。1977年にソ連のG・ポリャーコフが提唱した。スカイフック、テザー衛星静止軌道よりも低軌道の地球周回軌道を使用するためのアイデア。軌道エレベータを固定せず、重心を中心として回転させる。地球と接地する部分との相対速度が0となるように回転速度を調整することで、地上からの物資や旅客の乗り移りを可能にする。低軌道におくことができるのでサイズが小さくて済み、そのぶん建造コストが安くなる。赤道上でなくても接地できるので自由度が高い。空気抵抗による恒常的な回転速度の低下と、軌道の低下、接地部分が大気に突入したときの摩擦による発熱、衝撃波の発生をどのように防ぐかという問題がある。なお、摩擦熱、空気抵抗に関してはテザーをどれだけ長くできるかによる。
詳細は「テザー推進」を参照
極超音速スカイフック上記のスカイフックを改良したアイデアとして、1993年にロバート・ズブリンが提唱。ケーブルの下端が大気圏の上(高度100 km 付近)にあり、その地上との相対速度が極超音速(マッハ10 - 15)となる構造をしたもの。回転はせず、軌道エレベータの大気圏内部分を取り除いたような構造となる。スカイフックと比べ規模が小さく(静止トランスファ軌道 (GTO) に1.5tの打ち上げ能力を持たせた場合で、質量16.5t)、大気との摩擦による問題も軽減されるため、カーボンナノチューブのような新技術を用いずともケブラー繊維などで建設が可能と言われている。ケーブル下端にはロケットやスペースプレーンでアクセスし、ペイロードを積み替える。ORS(軌道リング)1982年ポール・バーチは、スカイフックの欠点を受けて、オービタルリング(Orbital Ring Systems、ORS)という概念を発表した。これは、磁性流体などの流体を、地球を一周するチューブのようなものの中に封入して高速で移動させると、張力が発生して物をぶら下げることができるというもの。ここから地上に構造物を下ろすとそれが軌道エレベータになる。この場合、軌道エレベータの全長が、静止軌道を用いた場合よりもはるかに短くて済むという利点もある。スペース・ファウンテンオービタルリングと同じ原理で、磁性流体が地上と宇宙を往復するようにチューブを配置し、軌道側のステーションは噴水の上に乗ったボールのように磁性流体に支えられて浮かぶ。
技術的課題[編集]

軌道エレベータを実際に建設するためには、乗り越えなければならない技術的課題がある。
ケーブル材料材料の強度の点では、従来の最強クラスの素材であったピアノ線やケブラー繊維を用いても静止衛星軌道から垂らすには強度がまったく足りなかったが、カーボンナノチューブの発見により、少なくとも理論上は可能性が見えてきたと言える。ケーブルの自重を支えるために必要な比強度(強度/密度)は約50,000kN・m/kgであり、最低破断長(比強度/重力)ならば約5,000kmである。一般的なCNTの密度1,300kg/m3の場合、必要な強度は65GPa以上である。昇降機を含めた軌道エレベータ全体の重量を支えるためには2倍の比強度が必要となる事が予想される。2000年代以降、日本の研究では高純度・軽量なカーボンナノチューブの開発が進められ、産業技術総合研究所では単層カーボンナノチューブ(SWNT)の紡糸[16]、薄膜化(バッキーペーパー)[17]、固体の自由な成形[18]が研究開発されている。特にスーパーグロースCVD法によって製作されたSWNTによる薄膜は純度99.98 %、重量密度0.037 g/cm 3[19]という非常に高品質なカーボンナノチューブの生成に成功している。なお、触媒操作によりSWNTシートだけでなく比強度の高いDWNT(二層カーボンナノチューブ)シートやMWNT(多層カーボンナノチューブ)シートも製作できる[20]。重量密度37kg/m3と考えた場合、紙程度の厚さ0.1mm、幅1m、長さ1km の重量は3.7kg となり、長さ10万km では370tに達する。大林組の検討によれば、ペイロード70トンを積んだ総重量100トンのクライマーが昇れるケーブルを作るためには、長さ10万km、重さが7000トンのカーボンナノチューブのケーブルを作ることになるが、その厚みは1.38mm、幅は最大の部分でも4.8cmという非常に薄いリボンのようなものになる[21]。比強度は密度に左右されるので理想的な物質と言える。ただし、上記の計算で用いた重量密度は多量の空隙を含む重量密度であるのに対し、強度計算に用いている値はSWNTを束ねたもっと密度の高い糸を用いた場合の測定値である点、つまり同じ強度をスーパーグロース法で作成したSWNTで実現しようと思えばもっと密にしなければならず、上記の重量密度の値よりも遙かに重くなってしまう点には注意が必要となる。ケーブル材料としての物質は従来ではカーボンナノチューブのみと考えられてきたが、新たに発見された物質でも可能性が見えてきている。コロッサルカーボンチューブと呼ばれる物質の比強度は7GPa 程度だが密度は0.116g/cm3と非常に軽い。そのため破断長は6,000kmに達し、軌道エレベータの最低破断長の条件を満たすと考えられる。カーボンナノチューブを使って建造物を建てるための、構造計算や維持運用についてはまったくの白紙である。外気圏や宇宙空間などの極環境下では物性の変化も予測される。ノウハウの蓄積のためには、軌道エレベータ建造への応用の前に、まず十分な実験、試用の期間が必要だろう。昇降機軌道エレベータのケーブルにラック式鉄道の様なラック(歯)を設ける事はほぼ不可能であり、昇降機はケーブルとの摩擦のみで地球の重力に逆らって昇降を行う必要がある。駆動系に十分なトルクを得るには減速ギアなどで機構が複雑になり、重量や故障率を増加させてしまうため、いかにシンプルで軽量な機構で十分な昇降能力を実現するかが課題となる。ケーブル材料に比べれば遙かに現実的な課題であり他分野での技術応用も見込めるため、日本の大学や研究機関も含めて複数の研究者が開発を行っており、気球から吊したテープに小型モデルを昇らせる技術競技会も行われている。昇降用エネルギー昇降用としてのエネルギーは前述のように電気エネルギーによる3つの供給方法が考えられている。マイクロ波もしくは遠赤外レーザーの形で昇降機に送電する方法、太陽電池による発電、搭載型燃料による発電である。昇降機の規模により用いられる供給方法は変わると思われるがバックアップの意味も含めて複合的な供給が望ましい。レーザーによる供給については高高度における減衰と十分なエネルギーが得られるか疑問点が残る。太陽電池の場合、非常に大きなパネルが必要とされる。搭載型燃料については、例えば燃料電池が挙げられる。燃料電池は自動車などに使われるものから火力発電に使われるようなものまで様々な種類がある[22]。電気エネルギーに限らなければ内燃型のエンジンなども選択肢に入るであろう。なお原子力電源については宇宙法の問題により十分に高度な軌道でのみの使用に制限されるため現実的でない。そのため現行技術で昇降機に用いられるエネルギーは火力発電レベルまでである。もっとも、軌道エレベーターに使えるほどの破断長を持つ繊維製のフライホイールは化学反応を超えるエネルギー密度のため技術の開発順序上はより難易度の低いフライホイール・バッテリーのエネルギー密度の高さで搭載燃料の問題は解決されるとみられる。また、ケーブルを使った直接供給では超長距離送電を考慮に入れると損失は1,000km当たり約3%が現在技術の限界である。地上と静止衛星軌道との中間地点である18,000kmでは、単純計算で42%を損失してしまい58%しか使えなくなる。水平方向の加速地球から見ると軌道エレベーターは静止しているように見えるが、実際には地球の自転のせいで、軌道エレベーターは回転運動をしている。軌道エレベータの水平方向の速度は、高さ 0 の位置では地表の移動速度と同じである。軌道エレベータの高さが上がるにつれ、水平方向の速度は(地球中心からの距離に比例して)どんどん増していく必要があるが、実際には、最初に得られた水平方向の速度しか得られない。そこで、軌道エレベータが見かけ上で静止しているためには、高さが増すにつれて水平方向の速度も増す必要がある。つまり、水平方向の加速度を得る必要がある。では、その水平方向の加速度を、どうやって得るか? それが技術的な課題となる。(たとえばエレベーター本体に水平方向の推進力のロケットを搭載するとしたら、その分、搭載できる荷物が減ってしまう。)
建造可能性以外の課題[編集]


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現時点で議論の焦点は、実際それが技術的に建造可能か否かという点である。ひとたび建造可能性に目処が立った場合、続いて克服すべきいくつかの課題があるだろう。
維持費宇宙空間は相当に過酷な環境であり、軌道エレベータのような長大な建造物も日光や宇宙線などにより材料の劣化にさらされる懸念がある。スペースデブリとの衝突による破損も考慮に入れなければならず、軌道エレベータのような長大な建造物を維持修繕していくのにどの程度の費用がかかるかは不明である。建設費用と維持費用が、はたして軌道エレベータ建造が与える利便に見合うかどうかという問題がある。安全上の問題点軌道エレベータに対する安全上の脅威がいくつか想定される。航空機やシャトル、人工衛星などとの衝突が起きた場合、軌道エレベータの本体は深刻な損傷を受ける。軌道エレベータのケーブル(またはシャフト)部分の一部でも損傷した場合、損傷箇所に極めて大きな応力がかかって、軌道エレベータ全体が崩壊する可能性がある。もし軌道エレベータの質量が十分に大きければ地上の広範囲に被害をもたらすかもしれないが、全米宇宙協会などでの現在の案ではシャフトのような構造はないため、それほど大きな質量を持たず、ケーブルもラップフィルム状の薄いものなので、落下時の空気抵抗が大きく、地上に重大な影響を及ぼす可能性はほとんどないと考えられている[誰によって?]。また、軌道エレベータは縦にきわめて長大な建造物であり、材質の強度と遠心力や重力などのバランスの下に成り立っているため、テロリストによる破壊工作に弱いという指摘がある。衝突事故を防ぐためには、軌道エレベータの周囲の広範囲(ブラッドリー・エドワーズらは「少なくとも数百キロメートル」としているが、根拠は示されていない)を飛行禁止区域として設定し、レーダーなどで常時監視することが必要だろう。軌道エレベータは長い弦とみなせるので、固有振動数に一致する振動が発生すると、減衰せずにエネルギーが蓄積されて振動し続け、応力限界を超えて破壊される恐れがある[注 1]。これは荷物を適宜上げ下げして振動を打ち消すことで回避可能であり、人工衛星やスペースデブリとの衝突を回避するために意図的に振動させることもできる。ある程度大きなスペースデブリは軌道がわかるため、上記の方法で回避できるが、小さなものは衝突を避けられない。軌道エレベータ自体への影響は軽微で済むとしても、軌道エレベータの昇降機や乗客・貨物への悪影響が考えられる。もしくは小さなものでも全損する前提で、多数の軌道エレベータを同時運用し、昇降機そのものに大気圏突入能力を持たせることも考えられている[誰によって?]。対策としては、定期的なスペースデブリの回収作業も並行して行う必要がある。軌道エレベータを使用するかにかかわらず、宇宙開発を今後も推進していくためにはスペースデブリはいずれ回収作業が必要な、現実の問題である(ケスラーシンドロームを参照)。類似の問題として、軍事衛星との衝突の可能性が挙げられる。軍事衛星は機密上存在自体が秘匿されることもあり、特に低高度を飛ぶ偵察衛星などは周回時間も短く、想定範囲外の衝突が発生する恐れもある。これらが衝突を回避する様に全て制御するのは困難であるし、活動の妨げになる物の建造に異を唱える国家などもあり得る。環境への影響軌道エレベータのような大規模構造物が環境にどのような影響を与えるかはまだわかっていない。ただし軌道エレベータのケーブルは極めて細いため、大気の擾乱や熱伝導による気温変化は小さいだろう。またアース・ポート建設地点の生態系の変化や、建造に伴う廃棄物による公害なども考えられるが、軌道エレベータが完成すれば有害物質や騒音を撒き散らすロケットの打ち上げは激減し、相対的には環境によい影響をもたらす可能性もある。いずれにせよ本格的な研究にはまだ着手されておらず、定量的に示すことはできない。政治的課題軌道エレベータはロケットに比べて遥かに安価な輸送手段であり、また経済的に建設できる場所が限られているため、軌道エレベータが建設されるような時代になってもまだ強力な国家や経済ブロックが残存していると、アース・ポートの領海・領空の使用権、軌道エレベータの権利を巡って政治的な紛争が起こる可能性がある。
軌道エレベータを主題とした作品[編集]

軌道エレベータが登場する作品をまとめたリストとして、石原藤夫と金子隆一の共著『軌道エレベータ -宇宙へ架ける橋-』(裳華房版)の巻末付録「『軌道エレベータ』SF作品リスト」がある。

SF小説[編集]
楽園の泉著:アーサー・C・クラーク軌道エレベータSFの代表的作品。架空の島タブロバニー(クラークの終の住処となったスリランカがモデル)を舞台に軌道エレベータ建造に挑む天才技術者の姿を描く。火星におけるテラフォーミングのための建設や、「宇宙のネックレス」構想にも言及されている。星ぼしに架ける橋著:チャールズ・シェフィールド「ビーンストーク(日本語で「豆の木」)」という名の宇宙エレベータの建造を描いた物語。「楽園の泉」と同時期に発表された作品であり、アイデアやプロットも似ているが、アメリカSF作家協会報への公開状(文庫版に収録)でクラークが書いているように、全く別個に発想された作品である。この中でクラークは自身の作品とは異なる、(少々乱暴な)エレベータの地球への固定方法については「身の毛もよだつ」と評している。轍の先にあるもの著:野尻抱介(『沈黙のフライバイ』収録)軌道エレベータ建造による社会の変化を、冒頭で無人探査機の小惑星着陸に心躍らせていたSF作家の「私」が、数十年後には自分の足で小惑星に降り立つという形で描いている。登場する軌道エレベータは、ブラッドリー・エドワーズらが研究しているものに近い。マザーズ・タワー著:吉田親司リング状構造物と極薄のカーボンナノチューブを併用し、ごく短期間で地球低軌道に軌道エレベータを建造しようとする4人組の活躍を描く。完成した軌道エレベータは軌道リングシステムの応用型。南極点のピアピア動画著:野尻抱介カーボンナノチューブを吐き出す蜘蛛を利用して、ごく短時間に軌道エレベータを建設するエピソードがある。三体II:黒暗森林・三体III:死神永生著:劉慈欣『黒暗森林』では、軌道エレベーターのアンカーとして建設された黄河宇宙ステーションで、章北海が化学ロケットの開発者を暗殺するエピソードがある。『死神永生』では、程心が軌道エレベーターを利用して雲天明に会いに行くエピソードがある。宇宙(そら)へ著:福田和代軌道エレベータのメンテナンスマンを主人公とする宇宙お仕事小説。JAXA(宇宙航空研究開発機構)全面協力のもと、リアリティあふれる描写で全編を貫く。銀環計画著:田中芳樹地球温暖化に伴う海面上昇を抑えるために、軌道エレベータを建設、海水を軌道上に噴射しようとする短編小説。妙なる技の乙女たち著:小川一水軌道エレベータができた島で働く女性を描いた連作短編集。ウロボロスの波動著:林譲治_(作家)太陽系の近くに発見されたブラックホールから人工降着円盤を作りエネルギーを取り出すプロジェクトAADDは、そのまま地球圏と異質な社会を構築するようになった。地球とAADDの摩擦を描く連作短編集の中に、マスドライバーによって軌道エレベータへテロを試みるものがある。ザ・ジャグル著:榊一郎大戦後、軌道エレベータのアースポート「永久平和都市」オフィーリアの平和を守る秘密特殊部隊の活躍を描く作品。
漫画[編集]
ダークウィスパー著:山下いくと欧州連合とアフリカ連合との共同プランで推進された『クモの糸計画』で建造される。連載中の時点ではテロリストに秘密裏に占拠された状態にある。まっすぐ天へ著:的場健、協力:金子隆一宇宙開発の研究者である兄と建設会社に勤める弟が、軌道エレベータの実現に向け奮闘する。未完のまま連載終了。ワンダートレック著:かがみあきら子供向け科学雑誌コペル21に連載されていた科学学習漫画。題材の1つとして軌道エレベータが登場した。水惑星年代記著:大石まさる軌道エレベータの建設から火星植民までの宇宙開発の時代を描いた連作短編集。軌道エレベータでの旅行を科学漫画風に解説した短編も含んでいる(「軌道エレベータのひみつ」『水惑星年代記月娘』)。リニアモーター駆動で最高時速約1万kmという設定。サイレントメビウス著:麻宮騎亜完成当日に妖魔に取り込まれてしまい、妖魔が倒されると共に崩壊した。砲神エグザクソン著:園田健一リオファルド人が建造したエレベータシップ。ハワイにエレベースがある。緑の王 VERDANT LORD著:曽我篤士,たかしげ宙アレトゥーサが地球外に種子を飛ばすために木製の軌道エレベーターを建造した。セラフィック・フェザー著:うたたねひろゆき世界経済を支配する巨大企業「ダイスカーツ社」が建設した。物語終盤での戦闘の舞台となる。
アニメ[編集]
宇宙空母ブルーノア日本の映像SFで軌道エレベータが最初に登場した作品。地球に侵攻した異星人、ゴドム人が太平洋上に建設した。超時空世紀オーガス軌道エレベータを巡る経済紛争が物語の発端となっている。エレベータはその後、作中で重要な役目を果たす。上記のブルーノアに続き、日本SFで二番目に登場した軌道エレベータで、地球人が建造した物としては初。Z.O.E. Dolores,i終盤で火星の為に、エレベータを崩壊させて地球壊滅を企む計画(「しなりながら長さ数万キロの鞭が、音速で地球に巻き付く様に落下して来たらどうなる?」と劇中で示唆されている)が実行される。重力の釣り合いを取る為のステーションや、バランス調整用のアジャスターホイール等、かなり本格的な描写がある。宇宙エレベータ 〜科学者の夢みる未来〜監修:日本科学未来館日本科学未来館他、全国のプラネタリウムで公開されている宇宙エレベータ(=軌道エレベータ)を題材にしたアニメーション。宇宙の騎士テッカマンブレード人類は、静止軌道上にオービタル・リングを建造していたが、ここが突如襲来して来た異星生命体ラダムに拠って占拠され、人類は地上に封じ込められていた。オービタル・リングの設定が前面に押し出されて、又物語中ではオービタル・リングと軌道エレベータを巡って幾多の名勝負も行われていた。勇者警察ジェイデッカー物語中に建設途上の軌道エレベータの倒壊事故が発生する。この物語が、後に『BRAVE SAGA』シリーズのステージエピソードになっている。KURAU Phantom Memory地球と月面に存在し、主要交通機関の一つとして登場する。機動戦士ガンダム003つの国家群がそれぞれ所有する軌道エレベータ「タワー」「ラ・トゥール(アフリカタワー)」「天柱」の3基が登場。高軌道と低軌道の2つのオービタルリングによって連結され、低軌道オービタルリングには2基の巨大自由電子レーザー掃射装置「メメントモリ」が建造された。人員物資の輸送の他、太陽発電衛星で得られた電力を地上に送電する機能を持つ。劇中で「メメントモリ」による「ラ・トゥール」の低軌道ステーションを狙っての照射で、外壁が破壊・多数落下する人為的事故が起こる。 フラクタル僧院の本拠地として登場。
映画[編集]
劇場版 仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE人類の存亡をかけた、軌道エレベータによる「天空の梯子計画」が作品の背景として進行する。『科学がSFを越える日』の「軌道エレベータが登場する代表作品」の数少ない候補のひとつとして紹介されているように、「世界初の軌道エレベーターを映像に取り込んだ実写作品」と言われている。劇場版 とある魔術の禁書目録 -エンデュミオンの奇蹟-東京都西部にある架空の都市「学園都市」の宇宙エレベーター・「エンデュミオン」に隠された秘密を原作ライトノベルにも無い映画公開向け独自のエピソードとして新たに書き起こした作品。
楽曲[編集]
宇宙エレベーター作詞・作曲:中田ヤスタカ音楽ユニットcapsuleの楽曲(2004年発売のアルバムS.F. sound furniture所収)。軌道エレベータを中心的なモチーフとして扱っている。歌詞においてはカーボンナノチューブにも言及がある。
ゲーム[編集]
ボーダーダウン人類が火星に移住した時代、未知の侵略者による攻撃により火星の軌道エレベーター「ジッグラト」が戦いの舞台になる。これは大都市の中心から伸びる巨大な塔のような建造物。宇宙に設置された制御中枢を破壊されたジッグラトは崩壊し、火星の環境に多大なダメージを与える。それは火星の地表に30000kmを超える傷跡を刻み込むものだった。FRONT MISSION SERIES GUN HAZARDスクウェア(現スクウェア・エニックス)より発売されたスーパーファミコン用アクションRPG。軌道エレベーター「アトラス」が最終ステージの舞台。ゼノサーガ エピソードIII[ツァラトゥストラはかく語りき]バンダイナムコゲームスより発売されたプレイステーション2用RPG。星団連邦主星フィフス・エルサレムにおいて、地上への移動手段として登場。4時間掛けて宇宙港・地上間を移動する。

マクペラの洞穴

マクペラの洞穴(マクペラのほらあな、ヘブライ語: מערת המכפלה‎)とは、パレスチナ自治区の都市ヘブロンにある宗教史跡である。この概念は洞穴のみを指すのではなく、境内にある施設全体を指している。ユダヤ教の伝承、並びに旧約聖書の『創世記』によれば、「民族の父母」と呼ばれているアブラハム、サラ、イサク、リベカ、ヤコブ、レアの六人がこの地に埋葬されているという。同史跡はユダヤ教徒やキリスト教だけでなく、イスラム教徒からも神聖視されている。



目次 [非表示]
1 旧約聖書におけるマクペラの洞穴
2 名称
3 歴史
4 マクペラの洞穴虐殺事件とその影響
5 新たな文化遺産修復計画
6 伝承
7 脚注
8 関連項目


旧約聖書におけるマクペラの洞穴[編集]

旧約聖書におけるマクペラの洞穴の記述は、サラを埋葬するためにアブラハムが同地を含んだ畑をヘト人エフロンから買い取る『創世記』23章の場面にて見ることができる。



「もし、亡くなった妻を葬ることをお許しいただけるのなら、ぜひ、わたしの願いを聞いてください。ツォハルの子、エフロンにお願いして、あの方の畑の端にあるマクペラの洞穴を譲っていただきたいのです。十分な銀をお支払いしますから、皆様方の間に墓地を所有させてください。」

− 『創世記』23:8 - 23:9、『新共同訳聖書』

名称[編集]

「マクペラの洞穴」という名称の語義は『創世記』では明らかにされていないのだが、いくつかの説が挙げられている。なお、「マクペラ」 (מכפלה) という単語は「二重、二倍」を意味する語根 "כפל" の派生語である。
ラビ・アッバ・アリカの説 - 洞穴が二重構造になっているから。
サムエル・バル・アッバの説 - 「民族の父母」それぞれの夫婦が同じ場所に埋葬されたから。
ラビ・アッバフの説 - 「民族の父母」だけでなく、人類の父母であるアダムとエバも同地に埋葬されているから。
マムバム、ラムバン、レデクの説 - 「マクペラ」と呼ばれる畑に洞穴があったから。すなわち、その語源に宗教的な意味を求める必要はない。

歴史[編集]

マクペラの洞穴の境内に建立されている建造物は、第二神殿時代に建築された史跡建造物のなかでも取り分け美しいとされている。その様式がヘロデ大王の時代の様式に類似していることから、ヘロデ大王の時代に行われた一連の大規模土木事業のひとつと見られている。それに対する反論には、この建造物はヘロデ大王の時代には既に存在しており、それ以前の時代、つまりエドム人がヘブロンを支配していた頃に建てられたというものがある。

ビザンチン時代、境内にはキリスト教徒によってバジリカが建てられたのだが、後のイスラム教徒の支配下において、「アブラハムのモスク」として改修された。 マムルーク朝の時代以降、ユダヤ教徒は境内への立ち入りを禁じられ、南東の門へとつながる階段に近付くことしか許されなかった。

この建造物は英国委任統治時代に本格的な調査が行われたのだが、その包括的な研究結果はフランスにて『ラー・ハラム・アル・ハッリール』という書籍にまとめられて有名になった。

政治家のモーシェ・ダヤンが境内の地下の構造に関する最初の小論文を発表した。 1981年にはキルヤト・アルバの住民グループが洞穴の最下層部まで降りた。彼らは、最下層にはさらに地下へと続く空洞があり、そこにはカナン時代の墓穴があったと報告した。これを受けて調査団が編成されたのだが、その調査には考古学者だけでなく国防軍もメンバーを派遣して協力した。

今日のマクペラの洞穴はイスラエルによってヘブロンの一区画として管理されており、建造物の内部にはシナゴーグとモスクが置かれている。また、建造物の守備には国境警備隊が当たっている。マクペラの洞穴には毎日、ユダヤ教徒、イスラム教徒ともども大勢の参拝者が訪れている。また、割礼、バル(バト)・ミツヴァ、結婚など人生の節々におけるめでたい行事の折にも足を運んでいる。

マクペラの洞穴虐殺事件とその影響[編集]

詳細は「マクペラの洞窟虐殺事件」を参照

1994年2月25日のプリム祭の日にマクペラの洞穴虐殺事件と呼ばれる惨事が起きた。キルヤト・アルバの住人バルーフ・ゴールドシュテインが礼拝に来ていた29名のイスラム教徒の命を奪ったのである。

この事件の後、ユダヤ教徒はしばらくの間マクペラの洞穴から締め出され、入場が許されて以降もイスラム教徒とは礼拝所が分けられるようになった。イサクの墓(「イサクの間」)のあるモスクがイスラム教徒の礼拝所で、対するユダヤ教徒は中庭とヤコブの墓がある一室で礼拝を行っており、この規律は1年を通じて厳格に守られている。

ただし、1年の間に10日だけ洞穴のすべてが開放されるのだが、ユダヤ教徒とイスラム教徒ではそれぞれ別の10日間が割り当てられている。ユダヤ教徒の10日間とは、ローシュ・ハ=シャナー、ヨム・ハ=キプリーム、仮庵祭と過越祭の数日間、ハイェイ・サラの安息日、ヨム・キプール・カタンで、この期日には多くのユダヤ教徒が同地を訪れている。また、この期日にだけ例外的に「イサクの間」への入場が許されている。イスラム教徒に解放される日時も、その祭りの習慣に合わせている。

新たな文化遺産修復計画[編集]

2010年に入り、イスラエル政府はヘブロンの同洞穴及び、「旧約聖書」に登場するラケルの墓の二箇所をユダヤ人の文化遺産として新たに修復することを発表[1]。だが、前述にあるように同地がユダヤ教、イスラム教両者の共通の聖地であることからパレスチナ側が激しく反発[2]。イスラエル政府の同計画発表以来、ヨルダン川西岸ではパレスチナ側の暴動が連日続いている。

伝承[編集]
マクペラの洞穴は、旧約聖書において前所有者から満額の銀を支払って購入した三つの場所のひとつに数えられている。それ以外の二箇所は神殿の丘とヨセフの墓である。
洞穴の最下層は地底の奥深くにある冥府とつながっているとされる。
ハザルの伝承では、マクペラの洞穴内にはアダムとエバの墓もあるとされている。

脚注[編集]

ヤコブ (旧約聖書)

ヤコブ(英語など:Jacob、ヘブライ語: יעקב‎, Ya'akov, Ya‘aqôbh, ヤアコーブ、アラビア語: يعقوب‎, Ya‘qūb ヤアクーブ)は、旧約聖書の創世記に登場するヘブライ人の族長。別名をイスラエル (ישראל, Israel) といい、イスラエルの民すなわちユダヤ人はみなヤコブの子孫を称する。



目次 [非表示]
1 聖書におけるヤコブ
2 ヤコブの子ら
3 クルアーンにおけるヤコブ
4 関連項目


聖書におけるヤコブ[編集]





ヤコブのはしご
『創世記』によると、父はイサク(イツハク)、母はリベカ、祖父は太祖アブラハム。

ヤコブは双子の兄エサウを出し抜いて長子の祝福を得たため、兄から命を狙われることになって逃亡する。逃亡の途上、天国に上る階段の夢(ヤコブの梯子)を見て、自分の子孫が偉大な民族になるという神の約束を受ける。ハランにすむ伯父ラバンのもとに身を寄せ、やがて財産を築いて独立する。

兄エサウとの和解を志し、会いに行く途中、ヤボク川の渡し(後に彼がペヌエルと名付けた場所)で天使と格闘したことから神の勝者を意味する「イスラエル」(「イシャラー(勝つ者)」「エル(神)」の複合名詞)の名を与えられる。これが後のイスラエルの国名の由来となった。

レア、ラケル、ビルハ、ジルパという4人の妻との間に娘と12人の息子をもうけた。その息子たちがイスラエル十二部族の祖となったとされている。晩年、寵愛した息子のヨセフが行方不明になって悲嘆にくれるが、数奇な人生を送ってエジプトでファラオの宰相となっていたヨセフとの再会を遂げ、やがて一族をあげてエジプトに移住した。エジプトで生涯を終えたヤコブは遺言によって故郷カナン地方のマクペラの畑の洞穴に葬られた。

ヤコブの子ら[編集]

ヤコブは4人の妻を持ち、12人の息子と1人の娘がいた。
ラバンの娘レアの子 - ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、一人娘であるディナ
ラケルの下女ビルハの子 - ダン、ナフタリ
レアの下女ジルパの子 - ガド、アシェル
レアの妹ラケルの子 - ヨセフ、ベニヤミン

彼らがイスラエル12部族の祖となったといわれるが、話は少し複雑である。まず、レビ族は祭司の家系であって継承する土地を持たないので12部族には入らない。またヨセフ族はなく、ヨセフの息子エフライムとマナセを祖とするエフライム族、マナセ族が加わることで十二部族となっている。このうちユダ族とベニヤミン族、レビ族以外の10部族は北イスラエル王国滅亡後に歴史から姿を消し、「イスラエルの失われた10支族」(イスラエルの失われた10部族)と呼ばれることになる。即ち、この意味ではユダヤ人とはイスラエルの子孫すべて(イスラエル民族)を指すのではなく、厳密にはユダ族・ベニヤミン族の2支族にレビ族を加えた人らを指す。最も、現在はイスラエル民族全般と改宗ユダヤ教徒もユダヤ人に含む概念が一般に浸透している。

クルアーンにおけるヤコブ[編集]

イスラム教の聖典『クルアーン』(コーラン)では、ヤコブすなわちヤアクーブは過去の預言者のひとりとして登場する。

しかしクルアーンにおいてヤアクーブは、彼自身を主人公とする物語ではなく、息子のユースフ(聖書のヨセフ)に関連する物語の中で言及される。クルアーンではユースフの物語は第12章「ユースフ」で一章を用いて詳しく述べられており、ヨセフが兄たちによって捨てられ悲嘆に暮れるという物語は共通している。ヤアクーブは愛息を失った悲しみのあまり盲目となったが、神(アッラーフ)の与えた運命を耐え抜いて神への信頼を守った。のち、エジプトに渡って立身したユースフと再会し、預言者であるユースフのもたらした神の奇蹟により視力を取り戻す。

ヤアクーブの名はムスリム(イスラム教徒)に好まれる男性名のひとつである。ヤアクーブの名をもつ代表的な人物は曖昧さ回避ヤアクーブを参照。

イスラエル

イスラエル国(イスラエルこく、ヘブライ語: מְדִינַת יִשְׂרָאֵל‎ メディナット・イスラエル、アラビア語: دولة إسرائيل‎ ダウラト・イスラーイール、英語: Israel )、通称イスラエルは、中東のパレスチナに位置する国家。現代のイスラエルはヨーロッパにおけるシオニズム運動を経て、シオニストのユダヤ人により建国された。建国の経緯から、パレスチナ人およびアラブ諸国との間にパレスチナ問題を抱えている。

同国はエルサレムが首都であると主張しているが、国連などはテルアビブをイスラエルの首都とみなしているため、これが承認されない場合もある(エルサレム#首都問題を参照)。



目次 [非表示]
1 歴史 1.1 古代
1.2 中世
1.3 近代から現代

2 パレスチナ問題 2.1 国連によるパレスチナ分割決議
2.2 土地の所有権
2.3 第三次中東戦争以降

3 地理 3.1 地理上の特徴
3.2 地形
3.3 行政区画
3.4 都市、山名、水名など

4 政治 4.1 立法
4.2 行政
4.3 司法
4.4 大統領
4.5 首相
4.6 政党

5 国際関係
6 軍事 6.1 イスラエル国防軍
6.2 核兵器保有の有無について

7 経済 7.1 科学研究
7.2 貧困問題

8 交通 8.1 自動車・バス
8.2 鉄道
8.3 航空

9 国民 9.1 民族と言語と宗教
9.2 宗教
9.3 言語
9.4 「ユダヤ人」の多様性
9.5 非ユダヤ人への反応

10 社会 10.1 社会福祉
10.2 教育
10.3 結婚
10.4 スポーツと健康

11 通信 11.1 電話
11.2 インターネット

12 著名な出身者
13 日本での評価
14 脚注
15 関連項目
16 外部リンク


歴史[編集]

詳細は「イスラエルの歴史」を参照

古代[編集]

詳細は「古代イスラエル」を参照





イスラエル王国とユダ王国紀元前11世紀頃 - この地に古代イスラエル王国が誕生。
紀元前922年 - 内乱のため、南北に分裂。
紀元前721年 - 北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされる。
紀元前612年 - 南のユダ王国は新バビロニアに滅ぼされる。
紀元前538年 - ペルシア王国が新バビロニアを滅ぼし、バビロニアの虜囚イスラエル人はキュロス大王によって解放される。
紀元前334年〜紀元前332年 - マケドニア王国のアレクサンドロス3世による東方征服でパレスチナの地が征服される。その後、マケドニアは分裂し、プトレマイオス朝、そしてセレウコス朝(シリア王国)の支配下に入る。
紀元前143年 - セレウコス朝の影響を脱しユダヤ人がこの地の支配を確立する(マカバイ戦争)。その後、ローマ帝国の属州となる。
66年 - ローマ帝国の属州であったユダヤの地でユダヤ戦争(第1次ユダヤ戦争)が勃発。独立を目指すが、70年にローマ帝国により鎮圧される。
132年 - ユダヤ人バル・コクバに率いられたバル・コクバの乱(第2次ユダヤ戦争)が起き、一時イスラエルは政権を奪還したが、135年に再びローマ帝国に鎮圧される。その後、現代イスラエル国が誕生するまで長い離散生活が始まったとされる(ディアスポラ)。
313年 - 東ローマ帝国の支配下に入る。

中世[編集]





エルサレム攻囲戦 (1099年)614年 - サーサーン朝ペルシア帝国の侵攻。
636年 - シリア地方のヤルムークの戦いで、皇帝ヘラクレイオス率いる東ローマ帝国軍がイスラム帝国軍に惨敗し、イスラエル地方がイスラム帝国軍に占領される。
637年 - イスラム帝国軍、エルサレムを占領(en:Siege of Jerusalem (637))。
1099年〜 十字軍がイスラエル地方を支配。
11世紀 - ガザのユダヤ人社会が繁栄。
1291年〜 マムルーク朝がイスラエル地方を支配。
1591年〜 オスマン帝国がイスラエル地方を支配。

近代から現代[編集]
1798年-1878年 - セルビアに住むセファルディム系の宗教的指導者ラビ・イェフダー・アルカライが聖地での贖罪を前提とした帰還を唱える。
1856年 - 医者であり作家でもあるルートヴィヒ・フォン・フランクルが聖地巡礼。エルサレム・ユダヤ人学校(Lämel Schule)を設立。
1881年 - 古代ヘブライ語を復活させたエリエゼル・ベン・イェフダーがイスラエルの地に帰還、ヘブライ語の復興・普及運動を開始。この頃、パレスチナに47万人のアラブ人がいた。
1882年 - 第一次アリヤー(ヘブライ語で「上がる」こと、シオン(エルサレム)への帰還の意) - 東ヨーロッパからの大規模な帰還
1897年 - 第1回シオニスト会議:後にイスラエル国歌となるハティクヴァがシオニズム讃歌となる。
1901年 - 第5回シオニスト会議:シオニズムとは国家か、文化か、宗教復興か、何を優先するか鋭い対立の後、ヘブライ大学の創設を可決。
1902年 - ヘブライ語を話す家庭はわずかに10家族。
1904年 - 第二次アリヤー:ベン・イェフダーへの賛同者が増え、ヘブライ語で授業を行う学校が増えていく。
1909年 - ルーマニアからの移民がテル・アビーブ建設。





サイクス=ピコ協定により分割された中東1917年 11月2日 - 英国外相バルフォアがシオニズム支持を表明する(バルフォア宣言)。
12月 - 英国軍、オスマン軍を破り、エルサレム入城。

1920年2月8日 - 英国軍需相ウィンストン・チャーチル、「Illustrated Sunday Herald」紙でユダヤ人国家支持を表明。
1923年 - イギリス、ゴラン高原をフランス委任統治領(シリアの一部)として割譲。
1925年 ユダヤ・アラブ・ワーキンググループ「平和の契約 brīth šālôm」設立(ゲルショム・ショーレム、ユダ・マグネス、フーゴ・ベルクマン、エルンスト・ジーモン、ダヴィド・ベングリオンら参与)。
4月1日 - ヘブライ大学開校式。

1929年 ユダヤ教の聖地ツファットで、アラブ人テロリストの襲撃により133名のユダヤ教徒が殺害される。
ヘブロン事件 - ユダヤ教の聖地ヘブロンで60名のユダヤ教徒が殺害され、コミュニティーがほぼ滅亡。

1931年 - 第17回シオニスト会議:ダヴィド・ベングリオン、二つ以上の民族が、どちらが支配権を得るのでもない二民族共存国家構想を支持。
1937年 英国政府、ユダヤ人地区とアラブ人地区の分割を提案するが、アラブ側は拒否。
ユダヤ教宗教哲学者マルティン・ブーバーが「アラブ・ユダヤ和解協力連盟」設立(後に「イフード運動」が分立)。

1946年 パレスチナにはパレスチナ人が130万人、ユダヤ人が70万人居住。
ユダヤ人物理学者アルベルト・アインシュタイン、国連によるパレスチナの統治を提唱。
「アラブ・ユダヤ民族国家」建国を提唱していたパレスチナ人のシオニズム支持団体「新しいパレスチナ」代表、ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニーが暗殺される。この団体はイフードに共鳴し、「ユダヤ人とアラブ人が、ともに植民地主義と闘う」ことを表明していた。

1946年7月7日 - エルサレムで、キング・デイヴィド・ホテル爆破事件(ユダヤ勢力による英国へのテロ)発生。





第一次中東戦争1948年 2月23日 - エルサレムで、アラブ人テロリストの爆弾テロにより、55名のユダヤ人が殺害される。
3月4日 - アタロトで、アラブ人が16人のユダヤ人を待ち伏せ攻撃し、殺害。
4月8日 - デイル・ヤシーン事件:シオニスト武装集団によりアラブ人の村民250人以上が殺害される。
4月13日 - シェイフヤラ・ハダサー医療従事者殺害事件(英語版):アラブ人テロリストによる護送車襲撃事件。エルサレム郊外にあるユダヤ系のハダサー病院へ向かう医師・看護婦・ヘブライ大学教授・職員70人以上が殺害される。
5月12日 - クファール・エツィオンで、アラブ側により100人のユダヤ人が殺害される。
5月14日 - イスラエル国として独立宣言。ベングリオンが初代首相となる。
5月15日 - 第一次中東戦争。国連決議より広範囲の土地をイスラエルが占領。
9月 - ユダヤ人過激派により国連調停官ベルナドッテ伯暗殺。

1949年5月11日 - 国際連合に加盟。
1956年 - 第二次中東戦争。エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化宣言に対応して、英・仏・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻。米・ソの仲介により三国は撤退。
1967年 - 第三次中東戦争(六日間戦争)。エジプトのナセル大統領による紅海のティラン海峡封鎖が引き金となり、イスラエルが「先制攻撃」を実施。エジプトからシナイ半島とガザ地区を、同戦争に参戦したシリアからゴラン高原を、ヨルダンから東エルサレムとヨルダン川西岸全域を奪取。六日間でイスラエルの圧倒的勝利に終わる。
1972年 - テルアビブ空港乱射事件。極左組織である日本赤軍がテルアビブ空港において無差別の銃乱射事件を起こす。この影響で日本・イスラエルの友好関係が悪化。
1972年 - ミュンヘンオリンピック事件。旧西ドイツでミュンヘンオリンピック開催中に、パレスチナ武装組織「黒い九月」がイスラエル選手村を襲撃、選手・コーチを人質に収監パレスチナ人の解放を要求。最終的に選手・コーチ11人が死亡した。報復としてイスラエルはパレスチナゲリラの基地を空爆、さらに黒い九月メンバーの暗殺作戦(神の怒り作戦)を実行したと言われている。
1973年 - 第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)。エジプトのサダト大統領がシナイ半島奪還を目的としてユダヤ教の祝日「大贖罪の日(ヨム・キプール)」にイスラエル軍に攻撃を開始。イスラエル軍の不敗神話が崩壊する。その後、アリエル・シャロン将軍が復帰、スエズ渡河作戦を実行。形勢は逆転し、17日で停戦に至る。
1976年 - エンテベ人質救出作戦。一部のパレスチナ過激派がエールフランス機をハイジャック、ユダヤ人またはイスラエル人以外を解放し、ウガンダのエンテベ空港に着陸。同国のアミン大統領の庇護のもと膠着状態が続くが、イスラエルのラビン首相は特殊部隊を派遣し、人質奪回とハイジャッカーの全員射殺に成功。その際にイスラエルの実行部隊で唯一戦死したヨナタン・ネタニヤフ中佐の名前をとり、この作戦は「オペレーション・ヨナタン」と名づけられた。なお、ヨナタンはベンヤミン(ビビ)・ネタニヤフ元首相の実兄であり、同氏の対パレスチナ強硬姿勢の原点になったといわれている。
1977年 - サダト大統領のエルサレム訪問。これまで仇敵であったエジプトのサダト大統領がエルサレム訪問を宣言し、クネセット(イスラエル国会議事堂)で演説を行う。二年後の平和条約締結の第一歩となる。





エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相1979年 - イスラエル・エジプト平和条約締結。イスラエルが占領していたシナイ半島の返還に合意し、米国のカーター大統領の仲介のもと、キャンプ・デーヴィッドにてエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が調印。イスラエルにとって初のアラブの隣国との平和条約となる。
1981年 - イラク原子炉爆撃事件。かねてからフランスからの技術協力を得て原爆の開発を進めていたイラクのフセイン大統領(当時)の野望を阻止するため、イスラエル空軍はバグダッド郊外のオシラクで建設中だった原子炉を爆撃。
1982年 - レバノン侵攻(ガリラヤ平和作戦)。レバノン南部からのパレスチナ人によるイスラエル北部へのテロ攻撃を鎮圧し、レバノン国内の少数派キリスト教徒保護と親イスラエル政権の樹立、平和条約締結を目指すという目的で、レバノン侵攻を開始。アリエル・シャロン国防相に率いられたイスラエル軍は首都 ベイルートに入城。PLOのアラファト議長の追放に成功する。しかし、イスラエルの同盟軍であるマロン派キリスト教徒が、シリアによるリーダーのバシル・ジュマイル大統領暗殺に憤激し、パレスチナ人難民の居住区であったサブラ・シャティーラ・キャンプに侵入し、殺害事件を引き起こす。アリエル・シャロン国防相は「殺害を傍観した不作為の罪」を問われ、国防相を辞任。また、「キリスト教徒による親イスラエル政権の樹立、平和条約の締結」もならず、イスラエルにとっては後味の悪い結果に終わる。
1991年 - 湾岸戦争が発生し、テル・アヴィヴを標的としたイラクによるスカッドミサイルの攻撃を受ける。
1992年 - 米国の主導により、マドリッド会議開催。PLOとの顔合わせの機会となる。
1993年 - オスロ協定成立。PLOによるヨルダン川西岸及びガザ地区の自治が始まる。
1995年 - ユダヤ人過激派によりラビン首相が射殺される。
2006年 - イスラム武装組織ヒズボラ鎮圧を目的にレバノンに再侵攻(レバノン侵攻)。
2008年 - 12月27日、パレスチナ自治区ガザ地区のハマースに対し空爆。地上侵攻を開始(ガザ侵攻 (2009年))。
2009年 - 1月3日、地上侵攻を開始(ガザ侵攻 (2009年))。
2010年 - 8月3日、レバノンと衝突。

パレスチナ問題[編集]

詳細は「パレスチナ問題」を参照

イスラエルを説明する上で、外すことが出来ないのが、パレスチナの所有に関する問題、いわゆるパレスチナ問題である。

国連によるパレスチナ分割決議[編集]





国連によるパレスチナ分割決議(1947年)
第一次世界大戦でユダヤ軍・アラブ軍は共にイギリス軍の一員としてオスマン帝国と対決し、現在のヨルダンを含む「パレスチナ」はイギリス委任統治領パレスチナとなった。

現在のパレスチナの地へのユダヤ人帰還運動は長い歴史を持っており、ユダヤ人と共に平和な世俗国家を築こうとするアラブ人も多かった。ユダヤ人はヘブライ語を口語として復活させ、 アラブ人とともに衝突がありながらも、安定した社会を築き上げていた。

しかし、1947年の段階で、ユダヤ人入植者の増大とそれに反発するアラブ民族主義者によるユダヤ人移住・建国反対の運動の結果として、ヨルダンのフセイン国王らの推進していたイフード運動(民族性・宗教性を表に出さない、平和統合国家案)は非現実的な様相を呈し、イギリスは遂に国際連合にこの問題の仲介を委ねた。

ここで注意しなければならないのが、アラブ人過激派やその指導者の(あるいは双方の)過剰反応、アラブ民族主義・汎アラブ主義との衝突、列強の政策とのリンキング(啓典の民、イェフーディーなど参照)、という側面である。

イスラエルはこの国際連合総会決議181(通称パレスチナ分割決議、1947年11月29日採択)に基づき、1948年5月14日に独立宣言し、誕生した「ユダヤ人」主導国家である。この決議は人口の3分の1に満たないユダヤ人に、国土の3分の2以上を与える内容であった。さらに、その領域は第一次中東戦争の結果、国連総会決議よりも大幅に広いものとなっている。

土地の所有権[編集]

ユダヤ人国家を建国したものの「そこはシオニストの宣伝していたような無人の土地ではなかった」という主張をする者もいる。「アラブ人(パレスチナ人と同一とみなされることが多い)が住み、アラブ・イスラムを主体とした国家を作ろうとする者もいた」とする者もいる。そもそも、パレスチナ人やアラブ人というのは宗教上の区別に過ぎず、土着のユダヤ人とは人種的に同一といわれている。しかし、ユダヤ人とは事実上ユダヤ教徒を指すために事態がややこしくなった。

ただ、これらの点について「ユダヤ人とアラブ人は長期間にわたって血で血を洗う抗争を繰り広げてきた。従って、譲歩はありえない」というような現在まかり通っている見解は、宗教や歴史・政治に無関心な者による大きな誤りの一つである。歴史的に見ても、イスラエルの地に住まうイスラム教徒・キリスト教徒とユダヤ人は共栄・共存を願ってきた。一言で単純に語ることができないほど長く複雑なバックボーンを持つことは明白である。

アラブ人を主体とする周辺国家はユダヤ人を「アラブの土地」を奪うものと位置づけ、イスラエル独立宣言の当日からイスラエルに対し宣戦布告し、パレスチナのユダヤ人居住地域に攻め込むなどして、「土地の領有を巡る」第一次中東戦争が勃発した(この時点では、国連の分割決議による「イスラエル領」の決議はあったものの、その全域を実効支配していたわけではなかった)。人口の一割を失う激戦でイスラエルは戦争に勝利し、分割決議より多くの領土を獲得した。アラブ諸国は「国連分割案を上回る地域にまで侵攻し停戦後も占領し続けた」と主張した。イスラエル側は第一次中東戦争を独立戦争と呼び、戦争の目的を「アラブ人の過激派の攻撃を防ぎ、ユダヤ人と多民族が安心して暮らせる、ユダヤ人主導の国家を樹立すること」としていたとされる。

イスラエルは一部のアラブ系住民に土地に残るよう勧めたとされ、これが現在の100万人以上のアラブ系イスラエル国民の祖先となっている。しかし、ダビッド・ベングリオンをはじめイスラエル首脳陣側に、アラブ人人口が少なくなったほうがユダヤ国家の建国に有利という考えがあったことは確かである。

戦闘やテロ・扇動の結果、1948年の時点でパレスチナの地に住んでいたアラブ人が大量に周辺地域に移住し、難民と化した(パレスチナ難民)とされる。パレスチナ難民の多くは避難先のアラブ社会には吸収されず、アラブ過激派の扇動や活動(「抵抗運動」)などの結果、アラブ過激派(抵抗組織)の意図した反イスラエルの象徴とする作戦に包含されていたと考える場合もある。

また、逆にイスラム世界に住んでいた多くのユダヤ系住民(セファルディム、ミズラヒム)が土地を追われて難民化し、イスラエルに逃げ込んだ。このとき、イスラエルは世界各地のディアスポラ住民を極力救おうとした(イスラエルの作戦一覧参照)と主張する。それによるとアラブ人とユダヤ教徒の「住民交換」が起きたとする見方をとる。

停戦後、パレスチナには民族主義的ゲリラ(「抵抗組織」)が活動し、パレスチナ「解放」や「難民」の「帰還権」を訴えた。戦後50年以上経過しながら各地のアラブ社会に吸収されないパレスチナ難民は、初期の60万から80万人という人数から現在の総数に膨れ上がっている。そのため、パレスチナへの帰還はイスラエル政府からは非現実的と考えられている。

第三次中東戦争以降[編集]





第三次中東戦争にて占領した地域
エジプトによるチラン海峡封鎖宣言に端を発する[第三次中東戦争]によって、ヨルダン・エジプトによって占領されていたヨルダン川西岸地区・ガザ地区と、シリアの砲台があったゴラン高原はイスラエルの管理下に入り、ユダヤ教の宗教者はそれまで立ち入ることのできなかったエルサレム旧市街と嘆きの壁・ヘブロン市、ゴラン高原などに押しかけ、アラブ人居住区にあったシナゴーグも再建した。イスラエルのサマリア人はナブルスでの過ぎ越しの祭りを執り行うことができるようになった。スコープス山にあったヘブライ大学の建物も使えるようになった。

イスラエルの主張では、国連決議181を拒否した時点でパレスチナ全土にユダヤ人国家による施政権が認められており、また、占領は平和条約締結まで戦勝国に認められている合法的行為であるとしている。前者の立場に立つ場合、占領には当たらない。

イスラエル政府により電気・水道などのインフラの整備が進み、経済が発展し、急患はイスラエルで高度な治療を受けられるようになった。テロに関与せずに安全と判断されたパレスチナ人(主として、若者ではない人々)はイスラエルで働くことができるようになった。ただし、占領統治行為に伴う、イスラエル治安維持部隊による発砲で犠牲になったパレスチナ人も少なくない。また、一部のパレスチナ住民は産業が形成されず、慢性的失業・貧困状態が続いており、また統治者のイスラエルに対する反発が大きいため、これもテロリズム(「抵抗運動」)の温床・要因の一つになっているといわれる。

パレスチナ問題とは、イスラエルの西岸・ガザなどにおける地位、あるいはイスラエルに敵対する一部アラブ諸国が、その手段としてパレスチナ人を利用している代理戦争だともいわれる。

パレスチナ問題には、書き切れない程の長く複雑な歴史・過程がある。アラブ諸国から見れば、2000年前に住んでいたという理由で勝手に押しかけてきたという主張がなされることもある。一方、ユダヤ人側からはこのような主張は共存への道をも否定しようとするものであるとの主張がなされる。

米国の政権は、政治的立場の維持に対して国内ユダヤ人の貢献が大きいため、イスラエル寄りの政策を続けている。例えば、国際連合安全保障理事会でイスラエルを非難する、あるいは何らかの制約を求める提案が出されると、非常に高い確率で米国が拒否権を発動する。イスラエルは米国の拒否権により国連などの国際的非難から守られていると言える。他方では、中東各国政府が、パレスチナにおける紛争などを利用し、若者を始めとした様々な「不満・怒り」を一点に振り向け、過激派の矛先が自分たちに向かわないようにしてきたためでもある。すなわち、イスラエル批判のストーリーを、政治的問題の駆け引きに、また、経済的問題への不満をかわすことに使っていると言える。中東の若者には貧富の格差による「不公平感」があると言われる。また、経済は好調であっても、人口急増によって雇用が十分でない、などの問題があるとも言われる。

1993年以降、パレスチナには自治政府が設置された。今日に至るまで、パレスチナ問題は解決の目途が立っていないが、将来の国家像についてはイスラエルとの連合国家案、連邦案など様々ある。

地理[編集]





イスラエルの衛星写真
詳細は「イスラエルの地理」および「:en:Geography of Israel」を参照

地理上の特徴[編集]

北にレバノン、北東にシリア、東にヨルダン、南西にエジプトと接する。西側は地中海である。ヨルダンとの国境付近に、世界的にも高濃度の塩湖である死海がある。

国境及び休戦ライン内にあるイスラエルの地域は、パレスチナ人自治機関の管理地域を含め、27,800km2である。国土は狭く、南北に細長い。南北には470kmあるが、東西は一番離れた地点間でも135kmである。車での走行時間は、北のメトゥーラから最南端の町エイラットまでは約9時間かかるが、西の地中海から東の死海までならば90分ほどしかかからない。ジュディアの丘陵にあるエルサレムから海岸沿いのテルアビブまで、また、標高835mにあるエルサレムから海抜下398mの死海までならば、1時間とかからない。

地形[編集]

イスラエルは地理学的には4つの地帯に分けられる。その3つは同じように北から南に長く伸びる地帯で、残る1つは国の南半分にあたる広大な乾燥した地帯である。

行政区画[編集]

詳細は「イスラエルの行政区画」を参照

都市、山名、水名など[編集]
ハ=ツァフォン地区 hatzTzafon (北部地区:いわゆるガリラヤ地方、イズレエルの谷など) メトゥラ Metullah
キリヤット・シュモナ Qiriyat Shemona
フラ湖、フラ峡谷、(メロムの水) Hulah Valley
スーシータ(ヒッポス) Hippos, Susita'(ガリラヤ湖の東)
エン・ゲブ En Gev(ガリラヤ湖の東)
メィロン (イスラエル) Meron :シモン・バル=ヨハイ、ヒレル、シャンマイらの墓。 メィロン山 Har Meron

ツファット(サフェド):ユダヤ教の聖地の一つ。
クファル・ナフム(カペルナウム、カペナウム) Capernaum
ナハリヤ
クファル・カナ
ツィッポリ(セフォリス)
ベィト・シェアリーム Beyth Shə‘arim :2世紀以降はユダ・ハ=ナシの住むサンヘドリンの町、3世紀以降はイスラエルの地とディアスポラからの帰還者のユダヤ人の共同のカタコンベとなる。
ナツェレット(ナザレ)
ウーシャ Usha :2世紀後半以降のサンヘドリンのあった町。
ティベリア:ユダヤ教の聖地の一つ。
アフラ(オフェル)
ベト・シェアン(スキトポリス)
メギド(ハルマゲドン)
ウーシャ
ベート・シェアリーム

ヘイファ地区(ハイファ地区) キリヤット・モツキン
キリヤット・ヤム
キリヤット・ビアリック
キリヤット・アタ
ドル
カルメル山
イスフィヤー Isfiya'
アトリット Atlit
パルデス・ハナ Pardes Channah
ハデラ Hadera
ハイファ Chephah
ジスル・エッ・ザルカー Jisr ez Zarqa
カルクール Kalkur
カイサリア Qesariyyah
オール・アキバ Or Aqibhah
セドット・ヤム Sedot Yam
ウンム・エル=ファヘム Umm el Fahm
バーカ・エル=ガルビーヤ Baqa el Gharbiyah

ハ=メルカズ地区 hamMerkaz (中部地区) ネタニヤ Netanya
ラアナナ Ra'ananna
カフル・カーシム Kafr Qasim
ロシュ・ハ=アイン Rosh ha'ayn
テル・アフェク(アンティパトリス) Tel Afeq
ペタハ・ティクバ Petach Tiqwah
キリヤット・オノ Qiryat Ono
ショハム Shoham
ベィト・アリフ
ハディド
ロッド(リッダ)
ラムラ
モディイム(遺跡)&モディイン(都市)
レホヴォト
ゲゼル
リション・レツィヨン
ヤブネ






テルアビブテルアビブ地区 ヘルツェリヤ&アポロニア
ラマット・ハ=シャロン
ラマト・ガン
ブネィ・ブラク
ギヴァタイム
テルアビブ イスラエルにある大都市。イスラエル経済の中心地。国連によって承認されているイスラエルの首都。ブネィ・ブラク Bnei Brak / Bənēy Bərāq:アキバ・ベン・ヨセフのイェシバー(学塾、学院)のあった町。現在はハシディズムのコミュニティーの名前。

バット・ヤム
ホロン:サマリア人のコミュニティーがある。






エルサレムエルサレム地区 ベト・シェメシュ
イェルシャライム(エルサレム)(西エルサレムと東エルサレム) メア・シェアリーム
西部はイスラエル領であり、東部についてはイスラエルが領有を主張しているもののパレスチナ自治政府も領有を主張している内陸都市。ユダヤ教・キリスト教、またイスラム教の第三の聖地でもある。

ハ=ダロム地区 hadDarom (南部地区) アシュドッド
アシュケロン
ベエルシェバ
ディモナ
アラド
マツァーダ mətzādhāh(マサダ)
エン・ゲディ
ミドレシェト・ベン・グリオン
ミツペ・ラモン
ネゲヴ砂漠
エイラット

ヨルダン川西岸地区(ユダヤ・サマリア地区)(パレスチナ自治政府が統治) サバスティーヤ; ショメロン; サマリア
ナブルス(ナーブルス); シェヘム(シケム); ネアポリス:祝福の山とされたゲリジム山には、サマリア人の神殿がある。
ベテル; ベイティーン
ラマラ(ラーム・アッラー)
ベツレヘム
グーシュ・エツヨン:ユダヤ人居住地の集合体の一つ
ヘブロン:アル・ハリール:ユダヤ教の聖地の一つ。
エリコ(イェリホ); アリーハー
クムラン
アリエル:イスラエル側の施政下にある入植地。
マーレ・アドミム:イスラエル側入植地。エルサレム郊外。

ガザ地区(パレスチナ自治政府が統治) ガザ; アザ

ゴラン高原(旧クネィティラ県;イスラエルの法律が適用) カツェリン
ミグダル・シャムス
マスアデ


政治[編集]

詳細は「イスラエルの政治」を参照

イスラエルは議会制民主主義を採用している。行政府(政府)は、立法府(クネセト)の信任を受け、司法府(裁判所)は法により完全なる独立を保証されている。イスラエルは不文憲法であり、国家の政治システムを規定した「基本法」は通常の法律と同等に改正することができる。

立法[編集]

詳細は「クネセト」を参照





クネセト
イスラエルの国会(クネセト)は一院制。議員定数は120名で政党名簿比例代表(拘束名簿式)により選出される。その名称と定数は紀元前5世紀にエズラとネヘミヤによってエルサレムに招集されたユダヤの代表機関、クネセット・ハグドラ(大議会)に由来する。

行政[編集]

国家の最高行政機関である政府は、国家の安全保障を含む内外の諸問題を担当し、クネセトに対して責任を有し、その信任を受けねばならない。政府の政策決定権には極めて幅がある。法により他の機関に委任されていない問題について、行動をとる権利を認められている。
官公庁 内閣
外務省
国防省
大蔵省
産業貿易省
法務省
教育省
国内治安省
通信省
内務省
運輸省
農林水産省
科学・文化・スポーツ省
国家基盤省
観光省
建設・住宅省
環境省
労働・社会省
宗教省(間も無く廃止の予定)
エルサレム問題担当省
保健省


司法[編集]





最高裁判所
司法の独立は法により完全に保証されている。最高裁判事3名、弁護士協会メンバー、政官界者(閣僚、国会議員など)で構成される指名委員会があり、判事はこの委員会の推薦により大統領が任命する。判事の任期は無期(70歳定年)。

また、国家安全に対するスパイ行為とナチスによるホロコーストを除き、死刑を廃止している。しかし、パレスチナ人に対する超法規的な暗殺は日常的に行われている。テロリストといえども法によって死刑にされることはないが、裁判に掛けることなく殺している。予防拘禁など、治安立法も数多く制定されている[2]。

大統領[編集]

詳細は「イスラエルの大統領」を参照

大統領の仕事は儀式的性格が強いが、法によって規定されている。新国会の開会式の開会宣言、外国大使の信任状受理、クネセットの採択ないしは批准した法、条約の署名、当該機関の推薦するイスラエルの大使、裁判官、イスラエル銀行総裁の任命、法務大臣の勧告にもとづく受刑者の特赦、減刑が、仕事に含まれている。さまざまな公式任務のほか、市民の諸願の聴取といった非公式な仕事もある。大統領としての威信をコミュニティ組織に及ぼし、社会全体の生活の質を高めるキャンペーンに力をかす。

首相[編集]

詳細は「イスラエルの首相」を参照

2009年3月31日、国会は、過半数の賛同で右派政党リクードのベンヤミン・ネタニヤフ党首の首相就任を承認した。リクード、「わが家イスラエル」、宗教政党シャス、労働党からなる新政権が誕生した。ネタニヤフ首相は、パレスチナとの和平交渉を強調、経済、安全保障、外交の各分野で交渉を実施するとのべた。パレスチナ国家実現を前提とする二国家共存については触れなかった。

政党[編集]

詳細は「イスラエルの政党」を参照

イスラエルの政府は伝統的に複数の政党による連立政権により運営されてきた。これは絶対多数の形成が生じにくい選挙制度に由来する。次の二党が連立政府の中心となってきた。
リクード(世俗的右派)
労働党(左派)

2006年3月28日に行われた総選挙では、中道政党カディマが29議席と第1党に躍り出た。カディマは労働党などと連立政権を組んだ。



[隠す]

表・話・編・歴
イスラエルの政党 イスラエルの旗


 カディマ -リクード・我が家( リクード - イスラエル我が家の統一会派) - 労働党 - シャス - ユダヤ・トーラ連合(アグダート・イスラエル、デゲル・ハトラー) - 統一アラブ・リスト・タール - ハダシュ(マキ) - メレツ - ユダヤの家 - バラド - イェシュ・アティッド - ハトヌア


Portal:政治学 - 政党の一覧 - イスラエルの政治


国際関係[編集]

「米以関係」も参照





「青色」イスラエルと外交関係を有する国;「橙色」イスラエルと外交関係を有しない国;「黄色」過去に外交関係を有したが、現在は有しない国
国際連合加盟国のうち、160ヶ国と国交がある。

国交のない主な国々
イランの旗 イラン
シリアの旗 シリア
レバノンの旗 レバノン
サウジアラビアの旗 サウジアラビア
マレーシアの旗 マレーシア
インドネシアの旗 インドネシア
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
キューバの旗 キューバ
ボリビアの旗 ボリビア
ベネズエラの旗 ベネズエラ ほか

軍事[編集]

イスラエル国防軍[編集]

詳細は「イスラエル国防軍」を参照





国産主力戦車メルカバ Mk 4
1948年の建国と共に創設されたイスラエル国防軍(IDF)は、国の防衛の任にあたる。建国以来の度重なる周辺アラブ諸国との実戦経験により、世界でもアメリカ軍と共に最も練度の高い軍であるとされる。

文字通りの国民皆兵国家であり、満18歳で男子は3年、女子は2年の兵役に服さねばならず、その後も予備役がある。能力があれば兵役猶予が認められ、高等教育機関で学ぶ機会を与えられる。拒否した場合は3年の禁錮刑を受けることになるが、女子のみ条件は少し厳しいものの良心的兵役拒否が可能である。少数派のドゥルーズ派の信徒とベドウィンは兵役に服すが、超正統派ユダヤ教徒、アラブ系イスラエル人(ユダヤ教徒でないもの)は男子でも兵役が免除されている。

イスラエルは国土が縦深性に欠け、一部でも占領されれば国土や産業、国民にとって致命的なダメージを受ける。そのため、戦時には戦域を敵の領土に限定し早急に決着をつけることを戦略計画としている。有り体にいえば、先制攻撃を仕掛け、敵の攻撃力を早期に無力化することを主眼においている。この姿勢は、イスラエルには国家の安寧を守るという前提があるにもかかわらず、イスラエルを好戦的な国家とみなす論者が多い一因となっている。なお、イスラエル国防軍の現在の任務には、パレスチナ自治機関と協調しつつヨルダン川西岸及びガザの治安を保持すること、国内及び国境周辺で生じるテロ対策も含まれている。

兵器の多くは、建国初期は西側諸国からの供給や中古兵器の再利用に頼っていたが、その後主力戦車メルカバや戦闘機クフィルなど特別のニーズに応じた兵器を国内で開発・生産しており、輸出も積極的に行っている。海外との軍事技術交流(下記の科学研究参照)も多い。なお、国産兵器は、メルカバに代表されるように人的資源の重要性から防御力・生存性に重点を置いたものが多い。

国連児童基金はパレスチナ人の子供達がイスラエル軍から軍事裁判にかけられ、拘留下において「広範囲にわたる計画的で制度化された」暴行・虐待を受けているとする報告書を発表した[3]。

核兵器保有の有無について[編集]

核拡散防止条約(NPT)に加入していないイスラエルは核保有に関して肯定も否定もしていない。「イスラエルは最初に核を使用する国にはならないが、二番目に甘んじることも無い」という談話もあり、周辺国を牽制するための「曖昧政策」とも称されている。しかし、核技術者モルデハイ・ヴァヌヌの内部告発などの状況証拠から、国際社会においては核保有はほぼ確実視されており、アメリカも核保有を事実上認めている。なお、核兵器の保有数については、アメリカ科学者連盟のデータによると、約80発とのことである。

「イスラエルの大量破壊兵器」も参照

「ユダヤ系勢力の意向を強く受ける」とされる[要出典]アメリカが、イスラエルの核開発を裏面で支援してきたという意見[要出典]も(核弾頭自体を供与したという説[要出典]も)存在する。イスラエルと、それ以外の諸国の核開発に対するアメリカ合衆国の姿勢の相違は「二重規範である」としてしばしば批判[要出典]を受ける。

2006年12月5日、アメリカ上院軍事委員会公聴会で、次期国防長官に決定したロバート・ゲーツが「(イランが核兵器開発を進めるのは)核保有国に囲まれているからだ。東にパキスタン、北にロシア、西にイスラエル、ペルシャ湾には我々(アメリカ)がいる」と発言。アメリカ側が初めてイスラエルの核保有を公言したことになるため、注目された。イスラエルはペレス特別副首相が「イスラエルは核保有をこれまで確認したことはない」と従来の見解を繰り返した(イスラエル:秘密の核保有を米ゲーツ氏が“公表” 騒動に)。

しかし、12月11日、ドイツの衛星放送テレビ局「SAT1」のインタビューで、オルメルト首相は「イスラエルは、他国を脅かしたりしない。しかし、イランはイスラエルを地図上から消滅させると公言している。そのイランが核兵器を保有しようとしていて、フランス、アメリカ、ロシア、イスラエルと同じレベルで話し合えるはずがない」と、核保有を認めたと取れる[要出典]発言を行った(イスラエル首相、核兵器保有示唆で波紋広がる)。オルメルトは、翌日のドイツのメルケル首相との合同記者会見で核保有を否定したが、イランが非難声明を出すなど、波紋が広がっている。

2007年1月2日、リーベルマン戦略問題担当相は、新たに国連事務総長となった潘基文に、イランの国連除名を要求する手紙を送った。また、イギリスのタブロイド紙「サンデータイムズ」1月7日号によると、イスラエル軍筋の話として、イラン中部ナタンズのウラン濃縮施設を戦術核兵器で攻撃する計画を作成したと報じた。

経済[編集]





ラマト・ガンのダイヤモンド取引所地区
IMFの統計によると、2010年のイスラエルのGDPは2012億ドル(約16兆円)であり[4]、静岡県とほぼ同じ経済規模である[5]。 イスラエルはわずか人口650万人余りの小さな国ではあるが、農業、灌漑、そして様々なハイテク及び電子ベンチャー産業において長年にわたり世界各国で最先端をいき、過去20年間では、ヨーロッパ諸国及びアメリカとの自由貿易地域協定により商品及びサービスの輸出を拡大し(2000年には年間450億ドルの輸出)、更に1990年代の加速度的な経済成長をもたらした国際的な企業活動への参加を促進した。そして、2000年にはGDP成長率が6.4%を記録し、イスラエルの経済活動の急成長ぶりが示された。しかし、治安状況の悪化により、経済活動はほぼ全分野において著しい低迷が続いている。事実、2001年には、過去50年で初めてGDPが減少している。

また、イスラエルは中東のシリコンバレーとも呼ばれ、インテルやマイクロソフトなどの世界的に有名な企業の研究所が軒を連ねる。ちなみに、国際連合加盟国の中では先進国に分類される。

イスラエルの鉱業を支えているのは、カリ塩とリン鉱石である。2003年の時点で、それぞれの世界シェアは5位(193万トン)、9位(102万トン)である。金属鉱物は採掘されていない。有機鉱物では亜炭、原油、天然ガスとも産出するものの、国内消費量の1%未満にとどまる。

科学研究[編集]

イスラエルは、科学研究の水準が非常に高い。イスラエルは専門資格を持った人材資源が豊富であり、自国がもつ科学的資源や専門知識を駆使して、国際協力において重要な役割を果たしてきた。イスラエルはいくつかの分野に限定して専門化し、国際的な努力を注ぎ、国の存亡に欠かすことができない高度な民生技術・軍事技術成果を得ようと奮闘している。科学技術研究に携わるイスラエル人の比率、及び研究開発に注がれる資金の額は、GDPとの比率でみると世界有数の高率である。

また、労働力数との比率でみると、自然科学、工学、農業、医学の分野における論文執筆者の数は世界一である。医学とその周辺分野、並びに生物工学の分野では、極めて進んだ研究開発基盤を持ち、広範囲な研究に取り組んでいる。研究は、大学医学部・各種国立研究機関を始め、医薬、生物工学、食品加工、医療機器、軍需産業の各メーカーの研究開発部門でも活発に行われている。イスラエルの研究水準の高さは世界によく知られており、海外の医学、科学分野、軍事技術の研究諸機関との相互交流も盛んである。また、イスラエルでは医学上の様々な議題の国際会議が頻繁に開催されている。さらに、軍需製品の性能・品質は世界に見ても非常に高い。

暗号理論の水準が高いとされ、インターネットのセキュリティーにおいて重要な役割を演じるファイアーウォールや公開鍵の開発において、イスラエルは、重要な役割を果たして来た。

又、主に軍事目的で独自に人工衛星も打ち上げている(ちなみに、通常の人工衛星は地球の自転を利用して東向きに打ち上げられるが、イスラエルの衛星はすべて西向きに打ち上げられている。これは、東向きでは対立するアラブ諸国に機体が落下して思わぬ紛争の火種になる恐れがあるからである)。また、2003年、イスラエル初の宇宙飛行士として空軍パイロットのイラン・ラモーン大佐がアメリカのスペースシャトル・コロンビアで宇宙に飛び立ったが、大気圏再突入時の空中分解事故により亡くなった。

貧困問題[編集]

先進国とされているイスラエルだが、深刻な貧困問題を抱えている。イスラエルは、かねてから所得格差が大きかったり、貧困に苦しむ国民が多いことが指摘されていた。2010年12月22日の「ハアレツ」紙によると、イスラエルの全人口のうち、およそ177万人が貧困状態にあり、うち85万人は子供であると言う。貧困状態にある世帯の約75%は日々の食料にも事欠いているとされ、極めて深刻な実態が浮き彫りとなった。貧困状態にある子供たちの中には物乞いをしたり、親に盗みを働くよう強制される事例もあるという[6]。

イスラエルには憲法が存在しない代わりに「基本法」が存在しており(本来ならイスラエル建国時に憲法を制定する予定だったが、第一次中東戦争の最中だったため、暫定憲法として基本法がつくられ、それが現存している)、その基本法の「人間の尊厳と自由」と言う項目の第4条に「何人たりとも、生命、身体、(人間としての)尊厳が保護される」と書かれている。更に、イスラエルには1954年に制定された「国民健康法」に基づき、収入が最低基準以下の世帯と個人に対しては国民保険機構から補助金が支給されている(≒生活保護)。また、児童手当も支給されており、特に4人以上の子供がいる家庭には手厚い福祉が施されている[7]。にも関わらず先述のような実態がある。貧しい子供たちのために、無料給食や補講などを実施している学校「エル・ハ=マーヤン」の運営母体である超正統派政党「シャス」のエリ・イシャイ党首は、「国民保険制度研究所さえ、政府の俸給を増やすことのみが貧困を解消する唯一の方法と断定した。このような他の政府機関からかけ離れた見通しが長きに渡ってなされているのは恥である」と述べた。また、中道左派政党「労働党」の議員であるシェリー・ヤシモビッチはイスラエル国内でのワーキングプアの増大を指摘している。また、左派政党「メレツ」のハイム・オロン党首は「政府は(資本主義における)結果的格差を肯定しているが、貧困の根本原因を取り除かなければならない」と指摘している[8]。

イスラエルの大手新聞「ハアレツ」の電子版には、貧困と空腹にあえぐイスラエルの子供たちを支援するアメリカ合衆国の法人である「Meir Panim」の広告が頻繁に掲載されている。

2011年6月現在首相の座にあるベンヤミン・ネタニヤフは、かつてのイギリスの首相であるマーガレット・サッチャーを尊敬している急進的な新自由主義者、右派であり、貧困や格差問題の解決に本腰を入れていない。よって、Meir Panimのような民間の法人がもっぱら貧困対策を行っているのが現状である。

2011年7月30日には、イスラエル国内で住宅価格や生活費の高騰、貧富の格差に対して抗議する15万人規模のデモが起きている。左派系のみでなく、保守系の人々も多数参加した極めて大規模なものである[9]。8月6日には、最低賃金引上げなどを求め30万人規模のイスラエル建国至上最大の抗議運動が起きた[10]。

経済協力開発機構(OECD)が2013年にまとめた報告書では、イスラエルが全てのOECD加盟国の中で最も貧困率が高いことが記されている。また、同年10月に発表されたイスラエル中央統計局の報告書では、イスラエルの全人口のうち31%が貧困線以下の生活をしているという。また、同報告書ではイスラエルの子供の40%が貧困に直面しているとしている。また、2013年に入ってから多くのイスラエル人がアメリカ合衆国やドイツなどへ経済的理由から移住しているという。ヘブライ大学のモミー・ダハン教授は、この問題の背景として、イスラエル政府が社会保障や児童予算を削減し続けていることを指摘している[11]。

交通[編集]





ベン・グリオン国際空港
自動車・バス[編集]

国土が狭いイスラエルでは、車、バス、トラックなどが主な交通機関である。近年、車の急速な増大に対応し、辺鄙な地域への交通の便を図るため、道路網の拡充が図られた。多車線のハイウェーは目下300キロの運営だが、2004年の時点で、南のベエルシェバから北のロシュハニクラ、ロシュピナまでハイウェー網が整備されつつある。さらに、人口稠密地にはバイパスが設けられた。緑色のエゲッドバスは、イスラエル全土を網羅しており、後部にトイレがある。運賃はエルサレム-エイラット間で70NIS(約2000円)。

鉄道[編集]

イスラエル鉄道は、エルサレム、テルアビブ、ハイファ、ナハリヤの間で旅客運送を行っている。貨物運送としては、アシュドッド港、アシュケロン市、ベエルシェバ市、ディモナの南部の鉱山採掘場など、より南部にまで及んでいる。貨物鉄道の利用は年々増加し、乗客の利用も近年増えている。

テルアビブとハイファでは、道路の交通渋滞を緩和するため、既存の路線を改善した高速鉄道サービスが導入されつつある。また、2004年10月より、ベングリオン空港とテルアビブ市内を結ぶ空港連絡鉄道が運行されている。

航空[編集]

国際線を運航する航空会社として国営航空会社のエルアル・イスラエル航空とアルキア航空、イスラエアーがあり、テルアビブのベン・グリオン国際空港をハブとしてヨーロッパやアジア、アメリカ諸国に路線を設けている。

国民[編集]

民族と言語と宗教[編集]

古代のイスラエル民族はヘブライ人(聖書においてはアブラハム・イサク・ヤコブ)を先祖とする、主としてセム系の言語を用いる人々である。イスラエル王国は南北分裂後、アッシリアによって滅ぼされ、指導層はメソポタミア北部に強制移住させられたため、イスラエルの失われた十氏族などの様々な憶測を呼んだ。またアッシリアからの入植者と混血した者の子孫はサマリア人と呼ばれる。

宗教[編集]





イスラエルの宗教別人口の推移(1949年-2008年)
詳細は「イスラエル (民族)」、「ユダヤ人」、および「ヘブライ人」を参照

現在、イスラエルは宗教的・文化的・社会的背景の異なる多様な人々が住む国である。古いルーツをもつこの新しい社会(「Altneuland」)は、今日もなお融合発展しつつある。人口550万のうち、81%がユダヤ人(半数以上がイスラエル生まれ、他は70余ヶ国からの移住者)、17.3%がアラブ人(キリスト教徒・イスラム教徒、前者には正教・マロン派・東方諸教会、後者にはベドウィンなどが含まれる)、残りの1.7%がドルーズ派、チェルケス人、サマリア人、バハーイー教徒、アラウィー派、その他の少数派である。比較的若い社会(平均年齢26.9歳)で、社会的・宗教的関心、政治思想、経済資力、文化的創造力などに特徴があり、これらすべてが国の発展に力強い弾みをつけている。

言語[編集]

「ウルパン」も参照

現代イスラエルの公用語のひとつであるヘブライ語は、古代ヘブライ語を元に20世紀になって復元されたものである。全くの文章語となっていた言語が復元されて公用語にまでなったのは、これが唯一のケースである。

上記の理由から、現代ヘブライ語の方言はない、とされる。あるとすれば、他国からの移住者のネイティブ言語の影響による「なまり」や、各コミュニティーでの伝統的な(聖書やラビ文学の朗読、礼拝などに用いる音声言語化された文語としての)ヘブライ語の発音などだろう。

イスラエル中北部やヨルダン川西岸地区に多く住むアラブ人はアラビア語の「ヨルダン定住方言」(アラビア語方言学の名称と思われるが、多分に反シオニズム的表現であると思われる。「パレスチナ方言」、「イスラエル方言」という表現も可能である)を、イスラエル南部に多いアラブ人は「ネゲヴ・ベドウィン方言」を、エルサレムのアラブ人は「エルサレム方言」を、ゴラン高原の住民は「ハウラン方言」を話し、すべてシリアからシナイ半島にかけて話される「シリア・パレスチナ方言」の一部であるとされる。

また、西岸地区ではサマリア語の新聞も出されている。

テルアビブ市内にはヘブライ語に並んでロシア語の看板なども多く見られる。

「ユダヤ人」の多様性[編集]

イスラエルのユダヤ人を単に宗教的集団(ユダヤ教徒)と定義するには問題があり、ひとつの民族といえるかどうかも問題がある。ただ、ユダヤ人とユダヤ教の歴史と本質から言っても、シオニズムの歴史と理想から言っても、多くの集団を分けて呼ぶことには問題があるといえる。
アシュケナジム主にドイツ語・イディッシュ語を母語とするドイツ・東ヨーロッパからの移民で、エリート層を占める。イスラエル独立以前からの移民はアシュケナジムが多く、都市は西洋風である。無神論者も多い(アシュケナジム・セファルディムというのは、シナゴーグや生活面での宗教的伝統、言語的な違いなどによる呼称であって、そういう民族がいるわけではない)。セファルディム(イベリア系、イタリア、オランダ、南米、かつてのオスマン帝国領域)、東アフリカや北アフリカなどのイスラム教圏からの移民が多く、失業率も高く、砂漠地方に住む場合が多い。イスラエル独立後に、移住して来た場合が多い。ユダヤ教の戒律を重視する人が比較的多い。イスラム教徒は概ねユダヤ教徒やキリスト教徒を同じ「啓典の民」として敬意を示すため、迫害されることは少なく、ユダヤ教徒としての暮らしを続けてきた。 ミズラヒム(山岳ユダヤ人・グルジア・インド・ブハラ・イラン・アラブ・イエメン・エチオピアなどのオリエント系移民の総称)イスラエルには現在主席ラビが二つしかないため、アシュケナジム・セファルディムで総称されることが多いが、セファルディムとミズラヒムは本来は別のものである。ただ、セファルディムは一時ミズラヒムと同じイスラム圏に属したこともあるし、居住地から、宗教的慣習などでも共通性はある。セファルディム・ミズラヒムは国民の40%弱を占め、ミズラヒムのうち最大グループはモロッコ出身のユダヤ人である。サマリア人現在ユダヤ教徒の一派として認められている。カライム・クリムチャクハザールとの関連も唱えられるテュルク系言語の話者。
その他、ユダヤ教に改宗した人々(ブラック・ジュー、ミゾ)などもユダヤ教徒として住んでいる。

関連項目
エスニック・リバイバル

非ユダヤ人への反応[編集]

21世紀に入って以降、アフリカのエリトリア、スーダン、南スーダンなどからシナイ半島を経由してイスラエルに不法入国する人々が後を絶たない。2012年現在、アフリカ系移民の人口は約6万人と推測されている。これは、母国での深刻な貧困や紛争などから逃れるためという側面があるが、イスラエル国内ではこの不法移民の扱いについて大きな議論を呼んでいる。「ユダヤ人国家」を穢されると懸念する右派勢力は移民排斥を訴え、特に過激なグループ(カハネ主義者)たちは不法移民の滞在するアパートに放火したり、移民に暴力を振るうなどしている。しかし、一方でホロコーストを経験した国として、移民には寛容であるべきという意見もある[12]。

一部のユダヤ人による、アラブ系イスラエル人への襲撃事件が相次いでいる[13]。

社会[編集]

社会福祉[編集]

イスラエルは高度の社会福祉の保証に努めているといわれる。特に、子供に対しては特別の配慮が払われている。従って、国家予算において社会福祉関係の予算が占める割合は大きい。

イスラエルの高水準の保健サービス、質の高い医療人材と研究、近代的な病院施設、人口当たりの医師・医療専門家の人数の多さなどは、乳幼児死亡率の低さ(1,000人当たり6.8人)や平均寿命の長さ(女性80.4歳、男性75.4歳)に表れている。乳幼児から高齢者まで、国民全員に対する保健サービスは法に規定され、国の医療支出(GNPの8.2%)は他の先進国と肩を並べる。

教育[編集]





イスラエル工科大学
詳細は「イスラエルの教育」を参照

イスラエルでは教育は貴重な遺産であり、出身地、宗教、文化、政治体制など、背景が異なる様々な人々が共存している社会である。この民主的複合社会の責任あるメンバーとなるように子供を育てることが、教育制度の目的であるとされている。

大学(ウニバルシタ)はすべて公立であり、比較的安価で高等教育を受けることができる。ほとんどの大学生はダブルメジャー(二つの専攻)で、平均3年で学位を取得する。高校卒業後に兵役に就き、その後、世界旅行に出てから大学に入学する場合が多いため、大学生の平均年齢は高くなっている。また、専門学校(ミクララ)が各地に存在する。

しかしながら、欧州諸国と比較すると全体的な学力レベルはかなり低く、学力低下が深刻化しつつあり、ノーベル賞受賞者や海外で活躍するイスラエル出身の学者らが、盛んに警鐘を鳴らしている。

結婚[編集]

結婚の際、伝統的には女性は婚姻に際して夫の姓を称する(夫婦同姓)が、いつでも自己の未婚時の姓又は従前の夫の姓を夫の姓に付加(結合姓)することができ、また、未婚時の姓又は従前の姓のみを称する(夫婦別姓)こともできる。

スポーツと健康[編集]

詳細は「イスラエルのスポーツ」を参照





ラマト・ガン・スタジアム
イスラエルでもスポーツは盛んであるが、サッカーが最もメジャーなスポーツである(国内リーグはイスラエル・プレミアリーグである)。イスラエルにはプロレスリング・プロボクシングがない(イスラエル人のキックボクサー、総合格闘家はいる)。かつては競馬もなかったが、2006年10月に初めて開催された。金銭を賭けることは禁止されているため、入場者は馬が走る姿や馬術競技を観戦するだけの純粋なスポーツとして今のところ行われている。2007年6月24日に同国初のプロ野球「イスラエルベースボールリーグ」の開幕戦が行われたが、1年ともたず中止になった。

イスラエルサッカー協会は、現在は欧州サッカー連盟 (UEFA) に加盟している。イスラエルは地勢的にはアジアの国であり、1954年5月8日に他の12か国と共にアジアサッカー連盟 (AFC) を設立したが、すぐには加盟せず、2年後の1956年にAFCに加盟した(なお、アジアサッカー連盟 (AFC) は政治的配慮により現在もなお、イスラエルをAFC創立メンバーとしては認めていない)[14][15]。だが、イスラエル=アラブ紛争(パレスチナ問題及び中東戦争等)により周辺アラブ諸国との関係が悪化し、アラブ諸国(ほかにインドネシアや北朝鮮や中国)を中心としたボイコット(対戦拒否、大会参加拒否)が激化。1973年10月に第四次中東戦争が起こると、もはや対戦不可能な状態に陥った。そして、1974年9月14日、イランアジア大会の開催期間中にイランの首都テヘランで開催されたAFC総会でAFCから除名された[16]。AFC除名以降は、地域連盟未所属のまま活動し、FIFAワールドカップアジア・オセアニア予選へ組み込まれたり、オセアニアサッカー連盟 (OFC) の暫定メンバーとなるなどの紆余曲折を経て、1992年に欧州サッカー連盟 (UEFA) に加盟した。これはイスラエルオリンピック委員会についても同様で、かつてはアジア競技連盟(後のアジアオリンピック評議会)に所属していたものの、その後ヨーロッパオリンピック委員会に加入した。

通信[編集]

電話[編集]

電話]及び携帯電話が広く利用されている。国際電話番号は972。

インターネット[編集]

イスラエルのインターネット普及率は高く、主な場所で無線LANが利用できる場所もある。インターネットカフェも普及しており、店内は禁煙の所が多い。日本の漫画喫茶のように雑然としておらず、端末ごとに整然と区画されている。

著名な出身者[編集]

詳細は「イスラエル人の一覧」を参照

日本での評価[編集]
イスラエルのことを西部邁(評論家)はこう評価している。「宗教における信仰や道徳における価値などを精神のエネルギー源として、武力そのものにおいては弱者であるにもかかわらず、巧みな戦略や戦術を、さらには外交や交易を繰り出して、強国を倒したり窮地に追い込んでいった国がある。その最もわかりやすい例は、二千年間の負け戦にも屈しなかったイスラエル[…]ということになろうか。」[17]

イラク

イラク共和国(イラクきょうわこく)、通称イラクは、中東・西アジアの連邦共和制国家である。首都はバグダード(バグダッド)で、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。



目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 メソポタミア
2.2 ペルシアの支配
2.3 ギリシャの支配
2.4 ペルシアの支配
2.5 イスラム帝国
2.6 モンゴル帝国
2.7 サファヴィー朝
2.8 オスマン帝国
2.9 イギリス帝国 2.9.1 Occupied Enemy Territory Administration
2.9.2 イギリス委任統治領メソポタミア
2.9.3 王政
2.9.4 アラブ連邦

2.10 イラク共和国(第一共和政) 2.10.1 カーシム政権

2.11 イラク共和国(第二共和政) 2.11.1 第1次バアス党政権(アル=バクル政権)
2.11.2 アーリフ兄弟政権

2.12 バアス党政権(第三共和政) 2.12.1 第2次バアス党政権(アル=バクル政権)
2.12.2 サッダーム・フセイン政権
2.12.3 イラク戦争

2.13 バアス党政権崩壊後 2.13.1 連合国暫定当局
2.13.2 イラク暫定政権

2.14 第四共和政 2.14.1 シーア派政権
2.14.2 アメリカ軍撤退


3 政治 3.1 元首
3.2 行政
3.3 立法
3.4 司法
3.5 外交

4 軍事
5 地理 5.1 動物
5.2 植物

6 地方行政区画
7 経済 7.1 農業
7.2 工業
7.3 エネルギー
7.4 交通
7.5 貿易

8 国民 8.1 民族
8.2 言語
8.3 教育

9 宗教 9.1 イスラム教シーア派
9.2 イスラム教スンナ派
9.3 ヤズィード
9.4 キリスト教
9.5 マンダ教(サービア教)
9.6 ユダヤ教

10 文化 10.1 食文化
10.2 イスラム美術
10.3 音楽
10.4 世界遺産
10.5 祝祭日
10.6 スポーツ

11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク


国名[編集]

正式名称はアラビア語で、الجمهورية العراقية (ラテン文字転写は、al-Jumhūrīya al-‘Irāqīya。読みは、アル=ジュムフーリーヤ・アル=イラーキーヤ)。通称は、العراق (al-‘Irāq。アル=イラーク)。 イラク南部に位置する古代メソポタミアの都市ウルクが国名の由来。また、アラビア語で「豊かな過去をもつ国」の意味。

公式の英語表記は、Republic of Iraq(リパブリック・オブ・イラーク)。通称、Iraq。

日本語の表記は、イラク共和国。通称、イラク。漢字では伊拉久と当てる。

イラークという地名は伝統的にメソポタミア地方を指す「アラブ人のイラーク」(al-‘Irāq al-‘Arabī) と、ザグロス山脈周辺を指す「ペルシア人のイラーク」(al-‘Irāq al-Ajamī) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。
1921年 - 1958年:イラク王国
1958年 - 現在:イラク共和国

歴史[編集]

詳細は「イラクの歴史」を参照

メソポタミア[編集]





キシュから出土した石灰岩の書き板(紀元前3500年)
現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野はティグリス川とユーフラテス川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方およびエジプトのナイル川流域とあわせて「肥沃な三日月地帯」として知られている。紀元前4000年ごろからシュメールやアッカド、アッシリア、そしてバビロニアなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。

メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えばガラスである。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じたガラスが遺物として残っている。しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついでエジプトが先行した。Qattara遺跡(現イラクニーナワー県のテル・アル・リマー(英語版))からは紀元前16世紀のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。紀元前15世紀になると、ウルの王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、ヌジ(英語版)遺跡からはゴブレットの破片が見つかってる。


ペルシアの支配[編集]

詳細は「アケメネス朝」を参照

ギリシャの支配[編集]

詳細は「マケドニア王国」および「セレウコス朝」を参照

ペルシアの支配[編集]

詳細は「アルサケス朝」および「サーサーン朝」を参照

イスラム帝国[編集]

西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム(イスラム教徒)からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク(イラーク)と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化していった。

8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。

10世紀末にブワイフ朝のエミール・'Adud al-Dawlaは、第4代カリフのアリーの墓廟をナジャフに、またシーア派の第3代イマーム・フサインの墓廟をカルバラーに作った。

モンゴル帝国[編集]





バグダードの戦い(1258年)
1258年にバグダードがモンゴルのフレグ・ハンによって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、イラン高原を支配する諸王朝(イルハン朝、ティムール朝など)の勢力下に入った。

サファヴィー朝[編集]

16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン朝に奪われた。さらにオスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服した。

en:Battle of DimDim(1609年 - 1610年)。1616年にサファヴィー朝のアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれ、イギリス人ロバート・シャーリー(英語版)の指導のもとでサファヴィー朝の武器が近代化された。1622年、イングランド・ペルシア連合軍はホルムズ占領(英語版)に成功し、イングランド王国はペルシャ湾の制海権をポルトガル・スペインから奪取した。1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世がバグダードを奪還した。しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速に弱体化した。

オスマン帝国[編集]

詳細は「:en:Ottoman Iraq」および「:en:Mamluk rule in Iraq」を参照

1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。

18世紀以降、オスマン朝は東方問題と呼ばれる外交問題を抱えていたが、1853年のクリミア戦争を経て、1878年のベルリン会議で「ビスマルク体制」が築かれ、一時終息を迎えたかに見えた。しかし、1890年にビスマルクが引退すると、2度のバルカン戦争が勃発し、第一次世界大戦を迎えた。19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダード州(英語版)とバスラ州(英語版)、モースル州(英語版)の3州として統治していた(オスマン帝国の行政区画)。

一方、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、サバーハ家のムバーラク大首長のもとで自治を行っていたペルシア湾岸のクウェートは、1899年に寝返ってイギリスの保護国となった。

1901年に隣国ガージャール朝イランのマスジェデ・ソレイマーンで、初の中東石油採掘が行なわれ、モザッファロッディーン・シャーとウィリアム・ダーシー(英語版)との間で60年間の石油採掘に関するダーシー利権(英語版)が結ばれた。1908年にダーシー利権に基づいてアングロ・ペルシャン石油会社(英語版)(APOC)が設立された。1912年にカルースト・グルベンキアンがアングロ・ペルシャン石油会社等の出資でトルコ石油会社(TPC、イラク石油会社(英語版)の前身)を立ち上げた。

イギリス帝国[編集]

第一次世界大戦では、クートの戦い(1915年12月7日 - 1916年4月29日)でクート・エル・アマラ(英語版)が陥落すると、イギリス軍は8ヶ月間攻勢に出ることが出来なかったが、この間の1916年5月16日にイギリスとフランスは、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配するというサイクス・ピコ協定を結んだ。

1917年3月11日、バグダッド陥落(英語版)。

Occupied Enemy Territory Administration[編集]

「:en:Occupied Enemy Territory Administration」も参照

1918年10月30日、オスマン帝国が降伏(ムドロス休戦協定)。パリ講和会議(1919年1月18日 - 1920年1月21日)。1919年4月、英仏間で石油に関するen:Long–Bérenger Oil Agreementを締結。サン・レモ会議(英語版)(1920年4月19日 - 4月26日)で現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められ、San Remo Oil Agreementによってフランスはイラクでの25%の石油利権を獲得した。トルコ革命(1919年5月19日 - 1922年7月24日)が勃発。大戦が終結した時点でもモースル州は依然としてオスマン帝国の手中にあったが、1920年6月にナジャフで反英暴動(英語版)が勃発する中、8月10日にイギリスはセーヴル条約によりモースル(クルディスタン)を放棄させようとしたが、批准されなかった(モースル問題(英語版))。 1921年3月21日、ガートルード・ベルの意見によってトーマス・エドワード・ロレンスが押し切られ、今日のクルド人問題が形成された(カイロ会議(英語版))。

イギリス委任統治領メソポタミア[編集]

1921年8月23日に前述の3州をあわせてイギリス委任統治領メソポタミアを成立させて、大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて王政を布かせた。クウェートは新たに形作られたイラク王国から切り離されたままとなった。

en:Mahmud Barzanji revoltsでクルディスタン王国(英語版)(1922年 - 1924年)を一時的に樹立。

1922年10月10日、en:Anglo-Iraqi Treaty(イラク側の批准は1924年)。1923年7月24日、ローザンヌ条約でトルコ共和国との国境が確定し、北クルディスタンが切り離された。1927年10月14日、ババ・グルグル(英語版)でキルクーク油田を発見。1928年、イギリスとトルコが赤線協定(en)を締結。1929年、イギリスがイラク石油会社(英語版)(IPC)を設立。1930年6月30日、en:Anglo-Iraqi Treaty (1930)でイラク石油会社の石油利権を改正。en:Ahmed Barzani revolt(1931年 - 1932年)。

王政[編集]

詳細は「イラク王国」を参照

ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。

一方、アングロ・ペルシャ石油(英語版)とメロン財閥傘下のガルフ石油(英語版)とが共同出資して1934年にクウェート石油(英語版)を設立。1938年、クウェート石油はブルガン油田を発見した。

1941年4月1日、イラク・クーデター(英語版)によりラシッド・アリ・アッ=ガイラニ(英語版)のクーデター政権が出来たが、5月のイラク戦役(英語版)で崩壊した。6月、シリア・レバノン戦役。8月、イラン進駐。

1943年、en:1943 Barzani revolt。1945年12月、ムッラー・ムスタファ・バルザーニー(英語版)がソ連占領下の北西部マハーバード(英語版)でクルド人独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立したが、イラン軍の侵攻にあい崩壊(en:Iran crisis of 1946)。バルザーニーはソ連に亡命し、1946年8月16日にクルディスタン民主党結成。

1948年、en:Anglo-Iraqi Treaty (1948)。5月15日、第一次中東戦争(1948年 - 1949年)が勃発。

1955年、中東条約機構(METO)に加盟。 1956年10月29日、エジプトによるスエズ運河国有化に端を発する第二次中東戦争(1956年 - 1957年)が勃発。アブドルカリーム・カーシムら自由将校団 (イラク)(英語版)が参戦している。中東情勢の激化に伴いスーパータンカーが登場した。

アラブ連邦[編集]

1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して、同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成した。

イラク共和国(第一共和政)[編集]

詳細は「Republic of Iraq」を参照

カーシム政権[編集]

1958年7月14日、自由将校団 (イラク)(英語版)のクーデターによって倒され(7月14日革命)、ムハンマド・ナジーブ・アッ=ルバーイー大統領とアブドルカリーム・カーシム首相による共和制が成立[1]。カーシムは、親エジプト派を押さえ込む為にバルザーニーに帰国を要請し、1958年10月にバルザーニーが亡命先のソ連から帰国。親エジプト派のアーリフは罷免・投獄された。

1959年3月7日、アラブ連合共和国が支援する親エジプト派が蜂起したモースル蜂起(英語版)が勃発。3月24日、中東条約機構(METO)を脱退。 1960年9月、カーシム首相がイラク石油会社(IPC)の国有化を発表。1961年6月19日にクウェートがイラクと別の国として独立。 6月25日、カーシムがクウェート併合に言及すると、7月1日にイギリス軍がen:Operation Vantageを発動し、独立を支援した。 9月11日、第一次クルド・イラク戦争(英語版)(1961年 - 1970年)が勃発。

イラク共和国(第二共和政)[編集]

第1次バアス党政権(アル=バクル政権)[編集]

1963年2月8日にバアス党将校団のクーデタが起り、カーシム政権が倒された(ラマダーン革命)。大統領にはアブドゥッサラーム・アーリフ、首相にはアフマド・ハサン・アル=バクルが就任した。

アーリフ兄弟政権[編集]

1963年11月18日にアブドゥッサラーム・アーリフ大統領のクーデターが勃発(1963年11月イラククーデター)。 1966年4月13日、アブドゥッサラーム・アーリフが航空機事故で死去。後継の大統領にアブドッラフマーン・アーリフが就任。親エジプト派の政策を継承してナーセルを支持し、1967年にアメリカとの国交を断絶。 6月、第三次中東戦争。

バアス党政権(第三共和政)[編集]

詳細は「バアス党政権 (イラク)」を参照

第2次バアス党政権(アル=バクル政権)[編集]

1968年7月17日にバアス党政権が発足(7月17日革命)、アフマド・ハサン・アル=バクル元首相が新大統領に就任した。 1970年3月11日、en:Iraqi-Kurdish Autonomy Agreement of 1970でクルディスタン地域(アルビール県、ドホーク県、スレイマニヤ県)を設置。石油を産出するニーナワー県とキルクーク県は含まれなかった。 1970年9月28日、エジプトのナーセルが死去。1972年にソ連と友好条約を締結。 1973年10月、第四次中東戦争。 第一次クルド・イラク戦争後の和平交渉が決裂し、バルザーニーが再び蜂起して第二次クルド・イラク戦争(英語版)(1974年 - 1975年)が勃発。ペシュメルガ(英語版)等を含め双方合わせて1万人超が死傷。その後、この戦いでイラク国軍を率いたサッダーム・フセインが実権を掌握していった。

サッダーム・フセイン政権[編集]

1979年7月16日にサッダーム・フセインが大統領に就任した。イラン・イラク国境を流れるシャットゥルアラブ川の水利権をめぐってイラン・イラク戦争(1980年 - 1988年)が勃発。シャットゥルアラブ川にはイランのカールーン川が接続しており、両国の石油輸出の要衝である。

1990年に原油価格下落やルマイラ油田の権益をめぐってクウェートと対立し、クウェート侵攻後、1991年1月17日の「砂漠の嵐作戦」(operation desert storm)で湾岸戦争に突入し、フセイン政権は敗北した。

イラク戦争[編集]

詳細は「イラク戦争の年表」を参照

イラク武装解除問題(1991年 - 2003年)。en:Curveball (informant)による大量破壊兵器(英語版)情報。2003年3月、フセイン政権はアメリカとのイラク戦争に敗れ、バアス党政権に終止符が打たれた。戦後、イラクの石油不正輸出に国連の「石油食料交換プログラム」が関与していた国連汚職問題が発覚した。

バアス党政権崩壊後[編集]


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連合国暫定当局[編集]

バアス党政権崩壊後は、アメリカ・イギリスを中心とする連合国暫定当局(CPA)によって統治された(2003年4月21日 - 2004年6月28日)。イラク戦争終結後もスンニー・トライアングルで暫定当局に対する激しい抵抗があったが、2003年12月13日の赤い夜明け作戦(英語版)ではサッダーム・フセインがダウルで拘束された。2004年4月、ファルージャの戦闘。

イラク暫定政権[編集]





イラクをパトロールするアメリカ軍(2005年6月)
2004年6月28日、暫定政権に主権が移譲された。同時に有志連合軍は国際連合の多国籍軍となり、治安維持などに従事した。8月にはシーア派政治組織「サドル潮流(英語版)」のムクタダー・サドル率いる民兵組織「マフディー軍」が影響力を高めた。

暫定政権は国連安全保障理事会が採択した、イラク再建復興プロセスに基づいて、2005年1月30日にイラクで初めての暫定議会選挙を実施し[2]、3月16日に初の暫定国民議会が召集された。4月7日にジャラル・タラバニが初のクルド人大統領に就任。移行政府が4月28日に発足し、10月25日に憲法草案は国民投票で賛成多数で可決承認された[2]。

第四共和政[編集]

シーア派政権[編集]

2005年12月15日に正式な議会と政府を選出するための議会選挙が行われた[2](Iraqi parliamentary election)。2006年3月16日に議会が開会し、2006年4月22日にシーア派政党連合の統一イラク同盟(英語版)(UIA)がヌーリー・アル=マーリキーを首相に選出、5月20日に国連安全保障理事会が採択したイラクの再建復興プロセス最終段階となる正式政府が議会に承認されて発足した[2]。これはイラクで初めての民主選挙による政権発足であった。2006年12月30日、サッダーム・フセインの死刑執行。

2008年3月にはムクタダー・サドルのマフディー軍と政府軍が戦闘状態となり(バスラの戦い(英語版))、シーア派内部の対立が顕在化した。

世俗派の政党連合「イラク国民運動(英語版)」を構成するイラク合意戦線(英語版)は2010年2月20日に第2回総選挙をボイコットすると表明した。これは、イラク合意戦線の選挙立候補者にサッダーム旧政権の支配政党であるバアス党の元党員や旧政権の情報機関、民兵組織のメンバーが含まれているとして選挙参加を禁止されたためである[3]が、後に合意戦線は、ボイコットを撤回した。2010年3月7日に第2回議会選挙が行われた(Iraqi parliamentary election)。アッラーウィーの世俗会派イラク国民運動が第1党(91議席)となり、マーリキー首相の法治国家連合は第2党となった(89議席)。しかし、マーリキーは、選挙に不正があったとしてこの結果を認めなかった。その後司法判断が下され、「選挙結果は正当」となった。

アメリカ軍撤退[編集]

2010年8月19日までに駐留アメリカ軍戦闘部隊が撤退、新生イラク軍の訓練のために残留したアメリカ軍も2011年末に撤退した[4][5][6]。

2010年11月に議会は、タラバニを大統領に、マーリキーを首相に、ヌジャイフィを国会議長に選出し[2]、マーリキー首相が提出した閣僚名簿を議会が承認して、12月に第二次マーリキー政権が発足した[2]。

2011年12月26日、バグダッドにある内務省の正面玄関で自爆テロがあり、少なくとも5人が死亡、39人が負傷したと警察が発表した。バグダッドでは22日にも爆弾テロがあり、70人近い死者、200人以上の負傷者が出たばかりある。[7]。

政治[編集]

詳細は「イラクの政治(英語版)」を参照





バグダード・コンベンション・センター
イラク憲法は、2005年10月15日の国民投票での承認により成立した。

元首[編集]

国家元首の役割を果たすのは、共和国大統領および2人の副大統領で構成される大統領評議会である。それぞれ、イラク国民の3大勢力である、スンナ派(スンニ派)、シーア派、クルド人から各1名ずつが立法府によって選ばれる。大統領は、国民統合の象徴として、儀礼的職務を行う。大統領宮殿位置は北緯33度17分03秒東経044度15分22秒に位置している。

行政[編集]

行政府の長である首相は、議員の中から議会によって選出される。副首相が2名。その他の閣僚は、大統領評議会に首相・副首相が加わって選任される。現政権の閣僚は37名(首相・副首相を除く)。

立法[編集]

憲法は、立法府である国会について両院制を定めるが、上院にあたる連邦議会は未成立。下院である代議院は275議席、任期4年で、第1回総選挙が2005年12月15日に行われた。

第2回総選挙は2010年3月7日に行われた。 2010年現在の主な政党連合と獲得議席数は以下の通り。
イラク国民運動(英語版)‐91(アッラーウィー元首相の世俗会派)
法治国家連合(英語版)‐89(マーリキー首相の会派)
イラク国民連合(英語版) ‐70(ムクタダー・サドルらの会派)
クルディスタン愛国同盟‐43
イラク合意戦線(英語版)‐6
イラク統一同盟(英語版)‐4

司法[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。

外交[編集]

イランとは、イラク戦争でバアス党政権が崩壊して以降、電気、水道、道路などのインフラの復興支援を受けた。また、同じシーア派ということもあり、アメリカが敵視するイランとの関係を強化し、親イラン傾向が強まっている。

エジプトとは、イスラエルとの国交回復の前後の1977年に国交を断絶した。イラン・イラク戦争での援助により両国の絆が深まった時期もあったが、湾岸戦争後はエジプトがアラブ合同軍などに参加し、疎遠な関係となった。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの石油と食糧の交換計画の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。

シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立。レバノン内戦においてはPLOへの支援を行ない、1980年代後半には反シリアのキリスト教徒のアウン派への軍事支援も行なった。これに対してシリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、多国籍軍に機甲部隊と特殊部隊を派遣し、レバノンからも親イラクのアウン派を放逐した。1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になってバッシャール・アル=アサドが大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。

ヨルダンとは、イラン・イラク戦争および湾岸戦争でイラクを支持したため、両国の関係は強まった。1999年にアブドゥッラー2世が即位して以降も依然として良好である。

イスラエルとは、1948年、1967年、1973年の中東戦争に参戦し、強硬な態度を取った。イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ(この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた)、1982年のアメリカによる平和交渉に反対せず、同年9月のアラブ首脳会談によって採択されたフェス憲章(Fez Initiative)にも支持を表明した。ただし、湾岸戦争では、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルのパレスチナからの撤退を要求し、イスラエルの民間施設をスカッド・ミサイルで攻撃した。

軍事[編集]

詳細は「イラク治安部隊」を参照

2008年でイラク人の治安部隊が約60万。駐留多国籍軍は、米軍が15万人以上、ほかに27カ国が派遣しているが、治安部隊要員の拡充により、戦闘部隊は減少傾向にある。

クルド地方3県(エルビル県、スレイマニヤ県及びドホーク県)、南部5県(ムサンナー県、ズィーカール県、ナジャフ県、ミーサーン県、バスラ県)及び中部カルバラ県の計9県で、治安権限が多国籍軍からイラク側に移譲されている。北部のクルド3県では、クルド人政府が独自の軍事組織をもって治安維持に当たっている。南部ではシーア派系武装組織が治安部隊と断続的に戦闘を行っている。スンニ派地域では米軍の支援を受けた覚醒評議会(スンニ派)が治安維持に貢献しているとされる。

地理[編集]





イラクの国土(中央) 高度分布を示した。ティグリス川とユーフラテス川にそって広大な低地が広がっていることが分かる。




ティグリス川とバグダード市街
イラクの地理について、国土の範囲、地表の外形、地殻構造、陸水、気候の順に説明する。

イラクの国土はいびつな三角形をなしており、東西870km、南北920kmに及ぶ。国土の西端はシリア砂漠にあり、シリア、ヨルダンとの国境(北緯33度22分、東経38度47分)である。北端はトルコとの国境(北緯37度23分、東経42度47分)で、クルディスタン山脈に位置する。東端はペルシャ湾沿いの河口(北緯29度53分、東経48度39分)。南端はネフド砂漠中にあり、クウェート、サウジアラビアとの国境(北緯29度3分、東経46度25分)の一部である。

イラクの地形は3つに大別できる。 国土を特徴付ける地形は対になって北西から南東方向に流れる二本の大河、南側のユーフラテス川と北側のティグリス川である。ユーフラテス川の南側は、シリア砂漠とネフド砂漠が切れ目なく続いており、不毛の土地となっている。砂漠側は最高高度1000mに達するシリア・アラビア台地を形成しており、緩やかな傾斜をなしてユーフラテス川に至る。二本の大河周辺はメソポタミア平原が広がる。農耕に適した土壌と豊かな河川水によって、人口のほとんどが集中する。メソポタミア平原自体も地形により二つに区分される。北部の都市サマッラより下流の沖積平野と、上流のアルジャジーラ平原である。二本の大河はクルナの南で合流し、シャットゥルアラブ川となる。クルナからは直線距離にして約160km、川の長さにして190km流れ下り、ペルシャ湾に達する。

ティグリス川の東は高度が上がり、イランのザグロス山脈に至る。バグダードと同緯度では400mから500m程度である。イラクとイランの国境はイラク北部で北東方向に張り出している。国境線がなめらかでないのはザグロス山脈の峰と尾根が国境線となっているからである。イラク最高峰のen:Cheekha Dar (3611m) [8]もザグロス山中、国境線沿いにそびえている。同山の周囲30km四方はイラクで最も高い山々が群立している。 このような地形が形成されたのは、イラクの国土がアラビアプレートとユーラシアプレートにまたがっているからである。イラン国境に沿いペルシャ湾北岸まで延びるザグロス山脈は、アラビアプレートがユーラシアプレートに潜り込むように移動して圧縮し、褶曲山脈を形成した。トルコ国境に伸びるクルディスタン山脈も褶曲山脈であり、2000mに達する峰々が存在する。ティグリス、ユーフラテスという2大河川が形成された理由も、ヒマラヤ山脈の南側にインダス、ガンジスという2大河川が形成されたのと同様、プレートテクトニクスで説明されている。ティグリス・ユーフラテス合流地点から上流に向かって、かつては最大200kmにも伸びるハンマール湖(英語版)が存在した。周囲の湿地と一体となり、約1万平方kmにも及ぶ大湿原地帯を形成していた。湿原地帯にはマーシュ・アラブ族(英語版)(沼沢地アラブ)と呼ばれる少数民族が暮らしており、アシと水牛を特徴とした生活を送っていた。しかしながら、20世紀後半から計画的な灌漑・排水計画が進められたため、21世紀に至ると、ハンマール湖は1/10程度まで縮小している。

イラクの陸水はティグリス、ユーフラテス、及びそれに付随する湖沼が際立つが、別の水系によるものも存在する。カルバラの西に広がるミル湖(英語版)である。ネフド砂漠から連なるアルガダーフ・ワジ(Wadi al-Ghadaf)など複数のワジと地下水によって形成されている。ミル湖に流れ込む最も長いアルウィバード・ワジは本流の長さだけでも400kmを上回り、4本の支流が接続する。なお、イラク国内で最長のワジはハウラーン・ワジ(Wadi Hawran)であり、480kmに達する。





バクダット(標高34m)の月別最高・最低気温(赤棒)と平均降水量(青棒)
イラクの気候は、ほぼ全土にわたり砂漠気候に分類される。ティグリス川の北岸から北はステップ気候、さらに地中海性気候に至る。したがって、夏期に乾燥し、5月から10月の間は全国に渡って降雨を見ない。南西季節風の影響もあって、熱赤道が国土の南側を通過するため、7月と8月の2カ月は最高気温が50度を超える。ただし、地面の熱容量が小さく、放射冷却を妨げる条件がないため、最低気温が30度を上回ることは珍しい。一方、北部山岳地帯の冬は寒く、しばしば多量の降雪があり、甚大な洪水を引き起こす。

1921年に53.8度の最高気温を記録したバスラは30年平均値でちょうど熱赤道の真下に位置する。首都バグダードの平均気温は8.5度(1月)、34.2度(7月)。年降水量は僅かに140mmである。

動物[編集]

砂漠気候を中心とする乾燥した気候、5000年を超える文明の影響により、野生の大型ほ乳類はほとんど分布していない。イラクで最も大きな野生動物はレイヨウ、次いでガゼルである。肉食獣としては、ジャッカル、ハイエナ、キツネが見られる。小型ほ乳類では、ウサギ、コウモリ、トビネズミ、モグラ、ヤマアラシが分布する。

鳥類はティグリス・ユーフラテスを生息地とする水鳥と捕食者が中心である。ウズラ(水鳥でも捕食者でもない)、カモ、ガン、タカ、フクロウ、ワシ、ワタリガラスが代表。

植物[編集]

ステップに分布する植物のうち、古くから利用されてきたのが地中海岸からイランにかけて分布するマメ科の低木トラガカントゴムノキ Astragalus gummifer である。樹皮から分布される樹脂をアラビアガムとして利用するほか、香料として利用されている。聖書の創世記にはトラガラントゴムノキと考えられる植物が登場する。北東に移動し、降水量が上昇していくにつれ、淡紅色の花を咲かせるオランダフウロ Erodium cicutarium、大輪の花が目立つハンニチバナ科の草、ヨーロッパ原産のムシトリナデシコが見られる。

ティグリス・ユーフラテスの上流から中流にかけてはカンゾウが密生しており、やはり樹液が取引されている。両河川の下流域は湿地帯が広がり、クコ、ハス、パピルス、ヨシが密生する。土手にはハンノキ、ポプラ、ヤナギも見られる。

ザグロス山中に分け入るとバロニアガシ Quercus aegilips が有用。樹皮を採取し、なめし革に用いる。やはり創世記に記述がある。自然の植生ではないが、イラクにおいてもっとも重要な植物はナツメヤシである。戦争や塩害で激減するまではイラクの人口よりもナツメヤシの本数の方が多いとも言われた。

地方行政区画[編集]

詳細は「イラクの地方行政区画」を参照

イラクの地方行政区画

18の県(「州」と呼ぶこともある)に分かれる。
1.バグダード県 - 県都バグダード
2.サラーフッディーン県 - 県都ティクリート
3.ディヤーラー県 - 県都バアクーバ(「バゥクーバ」とも)
4.ワーシト県 - 県都クート(英語版)
5.マイサーン県 - 県都アマーラ(英語版)
6.バスラ県 - 県都バスラ
7.ジーカール県 - 県都ナーシリーヤ
8.ムサンナー県 - 県都サマーワ
9.カーディーシーヤ県 - 県都ディーワーニーヤ
10.バービル県 - 県都ヒッラ
11.カルバラー県 - 県都カルバラー
12.ナジャフ県 - 県都ナジャフ
13.アンバール県 - 県都ラマーディー
14.ニーナワー県 - 県都モースル(「マウシル」とも)
15.ドホーク県 - 県都ドホーク
16.アルビール県 - 県都アルビール
17.キルクーク県 - 県都キルクーク
18.スレイマニヤ県 - 県都スレイマニヤ

経済[編集]

IMFの統計によると、2011年のGDPは1153億ドルであり[9]、広島県よりやや小さい経済規模である[10]。一人当たりのGDPは3512ドルであり、世界平均のおよそ35%の水準である。

通貨はイラク侵攻後のイラク暫定統治機構(CPA)統治下の2003年10月15日から導入されたイラク新ディナール(IQD)。紙幣は、50、250、1000、5000、10000、25000の5種類。アメリカの評論誌Foreign Policyによれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨トップ5の一つ。為替レートは1米ドル=1260新ディナール、1新ディナール=約0.1円。[11]

イラクは長らく、ティグリス・ユーフラテス川の恵みによる農業が国の根幹をなしていた。ところが、1927年にキルクークで発見された石油がこの国の運命を変えた。19世紀末に発明された自動車のガソリンエンジンが大量生産されるようになり、燃料としての石油の重要性が高まる一方だったからだ。

1921年にはイギリスの委任統治下ながらイラク王国として独立していたため、名目上は石油はイラクのものではあったが、1932年にイラクが独立国となったのちもイギリスは軍を駐留し、採掘権はイギリスBPのもとに留まった。利益はすべてイギリスの収入となり、イラク政府、民間企業には配分されなかった。

第二次世界大戦を経た1950年、石油の需要が大幅に伸びはじめた際、ようやく石油による収入の50%がイラク政府の歳入に加わることが取り決められた。イラクはその後ソ連に接近、南部最大のルメイラ油田がソ連に開発され、ソ連と友好協力条約を結んだ1972年、イラク政府はBP油田の国有化を決定、補償金と引き換えに油田はイラクのものとなった。

1980年に始まったイラン・イラク戦争が拡大するうちに、両国が互いに石油施設を攻撃し合ったため、原油価格の上昇以上に生産量が激減し、衰退した。

1990年のイラクによるクウェート侵攻の名目は、クウェート国内で革命政権を建てたとする暫定自由政府(英語版)の要請があったこととしているが、背景には石油に関する摩擦があった。OPECによる生産割当をクウェートが守らず、イラクの国益が損なわれたこと、両国の国境地帯にある油田をクウェートが違法に採掘したこと、というのが理由である。


イラクの原油生産量、単位:万トン (United Nations Statistical Yearbook)
1927年 - 4.5(イラクにおける石油の発見)
1930年 - 12.1
1938年 - 429.8
1940年 - 251.4
1950年 - 658.4(石油の利益の1/2がイラクに還元)
1960年 - 4,746.7
1970年 - 7,645.7
1972年 - 7,112.5(油田と付帯施設を国有化)
1975年 - 11,116.8
1986年 - 8265.0(イラン・イラク戦争による被害)
1990年 - 10,064.0
1993年 - 3,230.0(湾岸戦争による被害)
1997年 - 5,650.0
2003年 - 19,000.0(イラク戦争終結時)

イラク経済のほとんどは原油の輸出によって賄われている。8年間にわたるイラン・イラク戦争による支出で1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油生産施設が破壊されたことから、イラク政府は支出を抑え、多額の借金をし、後には返済を遅らせるなどの措置をとった。イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害を被ったとされる。1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの建設や破壊された施設の復旧などにより原油の輸出は徐々に回復した。

1990年8月、イラクのクウェート侵攻により国際的な経済制裁が加えられ、1991年1月に始まった多国籍軍による戦闘行為(湾岸戦争)で経済活動は大きく衰退した。イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことが、この状態に拍車をかけた。

1996年12月に国連の石油と食糧の交換計画実施により経済は改善される。6ヵ月周期の最初の6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。1999年12月、国連安全保障委員会はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の四分の三になっている。2001〜2002までに「石油と食料の交換」取引の下でイラクは、1日に280万バーレルを生産し、170万バーレルを輸出するようになり、120億ドルを獲得した。[12]。 医療と健康保険が安定した改善をみせたのにともない、一人あたりの食料輸入量も飛躍的に増大した。しかし一人あたりの生活支出は未だにイラン・イラク戦争前よりも低い。

農業[編集]





デーツを実らせたナツメヤシ




イラクの水利システム 複数のダム (barrage) と灌漑水路、排水路を組合せて乾燥地、沼地のいずれも農地に変えていった
世界食糧計画(WFP)の統計(2003年)によると、イラクの農地は国土の13.8%を占める。天水では農業を継続できないが、ティグリス・ユーフラテス川と灌漑網によって、農地を維持している。13.8%という数値はアジア平均を下回るものの世界平均、ヨーロッパ平均を上回る数値である。

農業従事者の割合は低く、全国民の2.2%にあたる62万人に過ぎない。農業従事者が少ないため、一人当たり16.2haというイラクの耕地面積は、アジアではモンゴル、サウジアラビア、カザフスタンに次いで広い。

同2005年の統計によると、主要穀物では小麦(220万トン)、次いで大麦(130万トン)の栽培に集中している。麦類は乾燥した気候に強いからである。逆に、米の生産量は13万トンと少ない。

野菜・果実ではトマト(100万トン)、ぶどう(33万トン)が顕著だ。商品作物としてはナツメヤシ(87万トン)が際立つ。エジプト、サウジアラビア、イランに次いで世界第4位の生産数量であり、世界シェアの12.6%を占める。畜産業では、ヤギ(165万頭)、ウシ(150万頭)が主力である。

ナツメヤシはペルシャ湾、メソポタミアの砂漠地帯の原産である。少なくとも5000年に渡って栽培されており、イラク地方の農業・経済・食文化と強く結びついている。とくにバスラとバクダードのナツメヤシが有力。バスラには800万本ものナツメヤシが植わっているとされ、第二次世界大戦後はアメリカ合衆国を中心に輸出されてきた。イラン・イラク戦争、湾岸戦争ではヤシの木に被害が多く、輸出額に占めるナツメヤシの比率が半減するほどであった。バクダードのナツメヤシは国内でもっとも品質がよいことで知られる。

イラクで栽培されているナツメヤシは、カラセー種 (Khalaseh)、ハラウィ種 (Halawi)、カドラウィ種 (Khadrawi)、ザヒディ種 (Zahidi) である。最も生産数量が多いのはハラウィ種だ。カドラウィ種がこれに次ぐ。カラセー種は品質が最も高く、実が軟らかい。ザヒディ種はバクダードを中心に栽培されており、もっとも早く実がなる。実が乾燥して引き締まっており、デーツとして輸出にも向く。

工業[編集]

イラクの工業は自給的であり、食品工業、化学工業を中心とする。食品工業は、デーツを原料とする植物油精製のほか、製粉業、精肉業、皮革製造などが中心である。繊維産業も確立している。化学工業は自給に要する原油の精製、及び肥料の生産である。重油の精製量は世界生産の1%から2%に達する(2002年時点で1.6%)。一方、建築材料として用いる日干しレンガ、レンガはいまだに手工業の段階にも達しておらず、組織化されていない個人による生産に依存している。

製鉄、薬品、電機などの製造拠点も存在するが、国内需要を満たしていない。農機具、工作機械、車両などと併せ輸入に頼る。

エネルギー[編集]





バスラのオイルターミナルに接岸するタンカー
原油確認埋蔵量は1,120億バレルで、サウジアラビア・イランに次ぐ。米国エネルギー省は埋蔵量の90%が未開発で、掘られた石油井戸はまだ2,000本に過ぎないと推定。 2009年時点の総発電量461億kWhの93%は石油による火力発電でまかなっている。残りの7%はティグリス・ユーフラテス川上流部に点在する水力発電所から供給された。

イラクの送配電網は1861年にドイツによって建設が始まった。19世紀、イギリスとドイツは現在のイラクがあるメソポタミアへの覇権を競っていた。鉄道と電力網の建設はドイツが、ティグリス・ユーフラテス川における蒸気船の運航はイギリスによって始まった。

交通[編集]

イラクは鉄道が発達しており、国内の主要都市すべてが鉄道で結ばれている。2003年時点の総延長距離は2200km。旅客輸送量は22億人、貨物輸送量は11億トンに及ぶ。イラクの鉄道網はシリア、トルコと連結しており、ヨーロッパ諸国とは鉄道で結ばれている。バグダードとアナトリア半島中央南部のコンヤを結ぶイラク初の鉄道路線(バグダード鉄道)はドイツによって建設されている。

一方、自動車は普及が進んでおらず、自動車保有台数は95万台(うち65万台が乗用車)に留まる。舗装道路の総延長距離も8400kmに留まる。

貿易[編集]

イラクの貿易構造を一言で表すと、原油と石油精製物を輸出し、工業製品を輸入するというものである。2003年時点の輸出額に占める石油関連の比率は91.9%、同じく輸入額に占める工業製品の割合は93.1%であるからだ。同年における貿易収支は輸出、輸入とも101億ドルであり、均衡がとれている。

輸出品目別では、原油83.9%、石油(原料)8.0%、食品5.0%、石油化学製品1.0%である。食品に分類されている品目はほとんどがデーツである。輸入品目別では、機械73.1%、基礎的な工業製品16.1%、食品5.0%、化学工業製品1.0%。

貿易相手国は、輸出がアメリカ合衆国 18.6%、ロシアとCIS諸国、トルコ、ブラジル、フランス、輸入がアメリカ合衆国 13.6%、日本、ドイツ、イギリス、フランスとなっている。

イラン・イラク戦争中の1986年時点における貿易構造は、2003年時点とあまり変わっていない。ただし、相違点もある。輸出においては、総輸出額に占める原油の割合が98.1%と高かったにもかかわらず、採掘から輸送までのインフラが破壊されたことにより、原油の輸出が落ち込んでいた。結果として、12億ドルの貿易赤字を計上していた。製鉄業が未発達であったため、輸入に占める鉄鋼の割合が5.9%と高かったことも異なる。貿易相手国の顔ぶれは大きく違う。2003年時点では輸出入ともアメリカ合衆国が第一だが、1986年の上位5カ国にアメリカ合衆国は登場しない。輸出相手国はブラジル、日本、スペイン、トルコ、ユーゴスラビアであり、輸入相手国は日本、トルコ、イギリス、西ドイツ、イタリアであった。

国民[編集]





バグダードに住むイラクの少女(2003年5月)
民族[編集]

国連の統計によれば、住民はアラブ人が79%、クルド人16%、アッシリア人3%、トルコマン人(テュルク系)2%である。ユダヤ人も存在していたが、イスラエル建国に伴うアラブ民族主義の高まりと反ユダヤ主義の気運により迫害や虐殺を受けて、国外に追放され、大半がイスラエルに亡命した。ただしクルド人については難民が多く、1ポイント程度の誤差があるとされている。各民族は互いに混住することなくある程度まとまりをもって居住しており、クルド人は国土の北部に、アッシリア人はトルコ国境に近い山岳地帯に、トゥルクマーンは北部のアラブ人とクルド人の境界付近に集まっている。それ以外の地域にはアラブ人が分布する。気候区と関連付けると砂漠気候にある土地はアラブ人が、ステップ気候や地中海性気候にある土地にはその他の民族が暮らしていることになる。



民族構成(イラク)


アラブ人

79%
クルド人

16%
アッシリア人

3%
トルコマン人

2%

かつては、スーダンからの出稼ぎ労働者やパレスチナ難民も暮らしていたが、イラク戦争後のテロや宗派対立によりほとんどが、国外に出国するか国内難民となっている。また、イラン革命を逃れたイラン人がイラク中部のキャンプ・アシュラーフ(英語版)と呼ばれる町に定住している。

イラク南部ティグリス・ユーフラテス川合流部は、中東で最も水の豊かな地域である。イラク人は合流部付近を沼に因んでマーシュと呼ぶ。1970年代以降水利が完備される以前は、ティグリス川の東に数kmから10km離れ、川の流れに並行した湖沼群とユーフラテス川のアン・ナスリーヤ下流に広がるハンマール湖が一体となり、合流部のすぐ南に広がるサナフ湖とも連結していた。マーシュが途切れるのはようやくバスラに至った地点である。アシで囲った家に住み、農業と漁労を生業としたマーシュ・アラブと呼ばれる民族が1950年代には40万人を数えたと言う。

マーシュ・アラブはさらに2種類に分類されている。まず、マアッダンと呼ばれるスイギュウを労役に用いる農民である。夏期には米を栽培し、冬期は麦を育てる。スイギュウ以外にヒツジも扱っていた。各部族ごとにイッサダと呼ばれるムハンマドを祖先とうたう聖者を擁することが特徴だ。マアッダンはアシに完全に依存した生活を送っていた。まず、大量のアシを使って水面に「島」を作り、その島の上にアシの家を建てる。スイギュウの餌もアシである。

南部のベニ・イサドはアラビアから移動してきた歴史をもつ。コムギを育て、マーシュ外のアラビア人に類似した生活を送っている。マアッダンを文化的に遅れた民族として扱っていたが、スイギュウ飼育がマアッダンだけの仕事となる結果となり、結果的にマアッダンの生活様式が安定することにつながっていた。

また、アフリカ大陸にルーツを持つアフリカ系住民も非常に少数ながら生活している。そのほとんどが、アラブの奴隷商人によってイラクに連れてこられた黒人の子孫とみられる。

言語[編集]

アラビア語、クルド語が公用語である。2004年のイラク憲法改正以来クルド語がアラビア語と共に正式な公用語に追加された。その他アルメニア語、アゼリー語や現代アラム語(アッシリア語)なども少数ながら使われている。

書き言葉としてのアラビア語(フスハー)は、アラブ世界で統一されている。これはコーランが基準となっているからである。しかし、話し言葉としてのアラビア語(アーンミーヤ)は地域によって異なる。エジプト方言は映画やテレビ放送の言葉として広く流通しているが、この他にマグレブ方言、シリア方言、湾岸方言、アラビア半島方言などが認められている。イラクで話されているのはイラク方言である。ただし、イラク国内で共通語となっているバクダードの言葉と山岳部、湾岸部にもさらに方言が分かれている。

教育[編集]

イラクにおける教育制度は、伝統的なコーランを学ぶ学校に始まる。イギリス委任統治領時代から西欧型の初等教育が始まり、独立前の1929年から女性に対する中等教育も開始された。現在の教育制度は1978年に改訂され、義務教育が6年制となった。教育制度は充実しており、初等教育から高等教育に至るまで無料である。国立以外の学校は存在しない。1990年時点の統計によると、小学校は8917校である。3年制の中学校への進学は試験によって判断され、3人に1人が中学校に進む。大学へ進学を望むものは中学校卒業後、2年間の予備過程を終了する必要がある。首都バグダードを中心に大学は8校、大学終了後は、19の科学技術研究所に進むこともできる。

宗教[編集]



宗教構成(イラク)


イスラム教(シーア派)

65%
イスラム教(スンナ派)

35%
キリスト教諸派

4%
その他

1%

イスラームが国民の95%を占め、次いでキリスト教4%、マンダ教である。歴史的にはユダヤ教徒も存在したが、現在は数百人以下だとされている。住民の分布と宗教の分布には強い関係がある。イスラム教徒の最大派はシーア派の65%。スンナ派の35%。キリスト教(カトリック、東方正教会、アッシリア東方教会等)はアッシリア人と少数民族に限られているが全体の4%ほどを占める。

イスラム教シーア派[編集]





ナジャフのイマーム・アリー・モスク(英語版)
全世界のイスラム教徒に占めるシーア派の割合は高くはないが、イラク国内では過半数を占める。イラク国内では被支配層にシーア派が多い。シーア派は預言者の後継者・最高指導者(イマーム)が誰であるかという論争によってスンナ派と分裂した。シーア派は預言者の従弟であるアリーを初代イマームとして選んだが、アリーの次のイマームが誰なのかによって、さらに主要なイスマーイール派、ザイド派(英語版)、十二イマーム派、ハワーリジュ派などに分裂している。イラクで優勢なのはイランと同じ、イマームの再臨を信じる十二イマーム派である。シーア派法学の中心地は4つの聖地と一致する。すなわち、カルバラー、ナジャフおよび隣国イランのクムとマシュハドである。

イスラム教スンナ派[編集]

スンナ派ではシャーフィイー学派、ハナフィー学派、ハンバル学派、マーリク学派の4法学派が正当派とされている。イラク出身のスンナ派イスラム法学者としては、以下の3人が著名である。

8世紀まで政治・文化の中心であったクーファに生まれたアブー・ハニーファ(英語版) (Abu Hanifa、699年-767年)は、ハナフィー法学派を創設し、弟子のアブー・ユースフと孫弟子のシャイバーニーの3人によって確立し、今日ではムスリムの信奉する学派のうち最大のものにまで成長した。

バスラのアブー・アル=ハサン・アル=アシュアリー(英語版)(Abd al-Hasan al-Ash'ari、873年-935年)は、合理主義を標榜したムータジラ学派に属していたが、後に離れる。ムータジラ派がよくしていたカラーム(弁証)をもちいて論争し、影響力を低下させた。同時に伝統的な信条をもつアシュアリー派を創設した。

ガザーリー(Al-Ghazali、1058年-1111年)は、ペルシア人であったがバクダードのニザーミーヤ学院で教え、イスラーム哲学を発展させた。「イスラム史上最も偉大な思想家の一人」と呼ばれる。アシュアリー学派、シャーフィイー学派の教えを学び、シーア派のイスマーイール派などを強く批判した。後に、アリストテレスの論理学を受け入れ、イスラーム哲学自体に批判を下していく。

イスラム神秘主義者としてはメディナ生まれのハサン・アル=バスリー(英語版)(al-Hasan al-Basri、642年-728年)が著名である。バスラに住み、禁欲主義を説いた。神の意志と自らの意志を一致させるための精神修行法を作り上げ、ムータジラ派を開く。ムータジラ派は合理的ではあったが、彼の精神修行法は神秘主義(スーフィズム)につながっていった。

ヤズィード[編集]

ヤジーディー派はイラク北部のヤジーディー民族だけに信じられており、シーア派に加えキリスト教ネストリウス派、ゾロアスター教、呪術信仰が混交している。聖典はコーラン、旧約聖書、新約聖書。自らがマラク・ターウースと呼ぶ堕落天使サタンを神と和解する存在と捉え、サタンをなだめる儀式を行うことから悪魔崇拝者と誤解されることもある。

キリスト教[編集]

1990年時点のキリスト教人口は約100万人である。最大の分派は5割を占めるローマ・カトリック教会。アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの位格について独自の解釈をもつアッシリア東方教会(ネストリウス派)に属する。19世紀まではモースルのカルデア教会もネストリウス派に属していたが、ローマ・カトリック教会の布教活動により、東方帰一教会の一つとなった。

マンダ教(サービア教)[編集]

マンダ教はコーランに登場し、ユダヤ教やキリスト教とともに啓典の民として扱われる歴史のある宗教である。バプテスマのヨハネに付き従い、洗礼を非常に重視するため、水辺を居住地として選ぶ。ティグリス・ユーフラテス両河川のバグダード下流から、ハンマール湖に到る大湿地帯に多い。古代において西洋・東洋に広く伝播したグノーシス主義が原型と考えられている。

ユダヤ教[編集]

ユダヤ教徒はバビロニア時代から現在のイラク地方に根を下ろし、10世紀に到るまでユダヤ教学者を多数擁した。イスラエル建国以前は10万人を超える信者を居住していたが、移民のため、1990年時点で、ユダヤ教徒は数百人しか残っていない。

文化[編集]

詳細は「イラクの文化」を参照

食文化[編集]





ファトウーシュ(英語版)
イラク国民の嗜好品としてもっとも大量に消費されているのが、茶である。国連の統計によると、1983年から1985年の3年間の平均値として国民一人当たり2.63kgの茶を消費していた。これはカタール、アイルランド、イギリスについで世界第4位である。国が豊かになるにつれて茶の消費量は増えていき、2000年から2002年では、一人当たり2.77kgを消費し、世界第一位となった。日本茶業中央会の統計によると、2002年から2004年では戦争の影響を被り消費量が2.25kgと低下しているが、これでも世界第4位である。イランやトルコなど生産地が近く、イラク国内では茶を安価に入手できる。

イスラム美術[編集]

「イスラーム美術」も参照

[icon] この節の加筆が望まれています。

細密画、アラビア書道、モスク建築、カルバラーやナジャフなどのシーア派聖地。

音楽[編集]





ウードの全体像 糸倉が後ろに曲がっていることが特徴




ウード(奥)とバチ ウードの弦は複弦であり五コース〜六コースのものが多い
伝統的な楽器としてリュートに類似するウード、バイオリンに類似するレバーブ、その他ツィターに似たカーヌーン、葦の笛ナーイ、酒杯型の片面太鼓ダラブッカなどが知られている。

ウードは西洋なしを縦に半分に割ったような形をした弦楽器である。現在の研究では3世紀から栄えたササン朝ペルシア時代の弦楽器バルバトが起源ではないかとされるが、アル=ファーラービーによれば、ウードは旧約聖書創世記に登場するレメクによって作られたのだと言う。最古のウード状の楽器の記録は紀元前2000年ごろのメソポタミア南部(イラク)にまで遡る。ウードはフレットを使わないため、ビブラート奏法や微分音を使用するアラブの音階・旋法、マカームの演奏に向く。弦の数はかつては四弦で、これは現在においてもマグリブ地方において古形を見出す事が出来るが、伝承では9世紀にキンディー(あるいはズィリヤーブとも云う)によって一本追加され、五弦になったとされる。現在では五弦ないし六弦の楽器であることが多い(正確には複弦の楽器なので五コースないし六コースの十弦〜十一弦。五コースの場合、十弦で、六コースの場合、十一弦。六コース目の最高音弦は単弦となる)。イラクのウード奏者としては、イラク音楽研究所のジャミール・バシールJamil Bachir、バグダード音楽大学のナシル・シャンマNaseer Shamma、国際的な演奏活動で知られるアハメド・ムクタールAhmed Mukhtarが著名である。スターとしてウード奏者のムニール・バシールMunir Bashirも有名。

カーヌーンは台形の共鳴箱の上に平行に多数の弦を張り渡した弦楽器で、手前が高音の弦となる。指で弦をつまんで演奏する撥弦楽器であり、弦の本数は様々だが、百本に達するもの等もある。

また現在、東アラブ古典音楽における核の一つとしてイラクのバグダードはエジプトのカイロと並び重要な地である。それだけでは無くイスラームの音楽文化の歴史にとってもバグダードは大変に重要な地で、アッバース朝時代のバグダードではカリフの熱心な文芸擁護によりモウスィリー、ザルザル、ズィリヤーブ等のウードの名手、キンディー、ファーラービー、サフィー・アッ=ディーン等の精緻な理論体系を追求した音楽理論家が綺羅星のごとく活躍をした。その様子は千夜一夜物語にも一部描写されている。時代は変遷し、イスラームの音楽文化の主流はイラク国外の地域に移ったのかも知れないが、現在でもかつての栄華を偲ばせる豊かな音楽伝統を持つ。バグダードにはイラーキー・マカーム(マカーム・アル=イラーキー)と呼ばれる小編成で都会的な匂いのする室内楽の伝統がある。

民謡には、カスィーダと呼ばれるアラブの伝統詩を謡い上げるもの、イラク独自の詩形を持つマッワール、パスタなどが知られる。 伝統的な結婚式では他アラブ圏でも同様だが、ズルナと呼ばれるチャルメラ状の楽器とタブルと呼ばれる太鼓がしばしば登場する。 またクルド人は独特の音楽を持つ。

現代のイラク人は西洋のロック、ヒップホップ、およびポップスなどをラジオ放送局などで楽しんでおり、ヨルダン経由でエジプトのポップスなども輸入されている。

世界遺産[編集]

詳細は「イラクの世界遺産」を参照

イラクは、アメリカ合衆国、エジプトに次ぎ、1974年3月5日に世界遺産条約を受託している。1985年にバクダードの北西290kmに位置する平原の都市遺跡ハトラ(ニーナワー県)が文化遺産に、2003年にはハトラの東南東50kmにあるティグリス川に面した都市遺跡アッシュール(サラーフッディーン県)がやはり文化遺産に認定されている。





ハトラの遺跡
アレクサンドロス大王の東征によって生まれた大帝国が分裂後に生まれたセレウコス朝シリアは紀元前3世紀、ハトラを建設した。セレウコス朝が衰弱すると、パルティア帝国の通商都市、宗教の中心地として栄えた。2世紀にはローマの東方への拡大によって、パルティア帝国側の西方最前線の防衛拠点となる。ローマ帝国の攻撃には耐えたがパルティア帝国は衰亡し、パルティア帝国に服していたペルシス王国が東から版図を拡大する中、224年に破壊された。226年にはパルティア自体が滅び、ペルシス王国はサーサーン朝ペルシアを名乗る。

アッシュールは紀元前3000年ごろ、メソポタミア文明最初期のシュメールの都市としてすでに成立していた。その後、シュメールの南方に接していたアッカド帝国の都市となり、ウル第三王朝を通じて繁栄、紀元前2004年の王朝崩壊後も商業の中心地として継続した。アッシリアが成立すると、その版図となり、古アッシリア時代のシャムシ・アダド1世(前1813年-前1781年在位)は、王国の首都をアッシュールに定め、廃れていたエンリル神殿を再建している。1000年の繁栄の後、新アッシリア王国のアッシュールナツィルパル2世はニムルドを建設し、遷都したため、アッシュールの性格は宗教都市へと変化した。紀元前625年に成立し、アッシリアを侵略した新バビロニア王国によって同614年に征服・破壊される。アッシリア自体も同612年に滅びている。その後、パルティア帝国が都市を再建したが、短期間の後、サーサーン朝ペルシャによって再び破壊され、その後再建されることはなかった。

アッシュールはドイツ人のアッシリア学者フリードリヒ・デーリチによって発掘調査が進められたため、遺物の多くはベルリンのペルガモン博物館に展示・収蔵されている。

祝祭日[編集]


日付

日本語表記

現地語表記

備考

1月1日 元日
1月6日 イラク国軍の日
2月8日 第14回ラマダーン革命記念日
6月30日 主権回復記念日
7月14日 建国記念日
7月17日 平和革命記念日
ヒジュラ暦第1月1日 イスラム元日
ヒジュラ暦第3月12日 マウリド・アン=ナビー ムハンマドの生誕祭
ヒジュラ暦第10月1日 イード・アル=フィトル 断食月明けの祭
ヒジュラ暦第12月10日 イード・アル=アドハー 犠牲祭


フセイン政権下の祝祭日を示した。

スポーツ[編集]

イラクではフセイン政権時代前はバスケットボールイラク代表やサッカーイラク代表などが国際試合を行っており、特にサッカーはアジア最強とも言われていたが、フセイン政権になり、特にウダイ・サッダーム・フセインがイラクオリンピック委員長に就任して以降、ウダイによる拷問により多数のスポーツ選手が殺害され、イラク国内においてスポーツ界に暗い影を落とした。また、スタジアムなどのスポーツ関連施設もフセイン政権下では公開処刑場と化していた。1990年代におけるスポーツ界でイラクが起こした著名な出来事と言えば、1994 FIFAワールドカップアジア最終予選で日本と引き分けの試合を演じ、日本がワールドカップ初出場の夢を打ち砕いた「ドーハの悲劇」が挙げられる。やがてアメリカによりフセイン政権が崩壊すると、徐々にスポーツ界も復興し始め、サッカーイラク代表もアジアカップ2007で初めてとなるアジアの頂点を制し、アジア列強として再び力を取り戻しつつある。

バーレーン

バーレーン王国(バーレーンおうこく、アラビア語: مملكة البحرين‎, ラテン文字: Mamlakat al-Baḥrayn)、通称バーレーンは、中東・西アジアの国家。首都はマナーマ。ペルシア湾のバーレーン島(英語版)を主島として大小33の島(ムハッラク島など)から成る君主制の島国である。

バーレーン島北部にはオアシスがあり、そこからエデンの園はバーレーンにあったのではないかと言う人もいる。

王家のハリーファ家(英語版)はクウェートのサバーハ家やサウジアラビアのサウード家と同じくアナイザ族(英語版)出身でスンナ派であるが、1782年以前はシーア派以外の宗派を認めていなかったサファヴィー朝やアフシャール朝の支配下にあった経緯もあり、国民の大多数をシーア派がしめる。

1994年以後、シーア派による反政府運動が激化し、2001年2月に行われた国民投票によって首長制から王制へ移行した。



目次 [非表示]
1 国名
2 歴史
3 地理
4 地方行政区分
5 政治 5.1 政体
5.2 外交

6 軍事
7 経済
8 交通
9 国民 9.1 言語
9.2 宗教 9.2.1 宗教的規制


10 文化 10.1 音楽
10.2 女性の社会進出
10.3 スポーツ

11 脚注
12 外部リンク


国名[編集]

正式名称はアラビア語で مملكة البحرين(ラテン文字: Mamlakat al-Baḥrayn, マムラカトゥ・アル=バフライン)、通称、البحرين‎(al-Baḥrayn アル=バフライン)。

公式の英語表記は Kingdom of Bahrain。通称 Bahrain。

日本語の表記はバーレーン王国。通称バーレーン。バハレーン、バハレインと書かれることもある。正則アラビア語に従った仮名表記では「バフライン」になる。

国名のبحرينは[2]アラビア語で「二つの海」という意味であり、島に湧く淡水と島を囲む海水を表すとされている。2002年、バーレーン国(State of Bahrain)から現在の名称に変更した。

歴史[編集]

詳細は「バーレーンの歴史(英語版)」を参照

かつてはディルムン文明と呼ばれるエジプト文明やシュメール文明に匹敵する文化の中心地であったといわれている。15世紀ごろまでは真珠の産地であった。
16世紀、ペルシャの圧力を受ける中、ポルトガルが進出
1782年 ハリーファ家がカタールから移住。支配が始まる
1867年 カタール・バーレーン戦争(英語版)
1868年 イギリス・バーレーン合意(英語版)
1880年 イギリスの保護国となる
1931年 米国の国際石油資本スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア(英語版)(通称ソーカル、SoCal。現:シェブロン)の子会社であるen:Bahrain Petroleum Company(BAPCO)が石油(en:First Oil Well, Bahrain)を発見。
1968年 イギリス軍のスエズ以東撤退が発表されたのを契機に、バーレーンを含む湾岸の9首長国が連邦結成協定を結ぶ
1971年 バーレーン国として独立
1975年 議会廃止
1990年代 en:1990s uprising in Bahrain
2001年 民主化推進に向け、国民投票を実施
2002年 国名をバーレーン王国へ改称し、絶対君主制から立憲君主制へ移行
2011年 2011年バーレーン騒乱。シーア派国民による反政府デモが起こる。

地理[編集]





バーレーンの地図
「バーレーンの都市の一覧」も参照

サウジアラビアの東、ペルシャ湾内にある群島。国土の大半が砂漠と石灰岩に覆われている。

ケッペンの気候区分は砂漠気候(BW)。

サウジアラビアとは「キング・ファハド・コーズウェイ」という全長約24kmの橋によって結ばれている。

地方行政区分[編集]

詳細は「バーレーンの行政区画」を参照





地方行政区分
5つの県がある。2003年7月3日までは12の行政区に分けられていた。
1.首都県
2.中部県(英語版)
3.ムハッラク県(英語版)
4.北部県(英語版)
5.南部県

政治[編集]

政体[編集]

かつては絶対君主制で、「クウェートより危うい国」とされていたが、湾岸戦争以後、民主化を求める国民による暴動が絶えず、首長(アミール)であるシャイフ・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファの下で次々と民主化を実行し、2002年より政体を立憲君主制とし、君主の称号をマリク(国王)と改めた。シャイフ・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファ首長は国王(マリク)に即位した。二院制の議会(国王が任命する評議院と直接選挙による代議院)を設置し、内閣には国王によって任命される首相を置き、男女平等参政権や司法権の独立などの体制を整えている。

外交[編集]

外交面では中東地域の国々やイギリス、フランス、日本、アメリカを始め、多くの国と良好な関係を築いており、また親米国だが、カタールとハワール諸島に関しての領土問題がある。イラクと関係が悪かったこともあり、湾岸戦争時にミサイルで狙われたこともある。またペルシア湾を挟んで向かい合う大国イランとは、パフラヴィー朝が「バーレーンは歴史的にみてイラン(ペルシア)の領土である」と領有権を主張していたことから、同国に対して警戒心が強いとされる。イスラーム革命後は、イランが国内のシーア派を扇動して体制転覆を図るのではないかと脅威に感じており、バーレーンのスンナ派住民の間には、こうした警戒心から反イラン・反シーア派感情が強いとされる。アメリカも「敵の敵は味方」思考からスンナ派(政権側で少数派)のシーア派(国内多数)弾圧に懸念を表明しつつも、対話を促す程度にとどまっている。

隣国サウジアラビアとは、王家が同じ部族の出身ということもあって関係が深く、実質的な保護国となっている。2011年バーレーン騒乱の際は、サウジアラビアの軍事介入によって事態が収束した。

軍事[編集]

詳細は「バーレーン国防軍」を参照

軍事面では湾岸戦争後、アメリカと防衛協定を結び、アメリカ軍が駐留しており、第5艦隊の司令部がある。南部の約25%がアメリカ軍基地となっている。

経済[編集]





バーレーンの首都、マナーマ
IMFの統計によると、2011年のバーレーンのGDPは約261億ドルと推計されており[3]、日本の島根県よりやや小さい経済規模である[4]。

隣国サウジアラビアとは橋一本で結ばれているため、経済的な結びつきが強い。中東で最も早く石油採掘を行った国で、GDPの約30%は石油関連事業によるものであり、その恩恵で国民には所得税が皆無であるが、1970年ごろから石油が枯渇し始め、このままいくと、あと20年余りで完全に枯渇するという問題に直面している。

しかし、世界最大の産油国サウジアラビアの隣国であり同国が事実上の鎖国体制を敷いていることやペルシャ湾の入口にあるという地理的特性を活かし、中東のビジネスの拠点、金融センターを目指してインフラ整備を進め、石油精製やアルミ精製、貿易、観光などの新規事業も積極的に展開し、多国籍企業を始めとした外国資本が多数進出している。2010年9月、英国のシンクタンクのZ/Yenグループによると、バーレーンは世界第42位の金融センターと評価されており、中東ではドバイ、カタールに次ぐ第3位である[5]。

観光にも力を入れており、現在は豊かな国の一つとして数えられているが、失業率が15%超 (政府発表値約6.6%:2003年) とGDPと比べて高い。

通貨単位はバーレーン・ディナール。レートは1米ドル=0.377バーレーン・ディナール(2010年12月3日現在)

交通[編集]

国営航空会社のガルフ・エアがアジアやヨーロッパ、アフリカ、オセアニア諸国に乗り入れている他、世界各国の航空会社がバーレーン国際空港に乗り入れている。日本から行く場合はバンコク、ドバイなどで乗り換えていくのが一般的である。

島国ではあるが、1986年にキング・ファハド・コーズウェイが開通、サウジアラビアとの間を車で行き来することが可能になっている。

国民[編集]





バーレーンの世代別人口分布
住民はアラブ人が7割ほどを占めている(バーレーン人が63%、その他のアラブ人が10%)。その他にイラン人が8%、アジア人(印僑など)が19%などとなっている。シーア派多数の人口構成を変えるために、パキスタン等他のスンナ派イスラーム諸国からの移民を受け入れ、国籍を与えていると言われている。

言語[編集]

言語は公用語がアラビア語で、他に英語、ペルシア語、ウルドゥー語などが使われる。

宗教[編集]

宗教は、イスラームが81.2%で、シーア派が75%、スンナ派が25%である。残りはキリスト教が9%で、その他は9.8%である。少数派であるスンナ派は政治やビジネスなどの面で優遇されて支配層を形成しているのに対して、多数派であるシーア派は貧困層が多く、公務員や警察には登用されないなど差別的な待遇に不満を感じているとされる。こうした不満が、2011年バーレーン騒乱に繋がったと見る向きもある。

宗教的規制[編集]

全世界からビジネスマンや観光客が来ることもあってか、サウジアラビアやイラン等の周辺国に比べると、宗教的規制はかなりゆるやかである。例えばアルコールは自由に飲むことができ、週末になると飲酒を禁じられている周辺国から酒を求めてムスリムが集まって盛り上がる。また、女性も顔や姿を隠す必要はなく、Tシャツでも自由に過ごすことができる。

文化[編集]





バーレーンの観光




バーレーンGP
音楽[編集]

欧米の軽音楽の聴取が自由であり、それらに影響された軽音楽がバーレーンでも製作されている。1981年にデビューしたオシリス (Osiris) はバーレーンを代表するロック・バンドで、ヨーロッパでもレコード、CDが発売されている。

女性の社会進出[編集]

女性の政治的社会進出も他の湾岸諸国に比べて進んでおり、就業率は23.5%(2001年)、大学進学率は11.8%(2001年、男子は13.2%)と高い水準を誇る[6]。

またサビーカ王妃がアラブ女性連合最高評議会の議長を務めるほか、第61回国連総会議長のハヤー・アール・ハリーファ、同国初の女性閣僚となったナダー・アッバース・ハッファーズ博士など政府の要職に女性が就くことも珍しくない。

スポーツ[編集]

スポーツで最も人気なのはサッカーであり、2006 FIFAワールドカップのアジア最終予選を抜けようと努力し、ホームのバーレーンのスタジアムではバーレーン国がチケットを買い上げ、それをバーレーンの市民に無料に配布してホームの試合を盛り上げるなどした。

2002年に釜山で行われたアジア大会サッカー競技で当時のU-21日本代表と対戦して以来、バーレーン代表は抽選の都合日本代表との対戦機会が急増しており、国際Aマッチの範囲だけでも2002年から2010年にかけて9試合を交えている[7]。

また西部の港町ザラク近郊の砂漠地帯であるサヒールにサーキットを建設し、F1開催の誘致に成功、2004年からバーレーンGPを開催している。

祝祭日


日付

日本語表記

現地語表記

備考

1月1日 元日 رأس السنة الميلادية
5月1日 メーデー يوم العمال
12月16日、17日 バーレーン国祭日 اليوم الوطني
ムハッラム月1日 イスラム暦新年 رأس السنة الهجرية イスラム暦による移動祝日
ムハッラム月9,10日 アーシューラー祭 عاشوراء イスラム暦による移動祝日
ラビーウ・アル=アウワル月12日 預言者生誕祭 المولد النبوي イスラム暦による移動祝日
シャウワール月1,2,3日 ラマダーン明け祭(イード・アル=フィトル) عيد الفطر イスラム暦による移動祝日
ズー・アル=ヒッジャ9日 アラファト・デー يوم عرفة イスラム暦による移動祝日
ズー・アル=ヒッジャ月10,11,12日 犠牲祭(イード・アル=アドハー) عيد الأضحى イスラム暦による移動祝日

脚注[編集]

アラブ首長国連邦

アラブ首長国連邦(アラブしゅちょうこくれんぽう)、通称UAE(英:United Arab Emirates)は、西アジア・中東の国。アラビア半島のペルシア湾(アラビア語圏ではアラビア湾と呼ぶ)に面した地域に位置する7つの首長国からなる連邦国家である。首都はアブダビ。東部ではオマーンと、南部および西部ではサウジアラビアと隣接する。カタールとは国境を接していないものの、論争がある。



目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 マガン
2.2 アケメネス朝ペルシア
2.3 イスラム帝国
2.4 ポルトガル
2.5 オスマン帝国
2.6 トルーシャル首長国
2.7 アラブ首長国連邦

3 政治 3.1 内政
3.2 外交

4 軍事
5 地方行政区分 5.1 連邦を構成する7首長国

6 地理
7 経済 7.1 アラブ首長国連邦の企業

8 交通 8.1 空港

9 国民
10 文化 10.1 教育
10.2 宗教
10.3 スポーツ
10.4 メディア

11 脚注
12 関連項目
13 外部リンク


国名[編集]

正式名称はアラビア語で、الإمارات العربية المتحدة (ラテン文字転写 : al-Imārāt al-‘Arabīyah al-Muttaḥidah; アル=イマーラート・アル=アラビーヤ・アル=ムッタヒダ)。略称は إمارات (イマーラート)で、これはアラビア語で「首長国」を意味する、「إمارة(イマーラ)」という単語の複数形である。

公式の英語表記は、United Arab Emirates。略称は、UAE。

日本語の表記は、アラブ首長国連邦。日本語名称をアラブ首長国連合としている場合が見受けられるが、外務省ではアラブ首長国連邦としている。行政機関では略称としてア首連を使用することが多いが、近年では英字略であるUAEの使用も見られる。また、サッカーなどスポーツ競技内ではUAEを使用することが多い。

歴史[編集]

詳細は「アラブ首長国連邦の歴史(英語版)」を参照

マガン[編集]

現在のアラブ首長国連邦の領域で最古の人類居住遺跡は紀元前5500年ごろのものである。やがて紀元前2500年ごろにはアブダビ周辺に国家が成立した。メソポタミアの資料でマガンと呼ばれるこの国は、メソポタミア文明とインダス文明との海上交易の中継地点として栄えたが、紀元前2100年ごろに衰退した。

アケメネス朝ペルシア[編集]

紀元前6世紀ごろには対岸にある現在のイランに興ったアケメネス朝ペルシアの支配を受け、その後もペルシア文明の影響を受けていた。

イスラム帝国[編集]

7世紀にイスラム帝国の支配を受けイスラム教が広がる。その後オスマン帝国の支配を受ける。

ポルトガル[編集]

16世紀、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見し、ポルトガルが来航、オスマン帝国との戦いに勝利し、その後150年間、ペルシア湾沿いの海岸地区を支配する。

オスマン帝国[編集]

その他の地域はオスマン帝国の直接統治を経験する。現在のアラブ首長国連邦の基礎となる首長国は17世紀から18世紀頃にアラビア半島南部から移住してきたアラブの部族によってそれぞれ形成され、北部のラスアルハイマやシャルジャを支配するカワーシム家と、アブダビやドバイを支配するバニヤース族とに2分された。

トルーシャル首長国[編集]





ハッタ(英語版)の見張り塔(18世紀)
18世紀から19世紀にかけてはペルシア湾を航行するヨーロッパ勢力の人々に対立する海上勢力『アラブ海賊』と呼ばれるようになり、その本拠地『海賊海岸(英語版)』(英語: Pirate Coast、現ラアス・アル=ハイマ)として恐れられた。彼らは同じく海上勢力として競合関係にあったオマーン王国ならびにその同盟者であるイギリス東インド会社と激しく対立し、1809年にはイギリス艦船HMSミネルヴァ(英語版)を拿捕して(Persian Gulf campaign)、海賊団の旗艦とするに至る。イギリスはインドへの航路を守るために1819年に海賊退治に乗り出し、ボンベイ艦隊により海賊艦隊を破り、拿捕されていたミネルヴァを奪回の上に焼却。

1820年、イギリスは、ペルシア湾に面するこの地域の海上勢力(この時以来トルーシャル首長国(英語版)となった)と休戦協定を結び、トルーシャル・オマーン (Trucial Oman:休戦オマーン) と呼ばれるようになる (トルーシャル・コースト (Trucial Coast:休戦海岸とも) 。

1835年までイギリスは航海防衛を続け、1835年、イギリスと首長国は「永続的な航海上の休戦」に関する条約を結んだ。その結果、イギリスによる支配権がこの地域に確立されることとなった。この休戦条約によりトルーシャル・コースト諸国とオマーン帝国(英語版)(アラビア語: مسقط وعمان‎)との休戦も成立し、陸上の領土拡張の道を断たれたオマーン帝国は東アフリカへの勢力拡大を行い、ザンジバルを中心に一大海上帝国を築くこととなる。一方トルーシャル・コースト諸国においては、沿岸の中継交易と真珠採集を中心とした細々とした経済が維持されていくこととなった。その後、1892年までに全ての首長国がイギリスの保護下に置かれた。





20世紀中頃のドバイ
1950年代中盤になると、この地域でも石油探査が始まり、ドバイとアブダビにて石油が発見された。ドバイはすぐさまその資金をもとにクリークの浚渫を行い、交易国家としての基盤固めを開始した。一方アブダビにおいては、当時のシャフブート・ビン・スルターン・アール・ナヒヤーン首長が経済開発に消極的だったため、資金が死蔵されていたが、この状況に不満を持った弟のザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーンが宮廷クーデターを起こし政権を握ると、一気に急速な開発路線をとるようになり、湾岸諸国中の有力国家へと成長した。

1968年にイギリスがスエズ以東撤退宣言を行うと、独立しての存続が困難な小規模の首長国を中心に、連邦国家結成の機運が高まった。連邦結成の中心人物はアブダビのザーイドであり、当初は北のカタールやバーレーンを合わせた9首長国からなるアラブ首長国連邦 (Federation of Arab Emirates:FAE) の結成を目指していたが、カタールやバーレーンは単独独立を選び、一方アブダビとドバイは合意の締結に成功した。

アラブ首長国連邦[編集]

アブダビとドバイの合意により、残る首長国も連邦結成へと動いた。 1971年にアブダビ(アラビア語ではアブザビの方が発音に近い)、ドバイ、シャールジャ、アジュマーン、ウンム・アル=カイワイン、フジャイラの各首長国が集合して、連邦を建国。 翌1972年、イランとの領土問題で他首長国と関係がこじれていたラアス・アル=ハイマが加入して、現在の7首長国による連邦の体制を確立した。

政治[編集]

内政[編集]





ハリーファ大統領
アラブ首長国連邦は、7つの首長国により構成される連邦国家である。各首長国は世襲の首長による絶対君主制に基づき統治されている。現行の連邦憲法は1971年発布の期限付き暫定憲法が、1996年に恒久化されたものである。

連邦の最高意思決定機関は連邦最高評議会(FSC、Federal Supreme Council)で、連邦を構成する7首長国の首長で構成される。議決にはアブダビ(首都アブダビ市がある)、ドバイ(最大の都市ドバイ市がある)を含む5首長国の賛成が必要になる。憲法規定によると、国家元首である大統領、および首相を兼任する副大統領はFSCにより選出されることとなっているが、実際には大統領はアブダビ首長のナヒヤーン家、副大統領はドバイ首長のマクトゥーム家が世襲により継ぐのが慣例化している。閣僚評議会(内閣相当)評議員は、大統領が任命する。

議会は一院制の連邦国民評議会で、定数は40。議員は連邦を構成する各首長国首長が任命する。議席数はアブダビとドバイが8議席、シャールジャとラアス・アル=ハイマが6議席、アジュマーン、ウンム・アル=カイワイン、フジャイラが4議席を持つ。連邦の最高司法機関は連邦最高裁判所である。

連邦予算は8割がアブダビ、1割がドバイ、残りの1割は連邦政府の税収によってまかなわれており、残りの5首長国の負担額はゼロである。事実上、アブダビが北部5首長国を支援する形になっていると言える。後述のように石油収入は油田を持つ首長国の国庫に入るため、連邦に直接石油収入が入るわけではない。

国名のとおり、7つの独立した首長国が連邦を組んでいる体制であるため、各首長国の権限が大きく、連邦政府の権限は比較的小さい。外交、軍事、通貨などについては連邦政府の権限であり、また連邦全体の大まかな制度は統一されているが、資源開発、教育、経済政策、治安維持(警察)、社会福祉、インフラ整備などは各首長国の権限である。そのため、アブダビでは石油資源開発系の省庁が大きく、ドバイでは自由貿易系の省庁が力を持っている。世界有数のソブリン・ウエルス・ファンドであるアブダビ投資庁(ADIA)も、連邦ではなくアブダビ首長国に属する。

一般国民には国政に関する選挙権が無いのが特徴だったが、2005年12月1日、連邦国民評議会の定数の半数に対する国民の参政権が認められた。しかし、その参政権の幅は極めて限定的なもので、有権者は各首長が選出した計2000人程度に留まる見通しである。政党は禁止されている。

とはいえ、アラブ首長国連邦は石油の富によって成り立つ、つまり国民の労働とその結果である税金に拠らずして国家財政を成立させうる典型的なレンティア国家であるため、国民の政治への発言力も発言意欲も非常に小さい。また、連邦成立以降の急速な経済発展と生活の向上は首長家をはじめとする指導層の運営よろしきを得たものと国民の大多数は考えており、実際にUAE国籍を持つ国民はゆりかごから墓場までの手厚い政府の保護を受けている。また首長が国民の声を直接聞く伝統的なマジュリスなどの制度も残っているため、民主化を求める動きは大きくない。UAE全住民に対する国民の割合が20%に過ぎないことも、民主化に消極的な原因の一つとなっている。2011年にアラブ世界全域に広がった民主化運動(アラブの春)においても、アラブ首長国連邦国内においては民主化要求デモなどの動きはまったく起きなかった[2]。

外交[編集]

外交は湾岸協力会議諸国などの近隣諸国との関係を重視する保守穏健路線で、特に隣接するサウジアラビアとの関係を重視している。ラス・アル・ハイマ領に属するアラビア湾のアブームーサー島・大トンブ島・小トンブ島を巡ってイランと領有権を争っている。また、サウジアラビアとの国境問題は1974年に条約を締結し一時解決したかに思われたが、2006年に再燃した。

湾岸諸国の中では比較的欧米に寛容で、湾岸戦争時は米軍に基地使用を認め、イラク戦争でもその駐留を許可した。イギリスは旧宗主国であり、現在も関係が深いが、アメリカはじめそのほかの欧米諸国とも関係が深まってきている。

アラブ首長国連邦とインドとは季節風に乗れば非常に近いため帆船時代より関係が深く、現在でもアラブ首長国連邦にやってくる労働者のかなりの部分を南アジア出身者が占める。

軍事[編集]

詳細は「アラブ首長国連邦軍」を参照

アラブ首長国連邦軍は陸軍、海軍、空軍の三軍を有する。このほかに沿岸警備隊がある。湾岸戦争の際はクウェート奪還に戦力を提供した。

地方行政区分[編集]





アラブ首長国連邦の各首長国。黄色の部分がアブダビで、突出して面積が広い。茶色の部分はドバイである
詳細は「アラブ首長国連邦の首長国」を参照

アラブ首長国連邦は以下の7首長国から構成されている。各首長国の国名はそれぞれの首都となる都市の名前に由来しており、最大の国であるアブダビ首長国の首都のアブダビが、連邦全体の首都として機能している。ただ近年は、外国資本の流入によるドバイの急激な発展によって、政治のアブダビ、経済のドバイと言われるようになってきている。アブダビとドバイ以外は国際社会ではあまり著名でない。

連邦を構成する7首長国[編集]
アブダビの旗 アブダビ首長国
ドバイの旗 ドバイ首長国
シャールジャの旗 シャールジャ首長国
アジュマーンの旗 アジュマーン首長国
ウンム・アル=カイワインの旗 ウンム・アル=カイワイン首長国
フジャイラの旗 フジャイラ首長国
ラアス・アル=ハイマの旗 ラアス・アル=ハイマ首長国

地理[編集]

詳細は「アラブ首長国連邦の地理」を参照





アラブ首長国連邦の地図




ドバイ近郊の砂漠地帯
アラビア半島の南東部にあり、アラビア湾とオマーン湾に面している。国土の大部分は、平坦な砂漠地帯であり、南部には砂丘も見られる。東部はオマーンと接する山岳地帯であり、オアシスがある。南部はサウジアラビア領に広がるルブアルハリ砂漠の一部であり、リワなどのオアシスがある。ホルムズ海峡(海峡に臨むムサンダム半島はオマーン領)に近いということで、地政学上、原油輸送の戦略的立地にある。国民のほとんどは沿海地方に住む。また7首長国のうち、フジャイラを除く6国は西海岸(アラビア湾)に、フジャイラは東海岸(オマーン湾)に位置する。砂漠気候(BW)のため、年間通じて雨はほとんど降らないが、冬季に時折雷を伴って激しく降る事がある。アラビア湾に面し海岸線が長いことから気温の日較差は小さい。11〜3月は冬季で、平均気温も20度前後と大変過ごしやすく、観光シーズンとなっている。6〜9月の夏季には気温が50度近くまで上昇し、雨が降らないにもかかわらず、海岸に近いため湿度が80%前後と非常に高くなる。ドバイの平均気温は23.4℃(1月)、42.3℃(7月)で、年降水量は60mm。

アブダビ首長国に属し、内陸部の同国東部国境にあるアル・アインとオマーン領のブライミは隣接したオアシスであり国境線は複雑に入り組んでいるが、オマーンの入国管理局はブライミよりずっとオマーン寄りに設けられており、両都市間の移動に支障はない。南部の油田地帯を含むサウジアラビアとの国境は1974年の条約によって一時確定し、これによりアラブ首長国連邦はアル・アイン周辺の数ヶ村をサウジアラビアから譲り受ける代わりにカタールとアブダビとの間のアラビア湾に面した地域を割譲して、アラブ首長国連邦とカタールとは国境を接しなくなった。しかし2006年にアラブ首長国連邦政府はふたたび割譲した地域の領有権を主張し、紛争が再燃した。

経済[編集]

詳細は「アラブ首長国連邦の経済」を参照





ドバイはビジネス、人材、文化などを総合した世界都市格付けで世界29位の都市と評価された[3]。
2010年のGDPは約2396億ドルであり[4]、日本の埼玉県とほぼ同じ経済規模である[5]。

かつては沿岸部の真珠採集と、ドバイやシャールジャなどでおこなわれていたわずかな中継貿易、それに北部諸首長国でおこなわれた切手の発行(土侯国切手と呼ばれ、コレクターの間では忌み嫌われる)がわずかな収入源であった。その真珠採集も1920年代の日本の養殖真珠の成功により衰退し、ますます経済活動が縮小していたが、1960年代後半にアブダビでの石油産出が本格化して以降、経済構造が一変した。

GDPの約40%が石油と天然ガスで占められ、日本がその最大の輸出先である。原油確認埋蔵量は世界5位の約980億バレル。天然ガスの確認埋蔵量は6兆600億m3で、世界の3.5%を占める。一人当たりの国民所得は世界のトップクラスである。原油のほとんどはアブダビ首長国で採掘され、ドバイやシャールジャでの採掘量はわずかである。アブダビは石油の富を蓄積しており、石油を産しない国内の他首長国への支援も積極的におこなっている。

石油が圧倒的に主力であるアブダビ経済に対し、ドバイの経済の主力は貿易と工業、金融である。石油をほとんど産出しないドバイは、ビジネス環境や都市インフラを整備することで経済成長の礎を築いた。1983年にジュベル・アリ港が建設され、1985年にはその地域にジュベル・アリ・フリーゾーンが設立された。ジャベル・アリ・フリーゾーンには、外国企業への優遇制度があり、近年、日本や欧米企業の進出が急増して、物流拠点となっている。オイルショック後オイルマネーによって潤うようになった周辺アラブ諸国であるが、それら諸国には適当な投資先がなく、自国に距離的にも文化的にも近く積極的な開発のおこなわれているドバイに余剰資金が流入したのが、ドバイの爆発的発展の原動力となった。それ以外にアルミや繊維の輸出も好調である。アルミ工場は石油や電力の優遇措置を受けているためきわめて安価なコストでの生産が可能であり、主力輸出品のひとつとなっている。また、貿易、特にインド・イラク・イランに向けての中継貿易の拠点となっている。

数値的にはアラブ首長国連邦の石油依存度は低いように見えるが、連邦の非鉱業部門の中心であるドバイの商業開発や産業はアブダビや周辺諸国のオイルマネーが流れ込んだ結果であり、アルミ部門のように原料面などでの支援を受けているものも多く、石油無しで現在の状況を維持しきれるとは必ずしもいえない。本質的には未だ石油はこの国の経済の重要な部分を占めている。

なお近年は、ドバイのみならず国内全体において産業の多角化を進め、石油などの天然資源の掘削に対する経済依存度を低め、東南アジアにおける香港やシンガポールのような中東における金融と流通、観光の一大拠点となることを目標にしている。また、特にドバイにおいて近年は観光客を呼び寄せるためのリゾート施設の開発に力を入れており、世界一高いホテルであるブルジュ・アル・アラブの建設、「パーム・アイランド」と呼ばれる人工島群、2010年に完成した世界一高い建造物であるブルジュ・ハリーファなど、近年急速に開発が進んでおり、中東からだけでなく世界中から観光客を引き寄せることに成功している。この成功を見たアブダビやシャルジャなど他首長国も観光に力を入れはじめ、豪華なリゾートホテルや観光施設の建設が相次いでいる。

また、食糧安保のために農業にも多大な投資をおこなっている。デーツなどを栽培する在来のオアシス農業のほかに、海水を淡水化して大規模な灌漑農業をおこなっており、野菜類の自給率は80%に達している[6]。

アラブ首長国連邦の企業[編集]
エティハド航空
エミレーツ航空
ジュメイラ・インターナショナル

交通[編集]

詳細は「アラブ首長国連邦の交通」を参照





ドバイ国際空港




ドバイ・メトロ
ドバイやアブダビ、シャールジャなどが古くから中東における交通の要衝として発達しており、この3都市は第二次世界大戦後の航空網の発達に併せてその地位を高いものとしている。ドバイ国際空港は中東のハブ空港としての地位にある。また、近代的な高速道路がこれらの都市間を結んでいるほか、海運も盛んに行われている。ドバイでは2009年9月に日本企業による地下鉄であるドバイ・メトロが開通した。

空港[編集]
アブダビ アブダビ国際空港
アルアイン国際空港

ドバイ ドバイ国際空港
アール・マクトゥーム国際空港

シャルジャ シャールジャ国際空港

アジュマン アジュマン国際空港

フジャイラ フジャイラ国際空港

ラアス・アル=ハイマ ラアス・アル=ハイマ国際空港


国民[編集]

住民は、在来のアラブ人からなるアラブ首長国連邦の国民は全体の19%を占めるに過ぎない。その他は外国籍の住民であり、他のアラブ諸国から来た人々や、イラン人、南アジア系50%(インド人140万人、パキスタン人、バングラデシュ人、スリランカ人)、東南アジア系(フィリピン人)、欧米系、東アジア系の人々などがいる。これらの外国籍の多くは、石油収入によって豊かなアラブ首長国連邦に出稼ぎとしてやってきた人々である。しかし、単身が条件で家族を連れての居住は認められていない。長期在住者でも国籍取得は大変難しく、失業者は強制送還するなど、外国人へは厳格な管理体制がなされている。

外国人への厳しい管理体制と裏腹に、旧来のUAE国民とその子孫(UAEナショナルと呼ばれる)へは、手厚い支援体制がとられている。教育や医療は無料で、所得税もなく、民間に比べて高給である公務員への登用が優先的になされる。このため、UAEナショナルの労働人口のかなりの部分が公務員によって占められている。国民同士が結婚すれば国営の結婚基金から祝い金が交付され、低所得者や寡婦などには住宅や給付金などの保障が手厚くなされる。これは国民への利益分配の面のほかに、全住民の5分の1に過ぎない連邦国民の増加策の面もある。

しかし政府はあくまでも現在のUAE国民とその子孫の増加を望んでいるため、UAE国民以外の国籍取得は大変難しい。一般の長期在住者がUAEの国籍を取得する資格を得るには、30年以上の継続した国内在住を要する。アラブ系国家出身であれば条件は緩和され、7年の継続居住で国籍取得申請ができ、兄弟国とも言えるカタール、バーレーン、オマーン出身者であれば3年の継続居住で国籍取得申請は可能である。また、帰化しても市民権にはいくつかの制約が設けられる。例えば、カタール、バーレーン、オマーン出身者を除く帰化市民には選挙権は与えられない。[7]

また、近年では若年層人口の増加により公務員の仕事をすべての希望する国民に割り振ることができなくなる可能性が指摘されており、政府は外国人によって占められている職場に自国民雇用義務を導入し、労働力の自国民化を目指している。しかし、厳しい競争に晒されてきた外国人に比べて、これまで保護されてきたUAEナショナルは高給だが能力に劣ることが多く、また国民も厳しい仕事を嫌って高福祉を頼り無職のままでいることも多い。

言語はアラビア語が公用語である。ただし、外国人が多いため、英語や南アジア系の言葉なども広く使われている。


人口の推移[8]

1975年

1980年

1985年

1990年

2008年

アブダビ 21万2000 45万4000 67万0000 88万9000 89万6751
ドバイ 18万3000 27万6000 41万9000 55万9000 177万0533
シャールジャ 7万9000 15万9000 26万9000 37万7000 84万5617
ラアス・アル=ハイマ 4万4000 7万5000 11万6000 15万9000 17万1903
アジュマーン 1万7000 3万6000 6万4000 9万2000 37万2923
フジャイラ 1万6000 3万2000 5万4000 7万6000 10万7940
ウンム・アル=カイワイン 7000 1万3000 2万9000 4万6000 6万9936

合計
55万8000 104万5000 162万1000 219万8000 459万9000

文化[編集]





ドバイの伝統的なスーク
アラブ諸国の中では寛容な文化政策を採っており、特にドバイなどでは各所のショッピングモールなどで各国のポップカルチャーや食文化を楽しむことができる。一方で、国民が圧倒的に少数という現状から、政府は伝統的な文化の保存・保護や国民意識の形成に力を入れている。

教育[編集]

教育制度は小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年の6・3・3・4制である。識字率は90%(2007年)。義務教育は小学校6年間と中学校3年間のみであるが、ほとんどの生徒は高校へと進学する。近年では大学進学率も上昇を続けている。大学は1977年に国内初の大学としてUAE大学がアル・アインに創立され、以後国立大学数校が設立された。また、私立大学も多く設立され、欧米の大学のUAE校も多数進出してきている。欧米への留学生も多い。連邦政府は教育を最重要項目として重点的に予算を配分しており、連邦予算の25%が教育予算によって占められている。国公立学校においては小中高から大学まで授業料はすべて無料であり設備も充実している。一方、私立学校も多数設立されている。イスラム教国家であるため、小学校から大学にいたるまですべてが男女別学であるが、幼稚園のみは男女共学となっている。

宗教[編集]

宗教はイスラム教が国教であるが、外国人を中心にキリスト教やヒンドゥー教なども信仰されている。信教の自由は認められ、イスラム教以外の宗教を信仰することも宗教施設を建設することも可能である。一方、イスラム教の戒律に関しては、もっとも自由で開放的なドバイ首長国から、最も敬虔で厳格なシャールジャ首長国にいたるまで、各首長国によって態度に違いがある。たとえば、ドバイでは女性はアバーヤなどを着ずともよく、肌を露出させた服装を着るのも自由であり、酒類の販売も可能である。一方アブダビはやや保守的であり、シャールジャでは服装にも厳格で、酒類販売は原則的に禁止されている。

スポーツ[編集]

アラブ首長国連邦で最も人気のあるスポーツはサッカーであり、国内リーグとして12チームからなるUAEリーグがある。また、サッカーアラブ首長国連邦代表は1990年にFIFAワールドカップへの出場歴があり、現在でもアジア内では強豪として知られる。また、競馬はドバイ首長家であるマクトゥーム家が特に力を入れており、ドバイのメイダン競馬場で3月下旬に開催されるドバイワールドカップは、1着賞金が世界最高金額の競馬競走として知られる。伝統的な競技として、ラクダのレースも人気がある。競技ではないが、鷹狩りも伝統的に人気のあるスポーツである。2005年にはドバイのショッピングモール内に屋内スキー場スキー・ドバイがオープンし、この国でもスキーを楽しむことが可能になった。

メディア[編集]

ドバイにはメディアのフリーゾーンである「ドバイ・メディア・シティ」(DMC)が建設されており、衛星テレビ局アル・アラビーヤの本部やBBCやCNNの支局などが開設されて、報道の一中心となっている。また、在来のドバイテレビやアブダビテレビもある。

西アジア

西アジア(にしアジア)は、アジア西部を指す地理区分である。今日の欧米ではほぼ中東と同じ領域を指すことが多い。一般的には、中央アジアおよび南アジアより西、地中海より東で、ヨーロッパとはボスポラス海峡、アフリカとはスエズ運河によって隔てられている地域を指す。

概要[編集]

一般に国家としては、アフガニスタン、イラン、イラク、トルコ、キプロス、シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、サウジアラビア、クウェート、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーン、イエメン、パレスチナおよびエジプトの一部がここに属す。また、黒海とカスピ海の間にある旧ソ連のアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアを含めることも多く、これらの国々を含めない場合は西南アジアと呼んで区別することもある。

アフガニスタンは、マザーリシャリーフを中心とする北部では中央アジア最南端の宗教都市がありウズベキスタンと関係が深い。ヘラートを中心とする北西部では西アジアのイランにまたがるホラーサーン地方の一部で、イランと関係が深い。カーブルを中心とする南部はカイバル峠を通じて南アジアのパキスタン、インドと繋がりが深い。しかし、普通には19世紀にイギリスの統治下に入ったインド亜大陸を南アジア、北のロシアと清の支配下にあった地域を中央アジアと呼ぶので、両国の緩衝帯として独立国のまま残されたアフガニスタンは西アジアに分類することになる。

地域[編集]

西アジアに含まれる国
アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦
バーレーンの旗 バーレーン
イラクの旗 イラク
イスラエルの旗 イスラエル (ユダヤ人国家で文化的にはヨーロッパに近い。)
ヨルダンの旗 ヨルダン
クウェートの旗 クウェート
レバノンの旗 レバノン
オマーンの旗 オマーン
パレスチナの旗 パレスチナ
カタールの旗 カタール
サウジアラビアの旗 サウジアラビア
シリアの旗 シリア
イエメンの旗 イエメン
トルコの旗 トルコ (ボスポラス海峡より西側はヨーロッパに属し文化的にもヨーロッパに近い。)
キプロスの旗 キプロス (文化的にアラブよりヨーロッパに近くEUに加盟している。)

地理的区分では更に以下の国と地域が西アジアに含まれる。
エジプトの旗 エジプト スエズ運河より東側はアラビア半島。


イラン高原〜ヒンドゥークシュ山脈にかけての地域では、イラン系アーリア人が主要民族で南アジアのインド系アーリア人と人種に近く南アジアに区分される場合も多い。
アフガニスタンの旗 アフガニスタン 北部を除く地域

イランの旗 イラン
タジキスタンの旗 タジキスタン共和国  ゴルノ・バダフシャン自治州


コーカサス山脈以南の旧ソ連邦諸国はヨーロッパと文化的に近くヨーロッパに区分される場合も多い。
アルメニアの旗 アルメニア
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン
グルジアの旗 グルジア

中東

中東(ちゅうとう、Middle East または Mideast)は、狭義の地域概念では、インド以西のアフガニスタンを除く西アジアとアフリカ北東部の総称。西ヨーロッパから見た文化の同一性や距離感によって、おおまかに定義される地政学あるいは国際政治学上の地理区分。



目次 [非表示]
1 日本における「中東」の概念
2 欧米諸国における「中東」の概念
3 アメリカの中東戦略
4 日本との関係
5 中東の国 - 首都の一覧 5.1 伝統的中東
5.2 拡大中東
5.3 その他
5.4 表註

6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク


日本における「中東」の概念[編集]

日本における中東の概念は、欧米とはやや異なり、イスラム教の戒律と慣習に基づく文化領域の概念として極めて広域に用いられることが一般的である。具体的には、北アフリカのエジプト以西のマグリブ地域(リビア、スーダンを含む)、またはソマリアなどを含めたり、西南アジアのパキスタンやアフガニスタン、場合によってはヨーロッパのキプロスや旧ソ連領の中央アジア諸国を含めたりする場合がある。その為、日本における中東の地域概念の広がりを厳密に定義することは困難である。

このような不確かな概念にも係わらず、日本で中東の概念が広く用いられているのは、広大な範囲に広がるイスラム教国の中から東南アジア・南アジア・ブラックアフリカなどイスラム以外の宗教と入り乱れてまとまった地域を形成している国々を除外し、逆にイスラム教国に取り囲まれているがイスラム教国ではないイスラエル・キプロスなどを組み込んだ地域を「イスラム」という言葉を用いずに表現するのにもっとも適当な概念だからであろう。特に地理的にはアフリカに属すが、政治的・文化的には西アジアのアラブ諸国と同じマシュリク(東アラブ)に属すエジプトを西アジアと一体の地域として扱うためには非常に便利な地域概念と思われる。

欧米諸国における「中東」の概念[編集]

中東は、19世紀以降にイギリスなどがインド以西の地域を植民地化するに当たって考え出された概念である。元来はイラン・アフガニスタンおよびその周辺を指す概念であり、現在の中東に含まれる地中海沿岸地域は、バルカン半島とともに近東と称されていた。しかし、中東と近東の概念を混同した中近東という概念の登場を経て、第二次世界大戦中にイギリス軍によってはじめて現在の中東の概念が使用されるようになった。

以降、欧米諸国では、「中東」はほぼアフガニスタンを除く西アジアとアフリカ北東部の国々を指す概念として用いられ、具体的には、アラブ首長国連邦(UAE)、イエメン、イスラエル、イラク、イラン、エジプト、オマーン、カタール、クウェート、サウジアラビア、シリア、トルコ、バーレーン、ヨルダン、レバノンの諸国、及びパレスチナ自治政府の管轄地域がその概念の中に含まれている。

アメリカの中東戦略[編集]

冷戦崩壊以降、国際安全保障環境は民族・宗教対立の表面化、核拡散、国際秩序の地域分化などが顕著となった。アメリカは、産油国でありながらかつ紛争の絶えない中東への介入を拡大させ、湾岸戦争後はイラクに対する敵視政策を拡大してきた。2001年における4年ごとの国防見直し (QDR) においては中東から東アジアにかけての広い地域を不安定の弧と位置づけ、対アジア戦略の中枢に据えてきた。中でも中東は紛争の絶えない地域でありアメリカの世界戦略の軸とされてきた。

こうしたアメリカの中東への介入によりアルカーイダはアメリカに対する敵視・敵対・テロ活動を増大させ、2001年にアメリカ同時多発テロ事件が勃発、アメリカの富の象徴、ニューヨーク・マンハッタンの世界貿易センタービル(ワールド・トレード・センター)、並びにアメリカの国防機関の中枢、国防総省へのテロが発生し、時のジョージ・W・ブッシュ大統領は、このテロを「新しい戦争」と呼び、ますます中東への介入を強めた。

しかし、国際法上、テロに対する戦争が困難だったアメリカはテロ支援国家を攻撃することによりこれに対抗しようとした。その結果がアフガニスタンのターリバーン政権打倒であり、イラク戦争であった。イラク戦争をはじめとするアメリカの中東戦略は国連安保理の承認を経ずに自国とイギリスを中心とした有志連合によって攻撃をしたため、国際社会から批判された。

アフガニスタンに対してはアフガニスタン戦争でターリバーン政権を打倒し、国連安全保障理事会で採択したアフガニスタンの再建・復興プロセスに基づいて、暫定国会選挙、新憲法案の採択、憲法承認国民投票、正式国会選挙、大統領選挙と政府の樹立などの政治体制の変革を遂行し、2014年末中のアフガニスタンへの派遣軍の全軍撤退をめざしているが、タリバーンによるテロは収束せず治安回復や復興計画が進展していない[1]。

イラクに対してはイラク戦争フセイン政権を打倒し、国連安全保障理事会で採択したイラクの再建・復興プロセスに基づいて、暫定国会選挙、新憲法案の採択、憲法承認国民投票、正式国会選挙、国会による首相の選挙と政府の樹立などの政治体制の変革を遂行し、テロが完全に収束せずテロによる死傷者が発生している状況ではあるが、2011年末にイラクへの派遣軍を全軍撤退させた[2]。

日本との関係[編集]

20世紀前半の中東は欧米列強の侵略に悩まされた地域であり、日露戦争において日本が欧米列強の一員であるロシアに対して勝利した事は、中東諸国を含めたアジア諸国に大きな希望を抱かせた。植民地支配からの独立後、また中東戦争時に欧米諸国が一斉に人材や資本を引き上げた時に西側諸国として唯一、政府開発援助や国際協力機構(JICA)による人を通じた国際協力を続けたため親日感情を持つものも多いという事実がある。特に日本にとっては豊かな産油国であるこれらの国との関係はエネルギー安全保障上において重要なパートナーであり、日本から東南アジア、インド洋、そして中東にかけて伸びる海洋交通路即ちシーレーンの防衛が課題となっている。

1970年代から1980年代にかけて新左翼系国際テロ組織の日本赤軍による活動拠点となり、多数の民間人が犠牲になったテルアビブ空港乱射事件や日航機ハイジャック事件などの舞台ともなった。

詳細は「日本赤軍事件」を参照

アメリカ合衆国によるイラク戦争の開戦後は、日本もアメリカの同盟国としてイラク戦争の後方支援並びにイラク戦後復興支援に尽力している。日本のイラクへの自衛隊派遣に反対する人々は「アメリカの戦争への協力」、「アメリカのいいなり」、「イラク国民のためにならない」、「自衛隊の派遣は憲法違反」、「武装組織との戦闘によりイラク国民にも自衛隊にも死傷者が発生したらイラク国民の対日感情が悪化する」などの理由で批判し、論争になった。イラクでアメリカ軍やイギリス軍を攻撃した武装勢力は、イラクに派遣された日本の自衛隊に対しては攻撃せず、自衛隊はイラクの武装勢力との戦闘による死傷者は発生せず、自衛隊もイラク国民を死傷させなかった。イラクからの自衛隊の撤退後に、イラクの大統領、首相、外相、その他の閣僚や政府幹部、国会議員団が来日して、日本の首相や閣僚と会談した時に、日本がイラク戦争後のイラクの復興に協力したことに感謝を表明した[3][4][5][6][7][8][9][10]。

中東の国 - 首都の一覧[編集]





伝統的中東(深緑色)とG8によって提案された拡大中東(薄緑色)
ここでは中東の国として、西アジア諸国・地域、及びに北アフリカのアラブ諸国(アラブ人が多数を占める国)を記載する。

伝統的中東[編集]


国旗


国章


国名


正式国名


原語(公用語)表記


人口


面積 (km2)


首都



アフガニスタンの旗 Emblem of Afghanistan.svg アフガニスタン[t 1] アフガニスタン・イスラム共和国 جمهوری اسلامی افغانستان(ダリー語)
د افغانستان اسلامی جمهوريّت(パシュトー語) 28,150,000 652,225 カーブル
アラブ首長国連邦の旗 Emblem of the United Arab Emirates.svg アラブ首長国連邦 アラブ首長国連邦 الإمارات العربيّة المتّحدة(アラビア語) 4,599,000 82,880 アブダビ
イエメンの旗 Emblem of Yemen.svg イエメン イエメン共和国 الجمهوريّة اليمنية(アラビア語) 23,580,000 527,970 サナア
イスラエルの旗 Emblem of Israel.svg イスラエル[t 2] イスラエル国 מדינת ישראל(ヘブライ語)
دولة اسرائيل(アラビア語) 7,170,000 20,770 エルサレム(イスラエルの主張)
テルアビブ(国際連合の主張)
イラクの旗 Coat of arms (emblem) of Iraq 2008.svg イラク イラク共和国 الجمهورية العراقية(アラビア語)
كۆماری عێراق(クルド語) 30,747,000 437,072 バグダード
イランの旗 Emblem of Iran.svg イラン イラン・イスラム共和国 جمهوری اسلامی ایران(ペルシア語) 74,196,000 1,648,195 テヘラン
エジプトの旗 Coat of arms of Egypt.svg エジプト エジプト・アラブ共和国 جمهوريّة مصرالعربيّة(アラビア語) 82,999,000 1,001,450 カイロ
オマーンの旗 National emblem of Oman.svg オマーン オマーン国 سلطنة عُمان(アラビア語) 2,845,000 312,460 マスカット
カタールの旗 Emblem of Qatar.svg カタール カタール国 دولة قطر(アラビア語) 1,409,000 11,437 ドーハ
クウェートの旗 Coat of Arms of Kuwait-2.svg クウェート クウェート国 دولة الكويت(アラビア語) 2,985,000 17,820 クウェート
サウジアラビアの旗 Coat of arms of Saudi Arabia.svg サウジアラビア サウジアラビア王国 المملكة العربية السعودية(アラビア語) 25,721,000 2,149,690 リヤド
シリアの旗 Coat of arms of Syria.svg シリア シリア・アラブ共和国 الجمهوريّة العربيّة السّوريّة(アラビア語) 21,906,000 185,180 ダマスクス
トルコの旗 Türkiye arması.svg トルコ[t 2] トルコ共和国 Türkiye Cumhuriyeti(トルコ語) 74,816,000 780,580 アンカラ
バーレーンの旗 Emblem of Bahrain.svg バーレーン バーレーン王国 مملكة البحرين(アラビア語) 791,000 665 マナーマ
パレスチナの旗 Palestinian National Authority COA.svg パレスチナ パレスチナ暫定自治政府[t 3] فلسطين(アラビア語) 4,277,360 6,220 ラマッラーおよびガザ
(東エルサレムを希望)
ヨルダンの旗 Coat of Arms of Jordan.svg ヨルダン ヨルダン・ハシミテ王国 المملكة الأردنّيّة الهاشميّة(アラビア語) 6,316,000 92,300 アンマン
レバノンの旗 Coat of Arms of Lebanon.svg レバノン レバノン共和国 الجمهوريّة البنانيّة (アラビア語) 4,224,000 10,400 ベイルート


拡大中東[編集]


国旗


国章


国名


正式国名


原語(公用語)表記


人口


面積 (km2)


首都



アルジェリアの旗 Seal of Algeria.svg アルジェリア[t 1] アルジェリア民主人民共和国 الجمهورية الجزائرية الديمقراطية الشعبية(アラビア語) 34,895,000 2,381,740 アルジェ
キプロスの旗 Coat of arms of Cyprus.svg キプロス[t 1][t 2] キプロス共和国 Κυπριακή Δημοκρατία(ギリシア語)
Kıbrıs Cumhuriyeti(トルコ語) 871,000 9,250 [11] ニコシア
北キプロス・トルコ共和国の旗 Coat of arms of the Turkish Republic of Northern Cyprus.svg 北キプロス[t 1][t 2] 北キプロス・トルコ共和国 Kuzey Kıbrıs Türk Cumhuriyeti(トルコ語) 265,100 3,355 レフコシャ
スーダンの旗 Emblem of Sudan.svg スーダン[t 1] スーダン共和国 جمهورية السودان(アラビア語)
Republic of the Sudan(英語) 30,894,000 1,886,068 ハルツーム
チュニジアの旗 Coat of arms of Tunisia.svg チュニジア[t 1] チュニジア共和国 الجمهرية التونسية(アラビア語) 10,272,000 163,610 チュニス
西サハラの旗 Coat of arms of the Sahrawi Arab Democratic Republic.svg 西サハラ[t 1] サハラ・アラブ民主共和国 الجمهورية العربية الصحراوية الديمقراطية(アラビア語)
República Árabe Saharaui Democrática(スペイン語) 502,585 266,000 アイウン(名目上の首都)
ティファリティ(暫定的な首都)
ティンドゥフ(事実上の首都)
ジブチの旗 Coat of arms of Djibouti.svg ジブチ[t 1] ジブチ共和国 République de Djibouti(フランス語)
جمهورية جيبوتي (アラビア語) 864,000 23,000 ジブチ
ソマリアの旗 Coat of arms of Somalia.svg ソマリア[t 1] ソマリア連邦共和国[t 4] Soomaaliya(ソマリ語)
الصومال(アラビア語) 10,272,000 163,610 モガディシュ
パキスタンの旗 State emblem of Pakistan.svg パキスタン[t 1] パキスタン・イスラム共和国 'اسلامی جمہوریت پاکستان'(ウルドゥー語)
Islamic Republic of Pakistan(英語) 180,808,000 803,940 イスラマバード
モロッコの旗 Coat of arms of Morocco.svg モロッコ[t 1] モロッコ王国 المملكة المغربية(アラビア語) 31,993,000 446,550 ラバト
モーリタニアの旗 Coat of arms of Mauritania.svg モーリタニア[t 1] モーリタニア・イスラム共和国 الجمهورية الإسلامية الموريتانية(アラビア語)
République islamique de Mauritanie(フランス語) 3,291,000 1,030,700 ヌアクショット
リビアの旗 [t 5] リビア[t 1] リビア国 الجماهيرية العربية الليبية الشعبية الإشتراكية(アラビア語) 6,420,000 1,759,540 トリポリ


その他[編集]

このほかに、これらの国々も「中東」に含まれる場合もある。


国旗


国章


国名


正式国名


原語(公用語)表記


人口


面積 (km2)


首都



エリトリアの旗 Emblem of Eritrea (or argent azur).svg エリトリア エリトリア国 ሃገረ ኤርትራ(アムハラ語)
Hagere Ertra(ティグリニャ語)
ادولة اإريتريا(アラビア語) 5,073,000 121,320 アスマラ
コモロの旗 Coat of arms of Comoros.svg コモロ コモロ連合 Udzima wa Komori(コモロ語)
Union des Comores(フランス語)
الاتحاد القمر(アラビア語) 676,000 2,170 モロニ
ギリシャの旗 Coat of arms of Greece.svg ギリシャ[t 2] ギリシャ共和国 Ελληνική Δημοκρατία(ギリシア語) 11,161,000 131,940 アテネ


また、旧ソ連の構成国家である、南コーカサス諸国および中央アジア諸国も「中東」に含む場合もある。

状態方程式 (化学)

状態方程式(じょうたいほうていしき、英: equation of state[1])とは、熱力学において、状態量の間の関係式のことをいう。 巨視的な系の熱力学的性質を反映しており、系によって式の形は変化する[2]。状態方程式の具体的な形は実験的に決定されるか、統計力学に基づいて計算され、熱力学からは与えられない[2]。



目次 [非表示]
1 狭義の状態方程式
2 気体の状態方程式 2.1 理想気体
2.2 実在気体

3 液体及び固体の状態方程式
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目


狭義の状態方程式[編集]

広義には、全ての状態量の間の関係式のことであるが、特に、流体の圧力を温度、体積と物質量で表す式を指す場合が多い[3]。 つまり、温度 T、体積 V、物質量 N の平衡状態にある流体の圧力 p を適当な関数によって


p=p(T,V,N)

のように表した物が(狭義の)状態方程式である[4]。

状態量の圧力、温度の示強性と体積、物質量の示量性から、 スケール変換 (V,N)\to (\lambda V,\lambda N) に対して


p=p(T,\lambda V,\lambda N)

となる。 特に \lambda =1/N と選ぶと


p=p(T,V/N,1)=p(T,v)

となる[5]。ここで v=V/N は単位物質量あたりの体積、つまり比容である。 また、\lambda =1/V と選ぶと


p=p(T,1,N/V)=p(T,\rho )

となる[5]。ここで \rho =N/V は単位体積あたりの物質量、つまり密度である。

気体の状態方程式[編集]

理想気体[編集]

理想気体の状態方程式は、


P={\frac {nRT}{V}}

である。R は気体定数である。この式はボイル=シャルルの法則とアボガドロの法則から導かれる。なお、この式で用いられている温度 T は絶対温度或いは熱力学温度と呼ばれる。分母を払った


PV=nRT

という形で出てくることも多い。

また、この式は統計力学的には相互作用をしない系として導くことができる。

実在気体[編集]

実在気体の場合は、以下のいくつかの近似式が提案されている。
ファンデルワールスの状態方程式
ビリヤルの式
ペン=ロビンソンの状態方程式
ディーテリチの状態方程式

液体及び固体の状態方程式[編集]

状態方程式は気体だけでなく、液体や固体に対しても、その熱力学的状態を記述する状態方程式が存在する。また主に熱平衡状態下での系(物質)の状態変数と温度との関係を表すものが状態方程式であるが、必ずしも状態変数‐温度との関係とは限らない。熱平衡下における磁性体では、磁化⇔磁場、同様に誘電体では、電気分極⇔電場の関係を表す式も状態方程式と言われることがある。

固体における状態方程式としては、マーナハン (Murnaghan) の状態方程式が有名。式は、
E_{{tot}}(V)={BV \over {B'(B'-1)}}\left[B'\left(1-{V_{0} \over {V}}\right)+\left({V_{0} \over {V}}\right)^{{B'}}-1\right]+E_{{tot}}(V_{0})
であり、Etot は系の全エネルギー、B は体積弾性率、B' は体積弾性率の圧力の微分B'=\partial B/\partial P、V0 は平衡格子定数での系の体積、Etot(V0)は平衡格子定数での全エネルギーである。この式で、V = V0 において、右辺括弧内がゼロになり、Etot(V0)となる。

上式は、全エネルギーと体積との関係式(バンド計算などで利用される)であるが、マーナハンの式には圧力と体積との関係式、
P(V)={B \over {B'}}\left[\left({V_{0} \over {V}}\right)^{{B'}}-1\right]
がある。このような固体における圧力‐体積などの関係式(状態方程式)にはいくつか派生型が存在する。マーナハンの式は指数関数を含むため、取り扱いが難しい。そのため応用上問題の無い範囲に近似を行い、多項式で展開し直したバーチ・マーナハン(Birch-Murnaghan)の式がよく使われる。

ポンペイ

ポンペイ(ラテン語: Pompeii、イタリア語: Pompei)は、イタリア・ナポリ近郊にあった古代都市。79年のヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれたことで知られ、その遺跡は「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」の主要部分として、ユネスコの世界遺産に登録されている。

ローマ人の余暇地として繁栄したポンペイの最盛期の人口は約2万人といわれる。18世紀に発掘が開始され、現在は主要な部分が有料で一般公開されている。この遺跡は、カンパニア州ナポリ県所属の基礎自治体(コムーネ)・ポンペイの市域に所在するが、現在のポンペイ市街は19世紀末に建設されたもので、その中心部は古代ローマ時代のポンペイとは少し離れている。

なお、イタリア語での発音は e にアクセントがあるため、「ポンペーイ」に近い。古典ラテン語ではeと最後のiが長母音なので、「ポンペーイイー」である。



目次 [非表示]
1 歴史 1.1 79年のヴェスヴィオ火山噴火
1.2 ポンペイの発掘

2 ポンペイを題材にした作品 2.1 映画
2.2 絵画
2.3 音楽
2.4 小説

3 関連項目
4 参考文献


歴史[編集]

イタリア先住のオスキ人によって集落が形成された。紀元前7世紀頃はサルノ川の河口付近の丘に集落があった。その後紀元前526年からエトルリア人に占領されたが、ポンペイ市民はイタリア南部に居住していたギリシャ人と同盟を組み、紀元前474年クマエの海戦で支配から脱した。ギリシャ人はその後ナポリ湾を支配した。紀元前5世紀後半からサムニウム人の侵攻が始まり、紀元前424年にはサムニウム人に征服されることとなった。サムニウム人はまた、カンパニア全体を支配した。この時代、ローマがポンペイを征服したという説があったが、現在この説を裏付けるものはない。

カンパニアの諸都市が同盟市戦争と呼ばれる戦争をローマに対して起こすと、ポンペイも反ローマ側に加わった。しかし紀元前89年、ルキウス・コルネリウス・スッラによって町は征服されポンペイは周辺のカンパニア諸都市とともにローマの植民都市となった。ローマの支配下に入った後のポンペイの正式名はColonia Cornelia Veneria Pompeianorum(ポンペイ人によるウェヌス女神に献呈されたコルネリウスの植民市)となった。ポンペイは港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、以後は商業都市として栄えた。





娼館に残っていた壁画
町の守護者は美と恋愛の女神ウェヌスであった。娼婦の館などが発掘され、ここで男女の交わりを描いた壁画が多く出土したことから、現代ではポンペイは快楽の都市とも呼ばれる。ただし、この町は商業も盛んな港湾都市である一方で、火山噴火まではぶどうの産地であり、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることから、主な産業はワイン醸造だったことが伺える(現在はポンペイ周辺で火山活動の地殻変動によって陸地が上昇し、相対的に水位が下がっているが、当時は港もあり海洋都市でもあった)。碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていた。市の中心には広場もあり、かなり計画的に設計された都市であることも分かっている。また当時は性的におおらかな時代であり、ポンペイのような商業都市には商人向けの娼婦館のような施設は多かったという主張もある。


79年のヴェスヴィオ火山噴火[編集]





79年のヴェスヴィオ山(ラテン語名:ウェスウィウス)噴火による降下火山灰の被害地区(黒色部分)。火砕流による被害地域よりもはるかに広い。




遺跡内の通り。車道と歩道が区分され、飛石状の横断歩道もある。
62年2月5日、ポンペイを襲った激しい地震によりポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。町はすぐに以前より立派に再建されたが、その再建作業も完全には終わらない79年8月24日にヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続けた。

翌25日の噴火末期に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった。降下火山灰はその後も続いた。軍人でもあった博物学者のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)は、ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、煙(有毒火山ガス?)に巻かれて死んだことが甥のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)による当時の記述から知られている。

当時、唯一の信頼できる記録は、小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙である。これによると、大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から、松の木(イタリアカサマツ(英語版))のような形の暗い雲が山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだのを見たと記録している。火口から海までを覆ったこの雲は、現在では火砕流として知られる。これは火山が噴火したときに、高温ガスや灰や岩石が雪崩れのように流れる現象である。プリニウスは爆発時に地震を感じ、地面は非常に揺れたと述べている。さらに灰がどんどん積もり、彼は村から逃げなければならなかったが、海の水がみるみる引いていった後に「津波」がおきた。ただし、当時のヨーロッパ人は津波(Tsunami) という言葉を持っていなかったので、プリニウスの表現は違っている。プリニウスの記述には、太陽が爆発によって覆われてよく見えなかったと続き、大プリニウスはこの現象を調査するために船で再び陸に向かったが、窒息して死んだ。二酸化炭素中毒によるもの(訳者註:二酸化硫黄のことか?)と現在では考えられている。

噴火直後に当時のローマ皇帝ティトゥスはポンペイに使者を出すが、市は壊滅したあとだった。市民の多くが火砕流発生前にローマなどに逃げたが、火砕流が発生した時に市内に残っていて助からなかった市民も多くいた。

ポンペイの発掘[編集]

「ポンペイ (イタリアのコムーネ)」も参照





19世紀に発掘されるポンペイ




発掘された肖像画、フレスコ、国立ナポリ考古学博物館
噴火によって壊滅した後は二度と集落が作られることはなかったが、その後1000年以上「町」という地名で呼ばれた他、散発的に古代の品が発見されたので、下に都市が埋まっていることは知られていた。

1738年にヘルクラネウム(現在のエルコラーノにあった)が、1748年にポンペイが再発見され、建造物の完全な形や当時の壁画を明らかにするために断続的に発掘が行われた。これはドメニコ・フォンターナという建築家がサルノ川沿いを掘っていた1599年に遺跡を見つけてから150年が経過していた。この時点までヘルクラネウムとポンペイは完璧に消滅したと考えられていた。いくつかの男女の交わりを描く美術品(フレスコ画)は、最初フォンターナによって発掘されたが、将来考古学者によって再発見されたほうが重要性がわかるであろうと判断したフォンターナ自身が埋め戻したとされる。ただしこれには明確な証拠はない。

ポンペイとその周辺の別荘からは多数の壁画が発掘され、古代ローマの絵画を知る上で重要な作品群となっている。ポンペイの壁画の様式には年代により変遷が見られ、主題も静物、風景、風俗、神話と多岐にわたっている。男女の交わりを描いた絵も有名で、これらはフォルム(市民広場)や浴場や多くの家や別荘で、よい状態で保存され続けていた。1000平方メートルの広さをもつホテルは、町のそばで見つかった。現在、このホテルは、「グランドホテル Murecine」と呼ばれる。

ポンペイの壁画が豊かな色彩を失わなかった秘密は、この街を襲った悲劇にあった。西暦79年8月24日、町の北西 10 km にあるヴェスヴィオ火山の噴火により押し寄せた火砕流や有毒ガスが、ポンペイの人々の命を次々と奪っていった。一瞬にして5 メートルの深さに町全体を飲み込んだ火砕流が、当時の人々の生活をそのままの状態で保存した。ポンペイが人々の前にその姿を再び現した18世紀半ばから、発掘は今に至るまで続けられている。地中から次々と現れるローマ時代の遺品の美しさに世界が驚愕したが、その美しさの秘密は実は火砕流堆積物にあった。火山灰を主体とする火砕流堆積物には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、湿気を吸収した。この火山灰が町全体を隙間なく埋め尽くしたため、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められたのであった。当時の宗教儀式の様子を描いた壁画。鮮烈な色合いは「ポンペイ・レッド」と呼ばれている。ポンペイの悲劇が皮肉にも古代ローマ帝国の栄華を今に伝えることになった。

ポンペイは建造物や街区が古代ローマ当時のままの唯一の町として知られている。後の歴史家たちは、その歴史家の時代のローマは古代ローマをそのまま伝えていると誤解していたが、ポンペイこそが最も純粋に古代ローマの伝統を守り、ほぼ直角に交差する直線の大通りによって規則的に区切られ、計画的に設計された町であった。通りの両側には家と店がある。建造物は石でできていた。居酒屋のメニューも残っていて、こう記されている。「お客様へ、私どもは台所に鶏肉、魚、豚、孔雀(くじゃく)などを用意してあります。」





石膏で復元した遺体
79年の爆発のときに発生した火砕流の速度は時速 100 km 以上であり市民は到底逃げることはできず、一瞬のうちに全員が生き埋めになった。後に発掘されたときには遺体部分だけが腐ってなくなり、火山灰の中に空洞ができていた。考古学者たちはここに石膏を流し込み、逃げまどうポンペイ市民が死んだときの形を再現した。顔までは再現できなかったが、恐怖の表情がはっきり分かるものもある。母親が子供を覆い隠し、襲い来る火砕流から子供だけでも守ろうとした様子も、飼われていた犬がもだえ苦しむ様子も生々しく再現された。この様子は火砕流が一瞬にしてポンペイ市を埋め尽くしたことを示している。

町は、1世紀の古代ローマ人たちの生きた生活の様子をそのまま伝える。焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器、コイン、クリーニング屋のような職業、貿易会社の存在、壁の落書きが当時のラテン語をそのまま伝えている。保存状態のよいフレスコ画は、当時の文化をそのまま伝える。当時のポンペイはとても活気のある都市だった。整備された上下水道の水道の弁は、水の量を調節する仕組みが現在とほとんど変わらず、きれいな水を町中に送っていた。

爆発時の町の人口は1万人弱で、ローマ人(ローマ市の住民)の別荘も多くあり、また彼ら向けのサービスも多くあった。Macellum(大きな食物市場)、Pistrinum(製粉所)、Thermopolia(冷たいものや熱いものなどさまざまな飲料を提供したバー)、cauporioe(小さなレストラン)、円形劇場など。2002年にはサルノ川河口にボートを浮かべ、ヴェネツィアのような船上生活をしていた人がいたことが判明するなど現在も新事実が続々と報告されている。

「市民全員が噴火で死亡し、唯一の生き残りの死刑囚がポンペイの町のことを語ったが、誰も信用しなかった。しかしそれは伝説として残り、発掘されることになった。」という逸話が伝わるが都市伝説であると思われる(とりわけ死刑囚に関する事項)。火砕流は歴史的にはまれな現象であり、目撃者は殆ど全員が死亡するので伝説としても残りにくく、一般人に理解されることは困難である。この逸話は1902年に、西インド諸島のフランス領マルティニーク島にあるプレー火山で起きた同様の火砕流噴火を下敷きにしていると思われる。この噴火では火砕流以外に麓のサンピエール市で泥流が発生し、警察の留置場に拘留されていた死刑囚を含めた3名のみを残して住民約2万8千人が一瞬にしてほぼ全滅した。
ポンペイの建築物が発掘により白日の下にさらされたことにより、止まった時計が再び動き出すかのごとく、風雨による腐朽が進行するようになった。2010年11月8日には「剣闘士の家」と呼ばれた建物が倒壊し、翌2011年10月21日には「ポルタノラの壁」が倒壊している。他の建築物も同様に崩壊していくものと思われる。

ポンペイを題材にした作品[編集]





ジョン・マーティン作『ポンペイとエルコラーノの壊滅』(復元版),1821年




カール・ブリューロフ作、「ポンペイ最後の日」
映画[編集]
ポンペイ最後の日(1926年、監督:カルミネ・ガローネ、アムレート・パレルミ)
ポンペイ最後の日(1935年、監督:アーネスト・B・シュードサック)
ポンペイ最後の日 (英語版)(1959年、監督:マリオ・ボンナルド)
ポンペイ(2014年、監督:ポール・W・S・アンダーソン)

絵画[編集]
ポンペイとエルコラーノの壊滅(復元版),1821年,ジョン・マーティン作テート・ブリテン蔵]]
ポンペイ最後の日(The last Day of Pompeii、1830-33年、カール・ブリューロフ)
ポンペイ(1938年、ポール・デルヴォー)

音楽[編集]
ヴェスヴィアス(Vesuvius、1999年、フランク・ティケリ)
ピンク・フロイド・ライヴ・アット・ポンペイ(ピンク・フロイド)

小説[編集]
ポンペイ最後の日(1834年、エドワード・ジョージ・ブルワー・リットン)
ポンペイの四日間(2003年、ロバート・ハリス)

米(こめ、英: rice)は、稲の果実である籾から外皮を取り去った粒状の穀物である。穀物の一種として米穀(べいこく)とも呼ぶ。東アジア・南アジア以外では一般的に主食という概念が希薄であり、日本語における「米」と「稲」、「飯」という区別が無い。そのため、例えば英語圏ではriceという同一の単語で扱われることに注意が要る。





米(玄米)




成熟期のイネ(長粒種)







形態



部位名

A 籾 (1) 籾殻
B 玄米 (2) 糠
C 胚芽米 (3) 残留糠
D 白米 (4) 胚芽
E 無洗米 (5) 胚乳



目次 [非表示]
1 イネの系統と米 1.1 アジアイネと系統
1.2 品種・銘柄

2 種類 2.1 水稲と陸稲
2.2 粳米と糯米
2.3 軟質米と硬質米
2.4 飯用米と酒造米
2.5 新米と古米
2.6 有色米
2.7 香り米

3 生産と流通 3.1 米の生産 3.1.1 日本における生産状況

3.2 米の貿易
3.3 その他

4 米の利用 4.1 米の調製・調理・加工 4.1.1 精製
4.1.2 加工による分類

4.2 調理 4.2.1 調理用具

4.3 加工品

5 米料理 5.1 料理 5.1.1 日本料理
5.1.2 洋食
5.1.3 台湾
5.1.4 中国
5.1.5 朝鮮半島
5.1.6 インド近辺
5.1.7 ネパール
5.1.8 アフガニスタン
5.1.9 イラン
5.1.10 トルコ
5.1.11 イタリア
5.1.12 スペイン
5.1.13 インドネシア
5.1.14 マレーシア
5.1.15 シンガポール
5.1.16 ベトナム
5.1.17 タイ
5.1.18 アメリカ合衆国

5.2 デザート

6 歴史 6.1 日本
6.2 中国

7 偽米
8 文化 8.1 信仰
8.2 米に関する語
8.3 米に関わる語彙
8.4 米に関する慣用句
8.5 派生した俗語

9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
12 外部リンク


イネの系統と米[編集]





国際稲研究所(IRRI)による米の種子の収集
イネ科植物にはイネのほかにも、コムギ、オオムギ、トウモロコシなど、人間にとって重要な食用作物が含まれる。イネはトウモロコシ、コムギとともに世界三大穀物と呼ばれている[1]。

イネ科イネ属の植物には22種が知られている[1]。このうち野生イネが20種で栽培イネは2種のみである[1]。栽培イネは大きくアジアイネ(アジア種、サティバ種、Oryza sativa L.)とアフリカイネ(アフリカ種、グラベリマ種、Oryza glaberrima Steud.)に分けられる[1][2][3]。

アジアイネと系統[編集]

イネは狭義にはアジアイネを指す[2]。アジアイネにはジャポニカ種とインディアカ種の2つの系統があり[2]、これらの両者の交雑によって生じた中間的な品種群が数多く存在する[2]。アジアイネ(アジア種、サティバ種)の米は、ジャポニカ種(日本型米、ジャポニカ・タイプ)、インディカ種(インド型米、インディカ・タイプ)、そして、その中間のジャバニカ種(ジャワ型米、ジャバニカ・タイプ)に分類されている[4][3]。それぞれの米には次のような特徴がある。
ジャポニカ種(日本型、短粒種、短粒米)粒形は円粒で加熱時の粘弾性(粘り)が大きい[1][5]。日本での生産は、ほぼ全量がジャポニカ種である。主な調理法は、炊くか蒸す。他種に比べ格段の耐寒冷特性を示す。インディカ種(インド型、長粒種、長粒米)粒形は長粒で加熱時の粘弾性(粘り)は小さい[5]。世界的にはジャポニカ種よりもインディカ種の生産量が多い。主な調理法は煮る(湯取)。ジャバニカ種(ジャワ型、大粒種)長さと幅ともに大きい大粒であり、粘りはインディカ種に近い。東南アジア島嶼部で主に生産されるほか、イタリア・ブラジルなどでも生産される。
なお、日本型とインド型に分類した上で、このうちの日本型を温帯日本型と熱帯日本型(ジャバニカ種)として分類する場合もある[1][6]。

品種・銘柄[編集]


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この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。

日本においては、農産物規格規程に、品位の規格と、「産地品種銘柄」として都道府県毎に幾つかの稲の品種が予め定められている。玄米は、米穀検査で、品位の規格に合格すると、その品種と産地と産年の証明を受ける。輸入品は輸出国による証明を受ける。

日本国内での米の銘柄(品種)の包装への表示は、玄米及び精米品質表示基準に定められている。
原料玄米の産地、品種、産年が同一で証明を受けている単一銘柄米は、それらと、「使用割合100%」を表示する。
ブレンド米は「複数原料米」等と表示し、原産国毎に使用割合を表示し(日本産は国内産と表示)、証明を受けている原料玄米について、使用割合の多い順に、産地、品種、産年、使用割合を表示できる。

証明を受けていない原料玄米については「未検査米」等と表示し、品種を表示できない。情報公開より偽装防止を優先しているともいえる。

種類[編集]

米は各種の観点から以下のように分類される。

なお、日本では農産物検査法による公示の「農産物規格規程」や、JAS法に基づいた告示の「玄米及び精米品質表示基準」[7]に一定の定めがある。

水稲と陸稲[編集]

水田で栽培するイネを水稲(すいとう)、耐旱性や耐病性が強く畑地で栽培するイネを陸稲(りくとう、おかぼ)という[4][5]。水稲と陸稲は性質に違いがあるが、同じ種の連続的な変異と考えられている。

一般的に圃場の整備については水稲の方がコストがかかる一方で、面積当たりの収量が多く、連作障害が殆ど無いなどのメリットと、全国的に水田整備がいきわたったことから、現在、日本の稲作では、ほとんどが水稲である。

日本では水稲と陸稲の区分は農産物規格規程においても規定されている。日本では水稲と陸稲は明確に区別されているが、他の国では明確には区別されていない[1](世界的に見ると水稲といっても灌漑稲、天水稲、深水稲、浮稲のように栽培の環境は大きく異なっている[2])。

粳米と糯米[編集]

デンプンの性質(糯粳性)により、粳性のものを粳種あるいは粳米(うるちまい、うるごめ、あるいは単に粳〈うるち、うる〉)、糯性のものを糯種あるいは糯米(もちまい、もちごめ)という[4][6]。

日本では玄米及び精米品質表示基準で、「うるち」と「もち」に分けられている。
粳米(うるちまい)デンプン分子が直鎖のアミロース約20%と分枝鎖のアミロペクチン約80%から成る米。もち米より粘り気が少ない[3]。粳米は通常の米飯に用いられる。販売で「うるち」を省略される事が認められていて、「もち」と断りが無ければ「うるち」である。糯米(もちごめ)デンプンにアミロースを含まず、アミロペクチンだけが含まれる米[8]。モチ性の品種のデンプンは調理時に強い粘性を生じるという特性を持つ[9]。餅や強飯に用いられる。さらに糯米の粉末は寒梅粉として釣り用に市販されている。
アジアイネではジャポニカ種だけでなくインディカ種にも糯米が存在するが[3]、アフリカイネについては糯性のものは知られていない[2]。

なお、糯粳性のある植物としては、イネのほか、トウモロコシ、オオムギ、アワ、キビ、モロコシ、アマランサスなどがある[10]。

軟質米と硬質米[編集]

米は軟質米と硬質米に分けられる[5]。軟質米は食味の点で優れるが貯蔵性の点では劣る[5]。

飯用米と酒造米[編集]

醸造用の酒造米(酒造用米、酒米)は飯用米と区分される[6][5]。農産物規格規程には、「うるち」と「もち」に加えて醸造用が定められている。酒造が酒税法で規制されている為、個人用には売られていない。

新米と古米[編集]

米は新米と古米と区分される[5]。新米と古米を参照。

有色米[編集]

黒米、赤米、緑米などを総称して有色米という[3]。野生種に近い米である[3]。古代から栽培していた品種あるいは古代の野生種の形質を残した品種の総称として古代米と呼ばれることもある。

香り米[編集]

強い香りを持つ品種を香り米という。東南アジア、南アジア、西アジアなど、地域によっては香りの少ない品種よりも好まれる。インドのバスマティなどが有名。

生産と流通[編集]

米の生産[編集]


米の生産高 トップ20ヶ国
(2010年、百万トン、FAO統計)[11]

中華人民共和国の旗 中華人民共和国 197.2
インドの旗 インド 120.6
インドネシアの旗 インドネシア 66.4
バングラデシュの旗 バングラデシュ 49.3
ベトナムの旗 ベトナム 39.9
ビルマの旗 ビルマ 33.2
タイの旗 タイ 31.5
フィリピンの旗 フィリピン 15.7
ブラジルの旗 ブラジル 11.3
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 11.0
日本の旗 日本 10.6
カンボジアの旗 カンボジア 8.2
パキスタンの旗 パキスタン 7.2
韓国の旗 韓国 6.1
マダガスカルの旗 マダガスカル 4.7
エジプトの旗 エジプト 4.3
スリランカの旗 スリランカ 4.3
ネパールの旗 ネパール 4.0
ナイジェリアの旗 ナイジェリア 3.2
ラオスの旗 ラオス 3.0

年間生産量は6億1000万トンを超える(籾。以下いずれも農林水産省「海外統計情報」より、「FAOSTAT」の2006年統計[12])。米は小麦(年間生産量6億595万トン)、トウモロコシ(年間生産量約6億9523万トン)とともに世界の三大穀物といわれる。1980年代の生産量は4億5000万トン前後であったため大幅に増産されていることが理解される。

生産量は増加基調だが、在庫量は需要の伸びを背景に2000年をピークに減少している。在庫率は2006年には20%を割り込んだ[13]。





世界の米の生産量(2000年)
米の9割近くはアジア圏で生産され、消費される。最大の生産国は中国で、インド、インドネシアが続く。

日本における生産状況[編集]

日本の農業において米は、最重要の農産物であり農業総産出額において、単独の農産物として最大の割合を占め続けている。しかしながら、近年、生産額・構成比ともに縮小傾向にあり、生産額は、1984年の3兆9,300億円(年間生産量約1180万トン)をピークとして、2009年では1兆7,950億円(年間生産量約850万トン)程度まで縮小しており、構成比については、1960年代50%前後を占めていたものが、一貫してその比率を落とし、2009年は22.3%となっている。農作物を米、野菜(米、果物を除く耕種)、畜産、果物に分類したときの構成比としては、2000年前後には畜産に、2005年前後には野菜に抜かれ、日本の産業としての農業における地位は年々低下している[14]。

米は、日本の戦後農業政策の根幹であったため、原則として輸入がなされなかったが、ウルグアイ・ラウンドにおいて、関税化を延期する代償としてコメにおいては他品目よりも厳しい輸入枠(ミニマム・アクセス)を受け入れ、1993年以降、年間77万トンの輸入を行っている。なお、年間20万トン程度の輸出も行っている。

米の貿易[編集]

米の貿易量は、増加傾向で推移している。最大の輸出国はタイで、アメリカ合衆国、インド、パキスタンが続く。上位四か国で、世界の輸出総量の7割を占める。一方、輸入国はフィリピン、ナイジェリア、イラン、イラク、サウジアラビア、マレーシア等で各国100万〜200万トンを輸入している。

米は他の穀物に比べ、生産量に対して貿易量は少ない(生産量の約7%、なお、小麦は約20%、トウモロコシは約12%が生産量に対する貿易量となっている)。これは、米は基礎食料として国内で消費される傾向が強いため、生産量に占める貿易量の割合が低くなっているためである[13]。そのため、小麦やトウモロコシと異なり、国際的な商品先物取引の対象商品となっていない。国際取引指標は、タイ国貿易取引委員会 (BOT) の長粒種輸出価格。

なお日本国内では、2011年8月8日より東京穀物商品取引所と関西商品取引所で「コメ先物」として商品先物取引の試験上場が開始、2013年2月12日、名称を関西商品取引所から改名した「大阪堂島商品取引所」が、東京穀物商品取引所閉所に伴い、同所からコメ先物取引(東京コメ)を引き継いだ。

その他[編集]

米の生産(稲作)には病害虫の防除や稲の生長のため、殺菌剤、殺虫剤、除草剤など各種の農薬が使用される。農薬については玄米中への残留農薬の基準がある。
プロクロラズ(殺菌剤)
ヒドロキシィソキサゾール(殺菌剤)[15]
フィプロニル(殺虫剤)
ベンスルフロンメチル(殺菌剤)
メフェナセット(除草剤)
ベンタゾン(除草剤)
ピロキロン(殺菌剤)
ジノテフラン(殺虫剤)
エトフェンプロックス(殺虫剤)

米の利用[編集]

米は、世界中で食用されている。利用例は、以下のとおり。
食材として 主食 - アジアやアフリカ[16]など。日本でも、飯として食べられている。
主菜のつけあわせ - 欧米では、ジャガイモやパスタ同様主菜のつけあわせとして利用される
デザート - 欧米や東南アジアで、デザートとしても用いられる。利用例は、以下を参照。
茶 - 玄米茶として

原料として 酒や餅、飴、菓子、味噌、醤油、酢など(日本)
ライスヌードル、ビーフン、ライスペーパー(中国、ベトナム、タイなど)
製粉技術の向上により、パンにしているケースも現れている(日本)

その他 糊として用いられる(日本)
飼料としても用いられる。大豆やトウモロコシなど飼料として主に使用される他の作物に比べるとコストなどで見劣りしていたが、飼料用作物の価格高騰に伴い、米の飼料用需要が増加している
おしろいとして粉砕し粉状にしたものが用いられる(主にフランス・プロヴァンス地方)


米の調製・調理・加工[編集]

米は稲穂の状態をそのまま食用とはせずに、精製を行って食用とするのが基本である。精製のプロセス(一般にこの作業を調製という)は一般に以下のようになっている。
1.脱穀(だっこく)- 稲穂から籾(もみ)をはずす。先進国の機械化農業では、コンバインにより稲刈りと同時に行われるのが主流。
2.ふるい - 脱穀した籾、籾殻、稲藁などから籾を選別するために篩(ふるい)にかける。
3.乾燥- 収穫されたばかりの籾は水分が多いので、保存性の為に乾燥する。銘柄等が表示できる証明米は、水分率の上限が定められている。質量取引なので過乾燥は金銭的に損になる。
4.籾摺(もみすり)- 籾殻をむいて玄米とする。
5.風選(ふうせん)- 籾から籾殻やしいなを取り除く。
6.選別(せんべつ)- 玄米をふるいにかけ、標準以下の大きさの玄米(くず米)を除く。
7.貯蔵- 保存性から玄米か籾で貯蔵される。日本では、籾で貯蔵する地域(鹿児島・宮崎など)と、玄米で貯蔵する地域がある。
8.精白(せいはく)- 玄米の糠層と胚芽を削り取り、白米(精白米)とする。この作業をすることを「精米」(せいまい)あるいは「搗精」(とうせい、「米を搗(つ)く」)ともいう。包装に「精米年月日」が記される。
9.精選(せいせん)- 精白後の米からさらに選別を行う。

精製[編集]

厚い外皮の籾殻を取り去ったものが玄米である。生物学上は果実部分を含み、胚芽・胚乳・果皮から成っている。 玄米の表面を覆う糠層(ぬかそう、主として果皮と糊粉層)を取り去ることを精白(精米、搗精〈とうせい〉)という。糠層も胚芽も取り去った米を白米(精白米、精米)といい、糠を除去したものを精米や白米という。

収穫した稲穂から、種子(穎果)を取り離すことを脱穀(だっこく)という。脱穀によって取り離した種子を籾(もみ、籾米)といい、籾の外皮を籾殻(もみがら)という。籾から籾殻を取り去ることを籾摺り(もみすり)といい、この籾摺り過程を経たものを米という。

加工による分類[編集]





左から、白米、胚芽米、玄米
精白等の加工による分類。玄米及び精米品質表示基準では、玄米、精米、胚芽精米に分けられている。
玄米籾を籾摺りして籾殻を取り除いた米で全粒穀物。下記の他の米の原料。糠層には発芽に必要なビタミン類、脂肪分などを含んでおり栄養価が高い。糠層は胚乳部に比べ硬く、また脂肪分の影響で疎水性もあるため、白米用炊飯器で炊くとアルファ化が不完全となり消化が悪く、食感も悪くぼそぼそになる。圧力釜や玄米対応の炊飯器で炊くことで、消化が良く味わいが豊かになる。発芽玄米僅かに発芽させた玄米。スプラウトの一種と考えられ、玄米よりも栄養価が高い。また、玄米より消化、味ともにも良く、白米用炊飯器で炊くのに比較的適している。他の加工米より高コストで高価。市販のものは発芽の進行を休眠させている物もある。分搗き米玄米から糠層を一定の割合でとった精米。とった割合により3分搗き米、5分搗き米、7分搗き米という。栄養は玄米と胚芽米の間となるが、残留する糠層の量によって異なる。胚芽精米(胚芽米)玄米から糠層のみを取り去って胚芽が残るように精白した米[17]。一般には胚芽米と呼ばれる方が多い。外見上、白米同然に白く精白されており、胚芽だけが残っている。胚芽精米の品位基準によると、重量比で胚芽を80%以上を残したものとされており、この基準を満たしたものが「胚芽精米」と表示できる。胚芽精米を調製するには、一般の家庭用精米機では現在ところ技術的に困難とされており、専用の大型精米機を使う必要がある。最近の家庭用精米機の中には、胚芽を多く残すための「胚芽モード」といった機能を備えたものが出回っているが、胚芽精米の品質基準を満たすことを保証しているわけではない。栄養は玄米と白米の中間程度。玄米より消化が良く、白米用炊飯器で炊ける。一般に白米より高価。白米(精白米、精米)玄米を精白して糠層と胚芽を取り除いた米。日本で最も食べられている主食だが、胚乳のみの為栄養バランスが悪く副食が必須。日本では主に洗米してから炊いて米飯とする。そのため、一般に市販されている炊飯器は通常白米を主な対象としている。味が淡白でいろいろな料理に合せやすい。無洗米精白した白米の表面に付着している糠の粉を取り去った精米。洗米の必要が無く、洗米すると栄養が溶け出すので洗米しない方が良い。節水になる。それにより白米よりは当然単価は高いものの、洗米時の水道代を考慮した場合の総合的なコストが白米より低くなる場合がある。
調理[編集]

米は主に水分を加えて加熱調理し、調理するときに糠を砥ぎ落とすことを洗米という。米一合に対して水一合で米を炊いたものを飯という。広く主食用とされ飯にされるのは、粳米の白米であり、玄米や胚芽米の飯を主食とすることは、あまり多くない。 短粒種の白米は、日本等では、ぬかを洗い流した(洗米とか「米を研ぐ」という)のち、調理する。粳米は炊いて飯とし、糯米は蒸して強飯(こわいい)としたり、餅として供される。 中国などでは、粳米を蒸す場合もある。

米を炊くことを炊飯(すいはん)、あるいは炊爨(すいさん)という。「蒸し飯」を、お強(おこわ)、あるいは強飯(こわいい)とも呼ぶ。これは、蒸した飯が炊いた飯よりも「こわい」(「硬い」の古い言い方)ことに由来する。 長粒種の粳米は、煮る(湯取)事が多い。

古くから、飯を乾燥させたものを「干し飯」(ほしいい)、あるいは「糒」(ほしい)といい、携帯保存食として用いた。現在では、この干し飯と同じ物をアルファ化米(加水加熱して糊化(アルファ化)させた米)といい、同じく携帯保存食や非常食などとして用いる。

飯として炊くときよりも多目の水を加えて、米を煮た料理を粥という。このとき加える水の量により、全粥(米1に対して水5〜6)、七分粥、五分粥、三分粥(米1に対して水15〜20)などと呼ばれる。また、粥から固形の米粒を除いた糊状の水を重湯(おもゆ)といい、病人食や乳児の離乳食に用いられる。

栄養分をそぎ落とさないように、胚芽部分を残した胚芽米や分搗き米、玄米をそのまま炊いて食べる場合もある。最近では発芽玄米も食べられている。胚芽部分には脚気を予防するビタミンB1が豊富に含まれる。

籾殻を取る前に、水に長くつけ、蒸しあげてから籾摺りをしたものを用いる地域もある。タイ、マレーシア、シンガポールなどの国のほか、日本では和歌山県などでこの習慣があった。干し飯のように、熱い湯や茶をかけてやわらかくすることができるほか、炒って食べる場合もある。

黒米や赤米は、白米に混ぜて炊くことが多い。研いだ白米に対して3〜10%程度(好みに合わせて分量を調節)を洗わないでそのまま入れて炊く。

餅(もち)については、餅の項目を参照。

調理用具[編集]

米の調理には次のようなものが利用される(汎用加熱器具を除く)。


土鍋
電気炊飯器
蒸篭

加工品[編集]

東南アジアを中心として粉食も一般的で、ライスヌードルとしても広く食用にされる。
上新粉うるちの精白米を粉末にしたもの。料理や団子やせんべいなどの和菓子や中華菓子などの原料となる。粒子が粗いため洋菓子には適さなかったが、最近ではリ・ファリーヌと呼ばれる、小麦粉並の細かさのものが製粉会社各社で開発されており、それらは洋菓子やパンなどの材料に使用が可能である。米からつくったパンの外見・食味は小麦粉からつくったものに劣らず、もちもちとした食感になる。白玉粉もち米を粉末にしたもの。水挽き粉砕をしているため、粒子が細かくなめらかな食感が特徴である。α化米加工米の一種。糒など。着香米竹のエキスなど、他の成分で人為的に香りをつけたもの
米料理[編集]

料理[編集]

日本料理[編集]
強飯(こわいい、おこわ) 赤飯


雑炊(おじや)
寿司 稲荷寿司 稲荷という言葉は、稲成り(稲がなる、つまり豊作を願う意味)に由来している。

おにぎり
茶漬け
炊き込みご飯
桜飯
そばめし
黄飯
卵かけご飯
納豆かけご飯
丼物 鰻丼、カツ丼、牛丼、天丼、親子丼、木の葉丼、深川丼など
鶏飯
菜飯
茶飯

洋食[編集]
カレーライス
ハヤシライス
チキンライス
オムライス
ドリア
ピラフ
タコライス
トルコライス
ハントンライス
エスカロップ
かつめし
えびめし

台湾[編集]
油飯
排骨飯
魯肉飯
米糕

中国[編集]
チャーハン
ビーフン
海南鶏飯
ちまき
お焦げ料理

朝鮮半島[編集]
クッパ (料理)
ビビンバ
トック
トッポッキ
ポックムパプ(炒飯)
キムパプ

インド近辺[編集]
プラーオー
ビリヤニ
キール
ドーサ
イドリ

ネパール[編集]
ダルバート

アフガニスタン[編集]
チャラウ
ピラウ
バタ

イラン[編集]
チェロウ
ポロウ

トルコ[編集]
ピラヴ

イタリア[編集]
リゾット

スペイン[編集]
パエリア

インドネシア[編集]
ナシゴレン
ナシウドゥッ
ナシクニン
ブブル

マレーシア[編集]
ナシゴレン
ナシレマッ
ナシアヤム

シンガポール[編集]
海南鶏飯

ベトナム[編集]
フォー
ライスペーパー(バインチャン)
生春巻き(ゴイクオン)
バインチュン

タイ[編集]
パッタイ
カオニャオ
カーオパッ(炒飯)
カオマンガイ

アメリカ合衆国[編集]
ジャンバラヤ
ロコモコ
カリフォルニアロール

デザート[編集]

米を牛乳で煮込んだプディングは、東は南アジアから西は西ヨーロッパまで広く見られるデザートである。例えばドイツでは(主食料理扱いだが)ミルヒライスといい、英語圏ではライスプディング、スペイン語圏ではアロス・コン・レチェまたはアロス・デ・クレマと呼ばれる。インドにはキール、トルコにはストラッチと呼ばれるミルク・ライス・プディングがある。トルコのムハッレビは米粉と牛乳のプディングである。ブラン・マンジェも米粉で作ることがある。

東南アジアでは、米をマンゴー、ささげ、緑豆、里芋、スイートコーンなどと煮込んだ粥状のデザートがあり、ココナッツミルクをかけて食べる。ベトナムには、バインコムという、もち米の青い未熟米と緑豆餡から作る餅菓子がある。また、タイには、カオマオ・トードという、バナナともち米の青い未熟米とココナッツを使った揚げ菓子がある。

日本には、餅米を蒸して搗いた餅菓子、白玉団子、ちまき、ぼたもちなどがある。中国や朝鮮半島には、薬食のように餅米を蒸した菓子や芝麻球やシルトックなど上新粉や白玉粉から作る餅菓子がある。インドのモーダカは米粉の生地でココナッツと黒砂糖のフィリングを包んだ菓子である。

空手挌闘家アンディ・フグは生前、日本滞在中に自ら考案したストロベリーヨーグルト練り掻き混ぜ米飯(バナナをトッピング)をとても気に入り、頻繁に作っては喜んで食べていたというエピソードがある。調理再現HP

歴史[編集]

詳細は「稲作」を参照

米作(稲作)は、原産地の中国中南部から北部、南アジアに、そして日本へと伝わった。米は麦などの穀物に比べて栄養価が高く大量に収穫できることから、アジアの人口増大を支える原動力となった。

日本[編集]





葛飾北斎の『富嶽三十六景』に描かれる米の仲買人




葛飾北斎の『富嶽三十六景』に描かれる水車の流れ水で米をとぐ農夫
稲作は日本においては、縄文時代中期から行われ始めた。これはプラント・オパールや、炭化した籾や米、土器に残る痕跡などからわかる。 大々的に水稲栽培が行われ始めたのは、縄文時代晩期から弥生時代早期にかけてで、各地に水田の遺構が存在する。

米は、食料として重要である一方で、比較的長期に保存ができるという特徴から、日本においては経済的に特殊な意味を持ち、長らく税(租・あるいは年貢)として、また、石高制に代表されるように、ある地域の領主や、あるいは単に家の勢力を示す指標としても使われた(これはタイにおけるサクディナー制やマダガスカルのメリナ人など、米食文化において広く見られる)。江戸期中期以降、貨幣経済が発達すると、それとの調和を図るべく、札差業が発達、米切手の発生や堂島米会所に代表される、近代的商品取引システムの生成が見られた。明治期に入り、経済価値の交換機能は貨幣に集約されたが、明治国家の財政は初期において地租によって支えられていた。

一方で、米はこのような経済作物性から、一般庶民までにはなかなか行き渡らず、主食とはいえ国民が雑穀米ではなく、全米飯を容易に食することができるようになったのは、1939年米穀配給統制法等が制定され、米の流通が政府により管理されるようになってからである。なお、同年には、第二次世界大戦の物資不足を補い、かつ、ビタミンB1などの栄養供給に資するため、政府より米穀搗精等制限令がだされ、七分搗き以上の白米を流通に付すことが禁止された。これらの米は、食味が劣るとして、家庭内で、一升瓶に玄米を入れて、棒で搗き、精白することも行われた。さらに、1940年には、中国や東南アジアからの輸入米(いわゆる外米)を国産米に混ぜて販売することが義務付けられたが、このときの輸入米は精白米であった。1942年食糧管理法が制定され食糧管理制度が確立、米の流通は完全に政府が掌握するようになった。これは、戦時統制体制が終戦により不要になった後も、終戦直後には流通システムの不全を解消するため、高度経済成長に入ってからは、日本の農業政策の根幹として、1990年代まで続くことになる。

戦後、農地改革により自作農が大量に発生する一方で、米は引き続き食糧管理法によって政府が全量固定価格(生産者米価)で買い上げることとなっていたため、農家は生活の安定が保証され、意欲的に生産に取り組むようになった。また、化学肥料の投入や農業機械の導入などによる生産技術の向上から生産量が飛躍的に増加し、さらに、コメの輸入については厳しく制限したため、1966年には、日本の米自給率は100%を達成した。

しかしながら、1970年代には、全国で米余り現象がおき、政府備蓄米などに古米、古古米の不良在庫が多く発生、米の消費拡大のために、それまで主食はパンだけであった学校給食に米飯や米の加工品がとりいれられるようになったり、古米をアフリカなどの政府援助に使用したり、その他家畜の飼料などに処分するなど、在庫調整に腐心するようになった。米価に関して、「政府買入価格」(生産者米価)・政府が卸売に売り渡す「政府売渡価格」(消費者米価)ともに、その基本方針は米価審議会で審議されたが、農業協同組合などの生産者団体や与党である自由民主党特に「農林族」と呼ばれる族議員の介入が行われ、毎年生産者価格決定の時期になると審議が大混乱に陥り、かつ審議会の答申は無視されて政治判断によって価格が決定されるのが恒例となるようになった(「政治米価」)。その結果、政府において生産者米価よりも消費者米価が安い逆ザヤが生じるようになり、歳入が不足し赤字(食管赤字)が拡大、1980年代には、国鉄、健康保険とともに、日本政府の巨額赤字を構成する「3K赤字」と呼ばれるようになり、行政改革における重要なテーマとなった。

そのような状況の下、食糧管理法下におけるコメ政策は見直しを余儀なくされるようになり、1970年以降は減反政策といわれる生産調整政策(新規の開田禁止、政府米買入限度の設定、転作奨励金の設定など)がとられるようになり、流通面においては、縁故米の拡大から自主流通米の承認などにより、食糧管理制度の逸脱を認めるようになった。

しかしながら、根本的解決には至らなかったため、食管赤字は収束せず、供給においても、1983年の不作時には、政府が放出しようとした1978年度産の超古米に規定以上の臭素が検出され安全性に問題があるとされたため、翌1984年に韓国から米15万トンの緊急輸入が行われたり、1993年の全国的な米の不作による平成の米騒動においては、タイなどから米の緊急輸入が行われるなど、その備蓄・供給体制の脆弱性も露呈した。なお、この緊急輸入はインディカ種を食べなれていない人には不評であったが、この時以来煎餅などの加工用の米の輸入が一般化した。一方で、1995年ウルグアイ・ラウンド農業合意により、米の義務的な輸入(ミニマム・アクセス)を課せられるようになり、食糧管理制度は本格的な見直しを迫られた。

1995年、主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律(いわゆる食糧法)が施行され、これに伴い食糧管理法は廃止となり、政府の管理が緩められた。同法は、2004年に大幅に改正され、さらに政府の関与度を減らしている。

中国[編集]

中国は、2000年代後半時点において世界最大の米生産・消費国である。生産は、約7割がインディカ種約3割がジャポニカ種となっている[13]。

伝統的な農業地理の理解では、秦嶺・淮河線以南が稲作地域とされてきたが、近年は、農業技術の発展から中国東北部においても稲作が大々的に展開されている。

経済発展による所得向上からジャポニカ種の消費増加、地方都市間の人口移動による新たな消費層の発生などを背景に、消費量は増加傾向にある。一方で、1990年代後半に豊作だったことから作付け面積が減少、中国政府は2004年に援助政策に乗り出している[13]。

偽米[編集]

ジャガイモやサツマイモを米の形に成形した物。第二次世界大戦中の食糧難の日本で代用食として開発された。これらの材料を加熱して潰して小さな粒状にして、それを核にして、表面にデンプンをまぶして蒸す工程を数回繰り返し、米状の大きさになったら、乾燥させて水分含有量を減らして保存可能にする。食べるときは普通に炊く。製造に非常に手間と時間がかかることと所詮は代用食なため、本物の米が余っている現在では作られていない。

現在食糧難の北朝鮮でも代用食として、トウモロコシやサツマイモやジャガイモから偽米が開発製造されているとのこと。

現在の中国ではジャガイモやサツマイモを米の形に成形した物にプラスチックを注入した偽造米(プラスチック米)が作られている。これは代用食ではなく、安く作って本物の米の価格との差額を稼ぐための物である。当然硬くて食べられないし、人体にとって有害だが、中国では太原市や陝西省の業者が本物の米に混ぜて水増しするなどして食用に販売しており、かなりの量が出回っているとされる[18]。

文化[編集]

信仰[編集]
日本文化においては、単なる食糧品にとどまらず、古神道や神道における稲作信仰に起因する霊的価値を有する穀物である。地鎮祭や上棟式、農林水産の職業的神事、また日本各地の祭りで、御神酒や塩等とならび供物として奉納される。
天皇が五穀(中心となるものはコメ)の収穫を祝う新嘗祭(「勤労感謝の日」として国民の祝日となっている)は宮中における最も重要な祭祀であり、天皇即位後最初の新嘗祭である大嘗祭は、実質的な践祚の儀式と認識されている。
「米」の字を分解すると八十八とも読めることから、付会して八十八行程を経て作られる、八十八の神が宿る、また「八十八人の働きを経て、はじめて米は食卓にのぼるのであるから、食事のたび感謝反省しなくてはならない」等、道徳教育のためのさまざまの訓話が構成された。

米に関する語[編集]

古くはイネ科の植物の穀物について広く「米」という単語が用いられていた。古来、稲が生産されていなかった華北(漢字発祥の地)では、長くアワ(粟)に対して用いられていた。中国後漢の許慎が著した漢字の解説書『説文解字』において、「米…粟實也。象禾實之形」(禾=粟)と書かれ、米即ちアワの実であると解説されている。現在の中国語では、イネ科の植物にとどまらず、米粒のような形状をしたものも米と呼ぶ例が多い。例えば、「海米、蝦米」は干した剥きエビ、「茶米」は烏龍茶などの粒状の茶葉などを指す。

『米』という漢字自体は籾が四方に散った様子を描いた象形文字である。しかし、この字形から「八十八」と分解出来ると見立てて米寿等の言葉に利用されている。また、日本では水稲を作る際の手間の多さを「籾から育てて食べられる様にするまでに八十八の手間がかかる」とたとえられている。

『岩波 古語辞典』は、「うるしね」(「しね」は“稲”の意の古語)の項で、“米”を表す日本語「うる(ち)」(粳)、マレー語 'bəras',アミ語 'fərats'; 'vərats',古代ペルシア語 'vrīzi',古典ギリシャ語 'oryza',イタリア語 'riso',英語 'rice' などを、すべてサンスクリット 'vrīhih' にさかのぼるものとしている。

なお、新聞やテレビのニュースにおいては、米国(アメリカ)の略である「米(べい)」との混同を避けるため、「コメ」とカタカナで表記するのが一般的になっている。

米に関わる語彙[編集]
しいな
糴(テキ かいよね)
糶(チョウ うりよね)
舎利(しゃり) 米は細かい骨に似ている事から舎利とも呼ばれる。白米が珍しかった時代には、玄米と区別する意味で白米を銀シャリとも言った。現在では主に寿司屋の隠語で酢飯の事を指す。
コメツキバッタ 米を搗く様な動作をする事が語源となった。転じてペコペコ頭を下げる様子も表す。

米に関する慣用句[編集]
米俵一俵には7人の神様が乗っている。
米を一粒無駄にすると目が一つ潰れる。

派生した俗語[編集]
大相撲の隠語で、お金のこと。相撲部屋において将来有望な力士を「米びつ」ともいう。

脚注[編集]

チャーハン

チャーハン(繁体字: 炒飯; 簡体字: 炒饭; ピン音: chǎofàn)は白飯を様々な具と共に油で炒めた中華料理。英語ではFried riceと言う。



目次 [非表示]
1 概要
2 作り方の一例
3 家庭料理
4 中華料理屋のメニューとして
5 インスタント食品として
6 その他
7 関連項目
8 脚注
9 外部リンク


概要[編集]

チャーハンは、炊きあがった白飯を様々な具と共に油で炒めた料理。日本以外のアジアでは揚州炒飯や福建炒飯が有名である。生米を炒めてから煮るパエリアや炒めた生米を炊くピラフが存在するが、それらとの混同も見られる。

次のように呼ぶ日本の地域もある: 焼飯(やきめし)、炒飯(いりめし)、炒めご飯(いためごはん)。また類似の料理は東アジアと東南アジアで広く見受けられ、例を挙げれば韓国ではポックムパプ(볶음밥)、北朝鮮ではギルムバプ(기름밥)、タイ王国ではカーオパット (ข้าวผัด)、インドネシアとマレーシアではナシゴレン (nasi goreng)、ベトナムではコムチェン (Cơm chiên) として定着している。中国語の音表記はチャオファンに近い。

家庭料理ともされており、また加熱するだけで調理が完了する冷凍食品・インスタント食品など、幅広い製品が出回っている。自動炊飯器(ご飯の保温も兼ねる)普及以前から、冷めてしまった残りご飯の利用法としても用いられる。

日本の中華料理屋および各家庭では、箸ではなく中国スタイルでレンゲもしくはスプーンを用いて食される。

作り方の一例[編集]

基本的に、米飯・卵・食用油・調味料を用いる。

そのほかの食材として、ハム、ベーコン等の肉類、エビやカニなどの海産物[1]、ネギやグリーンピースなどの野菜が使用される。

タイのパイナップル入り炒飯、「カーオ・パット・サッパロット」 (ข้าวผัดสับปะรด) のように、果物を入れる場合もある。

べたつかないためには、水分の少ない米飯を使用する。インディカ米はこれに適していると言われる。

炒め油は、店で多く使用されるものはラードだが、家庭では植物油の使用頻度が高い。

食材の準備が出来てからの調理法は、おおよそ以下の通り。
1.まずネギやハムなど、具のみじん切りを十分に炒め、いったん皿に取る。
2.充分に熱した中華鍋やフライパンに食用油を入れ、溶き卵を入れる。
3.卵は固まるに十分な、かつ火が通り過ぎない程度の時間で加熱しなければならない[2]。卵が完全に固まらない10秒程度のうちに米飯を入れて炒め、飯粒に卵の皮膜を作らせることで油の吸収を防ぎ、ご飯がベタベタの団子状になるのを防ぐ場合もある。「ご飯を炒めるほどパラパラになる」と誤解する人がいるが、炒めるほどご飯の水分が外に出てしまうので、手早く炒めた方が良い。卵についてはこのほかにも炒める前に白飯と混ぜ合わせる、卵だけをあらかじめ炒めておき、白飯を炒め始めた後で具材と一緒に混ぜ合わせるという方法もある。
4.塩・胡椒、醤油等で味を調える。炒めたみじん切り具材を鍋に入れて米飯と混ぜ合わせる。
5.丸い形の容器の中に入れて、皿に伏せて完成。

炒める際にカレー粉を混ぜるとドライカレーに、ニョクマムやナンプラーを加えるとナシゴレンなどの東南アジア風チャーハンに、ケチャップ主体で味付けするとチキンライスになる。粉末状のチャーハンの素や専用の調味料も市販されている。

家庭料理[編集]

工夫次第で様々な食材を利用できることから、冷蔵庫の残り物を活用できて、また短時間に手軽に作れるという理由から、家庭料理としてもチャーハンの人気は高い。家庭によって味付けが異なり、家庭の味ともされる。

中華料理店における調理では、火力が強い業務用コンロと液化石油ガス(いわゆるプロパンガス)などを使うが、一般家庭用の電熱器や型の古いIHクッキングヒーターなどでは、火力が弱い上に鍋を前後にゆすってご飯を混ぜる「振り鍋」ができない。火力の弱いコンロでは振り鍋をすることによって鍋の温度も下がってしまうため、全く同じように調理することが最善とは言えない。家庭でおいしいチャーハンを作るためのテレビ番組も多く、強火のコンロなどを使用したりさらに工夫することによっておいしいチャーハンを作ることがしばしば話題となる。

中華料理屋のメニューとして[編集]

庶民的・大衆的な中華料理店では欠かすことのできない定番メニューで、メインメニューとしてもサイドメニューとしても需要がある。

単品のチャーハンは、庶民的な飲食店では搾菜(ザーサイ)や紅しょうが、スープがセットになっていることが多い。

半量のチャーハンは俗に「半チャーハン」略して「半チャン」(はんチャン)と呼ばれ、半チャンラーメンや半チャン餃子と呼ばれるセットメニューは定番となっている。なお、「半ちゃんラーメン」は幸楽苑が商標登録(商標登録第1523776号)しているが、その由来は麻雀の半荘(はんちゃん)で[3]、チャーハンとは無関係である。また、商標登録の指定商品は「中華そばのめん」、「即席中華そばのめん」であって、ラーメンとチャーハンのセットには権利が及ばない。

チャーハンとラーメンを単品として同時に注文した場合、チャーハンのスープが省略されることも多い。

チャーハンにとろみをつけた野菜あんを乗せた「あんかけチャーハン」、「フカヒレチャーハン」[4]、中華スープをかけて食べる「スープチャーハン」も、本格的な中華料理店を中心に人気がある。

インスタント食品として[編集]





チャーハンの素「インスタント食品」
を使用したチャーハン調理の一例
電子レンジ、フライパンなどで加熱するだけでできる冷凍食品のチャーハンがスーパーマーケット・コンビニエンスストアなどで売られている。一部では飯粒にラードなどの食用油脂を噴霧して冷凍することで中華料理店並みの御飯のパラパラ感を実現し、「自家製チャーハンより美味しい」といわれるような商品まである。これらでは、一食分が包装されたものも多く、喫茶店などの軽食を提供する準飲食店では、業務用のものを利用する場合もある。パッケージが市販品と比べ簡素化され、そのぶん安価である。

日本では粉末調味料とフリーズドライ食材を一袋にしたパウダー状インスタント食品の「チャーハンの素」も発売されている。これは炒り卵と米飯を油を引いたフライパンで炒めた後にこれをかけることで、「いかにもチャーハンらしい」見た目と味になるという物である。

その一方で、日清食品よりカップ内に湯を注いで乾燥米飯を戻す「カップライス」という商品が1970年代に、まるか食品からは1980年代に同様のものをカップラーメンの付けあわせとした「ラーメンチャーハン」が販売されたことがある。21世紀に入って、日清食品(GoFan、カップヌードルごはん)ほかで水を注いだ乾燥米飯を電子レンジで戻すカップ食品も提供されている。

その他[編集]

チャーハンに使う米は、日本では粘り気の高いジャポニカ米を使うが、粘り気の低いインディカ米で作った方がおいしいという声もある。実際にインディカ米で作る場合、日本では輸入米に極めて高額の関税がかかるため、高価になることは避けられない。日本において発生した1993年米騒動での米不足では、タイ米が一定量輸入された。

レタスをチャーハンに入れるのは1980年代初頭に熊本県八代地方で流行し始めたものである。発明の経緯は「若い独身男性がチャーハンの具材にたまたまあったサラダの余り物のレタスを入れてみたのが始まり」と言われる。ただし香港などでは、レタスが入っているチャーハンは以前から存在している。[要出典]

黒曜石

黒曜石(こくようせき、obsidian)は、火山岩の一種、及びそれを加工した宝石。岩石名としては黒曜岩(こくようがん)という[1]。



目次 [非表示]
1 成分・種類
2 性質・特徴
3 産出地
4 用途
5 文化
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク


成分・種類[編集]

化学組成上は流紋岩(まれにデイサイト)で、石基はほぼガラス質で少量の斑晶を含むことがある。流紋岩質マグマが水中などの特殊な条件下で噴出することで生じると考えられている。同じくガラス質で丸い割れ目の多数あるものはパーライト(真珠岩)という。 二酸化珪素が約70〜80%で酸化アルミニウムが10%強、その他に酸化ナトリウム、酸化カリウム、酸化鉄、酸化カルシウム等を含む。外縁部と内側では構造が異なる。また、内部に結晶が認められるものもある。

黒曜石のモース硬度は 5。比重は 2.339 - 2.527。水を 1 - 2% 含む。

性質・特徴[編集]





米国カリフォルニア州のObsidian Dome




採掘坑遺跡がある高原山・剣ヶ峰(画像中央山頂)
外見は黒く(茶色、また半透明の場合もある)ガラスとよく似た性質を持ち、割ると非常に鋭い破断面(貝殻状断口)を示すことから先史時代より世界各地でナイフや鏃(やじり)、槍の穂先などの石器として長く使用された。日本でも後期旧石器時代から使われていた。当時の黒曜石の産地は大きく3つに分かれており、その成分的な特徴から古代の交易ルートが推測できる。

産出地[編集]
黒曜石は特定の場所でしかとれず、日本では約70ヶ所以上が産地として知られているが、良質な産地はさらに限られている[2]。後期旧石器時代や縄文時代の黒曜石の代表的産地としては北海道白滝村、長野県霧ヶ峰周辺や和田峠、静岡県伊豆天城(筏場や柏峠)、熱海市上多賀、神奈川県箱根(鍛冶屋、箱塚や畑宿)、東京都伊豆諸島の神津島・恩馳島、島根県の隠岐島、大分県の姫島、佐賀県伊万里市腰岳、長崎県佐世保市周辺などの山地や島嶼が知られる。このうち、姫島の黒曜石産地は、国の天然記念物に指定されている[3]。
黒曜石が古くから石器の材料として、広域に流通していたことは考古学の成果でわかる。例えば、伊豆諸島神津島産出の黒曜石が、後期旧石器時代(紀元前2万年)の南関東の遺跡で発見されているほか、佐賀県腰岳産の黒曜石に至っては、対馬海峡の向こう朝鮮半島南部の櫛形文土器時代の遺跡でも出土しており、隠岐の黒曜石はウラジオストクまで運ばれている。また北海道では十勝地方も産地として非常に有名で、北海道では現在でも「十勝石」という呼び名が定着している。





日本最古と推定される黒曜石採掘坑遺跡がある高原山。栃木県北部にある活火山・高原山を構成する一峰である剣ヶ峰が原産の黒曜石を使用した石器が矢板市より200km以上離れた静岡県三島市や長野県信濃町の遺跡で発見され研究が進められている。産出時期は古いものでは石器の特長より今から約3万5千年前の後期旧石器時代と考えられており、その採掘坑遺跡(高原山黒曜石原産地遺跡群)は日本最古のものと推定されている。氷河期の寒冷な時期に人が近付き難い当時の北関東の森林限界を400mも超える標高1,500m近い高地[4]で採掘されたことや、従来の石器時代の概念を覆すような活動・交易範囲の広さ、遺跡発掘により効率的な作業を行っていたこと等が分かってきて注目が集まっている。またこの新しい発見により日本人の起源、人類の進化をたどる手掛かりになるという研究者の発言も報道もされている[5][6][7]。
黒曜石は流紋岩が噴出した所に見られ、世界ではアルメニア、カナダ、チリ、ギリシャ、アイスランド、アルゼンチン、イタリア、ケニア、メキシコ、ニュージーランド、ペルー、スコットランド、米国などで知られる。米国ではカスケード山脈のニューベリー火山やメディシン・レイク火山、カリフォルニア州シエラネバダ山脈のイニョ火口、イエローストーン国立公園ほか数多く分布する。





国別黒曜石原産地数(国際黒曜石学会サイトの原産地カタログによる)



用途[編集]

上述の通り、石器時代において、その切れ味の良さから石器素材として広く使われた。刃物として使える鋭さを持つ黒曜石は、金属器を持たない民にとって重要な資源であった。現にヨーロッパ人の来訪まで鉄を持たずに文明を発展させた南アメリカは、15世紀頃まで黒曜石を使用していた。メキシコのアステカ文明などではマカナなどの武器を作り、人身御供で生贄の身体に使う祭祀用メスもつくっていた。一説にはアステカが強大な軍事力で周辺部族を征服し帝国を作れたのは、この黒曜石の鉱脈を豊富に掌握していたからだともいう。

現代でも実用に供されている。その切れ味の良さから、海外では眼球/心臓/神経等の手術でメスや剃刀として使われることがある。また、黒曜石を1000℃で加熱すると、含有された水分が発泡してパーライトとなる。白色粒状で軽石状で多孔質であることから、土壌改良剤などとして用いられる。

様々な色の混じった美しいものは、研磨されて装飾品や宝飾品として用いられている。

文化[編集]
黒曜石とも黒耀石とも表記される場合がある。「耀」の字が常用漢字外であるため、慣用的に黒曜石と表記したと言われることがあるが、常用漢字の制定以前から黒曜石の表記はあった。安永2年(1773年)に初めて黒曜石を取り上げた木内重暁の『雲根誌』では黒曜石としており、Obsidian の訳語として採用した和田維四郎も黒曜石としている。黒耀石という用字が現れるのはおそらく太平洋戦争後で、藤森栄一など考古学者の一部が好んで用いる[8]。
サウジアラビア・メッカにあるカーバ神殿の黒石は古くは隕石などと言われてきたが、黒曜石と判明している。
石言葉は、摩訶不思議。

チャタル・ヒュユク

チャタル・ヒュユク(−・ホユック,−・フユクとも;Çatalhöyük /ʧɑtɑl højyk/ ,Çatal Höyük , Çatal Hüyük)は、アナトリア地方南部、現在のトルコ共和国、コンヤ市[1]の南東数十km、コンヤ平原に広がる小麦畑をみおろす高台に位置する新石器時代から金石併用時代の遺跡である。その最下層は、紀元前7500年にさかのぼると考えられ、遺跡の規模や複雑な構造から世界最古の都市遺跡と称されることもある。チャタルとはトルコ語でforkを意味し、ヒュユク(ホユック)で丘や塚を意味するので「分岐した丘」の意味となる。

チャタル・ヒュユクの遺丘は、チュルサンバ (Çarsamba)・チャイ川の旧河床を挟んで東西にあって、東側は、長径500m、短径300m、高さ20m弱の卵形で西側に比べて規模が大きい。うち新石器時代の文化層は15mに達し、14層の文化層が確認されている。年代的には放射性炭素年代測定で紀元前6850年から同6300年にあたる時期のもので、チャタル・ヒュユクの本体である。西側の遺丘は、チャタル・ヒュユク西遺跡と呼ばれ、径400m、高さ7.5mで規模的には東側に比べて小さく、2期にわたる彩文土器の発達した文化層が確認されており、上層は、青銅器が出現するハラフ期(4300 B.C.頃)並行とされ全体的にやや新しい。



目次 [非表示]
1 研究史
2 チャタル・ヒュユクの建築遺構
3 チャタル・ヒュユクの埋葬
4 チャタル・ヒュユクの壁画とレリーフ
5 チャタル・ヒュユクの社会と経済
6 チャタル・ヒュユクの宗教及び母神像
7 脚注
8 参考文献


研究史[編集]

チャタル・ヒュユクは、1958年に発見され、1961 - 1965年にかけてジェームス・メラート (James Mellaart)によって発掘調査されて、世界的に知られるようになった。メラートは、200ヶ所近い建物を調査し、チャタル・ヒュユクが少なくとも0,I - VIA,VIB - Xの13の層とさらに下層があることを確認した。最下層に至るまではさらに7m掘らなければならないと推定された。以後トルコ政府によって調査が禁止され、遺跡は1993年9月にケンブリッジ大のイアン・ホダー (Ian Hodder)[2]によって調査されるまで放置されることになった。ホダーの調査は、他に先駆けたコーリン・レンフリュー (Colin Renfrew)[3]の研究手法を取り入れた野心的なものであった。考古科学の手法に加えてチャタル・ヒュユクの壁画が表現しているシンボリズムについて心理学者や芸術家たちに解釈をするよう従事させた。チャタル・ヒュユクはメラートによってその複雑性が記録されたが、真の意味での「町」、「都市」、「文明」というよりも巨大な村落として記述された。

チャタル・ヒュユクの建築遺構[編集]

チャタル・ヒュユクの集落は、ゴミ捨て場を持つ家々によって構成されていた。いくつかの家には「居間」よりも大きな部屋があったが、これが公共的な物であったのか、住民の間では職業分化ないし分業が行われていたのかははっきりしない。このような広い部屋は、何らかの儀式など特別な目的で使用されたと思われるものの、今ひとつはっきりしない。チャタル・ヒュユクの本体である東側の遺丘は、最大で総人口10,000人に達したと推測される。もっとも、チャタル・ヒュユクの集落の数千年に及ぶ歴史の中で人口は変化しており、平均的には5,000人から8,000人ほどであったと考えられる。チャタル・ヒュユクの住民は、互いに隙間なくすし詰めのようにくっついた、一部屋が平均25m2程度の土レンガでできた集合家屋に暮らしていたと思われる。通路や窓のようなものは存在せず、蜂の巣のように密集して寄り集まっている家々の天井板の穴から入り、木製のはしごを使って外へ出る仕組みになっていた。つまり、チャタル・ヒュユクの家の扉は、現在の家と違って屋上に付いていたことになる。このような変わった家の構造ができた理由ははっきりしないが、一説にはライオンなどの猛獣や外敵の侵入を防ぐための工夫ではないかと考えられている。このように窓が一切なく、出入口が屋上にしかない建物であれば、住民たちは非常時に屋外のはしごを取り外すだけで、猛獣や外敵の侵入を簡単に防ぐことができたのである。





チャタル・ヒュユク住居内部復元模型
つまり家の屋上が通路の代わりになっていた。屋根穴は換気口の役割も果たしていた。新鮮な空気を入れると共に暖炉やかまどの煙を排気する孔でもあった。それぞれの家は内面に漆喰を塗り、正方形の柱を使ったはしごと急な階段を設けていたという特徴がある。そしてそのような出入口は、たいてい暖炉や炉が設けられている部屋の南側の壁に沿って造られている。それぞれの家の主だった部屋は料理をしたり日常生活を営むために使われている。主だった部屋には壁に沿って座ったり、仕事をしたり、眠ったりするための基壇が設けられている。そういった基壇は壁の内側に設けられて、丁寧に漆喰が塗られ、表面を滑らかに仕上げている。実際建物の壁や床は白色の細かい粘土(漆喰)で何層にも塗りこめられ、120層にも及ぶ建物さえ発見されている。このような上塗りは同一の生活面から検出された建物にほぼ同じ回数の上塗りがされていることから、おそらく毎年のように繰り返されたと考えられている。

一方、補助的に設けられた部屋は、食料、財産の貯蔵、保管に用いられたと推定され、主たる部屋からの天井の低い通路でつなげられている。それぞれの部屋は几帳面なくらいきれいな状態であって、考古学者たちは、建物の中にゴミを発見することができないくらいであった。チャタル・ヒュユクの住居の外側に著しい量の木灰や下水溝や調理に伴うゴミの山が発見された。ゴミの山は埋め立てられて「広場」として使われ、天気のいいときには、日常的な活動が屋根の上やそのようなゴミや後述するような建物の瓦礫で埋め立てられた「広場」で行なわれた。後の時代になると巨大な共同の炉が屋根の上に設けられるようになった。時間が経過するに伴い、家屋は部分的に取り壊しが行なわれ、荒石と灰の上に建て替えが行なわれた。壊された家の瓦礫はマウンド状になっていき、その上も「広場」として使われた。それがチャタル・ヒュユクでは、18層にわたって行われたことが確認されている。

チャタル・ヒュユクの埋葬[編集]





チャタル・ヒュユク牛の壁画




チャタル・ヒュユク牛の壁画




博物館の展示室に復元されたチャタル・ヒュユク第Z層で発見されたヒョウの壁画と乳房の模型。このヒョウの壁画は少なくとも7回の塗りなおしがされたことが判明している。
チャタル・ヒュユクの住民は、死者を村の内部で埋葬した。遺体は床下に墓孔を設けて埋葬された。特に暖炉の下、主たる部屋の基壇や「ベッド」の下から遺体が発見されている。遺体は、基壇の下60cmくらいの深さに、体を小さく折り曲げて(屈葬)、左側を下、頭を部屋の中央に向けて、かごやアシ類のござのようなものにくるまれて埋葬された[4]。いくつかの墓からは、関節がはずされた骨が発見された。おそらく遺体は埋葬される前に長期間外気にさらされていたと思われる。もしかしたら後述するようにハゲワシ等に死体をついばませていた可能性も否定できない。墓が荒らされると一体分の骨格から頭が取り外されている場合もみられる。頭蓋骨が集落のまったく別の場所で発見されることからそれらの遺体の頭蓋骨は、儀礼に用いられたと考えられている。頭蓋骨の中には、漆喰と黄土色の絵具で彩色され、人間の頭を「復元」しようとしているものもある。このような習慣は、シリアの新石器時代の遺跡や新石器時代のジェリコなどチャタル・ヒュユクの近隣の遺跡にもみられる特徴である。

副葬品は、例外的であって、織物があるほかに、木製容器、籠、食べ物が共通してみられ、男性の墓の場合は、木製や骨製の柄の付いた剣、石製の棍棒のような武器、粘土製のスタンプ印章[5]、銅の腕輪やS字状の骨製バックル、女性の場合は、化粧用の石製パレットや装飾品、ごくまれに黒曜石できた鏡がみられる。またタカラガイを目にはめ込んだ頭骨もみられる。身長は、男性170cmくらい、女性は、158cmくらいで、平均寿命は、男性34歳、女性30歳くらいであったと考えられる。生前にマラリアによる貧血症をわずらっていた人が多かったと思われ、関節炎や骨折を患っていた人がいたことも人骨から判明している。

チャタル・ヒュユクの壁画とレリーフ[編集]

生き生きとした壁画が居住区のいたるところ、部屋の内側や壁の外側で発見される。チャタル・ヒュユクでは、前述したように壁に上塗りを繰り返したので、壁に彩色をしてある部屋の上塗り層の断面には塗色面が何層にもなっている。壁画はそのたびに上塗りされたため一時的にしか見られなかったことになる。反面そのために壁画が腐食せず良好に保存されて今日でも見ることができるのである。壁画は細かい毛のブラシを用いて塗料を塗って描かれたと考えられている。塗料の原料は、赭土、藍銅鉱、辰砂、孔雀石、方鉛鉱、マンガンなどアナトリアで入手できる鉱物から作られた。地は、白かクリーム色で、壁画には赤や赤褐色が主に用いられたが、黒、黄色、藍色、青、灰色が使われている例もある。多くの壁画は柱と柱の間におさまる大きさであったが、例外的におおきな壁画も描かれた。人や動物を描いたもの、幾何学文様、真っ赤に塗られたもの、人の手を並べて描いたものなど描かれた主題は多様であった。層の異なる二つの儀式が行なわれたと推察される部屋で、狩猟の様子を描いたと思われる壁画が発見されたが、北側の壁に2mもの巨大な赤い雄牛を描き、その周りに何人かがヒョウの毛皮のふんどしをして踊っている姿を描いていた。描かれた人物は多くは男性であり、体を赤く塗った姿で表現されていた。この壁画より古い層のV層では、壁四面を使って、いのしし、鹿、熊、狼、オナガーと呼ばれる野生のロバ、ライオンやそのほかの動物を描いた壁画が発見されている。研究者たちは、狩猟の光景ではなくミケーネ文化に見られる儀式や現在の闘牛のような動物を使った祭りのような象徴的なものを描いたと推察している。第III層では、部分的であるが犬のような動物を使って男性の狩人が牡鹿を矢で射ている絵が発見されている。VI層からは、アシと筵でできた納骨堂に織物がしかれ目のくぼんだ頭骨が置かれている絵が発見され、死者に関して何かを表す絵であるということ以外わかっていない。

多くみられるのは狩猟をしている男性たちがペニスをいきり立たせている場面である。また現在では、絶滅しているバイソン類を赤く描いていることもある。また、頭のない人間にワシやタカなどの猛禽類が飛びかかるように舞い降りてくる場面も描かれる。この壁画の猛禽類は、なぜか人間の足をもっているものがあり、儀式の際に鳥の姿に扮装した祭司の間に頭のない遺体が置かれている様子を描いていると考えられている。また、死体の処理の方法としてシロエリハゲワシなどに死体の肉をついばませていたことを表しているのかもしれない。壁には動物の頭、特に牡牛のものが多く、牡牛の頭骨や角を芯にして土で復元するように塗り固めているものがみられる一方、牡牛や牡鹿の頭が取り付けられている例もある。動物の頭像は、3個、5個、7個といった単位で低い基壇や壁にとりつけられたり、新しい時期の角がついたささげ物を置くのに使用した台と似た土柱に取り付けられることもあった。このような動物の頭像で、特に牡牛の角は男性の神格を表しているとかんがえられている。一方で、第Z層で発見された[6]ようなヒョウの壁画や乳房の模型には、土偶ともに地母神や出産の女神を表していると考えられている。

背景にチャタル・ヒュユクから140kmの位置にあるハッサン火山ないしHasan Dağ火山の二つの峰を背景に集落の様子を描いているものもあり、世界最古の地図ないしは風景画とみなせるかもしれない。

チャタル・ヒュユクの社会と経済[編集]

チャタル・ヒュユクの人々は、社会的な階層分化がなされず、相対的に平等社会であったと思われる。はっきりと王や神官が使用したことを想起させる特徴をもった家屋が未だに発見できないからである。最近の調査で判明したのは、ジェンダーに基づくわずかな社会的区別があるということだけである。男性も女性も食物を平等に分け合い、社会的な階層としては平等であった。チャタル・ヒュユクの上層においては、人々は農業を行い家畜を飼っていたことが明らかになっている。女性の土偶は、小麦や大麦を貯蔵する室の中で発見される。小麦や大麦の他には、エンドウマメ、アーモンド、ピスタチオや果物などが栽培されていた。牛や羊の骨が見付かっているのは、動物の家畜化の始まった証拠として考えられている。しかしながら、チャタル・ヒュユクの人々にとっては、狩猟で得られる動物の肉はなお重要な食料であり続けた。土器を作り、黒曜石で石器を作ることが主要な「工業」であった。黒曜石でできた石器は、地中海産の貝やシリア産のフリントなどの物資と交易を行うために用いられたと考えられる。

チャタル・ヒュユクの宗教及び母神像[編集]

遺跡の上層からは、女性の土偶が発見されている。神殿と同定できる遺構はいまだに確認されていないものの墓や壁画や土偶は、チャタル・ヒュユクの人々が豊富な宗教的シンボリズムをもっていたことを示している。そのようなものが集中的に発見される部屋は「祠堂」[7]ないしは、公共の会議場であったと思われる。

チャタル・ヒュユクでもっとも印象的なのは女性の彫像(土偶ないし石偶)である。最初に発掘調査を行ったメラートは、丹精をこめて丁寧につくられた彫像は女性をあらわすと考えられ、大理石や青みがかった石灰岩、褐色を帯びた石灰岩、片岩、方解石、玄武岩、アラバスターを刻んだり、粘土で象ってつくられた。男性神もいたにもかかわらず、IV層よりも後になるとみられなくなり、女神像は男神像に数においては圧倒的に凌駕している。





チャタル・ヒュユク母神像。二匹のライオン(ないし、猫科動物)が脇にいる
丁寧に作られた女神像は、メラートが「祠堂」であると考えた場所で発見された。二匹のライオン(ないし、猫科動物)が脇にいる女神像一体が穀物蔵から発見されたとき、メラートは穀物の実りを保障したり、穀物の供給を守護する意味があるのだろうと推察した。メラートが4度にわたる発掘調査で200ヶ所近い建物を調査した一方で、イアン・ホダーは、わずかひとつの建物に全調査期間を費やした。ホダーは、2004年から2005年にかけてメラートが発見してきたおびただしい量の丁寧に作られた豊満に肥った母神像と同じものを発見している。2005年に発見されたものは衝撃的で、ホダーは、チャタル・ヒュユクに関する公式サイトで、チャタル・ヒュユクに関する社会像を抜本的に変えなければならないかもしれないと前置きして、「母神像の豊満な胸には、両腕が置かれ、腹部が中央部をなして大きく張り出している。母神像のひとつを回転させて向きを変えると腕が非常に細く非常に細身で干からびたような人物の骨や骨格が描かれているのがみられる。あばら骨や脊椎骨がむき出しになっている。肩甲骨と骨盤もむき出しになっている。この母神像は、チャタル・ヒュユクの社会や表現力の性格について見方を一変させるようなユニークなものといえる。」と述べている。

サワードウ

サワードウ (sourdough)又は 天然酵母 は、小麦やライ麦の粉と水を混ぜてつくる生地に、乳酸菌と酵母を主体に複数の微生物を共培養させた伝統的なパン種。パン酵母(イースト)を純粋培養したものと同様にパンの膨張剤に用いる。乳酸菌が発酵の過程で生産する乳酸のため、サワードウをつかったパン(サワードウ・ブレッド、サワーブレッド)は特有の強い酸味と風味をもつ。



目次 [非表示]
1 培養する
2 パンを焼く
3 歴史と文化
4 参考文献


培養する[編集]

サワードウ(サワー種とも呼ばれている)そのものをつくるには、小麦粉やライ麦粉を水と混ぜ、室温でしばらく放置すればよい。穀物のデンプンと水が接触すると、穀物自体に含まれる酵素のアミラーゼによってデンプンが加水分解され、マルトース(麦芽糖)をはじめとする糖類が生じる。穀物表面や空気中に存在している乳酸菌はマルトースを代謝してグルコースやフルクトースなどを生産し、さらにこれらを栄養源として酵母が生長する。新鮮な穀物粉と水を定期的に補給し、温度などの環境を適切に保持すれば、数日で乳酸菌と酵母が安定に共生したサワードウができあがる。

安定したサワードウには出芽酵母 Saccharomyces cerevisiae と乳酸桿菌 Lactobacillus sanfranciscensis が主に生育しており、個体数では乳酸菌が酵母の100倍から1000倍ほど多く存在する。これは乳酸菌がデンプン由来のマルトースを直接栄養源とできるものの、酵母はマルトースを利用できず乳酸菌の代謝産物であるグルコースなどに依存しているためである。この共生系は菌類の生産する酸や抗生物質の影響で他の雑菌が繁殖しにくくなっており、粉と水を補給すればいつまでも培養し続けることができる。

サワードウに含まれる酵母と乳酸菌の種類や比率は、その土地の気温や湿度、標高などの環境によって変化する。このため、同じサワードウを使っても出来上がるパンの風味は土地によって変化する。また、伝統的な製パン所では何年も同じサワードウを培養しつづけて使うため、その過程で店ごとに菌類の種類や組成に差が生じている。結果として、出来上がるパンは店ごとに個性的な風味をもつ。

安定したサワードウをつくるコツは幾通りか知られている。精白粉よりもミネラルを多く含む全粒粉は発酵を促進し、塩素殺菌された水は発酵を阻害するといわれる。麦芽はマルターゼを多く含むので添加するとデンプンの分解がすすみ乳酸菌が生育しやすくなる。酵母のエネルギー源であるグルコースを添加すると酵母がよく生長する。穀物の表面には通常たくさんの菌類が付着しているが、精白・加工したものでは十分でないこともあるため、発酵が進まない場合はブドウの粒(皮に多くの微生物が付着している)などを加えることもある。

実際には安定したサワードウを作成・維持するには時間と技術が必要なため、毎日使用する製パン業者以外は食料品店などから入手するのが一般的である。

パンを焼く[編集]





サワードウをつかって焼いた黒パン。目が詰まってずっしりとしている
サワードウを使ってパンを焼くには、まず「スターター」または「マザー・スポンジ」と呼ばれる発酵したサワードウを準備する。スターターに4-5倍の量の粉を加え、水と共によくこねてパン生地とする。この生地の一部をとりわけて室温で保存しておくと、自然に発酵が進んで次にパンを焼くときに再び「スターター」として使うことができる。

よくこねた生地を室温で数時間から一日ねかせると、穀物粉に含まれるデンプンやタンパク質が乳酸菌と酵母の作用によって各種の糖分やアミノ酸、乳酸や酢酸、エタノールなどに転換され、パンに独特の酸味と風味が生じる。また、発酵の過程で放出される二酸化炭素によってパンが膨らむ。ただし、乳酸の影響で酵母があまり二酸化炭素を発生させないことや、パン生地のグルテンが酸や微生物の作るタンパク質分解酵素によって弱められ、粘りが低くなって発生した二酸化炭素が抜け出てしまうことなどの理由により、一般的にサワードウを使ったパン生地はイーストを使ったものに比べて膨らみにくい。このため、焼きあがったパンは密度が高く、ずっしりとした食感となる。

サワードウ・ブレッドには菌の作り出した有機酸と抗生物質が多く含まれるため、比較的腐敗やカビに強いといわれている。一方、サワードウはパンの大量生産には向かないため、ベーキングパウダーなどの人工的な膨張剤が発達した今日では、サワードウ・ブレッドは以前ほど一般的ではなくなりつつある。

歴史と文化[編集]





サワードウ・ブレッド
北ヨーロッパで一般的なライ麦粉だけから作るライ麦パンは、ふつうサワードウを使って膨らませる。ライ麦はグルテンを十分に含んでいないため、イーストは膨張剤として役にたたない。一方、サワードウはパン生地を酸性にするため、デンプンが部分的にゲル化し発生する二酸化炭素を泡として取り込んで膨らむ。

南ヨーロッパにおいても、フランスパンやパネットーネにはもともとサワードウが用いられてきた。しかし、徐々に成長の早いイーストが代わりに使われるようになってきている。

アメリカ合衆国では、サワードウ・ブレッドはサンフランシスコ名物として広く知られている。1849年にはじまったゴールドラッシュ中のカリフォルニア州北部では、主にサワードウ・ブレッドが食べられていた。この時代の名残として、サワードウは金鉱掘りのニックネームとなり、現在のサンフランシスコ・フォーティナイナーズのマスコット「サワードウ・サム」に引き継がれている。

150年以上が経過した今日でも、サワードウ文化はサンフランシスコに定着している。サンフランシスコのサワードウ・ブレッドは鋭い酸味があることで知られており、シーフードやスープと相性がよく、クラムチャウダーやチリコンカーンと共によく食べられる。また、サワードウ中に生育する代表的な乳酸菌種 Lactobacillus sanfranciscensis の学名はサンフランシスコに由来している。

ライムギ

ライムギ(ライ麦、学名Secale cereale)はイネ科の栽培植物で、穎果を穀物として利用する。別名はクロムギ(黒麦)。単に「ライ」とも。日本でのライムギという名称は、英語名称のryeに麦をつけたものである。食用や飼料用としてヨーロッパや北アメリカを中心に広く栽培される穀物である。寒冷な気候や痩せた土壌などの劣悪な環境に耐性がある。



目次 [非表示]
1 歴史
2 形態
3 栽培 3.1 病害

4 生産
5 利用
6 日本での現況
7 ライムギに関する逸話
8 関連項目
9 脚注
10 参考文献


歴史[編集]

原産は小アジアあたりと考えられている。小麦や大麦の原産地よりはやや北の地域である。

栽培化の起源は次のように考えられている。もともとコムギ畑の雑草であったものが、コムギに似た姿の個体が除草を免れ、そこから繁殖した個体の中から、さらにコムギに似た個体が除草を逃れ[2]。といったことが繰り返され、よりコムギに似た姿へと進化(意図しない人為選択)した[2]。さらに環境の劣悪な畑ではコムギが絶えてライムギが残り、穀物として利用されるようになったというものである[2]。同じような経緯で栽培作物となったエンバクとともに、本来の作物の栽培の過程で栽培化されるようになった植物として二次作物と呼ばれる[2][3]。現在でもコムギ畑における強勢雑草であり、コムギの生育条件の悪い畑ではコムギを押しのけてライムギのほうが主となっている畑がみられる。

ローマ帝国では、貧困者が食べるものとしていたため、一時期栽培が激減した。しかし、ローマ帝国の北部では小麦の生育条件が悪く、しばしば小麦畑をライ麦が覆うようになり、2世紀ごろにはライ麦を主目的として栽培されるようになった[4]。コムギより酸性土壌に強く、乾燥や寒冷な気候に耐えるため、スカンジナビア半島やドイツ、東ヨーロッパなどでは主要な穀物として栽培されていった。中世にはオオムギに代わってコムギに次ぐ第2の穀物としての地位を確立した[5]。16世紀末からは海運の改善や都市人口の増大に伴い、バルト海沿岸のライムギが輸出用作物として盛んに栽培されるようになり、とくにポーランド王国の大穀倉地帯を後背地に持つダンツィヒのライムギ交易が急増した。総輸出の約70%を占めたダンツィヒをはじめ、リガやケーニヒスベルクなどのバルト海諸港から盛んにライムギが輸出され、1562年から1657年までの106年間の年間平均輸出量は8.6万トンに上った[6]。また、このライムギ交易の活況はポーランド王国の経済を活性化し、ポーランドの黄金時代を経済面から支えることとなった。その後も、19世紀ごろまではパン用穀物としてはコムギより使用量が多かったものの、食味などの点からコムギのパンのほうが常に高級とされ、コムギの収穫量増大とともに重要性は低下していった。一方で、麦角菌中毒(下で詳述)が中世には大流行し、591年から1789年の間に132回の流行を見た。

現在ではライ麦粉は小麦粉よりビタミンB群や食物繊維が多いことを認められて蔑まれることはなくなり、ヨーロッパ全土で栽培されている。しかし19世紀以後、コムギの作付面積が拡大するとともにライムギは栽培面積、栽培量ともに激減し、現代においてもなお栽培は減少の一途をたどっている。

形態[編集]

ライムギの近縁種としては、S. montanum、S. africanum、S. vavilovii 及び S. silvestreがある[7][8]。

根がよく発達し、地上面の高さは1.5mから1.8m、3mに及ぶこともある。ライムギはコムギやオオムギと違って他家受精植物であり、自家受精する場合は著しく収穫量が劣る。

コムギとは近縁であり、交配も可能である。ただし、ライムギの花粉をコムギのめしべに受粉させる場合に限り、この逆では実が稔らない。コムギとの交配種をライコムギといい、一時交配では優良な品種が生まれにくいものの、交配種どうしからさらに交配させた品種からは優良種が現れることがあり、選抜して栽培される。

栽培[編集]





栽培中のライムギ
主に秋に蒔き、夏に収穫するが、春蒔きの品種もある。ライ麦は発芽温度が1℃から2℃と低く、低温に強いため冬作物として栽培される。秋に蒔かれたライ麦は冬を越し、春になると急速に成長する。ライ麦はほかのほとんどの穀物よりも貧しい土壌で生育することができる。そのため、特に砂地や泥炭地などでは特に貴重な作物である。また。ライ麦はほかの穀物よりも耐寒性が強いため、小麦が生育できない寒冷地においてもライ麦は成長できる。一方で、粘土質の土地では生育しにくい。丈が高いため、成長しすぎると倒伏しやすくなる。

病害[編集]





麦角菌に冒されたライムギ
子嚢菌の一種麦角菌が子房に寄生すると、菌核を形成し[9]、一群の麦角アルカロイドと呼ばれる様々な生理活性を示すアルカロイドを含むマイコトキシンが発生する。これが麦角である。麦角菌に寄生されたライムギは黒い角状のものを実の間から生やしたため、これが麦角の名の由来となった。これが発生した畑からの収穫物には種子にまぎれて麦角が混入し、これを粉に挽いてパンなどに調理すると、麦角アルカロイドの毒性によって流産や末梢血管の収縮による四肢の組織の壊死、幻覚などの中毒症状を引き起こすので、食用に適さない。この麦角菌中毒は中世に大流行し、多くの人の命を奪った。

生産[編集]


2005年の10大ライ麦生産国
(単位は百万トン)

ロシアの旗 ロシア 3.6
ポーランドの旗 ポーランド 3.4
ドイツの旗 ドイツ 2.8
ベラルーシの旗 ベラルーシ 1.2
ウクライナの旗 ウクライナ 1.1
中華人民共和国の旗 中国 0.6
カナダの旗 カナダ 0.4
トルコの旗 トルコ 0.3
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 0.2
オーストリアの旗 オーストリア 0.2
世界総計 13.3
Source: FAO [10]

寒冷を好みやせた土壌でも生育するため、東部、中部、北部ヨーロッパやロシアなど高緯度地帯で広く栽培される。主要なライ麦生産地帯はドイツからポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、リトアニア、ラトビア、及び北部ロシアへと続く。また、カナダ、アメリカ、アルゼンチン、ブラジル、中国北部でも栽培される。2005年の最大生産国はロシアで、以後ポーランド、ドイツ、ベラルーシ、ウクライナと続く。しかし、需要の減退によってライ麦の生産量は減り続けている。ロシアでは、ライ麦生産量は1992年の1390万トンから2005年には360万トンにまで減少した。同じ時期、ポーランドでは590万トンから340万トン、ドイツでは330万トンから280万トン、ベラルーシでは310万トンから120万トン、中国では170万トンから60万トン、カザフスタンでは60万トンからわずか2万トンにまで減少している。ライムギ自体の反収は農法の改善などにより増加傾向にあるため、栽培面積がそれを上回る勢いで減少していることになる。世界の総栽培面積も、1930年代の4200万ヘクタールから1977年には1400万ヘクタールにまで減少している。[11]

ライ麦は生産国内でほぼ消費される。近隣諸国へ輸出されることはあるものの、世界市場は成立していない。


ミネラル

カルシウム 33 mg
鉄分 2.67 mg
マンガン 121 mg
リン 374 mg
カリウム 264 mg
ナトリウム 6 mg
亜鉛 3.73 mg
銅 0.450 mg
マグネシウム 2.680 mg
セレン 0.035 mg

利用[編集]


Secale cereale - cereal rye - Steve Hurst USDA-NRCS PLANTS Database.jpg




Secale cereale - cereal rye 2 - Steve Hurst USDA-NRCS PLANTS Database.jpg



ライムギはオオムギやエンバクとは違い、人間の食用としての利用が中心である。古来よりヨーロッパではコムギに次ぐ食用穀物として扱われており、主に種子を粉にしてパンの原料とされてきた。21世紀の現在でも、ドイツや北欧諸国など小麦の生育が悪い国を中心に多くのライ麦パンが作られ、文化の一部となっている。ライ麦パンは色が黒っぽいことから黒パンとも呼ばれる。ライ麦は小麦よりグルテンが少ないため生地の伸びが悪く、また小麦粉のパンよりも焼きあがったのちに密度が高いため、目は詰まっているが水分の抜けが少ないので日持ちする[12]。パンの発酵にはイースト菌ではなくサワー種と呼ばれる何種類もの微生物が共存した伝統的なパン種を用いることが多い。これらの発酵法では乳酸を用いて発酵するうえ、ライムギ粉の生地は酸化されるとふくらみがよくなるため、できあがった黒パンには酸味がある[13]。また、ライムギだけでは生地が膨らみにくいため、ライムギとコムギを混ぜてパンを作ることも多く行われている[14]。ライムギ粉は食物繊維やミネラルが豊富に含まれており、健康に良いとされている[15]。

また、パンとしての利用のほかに、種子は醸造用としてウイスキー(ライ・ウイスキーなど)やウォッカの原料ともなる。ロシアやウクライナ、ベラルーシにおいては、ライムギと麦芽を発酵させたクワスという発酵飲料が盛んに作られ、ジュースとして好まれている。また茎葉と共に家畜の飼料とする。

日本での現況[編集]

日本にライムギが導入されたのは明治時代であり、北海道や東北北部などの寒冷地において栽培された。しかし戦前の栽培面積は数百ヘクタールに過ぎず、第二次世界大戦後すぐに一時急増して1950年には6500ヘクタールまで栽培面積が広がったものの、すぐに急減した。現在では青刈りして飼料や緑肥とするための生産を除きほとんど栽培されていない。緑肥としては、耐寒性が強い上成長が非常に早いため、早く大量の草を得ることができるため利用されることがある[16]。また、同じく成長の速さと丈の高さから、主に日本海側の風の強い地方や砂丘地域で防風・防砂用植物として畑の周囲での栽培もされる[17]。食用としては北海道でわずかながら栽培があり、ライムギ粉が作られる程度である。

現在、日本で使用されるライムギはほぼ全量輸入であり、2008年には59,281トンが輸入された。輸入先としてはカナダが最大で、輸入量は53,241トンと9割以上を占める。ついで、ドイツ(4,911トン)、アメリカ(1,087トン)と続く[18]。

ライムギに関する逸話[編集]

漢字の「来(來)」はムギをかたどってできたとされる(來+夂=麥(麦))。一説にライムギの形からできたという説もあるが、中国にライムギが伝来したのは19世紀と推定されており、來の字の成立時期には中国にライムギは存在しなかった。そのうえ、中国でのライムギの名称は裸麥、黒麦、洋麦であり、來と呼ばれたことはない。洋麦という名称自体が、近代に入ってヨーロッパから導入されたことを示している[19]。このため、この説の信憑性は極めて低く、英語のrye(ライムギ)と同じ語源である可能性も極めて低い。

Taxonomy of wheat

During 10,000 years of cultivation, numerous forms of wheat have evolved under human selection. This diversity has led to much confusion in the naming of wheats. This article explains how genetic and morphological characteristics of wheat influence its classification, and gives the most common botanical names of wheat in current use (see Table of wheat species). Information on the cultivation and uses of wheat is at the main wheat page.



Contents [hide]
1 Aegilops and Triticum
2 Early taxonomy
3 Important characters in wheat 3.1 Ploidy level
3.2 Genome
3.3 Domestication
3.4 Hulled vs. Free-threshing
3.5 Morphology

4 Traditional vs. genetic classifications
5 Infraspecific classification
6 Advice for users
7 Table of wheat species 7.1 Explanatory notes on selected names

8 Artificial species and mutants
9 References
10 External links 10.1 Taxonomy
10.2 Genetics
10.3 Morphology

11 See also


Aegilops and Triticum[edit]





Spike and spikelets of Aegilops tauschii
The genus Triticum includes the wild and domesticated species usually thought of as wheat.

In the 1950s growing awareness of the genetic similarity of the wild goatgrasses (Aegilops) led some botanists to amalgamate Aegilops and Triticum as one genus, Triticum. This approach is still followed by some (mainly geneticists), but has not been widely adopted by taxonomists. Aegilops is morphologically highly distinct from Triticum, with rounded glumes rather than keeled glumes.

Aegilops is important in wheat evolution because of its role in two important hybridisation events. Wild emmer (T. dicoccoides and T. araraticum) resulted from the hybridisation of a wild wheat, T. urartu, and an as yet unidentified goatgrass, probably similar to Ae. speltoides. Hexaploid wheats (e.g. T. aestivum and T. spelta) are the result of a hybridisation between a domesticated tetraploid wheat, probably T. dicoccum or T. durum, and another goatgrass, Ae. tauschii (also known as Ae. squarrosa).

Early taxonomy[edit]

Botanists of the classical period, such as Columella, and in sixteenth and seventeenth century herbals, divided wheats into two groups, Triticum corresponding to free-threshing wheats, and Zea corresponding to hulled ('spelt') wheats.

Carl Linnaeus recognised five species, all domesticated:
T. aestivum Bearded spring wheat
T. hybernum Beardless winter wheat
T. turgidum Rivet wheat
T. spelta Spelt wheat
T. monococcum Einkorn wheat

Later classifications added to the number of species described, but continued to give species status to relatively minor variants, such as winter vs. spring forms. The wild wheats were not described until the mid-19th century because of the poor state of botanical exploration in the Near East, where they grow.

The development of a modern classification depended on the discovery, in the 1920s, that wheat was divided into 3 ploidy levels.

Important characters in wheat[edit]

Ploidy level[edit]

As with many grasses, polyploidy is common in wheat. Some wheats are not polyploid. There are two wild diploid wheats, T. boeoticum and T. urartu. T. boeoticum is the wild ancestor of domesticated einkorn, T. monococcum. Cells of the diploid wheats each contain 2 complements of 7 chromosomes, one from the mother and one from the father (2n=2x=14, where 2n is the number of chromosomes in each somatic cell, and x is the basic chromosome number).

The polyploid wheats are tetraploid (4 sets of chromosomes, 2n=4x=28), or hexaploid (6 sets of chromosomes, 2n=6x=42). The tetraploid wild wheats are wild emmer, T. dicoccoides, and T.araraticum. Wild emmer is the ancestor of all the domesticated tetraploid wheats, with one exception: T. araraticum is the wild ancestor of T. timopheevi.

There are no wild hexaploid wheats, although feral forms of common wheat are sometimes found. Hexaploid wheats evolved under domestication. Genetic analysis has shown that the original hexaploid wheats were the result of a cross between a tetraploid domesticated wheat, such as T. dicoccum or T. durum, and a wild goatgrass, Ae. tauschii.

Polyploidy is important to wheat classification for three reasons:
Wheats within one ploidy level will be more closely related to each other.
Ploidy level influences some plant characteristics. For example, higher levels of ploidy tend to be linked to larger cell size.
Polyploidy brings new genomes into a species. For example, Aegilops tauschii brought the D genome into hexaploid wheats, with enhanced cold-hardiness and some distinctive morphological features.

Genome[edit]

Observation of chromosome behaviour during meiosis, and the results of hybridisation experiments, have shown that grass genomes (complete complements of genetic matter) can be grouped into distinctive types. Each type has been given a name, e.g. B or D. Grasses sharing the same genome will be more-or-less interfertile, and might be treated by botanists as one species. Identification of genome types is obviously a valuable tool in investigating hybridisation. For example, if two diploid plants hybridise to form a new polyploid form (an allopolyploid), the two original genomes will be present in the new form. Many thousands of years after the original hybridisation event, identification of the component genomes will allow identification of the original parent species.

In Triticum, five genomes, all originally found in diploid species, have been identified:
Am - present in wild einkorn (T. boeoticum).
Au - present in T. urartu (closely related to T. boeoticum but not interfertile).
B - present in most tetraploid wheats. Source not identified, but similar to Ae. speltoides.
G - present in timopheevi group of wheats. Source not identified, but similar to Ae. speltoides.
D - present in Ae. squarrosa, and thus in all hexaploid wheats.

The genetic approach to wheat taxonomy (see below)takes the genome composition as defining each species. As there are five known combinations in Triticum this translates into five super species:
Am T. monococcum
Au T. urartu
BAu T. turgidum
GAm T. timopheevi
BAuD, T. aestivum

Domestication[edit]

There are four wild species, all growing in rocky habitats in the fertile crescent of the Near East. All the other species are domesticated. Although relatively few genes control domestication, and wild and domesticated forms are interfertile, wild and domesticated wheats occupy entirely separate habitats. Traditional classification gives more weight to domesticated status.

Hulled vs. Free-threshing[edit]





Left: Hulled wheat (einkorn), with spikelets. Right: Free-threshing wheat (common wheat).
All wild wheats are hulled: they have tough glumes (husks) that tightly enclose the grains. Each package of glumes, lemma and palaea, and grain(s) is known as a spikelet. At maturity the rachis (central stalk of the cereal ear) disarticulates, allowing the spikelets to disperse.

The first domesticated wheats, einkorn and emmer, were hulled like their wild ancestors, but with rachises that (while not entirely tough) did not disarticulate at maturity. During the Pre-Pottery Neolithic B period, at about 8000 BC, free-threshing forms of wheat evolved, with light glumes and fully tough rachis.

Hulled or free-threshing status is important in traditional classification because the different forms are usually grown separately, and have very different post-harvesting processing. Hulled wheats need substantial extra pounding or milling to remove the tough glumes.

For more information, see Wheat: Hulled vs. free-threshing wheat

Morphology[edit]

In addition to hulled/free-threshing status, other morphological criteria, e.g. spike laxness or glume wingedness, are important in defining wheat forms. Some of these are covered in the individual species accounts linked from this page, but printed Floras must be consulted for full descriptions and identification keys.

Traditional vs. genetic classifications[edit]

Although the range of recognised types of wheat has been reasonably stable since the 1930s, there are now sharply differing views as to whether these should be recognised at species level (traditional approach) or at subspecific level (genetic approach). The first advocate of the genetic approach was Bowden, in a 1959 classification (now historic rather than current)[1]. He, and subsequent proponents (usually geneticists), argued that forms that were interfertile should be treated as one species (the biological species concept). Thus emmer and hard wheat should both be treated as subspecies (or at other infraspecific ranks) of a single tetraploid species defined by the genome BAu. Van Slageren's 1994 classification[2] is probably the most widely used genetic-based classification at present.

Users of traditional classifications give more weight to the separate habitats of the traditional species, which means that species that could hybridise do not, and to morphological characters. There are also pragmatic arguments for this type of classification: it means that most species can be described in Latin binomials, e.g. Triticum aestivum, rather than the trinomials necessary in the genetic system, e.g. Triticum aestivum subsp. aestivum. Both approaches are widely used.

Infraspecific classification[edit]

In the nineteenth century, elaborate schemes of classification were developed in which wheat ears were classified to botanical variety on the basis of morphological criteria such as glume hairiness and colour or grain colour. These variety names are now largely abandoned, but are still sometimes used for distinctive types of wheat such as miracle wheat, a form of T. turgidum with branched ears, known as T. turgidum L. var. mirabile Körn.

The term cultivar (abbreviated as cv.) is often confused with species or domesticate. In fact, it has a precise meaning in botany: it is the term for a distinct population of a crop, usually commercial and resulting from deliberate plant-breeding. Cultivar names are always capitalised, often placed between apostrophes, and not italicised. An example of a cultivar name is T. aestivum cv. 'Pioneer 2163'. A cultivar is often referred to by farmers as a variety, but this is best avoided in print, because of the risk of confusion with botanical varieties.

Advice for users[edit]

Anyone wishing to use a botanical name for wheat is best advised to follow an existing classification, such as those listed as current at the Wheat Classification Tables Site[3]. The classifications given in the following table are among those suitable for use. If a genetic classification is favoured, the GRIN classification is comprehensive, based on van Slageren's work but with some extra taxa recognised. If the traditional classification is favoured, Dorofeev's work is a comprehensive scheme that meshes well with other less complete treatments.Wikipedia's wheat pages generally follow a version of the Dorofeev scheme - see the taxobox on the Wheat page.

The most critical point is that different taxonomic schemes should not be mixed in one context. In a given article, book or web page, only one scheme should be used at a time. Otherwise, it will be unclear to others how the botanical name is being used.

Table of wheat species[edit]

Wheat taxonomy - two schemes
Common name Genome(s) Genetic (GRIN Taxonomy for Plants [4]) Traditional (Dorofeev et al. 1979 [5])
Diploid (2x), Wild, Hulled
Wild einkorn Am Triticum monococcum L. subsp. aegilopoides (Link) Thell. Triticum boeoticum Boiss.
Au Triticum urartu Tumanian ex Gandilyan Triticum urartu Tumanian ex Gandilyan
Diploid (2x), Domesticated, Hulled
Einkorn Am Triticum monococcum L. subsp. monococcum Triticum monococcum L.
Tetraploid (4x), Wild, Hulled
Wild emmer BAu Triticum turgidum L. subsp. dicoccoides (Korn. ex Asch. & Graebn.) Thell. Triticum dicoccoides (Körn. ex Asch. & Graebner) Schweinf.
Tetraploid (4x), Domesticated, Hulled
Emmer BAu Triticum turgidum L. subsp. dicoccum (Schrank ex Schübl.) Thell. Triticum dicoccum Schrank ex Schübler
BAu Triticum ispahanicum Heslot Triticum ispahanicum Heslot
BAu Triticum turgidum L. subsp. paleocolchicum Á. & D. Löve Triticum karamyschevii Nevski
Tetraploid (4x), Domesticated, Free-threshing
Durum or macaroni wheat BAu Triticum turgidum L. subsp. durum (Desf.) Husn. Triticum durum Desf.
Rivet, cone or English wheat BAu Triticum turgidum L. subsp. turgidum Triticum turgidum L.
Polish wheat BAu Triticum turgidum L. subsp. polonicum (L.) Thell. Triticum polonicum L.
Khorasan wheat BAu Triticum turgidum L. subsp. turanicum (Jakubz.) Á. & D. Löve Triticum turanicum Jakubz.
Persian wheat BAu Triticum turgidum L. subsp. carthlicum (Nevski) Á. & D. Löve Triticum carthlicum Nevski in Kom.
Tetraploid (4x) - timopheevi group
Wild, Hulled
GAm Triticum timopheevii (Zhuk.) Zhuk. subsp. armeniacum (Jakubz.) Slageren Triticum araraticum Jakubz.
Domesticated, Hulled
GAm Triticum timopheevii (Zhuk.) Zhuk. subsp. timopheevii Triticum timopheevii (Zhuk.) Zhuk.
Hexaploid (6x), Domesticated, Hulled
Spelt wheat BAuD Triticum aestivum L. subsp. spelta (L.) Thell. Triticum spelta L.
BAuD Triticum aestivum L. subsp. macha (Dekapr. & A. M. Menabde) Mackey Triticum macha Dekapr. & Menabde
BAuD Triticum vavilovii Jakubz. Triticum vavilovii (Tumanian) Jakubz.
Hexaploid (6x), Domesticated, Free-threshing
Common or bread wheat BAuD Triticum aestivum L. subsp. aestivum Triticum aestivum L.
Club wheat BAuD Triticum aestivum L. subsp. compactum (Host) Mackey Triticum compactum Host
Indian dwarf or shot wheat BAuD Triticum aestivum L. subsp. sphaerococcum (Percival) Mackey Triticum sphaerococcum Percival

Note: Blank common name indicates that no common name is in use in the English language.

Explanatory notes on selected names[edit]
Triticum boeoticum Boiss. is sometimes divided into two subspecies: T. boeoticum Boiss. subsp. thaoudar (Reut. ex Hausskn.) E. Schiem. - with two grains in each spikelet, distributed to east of fertile crescent.
T. boeoticum Boiss. subsp. boeoticum - one grain in each spikelet, in Balkans.

Triticum dicoccum Schrank ex Schübler is also known as Triticum dicoccon Schrank.
Triticum aethiopicum Jakubz. is a variant form of T. durum found in Ethiopia. It is not usually regarded as a separate species.
Triticum karamyschevii Nevsky was previously known as Triticum paleocolchicum A. M. Menabde.

Artificial species and mutants[edit]

Russian botanists have given botanical names to hybrids developed during genetical experiments. As these only occur in the laboratory environment, it is questionable whether botanical names (rather than lab. numbers) are justified. Botanical names have also been given to rare mutant forms. Examples include:
Triticum × borisovii Zhebrak - (T. aestivum × T. timopheevi)
Triticum × fungicidum Zhuk. - Hexaploid, artificial cross (T. carthlicum × T. timopheevi)
Triticum jakubzineri Udaczin & Schachm.
Triticum militinae Zhuk. & Migush. - mutant form of T. timopheevi.
Triticum petropavlovskyi Udaczin & Migush.
Triticum sinskajae A.A.Filatenko & U.K.Kurkiev - mutant, free-threshing form of T. monococcum.
Triticum × timococcum Kostov
Triticum timonovum Heslot - Hexaploid, artificial cross.
Triticum zhukovskyi Menabde & Ericzjan (T. timopheevi × T. monococcum)

References[edit]
Caligari, P.D.S. and P.E. Brandham (eds) (2001). Wheat taxonomy: the legacy of John Percival (Linnean Special Issue 3 ed.). London: Linnean Society. p. 190.
Percival, John (1921). The wheat plant: a monograph. London: Duckworth.
Padulosi, Stefano, Karl Hammer and J. Heller (1996). Hulled Wheats. Promoting the conservation and use of underutilized and neglected crops. 4. Proceedings of the First International Workshop on Hulled Wheats 21 July 1995 – 22 July 1995, Castelvecchio Pascoli, Tuscany, Italy. ISBN 92-9043-288-8.
"Wheat Classification Tables Site". Retrieved January 15, 2006. Lists of Triticum names. An essential tool.
"GRIN taxonomy: Triticum". Retrieved January 15, 2006. Includes links to USDA germplasm collection, and public domain images Germplasm Resources Information Network (GRIN)
"Genomes in Aegilops, Triticum, and Amblyopyrum". International Triticeae Consortium. Retrieved January 16, 2006.
"Triticum taxonomy". Mansfeld's World Database of Agricultural and Horticultural Crops. Retrieved January 16, 2006.

External links[edit]

Taxonomy[edit]
Les meilleurs blés (1880 and 1909) Also on Pl@ntUse. Beautifully illustrated French book on wheats then in cultivation and studied by the French breeders family Vilmorin.

Genetics[edit]
International Triticeae Consortium Mainly concerned with the International Triticeae Meeting. Site includes genome tables for Triticeae.
GrainGenes: Triticeae Taxonomy
Annual Wheat Newsletter

Morphology[edit]
Wheat: the big picture Illustrated guide to life cycle of wheat plant

パンコムギ

パンコムギあるいは普通コムギ(学名: Triticum aestivum)は、栽培種のコムギの一種である。種小名のaestivumはラテン語で「夏の」を意味する。



目次 [非表示]
1 コムギおよびコムギ品種の命名および分類 1.1 一般的な栽培品種

2 進化
3 歴史
4 育種
5 パンコムギのその他の形態
6 パンコムギを使って作る食品
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目


コムギおよびコムギ品種の命名および分類[編集]

「:en:Taxonomy of wheat」を参照

ヒトの選抜により非常に多くのコムギの品種が生まれている。この多様性はコムギの命名において混乱を招いている。これは命名が遺伝的および形態学的特徴の双方に基づいて行われているためである。詳細はコムギの分類(英語版)を参照のこと。

一般的な栽培品種[編集]
Albimonte [1]
Manital [1]

進化[編集]

パンコムギは異質6倍体(3種の異なる植物種由来の6組のゲノムを持つ異質倍数体)である[2]。脱穀が容易な(易脱穀性)パンコムギは、脱穀しにくい(難脱穀性)のスペルタコムギ(英語版) (Triticum spelta) の近縁種である[2]。スペルタコムギと同様に、タルホコムギ (Aegilops tauschii) 由来の遺伝子によりパンコムギはほとんどのコムギよりも優れた耐寒性を獲得しており、世界の温帯地域の至る所で栽培されている[2]。

歴史[編集]


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この項目は世界的観点からの説明がされていない可能性があります。ノートでの議論と記事の発展への協力をお願いします。(2009年12月)

パンコムギは完新世初期の間に西アジアで初めて栽培化され、先史時代にここから北アフリカ、ヨーロッパ、東アジアに広がっていった。コムギは16世紀にスペイン人宣教師によって初めて北米にもたらされたが、穀物の主要な輸出国としての北米の役割は1870年代にプレーリーの植民地化から始まった。第一次世界大戦中、ロシアからの穀物の輸出が止まると、カンザスの穀物生産量は倍増した。世界的に、パンコムギは現代の工業的パン焼きとよく適合し、特にヨーロッパでかつてはパンの原料として一般的に使われていたその他のコムギやオオムギやライムギに取って代わった。

育種[編集]

現代のコムギ品種は茎が短い。これは細胞を伸長させる植物ホルモンであるジベレリンに対する植物の感受性を減少させるRHt矮化遺伝子の結果である。RHt遺伝子は、日本で育成されたコムギ品種の小麦農林10号からノーマン・ボーローグによって1960年代に現代のコムギ品種に導入された。多量の化学肥料を与えると茎が高く生長しすぎるため、倒伏を防止するために短い茎は重要である。茎の高さは現代的な収穫技術にとっても重要である。

パンコムギのその他の形態[編集]





小型のコムギの穂
小型のコムギ(例えばクラブコムギ、英: club wheat Triticum compactum、インドではT. sphaerococcum)は、パンコムギの近縁種であるが、より小型の穂を持っている。これらの種の穂軸部はより短いため、小穂はより密に集っている。小型のコムギは単独種ではなく、しばしばパンコムギの亜種 (T. aestivum subsp. compactum) と見做されている。


パンコムギを使って作る食品[編集]
パン、パン粉
ジャイアントクスクス
ソフト麺
ラーメン

テル・アブ・フレイラ

テル・アブ・フレイラ(Tell Abu Hureyra、アラビア語:تل أبو هريرة)は古代のレバント東部・メソポタミア西部にあった考古遺跡。今から11,000年以上前に穀物を栽培した跡が見られ、現在のところ人類最古の農業の例となっている。テル・アブ・フレイラはシリア北部アレッポから東に120km、ユーフラテス川中流域の南岸の台地上にあったが、ユーフラテス川をせき止める巨大ダム建設により現在ではアサド湖の水底にある。遺跡では、放棄されていた時期を挟んだ二つの異なる時期の住居跡や食物の跡などが検出された。



目次 [非表示]
1 亜旧石器時代の採集と農耕
2 新石器時代の大規模集落
3 発掘
4 分析
5 脚注
6 外部リンク


亜旧石器時代の採集と農耕[編集]

テル・アブ・フレイラの遺丘の下から見つかった亜旧石器時代(中石器時代)の住居跡(アブ・フレイラ1)は、今からおよそ11,500年前に成立し、10,000年前頃まで続いた。おそらくレバント南部に早くからいた亜旧石器時代のナトゥーフ文化(英語版)人が北東方面に当たるこの地に勢力を拡大したとみられる。集落は少数の円形の住居から構成され、木や小枝等で作られていたと考えられる。人口は最大で100人から200人であった。この時期、食料は野生動物の狩猟、魚釣り、野生植物の採集で得ていた。住居の地下には食物が蓄えられていた。狩猟の対象だった主な動物は、毎年この周辺を移動するガゼルや、その他大型動物はオナガー、ヒツジ、ウシ等で、小形動物ではノウサギ、キツネ、鳥等を年中狩っていた。また採集されていた野生植物には、二種類の野生のライムギ、アインコーン(einkorn、一粒系コムギの一種・ヒトツブコムギ)、エンメル麦(Emmer、二粒系コムギの一種)、ヒユ、その他レンズマメやピスタチオなど野生の子実類があった。

一方、11,050年前のライムギの耕作・栽培の証拠がこの遺跡から検出された。この時期は、最終氷期が終わり温暖化に向かっていた気候が再び急激な寒冷化を迎えたヤンガードリアスという寒冷期の始まりにあたり、この地域の気候の乾燥化によって野生動物や野生のムギ類が減少し、採集に依存していた人々は食糧確保のために農耕を始めたとされている。この時代の地層から出土したライムギの種子を放射性炭素年代測定などで分析した結果、亜旧石器時代にはすでに野生種から栽培種となっていただろうことが明らかになった。

新石器時代の大規模集落[編集]

この後、放棄されていた時期を挟み、今から9400年前から7000年前にかけて、新石器時代のテル・アブ・フレイラの集落(アブ・フレイラ2)が成立した。これは最初の集落より10倍は大きく、15ヘクタールの面積のある当時の中東でも最大級の集落であった。泥レンガから長方形の住居が作られ、古い住居が崩れた泥の上に新しい住居を再建したため、集落の下には大きな丘ができあがりはじめた(これが後に遺丘となる)。栽培されていた植物の種類は飛躍的に増え、出土した当時の人々の遺骨に残っていた変形から、人々は農業に関する重労働、とりわけ粉ひきで体を酷使したことが示唆されている[1]。また家畜を集めて飼育することも始まった。今から7300年前には土器が使われ始め[2]、機織りもその少し前に始まった。この集落は今から7000年ほど前、紀元前5900年から5800年頃に放棄されたと考えられる。

発掘[編集]

テル・アブ・フレイラは1972年と1973年に発掘調査が行われた。ユーフラテスをせき止めるタクバ・ダム(Tabqa Dam)の建設により川沿いの遺跡が水没する前に緊急調査が行われ、この遺跡の調査もその一環であった。数多くの遺物や穀類などが発見され、その後研究が進められている。最初の調査報告は1983年に、最終報告は2000年に出版された[3]。発掘に当たったのはイギリスの人類学者アンドリュー・ムーアで彼は穴などに堆積したやわらかい土砂と手付かずの硬い土壌を見極めながら丹念に発掘作業を行った。

分析[編集]

また発掘の後ムーアとその同僚は土壌試料を浮揚装置にかけ、712の種子サンプルを取り出すのにも成功している。この装置は種子などの植物の残滓や魚の骨、小さいビーズを土壌から分離するものだった。そうして計712のサンプルを入手し、それぞれの試料には150種類以上の食用植物の種が500個ほど含まれていたことが判明した。この結果から植物学者のゴードン・ヒルマンは約1万3000年前のアブ・フレイラでどのような植物が採集されていたかを再現することに成功する[4]。

木原均

木原 均(きはら ひとし、1893年10月21日 - 1986年7月27日)は、日本の遺伝学者。京都大学名誉教授。元国立遺伝学研究所所長。理学博士(京都帝国大学、1924年)。



目次 [非表示]
1 人物
2 逸話
3 略歴
4 その他の役職
5 叙勲歴
6 著作
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク


人物[編集]

コムギの祖先を発見した。近縁の植物のゲノムと遺伝子との関係を知り、ゲノムの遷移や進化の過程を調査するのに用いられる手法を確立したことで有名。また、スイバの研究から種子植物の性染色体も発見した。種なしスイカの開発者でもある。また、日本スキー草創期に発展に尽くした一人で、科学的トレーニングを提唱し、スキー、テニス、野球などをたしなんだ。

逸話[編集]

木原がコムギの遺伝子の研究をすることになったきっかけは、北大の先輩で、当時大学院生だった坂村徹の「遺伝物質の運搬者(染色体)」という題の講演を聴いたことがきっかけ。木原は話が面白くて感激のあまり坂村の研究室まで押しかけていったという。これは木原が学問に目覚め、科学者としての出発点でもあった。しかし木原はこの後、他の植物生理学の研究を続けコムギには縁なく過ごしていたが、坂村が植物生理学の教授となり外国留学することになったため、コムギの遺伝子研究を木原に委ねたのである。「地球の歴史は地殻の層にあり、全ての生物の歴史は染色体に刻まれている」という言葉を残した。

略歴[編集]
1893年(明治26年)、東京市生まれ
1912年(明治45年)[元号要検証]、麻布中学卒業。東北帝国大学予科を経て、北海道帝国大学農学部農学科に進学。植物生理学を専攻。
1918年(大正7年)、北海道帝国大学卒業
1920年(大正9年)、京都帝国大学理学部助手
1924年(大正13年)4月、京都帝国大学農学部農林生物学科助教授(農林生物学第三講座。1926年、実験遺伝学講座) 同年博士論文通過。論文の題はCytologische und genetische Studien bei wichtigen Getreidearten mit besonderer Rucksicht auf das Verhalten der Chromosomen und die Sterilitat in den Bastarden(雜種に於ける染色体の行動及不實性を特に考察せる重要禾殻の細胞學的並に遺傳學的研究)

1925年(大正14年)3月、在外研究(1927年(昭和2年)6月まで)
1927年(昭和2年)7月、京都帝国大学農学部農林生物学科教授(実験遺伝学講座)
1940年(昭和15年)11月、京都帝国大学評議員(1942年(昭和17年)11月まで)
1942年(昭和17年)、財団法人木原生物学研究所創設(京都)、所長を務める
1949年(昭和24年)、日本学士院会員に選任される
1955年(昭和30年)5月京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊長を務める
1955年(昭和30年)10月、 国立遺伝学研究所所長(1969年(昭和44年)3月まで)
京都大学農学部農林生物学科教授併任(1956年(昭和31年)3月まで)

1957年(昭和32年)5月、木原生物学研究所を横浜に移設
1959年(昭和34年)9月、京都大学名誉教授
1964年(昭和39年)、農林省植物ウイルス研究所所長(1968年(昭和43年)まで)
1969年(昭和44年)10月、木原生物学研究所三島分室(静岡県三島市)開設(1978年(昭和53年)12月まで)
1984年(昭和59年)4月、木原生物学研究所を横浜市立大学に移管、横浜市立大学木原生物学研究所発足[1]、名誉所長
1985年(昭和60年)3月、木原の業績を記念し、21世紀に向けて生命料学の振興を図ることを目的に木原記念横浜生命科学振興財団が設立される
1986年(昭和61年)、横浜で逝去(享年92)

その他の役職[編集]
1958年(昭和33年)、全日本スキー連盟会長(第4代、1968年(昭和43年)まで)
1960年(昭和35年)、日本原子力委員会委員長(1964年(昭和39年)まで)
1960年(昭和35年)、第8回冬季オリンピック(スコーバレー)日本選手団団長
1964年(昭和39年)、第9回冬季オリンピック(インスブルック)日本選手団団長
1972年(昭和47年)、第11回冬季オリンピック(札幌) 組織委員
1974年(昭和49年)、麻布学園理事長(死去まで)

叙勲歴[編集]
1943年(昭和18年)、学士院恩賜賞受賞
1948年(昭和23年)、文化勲章受章
1951年(昭和26年)、文化功労者
1975年(昭和50年)、勲一等旭日大綬章
1986年(昭和61年)、叙正三位

著作[編集]
『遺伝・育種学叢書(第1輯-第11輯)』(編) 養賢堂、1933年-1938年
『内蒙古の生物学的調査』(編) 養賢堂、1940年
『科学者の見た戦後の欧米 - 第八回国際遺伝学会に出席して』 毎日新聞社、1949年
『実験遺伝学』 岩波書店〈岩波全書〉、1949年
『現代の生物学(第1集-第3集)』(共編) 共立出版、1949年-1950年
『小麦の研究』(編著) 養賢堂、1954年
『十人百話 第2』(共著) 毎日新聞社、1963年
『コムギの合成 - 木原均随想集』 講談社、1973年
『一粒舎主人寫眞譜』 木原生物学研究所、1985年

リボ核酸

リボ核酸(リボかくさん、英: ribonucleic acid, RNA)は、リボヌクレオチドがホスホジエステル結合でつながった核酸である。RNAと略されることが多い。RNAのヌクレオチドはリボース、リン酸、塩基から構成される。基本的に核酸塩基としてアデニン (A)、グアニン (G)、シトシン (C)、ウラシル (U) を有する。RNAポリメラーゼによりDNAを鋳型にして転写(合成)される。各塩基はDNAのそれと対応しているが、ウラシルはチミンに対応する。RNAは生体内でタンパク質合成を行う際に必要なリボソームの活性中心部位を構成している。

生体内での挙動や構造により、伝令RNA(メッセンジャーRNA、mRNA)、運搬RNA(トランスファーRNA、tRNA)、リボソームRNA (rRNA)、ノンコーディングRNA (ncRNA)、リボザイム、二重鎖RNA (dsRNA) などさまざまな分類がなされる。



目次 [非表示]
1 歴史
2 構造
3 DNAとの比較 3.1 化学構造の相違
3.2 物理化学的性質の相違

4 生合成
5 生化学的な活性 5.1 伝令RNA (mRNA)
5.2 運搬RNA (tRNA)
5.3 リボソームRNA (rRNA)
5.4 ノンコーディングRNA (ncRNA)
5.5 触媒作用を持つRNA
5.6 二重鎖RNA (dsRNA)

6 RNAワールド仮説
7 RNAの高次構造
8 経口摂取と産業利用 8.1 利用例

9 参考文献
10 関連項目


歴史[編集]

詳細は「遺伝子#歴史」を参照

核酸は 1868年(一説によると1869年)にフリードリッヒ・ミーシャーにより発見された。核内から発見されたため、核酸と命名された。その後核を持たない原核生物からも核酸が発見されたが、名称が変わることはなかった。1939年、Torbjörn Caspersson、Jean Brachet、Jack Schultz らによりRNAがタンパク質合成に関与しているという説が提唱された。その後 Hubert Chantrenne はRNAがリボソームに対してタンパク質情報を伝達するという役割があることを解明した。1964年には Robert W. Holley が酵母の tRNA の配列と構造を解明し、1968年にノーベル生理学賞を受賞した。1976年にはバクテリオファージMS2 のレプリカーゼ遺伝子のRNA配列が決定された[1]。

構造[編集]





核酸の構造と核酸塩基。左:RNA / 右:DNA
RNAの核酸塩基はアデニン (A)、グアニン (G)、シトシン (C)、ウラシル (U) の4種で構成されている。アデニン、グアニン、シトシンは DNA にも同じ構造が見られるが、RNAではチミン (T) がウラシルに置き換わっており、相補的な塩基はアデニンとなる。チミンとウラシルは共にピリミジン環を持つ非常に似た塩基である。

シトシンが化学分解されるとウラシルが生成してしまうため、DNAではウラシルの代わりにチミンが用いられるようになった。これによりシトシンの分解により誤って生成してしまったウラシルを検出し、修復することが可能になるなどの利点が生じた。

RNAには様々な修飾RNAが存在し、それぞれが異なる役割を持つ。シュードウリジン(プソイドウリジン, en:Pseudouridine, Ψ)や2'-O-メチル化修飾は比較的多く見られる修飾である。リボチミジン(T, rT)、シュードウリジン(Ψ)はtRNAのTΨCループによく見られる。アデノシンが脱アミノ化されたイノシン (I) は、RNAエディティングにより生ずるものとtRNAの部位特異的に生ずるものが知られ、グアノシンに似た性質を持つ。他にも約100種の修飾塩基が存在しているが、全容は解明されていない。

一本鎖RNAは自由度が高く高次構造を形成する。

RNAの構造的特徴として、DNAには存在しない 2'位のヒドロキシ基が存在するというものがある。

DNAとの比較[編集]

DNAとRNAはともにヌクレオチドの重合体である核酸であるが、両者の生体内の役割は明確に異なっている。DNAは主に核の中で情報の蓄積・保存、RNAはその情報の一時的な処理を担い、DNAと比べて、必要に応じて合成・分解される頻度は顕著である。DNAとRNAの化学構造の違いの意味することの第一は「RNAはDNAに比べて不安定である」。両者の安定の度合いの違いが、DNAは静的でRNAは動的な印象を与える。

化学構造の相違[編集]

DNAとRNAの化学構造の違いの第一は、ヌクレオチド中の糖は、RNAはリボースで、DNAは2'位の水酸基が水素で置換された2'-デオキシリボースである点にある。このため、DNAではリボースがC2'-エンド型構造を取るが、RNAでは2'位のヒドロキシ基の存在により立体障害が生じ、リボースがC3'-エンド型構造を取る。これに伴って、DNAはB型らせん構造を取りやすく、RNAはA型らせん構造を取りやすくなるという違いが生じる。この結果RNAのらせん構造はメジャーグルーブが深く狭くなり、マイナーグルーブが浅く広くなる。らせん構造についての詳細は、記事二重らせんに詳しい。

RNAは、DNAと比較すると一般に不安定である。RNAに存在する2'位水酸基の酸素には孤立電子対が2つあるため、例えば、塩基性条件下、隣接したリン酸は水酸基から求核攻撃を受け、ホスホジエステル結合が切れ、主鎖が開裂するなどDNAと比べて不安定である。この特性から、翻訳の役割を終えたmRNAを直ちに分解することが可能になる(バクテリアでは数分、動物細胞でも数時間後には分解される)。安定RNAでは1本鎖に水素結合を形成し、らせん構造となるなど、多様な二次構造、三次構造を取り、安定性を増している。

構成する塩基にも違いがあり、一般に、DNAはA、C、G、Tであるが、RNAではTの代わりにUである。ただし、DNA上にもUが稀に生じることがあり、また、塩基にTではなくUを用いるDNAを持つ生物も存在する(U-DNA参照)。圧倒的大多数の生物でDNAの構成塩基にUではなくTが用いられるのは、Cが自然に脱アミノ化することでUに置き換わることがあり、塩基配列を維持するために、損傷してUに変化したCと元来Uである残基を識別する必要があるからである。TはUの5位の水素がメチル基に置換された構造をしている。また、Cからは容易に生じることはなく、Cの損傷によって生じたUを容易に識別できる。以上より、DNAではUではなくTを用いる方が有利であったと考えられる。

物理化学的性質の相違[編集]

DNAとRNAの物理化学的性質について。DNAとRNAはともに紫外線である波長260nm付近に吸収極大を持ち、230nm付近に吸収極小を持つ。この吸光度はタンパク質の280nmよりもずっと大きいが、これはDNAとRNAがプリンまたはピリミジンを塩基として有するためである。ただし、二重らせんを形成しているDNAの場合、溶液を加熱するとその吸光度は増す(濃色効果)。これは、DNAは規則正しい2重らせん構造を有しているため、全体の吸光度が個々の塩基の吸光度の総和より小さい(淡色効果)が、加熱により2重らせん構造が解け(核酸の変性)、個々の塩基が自由になり、独自に光を吸収するためである。また、DNAとRNAはアルカリ溶液中で挙動が異なる。RNAは弱塩基でも容易に加水分解するが、DNAは安定して存在する。

生合成[編集]

詳細は「転写 (生物学)」を参照

RNA合成は専らDNAを鋳型とした酵素、RNAポリメラーゼによる転写によって行われる。DNAのプロモーター配列(通常遺伝子の上流に存在する)に酵素が結合することで転写が開始される。DNAの二重らせんは別の酵素、DNAヘリカーゼの働きにより1本鎖になる。その後RNAポリメラーゼが鋳型DNAの3'側 → 5'側へと移動すると同時に、鋳型DNAに相補的なRNA鎖が5'側 → 3'側へと伸長していく。またRNA合成がどの部位で止まるかも、DNA配列により決定されている。

RNAを鋳型とするRNAポリメラーゼも存在する。例えば、ある種のRNAウイルス(ポリオウイルスなど)はこのようなタイプのRNAポリメラーゼを用いて、自らの持つRNAを増幅させる。また多くの生命体では、この種のRNAポリメラーゼがRNA干渉に必要だということが知られている。

生化学的な活性[編集]

伝令RNA (mRNA)[編集]

詳細は「mRNA」を参照

伝令RNAは、メッセンジャーRNA、mRNAとも呼ばれ、細胞中でタンパク質合成部位であるリボソームにDNAの情報を伝える役割をするRNAである。遺伝情報をもとにタンパク質が合成される場合には、RNAポリメラーゼの働きにより、DNAに対して相補的な配列を持つmRNAが転写され、次にリボソームにより、mRNAの配列に基づいたタンパク質の合成が行われる(翻訳)。このように、DNAがいったんRNAへと転写され、RNAを鋳型としてタンパク質への翻訳が行われるという、一連の遺伝情報の流れをセントラルドグマと呼ぶ。セントラルドグマはタンパク質が遺伝子産物であることを前提としているため、ノンコーディングRNA遺伝子の場合には当てはまらないと解釈されている。一定の時間が経過すると、mRNAはRNA分解酵素の働きによりヌクレオチドへと分解される。多くの場合、mRNAは短命であるが(大腸菌では約5分ともいわれている)、哺乳類の精子中に見られるように、極端に安定なmRNAも知られている。

運搬RNA (tRNA)[編集]

詳細は「tRNA」を参照

運搬RNAは、トランスファーRNA、tRNAとも呼ばれ、タンパク質を合成する翻訳の際に、特定のアミノ酸をリボソーム内部へと導入するRNAである。74-93塩基からなる短いRNA鎖である。アミノ酸結合部位と、mRNAのコドンと水素結合を作るためのアンチコドン部位を持つ。非コードRNA(下記参照)の一種である。

リボソームRNA (rRNA)[編集]

詳細は「rRNA」を参照

リボソームRNA (rRNA) は、細胞内でタンパク質合成を行うリボソームを構成しているRNAである。真核生物のリボソームのrRNAは4本のRNA鎖 (18S, 5.8S, 28S, 5S) から構成されている。このうちの3つは核小体で合成され、残りの1つは他の部位で合成される。rRNAは非常に大量に存在する種のRNAであり、典型的な真核細胞に存在するRNAの少なくとも80%がrRNAとして存在している(tRNA: 10数%、mRNA: 数%)。

ノンコーディングRNA (ncRNA)[編集]

詳細は「ノンコーディングRNA」を参照

ノンコーディングRNA (ncRNA) は、タンパク質へ翻訳されないRNAの総称である。最も有名なものとして、前述の運搬RNAとリボソームRNAが挙げられる。この2つはどちらも翻訳に関連したものであるが、1990年代後半から新しいタイプのノンコーディングRNAの発見が相次ぎ、ノンコーディングRNAは以前考えられていたより重要な役割を果たしている可能性があると考えられるようになった。

1990年代後半から2000年代前半にかけて、人間をはじめとする高等生物の細胞では複雑な転写が行われているという証拠が得られてきた。これは生物学においてRNAがより広い領域で、特に遺伝子調節に用いられているという可能性を指摘するものであった。特にノンコーディングRNAの一種であるマイクロRNA (miRNA) は、線虫から人間に至るまでの多くの後生動物で見られ、他の遺伝子の制御といった重要な役割を果たしていることが明らかになった。

2004年にRassoulzadeganのグループは、RNAが生殖細胞系に何らかの影響を及ぼしているという説をNature誌に投稿した。これが実際に確認されれば、従来の遺伝学に大きな影響を与え、DNA-RNAの役割や相互作用に関する多くの謎が解明されると考えられている。

触媒作用を持つRNA[編集]

詳細は「リボザイム」を参照

タンパク質によく用いられる20種のアミノ酸と比較すると、RNAは4つの核酸塩基しか持たないにもかかわらず、ある種のRNAは酵素活性を持っており、それらはリボザイム (ribozyme = ribose + enzyme) と呼ばれている。RNA鎖の切断や結合を行うRNA触媒も存在しており、ペプチド鎖の合成を行うリボソーム中でもRNAが触媒活性中心となっている。

二重鎖RNA (dsRNA)[編集]

二重鎖RNA (dsRNA) は、2本の相補的な配列を持つRNA鎖がDNAに見られるような二重鎖を組んだものである。dsRNAはある種のRNAウイルスの持つ遺伝情報部位やミトコンドリアDNA内のrRNA、tRNAなどに見られる。真核生物ではRNA干渉の引き金となったり、siRNA生成の中間体となっている(siRNAはmiRNAとしばしば混同される。siRNAは二重鎖であるが、miRNAは1本鎖である)。未成熟miRNAなどでは、1本鎖であっても分子内でヘアピン構造を取る部分が存在している。

RNAワールド仮説[編集]

詳細は「RNAワールド」を参照

RNAワールド仮説は、生命が発生した頃にはRNAが遺伝情報の維持(現在のDNAの役割)と、酵素のような生化学的触媒の両方の役割を担っていたとする仮説である。これはRNAがDNAと比較して無生物的に合成されやすいことなどが根拠となっている。

この仮説では生物は遺伝情報の貯蔵媒体としてRNAを使用し、その後の変異と進化によりDNAとタンパク質が徐々に台頭してきたと考えられている。ただし2006年現在、ゲノムとしてRNAを保持しているのはRNAウイルスのみであると考えられている。

RNAの高次構造[編集]

機能性の1本鎖RNAは、タンパク質と同じように特別な三次構造を取ることが要求される。三次構造の形成では、水素結合が駆動力となっている。二次構造で表現可能な「部位」として、ヘアピンループやバルジ、インターナルループなどが存在する。RNAの二次構造は水素結合部位やドメインなどの組み合わせを自由エネルギーについて計算し、コンピューターである程度予測することができる。

経口摂取と産業利用[編集]

ヌクレオチドおよびその結合体であるポリヌクレオチド、DNA・RNAは生物を原料とするほとんどの食品に微量含まれている。これを摂取すると、体内でいったんヌクレオチドに分解されて、DNA・RNAを合成する材料となる。核酸摂取と核酸合成との関係は未解明な点が多く今後の研究が待たれる。

RNAを多量に含む食品が商業的に生産されている。RNAを効率的に分離するためのRNA源としてビール酵母などの酵母が利用されている。

利用例[編集]
健康食品健康食品として錠剤や粉末のものが市販されているが、効果のほどは不明である。食品添加物母乳にはウリジル酸などの各種ヌクレオチドとDNA・RNAが含まれ、乳児の免疫調節や記憶力の向上に役立っていると考えられており、市販の乳児用粉ミルクの多くにヌクレオチドの形で添加されているが、こちらも効果のほどは不明である。最近ではRNAの形で添加する例もあり、総称して核酸関連物質と表示されている場合がある。
参考文献[編集]

[ヘルプ]
1.^ Fiers W et al., Complete nucleotide-sequence of bacteriophage MS2-RNA - primary and secondary structure of replicase gene, Nature, 1976, 260, 500-507.

関連項目[編集]
デオキシリボ核酸 (DNA)
RNA干渉 (RNAi)
生命の起源
スプライシング
RT-PCR
相補的DNA (cDNA)
核内低分子RNA (snRNA)
核小体低分子RNA (snoDNA)
ガイドRNA (gRNA)
中村義一 (分子生物学者)

デオキシリボ核酸

デオキシリボ核酸(デオキシリボかくさん、英: deoxyribonucleic acid、DNA)は、核酸の一種。地球上の多くの生物において遺伝情報の継承と発現を担う高分子生体物質である。



目次 [非表示]
1 構造 1.1 構成物質と二重らせん構造
1.2 立体構造

2 DNAの化学的性質
3 細胞内でのDNAの存在形態
4 DNAの働き 4.1 塩基配列
4.2 遺伝子発現

5 DNAとRNA 5.1 化学構造の相違
5.2 物理化学的性質の相違

6 DNAの含有量
7 DNAの合成 7.1 DNAの材料

8 遺伝情報の担い手としてのDNA
9 3本鎖DNAの存在について
10 DNAの利用
11 DNA 小史
12 脚注
13 参考文献
14 関連項目
15 外部リンク


構造[編集]

構成物質と二重らせん構造[編集]





相補的塩基対:AとT、GとCが水素結合でつながる。
DNA はデオキシリボース(五炭糖)とリン酸、塩基 から構成される核酸である。塩基はプリン塩基であるアデニンとグアニン、ピリミジン塩基であるシトシンとチミンの四種類あり、それぞれ A, G, C, Tと略す[1]。2-デオキシリボースの1'位に塩基が結合したものをデオキシヌクレオシド、このヌクレオシドのデオキシリボースの5'位にリン酸が結合したものをデオキシヌクレオチドと呼ぶ[1]。

ヌクレオチドは核酸の最小単位であるが、DNAはデオキシヌクレオチドのポリマーである。核酸が構成物質として用いる糖を構成糖と呼ぶが、構成糖にリボースを用いる核酸はリボ核酸 (RNA) という[1]。ヌクレオチド分子は、糖の3’位OH基とリン酸のOH基から水が取れる形でフォスフォジエステル結合を形成して結合し、これが連続的に鎖状の分子構造をとる[2]。ヌクレオチドが100個以上連結したものをポリヌクレオチドと言うが、これがDNAの1本鎖の構造である[2]。DNAには方向性があるという。複製の際、DNAポリメラーゼは5'→3'末端の向きでDNAを合成する。RNAの転写もこの方向性に従う[2]。

2重鎖DNAでは、2本のポリヌクレオチド鎖が反平行に配向し、右巻きのらせん形態をとる(二重らせん構造)。2本のポリヌクレオチド鎖は、相補的な塩基 (A/T, G/C)対の水素結合を介して結合している。塩基の相補性とは、A、T、G、Cの4種の塩基うち、1種を決めればそれと水素結合で結ばれるもう1種も決まる性質である。A/T間の水素結合は2個、C/G間は3個であり、安定性が異なる。例外的に、特殊な配列が左巻きらせん構造をとる場合があり、これはZ型DNAと呼ばれる。

この相補的二本鎖構造の意義は、片方を保存用(センス鎖)に残し、もう片方は、遺伝情報を必要な分だけmRNAに伝達する転写用(アンチセンス鎖)とに分けることである。また、二本鎖の片方をそのまま受け継がせるため、正確なDNAの複製を容易に行うことができるため、遺伝情報を伝えていく上で決定的に重要である。DNA損傷の修復にも役立つ(詳しくは二重らせん)。

DNAの長さは様々である。長さの単位は、二本鎖の場合 bp(base pair: 塩基対)、一本鎖の場合 nt(nucleotide: 塩基、ヌクレオチド)である。

立体構造[編集]

細胞内のDNAには、原核生物やミトコンドリアDNAのような環状と、真核生物一般に見られる線状がある[3]。自然界のDNAは螺旋巻き数が理論値(1回転あたり10.4塩基)よりもほんの少し小さい。線状DNAには問題は無いが、環状DNAではこの差による不安定を解消するために環にねじれが生じ、これをDNAの超らせん(または負の超らせん)という[3]。

DNAの化学的性質[編集]
2本のポリヌクレオチドを結びつける水素結合は不安定なため、沸騰水の中では離れて1本鎖になる。しかしゆっくり冷ますとポリヌクレオチドは相補性から再び結合して元に戻る。このようにDNAが1本鎖になる事を「DNAの変性」、元に復元する事をアニールという。変性が50%起こる温度はTmと記され、A/T対が多いほど低い[3]。Tmは一価の陽イオン濃度が低い場合や、水素結合を遊離させやすい尿素やホルムアミドなどが存在すると下がる[3]。
穏やかな方法で単離されたDNAは白色のフェルト状繊維で、そのナトリウム塩の水溶液は粘性が高く、流動複屈折を示す。これは熱、酸、アルカリに容易に変性し、粘度は低下し、乾燥すると粉末となり、もはや繊維状になり得ない。この変化から分子量は数百万から2万〜3万程度に下がってしまう。この化学組成はアルカリに対しては安定性が高いが、酸には弱く、容易にプリンを遊離する。この変化に伴い、デソキシペントースのアルデヒド基が遊離し、シッフ試薬を赤紫に変色させる。この呈色反応をフォイルゲン反応と呼び、これを利用して、DNAを含む核や分裂中の染色体を赤紫に着色して観察できる。
DNAの吸光度は塩基によって紫外線260nmを吸収極大としている[3]。この値は、塩基が接近しているほど小さい。塩基が極めて整然と、かつ接近している二本鎖DNAよりも、不規則に配列しているときの一本鎖DNAのほうが光を吸収する力は強い。例えば、A260=1,00である二本鎖DNAと同濃度の一本鎖DNAについて、A260=1、37である(詳しくはDNAの巻き戻し参照)。
変性したDNA溶液から、未変性状態のDNA状態と同じDNAを作ることができる。
異なる分子種から得た一本鎖の試料を混ぜて再結合DNAを形成させる手法をハイブリッド形成という。

細胞内でのDNAの存在形態[編集]

真正細菌のゲノムは通常環状DNAであり、細胞内で核様体と呼ばれる構造体を形成する。核様体は真核細胞の核膜に対応する膜構造はもたない。

真核細胞のゲノムDNAは、ヒストンというタンパク質群と結合して、ヌクレオソームと呼ばれる構造をつくる。ヌクレオソームはクロマチンの基本単位であり、分裂期にはさらに折り畳まれて染色体を構築する。

古細菌のゲノムも真正細菌と同様に核様体をつくるが、真核細胞のヒストンに似たタンパク質ももっている。

またオルガネラでもミトコンドリアや葉緑体は独自のDNAを持つ。このことがオルガネラの由来に関する膜進化説に対する細胞内共生説の証拠であるとされている。形状は環状のものもあれば、そうでないものもある。

DNAの働き[編集]

塩基配列[編集]

DNAのヌクレオチドの並び方を塩基配列と言う。本来は「ヌクレオチド配列」と言うべきだが、実際の差異はそれぞれの塩基部分のみであるためこのように呼ばれる。別な呼び方では「遺伝暗号」 (genetic code) という専門的な呼称もある[4]。塩基配列はタンパク質のアミノ酸配列に対応しており、3つの塩基の組み合わせが20種類のアミノ酸1つずつに対応しており、mRNAに配列の情報を転写し、細胞内のリボソームでmRNAの3つの塩基が並ぶ情報(コドン)が翻訳されてアミノ酸が鎖状に繋がってタンパク質が合成される。この連鎖は全生物に共通の原理であるためセントラルドグマと呼ばれる[4]。

ただし、一般的に広まっている「DNAは生命の設計図」という表現は、専門家からの批判が多い。イギリスの生物学者ブライアン・グッドウィンは「生物を遺伝子の性質に還元することはできない。生物は、それが生きている状態を特徴づけるようなダイナミックな系として理解されなければならない」[5]、医学博士の荻原清文は「遺伝子はあくまでもタンパク質の設計図にすぎません。すなわち、遺伝子から読み取られるタンパク質が脳細胞の形や配置のしかたを決めることはあっても、脳ができるときに1つ1つの脳細胞がお互いにどのように結合するかということまでは遺伝子は決められないのです」[6]、などと述べている。実際、ヒトの場合DNA中でタンパク質合成の設計にあずかる部分は全体の1.5%に過ぎない[4]。

遺伝子発現[編集]

DNAの塩基配列をmRNAに転写させる遺伝子発現は、ヒストンに巻きつき折りたたまれた状態のままでは不可能である。転写の前段階に、特定の化学物質がヒストンのリジン残基と結びついてアセチル化を起こし、元々帯びていたプラスの電荷を弱める。するとマイナスの電荷を持つDNAとの結びつきが弱まり[7]、特定のDNA部分がむき出しになる[8]。

解かれたDNAの遺伝子発現をしようとすると、まずその部分の脇にある「プロモーター」という塩基配列の転写調節領域に、複数の「基本転写因子」というタンパク質が集まって来る。この中にある活性酵素のヘリカーゼが作用し、DNAの二重らせんが離れて1本ずつになる。この部分にRNAポリメラーゼUという酵素がとりつき、mRNAの合成を行う[9]。

上のようなプローター部分に基本転写因子が集まるシステムは、DNAの全く別のところにある塩基配列部分の促進によって調整される。この部分は「エンハンサー」と呼ばれ、やはりここに「アクチベーター」と言うタンパク質が結合する事で基本転写因子の活性に繋がるシグナルを発する[9]。このようにDNAのある箇所が遺伝子発現を起こすためには、タンパク質合成に与らない塩基配列部分を介した複雑なメカニズムに左右される。また、クロマチンが解けなければ基本転写因子の接近も難しく、束の部分によっては非常に固く縮こまった部分(ヘテロクロマチン)などではほとんど遺伝子発現が起こらない。この一例がX染色体の不活性化である[9]。

DNAとRNA[編集]

DNAとRNAはともにヌクレオチドの重合体である核酸であるが、両者の生体内の役割は明確に異なっている。DNAは主に核の中で情報の蓄積・保存、RNAはその情報の一時的な処理を担い、DNAと比べて、必要に応じて合成・分解される頻度は顕著である。DNAとRNAの化学構造の違いの意味することの第一は「RNAはDNAに比べて不安定」である。両者の安定の度合いの違いが、DNAは静的でRNAは動的な印象を与える。

化学構造の相違[編集]

DNAとRNAの化学構造の違いの第一は、構成糖が、RNAはリボースで、リボースから2'位の水酸基で酸素が一つ少ない2'-デオキシリボースであることだ。これにより、構成糖の立体配座が異なる。DNAではリボースがC2'-エンド形構造を取ることが多いが、RNAでは2'位のヒドロキシ基の存在により立体障害が生じ、リボースがC3'-エンド型構造を取る。このためDNAはB型らせん構造を取りやすく、RNAはA型らせん構造を取りやすくなるという違いが生じる。この結果RNAのらせん構造は主溝が深く狭くなり、副溝が浅く広くなる。らせん構造についての詳細は、記事二重らせんに詳しい。

1本鎖RNAでは2'位のヒドロキシ基が比較的柔軟な構造を取り反応性もあるため、DNAと比較すると不安定である。水酸基の酸素には孤立電子対が2つあるため負の電荷を帯びており、例えば、近接したリン酸のリンは周囲を電気陰性度の高い酸素原子に囲まれて水酸基の酸素原子から求核攻撃を受けやすく、攻撃によりホスホジエステル結合が切れ、リン酸とリボースの骨格が開裂する可能性があるなどDNAと比べて不安定である。この特性から、翻訳の役割を終えたmRNAを直ちに分解することが可能になる(バクテリアでは数分、動物細胞でも数時間後には分解される)。安定RNAでは1本鎖に水素結合を形成し、らせん構造となるなど、多様な二次構造、三次構造を取り、安定性を増している。

糖に結合している塩基にも違いがあり、DNAはA、C、G、Tであるが、RNAはTがUに替わっている。ただし、DNA上にもUが稀に生じることがあり、また、塩基にTではなくUを用いるDNA(U-DNA)を持つ生物も存在する。圧倒的大多数の生物でDNAの構成塩基にUではなくTが用いられるのは、同じピリミジン塩基であるCは自然の状態でも脱アミノ化することでUに置き換わることがあるからだ[10]。そのため、U-DNAは頻繁に塩基配列が変化し、またそれを防ぐためには、損傷してUに変化したCと元々がUであるのと識別する必要があるという問題がある。TはUの2'にメチル基がついている構造をしている。メチル基は水素結合に係わるものの他の原子には殆ど反応しない。また、Uに比較してCからは容易に生じず、Cの損傷によって生じたUを容易に検出できる。 以上より、DNAではUではなくTが用いられているが、ウラシルはチミンよりエネルギー的に有利であるため、RNAではウラシルが用いられている。

物理化学的性質の相違[編集]

DNAとRNAの物理化学的性質について。DNAとRNAはともに紫外線である波長260nm付近に吸収極大を持ち、230nm付近に吸収極小を持つ。この吸光度はタンパク質の280nmよりもずっと大きいが、これはDNAとRNAの塩基はプリンまたはピリミジンに由来するためである。ただし、二重らせん構造のDNAの場合、溶液を加熱するとその吸光度は増す(濃色効果)。これは、DNAは規則正しい2重らせん構造ゆえ、全体の吸光度は個々の塩基の吸光度の総和より小さい(淡色効果)が、熱によって水素結合が切れ、2重らせん構造が解け(核酸の変性)、個々の塩基が自由になり、独自に光を吸収するためである。また、DNAとRNAはアルカリ溶液中で挙動が異なる。RNAは弱塩基でも容易に加水分解するが、DNAは安定して存在する。

DNAの含有量[編集]

細胞の分化に伴いDNAの一部が欠落する場合を除き、核内のDNA含有量は生理的条件に左右されない。すなわち一般的な体細胞[11]は二倍体で、卵・精子等は半数体(一倍体[12])である。つまり卵・精子の核のDNA含有量は、その生物の体細胞のほぼ半分(厳密には、y染色体がx染色体より小さい場合、精子のDNA量はx染色体を持つ場合半分より多く、y染色体を持つ場合半分より少ない)である。DNA含有量は個々の生物で特有であり、一つの種類で、二倍体ならばどの種類の細胞であろうと値は一定である。脊椎動物では両生類では特に高い。哺乳類では種類ごとの含有量の差が小さく、6〜7×10^−12gぐらいであり、鳥類はその半分ぐらいである。 この現象は、複製のためにあり、体細胞分裂ごとにDNAは2倍に増加して、2個の娘細胞に等分される。

DNAの合成は染色体が出現する分裂期ではなく、静止核の時期である間期のS期に行われ、分裂期は合成されたDNAを娘細胞に等分する時期に当たる。詳細は細胞周期参照。またDNAは分裂間期から分裂期までの間、転写をせず、安定な状態で、娘細胞の中に入れられる。

DNAの合成[編集]
デノボ合成食物から摂った糖やアミノ酸などを元に肝臓で合成する。デノボ合成を参照。サルベージ合成食品から摂取されて分解経路に入ったヌクレオチドを再利用する。サルベージ経路を参照。
DNAの材料[編集]

ヌクレオチド及びその結合体であるポリヌクレオチド、DNA、RNAは生物を原料とするほとんどの食品に微量含まれており、魚の白子や動物の睾丸などでは含有率が高い。DNAを摂取すると、体内でいったんヌクレオチドに分解された後、ヌクレオシド3リン酸となり、RNA、DNAを効率的に合成する材料となる。

工業的に効率的に分離するための原料としてサケの白子やホタテガイの生殖巣などが利用されている。

遺伝情報の担い手としてのDNA[編集]





DNAの複製
全ての生物で、細胞分裂の際の母細胞から娘細胞への遺伝情報の受け渡しは、DNAの複製によって行われる。DNA の複製はDNAポリメラーゼによって行われる(詳しくはDNA複製を参照のこと)。

DNAが親から子へ伝わるときにDNAに変異が起こり、新しい形質が付加されることがあり、これが種の保存にとって重要になることがある。

細菌など分裂によって増殖する生物は、条件が良ければ対数的に増殖する。その際、複製のミスによって薬剤耐性のような新たな形質を獲得し、それまで生息できなかった条件で生き残ることができるようになる。

有性生殖をする生物において、DNAは減数分裂時の染色体の組み換えや、配偶子の染色体の組み合わせにより、次世代の形質に多様性が生まれる。

3本鎖DNAの存在について[編集]

これまで2本鎖、もしくは1本鎖のみと考えられていたDNAであるが、近年3本鎖DNAの存在が示唆されてきている[13][14]。

通常、DNAは真核生物の細胞内では2本鎖の状態で存在している。そのDNAのGC含量にもよるが、DNAは60℃前後で水素結合が壊れて1本鎖となる(Tm値)。逆に温度が下がり、0℃を下回るあたり(Bm値。若干の幅がある)で細胞質内のリン酸基を中心に3つの塩基が同じ高さに来ることがある。

この場合、事実上3本のDNA鎖が並列に存在することとなり、DNAは3本鎖となる。リン酸を必要とするため、単純なDNA溶液のみでの実験を行っても、in vitro(試験管内などの人工的に構成された条件下)での証明が難しい。今後はより再現性を高めた研究が進むものと期待されている。

3本鎖となったDNAにおいても、そのねじれは2本鎖の場合と変わらず、約10.5塩基ごとに1周である。3本鎖になることにより、2本鎖の場合のDNAの一次構造の保持への負担はより軽くなると思われがちである。しかし、実際に保持エネルギーを計測すると3本鎖DNAの方がエネルギーが大きく、遥かに不安定であることが実験的に証明されている[15]。

なお、一部の担子菌類では、自然界で正常に存在している状態で3本鎖のDNAを有するものが見つかっている。これらのDNAが転写・複製される場合、3本が同時にほどけるのではなく、1本ずつ順番にほどけて複製される。そのため、これらの生物がDNA複製を行う際生体内のDNA量を計測すると、ある1点で急激に増加するのではなく段階的に増加していることがわかる。

DNAの利用[編集]
DNA鑑定DNAの反復領域の違いをもとに、血液その他から人物の特定などを行う。犯罪捜査や親子鑑定に利用される。医療遺伝子治療やオーダメイド医療という、一人ひとりの個性に合った治療が可能になる。工業DNAの二重らせん構造を使って、微細な有機分子を捉えるフィルターが開発されている。
DNA 小史[編集]
1869年: フリードリッヒ・ミーシャー(スイス)がDNAを発見、1871年にヌクレインという名で発表したが、彼はその役割を細胞内におけるリンの貯蔵と考えていた。(後にリヒャルト・アルトマン(ドイツ)によってヌクレインは核酸と改称される)
1885年: A.コッセルがアデニンを発見。86年にグアニン、93年にチミン、94年にシトシンも発見。
1909年: フィーバス・レヴィーンがリボースを構成糖とする核酸・RNAを発見。
1929年: 上述のフィーバス・レヴィーンがDNAの構成糖はデオシキリボースで、核酸にはDNAとRNAの2種類あることを発見。
1944年: オズワルド・アベリーらによって肺炎双球菌を用いて DNA が形質転換の原因物質であることが証明される。これはDNAが遺伝子本体であることを強く示唆したものであると理解された(当時、遺伝子の正体がDNAかタンパク質か論争が起こっていた)。
1952年: A.D.ハーシーとM.チェイスは、バクテリオファージを用いて、DNAが遺伝物質であることを直接に確認(ハーシーとチェイスの実験)。DNA が遺伝物質であることが決定的になる。
1953年: J.ワトソン、F.クリックがロザリンド・フランクリンやモーリス・ウィルキンスの研究データの提供によって DNA の二重らせん構造を明らかにした。
1956年: A.コーンバーグによってDNAポリメラーゼが発見される。コーンバーグはDNAポリメラーゼの精製にも成功している。
1957年: M.メセルソンとF.W.スタールによって DNA の半保存的複製が明らかにされる。
1967年: 岡崎令治らによって岡崎フラグメントが発見される。
1970年: H.スミスによって制限酵素 HindIIIが分離される。
1971年: ポール・バーグによって史上初の組み替えDNA実験を行った。発ガンウイルスの1種SV40のDNAを、ある種のバクテリアファージに組み替えることに成功。その後、実験室から漏れ出した大腸菌の危険性を指摘され、4年後アシロマ会議を主催する。
1975年: 上述のバーグの呼びかけでアシロマ会議開催。

詳しくは遺伝子を参照のこと

脚注[編集]

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1.^ a b c 田村(2010)、p.38-40、T細胞生物学の基礎、5.情報高分子(2):ヌクレオチドと核酸、5-1 核酸を構成するヌクレオチド
2.^ a b c 田村(2010)、p.41、T細胞生物学の基礎、5.情報高分子(2):ヌクレオチドと核酸、5-2 核酸の鎖状分子形成
3.^ a b c d e 田村(2010)、p.42-45、T細胞生物学の基礎、5.情報高分子(2):ヌクレオチドと核酸、5-4 核酸の性質
4.^ a b c 武村(2012)、p.14-24、第1章 エピジェネティクスを理解するための基礎知識、1-1 DNAとセントラルドグマ
5.^ 矢沢サイエンスオフィス 『大科学論争』 学習研究社〈最新科学論シリーズ〉、1998年、50頁。ISBN 4-05-601993-2。
6.^ 荻原清文 『好きになる免疫学』 講談社、2004年、152頁。ISBN 4-06-153435-1。
7.^ 武村(2012)、p.54-66、第2章 エピジェネティクスを理解するための基礎知識、1-3 DNAは衣服をまとい装飾品で飾りたてる
8.^ 引用エラー: 無効な タグです。 「Take34」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
9.^ a b c 武村(2012)、p.45-52、第1章 エピジェネティクスを理解するための基礎知識、1-4 遺伝子の転写と高次クロマチン構造
10.^ 武村(2012)、p.90-94、第3章 DNAに生じる塩基配列以外の変化、3-1 塩基の成り立ちとメチル化
11.^ 通常のコケは配偶体で半数体である。
12.^ 田村(2010)、p.173、W細胞の増殖、20.減数分裂、20-1 減数分裂の概要
13.^ 引用エラー: 無効な タグです。 「Tamra41-2」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
14.^ reviewed in Right 2004; myong et al., 2006
15.^ reviewed in Documentation 2006; leime et al., 2007

参考文献[編集]
田村隆明 『基礎細胞生物学』 東京化学同人、2010年、第1版第1刷。ISBN 978-4-8079-0724-3。
武村政春 『DNAを操る分子たち』 技術評論社、2012年、初版第1刷。ISBN 978-4-7741-4998-1。

関連項目[編集]
DNA複製
遺伝子
遺伝子工学
プラスミド
PNA
ゲノム
アガロースゲル電気泳動
PCR
相補的塩基対
DNA鑑定
DNAマイクロアレイ
DNAシーケンサー
DNAコンピュータ
DNA - DNA分子交雑法
DNAバーコーディング
DNA (小惑星) - デオキシリボ核酸に因む小惑星。
ミーム:文化における伝統を遺伝子に喩える通俗的な言い方として「何々のDNA」と用いられることがあるが、これに近い概念としてミームがある。学術的な場面以外で「何々のDNA」という言いまわしが用いられた場合、実質的には「何々のミーム」という意味で用いられていることが多い。

外部リンク[編集]

ウイロイド

ウイロイド (Viroid) は塩基数が200〜400程度と短い環状の一本鎖RNAのみで構成され、維管束植物に対して感染性を持つもの。分子内で塩基対を形成し、多くは生体内で棒状の構造をとると考えられる。

ウイルスは蛋白質でできた殻で覆われているがウイロイドにはそれがなく、またプラスミドのようにそのゲノム上にタンパク質をコードすることもない。複製はローリングサークルと呼ばれる様式で行われ、核内あるいは葉緑体内で複製される。この過程では、それぞれの単位がタンデムに連なった状態に複製されるが、これを切断する過程がリボザイムによって触媒されるウイロイドも知られる。

このようなことから、ウイロイドをRNA生物の生きた化石と見なし、ウイロイド様のものから生物が進化したとする説がある (reviewed in Symons 1997; Pelchat et al. 2003)。あるいはまた、RNAの切れ端が自己複製機能を有するようになったものがウイロイドであるとする説もある。

世界で最初に発見されたウイロイドは、セオドール・ディーナーによって1971年に記述されたジャガイモやせいもウイロイド (Potato spindle tuber viroid) である。



目次 [非表示]
1 ウイロイドの一覧 1.1 分類済み
1.2 未分類

2 症状
3 脚注 3.1 注釈
3.2 出典

4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク


ウイロイドの一覧[編集]

ウイロイドは2013年12月時点で2科8属35種が分類済みの状態で記載されており、また未分類の物やウイロイド状のRNAが10種記載されている[1][注釈 1]。

分類済み[編集]
アブサンウイロイド科 (Avsunviroidae) アブサンウイロイド属 (Avsunviroid) アボカドサンブロッチウイロイド (Avocado sunblotch viroid)

エラウイロイド属 (Elaviroid) ナス潜在ウイロイド (Eggplant latent viroid)

ペラモウイロイド属 (Pelamoviroid) キク退緑斑紋ウイロイド (Chrysanthemum chlorotic mottle viroid)
モモ潜在モザイクウイロイド (Peach latent mosaic viroid)


ポスピウイロイド科 (Pospiviroidae) アプスカウイロイド属 (Apscaviroid) リンゴくぼみ果ウイロイド (Apple dimple fruit viroid)
リンゴさび果ウイロイド (Apple scar skin viroid)
ブドウオーストラリアウイロイド (Australian grapevine viroid)
カンキツベントリーフウイロイド (Citrus bent leaf viroid)
カンキツ矮化ウイロイド (Citrus dwarfing viroid)
カンキツウイロイドV (Citrus viroid V)
カンキツウイロイドVI (Citrus viroid VI)
ブドウ黄色斑点ウイロイド (Grapevine yellow speckle viroid)
ブドウ黄色斑点ウイロイド1 (Grapevine yellow speckle viroid 1)
ブドウ黄色斑点ウイロイド2 (Grapevine yellow speckle viroid 2)
ナシブリスタキャンカーウイロイド (Pear blister canker viroid)
カキウイロイド2 (Persimmon viroid 2)

コカドウイロイド属 (Cocadviroid) カンキツバーククラッキングウイロイド (Citrus bark cracking viroid)
ココナッツカダンカダンウイロイド (Coconut cadang-cadang viroid)
ココナッツチナンガヤウイロイド (Coconut tinangaja viroid)
ホップ潜在ウイロイド (Hop latent viroid)

コレウイロイド属 (Coleviroid) コリウスウイロイド (Coleus blumei viroid)
コリウスウイロイド1 (Coleus blumei viroid 1)
コリウスウイロイド2 (Coleus blumei viroid 2)
コリウスウイロイド3 (Coleus blumei viroid 3)

ホスタウイロイド属 (Hostuviroid) ホップ矮化ウイロイド (Hop stunt viroid)

ポスピウイロイド属 (Pospiviroid) キク矮化ウイロイド (Chrysanthemum stunt viroid)
カンキツエクソコーティスウイロイド (Citrus exocortis viroid)
コルムネア潜在ウイロイド (Columnea latent viroid)
イレシネウイロイド1 (Iresine viroid 1)
メキシコパピタウイロイド (Mexican papita viroid)
ペッパーチャットフルーツウイロイド (Pepper chat fruit viroid)
ジャガイモやせいもウイロイド (Potato spindle tuber viroid)
トマトアピカルスタントウイロイド (Tomato apical stunt viroid)
トマト退緑萎縮ウイロイド (Tomato chlorotic dwarf viroid)
トマトプランタマッチョウイロイド (Tomato planta macho viroid)



未分類[編集]
ポスピウイロイド科 コレウイロイド属 コリウスウイロイド5 (Coleus blumei viroid 5)
コリウスウイロイド6 (Coleus blumei viroid 6)

(属未分類) ダリア潜在ウイロイド (Dahlia latent viroid)


(科未分類) リンゴしわ果ウイロイド (Apple fruit crinkle viroid)
Cherry leaf scorch small circular viroid-like RNA 1
Cherry small circular viroid-like RNA Cherry small circular viroid-like RNA 1
Cherry small circular viroid-like RNA 2

Mulberry small circular viroid-like RNA 1
カキウイロイド (Persimmon viroid)
Rubber viroid India/2009


症状[編集]

病原性ウイロイドに感染した植物は矮化など様々な病害を引き起こされる。

ウイルス

ウイルス(ラテン語: virus [ˈwiːrus] ウィールス、英語: virus /vairəs/ ヴァイラス)は、他の生物の細胞を利用して、自己を複製させることのできる微小な構造体で、タンパク質の殻とその内部に入っている核酸からなる。生命の最小単位である細胞をもたないので、非生物とされることもある。





ヒト免疫不全ウイルスの模式図


目次 [非表示]
1 名称 1.1 日本

2 特徴
3 歴史
4 一般的な生物との違い
5 構造 5.1 ウイルス核酸
5.2 カプシド
5.3 ヌクレオカプシド
5.4 エンベロープ

6 増殖 6.1 細胞表面への吸着
6.2 細胞内への侵入
6.3 脱殻
6.4 部品の合成
6.5 部品の集合とウイルス粒子の放出

7 宿主に与える影響 7.1 細胞レベルでの影響
7.2 個体レベルでの影響

8 公衆衛生
9 関連項目
10 参考文献
11 外部リンク
12 脚注


名称[編集]

「ウイルス」は、「毒液」または「粘液」を意味するラテン語 virus に由来して命名された。古代ギリシアのヒポクラテスは病気を引き起こす毒という意味でこの言葉を用いている[要出典]。

日本[編集]

日本では当初、日本細菌学会によって「病毒」と訳され、現在でも中国語では、「病毒」と呼ばれているが、1953年に日本ウイルス学会が設立され、本来のラテン語発音に近い「ウイルス」という表記が採用された。その後、日本医学会がドイツ語発音に由来する「ビールス」を用いたため混乱があったものの、現在は一般的に「ウイルス」と表記される。また、園芸分野では植物寄生性のウイルスを英語発音に由来する「バイラス」の表記を用いることが今でも多い[要出典]。

特徴[編集]

ウイルスは細胞を構成単位としないが、遺伝子を有し、他の生物の細胞を利用して増殖できるという、生物の特徴を持っている。現在でも自然科学は生物・生命の定義を行うことができておらず、便宜的に、細胞を構成単位とし、代謝、増殖できるものを生物と呼んでおり、細胞をもたないウイルスは、非細胞性生物として位置づけられる。あるいは、生物というよりむしろ"生物学的存在"といわれる[1]。しかし、遺伝物質を持ち、生物の代謝系を利用して増殖するウイルスは生物と関連があることは明らかである。感染することで宿主の恒常性に影響を及ぼし、病原体としてふるまうことがある。ウイルスを対象として研究する分野はウイルス学と呼ばれる。ウイルスの起源にはいくつかの説があるが、トランスポゾンのような動く遺伝子をその起源とする説が有力である。

遺伝物質の違いから、大きくDNAウイルスとRNAウイルスに分けられる。詳細はウイルスの分類を参照。真核生物、真正細菌、古細菌、いずれのドメインにもそれぞれウイルスが発見されており、ウイルスの起源は古いことが示唆されている。細菌に感染するウイルスはバクテリオファージと呼ばれ、分子生物学の初期に遺伝子発現研究のモデル系として多く用いられた。しかし、今日の分子生物学・医学の分野では「ウイルス」という表現は動植物に感染するものを指して用いることが多く、細菌に感染するバクテリオファージとは区別して用いることが多い。

歴史[編集]

微生物学の歴史は、1674年にオランダのレーウェンフックが顕微鏡観察によって細菌を見出したことに始まり、その後1860年にフランスのルイ・パスツールが生物学や醸造学における意義を、1876年にドイツのロベルト・コッホが医学における意義を明らかにしたことで大きく展開した。特にコッホが発見し提唱した「感染症が病原性細菌によって起きる」という考えが医学に与えた影響は大きく、それ以降、感染症の原因は寄生虫を除いて全て細菌によるものだと考えられていた。

1892年、タバコモザイク病の病原が細菌濾過器を通過しても感染性を失わないことをロシアのディミトリー・イワノフスキーが発見し、それが細菌よりも微小な顕微鏡では観察できない存在であることを報告した。またこの研究とは別に、1898年にドイツのフリードリッヒ・レフラーとポール・フロッシュが口蹄疫の病原体の分離を試み、これが同様の存在であることをつきとめ、「filterable virus(濾過性病原体)」とも呼ばれた。同じ年にオランダのマルティヌス・ベイエリンクはイワノフスキーと同様な研究を行って、同じように見出された未知の性質を持つ病原体を「Contagium vivum fluidum(生命を持った感染性の液体)」と呼んだ。

レフラーは濾過性病原体を小さな細菌と考えていたが、ベイエリンクは分子であると考え、この分子が細胞に感染して増殖すると主張した。ベイエリンクの主張はすぐには受け入れられなかったが、同様の性質をもった病原体やファージが発見されていくことで、一般にもウイルスの存在が信じられるようになった。その後、物理化学的な性質が徐々に解明され、ウイルスはタンパク質からできていると考えられていた。1935年にアメリカのウェンデル・スタンレーがタバコモザイクウイルスの結晶化に成功し、この結晶は感染能を持っていることを示した。化学物質のように結晶化できる生物の存在は科学者に衝撃を与えた。スタンレーはこの業績により1946年にノーベル化学賞を受賞した。スタンレーはウイルスが自己触媒能をもつ巨大なタンパク質であるとしたが、翌年に少量のRNAが含まれることも示された。当時は遺伝子の正体はまだ不明であり、遺伝子タンパク質説が有力とされていた。当時は、病原体は能動的に病気を引き起こすと考えられていたので、分子ロボット(今で言うナノマシン)の様な物で我々が病気になるという事に当時の科学者達は驚いた。それでも当時はまだ、病原体であるには細菌ほどの複雑な構造、少なくとも自己のタンパク質をコードする遺伝子位は最低限持っていなくては病原体になりえない、と思われていた。

ハーシーとチェイスの実験は、バクテリオファージにおいてDNAが遺伝子の役割を持つことを明らかにし、これを契機にウイルスの繁殖、ひいてはウイルスの性質そのものの研究が進むようになった。同時に、この実験は生物の遺伝子がDNAであることを示したものと解せられた。

一般的な生物との違い[編集]



一般的な原核生物
(例:大腸菌)

マイコプラズマ

ナノアーケウム
・エクインタンス

リケッチア

クラミジア

ファイトプラズマ

ウイルス


構成単位
細胞 ウイルス粒子

遺伝情報の担体
DNA DNAまたはRNA

増殖様式
対数増殖(分裂や出芽) 一段階増殖
暗黒期の存在

ATPの合成
できる できない

タンパク質の合成
できる できない

細胞壁
ある ない ある ない

単独で増殖
できる できない
(他生物に付着) できない(偏性細胞内寄生性)

ウイルスは様々な点で一般的な生物と大きく異なる。
1.ウイルスは非細胞性で細胞質などは持たない。基本的にはタンパク質と核酸からなる粒子である。(→ウイルスの構造)
2.大部分の生物は細胞内部にDNAとRNAの両方の核酸が存在するが、ウイルス粒子内には基本的にどちらか片方だけしかない。
3.他のほとんどの生物の細胞は2nで指数関数的に増殖するのに対し、ウイルスは一段階増殖する。またウイルス粒子が見かけ上消えてしまう暗黒期が存在する。
4.ウイルスは単独では増殖できない。他の生物の細胞に寄生したときのみ増殖できる。
5.ウイルスは自分自身でエネルギーを産生しない。宿主細胞の作るエネルギーを利用する。

なお4の特徴はウイルスだけに見られるものではなく、リケッチアやクラミジア、ファイトプラズマなど一部の真正細菌や真核生物にも同様の特徴を示すものがある。

細胞は生きるのに必要なエネルギーを作る製造ラインを持っているが、ウイルスはその代謝を行っておらず、代謝を宿主細胞に完全に依存し、宿主の中でのみ増殖が可能である。彼らに唯一できることは他の生物の遺伝子の中に彼らの遺伝子を入れる事である。厳密には自らを入れる能力も持っておらず、ただ細胞が正常な物質と判別できずウイルスタンパクを増産し病気になる。これらの違いからウィルスは生物学上、生物とは見做されないことも多い。

しかし、メガウイルスなど細菌に非常に近い構造を持つウイルスの発見により、少なくとも一部のウイルスは遺伝子の大部分を捨て去り寄生に特化した生物の一群であることが強く示唆されている。また、レトロウイルスとトランスポゾンの類似性は、これまた少なくとも一部のウイルスは機能性核酸が独立・進化したものである可能性を強く示唆している。つまり、「ウイルス」として纏められている物は多元的であり、人為分類群である可能性が非常に高い。

構造[編集]





ウイルスの基本構造(上)エンベロープを持たないウイルス
(下)エンベロープを持つウイルス
ウイルスの基本構造は、粒子の中心にあるウイルス核酸と、それを取り囲むカプシド (capsid) と呼ばれるタンパク質の殻から構成された粒子である。その大きさは小さいものでは数十nmから、大きいものでは数百nmのものまで存在し、他の一般的な生物の細胞(数〜数十μm)の100〜1000分の1程度の大きさである。ウイルス核酸とカプシドを併せたものをヌクレオカプシドと呼ぶ。ウイルスによっては、エンベロープと呼ばれる膜成分など、ヌクレオカプシド以外の物質を含むものがある。これらの構成成分を含めて、そのウイルスにとって必要な構造をすべて備え、宿主に対して感染可能な「完全なウイルス粒子」をビリオンと呼ぶ。

ウイルス核酸[編集]

ウイルスの核酸は、通常、DNAかRNAのどちらか一方である。すなわち、他の生物が一個の細胞内にDNA(遺伝子として)とRNA(mRNA、rRNA、tRNAなど)の両方の分子を含むのに対して、ウイルスの一粒子にはその片方しか含まれない(ただしDNAと共にRNAを一部含むB型肝炎ウイルスのような例外も稀に存在する)。そのウイルスが持つ核酸の種類によって、ウイルスはDNAウイルスとRNAウイルスに大別される。さらに、それぞれの核酸が一本鎖か二本鎖か、一本鎖のRNAであればmRNAとしての活性を持つか持たないか(プラス鎖RNAかマイナス鎖RNAか)、環状か線状か、などによって細かく分類される。ウイルスのゲノムは他の生物と比べてはるかにサイズが小さく、またコードしている遺伝子の数も極めて少ない。例えば、ヒトの遺伝子が数万あるのに対して、ウイルスでは3〜100個ほどだと言われる。

ウイルスは基本的にタンパク質と核酸からなる粒子であるため、ウイルスの複製(増殖)のためには少なくとも
1.タンパク質の合成
2.ウイルス核酸の複製
3.1. 2.を行うために必要な、材料の調達とエネルギーの産生

が必要である。しかしほとんどのウイルスは、1や3を行うのに必要な酵素の遺伝情報を持たず、宿主細胞の持つタンパク合成機構や代謝、エネルギーを利用して、自分自身の複製を行う。ウイルス遺伝子には自分の遺伝子(しばしば宿主と大きく異なる)を複製するための酵素の他、宿主細胞に吸着・侵入したり、あるいは宿主の持つ免疫機構から逃れるための酵素などがコードされている。

ウイルスによっては、カプシドの内側に、核酸と一緒にカプシドタンパク質とは異なるタンパク質を含むものがある。このタンパク質とウイルス核酸を合わせたものをコアと呼び、このタンパク質をコアタンパク質と呼ぶ。

カプシド[編集]

カプシド (capsid) は、ウイルス核酸を覆っているタンパク質であり、ウイルス粒子が細胞の外にあるときに内部の核酸をさまざまな障害から守る「殻」の役割をしていると考えられている。ウイルスが宿主細胞に侵入した後、カプシドが壊れて(脱殻、だっかく)内部のウイルス核酸が放出され、ウイルスの複製がはじまる。

カプシドは、同じ構造を持つ小さなタンパク質(カプソマー)が多数組み合わさって構成されている。この方式は、ウイルスの限られた遺伝情報量を有効に活用するために役立っていると考えられている。小さなタンパク質はそれを作るのに必要とする遺伝子配列の長さが短くてすむため、大きなタンパク質を少数組み合わせて作るよりも、このように小さいタンパク質を多数組み合わせる方が効率がよいと考えられている。

ヌクレオカプシド[編集]





ヌクレオカプシドの対称性(左)正二十面体様(中)らせん構造(右)構造の複雑なファージ
ウイルス核酸とカプシドを合わせたものをヌクレオカプシド (nucleocapsid) と呼ぶ。エンベロープを持たないウイルスではヌクレオカプシドはビリオンと同じものを指す。言い換えればヌクレオカプシドは全てのウイルスに共通に見られる最大公約数的な要素である。

ヌクレオカプシドの形はウイルスごとに決まっているが、多くの場合、正二十面体様の構造、またはらせん構造をとっており、立体対称性を持つ。ただし、天然痘の原因であるポックスウイルスやバクテリオファージなどでは、ヌクレオカプシドは極めて複雑な構造であり、単純な対称性は持たない。

エンベロープ[編集]

ウイルスの中にはカプシドの外側にエンベロープ(外套、envelope)を持つ物がある。エンベロープは脂質二重膜であり、宿主の細胞から飛び出す(出芽する)時に宿主の細胞質膜や核膜の一部をまとったものである。エンベロープ上には、スパイクあるいはエンベロープタンパク質と呼ばれる糖タンパク質が突出していることがある。スパイクはウイルスの遺伝子から作られたそのウイルス独自のタンパク質であり、宿主細胞に吸着・侵入したり、宿主の免疫機構から逃れるための生理的な作用を持つものが多い。また、ウイルスによってはエンベロープとヌクレオカプシドの間に、マトリクスあるいはテグメントとよばれるタンパク質を含むものがある。

増殖[編集]





細胞(左)とウイルス(右)の増殖様式
ウイルスは、それ自身単独では増殖できず、他の生物の細胞内に感染して初めて増殖可能となる。このような性質を偏性細胞内寄生性と呼ぶ。 また、一般的な生物の細胞が2分裂によって2nで対数的に数を増やす(対数増殖)のに対し、ウイルスは1つの粒子が、感染した宿主細胞内で一気に数を増やして放出(一段階増殖)する。また感染したウイルスは細胞内で一度分解されるため、見かけ上ウイルス粒子の存在しない期間(暗黒期)がある。

ウイルスの増殖は以下のようなステップで行われる。

細胞表面への吸着 → 細胞内への侵入 → 脱殻(だっかく) → 部品の合成 → 部品の集合 → 感染細胞からの放出

細胞表面への吸着[編集]

ウイルス感染の最初のステップはその細胞表面に吸着することである。ウイルスが宿主細胞に接触すると、ウイルスの表面にあるタンパク質が宿主細胞の表面に露出しているいずれかの分子を標的にして吸着する。このときの細胞側にある標的分子をそのウイルスに対するレセプターと呼ぶ。ウイルスが感染するかどうかは、そのウイルスに対するレセプターを細胞が持っているかどうかに依存する。代表的なウイルスレセプターとしては、インフルエンザウイルスに対する気道上皮細胞のシアル酸糖鎖や、ヒト免疫不全ウイルスに対するヘルパーT細胞表面のCD4分子などが知られている。

細胞内への侵入[編集]

細胞表面に吸着したウイルス粒子は、次に実際の増殖の場になる細胞内部へ侵入する。侵入のメカニズムはウイルスによってさまざまだが、代表的なものに以下のようなものがある。
エンドサイトーシスによる取り込み細胞自身が持っているエンドサイトーシスの機構によって、エンドソーム小胞として細胞内に取り込まれ、その後でそこから細胞質へと抜け出すもの。エンベロープを持たないウイルスの多くや、インフルエンザウイルスなどに見られる。膜融合吸着したウイルスのエンベロープが細胞の細胞膜と融合し、粒子内部のヌクレオカプシドが細胞質内に送り込まれるもの。多くの、エンベロープを持つウイルスに見られる。能動的な遺伝子の注入Tファージなどのバクテリオファージに見られ、吸着したウイルスの粒子から尾部の管を通してウイルス核酸が細胞質に注入される。注入とは言っても、ウイルス粒子の尾部が細菌の細胞壁を貫通した後の遺伝子の移動は、細菌細胞が生きていないと起こらないため、細菌の細胞自体の作用によって吸い込まれるのではないかと言われている。
脱殻[編集]

細胞内に侵入したウイルスは、そこで一旦カプシドが分解されて、その内部からウイルス核酸が遊離する。この過程を脱殻と呼ぶ。脱殻が起こってから粒子が再構成までの期間は、ビリオン(感染性のある完全なウイルス粒子)がどこにも存在しないことになり、この時期を暗黒期、あるいは日蝕や月蝕になぞらえてエクリプス(蝕、eclipse)と呼ぶ。

部品の合成[編集]

脱殻により遊離したウイルス核酸は、次代のウイルス(娘ウイルス)の作成のために大量に複製されると同時に、さらにそこからmRNAを経て、カプソマーなどのウイルス独自のタンパク質が大量に合成される。すなわちウイルスの合成は、その部品となる核酸とタンパク質を別々に大量生産し、その後で組み立てるという方式で行われる。

ウイルス核酸は宿主細胞の核酸とは性質的に異なる点が多いために、その複製は宿主の持つ酵素だけではまかなえないため、それぞれのウイルスが独自に持つDNAポリメラーゼ、RNAポリメラーゼなど、転写・複製に関わる酵素が使われる。また逆転写酵素を持つレトロウイルスでは、宿主のDNAに自分の遺伝子を組み込むことで、宿主のDNA複製機構も利用する。

タンパク質の合成には、そのタンパク質をコードするmRNAを作成するためにウイルス独自の酵素を必要とする場合がある。mRNAからタンパク質への翻訳は、宿主細胞の持つ、リボソームなどのタンパク質合成系を利用して行われる。

部品の集合とウイルス粒子の放出[編集]

別々に大量生産されたウイルス核酸とタンパク質は細胞内で集合する。最終的にはカプソマーがウイルス核酸を包み込み、ヌクレオカプシドが形成される。この機構はウイルスによってまちまちであり、まだ研究の進んでないものも多い。細胞内で集合したウイルスは、細胞から出芽したり、あるいは感染細胞が死ぬことによって放出される。このときエンベロープを持つウイルスの一部は、出芽する際に被っていた宿主の細胞膜の一部をエンベロープとして獲得する。

宿主に与える影響[編集]

ウイルスによる感染は、宿主となった生物に細胞レベルや個体レベルでさまざまな影響を与える。その多くの場合、ウイルスが病原体として作用し、宿主にダメージを与えるが、一部のファージやレトロウイルスなどに見られるように、ウイルスが外来遺伝子の運び屋として作用し、宿主の生存に有利に働く例も知られている。

細胞レベルでの影響[編集]





細胞変性効果(円形化)培養フラスコの底に敷石状に生育している培養細胞がウイルスの感染によって円く変形し、やがてフラスコからはがれてプラーク(空隙、写真中央)を形成する。




細胞変性効果(合胞体)敷石状に生育した培養細胞同士がウイルス感染によって細胞膜の融合を起こし、細胞核が中央に凝集して(写真中央)多核巨細胞様の形態になる。
ウイルスが感染して増殖すると、宿主細胞が本来自分自身のために産生・利用していたエネルギーや、アミノ酸などの栄養源がウイルスの粒子複製のために奪われ、いわば「ウイルスに乗っ取られた」状態になる。

これに対して宿主細胞はタンパク質や遺伝子の合成を全体的に抑制することで抵抗しようとし、一方でウイルスは自分の複製をより効率的に行うために、さまざまなウイルス遺伝子産物を利用して、宿主細胞の生理機能を制御しようとする。またウイルスが自分自身のタンパク質を一時に大量合成することは細胞にとって生理的なストレスになり、また完成した粒子を放出するときには宿主の細胞膜や細胞壁を破壊する場合もある。このような原因から、ウイルスが感染した細胞ではさまざまな生理的・形態的な変化が現れる。

この現象のうち特に形態的な変化を示すものを細胞変性効果 (cytopathic effect, CPE) と呼ぶ。ウイルスによっては、特定の宿主細胞に形態的に特徴のある細胞変性効果を起こすものがあり、これがウイルスを鑑別する上での重要な手がかりの一つになっている。代表的な細胞変性効果としては、細胞の円形化・細胞同士の融合による合胞体 (synsitium) の形成・封入体の形成などが知られる。

さまざまな生理機能の変化によって、ウイルスが感染した細胞は最終的に以下のいずれかの運命を辿る。
ウイルス感染による細胞死ウイルスが細胞内で大量に増殖すると、細胞本来の生理機能が破綻したり細胞膜や細胞壁の破壊が起きる結果として、多くの場合、宿主細胞は死を迎える。ファージ感染による溶菌現象もこれにあたる。多細胞生物の細胞では、ウイルス感染時に細胞周期を停止させたり、MHCクラスIなどの抗原提示分子を介して細胞傷害性T細胞を活性化して、アポトーシスを起こすことも知られている。感染した細胞が自ら死ぬことで周囲の細胞にウイルスが広まることを防いでいると考えられている。持続感染ウイルスによっては、短期間で大量のウイルスを作って直ちに宿主を殺すのではなく、むしろ宿主へのダメージが少なくなるよう少量のウイルスを長期間に亘って持続的に産生(持続感染)するものがある。宿主細胞が増殖する速さと、ウイルス複製による細胞死の速さが釣り合うと持続感染が成立する。テンペレートファージによる溶原化もこれにあたる。持続感染の中でも、特にウイルス複製が遅くて、ほとんど粒子の複製が起こっていない状態を潜伏感染と呼ぶ。細胞の不死化とがん化多細胞生物に感染するウイルスの一部には、感染した細胞を不死化したり、がん化したりするものが存在する。このようなウイルスを腫瘍ウイルスあるいはがんウイルスと呼ぶ。ウイルスが宿主細胞を不死化あるいはがん化させるメカニズムはまちまちであるが、宿主細胞が感染に抵抗して起こす細胞周期停止やアポトーシスに対抗して、細胞周期を進行させたりアポトーシスを抑制する遺伝子産物を作る場合(DNAがんウイルス)や、細胞の増殖を活性化する場合、またレトロウイルスでは宿主のゲノムにウイルス遺伝子が組み込まれる際、がん抑制遺伝子が潰された結果、がん化することも知られている。
個体レベルでの影響[編集]

ウイルス感染は、細胞レベルだけでなく多細胞生物の個体レベルでも、さまざまな病気を引き起こす。このような病気を総称してウイルス感染症と呼ぶ。

また、動物ではウイルス感染が起きると、それに抵抗して免疫応答が引き起こされる。血液中や粘液中のウイルス粒子そのものに対しては、ウイルスに対する中和抗体が作用する(液性免疫)ことで感染を防ぐ。感染した後の細胞内のウイルスに対しては抗体は無効であるが、細胞傷害性T細胞やNK細胞などが感染細胞を殺す(細胞性免疫)ことで感染の拡大を防ぐ。

ウイルス感染症における症状の中には、ウイルス感染自体による身体の異常もあるが、むしろ発熱、感染細胞のアポトーシスなどによる組織傷害のように、上記のような免疫応答を含む、対ウイルス性の身体の防御機構の発現自体が健康な身体の生理機構を変化させ、さらには身体恒常性に対するダメージともなり、疾患の症状として現れるものが多い。

公衆衛生[編集]

エンベロープを持つウイルスはエンベロープが無くなると感染性を失うので、石鹸などの脂質溶解剤を用いれば、脂質でできたエンベロープを壊すことができ、これで消毒ができる。

関連項目[編集]

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ゲノム

ゲノム(ドイツ語: Genom)という語には、現在、大きく分けて二つの解釈がある。

古典的遺伝学の立場からは、二倍体生物におけるゲノムは生殖細胞に含まれる染色体もしくは遺伝子全体を指し、このため体細胞には2組のゲノムが存在すると考える。原核生物、細胞内小器官、ウイルス等の一倍体生物においては、全遺伝情報を含むDNA(一部のウイルスやウイロイドではRNA)を指す。

分子生物学の立場からは、すべての生物を一元的に扱いたいという考えのもと、ゲノムはある生物のもつ全ての遺伝情報としている。 ゲノムには、タンパク質のアミノ酸配列をコードするコーディング領域と、それ以外のいわゆるノンコーディング領域に大別される。ゲノム配列解読当初、ノンコーディング領域については、その一部が遺伝子発現調節等に関与することが知られていたものの、大部分は意味をもたないものと考えられ、ジャンクDNAとも呼ばれていた。現在では、遺伝子発現調節のほか、RNA遺伝子などの生体機能に必須の情報が、この領域に多く含まれることが明らかにされてきている。



目次 [非表示]
1 定義
2 ゲノム分析
3 ゲノム配列解析と機能マッピング
4 ゲノム合成
5 数と大きさ
6 ゲノムサイズの例
7 脚注
8 参考文献
9 外部リンク


定義[編集]

古典遺伝学では、「ある生物をその生物たらしめるのに必須な遺伝情報」として定義される。遺伝子「gene」と、染色体「chromosome」あるいはgene(遺伝子(ジーン)の)+ -ome(総体(オーム))= genome (ジーノーム)をあわせた造語であり、1920年にドイツのハンブルク大学の植物学者Hans Winklerにより造られた。

H. Winkler によるはじめの定義では「配偶子(生殖細胞)が持つ染色体セット」を意味したが、1930年に木原均によって「生物をその生物たらしめるのに必須な最小限の染色体セット」として定義し直された。木原は、コムギ染色体の倍数性の観察に基づき、このゲノム説を提唱した。どちらの定義でも、生殖細胞に含まれる全染色体(もしくはその遺伝情報)を表し、N倍体生物の体細胞にはN組のゲノムが存在すると考える。

1956年にDNAが発見されて以降は、「全染色体を構成するDNAの全塩基配列」という意味も持つ。

ゲノム分析[編集]

ゲノム分析とは、倍数体種のゲノム構成を染色体レベルで明らかにする方法である[1]。倍数体種とその両親種を交配し、その雑種第一代の減数分裂での染色体対合を観察し、ゲノム相同の程度を計算する。主に植物において、生命維持の基本単位であるゲノムが一つの細胞に3組以上存在するという、多倍数性がみられることがある。木原によるゲノム説の元となったパンコムギにおいては、3種のゲノムが2組ずつ合わさった6倍体であることがゲノム分析により示された。

ゲノム配列解析と機能マッピング[編集]

1990年代から、ゲノムの全塩基配列を解読することを目標としたゲノムプロジェクトがさまざまな生物種を対象に実施されている(完了したのはゲノム配列決定であり、内容の解読は完了していないので、「ゲノムプロジェクト」ではなく、ゲノムシーケンシングプロジェクト、あるいはゲノム配列決定プロジェクトともいう)。全ゲノム情報の解明は網羅的解析による生命現象の理解の基盤となるものである。しかし塩基配列を読み取っただけでは生命現象の理解には不十分で、個々の塩基配列の機能や役割、発現したRNAやタンパク質の挙動などを幅広く検討していかなければならない。

そこで、現在ではゲノムを研究するゲノミクス(ジェノミクスともいう)を初めとして、オーミクス(-omics = -ome + -ics)と呼ばれる、網羅的解析を特徴とする研究分野が盛んになってきている。ゲノムDNAからの転写産物(トランスクリプト; Transcript)の総和としてトランスクリプトーム(Transcriptome)、存在するタンパク質(プロテイン; Protein)の総体としてプロテオーム(Proteome)がある。また代謝産物(Metabolite)の総和としてメタボローム(Metabolome)という概念もある。特にプロテオームを扱う分野をプロテオミクスという。これらのゲノム解読以降の研究を総称してポストゲノムと呼ぶことがある。プロテオミクスはポストゲノム研究として最も注目されている分野のひとつであったが、実際的な成果がなかなか出なかったことから、海外の製薬企業などはプロテオミクスから撤退しているところも多い。

オーミクスでは、データを効率良く網羅的に収集し、コンピュータによって解析することが必須となる。これに対応するバイオインフォマティックスという分野の研究も盛んである。

また、ゲノム研究は SNPs解析などを通じて医療分野への応用も期待されている。

ゲノム合成[編集]

試験管の中でオリゴヌクレオチド(小規模なDNA断片)を化学合成する技術は、1950年代から存在した。

2003年、J.C.ベンター研究所のクレイグ・ヴェンターらは、大腸菌のDNA合成機構を利用して、ウイルスのDNA断片をつなぎ合わせ完全なゲノムを合成することに成功した[2]。

2005年、より大きい生物でもゲノムを丸ごと合成する技術が日米の研究機関で独立に開発された[3]。慶應大学/三菱化学生命研究所の枯草菌を用いるシステムと、ベンター研究所の酵母菌を用いるシステムである

2007年、クレイグ・ヴェンターらは、酵母菌を利用してDNAの断片をつなぎ合わせて、マイコプラズマ・ジェニタリウムという細菌のゲノムを構築した[4]。

また同年、慶應大学の板谷光泰らは、枯草菌を利用して短いDNAをつなぎ合わせて、マウスのミトコンドリアゲノムおよびイネの葉緑体ゲノムを再構築した[5]。

2010年5月、ベンター研究所はマイコプラズマ・ミコイデスという細菌のゲノムを人工合成し、別種の細菌のマイコプラズマ・カプリコルムに移植して、移植先の細胞を制御することに成功した[6]。合成ゲノムによって細胞の制御に成功したのは世界初である。これは、ゲノムを人工的に設計・合成し、細胞に移植して、細胞が機能することを実証したもので、合成生物学の進展につながる成果となった。細胞膜や細胞内の器官は人工合成していないため完全な「人工生命」ではないが、これらの研究がさらに進めば、合成生命の誕生に行き着くことになる。

数と大きさ[編集]

半数体ヒトゲノムは約30億塩基対からなり、体細胞は2倍体であるため約60億塩基対のDNAを核内に持っている。分裂酵母では3本の染色体DNA上に、大腸菌やミトコンドリアでは一つの環状DNA上に保持されている。ヒト免疫不全ウイルス(HIV)のようなレトロウイルスではRNAが媒体になる。

遺伝子数とゲノムサイズは必ずしも比例しない。両生類や植物のユリのゲノムサイズは大きく、昆虫やトラフグではゲノムサイズが小さい。これはイントロンや遺伝子間のジャンクDNAの長さが原因である。例としてミジンコの方がヒトよりゲノムサイズは小さいが遺伝子数は多い。また原核生物は真核生物よりゲノムに占めるコーディング領域の割合が高い傾向があり、遺伝子がゲノムにコンパクトに収まっている。

それからゲノムサイズが大きくなると大量の情報を保存できるが複製に使うエネルギーが増え生存に不利に働くため、一定のゲノムの大きさで自然選択圧が掛かる。また原核生物より真核生物の方が複雑で必要な情報量が多い傾向があり、一般に真核生物ではスプライシングによってイントロンが抜けエクソンのコーデング領域が翻訳されるため、原核生物に比較して真核生物はゲノムサイズが大きくなる傾向がある。

ゲノムサイズの例[編集]


生物種

ゲノムサイズ
(bp: 塩基数)

遺伝子推定領域

ココナッツカダンカダンウイロイド
アボカドサンブロッチウイロイド 246(最小のゲノムを持つウイロイド) 0
ブタサーコウイルス1 1759(最小のゲノムを持つウイルス) ?
ヒトミトコンドリア 1.7×104(細胞小器官) 13
λファージ 4.8×104(一般的なウィルス) 50
カルソネラ・ルディアイ 1.5×105(最小のゲノムを持つ真正細菌。細胞内偏性寄生) 181
ナノアルカエウム・エクウィタンス 5.0×105(最小のゲノムを持つ古細菌。共生/寄生) 536
マイコプラズマ・ゲニタリウム 5.8×105(記載種として最小のゲノムを持つ) 467
メタノテルムス・フェルウィドゥス(超好熱メタン菌) 1.2×106(古細菌。最小の自由生活性生物) 1283
パンドラウイルス・サリヌス 2.5×106(最大のゲノムを持つウィルス) 2556
ハロバクテリウム・サリナルム(高度好塩菌) 2.6×106(一般的な古細菌) 2749
大腸菌 4.6×106(一般的な真正細菌) 4149
メタノサルキナ・アケティウォランス(メタン菌) 5.7×106(最大のゲノムを持つ古細菌) 4540
出芽酵母 1.2×107 5880
ソランギウム・ケッルロスム(粘液細菌) 1.3×107(最大のゲノムを持つ真正細菌) 9381
シー・エレガンス(線虫) 9.7×107 約20000
シロイヌナズナ 1.3×108 約27000
ショウジョウバエ 1.8×108 約14000
キイロタマホコリカビ 3.4×108 約13000
イネ 3.9×108 約37000
トウモロコシ 2.3×109 約32000
ヒト 3.0×109 約26000
マウス 3.3×109 約29000
コムギ 1.7×1010
ユリ 1.2×1011
ポリカオス・ドゥビウム(アメーバ) 6.7×1011(最大のゲノムを持つ生物)

小麦粉

小麦粉(こむぎこ)とは、小麦を挽いて作られた粉。英語ではwheat flour(ウィート・フラワー)と呼ぶが、穀物の粉の中でも最も頻繁に用いられるため単にflourと呼ぶことが多い。



目次 [非表示]
1 概要
2 性質
3 種類 3.1 強力粉
3.2 中力粉
3.3 薄力粉
3.4 浮き粉
3.5 全粒粉 3.5.1 グラハム粉

3.6 セモリナ粉

4 等級
5 小麦粉を主成分とする調合原料
6 主に小麦粉を使って作る食品
7 歴史
8 メリケン粉とうどん粉の違い
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
12 外部リンク


概要[編集]

小麦粉は7〜8割がデンプンだが、タンパク質も約1割含んでいる。主なタンパク質はグリアジンとグルテニンで、これらは水を吸収すると、粘りのあるグルテンとなる。このグルテンが小麦粉独特の料理を生み出し、様々な食品に生まれ変わる。このグルテンのみを取り出したものが、麩(ふ)である。

他の穀物と同様、小麦タンパクもヒトに不可欠な必須アミノ酸のいくつかが欠如もしくは不足しているため、小麦だけをタンパク源にするとさまざまな健康障害を引き起こす。それらは不足しているアミノ酸を別の食品から摂取することで解消できる。世界各地における小麦粉を主要な穀物源とする地域には古くからそのような健康障害を回避するための料理法や食材がある。

うどん粉、メリケン粉ともいう。メリケン粉は俗称であり、日本産の小麦を製粉したものをうどん粉、アメリカから輸入した小麦を製粉したものをメリケン粉と呼んでいた[3]。メリケンはアメリカン(American)のことで、英語発音がそう聞こえるためである。

小麦粉は小麦粒の胚乳の部分を挽いたものであるが、小麦粒の果皮や胚芽の部分はふすまとして取り除かれる。100kgの小麦粒からはおおよそ72〜75kgの小麦粉が得られる。胚乳部分のみを残し果皮や胚芽を完全に取り除くと真っ白で純粋な小麦粉が取れるが、パンに使用する場合、パンに風味を与えるために必ずしもふすま部分を完全に取り除いたものが良いとも限らない。素朴な味わい風味を出すために、小麦粒をふすまごと丸々挽いた全粒粉も用いられる[4]。

性質[編集]

カロチノイド色素により淡いクリーム色をしている[5]。粒子は直径150ミクロン以下と細かく、粉塵爆発のおそれもあるため東京都など一部の自治体では指定可燃物に規定している[6]。ほかの粉末と混ざりやすく、粉末調味料などを混ぜてプレミックスとしたり、ビタミンなどの添加に応用される。表面に水気を帯びたものに付着しやすく、ムニエルなどの衣や、麺類の打ち粉として使われる。匂いを吸着しやすく、香り付けの加工ができる反面、保管の仕方によっては異臭が付くことがある[5]。液体を加えることにより状態が変化し、小麦粉100に対し水60でパン生地、水45でうどん生地となる。こうした、こねることができる固めの生地をドウ(Dough)と総称する。小麦粉の2倍の水または卵を加えて混ぜた緩やかな生地はバッター(Batter)と呼び、天ぷらの衣やケーキに使われる。小麦粉の5~20倍の水を加えて加熱しながら混ぜると糊になる。合板の接着にも使われる。等級の低い末粉が適する。小麦粉と同量のバターとを共に炒るとルーとなり、ソースやシチューのとろみをつけるのに用いられる[5]。

種類[編集]

小麦粉は含まれるタンパク質(主にグリアジン、グルテニン)の割合と形成されるグルテンの性質によって薄力粉、中力粉、強力粉に分類される。タンパク質分を除いた残渣を精製したものは浮き粉と呼ぶ。澱粉だけで出来たちょうど片栗粉のようなものになる。

グルテンの量は品種の他に、開花期・収穫期に雨が降るかどうかによっても変動する。この時期に雨が多いと小麦はグルテンを形成しにくくなる為である。

強力粉[編集]

強力粉(きょうりきこ)はタンパク質の割合が12%以上のもので、パン・中華麺・学校給食で出てくるソフト麺等に使われる他、国産の一部乾燥パスタは粗挽きの強力粉を用いて作られる。主にアメリカ・カナダ産の硬質小麦(パンコムギ)を使用している。焼くと硬い仕上がりになるので洋菓子には向かない。英語圈の分類ではbread flourがこれに近い。

中力粉[編集]

中力粉(ちゅうりきこ)はタンパク質の割合が9%前後のものでうどんによく使われるほか、お好み焼き、たこ焼きなどに用いる。主にオーストラリア・国内産の中間質小麦を使用している。強力粉と薄力粉を混ぜれば性質は中間になるため中力粉の代用とすることができるが、本来の中力粉とは加工特性がやや異なるため工夫を要する。

薄力粉[編集]

薄力粉(はくりきこ)はタンパク質の割合が8.5%以下のものでケーキなどの菓子類・天ぷらに使われる。主にアメリカ産の軟質小麦を使用している。タンパク質の含有量を抑えれば抑えるほど繊細な仕上がりになるので、含有量を減らした、主に製菓に使われる超薄力粉も存在する。また、乾燥パスタ原料からの連想で誤解されがちなのであるが、卵を用いて生パスタを作る場合に使われるのは薄力粉である。英語圏の表記ではcake flourがこれに近い。

浮き粉[編集]

浮き粉(うきこ)は、小麦粉の生地から麩の原料としても使われるグルテンを分離した残りの澱粉分をいう。グルテンを分離するには、こねた生地を水につけて洗い流すのだが、この水に浸かっている状態では沈粉(じんこ)という。主に明石焼きや和菓子、香港の透明な皮の海老餃子などの原料として使われている。

全粒粉[編集]

詳細は「全粒粉」を参照

「ぜんりゅうふん」。小麦の表皮、胚芽、胚乳をすべて粉にしたものである。精製された小麦粉に比べて食物繊維、ミネラル、ビタミンが豊富。主にパンやビスケット、シリアル食品の材料として用いられる。

グラハム粉[編集]

グラハム粉(グラハムこ、Graham flour)とは、全粒粉の一種。小麦を胚乳と表皮および胚芽に分けてから、胚乳は普通の小麦粉と同じ細かさに挽き、表皮と胚芽は粗挽きにして両方を混ぜ合わせたもの。全粒粉よりもざらざらしている。

セモリナ粉[編集]

詳細は「セモリナ」を参照

セモリナ粉(セモリナこ)とは、小麦粉より粒子の粗い(210μmの布ふるいに残留する)粉をいう[7]。セモリナ(Semolina)は英語であり、イタリア語のSemolaから由来している。Semolaはラテン語のSimila(穀粉)に由来する。クスクスなどを作るために使用されるデュラム粉から精製されており、蛋白質の量が強力粉よりも多く、グルテンが少ない。実際には乾燥パスタ、シリアル、プリンなどに使用されている。

等級[編集]

日本では、ミネラルの含有率により一等粉〜三等粉、末粉などの等級に分類される。等級が上位のものほどミネラル分が少なく、くすみの少ない淡いクリーム色をしている。種類と組み合わせて「強力一等粉」や「中力三等粉」のように表記される[5]。

小麦粉を主成分とする調合原料[編集]

作る料理によって、タンパク質の割合が適した小麦粉を選び、他の穀粉や膨らし粉、粉乳、ショートニング、調味料、香料、着色料などの原料を調合した商品(調製粉、プレミックス)が多種市販されている。
天ぷら粉
から揚げ粉
お好み焼きミックス粉
ホットケーキミックス
食パンミックス
蒸しパンミックス粉
スポンジケーキミックス粉
ドーナツミックス粉

主に小麦粉を使って作る食品[編集]
強力粉 パン、パン粉、ラーメン、ジャイアントクスクス

中力粉 うどん、素麺、冷や麦、お好み焼き、たこ焼き、餃子の皮

薄力粉 ホットケーキ、クッキー

浮き粉 明石焼き

全粒粉 パン、クッキー、ビスケット

セモリナ粉 パスタ、クスクス
パスタに使われる粉は粗挽きである。


その他、小麦粉を使って作る食品としては、饅頭、もんじゃ焼き、トルティーヤ、などがあるほか、餃子の皮やピザクラストにも小麦粉の生地を用いる。

麩は小麦グルテンを原料として作られ、焼麩の種類(車麩や庄内麩など)により異なる種類と等級の小麦粉が合わせ粉として使われる[8]。

歴史[編集]

日本では、戦後、食糧不足対策としてという名目ではあるが、アメリカの小麦戦略から余剰小麦粉を援助物資として供給されたことや学校給食でパン食が取り入れられたことなどから食習慣が広まった。

メリケン粉とうどん粉の違い[編集]

現在、日本では料理用として薄力粉(天ぷら粉など)が普及しているが、強力粉以外をうどん粉と呼ぶ場合が多い(中力粉または薄力粉の意味)。
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