2014年02月08日
アントロポゾフィー
アントロポゾフィー(独: Anthroposophie)とは、オーストリア帝国出身の神秘思想家ルドルフ・シュタイナーが自身の思想を指して使った言葉である。またこれは、一般に人智学と訳されている言葉の音訳である。「アントロポゾフィー」と「人智学」の違いに関しては語源の節(→4.1 語源)で説明する。
目次 [非表示]
1 概念 1.1 『テオゾフィー(神智学)』
1.2 『神秘学概論』
1.3 認識の道
1.4 哲学的側面
1.5 総括 1.5.1 著作について
2 発展 2.1 芸術運動
2.2 社会実践
2.3 総括
3 思想的概要 3.1 人間論 3.1.1 <わたし>とは
3.1.2 人生論
3.2 宇宙論
3.3 修行論
4 言葉について 4.1 語源
4.2 発音
4.3 二つの協会
5 参考文献 5.1 アントロポゾフィー一般に関して
5.2 さらに詳しい情報
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
概念[編集]
シュタイナーの思想を知るにあたって最も優れた資料は彼自身の手によって著された著作であり、講義録ではない[1]。しかしながら彼の著作の中で『アントロポゾフィー』という表題を担うものは存在しない[2]。この事実が、アントロポゾフィーという概念を明らかにすることを困難にしている。
『テオゾフィー(神智学)』[編集]
それまでは新進気鋭の哲学者ならびにゲーテ研究家として活躍していたシュタイナーは、20世紀の初頭から神秘思想家としての活動を開始する。1902年以降はテオゾフィー(神智学)協会に所属し、そこで講義活動を行った(1912年に同協会を脱退し、アントロポゾフィー協会を設立)。そして1904年に出版された『神智学』によって、初めて彼の思想の全体像が公の場に体系的に示されることとなった。
→生涯の詳細はルドルフ・シュタイナーを参照。
テオゾフィー(神智学)協会脱退後、シュタイナーは自らがそれまで「テオゾフィー(神智学)」と呼んでいたものは全て「アントロポゾフィー(人智学)」であり、テオゾフィー(神智学)協会に属していながらもそこで述べていた思想は彼独自のものであり、テオゾフィー(神智学)協会の教義とは一切関係ないものであると述べた。
ところが、この本は初版以降、1910年、1914年、1918年、1922年と少なくとも四回以上著者自身の手によって見直され、訂正・加筆がなされたにも拘らず、その表題が『アントロポゾフィー』と改められることはなかった。
『神秘学概論』[編集]
『テオゾフィー(神智学)』には、アントロポゾフィーの最も中心的なテーマであるとされる宇宙進化論に関する記述が含まれていなかった。その内容は本来『テオゾフィー(神智学)』の最終章として著わされる予定であったが、当時の彼にはそれが未だ不可能であったことを後の著作の前書きに述べている。
この『テオゾフィー(神智学)』の初版から5年後の1910年に、既述の宇宙進化論を含んだ、いわば完全な形で彼の思想体系が示されたが、なぜかその表題は『神秘学概論』というものであった(上記の「後の著作」とはこの本のことである)。
『テオゾフィー(神智学)』の場合と同様、この本も著者自身の手によって入念に推敲が繰り返され、1912年、1920年、1925年(死の三ヶ月前)と少なくとも三回は訂正・加筆がなされたにも拘らず、表題が『アントロポゾフィー』とされることはやはりなかった。
認識の道[編集]
シュタイナーは、自らの思想はその著作において最も的確に表現されている、としばしば主張していたのにも拘らず、その著作において「アントロポゾフィーとは〜である」といった固定的な表現には一貫して否定的であった。彼の人生も晩年を迎え、1923年から翌年にかけて行われたクリスマス会議の後から、その死までの約一年間が、生涯における云わば最盛期であるといえるが、ちょうどその時期の1924年の2月17日にアントロポゾフィーに関して決定的ともいえる発言(文書にて)がなされた。それが以下のものである。
アントロポゾフィーは認識の道であり、それは人間存在(本性)の霊的なものを、森羅万象の霊的なものへ導こうとするものである。
『アントロポゾフィー指導原則』第一条より抜粋
この表現からも明らかなように、アントロポゾフィーは何らかの「知識」の総体ではなく、認識の道という「過程」であるとシュタイナーは理解していた。そして通常「認識の限界」と呼ばれているものは、個人の努力によって拡張可能なものであり、その手法こそが一般に「修行」と呼ばれている精神的鍛錬なのである。
シュタイナーは『いかにして人は高い世を知るにいたるか』という著作において修行法を詳細に著わしているので、この著作に示された具体的な修行の道こそ、アントロポゾフィーであるということが出来る。しかしこの本では、冒頭の「はしがき」において一度だけ「アントロポゾフィー」という言葉が使われる以外、本文では一切使用されない。これは彼は意図的にその言葉の使用を避けていたという可能性もある。なぜなら彼はその本によって、現代の人間に適応した修行の方法を著したのであり、アントロポゾフィー的な修行方法を示したわけではないからである。
複雑であるが、まとめるとこういうことになる:アントロポゾフィーとは「認識の道」であるが、単純に修行の手段ではない、また神秘修行の手段が今日の人間の意識に適応しているか否かは、アントロポゾフィーであるか否かと同義ではない。
哲学的側面[編集]
19世紀の最後約20年間の間、彼はゲーテ研究あるいは哲学者としての自らの研究に没頭していたわけであるが、その当時の業績がアントロポゾフィーに無関係なものなのかといえば、そうではない。例えば『自由の哲学』の第七章を見ても明らかなように、認識の限界を否定する彼の態度はすでに神秘主義的であると言って差し支えない。
『自由の哲学』は1894年に出版された後、長らく売り切れた状態になっていたが(事実上の絶版)、すでに神秘思想家として活動していた1918年に、シュタイナーは入念に訂正・加筆(例えば第一章は全面的に書き換えられ、章題さえも変わっている)を施した後に、新版として再び出版した。この事実は、彼が自身の初期の著作の内容を肯定していることを示している。その際に書き加えられた前書きにおいて彼は、この本には霊的体験の世界に関する記述は一切含まれていないが、それはそのための哲学的基礎であり、また同時にこの本は霊学的な研究結果に関わりを持とうと思わない者のための本でもある、と書いている。さらに彼はそこで、この『自由の哲学』は他の霊学的著作(例えば既述の三冊)に対して全く隔絶された位置を占めている反面、最もそれらに緊密に結びついたものである、と結んでいる。
彼の哲学的業績をアントロポゾフィーと呼ぶことはできない、しかし前者は後者に至るためのいわば「前段階」であるといえる。逆にアントロポゾフィーとは、『自由の哲学』という確固とした哲学的基盤を持った、たぐいまれな神秘思想であると言える。
ちなみにシュタイナーはその晩年に、自身の著作において最も重要なものは『自由の哲学』であるという発言も残している。
総括[編集]
シュタイナーは自身の思想をアントロポゾフィーと呼ぶことには(1912年のテオゾフィー協会を脱退するまで彼はそれを「テオゾフィー」と呼んでいたが、後に彼はそれが後に「アントロポゾフィー」と呼ぶものと同一である、と述べたことに関してはすでに述べた)何の抵抗も示さなかったが、前述のようにアントロポゾフィーを単なる思想の枠に留めるような発言(著作も含めて)は一切しなかった。アントロポゾフィーの思想的一面を彼は「精神科学」と呼んだ。他の精神科学(独: Geisteswissenschaft)との混同を避けるため、この精神科学は通常「シュタイナーによる、アントロポゾフィー的に方向付けられた精神科学」と呼ばれている。
アントロポゾフィーは単なる思想ではなく、またシュタイナーによる精神科学と同義でもない。また認識の道ではあるが単なる修行の手段でもない。それは学問以上の意味を含むものであるため、「人智学」と「学」を使って訳することは多くの場合好まれない。シュタイナー自身、この言葉を翻訳せずに原語のまま使用することを希望した。「アントロポゾフィーは単なる学問ではない。」これが本項において「アントロポゾフィー」と音訳されている一つ目の理由である(二つ目は後述)。
著作について[編集]
アントロポゾフィーの思想的側面は『自由の哲学』(1894年)、『テオゾフィー(神智学)』(1904年)、『いかにして人は高い世を知るにいたるか』(1904/05年)、『神秘学概論』(1910年)の四著書に集約される。しばしばこれらは「四大主著」などと呼ばれ、シュタイナーの著作の内で最も重要視される。この言葉は、アントロポゾフィー関連図書において何が中心的で、何が「その他のもの」であるかを区別するために考え出された言葉であり、講義録の翻訳や関連図書の数が増えるにつれ、日本でも少しずつ重要な意味を持ち始めている。
発展[編集]
ルドルフ・シュタイナーの霊学、すなわちのアントロポゾフィーは、以下のように発展した。
芸術運動[編集]
学問としてのアントロポゾフィーは1910年の『神秘学概論』の出版によってその頂点を迎えた。確かに、これ以降もシュタイナーは精神科学の研究を続け新しい研究結果を発表したが、それは常に専門分野に関するもので、思想としての全体像を補う「部分」であった。
芸術運動としてのアントロポゾフィーの最初の胎動は、その学問的隆盛以前の1907年に既に見出される。この年の聖霊降臨祭に開催されたミュンヘン会議においてシュタイナーは、インテリア設計において自らの思想(不可視なもの)を芸術を通して可視的な空間に表現することを試みた(但し、当時彼はプラトン的芸術解釈を否定していた)。そして、この試みは徐々に発展しアントロポゾフィー芸術運動の象徴的な存在である「ヨハネス建築」の設計に至る。ミュンヘンでのヨハネス建築の計画は当局の建設許可が下りなかったために頓挫したが、スイスのバーゼル近郊都市ドルナッハの土地を提供され、1913年9月に建設が始まる。1918年以降は「ゲーテアヌム」と呼ばれるこの木造建築は、1922年の大晦日に未完成のままで放火にあい消失した。同一の場所には、それまでとは全く異なる外観を持つコンクリート建築が建てられ、それは1923年末に創立された普遍アントロポゾフィー協会の本部となり現存する。これは第二ゲーテアヌムと呼ばれ、消失した木造建築は第一ゲーテアヌムと呼ばれるのが一般的である。
1908年頃にオイリュトミーという全く新しい運動芸術・舞踏芸術がアントロポゾフィーによって始まる。これは日本で最も有名な「シュタイナー芸術」である。オイリュトミーはシュタイナーが死去する1925年まで長い年月をかけて徐々に発展し、最終的には治療オイリュトミーという形で医療の現場にも用いられるようになる。特にドイツでは、治療オイリュトミーによる医療行為に対しても保険が適用されるほど一般に認知されている。
1910年から1913年までの四年間、シュタイナーは毎年夏に戯曲『神秘劇』を新たに書き下ろし、それはミュンヘンで上演された。その内容は主人公であるヨハネス・トマジウス(上記の「ヨハネス建築」は彼の名前に由来)をはじめとする、近代的な人間の精神的成長の過程を描いたものである。それまでは学問として「一般的に」しか描くことができなかった人間の成長を、シュタイナーは芸術を通して「具体的に」描こうと試みたのである。1912年に上演された神秘劇第三部の中では、上記のオイリュトミーが初めて上演されたので、この年は本来の芸術としての「オイリュトミー誕生の年」であると認知されている。
社会実践[編集]
神秘劇は本来七部または十二部構成の予定であったが、第一次世界大戦の影響によってその劇作活動は中断を余儀なくされた。第一次世界大戦の惨状の後、1918年頃から彼は社会組織の三構成運動に心血を注ぐようになるが、これは翌1919年に破綻する。それに続くようにヴァルドルフ教育(シュタイナー教育)運動が始まり、同年9月には最初の学校、自由ヴァルドルフ学校シュトゥットガルトが設立される。ヴァルドルフ教育運動は、日本でもっとも有名なアントロポゾフィーの社会実践である。
アントロポゾフィーの社会実践は、このヴァルドルフ教育運動を皮切りに医療・農業・養護教育・自然科学と様々な職業分野が改新され、それに伴う施設は現在では全世界で10,000を超える[1]l。
ちょうどこの時期に宗教運動の改新にも助力し、キリスト者共同体の設立にもアントロポゾフィーは大きな力を発揮した。これはアントロポゾフィーの社会実践の一環とみなされるのが一般的であるが、この見方は正しくない。なぜならこの運動は、創立当初からアントロポゾフィー協会とは全く関係のない、独立した宗教団体だからである。とはいえ、あらゆる人種・民族・宗教などから独立していると公言するアントロポゾフィー協会[2]の初代理事長に後に就任するシュタイナーが、特定の宗教運動(すなわちキリスト教)に積極的に助力したという事実は不可解であるといえる。こうした関連性から、この運動創始の数年後に公の場(主に講義の中)でシュタイナーが、自分は「私的人間として」キリスト者共同体の設立に関与したということを頻繁に強調するようになった事実を理解することができる。→詳しくはキリスト者共同体を参照。
総括[編集]
このように、アントロポゾフィーは最終的に社会実践へ向かう。だからこそ以上の三段階(学問、芸術、社会実践)の発展、すなわち全ての発達を、まとめてアントロポゾフィーと呼ぶのである。あるいはそれらの三段階は、アントロポゾフィーの成長の三段階であるともいえる(そのことはシュタイナー自身も述べている)。シュタイナー自身「アントロポゾフィーは学問として出発し、芸術を通してその命を吹き込まれる」(太字引用者)と述べており、そしてそれは社会実践という最も実用的で世俗的な結論に至る。だからこそ、シュタイナーはアントロポゾフィーが単なる知的好奇心の充足のために用いられることに強い嫌悪感を示しているのである。アントロポゾフィーは社会的貢献を果たして初めて、その完結した状態に至るということができる。すなわち、単なる学問、単なる芸術であるうちはアントロポゾフィーの前段階でしかないのである。
このような意味において、冒頭で便宜的に述べられた「自身の思想」という表現は正しくない。単なる思想(学問)ではなく、芸術、社会実践と発展していく実体の全てをアントロポゾフィーと理解する者は、それは「思想」ではなく「生命」であるとみなす。そしてシュタイナーは思想ではなく、生命を培う場として普遍アントロポゾフィー協会を創立した。
思想的概要[編集]
ここでは精神科学の中心的なテーマを記述する。
人間論[編集]
人間の本質に関する研究。通常の人間が、人間において目という感覚器官を通して知覚することができる存在を、肉体(物理的身体 der physische Leib)と名付け、それは「人間の一肢体(部分、構成要素 Glied)」であると位置づけ、それより更に「高次の」構成要素は超感覚的であり、通常の人間はそれを知覚することができないとする。精神科学ではそれらの超感覚的「肢体」を、肉体の上にさらに六ないしは八つ認め、それら全てを「全体としての人間 der ganze Mensch」とする。
<わたし>とは[編集]
上の「人間論」で述べられた「人間の本質」において、最も重要な要素である Ich (ドイツ語の一人称の代名詞であるが、ここでは「わたし」とする)に関する研究。<わたし>そのものに関する描写は「人間論」ですでになされているので、歴史における<わたし>の成立過程に関する描写がなされる。下の「宇宙論」において「現在の地球に至るまでの時間的な生成過程」がメインテーマであるように、ここでは「現在の<わたし>に至るまでの時間的な生成過程」が描写される。前者が「博物学 Natural history」であるのに対して、後者は「歴史学」であるとも言える。
人生論[編集]
人間の人生を支配している法則についての研究。死後の生活に関する記述や、再受肉(生まれ変わり)Reinkarnation の思想へと至る。
宇宙論[編集]
現在の地球、あるいは宇宙が生成した過程に関する研究。人間と同様、地球もまた再受肉する存在であるとみなし、現在の地球のいわば「前世」に関する描写がなされる。
修行論[編集]
以上の二項目に関する描写は、全て超感覚的観照に基づいてなされており、それを通常の人間は持っていない。しかし精神科学は、全ての人間がこのような超感覚的な観照能力をいわゆる「修行」を通して得られるものとし、その獲得に関する方法論が展開される。修行の道には七つの発達段階があり、以上の五項目に関する研究(勉強、学習 Studium)そのものが修行の第一段階であるとみなしている。
言葉について[編集]
語源[編集]
アントロポゾフィーという言葉は、ギリシア語で人間を示す ανθρωπος (anthropos アントローポス)と叡智あるいは知恵を示す σοφια(sophia ソピア)を合成したものである。言葉自体はシュタイナーの造語ではなく、近世初期にはすでにその使用が確認されている。それ以降はイグナツ・パウル・ヴィタリス・トロクスラー(Ignaz Paul Vitalis Troxler,1780-1866)や、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテの息子であり、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの弟子(右派)であるイマヌエル・ヘルマン・フィヒテにおいてもこの言葉の使用が認められる。→詳しくは人智学を参照。
発音[編集]
一般に「アントロポゾフィー」と音訳されるが、これはドイツ語での発音に準拠したものであり、その理由はシュタイナーの発音がそうであったからに他ならない。古典ギリシア語から作られた他の語彙と同様、欧米の各国語においてそれぞれに異なる表記と発音が行われており、日本においてそれをどう表記・発音するかは個人の自由である(日本ではドイツ語発音による音訳が主流であるが、ドイツ語圏以外でシュタイナーの思想を学んだ日本人にとっては必ずしも「自然なもの」とは言えない)。例えば英語的に発音すると θ (th) の発音が無声歯摩擦音の [θ] になるし、イタリア語をはじめとするラテン語圏では語尾が a となる。古典ギリシア語的に有気音の φ (ph) を p と気息音の h に分けて読んだり、p だけ発音することもできる。
しかしながら日本人がギリシア語的発音を真似て最後の発音をaにする場合はいくらかの問題が伴う。なぜならシュタイナーは、講義においてアントロポゾフィーとアントロポソフィアを使い分けている場合があるからである。
二つの協会[編集]
また訳語について議論する場合、日本に見られる特殊な状況に鑑みる必要がある。日本におけるシュタイナー研究の第一人者である高橋巖は1985年に日本人智学協会を設立したが、これはスイスのドルナッハに本部ゲーテアヌムを置く普遍アントロポゾフィー協会の日本の邦域協会ではなかった。1986年2月のゲーテアヌム理事会に於いて、同協会は日本ルドルフ・シュタイナー・ハウス(1982年に上松佑二が設立)とともに、邦域協会の前段階とみなされた。1989年に日本ルドルフ・シュタイナー・ハウスは日本アントロポゾフィー協会ルドルフ・シュタイナー・ハウスと改名し、以後二つの協会が存在するようになる。1993年ヨハネ支部が設立され、1994年以降の数年間にわたる邦域協会設立準備会と1999年3月のゲーテアヌム理事会を経て、2000年5月に上松佑二を中心とするメンバーによって、日本アントロポゾフィー協会が、普遍アントロポゾフィー協会の正式な日本の邦域協会として設立された。二協会は互いに独立した団体であり、両者を区別するためにもAnthroposophieという一つの言葉に対して二つの訳語が並立することは避けられない(以上の固有名詞による理由に加えて、概念の相違によって二つの訳語が存在する理由に関しては人智学を参照)。また現在(2013年)では普遍アントロポゾフィー協会の日本支部として、NPO法人日本アントロポゾフィー協会と一般社団法人普遍アントロポゾフィー協会−邦域協会日本の二つの協会、及び四国アントロポゾフィークライスが存在している。
参考文献[編集]
ルドルフ・シュタイナー全集
Steiner, Rudolf: Einführung in die Anthroposophie. Dornach : Rudolf-Steiner-Verlag, 1992. ISBN 3-7274-6560-3
Steiner, Rudolf: Einführung in die Geisteswissenschaft. München : Archiati, 2004. ISBN 3-937078-25-8
アントロポゾフィー一般に関して[編集]
Becker, Kurt E.: Anthroposophie.Revolution von innen, Fischer Verlag, Frankfurt, 1984
Ziegler, Renatus: Anthroposophie : Quellentexte zur Wortgeschichte. In: Beiträge zur Rudolf Steiner Gesamtausgabe, Heft Nr. 121, Herbst 1999 (Hrsg.: Rudolf Steiner-Nachlassverwaltung, Dornach)
Heisterkamp, Jens: Was ist Anthroposophie? Eine Einladung zur Entdeckung des Menschen. Dornach : Verl. am Goetheanum, 2000. ISBN 3-7235-1089-2
Baumann-Bay, Lydie und Andreas: Achtung, Anthroposophie! : ein kritischer Insider-Bericht. Zürich : Kreuz, 2000. ISBN 3-268-00255-2
Badewien, Jan: Die Anthroposophie Rudolf Steiners. München : Evangelischer Presseverband für Bayern, 1994. ISBN 3-583-50662-6
Barz, Heiner: Anthroposophie im Spiegel von Wissenschaftstheorie und Lebensweltforschung. Zwischen lebendigem Goetheanismus und latenter Militanz. Weinheim : Deutscher Studien-Verlag, 1994. ISBN 3-89271-458-4
Lutterbeck, Ernst: Anthroposophie verstehen : eine Einführung nach persönlichen Erfahrungen. Paderborn : Möllmann, 1997. ISBN 3-931156-21-4
さらに詳しい情報[編集]
Binder, Andreas: Wie christlich ist die Anthroposophie? Standortbestimmungen aus der Sicht eines evangelischen Theologen. Stuttgart : Urachhaus Verlag 1989. ISBN 3-87838-611-7 (2. Aufl.)
Kriele, Martin: Anthroposophie und Kirche. Erfahrungen eines Grenzgängers. Freiburg im Breisgau; Basel; Wien : Herder, 1996. ISBN 3-451-23967-1
Okruch, Stefan: Wirtschaft und Anthroposophie - Darstellung und Kritik des Konzepts Rudolf Steiners. Bayreuth : Verlag PCO, 1993. ISBN 3-925710-50-7
Werner, Uwe: Anthroposophen in der Zeit des Nationalsozialismus : 1933 - 1945. München : Oldenbourg, 1999. ISBN 3-486-56362-9
Ravagli, Lorenzo: Unter Hammer und Hakenkreuz : der völkisch-nationalsozialistische Kampf gegen die Anthroposophie. Stuttgart: Verlag Freies Geistesleben, 2004. ISBN 3-7725-1915-6
Bierl, Peter: Wurzelrassen, Erzengel und Volksgeister : die Anthroposophie Rudolf Steiners und die Waldorfpädagogik. Aktualisierte und erweiterte Neuausgabe. Hamburg : Konkret-Literatur-Verlag, 2005. ISBN 3-89458-242-1
脚注[編集]
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1.^ シュタイナーは、生涯の最後の四半世紀の間に約六千回にも及ぶ講義を行い、そこで自身の思想、すなわちアントロポゾフィーに関して語った。それらの講義の多くは速記形式で記録され、後にシュタイナー遺構管理局によって講義録として出版・公開されており、その数は300冊を超える。→シュタイナー全集参照。
多くの場合、講義録の聴衆であった人々は、彼の著作を読み、よく理解したいわば「上級者」であった。それゆえ速記された講義録の内容は、つねに神秘思想としてのアントロポゾフィーの基礎(基本)を欠いた、いわば「内輪向け」の内容であると言える。対して著作はあらゆる読者を想定して書かれており、その内のいくつかは初版以降も何度も見直され、書き直されているという事実(死の数ヶ月前に改定が加えられたものもある)を見れば、彼の著作がその思想を知るにあたって最も信憑性の高い資料であり、講義録はそれに対しては資料価値の低いといえる。よって、ここではもっぱらシュタイナー自身の著作のみを参考文献とする。
2.^ 上述のシュタイナー遺構管理局から、全集45番として『アントロポゾフィー』という著作が出版されているが、それは彼が『神秘学概論』とアントロポゾフィー協会設立の間の時期である1910年(正確には『神秘学概論』は1909年12月の時点ですでに脱稿しており、出版されたのが1910年1月である。またシュタイナーが神智学協会に代わる新しい協会の名前に「アントロポゾフィー」を挙げたのは1912年8月のことである)に書いたフラグメント(断片)である。無論そのことは明記された上での公表である。ちなみに内容は彼が独自に考えて出した感覚論である。
関連項目[編集]
ルドルフ・シュタイナー
アントロポゾフィー協会
人智学
目次 [非表示]
1 概念 1.1 『テオゾフィー(神智学)』
1.2 『神秘学概論』
1.3 認識の道
1.4 哲学的側面
1.5 総括 1.5.1 著作について
2 発展 2.1 芸術運動
2.2 社会実践
2.3 総括
3 思想的概要 3.1 人間論 3.1.1 <わたし>とは
3.1.2 人生論
3.2 宇宙論
3.3 修行論
4 言葉について 4.1 語源
4.2 発音
4.3 二つの協会
5 参考文献 5.1 アントロポゾフィー一般に関して
5.2 さらに詳しい情報
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
概念[編集]
シュタイナーの思想を知るにあたって最も優れた資料は彼自身の手によって著された著作であり、講義録ではない[1]。しかしながら彼の著作の中で『アントロポゾフィー』という表題を担うものは存在しない[2]。この事実が、アントロポゾフィーという概念を明らかにすることを困難にしている。
『テオゾフィー(神智学)』[編集]
それまでは新進気鋭の哲学者ならびにゲーテ研究家として活躍していたシュタイナーは、20世紀の初頭から神秘思想家としての活動を開始する。1902年以降はテオゾフィー(神智学)協会に所属し、そこで講義活動を行った(1912年に同協会を脱退し、アントロポゾフィー協会を設立)。そして1904年に出版された『神智学』によって、初めて彼の思想の全体像が公の場に体系的に示されることとなった。
→生涯の詳細はルドルフ・シュタイナーを参照。
テオゾフィー(神智学)協会脱退後、シュタイナーは自らがそれまで「テオゾフィー(神智学)」と呼んでいたものは全て「アントロポゾフィー(人智学)」であり、テオゾフィー(神智学)協会に属していながらもそこで述べていた思想は彼独自のものであり、テオゾフィー(神智学)協会の教義とは一切関係ないものであると述べた。
ところが、この本は初版以降、1910年、1914年、1918年、1922年と少なくとも四回以上著者自身の手によって見直され、訂正・加筆がなされたにも拘らず、その表題が『アントロポゾフィー』と改められることはなかった。
『神秘学概論』[編集]
『テオゾフィー(神智学)』には、アントロポゾフィーの最も中心的なテーマであるとされる宇宙進化論に関する記述が含まれていなかった。その内容は本来『テオゾフィー(神智学)』の最終章として著わされる予定であったが、当時の彼にはそれが未だ不可能であったことを後の著作の前書きに述べている。
この『テオゾフィー(神智学)』の初版から5年後の1910年に、既述の宇宙進化論を含んだ、いわば完全な形で彼の思想体系が示されたが、なぜかその表題は『神秘学概論』というものであった(上記の「後の著作」とはこの本のことである)。
『テオゾフィー(神智学)』の場合と同様、この本も著者自身の手によって入念に推敲が繰り返され、1912年、1920年、1925年(死の三ヶ月前)と少なくとも三回は訂正・加筆がなされたにも拘らず、表題が『アントロポゾフィー』とされることはやはりなかった。
認識の道[編集]
シュタイナーは、自らの思想はその著作において最も的確に表現されている、としばしば主張していたのにも拘らず、その著作において「アントロポゾフィーとは〜である」といった固定的な表現には一貫して否定的であった。彼の人生も晩年を迎え、1923年から翌年にかけて行われたクリスマス会議の後から、その死までの約一年間が、生涯における云わば最盛期であるといえるが、ちょうどその時期の1924年の2月17日にアントロポゾフィーに関して決定的ともいえる発言(文書にて)がなされた。それが以下のものである。
アントロポゾフィーは認識の道であり、それは人間存在(本性)の霊的なものを、森羅万象の霊的なものへ導こうとするものである。
『アントロポゾフィー指導原則』第一条より抜粋
この表現からも明らかなように、アントロポゾフィーは何らかの「知識」の総体ではなく、認識の道という「過程」であるとシュタイナーは理解していた。そして通常「認識の限界」と呼ばれているものは、個人の努力によって拡張可能なものであり、その手法こそが一般に「修行」と呼ばれている精神的鍛錬なのである。
シュタイナーは『いかにして人は高い世を知るにいたるか』という著作において修行法を詳細に著わしているので、この著作に示された具体的な修行の道こそ、アントロポゾフィーであるということが出来る。しかしこの本では、冒頭の「はしがき」において一度だけ「アントロポゾフィー」という言葉が使われる以外、本文では一切使用されない。これは彼は意図的にその言葉の使用を避けていたという可能性もある。なぜなら彼はその本によって、現代の人間に適応した修行の方法を著したのであり、アントロポゾフィー的な修行方法を示したわけではないからである。
複雑であるが、まとめるとこういうことになる:アントロポゾフィーとは「認識の道」であるが、単純に修行の手段ではない、また神秘修行の手段が今日の人間の意識に適応しているか否かは、アントロポゾフィーであるか否かと同義ではない。
哲学的側面[編集]
19世紀の最後約20年間の間、彼はゲーテ研究あるいは哲学者としての自らの研究に没頭していたわけであるが、その当時の業績がアントロポゾフィーに無関係なものなのかといえば、そうではない。例えば『自由の哲学』の第七章を見ても明らかなように、認識の限界を否定する彼の態度はすでに神秘主義的であると言って差し支えない。
『自由の哲学』は1894年に出版された後、長らく売り切れた状態になっていたが(事実上の絶版)、すでに神秘思想家として活動していた1918年に、シュタイナーは入念に訂正・加筆(例えば第一章は全面的に書き換えられ、章題さえも変わっている)を施した後に、新版として再び出版した。この事実は、彼が自身の初期の著作の内容を肯定していることを示している。その際に書き加えられた前書きにおいて彼は、この本には霊的体験の世界に関する記述は一切含まれていないが、それはそのための哲学的基礎であり、また同時にこの本は霊学的な研究結果に関わりを持とうと思わない者のための本でもある、と書いている。さらに彼はそこで、この『自由の哲学』は他の霊学的著作(例えば既述の三冊)に対して全く隔絶された位置を占めている反面、最もそれらに緊密に結びついたものである、と結んでいる。
彼の哲学的業績をアントロポゾフィーと呼ぶことはできない、しかし前者は後者に至るためのいわば「前段階」であるといえる。逆にアントロポゾフィーとは、『自由の哲学』という確固とした哲学的基盤を持った、たぐいまれな神秘思想であると言える。
ちなみにシュタイナーはその晩年に、自身の著作において最も重要なものは『自由の哲学』であるという発言も残している。
総括[編集]
シュタイナーは自身の思想をアントロポゾフィーと呼ぶことには(1912年のテオゾフィー協会を脱退するまで彼はそれを「テオゾフィー」と呼んでいたが、後に彼はそれが後に「アントロポゾフィー」と呼ぶものと同一である、と述べたことに関してはすでに述べた)何の抵抗も示さなかったが、前述のようにアントロポゾフィーを単なる思想の枠に留めるような発言(著作も含めて)は一切しなかった。アントロポゾフィーの思想的一面を彼は「精神科学」と呼んだ。他の精神科学(独: Geisteswissenschaft)との混同を避けるため、この精神科学は通常「シュタイナーによる、アントロポゾフィー的に方向付けられた精神科学」と呼ばれている。
アントロポゾフィーは単なる思想ではなく、またシュタイナーによる精神科学と同義でもない。また認識の道ではあるが単なる修行の手段でもない。それは学問以上の意味を含むものであるため、「人智学」と「学」を使って訳することは多くの場合好まれない。シュタイナー自身、この言葉を翻訳せずに原語のまま使用することを希望した。「アントロポゾフィーは単なる学問ではない。」これが本項において「アントロポゾフィー」と音訳されている一つ目の理由である(二つ目は後述)。
著作について[編集]
アントロポゾフィーの思想的側面は『自由の哲学』(1894年)、『テオゾフィー(神智学)』(1904年)、『いかにして人は高い世を知るにいたるか』(1904/05年)、『神秘学概論』(1910年)の四著書に集約される。しばしばこれらは「四大主著」などと呼ばれ、シュタイナーの著作の内で最も重要視される。この言葉は、アントロポゾフィー関連図書において何が中心的で、何が「その他のもの」であるかを区別するために考え出された言葉であり、講義録の翻訳や関連図書の数が増えるにつれ、日本でも少しずつ重要な意味を持ち始めている。
発展[編集]
ルドルフ・シュタイナーの霊学、すなわちのアントロポゾフィーは、以下のように発展した。
芸術運動[編集]
学問としてのアントロポゾフィーは1910年の『神秘学概論』の出版によってその頂点を迎えた。確かに、これ以降もシュタイナーは精神科学の研究を続け新しい研究結果を発表したが、それは常に専門分野に関するもので、思想としての全体像を補う「部分」であった。
芸術運動としてのアントロポゾフィーの最初の胎動は、その学問的隆盛以前の1907年に既に見出される。この年の聖霊降臨祭に開催されたミュンヘン会議においてシュタイナーは、インテリア設計において自らの思想(不可視なもの)を芸術を通して可視的な空間に表現することを試みた(但し、当時彼はプラトン的芸術解釈を否定していた)。そして、この試みは徐々に発展しアントロポゾフィー芸術運動の象徴的な存在である「ヨハネス建築」の設計に至る。ミュンヘンでのヨハネス建築の計画は当局の建設許可が下りなかったために頓挫したが、スイスのバーゼル近郊都市ドルナッハの土地を提供され、1913年9月に建設が始まる。1918年以降は「ゲーテアヌム」と呼ばれるこの木造建築は、1922年の大晦日に未完成のままで放火にあい消失した。同一の場所には、それまでとは全く異なる外観を持つコンクリート建築が建てられ、それは1923年末に創立された普遍アントロポゾフィー協会の本部となり現存する。これは第二ゲーテアヌムと呼ばれ、消失した木造建築は第一ゲーテアヌムと呼ばれるのが一般的である。
1908年頃にオイリュトミーという全く新しい運動芸術・舞踏芸術がアントロポゾフィーによって始まる。これは日本で最も有名な「シュタイナー芸術」である。オイリュトミーはシュタイナーが死去する1925年まで長い年月をかけて徐々に発展し、最終的には治療オイリュトミーという形で医療の現場にも用いられるようになる。特にドイツでは、治療オイリュトミーによる医療行為に対しても保険が適用されるほど一般に認知されている。
1910年から1913年までの四年間、シュタイナーは毎年夏に戯曲『神秘劇』を新たに書き下ろし、それはミュンヘンで上演された。その内容は主人公であるヨハネス・トマジウス(上記の「ヨハネス建築」は彼の名前に由来)をはじめとする、近代的な人間の精神的成長の過程を描いたものである。それまでは学問として「一般的に」しか描くことができなかった人間の成長を、シュタイナーは芸術を通して「具体的に」描こうと試みたのである。1912年に上演された神秘劇第三部の中では、上記のオイリュトミーが初めて上演されたので、この年は本来の芸術としての「オイリュトミー誕生の年」であると認知されている。
社会実践[編集]
神秘劇は本来七部または十二部構成の予定であったが、第一次世界大戦の影響によってその劇作活動は中断を余儀なくされた。第一次世界大戦の惨状の後、1918年頃から彼は社会組織の三構成運動に心血を注ぐようになるが、これは翌1919年に破綻する。それに続くようにヴァルドルフ教育(シュタイナー教育)運動が始まり、同年9月には最初の学校、自由ヴァルドルフ学校シュトゥットガルトが設立される。ヴァルドルフ教育運動は、日本でもっとも有名なアントロポゾフィーの社会実践である。
アントロポゾフィーの社会実践は、このヴァルドルフ教育運動を皮切りに医療・農業・養護教育・自然科学と様々な職業分野が改新され、それに伴う施設は現在では全世界で10,000を超える[1]l。
ちょうどこの時期に宗教運動の改新にも助力し、キリスト者共同体の設立にもアントロポゾフィーは大きな力を発揮した。これはアントロポゾフィーの社会実践の一環とみなされるのが一般的であるが、この見方は正しくない。なぜならこの運動は、創立当初からアントロポゾフィー協会とは全く関係のない、独立した宗教団体だからである。とはいえ、あらゆる人種・民族・宗教などから独立していると公言するアントロポゾフィー協会[2]の初代理事長に後に就任するシュタイナーが、特定の宗教運動(すなわちキリスト教)に積極的に助力したという事実は不可解であるといえる。こうした関連性から、この運動創始の数年後に公の場(主に講義の中)でシュタイナーが、自分は「私的人間として」キリスト者共同体の設立に関与したということを頻繁に強調するようになった事実を理解することができる。→詳しくはキリスト者共同体を参照。
総括[編集]
このように、アントロポゾフィーは最終的に社会実践へ向かう。だからこそ以上の三段階(学問、芸術、社会実践)の発展、すなわち全ての発達を、まとめてアントロポゾフィーと呼ぶのである。あるいはそれらの三段階は、アントロポゾフィーの成長の三段階であるともいえる(そのことはシュタイナー自身も述べている)。シュタイナー自身「アントロポゾフィーは学問として出発し、芸術を通してその命を吹き込まれる」(太字引用者)と述べており、そしてそれは社会実践という最も実用的で世俗的な結論に至る。だからこそ、シュタイナーはアントロポゾフィーが単なる知的好奇心の充足のために用いられることに強い嫌悪感を示しているのである。アントロポゾフィーは社会的貢献を果たして初めて、その完結した状態に至るということができる。すなわち、単なる学問、単なる芸術であるうちはアントロポゾフィーの前段階でしかないのである。
このような意味において、冒頭で便宜的に述べられた「自身の思想」という表現は正しくない。単なる思想(学問)ではなく、芸術、社会実践と発展していく実体の全てをアントロポゾフィーと理解する者は、それは「思想」ではなく「生命」であるとみなす。そしてシュタイナーは思想ではなく、生命を培う場として普遍アントロポゾフィー協会を創立した。
思想的概要[編集]
ここでは精神科学の中心的なテーマを記述する。
人間論[編集]
人間の本質に関する研究。通常の人間が、人間において目という感覚器官を通して知覚することができる存在を、肉体(物理的身体 der physische Leib)と名付け、それは「人間の一肢体(部分、構成要素 Glied)」であると位置づけ、それより更に「高次の」構成要素は超感覚的であり、通常の人間はそれを知覚することができないとする。精神科学ではそれらの超感覚的「肢体」を、肉体の上にさらに六ないしは八つ認め、それら全てを「全体としての人間 der ganze Mensch」とする。
<わたし>とは[編集]
上の「人間論」で述べられた「人間の本質」において、最も重要な要素である Ich (ドイツ語の一人称の代名詞であるが、ここでは「わたし」とする)に関する研究。<わたし>そのものに関する描写は「人間論」ですでになされているので、歴史における<わたし>の成立過程に関する描写がなされる。下の「宇宙論」において「現在の地球に至るまでの時間的な生成過程」がメインテーマであるように、ここでは「現在の<わたし>に至るまでの時間的な生成過程」が描写される。前者が「博物学 Natural history」であるのに対して、後者は「歴史学」であるとも言える。
人生論[編集]
人間の人生を支配している法則についての研究。死後の生活に関する記述や、再受肉(生まれ変わり)Reinkarnation の思想へと至る。
宇宙論[編集]
現在の地球、あるいは宇宙が生成した過程に関する研究。人間と同様、地球もまた再受肉する存在であるとみなし、現在の地球のいわば「前世」に関する描写がなされる。
修行論[編集]
以上の二項目に関する描写は、全て超感覚的観照に基づいてなされており、それを通常の人間は持っていない。しかし精神科学は、全ての人間がこのような超感覚的な観照能力をいわゆる「修行」を通して得られるものとし、その獲得に関する方法論が展開される。修行の道には七つの発達段階があり、以上の五項目に関する研究(勉強、学習 Studium)そのものが修行の第一段階であるとみなしている。
言葉について[編集]
語源[編集]
アントロポゾフィーという言葉は、ギリシア語で人間を示す ανθρωπος (anthropos アントローポス)と叡智あるいは知恵を示す σοφια(sophia ソピア)を合成したものである。言葉自体はシュタイナーの造語ではなく、近世初期にはすでにその使用が確認されている。それ以降はイグナツ・パウル・ヴィタリス・トロクスラー(Ignaz Paul Vitalis Troxler,1780-1866)や、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテの息子であり、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの弟子(右派)であるイマヌエル・ヘルマン・フィヒテにおいてもこの言葉の使用が認められる。→詳しくは人智学を参照。
発音[編集]
一般に「アントロポゾフィー」と音訳されるが、これはドイツ語での発音に準拠したものであり、その理由はシュタイナーの発音がそうであったからに他ならない。古典ギリシア語から作られた他の語彙と同様、欧米の各国語においてそれぞれに異なる表記と発音が行われており、日本においてそれをどう表記・発音するかは個人の自由である(日本ではドイツ語発音による音訳が主流であるが、ドイツ語圏以外でシュタイナーの思想を学んだ日本人にとっては必ずしも「自然なもの」とは言えない)。例えば英語的に発音すると θ (th) の発音が無声歯摩擦音の [θ] になるし、イタリア語をはじめとするラテン語圏では語尾が a となる。古典ギリシア語的に有気音の φ (ph) を p と気息音の h に分けて読んだり、p だけ発音することもできる。
しかしながら日本人がギリシア語的発音を真似て最後の発音をaにする場合はいくらかの問題が伴う。なぜならシュタイナーは、講義においてアントロポゾフィーとアントロポソフィアを使い分けている場合があるからである。
二つの協会[編集]
また訳語について議論する場合、日本に見られる特殊な状況に鑑みる必要がある。日本におけるシュタイナー研究の第一人者である高橋巖は1985年に日本人智学協会を設立したが、これはスイスのドルナッハに本部ゲーテアヌムを置く普遍アントロポゾフィー協会の日本の邦域協会ではなかった。1986年2月のゲーテアヌム理事会に於いて、同協会は日本ルドルフ・シュタイナー・ハウス(1982年に上松佑二が設立)とともに、邦域協会の前段階とみなされた。1989年に日本ルドルフ・シュタイナー・ハウスは日本アントロポゾフィー協会ルドルフ・シュタイナー・ハウスと改名し、以後二つの協会が存在するようになる。1993年ヨハネ支部が設立され、1994年以降の数年間にわたる邦域協会設立準備会と1999年3月のゲーテアヌム理事会を経て、2000年5月に上松佑二を中心とするメンバーによって、日本アントロポゾフィー協会が、普遍アントロポゾフィー協会の正式な日本の邦域協会として設立された。二協会は互いに独立した団体であり、両者を区別するためにもAnthroposophieという一つの言葉に対して二つの訳語が並立することは避けられない(以上の固有名詞による理由に加えて、概念の相違によって二つの訳語が存在する理由に関しては人智学を参照)。また現在(2013年)では普遍アントロポゾフィー協会の日本支部として、NPO法人日本アントロポゾフィー協会と一般社団法人普遍アントロポゾフィー協会−邦域協会日本の二つの協会、及び四国アントロポゾフィークライスが存在している。
参考文献[編集]
ルドルフ・シュタイナー全集
Steiner, Rudolf: Einführung in die Anthroposophie. Dornach : Rudolf-Steiner-Verlag, 1992. ISBN 3-7274-6560-3
Steiner, Rudolf: Einführung in die Geisteswissenschaft. München : Archiati, 2004. ISBN 3-937078-25-8
アントロポゾフィー一般に関して[編集]
Becker, Kurt E.: Anthroposophie.Revolution von innen, Fischer Verlag, Frankfurt, 1984
Ziegler, Renatus: Anthroposophie : Quellentexte zur Wortgeschichte. In: Beiträge zur Rudolf Steiner Gesamtausgabe, Heft Nr. 121, Herbst 1999 (Hrsg.: Rudolf Steiner-Nachlassverwaltung, Dornach)
Heisterkamp, Jens: Was ist Anthroposophie? Eine Einladung zur Entdeckung des Menschen. Dornach : Verl. am Goetheanum, 2000. ISBN 3-7235-1089-2
Baumann-Bay, Lydie und Andreas: Achtung, Anthroposophie! : ein kritischer Insider-Bericht. Zürich : Kreuz, 2000. ISBN 3-268-00255-2
Badewien, Jan: Die Anthroposophie Rudolf Steiners. München : Evangelischer Presseverband für Bayern, 1994. ISBN 3-583-50662-6
Barz, Heiner: Anthroposophie im Spiegel von Wissenschaftstheorie und Lebensweltforschung. Zwischen lebendigem Goetheanismus und latenter Militanz. Weinheim : Deutscher Studien-Verlag, 1994. ISBN 3-89271-458-4
Lutterbeck, Ernst: Anthroposophie verstehen : eine Einführung nach persönlichen Erfahrungen. Paderborn : Möllmann, 1997. ISBN 3-931156-21-4
さらに詳しい情報[編集]
Binder, Andreas: Wie christlich ist die Anthroposophie? Standortbestimmungen aus der Sicht eines evangelischen Theologen. Stuttgart : Urachhaus Verlag 1989. ISBN 3-87838-611-7 (2. Aufl.)
Kriele, Martin: Anthroposophie und Kirche. Erfahrungen eines Grenzgängers. Freiburg im Breisgau; Basel; Wien : Herder, 1996. ISBN 3-451-23967-1
Okruch, Stefan: Wirtschaft und Anthroposophie - Darstellung und Kritik des Konzepts Rudolf Steiners. Bayreuth : Verlag PCO, 1993. ISBN 3-925710-50-7
Werner, Uwe: Anthroposophen in der Zeit des Nationalsozialismus : 1933 - 1945. München : Oldenbourg, 1999. ISBN 3-486-56362-9
Ravagli, Lorenzo: Unter Hammer und Hakenkreuz : der völkisch-nationalsozialistische Kampf gegen die Anthroposophie. Stuttgart: Verlag Freies Geistesleben, 2004. ISBN 3-7725-1915-6
Bierl, Peter: Wurzelrassen, Erzengel und Volksgeister : die Anthroposophie Rudolf Steiners und die Waldorfpädagogik. Aktualisierte und erweiterte Neuausgabe. Hamburg : Konkret-Literatur-Verlag, 2005. ISBN 3-89458-242-1
脚注[編集]
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1.^ シュタイナーは、生涯の最後の四半世紀の間に約六千回にも及ぶ講義を行い、そこで自身の思想、すなわちアントロポゾフィーに関して語った。それらの講義の多くは速記形式で記録され、後にシュタイナー遺構管理局によって講義録として出版・公開されており、その数は300冊を超える。→シュタイナー全集参照。
多くの場合、講義録の聴衆であった人々は、彼の著作を読み、よく理解したいわば「上級者」であった。それゆえ速記された講義録の内容は、つねに神秘思想としてのアントロポゾフィーの基礎(基本)を欠いた、いわば「内輪向け」の内容であると言える。対して著作はあらゆる読者を想定して書かれており、その内のいくつかは初版以降も何度も見直され、書き直されているという事実(死の数ヶ月前に改定が加えられたものもある)を見れば、彼の著作がその思想を知るにあたって最も信憑性の高い資料であり、講義録はそれに対しては資料価値の低いといえる。よって、ここではもっぱらシュタイナー自身の著作のみを参考文献とする。
2.^ 上述のシュタイナー遺構管理局から、全集45番として『アントロポゾフィー』という著作が出版されているが、それは彼が『神秘学概論』とアントロポゾフィー協会設立の間の時期である1910年(正確には『神秘学概論』は1909年12月の時点ですでに脱稿しており、出版されたのが1910年1月である。またシュタイナーが神智学協会に代わる新しい協会の名前に「アントロポゾフィー」を挙げたのは1912年8月のことである)に書いたフラグメント(断片)である。無論そのことは明記された上での公表である。ちなみに内容は彼が独自に考えて出した感覚論である。
関連項目[編集]
ルドルフ・シュタイナー
アントロポゾフィー協会
人智学
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