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2014年02月14日

キュリー温度

キュリー温度




(キュリー点から転送)

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キュリー温度(―おんど、英: Curie temperature、記号T_{{\mathrm {c}}})とは物理学や物質科学において、強磁性体が常磁性体に変化する転移温度、もしくは強誘電体が常誘電体に変化する転移温度である。キュリー点(―てん、Curie point)とも呼ばれる。ピエール・キュリーより名づけられた。



目次 [非表示]
1 強磁性体のキュリー温度
2 強誘電体のキュリー温度
3 キュリー・ワイスの法則
4 関連項目
5 外部リンク


強磁性体のキュリー温度[編集]

主な強磁性体(*はフェリ磁性体)とそのキュリー温度 (Kittel, p. 449.)


物質名

キュリー温度 (K)

Co 1388
Fe 1043
FeOFe2O3* 858
NiOFe2O3* 858
CuOFe2O3* 728
MgOFe2O3* 713
MnBi 630
Ni 627
MnSb 587
MnOFe2O3* 573
Y3Fe5O12* 560
CrO2 386
MnAs 318
Gd 292
Dy 88
EuO 69

強磁性体におけるキュリー温度は、その温度以上では強磁性の性質が失われる温度(例えば鉄では770℃)である。キュリー温度よりも低い温度では磁気モーメントは磁区の内部で部分的に整列している。温度がキュリー温度へと上昇するに伴い、それぞれの磁区内での磁気モーメントの整列(即ち磁化)は減少する。キュリー温度以上では、物質は純粋な常磁性として振る舞い、磁気モーメントが整列した磁区は消失する(消磁)。

キュリー温度以上の温度領域では、磁場を印加すると磁化に常磁性的な反応が現れる。しかし強磁性と常磁性の交じり合った物質では、磁化には印加磁場の強さに応じたヒステリシス曲線が表れる。キュリー温度での磁化の消失は二次相転移であり、理論的に磁化率が無限大に発散する。この困難を解決するためには、臨界指数を用いることができる。

この効果の応用例は記録メディアの一種である光磁気ディスク (MO) である。光磁気ディスクのデータの消去や書き込みにこの磁性体の特性が用いられている。MO以外にも、ソニーのミニディスクや、一般には普及しなかったCD-MOなどにも応用がされている。

他の使用例としては温度制御があり、Weller社のWTCPTのようにはんだごてや、より一般には温度制御が求められる一部の分野で用いられている。

強誘電体のキュリー温度[編集]

強磁性体との類推により、キュリー温度は強誘電体(圧電物質)が自発分極や圧電特性を失う温度にも用いられる。チタン酸ジルコン酸鉛 (PZT)においては、T_{{\mathrm {c}}}以下では正方晶であり、単位格子の中心には変位した陽イオンがあるため電気双極子をもつ。T_{{\mathrm {c}}}以上では立方晶となり、中心の変位陽イオンはちょうど中心に位置するようになる。よって電気双極子モーメントと自発分極がなくなる。

キュリー・ワイスの法則[編集]

詳細は「キュリー・ワイスの法則」を参照

磁性体においては、キュリー温度以上では、磁化率(帯磁率)をχ、絶対温度をT、キュリー定数をCとしたとき、
\chi ={\frac {C}{T-\theta _{p}}}
という関係が成り立つ。これを、キュリー・ワイスの法則と呼ぶ。ここで\theta _{p}は常磁性キュリー温度などとよばれる。

誘電体でも同様に、誘電率をε、絶対温度をTとしたとき、
\epsilon ={\frac {C}{T-\theta _{p}}}
が成り立つ。このときの\theta _{p}は常誘電性キュリー温度とよばれる。

関連項目[編集]
強磁性体
強誘電体
ピエール・キュリー
キュリーエンジン
ネール温度

フェライト相

フェライト相(ferrite)は、純度100%の鉄において911℃以下の温度領域にある鉄の相(組織)である。この領域において、鉄は体心立方格子構造をとる。αFe、α鉄(アルファてつ)ともいう。ラテン語の鉄『Ferrum』から由来している。

純度100%の鉄において、911℃を超えると、オーステナイトに変化する。この温度をA3点という。

フェライトは、Fe-C状態図において、728℃で最大溶解量0.0218[mass %]までの炭素を固溶できる。この最大溶解量の値が、鉄と鋼の分かれ目となっている。

770℃までは強磁性体である。770℃を超えると常磁性体に変化する。この温度をA2点という。

関連項目[編集]
β鉄
オーステナイト(γ鉄)
デルタフェライト(δ鉄)
パーライト
ソルバイト

地殻

地殻(ちかく、crust)は、天体の固体部分の表層部。マントルの上にあり、大気や海の下にある。

以下では、特に断らない限り、地球の地殻について述べる。



目次 [非表示]
1 地殻の定義
2 地殻の構成元素
3 海洋地殻と大陸地殻 3.1 海洋地殻
3.2 大陸地殻

4 脚注
5 参考文献
6 関連記事
7 外部リンク


地殻の定義[編集]

地球物理学的に言うと、地殻は地上または海底からモホロビチッチ不連続面までの層を指す[1]。地球化学的には、地球表層部に存在し、超苦鉄質岩からなるマントルと対照をなす、珪長質岩、中性岩、苦鉄質岩の層を指す。地球科学書以外の記事では、この「殻」には「地殻」と「リソスフェア」の2通りの呼び方があり、両者がしばしば混同、誤認されている。
地殻地球化学的な観点から地球を深さごとに分けたうち、最も外側に位置するものである。地殻の下に位置するマントルがかんらん岩などの超塩基性岩から成るのに対して、地殻は花崗岩などの酸性岩・安山岩などの中性岩・玄武岩などの塩基性岩から成り、その違いから地殻とマントルを分けている。大陸地殻の厚さは地域変化に富むが、30 - 40kmくらいの地域が多い。他方、海洋地殻はほぼ均一で、6kmくらいである。海洋地域にはごく稀に、地殻が存在せずマントルが直接海底や水面上に露出するメガマリオンと呼ばれる地質構造が存在する。リソスフェアの表層を形成する地殻は、主体をなすマントルと比べ剛性が低い。すなわち「柔らかい」。リソスフェア地球物理学的に定義される地殻と上部マントルの両方にまたがる層である。すなわち、モホロビチッチ不連続面の上部と下部の両方を含む。リソスフェアは、その直下のアセノスフェアマントルと比べて粘性、剛性が非常に高い。一般的な言葉では「硬い」と表現できる。プレートと同義。大陸地域では約120km、海洋地域では約100kmの厚さを持つ。すなわち、大陸地域のリソスフェアは75%がマントル、海洋地域では94%がマントルであり、リソスフェアは主として地殻ではなくマントルから形成されているといえる。その意味で、しばしば「リソスフェア・マントル」 (lithospheric mantle) という用語が用いられる。
地殻の構成元素[編集]

水圏および大気圏を含めた地殻の構成元素の重量比をクラーク数と呼び、このうち岩石圏の主要元素について以下に示す[2]。


元素

割合

O 46.6%
Si 27.7%
Al 8.1%
Fe 5.0%
Ca 3.6%
Na 2.8%
K 2.6%
Mg 2.1%
Ti 0.4%
P 0.1%

海洋地殻と大陸地殻[編集]

マントルは地球規模でほぼ均質であるが、地殻には大陸地殻と海洋地殻の2つの異なる地質構造が存在する。

海洋地殻[編集]

海洋地殻(oceanic crust)は、海底火山の玄武岩質の噴出物等および同種のマグマに由来する斑れい岩質の貫入岩体から構成され、厚さは平均6km程度。大陸地殻と比べ、FeO、MgO を多く含みSiO2が低く、苦鉄質、塩基性である。深海底掘削船「ちきゅう」は海底から深さ7kmまで掘削することができるが、これは地殻を貫通しマントルに到達する目的で設計された。

大陸地殻[編集]

大陸地殻(continental crust)は、30km程度の厚さがある。大陸や日本列島などを構成する地殻である。大規模な山岳地帯ではとくに厚く、チベットでは60〜70kmにおよぶ。これは地殻を構成する岩石の密度が約2.7〜3.0g cm−3でありアイソスタシーが成立しているためである。

多数の岩石の分析結果より推定された大陸性地殻の平均化学組成は、
二酸化ケイ素 SiO2 59.8%
酸化アルミニウム Al2O3 15.5%
酸化カルシウム CaO 6.4%
酸化鉄 FeO 5.1%
酸化マグネシウム MgO 4.1%

であり、塩基性の岩石だけではなく、花崗岩、片麻岩などの SiO2 を多く含む酸性の岩石からも構成される。

大陸地殻の体積は地球全体から見ると非常に小さいが、地球に存在する カリウム40、トリウム232、ウラン235、ウラン238などの放射性元素の約半分が高度に濃集している。またバリウムおよび希土類元素なども地殻に濃縮している。このことはCIコンドライト隕石の組成との比較から言えることであるが、これはカリウムが主に長石に集中しやすく、かつトリウムおよびウランなどはイオン半径および電荷が大きいなどの特殊性から、主にマントルを構成すると考えられるかんらん岩には固溶しにくく排除されやすいためである[2]。

第二次世界大戦以前には、大陸地殻は花崗岩質の「上部地殻(A層)」(シアル, SiAl)と、玄武岩質の「下部地殻(B層)」(シマ, SiMa)に分かれているとされた。大陸地殻下部は海洋地殻につながると考えられ、大陸地殻が海洋地殻の上に浮かんでいるようなモデルが想像されていた。しかし、第二次世界大戦以後の研究で、現在では大陸地殻内にこのような極端な物質境界は存在しないことがわかっている。大陸地殻は水平分布において非常に不均質であるが、大まかに見ると上部は比較的シリカの多い酸性岩(花崗岩質、流紋岩質)が多い傾向にあり、下部はそれよりややシリカの少ない中性岩(閃緑岩質、安山岩質)が多い傾向にある。両者の境界は複雑に入り組んだ一種の漸移動関係とされている。もちろん、大陸地殻下部と海洋地殻は明瞭に異なる地質構造である。

脚注[編集]

[ヘルプ]

1.^ 島津康男 『地球内部物理学』 裳華房〈物理科学選書〉、1966年。
2.^ a b B.メイスン 『一般地球化学』 松井義人・一国雅巳訳、岩波書店、1970年。

参考文献[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。

関連記事[編集]

ウィキメディア・コモンズには、地球の構造に関連するカテゴリがあります。
モホロビチッチ不連続面
地殻中の元素の存在度
ボーリング

カール・ヴィルヘルム・シェーレ

カール・ヴィルヘルム・シェーレ(Karl (または Carl) Wilhelm Scheele、1742年12月9日 - 1786年5月21日)はスウェーデンの化学者・薬学者。酸素をジョゼフ・プリーストリーとは別に発見したことで有名である。金属を中心とする多数の元素や有機酸・無機酸を発見している。現在の低温殺菌法に似た技法も開発していた。

当時スウェーデン領であったポメラニア地方のシュトラールズントに生まれた。14歳で薬剤師の徒弟として働き始め、その後も薬剤師としてストックホルム、ウプサラ、ケーピンなどで働いた。当時の薬剤師は薬品の精製のために化学実験の装置をもっていたため、シェーレも化学に精通していた。多くの大学からの招聘にもかかわらず学者にはならず、ケーピンで没した。シェーレが若死にしたのは同時代の化学者の例に漏れず、危険な実験条件のもとで研究を進めたためだと考えられている。また彼には物質を舐める癖があったため、毒性のある物質の毒にあたったのではともされる。

酸素と窒素の発見を逃す[編集]

1771年 - 1772年に軟マンガン鉱を濃硫酸に溶かして加熱し、発生した気体を動物の膀胱で作った袋に蓄えた。ろうそくの火にこの気体を吹き付けると明るく輝くことを発見し、濃硫酸 (vitriol oil) の名前から「ビトリオル空気」(後に「火の空気」)と呼んだ。これが今で言う酸素である。酸化水銀(II)や硝石を加熱からも同じ気体を回収している。1773年の時点で実験をすべて完了した。シェーレはこれらの実験結果を「熱は『火の空気』とフロギストンからなり、酸化水銀(II)の実験は熱によって『火の空気』が追い出される現象である」と解釈した。

さらに水素と空気の燃焼実験により、「火の空気」が空気の約1/5の体積を占め、空気の主成分が「火の空気」ともう一種類の気体(窒素)であることも見出した。

シェーレの酸素の研究は、発見こそプリーストリーよりも早かったが、実験結果を著書『空気と火について』(Chemische Abhandlung von der Luft und dem Feuer) にまとめたのが1777年と遅かった。プリーストリーは酸素の発見論文を1775年に王立協会に提出しているため、現在では酸素の発見者はプリーストリーとされる。

シェーレの発見した元素と化合物[編集]
1769年 - 酒石酸の発見
1771年 - 四フッ化ケイ素の発見(蛍石から)
1773年 - 骨灰を原料とするリンの安価な製法を発見
1774年 - バリウムの発見(軟マンガン鉱の不純物として)
1774年 - 塩素の発見(塩酸を二酸化マンガンで酸化)
1774年 - マンガンの発見(軟マンガン鉱から、単離は助手のJ.G.Gahn)
1774年 - アンモニアの合成
1775年 - ヒ酸の発見
1778年 - モリブデンの発見(輝水鉛鉱から)、シェーレグリーン (顔料CuHAsO3)の合成
1779年 - グリセリンの発見(オリーブ油の加水分解生成物から)
1780年 - 乳酸の発見(腐敗した牛乳から)
1781年 - タングステンの発見(灰重石から酸化タングステン(VI)を単離、灰重石を英語でシェーライトと呼ぶ)

このほかクエン酸・シアン化水素(シアン化水素酸の別名をシェーレ酸という)・シュウ酸・フッ化水素・酪酸・硫化水素を発見した。

タスマニア州

タスマニア州(英: Tasmania、略号:TAS)は、オーストラリア本土の南方海上に位置する州である。州都は最大の都市であるホバート。



目次 [非表示]
1 歴史
2 地理
3 気候
4 生物
5 経済
6 交通
7 教育
8 世界遺産
9 近年の出来事
10 タスマニア州を扱った作品
11 参考資料
12 姉妹都市
13 脚注
14 関連項目
15 外部リンク


歴史[編集]

1642年オランダ人探検家アベル・タスマンが到達し、当時のオランダ東インド会社総督ヴァン・ディーメンにちなんで「ヴァン・ディーメンス・ラント」と命名された。後にイギリスからの移住民により、タスマニア島と改名された。この頃はオーストラリア大陸の一部と考えられていた。

1803年にシドニーから最初の植民が行われた。初期の植民者は流刑囚とその看守であり、南東部のポート・アーサーと西海岸のマッカリー・ハーバーが流刑植民地となった。1826年12月3日ニューサウスウェールズ植民地から分離した。オーストラリアの植民地政府としては2番目の古さである。島の原住民タスマニア・アボリジニ(英語版)とは1830年代までブラック・ウォーと呼ばれる戦争を起こしたが、タスマニア・アボリジニたちはフリンダーズ島へ強制移住させられるなど激減し、純血のタスマニア・アボリジニはハンティングの獲物とされたといった悲劇を経て1876年に絶滅している。なお、白人との混血は存続している(w:アボリジニとはだれか)。1901年オーストラリア連邦の成立にともない州となった。

地理[編集]

オーストラリア大陸南東部から240キロ南方海上(オーストラリアの定義では南極海)に浮かぶタスマニア島はバス海峡によって隔てられている。海峡は1〜2万年前の最終氷期には繋がっていた。島は北海道より少し小さめ(約8割)で、起伏の多い地形。原生林などの自然がよく残る。

同州の標準時(オーストラリア東部標準時:(A)EST)はUTC+10時間(日本標準時+1時間)である。夏時間((A)EDT = UTC+11時間)の開始は10月の第一日曜日早朝、終了は翌年4月の第一日曜日早朝である。

オーストラリアで最も山が多く、現在、火山活動は無い。最高地点はオッサ山 (Mount Ossa) の標高1617m。中央高地から海岸に何本も川が流れ、州内の電力需要を賄う。





中央高地
気候[編集]

4つの季節がある。夏は12月から2月で、最高気温は海岸で平均21℃、内陸で17℃から24℃である。秋は3月から5月。天気が変わりやすい。冬は6月から8月で、最高気温は海岸で平均12℃、内陸は雪が多く3℃である。春は9月から11月までだが、10月まで雪が降ることがよくある。熱波が襲った2009年には最高42℃を記録した。年間降水量は西部では海岸の1500mmから雪が多い山地の2700mmへ変化し、人口が多い北部では700mmから1000mmと少ない。東部は日照が多い。

生物[編集]





タスマニアンデビル




ウォンバット
ホワイトワラビー、ハリモグラ、フェアリーペンギン、オットセイ、イルカ、クジラ、アワビが生息、トロワナ・ワイルドライフパークでは初のタスマニアンデビルの繁殖、カンガルー、パディメロン、ウォンバットを見る事ができる。タスマニアンタイガーは絶滅したとみられる。

経済[編集]

伝統的な主要産業は鉱業(銅、亜鉛、錫、鉄)、林業、農業、観光である。1990年代に製造業が衰退し、シドニーやメルボルンに移住する熟練労働者が増えた。政府部門が最大の雇用者である。州民所得はオーストラリア全州で最も低く、州政府の予算はブリスベン市程度の規模しかない。また近年大規模な森林の伐採が行われ、環境破壊が問題となった。2001年以降、経済が飛躍的に回復し、とくに本土や海外からの移住増加もあって住宅価格が上昇した。

交通[編集]

ホバート国際空港は1998年から国際線の定期便運行を停止している。国内のメルボルン、シドニー、ブリスベーン、アデレードを結ぶカンタス航空とその子会社の定期便が運航しており、とくに格安便による最近の旅客増加は国内第二となった。

州政府がデボンポートとメルボルン間にバス海峡を横断する週6便のフェリーを運航している。

島内は高速道路含め道路が整備されている。鉄道は4都市と鉱業・林業のために使われていたが、1977年以降、一部観光地域を除き、旅客サービスが無くなった。





ホバート国際空港




フェリー
教育[編集]
タスマニア大学 (UTAS) : ホバート、ローンセストン

世界遺産[編集]
タスマニア原生地域 - (1982年、複合遺産)

近年の出来事[編集]
1996年4月29日、当時29歳の白人男性が無差別発砲で観光客や住民35名を射殺し、37名に負傷させた。ポートアーサー事件と呼ばれる。
2004年5月14日、タスマニア出身のメアリー・ドナルドソンがコペンハーゲンでデンマーク皇太子フレゼリクと結婚式を挙行した。
2005年5月 - 女性教師が男子生徒らに性的暴行を行ったとして逮捕された。タスマニアの教育界はこの問題で教師のための倫理規則を採用しなければならない状況になった。(オーストラリア連続少年暴行事件)
2009年6月 - タスマニア大学に留学していた26歳の中国人女子学生が、21歳の2人のオーストラリア人男性によって殺害された。その後に行われた追悼集会の最中にも、現地若者から集会に参加していた留学生に対し野次が飛ばされ、留学生の中には帰国する者もでた。

タスマニア州を扱った作品[編集]
映画「タスマニア物語」(1990年、日本)
小説「グールド魚類画帖 Gould's Book of Fish」 リチャード・フラナガン(2001年、タスマニア)
小説「英国紳士、エデンへ行く English Passengers」 Matthew Kneale (2000年、英国)

参考資料[編集]
タスマニア最後の「女王」トルカニニ 松島駿二郎著 草思社

姉妹都市[編集]
日本の旗 焼津市(日本) 1977年から
イタリアの旗 ラクイラ(イタリア)
イタリアの旗 バリーレ(イタリア)

脚注[編集]

1.^ 5220.0 – Australian National Accounts: State Accounts, 2009–10.
2.^ “3101.0 – Australian Demographic Statistics, Mar 2012”. オーストラリア統計局 (2012年9月27日). 2012年10月5日閲覧。
3.^ “LISTmap (Mount Ossa)”. Tasmanian Government Department of Primary Industries and Water. 2007年10月6日閲覧。

紅鉛鉱

紅鉛鉱(こうえんこう、crocoite、クロコアイト)は鉱物(クロム酸塩鉱物)の一種。化学組成はクロム酸鉛(II)(PbCrO4)で、鉛の二次鉱物。単斜晶系。

1766年にエカチェリンブルク付近のベレゾフ鉱山で発見され、その色彩からギリシャ語で「サフラン」を意味する κροκος にちなみ命名された。1770年にペーター・ジーモン・パラスにより、この鉱物が鉛を含むこと及び油絵具の原料に向くことが指摘され、「シベリアの赤い鉛」と呼ばれて珍重された。1797年にフランスのルイ=ニコラ・ヴォークランにより紅鉛鉱からクロムが発見された。

現在はタスマニア島から多く産出する。

関連項目[編集]
鉱物 - クロム酸塩鉱物
鉱物の一覧
クロム、クロム酸鉛(II)

ルイ=ニコラ・ヴォークラン

ルイ=ニコラ・ヴォークラン(Louis-Nicolas Vauquelin 、1763年5月16日 - 1829年11月14日)はフランス・ノルマンディー出身の化学者・薬剤師である。1797年にクロム、1798年にベリリウムを発見した。有機化学の分野でもアスパラギン、リンゴ酸、ショウノウ酸、キナ酸などを発見している。

1783年から1791年までアントワーヌ・フールクロア(w:Antoine Fourcroy、1755年6月15日 - 1809年12月16日)の助手になった。フランス革命中は国外に逃れたが、1794年帰国すると、エコール・デ・ミーヌ(国立鉱山学校)の化学の教授、1809年からパリ大学の教授になった。

フレイヤ

フレイヤ(Freja, Freyja)は、北欧神話における女神の1柱。ニョルズの娘であり、フレイの双子の妹[1]。ヴァナディースとも呼ばれる[2]。

カナ表記はフレイア、フレイアー、あるいはドイツ語風にフライア、フライヤとも。綴りは英語やドイツ語では(専門家以外は)Freyaが多い。他にFreiaなど。

美、愛、豊饒、戦い、そして魔法や死を守護する北欧神話の太母。美しい女性の姿をしており女性の美徳と悪徳を全て内包した女神で、非常に美しく、自由奔放な性格で、欲望のまま行動し、性的には奔放であった。

またフレイヤは月の女神でもある。(『月の魔法』著者:ロリー・リード より)



目次 [非表示]
1 概要
2 関係者
3 財産
4 動物
5 主なエピソード 5.1 愛を司る女神
5.2 豊穣の女神
5.3 死者を迎える女神
5.4 黄金を生み出す女神
5.5 その他

6 人間との関わり
7 脚注
8 参考文献


概要[編集]

フレイヤはヴァン神族の出身であり、ヴァン神族とアース神族の抗争が終了し和解するにあたり、人質として父、兄とともにアースガルズに移り住んだとされている[1]。

関係者[編集]

兄は豊穣神フレイ。父は海神ニョルズ。母はニョルズの妹[3]。夫はオーズ[4][5](おそらくアース神族)。娘はフノス[6][5]、ゲルセミ[5]。愛人にオッタル[7](人間)。

財産[編集]





ニルス・ブロメールによって描かれた、猫が牽く車に乗るフレイヤ。彼女の館はフォールクヴァングといい、その広間セスルームニルは広くて美しいといわれており、そこで戦死者を選び取るとされている[8][9]。
ブリーシンガルの首飾り[10]もしくはブリージンガメン[2]という、神をも魅了する黄金製(もしくは琥珀製)の首飾りを所持している。

動物[編集]
豊饒の女神でもあるフレイヤは動物との関わりも多い。多産な豚は彼女の聖獣である。
移動手段として、2匹の猫が牽く車を持っている[9][11]。ヒルディスヴィーニというイノシシも持っていてこれに乗って移動することもある。愛人のオッタルが変身した姿ともいわれている[12]。
フレイヤ自身も動物に変身することがある。フレイヤは夜になると牝山羊に変身して牡山羊と遊ぶという。他に着ると鷹に変身できる鷹の羽衣をもっており、この羽衣は何度かロキに貸している。

主なエピソード[編集]

愛を司る女神[編集]





フレイヤが小人の洞窟で首飾りを見つける場面。




17世紀の写本『AM 738 4to』に描かれたフレイヤ。
性に関してだらしない点があり、首飾りを手に入れる際も、製作した4人の小人たちに求められるまま、4夜をともに過ごしたとされる[13]。人間や神々の中にも多くの愛人がいたという。特にお気に入りだったのが人間の男性オッタルで、彼を猪に変身させてそれに乗って移動することもあったという。そのためか、夫オーズに離縁されている。

フレイとも関係を持った事があるが、ヴァン神族において近親婚は日常的に行われる。『古エッダ』の『ロキの口論』においても、ロキから、フレイヤが兄と一緒にいるときに神々が乱入したことを指摘されている[14]。

人間が恋愛問題で祈願すれば喜んで耳を傾けるともいわれている[9]。

名前の類似からフリッグ(別名フリーン)と混同されやすい。また、愛の女神という点でウェヌスと同一視される。

豊穣の女神[編集]

兄のフレイと共に豊穣神としてアース神族の最重要神とされる。

霜の巨人からしばしば身柄を狙われている。たとえば、破壊されたアースガルズの城壁の建設を請け負った石工は、正体が山の巨人であったが、報酬として望んだのはフレイヤと太陽と月であった[15][16]。また、巨人スリュムがアース神のトールの持つ最強の武器を盗み、返却の条件として出したのは自身とフレイヤとの結婚であった[17]。巨人フルングニルがヴァルハラ宮内で酒に酔った時は、フレイヤとシヴだけを自分の国へ連れて行き後は皆殺しにするなどと豪語した[18]。

死者を迎える女神[編集]

『古エッダ』や『ギュルヴィたぶらかし』では、戦場で死んだ勇敢な戦士を彼女が選び取り、オーディンと分け合うという記述がある。なぜ彼女が主神と対等に戦死者を分け合うとされているのか、理由ははっきりしていない。戦死者をオーディンの元へ運ぶのはワルキューレの役割であるため、フレイヤが彼女たちのリーダーだからと考える研究者もいる。あるいはフレイヤとオーディンの妻フリッグ(別名フリーン)は同じ女神の別の時期の名前であって2人は同一人物だった可能性もあるという。フレイヤがオーディンの妻ならば死者を夫と分け合うのは不自然なことではない。(詳しくはオーズを参照。)さらに、キリスト教への改宗が進んだ時期にはフレイヤがフリッグの地位を占めるようになっていたとも考えられる。その一例として、アイスランドの首領のヒャルティ・スケッギャソンが999年のアルシングの会場で旧来の神々を冒涜した際に謡った詩は、「2匹の犬つまり淫婦のフレイヤとオーディンを一緒にしろ」という趣旨の、2人の関係をほのめかす内容であった[19]。

女性が死んだ際にフレイヤの元へ迎えられるという伝承もあり、サガにおいて、自殺すると決めた女性が、フレイヤの元で食事するまでは断食を続けると語る場面がある[20]。

黄金を生み出す女神[編集]

『巫女の予言』に登場する女性グルヴェイグの正体は彼女だと考えられている。「グルヴェイグ(Gullveig)」という名は「黄金の力」を意味し[21]、黄金の擬人化、または黄金の力が女性の姿をとった存在だとされている[22]。

フレイヤが行方不明になった夫を捜して世界中を旅する間に流した赤い涙は、地中に染み入って黄金になったとされている[6]。そのため黄金は、フレイヤの名乗った別名から「マルデルの涙」と呼ばれることもある[23]。

その他[編集]

グルヴェイグに関連したエピソードとして、グルヴェイグは「セイズ(英語版)」という魔法を使って人々をたぶらかした[15]が、フレイヤもセイズを使うことができ、オーディンに教えたとされている[24]。セイズの本質は人の魂を操る事にあり、霊を呼び寄せて予言を受けたり、己の肉体から魂を分離して遠くで起きた事を知る事ができたという。セイズの使い手は女性とされ、男性が使う事は不快がられた。オーディンがセイズを使う事に対してロキは女々しいやり方と罵倒している。

行方不明のオーズを探す間にフレイヤは様々な異名を名乗った。たとえばMardöll(マルドル、マルデル)、Hörn(ホルン、ホーン)、Gefn(ゲヴン、ゲフン)、Sýr(スュール、シル)が知られている[2]。

女神ゲフィオン(Gefjun)にはフレイヤとの共通点がみられる。フレイヤの別名の中には「ゲヴン」(Gefn)という、「ゲフィオン」に似た名前がある。またフレイヤが女性の死者を迎えるように、ゲフィオンも処女で死んだ女性を迎えている。山室静は2人を同一神格と考えるには材料が不十分としている[25]が、H.R.エリス・ディヴィッドソン(英語版)は「ゲフン」とゲフィオンが関連していると考えている[26]。

出典のはっきりしないエピソードであるが、ラグナロクが到来する前にフレイヤは「どこかへ行ってしまう」ともいわれている。

人間との関わり[編集]





スウェーデンのストックホルム・ユールゴーデン、ユールゴーズブロン(英語版)にあるフレイヤの像。




J. Penroseによって描かれたフレイヤ。
ウィキメディア・コモンズには、フレイヤに関連するカテゴリがあります。
ドイツ語で「女性」を意味する「フラウ」(Frau)の語源といわれている。
高貴の婦人をフローヴァ(奥方)という尊称はフレイヤからきているという。
第二次世界大戦中にドイツ軍が使用した対空レーダー「フレイヤ」も彼女が由来である。
原子番号23の元素バナジウム(Vanadium)は、同じくこの女神の英名バナジス(ヴァナディース、Vanadis)にちなんで命名された。
1862年に発見された小惑星も彼女にちなんで(76)「フレイア(Freia)」と命名された。同様に、1884年に発見された小惑星には(240)「ヴァナディース(Vanadis)」と命名された。
金曜日(Friday)はフレイヤの日とされる。

脚注[編集]

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1.^ a b 『北欧の神話』122頁。
2.^ a b c 『エッダ 古代北欧歌謡集』252頁(『スノッリのエッダ』第一部『ギュルヴィたぶらかし』35章)。
3.^ 『ヘイムスクリングラ 北欧王朝史(一)』39頁(『ヘイムスクリングラ』の『ユングリング家のサガ』)。
4.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』11頁(『古エッダ』の『巫女の予言』)。
5.^ a b c 『ヘイムスクリングラ 北欧王朝史(一)』52頁(『ユングリング家のサガ』)。
6.^ a b 『エッダ 古代北欧歌謡集』251頁(『ギュルヴィたぶらかし』35章)。
7.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』212頁(『古エッダ』の『ヒュンドラの歌』)。
8.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』53頁(『古エッダ』の『グリームニルの歌』第14節)。
9.^ a b c 『エッダ 古代北欧歌謡集』245頁(『ギュルヴィたぶらかし』24章)。
10.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』90頁(『古エッダ』の『スリュムの歌』第13節)。
11.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』272頁(『ギュルヴィたぶらかし』49章)。
12.^ 『北欧神話』(デイヴィッドソン)188頁。
13.^ 『北欧の神話』124頁。
14.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』83-84頁。
15.^ a b 『エッダ 古代北欧歌謡集』11頁(『古エッダ』の『巫女の予言』)。
16.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』258-259頁(『スノッリのエッダ』42章)。
17.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』89-92頁(『スリュムの歌』)。
18.^ 『「詩語法」訳注』24-25頁(『スノッリのエッダ』第二部『詩語法』)。
19.^ 『北欧の神話』125-127頁。
20.^ 『北欧の神話』126頁。
21.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』122頁。
22.^ 『巫女の予言 エッダ詩校訂本』168頁。
23.^ 『北欧の神話』127頁。
24.^ 『北欧の神話』55頁。
25.^ 『北欧の神話』171頁。
26.^ 『北欧神話』(デイヴィッドソン)186頁。

参考文献[編集]
H.R.エリス・デイヴィッドソン『北欧神話』米原まり子、一井知子訳、青土社、1992年、ISBN 978-4-7917-5191-4。
V.G.ネッケル他編『エッダ 古代北欧歌謡集』谷口幸男訳、新潮社、1973年、ISBN 978-4-10-313701-6。
シーグルズル・ノルダル『巫女の予言 エッダ詩校訂本』菅原邦城訳、東海大学出版会、1993年、ISBN 978-4-486-01225-2。
スノッリ・ストゥルルソン『ヘイムスクリングラ - 北欧王朝史 -(一)』谷口幸男訳、プレスポート・北欧文化通信社、2008年、ISBN 978-4-938409-02-9
谷口幸男「スノリ『エッダ』「詩語法」訳注」『広島大学文学部紀要』第43巻No.特輯号3、1983年。
山室静『北欧の神話 神々と巨人のたたかい』筑摩書房〈世界の神話 8〉、1982年、ISBN 978-4-480-32908-0。

セメント

セメント (Cement) とは、一般的には、水や液剤などにより水和や重合し硬化する粉体を指す。広義には、アスファルト、膠、樹脂、石膏、石灰等や、これらを組み合わせた接着剤全般を指す。

本項では、モルタルやコンクリートとして使用される、ポルトランドセメントや混合セメントなどの水硬性セメント(狭義の「セメント」)について記述する。



目次 [非表示]
1 歴史
2 種類 2.1 ポルトランドセメント
2.2 混合セメント
2.3 特殊セメント

3 用途
4 安全性
5 セメント産業 5.1 日本のセメントに因む地名

6 脚注・出典
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク


歴史[編集]

セメントの利用は古く、古代エジプトのピラミッドにもモルタルとして使用されたセメント(気硬性セメント)が残っている。水酸化カルシウムとポゾランを混合すると水硬性を有するようになることが発見されたのがいつごろなのかは不明だが、古代ギリシアや古代ローマの時代になると、凝灰岩の分解物を添加した水硬性セメントが水中工事や道路工事などに用いられるようになった[1]。そういった時代には自然に産出するポゾラン(火山土や軽石)や人工ポゾラン(焼成した粘土、陶器片など)を使っていた。ローマのパンテオンやカラカラ浴場など、現存する古代ローマの建物にもそのようなコンクリートが使われている[2]。ローマ水道にも水硬性セメントが多用されている[3]。ところが、中世になるとヨーロッパでは水硬性セメントによるコンクリートが使われなくなり、石壁や石柱の芯を埋めるのに弱いセメントが使われる程度になった。

現代的な水硬性セメントは、産業革命と共に開発され始めた。これには以下の3つの必要性が影響している。
雨の多い季節に建物の表面仕上げをするのに水硬性の漆喰が必要とされた。
海水にさらされるような築港工事などで水硬性のモルタルが必要とされた。
より強いコンクリートの開発。

産業革命時代に急成長を遂げたイギリスでは、建築用のよい石材の価格が上がったため、高級な建物であってもレンガ造りにして表面を漆喰で塗り固めて石のように見せかけるのが一般化した。このため水硬性の石灰が重宝されたが、固まるまでの時間をより短くする必要性から新たなセメントの開発が促進された。中でもパーカーのローマンセメントが有名である[4] 。これはジェームズ・パーカー (James Parker) が1780年代に発明し、1796年に特許を取得した。それは実際には古代ローマで使われていたセメントとは異なるが、粘土質の石灰石を1000-1100℃と推定される高温で焼成し、その塊を粉砕して粉末としたセメントであり、天然の原料をそのまま使っていた。これを砂と混ぜたものがモルタルとなり、5分から15分で固まった。このローマンセメントの成功を受けて、粘土と石灰を人工的に配合して焼成してセメントを作ろうとする者が何人も現れた。

イギリス海峡の三代目エディストン灯台の建設(1755年 - 1759年)では、満潮と満潮の間の12時間で素早く固まる上に、ある程度の強度を発揮する水硬性モルタルを必要とされた。この時土木工学者のジョン・スミートンは生産現場にも出向き、入手可能な水硬性石灰の調査を徹底的に行ったことで石灰の「水硬性」は原料の石灰岩に含まれる粘土成分の比率と直接関係していることに気づいた。しかし土木工学者のスミートンはこの発見をさらに研究することはなかった。この原理は19世紀に入ってルイ・ヴィカーにより再発見されたが、明らかに彼はスミートンの業績を知らなかったと思われる。1817年、ヴィカーは石灰と粘土を混合し、それを焼成して「人工セメント」を生産した。ジェームズ・フロスト[5]はイギリスで「ブリティッシュセメント」と呼ばれるほぼ同じ製法のセメントを同時期に開発したが、特許を取得したのは1822年だった。1824年、イギリス・リーズの煉瓦積職人ジョセフ・アスプディンが同様の製法について特許を取得し、これを「ポルトランドセメント」と称した。このポルトランドセメントは今日のセメントの主流であり、単にセメントと言った場合このポルトランドセメントを指すことが多い。ポルトランドセメントのスペルは、Portland cementであり、アスプディンはイギリス人であり、イングランドのポートランド島特産の石灰石の色調ににていたことから、Portland cementと命名された。

これらの製品は石灰とポゾランによるコンクリートに比べると、固まる時間が早すぎ(施工可能な時間が不十分)固まった直後の強度が不十分だった(型枠を外すのに数週間かかる)。天然セメントも人工セメントも、その強度は含有するビーライト(Ca2SiO4)の比率に依存する。ビーライトによる強度は徐々に高まっていく。1250℃以下で焼成されているため、現代のセメントで素早く強度を発揮するエーライト(Ca3SiO5)を含んでいない。エーライトを常に含有するセメントを初めて製造したのは、ジョセフ・アスプディンの息子ウィリアム・アスプディンで、1840年代のことである。こちらが今日も使われているポルトランドセメントと同じものである。ウィリアム・アスプディンの製法には謎があったため、ヴィカーやI・C・ジョンソンが発明者だとされていたが、ウィリアムがケントのノースフリートで作ったコンクリートやセメントに関する最近の調査[6]で、エーライトをベースとしたセメントであることが判明した。しかしウィリアム・アスプディンの製法は「大雑把」なもので、現代的セメントの化学的基盤を確立したのはヴィカーと言っていい。またジョンソンは、混合物を窯の中で焼成することの重要性を確立した。

ウィリアム・アスプディンの行った改良による製法では(父が集めるのに苦労していた)石灰をより多く必要とし、窯の温度もより高くする必要があり(そのため燃料も多く消費する)、出来上がったクリンカーは硬すぎて石臼がすぐに磨り減ってしまうという問題があった(当時、クリンカーを粉にする方法は石臼しかなかった)。このため製造コストがかなり高くなったが、その製品は適度にゆっくり硬くなり、固まると即座に強度を発揮するもので、製造過程にデメリットがたくさんあっても用途が格段に広がった。1850年代以降、コンクリートが建築にどんどん使われるようになり、セメントの用途のほとんどを占めるようになった。

日本では、幕末の頃に高価なフランス製のポルトランドセメントを輸入したのが最初とされる。 1875年(明治8年)、日本で最初の官営セメント会社である深川セメント製造所にて、当時の工部省技術官宇都宮三郎がポルトランドセメントの製造に成功した。その後、1884年にこの工場は民間に払い下げとなり、日本セメント(現在の太平洋セメント)となった。また、1881年には山口県小野田市に、民営セメント工場として最初のセメント製造会社小野田セメント(現在の太平洋セメント)が誕生した。当時の生産高は両工場で月産約230t程度であった。

種類[編集]

セメントは、「ポルトランドセメント」、ポルトランドセメントを主体として混合材料を混ぜ合わせた「混合セメント」、その他の「特殊セメント」の3つに大別される。

ポルトランドセメント[編集]

「ポルトランドセメント」を参照

ポルトランドセメントには、用途に合わせた品質・性質の異なる種類がある。一般的な工事・構造物に使用される「普通ポルトランドセメント」、短期間で高い強度を発現する「早強ポルトランドセメント」、水和熱が低い「中庸熱ポルトランドセメント」、セメントよりも白色である「白色ポルトランドセメント」が主な種類である。

混合セメント[編集]
高炉セメント製鉄所の銑鉄製造工程である高炉から生成する副産物である高炉スラグの微粉末とポルトランドセメントを混合したセメントである。セメントの水和反応で発生した水酸化カルシウムなどのアルカリ性物質や石膏などの刺激により水和・硬化する性質がある。初期強度は普通ポルトランドセメントよりも低いが、この性質により長期にわたって強度が増進し、長期強度は普通ポルトランドセメントを上回る場合もある。海水や化学物質に対する抵抗性に優れ、港湾やダムなどの大型土木工事に使用される。JISでは JIS R 5211 で規定され、高炉スラグの分量により A種 (5-30%)、B種 (30-60%)、C種 (60%-70%) に分類される。ドイツでは20世紀の初頭から製造され、日本では八幡製鐵所で1913年(大正2年)に製造されたのが始まりである。シリカセメント二酸化珪素(シリカ)を60%以上含む天然のシリカ質混合材とポルトランドセメントを混合したセメントである。耐薬品性を要する化学工場に使用される。JISでは JIS R 5212 で規定されている。現在ではほとんど生産されていない。フライアッシュセメントフライアッシュ(火力発電所で発生する石炭の焼却灰)とポルトランドセメントを混合したセメントである。球形のフライアッシュを混合するため、このセメントを使用するコンクリートは流動性が改善されワーカビリティに優れる。また、フライアッシュに含まれる二酸化ケイ素が水和反応によって生じた水酸化カルシウムと反応(ポゾラン反応)し、緻密で耐久性に優れたケイ酸カルシウムの水和物を発生させる。そのため水密性があり、港湾やダムなど水密性が要求される構造物で使用される。JISでは JIS R 5213 で規定され、フライアッシュの分量により A種 (5-10%)、B種 (10-20%)、C種 (20-30%) に分類される。日本では宇部興産で1956年(昭和31年)に製造されたのが始まりである。
特殊セメント[編集]
アルミナセメントアルミニウムの原料であるボーキサイトと石灰石から作られる、酸化アルミニウム(アルミナ)を含むセメントである。練混ぜた後すぐに強い強度を発揮し、耐火性・耐酸性がある。緊急工事や寒冷地での工事、化学工場での建設工事、耐火物などに使用される。
用途[編集]

ポルトランドセメントと混合セメントは、土木・建築用のコンクリートやモルタルの材料として使用される。

セメントに水を練り混ぜたものはセメントペーストと呼ばれ、それに細骨材(砂)を加えたものがモルタルである。モルタルに粗骨材(砂利)を混ぜあわせたものはコンクリートと呼ばれる。モルタルやコンクリートは化学混和剤を添加し、さらに、空気量も適度に確保するように考慮して設計・製造される。

安全性[編集]

セメントは、水と反応すると水酸化カルシウムを発生させ、強いアルカリ性を示す性質がある。そのため、目や鼻、皮膚に対して刺激性、溶解性があり、硬化前のセメントが付着した状態が続くと目の角膜や鼻の粘膜、皮膚に炎症や出血が起きる可能性がある(セメント皮膚炎)。完全に硬化した後のセメント(モルタル・コンクリート)の場合は水酸化カルシウムは二酸化炭素と反応し中性の炭酸カルシウムとなっているので、炎症を引き起こす可能性は多くの場合ない。

セメントの粉塵は平均粒径が10μm程度の微粉末であるため発塵性があり、多量のセメントを吸引すると塵肺になる可能性がある。また、セメントは高温で焼く製造過程で、原料中の三価クロムが六価クロムに変化し、微量にこれを含んでいる。

セメント産業[編集]

セメント製造量の上位5か国は、順に中華人民共和国、インド、アメリカ合衆国、日本、大韓民国である。また、ラファージュ(フランス)、ホルシム(スイス)、セメックス(メキシコ)、ハイデルベルグセメント(ドイツ)、イタルチェメンティ(イタリア)の大手セメントメーカー5社は「セメントメジャー」と呼ばれる。

[icon] この節の加筆が望まれています。

日本のセメントに因む地名[編集]





「セメント町」の町名標山口県山陽小野田市セメント町 - 小野田セメント(現・太平洋セメント)の創業の地であることに由来。
大分県津久見市セメント町 - 太平洋セメントの工場があることに由来。
神奈川県川崎市川崎区セメント通り - 浜町3・4丁目地内を神奈川県道101号扇町川崎停車場線から産業道路へ抜ける道の名称。産業道路の先の浅野町に太平洋セメントの前身の一つである浅野セメント工場があったことに由来する。

脚注・出典[編集]

1.^ Hill, Donald: A History of Engineering in Classical and Medieval Times, Routledge 1984, p106
2.^ PURE NATURAL POZZOLAN CEMENT
3.^ Aqueduct Architecture: Moving Water to the Masses in Ancient Rome
4.^ A J Francis, The Cement Industry 1796-1914: A History, David & Charles, 1977, ISBN 0-7153-7386-2, Ch 2
5.^ Francis op. cit., Ch 5
6.^ P. C. Hewlett (Ed)Lea's Chemistry of Cement and Concrete: 4th Ed, Arnold, 1998, ISBN 0-340-56589-6, Chapter 1

パルテノン神殿

パルテノン神殿(希: Παρθενών, ローマ字: Parthenon)は、古代ギリシア時代にアテナイのアクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神であるギリシア神話の女神アテーナーを祀る神殿(en)。紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年まで行われた。パルテノン神殿はギリシア古代(en)建築を現代に伝える最も重要な、ドーリア式建造物の最高峰と見なされる。装飾彫刻もギリシア美術の傑作である。この神殿は古代ギリシアそして民主政アテナイ(en)の象徴であり、世界的な文化遺産として世界遺産に認定されている。

神殿は完全な新築ではなく、この地には古パルテノン(en)と呼ばれるアテーナーの神殿があったが、紀元前480年のペルシア戦争にて破壊された後に再建され、当時あった多くの神殿と同様にデロス同盟、そして後のアテナイ帝国の国庫として使われた。6世紀にはパルテノン神殿はキリスト教に取り込まれ、生神女マリヤ聖堂となった。オスマン帝国の占領(en)後の1460年代初頭にはモスクへと変えられ、神殿内にはミナレットが設けられた。1687年9月26日、オスマン帝国によって火薬庫として使われていた神殿はヴェネツィア共和国の攻撃によって爆発炎上し、神殿建築や彫刻などはひどい損傷を受けた。1806年、オスマン帝国の了承を得たエルギン伯(en)は、神殿から焼け残った彫刻類を取り外して持ち去った。これらは1816年にロンドンの大英博物館に売却され、現在でもエルギン・マーブルまたはパルテノン・マーブルの名で展示されている。ギリシア政府はこれら彫刻の返却を求めているが、実現には至っていない[1]。ギリシア文化・観光庁(en)は、パルテノン神殿の部分的な破壊の修復や保全など、後世に伝えるための再建計画を実行している。

パルテノン神殿のある丘の下の方は、世界ラリー選手権(WRC)の一戦、アクロポリス・ラリーのスタート地点としても有名である。



目次 [非表示]
1 呼称
2 建設
3 彫刻 3.1 メトープ
3.2 フリーズ
3.3 ペディメント 3.3.1 東ペディメント
3.3.2 西ペディメント

3.4 アテーナー・パルテノス像

4 古パルテノン
5 役割
6 その後の歴史 6.1 ヘレニズム影響下のパルテノン
6.2 キリスト教会堂
6.3 オスマン朝のモスク
6.4 爆破
6.5 ギリシアの独立
6.6 マーブル返還問題

7 再建
8 関連項目
9 出典 9.1 文献
9.2 オンライン資料

10 脚注
11 読書案内
12 外部リンク


呼称[編集]

「パルテノン」の名称はギリシア語の「παρθενών」(処女宮)から来ており、パルテノン神殿内にはその名称がつけられる由来となった特別な部屋が備えられていたという[2]。ただし、その部屋がどこか、また何故そのように呼ばれたのかという点には諸説ある。古典ギリシア語辞典 (LSJ) では、この部屋は西の房にあったと言い、ジェフリー・M・ヒューイットは、パンアテナイア祭(en)でアレフォロス(en)[3]が仕立てたペプロスをアテーナーに献上するため、4人の少女が服を選ぶ部屋だと述べた[4]。クリストファー・ペリングは、アテーナー・パルテノス(処女のアテーナー)(en)への信仰は個別的なアテーナー崇拝から起こり、密接に関連しながらも同一化することなく、やがて守り神としてのアテーナー信仰となったと主張した[5]。この考えによれば、「パルテノン」は「処女神の宮殿」と意味し、アテーナー・パルテノスへの信仰との関連性を持つことになる[6]。「乙女、少女」であると同時に「処女、未婚の女性」を意味し[7]、特に野獣・狩り・植物の女神アルテミスを指して使われる「parthénos」(ギリシア語: παρθένος)[8]が、戦略と戦術・手芸そして実践理性を司るアテーナーに冠せられている理由も不明瞭である[9]。その一方で、宮殿の名称が「処女」を暗示する点については、都市の安全を祈願するために処女が最高の人身御供にされたことに関連すると指摘した意見もある[10]。

この建造物全体を「パルテノン」と形容する最初の例は、紀元前4世紀の演説者デモステネスに見られる。ただし5世紀の例では、ただ単に「ho naos」(the temple‐「神殿」)と呼ばれた。建築家のムネシクレス(en)とカリクラテスは、今は失われた文書でこの建築物を「ヘカトンペドス」(Hekatompedos, the hundred footer‐「百足」)と呼んでいた[要出典]。1世紀にプルタルコスは「ヘカトンペドン・パルテノン」と表記し[11]、4世紀以降にはヘカトンペドス、ヘカトンペドン、パルテノンの呼称がそれぞれ使われた。

建設[編集]





パルテノン神殿の間取り図
現在のパルテノンに当たる聖域にアテーナー・パルテノスを祀った神殿を建てようという最初の尽力は、マラトンの戦い(紀元前490年‐紀元前488年)が終わった直後に始められた。アクロポリスの丘の南側に、強固な石灰岩の基礎が敷き並べられ、アテーナー・ポリアス(都市の守護神アテーナー)の古風な神殿の建設が始まった。しかし、この古パルテノン(en)と言及される建築物は紀元前480年にアケメネス朝が侵攻しアテナイの都市を破壊し尽くした時も未だ建設途上にあった[12][13]。

紀元前5世紀中頃、デロス同盟が成立した時にはアテナイは当時の文化的な中心を担っており、政権を掌握したペリクレスは野心的な建築計画を立案した[14]。アクロポリスの丘に現存する重要な建築物であるパルテノン神殿やプロピュライア、エレクテイオン、アテナ・ニケ神殿は当時に建立されたものである。パルテノン神殿は彫刻家ペイディアス(フィディアス)指導のもと建設され、彫刻装飾も彼の手で施された。建築家イクティノスとカリクラテスが[15]紀元前447年に施工を開始し、紀元前432年にはほぼ完了したが、装飾の製作は少なくとも紀元前431年までは継続されていた。

パルテノン神殿建設への支出明細が一部残っており、それによるとアテナイから16km離れたペンテリコン山(en)[16]から切り出した石材 (大理石)が使われて、アクロポリスまでの運送に多額の経費が掛かった。この資金の一部には、紀元前454年にデロス島からアクロポリスに移されたデロス同盟の宝物が宛がわれた。

ドーリア式を伝える神殿で、現存するものの中ではヘファイストス神殿(en)が最も往時の形を残しているが、建設当時のパルテノン神殿は最高峰の建築だった。ジョン・ジュリアス・クーパー(en)は、「(パルテノン神殿は)今まで建設された全ての中で無二のドーリア式建築物という評に浴している。古代のものでありながら、その建築にそなわる気品は伝説的でもあり、特にスタイロベートの湾曲、テーパがつけられたナオス(本殿)(en)の壁、エンタシスの円柱などが巧みな調和を醸している。」と評した[17]。「エンタシス」とは、上に向かうにつれ大きくなる円柱のわずかな膨らみを指し、パルテノン神殿のそれは先例の葉巻のような形状に比べれば変化は少ない。円柱が立つスタイロベートは、他のギリシア神殿と同様に[18]ほんの少し上に凸の放物線状の形をなしており、これは雨を排水する意図が盛り込まれている。この形からすると円柱上部は外向きに開いているのではと思いがちだが、実際には内側へわずかに傾いて立てられている[19]。柱はどれも同じ長さをしており、そのためアーキトレーブや屋根もスタイロベート上部と同様な湾曲があり、ゴーハム・スティーブンスは神殿の西側前面が東側よりもわずかに高くなっている点と併せて「全てが繊細な曲線を構築する規則に従っている」と指摘した[20]。このような設計に含まれた意図について、「光がもたらす気品」を狙ったという説もあるが、一種の「錯覚による逆説的効果」を狙ったと考えられる[21]。2本の平行線を描く柱を見上げた時、梁などの水平部分がたわんでいるか両端が曲がっているかのように見え、神殿の全景を概観すると、まるで天井や床が歪んでいる錯覚を覚えてしまう事をギリシア人は意識していた可能性がある。これを避け、神殿が完全に見えるように設計者はわざと曲線を加え、錯覚を補う意図があったものと考えられる。そして、直線だけで構成された単純かつ凡百の神殿と差別化する躍動感をパルテノン神殿に与えたという説もある。

パルテノン神殿などアクロポリスの建造物には、黄金比に基づいて建設されたものが複数存在するという研究報告がある[22]。パルテノン神殿の正面全貌は各要素ともども黄金長方形で囲われている[23]。この、設計に黄金比が用いられた事象についてはさらに近年研究が進んでいる[24]。

スタイロベートを測定した結果から、パルテノン神殿の基盤は長さ69.5m(228.0フィート)、幅30.9m(101.4フィート)である[25][26]。胞室(en)は長さ29.8m(97.8フィート)、幅19.2m(63.0フィート)であり、内部には屋根を支える2列の柱が立てられている。外周にあるドーリス式円柱は直径1.9m(6.2フィート)、高さ10.4m(34.1フィート)であり、四隅の円柱は若干大きい。柱の合計は外周に46本、内部に19本ある。この際、威容を持たせるため正面の柱が通常6本のところ8本にされたとの説もある[27]。スタイロベートは東西の端で60mm(2.36インチ)、南北で110mm(4.33インチ)上向きに湾曲している。屋根は大きな大理石の平瓦と丸瓦(en)で葺かれている。

パルテノン神殿に使われる石材は、円柱のドラム1個当たりが5-10トン、梁材は15トン程度の重量であった。これらは高い加工が施され、例えば円柱ドラムの接合面にある凸凹は1/20mm以下に抑えられ、面接合の密着精度は1/100mm以下であり、エジプトのピラミッドのように調整用モルタルは使われていない。この精度は、検査用の塗料を塗った円盤を用意し、接合面と円盤を摺り合わせて凸面を検出し磨く作業を繰り返して実現した[28]。石材の吊り上げには滑車と巻き上げ装置を備えたクレーンが実用化されており、これに対応するため石材にも吊り上げ時に綱を引っ掛ける突起や溝をつける加工が行われた[28]。

彫刻[編集]





アクロポリスの再建とアテナのアレイオス・パゴス、レオ・フォン・クレンツェ画、1846年




南側から見たパルテノン神殿。手前には大理石の平瓦と丸瓦があり、再建用に木枠の上に仮組みされた様子が見られる
ローマの六柱式(en)そして周柱式(en)を持ち、イオニア式の建築様式も備えるドーリア式神殿であるパルテノン神殿には、ペイディアスが製作し紀元前439年か翌年に献納されたアテーナー・パルテノスのクリスエレファンティン(彫像)(en)があった。当初、装飾の石の彫刻には彩色が施されていた[29]。神殿がアテーナーを奉るようになったのはこの頃からであるが、建設そのものは紀元前432年のペロポネソス戦争勃発の頃まで続いた。紀元前438年までには外側の列柱上にある小壁と胞室上の壁の一部にあるイオニア式小壁にドーリア式の彫刻装飾が施された。これらの彫刻は神殿を豪華に飾り、宝物庫としての役割にふさわしさを与えた。胞室の奥にあるオピストドモス (opisthodomus) と呼ばれる部屋にはアテナイを盟主とするテロス同盟が拠出した宝物が納められた。

メトープ[編集]





西側のメトープ。作成されてから2500年を経て、戦争、汚染、不充分な保全、略奪そして破壊を受け現在に至る。
パルテノン神殿には72枚の高浮かし彫りメトープ(長方型の彫刻小壁[30])(en)がある。この様式は従来、神に捧げる奉納の品を納める建物にのみ用いられていた。建築記録によると、これらは紀元前446年から440年の間に製作されたとあり、彫刻家のカラミス (Kalamis) がデザインしたと考えられる。パルテノン神殿正門玄関の上に当たる東側のメトープは、オリンポスの神々が巨人と戦ったギガントマキアーを主題としている。同様に、西端のメトープはアテナイ人とアマゾーンの戦い(en)、南側はラピテース族がテーセウスの助けを受けて半人半獣のケンタウロスと繰り広げた戦い(en)がモチーフとなっている。北面の主題は「トロイアの落城」である[31]。

メトープの13番から21番は失われてしまったが、1674年にフランスのトルコ大使ノワンテル侯爵に随行した画家のジャック・カレイ(en)[32]が描いた絵があり、アテナイ初期の神話などにあるラピテース族の結婚にまつわる伝説が描かれている[14][33]。保存状態が悪い北面のメトープには、イーリオスの陥落の故事が彫られたと思われている。

メトープは、身体運動を筋肉でなく輪郭で制限している戦士の表情や、ケンタウロスの伝説(en)像において静脈まで忠実に表現した様を分析した結果から、厳格様式(en)を現在に伝えるものと判断された[14]。神殿に残されたメトープは北側のものを除きどれも酷く痛んでしまった。外されたものはアクロポリス博物館や大英博物館、ルーヴル美術館[14]に保管されている。





ローレンス・アルマ=タデマ画『フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ』1868年[34]
フリーズ[編集]

パルテノン神殿が持つ最も特徴的な装飾は、胞室の外壁を取り囲むイオニア式のフリーズである。これら浅い浮かし彫りのフリーズは、入れられた日付によると紀元前442年から紀元前438年に据えられた。

ある解釈によると、これはケラメイコスにあるデイピュロンの二重門 (Dipylon Gate)を出発しアクロポリスまで行進するパンアテナイア祭 (en)の様式化された姿を写したと言われる。この祭りは毎年開かれたが、特別な大祭が4年に1度催され、その際にはアテナイ人に外国人も加わり女神アテーナーへ生贄と新調されたペプロス(高貴な家柄から選ばれた「アレフォロス」と呼ばれる7-11歳の少女2-4人を中心に、「エレガスティナイ」と呼ばれる年長の少女たちが手助けし9ヶ月かけて織られたドレス)の奉納が行われた[3]。

最近、ジョーン・ブルトン・コネリー(en)が異なる解釈を提案した。これによると、フリーズのテーマにはギリシア神話が基礎にあり、エレクテウス(en)の最も年少の娘パンドーラーがアテーナーへ捧げられる故事を描いたという解釈を試みている。この人身御供の描写は、エレウシスの王エウモルポス(en)がアテナイを攻めるため軍を集結した際、都市を守護するアテーナーの求めがあったと考えている[35]。

ペディメント[編集]

2世紀の旅行者パウサニアスは、アクロポリスを訪れた際に見たパルテノス神殿について、女神の金と象牙の像を書きつつ、ペディメント(切り妻型屋根の破風部)の短い記録も残した。

ペディメントの製作は紀元前438年から紀元前432年わたって行われた。これらパルテノン神殿の彫刻はギリシア古典芸術の傑作であり、剥き出しの、または薄いキトンを通してなお明瞭に体躯を感じ取らせつつ、脈々と表現された筋肉によって描き出された活力みなぎる肉体の自然な動きを表現している。神々と人間の区別は、理想主義と自然主義のふたつを概念的に相互作用させる中でぼやかされつつ、彫刻家の手によって石に刻み込まれた[36]。しかし、このペディメントは現在に伝わっていない。





現在も見られる東ペディメントの一部
東ペディメント[編集]

神殿の正面に当たる[19]東ペディメントには女神アテーナーがゼウスの頭部から誕生した物語を描写する。ゴロシア神話によると、激しい頭痛に悩まされたゼウスが苦痛を和らげるために火と鍛冶の神ヘーパイストスに命じて槌で頭を叩かせた。するとゼウスの頭が裂け、中から鎧兜を纏った女神アテーナーが飛び出した。この情景を東ペディメントは描写している。

この東ペディメントは教会に転用された際に改築のため破壊されていたが[19]、1674年にジャック・カレイ(en)が写生を残していた。そして、再建時はこれを元に推測や想像が加えられた。アテーナー誕生の出来事では、ゼウスとアテーナを中心に、ヘーパイストスやヘーラーなど主だったオリンポスの神々が周りを取り囲んでいなければならず、カレイの絵を中心に南北に配列を加えて再建が行われた[37]。

西ペディメント[編集]

プロピュライア(正門)に面する西ペディメントは、アテーナーとポセイドーンが都市の守護者たる立場を争った姿が表現されている。二柱の神は中央で対峙し、反らせたお互いの体躯を中心に対称を成す。向かって左の女神はオリーブの枝を、右の海神は地球を打ち据える三叉の槍をそれぞれ手に持ち、チャリオットを牽く荒々しい馬と、アテナイ神話の個性を備えた軍団が従いながら、破風の鋭角な面を埋めている[38]。

アテーナー・パルテノス像[編集]

ペイディアス作と判明しているパルテノン神殿の彫像は、唯一ナオス(本殿)に納められたアテーナー像だけである[39]。これは大きな金と象牙の彫像であったが現在は失われ、その写しや壷の絵、宝石のカット、硬貨の意匠および文章で表現された内容しか残っていない。

古パルテノン[編集]

アテネのアクロポリス神域の開闢は非常に古く、新石器時代に遡る築壁、ミケーネ時代の城壁跡が発見されている[19][1]。ここへアテーナー・パルテノスの聖域を設けようという試みは、マラトンの戦い(紀元前490年-紀元前488年)勃発の頃に行われた。これは、いつ作られたか定かでないオリーブの木で彫られたアテーナー・ポリアスの像[40]を祭った古風な神殿の横にあったヘカトンパイオン(100フィートの意味)という建物を取り替えて建てられた。この「古パルテノン」と言える神殿は紀元前480年にアケメネス朝ペルシアがアテナイを占拠し際にアクロポリス全体とともに完全に破壊されるが、その時点で未だ建設中だった[19]。この古パルテノンの建築と破壊はヘロドトスも伝え[41]、円柱の一部はエレクテイオン北側の幕壁に、眼に見える形で流用された。1885年から1890年にかけて、Patagiotis Kavvadiasが行った調査で古パルテノンの遺構が見つかり、存在が確認された。ヴィルヘルム・デルプフェルト(en)が主導し、ドイツ考古学研究所 (German Archaeological Institute) が指揮を執ったこの発掘では、デルプフェルトが「パルテノンI」と呼ぶ元々の古パルテノンの基礎部分が、現在のパルテノン神殿とずれた位置にあることを発見し、従来の定説に訂正を加えた[42]。デルプフェルトの調査によると、古パルテノンは3段の基礎があり、2段は土台と同じポロス島の石灰岩が用いられているのに対し最上段はKarrhaの大理石が使われ、これは後に覆われペリクレス時代のパルテノン神殿の基礎段となった。ただしこれは規模が小さく北方向にずれており、現在のパルテノン神殿が旧来の建物をすっぽりと覆いつつ全く新たに建設された事を示す。発掘に関する最終報告ではより複雑な図が示され、この基礎が執政官キモン時代の壁と同じ時代のものであり、それらは古パルテノン建設後期のものである可能性を示した[43]。

古パルテノンが紀元前480年に破壊されたのならば、再建されるまで33年もの間崩れたまま放置されていたのか疑問が持たれた。これについて、紀元前479年のプラタイアの戦いを前に行われた「ペルシア人の暴虐を忘れないために、破壊された聖域は再建しない」というギリシア同盟による宣誓が影響する合意があった[19][44]。紀元前450年のカリアスの和約成立でアテナイ人はこの宣誓を無効にすることができた[19][45]が、それまで再建に取り掛かれなかった理由には、ペルシアの侵攻に抗っていたため財政的余裕が無かったというありふれた背景もあった。しかし、バート・ホッジ・ヒルが行った発掘から、キモン在任の紀元前468年以降の時代には「2つ目のパルテノン(パルテノンU)」が存在したと考えられる[46]。ヒルの主張では、デルプフェルトが発見した「パルテノンI」最上段に当たるKarrha大理石は、「パルテノンU」3段の1番下に当たり、その基壇が敷設された面は23.51×66.888m(77.13フィート×219.45フィート)になると計算した。

1885年の発掘では、掘り起こし手段が慎重さに欠けた上にリファイリングも雑だったため多くの重要な証拠が失われてしまい、考古学の順序だて法(en)では古パルテノンの時代認定は明瞭にできなかった。1925年から1933年にかけて、B.グラーフとE.ラングロッツはアクロポリスから出土した陶器の破片を研究し、2巻の論文を著した[47]。これに影響されたアメリカの考古学者ウィリアム・ベル・ディンスムーア(en)は、神殿基盤の年代特定と、アクロポリスの盛土の下に隠されていた5つの壁に関する研究を発表した。ディンスムーアは「パルテノンI」の建設年を最も早くとも紀元前495年とし、デルプフェルトの考えと矛盾する結論を導いた[48]。さらにディンスムーアは、デルプフェルトが定義したペリクレス時代の「パルテノンU」以前に神殿は2つあったと主張した。1935年の『American Journal of Archaeology』にて、ディンスムーアとデルプフェルトの2人は意見を交換し合っている[49]。

役割[編集]

古代において、宗教的建造物は高台に立てられることが多く、それは権威を高める効果をもたらした。パルテノン神殿はその典型と言え[50]、アクロポリスの丘からは紀元前8世紀頃の青銅製トリポット等奉納品が出土し、同じく出土した碑文から紀元前6世紀頃には青銅や大理石の奉納像が据えられていた[19]。紀元前5世紀における再建は、当時ペルシャへ対抗するギリシア諸都市国家の中核を占めるアテナイの威信を知らしめす役割を担ったものだった[31]。この思想は、神殿の中心に信奉する女神アテナを置き、その四方に異民族や化物ら野蛮な周辺部族を制圧するモチーフを配した全体の構図に表され、ギリシア的支配構造とアテナイの優位性を象徴している[31]。

そして、パルテノン神殿は対ペルシア戦勝記念の性格も持ち、バルバロイに対するギリシアの勝利を記念する機能もあった[14]。西側メトープのアマゾネスとの戦いは過去から使われるアクロポリスでは一般的なモチーフだが、パルテノン神殿のそれは攻め込むアマゾネスからアテナイを防衛する情景が描かれている。その他の彫刻類も様々な神話上の敵との戦いを描き、これらは異民族であるペルシアとの戦闘と文明たるギリシアの勝利を象徴している[40]。

その一方で、必ずしも現代的な用語「神殿」で想起される機能だけを担っていた訳ではない[51]。建物内に小さな建屋を備えて古来からのアテーナー・エルガネ (Athena Ergane) を祀る聖域[51]が発見されても、都市の守護者アテーナー・ポリアス (Athena Polias) の崇拝の場では無く、ペプロスを着てオリーブのクソアノン(en)を持つ女神の宗教的イメージはアクロポリス北側の古い祭壇で祀られた[52]。そして、パルテノン神殿は本質的に宝物庫として利用された。





ヴァルヴァキオン・スクール(en)近郊で発見された、アテーナーの奉納像。2世紀頃のローマ時代のアテーナー・パルテノス像を再現していると思われる。 アテネ国立考古学博物館蔵
ペイディアスが奉納した巨大なアテーナー像もまた、崇拝の対象ではなく[53]、いかなる宗教的な盛り上がりも記録されていない[52]。いかなる司祭も祭壇も無く、礼賛する名称も無い[54]。トゥキディデスによると、ペリクレスはこの像を「金の蓄え」と呼び、「移動可能な40タレントの純金を含む」と言ったと伝える[55]。アテナイの政治家は、金は当時の鋳造技術でいつでも取り出すことができ[56]、その行為は別に信心に反するものではない[54]とほのめかした。ただし、このアテーナー像は甲冑を脱ぎ、左手はよもや盾を掲げず下げたままに任せながら、右の掌に勝利の女神ニーケーを載せている。これは勝利で終えた戦いを象徴し、戦勝記念の一環である要素が反映している[40]。

このような点は、パルテノン神殿がただの崇拝の対象や戦勝の記念だけでなくペイディアスが奉納したアテーナー像の壮大な収納殿と見なすべき点もある[40][57]。そして同時に、紀元前454年にデロスからアテナイへ移されたデロス同盟の基金を保管する部屋も備え、国庫という機能も持った。

その後の歴史[編集]

ヘレニズム影響下のパルテノン[編集]

紀元前4世紀に入ると、アテナイはアレクサンドロ大王のマケドニア王国によるヘレニズム文化の影響下に入る。ギリシア文化を後継したヘレニズム時代の王たちは、パルテノン神殿を尊重しつつも自らの王位を権威づける場として用いた。紀元前1世紀にベルガモン国王は神殿に彫刻群を奉納したが、その中にはガリア人との戦いを描いたものが含まれていた。さらに後のローマ皇帝ネロのパルティア戦争をモチーフとした彫刻がアテナイ人によって加えられた。これらは、ヘレニズムやローマ帝国がギリシアの後継者たることを知らしめる目的を持っていたが、それゆえにパルテノン神殿は保たれる結果に結び付いた[58]。

ペルシア撃退を記念したパルテノン神殿だが、その後のゲルマン人侵入による被害を受ける事もあった。アテナイは267年にヘルリア族、396年には西ゴート族に包囲されたが、このいずれかの戦闘でパルテノン神殿は放火され木製の梁が焼け落ちるなど被害を受けた。その後、ローマ皇帝の命で神殿は修復されるが、それは旧来の姿へ完全に戻すものではなく、屋根は部分的にしか架けられず、柱もヘレニズム的なものへ変わった[58]。

キリスト教会堂[編集]





パルテノン神殿の夜景
この後の東ローマ帝国時代、パルテノン神殿はその機能を大きく変ずることになる。5世紀に入るとバンアテナイア祭は廃れ、同世紀末頃にはアテーナー・パルテノス像がキリスト教信奉者らと思われる勢力によって持ち出され所在不明となる[59]。そして6世紀から7世紀頃[58]、神殿は童貞女マリヤ聖堂に変えられ、コンスタンティノープル、エフェソス、テッサロニキに次ぐ4番目に重要な巡礼地となった[60]。この改築で内陣の壁は一部が壊されて通路とされ、逆に建物東の門は壁で塞がれた[58]。1018年にはバシレイオス2世が第一次ブルガリア帝国との戦争に勝利した記念に、パルテノン神殿に参拝するためアテナイへ直に巡礼した[60]。中世には生神女聖堂とされた[60]。

ラテン帝国の時代には、聖母マリア(en)のカトリック教会として250年間使用された。神殿は改築を受け、内部の円柱や胞室の壁の一部が取り払われ、建物の東端にはアプスが増築された[58]。之に付随し、彫刻のいくつかが外されて行方知れずとなった。このように、神を祭る様式がクリスチャンのものへ変更される中、パルテノン神殿は破壊され、変容が加えられた。

オスマン朝のモスク[編集]

1456年、アテナイはオスマン帝国の占領下に置かれた。すると今度は、パルテノン神殿はモスクに改築された[58]。オスマン帝国は領地の遺跡には一定の敬意を払い無分別な破壊を行わなかったが、それは保全に努めたという事ではなく、戦時に防壁や要塞を建設するために遺跡の石材などを流用することもあった。さらにパルテノン神殿にはミナレットが増築され[58]、その神殿に相当する高さの階段は今でも残ったまま、円柱の台輪を隠してしまっている。しかし、オスマン帝国は神殿そのものには変更を加えず、17世紀のヨーロッパ人訪問者はアクロポリスの丘に残る他の建築物ともども手付かずのままに置かれていることを証言した。





パルテノン神殿南側の情景。1687年の爆破で損傷を受けたと推測される箇所。




エドワード・ドッドウェル(en)画『View of the Parthenon from the Propylea』。1821年にロンドンで出版された『Views in Greece』の一葉で、遺跡の間に住居が立ち並ぶ[61]当時のアクロポリスを描いた。
爆破[編集]





パルテノン神殿の壁の破片。ヴェネツィアの攻撃で受けた被害によるものと思われる。
1687年、神聖同盟に加盟したヴェネツィア共和国とオスマン帝国が戦い(大トルコ戦争)、フランシスコ・モロシーニ(en)率いるヴェネツィアがアテナイを攻撃した際、パルテノン神殿は最大の破壊を被る[62][1]。オスマン帝国はアクロポリスを要塞化し、神殿に弾薬を貯蔵庫した[58]。ヴェネツィアとの戦争の際にはここに女や子供を避難させたが、これはヴェネツィア側が神殿を敬い攻撃を加えないだろうと期待した対応だった[58]。しかし9月26日、ヴェネツィアの臼砲がフィロパポスの丘から砲撃を加え、パルテノン神殿の弾薬庫が爆発、神殿は一部が破壊された[58][63]。神殿の内部構造は破壊され、屋根部分の遺構も崩れ、柱も特に南側のものが折られた。彫刻の被害は甚大で、多くが壊され地面に落ちた。モロシーニは剥落した彫刻類を戦利品として略奪し、後に組み直された。この結果、彫刻が飾られていた際の配置は、1674年にジャック・カリーが描いた絵から推し量ることしかできなくなった[64]。この後、アクロポリスの多くの建物は打ち捨てられ、小さなモスクだけが建てられた。

18世紀になるとオスマン帝国は停滞状態となり、その結果ヨーロッパ人がアテナイを訪問する機会が増えた。パルテノン神殿のような美観の絵が数多く描かれ、ギリシアに対する愛着(ギリシア愛(en))が沸き起こり、イギリスやフランスでギリシア独立の世論が高まった[58]。ディレッタンティ協会の任を受けて考古学者のジェームズ・スチュアート(en)とニコラス・リヴェット(en)がアテナイに入ったのはそのような動きの初期に当たる。彼らはアテナイの遺跡群を調査し、1781年にはパルテノン神殿を実測した最初の資料を作成して『Antiquities of Athens Measured and Delineated』第2巻に収録した。1801年、イギリスの駐コンスタンティノープル大使エルギン伯トマス・ブルース(en)は[14]、アクロポリス遺跡の型取りと図面の作成、およびその作業に必要ならば近年の建築物を壊す事、そしてそれらを持ち出すことを認めるfirman(勅令)をスルターンから得た。この勅令は原本が残っていないため疑わしい面もあるが、エルギン伯は見つけ出した彫刻類の持ち出しが認められたとこれを拡大解釈した。住民を雇い入れ、建造物から彫刻類を引き剥がし、若干のものを拾い、また住民から買い入れるなどの手段で集めた。このために建物は深刻な損傷を受け、さらにイギリスへ輸送するに当たって軽くするために剥ぎ取ったフリーズのブロックを半分に裂いてしまった。これらイギリスに渡った彫刻類はエルギン・マーブルと呼ばれる[65]。

ギリシアの独立[編集]

1832年、ギリシアは独立を果たした。パルテノン神殿のミナレットは目につく部分が取り壊され、続いてアクロポリスに建つ中世とオスマン帝国の建造物はことごとく除かれた。そして、残っていた建築資材を用いて復元が行われた[62]。そのような中、胞室に設けられていた小さなモスクはJoly de Lotbinièreが撮影した写真が残り、1842年に出版されたアクロポリスを被写体にした初の写真集『Excursions Daguerriennes』で伺うことができる[66]。

その後アクロポリスはギリシア政府が直轄して管理する歴史的地区に定められた。現在では毎年何百万人もの観光客が訪れ、再建されたプロピュライアを抜け、パルテノン神殿へ至るパナテナイック通りを歩き、アクロポリスの西側の小道を散策することができる。これら立ち入ることが出来る場所は低い柵で区切られて、遺跡が傷まないよう配慮されている。





大英博物館に蔵されているパルテノン神殿の等身大ペディメント彫刻
マーブル返還問題[編集]

詳細は「エルギン・マーブル」を参照

一方、エルギン伯が持ち去ったパルテノン神殿のマーブルは大英博物館に現存する。その他にも、神殿の彫刻はパリのルーヴル美術館、コペンハーゲンなどにも保存されているが、現在所有点数が最も多いのは2009年6月20日に開館したアクロポリス博物館である[67][68]。神殿の建物自体にも若干の彫刻が残っている。

1983年以降、ギリシア政府は大英博物館に対して彫刻を返還するよう求めている[67]。しかし博物館側はこれを明確に拒否しており[69]、その背景には法律上の問題を重視するイギリス政府の意向がある。そのような中2007年5月4日にギリシアとイギリスは前文化相同士がロンドンで、法律顧問を同席し会談の場を持った。それはここ数年における意義深いもので、将来へ何らかの解決が見出されることを期待されている[70]。

再建[編集]

1975年、ギリシア政府はパルテノン神殿などアクロポリスの建造物の修復へ本格的に乗り出し、幾許かの遅れがあったが1983年にアクロポリス博物館の維持運営を担う委員会が設立された[71]。後に計画には欧州連合が資金的・技術的支援を提供した。考古学委員会はアクロポリスに残る文化遺跡を徹底的に記録し、建築家がコンピューターを導入して本来の位置を解析した。特に重要で壊れやすい彫刻類はアクロポリス博物館に移された。マーブルブロックを吊り上げるクレーンも、使用しない時には目立たないように屋根の勾配に沿って折り畳めるものが導入された。

修復作業を通じ、過去に行われた補修が適切さに欠けていたところも発見された。これらは取り除かれ、慎重に回復が行われている[72]。ブロックの固定には腐食を防ぐために鉛のコーティングが施された鉄製のH型金具が元々は用いられていたが、19世紀の補修ではこのようなコーティングが為されなかったため錆など腐食によって金具が膨張し、大理石を割ってしまうなど損傷を拡大させていた[73]。そのため、金属製器具は強さと軽さを兼ね備え、腐食にも強いチタンが用いられるようになった[16]。

パルテノン神殿を1687年以前の形に復元することは事実上難しいが、爆破による損傷はできるだけ軽減される。特にアテナイは地震が起こる地区であるため構造の欠陥を補強することや[74]、円柱や楣石の欠けた箇所を大理石セメントで丁寧に埋めることが行われている。このように、大理石はかつてと同様にペンテリコン山から切り出されてほとんど全ての主要部分に用いられながら、必要に応じて近代的な材料が投入されつつ再建は行われている。





補修作業、2008年






構造安定性を高めるための作業(工事中)、2007年






補修中の箇所






北側の補修図


関連項目[編集]





テネシー州ナッシュビルのパルテノン神殿ギリシア建築
パルテノン神殿 (テネシー州ナッシュビル) - テネシー州ナッシュビルにパルテノンの復元がある。
法隆寺 – パルテノン神殿のエンタシス法にある柱の中央部分が太い構造は、日本の法隆寺回廊にある柱の設計にまで伝わっている[75]。

出典[編集]

文献[編集]
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オンライン資料[編集]
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Ioanna Venieri. “Acropolis of Athens - History” (英語). Acropolis of Athens. Οδυσσεύς. 2007年5月4日閲覧。

必須元素

必須元素(ひっすげんそ)は、生物が摂取することで得る、生命維持にとって欠かせない元素。通常、特にことわらない場合は人間の生命維持に必要な元素を指す。ここでは人間の必須元素について説明する。

栄養学におけるミネラルあるいは無機質は、必須元素から水素、炭素、窒素、酸素を除いたものをいう。

必須元素は、12種類の主要元素と15種類の微量元素に分けられる。主要元素は、比較的どこでも存在していてそれほど摂取に困らないような元素で、またそれだけ必要とする量が多い元素である。微量元素は、必要量の微量な元素である。

必須元素は、欠乏すれば欠乏症となり、過剰に摂取すれば過剰症や中毒症状を起こすので適量の摂取が必要だが、通常の生活においては、自然物の食事を常識的な量と種類だけ食べていればほぼ適正な範囲内で収まる。猛毒として知られるヒ素も微量必須元素である。このヒ素は、普通の食事にはほぼ含まれていないため、ヒ素中毒は極めてまれである。

微量元素の多くが体内での酵素活性中心などに利用され、ごく微量が必要とされているがその微量が欠乏すると、直ちに体内代謝などのバランスがくずれ、それぞれの元素に特有の症状が現れる(微量元素欠乏症)。たとえば、亜鉛の欠乏は味覚障害や肌荒れとなって現れる。 地上に豊富に存在するわりには、微量元素としてあまり必要とされていないのがケイ素とアルミニウムである。通常は正しい日本の食生活をしていれば不足する事はなく、サプリメントは無益無毒か無益有毒ともなる。

必須元素一覧


主要元素

微量元素

水素 H
炭素 C
窒素 N
酸素 O
ナトリウム Na
マグネシウム Mg
リン P
硫黄 S
塩素 Cl
カリウム K
カルシウム Ca
鉄 Fe
ホウ素 B
フッ素 F
アルミニウム Al
ケイ素 Si
バナジウム V
クロム Cr
マンガン Mn
コバルト Co
ニッケル Ni
銅 Cu
亜鉛 Zn
ヒ素 As
セレン Se
モリブデン Mo
ヨウ素 I


※植物の必須元素と人間の必須元素は異なる


目次 [非表示]
1 微量元素と人体との関わり
2 参考文献・出典
3 関連項目
4 外部リンク


微量元素と人体との関わり[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。
ホウ素目の洗浄剤やうがい薬として使用される。フッ素多くの国では虫歯予防のため水道水に添加している。アルミニウム有用な作用は確認されていない。人体内には約50mgのアルミニウムが含まれている。水道法に基づく水道水質基準では0.2ppmだがアルミ鍋で30分間水を沸かすと0.75ppmが溶出する。アルミニウム缶の缶飲料では2.4ppmのものがあったが、現在は内面が樹脂でコーティングされている。アルミニウムの体内蓄積がアルツハイマー型認知症の原因ではないかと言われた時期もあり、研究が進められているがまだ結論は出ていない。珪素確認されていない。バナジウム体内のコレステロールの合成を制御するメカニズムに関わっていると考えられている。クロム3価のクロムはインシュリンの分泌を助けて炭水化物の代謝に関わる。脂質の代謝にも関与する。コレステロール値を一定に保つ。6価クロムは毒物である。30歳-49歳女性で25μg、同じく男性で35μgが1日の推定平均必要量とされている。マンガンミトコンドリアの中でエネルギー産生を助けている。マンガンは、炭水化物(糖質)と脂質を分解する酵素を活性化させ、尿酸の代謝を助ける働きがある。また、下垂体機能の向上、各種ホルモン分泌を活性化に関与する。骨の成長に欠かせない。30歳-49歳女性で3.5mg、同じく男性で4.0mgが1日の目安量とされている。コバルトポルフィリンに似た環状化合物であるコリン環の中心に結合してビタミンB12を作る。ニッケル確認されていない。銅人体内には約80mgの銅が含まれている。2-3mg/日の摂取がよい。古くから銅の酸化物である緑青が人体に有毒であると信じられてきたが、これは現在では明らかに無毒であるとされている。厚生省も毒物や劇物ではなく「普通物」としている。日本では1983年より硫酸銅と亜鉛が粉ミルクに添加されている(100mlあたり45μg)。亜鉛人体内には約1.4g-2.3gの亜鉛が含まれている。細胞分裂時の酵素に必要なため、皮膚、頭髪、爪、歯、骨、前立腺に多く含まれている。成人では10-15mg/日が必要であり、不足すると味覚異常が現れる。他の生理的役割としては、免疫機構の補助、創傷治癒、精子形成、胎発生、小児の成長など多岐にわたる。炭酸脱水酵素が最も重要である。ヒ素猛毒である。有機ヒ素化合物のいくつかは、比較的毒性が低いが、亜ヒ酸のような無機のヒ素は毒性が非常に高い。ヒ素欠乏が問題となるケースは普通の生活では発生しないので、意図的な摂取は必要ない。セレン必要量と過剰摂取量との差が狭いため適量の摂取は難しい。セレンが過酸化脂質を分解する酵素のひとつであるグルタチオンペルオキシターゼを活性化する。30歳-49歳女性で30μg、同じく男性で20μgが1日の推定平均必要量とされている。モリブデン糖質や脂質、尿酸の代謝を補助し、鉄の利用を高める造血作用、銅の排泄を増大させるモリブデンを含む酵素に窒素代謝や硫黄代謝に関与するオキソトランスフェラーゼ(酸素原子移動反応を触媒する酵素の総称)がある。30歳-49歳女性で15μg、同じく男性で20μgが1日の推定平均必要量とされている。ヨウ素ヨウ素は甲状腺にあって、甲状腺ホルモンの成分となる。この甲状腺ホルモンは、神経細胞のナトリウム濃度のバランス調節、代謝に関わる。ヨウ素欠乏症として、地方性甲状腺腫と甲状腺機能低下症がある。日本人は海藻を中心とした海産物により1-4mg/日のヨウ素を摂取しているので欠乏することはない。30歳-49歳女性で95μg、同じく男性で95μgが1日の推定平均必要量とされている。
参考文献・出典[編集]
新しい物性物理 伊達宗行 講談社 BLUEBACKS ISBN 4062574837
金属なんでも小事典 増本健 講談社 BLUEBACKS ISBN 4062571889
日本人の食事摂取基準(2005年版) 厚生労働省 ISBN 9784804110974

被曝

被曝(ひばく、radiation exposure)とは、人体が放射線にさらされることを言う[1]。被ばくとも表記される[2]。

被曝は、放射線を受ける形態が外部被曝か内部被曝かでその防護方法が大きく異なる。



目次 [非表示]
1 概要
2 被曝の形態とその防護 2.1 外部被曝(external exposure)
2.2 内部被曝(internal exposure) 2.2.1 内部被曝の特徴


3 放射線防護策の選定と実施 3.1 放射線管理とモニタリング
3.2 被曝対象の区分 3.2.1 職業被曝(occupational exposure)
3.2.2 公衆被曝(public exposure)
3.2.3 医療被曝(medical exposure)


4 日本における被曝の法規制 4.1 食品のもつ放射能に関する規制

5 被曝と社会運動
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク


概要[編集]

放射線の歴史は1895年のレントゲンの X 線の発見に始まるが、放射線の利用とともに、人体が放射線を浴びること、被曝(radiation exposure)によって様々な放射線障害[3]が発生することが徐々に認識されていった。

詳細は「放射線障害」を参照

原子爆弾など戦争兵器にも用いられ、健康被害をもたらす放射線被曝はできる限り避けねばならない、しかしながら、放射線治療などに用いられる放射線技術は大きな利益をもたらす技術である。そこで、放射線技術による利益を享受しつつ、被曝に伴う放射線障害を防止することを目的とした放射線防護(radiation protection)の概念が、放射線障害の認識と共に発達してきた。今日においては以下の目標が掲げられている[4]。


放射線防護の目標1.利益をもたらすことが明らかな放射線被曝を伴う行為を、不当に制限することなく、人の安全を確保すること
2.個人の確定的影響の発生を防止すること[5]
3.確率的影響の発生を制限すること[6]

放射線防護にあたって最も重要であるのは放射線源から被曝を受ける形態であり、次の二つに分類される[7][8]。
外部被曝(external exposure;体外被曝):体の外部にある放射線源からの放射線被曝
内部被曝(internal exposure;体内被曝):経口摂取、吸引などにより体内に取り込んだ放射性物質による被曝

点放射線源からの外部被曝の場合、最も単純な防護方策はその点線源との距離を大きく取ることであるが、同じ被曝でも空気中に放射性物質が拡散してしまい吸引による内部被曝が疑われる場合は、放射線防護策としては全く異なる方法(マスクの着用など)を取らなくてはならない[9]。

放射線防護策を検討・実施するにあたって場所の放射線量[10]及び被曝をしている個人の線量[11]を計測(モニタリング)することは重要である。 放射線防護を行う(確率的影響の発生リスク[12]を人々が容認可能なレベルに抑える)にあたって基本的尺度となる線量概念が実効線量(単位:シーベルト、記号:Sv)であり、個々人の被曝した実効線量は、定められた実効線量限度以下に抑えられる[13][14]

なお、低線量の放射線被曝による健康被害については各種議論がある。

詳細は「低線量被曝問題」を参照

被曝の形態とその防護[編集]





放射線の透過能力:アルファ線は紙1枚程度で遮蔽できる。ベータ線は厚さ数mmのアルミニウム板で防ぐことができる。ガンマ線は透過力が強く、コンクリートであれば50 cm、鉛であっても10cmの厚みが必要になる。中性子線は最も透過力が強く、水やコンクリートの厚い壁に含まれる水素原子によってはじめて遮断できる。
放射線は、放射線物質(放射線源)あるいは放射線発生装置より発生する。放射線源が密封線源[15]の場合、被曝は身体の外部からの被曝である外部被曝(external exposure)だけであるが、非密封線源[16]の場合、外部被曝に加えて身体の内部に放射線物質が入り込むことによる被曝である内部被曝(internal exposure)も考慮しなくてはならない。

外部被曝(external exposure)[編集]

外部被曝として問題になる線種はガンマ線、X線、ベータ線、中性子線で[17]、これら放射線を防護する方法には次の三つがある[18]。
密封線源の三原則1.線源と人体との間に遮蔽物を置く(ガンマ線[19]、ベータ線[20]、中性子線[21]かで遮蔽物として効果的なものは異なる)
2.線源と人体の距離を大きく取る[22]
3.放射線を受ける時間を短くする[23]

内部被曝(internal exposure)[編集]

放射性物質が空気中などに拡散して存在している場合、その放射性物質が体内に入り込むことによる内部被曝の恐れが生じる。そのため、内部被曝については放射性物質を体内に取り込まないような防護が基本となる。体内に取り込まれる経路としては、次の三つがある[24]。
非密封線源が体内に取り込まれる経路呼吸器を通しての摂取(吸入)
放射性物質で汚染した空気を吸い込むことによって、気道や肺胞を通して体内に放射性物質が侵入することを言う。マスクの着用などで防護できる[25]口、消化器を通しての摂取(経口摂取)
放射性物質で汚染された水や食物を摂取することで、胃や小腸などの消化管から体内に放射性物質が侵入することを言う。基準値を超える放射能を持つ食品を摂取しないことで防護できる[26][27]皮膚、特に傷口を通しての摂取
皮膚の毛穴や汗腺または皮膚にある傷から放射性物質が侵入することを言う[28]。放射性物質と接触する皮膚表面に傷があるときは、放射性物質の取り扱いを避けることで防護できる[29]。
内部被曝の特徴[編集]

内部被曝をした場合、すなわち一度体内に放射性物質が取り込まれた場合、その取り込まれた放射性物質を除くには、物理的減少(放射性崩壊)と共に生体機能の代謝による排出を待つよりほかない。

詳細は「半減期#生物学的半減期と実効半減期」を参照

体内に取り込まれた放射性物質がどのように振舞うか(体内のどの部位に沈着するか)は、その元素の化学的性質によって異なる。

例えば、ヨウ素は選択的に甲状腺に取り込まれ沈着する[30]。アルカリ土類金属であるストロンチウムは骨中の同じくアルカリ土類金属であるカルシウムと置き換わって体内に蓄積することが知られている[31]。一方で、カリウムやセシウムは水に溶け込み全身の細胞内に広がる[32]。このように、放射性物質の種類によって体内に摂取された後に存在する場所が変わる。

体内に入ってしまった放射線物質を検査する一般的な方法として、ホールボディカウンターによってガンマ線を測定・分析する方法がある。しかし、これはガンマ線が人体を透過することを利用したものであるため、ガンマ線を出さない核種の測定は不可能である[33]。

放射線防護策の選定と実施[編集]

人工的に発生させた放射線(人工放射線)は人間の諸活動に伴って発生する放射線であり、全ての被曝が放射線防護の対象となる[34]。そこで、放射線被曝を伴う行為を導入・実施などする際は、放射線防護の目標達成のため放射線防護体系(行為の正当化、防護の最適化、放射線防護制限の三原則)を遵守する必要がある[35]。

さらに、モニタリング(monitoring)により、放射線源、環境及び個人の管理が厳重に行われていることを確認しなければならない。

なお、人工放射線の対として、地球誕生以来生活環境に存在している放射性同位元素からの大地放射線と宇宙からの放射線である宇宙放射線を合わせて自然放射線と呼ぶ。自然放射線による被曝により、人々は実効線量で世界平均合計年間2,400 μSv(=2.4 mSv)前後の被曝を受けているとされる[36]が、自然放射線による被曝は人為的にコントロールすることができないために放射線防護の対象から外されている(規制除外)[37]。

放射線管理とモニタリング[編集]

被曝は、線源-環境-人が相互に関わり合う中で生じることから、防護措置も1線源管理、2環境管理、3個人管理の三つに分類される。このうち線源管理が最も効果が大きく、防護策を講ずる上で最も優先させるべきである[38]。

さらに、各管理に対応した以下のモニタリング概念が存在する[39]。
1 線源モニタリング(source monitoring)放射線源の健全性、管理状況を確認するために行なわれるモニタリングを言う。最も基本的なモニタリングである。2 環境モニタリング(environmental monitoring)施設内の作業環境あるいは施設外の一般環境で行なわれるモニタリングであり[40]、線源の管理状況を確認し、環境安全が測られていることを確認するために行なわれる。3 個人モニタリング(individual monitoring)直接、作業者個人に着目して行なわれるモニタリングで、各作業者の線量が基準以下であることを確認するために行なわれる。一般公衆に対する個人モニタリングは、大規模事故などのごく特殊な場合を除いて実施されることはない[41][42]。
被曝対象の区分[編集]

放射線防護の観点から被曝の対象は医療被曝、職業被曝、公衆被曝の三つに分類される。

職業被曝(occupational exposure)[編集]

放射線業務従事者または放射線診療従事者[43]が、業務[44]の過程で受ける被曝を職業被曝(occupational exposure)と呼ぶ[45]。職業被曝に対する防護の責任は、事業者と作業者自身にあり、職業被曝をする人々は被曝管理、健康管理、定期的な教育・訓練を受けることなどが義務づけられている。被曝線量に対しては、法令で線量限度が決められており、放射線業務従事者はサーベイメーターなどを装着し、線量限度を超えないようにしなければならない[46][47]。

公衆被曝(public exposure)[編集]

「放射性降下物」も参照

職業被曝、医療被曝以外の被曝、すなわち、原子力・放射線利用に伴う一般の人々の被曝(例えば原子力施設の周辺の住民の被曝など)を公衆被曝(public exposure)と呼ぶ[48]。公衆被曝に対する防護の責任は、公衆被曝をもたらす放射線源を利用する事業者にあるが、職業被曝とは異なり、公衆の構成員の一人ひとりを管理(個人被曝管理)することは実態として難しいため、公衆の放射線安全が確保されていることは、線源モニタリングと環境モニタリングによって確認される[49]。つまり、公衆被曝では基本的に個人モニタリングは行なわれない。

医療被曝(medical exposure)[編集]

「放射線医学」および「放射線療法」も参照

医療の現場における、患者への病気の治療を目的とした意図的な放射線照射による被曝を医療被曝(mediac exposure)と呼ぶ。医療被曝に対する防護の責任は、事業者(施設の責任者)及び実際に放射線診療に関わる医師と診療放射線技師等によって行なわれる[50]。

医療被曝には、職業被曝や公衆被曝に適用される線量限度は存在せず[51]、線量は防護量である等価線量・実効線量(単位:シーベルト[Sv])ではなく全て吸収線量(単位:グレイ[Gy])で表される。さらに、法律で規制される被曝限度には、医療被曝によるものは含まれない[52]。

日本における被曝の法規制[編集]

被曝のおそれのある場所は放射線管理区域に指定され、厳密に管理される。さらに、放射性物質の付着や内部被曝のおそれがある区域は「汚染のおそれのある管理区域」(その他は「汚染のおそれのない管理区域」)として、防護服を着用するなどの汚染防止策が採られる。

詳細は「放射能汚染対策」を参照

また、業務上放射線を扱うため被曝のおそれがある労働者については年間等の被曝線量に限度が設けられており、これを超えて従業することは国際放射線防護委員会の勧告に基づいた放射線障害防止法、電離放射線障害防止規則、人事院規則10-5、医療法施行規則等により多重規制されている。

管理区域に立ち入らない一般公衆の被曝線量限度は、これらの法令による放射線管理区域等からの漏洩放射線線量率や、放出される放射性同位元素濃度の規制により放射線業務に従事する者の限度より遥かに低く抑えられるように義務付けられている[53]。

「放射線管理手帳」も参照

食品のもつ放射能に関する規制[編集]

「ウクライナの食品の放射能基準」も参照

チェルノブイリ原発事故を契機に、輸入食品内における放射能の暫定限度が370 Bq/kg(セシウム134+セシウム137の合計値)に設定され、これを超える食品は日本に輸入することができない[54]。

福島第一原子力発電所事故後の暫定基準値(ざんていきじゅんち)については食品に含まれる放射能に関する暫定規制値の項目を参照。

被曝と社会運動[編集]

詳細は「反核運動」および「原子力撤廃」を参照

上記の被曝のうち、特に核兵器による被曝や、核実験また「原子力の平和的利用」として開発と設置が進められてきた原子力発電などの原子力事故を受けて、放射性物質による被曝および被曝のリスクも含めて、これまでに世界規模で反核運動が行われてきた。

日本では第五福竜丸被爆事件を契機に安井郁(やすいかおる)が原水爆禁止運動を組織化し、1955年に原水爆禁止日本協議会を設立した。以降、大規模な事故や事件に応じて、様々な反核運動や原子力撤廃運動が展開した。2011年の福島第一原子力発電所事故を受けて、様々な運動が展開している(福島第一原子力発電所事故の影響を参照)

※各運動団体、運動の歴史、また各界による発言や対応などについては反核運動および原子力撤廃を参照のこと。

脚注[編集]

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1.^ 「被曝」と「被爆」は、発音が同じで意味や漢字での表記も似ている。放射線被曝は「放射線にさらされること」を意味するが、被爆は「爆撃を受けること」、「核兵器による被害を受けること」を意味する。
2.^ 「曝」という漢字が常用漢字に入っていないため。
3.^ 被曝した放射線の線量に応じて放射線障害は大きく確定的影響(deterministic effects)と確率的影響(stochastic effects)に分類される。
4.^ 辻本(2001) p.26、日本アイソトープ協会(1992) p.158
5.^ すべての人々の被曝線量を確定的影響の閾線量以下に抑えることによって、確定的影響の発生は完全に防止できる。
6.^ 確率的影響の被曝に伴う発生モデルは閾線量無しの直線関係仮説(Linear No-Threshold : LNT仮説)が取られているため、被曝線量をゼロにしない限り、確率的影響の発生を完全に防止することはできない。そこで、被曝に伴う確率的影響の発生については、確率的影響の発生確率を人々が容認するレベルに制限することとしている。
7.^ また、照射を受ける身体の範囲により全身被曝と局部被曝に、照射を受ける時間分布により急性被曝と慢性被曝に分類される。培風館 2005 p.2188
8.^ 国連科学委員会(UNSCEAR)では放射線の種類やその用途、一般大衆と職業上などの切り口で以下のように分類している。
「UNSCEARによる被曝の分類」も参照

9.^ なお、同一の放射性物質からの放射線に被曝する場合でも、外部被曝より内部被曝の方が危険な場合がある。アルファ線は体外からの照射では、その大部分は皮膚の内側に達することはないが、体内にアルファ線を出す放射性物質が入ると、その周囲の細胞が照射されるため組織や器官の受ける放射線の量が大きく異なる透過力の弱いベータ線とエネルギーの低いガンマ線を出す放射性物質も外部被曝では影響を与える程ではないが体内にある場合の影響は大きくなる。
10.^ 職業被曝であれば作業場所、公衆被曝であれば一般環境
11.^ ただし、公衆被曝の場合全ての人々に個人線量計を配布することは困難である。
12.^ なお、定量的リスクが絡む事柄一般に言えることだが、いわゆるブラックスワン(黒い白鳥)が存在しないことを証明することはできない。ナシーム・ニコラス・タレブ 『ブラック・スワン−不確実性とリスクの本質』 望月 衛、ダイヤモンド社、2009年。
13.^ ただし、眼の水晶体の被曝、皮膚の限られた面積の被曝は実効線量を算出する際の組織荷重係数が与えられていないため、この2つの臓器(ただし、広い面積の皮膚が被曝した場合は実効線量に加えられる)に関しては臓器の等価線量で線量限度が規定されている。草間(2005) p.21
14.^ 実効線量や等価線量はあくまで、この放射線防護を行うための防護量である。実効線量・等価線量は被曝による確率的影響の生物影響を基に定められたものであるので、確定的影響に対しては、シーベルト[Sv]はではなく吸収線量とその単位であるグレイ[Gy]が用いられる。そのような理由から、確定的影響の閾線量は等価線量のシーベルトではなく吸収線量であるグレイで表示される。
15.^ 密封された形態の放射性物質。密封されているため、放射性物質の拡散はしない。
16.^ 密封されていない放射性物質。密封されていないため、放射性物質は拡散してしまい、体内に入り込む可能性がある。
17.^ アルファ線は紙一枚で遮蔽できるので、外部被曝ではあまり問題にならない。
18.^ 辻本(2001) p.122
19.^ γ線(およびX線のような電磁放射線あるいは光子線)は主に原子核周囲の電子と相互作用して阻止されるため、鉛や金といった密度の高い物質(電子の密度も高い)のほうが効果的に遮蔽することができる。コンクリートならば厚さ30 cmごとに、鉛板ならば厚さ5 cmごとに線量を10分の1にまで減らす(コバルト60のγ線の場合)。
点状線源の場合、遮蔽物の厚さに応じて、遮蔽物を透過した放射線の強度は指数関数的に減少する。
20.^ ベータ線の遮蔽は、ベータ線の最大飛程以上の厚みのものを使用する。ベータ線のみを防ぐのであれば、10〜15mm厚のプラスチック板で十分効果がある。ただし、エネルギーの大きいベータ線が原子番号の大きい物質に衝突すると、制動 X 線が発生するので、その場合は X 線の遮蔽も合わせて行わなくてはならないが、そのようにエネルギーの大きいベータ線を発生する物質は少ない。ただ、ベータ線を薄くて密度の高い物質で遮蔽しようとすると、制動放射X線が多く発生しかえって被曝線量を増やすおそれがある。
21.^ これは、荷電粒子(電荷を持つ粒子)や光子が電磁気力で物質と相互作用して透過を阻止されるのに対して、電荷を持たない中性子は物質を構成する粒子と直接衝突することで運動エネルギーを失い、透過を阻止されるためで、中性子の運動エネルギーを効率よく奪うためには同程度の質量の粒子、つまり陽子(水素の原子核)と衝突させることが最も有効だからである。また、中性子の遮蔽体は中性子吸収材(中性子を比較的捕獲しやすい非放射性同位元素を含む物質)と組み合わせて使うこともある。
22.^ 線源はトングやマジックハンドを用いて扱い、直接触らないようにする。放射性物質が皮膚に付着しないよう、ゴム手袋などの保護具を装備する。
23.^ そのため、放射線場での作業時間ができるだけ短くなるよう、作業計画などを綿密立てることが求められる。屋内退避も推奨されている。
24.^ 辻本(2001) p.129-132、草間(1990) p.34,pp.142-150
25.^ ただし、内部被曝対策としてのマスク等の呼吸保護具は、外部被曝対策としては役に立たない。松野 2007, p73
26.^ チェルノブイリ原子力発電所事故で甚大な被害を蒙り、内部被曝により病気になる人が多発したベラルーシやウクライナでは、食品中に含まれる放射性セシウムの基準値を定めて、基準値を超える食品を流通させないことで内部被曝を防止している
NHK解説委員石川一洋による解説 「食の安全・ベラルーシから学ぶこと」2011年11月7日1:05〜1:55の「スタジオパークからこんにちは」の枠内で放送。概要は解説委員室 解説アーカイブスでも検証可能。
河田昌東「チェルノブイリからみた福島原発震災」『土と健康』No.427
「食の安全#放射能と食の安全」も参照

27.^ セシウム等の放射性物質を摂取後、速やかにプルシアンブルーを服用すると、消化管からの吸収を抑制する効果があるとも言われることがある。「緊急被ばく医療研修のホームページ 3. 内部汚染の治療」(運営:公益財団法人原子力安全研究協会)
28.^ 皮膚に傷が無い場合はほとんど吸収されないと考えてよいとされる。草間(1990) p.34
29.^ また、手を汚染した場合は、その後の飲食、喫煙または化粧などによって汚染を体内に取り込む可能性が高い。したがって、放射性物質を取り扱う区域内では飲食、喫煙または化粧を行ってはならず、また取り扱いを中断・終了する時は必ず手に汚染がないことを放射線測定器で確認しなければならない。
30.^ ヨウ素は甲状腺ホルモンであるサイロキシンを構成する元素であり、ヨウ素の放射性同位体も、ヨウ素の一つの同位体であり化学的にはヨウ素に他ならないため甲状腺に取り込まれることになる。
放射性ヨウ素に対する防御原子力発電所において事故の際には、揮発性の高い放射性ヨウ素(ヨウ素131)が環境中へ放出される可能性が高く、甲状腺に高い被曝線量を受ける人が出てきてしまう。これをある程度防ぐ(甲状腺への被爆線量を低減する)ために、放射性ヨウ素を摂取する前かあるいは摂取後比較的早い時期(6時間後までは効果がある)に安定ヨウ素剤を投与することで、放射性ヨウ素が甲状腺に取り込まれることを制限することができる。草間(2005) p.79
31.^ 「放射性核種の体内移行と代謝」原子力百科事典(アトミカ)
32.^ 放射性セシウム体内除去剤としては、紺青(別名:ヘキサシアノ鉄(II)酸鉄(III)、プルシアンブルー)がある。商品名では「ラディオガルダーゼカプセル」と呼ばれる。 日刊薬業WEB「日本メジフィジックス 放射性セシウム体内除去剤を無償提供」(2011年3月14日)
33.^ 例えば、ストロンチウム90はベータ線しか出さず、その娘核種のイットリウム90も極稀にしかガンマ線を出さないため、検出できない。 そのような核種による被曝を調べるには、尿などの排泄物を検査・測定し、推定することになる。 原子力資料情報室 - ストロンチウム-90、US National Research Council (1994). Radiological Assessments for Resettlement of Rongelap in the Republic of the Marshall Islands. Wasington, D. C.: National Academy Press.
34.^ なお、放射線防護の視点からは、放射線はどんなに微量であっても人体にとって有害であると仮定されている。アイソトープ協会(1992) p.161
35.^ アイソトープ協会(1992) p.160
36.^ 自然放射線による被曝は次のように分類される。 大地放射線(地球起源の放射性元素が放出する放射線)
ラドン[222Rn]及びその娘核種
体内に存在する放射性同位元素 カリウム40[40K]
宇宙線(実効線量で年間約380 μSv(=0.38 mSv)程度の外部被曝と言われる。)
宇宙線起源の放射性同位元素 炭素14[14C]など
草間(1995) p.61
※1 ラドンは、地球起源の放射性同位元素の放射性崩壊によって生じる放射性のガスであるが、肺の組織荷重係数が比較的大きいこともあり、自然放射線からの被曝線量として大きな寄与をするので別に分類される。空気中に含まれているラドン222の吸引によって実効線量にして年間約1,200 μSv(=1.2 mSv)程度の被曝を受けているといわれる。草間(1995) p.61
※2 カリウムは、生体必須元素であることから成人男性で120〜150 g、成人女性で80〜100 g程度の一定量を体内にもっている。カリウムの放射性同位体であるカリウム40の割合は一定であることから、摂食量に関わらず成人男子であれば約4000ベクレル程のカリウム40を体内に一定に持つことになる。草間(1995) p.67
UNSCEARサイトFAQ:人々が受けている放射線はどの程度ですか
37.^ かつては自然放射線による被曝はすべて管理の対象外と考えられていたが、最近は制御できるもの、例えばラドンや航空機被曝などについては管理対象とする考え方に変わってきた。放医研(2012) 第1章3節
38.^ 環境管理や個人管理は線源管理を補うために行われるものである。だが、例えば、線源が極めて広範囲に拡散してしまい、実質的に線源管理が困難な状況下においては、環境管理及び個人管理を中心に防護策を講じることとなる。
39.^ アイソトープ協会(1992) pp.166-172、草間(1995) pp.133-149
40.^ 一般環境モニタリングの場合には、ある特定の線源に着目して行なわれる線源関連の環境モニタリングと、複数の線源から放射線を受ける個人に着目して行なわれる人関連の環境モニタリングとがある。
41.^ 例えば、1万人が公衆被曝を受ける場合、個人モニタリングを行うには、その一万人に対して個人線量計(ガラスバッジなど)を配布しなければならなくなる。しかしながら、供給側の供給能力と配布実務から現実的ではない。
42.^ ただし、大規模事故など特殊なケースで、供給側と配布(及びガラスバッジ、フィルムバッジであれば測定結果の読み取り側の体制)に問題がなければ個人モニタリングが実施されることもある。 例えば、福島第一原発事故では当初からの環境モニタリングに加えて途中から個人モニタリングも行なわれることとなった。
帰還に向けた安全・安心対策に関する基本的考え方(平成 25 年度 第 32 回原子力規制委員会)
43.^ 日本の放射線防護関連法令では、放射線や放射性物質を取扱うことができるばしょをあらかじめ許認可を受けた管理区域に制限しており、管理区域以外のところで放射線や放射性物質を取扱うことはできない。常時、管理区域に立ち入る作業者を放射線業務従事者(医療法では放射線診療従事者)と呼ぶ。辻本(2001) p.30
44.^ 放射線業務従事者の業務の例としては、核燃料サイクル従事者、放射線医学従事者、放射性物質の産業・教育・軍事利用にたずさわる業務の他に、天然に存在する放射性物質(NORM;Naturally occurring radioactive material)からの作業環境での増幅された被曝があり、鉱山、石油、天然ガス、航空産業などがあげられる。
45.^ UNSCEAR2008報告書にはさまざまな業種の平均集団積算線量などが掲載されている。UNSCEAR2008「Annex B 第III章 職業被ばく」閲覧2011-10-25
46.^ 辻本(2001) p.30
47.^ 原子力関連施設事故による被曝原子力発電所や、原子力潜水艦の事故を原子力事故といい、原子力の利用がはじまって以来、多数の事故が発生しており、多数の人間が被曝している。日本の1999年の東海村JCO臨界事故など、急性放射線症候群のような重大な放射線障害をもたらす事故も発生することがある。
「 原子力事故 」、「 原子力事故の一覧 」、「国際原子力事象評価尺度(INES)」、および「 臨界事故 」も参照

48.^ 公衆被曝の例 生活用品などによる被曝
地球誕生以来存在している自然由来の放射性物質が少量含まれた製品が出荷されていることがある。一般消費財である場合、日常的に低線量ながら被曝してしまうため、それらに関するガイドラインなどが策定されている。ウラン・トリウムガイドラインについて。放射線医学総合研究所「UNSCEAR2008年報告書」閲覧2011-10-22原子爆弾の投下(atomic bombings)

「広島市への原子爆弾投下」および「長崎市への原子爆弾投下」も参照
太平洋戦争末期に広島と長崎に投下された核兵器の原子爆弾は、高温の熱線と強い爆風だけでなく、強い放射線を放出し、放射能を有する塵などを多量に排出した。被害は爆発熱や爆風だけに留まらず、原爆症と呼ばれる急性・晩発性の放射線障害を被曝者に引き起こした。なお、被爆は爆撃による被害を受けること、他方、被曝は放射線にさらされた場合を指すため、厳密には、核爆弾による直接攻撃を受けた者は「被爆者」、直接の被害は受けず、核爆発に伴う残留放射能を浴びた者は「被曝者」であるが、日本では便宜上前者を「一次被爆者」、後者を「二次被爆者」と呼ぶ。原子爆弾の投下に伴う放射線被曝と放射線障害との関係を明らかにするため、米国原子力委員会の資金によって米国学士院(NAS)が1947年に設立した原爆傷害調査委員会(ABCC;現放射線影響研究所)は様々な疫学的調査を行った。それら結果及び知見はICRPの勧告などに取り入れられている。放射性降下物(nuclear fallout)

「放射性降下物」、「核実験」、および「第五福竜丸事件」も参照

49.^ 辻本(2001) p.31
50.^ なお、放射線防護体系の「行為の正当化」、すなわち放射線診療の適用の判断は医師・歯科医師によって行なわれ、「防護の最適化」の判断は医師・歯科医師及び診療放射線技師等によって行なわれる。辻本(2001) p.31
51.^ これは、医療被曝は患者にもたらされる利益が大きく、しかも、個々の患者や病状によって必要とされる線量が異なり、線量の上限値を設けることによって、必要な放射線診療が制限されないようにするためである。辻本(2001) p.31
52.^ なお、自然放射線による被曝も含まれない。放射線を放出する同位元素の数量等を定める件(平成十二年科学技術庁告示第五号) 第二十四条
53.^ 放射線を放出する同位元素の数量等を定める件(平成十二年科学技術庁告示第五号) 第十条第2項第一号、第十四条
54.^ 厚生労働省「放射能暫定限度を超える輸入食品の発見について(第34報)」(2001年11月8日)

参考文献[編集]
辻本 忠, 草間 朋子 『放射線防護の基礎』、2001年、第3版。
草間 朋子、甲斐 倫明、伴 信彦 『放射線健康科学』 杏林書院、1995年。
草間 朋子 『あなたと患者のための放射線防護 Q&A』 医療科学社、2005年、改訂新版。
草間 朋子 『放射能 見えない危険』 読売新聞社〈読売科学選書28〉、1990年。ISBN 4-643-90037-7。
『放射線・アイソトープ 講義と実習』 日本アイソトープ協会(編)、丸善、1992年。
放射線医学総合研究所(編著) 『虎の巻 低線量放射線と健康影響―先生、放射線を浴びても大丈夫? と聞かれたら』 医療科学社、2012年、改訂版。 旧版(2007)
『理科年表』 国立天文台、2012年、平成25年版。
環境放射線モニタリング指針, 原子力安全委員会, (2010)
緊急時環境放射線モニタリング指針, 原子力安全委員会, (2001)
ウェード・アリソン 『放射能と理性-なぜ「100ミリシーベルト」なのか』 徳間書店、2011年。ISBN 978-4-19-863218-2。
松野元 『原子力防災―原子力リスクすべてと正しく向き合うために』 創英社/三省堂書店、2007年。ISBN 978-4-881-42303-5。
吉川敏一 『フリーラジカルの科学』 講談社、1997年。ISBN 4-06-153650-8。

バナナ等価線量

バナナ等価線量(バナナとうかせんりょう、英: Banana Equivalent Dose, BED)とは、一本のバナナを食べたときに受ける線量を表す単位であるとされている[要出典]。

バナナ100gあたりのカリウム含有量は360mg[1]。カリウム1gあたりのカリウム40(天然存在比0.0117%、半減期12.8億年)は30.4Bq。カリウム40を経口摂取したときの実効線量係数は6.2×10-9Sv/Bqである[2]。 したがって、可食部分が150gと大きめなバナナ一本を基準とすれば、これ一本を食べたときの実効線量が約0.1μSvとなるため、指標として利用しやすいというのである。



目次 [非表示]
1 カリウムの特性
2 その他の食品
3 脚注
4 関連項目


カリウムの特性[編集]

生体必須元素である関係上、成人で約140g程度の一定量が常に体内に保持され排泄調整される。カリウム中のK40の割合も一定であるため、カリウムの摂食量に関わらず成人で約4000ベクレル程のK40を体内に一定に保持し続けることになる[3]。体内のカリウムの量は人体のホメオスタシスによってほぼ一定に保たれているため、バナナを食べても内部線量が長期的に増えることはない。一般的な放射性物質の摂食量のベンチマークとして用いるにはまったく適当でない。この例に限らず、放射性物質の摂食はその核種により蓄積、減衰の仕方がさまざまであるため、評価の仕方は慎重を要する。他の放射性物質の例としてカリウムと挙動の似ているとされるセシウム137では、10Bq連日摂取により体内の放射性セシウム137総量は1400Bq程度で飽和するという報告がある[4]。

その他の食品[編集]

ジャガイモ、インゲン豆、ナッツ、ヒマワリの種はカリウム含有量が多いため、当然自然放射能をやや多く持っている[5]が、これらはバナナと同様に放射能的には無害であると考えることが出来る。最も自然放射能が多いといわれる作物はブラジルナッツで、1kgあたり244.2ベクレルが測定された例がある[6]。これはラジウムの蓄積による部分があるため、カリウムの場合とは同一に考えることは出来ない。ラジウムはカリウムとは異なり人体の必須物質ではないため体内濃度の調整は行われず、吸収されたラジウムの一部は骨内部に不均一に分布する。骨に入れば長く残留、蓄積され、骨をα線で被曝させる。体内のラジウムの量は1.1ベクレルであり、1ベクレルが骨の中に存在し、(通常は)1日の摂取量は0.1ベクレル以下とされている[7]。

脚注[編集]

1.^ miwa-mi. “カリウムの多い食品と食品のカリウムの含有量一覧表”. 簡単!栄養andカロリー計算. 2011年6月28日閲覧。
2.^ 古川路明. “放射能ミニ知識 4. カリウム-40 (40K)”. 原子力資料情報室 (CNIC). 2011年6月28日閲覧。
3.^ http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=09-01-01-07
4.^ ICRP Publ. 111 日本語版・JRIA暫定翻訳版
5.^ http://www.councilforeconed.org/ei/lessons/lesson3/lesson3activity3.pdf (PDF)
6.^ Oak Ridge Associated Universities (2009年1月20日). “Brazil Nuts”. 2011年6月28日閲覧。
7.^ 古川路明. “原子力資料情報室(CNIC) - ラジウム-226(226Ra)”. 原子力資料情報室 (CNIC). 2011年9月28日閲覧。

ハウサ人

ハウサ人は、アフリカの民族。主にナイジェリア北部及びニジェール南部に居住し、西アフリカ最大の民族集団のひとつである。



目次 [非表示]
1 居住地
2 歴史
3 ナイジェリア独立後
4 ニジェール
5 生活
6 文化
7 脚注
8 外部リンク


居住地[編集]

ナイジェリアではヨルバ人・イボ人と並ぶ三大民族のひとつであり、その中でも最も人口が多いため、建国以来ナイジェリアの実権を握ってきた。一方ニジェールでは人口の過半数をハウサ人が占めるが、1993年の民主化まで国の実権を握ることはなかった。また、この両国、特にナイジェリアにおいてはフラニ人と同化が進んでおり、ハウサ=フラニ人と称されることもある。カノやザリアなどの都市は、ハウサ人中心の都市である。

歴史[編集]

西暦500年から700年の間に、ハウサ人の祖先はヌビア地方からゆっくりと西進してきたと考えられている。11世紀にはカネム・ボルヌ帝国のカヌリ人からイスラム教を伝えられた。

13世紀ごろになると、ハウサ人はハウサ諸王国と呼ばれる7つの都市国家を建設し、サハラ交易に従事するようになった。15世紀にはソンガイ帝国に従属したものの、ソンガイが滅亡すると自立性を回復し、サハラ交易ルートのメインルートもこの地を通るようになったため、ハウサ人は繁栄した。

1809年、ウスマン・ダン・フォディオのジハードによってハウサ人地域のほとんどがソコト帝国領となった。支配者となったフラニ人は、しかしハウサ人と同化していき、現在はほとんど区別がなくなっている。

1904年、ソコト帝国がイギリスに滅ぼされると、北部ナイジェリア保護領としてイギリスの支配下に入った。

イギリス統治下においては間接統治がとられ、現地の権力構造はそのまま維持された。これはハウサ人に安定をもたらすと同時に、イギリスの教育などがハウサ人地域にほとんどいきわたらなかったため、南部のイボ人やヨルバ人に比べ植民地政府の官吏を輩出することができず、南北対立の原因のひとつとなった。

ナイジェリア独立後[編集]

1960年、ナイジェリアが独立すると、ハウサ人は北部人民会議(NPC)を結成して選挙に勝利し、NPCのタファワ・バレワが連邦初代首相となった。ハウサ人は議会での優位を利用しハウサ人寄りの政策を進めたため、特に東部のイボ人の反発を買った。逆にハウサ人は、教育を受け商売が上手いため北部に進出してきているイボ人を警戒した。

1966年1月15日、イボ人のジョンソン・アグイイ=イロンシ将軍によるクーデターが発生し、タファワ・バレワ首相など北部系の政治家が殺された。しかし、それに反発したハウサ人が5月にカノをはじめとする北部諸都市でイボ人の虐殺を行い、イロンシ将軍も6月に再び起こったクーデターで殺害され、さらに9月に再びイボ人の虐殺が起きると、ハウサ人主導の政府に反発したイボ人は独立を宣言し、戦争が始まった(ビアフラ戦争)。

ビアフラ戦争が終結したあとも、ナイジェリアにおけるハウサ人の優位は基本的に継続している。

ニジェール[編集]

いっぽう、ニジェールにおいてはハウサ人は最大民族であったものの、支配権は首都ニアメ周辺のジェルマ人(英語版)が握り続けていた。フランス領西アフリカ時代から、フランスはジェルマ人を優遇しており、エリートを輩出していたからである。 ハウサ人が政治の表舞台に立ったのは、1993年の民主化の後のことだった。

生活[編集]

ハウサ人は農耕民族であり、アワ、ヒエ、トウモロコシを中心とする畑作農耕を行っている。ハウサ人のほとんどはイスラム教スンニ派の信者であり、2000年にはハウサ人が多数を占めるナイジェリア北部12州で裁判にシャリーアが導入され、ナイジェリア憲法に違反するとした政府と対立した。

ハウサ人は伝統的に父系社会で、一夫多妻である。

ハウサ人のコミュニティでは、人が死ぬと埋葬までその遺体を当人が死んだ部屋や屋敷内に安置する。数日以上にわたって安置する場合は、体液を抜きミイラ状にする防腐処置を施した上で安置する。火葬は行わない。[1]

文化[編集]

ハウサ人には、民族独自のダンベと呼ばれる格闘技が古来より伝わっている。

ナイジェリア

ナイジェリア連邦共和国(ナイジェリアれんぽうきょうわこく)、通称ナイジェリアは、アフリカ西部に位置する連邦共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。北にニジェール、北東にチャド湖を挟みチャド、東にカメルーン、西にベナンと国境を接する。南は大西洋のギニア湾に面し、かつては「奴隷海岸」と呼ばれた。首都はアブジャ。最大の都市はラゴス。

アフリカ最大の人口を擁する国であり、乾燥地帯でキャラバン貿易を通じてイスラム教を受容した北部と、熱帯雨林地帯でアニミズムを信仰し後にヨーロッパの影響を受けキリスト教が広がった南部との間に大きな違いがある。また、南部のニジェール川デルタでは豊富に石油を産出するが、この石油を巡って内戦や内紛が繰り返されるなど、国内対立の原因ともなっている。



目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 植民地時代
2.2 自治領
2.3 独立・第一共和政
2.4 第一次軍政
2.5 第二共和政
2.6 第二次軍政
2.7 第三共和政
2.8 第三次軍政
2.9 第四共和政

3 政治 3.1 元首
3.2 行政
3.3 立法
3.4 司法

4 軍事
5 地方行政区分
6 地理
7 経済
8 国民 8.1 言語
8.2 宗教
8.3 教育

9 文化 9.1 文学
9.2 音楽
9.3 映画
9.4 世界遺産
9.5 祝祭日

10 ナイジェリア出身の人物
11 脚註
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク


国名[編集]

正式名称は英語: Federal Republic of Nigeria (- nījĭr'ēə)。通称 Nigeria。

日本語による表記は、ナイジェリア連邦共和国。通称、ナイジェリア。

国名の由来は、国内を流れるニジェール川より。ニジェール川の語源は、遊牧民トゥアレグ族により、この川がニエジーレン (n'egiren) 「川」、またはエジーレン (egiren) 「川」と呼ばれていたことによる。これがフランス人に伝えられ、ラテン語で「黒」を意味するニジェール (niger) と転訛した。

ニジェール (Niger) とナイジェリア (Nigeria) は本来は同じ地域を指しているが、旧宗主国を異にする両地域が別々に独立した際に、現在のように別の国を指すこととなった。

歴史[編集]

詳細は「ナイジェリアの歴史」および「:en:History of Nigeria」を参照





16世紀のベニン王国の象牙のマスク
紀元前5世紀から2世紀にかけて、国土の中央部のジョス高原において土偶で知られる初期鉄器文化であるノク文化が繁栄した。

9世紀頃、国土の南東部、ニジェール川の三角州の付け根付近にあたるイボ=ウクゥ(英語版)において青銅器製品を多量に伴うすばらしい王墓が造られた(en:Archaeology of Igbo-Ukwu、イボ文化(英語版))。この地方では、イボ族その他イビビオ族(英語版)のように指導者のない集団による人口の多い村々のネットワークが、アフリカ固有の平等主義と民主主義の概念によって管理されていた。10世紀 - 15世紀頃に、国土の南西部には、青銅製などのすばらしい彫刻で知られるイフェ王国と、ソープストーン(英語版)の塑像で知られるヨルバ人の文化がエシエ(英語版)で栄えた。これらの大胆なフォルムの彫刻は後に19世紀ヨーロッパに紹介され、20世紀美術に多大な影響を与えた。14世紀から18世紀にわたって南部にベニン王国が繁栄した。彼らは15世紀末に来航したポルトガル人から銃を取り入れ軍事力と王権を強化した。

密林によって外部の文化から阻まれた南部と異なり、北部ではキャラバン交易(サハラ交易)を通じ北アフリカから物資や文化の伝播があり、イスラム教を受容した。チャド湖周辺には12世紀から13世紀ごろアフリカのキャラバン交易路の利益と軍事力でカネム・ボルヌ帝国が全盛を迎えた。この王家は19世紀まで続いた。また同じくチャド湖の西方にハウサ諸王国・都市国家群が繁栄し、なかでも19世紀にはフラニ族のイスラム神学者ウスマン・ダン・フォディオが都市国家ゴビール(英語版)で改革運動を開始したが、国から追い出されると遊牧生活のフラニ族たちと協力してジハードを起こし(フラニ戦争(英語版), 1804年 – 1808年)、ソコトの街を首都に、北部一帯にソコト帝国(ソコト・カリフ国, フラニ帝国)を建国した。


植民地時代[編集]





1897年のベニンシティ
詳細は「:en:Colonial Nigeria」を参照

ナイジェリアの植民地化は、1472年にポルトガル人がラゴスを建設し、奴隷貿易の拠点とした時から始まった。17世紀から19世紀を通じて、ポルトガル人、イギリス人を主体とするヨーロッパの貿易商人たちが、南北アメリカ大陸へ送る奴隷の増加に伴い海岸に多くの港を建設し、彼らはナイジェリアの海岸部を「奴隷海岸」と呼んだ。19世紀にはイギリス軍が奴隷売買を禁止し、商品貿易に取ってかわられた。1884年、オイルリバーズ保護国(英語版)(英語: Oil Rivers Protectorate)。1886年にイギリス政府はジョージ・トーブマン・ゴールディ卿らによる貿易会社を「王立ニジェール会社(英語版)」とし諸特権を与え、ナイジェリア一帯の支配を開始した。19世紀末にベニン王国は周囲のフラニ人のソコト帝国、ヨルバ人のオヨ王国もろともイギリスに滅ぼされて、ナイジェリアは植民地化された(ニジェール海岸保護国(英語版))。en:Anglo-Aro War(1901年 - 1902年)。1903年にはソコト帝国も滅亡し、イギリスとフランスに分割された。1901年王立ニジェール会社は北部ナイジェリア保護領(英語版)と南部ナイジェリア保護領(英語版)の二つの保護領に再編成され、1914年一つの保護領en:Colony and Protectorate of Nigeria(1914年 - 1954年)に統合された。

自治領[編集]

留学生たちを中心に第二次世界大戦前から独立への動きはあったが、第二次大戦後ナショナリズムが高まり、自治領(1954年 - 1960年)となった。1956年、シェルはオゴニ(ポートハーコートを中心とするニジェール・デルタにある)で原油採掘を開始。

独立・第一共和政[編集]

詳細は「:en:First Nigerian Republic」および「:en:Nigerian Sharia conflict」を参照

1960年、第一次大戦後旧ドイツ帝国植民地でイギリスの信託統治領となっていた西カメルーンの北部を編入して、それぞれが広範な自治権を有する北部州・西部州・東部州の3地域の連邦制国家として、完全独立を果たす。独立時は、イギリス女王を国家元首として頂く英連邦王国であったが、1963年に連邦共和国憲法を制定し、大統領制に移行した。それと同時に、西部州から中西部州を分割し、全4地域になる。しかし、議会では3地域の代表が激しく対立しあい、人口の多い北部優位は動かず、それが東部との対立を深め、内政は混迷を深めていった。

第一次軍政[編集]





ビアフラ共和国の領域。ビアフラ戦争では100万人以上の死傷者が出た。
詳細は「ビアフラ戦争」を参照

この混乱の結果、1966年1月15日、イボ族のジョンソン・アグイイ=イロンシ将軍によるクーデターが勃発し、イロンシが大統領に就任した。1966年7月28日、イロンシ大統領が暗殺されて、ヤクブ・ゴウォン軍事政権が樹立された。ゴウォン政権は連邦政府への中央集権化を図るため、地方を12州に再編したが、これに反発した東部州は1967年、東部州の有力民族であるイボ族を中心にビアフラ共和国を建国し独立を宣言した。これによって内戦(ビアフラ戦争)になるが、1970年、イボ族の敗北で終結した。

1975年、軍の民政移行派(オルシェグン・オバサンジョ、ムハンマド将軍らを含む)によるクーデターが成功し、ムハンマドが大統領に就任した。1976年ムハンマド大統領は暗殺され、1977年、オバサンジョは最高軍事評議会議長に就任、新憲法を制定。

第二共和政[編集]

詳細は「:en:Second Nigerian Republic」を参照

1979年、大統領選挙でシェフ・シャガリが当選し、文民大統領が誕生した。しかし、多くの国民は民政化後かえって汚職や経済が悪化したと感じた。

第二次軍政[編集]

1983年の次回選挙でオバフェミ・アウォロウォが勝ったにもかかわらず、ムハンマド・ブハリ将軍ら軍政派によるクーデターで再び軍政に戻る。彼は経済再生を約束したが、強圧的な体制を敷いたため、経済はかえって悪化した。1985年再度クーデターが起きイブラヒム・ババンギダ将軍が実権を掌握。彼は最初人権を重視すると約束したが、次第に圧制に移行した。また、為替自由化などの経済改革はナイジェリアの通貨暴落を招き、何度もクーデター未遂を引き起こした。

第三共和政[編集]

詳細は「:en:Third Nigerian Republic」を参照

1990年の新憲法で1992年の大統領選挙が約束され、疑問視されつつも実現したが、ババンギダは不正があったと主張し、やり直させた。1993年6月の再選挙で実業家モシュード・アビオラ(英語版)が勝利し、ババンギダはまたも不正を主張したが、8月に引退し、文民出身の側近アーネスト・ショネカン(英語版)にいったん政権を任せた。

第三次軍政[編集]

その3か月後の1993年11月、1980年代の2回のクーデターにも関わったとみられるサニ・アバチャ将軍が実権を掌握した。サニ・アバチャは1998年の民政移管を約束したが、その一方で政党や集会・出版を弾圧し、多くの政治家や民主運動家や政敵を牢獄に送り、ナイジェリアに圧政を敷き、新憲法制定を延ばし続けた。彼はアフリカ随一の地域大国らしく振舞うべく、リベリアの長い内戦を終わらせ民政移管するプロセスに参加し、軍によるクーデターが起こった際はただちにリベリアに軍を派遣し、文民政権を守った。これによって、アバチャにナイジェリアの民政移管を期待したものもいたが、1998年やっと約束どおり告示された大統領選挙では、候補者はアバチャ一人だけであった。しかし、選挙直前の6月8日にアバチャが心臓麻痺で死去し、7月7日にモシュード・アビオラ(英語版)が死去した。後を継いだアブドゥルサラミ・アブバカールの政権のもと、1999年に新憲法が制定され、民政へ移行した。

第四共和政[編集]





第5代・12代大統領オルシェグン・オバサンジョ
詳細は「:en:Fourth Nigerian Republic」を参照

かつてのクーデター軍人オルシェグン・オバサンジョが、初の民主的選挙で、大統領に当選した。2003年の選挙でも再選した。しかし彼は民主派の希望でもあった司法長官ボラ・イゲ(英語版)が2001年に暗殺された件に関わったといわれるほか、ナイジェリアの汚職と腐敗が彼の時代になって最悪になったといわれ、国民の感情は好悪半ばしている。オバサンジョは腐敗政治家を次々逮捕しているが依然政府の腐敗は深刻で、多くの頭脳流出を招いている。

2006年、オバサンジョ大統領の3選を可能にする憲法改正が否決され、2007年2月、アブバカル副大統領が大統領選挙の候補者名から除外され、4月、アブバカルの立候補を最高裁が容認した。2007年4月23日、選挙管理委員会は大統領選挙で、国民民主党のウマル・ヤラドゥアが当選したと発表したが、国際選挙監視団は不正投票があったとして有効性を疑問視した。2007年8月14日、ナイジェリア中央銀行(英語版)のen:Charles Chukwuma Soludo総裁は2008年の8月から100ナイラを1ナイラとするデノミネーションを実施することを発表した。2009年6月3日、ナイジェリア中央銀行の新総裁にサヌシ・ラミド・サヌシ(英語版)が就任。2009年7月26日、ボコ・ハラムのボコ・ハラム蜂起(英語版)が勃発(en:Timeline of Boko Haram attacks in Nigeria)。2010年5月5日、ヤラドゥアが病死し、副大統領のグッドラック・ジョナサンが大統領に就任した。

グッドラック・ジョナサンの就任期間は、ヤラドゥアの任期の残り1年を受けてのものであったため、2011年再び大統領選挙が実施。グッドラック・ジョナサンは、イスラム教徒が多い北部出身のムハンマド・ブハリ元最高軍事評議会議長を下して再選を果たした。しかし、この選挙結果を受けてカドゥナ州など北部地域で暴動やキリスト教施設等への襲撃が発生。多数の死者や避難民が生じた[2]。

政治[編集]





第14代大統領グッドラック・ジョナサン
詳細は「ナイジェリアの政治」を参照

ナイジェリアの政治は独立以来混乱が続いているといっていい。独立時の北部・東部・西部の3州制以来、政治の実権は人口の多い北部のイスラム教徒が握っている。票数を是正するための人口調査は1962年に行われたものの、各民族の対立により失敗に終わり、以後人口調査は行われていない。この人口調査の失敗は各民族の対立をより先鋭化させ、ビアフラ戦争へとつながっていった[3]。3州の政治対立を緩和するため、政府は州を細分化していき、州の数は1967年には12州、1976年には19州、1996年には36州となっていた。この州の細分化により、旧各州の中心であったハウサ人・ヨルバ人・イボ人の3民族の求心力は衰え、新設された州で最大規模となった中小規模の民族の発言権が増大した。いっぽうで各民族ごとに投票行動を行う傾向は変わらず、いまだに正確な人口調査を行うことができない状況である[4]。

1967年に起こったクーデターでヤクブ・ゴウォンが政権を握って以降、軍の政治的発言権は増大した。ナイジェリアでは軍事政権が民主化の意向を示さないことは少なく、政権を奪取すると数年後の民政移管を公約するのが常であったが、この公約が守られることは少なく、イブラヒム・ババンギダ時代には大統領選の再選挙や無効、サニ・アバチャ時代には対立候補のいない大統領選などが行われ、軍は長期にわたってナイジェリア政治を支配してきた。

1999年に民主化が行われると、これまで政権を握ってきた北部が中央への反発などから急進化し、州法へのシャリーアの導入を北部各州が相次いで可決。これに反対する中央政府との対立が暴動に発展し、北部各地で暴動が頻発する状況となった。南部のニジェール・デルタでは、石油生産に伴う環境汚染などから不満を持った地域住民が急進化し(en:Conflict in the Niger Delta、大宇建設社員拉致事件)、ニジェール・デルタ解放運動やデルタ人民志願軍などいくつもの反政府組織やテロ組織(ボコ・ハラム)が武装闘争を行うようになり、治安が悪化している。

潤沢な石油収入があるものの、政府の統治能力の未熟さと腐敗により、国民の生活には還元されていない。石油収入150億ドルのうち100億ドルが使途不明のまま消えていく[5]。2009年の腐敗認識指数は2.5で、2003年の1.4よりやや改善したものの、それでも世界130位と下位にあることに違いはない。

元首[編集]

大統領を国家元首とする連邦共和制国家である。

行政[編集]

大統領は行政府の長として実権を有する。大統領は民選で任期4年。三選禁止。

立法[編集]

議会は、二院制。上院は、全109議席。各州3議席、連邦首都地域から1議席。代表議院(下院)は、346議席。任期はいずれも4年で、両院同日選挙。

司法[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。

軍事[編集]

サハラ砂漠以南のブラックアフリカでは南アフリカ共和国に並ぶ軍事大国であり、現在では平和維持軍等に期待が寄せられている。

[icon] この節の加筆が望まれています。

地方行政区分[編集]

詳細は「ナイジェリアの州」を参照





ナイジェリアの州
ナイジェリアは連邦制を採用しており、36の州 (state) と連邦首都地区(Federal Capital Territory) によって構成される。州はさらに774の地方行政区域に分割されている。独立時は北部州、東部州、西部州の3州体制であったが、民族対立の先鋭化を招いたため、徐々に細分化されていった。




1.アビア州 (Abia)
2.アダマワ州 (Adamawa)
3.アクワ・イボム州(Akwa Ibom)
4.アナンブラ州(Anambra)
5.バウチ州 (Bauchi)
6.バイエルサ州 (Bayelsa)
7.ベヌエ州 (Benue)
8.ボルノ州(Borno)
9.クロスリバー州 (Cross River)
10.デルタ州 (Delta)
11.エボニ州(Ebonyi)
12.エド州(Edo)
13.エキティ州 (Ekiti)
14.エヌグ州 (Enugu)
15.ゴンベ州 (Gombe)
16.イモ州(Imo)
17.ジガワ州 (Jigawa)
18.カドゥナ州 (Kaduna)
19.カノ州 (Kano)
20.カツィナ州 (Katsina)
21.ケビ州 (Kebbi)
22.コギ州 (Kogi)
23.クワラ州(Kwara)
24.ラゴス州 (Lagos)
25.ナサラワ州 (Nassarawa)
26.ナイジャ州 (Niger)
27.オグン州 (Ogun)
28.オンド州 (Ondo)
29.オシュン州 (Osun)
30.オヨ州 (Oyo)
31.プラトー州 (Plateau)
32.リヴァーズ州 (Rivers)
33・ソコト州 (Sokoto)
34.タラバ州 (Taraba)
35.ヨベ州 (Yobe)
36.ザムファラ州 (Zamfara)
37.連邦首都地区 (Federal Capital Territory)

地理[編集]





ナイジェリアの地図
詳細は「ナイジェリアの地理」を参照

ナイジェリアはアフリカのほぼ中央に位置し、南部は大西洋のギニア湾に面する。西をベナン、北をニジェール、北東をチャド、東をカメルーンに囲まれる。同国の二大河川であるニジェール川とベヌエ川は中部のコギ州ロコジャ付近で合流し、南流して世界最大のデルタであるニジェールデルタを形成し、大西洋に臨む。最高地点は南東部のマンビラ高原のチャパル・ワッディ山の2,419mである。国土は多様で、南部は年間約2,000mmの降雨がある熱帯雨林で、広大なマングローブが分布している。カメルーンにかけて中型のサルであるドリルの唯一の生息域であり、世界でも顕著な多種の蝶が見られるなど生物多様性の場所である。北部はサヘルと呼ばれる半砂漠で湖水面積縮小の著しいチャド湖がある。北の国境、南の沿岸沿いを除いた地域には年間降水量500 - 1,500mmのサバナが広がっている。

経済[編集]

詳細は「ナイジェリアの経済」を参照





ラゴスはナイジェリア最大の経済都市であり、世界有数のメガシティである。
IMFの統計によると、2010年のナイジェリアのGDPは2066億ドルであり[6]、日本の福岡県とほぼ同じ経済規模である[7]。 ブラックアフリカで最初にOPECに加盟を果たし、アフリカ大陸ではエジプトと共にNEXT11にも数えられており、経済規模は南アフリカ、エジプトに次ぎアフリカ第3位と経済規模も大きい。





色と面積で示したナイジェリアの輸出品目
石油生産量世界12位、輸出量世界8位の世界有数の産油国であり、肥沃な土壌ではトロピカルフルーツや野菜の生産が盛んだった。南部では輸出用作物としてカカオやアブラヤシ、サトウキビ、自給用としてキャッサバ、ヤムイモが栽培され、北部では輸出用作物として落花生、自給用としてトウジンビエ、トウモロコシがおもに栽培されており、それぞれ世界有数の生産国であった。しかし政府歳入の80%、GDPの40%を石油に頼る過度の石油依存により、カカオを除く在来の輸出農業は衰退。さらに政治の腐敗、放漫財政とオイルブーム後の巨額の累積債務のため、経済は低迷を続けている[8]。

国内の市場そのものは大きいのだが、国民の大多数が貧困に苦しんでいるため、購買力が低く市場を生かしきれない。それでも国内市場向けの産業は少しずつ成長してきている。2008年には、食品工業やセメント製造を中核とするナイジェリア国内最大の企業グループの一つであるダンゴート・グループ総帥アリコ・ダンゴートが、ブラックアフリカで初めてフォーブス (雑誌)の長者番付にランクインした[9]。

最大都市ラゴスはアフリカ最大級の大都市だが、集まる人口に既存の都市機能が追いつかず、渋滞によりバス・タクシーなど交通機能は麻痺寸前になっている。地方との交通網は、1980年代以前は、かつての宗主国であるイギリスが敷設した鉄道網が機能していたが、インフラの維持に手が回らず荒廃、多くは自動車やトラック輸送に転換されている。こうした傾向は、ラゴスを始めとした都市の渋滞に拍車をかけることから、政府は鉄道の近代化プロジェクトに着手。中国からの借款により資金を融通。中国企業との協力で、ラゴス州レッキー半島にレッキー自由貿易区を設置、現在建設を行っている。2006年からは、ラゴスやポートハーコートから各都市への鉄道網の再整備に乗り出している。

ナイジェリアの学校教育の水準は比較的高く、また電子機器やプログラミングなどに関する教育も盛んであるが、高度な教育を受けた学卒者たちの多く(4分の1以上)は失業状態にある。そのため、いくつかの若者が不法移民輸送や麻薬密輸ほか、インターネットカフェから世界中にスパムを配信するインターネット詐欺(いわゆる「ナイジェリアの手紙」詐欺)など犯罪にかかわる状態があるという。その他、暴力犯罪でもヨハネスブルグ、ナイロビ等とならび評判が悪い。オバサンジョ政権は、詐欺・経済犯罪や暴力組織の壊滅にむけ、世界各国の捜査機関と協力しながら努力している。

国民[編集]

詳細は「ナイジェリアの国民」および「:en:Demographics of Nigeria」を参照





ナイジェリア、カメルーン、ベナンの民族分布
ナイジェリアはアフリカ最大の人口を擁する国家であり、アフリカの総人口の1/5〜1/4がナイジェリアに居住する。250以上の民族/部族が居住する。北部のハウサ人およびフラニ人が全人口の29%、南西部のヨルバ人が21%、南東部のイボ人が18%。以下、イジョ人 10%、カヌリ人(英語版) 4%、イビビオ人(英語版) 3.5%、ティブ人 2.5%、他にEdo、Ebira、Nupe、Gwari、イツェキリ(英語版)、Jukun、Urhobo、イガラ人、Idoma、Kofyar、オゴニ、アンガス人らがいる。民族紛争が相次いできたため現在では州が細分化されている。これにより中規模民族の発言権が増大したが、これにより3大民族によって抑えられてきた各州の主導権争いが本格化し、民族紛争は減少しないままで、少数民族には苦難が続いている。

言語[編集]

ナイジェリアでは方言を含め521の言語が確認されているが、現存するのは510であると考えられている。議会や官庁で主に使用される事実上の公用語は旧支配者の言語である英語であり、議会では多数派であるハウサ語、ヨルバ語、イボ語の使用のみが認められている。初等教育では母語によって授業が行われるが、高等教育においては英語のみを使用。言語の面でも少数民族の権利が侵される事態となっている。[10][11]

宗教[編集]

主に北部ではイスラーム教が、南部ではキリスト教が信仰され、その他土着のアニミズム宗教も勢力を保っており、内訳はイスラーム教が5割、キリスト教が4割、土地固有の伝統信仰が1割となっている[12]。北部はムスリム地区である。スンナ派ムスリムが主流で、シーア派ムスリムはほとんど居なかったが、イランがナイジェリアで支持団体を通じてシーア派とイスラーム革命思想の布教を行い、現在は200万人のシーア派ムスリムが存在する[13]。

独立後、キリスト教とイスラーム教が対立する宗教間紛争が多く起こった。1982年にはカノでモスクの近くに大聖堂を建てる計画に反対して暴動が、1986年にはババンギダ軍事政権がイスラム諸国会議機構の正式メンバーになることを秘密に決定していたことが発覚し、教会やモスクの破壊が続いた。さらに、1987年のカドナ州の暴動では19人の死者、数千人の負傷者が出た。また1990年にはクーデター未遂が起こり、1991年にはカツィーナ、バウチで暴動、1992年カドナ州ザンゴン・カタフで暴動が起こった。2002年は25%以上がキリスト教であるカドナ州でシャリーアを導入するか否かで抗争が起きた[14]。

2010年3月にはベロムでイスラーム教徒がキリスト教徒を襲撃する事件が発生し、500人以上が殺害された。2010年7月にかけての数ヶ月間に同様の事件が複数起きており、地元の人権団体によるとジョス周辺だけで1500人が殺害されているとされる。教会の建物もその際に破壊されるケースがある[15]。

教育[編集]

学制は初等教育6年、初期中等教育3年、後期中等教育3年、高等教育4年の6-3-3-4制である。義務教育は初等教育の6年間のみ。教育言語は英語である。就学率は初等教育で60から70%と低い。

2003年の15歳以上の人口の識字率は約68%(男性:75.7%、女性:60.6%)であると見積もられている[16]。

主な高等教育機関としてはナイジェリア大学(1955年)、イバダン大学(1948年)、ラゴス大学(1962年)などが挙げられる。

文化[編集]

詳細は「ナイジェリアの文化」および「:en:Culture of Nigeria」を参照

文学[編集]





ノーベル文学賞作家、ウォーレ・ショインカ
詳細は「ナイジェリア文学」を参照

「アフリカ文学」も参照

ナイジェリアは南アフリカ共和国と同様、自国内に出版産業の生産、流通システムが確立し、文学市場が成立しているブラックアフリカでは数少ない国家である[17]。

文字による文学は、最初期のものとして、奴隷となったヨルバ人オラウダ・イクイアーノ(英語版)が英語で書いた『アフリカ人オラウダ・イクイアーノ、別名グスターヴァス・ヴァッサ自著の生涯の興味ある物語(英語版)』(1789)が挙げられ、イクイアーノは現在もアフリカ文学に大きな影響を与えている[18]。『死と王の先導者』で知られるヨルバ人のウォーレ・ショインカは、アフリカ初のノーベル文学賞(1986年受賞)受賞作家となった。ヨルバ人のエイモス・チュツオーラは、『やし酒飲み(英語版)』で知られる。

現代の代表的な作家としては、40カ国語以上に翻訳された『崩れゆく絆(英語版)』(1958)[18]のイボ人のチヌア・アチェベ、ビアフラ戦争をテーマとした『半分のぼった黄色い太陽(英語版)』のイボ人のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが知られている。

その他、ケン・サロ=ウィワ、フェスタス・イヤイ(英語版)などの名が挙げられる。

音楽[編集]





キング・サニー・アデ
詳細は「ナイジェリアの音楽」および「:en:Music of Nigeria」を参照

クラシック音楽においては、植民地時代から独立後にかけて活躍したフェラ・ソワンデの名が特筆される。

19世紀に西アフリカよりラゴスに伝わった「パームワイン音楽(英語版)」は、1920年代に入るとヨルバ色を強めて土着化。1930年代には西洋楽器や讃美歌のハーモニーを取り入れた「ジュジュ(英語版)」が成立、音楽は発展をつづけ、1980年代にキング・サニー・アデにより隆盛期を迎えた。

また、イスラム文化の影響を受けたヨルバ人のサカラドラム(英語版)により、20世紀初めごろに「サカラ(英語版)」が成立、1940年代に流行。対抗するようにトーキングドラム(ドゥンドゥン)のアンサンブルによる「アパラ(英語版)」も発生した。ラマダーンの時期に目覚ましとして使われていた音楽は「ウェレ(英語版)(アジサーリ(英語版))」へと発展し、1960年代にはシキル・アインデ・バリスター(ヨルバ語版、スペイン語版)により「フジ(英語版)」が生まれた(フジの名称は日本の富士山に由来している)。

1950年代にガーナより伝わった「ハイライフ」や、アメリカ合衆国のジェームス・ブラウンらのファンクなどの影響を受けた「アフロ・ビート」は、1960年代後半にフェラ・クティらにより生まれた。アフロビートはフェラの死後も、フェミ・クティやシェウン・クティらに引き継がれている。

映画[編集]

詳細は「ナイジェリアの映画」および「:en:Cinema of Nigeria」を参照

「アフリカ映画」も参照

年間に製作される映画の本数は約800本と、インドに続き世界二位である。人口10億人以上のインドとほぼ同数の作品が製作されているわけなので、人口比あたりの映画制作数では間違いなく世界一位である。製作される映画は英語の物と現地語の物がほぼ半分ずつだと言われている。

世界遺産[編集]

詳細は「ナイジェリアの世界遺産」を参照

ナイジェリア連邦共和国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。





スクルの文化的景観 - (1999年、文化遺産)






オシュン=オショグボの聖なる木立 - (2005年、文化遺産)


祝祭日[編集]

ナイジェリア出身の人物[編集]

詳細は「ナイジェリア人の一覧」および「:en:List of Nigerians」を参照
イブラヒム・アッボーラ・ガンバリ(国際連合事務次長、国際連合事務総長特別顧問)
アキーム・オラジュワン(バスケットボール選手)
オーガスティン・オコチャ(サッカー選手)
ホーガン・バッセイ(ボクサー。元世界フェザー級チャンピオン)
サミュエル・ピーター(ボクサー。世界ヘビー級チャンピオン)
ボビー・オロゴン(タレント、格闘家。現在は日本国籍)
アンディ・オロゴン(タレント、格闘家。ボビー・オロゴンの弟)
キザイア・ジョーンズ(ミュージシャン&ギターリスト。ブルースとファンクを融合させた『ブルーファンク』なるジャンルを提唱。アコースティックギターを超絶テクニックでスラップするそのファンキーなテクニカルプレー・音楽性はヴィジュアル系アーティスト雅や元祖渋谷系シアターブルックの佐藤タイジなどに多大な影響を与えた)
フェラ・クティ(ミュージシャン。アフロビートの創始者で「Black President(黒い大統領)」と呼ばれる)
シャーデー・アデュ(イギリスのバンド・シャーデーのボーカル、モデル。父はヨルバ人でイバダンの出身)

脚註[編集]

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1.^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
2.^ ナイジェリア大統領選めぐる暴動、死者500人超か(AFP.BB.NEWS)2011年04月25日13:53
3.^ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p501
4.^ 「アフリカ 苦悩する大陸」ロバート・ゲスト著 伊藤真訳 2008年5月15日 東洋経済新報社 p136
5.^ 松本仁一『カラシニコフI』朝日新聞出版、2008年7月30日 p.177
6.^ IMF
7.^ 国民経済計算
8.^ 「ビジュアル データ・アトラス」同朋舎出版 p354 1995年4月26日初版第1刷発行
9.^ 「アフリカ 動き出す9億人市場」ヴィジャイ・マハジャン著 松本裕訳 英治出版 p108-110 2009年7月20日発行
10.^ E・カリ「多言語状況データベース ナイジェリア」、〈アジア・アフリカの多言語状況データベース〉東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
11.^ 中村博一「第13回「世界の教科書展」特集「ナイジェリアの教育と教科書」」文教大学教育研究所
12.^ 外務省
13.^ NHK-BS1「きょうの世界」2月10日放送回より
14.^ 戸田真紀子『アフリカと政治』、第5章「ナイジェリアの宗教紛争」
15.^ イスラム教徒らがキリスト教徒の村を襲撃、8人死亡 ナイジェリア 2010年07月18日 10:44 AFPBB
16.^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ni.html 2009年10月18日閲覧
17.^ 砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店 2002/12
18.^ a b 小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店 2002/12

参考文献[編集]
岡倉登志:編『ハンドブック現代アフリカ』明石書店 2002/12
戸田真紀子『アフリカと政治 紛争と貧困とジェンダー』御茶の水書房、2008
牧英夫『世界地名ルーツ辞典』1989/12

カノ

カノ(Kano)はナイジェリアの都市。カノ州の州都。ナイジェリア北部の経済・文化における中心都市。国際空港もあり各地と航路でも結ばれている。人口は約362万6千人(2005年)。

概要[編集]

ハウサ人が1000年頃に王国を建て、ハウサ諸王国のひとつカノ王国(英語版)として繁栄した。ムスリム商人の活動にともなって12世紀ころよりイスラーム化が進んだと考えられる。サハラ縦断貿易の要所であり、金・塩・奴隷・象牙などを扱う交易拠点として発展した。15世紀に土で作られた城壁が拡張された。(現在も残されている。)

1805年、カノ首長国(英語版)が成立。1809年、他のハウサ諸国と同じくフラニ帝国によって征服される。19世紀末にはこの地で「カノ年代記」が編まれ、ハウサ諸王国の歴史を伝える貴重な史料となっている。19世紀より西欧の探検家が足を踏み入れ、20世紀初頭よりイギリスによる植民地化が進んだ。鉄道敷設が進められ、1912年にはカノとラゴスを結ぶ鉄道が開通した。

独立後の1953年にヨルバ族とイボ族の間でen:Kano riot of 1953が起こった。1966年、カノなど北部の都市で、ハウサ・フラニ人のイボ人に対する虐殺が行われ、数千人が犠牲となった。このことがナイジェリア南東部におけるビアフラ共和国の独立を発端とする1967年のビアフラ戦争の契機となった。

ピーナッツの生産、集散地として知られる。街にはアド・バイェロ大学があり、ナイジェリア北部における教育の中心地でもある。近隣の都市としては、約130キロ南西のザリア、200キロ西のグザウなどが挙げられる。ニジェールとの国境まで約100キロ程度であり、約200キロ北にニジェールのジンデルが位置している。

カーナライト

カーナライトは、塩化カリウム・マグネシウムの水和物 (KMgCl3・6H2O)からなる蒸発岩鉱石である。カーナライトは黄、白、赤色と様々な色を取りやすく、しばし無色もしくは青色となる。通常は、珍しい六方対称性の晶癖を示す斜方晶を伴った繊維状の塊である。この鉱石は吸湿性であるため、標本は密閉容器内に保管される。



目次 [非表示]
1 産出
2 歴史
3 出典
4 関連項目


産出[編集]





ロシア産のカーナライト
カーナライトは、一連のカリウム・マグネシウム系の蒸発岩鉱石であるカリ岩塩(英語版)、カリナイト(英語版)、ピクロメライト、雑鹵石(英語版)およびキーゼル石(英語版)に伴って産出する。幾分か珍しい複塩化物鉱石であり、蒸発した海や堆積盆地などの限られた環境条件の下でのみ形成される。カーナライトはカリウムおよびマグネシウム資源として採掘され、メキシコのカールズバッド (ニューメキシコ州)、アメリカのコロラド州からユタ州に広がるパラドックス盆地(英語版)、ドイツのシュタースフルト(英語版)、ロシアのペルム盆地、カナダのサスカチュワン州にあるウィリストン盆地(英語版)などにある蒸発岩鉱床にから産出される。これらの鉱床は、デボン紀からペルム紀に起源を持つ。対照的に、イスラエルおよびヨルダンでは死海の高濃度な塩水を蒸発皿でカーナライトの沈殿が生じるまで濃縮させることでカリ塩を生産しており、その後蒸発皿からカーナライトを回収し、塩化マグネシウムの除去処理が行われる[3]。

歴史[編集]

1856年、カーナライトはドイツのザクセン=アンハルト州にあるシュタースフルト鉱床から産出する鉱石の種類として初めて解説された。カーナライトという名称は、プロイセン人の鉱山技師であったルドルフ・フォン・カーナル (1804 - 1874)にちなんで名付けられた[3]。

出典[編集]

1.^ “General Carnallite Information”. Webmineral data. 2011年10月3日閲覧。
2.^ “carnallite”. Handbook of Mineralogy. 2011年10月3日閲覧。
3.^ a b c “Carnallite”. Carnallite on Mindat. 2011年10月3日閲覧。

ジョン・ウィリアム・ストラット

第3代レイリー男爵ジョン・ウィリアム・ストラット(英: John William Strutt, 3rd Baron Rayleigh、1842年11月12日 - 1919年6月30日)は、イギリスの物理学者。レイリー卿(レーリー卿あるいはレーリ卿とも。Lord Rayleigh)としても知られる。光の散乱の研究から空が青くなる理由を示す(レイリー散乱)、地震の表面波(レイリー波)の発見、ラムゼーとの共同研究によるアルゴンの発見、熱放射を古典的に扱ったレイリー・ジーンズの法則の導出などを行った。このほかにも流体力学(レイリー数)や毛細管現象の研究など、古典物理学の広範な分野に業績がある。

「気体の密度に関する研究、およびこの研究により成されたアルゴンの発見」により、1904年の ノーベル物理学賞を受賞した。



目次 [非表示]
1 業績 1.1 レイリー散乱
1.2 レイリー波の発見
1.3 アルゴンの発見
1.4 レイリー・ジーンズの法則

2 年表
3 生涯 3.1 生い立ち
3.2 初期の研究
3.3 ケンブリッジ
3.4 王立研究所
3.5 熱放射
3.6 晩年

4 出典
5 関連項目
6 外部リンク


業績[編集]

レイリー散乱[編集]

1871年、レイリーは波長より十分小さい粒子による光の散乱を表す式を導いた。これはレイリー散乱と呼ばれ、それによれば散乱光の強度は波長の4乗に反比例する。晴れた大気の場合、散乱をおこす粒子はほとんどが空気の分子のみ(このような大気をレイリー大気という)で、太陽光の可視波長よりも粒子サイズが十分小さいためこの理論で説明できる。

雲の水滴(直径数μm)や大気中の塵などのエアロゾルは波長に比べて十分小さいとはいえないので、この理論は当てはまらない。

レイリー波の発見[編集]

アルゴンの発見[編集]

レイリー・ジーンズの法則[編集]

年表[編集]
1842年 - エセックス州モールドン近郊のラングロード・グローブに生まれる。
1861年 - ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学(-1865年)。
1871年 - バルフォアの姉妹イヴリン・バルフォアと結婚。
1873年 - 父親ジョン・ジェームズ・ストラットの死去によって爵位を継承し、レイリー卿となる。また、王立協会会員となる[1]。
1879年 - マクスウェルの後任として第2代のキャヴェンディッシュ研究所所長となる( - 1884年)。
1884年 - マクスウェルから引き継いだ、電磁気学の基礎単位の精密な基準を定めるプロジェクトを完成させる。
1885年 - 王立協会幹事となる( - 1896年)。
同年、現在レイリー波と呼ばれる地震波(表面波)を発見。1887年 - ロンドン王立研究所の自然哲学教授となる( - 1905年)。
1892年 - 空気から酸素を除いて作った窒素が、アンモニアを分解して作った窒素より重いことを示す。
1894年 - ラムゼーと共同でアルゴンを発見。
1900年 - レイリー‐ジーンズの式を導出。
1901年 - エーテルを見つけるための実験を行うが、失敗に終わる。
1904年 - ノーベル物理学賞を受賞。
1905年 - 王立協会会長となる。
1908年 - ケンブリッジ大学名誉総長となる。
1919年 - エセックス州ウィザムのターリング・プレイスで死去。爵位は息子で物理学者のロバート・ジョン・ストラットが継いだ。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

レイリーは1842年11月12日、エセックス州モールドン近くのラングロード・グローブで、第二代レイリー男爵ジョン・ジェームズ・ストラットの息子として生まれた。1861年まで家庭教師から教育を受けたが、若いうちは病弱で、勉学はたびたび中断された。その後ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入って数学を勉強した。1865年に卒業すると翌年トリニティ・カレッジのフェローとなり、結婚するまでその地位にあった。卒業後アメリカに旅行し、帰国後にターリング・プレイスの自宅に実験器具を取り寄せて研究を始めた。彼の研究は、キャヴェンディッシュ研究所所長であった期間を除きほとんど自宅で行われた。

初期の研究[編集]

1860年代から1870年代にかけてレイリーが自宅で行った研究は、主に音波や光波の性質に関するものだった。1870年にはヘルムホルツの研究を発展させて音の共鳴に関する論文を発表した。1871年には「空が青いのは空気中の塵が光を散乱するからである」というティンダルの推論を理論的に証明した。この、光の波長と粒子の大きさがほぼ等しいときの光の非弾性散乱はレイリー散乱と呼ばれている。つづいて回折格子に興味を持ち、分解能に精密な定義(レイリー限界)を与えて分光器の発展に貢献した。

レイリーは1872年にリュウマチ熱を患い、暖かい土地での療養を余儀なくされた。そのために訪れていたエジプトのナイル河畔で、音響学の古典『音響理論(The Theory of Sound)』を執筆した。

1873年に爵位を相続した後も彼は研究を続けたが、これは貴族としては風変わりなものと見られた。

ケンブリッジ[編集]

1879年、レイリーはケンブリッジ大学の実験物理学のキャヴェンディッシュ教授に就任した。ここではマクスウェルの仕事を引き継いで精密測定技術の改良を進め、1884年には電磁気学の単位(アンペア、ボルト、オーム)の標準を定めた。また彼は電位差を精密に測定するためにレイリー電位計を発明した。この研究はイギリスにおける標準化の先駆といえるもので、レイリーは1900年に標準局(イギリス国立物理学研究所)が設立されると、終生その運営理事会議長を務めた。

王立研究所[編集]

1887年、レイリーは王立研究所教授に就任したが、もっぱら自宅で研究をして過ごした。この時期彼は「全ての元素はいくつかの水素からなり、そのため全ての元素は整数の原子量を持つ」というプラウトの仮説の実験的検証のため、いくつもの気体密度の精密測定を行った。彼の得た結果は他の物理学者の実験と同様この理論を否定した。しかしそれに付随して、空気中の窒素の密度はアンモニアを分解して得た窒素より0.5%程度大きいということも見出した。当然彼はその誤差の原因となる不純物が試料に含まれないよう工夫したが、問題を解決することはできず、1892年に「ネイチャー」に短いノートを発表して化学者の助けを求めた。

それから2年間、レイリーはラムゼーと共同でその原因を研究した。そしてついに空気中に存在する新元素アルゴンが不純物であることを突き止め、1895年に発表した。この業績により、彼は1904年のノーベル物理学賞を、ラムゼーはノーベル化学賞を受賞した。

熱放射[編集]

1900年、レイリーは黒体放射のエネルギーを与える式を導いた。これは古典物理学から導かれたが、長波長域でしか実験結果と一致しない。短波長側の実験結果とよく一致する式はヴィーンによって提案されていた。

レイリーの提案した式の定数は1905年に求められたが、ジーンズによってその誤りが訂正されたのでレイリー・ジーンズの法則の名前がある。

晩年[編集]

当時現れつつあった量子論や相対論に対して、レイリーは機械論的な古典物理学の立場から辛辣な批判を加えた。彼は最後まで熱放射を古典物理学で説明する望みを捨てず、エーテルを不要にする相対論を嫌悪をもって見ていたといわれる。

レイリーは1919年6月30日に、エセックス州ウィザムのターリング・プレイスで死去した。彼には三人の子供がおり、爵位は長男で物理学者のロバート・ジョン・ストラットが継いだ。

出典[編集]

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1.^ “Strutt; John William (1842 - 1919); 3rd Baron Rayleigh” (英語). Library and Archive catalogue. The Royal Society. 2011年12月11日閲覧。

関連項目[編集]
レイリー方程式
レイリー円板 - 音の強さを測定する装置
レイリー干渉計
レイリー散乱 - 光の散乱の一種
レイリー・ジーンズの法則 - 古典論における黒体放射の法則
レイリー数 - 対流に関する無次元数
レイリーテイラー不安定性
レイリー電位計
レイリー波 - 半無限弾性体の表面を伝わる弾性波
レイリー (単位)
レイリー分布
ジョン・ティンダル
ヴィルヘルム・ヴィーン
ジェームズ・ジーンズ
マックス・プランク
レイリー・メダル
イギリス音響学会

イーオー

イーオー(古希: Ἰώ, ラテン文字転写: Īō、ラテン語: Io)は、ギリシア神話に登場する女性。長母音を省略してイオとも表記される。ゼウスの恋人であり、牝牛に姿を変えられてギリシアからエジプトまで各地をさまよった。

イーオーの生まれに関しては諸説があり、アイスキュロスら悲劇詩人の多くやオウィディウス、ヒュギーヌス、年代記作者のカストールらは河の神イーナコスの娘であるとし、ヘーシオドス、アクーシラーオスによればペイレーンの娘とする。アポロドーロスはイーアソス[1]の娘との説も紹介している。

イーナコスはアルゴス地方(アルゴリス)を流れる河であり、アルゴスはゼウスの妃ヘーラー信仰の中心地であった。イーオーはアルゴスでヘーラーに仕える女神官を務めたとされる。



目次 [非表示]
1 神話 1.1 牝牛の姿にされる
1.2 彷徨
1.3 その後
1.4 プロメーテウスの予言

2 論考
3 関連項目 3.1 ギリシア神話
3.2 イーオーにちなんだ命名、地名
3.3 イーオーが登場する作品

4 系図
5 脚注
6 参考文献


神話[編集]





ヘーラー(上)、ゼウス(左)、牝牛にされたイーオー(右)。en:Giovanni Ambrogio Figino画(1599年)。it:Pinacoteca Malaspina
以下は、主としてアポロドーロス(II巻1.3)に基づく。

牝牛の姿にされる[編集]

イーオーはヘーラーの神職にあったが、ゼウスがこれを犯した。ヘーラーに発見されたゼウスはイーオーを白い牝牛の姿に変え、交わっていないと誓った。ヘーラーはゼウスから牝牛を乞い受け、全身に眼がある「普見者(パノプテース)[2]」アルゴスを見張りに付けた。

アルゴスは牝牛をミュケーナイの森の中に連れて行き、一本のオリーブの木につないだ。ゼウスは、ヘルメースに牝牛を盗むよう命じた。しかし、ヒエラクス[3]がこのことをしゃべってしまい、ヘルメースは秘密裏に盗み出すことができず、石を投げつけてアルゴスを殺した[4]。このことからヘルメースは「アルゲイポンテース(アルゴスの殺戮者)」と呼ばれるようになった。

彷徨[編集]

イーオーは解放されたが、ヘーラーが牝牛に虻(アブ)[5]を送ったため、牝牛は逃げ惑ってイオーニア湾(イオニア海[6])、イリュリアーを通過し、ハイモス山を経て当時トラーキア海峡と呼ばれていた海を渡った。後にこの海峡はボスポロス(ボスポラス海峡[7])と呼ばれるようになった。さらにスキュティアー、キメリアーなど広大な地をさまよってエジプトに至り、この地でイーオーは元の人間の姿に戻った。

その後[編集]

イーオーはナイル川の河辺でゼウスとの子、エパポスを生んだ。ヘーラーがクーレースたちに命じてエパポスを隠したため、ゼウスはクーレースたちを殺し、イーオーは息子を捜しに出かけて、シリアのビュブロス王の下で養育されていたエパポスと巡り会った。エジプトに戻ったイーオーは、この地の王テーレゴノスと結婚した。

イーオーはこの地にデーメーテールの像を建て、エジプト人はデーメーテールとイーオーをイーシスと呼んだ[8]。エパポスは長じてエジプト王となり、ナイル川の娘メムピスと結婚し、妃の名に基づくメムピス市を創建した。二人の娘リビュエー[9]とポセイドーンとの間にアゲーノールとベーロスの双子が生まれた。

プロメーテウスの予言[編集]

なお、アイスキュロスの悲劇『縛られたプロメテウス』では、イーオーはヘーラーの虻に追われて逃亡するうちにスキュティアーの岩山に縛り付けられたプロメーテウスに出会う。プロメーテウスは、イーオーがさらに各地をさまよった末にエジプトで元の姿に戻り、エパポスを生むこと、イーオーの子孫の13代目の末裔[10]がプロメーテウスを解放するだろうと予言する[11]。

論考[編集]





コレッジョによるイーオーとゼウス(1531年ごろ)。ウィーン美術史美術館
ハンガリーの神話研究家カール・ケレーニイは、イーオーについて、「さまよい歩く月の牝牛の物語」のヒロインとし、エウローペー(この物語ではゼウスが牡牛の姿を取った)を探すカドモスが、牝牛(横腹に満月を描いたとされる)の後を追ってカドメイア(のちのテーバイ)を創建した神話との共通性を指摘している。また、ヘーロドトスの著述では、イーオーはヘーラーによって鼻鉗(はなばさみ)でアルゴスからエジプトまで追われたとし、エパポスは、これこそエジプトの神牛アーピスにほかならないとする。イーオーがエジプト人の女神イーシスと似ていることの出典についてはスーイダースを挙げる[12]。

イギリスの詩人ロバート・グレーヴスは、アルゴスの人々は新月を牝牛の角に見立てて崇拝していた。このことからイーオーは雨をもたらす月の女神の化身だったとする。また、イーオーの物語は本来関係のない二つの物語が原型にあり、これにいくつかの要素が加わってできたのではないかと考察している。二つの物語とは、ひとつは月の神獣である牝牛が星々に守られて大空をめぐる話で、アイルランド伝説にも同種の話がある。もうひとつは、ギリシアに侵入したヘレーネスの指導者(ゼウス)が月の巫女を陵辱した話で、イーオーとは「牝牛の眼を持った」ヘーラーの異名にほかならない。加えられた要素としては、虻に追われて牛が狂い回る仕草は、雨乞いの儀式であり、アルゴス人の植民地がエウボイア島からボスポロス、黒海、シリア、エジプトへと広がっていったことに伴い、この祭式も東漸したことを示す。また、ギリシアにおけるイーオー信仰が、エジプトのイーシス、シリアのアスタルテー、インドのカリのそれぞれの信仰と類似していることの説明であるとしている[13]。

関連項目[編集]

ギリシア神話[編集]
イーナコス イーオーの父とされる河の神。
アルゴス イーオーの見張り役。全身に眼があり、「普見者」と呼ばれた。エキドナを殺したとされる。
エパポス イーオーとゼウスの息子。パエトーンの神話にも登場する。

イーオーにちなんだ命名、地名[編集]
イオ (衛星) 木星の衛星で、「ガリレオ衛星」の一つ。
イオニア海
ボスポラス海峡

イーオーが登場する作品[編集]
『縛られたプロメテウス』 アイスキュロスによるギリシア悲劇。紀元前469年ごろの成立と見られる。三部作の一とされるが、他の二作は失われた。

系図[編集]

ウーラノス

ガイア

















































オーケアノス

テーテュース





































イーナコス





































イーオー





































エパポス



























































リビュエー









リューシアナッサ











































ベーロス

アゲーノール

ブーシーリス





脚注[編集]
1.^ イーアソスはアルゴスとイスメーネーの子であり、イスメーネーはアーソーポスの娘であるから、この説に従えば、アルゴスはイーオーの祖父に当たる。
2.^ 普見者とはあまねく見る者(the All-seeing)の意。
3.^ ヒエラクスについては他に言及がない。
4.^ オウィディウスは、アルゴスについて頭の周囲に100の眼を持つとし、ヘルメースが葦笛(パンパイプ)を吹き鳴らし、シュリンクスの物語(葦笛が発明されたいきさつ)を語るなどしてアルゴスを眠らせる様子を詳述している。 p.41
5.^ ヒュギーヌスはヘーラーが送ったのは「恐ろしい化け物」としているが、それが具体的になんなのかは示していない(pp.208-209)。また、オウィディウスはヘーラーがエリーニュースをけしかけたとする(p.45)。
6.^ ヒュギーヌスは「イオーニア海」(イーオーの海)と表現し、さらにアイスキュロスもイーオーをその名祖としているが、高津はイーオーでは母音の長さが異なることから、イオニオスを名祖としている。
7.^ ギリシア語 Βόσπορος は通俗語源説で 「牝牛の渡し」 の意。牝牛に変身したイーオーが渡ったことから。
8.^ 高津によれば、イーオーは死後星になったと伝えられた。
9.^ リビュエーはリビアの名の由来。なお、ヒュギーヌスはリビュエーをエパポスとカッシオペーの娘とする。p.213「エパポス」
10.^ プロメーテウスを解放するのは、ヘーラクレースである。アイスキュロス p.477 高津春繁による解説。
11.^ この予言は、元はプロメーテウスの母テミスのものである。アイスキュロス p.49
12.^ ケレーニイ p.128「ゼウスとその妻たち」
13.^ グレーヴス pp.168–171「イーオー」

参考文献[編集]

ウィキメディア・コモンズには、イーオーに関連するメディアがあります。
アポロドーロス著、高津春繁訳註 『ギリシア神話』 岩波文庫、1978年改版。
ヒュギーヌス著、松田 治・青山照男訳註 『ギリシャ神話集』 講談社文庫、2005年。ISBN 4061596950。
オウィディウス著、中村善也訳 『変身物語』 岩波文庫、1981年。
アイスキュロス著、呉茂一他訳、高津春繁解説 『縛られたプロメテウス(「ギリシア悲劇I アイスキュロス」より)』 筑摩書房、1985年。ISBN 448002011X。
高津春繁 『ギリシア・ローマ神話辞典』 岩波書店、1960年。
カール・ケレーニイ著、高橋英夫訳 『ギリシアの神話(神々の時代)』 中央公論社、1974年。
ロバート・グレーヴス著、高杉一郎訳 『ギリシア神話(上)』 紀伊國屋書店、1962年。
B.エヴスリン著、小林稔訳 『ギリシア神話小事典』 社会思想社現代教養文庫、1979年。ISBN 4390110004。
創元社編集部編 『ギリシア神話ろまねすく』 創元社、1983年。ISBN 4390110004。

錬金術

錬金術(れんきんじゅつ、英: alchemy)とは、最も狭義には、化学的手段を用いて卑金属から貴金属(特に金)を精錬しようとする試みのこと。

広義では、金属に限らず様々な物質や、人間の肉体や魂をも対象として、それらをより完全な存在に錬成する試みを指す。錬金術の試行の過程で、硫酸・硝酸・塩酸など、現在の化学薬品の発見が多くなされており[1]、実験道具が発明された。その成果は現在の化学 (Chemistry) にも引き継がれている[2][3][4]。歴史学者フランシス・イェイツは16世紀の錬金術が17世紀の自然科学を生み出した、と指摘した。



目次 [非表示]
1 概要
2 歴史 2.1 古代ギリシア
2.2 イスラム錬金術
2.3 西ヨーロッパの錬金術
2.4 東洋の錬金術
2.5 中国の錬金術
2.6 錬金術への批判

3 錬金術と科学 3.1 錬金術と心理学
3.2 錬金術と文芸学

4 錬金術の成果
5 錬金術という語の転用
6 現代の科学による金の生成 6.1 核分裂によるもの
6.2 核融合によるもの

7 錬金術師および関係のある人物の一覧
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
11 外部リンク


概要[編集]





『賢者の石を求める錬金術師』ライト・オブ・ダービー作(1771年)
一般によく知られた錬金術の例としては、物質をより完全な存在に変える賢者の石を創る技術がある。この賢者の石を用いれば、卑金属を金などの貴金属に変え、人間を不老不死にすることができるという。

なお、一般的には鉛から金への物質変成など「利殖」が目的とされるイメージが強い錬金術ではあるが、本来は「万物融解液」により、物質から「性質」(例えれば金を金たらしめている性質)を具現化させている「精」(エリクシール)を物質から解放し、「精」そのものの性質を得ることがその根元的な目的であり(この場合、金のエリクシールの取得は過程であって目的ではない)、生命の根元たる「生命のエリクシール」を得ること、つまりは不老不死の達成こそが錬金術の究極の目的であった。なお、万物融解液を発見したと自称する錬金術師はいたようだが、単にガラスを溶かし、蝋を溶かせない液体、つまりはフッ化水素の発見に過ぎなかった。

「生命のエリクシール」は人体を永遠不滅に変えて不老不死を得ることができるとされ、この場合は霊薬、エリクサーとも呼ばれる(なお、賢者の石が文献上に記述されるのはエリクサーよりかなり後である)。それ故、錬金術は神が世界を創造した過程を再現する大いなる作業であるとされる。錬金術で黒は富や財産を表し、白は不老不死の永遠、赤は神との合一を意味する。

特に中世ヨーロッパにおいて長期間にわたって行われたが、これは西洋において他の学問などと同様に一度失伝[2]した錬金術がイスラム世界から再導入されたものである。Alchemy(アルケミー)はアラビア語 Al kimiyaに由来し、Al はアラビア語の定冠詞(英語ではtheに相当)であり[5]、この技術がイスラム経由で伝えられたという歴史的経緯を示す[6]。

語源については通説は定まっていない。
1.エジプトの地の意のKham(聖書でもHamとして使われた)から、Khemeiaはエジプトの術の意味だという。
2.古希: χυμός 希: Khumos(植物の汁の意)で、古希: χημεία 希: Khemeiaは汁を抽出する術の意味だという。

錬金術とは一般の物質を「完全な」物質に変化・精錬しようとする技術のことであり、さらには人間の霊魂をも「完全な」霊魂に変性しようという意味を持つこともあった(=神に近づく、神になる、神と合一する方法ともいえよう)。





ホムンクルスを作り出す錬金術師。
またホムンクルスのように、無生物から人間を作ろうとする技術も、一般の物質から、より完全な存在に近い魂を備えた人間を作り出すという意味で錬金術と言える。

錬金術に携わる研究者を錬金術師と呼ぶ。特に高等な錬金術師は、霊魂の錬金術を行い神と一体化すると考えられたので、宗教や神秘思想の趣きが強くなった。

最も真理に近付いた錬金術師は(古代の伝説上の人物)ヘルメス・トリスメギストス(3倍偉大なヘルメスの意[7])と言われ、著したとされる『ヘルメス文書』、『エメラルド・タブレット』は尊重された[8]。





ウロボロス
『ヘルメス文書』はあるアラブ人の手によってエジプトのギザの大ピラミッドの内部にあるヘルメス・トリスメギストスの墓から発見されたといわれるエメラルド板に記された文書である。当然ながら原版は現存せず、中世に書かれた写本が現在に残る最も古い完全な写本である。そのためその歴史的信憑性は長年怪しまれてきたが、1828年エジプトのテーベで発見された[9]魔術師の墓から見つかったパピルス[10]に『ヘルメス文書』、『エメラルド・タブレット』の写しの一部が記述されていたため、現在ではその歴史的価値は一応認められているといえよう。ちなみにこのパピルスは現在「ライデン・パピルス」と呼ばれ[10][9]、エジプト考古学博物館に保管されている。

錬金術は、中世ヨーロッパの非キリスト教に対して行われた弾圧に対して、弾圧される側の人々が非キリスト教的な知識や行動をごまかすために使った手段である。カール・グスタフ・ユングが「錬金術は、地表を支配しているキリスト教に対して、いわば地下水をなしている」というものである。錬金術は相対立する物質(要素)をフラスコの中で溶解させることで新たな物質を作り出し、相異する二つの卑金属を合成して黄金などの成果を生み出すことで、神秘主義や魔術を含む異教の知識に関わっていた人々が、富豪や権力者の保護を受けることが出来た。

歴史[編集]

古代ギリシア[編集]





古代ギリシアの四元素説
西洋錬金術の起源は古代エジプトの冶金術にあると考えられる[10]。また、古代ギリシアで、アリストテレスの質料・形相論から、卑金属の形相をとり質料因としこれに形相因を与えて金にするという理論がアレキサンドリアで発達した。これにはアリストテレスの四元素説(火・地・空気・水の4リゾータスがアルケーとして万物を構成しているとする)が影響を与えた。

3世紀頃のものといわれる『ライデン・パピルス』には宝石の作成方法が101種類、『ストックホルム・パピルス』(1828年にエジプトのテーベで発見された[10])には宝石の作成方法が73種類、金属変性法が7種類、着色法70種類が記載されている。

イスラム錬金術[編集]

アレキサンドリアの錬金術はギリシャ哲学などとともにイスラムに伝わった[2]。 有名な錬金術師は中世錬金術の祖ジャービル・イブン=ハイヤーン、ラテン名ジーベル(他にゲベル、ジャビル)とされる。

次いで9世紀のアル・ラーズィー、10世紀のイブン・スィーナー(ラテン名アウィケンナ)、またラゼスと呼ばれる学者などが名高い。

十字軍以降イスラムの文献がヨーロッパに翻訳されて紹介され、錬金術書も西ヨーロッパに知られるようになった。

西ヨーロッパの錬金術[編集]





17世紀の錬金術の本からの抜粋および鍵となる象徴記号(シンボル)。ひとつひとつのシンボルは当時の占星術で使われていたそれと、一対一の対応関係にある。
1144年2月11日[11]、チェスターのロバート (Robert of Chester) が『Morienus(モリエヌス)』を『錬金術の構成の書』としてアラビア語からラテン語に翻訳した[12] のが最初とされる(また、バスのアデラードが錬金術を紹介した)。それから錬金術が注目を集めるようになり、13世紀以降に大きく発展した。初期の有名錬金術研究者、スコラ学者のアルベルトゥス・マグヌス(ヒ素を発見したとされる[13])、トマス・アクイナスやロジャー・ベーコンは金属生成の実験に関心を持ち実践した。

ルネサンス期の有名な医師・錬金術師パラケルススはアリストテレスの四大説を引き継ぎ、アラビアの三原質(硫黄、水銀、塩)の結合により[14]、完全な物質であるアルカナ(エリクサー)が生成されるとした。なお、ここで言う塩、水銀、硫黄、金などの用語は、現在の元素や化合物ではなく象徴的表現と解釈する必要がある。彼を祖とする不老長生薬の発見を目的とする一派はイアトロ化学(iatro-chemistry)派と呼ばれた。

また、アイザック・ニュートンも錬金術を研究し[15]、著作した[16]。

詳細は「アイザック・ニュートンのオカルト研究#ニュートンの錬金術研究と著書」を参照

東洋の錬金術[編集]

錬金術と同様の試みはインド(有名な錬金術師に龍樹がいる)や中国などにおいても行われた。また、タントラ教の考え方も錬金術の影響があるとされる説もある。 その歴史は中世ヨーロッパの錬金術より古いが、両者は別個に起こったものと考えるのが通説である(異論もある)。

中国の錬金術[編集]





『抱朴子』内篇
中国では『抱朴子』などによると、金を作ることには「仙丹の原料にする」・「仙丹を作り仙人となるまでの間の収入にあてる」という二つの目的があったとされている。辰砂などから冶金術的に不老不死の薬・「仙丹(せんたん)」を創って服用し仙人となることが主目的となっている。これは「煉丹術(錬丹術、れんたんじゅつ)」と呼ばれている。厳密には、化学的手法を用いて物質的に内服薬の丹を得ようとする外丹術である[17]。

詳細は「錬丹術」を参照

仙丹を得るという考え方は同一であるが、気を整える呼吸法や瞑想等の身体操作で、体内の丹田において仙丹を練ることにより仙人を目指す内丹術とは区別される[17]。

詳細は「内丹術」を参照

錬金術への批判[編集]

すでに、アルベルトゥス・マグヌスは『鉱物書』において、自分で錬金術をおこなったが金、銀に似たものができるにすぎないと述べており、金を作ることに対して疑問がだされていた[9]。 後世に数々の検証から化学が成立していった。

錬金術と科学[編集]





錬金術の素材親和力表(E.R. Geoffroy作、1718年)[18]




化学の元素周期表
詳細は「化学の歴史」を参照

現代人の視点からは、卑金属を金に変性しようとする錬金術師の試みは否定される。だが、歴史を通してみれば、錬金術は古代ギリシアの学問を応用したものであり、その時代においては正当な学問の一部であった。そして、他の学問同様、錬金術も実験を通して発展し各種の発明、発見が生み出され、旧説、旧原理が否定され、ついには科学である化学に生まれ変わった。これは歴代の錬金術師の貢献なくしてはありえなかったともいえる[3]。

過去の文献からは、成立し始めた自然科学が錬金術を非科学的として一方的に排斥しているわけではなく、むしろ両者が共存していたことが見てとれる。様々な試行錯誤を行う錬金術による多様な分離精製の事例は、化学にとって格好の研究材料であった[4]。錬金術師たちは、巷で考えられているような研究一辺倒の、恰も魔法使いやマッドサイエンティストのような身なり・生活をしていたのではなく、他の職業を持ちながら錬金術の研究も行うといった人物も多く存在していた。

例えば、万有引力の発見で知られるアイザック・ニュートンも錬金術に深く関わり膨大な文献を残した一人である[19]。最近ではこれらの文献を集めた研究書も刊行されるなど、いわば錬金術的世界観の再評価が行われていると言える。自然科学の発展に伴い錬金術の科学性は否定されたが、高エネルギー物理学における物質の生成、消滅について近代科学の理論が追いつかない面もあり、ニューサイエンス運動の一環として「大いなる秘法(アルス・マグナ)」の思想は研究の対象となっている。

錬金術と心理学[編集]

心理学者カール・グスタフ・ユングは、錬金術に注目し、『心理学と錬金術』なる著書を書いた。その本の考察のすえにユングが得た構図は、錬金術(のみならずいっさいの神秘主義というもの)が、実は「対立しあうものの結合」をめざしていること、そこに登場する物質と物質の変化のすべてはほとんど心の変容のプロセスのアレゴリーであること、また、そこにはたいてい「アニマとアニムスの対比と統合」が暗示されているということである[20]。

錬金術と文芸学[編集]

神秘的、超自然的要素を含んだ錬金術は文芸術作品(漫画、小説)においても、特にスペキュレイティブ・フィクションというファンタジーやサイエンス・フィクションなどのジャンルに大きな影響を与えた。神話や伝説をベースとし、現実世界とは大きくかけな離れた世界観を持つファンタジー作品において、魔術と並ぶ空想の能力の一つとなった。また、通常の科学技術と並立し超科学的な分野として確立している例もあり、作品ごとに詳細かつ複雑に体系化されていった。さらにはアニメやゲームなどの娯楽のメディアにも錬金術の要素を組み込んだり、題材とすることが多い。

錬金術の成果[編集]





ランビキ磁器の製法の再発見(ヨーロッパ、18世紀)ヨーロッパでは磁器を中国・日本から輸入しており非常に高価な物だった。それをヨーロッパで生産する方法を再発見したのは錬金術師である。ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世が錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーに研究を命じ、ベトガーは1709年に[21]白磁の製造に成功した[22]。蒸留の技術(中東、紀元前2世紀頃)ランビキ(蘭引、日本には幕末にオランダから伝来。ジャービル・イブン=ハイヤーンが考案したとされるアランビーク蒸留器のこと)の発明とそれによる高純度アルコールの精製、さらに天然物からの成分単離は化学分析、化学工業への道を開いた。火薬の発明(中国、7 - 10世紀頃)中国の煉丹術師の道士が仙丹の製作中、硫黄と硝酸、木炭を混合して偶然発明したといわれる[23]。のちに西洋に伝わる。硝酸、硫酸、塩酸、王水の発明(中東、8 - 9世紀頃) 緑礬や明礬などの硫酸塩鉱物[24]と硝石を混合、蒸留して硝酸を得た。錬金術師ジャービル・イブン=ハイヤーンは、緑礬や明礬などの硫酸塩鉱物を乾留して硫酸を得[25]、硫酸と食塩を混合して塩酸を得、塩酸と硝酸を混合して王水を得た。
錬金術という語の転用[編集]

金を生むという意味から転じて、安い元手から高額の利益(この時点では金の意味はgoldからmoneyに転じている)を生むようなビジネスモデル・投資や、資金洗浄に利権を指して「錬金術」と称する場合がある。同時に、その考案者や運用者を「錬金術師」と表現することもある。 これは、卑金属を貴金属へ変えることを例えたことから来たもので、その方法の成果から脚光を浴びているような、新しい利益を持つビジネスモデル・投資など経済活動の紹介として肯定的に使われている一方で、「あやしげ」「いかがわしい」といった詐欺や悪徳商法を意味する否定的表現としても使われている。
政治家の関連企業が二束三文の土地を買い占めた直後、公共工事が決まって地価が高騰し、巨額の利益を得た事例。こうした手法も「錬金術」と称されることがある。
原子力は「現代の錬金術」と表現されることもある。
高度な数理的手法を用いて莫大な利益を生み出す金融工学も、前述の否定的な意味を含めて「現代の錬金術」と表現されることがある。
インターネットは「ビジネスチャンスを生む現代の錬金術」と言われることもある。
驚異的なパフォーマンスをあげる投資家やヘッジファンドを指して錬金術師と呼ぶ。

現代の科学による金の生成[編集]





周期表上の金の位置
卑金属から貴金属を生成することは、原子物理学の進展により、理論的には不可能ではないとまで言及できるようになった。

核分裂によるもの[編集]

錬金術の目的の一つである「金の生成」は、放射性同位体の生成という意味であれば、現在では可能とされている[26]。金よりも原子番号が一つ大きい水銀(原子番号80)に中性子線を照射すれば、原子核崩壊によって水銀が金の同位体に変わる。ただし、十分な量の金を求めるのなら、長い年月と膨大なエネルギーが必要であり、得られる金の時価と比べると金銭的には意味が無いと言える。また生成される放射性同位体の半減期は、最長で78時間である。

核融合によるもの[編集]

金に限らず、多くの金属原子は、超新星の誕生の過程で起こる核融合によって生成され、その爆発によって宇宙空間に放出された、星の残骸である。そのため、金を核融合で作ることに関していえば、理論上は不可能ではない。ただし金のように質量数が大きい物質を核融合で生成するのに必要な条件(超高圧・超高温)を人為的に発生・制御できる技術は今のところ存在しない。

錬金術師および関係のある人物の一覧[編集]

比喩的に魔術師とも呼ばれる人物を含む
ヘルメス・トリスメギストス
ニコラ・フラメル
パラケルスス
カリオストロ
サンジェルマン伯爵
アイザック・ニュートン 近代物理学がニュートンに始まるため、「最後の錬金術師」と呼ばれる[19]。
フルカネッリ
ジョン・ディー
ゲオルグ・ファウスト
ローゼン
ジル・ド・レイ
ジャービル・イブン=ハイヤーン中世ヨーロッパの錬金術に多大な影響を及ぼす。

脚注[編集]

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1.^ クリエイティブ・スイート & 澤井 2008, p. 117
2.^ a b c 時田 et al. 2002, §2.2 中世アラビアの錬金術
3.^ a b 松本浩一 (2006), 中国人の宗教・道教とは何か, PHP研究所, p. 55, ISBN 9784569657714, "西洋錬金術が現代の化学の先駆けになった"
4.^ a b 小山田了三 (2001), 材料技術史概論, 東京電機大学, p. 137, ISBN 9784501618605, "錬金術が多くの実験事実を提供したことも、化学の発展に寄与した"
5.^ Partridge E Staff; Partridge, Eric (1977), Origins: Etymol Dict Mod Englsh (改訂4 ed.), Routledge, pp. 484-485, ISBN 9780203421147
6.^ Ferrario, Gabriele (2007), “Al-Kimiya: Notes on Arabic Alchemy”, Chemical Heritage (Chemical Heritage Foundation) 25 (3), ISSN 0736-4555 2009年7月19日閲覧。
7.^ 羽仁礼 (2001), 超常現象大事典: 永久保存版, 成甲書房 (2001-04発行), p. 113, ISBN 9784880861159
8.^ クリエイティブ・スイート & 澤井 2008, p. 61
9.^ a b c クリエイティブ・スイート & 澤井 2008, p. 62
10.^ a b c d 時田 et al. 2002, §2.1 古代エジプトの錬金術
11.^ 吉田光邦 『錬金術 仙術と科学の間』 中央公論社〈中公新書〉、1963年、132頁。ISBN 4121000099。
12.^ Al-Hassan, Ahmad Y. (n.d.), The Arabic Origin of Liber de compositione alchimiae 2009年7月18日閲覧。
13.^ 前田正史 (2005), 研究課題「循環型社会における問題物質群の環境対応処理技術と社会的解決」研究実施終了報告書, 社会技術研究開発事業・公募型プログラム 研究領域「循環型社会」, 科学技術振興機構 社会技術研究開発センター, p. 8 2009年7月18日閲覧。
14.^ 山下一也 (2007), 医療放射線技術学概論講義: 放射線医療を学ぶ道標, 日本放射線技師会出版会, p. 70, ISBN 9784861570315
15.^ 吉本秀之. “ニュートンの錬金術年表” (日本語). 2009年7月23日閲覧。
16.^ 吉本秀之. “ニュートン錬金術に関する邦語文献” (日本語). 2009年7月23日閲覧。
17.^ a b 高藤聡一郎 (1992), 仙道錬金術房中の法, 学習研究社, ISBN 4054000479
18.^ 祢宜田久男 (1983), “物質間の愛憎: 親和力の概念形成”, 広島経済大学研究論集 6 (1): 3, ISSN 0387-1444 2009年10月25日閲覧。
19.^ a b 田中和明 (2006), 図解入門よくわかる最新金属の基本と仕組み, 秀和システム, p. 62, ISBN 9784798014869, "ニュートン…は、最後の錬金術師でした"
20.^ 松岡正剛の書評より
21.^ 呉善花 (2009), 日本の曖昧(あいまい)力: 融合する文化が世界を動かす, PHP研究所, p. 107, ISBN 9784569708294
22.^ 伊藤建彦 (2002), 危機管理から企業防衛の時代へ: 渦巻くグローバリズムの奔流の中で, 文芸社, p. 251, ISBN 9784835540832
23.^ 石田太郎 (2003), 知は力か, 文芸社, p. 197, ISBN 9784835556529
24.^ 当時は硫酸塩ということなど知る由もない
25.^ マイクロソフト (2009), “硫酸”, MSN エンカルタ百科事典 ダイジェスト 2009年7月18日閲覧。
26.^ Sherr, R.; Bainbridge, K. T.; Anderson, H. H. (1941), “Transmutation of Mercury by Fast Neutrons”, Physical Review (American Physical Society) 60 (7): 473-479, doi:10.1103/PhysRev.60.473

ハンフリー・デービー

サー・ハンフリー・デービー(Sir Humphry Davy、1778年12月17日 - 1829年5月29日)は、イギリスの化学者で発明家[1]。アルカリ金属やアルカリ土類金属をいくつか発見したことで知られ、塩素やヨウ素の性質を研究したことでも知られている。ベルセリウスは On Some Chemical Agencies of Electricity と題したデービーの1806年の Bakerian Lecture[2]を「化学の理論を豊かにした最良の論文のひとつ」としている[3]。この論文は19世紀前半の様々な化学親和力理論の核となった[4]。1815年、デービー灯を発明し、可燃性の気体が存在しても坑夫が安全に働けるようになった。



目次 [非表示]
1 生涯 1.1 年季奉公と詩人
1.2 初期の科学的関心
1.3 気体研究所
1.4 王立研究所 1.4.1 新元素発見
1.4.2 塩素の発見

1.5 有名人になる
1.6 ヨーロッパ旅行 1.6.1 デービー灯
1.6.2 酸と塩基

1.7 晩年と死

2 栄誉と後世への影響
3 主な著作
4 脚注・出典
5 参考文献
6 外部リンク


生涯[編集]





故郷ペンザンスにあるデービーの像
1778年12月17日、コーンウォールのペンザンスに生まれる。教区記録簿によれば、ロバート・デービーの息子で、1779年1月22日に洗礼を受けたという。父は木彫職人で、利益よりも芸術性を追求する傾向があった。旧家の出身で、多少財産があった。妻グレースの家系も旧家だが、それほど裕福ではなかった。グレースの両親は熱病で相次いで亡くなり、グレースは姉妹と共にペンザンスの外科医ジョン・トンキンの養子になった。ロバート・デービーとグレースは5人の子をもうけた。ハンフリーは長男で、他に弟ジョン(1790年-1868年)がおり、3人の妹がいた。ジョンはハンフリー同様に化学者となり、ホスゲンと四フッ化ケイ素を発見している。

幼いころ一家はペンザンスから近郊にある先祖から受け継いだ土地に引っ越した。トンキンは幼いデービーの聡明さを見抜き、父親を説得して私立学校に転校させた。当初ペンザンスのグラマースクールに通っていたが、J. C. Coryton という聖職者の指導を受けるようになった。デービーは記憶力がよく本から素早く知識を吸収した。特に好きだった本としてバニヤンの『天路歴程』があり、歴史書もよく読んだ。8歳ごろには、市場の荷車の上に立ち、少年たちを集めて最近読んだ本の話を聞かせていた。そうして詩を愛するようになった。

同じころデービーは科学実験を好むようになる。これは主にクエーカーで馬具工を営んでいたロバート・ダンキンの影響である。ダンキンは自分でボルタ電池やライデン瓶を作り、数学の原理を視覚化する模型を作ったりしていた。それらを使ってダンキンはデービーに科学の初歩を教えた。後に王立研究所の教授になったとき、デービーはダンキンから教わった実験の多くを再現することになる。1793年、デービーはトルーローに行き、Cardew という博士の下で教育を終えた。Cardew は後に「彼がこれほど才能があることを見抜けなかった」と述べている。デービー自身は型に嵌められずに放っておかれたことが自分にとってはよかったと後に述べている[5]。

年季奉公と詩人[編集]

1794年に父親が亡くなると、トンキンはデービーをペンザンスで病院を営む外科医ジョン・ビンガム・ボーラスに弟子入り(年季奉公)させた。年季明けは1795年2月10日となっていた。その病院の薬局でデービーは化学を学び、トンキンの自宅の屋根裏で化学実験を行った。デービーの友人はよく「あいつは手に負えない。そのうち俺たちを吹っ飛ばすだろう」と言っていた。また、妹の服に腐食性の化学物質で大きなシミを作ったことがある[5]。

デービーの詩人としての側面は多くの者が言及しており、デービーの伝記を書いたジョン・アイルトン・パリスもデービーの詩について簡単に触れている。デービーが最初に詩を書いたのは1795年のことで、The Sons of Genius と題したその詩は若さゆえの未熟さが目立つ。その後数年間に多数の詩を生み出した。中でも On the Mount's Bay と St. Michael's Mount は感受性豊かで楽しげだが、真の詩的想像力は示されていない。デービーは間もなく科学に専念するため詩作を断念する。17歳のとき、初恋を詩にしていたころ、デービーは熱の物質性という問題をクエーカーの友人と熱心に議論していた。ダンキンはデービーについて「人生で出会った中で最も議論上手」だと述べたことがある。ある冬の日、デービーはダンキンをペンザンスを流れる川に誘い、2つの氷の板をこすりあわせると氷が溶け出すほどのエネルギーが生まれ、こするのをやめると復氷によって氷の板がくっつくという実験を披露した。後にデービーは王立研究所でさらに洗練させた形で同じ実験を披露し、注目を浴びた[5]。

初期の科学的関心[編集]

王立協会フェローだったデービス・ギルバートは、ボーラス博士の自宅の門のところで偶然デービーと出会った。若者の話に興味を持ったギルバートは彼に自分の書斎を使わせることを申し出、自宅に招待した。そこで、聖バーソロミュー病院の付属医学校で化学講師を務めていたエドワーズ博士と出会う。エドワーズ博士はデービーに実験室の器具の使用を許可し、ヘイルの港の水門の問題を話した。当時、銅や鉄でできた水門が海水によって急速に腐食することが問題となっていた。当時ガルバニック腐食は知られていなかったが、その話からデービーは後に船体に銅版を葺いた船での実験を思いついた。ジェームズ・ワットの息子グレゴリー・ワットは療養のためペンザンスを訪れ、デービーの母の家に滞在した。そこでデービーと友人になり、デービーは彼から化学を学んだ。ウェッジウッド家も冬をペンザンスで過ごす習慣があり、デービーは彼らとも面識があった[5]。

トーマス・ベドーズ (Thomas Beddoes) とジョン・ヘイルストーン (en) は地質学上の論争(地球上の岩石は火山によってできたのか、原始地球の海で鉱物が析出して結晶化したのか)を戦わせていた。2人はデービス・ギルバートの案内でコーンウォールの海岸の調査旅行にやってきた。その際にデービーとも知り合うことになった。べドーズはそのころブリストルに気体研究所を創設したところで、研究所を指揮する助手を探していた。そこでギルバートがデービーを推薦。デービーの母とボーラスはそれに賛成したが、トンキンはデービーがペンザンスで外科医として働くことを望んでいた。しかし、デービー本人がべドーズの研究所で働くことを望んでいることを知ると、それを許した。

気体研究所[編集]





ジェームズ・ワット
1798年10月2日、デービーはブリストルの気体研究所にやってきた。この研究所は人工的に製造した気体を医療に応用することを目的としており、デービーは各種実験の指揮を任された。べドーズとデービーの間に交わされた取り決めは寛大なもので、デービーは父の残した不動産の相続権を全て放棄して母に渡すことができた。デービーは医者になることをあきらめたわけではなく、エジンバラ大学で学ぶことを考えていたが、間もなく研究所の一画でボルタ電池を多数作り始めた。ブリストルではダラム伯と知り合い、気体研究所で製造した亜酸化窒素(笑気ガス)を定期的に吸引しに来たグレゴリー・ワット、ジェームズ・ワット、サミュエル・テイラー・コールリッジ、ロバート・サウジーとも友人になった。ちなみにデービー本人も笑気ガス中毒になっている。このガスを最初に合成したのはイギリスの自然哲学者で化学者のジョゼフ・プリーストリーで、1772年のことである。彼はそれを「フロギストン化窒素ガス」と称していた(フロギストン説)[6]。プリーストリーはその発見を著書 Experiments and Observations on Different Kinds of Air (1775) に記し、鉄のやすり屑を硝酸に浸して熱するという製法も記述した[7]。

ジェームズ・ワットはデービーの亜酸化窒素吸入実験のために運搬可能なガス室を製作した。これにより、ワインによる二日酔いの治療に亜酸化窒素が役立つという結論が得られた(デービーの実験記録に「成功」と記されている)。笑気ガスはデービーの周辺の人々や友人には人気があり、デービー本人もそのガスに痛覚を取り除く能力があることに気づいていたにも関わらず、デービー本人はそれを麻酔剤として使うということに思い至らなかったようである。笑気ガスの麻酔剤としての使用はデービーの死後数十年経って、医療や歯科治療で一般化することになった[8]。

デービーは研究所の仕事に熱心に取り組み、周辺の観光案内をしてくれたべドーズ夫人と長い不倫関係を結んだ[9]。1799年12月、初めてロンドンを訪れ、そこでさらに友人を作っている[5]。

様々なガス実験でデービーはかなりの危険を冒している。一酸化窒素の吸引実験では、口中で硝酸 (HNO3) が発生したと見られ、口の粘膜を激しく損傷する結果となった。一酸化炭素の吸引実験では、死線をさまようことになった。外気を取り入れてやっと生気を取り戻し「私は死なない」と言ったデービーだが、回復するまで数時間を要した[5]。デービーは実験室から庭によろめき出て、自分の脈を取ってみた。実験記録には「糸のようで (threadlike)、脈が極めて速くなる」と記している。

その年、デービーは West-Country Collections の第1巻を刊行した。その半分はデービーの論文 On Heat, Light, and the Combinations of Light、On Phos-oxygen and its Combinations、Theory of Respiration である。1799年2月22日、デービーはデービス・ギルバートへの手紙にカロリック説が間違っていると確信していると記していた。4月10日のデービス・ギルバートへの手紙では、昨日繰り返し実験することの重要性を証明する発見をしたと記している。それは純粋な笑気ガスを製造する方法を確立したという発見だった。彼はさらに7分近く笑気ガスを吸引し続けても全く問題なかったと記している。同年デービーは Researches, Chemical and Philosophical, chiefly concerning Nitrous Oxide and its Respiration を発表した。後年、デービーはそれらの未熟な仮説を出版したことを後悔している[5]。

デービーは気体研究所で電気を使った実験も行って成功したと、デービス・ギルバートへの手紙に書いている。

王立研究所[編集]

1799年、ベンジャミン・トンプソンはロンドンでの「知識普及のための研究所」の創設を提案した。科学を知らない一般人向け(貴族向け)に公開実験を行い、科学の普及に貢献することを目的としている。それが王立研究所である。1799年4月に建物を購入。トンプソンが所長となり、最初の講演者はガーネット博士だった。





James Gillray による風刺画。王立研究所でガーネット博士が行った講演の様子。ふいごを持っているのがデービー、右端にいるのがベンジャミン・トンプソン。ガーネット博士は被験者の鼻をつまんでいる。
デービーの Researches は斬新な内容で化学に関する発見で溢れていたため、自然哲学者らの関心をひきつけ、デービー自身が一躍注目されるようになった。デービーの動向を長い間気にしていたジョゼフ・バンクスは1801年2月、デービーを公式に呼び寄せ、ベンジャミン・トンプソンやヘンリー・キャヴェンディッシュと共に面接した。デービーは1801年3月8日のギルバート宛ての手紙で、バンクスやトンプソンからロンドンの王立研究所での仕事と電気の研究への資金提供の申し出があったことを記している。また、その手紙の中で、べドーズの気体研究所での仕事は続けられないだろうと記している[8]。1801年、デービーは王立研究所で化学講演助手兼実験主任となり、同研究所の発行する雑誌の編集助手も務め、研究所内に部屋を与えられ、燃料と給料を支給されることになった[5]。

1801年4月25日、デービーは比較的新しい分野である動電気学(静電気の対義語。電流が流れる電気を扱う)の講演を行い、天職の1つに出会った。彼は友人のコールリッジと人間の知識の本質や進歩などといった話題でよく会話を交わし、講演では科学的発見によって文明が進歩していくというビジョンを観客に提示した。講演では単に受動的に観察し考察する学者というよりも、自身の実験器具を自在に操って能動的に周囲を支配した。最初の講演は絶賛され、6月の講演では最終的に500人近い観客が集まったという[8]。

デービーは講演に華々しい、時には危険ですらある実験を組み込み、天地創造の引用を散りばめつつ、本物の科学的情報も織り込んで解説した。講演者として人気を博しただけでなく、ハンサムなデービーは女性からの人気も高かった。Gillrayの風刺画で描かれた観客のほぼ半数は女性である。動電気学の一連の講演が終了すると、デービーは農芸化学の一連の講演を開始し、さらに人気を博した。1802年7月、王立研究所で1年あまりが経過したころ講演助手から正講演者に昇格した。23歳のことである。ガーネット博士は健康上の問題を理由に静かに引退した[8]。

1803年11月、デービーは王立協会フェローに選ばれた[10]。18010年にはスウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれた。

新元素発見[編集]





油に浸した金属ナトリウム




ボルタ電池




金属マグネシウムの結晶
1806年、「結合の電気化学的仮説」を発表。

デービーはボルタ電池を使った電気分解の先駆者であり、よくある化合物を分解して様々な新元素を発見した。彼は溶融塩の電気分解によって非常に反応性の高いアルカリ金属であるナトリウムやカリウムといった新たな金属を発見。カリウムは1807年、水酸化カリウム (KOH) の電気分解で発見している。18世紀になるまで、ナトリウムとカリウムは区別されていなかった。カリウムは電気分解で単離された最初の金属である。ナトリウムは、溶融した水酸化ナトリウムを電気分解することで同年デービーが単離した。1808年には石灰と酸化水銀の混合物を電気分解することでカルシウムを発見した[11][12]。これは、ベルセリウスらが石灰と水銀の混合物の電気分解からカルシウムのアマルガムを得たと聞き、自分でも試してみた結果である。その後も電気分解実験を続け、マグネシウム、ホウ素[13]、バリウム[14]を発見した。6つの元素を発見した化学者は、デービーただ一人である。

塩素の発見[編集]

塩素は1774年、スウェーデンの化学者カール・ヴィルヘルム・シェーレが発見したが、「脱フロギストン海塩酸気」"dephlogisticated marine acid air"(フロギストン説参照)と名付け、酸素を含んだ化合物だと誤解していた。シェーレは、二酸化マンガン (MnO2) と塩酸 (HCl、当時は「海塩酸」と呼ばれた) から塩素を作った。
4 HCl + MnO2 → MnCl2 + 2 H2O + Cl2
シェーレは塩素ガスの特性をいくつか観察しており、リトマスを脱色する効果があること、昆虫を殺す効果があること、色が黄緑色であること、王水とよく似た臭いがすることなどを記している。しかし、シェーレはその発見を公表することができなかった。

1810年、塩素を現在の名称である "chlorine" と名付けたのはデービーで、彼はそれが化合物ではなく元素だと主張した[15]。彼はまた、塩酸(塩化水素水溶液)を電気分解しても酸素が得られないことを示した。この発見により、酸は酸素の化合物だとするラヴォアジエの定義を覆した。

有名人になる[編集]

デービーは講演者として多くの観客を集め、名声を謳歌した。笑気ガス(亜酸化窒素)などの気体の生理作用の実験でもよく知られ、笑気ガスがアルコールに優ると述べているが、そのことも問題とはされなかった。

後にデービーは三塩化窒素の実験中の事故で視力を損なった[16]。この化合物を最初に作ったのはピエール・ルイ・デュロンで1812年のことだが、彼も2度の爆発で指を2本失い、片目を失っている。この事故のためデービーは助手としてマイケル・ファラデーを雇うことになった。

ヨーロッパ旅行[編集]





鉱石に埋まったダイヤモンドの結晶
1812年、ナイトに叙せられ、王立研究所での最後の講演を行った後、裕福な未亡人と結婚した。1813年10月、フランスを始めとするヨーロッパ大陸に『新婚旅行』へ旅立つ。この際に実験助手としてファラデーを伴っている(夫人の使用人が当時敵対していたフランスに同行することを拒んだため、彼女はファラデーを使用人として扱ったとされる)。この旅行はまた、ナポレオン・ボナパルトがデービーに贈ったメダルを受け取るための旅でもあった。パリではゲイ=リュサックに依頼され、ベルナール・クールトアが分離した奇妙な物質の調査を行った。それは現在ヨウ素と呼ばれている元素で、デービーはそれが元素に違いないと述べている[17][18]。

一行は1813年12月にパリを発ち、イタリアへ向かった[19]。フィレンツェに滞在すると、ファラデーを助手として一連の公開実験を行った。このとき太陽光線を集めてダイヤモンドを発火させる実験を成功させ、ダイヤモンドが純粋な炭素で構成されていることを証明した。

次にローマへ行き、さらにナポリとヴェスヴィオ山を訪れている。1814年6月、ミラノでアレッサンドロ・ボルタと会い、さらにジュネーヴへ向かった。ミュンヘンとインスブルックを経由してイタリアに戻った。その後ギリシャとコンスタンティノープルに向かう予定だったが、ナポレオンがエルバ島を脱出し情勢が不穏になってきたため、イングランドに帰国した。

なお、夫妻に子供はできなかった。

デービー灯[編集]





デービー灯
1815年にイングランドに戻ると、デービーは炭鉱で使うランプの実験を始めた。当時、炭鉱で坑夫が使うランプの火が充満したメタンに引火して爆発する事故が頻発していた。特に1812年、ニューカッスル近郊で大きな事故があり(en)、地下での明かりの改良が急務となっていた。デービーはランプの火を鉄製の細かい網で覆うことで、ランプ内で燃えているメタンが外に出て行くのを防止することを思いついた。これがデービー灯である。安全灯のアイデアは William Reid Clanny や当時無名だったジョージ・スチーブンソンも提案済みだったが、金網で炎が広がるのを防ぐというデービーのアイデアはその後の設計でよく使われるようになった。スチーブンソンのランプは北東の炭鉱地帯ではよく使われた。炎が外に広がるのを防ぐという考え方は同じだが、その手段がデービーとは異なる。しかし、目の細かい金網を使ったランプは従来よりも暗く、坑道内の湿気の多い環境では金網が錆びやすく劣化しやすかった。そのため、かえって爆発事故による死者数が増加したという。

デービーがデービー灯の原理を発見する際にスミソン・テナントの成果を参考にしたのではないかという議論もあるが、一般に両者はそれぞれ独自にその原理に到達したとされている。デービーは特許を取得せず、その発明によって1816年にランフォード・メダルを受賞している[1]。

酸と塩基[編集]

1815年、デービーは酸を置換可能な水素(金属と反応したとき金属元素と部分的または完全に置換される水素)を含む物質と定義した。酸と金属を反応させると塩が生じる。塩基は酸と反応して塩と水を生成する物質とされた。これらの定義は19世紀の化学ではほぼうまく機能した。

晩年と死[編集]





マイケル・ファラデーの肖像画(作 Thomas Phillips、1841–1842年ごろ)[20]
デービー灯発明の功績が認められ、1819年1月、デービーは当時のイギリスの科学者(平民)としては最高の栄誉である準男爵を授爵。翌1820年には王立協会会長に就任。

デービーの実験助手マイケル・ファラデーはデービーの成果をさらに発展させ、当代一の科学者となり、デービー最大の発見はファラデーを見出したことだと言われるまでになっていた。しかし、これを快く思わなかったデービーは、ウィリアム・ウラストン自身が否定しているにもかかわらず、ファラデーが「ウラストンの研究を盗んだ」と非難したりもした。そのため、ファラデーはデービーが亡くなるまで古典電磁気学の全ての研究を一時期やめざるを得なかった。1823年頃、ファラデーが王立協会の会員になることを猛烈に反対したが、ファラデーは1824年には会員となっている。

快活で多少過敏な気質だったデービーは、あらゆる仕事に独特の熱意とエネルギーを示した。彼の詩や散文が示すように、デービーの精神は非常に想像力豊かだった。詩人サミュエル・テイラー・コールリッジはデービーを「化学者になっていなかったら、詩人として成功していただろう」と述べ、同じく詩人ロバート・サウジーも「彼は本質的に詩人だ」と述べている。言葉を操る才能と説明の才能に恵まれたデービーは、講演者として大成功を収めた。コールリッジは「暗喩のストックを仕入れるため」にデービーの講演を聞きに行ったという。名声を得ることを人生最大の目的としたデービーは、些細な嫉妬で問題を起こしたりもした。エチケットには無頓着で常に率直だったため、普通なら避けられる問題に直面することもあった[21]。

生涯釣り(サケマス類のフライフィッシング)に親しみ、化学に関する書物以外に、釣りに関する本も執筆した。

1826年、健康上の理由により王立協会会長職を退いた(数年前より脳卒中の発作があった)。1829年、療養のため訪れていたスイスで父方から受け継いだ心臓病により死去。最後の数カ月は有名な "Consolations In Travel" を書いて過ごした。それには、詩の自由な批評、科学や哲学についてのエッセイが含まれている。デービーはジュネーヴの墓地に埋葬された[22]。デービーの研究は、ファラデーによって引き継がれた。

栄誉と後世への影響[編集]
月のクレーター Davy はハンフリー・デービーに因んでいる。
故郷のペンザンスにはデービーの像がある。その側にある記念銘板には、そこが生誕地だと記されている。
ペンザンスには、Humphry Davy School がある。また、ハンフリー・デービーの名を冠したパブもある。
デービーは最初のクレリヒュー(人物四行詩)の主題にされた。
デービーはロンドン動物学会の創設メンバーである。
王立協会は1877年、「化学の何らかの重要な新発見に対して」贈るデービーメダルを創設した。

主な著作[編集]

デービーの完全な著作一覧はFullmerの文献を参照[23]。
Davy, Humphry (1800). Researches, Chemical and Philosophical. Bristol: Biggs and Cottle. ISBN 0407331506.
(1813). Elements of Chemical Philosophy. London: Johnson and Co.. ISBN 0217889476.
(1813). Elements Of Agricultural Chemistry In A Course Of Lectures. London: Longman.
(1816). The Papers of Sir H. Davy. Newcastle: Emerson Charnley. (on Davy's safety lamp)
(1827). Discourses to the Royal Society. London: John Murray.
(1828). Salmonia or Days of Fly Fishing. London: John Murray.
(1830). Consolations in Travel or The Last Days of a Philosopher. London: John Murray.

脚注・出典[編集]

1.^ a b David Knight, ‘Davy, Sir Humphry, baronet (1778–1829)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004 accessed 6 April 2008
2.^ “On Some Chemical Agencies of Electricity”. 2007年10月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年3月2日閲覧。
3.^ Berzelius, J. J.; trans. Jourdian and Esslinger (1829-1833) (French). Traite de chimie. 1 (trans., 8 vol. ed.). Paris. pp. 164., (Swedish) Larbok i kemien (Original ed.). Stockholm. (1818).
4.^ Levere, Trevor H. (1971). Affinity and Matter – Elements of Chemical Philosophy 1800-1865. Gordon and Breach Science Publishers. ISBN 2881245838.
5.^ a b c d e f g h Davy, Sir Humphry (1778–1829), natural philosopher, by Robert Hunt, Dictionary of National Biography, Published 1888
6.^ Keys TE (1941年). “The Development of Anesthesia”. Anesthesiology journal (Sep.1941, vol.2, is.5, p.552-574). 2010年10月27日閲覧。
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8.^ a b c d Holmes, Richard (2008). The Age Of Wonder. Pantheon Books. ISBN 978-0-375-42222-5.
9.^ Cooper, Peter (December 23/30, 2000). “Humphry Davy − a Penzance prodigy”. The Pharmaceutical Journal 265 (7128): 920–921.
10.^ “Davy; Sir; Humphry (1778 - 1829); 1st Baronet” (英語). Library and Archive catalogue. The Royal Society. 2011年12月11日閲覧。
11.^ Enghag, P. (2004). “11. Sodium and Potassium”. Encyclopedia of the elements. Wiley-VCH Weinheim. ISBN 3527306668.
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14.^ Robert E. Krebs (2006). The history and use of our earth's chemical elements: a reference guide. Greenwood Publishing Group. p. 80. ISBN 0313334382.
15.^ Sir Humphry Davy (1811). “On a Combination of Oxymuriatic Gas and Oxygene Gas”. Philosophical Transactions of the Royal Society 101: 155–162. doi:10.1098/rstl.1811.0008.
16.^ Humphry Davy (1813). “On a New Detonating Compound”. Philosophical Transactions of the Royal Society of London 103: 1–7. doi:10.1098/rstl.1813.0002.
17.^ H. Davy (1813). “Sur la nouvelle substance découverte par M. Courtois, dans le sel de Vareck”. Annales de chemie 88: 322.
18.^ Humphry Davy (January 1, 1814). “Some Experiments and Observations on a New Substance Which Becomes a Violet Coloured Gas by Heat”. Phil. Trans. R. Soc. Lond. 104: 74. doi:10.1098/rstl.1814.0007.
19.^ Williams, L. Pearce (1965). Michael Faraday: A Biography. New York: Basic Books. pp. 36. ISBN 0306802996.
20.^ National Portrait gallery NPG 269
21.^ この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed (1911). Encyclopædia Britannica (11 ed.). Cambridge University Press.
22.^ Paris, John Ayrton (1831). The Life of Sir Humphry Davy, Bart., LL.D.. London: Henry Colburn and Richard Bentley. pp. 516–517.
23.^ Fullmer 1969

参考文献[編集]
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Fullmer, June Z. (1969), Sir Humphry Davy's Published Works, Cambridge, MA: Harvard University Press, ISBN 0674809610
Knight, David (1992). Humphry Davy: Science and Power. Cambridge, UK: Cambridge University Press. ISBN 0631168168.
Lamont-Brown, Raymond (2004). Humphry Davy, Life Beyond the Lamp. Stroud: Sutton Publishing. ISBN 0750932317.
Kenyon, T. K. (2008/2009). “Science and Celebrity: Humphry Davy’s Rising Star”. Chemical Heritage 26: 30–35.

燧石

燧石(ひうちいし、すいせき、flint、フリント)は非常に硬質な岩石の一種。チャートの一種であり硬い上に加工しやすいので、石器時代には世界遺産スピエンヌの燧石鉱山に見られるように石器の材料として使用され、鉄器時代以降は火打石として利用されていた。

ミョウバン

ミョウバン(明礬、英: Alum)とは、1価の陽イオンの硫酸塩 MI2(SO4) と3価の金属イオンの硫酸塩 MIII2(SO4)3 の複塩の総称である。

MIMIII(SO4)2・12H2O または MI2MIII2(SO4)4・24H2O, MI2(SO4)・MIII2(SO4)3・24H2O などで表され、陽イオン1モルあたり12モルの結晶水を含む。

[MI(H2O)6]+, [MIII(H2O)6]3+ 及び2個の SO42− から構成され、結晶構造は 等軸晶系に属する。

溶解度は温度によって大きく変わる。温度によっては水によく溶け、水溶液は弱酸性である。

単にミョウバンといった場合、硫酸カリウムアルミニウム十二水和物 AlK(SO4)2・12H2O を示すことが多いが、このほかにも鉄ミョウバン、アンモニウム鉄ミョウバンなどがあり、混同を避けるためにしばしばカリミョウバンまたはカリウムミョウバンと呼ばれる。特に、カリミョウバンの無水物を焼きミョウバンといい、食品添加物として乾物屋などで販売している。

用途[編集]





クロムミョウバン
CrK(SO4)2・12H2O
染色剤や防水剤、消火剤、皮なめし剤、沈殿剤などの用途があり、古代ローマ時代から使われてきた。上質の井戸がない場合、質の悪い水にミョウバンを入れて不純物を沈殿させて飲用に使うこともあった。また、腋の制汗・防臭剤としても使用されていた。天然のミョウバンは白礬(はくばん)とも呼ばれ、その収斂作用、殺菌作用から、洗眼、含嗽に用いられることがあった。

甘露煮などを作る際に、細胞膜と結合して不溶化することで煮崩れを防ぎ、またナスの漬物では色素であるアントシアニンの色を安定化して、紫色を保つ働きがある。ウニ(雲丹)の加工時の型崩れ防止・保存のための添加物としても使用される。多量に用いるとミョウバン独特の苦みを呈する。

温度の変化により溶解度が大きく変わる性質があり、溶解度曲線や単結晶生成の化学実験によく使用される。

写真現像の定着処理液で硬膜処理剤としてミョウバンが用いられる。とくにフィルム感光面の長寿命化が要求される場合にクロムミョウバンを用いて定着処理の後に超硬膜処理をする場合がある。

日本画では和紙への絵具滲みを防ぐために、ミョウバンと膠の混合液である「礬水(どうさ)」を和紙に塗る。

園芸においてはアジサイの発色に用いられる。アントシアニンの色を安定化して鮮やかな青色を発色させる働きがある。

関連項目[編集]
カリウムミョウバン
明ばん石
明礬温泉
湯の花
入浴剤
ウニ - 安物へは、ミョウバンを主な保存料として添加する。

マグニシア県

マグニシア県(ギリシア語: Μαγνησία / Magnisía)は、ギリシャ共和国のテッサリア地方を構成する行政区(ペリフェリアキ・エノティタ)のひとつ。人口約21万人(2005年)。古代にはマグネシアと呼ばれた。県都はヴォロス。



目次 [非表示]
1 名称
2 地理 2.1 位置・広がり
2.2 地勢
2.3 主要な都市・集落

3 気候
4 歴史 4.1 古代
4.2 キリスト教の時代
4.3 現代

5 行政区画 5.1 市(ディモス)
5.2 旧自治体(ディモティキ・エノティタ)
5.3 郡(エパルヒア)

6 古代都市
7 交通 7.1 鉄道
7.2 道路
7.3 空港

8 著名な出身者
9 脚注
10 外部リンク


名称[編集]

マグネシア県の名称は、ギリシャ中央部に位置するテッサリア地方の南東部に居住していたマグネテス人 (Magnetes) に由来している。

また、古代のアナトリア半島(現在のトルコ)にも、マグネシア人が入植し、二つのマグネシアという都市を建設した。ひとつ (Magnesia ad Sipylum) は現在のトルコのマニサであり、ひとつ (Magnesia on the Maeander) はイオニア地方のメンデレス川沿いにあった。

滑石の鉱山があり、滑石から作られた白色の粉はマグネシアと呼ばれた。ここからマグネシウムの語源となっている。マグネット(磁石)の語源であるとする説もあるが、これには異説もある。

地理[編集]

位置・広がり[編集]

マグニシア県は、地理的には、2大都市であるアテネとテッサロニキの丁度中間に位置する。

マグネシア県の南西部はフティオティダ県、西部および北部はラリサ県と県境を接し、東部はエーゲ海に面している。

マグネシア県の東にはスポラデス諸島が所在する。リゾート地で有名なスキアトス(英語版)や、自然豊かなスコペロス島、チチュウカイモンクアザラシなどが生息する自然公園があるアロニソス島などの島々は、かつてマグネシア県に所属していたが、現在は別の行政区(スポラデス県)となっている。

毎年200万人を超える観光客が夏季を中心に訪れている。

地勢[編集]





アルガラスティとパガセティコス湾
マグネシア県東部のピリオ半島には、県最大の山であるピリオ山(Pelion)がそびえる。また、県北東部のラリサ県との県境には、マウロヴニ山脈が走っている。フティオティダ県との県境にはオトリス山がある。ピリオ山(Pelion)やケンタウロス山は、自然景観が良好で観光の名所となっている。また山頂や中腹には、聖人や生神女マリアを祀る教会が立ち並んでいる。これらの教会には古代の遺物や中世以前のイコン画などが遺されている。

県内にはアルミロス平野とヴォロス=ヴェレスティノ平野という2つの平野が広がっている。県内に大きな川が無いために、水路は発達していないが、ピリオ山からはアナヴロス川、プラタノレマ川、クシリアス川という小さな川が流れる。

県北部にはカルラ湖(Lake Karla)がある。また、スルピ湾付近には湿地帯が広がっていて、多種の渡り鳥が見られる。この湿地は、アルミロス近郊の低地に茂るナラの森林とともに、保護地域としてNatura 2000に登録された。

海岸部には、地震による陥没によって形成された有名なパガセティコス湾(Pagasetic Gulf)が広がっている。

主要な都市・集落[編集]

人口3000人以上の都市・集落は次の通り。
ヴォロス (Βόλος : ヴォロス市) - 82,439人
ネア・イオニア (Νέα Ιωνία : ヴォロス市) - 30,804人
アルミロス (Αλμυρός : アルミロス市) - 7,566人
ネア・アンヒアロス (Νέα Αγχίαλος : ヴォロス市) - 5,514人
アグリア (Αγριά : ヴォロス市) - 5,229人
ヴェレスティノ (Βελεστίνο : リガス・フェレオス市) - 3,270人

県下最大の都市は県都である港湾都市ヴォロスである。ヴォロスはテッサリア地方第2の都市であり、ヴォロス港はギリシャ国内で3番目に繁栄している商業港となっている。

カリクラティス改革(2011年1月施行)以前はヴォロスに加え、ネア・イオニアやイオルコスを加えたヴォロス都市圏(約14万3000人)には、県人口の約70%が居住している。

県人口の大半は県東部およびパガシティコス湾(Pagasetic Gulf)沿岸に住んでいるとも言える。







ヴォロス







ネア・アンヒアロス







アグリア



気候[編集]

県の平均気温は17℃であり、平均降水量は年540mmである。8月には気温が37℃から38℃ぐらいまで上昇することもある。気候は県内で差異があり、パガセティコス湾沿岸ではやや多湿であり、ネア・イオニアではやや乾燥、ヴェレスティノやアルミロスでは大陸性な気候となる。

歴史[編集]





マグネシア地域
古代[編集]

ヘシオドスの『ギュナイコーン・カタロゴス』(Catalogue of Women)によると、デウカリオーンとピュラーの娘であり、ヘレーンの姉妹であるパンドーラーは、ゼウスとの間にギリシア人の祖とされる息子グライコスを産んだ。一方で、同じくデウカリオーンとピュラーの娘テュイアーは、ゼウスとの間に2人の息子、マグネースとマケドノスをもうけた。この2人は、ヘレーンの3人の子であるドーロス、クスートス、アイオロスとともにギリシア世界を形成した古代民族の始祖とされた。現在のマグネシア県にあたる地域は、マグネースが支配したとされたためにその名が付けられた。

また、神話の英雄であるイアーソーンやペーレウスとその子アキレウスの故郷としても知られている。磁石を意味する英語の「マグネット」(magnet)は、ギリシャ語で「マグネシアの石」を意味する「マグニティス・リトス」(μαγνήτης λίθος)に由来するという説があるように、この地域では鉄鉱や磁鉄鉱だけでなく、マグネシウムやマンガン(双方とも名称はこの地域に由来する)が産出されることが、古くから錬金術師達に知られていた。紀元前7世紀以前の植民時代には、マグネシアの都市国家も植民都市を建設し、リディア地方のスピル山(Mount Sipylus)の麓や、イオニア地方のメンデレス川沿いに、マグネシアという都市を建設した。(前者は、現トルコの都市マニサである。)

キリスト教の時代[編集]

紀元後5世紀には、現在のマグネシア県の地域にキリスト教の教会が存在していた。それは、第3回公会議の議事録にデメトリアス司教のクレオニコスという人物が連名していることから分かり得る。この時代にはキリスト教が著しく浸透し、県内のネア・アンヒアロスには5つものバジリカが建設された。その後、一般的に心霊主義が広がりを見せると、伝統となったペリオリティカとよばれる建築様式の寺院や教会、修道院などがピリオ山に多く建造された。これらは今でも数多くこの地域に残っている。

現代[編集]

現在のマグネシア県は、1947年にラリサ県から分割して創設された。

2006年には県内で大規模な洪水が起こり、大きな被害を受けた。

行政区画[編集]





マグニシア県とスポラデス県
市(ディモス)[編集]

マグニシア県は、以下の自治体(ディモス、市)から構成される。人口は2001年国勢調査時点。

3(アロニソス),7(スキアトス(英語版)),8(スコペロス)の各市はスポラデス県に所属する。



自治体名

綴り

政庁所在地

面積 Km2

人口


1 ヴォロス Βόλος ヴォロス (el) 387.1 144,420
2 アルミロス(英語版) Αλμυρός アルミロス (el) 909.8 21,169
4 ザゴラ=ムレシ(英語版) Ζαγορά-Μουρέσι ザゴラ (el) 150.5 6,936
5 南ピリオ(英語版) Νότιο Πήλιο アルガラスティ (el) 369.4 11,563
6 リガス・フェレオス(英語版) Ρήγας Φεραίος ヴェレスティノ 549.8 12,096


旧自治体(ディモティキ・エノティタ)[編集]





マグネシア県の旧自治体(2010年まで)
カリクラティス改革(2011年1月施行)以前の広域自治体(ノモス)としてのマグネシア県は、以下の基礎自治体(ディモスおよびキノティタ)から構成されていた。改革後、旧自治体は新自治体(ディモス)を構成する行政区(ディモティキ・エノティタ)となっている。

下表の番号は右図と対応している。「政庁所在地」欄で太字になっているものは、新自治体の政庁所在地となったものを示す。※はキノティタ。



旧自治体

綴り

政庁所在地

新自治体


1 ヴォロス Βόλος ヴォロス ヴォロス
2 アグリア Αγριά アグリア ヴォロス
3 エソニア Αισωνία ディミニ ヴォロス
4 アルミロス Αλμυρός アルミロス アルミロス
5 アロニソス Αλόννησος アロニソス (スポラデス県)
6 アルガラスティ Αργαλαστή アルガラスティ 南ピリオ
7 アルテミダ Αρτέμιδα アノ・レホニア ヴォロス
8 アフェテス Αφέτες ネオホリ 南ピリオ
9 ザゴラ Ζαγορά ザゴラ ザゴラ=ムレシ
10 イオルコス Ιωλκός イオルコス ヴォロス
11 カルラ Κάρλα ステファノヴィキオ リガス・フェレオス
12 ミリエス Μηλιές ミリエス 南ピリオ
13 ムレシ Μουρέσι ツァガラダ ザゴラ=ムレシ
14 ネア・アンヒアロス Νέα Αγχίαλος ネア・アンヒアロス ヴォロス
15 ネア・イオニア Νέα Ιωνία ネア・イオニア ヴォロス
16 ポルタリア Πορταριά ポルタリア ヴォロス
17 プテレオス Πτελεός プテレオス アルミロス
18 シピアダ Σηπιάδα ラフコス 南ピリオ
19 スキアトス Σκιάθος スキアトス (スポラデス県)
20 スコペロス Σκόπελος スコペロス (スポラデス県)
21 スルピ Σούρπη スルピ アルミロス
22 フェレス Φερές ヴェレスティノ リガス・フェレオス
23 アナヴラ ※ Ανάβρα アナヴラ アルミロス
24 ケラミディ ※ Κεραμίδι ケラミディ リガス・フェレオス
25 マクリニツァ ※ Μακρινίτσα マクリニツァ ヴォロス
26 トリケリ ※ Τρίκερι トリケリ 南ピリオ

Διοικητική διαίρεση νομού Μαγνησίας (πρόγραμμα Καποδίστριας) - 旧マグニシア県の自治体・集落一覧(1999年 - 2010年)

郡(エパルヒア)[編集]

県には以下の3つの郡(エパルヒア)があったが、2006年以降法的な位置づけは行われていない。


郡名

綴り

中心地


ヴォロス郡 Βόλος ヴォロス
アルミロス郡 (en) Αλμυρός アルミロス
スコペロス郡 Σκόπελος スコペロス


古代都市[編集]
パガサエ(ヴォロス近郊)
イオルコス
デメトリアス (ヴォロス近郊)
ネア・アンヒアロス

交通[編集]





ヴォロス駅(1995年)




ヴォロス港
鉄道[編集]

19世紀後半に鉄道が敷設された。
ギリシャ国鉄(OSE) (Hellenic Railways Organisation)

道路[編集]

アテネとテサロニキを結ぶ国道1号線が県内を通過しており、欧州自動車道路E75号線にも指定されている。
自動車道路国道1号線 (en) : 〔… - テサロニキ - ラリサ〕 - ヴェレスティノ - 〔ラミア - アテネ〕
国道6号線 (en) : 〔イグメニツァ - トリカラ - ラリサ〕 - ヴェレスティノ - ヴォロス[1]
国道30号線 (en) : 〔アルタ - トリカラ - ファルサラ〕 - アンヒアロス - ヴォロス[2]
欧州自動車道路E75号線

空港[編集]
ネア・アンヒアロス空港(英語版) (ヴォロス市ネア・アンヒアロス地区)

ヴォロスの南西約20kmのネア・アンヒアロスに空港(ヴォロス空港、中央ギリシャ空港とも称される)があり、他のヨーロッパ地域とを空路で繋いでいる。

著名な出身者[編集]
イアーソーン(ギリシア神話の英雄)
ペーレウス(ギリシア神話の英雄)
ハラランボス(89-202、司教)
リガス・ヴェレスティンリス・フェレオス(1757-1798、詩人)
ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978、画家・彫刻家)
アレクサンドロス・パパディアマンディス(1851-1911、作家)
ヴァンゲリス(1943、作曲家・音楽家)
フェドン・ギジキス (1917-1999、ギリシャ大統領)

ナトロン

ナトロン(natron)は、炭酸ナトリウム10水和物(Na2CO3・10H2O)と約17%の炭酸水素ナトリウム(NaHCO3、重曹とも)を主成分とする、天然に産出する鉱物である。通常、これに少量の塩(岩塩、塩化ナトリウム)や硫酸ナトリウムが混じっている。ナトロンは純度が高ければ色がないので白く見えるが、不純物が含まれていると、灰色や黄色を呈する。ナトロン鉱床は塩湖が乾燥によって干上がったところにできる。歴史上、古くから様々な用途に使用されてきており、今もその鉱物成分は広く利用されている。

現在の鉱物学では、ナトロンは炭酸ナトリウム10水和物のみを指すことが多い。



目次 [非表示]
1 語源
2 古代における重要性 2.1 利用の減退

3 炭酸ナトリウム水和物の化学 3.1 ソーダ灰の原料として

4 地質学的な形成過程
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク


語源[編集]

ナトロンの語源は古代エジプト語の


R9
D21


netjeri であり、そこからギリシア語の νιτρων (nitron) となり、各地の言語に広まった。英語やフランス語では natron、スペイン語では natrón、アラビア語では نطرون (natrun) となっている。ナトリウムという元素名もナトロンから派生した現代ラテン語である。

古代における重要性[編集]

古代エジプトでは、干上がった塩湖の湖底から塩の混合物を採掘してナトロンを得ており、数千年に渡って石鹸や洗剤のような用途に使ってきた。油と混ぜることで原始的な石鹸になる。水の硬度を低くしたり、油分を除去するのにも使われた。そのままの形で原始的な歯磨き粉や洗口液としても使われた。またナトロンの成分を使って消毒薬を作り、外傷に使っていた。また、魚や肉の防腐剤としても使っていた。他にも殺虫剤として使ったり、革作りに使ったり、衣類の漂白にも使った。

ナトロンは水を吸収するため乾燥剤としても使えることから、古代エジプトでのミイラ作りにも使われた。さらに、大気中の湿気にさらされるとナトロンの中の炭酸塩が反応してpH値が上がるため、菌が繁殖しにくくなる。いくつかの文化では、ナトロンが生者と死者両方の霊的安全性を高めると考えられていた。ナトロンをひまし油に混ぜると、燃やしたときに煙が出なくなるため、古代エジプト人は墓の中に壁画を描いたり彫刻したりする際の灯りの燃料として使っていた。

ナトロンはエジプシャンブルーという色の顔料を作る際の原料の1つである。これを砂や石灰と混ぜ、少なくとも紀元640年ごろまでローマ人などが陶器やガラスの製造に使っていた。また、融剤として貴金属細工にも使っていた。

利用の減退[編集]

ナトロンの用途の多くは、よく似たナトリウム化合物や鉱物で代替されるようになっていった。ナトロンの洗剤的な特性は炭酸ナトリウムによるものであり、現在では精製された炭酸ナトリウム(ソーダ灰)が他の成分と共に使われている。また、ガラス製造におけるナトロンの役割もソーダ灰が代替していった。ナトロンのもう1つの主成分である炭酸水素ナトリウムも精製されて、ナトロンの用途を代替するようになった。

炭酸ナトリウム水和物の化学[編集]

ナトロンは炭酸ナトリウム10水和物 (Na2CO3・10H2O) の鉱物学的名称でもあり、それは歴史的意味でのナトロンの主成分でもある[2]。炭酸ナトリウム10水和物の比重は1.42から1.47で、モース硬度は1である。単斜晶系の結晶構造を持つ。

炭酸ナトリウム水和物という用語は、一般に1水和物 (Na2CO3・H2O)、10水和物、7水和物 (Na2CO3・7H2O) などを含むが、産業用語としては10水和物のみを指す。7水和物と10水和物は、乾燥した空気中では風解し(水分を失い)、部分的に1水和物のテルモナトライト Na2CO3・H2O に変化する。

ソーダ灰の原料として[編集]

炭酸ナトリウム10水和物は、常温で安定しているが、32 °C (90 °F) 以上になると炭酸ナトリウム7水和物 Na2CO3・7H2O に再結晶化し、37 °C (99 °F)-38 °C (100 °F) 以上になると炭酸ナトリウム1水和物 Na2CO3・H2O に再結晶化する。鉱物としてのナトロンは、テルモナトライト、ナーコライト、トロナ、岩塩、芒硝、ゲイリュサック石、石膏、方解石などとともに産することが多い。工業的に生産される炭酸ナトリウムの多くはソーダ灰、すなわち炭酸ナトリウム無水物 Na2CO3 であり、炭酸水素ナトリウムや炭酸ナトリウム1水和物やトロナを150℃から200℃でV焼することで得られる。

地質学的な形成過程[編集]

地質学的には、鉱物としてのナトロンや歴史的な意味でのナトロンは蒸発岩として形成される。すなわち炭酸ナトリウムを多く含む塩湖が干上がる際に結晶化してできる。炭酸ナトリウムは、強アルカリ性でナトリウムが豊富な塩水が大気中の二酸化炭素を吸収することで生成され、次の化学反応式で表される。
NaOH(aq) + CO2 → NaHCO3(aq)NaHCO3(aq) + NaOH(aq) → Na2CO3(aq) + H2O
炭酸ナトリウム10水和物の純粋な鉱床は珍しい。これは、この化合物が安定している温度の範囲が狭いことと、二酸化炭素の吸収によって炭酸水素塩と炭酸塩の混合水溶液が生み出されるのが普通だからである。この混合水溶液から鉱物のナトロン(および歴史的意味でのナトロン)が形成されるのは、その塩水が干上がっていく際の水温が最高でも 20 °C (68 °F) 程度以下の場合である。塩湖のアルカリ性が非常に強ければ(上の化学反応式からわかるように)炭酸水素塩がほとんど残らないため、30 °C (86 °F) ぐらいまで水温が上がってもナトロンを形成できる。多くの場合、鉱物としてのナトロンはある程度のナーコライト(炭酸水素ナトリウム)と共に形成され、結果として歴史的な意味でのナトロンのような混合物となる。さもなくば、トロナ[3]、テルモナトライト、ナーコライトといった鉱物が一般に形成される。塩湖が干上がる現象は長い時間をかけて進行するため、途中で再び水がたまって塩の鉱床が溶けてまた干上がって結晶化するといったことを繰り返すことがあり、炭酸ナトリウムを含む鉱床は上述した様々な鉱物が層をなした形で形成されることがある。

次の一覧は、ナトロンや類似した炭酸ナトリウム水和物を含む鉱物の主な産地である。
アフリカ チャド: チャド湖畔
エジプト: Wadi El Natrun
エチオピア: ショワ地域(en)

ヨーロッパ ハンガリー: バーチ・キシュクン県、サボルチ・サトマール・ベレグ県
イタリア: カンパニア州、ナポリ県、ヴェスヴィオ火山
ロシア: コラ半島、ヒビヌイ山脈
イングランド: コーンウォール、セントジャスト(en)、ボタラック(en)-ペンディーン(en)一帯

カナダ ケベック州: モンテレジー地域ルイヴィル(en)とモン=サン=ティレール(en)
ブリティッシュコロンビア州内陸部

アメリカ合衆国 カリフォルニア州: インヨー郡
ネバダ州: チャーチル郡 ソーダ湖(en)、ハンボルト郡、ミネラル郡
オレゴン州: レイク郡
ペンシルベニア州: ナトロナ (en)
ワシントン州: オウカノガン郡


脚注[編集]

[ヘルプ]

1.^ Natron, MinDat.org 2011年10月16日閲覧。 (英語)
2.^ a b Natron, WebMineral.com 2011年10月16日閲覧。 (英語)
3.^ Trona, WebMineral.com 2011年10月16日閲覧。 (英語)

参考文献[編集]

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関連項目[編集]

ウィキメディア・コモンズには、ナトロンに関連するカテゴリがあります。
鉱物 - 炭酸塩鉱物
鉱物の一覧
炭酸ナトリウム
炭酸水素ナトリウム
トロナ
岩塩
硝酸ナトリウム

アントゾナイト

アントゾナイト(Antozonite)は、放射性の蛍石の一種であり、1841年にバイエルン州Wölsendorfで発見され[1]、1962年に名づけられた[2]。かつてはStinkspat、Stinkfluss、Stinkstein、fetid fluorite等とも呼ばれた[3]。

Antozonite.jpg

Stinkspat hg.jpg

フッ素原子を含む多数の含有物を含み[4]、結晶が破壊された際にフッ素が放出される特徴がある。フッ素は空気中の酸素や水蒸気と反応してオゾンとフッ化水素を生じる。生じたオゾンの特徴的な匂いが、antozoneと呼ばれる仮説上の化合物と誤認されたことから、この名前が付いた。

2012年に、ミュンヘン工科大学等のチームによって、それまで自然界には存在しないとされていた単体のフッ素分子が含まれていることが確認された[5]。

出典[編集]

1.^ Some physical properties of naturally irradiated fluorite, American Mineralogist, Robert Berman, 1956; "The material has been given the name antozonite, after the supposed evanescent gas, antozone. Earlier names were Stinkstein and Stinkfluss (Hausmann, 1847)"
2.^ American Journal of Science, 1862
3.^ Carbonatites and alkalic rocks of the Arkansas River area, Fremont County, Colorado. 2. Fetid gas from carbonatite and related rocks, American Mineralogist, vol. 50, November–December 1965; E. Wm. Heinrich and Raymond J. Anderson
4.^ Study of the solid and gaseous inclusions in the fluorites from Wölsendorf (Bavaria, F.R. of Germany) and Margnac (Haute Vienne, France) by microprobe and mass spectrometry, by R. Vochten, E. Esmans and W. Vermeirsch, Chemical Geology, volume 20, 1977 doi:10.1016/0009-2541(77)90047-X
5.^ 自然界に単体フッ素=鉱物で確認、定説覆す−独大学 時事ドットコム 2012年7月6日

エッチング

エッチング (etching) とは、化学薬品などの腐食作用を利用した塑形ないし表面加工の技法。使用する素材表面の必要部分にのみ防食処理を施し、腐食剤によって不要部分を溶解侵食・食刻することで目的形状のものを得る。

銅版による版画・印刷技法として発展してきた歴史が長いため、銅や亜鉛などの金属加工に用いられることが多いが、腐食性のあるものであれば様々な素材の塑形・表面加工に応用可能である。

金属の試験片を腐食液(ナイタールなど)によって表面を腐食することで、金属組織の観察や検査などに用いられている。



目次 [非表示]
1 フォトエッチング
2 版画・印刷
3 電子回路
4 金属加工
5 半導体工学
6 異方性エッチング
7 その他
8 廃液処理
9 シミュレーションソフトウェア


フォトエッチング[編集]

光硬化樹脂にパターンを露光する事でマスキングする。現在、大半のマスキングに用いられる。

版画・印刷[編集]

防食処理を施した銅板の表面を針で削り、その後腐食させることで凹版を得るのに使用する。腐食作用を通じて間接的に版を加工するので、凹版画技法のなかではさらに、間接法に分類される。直接銅板に線を彫っていく直接法よりも線を意のままに描きやすい。詳しくは版画を参照。

電子回路[編集]

プリント基板(Printed Circuit Board)の作成に用いられる。近年は細密化多層化している。銅箔のエッチング時の化学反応は以下のとおりである。

塩化鉄(III)の3価の鉄イオンが銅に電子を与えられて2価になり、銅は最終的に銅(U)イオンになる。塩化鉄(III)は塩化鉄(II)になる。
{\rm {FeCl_{3}+Cu\longrightarrow FeCl_{2}+CuCl}}{\rm {FeCl_{3}+CuCl\longrightarrow FeCl_{2}+CuCl_{2}}}
金属加工[編集]

プレスなどでは難しい複雑な加工のためにエッチングが応用されている。携帯電話等、電子機器に使用されているプリント基板、ICのリードフレームや電気カミソリの網刃、カラーCRTのシャドーマスクなどの厚さ数十から数百μmの金属板材部品などを製造する技術もある。この方法で作製される模型のパーツはエッチングパーツと呼ばれる。銅合金のエッチングには塩化第二鉄水溶液を使用する。塩化第二鉄が電子を銅に与える事によって銅をイオン化する。塩化第二鉄は塩化第一鉄になる。プレスで打ち抜くと加工工程で塑性変形する為に残留応力が残るが、エッチングであれば残留応力が残らない。但し、圧延工程において板金内部に残留応力が残っている場合は片面がエッチングされた場合、内部の残留応力バランスが崩れて反る場合がある。対策としては加熱して焼き鈍し等によって残留応力を事前に除去する。

JIS規格では熱処理した鉄鋼材料のエッチングによる組織試験法が規定されている。

半導体工学[編集]

半導体工学分野では、フォトリソグラフィとしてウェハーなどの半導体上の薄膜を形状加工する技術に応用されている。半導体ウェハー上に酸化膜等の薄膜を形成し、フォトレジストを塗布してパターンを露光した後にエッチングにより不要な薄膜を除去する。エッチングの手法としては、弗酸などの液体を使用するウェットエッチングと、四フッ化炭素などのガスを使用するドライエッチングが有る。半導体の微細化において結晶構造による特性を利用して異方性エッチングを用いる場合もある。近年ではMEMSの製造にも用いられる。

同様にプリント基板の配線形成のため導体(主に銅箔)を除去するための工程として用いられる。エッチング液としては塩化第二鉄などが用いられる。

異方性エッチング[編集]

結晶構造の違いによる縦横の反応性の違いを利用して縦横比の大きい構造を形成する技術である。反応に用いる薬剤は反応性が弱い種類を使用する為、処理に時間がかかる。綿密に濃度、温度の管理をする必要がある。

その他[編集]

ガラスの装飾技法として大阪の芙蓉商事が考案したガラスエッチングがある。

歯面の脱灰処理もエッチングという。歯科領域におけるエッチングの目的は、1.窩洞形成後の窩洞表面に付着した汚染物の除去、2.切削により形成されるスミヤー層の除去、である。

廃液処理[編集]

エッチング後の廃液には重金属が含まれており、処理剤や電気分解によって回収する。

シミュレーションソフトウェア[編集]

・SUGAR

・MCROCAD

・AnisE (IntelliSense社)[1]

・IntelliEtch (IntelliSense社)

硝石

硝石(しょうせき、nitre[4]、niter[4]、saltpeter[4])は、硝酸塩鉱物の一種。化学組成は KNO3(硝酸カリウム)、結晶系は斜方晶系。



目次 [非表示]
1 産出地
2 性質・特徴
3 用途・加工法
4 サイド・ストーリー
5 脚注
6 関連項目


産出地[編集]

中国内陸部や西アジア、南ヨーロッパのような乾燥地帯、例えばスペイン、イタリア、エジプト、アラビア半島、イラン、インドなどでは、土壌から析出した硝石が地表で薄い層になって産するため、天然に採取される。

北西ヨーロッパや東南アジア、日本のような湿潤環境下では、天然では得がたい。ドイツやフランス、イギリスのような北西ヨーロッパでは、家畜小屋の土壁の中で、浸透した家畜の排泄物が微生物の作用によって硝酸カリウムとなったものを抽出して硝石を得ていた。また、東南アジアでは、伝統的に高床式住居の床下で鶏や豚を多数飼育してきたため、ここに排泄された鶏糞、豚糞を床下に積んで発酵、熟成させ、ここから硝石を抽出してきた他、熱帯雨林の洞穴に大群をなして生息するコウモリの糞から生成したグアノからも抽出が行われてきた。日本では、基本的には戦国時代の火器導入以降の黒色火薬の原料としての硝石を中国や東南アジア方面(インド)からの輸入に頼っていたが、加賀国や飛騨国などでは培養法というサクと呼ばれる草から硝酸カリウムを得る技術が開発され、硝石を潤沢に生産していたほか、他の地方では古土法と呼ばれる古い家屋の床下にある表層土に微生物の作用によって硝酸カリウムが蓄積したものを抽出して硝石を得ていた。古土法の生産量は少なかったが、結局は戦乱が収まったことにより、国内での需要を賄えるようになった。

性質・特徴[編集]

「硝酸カリウム」を参照

[icon] この節の加筆が望まれています。

用途・加工法[編集]

火薬、染料、肥料など窒素を含む化学物質が必要な製品の原材料として、歴史的に用いられてきた。特に加熱すると硝酸イオンが分解して酸素を発生するため、火薬製造における酸化剤として重視されてきた。また、食肉保存において食中毒の原因となる細菌、特に塩漬け豚肉の食中毒の原因となりやすいボツリヌス菌の繁殖を抑制するためにも用いられ、塩漬け加工に際して塩とともに肉にすり込むこと(塩せき)が古くから行われてきた。そのため、硝石を用いた肉加工品は亜硝酸イオンと肉のミオグロビンの結合のため独特の桃色を呈する。通常のハムが加熱しても赤みを保つのはこのためであり、食品添加物として用いられる亜硝酸塩は発色剤とも呼ばれる。

サイド・ストーリー[編集]

窒素に相当する英語 nitrogen は、硝石を意味する nitre(米: niter)+ gen に由来する。

フランスでは、硝石採取人という職業があり、国王よりあらゆる家に立ち入って床下や穴蔵の土を採取することができる特権が与えられていた。硝石採取人は採取した土を温湯に溶解して炭酸カリウムを加えて硝酸カリウム塩を作り、これを濃縮して放冷すれば結晶ができる。この結晶をもう一度溶解して再結晶化すると精製された硝石となり、火薬の原料に使われる。その生産量は年間300トンほどであり、別名「ケール硝石」と呼ばれていたが、輸入物に比べて品質は低かった。そのため、需要を満たすには足りず、インド硝石などの輸入が大きな割合を占めていたが、フランス革命の時代になると、イギリスとの戦争からインドからの輸入が困難になった。そのため、フランス革命以後になると、硝石丘による人工的に硝石を得る方法が発明され、ナポレオン戦争の火薬原料の供給に大きな役目を果たした。開始から採取まで5年余りを要すが、土の2〜3%もの硝石を得ることができたため、生産量は採取を上回った。硝石丘は他の国でも行われ、幕末の日本にも伝来している。

硝石とよく似た性質を持つものに、チリ硝石がある。チリ硝石は南米チリから大規模な鉱床が発見されて、近代になって資源開発が行われ、ハーバー・ボッシュ法の発見以前には、世界的に重要な窒素工業の原料となっていた。このチリ硝石の主成分は硝酸カリウムではなく、硝酸ナトリウム(NaNO3)である。

脚注[編集]

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1.^ 「おもな鉱物」『理科年表 平成20年』 国立天文台編、丸善、2007年、641頁。ISBN 978-4-621-07902-7。
2.^ Niter, MinDat.org 2012年7月18日閲覧。 (英語)
3.^ Niter, WebMineral.com 2012年7月18日閲覧。 (英語)
4.^ a b c 文部省編 『学術用語集 地学編』 日本学術振興会、1984年、147頁。ISBN 4-8181-8401-2。

とろみ

とろみとは、液体に多少の粘度がある状態を指す表現。主に食品に関係する分野で使用される。「とろり」「とろとろ」などとも表現(擬態語)される。

調理の手法としては、あんかけに代表されるように、他の食材に液体を絡みやすくする目的でとろみがつけられることが多い。独特の食感を楽しんだり、とろみをつけることで温かい汁物を冷めにくくしたりする意味もある。

また、ゆっくりとまとまって食道に流れやすくなって気管への誤嚥を防止する効果があり、介護食では幅広い料理にとろみが利用されている。そのため、とろみ調整は介護食調理の重要な要素を占めている。



目次 [非表示]
1 とろみをつける方法
2 料理
3 調味料
4 菓子
5 その他
6 外部リンク


とろみをつける方法[編集]

食用の液体にとろみを加えるためには、以下のような材料が使われる。
片栗粉 - 水溶き片栗粉・あんかけなど
馬鈴薯などのでん粉 - あんかけなど
小麦粉 - スープ料理など
葛粉 - みたらし餡など
コーンスターチ - 食品・調味料など
増粘安定剤・増粘多糖類 - 調味料・菓子・食品など
とろろ昆布
オクラ、モロヘイヤなど粘性のある野菜類
サツマイモ、ジャガイモ、レンコンなど澱粉質のある芋類及び野菜類

など。

料理[編集]
中華料理八宝菜
エビのチリソース
甘酢あんかけ

など。
日本料理葛湯
みたらし団子
カレー南蛮
カレーライス
シチュー
のっぺい汁
ガタタン
皿うどん
あんかけ焼きそば
あんかけうどん
あんかけスパゲッティ

など。
西洋料理クリーム (食品)
カスタードクリーム
ポタージュ

など。

調味料[編集]

液体調味料・ソースには、食材に絡みやすくするためにとろみが付いていることが多い。
濃縮ソース
ケチャップ
マヨネーズ

など。

菓子[編集]
クリーム菓子
ゼリー
プリン
チューイングガム

など。

その他[編集]
介護用品
ゲル化剤
増粘剤
とろみ剤(高齢者・身体障害者用食事補助剤)

非ニュートン流体

非ニュートン流体(ひニュートンりゅうたい、英: Non-Newtonian fluid)は、流れの剪断応力(接線応力)と流れの速度勾配(ずり速度、剪断速度)の関係が線形ではない粘性の性質を持つ流体のこと。ニュートン流体に当てはまらない流体の総称を指し、この流れのことを非ニュートン流動(non-Newtonian flow)と言う。

ニュートンの粘性法則において、剪断応力(接線応力)τxy は、流れの速度勾配(ずり速度、剪断速度)∂ux /∂y に比例する。ニュートン流体の場合、その比例係数μは定数となり次式で表される:
\tau _{{xy}}=\mu {\partial u_{x} \over {\partial y}}
したがって、流れの粘性の度合いはその比例係数である粘性率 μ の大きさによって表される。非ニュートン流体とは、剪断応力と速度勾配がこのような比例関係にない流体の総称である。



目次 [非表示]
1 構造
2 モデルと分類
3 脚注
4 関連項目


構造[編集]

非ニュートン流体のミクロな構造は、Merrillによって以下のように分類されている。各分類において所属物質をほぼ包括した特性があることが指摘されている[1]。
巨大分子が液状として存在する。 不規則性螺旋非電解巨大分子の溶液 ポリスチレン、ポリメタクリル酸メチル、ポリイソブチレン、ポリ塩化ビニル、ポリ酢酸ビニル、酢酸セルロース、メチルセルロース(英語版)、ゴム様高分子の溶液
不規則性螺旋電解巨大分子の溶液 CMC、カーボポール(英語版)、アルギン酸ナトリウム、アルギン酸アンモニウム、ポリメタアクリル酸のナトリウム塩の溶液
不規則性螺旋巨大分子の塊 溶融高分子
硬直巨大分子の溶液 アルブミン、グロブリンなどのたんぱく質、DNAポリペプチドの溶液
巨大分子の集合体 でん粉の分子成分、ポリ塩化ビニル溶液

固体粒子が懸濁状で液体中に存在する。
低分子成分の液中で、剪断応力が大きいため局所分子配列がかく乱されるもの。

モデルと分類[編集]





Classification of fluids based on the stress vs. rate of strain relationship.
非ニュートン流体のモデル(構成式)として、次式が考えられている:
\tau _{{xy}}=\tau _{{\mathrm {o}}}+\eta \left({\partial u_{x} \over {\partial y}}\right)^{n}
ここで、τxy は剪断応力(接線応力)、τo は降伏強度、ηは非ニュートン粘性、∂ux /∂y は流れの速度勾配(ずり速度、剪断速度)、n は定数である。非ニュートン流体の性質は上式の指数n によって次の3種に大別される:
ダイラタント流体(Dilatant Fluid)τo = 0 , n > 1疑塑性流体(Pseudoplastic Fluid)τo = 0 , n < 1ビンガム流体(Bingham Plastic)τo > 0 , n = 1
ダイラタント流体は流れが強くなるほど流動しにくくなる(速度勾配が大きいほど剪断応力が増加する)流体、疑塑性流体は流れが強くなるほど流動しやすくなる(速度勾配が大きいほど剪断応力の増加が減少する)流体、ビンガム流体は一定の剪断応力に達しないと流動を始めない特徴になる。これらは流れの弾性的な性質が表される。

脚注[編集]

1.^ 城塚正; 平田彰; 村上昭彦 『移動速度論』 オーム社、1966年、174頁。ISBN 4-274-11910-6。

関連項目[編集]
チキソトロピー
レオロジー
HTHS粘度
ちょう度
とろみ

スライム

スライム(英: slime)は本来、ある種の性状を持った物質(どろどろ、ぬるぬるしたもの)を大ざっぱに指す言葉であった。従って粘土や泥などの無機物から、生物の分泌する粘液などの有機物、またそれらの複合体など実に様々なものがスライムと呼ばれる。

ここでは人工的に作られ、玩具や教材として使われているスライムを紹介する。



目次 [非表示]
1 玩具としてのスライム
2 スライムの自作 2.1 ポリビニルアルコールとホウ砂で作るスライム
2.2 澱粉で作るスライム

3 参考
4 脚注


玩具としてのスライム[編集]

1978年、ツクダオリジナル(現 メガハウス第4事業部)が米マテル社製玩具のスライム状の物質を日本で発売した。

この「スライム」は小さなポリバケツを模した容器に収められた、緑色の半固形の物体で、手にべとつかない程度の適度な粘性と冷たく湿った感触がある。触って遊ぶためだけの玩具であったが、それまでにない新鮮な感覚をもたらしたため大ヒットし、後に様々な類似商品も生まれた。

そもそもは第二次世界大戦の時にゴムの産地を日本軍に占拠され、ゴム不足となったアメリカで、人工的にゴムを作ろうとして生まれた物であった。

スライムの自作[編集]

ポリビニルアルコールとホウ砂で作るスライム[編集]

1985年、第8回科学教育国際会議でマイアミ大学の A.M.Sarquis が初めて日本に紹介し、理科教材として広まった。ポリビニルアルコール(PVA)は合成糊や洗濯糊の主成分であり、直鎖状の高分子である。これがホウ砂を介して架橋結合するためゲル化する。代表的な作り方は以下の通り。
1.ホウ砂の4%水溶液を作る。ホウ砂は薬局等で眼の消毒薬として粉末で入手できる。20℃の水に対する溶解度は4.7g/100g。 【注意】ホウ砂には毒性があり、多量に(5g -)飲むと嘔吐や下痢を起こす場合がある。
2.主成分がPVAの洗濯糊(通常、PVAの10%水溶液)と水を2:3の割合で混ぜ、PVAの4%水溶液を作る。このとき冷水ではなく熱湯を使うと次の反応がうまくいきやすい。
3.2を撹拌しながら、1の水溶液を少しずつ混ぜる(容積比10:1程度)。
4.べとつかなくなるまでよくこねる。

澱粉で作るスライム[編集]

澱粉(片栗粉、コーンスターチ等)に水を適量(澱粉:水=3:2程度)加えると、通常は液体のように振るまうが力が加わると固化する性質(ダイラタンシー)をもったスライム状の物質ができる。 これはウーブレック(oobleck)と呼ばれ、液体と固体の性質の違いや非ニュートン流体について説明する理科教材として使われている。

この名前は、アメリカの作家ドクター・スース(Dr. Seuss)の童話『ふしぎなウーベタベタ』(Bartholomew and the Oobleck 1949年)に登場する、天から降ってきたどろどろの物体にちなんで付けられた。

このスライムや、木工用ボンド(酢酸ビニル樹脂エマルジョン系接着剤)などに澱粉と少量の塩を加えて作られたものはグラーチ(glurch; glue+starch)とも呼ばれ、やはり教材や玩具として作られる。

参考[編集]
『いきいき化学 明日を拓く夢実験』 新生出版

ホウ砂

硼砂(ほうしゃ、borax)は、鉱物(ホウ酸塩鉱物)の一種。化学組成は Na2B4O5(OH)4・8H2O(四ホウ酸ナトリウム Na2B4O7 の十水和物)。

単斜晶系。モース硬度2.5。比重1.7。水に対する溶解度は4.7g/100mL(20℃)。

空気中で風解しやすく、結晶水を失ってチンカルコナイト Na2B4O5(OH)4・3H2O になる。



目次 [非表示]
1 産出地
2 特性と用途
3 脚注
4 関連項目
5 参考文献
6 外部リンク


産出地[編集]

塩湖が乾燥した跡地で産出することが多い。古くはチベットの干湖からヨーロッパへもたらされ、特殊ガラスやエナメル塗料の原料だった。19世紀から20世紀にかけてはアメリカ大陸西部においてデスヴァレーなどの産出地が相次いで発見された。

今日では、アメリカ・ロシア・トルコ・アルゼンチンのほか、イタリアのトスカーナ地方やドイツなどでも産出される。日本ではほとんど産出されない。

特性と用途[編集]

ホウ素の原料鉱石として工業的に使用されるほか、以下のようにホウ砂そのものの特性を利用した様々な用途がある。
350〜400℃に熱すると無水物になり、さらに熱すると878℃で融解して無色透明のガラス状となる。これは多くの金属酸化物を融解する性質を持つため、融剤として使われるほか、このとき金属によって特有の色を呈するため、定性分析や陶芸用の釉薬溶解剤として使われる(硼砂球反応)。
ガラスに混ぜると熱衝撃や化学的浸食に強いホウケイ酸ガラスとなるため、耐熱ガラスなどの原料となる。
水溶液は弱アルカリ性となり、洗浄作用・消毒作用があるため洗剤や防腐剤などに使われる。またホウ酸と同様に、目の洗浄・消毒に用いられる。また、銀塩写真の現像液にアルカリ調整剤として添加される。日本の国産の写真用ホウ砂(10水塩)とアメリカ産のホウ砂(7水塩)では結晶水の数が異なるため、同じ量で現像液を調合した場合にph値がやや異なり、現像感度に差異が生じるので注意が必要である。
ホウ素がポリマーを架橋しゲル化する反応を利用し、理科の実験や自由研究などでスライムを作るときによく用いられる。
植物の必須微量要素であるホウ素の肥料として。
原子炉の放射線遮蔽材として。原子力船むつが遮蔽リングの設計ミスにより放射線漏れを起こしたとき、応急処置としてホウ素を含むホウ砂を混ぜ込んだ米を貼り付けることで漏れを防いだ。
アリ、ゴキブリ、ノミなどの昆虫の駆除に(日本ではゴキブリにはホウ酸のほうがよく使われている)。

また近年、米国テキサスA&M大学のジョセフ・ナジバリー (Joseph Nagyvary) 教授の研究により、ヴァイオリンの名器であるストラディバリウスのトップから、この物質が検出された。製作当時、ホウ砂はワニスの防腐剤として使われていたことが明らかになっており、それが名器の音の秘密ではないかという研究結果が、同教授によって提出されている[1]。

脚注[編集]

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1.^ BSジャパン「ストラディバリウス〜響きあう奇跡と幻想」2006年1月1日放送

関連項目[編集]

ウィキメディア・コモンズには、ホウ砂に関連するカテゴリがあります。
鉱物 - ホウ酸塩鉱物
鉱物の一覧
ホウ素
スライム

緑柱石

緑柱石(りょくちゅうせき、英: beryl、ベリル)は、ベリリウムを含む六角柱状の鉱物。金属元素のベリリウムの名前は、この中から発見されたことに由来する。透明で美しいものはカットされて宝石になる。



目次 [非表示]
1 宝石名と色、主な発色元素
2 「緑柱石」と「ベリル」
3 脚注
4 関連項目
5 参考文献
6 外部リンク


宝石名と色、主な発色元素[編集]
ベリル無色〜淡青〜淡緑 - ベリリウムアクアマリン (aquamarine) / ブルーベリル (blue beryl)淡青 - 鉄 (Fe2+)サンタマリア (santamaria) / サンタマリアアフリカーナ (santamaria africana)青 - 鉄 (Fe2+)アクアマリンのうち青が濃いものを、かつての産出地であったブラジルのサンタマリア鉱山にちなんでこう呼ぶことがある。同山の石はすでに枯渇したが、現在他鉱山でも同様の石が発見されておりそれらもこう呼ばれる。エメラルド (emerald)緑〜淡緑 - クロムあるいはバナジウムグリーンベリル (green beryl) / ミントベリル (mint beryl) / ライムベリル (lime beryl)黄緑 - 鉄 (Fe2+, Fe3+)アクアマリンは2価鉄イオン(Fe2+)によるものだが、この種は3価鉄イオン(Fe3+)と混成している。加熱処理によりアクアマリンへと変化する。ヘリオドール (heliodor) / ゴールデンベリル (golden beryl)黄色 - 鉄 (Fe3+)ギリシア語で「太陽」「太陽への捧げ物」を意味し、呈色は鉄に由来する。3価鉄イオン(Fe3+)のみによる発色で、加熱処理によりアクアマリンへと変化する。イエローベリルとも呼ばれる。アクアマリンとともに産出する[1]。モルガナイト (morganite) / ピンクベリル (pink beryl)淡赤 - マンガンレッドベリル (red beryl) / ビクスバイト (bixbite)赤 - マンガンゴシェナイト (goshenite, colorless beryl)無色 - アルミニウム純度が高く無色のベリルのことを特にこう呼ぶ。ゴーシェナイトとも呼ばれる。名前は、最初に発見されたアメリカのマサチューセッツ州ハンプシャー郡ゴーシェン(Goshen)に由来する。純粋な無色で産出することは少なく、殆どが他色が混じって採掘される[2]。マシシ (maxixe)濃青(サファイアブルー) - 鉄 (Fe2+, Fe3+)ブラジルのミナスジェライス州にあるマシシ鉱山に産したことから名付けられた。サンタマリアよりさらに濃く、紺に近い青を呈するが、紫外線による退色が著しく、ひどい場合は室内照明下においても数時間で退色する。退色した後の石の色はヘリオドールやグリーンベリルと同じである。1975年にヘリオドールやグリーンベリルにX線や中性子を照射することで、この種に酷似した濃青の石が得られることがわかった。




アクアマリン






エメラルド






ヘリオドール






モルガナイト






レッドベリル






ゴシェナイト


「緑柱石」と「ベリル」[編集]

宝石質の緑柱石を表す言葉として「ベリル」が使われることがある。英語圏で Beryl という単語は緑柱石という鉱物を指すが、宝石名として鉱物名と区別せずに用いられることがあるため、それが海外から流入し、「ベリル」が宝石質の緑柱石をさす言葉として、定着したものと考えられる。ベリル(宝石質の緑柱石)は緑から青の色の帯域を持つ。

脚注[編集]

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1.^ ヘリオドール ジュエリー宝石百科事典(ページ最下段に参考文献書籍情報有)
2.^ ゴシェナイト ジュエリー宝石百科事典(ページ最下段に参考文献書籍情報有)

関連項目[編集]

ウィキメディア・コモンズには、緑柱石に関連するカテゴリがあります。
鉱物 - ケイ酸塩鉱物
鉱物の一覧
宝石、宝石の一覧
ベリリウム

参考文献[編集]
松原聰 『フィールドベスト図鑑15 日本の鉱物』 学習研究社、2003年、ISBN 4-05-402013-5。
国立天文台編 『理科年表 平成19年』 丸善、2006年、ISBN 4-621-07763-5。

葉長石

葉長石(ようちょうせき、petalite)あるいはペタル石(ペタルせき)[6]は、鉱物(ケイ酸塩鉱物)の一種。化学組成は LiAlSi4O10で、結晶系は単斜晶系。準長石グループの鉱物。



目次 [非表示]
1 産出地
2 性質・特徴
3 用途・加工法
4 サイド・ストーリー
5 ギャラリー
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク


産出地[編集]

ウート島(英語版)、ハーニンゲ、ストックホルム等で見られる。日本では、福岡県長垂に産する[7]。

リチウムを含んだペグマタイトと、リシア輝石、リチア雲母、電気石の含まれる鉱床で生成される。

性質・特徴[編集]

板状結晶や柱状の塊。無色、灰色、黄色、黄灰色、白色等の色。

炭酸成分が少なく、高密度含水アルカリホウケイ酸塩液体の存在する3kbarの圧力下で〜500度に熱せられると、リシア輝石と石英に転換される[8]。

用途・加工法[編集]

葉長石は重要なリチウムの鉱石。 無色のものはしばしば宝石として利用される。 萬古焼(ばんこやき)(四日市市)の土鍋に使用され、高熱でも鍋が割れない。

サイド・ストーリー[編集]

1800年に発見された。名前はギリシャ語で葉を意味する petalon から来ている[3]。

ギャラリー[編集]





葉長石。アフガニスタン、ヌーリスターン州、パブロック (size: 7.3 x 2.9 x 2.4 cm)


脚注[編集]

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1.^ “Petalite” (英語). Digitalfire Reference Database. Digital Fire. 2011年10月23日閲覧。
2.^ “Petalite (PDF)” (英語). Handbook of Mineralogy. Mineralogical Society of America. 2011年12月5日閲覧。
3.^ a b Petalite, MinDat.org 2011年12月5日閲覧。 (英語)
4.^ Petalite, WebMineral.com 2011年12月5日閲覧。 (英語)
5.^ Hurlbut, Cornelius S.; Klein, Cornelis (1985). Manual of Mineralogy (20th ed. ed.). Wiley. pp. 459-460. ISBN 0-471-80580-7.
6.^ 文部省編 『学術用語集 地学編』 日本学術振興会、1984年、324頁。ISBN 4-8181-8401-2。
7.^ 松原聰・宮脇律郎 『日本産鉱物型録』 東海大学出版会〈国立科学博物館叢書〉、2006年、99頁。ISBN 978-4-486-03157-4。
8.^ W. A. Deer (2004). Framework silicates: silica minerals, feldspathoids and the zeolites (2. ed. ed.). London: Geological Soc.. p. 296. ISBN 1862391440.

参考文献[編集]
齋藤信房、國分信英・垣花秀武「葉長石の變質に關する一知見 (PDF) 」 、『日本化學雜誌』第71巻第2号、日本化学会、1950年、 131-133頁、 doi:10.1246/nikkashi1948.71.131、 ISSN 0369-5387、 NAID 40018223597、 JOI:JST.Journalarchive/nikkashi1948/71.131。
青木正博 『鉱物分類図鑑 : 見分けるポイントがわかる』 誠文堂新光社、2011年、175頁。ISBN 978-4-416-21104-5。

ヘリウムフラッシュ

ヘリウムフラッシュ(Helium flash)とは、太陽質量の約0.5倍から2.25倍程度の比較的軽い恒星の核や降着が起こっている白色矮星の表面で見られるヘリウムの核融合の暴走である。 この規模の恒星内において、ヘリウムが縮退している状態、即ち熱圧力よりも量子力学的圧力の大きさのほうが支配的で、核融合反応を起こしている部分の体積がもっぱら量子力学的圧力と重力との釣り合いによって定まっている状態になると、温度が少々上昇しても体積は変化しない。このため、何らかの理由で核融合反応が加速し温度が上昇しても、その部位の体積の膨張やそれに伴う冷却にはつながらず、温度上昇はさらなる核融合を促すことになる。その結果、ヘリウムの核融合反応が急激に進行し大量のエネルギーが放出される。これは、核融合反応をしている領域が十分高温になって、熱圧力が再び支配的になるまで続く。熱圧力が十分大きくなれば、それに応じて反応領域は膨張し温度が下がるため、核融合反応の加速が抑えられ暴走は止まる。部分的に似ているが暴走には至らない過程は、大きな恒星の外層の殻でも起こる。



目次 [非表示]
1 核でのヘリウムフラッシュ 1.1 連星白色矮星のヘリウムフラッシュ

2 殻でのヘリウムフラッシュ
3 関連項目
4 出典


核でのヘリウムフラッシュ[編集]

質量が太陽の2.25倍以下の恒星では、核内で水素を消費し尽くし、熱圧力が重力崩壊に耐えられなくなると、核ヘリウムフラッシュが発生し、恒星は収縮を始める。収縮の間、外層で水素の核融合が始まって外側に膨張し、赤色巨星の段階が始まるまで、核は熱くなり続ける。重力により収縮を続ける恒星は、最終的に縮退物質になるまで圧縮される。縮退圧力は、最終的に最も中心の物質の崩壊を止めるのに十分な強さになる。核内に残った物質は縮退を続け、温度は上昇し続け、ヘリウムが核融合を開始できる温度(?1016K)に達するとヘリウム点火が起こる。

ヘリウムフラッシュの爆発的な性質は、縮退物質で生じることに由来する。一度温度が1億から2億ケルビンに達し、トリプルアルファ反応を利用したヘリウム核融合が開始すると、温度は急激に上昇し、さらにヘリウム核融合の速度は上がり、また縮退物質は良い熱伝導体になるため、反応範囲は広がる。

縮退圧力(密度のみの関数となる)は熱圧力(密度と温度の積に比例する)に比べ優位であり、合計の圧力は温度にほとんど依存しない。そのため、温度が大幅に上がっても圧力は少ししか上昇せず、核の膨張による安定化はされない。

この暴走反応では、熱圧力が再び優勢になり、縮退が終わるまでの数秒間のうちに、通常の恒星のエネルギー生産の約1兆倍に達する。その後、核は膨張して冷え、安定したヘリウムの燃焼が続く[1]。

核の外でヘリウムを燃やし、縮退を始めている約2.25太陽質量を超える恒星は、このタイプのヘリウムフラッシュを見せない。約0.5太陽質量以下の非常に軽い恒星では、核はヘリウム点火が起こる程には加熱されない。縮退ヘリウムの核は圧縮を続け、最終的にはヘリウム白色矮星になる。

ヘリウムフラッシュは、電磁波の放射として直接観測されることはない。フラッシュは、恒星の内側深くの核で起こり、放出エネルギーは全て核で吸収され、縮退状態は解消される。以前のコンピュータによる解析では、同じ状況で非破壊的な質量の喪失が起こり得ることが示されたが[2]、後にニュートリノの質量喪失を考慮に入れたモデルでは、質量喪失は起こらないという結果が得られた[3][4]。

連星白色矮星のヘリウムフラッシュ[編集]

伴星から白色矮星に水素ガスが降着している状況では、水素は常に核融合してヘリウムに変化している。このヘリウムは、恒星表面近くの殻を形成し得る。ヘリウムの質量が十分に大きい時にはヘリウムフラッシュが起こり、暴走核融合が新星を引き起こす。

殻でのヘリウムフラッシュ[編集]

殻でのヘリウムフラッシュは、核でのヘリウムフラッシュといくらか似ているが、それほど激しくはなく、縮退物質で起こる訳ではないので、暴走やヘリウム点火は生じない。漸近巨星分枝の恒星では、核の外側の殻で定期的に起こる。恒星は、核内で利用可能なヘリウムのほとんどを燃やし尽くし、炭素と酸素のみで構成されるようになる。ヘリウム核融合は、この核の周りの薄い殻の中で続くが、ヘリウムはそのうち使い尽くされる。そうするとヘリウム層の上の層で水素核融合が開始できるようになり、ヘリウムが十分溜まるとヘリウム核融合が再点火し、熱パルスを発生して、恒星は一時的に膨張して明るくなる(ヘリウム核融合のエネルギーが恒星表面に届くまでには長い時間がかかるため、明るさのパルスは遅れる[5])。このようなパルスは数百年間続き、1万年から10万年ごとに繰り返していると考えられている[5]。フラッシュ後、ヘリウム核融合は、約40%の速度で、ヘリウム殻が消費され尽くすまで続く[5]。熱パルスは、恒星の周りのガスや塵を除去する。

関連項目[編集]
炭素爆発

出典[編集]
1.^ Deupree, R. G.; R. K. Wallace (1987). “The core helium flash and surface abundance anomalies”. Astrophysical Journal 317: 724-732. Bibcode 1987ApJ...317..724D. doi:10.1086/165319.
2.^ Two- and three-dimensional numerical simulations of the core helium flash by Deupree, R. G.
3.^ A Reexamination of the Core Helium Flash by Deupree, R. G.
4.^ Multidimensional hydrodynamic simulations of the core helium flash in low-mass stars by Mocak, M.
5.^ a b c Wood, P. R.; D. M. Zarro (1981). “Helium-shell flashing in low-mass stars and period changes in mira variables”. Astrophysical Journal 247 (Part 1): 247. Bibcode 1981ApJ...247..247W. doi:10.1086/159032.

Emission spectrum

The emission spectrum of a chemical element or chemical compound is the spectrum of frequencies of electromagnetic radiation emitted due to an atom's electrons making a transition from a high energy state to a lower energy state. The energy of the emitted photon is equal to the energy difference between the two states. There are many possible electron transitions for each atom, and each transition has a specific energy difference. This collection of different transitions, leading to different radiated wavelengths, make up an emission spectrum. Each element's emission spectrum is unique. Therefore, spectroscopy can be used to identify the elements in matter of unknown composition. Similarly, the emission spectra of molecules can be used in chemical analysis of substances.



Contents [hide]
1 Emission
2 Origins 2.1 Radiation from molecules

3 Emission spectroscopy
4 History
5 Experimental technique in flame emission spectroscopy
6 Emission coefficient 6.1 Scattering of light
6.2 Spontaneous emission

7 Energy spectrum 7.1 Optical spectroscopy and astrophysics application

8 See also 8.1 Links related to emission spectroscopy
8.2 Links related to emission coefficient

9 References
10 External links


Emission[edit]

In physics, emission is the process by which a higher energy quantum mechanical state of a particle becomes converted to a lower one through the emission of a photon, resulting in the production of light. The frequency of light emitted is a function of the energy of the transition. Since energy must be conserved, the energy difference between the two states equals the energy carried off by the photon. The energy states of the transitions can lead to emissions over a very large range of frequencies. For example, visible light is emitted by the coupling of electronic states in atoms and molecules (then the phenomenon is called fluorescence or phosphorescence). On the other hand, nuclear shell transitions can emit high energy gamma rays, while nuclear spin transitions emit low energy radio waves.

The emittance of an object quantifies how much light is emitted by it. This may be related to other properties of the object through the Stefan–Boltzmann law. For most substances, the amount of emission varies with the temperature and the spectroscopic composition of the object, leading to the appearance of color temperature and emission lines. Precise measurements at many wavelengths allow the identification of a substance via emission spectroscopy.

Emission of radiation is typically described using semi-classical quantum mechanics: the particle's energy levels and spacings are determined from quantum mechanics, and light is treated as an oscillating electric field that can drive a transition if it is in resonance with the system's natural frequency. The quantum mechanics problem is treated using time-dependent perturbation theory and leads to the general result known as Fermi's golden rule. The description has been superseded by quantum electrodynamics, although the semi-classical version continues to be more useful in most cases.

Origins[edit]

When the electrons in the atom are excited, for example by being heated, the additional energy pushes the electrons to higher energy orbitals. When the electrons fall back down and leave the excited state, energy is re-emitted in the form of a photon. The wavelength (or equivalently, frequency) of the photon is determined by the difference in energy between the two states. These emitted photons form the element's spectrum.

The fact that only certain colors appear in an element's atomic emission spectrum means that only certain frequencies of light are emitted. Each of these frequencies are related to energy by the formula:
E_{{{\text{photon}}}}=h\nu ,
where E_{{{\text{photon}}}} is the energy of the photon, \nu is its frequency, and h is Planck's constant. This concludes that only photons having certain energies are emitted by the atom. The principle of the atomic emission spectrum explains the varied colors in neon signs, as well as chemical flame test results (described below).

The frequencies of light that an atom can emit are dependent on states the electrons can be in. When excited, an electron moves to a higher energy level or orbital. When the electron falls back to its ground level the light is emitted.





Emission spectrum of Hydrogen
The above picture shows the visible light emission spectrum for hydrogen. If only a single atom of hydrogen were present, then only a single wavelength would be observed at a given instant. Several of the possible emissions are observed because the sample contains many hydrogen atoms that are in different initial energy states and reach different final energy states. These different combinations lead to simultaneous emissions at different wavelengths.





Emission spectrum of Iron
Radiation from molecules[edit]

As well as the electronic transitions discussed above, the energy of a molecule can also change via rotational, vibrational, and vibronic (combined vibrational and electronic) transitions. These energy transitions often lead to closely spaced groups of many different spectral lines, known as spectral bands. Unresolved band spectra may appear as a spectral continuum.

Emission spectroscopy[edit]

Light consists of electromagnetic radiation of different wavelengths. Therefore, when the elements or their compounds are heated either on a flame or by an electric arc they emit energy in the form of light. Analysis of this light, with the help of a spectroscope gives us a discontinuous spectrum. A spectroscope or a spectrometer is an instrument which is used for separating the components of light, which have different wavelengths. The spectrum appears in a series of lines called the line spectrum. This line spectrum is also called the Atomic Spectrum because it originates in the element. Each element has a different atomic spectrum. The production of line spectra by the atoms of an element indicate that an atom can radiate only a certain amount of energy. This leads to the conclusion that bound electrons cannot have just any amount of energy but only a certain amount of energy.

The emission spectrum can be used to determine the composition of a material, since it is different for each element of the periodic table. One example is astronomical spectroscopy: identifying the composition of stars by analysing the received light. The emission spectrum characteristics of some elements are plainly visible to the naked eye when these elements are heated. For example, when platinum wire is dipped into a strontium nitrate solution and then inserted into a flame, the strontium atoms emit a red color. Similarly, when copper is inserted into a flame, the flame becomes green. These definite characteristics allow elements to be identified by their atomic emission spectrum. Not all emitted lights are perceptible to the naked eye, as the spectrum also includes ultraviolet rays and infrared lighting. An emission is formed when an excited gas is viewed directly through a spectroscope.





Schematic diagram of spontaneous emission
Emission spectroscopy is a spectroscopic technique which examines the wavelengths of photons emitted by atoms or molecules during their transition from an excited state to a lower energy state. Each element emits a characteristic set of discrete wavelengths according to its electronic structure, and by observing these wavelengths the elemental composition of the sample can be determined. Emission spectroscopy developed in the late 19th century and efforts in theoretical explanation of atomic emission spectra eventually led to quantum mechanics.

There are many ways in which atoms can be brought to an excited state. Interaction with electromagnetic radiation is used in fluorescence spectroscopy, protons or other heavier particles in Particle-Induced X-ray Emission and electrons or X-ray photons in Energy-dispersive X-ray spectroscopy or X-ray fluorescence. The simplest method is to heat the sample to a high temperature, after which the excitations are produced by collisions between the sample atoms. This method is used in flame emission spectroscopy, and it was also the method used by Anders Jonas Ångström when he discovered the phenomenon of discrete emission lines in 1850s.[citation needed]

Although the emission lines are caused by a transition between quantized energy states and may at first look very sharp, they do have a finite width, i.e. they are composed of more than one wavelength of light. This spectral line broadening has many different causes[clarification needed].

Emission spectroscopy is often referred to as optical emission spectroscopy, due to the light nature of what is being emitted.

History[edit]

Emission lines from hot gases were first discovered[citation needed] by Ångström, and the technique was further developed by David Alter, Gustav Kirchhoff and Robert Bunsen.

See the history of spectroscopy for details.

Experimental technique in flame emission spectroscopy[edit]

The solution containing the relevant substance to be analysed is drawn into the burner and dispersed into the flame as a fine spray. The solvent evaporates first, leaving finely divided solid particles which move to the hottest region of the flame where gaseous atoms and ions are produced. Here electrons are excited as described above. It is common for a monochromator to be used to allow for easy detection.

On a simple level, flame emission spectroscopy can be observed using just a flame and samples of metal salts. This method of qualitative analysis is called a flame test. For example, sodium salts placed in the flame will glow yellow from sodium ions, while strontium (used in road flares) ions color it red. Copper wire will create a blue colored flame, however in the presence of chloride gives green (molecular contribution by CuCl).

Emission coefficient[edit]

Emission coefficient is a coefficient in the power output per unit time of an electromagnetic source, a calculated value in physics. The emission coefficient of a gas varies with the wavelength of the light. It has units of ms-3sr-1.[1] It is also used as a measure of environmental emissions (by mass) per MWh of electricity generated, see: Emission factor.

Scattering of light[edit]

In Thomson scattering a charged particle emits radiation under incident light. The particle may be an ordinary atomic electron, so emission coefficients have practical applications.

If X dV dΩ dλ is the energy scattered by a volume element dV into solid angle dΩ between wavelengths λ and λ+dλ per unit time then the Emission coefficient is X.

The values of X in Thomson scattering can be predicted from incident flux, the density of the charged particles and their Thomson differential cross section (area/solid angle).

Spontaneous emission[edit]

A warm body emitting photons has a monochromatic emission coefficient relating to its temperature and total power radiation. This is sometimes called the second "Einstein coefficient", and can be deduced from quantum mechanical theory.

Energy spectrum[edit]

An energy spectrum is a distribution energy among a large assemblage of particles. It is a statistical representation of the wave energy as a function of the wave frequency, and an empirical estimator of the spectral function. For any given value of energy, it determines how many of the particles have that much energy.

The particles may be atoms, photons or a flux of elementary particles.

The Schrödinger equation and a set of boundary conditions form an eigenvalue problem. A possible value (E) is called an eigenenergy. A non-zero solution of the wave function is called an eigenenergy state, or simply an eigenstate. The set of eigenvalues {Ej} is called the energy spectrum of the particle.

The electromagnetic spectrum can also be represented as the distribution of electromagnetic radiation according to energy. The relationship among the wavelength (usually denoted by Greek "\lambda "), the frequency (usually denoted by Greek "\nu "), and the energy E are:
E=h\nu ={\frac {hc}{\lambda }}\,\!
where c is the speed of light and h is Planck's Constant.

An example of an energy spectrum in the physical domain is ocean waves breaking on the shore. For any given interval of time it can be observed that some of the waves are larger than others. Plotting the number of waves against the amplitude (height) for the interval will yield the energy spectrum of the set.[2]

Optical spectroscopy and astrophysics application[edit]

Energy spectra are often used in astrophysical spectroscopy.


The quantity plotted, energy units, is the wavelength times the energy per unit wavelength and thus accurately represents the amount of energy at any wavelength. The energy per unit wavelength and the energy per unit frequency peak at significantly different wavelengths due the reciprocal relation between frequency and wavelength. Using energy units avoids this problem, since (wavelength * flux per unit wavelength) = (frequency * flux per unit frequency).

Some modern spectrophotometers, such as the Perkin Elmer 950, include an energy scan option. This is additionally useful in cases where a reference cell is not practical or when absorbance / transmittance is off-scale.[2][3]

放出スペクトル

放出スペクトル(ほうしゅつスペクトル、英: Emission spectrum)は、原子や分子が低いエネルギー準位に戻る時に放出する電磁波の周波数のスペクトルである。

それぞれの原子の放出スペクトルは固有のものであり、そのため分光法によって、未知の化合物に含まれる元素を同定することができる。同様に、分子の放出スペクトルは、物質の化学分析に用いることができる。



目次 [非表示]
1 放出
2 起源 2.1 分子からの放射

3 放出スペクトル分光法
4 歴史
5 放出係数 5.1 光の散乱
5.2 自発的放出

6 出典
7 関連項目
8 外部リンク


放出[編集]

物理学において、放出とは、高エネルギーの量子状態にある粒子が光子を放出して低い状態に遷移する過程のことである。放出される光の周波数は、遷移エネルギーの関数となる。エネルギーは保存されるため、2つの状態でのエネルギーの差は、光子によって持ち去られるエネルギーに等しい。遷移によるエネルギー状態の変化は、非常に広範囲の周波数を作りうる。例えば、原子や分子内での電子の状態のカップリングでは、可視光が放出される(そのため、この現象は蛍光や燐光と呼ばれる)。一方、原子殻の遷移では、高エネルギーのガンマ線が放出され、核スピン遷移では低エネルギーの電波が放出される。

物体の放出力は、その物体からどれだけの量の光が放出されるかを決める。またシュテファン=ボルツマンの法則から、物体のその他の特性にも関係しているかもしれない。多くの物質では、放出の量は、温度とスペクトル組成で決まり、色温度やスペクトル線として現れる。多くの波長の正確な測定により、物質を同定することができる。

放射光の放出は、半古典的量子力学によって記述できる。粒子のエネルギー準位と間隔は量子力学によって決まり、光は、系の自然周波数と共鳴すると遷移を引き起こす電磁場の振動として扱われる。量子力学の問題は、時間依存の摂動理論を用いて扱われ、フェルミの黄金律として知られる一般的な結果を導く。この記述は後に量子電磁力学に取って代わられたが、多くの場合では、この半古典的考え方も有用である。

起源[編集]

原子中の電子が、例えば熱せられることによって励起すると、与えられたエネルギーが電子を高いエネルギー軌道に押し上げる。電子が軌道を落ちて励起状態を脱すると、エネルギーは光子の形で再放出される。光子の波長は、2つの状態間のエネルギーの差によって決まる。これらの放出光子は、その元素の放出スペクトルとなる。

元素の放出スペクトルである特定の色しか現れないという事実は、特定の周波数の光のみが放出されているということを意味する。それぞれの周波数は、次の式により、エネルギーの関数で表される。
E_{{{\text{photon}}}}=h \nu ,
ここで、Eは光子のエネルギー、νは周波数、hはプランク定数である。これにより、特定のエネルギーを持った光子のみが原子から放出されるということが分かる。放出スペクトルの原理により、ネオンサインの色や炎色反応が説明できる。

ある原子が放出し得る光の周波数は、電子が取り得る状態に 依存する。励起されると、電子は高井エネルギー準位に上り、基底状態に戻る時に光が放出される。





水素の放出スペクトル
上の図は、水素の可視光の放出スペクトルを表している。1つの水素原子だけが存在している場合には、1つの波長のみが観測される。サンプルには、様々な初期エネルギー状態を持つ多くの水素原子が存在し、異なったエネルギー状態に移るため、何本かのスペクトル線が見られる。





鉄の放出スペクトル
分子からの放射[編集]

上記で議論した電子の遷移と同様に、分子のエネルギーも回転、振動等によって変わってくる。これらのエネルギー遷移は、しばしばスペクトル帯として知られる近い間隔のスペクトル線の群を作る。

放出スペクトル分光法[編集]

光は、様々な波長の電磁放射から成り立っている。そのため、原子やその化合物を炎やアーク放電で加熱すると、光の形でエネルギーを放出し始める。分光計を用いてこの光を分析すると、不連続なスペクトルが得られる。分光計は、光の波長ごとの成分を分離するために用いられる機械である。一連の線となって見られるスペクトルは、線スペクトルと呼ばれ、また原子に由来することから原子スペクトルとも呼ばれる。それぞれの元素は、異なった原子スペクトルを持つ。元素が決まった原子スペクトルを作ることは、原子が特定の定まった量のエネルギーを放射することを意味する。これより、電子は任意の量のエネルギーを持つことはできず、特定の定まった量のエネルギーを持つという結論が得られる。

放出スペクトルは、周期表上の元素によって異なるため、物体の組成を決定するのに用いることができる。1つの例は、地球に届く光を分析して恒星の組成を同定する天体分光学である。いくつかの元素は、熱することでその放出スペクトルを裸眼でも見ることができる。例えば、白金線を硝酸ストロンチウム溶液に浸して炎の中に入れると、ストロンチウム原子は赤い色の光を放出する。同様に、銅を炎の中に入れると、炎は緑色になる。このような明確な特徴により、元素の同定が可能である。ただし、全ての放出光が裸眼で見える訳ではなく、紫外線や赤外線が含まれる場合もある。

放出スペクトル分光法は、原子や分子が励起状態から低いエネルギー準位に遷移する際に放出される光子の波長を測定する分光法である。それぞれの元素は、その電子配置に従って特徴的な離散波長の光を放出し、それらを観測することで、サンプルの元素組成を同定することが出来る。放出スペクトル分光法は19世紀後半に発展し、これを理論的に説明しようとする試みは、量子力学の誕生に繋がった。

原子を励起状態にする方法には様々なものがある。蛍光分光法では電磁放射、粒子線励起X線分析では光子やその他の重粒子、エネルギー分散型X線分析や蛍光X線分析では、電子やX線光子と相互作用させる。最も単純な方法はサンプルを熱する方法で、サンプル中の原子同士の衝突により、励起状態になる。この方法は、アンデルス・オングストロームが1850年代に離散輝線を初めて観測した時に行った方法でもある。

輝線は、量子化されたエネルギー準位間の遷移から出てくるものであり、また当初は非常に鋭く見えるものの、有限な幅を持ち、即ち1つ以上の波長から構成される。この線幅広がりには、多くの原因がある。

歴史[編集]

熱いガスの輝線は、オングストロームによって初めて観測され、デヴィッド・アルター、グスタフ・キルヒホフ、ローベルト・ブンゼンらによって技術が発展させられた。

詳細は、分光法を参照のこと。

放出係数[編集]

放出係数は、単位時間当たり1つの電磁波源が生み出す仕事率の係数であり、光の波長によって変化する。単位はms-3sr-1である[1]。

光の散乱[編集]

トムソン散乱では、荷電粒子は入射する光の下で放射光を放出する。粒子は通常、電子であり、放出係数が適用される。

X dV dΩ dλが、単位時間当たり、単位体積dV、立体角dΩ、波長λからdλで散乱されるエネルギーだとすると、Xが放出係数となる。トムソン散乱でのXの値は、入射束、つまり荷電粒子の密度とそれらの断面積の微分によって予測される。

自発的放出[編集]

光子を放出する熱された物体は、その温度と合計放出仕事率に関係する単色の放出係数を持つ。この値は、「第2アインシュタイン係数」と呼ばれることもある。

出典[編集]

1.^ Carroll, Bradley W. (2007). An Introducion to Modern Astrophysics. CA, USA: Pearson Education. pp. 256. ISBN 0-8053-0402-9.
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