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2014年02月10日

ソーマ

ソーマ(sa:सोम [soma])は、ヴェーダなどのインド神話に登場する神々の飲料。なんらかの植物の液汁と考えられるが、植物学上の同定は困難である 。また、その植物を神格化したインドの神でもある。ゾロアスター教の神酒ハオマと同起源。

飲み物のソーマは、ヴェーダの祭祀で用いられる一種の興奮飲料であり、原料の植物を指すこともある。ゾロアスター教でも同じ飲料(ハオマ)を用いることから、起源は古い。神々はこれを飲用して英気を養い、詩人は天啓を得るために使った。高揚感や幻覚作用を伴うが酒ではない。ソーマは神々と人間に栄養と活力を与え、寿命を延ばし、霊感をもたらす霊薬という。『リグ・ヴェーダ』第9巻全体がソーマ讃歌であり、その重要性が知られる。

ヒンドゥー教では月が神々の酒盃と見なされたためにソーマは月の神とも考えられ、ナヴァグラハの1柱である光と月の神チャンドラと同一視される。

アハリヤー

アハリヤー(Ahalya, 梵: अहल्या)は、インド神話に登場する女性。カウシカ・ガウタマ仙の妻、シャターナンダの母。インドラ神との情事で知られる。

『ラーマーヤナ』によると、あるときインドラ神はガウタマ仙の姿に化けて、庵に行き、妻であるアハリヤーを情交に誘った。アハリヤーは彼がインドラであることを知りつつ、その誘いを受けた。欲望が満たされたアハリヤーは自分を連れ去り、夫の怒りから身をまもってくれるよう頼んだが、同じくガウタマの怒りを恐れるインドラは庵を足早に立ち去ろうとした。しかしインドラが外に出ると、すでにそこには怒りに燃えるガウタマの姿があった。ガウタマは困惑するインドラに呪いをかけて睾丸を奪い去り、全身に千もの女性器を与えた。さらにアハリヤーにも呪いをかけて、誰の眼にも見えない空の身体とし、何千年もの間、灰を寝床とし、空気を喰らって(=苦行して)暮らすことを課した。ただし、ダシャラタ王の王子が訪れた時に、呪いから解放されるとした。その後、ラーマとラクシュマナが聖仙ヴィシュヴァーミトラに導かれてガウタマ仙の庵を訪れると、そこには呪いから解放されたアハリヤーの姿があり、アハリヤーは3人を款待した。すると神々は天上から花を投げ、彼女の信仰を称えた。また、ヒマラヤ山にこもっていたガウタマも戻ってきて、両者は和解したという。一方インドラは他の神々によって羊の睾丸が与えられ、ティロッタマーとの出会いにより全身の女性器が目に変わった。

『マハーバーラタ』では、傲慢な神々の王ナフシャがインドラの妻シャチーを奪わんとするとき、自らの行為を正当化するためにインドラの情事を引き合いに出している。さらに『マールカンデーヤ・プラーナ』では、この話をインドラが犯した3つの罪の1つに数えており、インドラの体から種々の徳が逃げる様を述べている。

ヴァーユ

ヴァーユ(Vayu)は、梵語ではワーユ(梵: वायु)と発音される。インド神話における風の神。風の意。『リグ・ヴェーダ』ではインドラ神と密接に結びつき、三界(天・空・地)のうち、空界をインドラとともに占める。『リグ・ヴェーダ』にはワーユの他にもワータという風神が登場しているが、ワーユのほうがより擬人化が進み、讃歌の数も多い。又、パヴァナ あるいはプラーナとも呼ばれる。イランにおける風神ウァユ(ワユ)にあたり、語源を等しくすることから、インド・イラン語派に共通の、古い風神に由来すると考えられる。時代とともに宗教的地位は低下したが、『マハーバーラタ』の英雄ビーマや、『ラーマーヤナ』の猿将ハヌマーンはワーユの息子とされ、いずれも風神の化身と呼ぶにふさわしい活躍を見せる。

仏教に取り入れられて風天となった。

又、ワーユはインド哲学の五大要素(パンチャマハーブータ)の一つである。その意味は「風」、「空気」あるいは「気」である。

ハットゥシャ

ハットゥシャ(ヒッタイト語: 𒌷𒄩𒀜𒌅𒊭 - URUHattuşa)またはハットゥシャシュ (トルコ語: Hattuşaş)は、トルコの首都アンカラより東に145kmのボアズカレ(旧・ボアズキョイ)近郊、海抜1000mほどの丘陵地帯にある遺跡。紀元前17世紀-紀元前13世紀に繁栄したヒッタイト帝国の都。



目次 [非表示]
1 概要
2 登録基準
3 ギャラリー
4 外部リンク


概要[編集]

1906年、ドイツの考古学者フーゴー・ウィンクラーによって発見された。その後、発掘調査がおこなわれ、大神殿跡、突撃門や上の街神殿群跡、獅子門などが確認されている。1986年、ユネスコの世界遺産に登録された。

登録基準[編集]

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準[1]からの翻訳、引用である)。
(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

ボアズキョイ

ボアズカレ(Boğazkale)はトルコの小村。クズル・ウルマック川に抱かれた村。旧名はボアズキョイ(Boğazköy)といった。現在はチョルム県ボアズカレ郡に属する。トルコの首都アンカラの東150kmにありアナトリア高原のほぼ中央部である。

ボアズカレが紀元前16 - 14世紀の古代ヒッタイト帝国の首都、ハットゥシャと確認されたのは、1906年のことであり、以来100年余り発掘はゆっくり続けられている。1905年、ヒッタイト帝国の都を探していたドイツのH・ヴィンクラー(アッシリア学者)が、イスタンブルから中央アナトリアのある村で粘土板文書が発見された情報に接し、発掘調査のために、この村にやって来た。翌年から発掘調査に取りかかった。1906-1907年、1911-12年にわたって発掘を行った。そして、村の遺跡から多くの粘土板を採取した。その粘土板の多くは紀元前2000年紀後半の国際語として使用されていたアッカド語で書かれていた。その中にヒッタイトとエジプトとの「カデシュの戦い」後に交わされた「和平条約」を発見した。ヴィンクラーは、この条約の内容と同じものがエジプトのカルナック神殿の壁に刻まれていることを知っていた。これらの粘土板の発見により、発掘現場が間違いなくヒッタイト帝国の都であることが明白になった。[出典 1]。 大神殿跡、突撃門や上の街神殿群跡、獅子門などが発掘され、同遺跡群から出土した粘土板に描かれた楔形文字、象形文字の解読が、ヒッタイトに関する様々な史実解明に繋がった。

ヒッタイト

ヒッタイト(英:Hittites)は、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話し、紀元前15世紀頃アナトリア半島に王国を築いた民族、またはこの民族が建国したヒッタイト帝国(王国とも)を指す。

高度な製鉄技術によりメソポタミアを征服した。最初の鉄器文化を築いたとされる。

首都ハットゥシャ(現在のトルコのボアズキョイ遺跡)の発掘が進められている。



目次 [非表示]
1 名称
2 歴史 2.1 ヒッタイト古王国
2.2 ヒッタイト中王国
2.3 ヒッタイト新王国
2.4 滅亡後

3 歴代君主 3.1 古王国以前の支配者
3.2 古王国
3.3 中王国
3.4 新王国

4 后妃
5 遺跡
6 関連作品 6.1 映像作品
6.2 漫画

7 関連項目


名称[編集]

ハッティ(英: Hatti)の英語名で、旧約聖書の ヘテ人(英語版)(英: Hitti、ヘト人とも)をもとにして、イギリス人のアッシリア学者A.H.セイス(英語版)が命名した。

歴史[編集]

詳細は「ヒッタイトの歴史」および「ハッティ人(英語版)」を参照

ヒッタイト人(Hittites)は、クルガン仮説による黒海を渡って来た北方系民族説と、近年提唱されているアナトリア仮説(英語版)によるこのアナトリア地域を故郷として広がって行ったという二つの説が提唱されているが、決着していない。

近年、カマン・カレホユック(英語版)遺跡(トルコ共和国クルシェヒル県クルシェヒル)にて鉄滓が発見され、ヒッタイト以前の紀元前18世紀頃(アッシリア商人の植民都市がアナトリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。その他にも、他国に青銅を輸出或いは輸入していたと見られる大量の積荷が、海底から発見された。

ヒッタイト古王国[編集]

紀元前1680年頃、クズルウルマック("赤い河"の意)周辺にヒッタイト古王国を建国し、後にメソポタミアなどを征服した。なお、ヒッタイト王の称号は、ラバルナであるが、これは古王国の初代王であるラバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシリ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。ヒッタイト王妃の称号はタワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を継承したといわれている。 紀元前1595年頃、ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、サムス・ディタナ(英語版)率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアにカッシート王朝が成立。

ヒッタイト中王国[編集]

紀元前1500年頃、ヒッタイト中王国の成立。タフルワイリやアルワムナによる王位簒奪が相次ぐ。70年間ほど記録が少ない時代が続いた。

ヒッタイト新王国[編集]

紀元前1430年頃、ヒッタイト新王国の成立。

紀元前1330年頃、シュッピルリウマ1世はミタンニを制圧する。この時、前線に出たのは、王の息子達(テレピヌとピヤシリ)であった。 紀元前1285年頃、古代エジプトとシリアのカデシュで衝突。ラムセス2世のエジプトを撃退する。ラムセス2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際にはシリアはヒッタイトが支配を続けた(カデシュの戦い)。エジプトのラムセス王の寺院の壁に、3人乗りの戦車でラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリの軍)のレリーフが描かれている。この際に、世界最古の講和条約が結ばれた。ハットゥシリ3世の王妃プドゥヘパ(英 Puduhepa)作とされる宗教詩は、現在発見されている最古の女性の文芸作である。ヒッタイトの宗教は、強くフルリ人の宗教の影響を受けていることが分かっている。フリ文化の色彩強まる。

紀元前1190年頃、通説では、民族分類が不明の「海の民」によって滅ぼされたとされている。地中海諸地域の諸種族混成集団と見られる「海の民」によって滅ぼされたといわれているが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになった(前1200年のカタストロフ)。

滅亡後[編集]

「フリギア」、「リュディア」、「メディア王国」、および「アケメネス朝」も参照

ヒッタイト新王国が滅びたあと、南東アナトリアに移動し紀元前8世紀頃まで、シロ・ヒッタイト国家群(英語版)(シリア・ヒッタイト)と呼ばれる都市国家群として活動した(紀元前1180年-紀元前700年頃)。ただし、この都市国家群の住民はかなりの程度フルリ人と同化していたと考えられている。

歴代君主[編集]

古王国以前の支配者[編集]
en:Pamba (king)(紀元前22世紀初頭)
ピトハナ(紀元前18世紀)
en:Piyusti(紀元前17世紀)
アニッタ(紀元前17世紀)
en:Tudhaliya(紀元前17世紀)
en:PU-Sarruma(紀元前1600年)

古王国[編集]
ラバルナ1世(?)(紀元前1650年 - ?)
ハットゥシリ1世
ムルシリ1世(? – 紀元前1590年)
ハンティリ1世(紀元前1590年 – ?)
ツィダンタ1世
アンムナ
フッツィヤ1世
テリピヌ

中王国[編集]
タフルワイリ
アルワムナ(? – 紀元前1525年)
ハンティリ2世(?)
ツィダンタ2世(?)
フッツィヤ2世(?)
ムワタリ1世(?)

新王国[編集]
トゥドハリヤ1世(紀元前1430年頃 - 紀元前1410年頃)
(以下の4代の王は、血縁関係や在位年代が不明) アルヌワンダ1世
トゥドハリヤ2世
ハットゥシリ2世
トゥドハリヤ3世

シュッピルリウマ1世(紀元前1358年 - 紀元前1323年)
アルヌワンダ2世(紀元前1323年 - 紀元前1322年)
ムルシリ2世(紀元前1322年 - 紀元前1285年)
ムワタリ2世(紀元前1285年 - 紀元前1273年)
ムルシリ3世(紀元前1273年 - 紀元前1266年)
ハットゥシリ3世(紀元前1266年 - 紀元前1236年)
トゥドハリヤ4世(紀元前1236年 - 紀元前1220年) クルンタ(?)

アルヌワンダ3世(紀元前1220年 - 紀元前1218年)
シュッピルリウマ2世(紀元前1218年 - 紀元前1200年)

后妃[編集]

詳細は「タワナアンナ」を参照

遺跡[編集]





ハットゥシャ遺跡ボアズキョイのハットゥシャ遺跡 ヤズルカヤ(英語版)の神殿

アラジャホユック(英語版)のスフィンクス門
カマン・カレホユック(英語版)遺跡 日本の財団法人中近東文化センターが30年にわたり発掘調査を続けている。

ヒッタイト

ヒッタイト(英:Hittites)は、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話し、紀元前15世紀頃アナトリア半島に王国を築いた民族、またはこの民族が建国したヒッタイト帝国(王国とも)を指す。

高度な製鉄技術によりメソポタミアを征服した。最初の鉄器文化を築いたとされる。

首都ハットゥシャ(現在のトルコのボアズキョイ遺跡)の発掘が進められている。



目次 [非表示]
1 名称
2 歴史 2.1 ヒッタイト古王国
2.2 ヒッタイト中王国
2.3 ヒッタイト新王国
2.4 滅亡後

3 歴代君主 3.1 古王国以前の支配者
3.2 古王国
3.3 中王国
3.4 新王国

4 后妃
5 遺跡
6 関連作品 6.1 映像作品
6.2 漫画

7 関連項目


名称[編集]

ハッティ(英: Hatti)の英語名で、旧約聖書の ヘテ人(英語版)(英: Hitti、ヘト人とも)をもとにして、イギリス人のアッシリア学者A.H.セイス(英語版)が命名した。

歴史[編集]

詳細は「ヒッタイトの歴史」および「ハッティ人(英語版)」を参照

ヒッタイト人(Hittites)は、クルガン仮説による黒海を渡って来た北方系民族説と、近年提唱されているアナトリア仮説(英語版)によるこのアナトリア地域を故郷として広がって行ったという二つの説が提唱されているが、決着していない。

近年、カマン・カレホユック(英語版)遺跡(トルコ共和国クルシェヒル県クルシェヒル)にて鉄滓が発見され、ヒッタイト以前の紀元前18世紀頃(アッシリア商人の植民都市がアナトリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。その他にも、他国に青銅を輸出或いは輸入していたと見られる大量の積荷が、海底から発見された。

ヒッタイト古王国[編集]

紀元前1680年頃、クズルウルマック("赤い河"の意)周辺にヒッタイト古王国を建国し、後にメソポタミアなどを征服した。なお、ヒッタイト王の称号は、ラバルナであるが、これは古王国の初代王であるラバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシリ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。ヒッタイト王妃の称号はタワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を継承したといわれている。 紀元前1595年頃、ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、サムス・ディタナ(英語版)率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアにカッシート王朝が成立。

ヒッタイト中王国[編集]

紀元前1500年頃、ヒッタイト中王国の成立。タフルワイリやアルワムナによる王位簒奪が相次ぐ。70年間ほど記録が少ない時代が続いた。

ヒッタイト新王国[編集]

紀元前1430年頃、ヒッタイト新王国の成立。

紀元前1330年頃、シュッピルリウマ1世はミタンニを制圧する。この時、前線に出たのは、王の息子達(テレピヌとピヤシリ)であった。 紀元前1285年頃、古代エジプトとシリアのカデシュで衝突。ラムセス2世のエジプトを撃退する。ラムセス2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際にはシリアはヒッタイトが支配を続けた(カデシュの戦い)。エジプトのラムセス王の寺院の壁に、3人乗りの戦車でラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリの軍)のレリーフが描かれている。この際に、世界最古の講和条約が結ばれた。ハットゥシリ3世の王妃プドゥヘパ(英 Puduhepa)作とされる宗教詩は、現在発見されている最古の女性の文芸作である。ヒッタイトの宗教は、強くフルリ人の宗教の影響を受けていることが分かっている。フリ文化の色彩強まる。

紀元前1190年頃、通説では、民族分類が不明の「海の民」によって滅ぼされたとされている。地中海諸地域の諸種族混成集団と見られる「海の民」によって滅ぼされたといわれているが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになった(前1200年のカタストロフ)。

滅亡後[編集]

「フリギア」、「リュディア」、「メディア王国」、および「アケメネス朝」も参照

ヒッタイト新王国が滅びたあと、南東アナトリアに移動し紀元前8世紀頃まで、シロ・ヒッタイト国家群(英語版)(シリア・ヒッタイト)と呼ばれる都市国家群として活動した(紀元前1180年-紀元前700年頃)。ただし、この都市国家群の住民はかなりの程度フルリ人と同化していたと考えられている。

歴代君主[編集]

古王国以前の支配者[編集]
en:Pamba (king)(紀元前22世紀初頭)
ピトハナ(紀元前18世紀)
en:Piyusti(紀元前17世紀)
アニッタ(紀元前17世紀)
en:Tudhaliya(紀元前17世紀)
en:PU-Sarruma(紀元前1600年)

古王国[編集]
ラバルナ1世(?)(紀元前1650年 - ?)
ハットゥシリ1世
ムルシリ1世(? – 紀元前1590年)
ハンティリ1世(紀元前1590年 – ?)
ツィダンタ1世
アンムナ
フッツィヤ1世
テリピヌ

中王国[編集]
タフルワイリ
アルワムナ(? – 紀元前1525年)
ハンティリ2世(?)
ツィダンタ2世(?)
フッツィヤ2世(?)
ムワタリ1世(?)

新王国[編集]
トゥドハリヤ1世(紀元前1430年頃 - 紀元前1410年頃)
(以下の4代の王は、血縁関係や在位年代が不明) アルヌワンダ1世
トゥドハリヤ2世
ハットゥシリ2世
トゥドハリヤ3世

シュッピルリウマ1世(紀元前1358年 - 紀元前1323年)
アルヌワンダ2世(紀元前1323年 - 紀元前1322年)
ムルシリ2世(紀元前1322年 - 紀元前1285年)
ムワタリ2世(紀元前1285年 - 紀元前1273年)
ムルシリ3世(紀元前1273年 - 紀元前1266年)
ハットゥシリ3世(紀元前1266年 - 紀元前1236年)
トゥドハリヤ4世(紀元前1236年 - 紀元前1220年) クルンタ(?)

アルヌワンダ3世(紀元前1220年 - 紀元前1218年)
シュッピルリウマ2世(紀元前1218年 - 紀元前1200年)

后妃[編集]

詳細は「タワナアンナ」を参照

遺跡[編集]





ハットゥシャ遺跡ボアズキョイのハットゥシャ遺跡 ヤズルカヤ(英語版)の神殿

アラジャホユック(英語版)のスフィンクス門
カマン・カレホユック(英語版)遺跡 日本の財団法人中近東文化センターが30年にわたり発掘調査を続けている。

インドラ

インドラ(梵: इंद्र、इन्द्र)はバラモン教、ヒンドゥー教の神の名称である。雷を操る雷霆神である。ディヤウスとプリティヴィーの息子。漢訳では帝釈天とされ仏教に取り入れられる。特に『リグ・ヴェーダ』においてはヴァーユとともに中心的な神であり、また、『ラーマーヤナ』には天空の神として出てくる。ゾロアスター教では魔王とされる。絵の通りインドラは茶褐色の皮膚、一面四臂で、二本の槍を手にしている。アイラーヴァタという聖獣の象に乗る。

ルーツは古く、紀元前14世紀のヒッタイト条文の中にも名前があることから、小アジアやメソポタミアなどでも信仰されていた神だったことが確認されている。茶褐色の天と地を満たすほどの巨躯で、髪や髭は赤く、豪放磊落な性格。千年間母親の胎内に宿っていたが、生まれてすぐに他の神々からの嫉妬を恐れた母に捨てられ、更に父からは敵意を向けられていた。彼は一人旅に出て、ヴィシュヌからの友情を得るまで世界を放浪した。好色が祟り、ガウタマ聖仙の妻アハリヤーを誘惑して呪いを受けるような失敗もする。後にティロッタマーとの出会いにより全身に千の目を持つ。神酒ソーマを好み、強大な力を発揮する武器・ヴァジュラ(金剛杵)を持つ。配下は暴風神マルト神群。戦う相手は、人々を苦しめる凶暴にして尊大な魔竜ヴリトラなどである。別名ヴリトラハンはヴリトラ殺しに由来する。またトヴァシュトリ神の生み出した3つの頭を持つ怪物・ヴィスヴァルパや、ヴァラ(洞窟)、ナムチ、ヴィローチャナ、メーガナーダといったアスラ族やラークシャサ族と戦う。

しかし、全戦全勝の将というには程遠い。例えばアスラ王マハーバリには敗北し、インドラは天界追放の憂き目にあっている。ヴィシュヌ(ヴァーマナ)の力を借りて取り戻すも、またもアスラ王マヒシャースラに破れ天界を追放されている。この時は女神ドゥルガーがマヒシャースラを殺したおかげでインドラらは天界に戻った。インドラはラークシャサ族ラーヴァナ王の子メーガナーダにも負け、メーガナーダには「インドラジット」(インドラに打ち勝つものという意味)を名乗られる屈辱まで味わっている。「ヴリトラハン」とは言うもののヴリトラにも当初は敗北し、なんと神々の世界の半分をヴリトラへ分け与えることで一旦は和睦し、その後不意打ちによってインドラはヴリトラに勝利したにすぎない[1]。

それでも最初の神々への讃歌集『リグ・ヴェーダ』においては最も多くの讃歌が捧げられ、全体の約4分の1を占めるほどの人気のある神であったが、時代を経るに従い、徐々に人気を失った。しかし、その後の神話世界でも、神々の王である彼の権威は保持されており、神都アマーラヴァティーのナンダナの園で天女たちに囲まれている。アスラ神族から強奪し、陵辱までしたシャチーという神妃との間には息子もあり、御者マータリの操る戦車に乗って出陣する。またインドラの武器ヴァジュラは、依然として雷を象徴する威力ある武器と考えられている。

マハーバーラタ等で表現されている英雄たちの超兵器の一つが「インドラの炎」「インドラの矢」等という名で呼ばれている。太古のインドでインドラが、アスラ族またはラークシャサ(羅刹)の王ラーヴァナの大軍を一撃で死滅させたという。



目次 [非表示]
1 ヒンドゥー教の時代
2 ゾロアスター教のインドラ
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目


ヒンドゥー教の時代[編集]

リグ・ヴェーダの時代には神々の中心とも言える絶大な人気を誇ったインドラも、時代が下り、ヒンドゥー教が成立した時代になれば影が薄くなる。変わらず重要な立場にある神であることは間違いないが、神々の中心の座はシヴァやヴィシュヌなどに譲ってしまい、代わって世界を守護するローカパーラ(世界守護神)の地位に落ち着いている。

四方にそれぞれ神が配置され、インドラはその中でももっとも重要とされる東方の守護神の地位に位置づけられた。




ゾロアスター教のインドラ[編集]


ゾロアスター教

Naqsh i Rustam. Investiture d'Ardashir 1.jpg

基本教義

ゾロアスター教

神々



アフラ・マズダー
スプンタ・マンユ
ヤザタ、ミスラ
スラオシャ、ラシュヌ
ズルワーン
アナーヒター
ウルスラグナ
フラワシ
ジャムシード
ダエーワ
アンラ・マンユ
ジャヒー
アジ・ダハーカ
ザッハーク
アエーシュマ
サルワ
インドラ



聖典

アヴェスター

文学

シャー・ナーメ

人物



ザラスシュトラ
カルティール
アルダシール1世
バハラーム1世



その他


パールシー
ナオジョテ
沈黙の塔



表・話・編・歴


インドではデーヴァが善神でアスラが悪神だが、イランではダエーワが悪神で、アフラ・マズダーが善神と入れ替わっている。ゆえに、インドのデーヴァ(神々)が悪神として登場しており、インドラも魔王の一人となっている。ヴェンディダードとは除魔書という意味である。

「ヴェンディダード」の7大魔王
アカ・マナフ
ドゥルジ
サウルワ
タローマティ
タウルウィー
ザイリチャー
アンラ・マンユ

あるいは
ナース
インドラ
サウルワ
ノーンハスヤ
タウルウィー
ザイリチャー
アンリ・マンユ

その他、アエーシュマ、アカタシュ、ワルニヤ を指す。「ブンダヒシュン」ではアフレマンが、
アコマン(アカ・マナフ)
アンダル(インドラ)
ソウァル(サウルワ)
ナカヘド(ノーンハスヤ)
タイレウ(タウルウィー)
ザイリク(ザイリチャー)

を創造したとしている。オフルマズドのアムシャ・スプンタに神性が対応しており敗れることになっている。ここではインドラは、文字通り帝釈天のインドラ、サウルワはルドラ神の異称シャルヴァ、ノーンハスヤはナサーティヤのことである。悪魔アンダルはインドラの別名である。

脚注[編集]
1.^ この時、ヴリトラの妻として送り込んだラムバーがヴリトラを酩酊状態にし、喉貫き殺した。もうひとつの説話パターンはヴリトラに勝負を挑むも勝てない。そこで昼も夜も攻撃しないこと、木、鉄、石でできた武器で攻撃しないことを条件に和睦し、そこで黄昏時に泡でヴリトラを殺したという。詳細はヴリトラの項を参照の事。

参考文献[編集]
ヴェロニカ・イオンズ著、酒井傳六訳「インド神話」青土社、1990.
マッソン・ウルセル、ルイーズ・モラン著、美田稔訳「インドの神話」みすず書房、1975.

カーマ (ヒンドゥー教)

カーマ(Kāmadeva, 梵: कामदेव)は、ヒンドゥー教における愛の神である。カーマは元来「愛」の意で、マンマタ、カンダルパ、マーラなどとも呼ばれる。

ダルマ(正義)とスラッダ(信仰)の息子だが、ブラフマーの息子とする説もある。ラティ(快楽)、プリーティ(喜び)を妃とし、ヴァサンタ(春)を親友とする。美男子であり、オウムに乗り、海獣マカラを旗標とし、サトウキビの弓と、5本の花の矢を持つ。ギリシア神話のエロース(クピードー)に相当し、妃のラティや親友ヴァサンタを伴って相手に近づき、その矢で射られた者は恋情を引き起こされる。苦行者の邪魔をすることもあり、それが原因でシヴァ神に焼き殺された。



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1 神話 1.1 『クマーラ・サンバヴァ』
1.2 『バーガヴァタ・プラーナ』

2 カーマ神の別名
3 カーマ神の供養
4 関連項目


神話[編集]





シヴァに向け愛の矢を放とうとするカーマ
『クマーラ・サンバヴァ』[編集]

神々がターラカという悪魔に悩まされていたとき、ターラカを倒せるのはシヴァ神とパールヴァティーの子(軍神スカンダのこと)とされていたが、苦行に没頭していたシヴァはパールヴァティーに全く興味がなかった。そこでシヴァの関心をパールヴァティーに向けさせようとして、神々はシヴァのもとにカーマを派遣した。瞑想するシヴァはカーマの矢によって一瞬心を乱されたが、すぐに原因を悟り、怒って第三の眼から炎を発しカーマを灰にしてしまった。カーマのアナンガ(身体無き者)という別名はこれに由来するとされる。悲しむラティに天から声が聞こえてきて、シヴァがパールヴァティーを受け入れるとき、シヴァはカーマに肉体を返すだろうと予言をする(カーリダーサ『クマーラ・サンバヴァ』)。


『バーガヴァタ・プラーナ』[編集]

『バーガヴァタ・プラーナ』によれば、後にカーマはクリシュナとルクミニーの子プラデュムナとして再生する。悪魔シャンバラはプラデュムナに殺されるという予言のために、赤子をさらって海に捨てると、赤子は魚に喰われるが、漁師がその魚を捕らえてシャンバラに献じ、料理人がその腹を割くと赤子は無事であった。そこでシャンバラはそれとは知らずに給仕女(あるいは妻)マーヤーヴァティーに渡すと、彼女はその子を育てたが、マーヤーヴァティーは実はカーマの前世の妃ラティであり、かくして二人は再会を果たした。やがてプラデュムナは長じて悪魔シャンバラを殺し、マーヤーヴァティーをともなってクリシュナのもとに凱旋した。

カーマ神の別名[編集]

カーマの別名マーラは仏陀の修行の邪魔をした障害の魔王の名としても知られる。
アナンガ(Ananga) - 身体無き者。通俗語源解釈。
マーラ(Mara) - 破壊者。
アビルー(Abhirupa) - 美しい姿をした者。
マナシジャ(Manasija) - 心に生じる者。
アサマバーナ(Asamabana) - 奇数の矢を持つ者。5本の矢を持つことから。
シュリンガーラヨーニ(Shringarayoni) - 愛の根源。
プシュパダヌス(Pushpadhanus)- 矢を弓で飾る者。

など。

カーマ神の供養[編集]

カーマを供養する祭は、春のチャイトラ月(3月中旬〜4月中旬)に行われる。

ラクシュミー

ラクシュミー(लक्ष्मी,Lakshmi,Laxmi)は、ヒンドゥー教の女神の一柱で、美と豊穣と幸運を司る。乳海攪拌の際に誕生した。ヒンドゥー教の最高神の1人ヴィシュヌの妻とされており、数多くあるヴィシュヌの化身と共に、ラクシュミーも対応する姿・別名を持っている。幸運を司るため、移り気な性格であるともいわれる。蓮華の目と蓮華の色をした肌を持ち、蓮華の衣を纏っている。ラクシュミーが誕生した時、アスラ達が彼女を手に入れようとしたが、失敗に終わった。あるアスラは彼女を捕まえる事に成功し頭の上に乗せたが、その途端に逃げられた。かつてはインドラと共にいたこともあったが、インドラでさえラクシュミーを自分の元に留めておく為には、彼女を4つの部分に分けなければならなかったという。

10月末から11月初めのインド暦の第七番目の月の初めの日「ディーワーリー」(दीवाली, Diwali/またはサンスクリット:दीपावली, Deepawali)はラクシュミーを祝うお祭りである。

なおラクシュミーはアラクシュミー (en:Alakshmi) という不幸を司る女神を姉に持つともされ、ヴィシュヌの妻になる際に「私があなたの妻になる条件として姉にも配偶者を付けるように」とヴィシュヌに請願し、ある聖仙(リシ)とアラクシュミーを結婚させ、晴れてヴィシュヌとラクシュミーは一緒になったという神話も一方で残っている。

仏教にも取り込まれて吉祥天と呼ばれている。福徳安楽を恵み仏法を護持する天女とされる。また弁才天(サラスヴァティー)と混同される場合がある。

別名[編集]
シュリー(श्री, Srī) - 吉祥。
パドマーヴァティー(पद्मावती, Padmāvatī) - 蓮を持つ女性。
チャンチャラー - 移り気。

パールヴァティー

パールヴァティー(पार्वती Pārvatī)は、ヒンドゥー教の女神の一柱で、その名は「山の娘」を意味する。シヴァ神の神妃。ヒマラヤ山脈の山神ヒマヴァットの娘で、ガンジス川の女神であるガンガーの姉に当たる。軍神スカンダや、学問の神ガネーシャの母。シヴァの最初の妻サティーの転生とされ、穏やかで心優しい、美しい女神といわれる。金色の肌を持つ。ウマー、ガウリー、チャンディー、アンビカーなど別名が多い。





シヴァを中央に、右にパールヴァティー、左にガネーシャ、右端にスカンダ
彼女の肌は金色ではなく元々は黒色だったが、それをシヴァに非難された事を恥じた彼女が森にこもって苦行を始めた為、それを哀れんだブラフマーが彼女の肌を金色に変えた。なお、この時の彼女の黒い肌がカーリーになったとする説もある。

後にドゥルガーやカーリーとも同一視され、パールヴァティーの変身した姿、あるいは一側面とされた。タントラ教においては、シヴァのシャクティであるとされ、シヴァとともにアルダーナリシュヴァラを形成する。仏教名(漢訳名)は波羅和底、烏摩妃、雪冰天女。

仏教では夫のシヴァ(大自在天)と共に降三世明王に踏みつけられている。

クリシュナ

クリシュナ K天(デーヴァナーガリー:कृष्ण Kṛiṣṇa)は、インド神話に登場する英雄で、ヒンドゥー教におけるヴィシュヌ神の第8の化身(アヴァターラ)である。



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1 概要
2 文学的起源 2.1 クリシュナ物語
2.2 アルジュナとの友情
2.3 クリシュナの最期

3 脚注
4 参考文献
5 関連項目 5.1 クリシュナの名を持つ人物

6 外部リンク


概要[編集]

ヴィシュヌに匹敵するほどの人気があり、ゴウディヤ・ヴァイシュナヴァ派では最高神に位置づけられ、他の全ての化身の起源とみなされている。

古来よりインド絵画、神像の題材となっており、その名はサンスクリットで意味は「すべてを魅了する方」「黒」を示し、青黒い肌の男性として描かれる。 クリシュナには別名があまたあり、広く知られている呼称はゴパーラ(Gopala、牛飼い)、ゴーヴィンダ(Govinda、牛と喜びの保護者)、ハリ(Hari、奪う者)、ジャガンナータ(Jagannatha、宇宙の支配者)、マーダヴァ(Madhava、春を運ぶ者)、ダーモーダラ(Damodra、腹に紐をかけた者)、ウーペンドラ(Upendra、インドラ神の弟)などがある。

約16000人もの妃がいたことで知られる[1]が、聖典を詳しく読めば、クリシュナが分身して、それぞれの妃を満足させたと書かれている。[要検証 – ノート]

文学的起源[編集]

クリシュナの行動を記録する最も初期の媒体は叙事詩『マハーバーラタ』である。この中でクリシュナは、ヤドゥ族の長ヴァスディーヴァの息子。バララーマの弟。ヴィシュヌの化身として主要人物の一人として登場する。その中の『バガヴァッド・ギーター』では主人公アルジュナの導き手として登場する。また『バーガヴァタ・プラーナ』ではクリシュナ伝説が集成されている。有名な愛人ラーダーとの恋については詩集『サッタサイー』が初出であり、ジャヤデーヴァの『ギータ・ゴーヴィンダ』はインド文学史上特に有名である。

クリシュナにまつわる物語は数多い。幼児期や青春期の恋愛物語の主人公、英雄の導き手としてなどその立場は多種多様だが、根幹部分の設定は変わらない。インドでのクリシュナ人気は、非ヒンドゥー教の様々な逸話を吸収したことが大きい。

クリシュナ物語[編集]

ヤーダヴァ族(英語版)の王カンサ(英語版)は多くの悪行を働いていた。神々は対策を協議し、ヴィシュヌがカンサの妹(姪とも)デーヴァキーの胎内に宿り、クリシュナとして誕生するよう定めた。ある時カンサはデーヴァキーとその夫のヴァスデーヴァを乗せた馬車の御者を務めていた。都への途上、どこからか「デーヴァキーの8番目の子がカンサを殺す」という声が聞こえた。恐れをなしたカンサはヴァスデーヴァとデーヴァキーを牢に閉じ込め、そこで生まれてくる息子達を次々と殺した。デーヴァキーは7番目の子バララーマ(英語版)と8番目のクリシュナが生まれると直ちに、ヤムナー河のほとりに住む牛飼いのナンダ(英語版)の娘(同日に生まれた)とすり替え、2人をゴークラ(英語版)の町に逃がして牛飼いに預けた[2]。

クリシュナは幼い時からその腕白さと怪力を発揮し、ミルクの壷を割った為に継母のアショーダー(英語版)に大きな石臼に縛られた際にはその臼を引きずって2本の大木の間にすり寄り、その大木を倒した。また、ヤムナー河に住む竜王のカーリヤが悪事をなしたことからこれを追い払った。インドラの祭祀の準備をする牛飼い達に家畜や山岳を祭る事を勧めた際は、これに怒ったインドラが大雨を降らせたが、クリシュナはゴーヴァルダナ山(英語版)を引き抜いて1本の指に乗せ、牛飼い達を雨から守った。成長したクリシュナは牛飼いの女性達の人気を集めたが、彼はその1人ラーダーを愛した[2]。

一方カンサはクリシュナが生きている事を知り、すぐさま配下のアスラ達を刺客として送り込むが、悉く返り討ちにされた。そこでカンサはクリシュナとバララーマをマトゥラーの都へ呼び寄せて殺害を謀るもクリシュナに斃された[2]。クリシュナの武器はヴィシュヌ神のスダルシャ・チャクラ(円盤)である[3]

アルジュナとの友情[編集]

アルジュナが兄弟との共通の妻であるドラウパディーとの結婚に際しての規定を破ったので、12年間の巡礼に出て、旅も終わりに近づいた頃、プラバーサでクリシュナと会う[4]。アルジュナの兄弟がドゥルヨーダナの兄弟と決戦を行う時、アルジュナは非戦闘員としてのクリシュナを選び、ドゥルヨーダナはクリシュナの強力な軍隊を選んだ[5]。そうして決戦は始まったがアルジュナは同族の戦いの意義について疑念を抱き、戦意を喪失した。この時、クリシュナがアルジュナを鼓舞するために説いたヨーガの秘説が『バガヴァッド・ギーター(神の歌)』である[6]。アルジュナは、神弓ガンディーヴァを用い、クリシュナの軍略も用いて勝利を収めた。

クリシュナの最期[編集]

無敵を誇ったクリシュナだが、ジャラという猟師が誤って射た矢に、急所である足の裏を撃たれて非業の最期をとげる[7]。

脚注[編集]

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1.^ 『インドの神話』100頁(クリシュナ物語)。
2.^ a b c 『インドの神話』96-99頁(クリシュナ物語)。
3.^ 山際(1991)第1巻、373頁。クリシュナはソーマ神から円盤を受け取っている(山際(1991)第1巻、283頁)。クリシュナは心の中で想起した円盤を手にして敵の首を切り落とす(山際(1991)第1巻、333頁)。
4.^ 上村(1993)10頁。
5.^ 上村(1993)14頁。
6.^ 上村(1993)15頁。
7.^ 上村(2003)325頁。なお、聖仙ドゥルヴァーサがクリシュナに不死性を授けた時、クリシュナ自らが願って足の裏だけを濡らさなかったのが遠因である(山際(1998)第9巻、143頁)。

参考文献[編集]
田中於菟彌『インドの神話 今も生きている神々』筑摩書房〈世界の神話6〉、1982年、ISBN 978-4-480-32906-6。
上村勝彦『バガヴァッド・ギーター 第3刷』 岩波書店、1993年、東京
上村勝彦『原典訳 マハーバーラタ1巻-8巻』筑摩書房、2002年-2005年、東京
上村勝彦『インド神話 マハーバーラタの神々』筑摩書房、2003年、東京
山際素男『マハーバーラタ 1巻-9巻』三一書房、1991年-1998年、東京

関連項目[編集]





クリシュナとその恋人ラーダー。ヴィシュヌ
アヴァターラ
マハーバーラタ
バガヴァッド・ギーター
アルジュナ
マトゥラー - クリシュナの生地とされるインド北部の町。ヒンドゥー教7大聖地の1つ。

クリシュナの名を持つ人物[編集]
クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ
ラーマクリシュナ
ジッドゥ・クリシュナムルティ
ゴーピ・クリシュナ
ラーマクリシュナーナンダ

金剛杵

金剛杵(こんごうしょ)、梵名:ヴァジュラ、ヴァジラ(वज्र vajra)は、密教やチベット仏教における法具である。

仏の教えが煩悩を滅ぼして菩提心(悟りを求める心)を表す様を、インド神話上の武器に譬えて法具としたものである。



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1 形状
2 神話
3 日本
4 金剛杵を執る主な諸天
5 金剛杵の種類
6 ギャラリー
7 脚注
8 参考文献


形状[編集]

基本的な形は棒状で、中央に柄があり、その上下に槍状の刃が付いている。刃の数や形によっていくつかのバリエーションがあり、それぞれ固有の名称をもつ。

神話[編集]

インド神話では、ヴァジュラはインドラ(帝釈天)の武器である。「金剛杵」の漢名どおり、金剛(非常に硬い金属、もしくはダイヤモンド)でできており、雷を操る。

神話は金剛杵(ヴァジュラ)の由来を次のように説く:



インドラ(帝釈天)は、ヴリトラ(蛇の形をした悪魔の首領)を倒すため、ブラフマー(梵天)に相談した。ブラフマー(梵天)は、「ダディーチャという偉大な聖仙に骨を下さいと頼めば、彼(ダディーチャ)は身を捨てて、自分の骨をくれるから、その骨でヴァジュラ(金剛杵)を造れ。速やかに実行せよ。」と述べた。インドラは、ダディーチャの隠棲処でそのように頼んだところ、太陽のごとく輝くダディーチャは、「お役に立ちましょう。身を捨てます。」と述べて息をひきとった。インドラたち神々はダディーチャの骨を取り出し、トゥヴァシュトリ(工巧神)を呼んで目的を告げた。トゥヴァシュトリ(工巧神)は一心不乱に仕事に励みヴァジュラ(金剛杵)を造り上げた。インドラはそのヴァジュラ(金剛杵)をつかんでヴリトラ(蛇の形をした悪魔の首領)を粉砕した。

− 『マハーバーラタ』[1]

日本[編集]

日本には奈良時代から平安時代にかけて中国から伝わったと考えられる。護摩など密教の儀式において用いられ、祭壇に置かれている。古くは輸入して用いられていたが、平安時代以降は国産の物が増え、今日日本の寺院において輸入品が用いられることはほとんどない。

金剛杵を執る主な諸天[編集]
帝釈天(インドラ)
執金剛神(ヴァジュラパーニ)
金剛力士(ヴァジュラダラ、仁王)
伐折羅大将(ヴァジュラ、十二神将の一)
金剛夜叉明王

金剛杵の種類[編集]

ウィキメディア・コモンズには、金剛杵に関連するカテゴリがあります。
独鈷杵(とっこしょ、どっこしょ)槍状の刃が柄の上下に一つずつ付いたもの。三鈷杵(さんこしょ)刃がフォークのように三本に分かれたもの。五鈷杵(ごこしょ)中央の刃の周囲に四本の刃を付けたもの。七鈷杵(ななこしょ)中央の刃の周囲に六本の刃を付けたもの。九鈷杵(きゅうこしょ、くこしょ)中央の刃の周囲に八本の刃を付けたもの。宝珠杵(ほうじゅしょ)柄の上下に刃ではなく如意宝珠を付けたもの。宝塔杵(ほうとうしょ)柄の上下に刃ではなく宝塔を付けたもの。鬼面金剛杵柄に鬼の顔の飾りがついたもの。

ハヌマーン

ハヌマーン(हनुमान् Hanumān)は、インド神話におけるヴァナラ(猿族)の1人。風神ヴァーユの化身であり、ヴァーユが猿王ケーシャーリーの妻(アプサラスとする説もある)アンジャナーとの間にもうけた子とされる。ハヌマット(हनुमत् Hanumat)、ハヌマン、アンジャネーヤ(アンジャナーの息子)とも。名前は「顎骨を持つ者」の意。変幻自在の体はその大きさや姿を自在に変えられ、空も飛ぶ事ができる。大柄で顔は赤く、長い尻尾を持ち雷鳴のような咆哮を放つとされる。像などでは四つの猿の顔と一つの人間の顔を持つ五面十臂の姿で表されることも。

顎が変形した顔で描かれる事が多いが、一説には果物と間違えて太陽を持ってこようとして天へ上ったが、インドラのヴァジュラで顎を砕かれ、そのまま転落死した。ヴァーユは激怒して風を吹かせるのを止め、多くの人間・動物が死んだが、最終的に他の神々がヴァーユに許しを乞うた為、ヴァーユはハヌマーンに不死と決して打ち破られない強さ、叡智を与えることを要求した。神々はそれを拒むことができず、それによりハヌマーンが以前以上の力を持って復活した為にヴァーユも機嫌を良くし、再び世界に風を吹かせた。



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1 ラーマーヤナでの記述
2 現在の民間信仰
3 関連項目
4 出典


ラーマーヤナでの記述[編集]

ヒンドゥー教の聖典ともなっている叙事詩『ラーマーヤナ』では、ハヌマーンは猿王スグリーヴァが兄ヴァーリンによって王都キシュキンダーを追われた際、スグリーヴァに付き従い、後にヴィシュヌ神の化身であるラーマ王子とラクシュマナに助けを請う。ラーマが約束通りにヴァーリンを倒してスグリーヴァの王位を回復した後、今度はラーマ王子の願いでその妃シータの捜索に参加する。そしてラークシャサ(仏教での羅刹)王ラーヴァナの居城、海を越えたランカー(島の意味。セイロン島とされる)にシータを見出し、ラーマに知らせる。それ以外にも単身あるいは猿族を率いて幾度もラーマを助けたとされており、その中でも最も優れた戦士、弁舌家とされている。

現在の民間信仰[編集]

今でも民間信仰の対象として人気が高く、インドの人里に広く見られるサルの一種、ハヌマンラングールはこのハヌマーン神の眷属とされてヒンドゥー教寺院において手厚く保護されている。中国に伝わり、『西遊記』の登場人物である斉天大聖孫悟空のモデルになったとの説もある[1]。

福音館書店より『おひさまをほしがったハヌマン』として童話化されている[2]。

サラスヴァティー

サラスヴァティー(サラスヴァティー、サンスクリット:सरस्वती)は、芸術、学問などの知を司るヒンドゥー教の女神である。日本では七福神の一柱、弁才天(弁財天)として親しまれており、仏教伝来時に金光明経を通じて中国から伝えられた。4本の腕を持ち、2本の腕には、数珠とヴェーダ、もう1組の腕にヴィーナと呼ばれる琵琶に似た弦楽器を持ち、白鳥またはクジャクの上、あるいは蓮華の上に座る姿として描かれる。白鳥・クジャクはサラスヴァティーの乗り物である。

サラスヴァティーは水辺に描かれる。サンスクリットでサラスヴァティーとは水(湖)を持つものの意であり、水と豊穣の女神であるともされている。インドの最も古い聖典『リグ・ヴェーダ』において、初めは聖なる川、サラスヴァティー川(その実体については諸説ある)の化身であった。流れる川が転じて、流れるもの全て(言葉・弁舌や知識、音楽など)の女神となった。言葉の神、ヴァーチと同一視され、サンスクリットとそれを書き記すためのデーヴァナーガリー文字を創造したとされる。後には、韻律・讃歌の女神、ガーヤトリーと同一視されることになった。

ヒンドゥー教の創造の神ブラフマーの妻(配偶神)である。そもそもはブラフマーが自らの体からサラスヴァティーを造り出したが、そのあまりの美しさのため妻に娶ろうとした。逃れるサラスヴァティーを常に見ようとしたブラフマーは自らの前後左右の四方に顔を作りだした。さらに、その上に5つ目の顔(後にシヴァに切り落とされる)ができた時、その求婚から逃れられないと観念したサラスヴァティーは、ブラフマーと結婚し、その間に人類の始祖マヌが誕生した。また、元々はヴィシュヌの妻であり、後にブラフマーの妻になったという異説もある。

サラスヴァティーはゾロアスター教のアナーヒターと同起源と推定される。アナーヒターには、ハラフワティー・アルドウィー・スーラー(Harahvatī Arədvī Sūrā)という別名があり、ハラフワティーは言語学的にはサラスヴァティーのペルシア語読みとされるためである。これは偶然の一致ではなく、インド・イラン共通時代から信仰されていた女神が民族の分裂とともに2つに分かれたものではないかとされている。

ホットスポット (地学)

ホットスポット(hotspot)とは、プレート(リソスフェア)より下のアセノスフェアに生成源があると推定されるマグマが生成されて火山活動が起こる場所をいう。マントル本体ものその上昇流であるプリュームも固体である。マントル上昇によって温度を保ったまま圧力が減少するので、マントルの部分的に溶融が起こり、マグマが発生する。溶融量は通常10%未満である。

1990年代まではほとんど位置を変えることはないと考えられていたが、J・A・タルドゥーノらの天皇海山列に関する研究によりハワイ・ホットスポットが約8000万年前から5000万年前の間に、南に約1700q移動した可能性が指摘された[1][2] 。

以下の記述は、ホットスポットが不動点であることを前提としている。



目次 [非表示]
1 ホットスポットの成因
2 ホットスポットの地球科学上の意味
3 現在ホットスポットが所在する主な場所 3.1 アメリカ
3.2 太平洋
3.3 インド洋
3.4 アフリカ
3.5 大西洋
3.6 南極

4 ホットスポットの種類及び形状
5 脚注
6 関連項目
7 参考文献


ホットスポットの成因[編集]





プリュームテクトニクスとハワイ型及びタヒチ型ホットスポット
ホットスポットの成因を簡単に述べると、プリュームテクトニクスでいうところのホットプリュームの先端が、プレートを突き破って現れた火山ないしそれに類する地形ということができる。

すなわち、海洋プレートが海溝でマントル内へと沈み込み、その先端は徐々に深度を増していく。しかし、深度660km付近で、マントルはペロブスカイト相に遷移しており、密度が高くなっているため、プレートはそれ以上沈み込みづらく、ここで一時滞留し、スラブとなる[3]。滞留しているうちに、スラブ内の圧力も上昇して相転移が進み、密度が上がると、スラブは分裂し「メガリス」となって下部マントル内に沈んでいく。

メガリスが周辺のマントルを冷却する(コールドプリューム)とともに対流を起こすことになり、その反動としてホットプリュームが発生する。ホットプリュームの先端がプレートの弱い部分を突き破って火山となる。すなわちホットスポット自身はプレートの動きとは直接関係がなく、マントル内部の動きが地上に現れたものといえる。

ホットスポットの地球科学上の意味[編集]





北太平洋の海底地形。ハワイ諸島及び天皇海山群の並ぶ様子がよくわかる
ホットスポットの地球科学上の意味は、マントル内部のプリュームテクトニクスが地表に顔を出したものであるほかに、プレート運動の証言者という意味がある。

ホットスポットの典型例として挙げられるのは、ハワイ諸島及び天皇海山群である。ハワイ諸島及び天皇海山群は、アリューシャン列島とカムチャツカ半島の付け根部分からハワイ諸島まで「く」の字を横倒しにしたように並ぶ古い海底火山(海山)と火山島の列であるが、北端では7000万年前、海山列の折れ曲がる北緯40度付近では、4200万年前であることが判明している。つまり北から順に古い海底火山(海山)と火山島が並んでいることが証明された。このように岩石の年代からホットスポットの軌跡が描かれていると考えられる場所は、世界で20ヶ所ほどあると考えられている。Minsterは、それらのホットスポットの軌跡のある場所がプレートの動く方向と一致しているか検証したところ、ほぼ一致するという結果が得られたばかりか、太平洋プレート、ココスプレート、ナスカプレート、インドプレートの動きが他のプレートの動きよりも早いことまで判明した(Minster et.al., 1974)。反面同時に、ハワイ諸島及び天皇海山群がホットスポットによって生成された海底火山が火山島となり、プレートの移動によって活動をやめ、ベルトコンベアーに載せられたように順次北西方向に連なる海山となって海底に眠っていることも証明された。

現在ホットスポットが所在する主な場所[編集]





世界の主なホットスポットの位置
ホットスポットの発生は、大陸の移動には影響されないが、ホットスポットがプレート内部で多く発生することによって、大陸移動の契機になりうると考えられている。つまり、ホットスポットができるとプレートに放射状に3方向へ割れ目ができるが、そのようなホットスポットが多数あることによって割れ目同士がつながり、中央海嶺の成因になるということである。実際、現在の大西洋中央海嶺はホットスポットと重複している場所が多く確認されており、アフリカの大地溝帯もアフリカスーパープリュームの地表部分をなすホットスポットであり、巨大な割れ目となって大陸が分裂し、将来的に中央海嶺が形成されるだろうと考えられている。

アメリカ[編集]
イエローストーン(イエローストーン・ホットスポット(英語版))
Anahim Volcanic Belt(Anahim hotspot)
Mackenzie dike swarm(Mackenzie hotspot)
Great Meteor hotspot track(en:New England hotspot)

太平洋[編集]
ハワイ諸島=天皇海山群(ハワイ・ホットスポット)
Kodiak–Bowie Seamount chain(Bowie Seamount)
Cobb–Eickelberg Seamount chain(Cobb hotspot)
オントンジャワ海台(ルイビル・ホットスポット(英語版))
タヒチ島及びその付近(ソサエティー・ホットスポット(英語版))
ガラパゴス諸島(ガラパゴス・ホットスポット(英語版))
カロリン諸島(カロリン・ホットスポット(英語版))(太平洋、マリアナ諸島の南方、ニューギニア島の北方)
イースター島(イースター・ホットスポット(英語版))(トゥアモトゥ諸島、ライン諸島)
マルケサス諸島(マルケサス・ホットスポット(英語版))(南太平洋、タヒチの北東)
サモア(サモア・ホットスポット(英語版))(南太平洋)
Austral Islands=ギルバート諸島=マーシャル諸島(Macdonald hotspot)
Juan Fernández Ridge(en:Juan Fernández hotspot)

インド洋[編集]
Mascarene Plateau=Chagos-Laccadive Ridge(レユニオン・ホットスポット(英語版))(インド洋、マダガスカルの東方レユニオン島)
東経90度海嶺(Kerguelen hotspot)

アフリカ[編集]
アフリカ大地溝帯
St. Helena Seamount chain=カメルーン火山列(下記3地域に関してはカメルーン火山列を参照) ビオコ島(赤道ギニア)
サントメ・プリンシペ
アンノボン島(赤道ギニア)


大西洋[編集]
アイスランド(アイスランド・ホットスポット)(大西洋中央海嶺と重複)
アゾレス諸島(アゾレス・ホットスポット(英語版))(同上)
アセンション島(アセンション・ホットスポット)(同上)
Walvis Ridge及びトリスタン=ダ=クーニャ諸島(トリスタン・ホットスポット(英語版))(大西洋中央海嶺の東方、南緯38度)
カナリア諸島(カナリア・ホットスポット(英語版))(大西洋、モロッコの西方の海域)
カーボベルデ(カーボベルデ・ホットスポット(英語版))(大西洋、西アフリカ、セネガルの西方の海域)
セント・ヘレナ島(セント・ヘレナ・ホットスポット(英語版))(大西洋中央海嶺の東方、南緯15度)
en:New England Seamount chain(en:New England hotspot)

南極[編集]
エレバス山(エレバス・ホットスポット(英語版))(南極)

ホットスポットの種類及び形状[編集]





ホットスポットの形状
ホットスポットの種類は大きく分けて2種あると考えられる。地震波トモグラフィーの画像によって南太平洋の海底の下のマントルが非常に高温であることと、その高温域がハワイに枝状につながっていることが明らかになった。つまりタヒチは南太平洋の高温域である下部マントルのスーパープリュームが部分的に地表に直接的に現れた姿であり、ハワイはスーパープリュームの影響を受けつつ、上部マントルの第3次ホットプリュームが表出したものであると考えられるようになった。

このタヒチ型とハワイ型の違いは、地震波トモグラフィーの画像のほかに、双方の火山噴出物の違いからも明確である。ハワイで噴出する玄武岩は、地表からの深さ200kmよりも浅い海嶺玄武岩の元になる物質と、200kmよりも深い「始源的」ともいうべきマントルの物質の混合物であるが、タヒチのそれは、鉛の極端に少ない玄武岩で「始源的」なマントルの物質が吹き出したものである。タヒチの他にはセントヘレナが知られている。タヒチの噴出物である玄武岩に鉛が少ないのはプレートが沈み込む段階で鉛が失われるという説と、核に鉛が吸収されるという説があるが、実際にはその理由はわかっていない。

一方、ホットスポットには多様な形状がみられる。
ハワイ型;断続的にマグマのかたまりが吹き上げてくる。
東経90度海嶺型;東経90度海嶺は、インド洋、ベンガル湾の南方の海底にある。連続的にマグマが吹き上げてくる。
オントンジャワ型;オントンジャワ海台は、現在のニューギニア島の東方の海底で1億2千年前(中生代)に活動を行っていた海底火山の一種。スーパープリュームの先端部分がリソスフェアを突き破って、だらだらと大規模に溶岩を吹き出し、巨大な海台を形成する。オントンジャワの噴出規模は周辺の海台を合わせると8,000万m3に及び、これはデカン高原の200万m3の40倍もの規模である。
中部太平洋海山列型;プリュームが吹き上げる中で散在的に高温のマグマ部分があって、それが噴きあげて散在的に海底火山や海山、火山島を形成する。
ナウル海盆型;ハワイ型とオントンジャワ型の中間であり、オントンジャワほど大規模ではないが、プリュームが吹き上げる物質を数回に2〜3回にわたって多量に噴出する。

ホットスポット

ホットスポット、Hotspot

「hotspot ホットスポット」とは、局地的に何らかの値が高かったり、局地的に(何らかの活動が)活発であったりする地点・場所・地域のことを指さすための用語で、具体的には以下のような場所を指す。
犯罪が多発する地区、犯罪率が高い地区。 →ホットスポット (犯罪)
汚染物質が大気や海洋などに流出したときに、気象や海流の状態によって生じるとりわけ汚染物質の残留が多くなる地帯のこと。汚染物質の種類や流出理由は問わない。→ホットスポット (汚染物質)
地球内部のマントル対流の上昇部にあたるマグマを発生させていて、その上で火山が活動している地点[1][2]。→ホットスポット (地学)
非等方な光の反射モデルにおいて、反射率が最大になる箇所もしくは角度。→ホットスポット (光)
水循環システム中で自然浄化機能を有する場所。干潟や湿地など。→ホットスポット (水循環)
火薬類の内部で外部エネルギーが局所的に集中して温度が他の部分よりも高くなった場所。→ホットスポット (火薬学)
生物学者ノーマン・マイヤーズが提唱した生物多様性にかかわる生物学上の概念 →ホットスポット (生物多様性)
公衆無線LANが利用可能な場所のこと →公衆無線LAN NTTコミュニケーションズの公衆無線LANサービスの日本における商標 →ホットスポット (NTT)

コンピュータ言語のJavaの実装で採用されているJava仮想マシンおよびそれが持つ最適化技術→ HotSpot

デカン高原

デカン高原(デカンこうげん)は、インド半島の大部分を構成し西ガーツ山脈から東ガーツ山脈にいたる台地。マハーラーシュトラ州、カルナータカ州、アーンドラ・プラデーシュ州からなる。

デカン高原は大きな三角形をしており、北辺はヴィンディヤ山脈、東西端はそれぞれ東ガーツ山脈・西ガーツ山脈である。総面積は1,900万平方キロメートル、ほぼ平坦で標高は300-600メートルである[1]。

『デカン』の名称はサンスクリット語で『南』を意味するdakshina に由来する。



目次 [非表示]
1 概要
2 歴史
3 地理
4 地質
5 脚注


概要[編集]

高原は西から東に緩く傾斜しており、ゴーダヴァリー川・クリシュナ川・カヴェリ川・ナルマダ川などの河川がある。この高原は両ガーツ山脈の風下になるため半乾燥地帯である。植生は一部に落葉広葉樹林があるが、ほぼ全域を針葉低木林が覆う。夏の気候は暑く冬は暖かい。 地形の起源としてはデカントラップと呼ばれる白亜紀末期に噴出した洪水玄武岩で形成された溶岩台地であり、玄武岩の風化によりできたレグール土に覆われた肥沃な土地である。。綿花の世界的な産地である。雨量は少なく、貯水用の溜め池が点在する。

歴史[編集]

古来よりサータヴァーハナ朝(前1世紀頃-2世紀頃)、前期チャールキヤ朝(6-8世紀)、後期チャールキヤ朝(10世紀末-12世紀)、ラーシュトラクータ朝(8世紀末-10世紀末)、バフマニー朝(14世紀-16世紀初頭)、ムスリム5王国(15世紀末-17世紀末)、ムガル帝国(17世紀末-18世紀初頭)、マラーター同盟(17世紀後半-19世紀初頭)などの有力な王朝が興亡した。

地理[編集]





ホゲナカル滝




ハンピ付近
デカン高原はヒンドスタン平野の南に位置する。高い西ガーツ山脈が、南西モンスーンからの湿気がデカン高原に達するのを妨げるので、領域はほとんど降雨がない。東デカン高原はインドの南東の海岸に至る低高度地域にある。森林も相対的に乾燥しているが、内湾、そしてベンガル湾に至る川の流れを形成する、雨を蓄える働きをしている。

高原北部の大部分を、西ガーツ山脈を源流とするインドラヴァティ川を含むゴーダーヴァリ川とその支流が東に向かって流れ、ベンガル湾に注ぐ。トゥンガバドラー川、クリシュナ川、およびビーマ川を含むその支流(これらも、西から東へ流れる)が、高原の中心部を流れる。高原の最南の部分は、カルナタカの西ガーツ山脈を源流とするカーヴィリ川が流れ、ホゲナカル滝でニルギリを過ぎてタミル・ナードゥ州に向かって南に曲がる。シバサムドラムの島の町でシバサムドラム滝を形成して、スタンリー貯水池と貯水池を生成したメーットゥールダムを流れ、最終的にベンガル湾へ注ぐ。ベンガル湾に流れない2本の川が、ナルマダ川とタピ川である。これらは東ガーツ山脈を源流とし、アラビア海へ注ぐ。

ヒマラヤの川は融雪を源としており、年間を通して流れる。しかし、デカン高原の川は降雨に依存するため、夏には干上がる。

高原の気候は、極めて北部の地域の亜熱帯から、高原の大部分を占める雨季と乾季が分かれる熱帯へと変化に富んでいる。雨は6月頃から10月までの雨季からモンスーンの季節の間に降る。3月から6月は定期的に非常に乾燥し、気温が40度を超える場合がある。

地質[編集]

デカン高原を覆う巨大な玄武岩台地はデカントラップと呼ばれる6700-6500万年前の白亜紀の終わりにかけて起きたマグマ噴出で形成された。高原には鉱物組成の違う花崗岩もあり、大陸地殻内で生成したものだが、玄武岩は現在のインド洋レユニオン島付近にあったと推定されるホットスポットから、インド洋の海底拡大(インド亜大陸の北上)運動を生じたマントルの活動に伴って地表へ噴出したものである。

ガネーシャ

ガネーシャ(गणेश, gaNeza)は、ヒンドゥー教の神の一柱。その名はサンスクリットで「群衆(ガナ)の主(イーシャ)」を意味する。同じ意味でガナパティ(गणपति, gaNapati)とも呼ばれる。

また現代ヒンディー語では短母音の/a/が落ち、同じデーヴァナーガリー綴りでもガネーシュ、ガンパティ(ガンパチ)などと発音される。英語風に訛ればガーネッシュ(Ganesh)などともなる。

太鼓腹の人間の身体に 片方の牙の折れた象の頭をもった神で、4本の腕をもつ。障害を取り去り、また財産をもたらすと言われ、商業の神・学問の神とされる。インドのマハラシュトラ州を中心にデカン高原一帯で多く信仰されている。ガネーシャの像の中には杖を持っているものもおり、この杖は「アンクーシャ」と呼ばれている。



目次 [非表示]
1 概要 1.1 神名
1.2 功徳
1.3 シヴァ系

2 神話 2.1 象頭の由来
2.2 片方の折れた牙の由来

3 ガネーシャ・チャトゥルティ
4 マントラ
5 仏教圏での信仰 5.1 チベット仏教
5.2 上座部仏教
5.3 日本密教(台密・東密)

6 関連項目


概要[編集]

神名[編集]

ヴィナーヤカ(Vinayaka、無上)、ヴィグネーシュワラ(Vigneshwara、障害除去)、ガネーシャ(Ganesha、群集の長)、ガナパティ(Ganapati、群集の主)との神名を持つ。元来は障害神であったのが、あらゆる障害を司る故に障害を除去する善神へと変化した。ヒンドゥー教でよくみられるように複数の神名をもつのは複数の神格が統合されたためと考えられる。

功徳[編集]

あらゆる障碍を除くことから、新しい事業などを始めるにあたって信仰され、除災厄除・財運向上でも信仰を集めている。また智慧・学問の神でもあり、学生にも霊験豊かとされる。祈祷を始めとして、あらゆる開始にあたってまずガネーシャに祈りを捧げると良いとされる。

シヴァ系[編集]

ヒンドゥー教の体系の中では、シヴァとパールヴァティーの間に生まれた長男とされる。しかし、これはシヴァ系の宗教が独立したガネーシャ系の宗教を取り込んだ際の解釈だと思われる。現在でもガネーシャはシヴァ系のヒンドゥー教の一部である。

神話[編集]

象頭の由来[編集]

象の頭を持つ理由には複数の神話があるが、もっとも有名なものは以下のものである。

パールヴァティーが身体を洗って、その身体の汚れを集めて人形を作り命を吹き込んで自分の子供を生んだ。パールヴァティーの命令で、ガネーシャが浴室の見張りをしている際に、シヴァが帰還した。ガネーシャはそれを父、あるいは偉大な神シヴァとは知らず、入室を拒んだ。シヴァは激怒し、ガネーシャの首を切り落として遠くへ投げ捨てることになる。

パールヴァティーに会い、それが自分の子供だと知ったシヴァは、投げ捨てたガネーシャの頭を探しに西に向かって旅に出かけるが、見つけることができなかった。そこで旅の最初に出会った象の首を切り落として持ち帰り、ガネーシャの頭として取り付け復活させた。これが、ガネーシャが象の頭を持っている所以とされる。

他の説ではパールヴァティーとシヴァが夫婦でヴィシュヌに祈りを捧げてガネーシャを得、他の神々がそれを祝いに来たが、その内の一人・シャニは見た物を破壊する呪いをかけられていた為、常に下を向いていた。しかしパールヴァティーは彼に遠慮せずに息子を見るよう勧め、その結果ガネーシャの頭は破壊された。ヴィシュヌは悲しむパールヴァティーの為にガルダに乗って飛び立ち、川で寝ている象を見つけてその首をガネーシャの頭として取り付けた。

片方の折れた牙の由来[編集]

片方の牙が折れている理由には複数の神話があるが、もっとも有名なものは以下のものである。
父神シヴァの投げた斧を反撃しては不敬であるので、敢えて一本の牙で受け止めたために折れた。
籠で運ばれているときに振り落とされて頭から落ちて折れてしまった。
夜道で転倒した際にお腹の中の菓子(モーダカ)が飛び出て転げたのを月に嘲笑されたために、自らの牙を一本折ってそれを月に投げつけた。

ガネーシャ・チャトゥルティ[編集]

ヴェーダ暦のバドラパーダ月の4日(新月から4日目)に生誕したとされるので、これに合わせて生誕祭であるガネーシャ・チャトゥルティ/ヴィナーヤカ・チャトゥルティ(Ganesh Chaturthi/Vinayaka Chaturthi)が祝われる。10日間の祭りの間に障碍除去を祈念してガネーシャの像を祀り、最後にガネーシャの像を川や海に流すことで厄除を祈願する。

マントラ[編集]

最も有名なマントラは、以下のものである。
Aum Shri Ganesha Namah
Aum Gam Ganapati Namah

マントラを唱える前には、手足を清潔にしてから着座し、数回の調息を行ってから実施する。108回、もしくは念珠の1周分もしくはそれ以上の周回分を唱える。ガネーシャのマントラは、あらゆる悪・障碍・悪霊を退け、財産・智慧・成功をもたらすとされる。

仏教圏での信仰[編集]

チベット仏教[編集]

チベット仏教では、ガネーシャ(象頭財神)は大黒天(Mahakala)によって調伏された姿でも描かれるが、観世音菩薩を本地とする護法神としても信仰される。

上座部仏教[編集]

上座部仏教国のタイでも、ガネーシャは仏教徒に信仰されている。

日本密教(台密・東密)[編集]

天台宗・真言宗ではガネーシャを起源に持つ歓喜天(聖天)が天部の護法神として信仰される。

ブラフマー

ブラフマー(Brahmā, 梵: ब्रह्मा)は、インド神話、ヒンドゥー教の神。仏教名「梵天」

概要[編集]

三神一体論(トリムールティ)では、三最高神の一人で、世界の創造と次の破壊の後の再創造を担当している。 ヒンドゥー教の教典にのっとって苦行を行ったものにはブラフマーが恩恵を与える。

4つのヴェーダを象徴する4つの顔と4本の腕を持ち、水鳥ハンサに乗った赤い肌の男性(多くの場合老人)の姿で表される。手にはそれぞれ「数珠」、「聖典ヴェーダ」、「小壷」、「笏(しゃく)」を持つ。 配偶神は知恵と学問の女神サラスヴァティー(弁才天)である。

ブラーフマナ文献やウパニシャッドに説かれる宇宙の根本原理であるブラフマンを人格神として神格化したのがブラフマーである。なお、ブラフマーというのは「ブラフマン」の男性・単数・主格形で、非人格的な宇宙の根本原理としての中性名詞「ブラフマン」と人格神ブラフマンを区別したい時に用いられる。

インド北部のアブー山に暮らしていたとされ、ここにはブラフマーを祭る大きな寺院がある。そのため、一部にはアブー山に実在していた人物をモデルにしているという説を唱える者もある。





ブラフマー
ヴェーダの時代(仏教以前:紀元前5世紀以前)、すなわちバラモン教(ブラフマー教?)の時代は大きな力を持っていた。紀元前15世紀から紀元前10世紀に、ブラフマンの神格として現われ、バラモン教では神々の上に立つ最高神とされ、「自らを創造したもの(スヴァヤンブー)」「生類の王(プラジャーパティ)」と呼ばれた。宇宙に何もない時代、姿を現す前の彼は水を創り、その中に一つの種子・「黄金の卵(ヒラニヤガルバ)」を置いた。その中に一年間留まって成長したブラフマーは卵を半分に割り、両半分から天地を初めとするあらゆる物を創造した。

ヒンドゥー教の時代(5世紀から10世紀以降)になり、シヴァやヴィシュヌが力を持って来るにつれて、ブラフマーはこれら二神いずれかの下請けで世界を作ったに過ぎないとされ、注目度が低くなって行った。

叙事詩やプラーナ文献の中では、ブラフマーの物語も数多く記されている。しかし、他の神の様に、自分を中心とした独自の神話もなく、観念的なために一般大衆の人気が得られなかった。現在ブラフマーを祭っている寺院は少ない。タイのバンコクにはこの神を祀るエーラーワンの祠が建てられ信仰を集めているが、これは悪霊を鎮めるというわかりやすい現世利益によるものである。

もともとブラフマーにまつわる話が、いくつかヴィシュヌの話として語られる物もある。これはブラフマー信仰がヴィシュヌ信仰に取り込まれて行った結果だと思われる。

ヒンドゥーの三つの重要な神は、他にシヴァとヴィシュヌであり、ブラフマーは宇宙の創造を、ヴィシュヌは宇宙の保持を、シヴァは宇宙の破壊をそれぞれ担当するが、同じ存在の三つの現われであるとされる。

ヴィシュヌ派によると、ブラフマーは、ヴィシュヌのへそから生えた蓮の花の中から生まれたとされ、ブラフマーの額からシヴァが生まれたとされる。

シヴァ派の神話では、カルパ期の終わりヴィシュヌ神とブラフマー神がどちらが宇宙の中枢であり創造主であるか争っている時、巨大なリンガが出現した。ヴィシュヌとブラフマーはこのリンガ(シヴァ神の男性器)の果てを見定めようとしたが見届けられなかったとされる。

ブラフマーは元々5つの顔であったが、無礼な話し方をしたという理由でシヴァを怒らせ、彼に1つ切り落とされて4つになったという説がある。

ブラフマーストラ(ब्रह्‍मास्‍त्र [brahmaastra])という、どんな敵をも必ず滅ぼす投擲武器を持つとされる。

仏教に於ける位置[編集]

経典の説くところでは、釈迦牟尼仏が悟りを開いた時に、その悟りを人々に語るように説得したのが梵天であり、この事を梵天勧請と呼ぶ。後に梵天は釈迦牟尼に帰依し仏法の守護神となる。

ヴィシュヌ

ヴィシュヌ(英: Vishnu, Viṣṇu, デーヴァナーガリー:विष्णु)は、ヒンドゥー教の神である。仏教名は「毘紐天」、「韋紐天」、あるいは「那羅延天」。音写語としては「微瑟紐」、「毘瑟怒」などもある。



目次 [非表示]
1 概要
2 アヴァターラ(化身)
3 関連項目
4 外部リンク


概要[編集]





ヴィシュヌ
三神一体論では、3つの最高神の1つで世界を維持する役目があるとされる。

一般には、4本の腕を持ち、右にはチャクラム(円盤、あるいは輪状の投擲武器)と棍棒を、左にはパンチャジャナ(法螺貝)と蓮華を持つ男性の姿で表される。そのためチャトゥルブジャ(4つの武器を持つ者)という称号も持っている。

メール山の中心にあるヴァイクンタに住んでいる。ヴァーハナ(乗り物)はガルダと呼ばれる鳥の王で、鷲のような姿をして描かれたり、鷲と人を合わせた様な姿で描かれる。

神妃(妻)はラクシュミーで、ヴィシュヌの化身に対応して妻として寄り添っている。

ヴィシュヌ派の創世神話によると、宇宙が出来る前にヴィシュヌは竜王アナンタの上に横になっており、ヴィシュヌのへそから、蓮の花が伸びて行きそこに創造神ブラフマーが生まれ、ブラフマーの額から破壊神シヴァが生まれたとされている。

古くは『リグ・ヴェーダ』にもその名の見える起源の古い神格で、世界を3歩で踏破する自由闊歩の神だった。その名はサンスクリットで「広がる」「行き渡る」を意味する√viSに由来し、恐らくは世界の果てまで届く太陽光線の神格化であったと考えられる。そのため後には太陽神アーディティヤの1人ともされた。最終的には他の太陽神スーリヤを取り込んだ。

しかし、『リグ・ヴェーダ』では、まだ特に重要な位置は持ってはいない。神話も、少数の讃歌を除けば、主要神インドラが悪と闘う際の盟友のひとりとして言及されている程度である。

後のヒンドゥー教の時代になって、英雄や土着の神をその化身、アヴァターラ(後述)として取り込んで行くことで民衆の支持を集め、ついにはブラフマー、シヴァと共に三神一体(トリムールティ)の最高神の位置を獲得した。

10世紀前後に作られたカジュラホの寺院群のいくつかで祭られているヴィシュヌの神像は、寺院を飾るインド的彫刻とくらべて、メソポタミアやエジプト的な印象を受ける。

10世紀以降に南インドでヴィシュヌに関して独自の儀式や教義が発達した。

アヴァターラ(化身)[編集]

ヴィシュヌは、アヴァターラと呼ばれる10の姿に変身して地上に現れるとされる。これは、偉大な仕事をした人物や土着の神を「ヴィシュヌの生まれ変わり」として信仰に取り込む為の手段であったと考えられる。よく「化身」と訳されるが、インカネーションとは意味合いが異なる。「権化」「権現」「化現」を使った方が正しい。

クリシュナ、ラーマなどが有名な勇者で、クリシュナは叙事詩『マハーバーラタ』で、ラーマは叙事詩『ラーマーヤナ』で語られている。

また、仏教の開祖仏陀もヒンドゥー教ではヴィシュヌのアヴァターラとされるが、人々を混乱させるために来たとされ、必ずしも崇拝されているわけではない。

ヴィシュヌの生まれ変わりであるアヴァターラは以下の通り。





8番目の化身クリシュナマツヤ (Matsya)、魚大洪水の時に賢者マヌの前に現われ7日後の大洪水を預言し、船にあらゆる種子と7人の聖者を乗せるよう言った。クールマ (Kurma)、亀神々が不死の霊水アムリタを海から取り出そうとした時、亀の姿になって現われて作業を助けた。ヴァラーハ (Varaha)、猪大地が水の底に沈められようとしたときに、猪の姿で現われ大地をその牙で支えた。ナラシンハ (Narasimha)、ライオン男半人半獅子の姿で悪魔ヒラニヤカシプを退治した。ヴァーマナ (Vamana)、矮人悪神バリによって世界が支配されたときに現われ、バリと3歩歩いた広さの土地を譲り受ける約束をした後、巨大化し世界を2歩で歩き3歩目でバリを踏みつけた。パラシュラーマ (w:Parashurama)、斧を持つラーマクシャトリア族が世界を支配した時、神々、ブラフマン、人を救った。ラーマ(Rama) (意味は「心地よい」)叙事詩『ラーマーヤナ』の英雄。魔王ラーヴァナから人類を救った。クリシュナ (Krishna) (意味は「闇」または「黒」)叙事詩『マハーバーラタ』の英雄。特にその挿話『バガヴァッド・ギーター』で活躍。ゴータマ・ブッダ (仏陀/釈尊)偉大なるヴェーダ聖典をアスラから遠ざける為に、敢えて偽の宗教である仏教を広めた(バーガヴァタ・プラーナ)。
「ヒンドゥー教における釈迦」も参照
カルキ (Kalki) ("時間")、救世主カリ・ユガ(世界が崩れ行く時代)の最後、世界の秩序が完全に失われた時代に現れて悪から世界を救い、新しい時代(ユガ)を始めるという。
化身の数は、22種類ある場合もある。一般的には上記のダシャーヴァターラ(10化身説)が用いられる。

ゲームのウルティマ・シリーズでのアバタールや、オンライン・コミュニティ・サービスでのユーザーの視覚的イメージであるアバターはこの言葉に由来する。

関連項目[編集]
三神一体
ブラフマー
シヴァ
ラクシュミー
那羅延天(毘紐天とも)

インド神話

インド神話(インドしんわ)とはインドに伝わる神話である。特にバラモン教、ヒンドゥー教に伝わるものを指す。成立時期や伝承者の層などによって様々な神話があるが、以下、ヴェーダ神話とブラーフマナ・ウパニシャッド神話、叙事詩・プラーナ神話の3つに大別して概説する。概ねヴェーダ神話がバラモン教に、叙事詩・プラーナ神話がヒンドゥー教に属し、ブラーフマナ・ウパニシャット神話がその両者を繋ぐものと考えてよい。



目次 [非表示]
1 インド神話の神々
2 ヴェーダ神話
3 ブラーフマナ・ウパニシャッド神話
4 叙事詩・プラーナ神話
5 参考文献


インド神話の神々[編集]
シヴァ
ヴィシュヌ
ブラフマー
ガネーシャ
サラスヴァティー(弁才天, 弁財天)
ハヌマーン(大猿王)
クリシュナ(K天)
パールヴァティー
インドラ(帝釈天)
ラクシュミー
カーマ
カーリー
プリティヴィー
アグニ
スーリヤ
ガンガー
チャンドラ
アスラ(阿修羅)
ヤマ(閻魔)
ドゥルガー
ヴァーユ
ピシャーチャ
ローカパーラ

ヴェーダ神話[編集]

読んで字の如くヴェーダ文献に基づく神話であり、アーリア人がインドに持ち込んだインド・ヨーロッパ語族共通時代に遡る古い自然神崇拝を中心とする。紀元前1500年頃から紀元前900年ごろに作られた最古のヴェーダ文献である『リグ・ヴェーダ』(神々の讃歌)には、未だ一貫した世界観を持つ神話は現れていない。

ヴェーダ神話の初期においては、神々はデーヴァ神族とアスラ神族とに分類されている。デーヴァは現世利益を司る神々とされ、人々から祭祀を受け、それと引き換えに恩恵をもたらす存在とされた。代表的なデーヴァは雷神インドラであり、実に『リグ・ヴェーダ』全讃歌の4分の1が彼を讃えるものである。

一方アスラは倫理と宇宙の法を司る神々で、恐るべき神通力と幻術を用いて人々に賞罰を下す者として畏怖された。代表的な神はヴァルナである。アスラは『リグ・ヴェーダ』初期においては必ずしも悪い意味で用いられなかったが、デーヴァ信仰が盛んになるにつれて信仰が衰えていった。さらに、ヴァルナをはじめ有力なアスラ神がデーヴァとされるようになり、遂に『リグ・ヴェーダ』の中でも末期に成立した部分では神々に敵対する悪魔を指すようになった。

一方イラン神話においては、アスラに対応するアフラがゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーとなり、デーヴァにあたるダエーワが悪魔の地位に落とされている。

『リグ・ヴェーダ』にはまた、若干の創造神話が見られる。創造神ブリハスパティ(Brahmanaspati)やヴィシュヴァカルマンによる万物創造を説く讃歌の他、創造神がヒラニヤ・ガルバ(黄金の胎児)として原初の水の中にはらまれて出現したとする説、神々が原人プルシャを犠牲として祭祀を行い世界を形成したという巨人解体神話などが説かれている。

ブラーフマナ・ウパニシャッド神話[編集]

ブラーフマナ(祭儀書)文献とは、ヴェーダ本文であるサンヒター(本集)の注釈と祭儀の神学的意味を説明するもので、広義のヴェーダ文献の1つ。ここでは創造神プラジャーパティを最高神とし、彼による種々の創造神話が説かれている。しかし、しだいに世界の最高原理ブラフマンの重要性が認められるようになった。やがてブラフマンは人格神ブラフマーとして描かれ、彼による宇宙創造が説かれるようになった。

ブラーフマナ文献中にはまた、祭式の解釈と関連して、人祖マヌと大洪水神話、悪魔の都を破壊する暴風神ルドラ(シヴァの前身)の説話など、かなりまとまった形の神話が散見され、後のヒンドゥー神話・文学に多大な影響を与えている。

ウパニシャッド(奥義書)も広義のヴェーダ文献の1つで、ヴェーダ文献の最後に成立した事からヴェーダーンタ(ヴェーダの末尾)ともいう。神秘的哲学を説くもので、特にアートマンとブラフマンの本質的同一性(梵我一如)を説く部分は、後のインド神話の世界観に大きな影響を与えた。

叙事詩・プラーナ神話[編集]

ヒンドゥー教の神話のうち代表的な文献は、二大叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』である。『マハーバーラタ』は、18編約10万詩節よりなる大作である。バラタ族の内紛・大戦争を主筋とし、その間におびただしい神話・伝説が挿話として説かれている。一方『ラーマーヤナ』は7編2万4000詩節よりなり、ラーマ王子の冒険を主筋とする。『マハーバーラタ』よりは一貫した文学作品ではあるが、やはり主筋の間に多くの重要な神話・伝説を含んでいる。

この二大叙事詩は、いずれも400年頃に現在の形にまとめられたと推定されているが、その原形が成立したのはそれよりもはるか以前にさかのぼることは確実である。さらに後代になると、幾多のプラーナ(古伝)文献が作られた。これは百科全書的な文献であり、そのなかに多数の神話・伝説を含んでいる。二大叙事詩とプラーナ聖典の神話は今日に至るまで広く民衆に愛され、文学・芸術作品の題材とされてきた。

この時代の神話で最も重視されている神々は、創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァで、三神一体の最高神とされる。ブラフマーは、ブラーフマナ・ウパニシャッドでは宇宙の最高原理であったが、その抽象的な性格のせいか、庶民の間では広く信仰の対象とはならなかった。ヴィシュヌは『リグ・ヴェーダ』にも登場し、元来太陽の光照作用を神格化したものと考えられる。しかしこの時代の神話では世界の維持を司る神であり、また10の姿(ダシャーヴァターラ)に変身して世界を救う英雄神でもある。シヴァは『リグ・ヴェーダ』の暴風神ルドラを前身とする破壊神である。性器崇拝や黒魔術など非正統派の民間信仰と習合し、ヨーガの達人、舞踏神、魔物の王などの複雑な性格を持つに至った。

参考文献[編集]
イオンズ『インド神話』青土社、1990年。
上村勝彦『インド神話』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2003年。東京書籍、1981年。
立川武蔵・石黒淳・菱田邦男・島岩『ヒンドゥーの神々』せりか書房、1980年。
鈴木正崇編『神話と芸能のインド』山川出版社、2008年。

カーリー

カーリー (काली Kālī) は、インド神話の女神。その名は「黒き者」の意。血と殺戮を好む戦いの女神。シヴァの妻の一柱であり、カーリー・マー(黒い母)とも呼ばれ、シヴァの神妃パールヴァティーの憤怒相とされる。仏教名(漢訳名)は迦利、迦哩[1]。



目次 [非表示]
1 図像
2 物語
3 信仰
4 出典
5 関連項目


図像[編集]

全身黒色で3つの目と4本の腕を持ち、チャクラを開き、牙をむき出しにした口からは長い舌を垂らし、髑髏ないし生首をつないだ首飾りをつけ、切り取った手足で腰を飾った姿で表される。絵画などでは10の顔と6本〜10本の腕を持った姿で描かれることもある。

物語[編集]

神話によると、女神ドゥルガーがシュムバ、ニシュムバという兄弟のアスラの軍と戦ったとき、怒りによって黒く染まった女神の額から出現し、アスラを殺戮したとされる。自分の流血から分身を作るアスラのラクタヴィージャとの戦いでは、流血のみならずその血液すべてを吸い尽くして倒した。勝利に酔ったカーリーが踊り始めると、そのあまりの激しさに大地が粉々に砕けそうだったので、シヴァ神がその足元に横たわり、その衝撃を弱めなければならなかった。しばしば、夫シヴァ神の腹の上で踊る姿で描かれるのはこれに由来している。

信仰[編集]

殺戮と破壊の象徴であり、南インドを中心とする土着の神の性質を習合してきたものと解される。インド全体で信仰されているポピュラーな神だが、特にベンガル地方での信仰が篤い。インドの宗教家、神秘主義者ラーマクリシュナも熱心なカーリーの信奉者だった。

インドにおいて19世紀半ばまで存在していたとされているサッグ団とは、カーリーを信奉する秘密結社で、殺人を教義としていた

シヴァ

シヴァ(शिव, Śiva)は、ヒンドゥー教の3最高神の一柱。創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌに対してシヴァ神は破壊を司る。シヴァ神を信仰する派をシヴァ教という[1]。

日本では慣用的にシバともいう。

シリーズからの派生

ヒンドゥー教

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表・話・編・歴




目次 [非表示]
1 概要 1.1 姿

2 異名
3 シヴァの妃 3.1 主なシヴァ神妃

4 シヴァリンガ
5 ギャラリー
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
9 参考資料 


概要[編集]

ヴェーダ神話に登場する暴風雨神ルドラを前身とし、『リグ・ヴェーダ』では、「シヴァ」はルドラの別名として現われている。暴風雨は、破壊的な風水害ももたらすが、同時に土地に水をもたらして植物を育てるという二面性がある。このような災いと恩恵を共にもたらす性格は、後のシヴァにも受け継がれている。

ヒンドゥー教の三神一体(トリムールティ)論では、3つの重要な神の1人として扱われ、世界の寿命が尽きた時、世界を破壊して次の世界創造に備える役目をしている。





シヴァを中央に、右にパールヴァティー、左にガネーシャ、右端にスカンダ
シヴァの妻はパールヴァティーで、その間の子供がガネーシャ(歓喜天)である。軍神スカンダ(韋駄天)は、シヴァの精をアグニやガンガーに媒介させてもうけた子である。

また、シヴァ神の乗物はナンディンと呼ばれる牛で、ナンディンも神として崇拝されている。通常、シヴァの寺院の前にはナンディンが祭られている。

姿[編集]

シヴァの姿が人間的に描かれる時には、皮膚の色は青黒い色で、三日月の髪飾りをした髪の毛は長く頭の上に巻いてあり、裸に短い腰巻だけを纏った苦行者の姿で、片手に先が3つに分かれた「トリシューラ」と呼ばれる鉾を持っている。「ピナーカ」と呼ばれる弓を持つ場合もあるが、しばしばトリシューラと混同されている。別の腕には、ダムルーと呼ばれるワンハンドサイズの両面太鼓を持つ。首に蛇を巻いている姿でも描かれる。両目の間には第3の目が開いており、彼が怒る時には激しい炎(パスパタという投げ槍として現す事も)が出て来て全てを焼き尽くすとされる。額には白く横に3本の線が描かれる。腰巻は多くの場合虎の皮で描かれる。四面四臂の姿でも描かれる。

頭頂部からは小さな噴水の様に水が吹き出しており、絵画で描かれる場合には頭髪の中ではガンガー女神が口から水を噴出しているものも多い。これはヒマラヤ山脈におけるガンジス川の始まりの水を示す。また、首を持ち上げたコブラとともに描かれる。

ヒマラヤのカイラーサ山がシヴァの住いで、瞑想に励んでいるとも言われる。サドゥと呼ばれるヒンドゥー教の修行者の一部、特にヒマラヤ周辺の修行者は、上のシヴァの姿に良く似た姿をしている。

シヴァが第3の目を得た理由についてはこんな逸話がある。シヴァの瞑想中に、彼がかまってくれないので退屈したパールヴァティーが両手で彼の両目を塞いだ所、たちまち世界が闇に包まれた。すると、シヴァの額に第3の目が現れ、そこから炎が噴出されてヒマラヤの山々を燃やし、世界を再び明るくしたという。

異名[編集]

シヴァは教学上は破壊神であるが、民間信仰ではそれにとどまらない様々な性格を持ち、それに従って様々な異名を持つ。

マハーカーラ(大いなる暗黒)とも呼ばれ、世界を破壊するときに恐ろしい黒い姿で現れるという。マハーカーラは漢訳仏典では大黒天と意訳される。日本では神道の大国主の「大国」が「ダイコク」とも読める事から同一視され、七福神の1人として、シヴァの名前を使っていないが日本ではなじみ深い神である。 ピナーカを保持していることから「ピナーカパーニ」(ピナーカを持ちし者)と言う呼び名も持つ。


またマヘーシュヴァラ(Maheśvara)とも呼ばれ、漢訳仏典では大自在天あるいは摩醯首羅と訳される。降三世明王の仏像は足下にシヴァとパールヴァティーを踏みつけた姿で刻まれるのが一般的である(詳細は降三世明王を参照)。

ナタラージャ(踊りの王)とも呼ばれ、丸い炎の中で片足をあげて踊っている姿の彫像で描かれる。

乳海攪拌の折にマンダラ山を回す綱となった大蛇ヴァースキが、苦しむあまり猛毒(ハラーハラ)を吐き出して世界が滅びかかったため、シヴァ神が毒を飲み干し、その際に喉が青くなったため、ニーラカンタ(青い喉)(Nīlakaṇtha)とも呼ばれる。

また、「金で出来た都市」、「銀で出来た都市」、「鉄でできた都市」の3つの悪魔の都市をトリシューラで焼き尽くしたので、三都破壊者とも呼ばれる。

ハラとも呼ばれ、ハリと呼ばれるヴィシュヌに対応する。

その他、バイラヴァ(恐怖すべき者)、ガンガーダラ(ガンジスを支える神)、シャルベーシャ(有翼の獅子)、パシュパティ(獣の王)、マハーデーヴァ(偉大なる神)、シャンカラ、等などと呼ばれ、その名は1,000を超える。

シヴァの妃[編集]

シヴァ神の信仰を語るには、その妻たちの存在は欠かせない。シヴァ神妃たちはシヴァ神の最初の妻サティーが死亡した際、それを嘆き悲しんだシヴァは、彼女の体を抱き上げて都市を破壊しながら世界を放浪した。それを見かねたヴィシュヌ神がチャクラでサティーの死骸を切り刻み、シヴァを正気に戻した。そのとき、世界にサティーの肉片が飛び散り、落ちた地がシヴァの聖地となり、肉片はそれぞれシヴァの妃としてよみがえったとされる。シヴァ神の妃は正妻は、前述のようにパールヴァティー神が位置づけられているが、その他にも数百の妃が存在すると言われる。古い時代に見られたシヴァ神の暴力性や破壊性は、シヴァ神の異名や神妃たちに吸収され、ドゥルガーやカーリーのような破壊衝動の激しい女神となった。シヴァの神妃の中でも正妻に位置づけられるパールヴァティ自身がサティーの転生とされる事から、数百に上るシヴァの神妃たちのすべてがパールヴァティのそれぞれの一面を示すものだとも解釈が可能である。こうしたシヴァ神妃たちは、ヒンドゥー教が拡大する過程で、各地の土着の女神信仰を吸収するために多くの女神たちにシヴァの妃の地位を与えるための解釈と考えられる。

主なシヴァ神妃[編集]
サティー
パールヴァティ女神 
ドゥルガー女神  アスラの王によってマヒシャによって天界が占領された時、神々の怒りの炎から出現した女神。十本の腕を持つ姿で描かれる。 
カーリー女神  アスラと戦うドゥルガー女神の憤怒から生まれた女神 十本の腕と真っ黒でやせ細った体、生首のネックレスをした姿で描かれる

シヴァリンガ[編集]

詳細は「シヴァリンガ(英語版)」および「ヨーニ(英語版)」を参照





リンガ(英語版)とヨーニ(英語版)
ヒンドゥー教のシヴァの寺院では、上の姿ではなく神体としてシヴァリンガがシンボルとして安置されており、それが礼拝の対象になっている。シヴァリンガは、リンガとヨーニの2つの部分からなり、内側が受け皿状の円形または方形のテーブルの横に油が流れ出る腕が付いているヨーニの中心部に、リンガと呼ばれる先の丸い円柱が立っている。

ヨーニは女性器の象徴で、リンガは男性器の象徴であり、性交した状態を示す。ただし、我々は性交しているシヴァを女性器の内側から見ている形になっている。これは、シヴァ神が女性と性交をして現われたのがこの世界で、それが我々の住んでいる世界という意味になっている。

リンガは半貴石を使って作られることが多い。新しい寺院では黒い石を使うことが多いが、古い寺院では赤黒い石を使ったり、白い石を使ったものもある。ヨーニは普通の岩であることが多い。個人が寺院以外の場所で礼拝する際には砂や土を盛り上げて作ることが多い。

ギルガメシュ

ギルガメシュ(アッカド語: 𒄑𒂆𒈦 - Gilgameš)またはビルガメシュ(シュメール語: Bilgameš)は、古代メソポタミア、シュメール初期王朝時代のウルク第1王朝の伝説的な王(在位:紀元前2600年頃?)。数多くの神話や叙事詩に登場するこの王は実在の人物であったと考えられている。



目次 [非表示]
1 歴史上の人物としてのギルガメシュ
2 『ギルガメシュ叙事詩』
3 後世のギルガメシュ
4 ギャラリー
5 ギルガメシュを主題にした芸術・文学作品 5.1 音楽
5.2 絵本



歴史上の人物としてのギルガメシュ[編集]

シュメール王名表によれば彼はリラの息子であり127年間在位した。ただし、後世の神話ではルガルバンダの息子とされている。ギルガメシュ自身に関する考古学的史料は現在の所発見されていないが、伝説の中でギルガメシュとともに登場するエンメバラゲシの実在が確認されていることからギルガメシュも実在したとする説が有力である。彼は数多くの神話に登場するが、その実際の姿は殆ど分かっていない。後世の伝承にはギルガメシュが偉大な征服王であったかのような記述やキシュと戦いこれを征服したという記述もあり、シュメールで覇権的地位を得た人物の一人であると考えられている。他に彼の業績としてウルクの城壁を建造したことが重要視され、バビロン第1王朝時代にも引き合いに出されている。

『ギルガメシュ叙事詩』[編集]

詳細は「ギルガメシュ叙事詩」を参照

ギルガメシュ王は死後間もなく神格化され数多くの神話、叙事詩に登場する。そして『ギルガメシュ叙事詩』と呼ばれる一つの説話へとまとめられていった。これは今日最も知られているシュメール文学である。『ギルガメシュ叙事詩』は2000年以上にわたってメソポタミア世界で受け継がれ、様々な言語に翻訳された。時代ごとに大幅な改変が成された事も知られている。また『ギルガメシュとアッガ(フランス語版)』のようにアッカド語版などの翻訳版が存在しない説話もある。

後世のギルガメシュ[編集]

後にギルガメシュは冥界の王として崇められ、畏れられるようになった。

時代が下ってもギルガメシュの名前は知られていたが、その神的性格は失われた。たとえばマニ教の聖典『巨人たちの書』にはギルガメシュが登場するが、ここでは単なる巨人の一人であるとされている。また15世紀のアラビア語呪術文書には悪霊の一種ジルジャメシュという名称がみられるが、これもまたギルガメシュの零落したものだろうと考えられている。

ギルガメシュ叙事詩

『ギルガメシュ叙事詩』(ギルガメシュじょじし)は、古代メソポタミアの文学作品。

実在していた可能性のある古代メソポタミアの伝説的な王ギルガメシュをめぐる物語。

人物およびそれに基づく作品等については「ギルガメシュ」を参照



目次 [非表示]
1 成立
2 研究
3 内容
4 構成 4.1 粘土版 1
4.2 粘土版 2
4.3 粘土版 3
4.4 粘土版 4
4.5 粘土版 5
4.6 粘土版 6
4.7 粘土版 7
4.8 粘土版 8
4.9 粘土版 9
4.10 粘土版 10
4.11 粘土版 11 4.11.1 洪水物語

4.12 粘土版 12

5 影響
6 書籍 6.1 和訳書
6.2 絵本

7 音楽作品 7.1 合唱曲
7.2 管弦楽曲

8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク


成立[編集]

主人公のギルガメシュは、紀元前2600年ごろ、シュメールの都市国家ウルクに実在したとされる王であるが、後に伝説化して物語の主人公にされたと考えられる。

最古の写本は、紀元前二千年紀初頭に作成されたシュメール語版ギルガメシュ諸伝承の写本。シュメール語版の編纂は紀元前三千年紀に遡る可能性が極めて高い。

研究[編集]

19世紀にアッシリア遺跡から発見された遺物の一つで、1853年にホルムズ・ラムサン(en)によって始めて発見され、大英博物館の修復員であるジョージ・スミス(en)が解読を進め、1872年に『聖書』と対比される大洪水の部分を見つけ有名になった。始めのうちは神話と見なされていたが、その文学性に注目が集まり次第に叙事詩とされるようになり、19世紀末には研究がさらに進み、「ギルガメシュ」と読めることを発見しアッシリアのギルガメシュであることを発表した。これ以後1900年の独訳を嚆矢に、各国語への翻訳が進み、各地の神話、民話との比較がされている。和訳は矢島文夫により完成し、1965年に山本書店から刊行された。

内容[編集]

ウルクの王ギルガメシュは、ウルク王ルガルバンダと女神リマト・ニンスン(英語版)の間に生まれ、3分の2が神で3分の1が人間と言う人物であった。ギルガメシュは暴君であったため、神はその競争相手として粘土から野人のエンキドを造った(写本そのものが粘土板から作られていることにも注意)。

ギルガメシュがエンキドに娼婦(シャムハト w:Shamhat、女神イシュタルに仕える女神官兼神聖娼婦という版もあり、彼女の役割に付随するニュアンスが少々異なる)を遣わせると、エンキドはこの女と6夜7日を一緒に過ごし、力が弱くなったかわりに思慮を身につける。その後、ギルガメシュとエンキドは力比べをするが決着がつかず、やがて二人は友人となり、さまざまな冒険を繰り広げることとなる。

二人はメソポタミアにはない杉を求めて旅に出る。杉はフンババ(フワワ)という怪物により守られていたが、二人は神に背いてこれを殺し杉をウルクに持ち帰った。このギルガメシュの姿を見た美の女神イシュタルは求婚したが、ギルガメシュはそれを断った。怒った女神は「天の雄牛」をウルクに送り、この牛は大暴れし、人を殺した。ギルガメシュとエンキドは協力して天の雄牛を倒すが、怪物を殺したこととイシュタルへの侮辱に神は怒り、エンキドは神に作られた存在ゆえに神の意向に逆らえず死んでしまった。

ギルガメシュは大いに悲しむが、自分と同等の力を持つエンキドすら死んだことから自分もまた死すべき存在であることを悟り、死の恐怖に怯えるようになる。そこでギルガメシュは永遠の命を求める旅に出て、さまざまな冒険を繰り広げる。多くの冒険の最後に、神が起こした大洪水から箱舟を作って逃げることで永遠の命を手に入れたウトナピシュティム(英語版)(『アトラ・ハシース』)に会う。大洪水に関する長い説話ののちに、ウトナピシュティムから不死の薬草のありかを聞きだし、手に入れるが、蛇に食べられてしまう(これにより蛇は脱皮を繰り返すことによる永遠の命を得た)。ギルガメシュは失意のままウルクに戻った。

友情の大切さや、野人であったエンキドが教育により人間として成長する様、自然と人間の対立など、寓話としての色合いも強い。

構成[編集]

通称アッカド語版
発見年:1849年
発見場所:ニネヴェのアッシュールバニパルの図書館
言語:バビロニア語アッカド方言
編纂者:神官シンレキウニンニ(Sîn-lēqi-unninni)
発見者:オースティン・ヘンリー・レヤード

粘土版 1[編集]

ギルガメシュの紹介があり、彼はウルク王で、2/3が神、1/3が人間であった。 神はエンキドゥをつくる。 寺院娼婦シャムハット(Shamhat)とエンキドゥが出会う。 

粘土版 2[編集]

シャムハットはエンキドゥに人間の食物を与える。 エンキドゥはウルクを訪れる。 ギルガメシュの結婚式場での争いの後、エンキドゥとギルガメシュは友だちになる。 ギルガメシュは名誉を得るために、杉の森に住む半神フンババを倒すことをエンキドゥに誘う。 

粘土版 3[編集]

ギルガメシュは母である女神ニンスン(Ninsun)を訪問。 ニンスンは太陽神シャマシュに2人の保護を祈る。 ニンスンはエンキドゥを養子にする。 2人の出発。

粘土版 4[編集]

2人は数日間かけて杉の森に向かう。 ギルガメシュは5つの恐ろしい夢を見るが、エンキドゥはそれらを吉兆と告げる。 2人は山に近づいて行き、フンババのうなり声を聞く。

粘土版 5[編集]

2人は杉の森に入る。 フンババは2人を脅し、ギルガメシュの内蔵を鳥に食べさせることを誓う。 戦いが始まると、山は揺れて空は暗くなる。 太陽神シャマシュは13の風を吹かせ、フンババを捕える。 ギルガメシュはフンババを助けようとするが、エンキドゥは殺すことを勧める。 フンババは2人に呪いをかけ、ギルガメシュはフンババの首を打って殺す。 2人は杉を伐って船を造り、ユーフラテス川を杉の大木とフンババの首を持って帰還。

粘土版 6[編集]

イシュタルは以前の恋敵に復讐するために、父神アヌ(Anu)に聖牛グガランナ(Gugalanna)を送ることを求めるがアヌは拒否。 イシュタルは生者より多数の死者を蘇らせると脅し、アヌはイシュタルの要求を聞き、グガランナを送る。  グガランナはイシュタルに導かれ、ウルクを破壊。 ユーフラテス川の水位が下がる。 ギルガメシュとエンキドゥはグガランナを倒し、心臓を太陽神シャマシュに捧げる。ウルクは歓喜する。 エンキドゥは不吉な夢を見る。

粘土版 7[編集]

エンキドゥの夢では、シャマシュの反対にも関わらず、神々は2人のうち1人のエンキドゥを、聖牛グガランナとフンババを倒したために殺すことを決めていた。  2番目の夢では、冥界にいる。 現実のエンキドゥの体調は悪化し、12日後に死亡。

粘土版 8[編集]

ギルガメシュはエンキドゥを追悼。

粘土版 9[編集]

ギルガメシュは、大洪水の生存者で神によって妻とともに不死を与えられていたウトナピシュティム(「遠方」の意)に出会い、永遠の生命を求めるため旅立つ。   ギルガメシュは夜、山でライオンの一群に出会い、寝る。 夜中目を覚ましたギルガメシュは、ライオンを殺しその皮を身にまとう。 ギルガメシュは地の果てでマシュ山(Mount Mashu)の双子山に着く。 ギルガメシュは門を守る2人のサソリ人間が彼が半神であることが分かった後に門を通過し、太陽の道を進む。 ギルガメシュは、宝石で満ちた木々がある楽園に到着。

粘土版 10[編集]

ギルガメシュは、酒屋の女将シドゥリ(Siduri)に旅の目的を話す。 シドゥリは、人間はいずれは死ぬものと諭したがギルガメシュの決意は固く、彼女は渡船業者ウルシャナビ(Urshanabi)をギルガメシュが海を渡るために紹介する。 ギルガメシュの船がウトナピシュティムの島に着くと、ウトナピシュティムはギルガメシュの旅の目的を聞く。

粘土版 11[編集]

ギルガメシュはウトナピシュティムにどのように不死を手に入れたかを尋ねる。  

洪水物語[編集]

ウトナピシュティムは、神々が洪水を起したときの話をする。 エア神の説明により、ウトナピシュティムは船をつくり、自分と自分の家族、船大工、全ての動物を乗船させる。 6日間の嵐の後に人間は粘土になる。 ウトナピシュティムの船はニシル山の頂上に着地。 その7日後、ウトナピシュティムは、鳩、ツバメ、カラスを放つ。 ウトナピシュティムは船を開け、乗船者を解放した後、神に生け贄を捧げる。  エンリル神はウトナピシュティムに永遠の命を与え、ウトナピシュティムは2つの川の合流地点に住む。

ウトナピシュティムが話し終え、不死になるには6日6晩の間眠ってはいけないと告げると、ギルガメシュは眠る。ウトナピシュティムは、ギルガメシュとウルシャナビをウルクへ帰還させる。

ウトナピシュティムと彼の妻はギルガメシュのお土産として、海の底で若返る効用がある植物があることを教え、ギルガメシュは足に石の重りを付けて海底を歩きその植物を手に入れる。 帰還途中、蛇がその植物を取って行く。 ギルガメシュと船頭ウルシャナビはウルクへ到着。

粘土版 12[編集]

粘土版 1-11 とは独立。

天地が創造されてしばらく経ったある時、ユーフラテス川のほとりに柳の木が生えていた。 これが南風により倒れ、川の氾濫によって流され、これを見つけたイシュタルによって椅子と寝台にする目的で聖なる園に植えられる。 ところがその木に蛇やズー、リリトが棲みつき、これを聞いたギルガメシュにより蛇は撃ち殺され、ズーとその子供達は山へと、リリトは砂漠へと逃げていった。 ギルガメシュの家来たちによって木は切り倒され、イシュタルはその礼に木の根元から太鼓と撥を作り、ギルガメシュはこれを受け取る。 ところが、詳細は不明だが若い娘たちの叫び声が原因となって太鼓と撥は大地の割れ目から地下に落ちてしまった。 そこでエンキドゥが冥界に向かうこととなり、ギルガメシュはあらゆる注意事項をエンキドゥに言い聞かせるが伝わらず、エンキドゥはタブーを破って冥界に囚われてしまう。 ギルガメシュはエンリルに助けを求めるが取り合わず、エアに助けを求めると彼は承諾した。 最後は冥界にいるエンキドゥが、エア神と太陽神シャマシュの助けによって影(すなわち魂)のみ地上に戻る。 その後はエンキドゥにより冥界の様子が語られる。

影響[編集]

考古学者や文献学者の中には『旧約聖書』にこの物語の影響があると考える者もおり、特にノアの方舟のくだりは、ウトナピシュティムの洪水の神話が元になっているとしている。

このほかの旧約聖書の内容や、ギリシャ神話にも、この物語が原型と考えられているものがある。古代以後、忘れられていたが、最初の粘土板写本が発見された1872年以後の文学作品にも大きな影響を与えた。

書籍[編集]

和訳書[編集]
矢島文夫訳 『ギルガメシュ叙事詩』 山本書店、1965年。
月本昭男訳 『ギルガメシュ叙事詩』 岩波書店、1996年、ISBN 4-00-002752-2。
矢島文夫訳 『ギルガメシュ叙事詩』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1998年、ISBN 4-480-08409-6。 - 山本書店1965年刊の増訂。

絵本[編集]
ルドミラ・ゼーマン著 松野正子訳 『ギルガメシュ王ものがたり』 岩波書店、1993
ルドミラ・ゼーマン著 松野正子訳 『ギルガメシュ王のたたかい』 岩波書店、1994
ルドミラ・ゼーマン著 松野正子訳 『ギルガメシュ王さいごの旅』 岩波書店、1995

音楽作品[編集]

合唱曲[編集]
青島広志作曲 : ア・カペラ男声合唱とナレーターのための「ギルガメシュ叙事詩」(1982年 - 1983年作曲)[1][2][3]。

管弦楽曲[編集]
ベルト・アッペルモント作曲 : 交響曲第1番『ギルガメシュ』(Symphony No.1 Gilgamesh) - 『ギルガメシュ叙事詩』を題材にした交響曲(2003年作曲)。

脚注[編集]

1.^ 歌の部分は矢島文夫の訳詩(筑摩世界文学大系T 古代オリエント集)に、語りの部分は山室静の著書(児童世界文学全集 世界神話物語集)に基づいた作品。
2.^ 1982年に「出発の巻」が、1983年に「帰郷の巻」が、それぞれ関西学院グリークラブにより初演されたが、当時はそれぞれ「前編」「後編」と題されていた。
3.^ 1992年に、合唱/関西学院グリークラブ 指揮/北村協一 ナレーション/青島広志にて、東芝EMIよりCDが発売されている。

関連項目[編集]
シュメール文学(Sumerian literature)
バビロニア文学(Babylonian literature)
アトラ・ハシース(Atra-Hasis)
創造神話
バナナ型神話
大洪水
ノアの方舟
汎バビロニア主義
杉の森Cedar Forest

アスタルト

アスタルト (‘ṯtrt [‘aṯtart])は、地中海世界各地で広く崇められたセム系の豊穣多産の女神。崇拝地はビュブロス(Byblos、現在のレバノン)などが知られる。 メソポタミア神話のイナンナ、イシュタル、ギリシア神話のアプロディテなどと起源を同じくする女神と考えられ、また周辺地域のさまざまな女神と習合している。



目次 [非表示]
1 地域におけるアスタルト 1.1 ウガリットにおけるアスタルト
1.2 カナン地域におけるアシュトレト
1.3 エジプトにおけるアースティルティト
1.4 ギリシア・ローマにおけるアスタルテー
1.5 フェニキアにおけるアスタルテ

2 関連項目


地域におけるアスタルト[編集]

ウガリットにおけるアスタルト[編集]

ウガリット神話ではバアルの御名 (šm b‘l [šumu ba‘ala])とも呼ばれ、同じくバアルの陪神である女神アナトと共に、バアルと密接不可分な陪神とされる。しかし、神話では重要なヒロインであるアナトに対し、アスタルトはほとんど活躍しない。アナトが麗しいと賛美される一方、アスタルトは愛らしいと賛美される。バアルの敵である海神ヤム・ナハル(英語版)とは性質上親しい関係にあった為、バアルがヤムを倒し、彼を捕らえた際には「ヤムは自分達の仲間である」と激しく非難した。しかし、バアルの神殿が建設された後には彼にヤム・ナハルをバラバラにして撒き散らすように進言した。

イナンナ等が持っていた「愛と残酷の女神」の面はむしろアナトに受け継がれている。このため、アスタルトとアナトは同一神の別の呼称に過ぎないとする説を唱える者もいる。また、最高神イルの妻、或いはバアルの妻とする説もある。

カナン地域におけるアシュトレト[編集]

この女神はカナンなどでも崇められており、旧約聖書にも、主要な異教の神としてヘブライ語形 アシュトレト (עַשְׁתֹּרֶת)の名でしばしば登場する。 ちなみにこの女神の本来のヘブライ語名はアシュテレト (עַשְׁתֶּרֶת)である。アシュトレトとはこれに「恥」を意味するヘブライ語ボシェトの母音を読み込んだ蔑称である。宗教的に中立とは言い難い呼称だが、以下本節では聖書の記述に従い こう表記する。

アシュトレトの複数形アシュタロト (עַשְׁתָּרוֹת)はまた、異教の女神を指す普通名詞として用いられた。また旧約聖書には地名としても出てくる(『申命記』 第1章第4節他)。

この地域においてもウガリットと同様に軍神的性格は後退し、もっぱら豊穣・繁殖の神として崇められた。この地域で出土するふくよかな体型の女神像の少なくとも一部はアシュトレトであると考えられる。

豊穣神としてのアシュトレトは特にこの地域の農民にとって極めて魅力的であり、同じく豊穣神であるバアルと共に極めて熱心に崇拝された。この地域に入植したヘブライ人たちにとってもバアルやアシュトレトは魅力的であり、ヤハウェ信仰の脅威となるほどの崇拝を受けた(『士師記』第2章第13節)。また、旧約聖書『列王記』上第11章第5節には、晩年のソロモン王が妻達の勧めにより、アシュトレトをはじめとする異教の神々を崇めた事が記され、この頃には為政者側にまで異教の神々への信仰が浸透していた事がわかる。それ以後もイスラエル王国の多くの王たちはその信仰を容認したため、ユダヤ教聖職者から激しく攻撃された。

また、『エレミヤ書』に登場する女神天の女王も、彼女の呼称の一つと考えられている。

この旧約聖書におけるアシュトレトが、後にヨーロッパのグリモワールにおいて悪魔・アスタロトとされた。

エジプトにおけるアースティルティト[編集]

一方エジプト神話に取り入れられた際には軍神としての性格を残している。古代エジプト語ではアースティルティト (‘ṯtirtit)と呼ばれ、戦車に乗り、盾と槍などで武装し、二枚の羽で飾った上エジプト冠(白くてとがった形の冠)を被った女戦士の姿で表される。

系譜としてはプタハの娘とされ、特にプタハの聖地メンフィスで崇められた。また、アナトと共に(バアルと習合した)セトの妻とされる。また軍馬の守護神とされる。これはエジプトにもともと馬に乗ったり馬の牽く戦車を使う習慣がなかった為で、彼女が外国由来の神であることを示す。

その信仰はエジプト第18王朝頃から始まったと考えられている。この頃に記された神話『アスタルテ・パピルス』によると、彼女はエジプトの神々に再三貢ぎ物を要求するヤム・ナハルと交渉したという。アースティルティトはこれによってヤムの好意を得るものの、今度はヤムは彼女自身を引き渡す様にプタハに要求する。結局神々は彼女の代わりに更に多くの貢ぎ物を捧げる事になったという。 つまりこの神話ではバアルではなくヤムが天と地の支配者となっている。

ギリシア・ローマにおけるアスタルテー[編集]

また、古代ギリシア、古代ローマでもアスタルテー(Ἀστάρτη, Astártē)と呼ばれて崇拝され、アプロディテやユノと同一視された。

フェニキアにおけるアスタルテ[編集]

フェニキアにおいては世界の真の統治者であり、古い世界を破壊しては新しい世界を創造する死と再生の女神だったとされる。また、インドのカーリーとも同一視され、カーリーのような姿のアスタルテの刻像が見つかっている。

イシュタル

イシュタル (新アッシリア語: DINGIR INANNA、翻字: DMÙŠ、音声転写: ishtar) は、古代メソポタミアのメソポタミア神話において広く尊崇された性愛、戦、金星の女神。イシュタルは新アッシリア語名であり、シュメール神話におけるイナンナ(シュメール語: 𒀭𒈹)に相当する。

概要[編集]

その親族関係に関しては、異なる伝統が並存する。主なものには、月神ナンナ/シンの娘、太陽神ウトゥ(英語版)/シャマシュの妹という位置づけがある。他、例えばウルクにおいては天神アヌの娘とされる。

様々な女神と神学的に同定された。主なものはアッカド市の女神アヌニートゥ、バビロン市の女神ベーレト・バビリ(「バビロンの女主」の意)など。ただし、いわゆる母神と同定されることはなかった(よってイシュタルは創造者としての地母神的性格は弱い)。

主な崇拝地はウルク、キシュ、アッカド、バビロン、ニネヴェ、アルベラ(Arbela)。

イシュタルは出産や豊穣に繋がる、性愛の女神。性愛の根源として崇拝されていた一方、勃起不全など性愛に不具合をもたらす女神としても恐れられていた。性同一性障害とも関係付けられ、その祭司には実際に性同一性障害者が連なっていた可能性も指摘されている。また、娼婦の守護者でもあり、その神殿では神聖娼婦が勤めを果たしていた[1]。

イシュタルの正式な配偶神は存在しないが、多くの愛人(神)が知られている。これは王者たる男性が、恋人としての女神から大いなる神の力を分け与えてもらうという当時の思想によっている。最も著名な愛人は、男神ドゥムジ(英語版)(タンムズ)。イシュタルとドゥムジにまつわる、数多くの神話が知られている。『イナンナの冥界下り』(シュメール語)/『イシュタルの冥界下り』(アッカド語)を初めとするそれらの神話において、ドゥムジはイシュタル(イナンナ)の身代わりとして殺され、冥界に送られる。『サルゴン伝説』においてはサルゴンを見初め、彼を全世界の王に任命する。

しかし、『ギルガメシュ叙事詩』ではギルガメシュを誘惑しようとするものの、イシュタルの愛人に選ばれた男達が不遇の死を遂げていることを知っていたギルガメシュに侮辱され、拒まれた。屈辱を覚えたイシュタルは父であるアヌに泣きつき、アヌは制裁として自分のペットである天の雄牛(en)をギルガメシュに差し向ける。そこでギルガメシュが大人しく詫びれば八方丸く収まったはずだが、ギルガメシュは相棒のエンキドゥと共に天の雄牛を殺してしまった。娘を侮辱された挙句、ペットを返り討ちにされたことで二重に面子を潰されたアヌは大いに怒る。

ギルガメシュは、これ以前にも森の神フンババを自分の力試しのために殺しており、神々の世界では評判が悪かったため、天の雄牛事件を受けてアヌを初めとする神々は遂に彼に死の呪いをかけることを決めた。この呪いはエンキドゥが身を挺して防いだが、ギルガメシュはこれ以降、生者の身にいずれ訪れる死に怯えることとなる。このように、イシュタルはトラブルメーカーとして描かれることもあった。

イシュタルは戦の女神でもあった。戦争に際しては、別の戦神ニヌルタと共に勝利が祈願され、勝利した後にはイシュタルのために盛大な祭儀が執り行われた。その図像は武者姿をしている。

イシュタルは金星を象徴とする女神であり、金星を模した図形がそのシンボルとして用いられることも多々あった。

ルシファー

ルシファー (Lucifer) は、明けの明星を指すラテン語であり、光をもたらす者、輝きをひろげる者、等の意味を持つ悪魔の名である。

「ルシファー」は英語からの音訳で、古典ラテン語読みではルキフェル、ルーキフェル(羅: Lūcifer)、その他日本ではルシフェル(仏: Lucifer[1], 西: Lucifer, 葡: Lúcifer)、ルチーフェロ(伊: Lucifero)、リュツィフェール(露: Люцифе́р)などとも表記される。

創造主である神に次ぐ地位にあり、最も美しく、最も聡明であった、知恵と光の大天使長だったが、神の意思に逆らい自ら悪魔になった。

どのように創造主の意思に逆らったのかは、様々な説がある。






目次 [非表示]
1 概説
2 キリスト教神学におけるルシファー 2.1 聖句 2.1.1 イザヤ
2.1.2 エゼキエル

2.2 歴史

3 宗教史学上のルシファーの来歴 3.1 原義
3.2 悪魔としてのルシファー
3.3 教父たちによるイザヤ14:12の解釈

4 ルドルフ・シュタイナーにおけるルシファー概念
5 啓蒙の隠喩・象徴としてのルシファー
6 アラディアの神話におけるルシファー
7 フィクション 7.1 俗説

8 脚注
9 参考文献
10 関連項目


概説[編集]

キリスト教カトリックの歴史の浅い「伝統」においては、ルシファーは堕天使の長であり、サタン、悪魔と同一視される[2]。換言すれば、ルシファーは魔王サタンの別名ないし言い換え、もしくはサタンの堕落前の名である。

悪魔にルシファーの名を適用したのは教父たちであった。たとえばヒエロニムスは金星を指すラテン語であったルーキフェルを、明けの明星としての輝きの喪失に悲嘆することになる堕天使長の名とした。この光の堕天使としてのルシファーの名がサタンの別称として普及したが、教父たちはルシファーを悪魔の固有名詞としてでなく悪魔の堕天前の状態を示す言葉として用いた[3]。

神学で定式化された観念においては、悪魔はサタンともルシファーとも呼ばれる単一の人格であった。しかし一方で中世の民衆レベルでは、ルシファーとサタンの人格の同一性については必ずしも首尾一貫していなかったことをジェフリー・バートン・ラッセルらは指摘している。たとえば中世の民話や文学ではサタンがルシファーの配下とされる場合もあった[4]。

イスラム教では、キリスト教のルシファーに比すべき存在としてイブリースがいる。『コーラン』には、アッラーが「人間に跪拝せよ」と天使たちに命じた時、イブリースだけがこれを拒んで天上から追放されたという記述がある[5]。J・B・ラッセルは、この筋書きは黙示文学『アダムとエヴァの生涯』12-16章にあらわれたモチーフであると指摘している[6]。『コーラン』ではイブリースが天使であったことが示唆されているとも解釈できるが、イブリースはもともとジンの仲間であったという記述もあり[7]、イブリースが天使であったのかジンであったのか明確ではない[8]。

キリスト教神学におけるルシファー[編集]

聖句[編集]

イザヤ[編集]

イザヤ書の聖句は第一義的にはバビロンの王を指しているものであるが、預言はこれを超えたものにおよぶのであり[9]、アウグスティヌスはこれは預言者イザヤが悪魔をバビロニアの君主の人格をもって象徴的にあらわしていると説明している[10]。ビリー・グラハムはここにルシファーの5つの「私はしよう」という罪が見られると解説している[11]。



「暁の子、ルシファー(天使)よ、どうして天から落ちたのか。 世界に並ぶ者のない権力者だったのに、どうして切り倒されたのか。それは、心の中でこううそぶいたからです。 「天にのぼり、最高の王座について、御使いたちを支配してやろう。 北の果てにある集会の山で議長になりたい。 一番上の天にのぼって、全能の神様のようになってやろう。」 ところが、実際は地獄の深い穴に落とされ、しかも底の底まで落とされます。 」

− イザヤ書 14章12-15節、リビングバイブル

エゼキエル[編集]

エゼキエル書28章12-17節は堕落前のルシファーの輝かしい記録といわれている[12]。エゼキエル書28章1-10節はティルス(ツロ)の君主、12-19はティルス(ツロ)の王である[13]。ここでティルス(ツロ)に述べられていることは、悪魔にあてはめられる[14]。



「あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。」「わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。」

− エゼキエル書28章12-17節、新改訳聖書

歴史[編集]

キリスト教の教父たちはルシファーをサタン、堕天使、悪魔と結び付けている[15]。これは今日でもキリスト教会で採用される理解であるが[16][17][18]、サタンや堕天使を伝説とする考えもある。

初代教会から教会はルシファーがサタンであると認識してきた。教父テルトゥリアヌス("Contra Marcionem," v. 11, 17)、オリゲネス(Homilies on Ezekiel 13)らがそうであり、ヨハネの黙示録12:7、ルカによる福音書10:18が根拠の聖句である。

キリスト教の伝統的解釈によれば、ルシファーは元々全天使の長であったが、土から作られたアダムとイブに仕えよという命令に不満を感じて反発したのがきっかけで神と対立し、天を追放されて神の敵対者となったとされる。「ヨハネの黙示録」の12章7節をその追放劇と同定する場合もある。被造物の中で最高の能力と地位と寵愛を神から受けていたために自分が神に成り代われると傲慢になり、神に反逆し、堕天したという説がよく挙げられる。この説は天使から悪魔に堕ちた経緯としてよく挙げられる説である。

3世紀の神学者オリゲネスは、「エゼキエル書」、「イザヤ書」、「ヨブ記」(1章-)、「ルカによる福音書」(10章18節)に、隠された堕天使の存在を見出した(ただし彼の著作はギリシャ語である)。

オリゲネス、アウグスティヌス、ディオニュシオス・アレオパギテス、大グレゴリオス、ヨハネス・ダマスケヌスらは天使の罪について論じた[19]。さらに4世紀末、ヒエロニムスは、聖書のラテン語訳(ヴルガータ)において、ヘブライ語の「明けの明星」を意味する言葉 הֵילֵל(イザヤ書 14章12節)を、lucifer の語を当てて訳した。旧約聖書はヘブライ語とアラム語で書かれており、ギリシャ語の新約聖書にもラテン語は使われていないため、ルシファーの語は教父たちの訳語である。

ルシファーの語はキリスト教以前から「明けの明星」である金星を指すものとして用いられ[20]、オウィディウスやウェルギリウスなどの詩歌にも見られる。レスリー・ミラーは『天使のすべて』で、聖書が天使を星として表現していると指摘する[21]。

これらの理解に対する否定論として、バルト主義者の山本和は、日本キリスト教協議会(NCC)編纂の『キリスト教大事典』の悪魔の項目で、キリスト教の伝統的理解を否定している。また、イエス・キリストはルシファーだとする主張がある[22]。自由主義神学(リベラル)ではサタンの人格性を否定する傾向がある[23]。

ルシファーがサタンであるとするキリスト教の伝統的な理解を否定し、イエス・キリストをルシファーとする立場は、世界教会協議会(WCC)などのニューエイジの影響を受けた理解であるとする奥山実は、日本の聖霊派の聖書翻訳である『現改訳聖書』で、ルシファーがサタンであることを明白に訳すとしている[24]。

宗教史学上のルシファーの来歴[編集]

原義[編集]

Lucifer はもともと、ラテン語で「光をもたらす者」(lux 光 + fero 運ぶ)を意味する語であり、当初は悪魔や堕天使を指す固有名詞ではなかった。

ラテン語としてのルキフェルが見出されるのは、ウルガータ聖書の以下の箇所においてである。



「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。」

− 旧約聖書「イザヤ書」14:12[25]

ここでの明けの明星は或るバビロニアの専制君主のことを指し、輝く者を意味するヘブライ語の「ヘレル」が明けの明星 lucifer と訳されている[26]。



「あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」

− 新約聖書「ペトロの手紙二」1:19[27]

この一節では、明けの明星を意味するギリシア語の「ポースポロス」(Φωσφόρος)が lucifer とラテン語訳されている。このように、悪魔や堕天使を含意せず、時にはキリストをも指すルシファーの語が用いられた事例としては、4世紀のサルデーニャの聖人である司教ルキフェルの名や、賛美歌カルメン・アウローラ(Carmen aurorae)などがある。イギリスの詩人シェリーは、地獄の支配者たるルシファーをおぞましい怪物として描いたダンテを「星たちの群れの中のルシファー」とほめたたえた[28][29]。





『神曲』地獄篇・第34曲に登場する「ルチフェル」[30]。ウィリアム・ブレイクによる挿絵(水彩画)。
悪魔としてのルシファー[編集]

ルシファーの名の悪魔たるゆえんは、旧約聖書「イザヤ書」14章12節にあらわれる「輝く者が天より墜ちた」という比喩表現に端を発する。これはもともと、ひとりのバビロニア王かアッシリア王(サルゴン2世かネブカドネツァルであろうと言われる[31])について述べたものであった。キリスト教の教父たちの時代には、これは悪魔をバビロニアの王になぞらえたものであり、神に創造された者が堕ちて悪魔となることを示すものと解釈された。堕天使ないし悪魔とされたこの「輝く者」は、ヒエロニムスによるラテン語訳聖書において、明けの明星を指す「ルキフェル」の語をもって翻訳された。以上の経緯をもってルシファーは悪魔の名となったとされる[32]。

美術史家のルーサー・リンクは著書『悪魔』の中で、サタンという言葉とデヴィル(悪魔)という言葉はほとんど同じものとして扱われるが、必ずしも初めから軌を一にした言葉ではないと指摘し[33]、さらに同様にサタンの同義語として扱われるルシファーについて論を進めている。ルシファーが悪魔の名とされるようになった由来はイザヤ書の一節の誤読にしか見出せないと述べた詩人シェリーの悪魔論[34]を引き合いに出し[35]、また、ルシファーが天を逐われた経緯を最初に決定づけたのは5世紀の教父たちであったことを多くの人は知らないとして、教父たちの解釈とその背景について論じている[36]。

教父たちによるイザヤ14:12の解釈[編集]

テルトゥリアヌスやアウグスティヌスなどの教父たちは「イザヤ書」14:12の墜ちた星ないし墜ちた王をサタンとして論じている。中でもオリゲネスは、前述のイザヤ書の1節と「ルカによる福音書」10章18節にみる「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た」[37]というイエスの言葉とを結び付け、ともにサタンの堕落を示すものと解釈した。しかしながら、黙示文学にみられるいくつかの記述と、この「ルカによる福音書」の1節の示唆するところ、イザヤ書における墜落した輝く星が堕天使を指し示すという理解は、黙示文学の時代にはすでにあらわれており、初期のキリスト教にもこの見方は共有されていたのではないか、とする向きもある[38]。

ルドルフ・シュタイナーにおけるルシファー概念[編集]

ルシファーはルドルフ・シュタイナーの提唱した人智学で用いられる概念でもある。ドイツ語で Luzifer と綴り、日本ではドイツ語風にルツィフェルと表記することもある。シュタイナーは宇宙と人間の進化の過程で人間存在にはたらきかけたさまざまな存在に言及しており、ルツィフェル(的な霊たち)もそのひとつである。ルツィフェルの影響によって人間は能動性と自由意志を獲得したが、同時にそれは悪の契機となった、と論じている[39]。

啓蒙の隠喩・象徴としてのルシファー[編集]





叛逆天使たちを奮起させるサタン(ルシファー)。ウィリアム・ブレイクによる『失楽園』の挿画。
超常現象などに関するライターであるリン・ピクネット(英語版)は、ルシファーは進歩と知的探求心の神であるとしている[40]。

神に次ぐ地位にあり、最も美しく聡明な大天使であったが、人間に神をも超える可能性を見出したため、神の意思に反し、大天使長から悪魔に堕とされてまで、人間に (プロメテウスのように)光(知恵)を与えた者として、人間の真の親とされることのある存在でもある[要出典]。

アラディアの神話におけるルシファー[編集]

19世紀アメリカの民俗学者チャールズ・ゴッドフリー・リーランドがトスカーナ地方の女性より入手した古写本と主張する『アラディア、あるいは魔女の福音』に語られる神話においては、ルシファーは闇である女神ディアーナと対となる光を象徴する男神である。ディアーナ自身より分かたれて生まれた息子であるルシファーは、かの女と結ばれ、ふたりは魔女の女神アラディアとその他の万物を生んだという[41]。

フィクション[編集]





マリオ・ラピサルディの詩集『ルチーフェロ』
ルシファーは中世以来、神秘劇や文学作品の登場人物としてあらわれ、ルシファーをめぐる一連のエピソードがさまざまに変奏されて物語られた。

西欧文学において、ルシファーが登場する名高い文学作品としては、ダンテの『神曲』とジョン・ミルトンの『失楽園』が挙げられる。特に後者は、神に叛逆するルシファーを中心に据えて歌い上げたため、その後のルシファーにまつわる逸話に多く寄与することになる。

聖書正典に存在せず、キリスト教会が公式の教えとして認めたことはないが、アダムの最初の妻・リリスが夫の元から離れた後ルシファーと結婚したという伝説がある。この伝説に基づいた文学作品に、ジョージ・マクドナルドの『リリス』がある。

俗説[編集]

ルシファーと大天使ミカエルは双子、または兄弟だという俗説があるが、これは20世紀以降にフィクション作品によって広まったものである[42]。

ゲイ (中国神話)

(げい、Yi、イー)は、中国神話に登場する人物。弓の名手として活躍したが、妻の嫦娥に裏切られ、最後は弟子の逢蒙によって殺される、悲劇的な英雄である。

羿の伝説は、大別して2つに分けられる。

英雄・羿[編集]

一つ目は、太陽を射落とした伝説である。

帝俊(嚳ないし舜と同じとされる)には羲和という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子(火烏)を儲けた。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた。ところが堯の時代になり、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。これにより地上は灼熱地獄となり、作物も全て枯れてしまった。

これに対して、堯がこの対策を依頼したのが羿である。羿は、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが、効果がなかった。そこで仕方なく、1つを残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻した。その後も羿は中国各地で数多くの魔物を退治し、人々にその偉業を称えられた。

ところが、子を殺された上帝は羿を疎ましく思うようになり、羿は神籍から外され、不老不死ではなくなってしまった。このときに羿の妻の嫦娥(こうが)も同じく神籍から外され、不老不死を失った。嫦娥から文句を言われた羿は、崑崙山の西に住む西王母の元へ赴き、不老不死の薬をもらった。

この薬は2人で分けて飲めば不老不死になるだけであるが、一人で全部飲んでしまえば昇天し再び神になることができるものであった。羿は神に戻れなくても妻と2人で不老不死であればよいと思っていたのだが、嫦娥は薬を独り占めにしてしまい、羿を置いて逃げてしまった。嫦娥は天に行くことを躊躇して月へ行ったが、羿を裏切った罪のせいかヒキガエルへと変身してしまい、そのまま月で過ごすことになった。

その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、家僕の逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、羿を射殺した。

このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」と言うようになった。

なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩に月に団子を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった。」という話が付け加えられることもある。

暗君・羿[編集]

もう一つは、夏を一時的に滅ぼしたという伝説である。

太康の治世、太康は政治を省みずに狩猟に熱中していた。そこで羿は、武羅・伯因・熊髠・尨圉などといった者と一緒に、夏に対して反乱を起こし、太康を放逐して夏の領土を奪った。

しかしその後の羿は、寒浞という奸臣を重用し、政治を省みずに狩猟に熱中するようになり、最後は寒浞によって殺された。

この2つの伝説にどういった関わりがあるのかは不明であるが、白川静は、後者の伝説は羿を奉ずる部族が、夏から領土を奪ったことを示しているとしている。

グミヤー

グミヤーは、中国の少数民族のプーラン族(布朗族)の神話に出てくる神。



目次 [非表示]
1 世界を創造する話
2 太陽を射落とす話
3 関連項目
4 参考文献


世界を創造する話[編集]

グミヤーは、「リ」という名の巨大な獣(サイに似ている)を見つけると、殺して、まず皮をはいで天を創った。続いて肉で大地を、また「リ」の各部を使って万物の物を創り出した。最後に脳を使って人間を創った。このままでは世界は不安定なので、「リ」の4本の脚を東西南北に立てて、天を支える柱にした。

グミヤーは、大きな亀を捕らえて大地を支えさせようとした。ところが亀が嫌がって逃げようとするので、その動きによって大地が揺れた。そのため金鶏を亀の見張りにつけた。亀が逃げようとすると金鶏が眼をつついて止めるのだ。ところが金鶏が眠くなると、その隙に亀が動くので地震が発生する。人々は米粒を蒔いて金鶏を起こさなければいけない。

太陽を射落とす話[編集]

グミヤーが創った世界を滅ぼそうと、元々グミヤーと仲の悪かった太陽9姉妹と月10兄弟が一斉に現れた。大地は乾いてひび割れ、植物は枯れ果て、岩石まで溶け出した。この時に焼き落とされたのが、蟹の頭、魚の舌、蛇の脚、鮭の尾であったという。

グミヤーは地上で最も高い山へ登り、弓矢で太陽と月を射落としていった。最後に1つずつ太陽と月が残った。月は、グミヤーの矢が体を掠めた恐怖のあまり、体が冷たくなった。それまでの月は太陽のように熱を発していたが、このことが原因で熱を出さなくなったのだ。

最後の太陽と月は洞窟に逃げ込んで地上に出てこなくなった。そのため地上が暗く冷たくなった。グミヤーとたくさんの獣と鳥が、太陽と月の隠れた洞窟に行って説得したが、太陽も月も出てこなかった。すると雄鶏が美しい声で語りかけると、ようやく太陽たちが返事をしたが、出てこなかった。そこで雄鶏は、自分が呼んだときだけ出てくれば大丈夫だと約束した。また、太陽と月が交互に出るように頼んだ。太陽が出てくると、地上がふたたび明るく暖かくなったという。

女カ

女媧(じょか、Nüwa)は、古代中国神話に登場する土と縄で人類を創造したとされる女神。笙簧の発明者。伝説の縄の発明者葛天氏と同じく伏羲の号に属するとされる説と、三皇の一人に挙げる説がある。姿は蛇身人首と描写される。姓は鳳姓、伏羲とは兄妹または夫婦とされている。



目次 [非表示]
1 創造神
2 天地修復
3 祭祀
4 日本への伝来時期
5 参考文献
6 関連項目


創造神[編集]

『楚辞』「天問」には女媧以前に人はいなかったと書かれており、人間を作った創造神とされている。後漢時代に編された『風俗通』によると黄土を捏ねて作った人間が貴人であり、数を増やすため縄で泥を跳ね上げた飛沫から産まれた人間が凡庸な人であるとされている。また、『淮南子』「説林訓」には70回生き返るともあり、農業神としての性格をも持つ。

天地修復[編集]





女媧補天
『淮南子』「覧冥訓」には、女媧が天下を補修した説話を載せている。古の時、天を支える四極の柱が傾いて、世界が裂けた。天は上空からズレてしまい、地もすべてを載せたままでいられなくなった。火災や洪水が止まず、猛獣どもが人を襲い食う破滅的な状態となった。女媧は、五色の石で天を補修し、大亀の足で四柱に代え、黒竜の体で土地を修復し、芦草の灰で洪水を抑えたとある。

祭祀[編集]

女媧は中国少数民族の苗族が信奉した神と推測されている。世界を修復する説話『史記』「三皇本記」には、五色の石で補修した世界がそもそも虚れた原因を、羌族が信奉する水神共工が暴れたためとしており、苗族と羌族との戦乱が神話に反映したと言われている。

日本への伝来時期[編集]

道教神である女媧・伏義信仰が日本に渡来した時期に関しては、早い時期で紀元前1世紀(弥生時代中期)説がある。その説(考察)によれば、鳥取県国府町所在の今木神社が所有する線刻された石に描かれた胴が長い人絵が女媧・伏義に当たるとしている(石の大きさは、直径75センチ、短径63センチ)。調査によれば、「鳥」「虎」と読める漢字も刻まれており、その書体から中国山東省に残る「魯孝王刻石」(紀元前56年成立)にある「鳳」の中にある鳥が最も酷似し、隷書体の中でも古い時代にある古隷の書体と考えられている。『淮南子』(前2世紀成立)では、「鳥」は無道・殺りくの神を表し、「虎」は兵戦の神を表している。このことから、「天地再生・人類創造の神である伏義と女媧に祈り、兵戦の神(虎)と無道・殺りくの神(鳥)を遠ざけ、災厄の除去を願ったもの」と解釈されている(しかし、この神の性格が兵戦の神(虎)と無道・殺りくの神(鳥)である可能性も考えられる)。刻石自体が亀甲と形状が類似することから、甲を用いた占いと共通し、『淮南子』の知識を有したシャーマンか王が用いたと考えられている。

参考文献[編集]
白川静『中国の神話』
陳舜臣『中国の歴史(一)』
『淮南子』−「説林篇」
『淮南子』−「覧冥篇」
『山海経』−「大荒西経」
『楚辞』−「天問」
『説文解字』
『太平御覧』−巻七八『風俗通』引用
『経史』−巻三『風俗通』引用
『博雅』−『世本』引用
『帝王世紀』

関連項目[編集]

ウィキメディア・コモンズには、女媧に関連するカテゴリがあります。
道教
グミヤー
コンパス
直角定規
ルシファー
イシュタル
雌雄同体
両性具有
兄弟姉妹婚
洪水伝説

伏羲

伏羲(ふっき・ふくぎ、- Fu Hsi または Fu Xi、紀元前3350年〜紀元前3040年)は古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王。宓羲・包犠・庖犠・伏戯などとも書かれる。伏義、伏儀という表記も使われる。三皇の一人に挙げられる事が多い。姓は鳳(凤)姓。兄妹または夫婦と目される女媧と同様に、蛇身人首の姿で描かれる。伏羲の号には、縄の発明者葛天氏も含まれる。また、現在の中国では、中華民族人文の始祖として崇拝されている。



目次 [非表示]
1 文化英雄
2 洪水神話
3 祭祀
4 参考文献
5 関連項目


文化英雄[編集]

『易経』繋辞下伝に天地の理(ことわり)を理解して八卦を画き、結縄の政に代え、蜘蛛の巣に倣って鳥網や魚網を発明し、また魚釣りを教えたとされる。現在、房総半島の九十九里浜に、有結網として10種類の結び方やその連ね方の伝承が遺る。漢字が黄帝の史官蒼頡によって開発される以前の文字に関する重要な発明とされる。また漢代に班固が編纂した「白虎通義」によると、家畜飼育・調理法・漁撈法・狩り・鉄製を含む武器の製造を開発し、婚姻の制度を定めたとある。

洪水神話[編集]

中国古典論者の聞一多が雲南省を中心に説話を採集した。それによると、伏羲と女媧の父がかつて自身が閉じ込め、自分の子供たちによって解放された雷公と戦ったが、雷公が洪水を起こして攻めたために二人を残して人類が滅亡してしまう。兄妹は雷公を助けた時に彼からもらった種を植えて、そこから生った巨大な瓢箪の中に避難して助かり、結婚して人類を伝えたとある。聞一多は、伏羲が時に庖羲とも書かれる点に注目し、伏羲とは方舟を指しており、女媧がこれに乗って洪水の難を逃れたのではと推論している。

祭祀[編集]

伏羲は女媧と同じく中国少数民族の苗族が信奉した神と推測されており、洪水神話は天災によって氏族の数が極端に減少してしまった出来事が神話に反映したと言われている。

参考文献[編集]
白川静『中国の神話』
陳舜臣『中国の歴史(一)』

盤古

盤古(ばんこ)は中国神話の神で、宇宙開闢の創世神とされる。道教が発展してくると、盤古の名前は「元始天王」や「盤古真人」とも称されるようになった。古代中国における世界起源神話の一つであり、文献として残っている場合と民間伝承として残っている場合がある。

インドのアッサム地方やインドシナ半島の類例に盤牛神話の影響が認められることがある。盤古神話は『三五歴記』や『述異記〔じゅついき〕』といった古文献に記録・採録されていたことがわかっているものの、これら文献は早くに散逸し、各書物にて断片的に残っているにすぎず、また、それらの内容も様々に変容している。そのため、盤牛神話が元来どのような神話として語られていたかは不明である。



目次 [非表示]
1 概要
2 簠簋内伝での記述
3 神話の中での役割
4 牛頭天王との関連性
5 五竜帝王とその子ら
6 関連項目


概要[編集]

盤古についての記述が初めて現れる書物は、呉代(3世紀)に成立した神話集『三五歴紀』である。そこでは、天地ができる以前の、卵の中身のように混沌とした状態から盤古が出現したと記されている。また、斉(4世紀後半)のとき書かれた『述異記』によると、天地が形作られたあと盤古は亡くなり、その死体から万物が生成されたと伝えられている。例えば盤古の息から風が、左目からは太陽が、右目からは月が、頭と体からは中国の神聖な山である五岳(泰山など)がうまれたという具合である(こうした神話の類似から、『リグ・ヴェーダ』の原始巨人プルシャが伝播したものだ、という学説もある)。

盤古は天地創造の神であるから、時系列で考えれば人類創造の神(または偉大な人物)である伏羲・女媧よりも前に存在したことになる。しかし盤古の存在が考え出されたのは、(すくなくとも文献による考察によれば)『史記』(前漢代)や『風俗通義』(後漢代)に記述がある伏羲氏・女媧氏などの三皇五帝が考え出された時期よりもかなり後代ということになる。

なお、超大陸パンゲアは、中国語では、「盤古大陸」と呼称する。これは、パンゲア(Pangea)の音訳でもあり、かつ、「盤古」の発音及びの意味を考慮した意訳でもある。

簠簋内伝での記述[編集]

簠簋内伝曰く、天は初めにはその形が無く地もまたその姿かたちを持ってはいなかった。その様子は鶏卵のように丸くひとかたまりであった(宇宙卵生説)。この天地の様態のことを「最初の伽羅卵」という。この時、計り知れない大きさの蒼々たる天が開き、広々とした地が闢いた(天地開闢)。そして、これら天地に生まれた万物を博載することの限りなさは想像すらできない。 盤牛王はその世界の原初の人であった。その身の丈は十六万八千由膳那であり、その円い顔を天となし、方形の足を地となした。そりたつ胸を猛火とし、蕩蕩たる腹を四海となした。頭は阿伽尼沱天に達し、足は金輪際の底獄に、左手は東弗婆提国に、右手は西懼荼尼国にまで届いた。顔は南閻浮提国を覆い、尻は北鬱単国を支えた。この世の万物で盤牛王から生じなかったものは一切ない。彼の左目は太陽となり、右目は月となった。その瞼を開けると世界は染明け、閉じると黄昏となった。彼が息を吐くと世界は暑くなり、吸うと寒くなった。吹き出す息は風雲となり、吐き出す声は雷霆となった。 彼が天に坐すときは「大梵天王」といい、地に坐すときは「堅牢地神」と呼ぶ。さらに迹不生であるをもって「盤牛王」、本不生であるをもって「大日如来」と称するという。 彼の本体は龍であり、彼はその龍形を広大無辺の地に潜ませている。四時の風に吹かれ、その龍形は千差万別に変化する。左に現れると青龍の川となって流れ、右に現れると白虎の園を広しめ、前に現れると満々たる水を朱雀の池に湛え、後ろに現れると玄武の山々を築いてそびえ立つという(四神相応)。 また、彼は東西南北と中央に宮を構え、八方に八つの閣を開いた。そして五宮の采女を等しく愛し、五帝竜王の子をもうけたとされる。

神話の中での役割[編集]

盤古は天地開闢により誕生したとされるが、各盤古神話ではその天地開闢がいかにして行われたについては明確な記載がない。日本神話では伊邪那岐とイザナミによる国創りの後に各神々が生まれているが、盤古神話では彼が特に国造りをしたという記述はない。ただし、盤古の左目が太陽に、右目が月に、吐息や声が風雨や雷霆になったという要素が「古事記」や「日本書紀」において、伊邪那岐が左目を洗った時に天照大神(太陽)が、右目を洗った時にツクヨミ(月)が、鼻を洗った時に須佐之男命(雷)が生まれたと語られていることとの共通性を指摘し、これを盤古のような世界巨人型神話の痕跡と見る向きもある。ただし、5人の妻たちに五代竜王を産ませた後の彼の去就については特に述べられていない。

牛頭天王との関連性[編集]

ほき内伝にて盤古を「盤牛」としているのは牛頭天王の「牛」を踏まえたものであるからではないかとされている。京都の妙法院に原題を欠いた康応元年の絵巻物があり、天津神、国津神に次いで、盤古王および五帝竜王、そして牛頭天王の絵が上記のようなほき内伝の内容に極似した説明文とともに書かれているという。これを見るに、中世の頃より盤古と牛頭天王をセット結びつける考えがあったと推測されている。

五竜帝王とその子ら[編集]

・盤古の第一の妻を伊采女といい、彼女との子供が青帝青竜王である。盤古は彼に一年の内、72日間を春として支配させた。さらに青帝青竜王に金貴女を娶らせ、10人の子を産ませた。これが十干である。

・盤古の第二の妻を陽専女といい、彼女との子供が赤帝赤龍王である。盤古は彼に一年の内、72日間を夏として支配させた。さらに赤帝赤龍王に愛昇炎女を娶らせ、12人の子を産ませた。これが十二支である。

・盤古の第三の妻を陽専女福采女といい、彼女との子供が白帝白龍王である。盤古は彼に一年の内、72日間を秋として支配させた。さらに白帝白龍王に色姓女を娶らせ、12人の子を産ませた。これが十二直である。

・盤古の第四の妻を癸采女といい、彼女との子供が黒帝黒龍王である。盤古は彼に一年の内、72日間を冬として支配させた。さらに黒帝黒龍王に上吉女を娶らせ、9人の子を産ませた。これが九相図である。

・盤古の第五の妻を金吉女といい、彼女との子供が黄帝黄龍王(他の写本では天門玉女という女神となっているものもある)である。盤古は彼(または彼女)に一年の内、72日間を土用として支配させた。さらに堅牢大神に黄帝黄龍王を娶らせ、48人の子を産ませた。これが七箇の善日以下の(ほき内伝に記載されている)歴注・節日である。もともと、黄帝黄龍王(天門玉女)と48王子は難産の末に生まれたために、自分らが支配する季節、領地をもてなかった。そのため48王子は男子に変じたり、女子に変じたりと定まるところがなかった。そこで、48王子は自分らの支配領を求め先述の四大龍王に謀反を企てた。17日間続いたこの戦によりガンジス河は血に染まったという。そこで諸神らは協議の末、四季のなかから18日づつを48王子の父(母)である黄帝黄龍王(天門玉女)に与えることに決めたという。

天地開闢 (中国神話)

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中国神話における天地開闢(てんちかいびゃく)は、史記にも記載がなくその初めての記述は呉の時代(3世紀)に成立し た神話集『三五歴記』にある。盤古開天闢地(ばんこかいてんびゃくち)、盤古開天(ばんこかいてん)とも。

あらすじ[編集]

天地がその姿かたちをなす前、全ては卵の中身のようにドロドロで、混沌としていた(『太上妙始経』ではこの状態を仮に「道(タオ)」と呼称し、万物の根源(神格化したものを元始天尊)とする)。その中に、天地開闢の主人公となる盤古が生まれた。この盤古誕生をきっかけとして天地が分かれ始めたが、天は1日に1丈ずつ高さを増し、地も同じように厚くなっていった(従って、中国神話では、天の高さと地の厚さの長さは同じ)。その境にいた盤古も姿を1日9度も変えながら1丈ずつ成長していった。そして1万8千年の時が過ぎ、盤古も背丈が9万里の大巨人となり、計り知れない時が経った末に死んだ。盤古が死ぬと、その死体の頭は五岳(東岳泰山を筆頭とした北岳恒山、南岳衡山、西岳華山、中岳嵩山の総称)に、その左目は太陽に、その右目は月に、その血液は海に、その毛髪は草木に、その涙が川に、その呼気が風に、その声が雷になった。

蚩尤

蚩尤(しゆう、Chihyu。または蚩蚘とも書く)は、古代中国神話に登場する神であり、三皇五帝のうちの一人、炎帝神農氏の子孫とされている。兵器の発明者とされ、霧をあやつる力があったとも言われている。路史によると、羌が姓とされる。



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1 概要
2 外見
3 活躍 3.1 タク鹿の戦い
3.2 戦後
3.3 その他

4 脚注
5 関連項目


概要[編集]

蚩尤は、砂や石や鉄を喰らい、超能力を持ち、性格は勇敢で忍耐強く、同じ姿をした八十一人(一説に七十二人)の兄弟がいて、彼らと共に、武器をつくって天下を横行していた。

外見[編集]

獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持つとか、頭に角があるなどとされる。 [1]

『述異記』巻上には「山西の太原地方に現れた蚩尤は、亀足、蛇首であった」と載せている。

『竜魚河図』では、「獣の体をして人語を解し、銅の頭に鉄の額を持ち、砂や小石を食していた」とされ、『帰蔵』には、「八肱(八つのひじ)、八趾(八つの足)、疏首(別れた首?)」。

『山海経』西山経に出てくる兵乱を起こす神は、「蚩尤」の名こそ出てこないものの、「天神あり、その状態は牛の如くで八つの足、二つの首、馬の尾、その声は勃皇(未詳)のよう。これが現れるとその邑に戦がおこる。」とあって、蚩尤に近い外見を持つ記述がある。

活躍[編集]

タク鹿の戦い[編集]

黄帝が即位するに及んで、蚩尤との対決が本格化し、決戦は涿鹿(涿鹿の戦い(英語版)。『史記』五帝本紀)とも、冀州の野(『山海経』大荒北経)とも言われている。兄弟の他に無数の魑魅魍魎を味方にし、風、雨、煙、濃霧を巻き起こし、敵を苦しめ、戦いははじめ蚩尤の側が優勢であった。[2] 黄帝は応竜に命じて蚩尤を追撃しようとしたが、風伯と雨師に阻まれた。が、黄帝は自身の娘である魃を呼び寄せ、風伯・雨師の力を封じ蚩尤を討った。[3] また、「兵信神符」が[4]が渡されたことがきっかけで勝利したとある。

戦後[編集]

黄帝は指南車を使って方位を示し、遂にこれを捕え殺したといわれている。処刑された蚩尤を葬った塚は山東の寿張とも同じく山東の東平陸にあるとも言われ、一説には一方に頭と胴体、もう一方に手足を葬ってあるとも言われている。[5]

また、山西の解州には塩池という場所があり、特産の河東塩を産出しているが、これは赤みをおびており、蚩尤が死んだ時の血が化したものだと伝えられている。

この時、他に蚩尤に味方したのは勇敢で戦の上手い九黎族(中国語版)(ミャオ族の祖先といわれる。)、巨体の夸父族だった。

最後に捕らえられた蚩尤は、殺されたが、このとき逃げられるのを恐れて、手枷と足枷を外さず、息絶えてからようやく外された。身体から滴り落ちた鮮血で赤く染まった枷は、その後「楓(フウ)」となり、毎年秋になると赤く染まるのは、蚩尤の血に染められた恨みが宿っているからだという。

蚩尤の支配下にあった民衆は、蚩尤が討伐された後、その善良なものは鄒屠の地へ、凶悪な者たちは有北(北の寒冷な不毛の地)へと移住させられた。そのうち、鄒屠の地へ移住した者たちは鄒屠氏と呼ばれ、後に鄒氏と屠氏に別れたと言う。前秦・王嘉撰『拾遺記』によれば、帝嚳高辛氏の后は、鄒屠氏の出身だったと言う。

戦いは終わり、九黎族は逃れて三苗となった。三苗は現在の中国を中心に、その周囲の東南アジア諸国、また一部は米国に亡命・移住した、ミャオ族である。黄帝は敵討ちを心配して三苗を皆殺しにしようとしたが、南方の民を根絶やしにできず、その後、三苗は歴代の中国原の覇王たちを執拗に悩ます手強い敵となった。楚は三苗の貴族階級が建国した国と言われている。

蚩尤を殺した黄帝の子である少昊金天氏の天下の衰えを見て、反乱を起こし、九黎と呼ばれた「蚩尤の徒」。 [6]

その他[編集]
負けてしまい化物とされてしまったが、蚩尤が帝王神であったと記す記録も残っている。[7]
秦の時代までには、蚩尤は五兵(五種類の兵器)の創始者とされ、兵主神とも呼ばれて祭祀の対象となっていた。司馬遷『史記』封禅書には、蚩尤は「兵主神」に相当するとされ、戦の神と考えられている。
戦争で必要となる戦斧、楯、弓矢等、全ての優れた武器(五兵)を発明したという。蚩尤が反乱を起こしたことで、これ以降は法を定めて反乱を抑えなければいけなくなったとも言う。
赤旗を「蚩尤旗」と言い、劉邦がこれを軍旗に採用したとされる。
伝説として、蚩尤が神として祭られるようになった経緯を、『竜魚河図』では「……蚩尤が死んだ後、天下は再びあちこちの国で騒動が起こる不穏な日々が続いた。そこで黄帝は蚩尤の姿を描いて示し、これで天下の不心得なものを威嚇した。この絵を見た世の人々は、みなあの恐ろしい蚩尤がまた生き返って現れたと思い、どの国々も蚩尤の絵にひれ伏した。」とされる。
兵主神の祭りは、のちに日本にも伝えられた。

脚注[編集]

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1.^ 『述異記』巻上「銅の頭に鉄の額、鉄石を食し、……人の身体、牛の蹄、四つの目、六つの手を持つ。 ……秦漢の時代の説によれば、蚩尤氏の耳鬢(頬の髪、もみあげのあたり)は剣や戟のようで、頭には角を持つ」
2.^ 『竜魚河図』「仁義に篤い黄帝でも、蚩尤を押さえることができなかった」。
3.^ 『三回強』代荒木他郷では、「蚩尤は兵器をつくり、黄帝への攻撃を開始した。それに対して黄帝は応竜に命じて蚩尤を冀州の野において迎撃させた。応竜とは、竜の中でも翼のあるものを言い、雨を降らせる力を持つものである。ところが蚩尤はこれに対抗して、風伯(風の神)と雨師(雨の神)をまねき、暴風雨をほしいままにした。そこで黄帝は、自分の娘である魃(妭とも書く)を天上から呼び寄せた。日照りの神である魃の力によって風伯・雨師の力は封じられ、ついに蚩尤も討ちとられた。」
4.^ 『竜魚河図』の説話「天帝に遣わされた玄女から「兵信神符」という呪符を渡された」
5.^ 『述異記』巻上によれば、「冀州(河北)の人が銅鉄でできたような髑髏を掘り出し、これが蚩尤の骨だとされた。その歯の長さは2寸、固くて砕くことができなかった。」
6.^ 『国語』楚語とその注「少昊の衰えた時に反乱を起こした九黎(黎氏の九人)は「蚩尤の徒」であった」。
7.^ 『逸周書』嘗麦解に記された伝説は、「蚩尤は赤帝に命じられて少昊におり、四方に臨み百行を司った」。

黄帝

黄帝(こうてい)は神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。また、三皇のうちに数えられることもある。(紀元前2510年〜紀元前2448年)



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1 概要
2 黄帝の書 2.1 道家
2.2 神僊
2.3 天文
2.4 五行
2.5 雑占
2.6 医経
2.7 経方
2.8 房中

3 正史における記載
4 関連項目


概要[編集]

漢代に司馬遷によって著された歴史書『史記』や『国語・晋語』によると、少典の子、姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は姫姓、名は軒轅という。帝鴻氏とも呼ばれ、山海経に登場する怪神・帝鴻と同一のものとする説もある。蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となった。『史記』はその治世を、従わない者を討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描く。

彼以降の4人の五帝と、夏、殷、周、秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。おそらくは、中国に都市国家群が形成され、それぞれの君主が諸侯となっていく過程で、擬制的な血縁関係を結んでいった諸侯たちの始祖として黄帝像が仮託されたのであろう。さらに後世になると、中国の多くの姓氏が始祖を三代の帝王や諸侯としたので、現在も多くの漢民族は黄帝を先祖に仰いでいる。また、清代末期に革命派が、黄帝が即位した年を紀元とする黄帝紀元と称する暦を用いて清朝への対抗意識を示したことはよく知られる。

だが、辛亥革命後に至り革命支持者を中心に黄帝の存在を否定する主張が高まった。これに並行して日本でも同様の議論が起こり、白鳥庫吉・市村瓉次郎・飯島忠夫らが黄帝の実在性を否定する論文を著している。

その一方で黄帝は中国医学の始祖として、現在でも尊崇を集めている。漢の時代では、著者不明の医学書は、黄帝のものとして権威を付けるのが流行した。 現存する中国最古の医学書『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』も、黄帝の著作とされている。

黄帝の書[編集]

前一世紀の漢書『芸文志』には、下記のように分類されている。

道家[編集]
『黄帝四経』四篇、『黄帝銘』六篇、『黄帝君臣』十篇、『雑黄帝』五十八篇

神僊[編集]
『黄帝雑子歩引』十八巻、『黄帝岐伯按摩』十巻、『黄帝雑子芝菌』十八巻、『黄帝雑子十九家方』二十一巻

天文[編集]
『黄帝雑子気』三十三篇

五行[編集]
『黄帝陰陽』二十五巻、『黄帝諸子論陰陽』二十五巻

雑占[編集]
『黄帝長柳占夢』十一巻

医経[編集]
『黄帝内経』十八巻、『黄帝外経』三十七巻

経方[編集]
『神農黄帝食禁』七巻

房中[編集]
『黄帝三王陽方』二十巻

正史における記載[編集]
史記 巻一 五帝本紀第一

神農

神農(しんのう)は古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人。諸人に医療と農耕の術を教えたという。中国では“神農大帝”と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされている。



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1 概要
2 信仰
3 脚注
4 関連項目


概要[編集]

神農は中国における初めての部落連盟の名前ともなり、70世代に渡って古代中国を治めたとされる。また、世界最古の本草書『神農本草経』(しんのうほんぞうきょう)に名を残している。

伝説によれば、神農の体は脳と四肢を除き透明で、内臓が外からはっきりと見えたと言う。

神農はまず赤い鞭で百草(たくさんの植物)を払い、それを嘗めて薬効や毒性の有無を検証した(赭鞭)[1]。もし毒があれば内臓が黒くなるので、そこから毒が影響を与える部位を見極めたのだ。

その後、あまりに多くの毒草を服用したために、体に毒素が溜まり、そのせいで最終的に亡くなったという。

淮南子に、「古代の人は、(手当たり次第に)野草、水、木の実、ドブガイ・タニシなど貝類を摂ったので、時に病気になったり毒に当ったりと多く苦しめられた。このため神農は、民衆に五穀の栽培することや適切な土地を判断すること(農耕)、あらゆる植物を吟味して民衆に食用と毒草の違い(医療)を教えた。このとき多くの植物をたべたので神農は1日に70回も中毒した」とある。[2]

信仰[編集]

湯島聖堂・神農廟(東京都文京区湯島)湯島聖堂内の神農廟に祀られ、毎年11月23日に「神農祭」が行われる。

薬祖神社(大阪府堺市戎之町)堺天神菅原神社の摂社として少彦名命とともに祀られ毎年11月23日に「薬祖祭」が斎行される。

少彦名神社(大阪市中央区)には少彦名命とともに奉られ、毎年11月22日・23日に「神農祭」が行われる。

神農はまた「神農皇帝」の名称で的屋の守護神として崇敬されており、儀式では祭壇中央に掛け軸が祀られるほか、博徒の「任侠道」に相当するモラルを「神農道」と称する。

漢代に五行説が流行するとともに炎帝と一体視されるようになり、西晋代に至ると西周以前に漢水流域に居住していた農耕部族の歴山氏と同一視されるようになった。

国語に、炎帝は少典氏が娶った有蟜氏の子で、共に関中を流れる姜水で生まれた炎帝が姜姓を姫水で生まれた黄帝が姫姓を名乗ったとあり、炎帝は紀元前2740年ころの古代中国の王で120歳まで生きたといわれている。炎帝は神農氏の部落連盟の跡に古代中国を治めた部落の名前ともなり、その首領は“炎帝”と呼ばれた。最後の炎帝は黄帝と連合して華夏族を成した。

中国神話

中国神話(ちゅうごくしんわ)とは、中国に伝わる神話のこと。主に漢民族に伝わるが、他の少数民族の伝説も含まれる。

関連項目[編集]
天地開闢の時代 盤古 伏羲 女媧 顓頊
黄帝と炎帝の時代 神農 黄帝 蚩尤
堯舜の時代 嚳 堯 舜
羿禹の時代 羿 禹 鯀 益
その他 渾沌 饕餮 窮奇 檮杌(四凶) 西王母 共工 牛郎 織女 嫦娥 天女散花
精衛填海
中国の妖怪一覧
中国の神の一覧

裴文中

裴文中(はい ぶんちゅう)は中華人民共和国の考古学者、生物学者。字は明華。

上洞人の骨や北京原人の頭蓋骨を発見し、中国の旧石器考古学と第四紀哺乳動物学の基礎を築いた。輔仁大学教授、中国科学院メンバー。

上洞人

上洞人(じょうどうじん)は、中国で発見された化石人類。「山頂洞人(さんちょうどうじん)」とも言う。北京原人が発見された北京郊外の周口店にある竜骨山の頂上付近にある洞窟から発見された。

1933年、その頃北京原人化石の発掘に従事していた裴文中は、調査のため件の洞窟を発掘したところ、老若男女7体分の化石人骨を発見した。完全な頭骨は3個あり、ヨーロッパのクロマニョン人と同時期の、後期旧石器時代の人類であることが明らかになった。東アジアで最初に発見された化石の現生人類であったが、第二次世界大戦を避けるため北京原人の化石とともに船に積み込まれたまま行方不明となっている。

北京原人

北京原人(ぺきんげんじん、Homo erectus pekinensis[1])とは、中華人民共和国北京市房山県周口店竜骨山の森林で発見された化石人類である。学名はホモ・エレクトス・ペキネンシス。2012年現在はホモ・エレクトス (Homo erectus) の亜種として扱われる。北京原人を含むホモ・エレクトスが生きていた時代は更新世である。

周口店の北京原人遺跡はユネスコの世界遺産として登録されている。

研究史[編集]

スウェーデンの地質学者 ユハン・アンデショーンが人類のものと思われる歯の化石を発見した。さらに、その後の調査で1929年12月2日、中国の考古学者 裴文中が完全な頭蓋骨を発見した。結果的に合計十数人分の原人の骨が発掘された。

しかし、日中戦争の激化により、化石は調査のためにアメリカへ輸送する途中に紛失した。紛失の前に協和医学院の客員解剖学教授であったドイツ出身の学者F・ワイデンライヒがすでに詳細な記録や研究を残しており、レプリカが現存しているので、これが今日の北京原人の研究資料となっている(戦後、わずかに北京原人の骨が発掘されている)。

彼を含め、北京原人を現生人類(アジア人)の祖先とする考えがあった。2012年現在では、現代人のミトコンドリアDNAの系統解析により否定されている。

北京原人はアフリカ大陸に起源を持つ原人のひとつであるが、現生人類の祖先ではなく、何らかの理由で絶滅したと考えられている。石器や炉の跡が同時に発見されていることから、石器や火を利用していたとも考えられている。また、動物の骨が近くに見つかったことから、それらを焼いて食べていたという説もある。さらに、原人の骨自体が粉々にされていたので、北京原人の間では食人の風習もあったという説もまた有力であった。しかし、レプリカに残っていた食痕からハイエナ類によるものであるという見解が提出された[2]。

額が現代人に比べ、なだらかに傾斜し、後頭部の骨は突き出していた。類人猿でも現代の人間でもない、その進化の過程の原人だとされた。

関連項目[編集]
ジャワ原人
明石原人
ネアンデルタール人
クロマニョン人
ヒト
北京原人の逆襲(香港映画)
北京原人 Who are you?(邦画)

摩天楼

摩天楼(まてんろう)
超高層建築物のこと
摩天楼 (岩崎宏美の曲) - 岩崎宏美のシングル
摩天楼 (KENの曲) - KENのシングル
魔天郎 - おもいっきり探偵団 覇悪怒組の登場人物
エトヴィン・ファン・デル・サール(元サッカーオランダ代表・マンチェスターユナイテッドGK)の愛称。
二子山部屋所属の元力士、摩天楼健

スクレイパー

スクレイパー(スクレーパー、英語:scraper)は、物質の外面(または外面に付着しているもの、堆積しているもの)を削ったり、こそげとる刃状、へら状の器具を言う。小さなものでは20cmほどの手動で扱うものから、大きなものでは大型の車両に数mのへら状の装置が装着されている建設機械まですべてスクレイパーと称される。小さなものは英語の clean からケレンと呼ばれることもある。

なお、1930年代にアメリカ合衆国で超高層ビルが建設された際に「空に向かって伸びる刃」のイメージからスカイスクレイパーと呼ばれ、日本ではそれを訳して摩天楼と呼んだ。



目次 [非表示]
1 石器
2 工具
3 建設機械
4 調理器具
5 ウィンタースポーツ


石器[編集]





オーリニャック文化のスクレイパー
「en:Scraper (archaeology)」も参照

石器としてのスクレイパーには代表的なものにサイドスクレイパーとエンドスクレイパーがある。
サイドスクレイパー(side scraper)日本語では削器(さくき)、横型削器、側削器とも呼ばれる。薄片石器の一種。薄片の横に刃を付けたもの。皮を切ったり、木や骨を削るのに使ったと考えられている。中期旧石器時代以降。エンドスクレイパー(end scrapers)日本語では掻器(そうき)、縦型削器、端削器とも呼ばれる。薄片石器の一種。薄片の端に刃を付けたもの。皮の裏側に付いた脂肪を掻き取る、皮なめしの道具であったと考えられている。後期旧石器時代以降。
工具[編集]

詳細は「スクレーパー (工具)」を参照

機械や建築などで、表面仕上げをする工具をスクレーパーという。

建設機械[編集]

建設機械としての代表的なスクレイパーには以下のようなものがある。全て土工事において土を削り取り運搬する目的で使用されるが、細かい点でそれぞれに適した作業の違いがある。また、スクレイパーはブルドーザやトラクタショベルと同様に単体で掘削・運土・敷均しを一連でこなすことができるが、これら比較すると土溜め(ボウル)が装着されていることから一度に作業できる土工量が多く、また旋回性・掘削・積み込み精度に劣ることとから精度の高い作業には向かないという違いが挙げられる。降雪地では除雪車として使用されるときもある。
モータスクレイパー(motor scraper)原動機を搭載した自走式のスクレイパー。形状は多くの場合車体前部と後部が分割され、旋回時に屈折するアーティキュレート式であり、前後の車軸間に掘削・削り取り機構(エプロン、エッジ)・土溜め機構(ボウル)・排土機構(イジェクタ)を備える。前後部それぞれに原動機を搭載したツインエンジン(タンデムエンジン)式の機械と前部のみに原動機を搭載したシングルエンジン式の機械が存在し、前者の方が自力での掘削能力が高い。作業に対して掘削・削り取り能力が不足している場合は、2台のスクレイパーを連結したりブルドーザをプッシャ(押し進めの補助)として使用することもある。モータスクレイパーはホイール式(タイヤ式)であることが多く、被けん引式スクレイパーと比して走行速度が高いゆえに被けん引式スクレイパーよりも長距離の運搬に向いている。被けん引式スクレイパー(carryall scraper)原動機を搭載しないスクレイパー。単体での自走は不可能で、トラクタやブルドーザでけん引を行う。自走式の機械と比して走行能力に劣るが、原動機や運転席部分がないので小型で現場への搬入性には優り、けん引機械に履帯式の機械を用いることが多いため軟弱地や不整地、勾配での作業能力に優る。自走式の機械と同様に掘削・削り取り能力が不足している場合は、プッシャを用いることもある。スクレイプドーザ(scrape dozer)スクレイパーとブルドーザ両方の機能を併せ持った自走機械。ブルドーザに土溜め機構(ボウル)を付加した形状をしている。ブルドーザ同様に旋回性にすぐれているのでモータスクレイパー、被けん引式スクレイパーに比して狭隘な箇所での施工に適する。
調理器具[編集]

「へら#調理器具」も参照

柄(え)のないへら。生地を均(なら)す、生地を切り分ける、ボウルや鍋の底に残った生地をすくいとる、等に用いられる。スクレーパー、スケッパー、ドレッジ(dredge)、(プラスチック)カード、コルヌ(Corne)とも。

ウィンタースポーツ[編集]

ウィンタースポーツ用の用具としてのスクレーパーには代表的なものにアクリルスクレーパーとメタルスクレーパーがある。
アクリルスクレーパー名前の通り、材質としてアクリル系の素材で作られている。スキー用スノーボード用、また厚みや形においても四角型から三角型など各社が特徴的な製品を発売していたりする。用途としては、主に、HOTWAXでつけたWAXを削るために使用する用具である。メタルスクレーパースキーやスノーボードなどの滑走面を修復した際に、滑走面をフラットに調整するのに使用する。低温用の硬いWAXを削りやすくするために使用する場合もある。

水生類人猿説

アクア説(アクアせつ、英: Aquatic Ape Hypothesis: AAH, Aquatic Ape Theory: AAT)とは、ヒトがチンパンジー等の類人猿と共通の祖先から進化する過程で、水生生活に一時期適応することによって直立歩行、薄い体毛、厚い皮下脂肪、意識的に呼吸をコントロールする能力といった他の霊長類には見られない特徴を獲得したとする仮説。

この仮説は、古人類学の主流派からはほぼ黙殺されている。島泰三は説のあり方そのものを批判し、河合信和はトンデモ説、すなわち、科学的な仮説ですらないとしている。

肯定派としては、英国の動物学者であるデズモンド・モリスがいる。『舞い上がったサル (The Human Animal)』では、サバンナ説(21世紀にはいってから、この説も否定された)との両立が可能であると主張している。また1994年にはBBCのドキュメンタリイーTVシリーズで、「Aquatic APE」というタイトルで紹介されている。

この説は解剖学者と海洋生物学者が提唱し、脚本家であるエレイン・モーガン(英語版)の著作で知られるようになった。古人類学の門外漢による仮説のため、古人類学からは無視されている。門外漢の仮説として有名なのは、分子生物学者のアラン・ウィルソンによるミトコンドリア・イブ説という仮説がある。アクア説では現在のところ、科学的に検証する方法が提唱されていない。



目次 [非表示]
1 概要
2 小史
3 仮説
4 反論
5 参考文献 5.1 批判的な立場による文献

6 関連項目
7 外部リンク


概要[編集]

霊長類においてはヒトにのみ見られるとされる特徴のいくつかが水棲哺乳類・水棲鳥類では一般にみられることが、この説の根拠となっている。およそ500万年より以前の人類の祖先の化石が発見されていないミッシングリンクと呼ばれる時代におけるヒトにつながる進化の過程について提唱されている仮説のひとつ。

しかし20世紀後半からオロリン・トゥゲネンシス、サヘラントロプス・チャデンシスなど、500万年以前にチンパンジーの祖先と分かれて間もない頃と思われる化石の一部が発見されミッシングリンクは埋まりつつある。断片的な化石であるため詳細はわからないが、彼らが水棲であったという事を示す証拠は見つかっていない。(ただし現在最古の人類トゥーマイは、当時チャド湖畔であったチャドで発見されている。また海ではなく内陸の淡水とする修正説もある。) 2002年に確認記載されたサヘラントロプス・チャデンシス(700〜600万年前)、オロリン(約600万年前)、アルディピテクス・カタパ(約550万年前)が、化石発見されており、上述のミッシングリンクの存在自体が実質消滅している。また、これらの化石人類はともに出た化石生物より森林〜草原が混在していたところで生活していたと考えられている。

小史[編集]
1942年にドイツの解剖学者、マックス・ヴェシュテンヘーファーが最初に提唱した。
1960年に英国の海洋生物学者、アリスター・ハーディ卿が別個に同様の説を発表した。
1972年に英国の放送作家、エレイン・モーガンがその著作で取り上げたのがベストセラーになり一般大衆にこの仮説が知られるようになる。
2005年、日本の経済人類学研究者の栗本慎一郎は、この水生類人猿説に立脚した人類史の議論を著書『パンツを脱いだサル−ヒトは、どうして生きていくのか』で展開したことで、日本でも知られるようになった。
日本の前衛科学評論家、斎藤守弘は、この説をなぎさ原人説と呼び、一部ではこの名称でも親しまれている。なお、水生類人猿説が示すのはヒトの祖先が類人猿から猿人へ進化した時期についてであるので、なぎさ“原人”としているのは誤解を生じる恐れがあるので注意。

以上のようにこの仮説の提唱者・支持者たちは、古人類学以外の研究者、非科学者が多い。

仮説[編集]
陸棲の生物の水棲への適応は進化の過程において繰り返し発生している。哺乳類に限っても牛や豚などが含まれる鯨偶蹄目に分類されるクジラ目、猫や犬等を含む食肉目に分類されるアシカ亜目、象などと近縁とされるジュゴン目と、現生種でも水棲に適応した複数の系統が見られる。ヒトを含む霊長目やその近縁においても同様の適応が起きる可能性はあり得る。
ミッシングリンクの時代には海水面が高く、アフリカ大陸は北部の大部分が沈んでいた。人類の祖先はこの時に海辺で生活し、海水面が元通りになると陸生活に戻った。
体毛が薄く皮下脂肪が多いのは、水中で温度を保つのに都合がよいからだ。これは他の水棲哺乳類と同じ理由である。
海水中生活に適応した人類の祖先は、海水を離れた後も川辺で暮らした。川辺は失った水分をすぐに調達できる環境であったため、発汗のシステムは都合が良かった。
人の頭髪が長いのは、体が水に浸かっている時に露出している頭部を太陽光から守る為である。
発涙のシステムは海棲哺乳類・鳥類にのみ見られる特徴である。海棲鳥類は塩分を排出するために涙を流すが、海棲哺乳類の場合感情が激した時に涙を流すことがある。
直立二足歩行は、海水に浸かった時に顔だけを出すのに有効である。また他の水棲哺乳類やペンギンも同じ姿勢をとる。
他の水棲哺乳類と同様に頭から尻まで一直線になっているため対面性交の形をとった。
洗練されたバランス感覚と柔軟な背骨は、水中という視覚などによる指標のない世界で泳ぐのに必要だった。水棲哺乳類には人間よりも鋭いそれらがあり、アシカやイルカの芸は水族館でお馴染みである。
水中に入ると心拍数が減る現象「潜水反射」が人間にも備わっている。
一時期の胎児には名残が残っており、全身を毳毛(ぜいもう)と呼ばれる毛で覆われているが、この毳毛は泳いだ時に水が流れる方向と一致している。
現代の人間でも水中に長時間いて助からないと思われていても助かった例がいくつも報告されている。
類人猿には全く見られない手足に水かきの痕跡を持つ人がいる。
生後間もない乳児は水を怖がらず、水中で反射的に息を止める能力を持っている。
人間の新生児は他の類人猿よりも割合として重いが、これは皮下脂肪により浮力をつけて水中での出産を容易にするためである。
水中では嗅覚が役に立たず、衰えた。
ケニアの湖で死因がビタミンA過剰症と見られる原人の化石が発見された。膨大な量の魚を食べていたと考えられる。
人の鼻の穴が下を向いているのは水が入りにくいように適応したためである、上唇の上の溝(人中)を持つ霊長類は人間だけである。これは上唇を鼻孔にぴったり密着させて水中で呼気が漏れたり、水が侵入するのを防いだ名残と考えられる。
女性の外性器が隠れているのは、体の表面積を減らした方が水中生活では有利なためである。

反論[編集]
仮説の根拠の裏付けとなるような化石が発見されていない。
本説が提唱された20世紀中盤にはヒトの祖先についてほとんど知られていなかったが、20世紀末から発見されだした人類の祖先化石と推測されるいずれの物も水棲説を支持していない。
アフリカ北部の大部分が水没していたとすると、体の構造上泳げないキリンを始め、多くの動物の分布・存在が説明できない。
人間にも泳げない人がたくさん存在する。むしろ、ヒトは「訓練しないと泳げない」例外的な動物である。
類人猿程度の遊泳能力の動物が海や湖に入るのは、サメやワニの捕食対象になるだけである。
水棲哺乳類は総じて脚の退化が見られる。
陸上で胴体を引きずらずに歩行できる水棲哺乳類(森林棲のコビトカバを祖先にもつカバ以外)には、密生した短い毛が全身にある。
鼻孔を閉じる能力がない。
猿人・原人化石の中には、死後に遺体が水に没したために水成層から出土するものもあるが、多くは陸成層中から発見される。
水棲動物ではよく発達している瞬膜(水から目を守る膜)が、人間では完全に退化している。
潜水反射自体は、人間以外の哺乳動物にも普通に見られるものである。
ヒトは顔に水が触れると交感神経が興奮する。モーガンの主張と正反対の現象が起こる。
魚の食べ過ぎで死んだのなら魚食に適応していなかった有力な証拠である。「ビタミンA過剰で死んだ」とされる原人については、「致死量のビタミンAを含む肉食獣の肝臓を食べたのが原因である」とするのが古人類学者の定説である。
水生哺乳類が水に入ると心拍数が下がるのは、人間によって強制的に陸に揚げられたイルカやジュゴンが水に戻された時の事を述べただけで、潜水反射とは無関係である。




参考文献[編集]
Hardy, A. C. (1960). “Was man more aquatic in the past?”. New Scientist 7: 642-645.
Hardy, Alister (1960). “Has Man an Aquatic Past?”. The Listener and B.B.C. Television Review LXIII (1624): 839-841.
Westenhöfer, Max (1942) (ドイツ語). Der Eigenweg des Menschen. Belrin: Mannstaedt & Co..
エレイン・モーガン 『女の由来 : もう一つの人類進化論』 望月弘子訳、どうぶつ社、1997年。ISBN 4-88622-300-1。(原著改訂版の翻訳。原著初版の翻訳は、エレン・モーガン 『女の由来』 中山善之訳、二見書房、1972年。)
エレイン・モーガン 『人は海辺で進化した : 人類進化の新理論』 望月弘子訳、どうぶつ社、1998年。ISBN 4-88622-302-8。
エレイン・モーガン 『子宮の中のエイリアン : 母と子の関係はどう進化してきたか』 望月弘子訳、どうぶつ社、1998年。ISBN 4-88622-305-2。
エレイン・モーガン 『進化の傷あと : 身体が語る人類の起源』 望月弘子訳、どうぶつ社、1999年。ISBN 4-88622-307-9。
エレイン・モーガン 『人類の起源論争 : アクア説はなぜ異端なのか?』 望月弘子訳、どうぶつ社、1999年。ISBN 4-88622-311-7。
デズモンド・モリス 『舞い上がったサル』 中村保男訳、飛鳥新社、1996年。ISBN 4-87031-263-8。

批判的な立場による文献[編集]
島泰三 『親指はなぜ太いのか : 直立二足歩行の起原に迫る』 中央公論新社〈中公新書〉、2003年。ISBN 4-12101-709-9。
島泰三 『はだかの起原 : 不適者は生きのびる』 木楽舎、2004年。ISBN 4-90781-847-5。
河合信和『ヒトは海で生まれたって? アクア説批判』、Kawai's Anthropology Homepages 人類博のコラム [リンク切れ]、2001年05月07日付けの第4回に記載

ホモ・エレクトス

ホモ・エレクトス(Homo erectus)またはホモ・エレクトゥスは、更新世に生きていたヒト科の一種である。

形態的特徴として、ホモ・ハビリス種に比べ額の傾斜がゆるく、大きな頭蓋の容量を持つ。脳容量は950ミリリットルから1100ミリリットルで、現生人類の75%程度。また、歯はより小さく、現代人に近い。行動面では、それ以前の人類よりも精巧な石器を作り、使用していた。

ホモ属に含められる前はピテカントロプス・エレクトス(Pithecanthropus erectus)と呼ばれていた。この学名はジャワ原人発見の際に作られた。ピテカントロプスはギリシャ語のピテコス(pitekos 猿)、アントロポス(anthropos 人類)の合成語であり、猿人を意味した。なお、現在はピテカントロプス属は廃止されており、ジャワ原人の現在の学名はホモ・エレクトス・エレクトス(Homo erectus erectus)であり、ホモ・エレクトスの亜種である。



目次 [非表示]
1 種分類の異論
2 研究史
3 脚注
4 関連項目


種分類の異論[編集]

近年では、かつてホモ・エレクトゥスに含められていた以下の化石を別種とすることが多いが、亜種とすることもある。
ホモ・エルガステル(ホモ・エルガスター H. ergaster)トゥルカナ・ボーイを始めとするアフリカの化石ホモ・ハイデルベルゲンシス (H. heiderbergensis)ハイデルベルク人ホモ・アンテセッサー (ホモ・アンテセッソール H. antecessor)ハイデルベルク人に近いが時代が古い。
研究史[編集]
1890年代にウジェーヌ・デュボワがジャワ島でジャワ原人を発掘し、ピテカントロプス・エレクトスと名付けた。
1948年 ロバート・ブルームらが南アフリカのスワートクランズ (Swartkrans) でホモ・エレクトスの化石を発見。

脚注[編集]

関連項目[編集]
アクア説
古人類学
原人 ジャワ原人(ホモ・エレクトス・エレクトス)
北京原人(ホモ・エレクトス・ペキネンシス)

ヒト
ピルトダウン人(捏造化石)

藍田原人

藍田原人(らんでんげんじん)は、中華人民共和国陝西省で発見された人類である。

概要[編集]

陝西省南部、漢中に近い険しい秦嶺山脈の山中、藍田県の公王嶺遺跡と陳家窩遺跡によって構成される藍田遺跡から人の頭蓋骨と下顎骨が発見された。頭蓋骨は推定800cc程度の脳容量の平均的な原人ホモ・エレクトスの化石だった。この化石は推定およそ100万年前〜70万年前のものであるとされている。

また、この上の新しい地層からはスクレイパーなどの石器が発見された。

化石周辺からは熱帯系のイノシシ、パンダなどの動物が発見された。

藍田原人も北京原人などと同様にアジアに進出したものの、子孫を残さずに絶滅したホモ・エレクトスの一群であり、厳密には現代の人類の祖先ではない。

元謀原人

元謀原人(げんぼうげんじん)(英文 Yuanmou man or Yuanmou ape man)は中華人民共和国雲南省元謀で発見された中国最古の人類とも言われている。



目次 [非表示]
1 発掘
2 概要
3 雲南省南部での発見
4 関連項目


発掘[編集]

1965年雲南省北部の険しい山の中にある元謀県上那蚌村の西北にある小高い丘の上で2本の人の上顎門歯が発見された。

1973年歯が見つかった近くの地層で7つの石英の石器と動物化石と炭化した火の使用の痕跡が発見された。

1976年7月25日これらの化石は古磁気測定によりおよそ170万年前とされた。

概要[編集]

しかしながら、この化石が今からおよそ50から60万年前とする学者もいる。

歯の化石は、その裏面の形状からアフリカからアジアに進出したホモ・エレクトスだと考えられている。北京原人よりも古い形状の歯でもある。

発見された石器はその後の研究によって歯の化石と同年代のスクレイパーであることがわかった。

また、発見された動物は歯の化石と同年代のもので、その殆どが絶滅していることがわかった。

これは元謀原人も同様であり、彼等は子孫を残さずに絶滅した系統で、現在の中国人はじめ東アジアの人間の祖先ではないと思われる。

(現代人の祖先がアフリカで誕生したのは20万年ほど前であり、アジアへの進出はさらに遅い時期である。)

雲南省南部での発見[編集]

2005年、雲南省文物考古研究所の調査隊は雲南省南部の山地にある臨滄市の農克硝洞(標高1195メートル)で石器を発見した。これらの石器は旧石器時代早期のもので、元謀原人が170万年前に生息していた可能性が高くなった。だとすれば、農克硝洞で発見された石器は元謀原人と同じ年代に雲南省南部の山地で生息していた原人がつくった石器である可能性が高い。見つかった地層は昔より地元住民が「竜骨」という漢方薬として化石を発掘していた。

石器は花崗岩や玄武岩のスクレイパーや斧だった。石器の大きさはかねがね10センチ程度で、形状は藍田原人のものに似ている。

関連項目[編集]
北京原人
藍田原人
石器時代 旧石器時代
新石器時代

中国の歴史







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中国の歴史

中国の歴史

元謀・藍田・北京原人
神話伝説(三皇五帝)
黄河・長江・遼河文明


周 西周
東周 春秋
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東晋 十六国
南北朝 宋 北魏

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五代十国
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後金


満洲 中華民国

中華人民共和国 中華民国
(台湾)
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中国朝鮮関係史

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中国の歴史(ちゅうごくのれきし)、あるいは中国史(ちゅうごくし)

中国の黄河文明は古代の四大文明の一つに数えられ、また黄河文明よりもさらにさかのぼる長江文明が存在した。



目次 [非表示]
1 王朝・政権の変遷
2 概略 2.1 先史人類史
2.2 文明の萌芽 2.2.1 長江文明
2.2.2 黄河文明
2.2.3 その他

2.3 先秦時代 2.3.1 三代 2.3.1.1 夏
2.3.1.2 殷(商)
2.3.1.3 周

2.3.2 春秋戦国時代 2.3.2.1 春秋
2.3.2.2 諸子百家
2.3.2.3 戦国


2.4 秦漢帝国 2.4.1 秦
2.4.2 楚漢戦争
2.4.3 漢 2.4.3.1 前漢
2.4.3.2 後漢
2.4.3.3 黄巾の乱


2.5 三国時代 2.5.1 曹魏
2.5.2 晋による統一

2.6 魏晋南北朝時代 2.6.1 五胡十六国
2.6.2 東晋と南朝
2.6.3 北朝

2.7 隋唐帝国 2.7.1 隋
2.7.2 唐 2.7.2.1 初唐
2.7.2.2 武周
2.7.2.3 盛唐から晩唐へ


2.8 五代十国
2.9 混乱と繁栄の宋元時代 2.9.1 北宋と遼・西夏 2.9.1.1 北宋
2.9.1.2 遼・西夏
2.9.1.3 庶民文化の発達と程朱理学

2.9.2 南宋と金・蒙古 2.9.2.1 南宋
2.9.2.2 蒙古の起源と世界最大の帝国
2.9.2.3 南宋と蒙古の関係

2.9.3 元 2.9.3.1 元朝統治下の中国
2.9.3.2 漢民族の復興


2.10 明清帝国 2.10.1 明 2.10.1.1 鄭和の大航海
2.10.1.2 陽明心学
2.10.1.3 銀経済の発展と北虜南倭
2.10.1.4 明の滅亡

2.10.2 清 2.10.2.1 満洲人の起源と中華支配
2.10.2.2 康熙乾隆の盛世
2.10.2.3 アヘン戦争と中国植民地化の危機
2.10.2.4 日清戦争と光緒新政


2.11 近代(中華民国の時代) 2.11.1 清朝の終焉と辛亥革命
2.11.2 少数民族の動向 2.11.2.1 チベットの独立運動
2.11.2.2 モンゴル(外蒙古)の独立成功
2.11.2.3 新疆(東トルキスタン)の動乱

2.11.3 革命後の中国政局
2.11.4 袁世凱の台頭と帝制運動
2.11.5 袁世凱死後の政局
2.11.6 国民革命
2.11.7 国民政府
2.11.8 満州事変と日中対立
2.11.9 日中戦争
2.11.10 戦乱再起の国共内戦

2.12 現代(中華人民共和国の時代) 2.12.1 社会主義化と反動粛清
2.12.2 中国共産党の対ソ自立化
2.12.3 文化大革命前期 2.12.3.1 文化大革命後期

2.12.4 改革開放以後の現在 2.12.4.1 天安門事件
2.12.4.2 一党独裁
2.12.4.3 人権問題
2.12.4.4 中華人民共和国の現在状況
2.12.4.5 少数民族問題
2.12.4.6 台湾問題



3 歴朝歴代の人口変遷
4 地方行政制度 4.1 封建制度(前1600年頃〜前221年)
4.2 郡県制度(前221年〜249年)
4.3 軍府による広域行政(249年〜583年)
4.4 州県制(583年〜1276年)

5 祭祀・礼楽・律令・封建
6 強勢の大国外交 6.1 夏・殷・周
6.2 秦
6.3 漢
6.4 魏晋南北朝
6.5 隋
6.6 唐
6.7 宋
6.8 元
6.9 明
6.10 清
6.11 中華民国
6.12 中華人民共和国

7 脚注 7.1 注釈
7.2 出典

8 関連項目
9 外部リンク


王朝・政権の変遷[編集]





現在の中国、すなわち中華人民共和国の領域先史時代 長江文明
黄河文明
遼河文明

神話時代(三皇五帝)
夏(紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)
殷(商、商朝とも。商人の語源)(紀元前1600年頃 - 紀元前12世紀・紀元前11世紀ごろ)
周(紀元前12世紀・紀元前11世紀ごろ - 紀元前256年)…殷を倒すと、周(西周)建国。克殷の年代については諸説あり、はっきりしない。 春秋時代(紀元前770年 - 紀元前403年)…紀元前453年晋が韓魏趙に分割された時点、または紀元前403年韓魏趙が諸侯に列した時点をもって春秋時代の終わり、戦国時代の始まりとする。
戦国時代(紀元前403年 - 紀元前221年)…晋が韓・趙・魏に分裂し、戦国時代突入。

秦(紀元前221年 - 紀元前207年)…秦王・政(始皇帝)が6国を滅ぼし中華統一。
漢 前漢(西漢、紀元前206年 - 8年)…秦滅亡後、楚の項羽との楚漢戦争に勝ち、劉邦(高祖)が建国。
新(8年 - 23年)…外戚の王莽が皇帝から帝位を簒奪後、建国。
後漢(東漢、25年 - 220年)…前漢の景帝の子孫の劉秀(光武帝)が新末後漢初の動乱を勝ち抜き、漢を再興。

三国時代(220年 - 280年) 魏、蜀(蜀漢・漢)、呉…曹操の子曹丕(文帝)が献帝から禅譲を受け即位すると、蜀の劉備(昭烈帝)も漢皇帝を名乗り即位、さらに呉の孫権(大帝)も即位、三国時代に入る。

晋(265年 - 420年) 西晋(265年 - 316年)…晋王司馬炎(武帝)が魏の元帝より禅譲を受け即位し建国。だが、異民族五胡の侵入により衰退。異民族の漢に滅ぼされた。
東晋(317年 - 420年)…皇族でただ一人生き残った琅邪王・司馬睿は江南に逃れ、建康で即位(元帝)。これを中原の晋と区別して東晋という。
五胡十六国時代(304年 - 439年)

南北朝時代(439年 - 589年) 北魏、東魏、西魏、北斉、北周
宋、斉、梁、陳

隋(581年 - 618年)
唐(618年 - 907年) 武周

五代十国時代 後梁、後唐、後晋、後漢、後周……五代(中原を中心とする国)
呉、南唐・閩・呉越・荊南・楚・南漢・前蜀・後蜀・北漢……十国(中華東西南北に拠る勢力)

宋 北宋(960年 - 1127年)
南宋(1127年 - 1279年)
遼、西夏、金

元(1271年 - 1368年)
明(1368年 - 1644年) 南明

清(1616年 - 1912年)(1616年 - 1636年は後金、それ以前はマンジュ国) 太平天国、満州国

中華民国(1912年 - 現在)
中華人民共和国(1949年 - 現在)

概略[編集]

先史人類史[編集]

中国に現れた最初期の人類としては、元謀原人や藍田原人、そして北京原人が知られている。

文明の萌芽[編集]

「中国の新石器文化の一覧」も参照

中国大陸では、古くから文明が発達した。中国文明と呼ばれるものは、大きく分けて黄河文明と長江文明の2つがある。黄河文明は、畑作が中心、長江文明は稲作が中心であった。黄河文明が、歴史時代の殷(商)や周などにつながっていき、中国大陸の歴史の中軸となった。長江文明は次第に、中央集権国家を創出した黄河文明に同化吸収されていった。

長江文明[編集]





母なる長江
長江文明は黄河文明が萌芽する遥か前より栄えていた。夏王朝の始祖とされる禹が南方出身であるとされるため、この長江流域に夏王朝が存在したのではないかという説[† 1]がある。
玉蟾岩遺跡…湖南省(長江中流)。紀元前14000年? - 紀元前12000年?の稲モミが見つかっているが、栽培したものかは確定できない。
仙人洞・呂桶環遺跡…江西省(長江中流)。紀元前12000年ごろ?の栽培した稲が見つかっており、それまで他から伝播してきたと考えられていた中国の農耕が中国独自でかつ最も古いものの一つだと確かめられた。
彭頭山文化…湖南省(長江中流)。紀元前7000年? - 紀元前5000年?。散播農法が行われており、中国における最古の水稲とされる。
大渓文化…四川省(長江上流)。紀元前4500年? - 紀元前3300年?。彩文紅陶(紋様を付けた紅い土器)が特徴で、後期には黒陶・灰陶が登場。灌漑農法が確立され、住居地が水の補給のための水辺から大規模に農耕を行う事の出来る平野部へ移動した。
屈家嶺文化…湖北省。紀元前3000年? - 紀元前2500年?大渓文化を引き継いで、ろくろを使用した黒陶が特徴。河南地方の黄河文明にも影響を与えたと考えられる。
石家河文化…屈家嶺文化から発展し、湖北省天門県石家河に大規模な都城を作った紀元前2500年頃を境として屈家嶺と区別する。この都城は南北1.3Km、東西1.1Kmという大きさで、上述の黄河流域の部族と抗争したのはこの頃と考えられる。
河姆渡文化 …紀元前5000年? - 紀元前4000年?下流域では最古の稲作。狩猟や漁労も合わせて行われ、ブタの家畜化なども行われた。
良渚文化…浙江省(銭塘江流域)。紀元前5260年? - 紀元前4200年?(以前は文化形態から大汶口文化中期ごろにはじまったとされていたが、1977年出土木材の年輪分析で改められた)青銅器以前の文明。多数の玉器の他に、絹が出土している。分業や階層化も行われたと見られ、殉死者を伴う墓が発見されている。黄河文明の山東竜山文化とは相互に関係があったと見られ、同時期に衰退したことは何らかの共通の原因があると見られている。
三星堆遺跡…紀元前2600年? - 紀元前850年?。大量の青銅器が出土し、前述の他に目が飛び出た仮面・縦目の仮面・黄金の杖などがあり、また子安貝や象牙なども集められており、権力の階層があったことがうかがい知れる。青銅器については原始的な部分が無いままに高度な青銅器を作っているため他の地域、おそらくは黄河流域からの技術の流入と考えられる。長江文明と同じく文字は発見されていないが、「巴蜀文字」と呼ばれる文字らしきものがあり、一部にこれをインダス文字と結びつける説もある。

黄河文明[編集]





龍山文化時代の高杯。1976年山東省出土
黄河文明は、その後の中国の歴史の主軸となる。
裴李崗文化…紀元前7000?~紀元前5000?。一般的な「新石器時代」のはじまり。定住し、農業も行われていた。河南省(黄河中流)。土器は赤褐色
老官台文化…紀元前6000?~紀元前5000?。土器作りや粟作りが行われていた。陝西省(黄河上流)。土器は赤色。
北辛文化…紀元前6000?~紀元前5000?。土器は黄褐色。山東省(黄河下流)
磁山文化…紀元前6000?~紀元前5000?。土器は赤褐色。河北省(黄河下流)
仰韶文化…紀元前4800?~紀元前2500?。前期黄河文明における最大の文化。陝西省から河南省にかけて存在。このころは母系社会で、農村の階層化も始まった。文化後期になると、社会の階層化、分業化が進み、マルクス経済学でいうところの原始共産制は仰韶文化のころに終焉したと見られる。土器は赤色。
後岡文化…紀元前5000?~紀元前4000?。北辛文化が発展。河南省。
大汶口文化…紀元前4300?~紀元前2400?。土器は前期は赤色(彩陶)、後期は黒色(黒陶)。なお、この区分は黄河文明全体に見られる。山東省。
馬家窯文化…紀元前3100?~紀元前2700?。彩陶中心。仰韶文化が西へ伝播し発展した。甘粛省。
龍山文化…紀元前2500?~紀元前2000?。大汶口文化から発展。後期黄河文明最大の文化。土器は黒色(黒陶)。山東省。
喇家遺跡…紀元前2000年頃の遺跡。水害で埋まり、麺類や楽器などが発見された。青海省。
二里頭文化…紀元前2000?~紀元前1600?。遺跡の中心部には二つの宮殿がある。河南省。

その他[編集]
興隆窪文化…内モンゴル自治区赤峰市(遼河流域)。紀元前6200年頃-紀元前5400年頃の遺跡。土器や環濠集落が見つかり、龍をかたどった中国でも最も初期の玉製品が発見されている。
新楽遺跡…遼寧省(遼河流域)。紀元前5200年?ごろの定住集落。母系社会が定着し、農業も行われていた。
紅山文化…内モンゴル自治区赤峰市(遼河流域)。紀元前4700年頃-紀元前2900年頃の農業遺跡。龍をかたどった玉器や、大規模な祭祀遺跡を建設した。

先秦時代[編集]

三代[編集]

夏[編集]

史記では伝説と目される三皇五帝時代に続いて夏[† 2]王朝について記述されている。夏については実在が確かでなくまた定説もない。

殷(商)[編集]

殷(代表的な遺跡殷墟が有名であるため日本では一般に殷と呼ばれるが、商の地が殷王朝の故郷とされており、商が自称であるという説もあるため、中国では商と呼ぶほうが一般的である。殷商とも呼ぶ。)が実在の確認されている最古の王朝である。殷では、王が占いによって政治を行っていた(神権政治)。殷は以前は山東で興ったとされたが、近年は河北付近に興ったとする見方が有力で、黄河文明で生まれた村のうち強大になり発展した都市国家の盟主であった[† 3]と考えられる。

周[編集]

紀元前11世紀頃に殷を滅ぼした周は、各地の有力者や王族を諸侯として封建制をおこなった。しかし、周王朝は徐々に弱体化し、異民族に攻められ、紀元前770年には成周へ遷都した。その後、史記周本紀によれば犬戎の侵入により西周が滅び、洛陽に東周が再興されるが、平勢隆郎の検討によれば幽王が殺害されたあと短期間携王が西、平王が東に並立し、紀元前759年平王が携王を滅ぼしたと考えられる。平王のもとで周は洛陽にあり、西周の故地には秦が入る。これ以降を春秋時代と呼ぶ。春秋時代には、周王朝の権威はまだ残っていたが、紀元前403年から始まるとされる戦国時代には、周王朝の権威は無視されるようになる。

春秋戦国時代[編集]





諸子百家の一、孔子
春秋戦国時代は、諸侯が争う戦乱の時代であった。

春秋[編集]

春秋時代は都市国家の盟主どうしの戦いだった。しかし春秋末期最強の都市国家晋が三分割されたころから様子が変わる。その当時の晋の有力な家臣六家が相争い、最初力が抜きん出ていた智氏が弱小な趙氏を攻めたものの、趙氏が農村を経済的ではなく封建的によく支配し城を守りきり、疲弊した智氏を魏氏、韓氏が攻め滅ぼしたことで最終的に晋は趙、魏、韓の三氏に分割され滅亡した。このこともあってそれまで人口多くてもせいぜい5万人程度だった都市国家が富国強兵に努め、商工業が発達し、貨幣も使用し始めやがて領土国家に変貌しその国都となった旧都市国家は30万人規模の都市に変貌する。また鉄器が普及したこともあいまって、農業生産も増大した。

諸子百家[編集]

また、このような戦乱の世をどのように過ごすべきかという思想がさまざまな人たちによって作られた。このような思想を説いた人たちを諸子百家(陰陽家、儒家、墨家、法家、名家、道家、兵家等が代表的)という。

戦国[編集]

晋の分裂以後を一般に戦国時代という。

秦漢帝国[編集]

秦[編集]





始皇帝
現在の陝西省あたりにあった秦は、戦国時代に着々と勢力を伸ばした。勢力を伸ばした背景には、厳格な法律で人々を統治しようとする法家の思想を採用して、富国強兵に努めたことにあった。秦王政は、他の6つの列強を次々と滅ぼし、紀元前221年には史上はじめての中国統一を成し遂げた。秦王政は、自らの偉業をたたえ、王を超える称号として皇帝を用い、自ら始皇帝と名乗った。





兵馬俑
始皇帝は、法家の李斯を登用し、中央集権化を推し進めた。このとき、中央から派遣した役人が全国の各地方を支配する郡県制が施行された。また、文字・貨幣・度量衡の統一も行われた。さらに、当時モンゴル高原に勢力をもっていた遊牧民族の匈奴を防ぐために万里の長城を建設させた。さらに、軍隊を派遣して、匈奴の南下を抑えた。また、嶺南地方(現在の広東省)にも軍を派遣し、この地にいた百越諸族を制圧した。しかし、このような中央集権化や土木事業・軍事作戦は人々に多大な負担を与えた。そのため、紀元前210年に始皇帝が死ぬと、翌年には陳勝・呉広の乱という農民反乱がおきた。これに刺激され各地で反乱がおき、ついに秦は紀元前206年に滅びた。

楚漢戦争[編集]





後漢時代に改良された、紙
秦が滅びたあと、劉邦と項羽が覇権をめぐって争った(楚漢戦争)が、紀元前202年には、劉邦が項羽を破り、漢の皇帝となった。

漢[編集]

前漢[編集]

劉邦は、始皇帝が急速な中央集権化を推し進めて失敗したことから、一部の地域には親戚や臣下を王として治めさせ、ほかの地域を中央が直接管理できるようにした。これを郡国制という。しかし、紀元前154年には、各地の王が中央に対して呉楚七国の乱と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は鎮圧され、結果として、中央集権化が進んだ。紀元前141年に即位した武帝は、国内の安定もあり、対外発展を推し進めた。武帝は匈奴を撃退し、シルクロードを通じた西方との貿易を直接行えるようにした。また、朝鮮半島北部、ベトナム北中部にも侵攻した。これらの地域はその後も強く中国文化の影響を受けることとなった。また、武帝は董仲舒の意見を聞いて、儒教を統治の基本とした。これ以降、中国の王朝は基本的に儒教を統治の基本としていく。一方で文帝の頃より貨幣経済が広汎に浸透しており、度重なる軍事行動と相まって、農民の生活を苦しめた。漢の宮廷では貨幣の浸透が農民に不利益であることがしばしば論じられており、農民の救済策が検討され、富商を中心に増税をおこなうなど大土地所有を抑制しようと努力した。また儒教の国教化に関連して儒教の教義論争がしばしば宮廷の重大問題とされるようになった。

後漢[編集]

8年には、王莽が皇帝の位を奪って、一旦漢を滅ぼした。王莽は当初儒教主義的な徳治政治をおこなったが、相次ぐ貨幣の改鋳や頻繁な地名、官名の変更など理想主義的で恣意的な政策をおこなったため徐々に民心を失い、辺境異民族が頻繁に侵入し、赤眉の乱など漢の復興を求める反乱が起き、内乱状態に陥った。結局、漢の皇族の血を引く劉秀によって漢王朝が復興された。この劉秀が建てた漢を後漢という。王朝初期には雲南に進出し、また班超によって西域経営がおこなわれ、シルクロードをおさえた。初期の後漢王朝は豪族連合的な政権であったが、章帝の時代までは中央集権化につとめ安定した政治が行われた。しかし安帝時代以後外戚や宦官の権力の増大と官僚の党派対立に悩まされるようになった。

黄巾の乱[編集]





三国決戦の地、赤壁
後漢末期の184年には、黄巾の乱と呼ばれる農民反乱がおきた。これ以降、隋が589年に中国を再統一するまで、一時期を除いて中国は分裂を続けた。この隋の再統一までの分裂の時代を魏晋南北朝時代という。また、この時期には日本や朝鮮など中国周辺の諸民族が独自の国家を形成し始めた時期でもある。

三国時代[編集]

黄巾の乱が鎮圧されたあと、豪族が各地に独自政権を立てた。中でも有力であったのが、後漢王朝の皇帝を擁していた曹操である。しかし、中国統一を目指していた曹操は、208年に赤壁の戦いで、江南の豪族孫権に敗れた。結局、曹操の死後、220年に曹操の子の曹丕が後漢の皇帝から皇帝の位を譲られ、魏を建国した。これに対して、221年には、現在の四川省に割拠していた劉備が皇帝となり、蜀を建国した。さらに、江南の孫権も229年に皇帝と称して、呉を建国した。この魏・呉・蜀の三国が並立した時代を三国時代という。

曹魏[編集]

三国の中で、もっとも有力であったのは魏であった。魏は後漢の半分以上の領土を継承したが、戦乱で荒廃した地域に積極的な屯田をおこない、支配地域の国力の回復につとめた。魏では官吏登用法として、九品官人法[† 4]がおこなわれた。

晋による統一[編集]

三国は基本的に魏と呉・蜀同盟との争いを軸としてしばしば交戦したが、蜀がまず263年に魏に滅ぼされ(蜀漢の滅亡)、その魏も有力な臣下であった司馬炎に265年に皇帝の位を譲るという形で滅亡した。司馬炎は皇帝となって国号を晋と命名し、さらに280年に呉を滅ぼし、中国を統一した(西晋)。

しかし、300年から帝位をめぐって各地の皇族が戦争を起こした(八王の乱)。

魏晋南北朝時代[編集]

五胡十六国[編集]

この時、五胡と呼ばれる異民族を軍隊として用いたため、これらの民族が非常に強い力を持つようになった。316年には、五胡の1つである匈奴が晋をいったん滅ぼした(永嘉の乱)。これ以降、中国の北方は、五胡の建てた国々が支配し、南方は江南に避難した晋王朝(南に移ったあとの晋を東晋という)が支配した。この時期は、戦乱を憎み、宗教に頼る向きがあった。代表的な宗教が仏教と道教であり、この2つの宗教は時には激しく対立することがあった。

東晋と南朝[編集]

江南を中心とする中国の南方では、異民族を恐れて、中国の北方から人々が多く移住してきた。これらの人々によって、江南の開発が進んだ。それに伴い、貴族が大土地所有を行うということが一般的になり、貴族が国の政治を左右した。一部の貴族の権力は、しばしば皇帝権力よりも強かった。これらの貴族階層の者により散文、書画等の六朝文化と呼ばれる文化が発展した。東晋滅亡後、宋・斉・梁・陳という4つの王朝が江南地方を支配したが、貴族が強い力を握ることは変わらなかった。梁の武帝は仏教の保護に努めた。

北朝[編集]

北方では、鮮卑族の王朝である北魏が台頭し、439年には、華北を統一した。471年に即位した孝文帝は漢化政策を推し進めた。また、土地を国家が民衆に割り振る均田制を始め、律令制の基礎付けをした。しかし、このような漢化政策に反対するものがいたこともあり、北魏は、西魏と東魏に分裂した。西魏は北周へと、東魏は北斉へと王朝が交代した。577年には北周が北斉を滅ぼしたが、581年に、鮮卑系の隋が北周にとって代わった。589年に、隋は陳を滅ぼした。

魏晋南北朝表も参照。

隋唐帝国[編集]

隋[編集]





現在でも使用される世界最大の大運河
隋の文帝は、均田制・租庸調制・府兵制などを進め、中央集権化を目指した。また同時に九品中正法を廃止し、試験によって実力を測る科挙を採用した。しかし、文帝の後を継いだ煬帝は江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、度重なる遠征を行ったために財政が逼迫し、民衆の負担が増大した。三回目の高句麗遠征に合わせて農民反乱が起き、618年に隋は滅亡した。

唐[編集]





当時世界最大の都市だった長安のシンボルタワー・大雁塔
初唐[編集]

隋に代わって、中国を支配したのが、唐である。唐は基本的に隋の支配システムを受け継ぎ、626年に即位した太宗は租庸調制を整備し、律令制を完成させた。唐の都の長安は、当時世界最大級の都市であり、各国の商人などが集まった。長安は、西方にはシルクロードによってイスラム帝国や東ローマ帝国などと結ばれ、ゾロアスター教・景教・マニ教をはじめとする各地の宗教が流入した。また、文化史上も唐時代の詩は最高のものとされる。

武周[編集]

唐太宗の死後着々と力を付けた太宗とその子の高宗の皇后武則天はついに690年政権を簒奪し、中国史上唯一の女黃帝に即位し、国号を周とした。

盛唐から晩唐へ[編集]

712年に玄宗は唐を再興させて国内の安定を目指したが、すでに律令制は制度疲労を起こしていた。また、周辺諸民族の統治に失敗したため、辺境に強大な軍事力を持った節度使を置く必要がでてきた。節度使は軍権以外にも、後に民政権・財政権も持ち始め、755年には、節度使の安禄山たちが安史の乱と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は郭子儀や僕固懐恩、ウイグル帝国の太子葉護らの活躍で何とか鎮圧されたが、反乱軍の投降者の勢力を無視できず、投降者を節度使に任じたことなどからさらに各地で土地の私有(荘園)が進み、土地の国有を前提とする均田制が行えなくなっていった。結局政府は土地の私有を認めざるを得なくなり、律令制度は崩壊した。875年から884年には黄巣の乱と呼ばれる農民反乱がおき、唐王朝の権威は失墜し、各地の節度使はますます権力を強めて907年には、節度使の1人である朱全忠が唐を滅ぼした。

五代十国[編集]

唐の滅亡後、各地で節度使があい争った。この時代を五代十国時代という。この戦乱を静めたのが、960年に皇帝となって宋を建国した趙匡胤である。ただし、完全に中国を宋が統一したのは趙匡胤の死後の976年である。

混乱と繁栄の宋元時代[編集]

北宋と遼・西夏[編集]

北宋[編集]





杭州
北宋初の皇帝趙匡胤は、節度使が強い権力をもっていたことで戦乱が起きていたことを考え、軍隊は文官が率いるという文治主義をとっ た。また、これらの文官は、科挙によって登用された。宋からは、科挙の最終試験は皇帝自らが行うものとされ、科挙で登用された官吏と皇帝の結びつきは深まった。また、多くの国家機関を皇帝直属のものとし、中央集権・皇帝権力強化を進めた。科挙を受験した人々は大体が、地主層であった。これらの地主層を士大夫と呼び、のちの清代まで、この層が皇帝権力を支え、官吏を輩出し続けた。

遼・西夏[編集]

唐は、その強大な力によって、周辺諸民族を影響下においていたが、唐の衰退によってこれらの諸民族は自立し、独自文化を発達させた。また、宋は文治主義を採用していたため、戦いに不慣れな文官が軍隊を統制したので、軍事力が弱く、周辺諸民族との戦いにも負け続けた。なかでも、契丹族の遼・タングート族の西夏は、中国本土にも侵入し、宋を圧迫した。これらの民族は、魏晋南北朝時代の五胡と違い、中国文化を唯一絶対なものとせず、独自文化を保持し続けた。このような王朝を征服王朝という。後代の元や清も征服王朝であり、以降、中国文化はこれらの周辺諸民族の影響を強く受けるようになった。

庶民文化の発達と程朱理学[編集]

文化的には、経済発展に伴って庶民文化が発達した。また、士大夫の中では新しい学問をもとめる動きが出て、儒教の一派として朱子学が生まれた。

南宋と金・蒙古[編集]

南宋[編集]

1127年には、金の圧迫を受け、宋は、江南に移った。これ以前の宋を北宋、以降を南宋という。南宋時代には、江南の経済が急速に発展した。また、すでに唐代の終わりから、陸上の東西交易は衰退していたが、この時期には、ムスリム商人を中心とした海上の東西交易が発達した。当時の宋の特産品であった陶磁器から、この交易路は陶磁の道と呼ばれる。南宋の首都にして海上貿易の中心港だった杭州は経済都市として栄え、元時代に中国を訪れたマルコ・ポーロは杭州を「世界一繁栄し、世界一豊かな都市」と評している。

蒙古の起源と世界最大の帝国[編集]

13世紀初頭にモンゴル高原で、成吉思汗(チンギス・カン)が、モンゴルの諸部族を統一し、ユーラシア大陸各地へと、征服運動を開始した。モンゴルは、東ヨーロッパ、ロシア、小アジア、メソポタミア、ペルシャ、アフガニスタン、西蔵(チベット)に至る広大な領域を支配し、この帝国はモンゴル帝国(蒙古帝国)と呼ばれる。

モンゴル帝国は各地に王族や漢人有力者を分封した。モンゴル帝国の5代目の君主(ハーン)にクビライ(忽必烈)が即位すると、これに反発する者たちが、反乱を起こした。結局、モンゴル帝国西部に対する大ハーン直轄支配は消滅し、大ハーンの政権は中国に軸足を置くようになった。もっとも、西方が離反しても、帝国としての緩やかな連合は保たれ、ユーラシアには平和が訪れていた。1271年にクビライは元を国号として中国支配をすすめた。

南宋と蒙古の関係[編集]

中国もまたモンゴル帝国の征服活動の例外ではなかった。当時、黄河が南流し、山東半島の南に流れていたため、漢民族は北方民族の攻勢を防げなかった。華北は満州系の女真族による金が、南部を南宋が支配していたが、金は1234年、南宋は1279年にモンゴル帝国に滅ぼされた。中国南部を支配していた南宋を1279年に元朝が滅ぼしたのはすでに見たとおりである。

元[編集]

元朝統治下の中国[編集]

元朝の中国支配は、伝統的な中国王朝とは大きく異なっていた。元朝は中国の伝統的な統治機構を採用せず、遊牧民の政治の仕組みを中国に移入したからである。元の支配階級の人々は、すでに西方の優れた文化に触れていたため、中国文化を無批判に取り入れることはなかった。それは政治においても同様だったのである。

それに伴い、伝統的な統治機構を担ってきた、儒教的な教養を身に付けた士大夫層は冷遇され、政権から遠ざけられた。そのため、彼らは曲や小説などの娯楽性の強い文学作品の執筆に携わった。この時代の曲は元曲と呼ばれ、中国文学史上最高のものとされる。また、モンゴル帝国がユーラシア大陸を広く支配したために、この時期は東西交易が前代に増して盛んになった。

元朝は、宮廷費用などを浪費しており、そのため塩の専売策や紙幣の濫発で収入を増やそうとした。しかし、これは経済を混乱させるだけであった。

漢民族の復興[編集]

庶民の生活は困窮した。こうした中、各地で反乱が発生した。中でも最大規模のものは1351年に勃発した皇漢起義であった。紅巾党の中から頭角をあらわした朱元璋は、1368年に南京で皇帝に即位して明を建国した。同年、朱元璋は元朝の国都の大都を陥落させ、元の政府はモンゴル高原へと撤退した。撤退後の元朝のことを北元といい、明と北元はしばしば争った。明側は1388年に北元は滅んだと称しているが、実質的にはその後も両者の争いは続いた。

明清帝国[編集]

明[編集]





鄭和の南海大遠征の時の巨艦・「宝船」
鄭和の大航海[編集]

洪武帝(朱元璋)の死後、孫の建文帝が即位したが、洪武帝の四男である朱棣が反乱(靖難の変)を起こし、朱棣が永楽帝として皇帝になった。永楽帝は、モンゴルを攻撃するなど、積極的に対外進出を進めた。また、鄭和を南洋に派遣して、諸国に朝貢を求めた。この時の船が近年の研究によって長さ170m余、幅50m余という巨艦で、その約70年後の大航海時代の船の5倍から10倍近い船であったことが分かっている。

また、永楽帝によって現在に至るまで世界最大の宮殿である紫禁城が北京に築かれた。





紫禁城の中心・太和殿
永楽帝の死後、財政事情もあって、明は海禁政策をとり、貿易を著しく制限することとなる。このとき永楽帝を引き継いで、鄭和のようにずっと積極的に海外へ進出していれば、ヨーロッパのアジア・アフリカ支配も実現しなかっただろうと多くの歴史家は推測する。その後、モンゴルが再び勢力を強めはじめ、1449年には皇帝がモンゴルの捕虜になるという事件(土木の変)まで起きた。

陽明心学[編集]

陽明学・王陽明を参照

銀経済の発展と北虜南倭[編集]

明代の後期には、メキシコや日本から大量の銀が中国に流入し、貨幣として基本的に銀が使われるようになった。そのため、政府も一条鞭法と呼ばれる税を銀で払わせる税法を始めた。また、清朝に入ると、人頭税を廃止し土地課税のみとする地丁銀制が始まった。また明清両代ともに商品経済が盛んになり、農業生産も向上した。中国南部沿岸には、倭寇と呼ばれる海上の無法者たち(日本人海賊)が襲撃を重ねていた。これは、海禁政策で貿易が自由にできなくなっていたためである。倭寇とモンゴルを併称して「北虜南倭」というが、北虜南倭は明を強く苦しめた。

明の滅亡[編集]

また、皇帝による贅沢や多額の軍事費用の負担は民衆に重税となって圧し掛かってきた。これに対し、各地で反乱がおき、その中で頭角をあらわした李自成が1644年に明を滅ぼした。

清[編集]

満洲人の起源と中華支配[編集]

17世紀初頭には、現在の中国東北地方でヌルハチが満州族を統一した。その子のホンタイジは中国東北地方と蒙古を征服し、1636年には蒙古人から元朝の玉璽を譲られ、清朝を建国した。李自成が明を滅ぼすと清朝の軍隊は万里の長城を越えて、李自成の軍隊を打ち破り、中国全土を支配下に置いた。

康熙乾隆の盛世[編集]

17世紀後半から18世紀にかけて、康熙帝・雍正帝・乾隆帝という3人の賢帝の下で、清朝の支配領域は中国本土と中国東北地方・モンゴルのほかに、台湾・東トルキスタン・チベットにまで及んだ。

この清の支配領域が大幅に広がった時期は、『四庫全書』の編纂など文化事業も盛んになった。しかし、これは学者をこのような事業に動員して、異民族支配に反抗する暇をなくそうとした面もあった。

アヘン戦争と中国植民地化の危機[編集]





フランス人が描いた中国半植民地化の風刺画。フランス、イギリス、ロシア、ドイツ、日本が中国を分割している。
18世紀が終わるまでには、清とヨーロッパとの貿易はイギリスがほぼ独占していた。但し、当時イギリスの物産で中国に売れるものはほとんどなく、逆に中国の安いお茶はイギリスの労働者階級を中心に大きな需要があったこともあり、イギリスは貿易赤字に苦しんだ。そこで、イギリスは麻薬であるアヘンを中国に輸出し始めた。結果、イギリスは大幅な貿易黒字に転じた。しかし、中国にはアヘン中毒者が蔓延し、この事態を重く見た清朝政府は、1839年に林則徐に命じてアヘン貿易を取り締まらせた。しかし、これに反発したイギリス政府は清に対して翌1840年宣戦布告した。アヘン戦争と呼ばれるこの戦争では、工業化をとげ、近代兵器を持っていたイギリス軍が勝利した。これ以降、イギリスをはじめとするヨーロッパの列強は中国に対し、不平等条約(治外法権の承認、関税自主権の喪失、片務的最恵国待遇の承認、開港、租借といった)を締結させ、中国の半植民地化が進んだ。

国内的には、太平天国の乱などの反乱もしばしば起きた。これに対し、同治帝(在位1861年 - 1875年)の治世の下で、ヨーロッパの技術の取り入れ(洋務運動)が行われた。

日清戦争と光緒新政[編集]

1894年から翌1895年にかけて清と日本との間で行われた日清戦争にも清は敗退した。これは洋務運動の失敗を意味するものであった。この戦争の結果、日本と清朝との間で結んだ下関条約により、李氏朝鮮の独立が認められ、中国の王朝が長年続けてきた冊封体制が崩壊した。

その後、清朝は改革を進めようとしたものの、沿岸地域を租借地とされるなどのイギリス・フランス・ロシア・ドイツ・アメリカ合衆国・日本による半植民地化の動きは止まらなかった。

近代(中華民国の時代)[編集]

清朝の終焉と辛亥革命[編集]

1911年の武昌での軍隊蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、各地の省が清からの独立を宣言した。翌1912年1月1日、革命派の首領の孫文によって南京で中華民国の樹立が宣言された。北京にいた清朝皇帝溥儀(宣統帝)は、清朝政府内部の実力者である袁世凱により2月12日に退位させられ、清朝は完全に滅亡した。

少数民族の動向[編集]

辛亥革命により清国が消滅すると、その旧領をめぐって西蔵(チベット)・外蒙古(モンゴル)・新疆(東トルキスタン)は、それぞれに自領域を主張した。

中国は清領全域を主張した。これに対して、西蔵・外蒙古・新疆は、自分たちは清朝の皇帝に服属していたのであって中国という国家に帰属するものではなく、服属先の清帝退位後は中国と対等の国家であると主張し独立を目指す動きが強まった。

チベットの独立運動[編集]

ポタラ宮、当時のチベットの中心地ダライ・ラマを補佐していたパンチェン・ラマは親中国的であったために、イギリスに接近するダライ・ラマに反発し、1925年に中国に亡命した。1933年、ダライ・ラマ13世が死去、中国の統治下にあったチベット東北部のアムド地方(青海省)で生まれたダライ・ラマ14世の即位式典に列席した国民政府の使節団は、式典が終了したのちも、蒙蔵委員会駐蔵弁事處を自称してラサにとどまった。1936年には長征中の中国共産党の労農紅軍が、カム地方東部(四川省西部、当時西康省)に滞留中、同地のチベット人に「チベット人民共和国」(博巴人民共和国)[8]を組織させたが、紅軍の退出とともに、ほどなく消滅した。

モンゴル(外蒙古)の独立成功[編集]

1913年、モンゴルではボグド・ハーンによって、チベットではダライ・ラマ13世よって中国からの独立が宣言され、両者はモンゴル・チベット相互承認条約を締結するなど国際的承認をもとめ、これを認めない中華民国とは戦火を交えた。この状況は、モンゴル域への勢力浸透をはかるロシア、チベット域への進出をねらうイギリスの介入をゆるし、モンゴル・ロシア・中華民国はキャフタ協定に調印批准、チベット・イギリス・中華民国はシムラ協定(民国政府のみ調印、批准されなかった)が模索されたものの問題の解決には至らなかった。この問題は、モンゴルについては、1946年、外蒙古部分のみの独立を中華民国政府が承認することによって、チベットについては、1951年、十七ヶ条協定によってチベットの独立が否定され中華人民共和国の一地方となったことによって、一応の決着をみた。

新疆(東トルキスタン)の動乱[編集]

東トルキスタン(新疆)では、19世紀中に統治機構の中国化が達成されていた。すなわち、旗人の3将軍による軍政と、地元ムスリムによるベク官人制にかわり、省を頂点に府、州、県に行政区画された各地方に漢人科挙官僚が派遣されて統治する体制である。そのため、辛亥革命時、東トルキスタンでは、地元ムスリムがチベットやモンゴルと歩調をあわせて自身の独立国家を形成しようとする動きはみられず、新疆省の当局者たちは、すみやかに新共和国へ合流する姿勢を示した。この地では、楊増新が自立的な政権を維持し、またソ連と独自に難民や貿易の問題について交渉した。楊増新の暗殺後は金樹仁が実権が握ったが、彼は重税を課して腐敗した政治をおこなったため、1931年には大規模な内乱状態に陥った。その後金樹仁の部下であった盛世才が実権を握るようになり、彼はソ連にならった政策を打ち出して徐々に権力を強化した。一方で1933年には南部で東トルキスタン共和国の独立が宣言されたが、わずか6ヶ月で倒れた。

革命後の中国政局[編集]

中華民国は成立した物の、清朝を打倒した時点で革命に参加した勢力どうしで利害をめぐって対立するようになり、政局は混乱した。各地の軍閥も民国政府の税金を横領したり勝手に新税を導入して独自の財源を持つようになり、自立化した。

袁世凱の台頭と帝制運動[編集]





袁世凱
臨時大総統であった袁世凱は大総統の権力強化を図って議会主義的な国民党の勢力削減を企てた。国民党の急進派はこれに反発、第二革命を起こしたが鎮圧された。1913年10月袁は正式な大総統となり、さらに11月には国民党を非合法化し、解散を命じた。1914年1月には国会を廃止、5月1日には立法府の権限を弱め大総統の権力を大幅に強化した中華民国約法を公布した。

袁は列強から多額の借款を借り受けて積極的な軍備強化・経済政策に着手した。当初列強の袁政権に対する期待は高かった。しかしこのような外国依存の財政は、のちに列強による中国の半植民地化をますます進めることにもなった。第一次世界大戦が始まると、新規借款の望みがなくなったため、袁は財政的に行き詰まった。また日本が中国での権益拡大に積極的に動いた。

1915年5月9日に、袁が大隈重信内閣の21ヶ条要求を受けたことは大きな外交的失敗と見られ、同日は国恥記念日とされ袁の外交姿勢は激しく非難された。袁は独裁を強化することでこの危機を乗り越えようとし、立憲君主制的な皇帝制度へ移行し、自身が皇帝となることを望んだ。日本も立憲君主制には当初賛成していたようだが、中国国内で帝制反対運動が激化すると反対に転じ外交圧力をかけた。1916年袁は失意のうちに没した。

袁世凱死後の政局[編集]

袁の死後、北京政府の実権を掌握したのは国務総理となった段祺瑞であった。段は当初国会[† 5]の国民党議員などと提携し、調整的な政策をとっていた。しかし、第一次世界戦に対独参戦しようとしたため徐々に国会と対立した。段は日本の援助の下に強硬な政策を断行した。1917年8月14日第一次世界大戦に対独参戦。軍備を拡張して国内の統一を進めた。また鉄道や通信などの業界を背景とする利権集団が段を支えた。1918年には国会議員改定選挙を強行した。

国民党はこれに激しく対立し、南方の地方軍とともに孫文を首班とする広東軍政府をつくった。5月には日本と日中軍事協定[† 6]を結んだ。寺内正毅内閣失脚後に日本の外交方針が転回すると、段は急速に没落した。段の安徽派と対立関係にあった直隷派の馮国璋は徐世昌を大総統に推薦し、段もこれを受け入れた。親日的な安徽派は徐々に影響力を失っていった。1919年5月4日、山東半島での主権回復と反日を訴えるデモ行進が始まった。これを五・四運動という。なお山東半島は1922年に返還された。1920年7月の安直戦争で直隷派に敗れたことで段は失脚した。

国民革命[編集]





革命家・孫文




尼港事件で[[[中国軍]]の支援を受けた赤軍の攻撃により焼け落ちた日本領事館(1920年)
袁世凱により国民党が非合法化されたのち、孫文は1914年7月に中国革命党を東京で結成した。1919年には拠点を上海に移し、中国国民党と改称した。1920年にはニコラエフスクにおける赤軍による日本軍攻撃を支援し、日本軍及び在留邦人を殲滅させた(尼港事件)。1921年には上海で中国共産党が成立した。これらの政党は1918年のロシア革命の影響を受けており、議会政党というよりも明確な計画性と組織性を備えた革命政党を目指した。1924年国民党は第一回全国大会をおこない、党の組織を改編するとともに共産党との合同(第一次国共合作)を打ち出した。孫文はこのころ全く機能していなかった国会に代わって国内の団体代表による国民会議を提唱し、これに呼応した馮国璋により北京に迎えられた。1925年には国民会議促成会が開かれたが、

この会期中に孫文は没した。7月には広東軍政府で機構再編が進み、中華民国国民政府の成立が宣言された。一方で1924年6月には蒋介石を校長として黄埔軍官学校が設立された。1925年4月に国民革命軍が正式に発足され、国民党は蒋介石を指導者として軍事的な革命路線を推し進めることとなった。1926年に広州から北伐を開始した。9月にはイギリス軍によって万県市街が砲撃される(万県事件)。1927年1月には武漢に政府を移し、武漢国民政府と呼ばれるようになった。この武漢国民政府では当初国民党左派と共産党が優位にあったが、同年3月に南京事件が引き起こされ諸外国と緊張状態に陥った蒋介石は4月12日上海クーデターを起こしてこれらを弾圧し、4月18日には反共を前面に打ち出した南京国民政府を成立させた。南京国民政府は主に上海系の資本家に支えられ、北京・武漢・南京に3つの政権が鼎立することになったが、9月ごろから武漢政府も反共に転じ、南京政府に吸収された。1928年6月南京政府の国民革命軍は北京の中華民国政府を打倒し、12月に張学良もこれを承認したことから、国民政府によって中国は再び統一された。

国民政府[編集]





蒋介石
国民政府においては基本的に国民党の一党独裁の立場が貫かれた。しかし一般党員の数は50万人以下であったとされており、4億をこえると考えられた中国国民のなかではかなり少数であった(国民の多くが「国民」として登録されておらず、しかも文盲のものも多かった)。そのため支配基盤は完全とは言えず、土地税を中心として地方政権の財源を確保する国地画分政策がおこなって、割拠的傾向がいまだに強い地方勢力に配慮したりした。

1929年にはソビエト連邦が満州に侵攻し(中ソ紛争)、ハバロフスク議定書が結ばれソビエトの影響力が強まった。1930年代前半には国民政府に叛旗を翻す形で地方政権が樹立される例が多くなり、軍事衝突なども起きた。1930年に閻錫山と汪兆銘が中心となった北平政府や1931年に孫科らがたてた広州政府などである。

但し此のような軍事的緊張は国民政府の中央軍を掌握していた蒋介石の立場を強めることにもなった。蒋介石は経済政策[† 7]でも手腕を発揮し影響力を増した。

満州事変と日中対立[編集]





満州国皇帝愛新覚羅溥儀
張作霖が関東軍に爆殺されたあとをついだ張学良は国民革命を支持しており、自身の支配していた中国東北地方を国民政府へ合流させた。このために反日運動が中国東北地方にも広がったが、日本は中国東北地方の権益を確保しようとしていたためにこれに大きく反発した。1931年9月、満州事変がおこり、関東軍によって日本政府の意向を無視して大規模な武力行動がおこなわれた。しかし列強はこれを傍観する姿勢をとったので、日本政府はこの行動を追認した。

1933年5月、日中間で停戦協定(塘沽協定)が結ばれた。1934年には満州国は帝制に移行し、満州帝国となった。

1931年に瑞金に政権を樹立していた中国共産党は満州国建国時に日本に宣戦布告していたが、国民党との抗争に忙しく、中国国民で一致して日本の侵攻に立ち向かうことはできなかった。1934年には瑞金は国民党により陥落し、打撃を受けた中国共産党は長征と称して西部に移動し、組織の再編をはかった。長征の結果中国共産党は延安に拠点を移した。

東北地方をほぼ制圧した日本軍は、1932年に上海事変を起こし、列強がそれに注目している間に傀儡政権として満州国を東北地方に樹立した。同年10月、リットン調査団が国際連盟によって派遣され、満州国を中国の主権の下に列強の共同管理による自治政府とするべきという妥協案を示したが、日本は採択に反対した。

日中戦争[編集]

1937年には、中華民国軍による盧溝橋事件や通州事件、第二次上海事変などにより在留邦人やその守備隊が攻撃されたことから、日本軍は中国本土に邦人保護のために部隊を派遣した。これにより中華民国と全面戦争に入った(日中戦争)。これに対し、蒋介石は当初日本との戦いよりも中国共産党との戦いを優先していたが、西安事件により、二つの党が協力して日本と戦うことになった(第二次国共合作)。





カイロ会談に出席した蒋介石とアメリカのフランクリン・D・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相
しかし日中戦争は当初日本軍優位に進み、日本軍は多くの都市を占領したが、各拠点支配はできても広大な中国において面での支配はできず、これを利用した国民党軍・共産党軍ともに各地でゲリラ戦を行い日本軍を苦しめ、戦線を膠着させた。日本は汪兆銘ら国民党左派を懐柔、南京国民政府を樹立させたが、国内外ともに支持は得られなかった。加えて1941年12月、日本はアメリカやイギリス(連合国)とも戦端を開いたが(太平洋戦争・大東亜戦争)、一方で中国で多くの戦力を釘付けにされるなど、苦しい状況に落ち込まされた。国民党政府は連合国側に所属し、アメリカやイギリスなどから豊富な援助を受ける事となった(援蒋ルート)。

1945年8月、ポツダム宣言の受諾とともに日本軍が降伏することで終結した。また、8月14日には中ソ友好同盟条約を締結する。国民党政府は連合国の1国として大きな地位を占めていたこともあり、戦勝国として有利な立場を有することとなり、日本だけでなくヨーロッパ諸国も香港やマカオを除く租界を返還するなど、中国の半植民地化は終わりを見せた。

戦乱再起の国共内戦[編集]

日本との戦争が終結すると国民党と共産党との対立が激化して再び国共内戦が始まった。中国残留日本軍は国民党軍や共産党軍に組み入れられる事となった。1946年2月には中国共産党の占領地であった通化で中華民国政府の呼びかけに呼応した日本人が蜂起したが鎮圧され数千人が処刑された(通化事件)。アメリカからの支援が減った国民党に対して、ソビエト連邦からの支援を受けていた中国共産党が勝利し、1949年10月1日に毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した。内戦に敗れた中国国民党率いる中華民国政府は台湾島に撤退し、現在に至るまで中国共産党率いる中華人民共和国と「中国を代表する正統な政府」の地位を争っている。

現代(中華人民共和国の時代)[編集]

社会主義化と反動粛清[編集]





「建国宣言」を行なう毛沢東
1950年中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれた。これは日本およびその同盟国との戦争を想定して締結されたものである。この条約でソ連が租借していた大連、旅順が返還され、ソ連の経済援助の下で復興を目指すこととなった。1953年より社会主義化が進み、人民政治協商会議に代わって全国人民代表大会(全人代)が成立、農業生産合作社が組織された。

1950年、中国人民解放軍はチベットに侵攻した。1951年には中華人民共和国とチベット政府「ガンデンポタン」は「中央人民政府と西藏地方政府の西藏平和解放に関する協議」(いわゆる「十七か条協定」)を締結し、チベット全域が中華人民共和国の実効統治下に組み入れられた。その後中国共産党政府チベットへ地域で相対的にいくつかの軍国主義的だという評価を受けている国としては、非常にアンドリュー・オズワルド教授の統治をしたさらに漢人の移民を積極的に実行して現在ではチベットにおける漢人とチベット人の人口比率は逆転していると言われている[要出典]。

1956年にソ連でフルシチョフによって「スターリン批判」がおこなわれると、東欧の社会主義国に動揺がはしった。中国共産党政府も共産圏にある国としてこの問題への対処を迫られ、この年初めて開催された党全国代表大会では、「毛沢東思想」という文言が党規約から消えた。そして全く一時的に(わずか2ヶ月)「百花斉放、百家争鳴」と称して民主党などの「ブルジョワ政党」の政治参加が試みられた。しかしブルジョワ政党が中国共産党政府による一党独裁に対して激しい批判を噴出させたため、逆に共産党による反右派闘争を惹起し、一党支配体制は強められた。一方で中ソ協定が結ばれ、軍事上の対ソ依存は強くなった。この時代の中華人民共和国をソ連のアメリカに対する緩衝国家あるいは衛星国家とみなすことも可能である。しかし徐々にデタント政策へと転回し始めていたソ連の対外政策は、中国共産党政府の中華民国に対する強硬政策と明らかに矛盾していた。

中国共産党の対ソ自立化[編集]

1958年に、毛沢東は大躍進政策を開始し、人民公社化を推進した。当初はかなりの効果をあげたかに見えた人民公社であったが、党幹部を意識した誇大報告の存在、極端な労働平均化などの問題が開始3ヶ月にしてすでに報告されていた。毛沢東はこのような報告を右派的な日和見主義であり、過渡的な問題に過ぎないと見ていたため、反対意見を封殺したが、あまりに急速な人民公社化は都市人口の異様な増大など深刻な問題を引き起こしていた。

1959年と1960年には、大躍進政策の失敗と天災が重なり、大規模な飢饉が中国を襲い、少なくとも2000万人(『岩波現代中国事典』によれば3000万人。2000万から2億人以上との説もある)と言われる餓死者を出し大躍進政策も失敗に終わった。1960年代初頭には人民公社の縮小がおこなわれ、毛沢東自身が自己批判をおこなうなど、一見調整的な時期に入ったように思われた。劉少奇が第2次5ヶ年計画の失敗を人民公社による分権的傾向にあると指摘し、中央集権を目指した政治改革、個人経営を一部認めるなど官僚主義的な経済調整をおこなった。

一方でこの年、中国共産党政府は台湾海峡で中華民国に対して大規模な軍事行動を起こし、アメリカ軍の介入を招いた。フルシチョフは中国共産党政府の強硬な姿勢を非難し、また自国がアメリカとの全面戦争に引きずり込まれないように努力した。ソ連はワルシャワ条約機構の東アジア版ともいうべき中ソの共同防衛体制を提案したが、中国共産党政府はソ連の対外政策への不信からこれを断った。その後1959年6月ソ連は中ソ協定を一方的に破棄した。1960年には経済技術援助条約も打ち切られ、この年の中国のGNPは1%も下落した。

但し党組織の中央集権化と個人経営に懐疑的であった毛沢東はこれを修正主義に陥るものであると見ていた。1963年に毛沢東は「社会主義教育運動」を提唱し、下部構造である「農村の基層組織の3分の1」は地主やブルジョワ分子によって簒奪されていると述べた。これは劉少奇ら「実権派」を暗に批判するものであった。またこのころ毛沢東は「文芸整風」運動と称して学術界、芸術界の刷新をはかっていたことも、のちの文化大革命の伏線となった。1964年中国は核実験に成功し、軍事的な自立化に大きな一歩を踏み出した。一方で1965年にアメリカによる北爆が始まりベトナム戦争が本格化すると、軍事的緊張も高まった。

チベットでは独立運動が高まったが、政府はこれを運動家に対する拷問など暴力によって弾圧した。このため多数の難民がインドへ流入した。

文化大革命前期[編集]





天安門広場は中華人民共和国時代にも多くの歴史の舞台となった
1966年に毛沢東は文化大革命を提唱した。毛沢東の指示によって中央文化革命小組が設置され、北京の青少年によって革命に賛同する組織である紅衛兵が結成された。毛沢東は「造反有理」(反動派に対する謀反には道理がある)という言葉でこの運動を支持したので、紅衛兵は各地で組織されるようになった。

毛沢東は文革の目的をブルジョワ的反動主義者と「実権派」であるとし、劉少奇とその支持者を攻撃対象とした。毛沢東は林彪の掌握する軍を背景として劉少奇を失脚させた。しかし文化大革命は政治だけにとどまることがなく、広く社会や文化一般にも批判の矛先が向けられ、反革命派とされた文化人をつるし上げたり、反動的とされた文物が破壊されたりした。

1966年の末ごろから武力的な闘争が本格化し、地方では党組織と紅衛兵との間で武力を伴った激しい権力闘争がおこなわれた。毛沢東は秩序維持の目的から軍を介入させたが、軍は毛沢東の意向を汲んで紅衛兵などの中国共産党左派に加担した。中央では周恩来らと文革小組の間で権力闘争がおこなわれた。1967年の後半になると、毛沢東は内乱状態になった国内を鎮めるために軍を紅衛兵運動の基盤であった学校や工場に駐屯させた。

この時期軍の影響力は極端に増大し、それに伴って林彪が急速に台頭した。1969年には中ソ国境の珍宝島で両国の軍事衝突があり(中ソ国境紛争)、軍事的緊張が高まったこともこれを推進した。同年採択された党規約で林彪は毛沢東の後継者であると定められた。

文化大革命後期[編集]

文化大革命は後期になると国内の権力闘争や内乱状態を引き起こしたが、最終的に文化大革命は1976年の毛沢東死去で終結した。文化大革命では各地で文化財破壊や大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は数百万人とも3億人とも言われている。また学生たちが下放され農村で働くなど、生産現場や教育現場は混乱すると、特に産業育成や高等教育などで長いブランクをもたらした。

一方この時期、ソ連に敵対する中国共産党政府は、同じくソ連と敵対する日本やアメリカなどからの外交的承認を受け、この結果1971年に国連の常任理事国の地位も台湾島に敗走した中華民国政府(国民党政権)に変わって手にするなど、国際政治での存在感を高めつつあった。

改革開放以後の現在[編集]





返還された香港は中国経済の牽引都市になっている
その後は一旦華国鋒が後を継いだが、1978年12月第11期三中全会でケ小平が政権を握った。ケ小平は、政治体制は共産党一党独裁を堅持しつつ、資本主義経済導入などの改革開放政策を取り、近代化を進めた(社会主義市場経済、ケ小平理論)。この結果、香港ほか日米欧などの外資の流入が開始され、中国経済は離陸を始めた。

天安門事件[編集]

1989年には北京で、1980年代の改革開放政策を進めながら失脚していた胡耀邦の死を悼み、民主化を求める学生や市民の百万人規模のデモ(天安門事件)が起きたが、これは政府により武力鎮圧された。その一連の民主化運動の犠牲者数は中国共産党政府の報告と諸外国の調査との意見の違いがあるが、数百人から数万人に上るといわれている。しかし中国共産党政府はこの事件に関しては国内での正確な報道を許さず、事件後の国外からの非難についても虐殺の正当化に終始している。

この事件以降も、中国共産党政府は情報や政策の透明化、民主化や法整備の充実などの国際市場が要求する近代化と、暴動や国家分裂につながる事態を避ける為、内外の報道機関やインターネットに統制を加え、反政府活動家に対する弾圧を加えるなどの前近代的な動きとの間で揺れている。

一党独裁[編集]

冷戦崩壊後に、複数政党による選挙や言論の自由などの民主主義化を達成した中華民国と違い、いまだに中国共産党政府による一党独裁から脱却できない中華人民共和国には多数の問題が山積している。

一党独裁の弊害により、官僚の腐敗が深刻化している。改革開放によりイデオロギーが退潮した結果、幹部はもっぱら金儲けに走るようになった。共産党幹部が自身の所持している工場で人民を奴隷として働かせていた事例もあった。

これらのことより、中国共産党の一党独裁による言論統制や貧富格差、地域格差、官僚の腐敗など国内のひずみを放置し続ければ、いずれ内部崩壊を起こして再度混乱状態に陥り、ソ連同様に中華人民共和国という国家体制そのものが解体、消滅するという意見も多い[1]。引退した中国の核心的ブレーンや複数の共産党幹部は「動乱は必ず起こる。そう遠くない将来にだ」と発言したとされ、体制内の人間たちも現在の中国に危機感を抱いていることが明らかとなった[2]。

人権問題[編集]

中国は人権問題でアメリカと対立がある。近年では大国復活への道を歩むロシアと再び関係強化を強め、さらにベネズエラ、イランとも友好的であり、さらに人権弾圧国家とされる北朝鮮、ミャンマー、スーダン、ジンバブエを支援し、アメリカからの経済制裁中のキューバとは貿易は密接になっている。中国は欧米から経済制裁を受けている国や反米路線をとっている国に「敵の敵は味方」の理屈で支援して友好を深めている。これは中国が友好国を増やすための覇権主義だと思われるが、逆に国連の常任理事国である中国が後ろ盾になる事が反米国家のメリットになる。そして近年イスラム教テロリストが中国製の武器を使用している事が明らかになり、第三国から横流しした疑惑がある。また、中国は2008年以降の世界同時不況下においても軍事費の増大はとどまるところを知らず、一党独裁を見直す気配もない。ただし米中は経済的には非常に密接であり、中国はアメリカ国債最大の保有国であるため、ロシアと違い露骨な反米でない。

中華人民共和国の現在状況[編集]

、1990年代には、江沢民政権のもとで、ケ小平路線に従い、経済の改革開放が進み、特に安い人件費を生かした工場誘致で「世界の工場」と呼ばれるほど経済は急成長した。なお、1997年にイギリスから香港が、1999年にポルトガルからマカオが、それぞれ中華人民共和国に返還され、植民地時代に整備された経済的、法的インフラを引き継ぎ、中華人民共和国の経済の大きな推進役となっている。

人口、面積ともに世界的な規模をもつことから、アメリカの証券会社であるゴールドマンサックスは、「中華人民共和国は2050年に世界最大の経済大国になる」と予想するなど、現在、中国経済の動向は良くも悪くも注目されているが、低賃金による大量生産を売り物にしてきた経済成長は賃金上昇・東南アジア諸国やインドの追い上げなどで限界に達しており(特に中国最大の「売り」であった衣類生産は、中国より更に賃金の安いベトナム、カンボジア、バングラデシュ、インド、スリランカに工場を移す動きが出始めている)、産業の高度化や高付加価値化などの難題に迫られている。また、各種経済統計も中国共産党政府発表のそれは信憑性が乏しいと諸外国から指摘されている。各省など地方も独自の産業振興策に走り、中国共産党中央政府に対して経済統計の水増し発表や災害などの情報隠蔽を行うなど、統計や発表の信憑性不足に拍車をかけている。

また中国は常任理事国の権利を持つ大国で、さらに経済成長が著しいため、体制が崩壊しなければ超級大国(華夷秩序の復活)として君臨すると思われる。

少数民族問題[編集]

新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)では漢化政策の進展によって、漢民族が同地域へ大量に流入する一方、少数派のウイグル人は生活が厳しく、都市を中心として就職などに有利な中国語教育の充実によりウイグル語が廃れるなどの民族的なマイノリティ問題が発生している。またタクラマカン砂漠の石油資源利用や新疆南北の経済格差が広がっているなど、中国共産党政府の経済政策に対する批判も根強い。1997年には新疆ウイグル自治区で大規模な暴動が起きた。海外で東トルキスタン独立運動がおこなわれている一方国内でもウイグル人活動家の処刑などが行われている。ウイグル人の間でも、民族自治における権限拡大という現実主義的な主張もあらわれている。たとえば中国語教育を受けたウイグル人が中国共産党組織に参加する、新疆での中国共産党政府の経済政策に積極的に参加するといった事例も見られる。

チベット自治区では歴史的なチベットの主権を主張するダライ・ラマの亡命政権が海外に存在し、中国共産党政府が不法な領土占拠をしていると訴えるとともに独立運動が継続されている。中国共産党政府はこれを武力で弾圧し続け、独立運動家への拷問などを行ない、経済的に不利なチベット人の生活も困窮したために、多数の難民が隣国のインドに流入した。2008年3月14日には、チベット自治区ラサで、中国政府に対する僧侶や市民の抗議行動が激化し、中心部の商店街から出火、武装警察などが鎮圧に当たり多数の死傷者が出た。1989年に戒厳令が敷かれた時の騒乱以来最大の規模。外国メディアだけでなく中国の国営新華社通信も報じた。北京オリンピックに向けた時期に、チベット問題を国際世論に訴えようとするチベット独立派の意図が背景にあるとされる。中国政府は、15日から外国人と一般の中国人の自治区入りを禁じる措置をとるという。チベット亡命政府によると確認されただけで死者は少なくとも80人はいると発表された[12]。それと同時に世界各国の中国大使館前でも中国政府への抗議活動が繰り広げられた[13]。

台湾問題[編集]

敵対している中華民国との間にも経済的な交流が進み、両国の首都の間に直行便が就航するまでになっている。2008年12月には「三通」が実現した。

また三通により犬猿の仲とも言える台湾とは密接となり、例えば台湾人が本土就職、100万人も中国に在住する現象がおき、さらに香港人が多くが職を求めて本土に移っている。

中華民国(台湾)、中華人民共和国(中国大陸)、香港、マカオ、シンガポール、マレーシアなどの華人社会を『大中華圏』と評している。

歴朝歴代の人口変遷[編集]

以下のデータは主に楊学通「計画生育是我国人口史発展的必然」(1980年)による。


時代

年代

戸数

人口

資料出所

(夏) 禹(前2205年とされる) 13,553,923 『帝王世紀』
秦 20,000,000?
西漢 平帝元始2年(2年) 12,233,062 59,594,978 『漢書』地理志
新 20,000,000?
東漢 順帝建康元年(144年) 9,946,919 49,730,550 『冊府元亀』
晋 武帝泰康元年(280年) 2,459,804 16,163,863 『晋書』食貨志
隋 煬帝大業2年(606年) 8,907,536 46,019,056 『隋書』地理志・食貨志
唐 玄宗天宝14年(755年) 8,914,709 52,919,309 『通志』
宋 神宗元豊3年(1080年) 14,852,684 33,303,889 『宋史』地理志
金 章宗明昌6年(1195年) 7,223,400 48,490,400 『金史』食貨志
元 世祖至元27年(1290年) 13,196,206 58,834,711 『元史』地理志
明 神宗万暦6年(1570年) 10,621,436 60,692,850 『続文献通考』
清 清初(1644年) 45,000,000
聖祖康熙50年(1711年) 100,000,000以上
高宗乾隆27年(1762年) 200,000,000以上
高宗乾隆55年(1790年) 300,000,000以上
仁宗嘉慶17年(1812年) 333,700,560 『東華録』
宣宗道光14年(1834年) 400,000,000以上
中華民国 民国36年(1947年) 455,590,000 『統計提要』
中華人民共和国 1995年 1,211,210,000 『中国統計年鑑』

上記はすべて中国の歴史からである。

地方行政制度[編集]

封建制度(前1600年頃〜前221年)[編集]

殷・周の時代は封建制度[† 8]によって一定の直轄地以外は間接的に統治された。

郡県制度(前221年〜249年)[編集]

中国最初の統一王朝である秦は全国を郡とその下級単位である県に分ける郡県制度によって征服地を統治した。前漢初期においては、郡以上に広域な自治を認められた行政単位である国が一部の功臣や皇族のために設置された。しかし徐々に国の行政権限が回収されるとともに、推恩政策によって国の細分化が進められ、国は郡県と等しいものとなり、後漢時代には実質郡県制度そのままとなっていた。

前漢時代に広域な監察制度としての刺史制度が始められると全国を13州[† 9]に分けた。これはいまだ行政的なものではない[† 10]と考えられている。後漢の後の魏王朝では官僚登用制度としての九品官人法が249年に司馬懿によって州単位でおこなわれるように適用されたので、行政単位として郡以上に広域な州が現実的な行政単位として確立したと考えられている。しかし、軍政面と官吏登用面のほかにどれほど地方行政に貢献したか[† 11]はあまり明確ではない。

軍府による広域行政(249年〜583年)[編集]

魏晋時代から都督府などの軍府の重要性が高まった。五胡十六国および南北朝時代になると、中国内部で複数の王朝が割拠し軍事的な緊張が高まったことから、とくに南朝において重要性が増した。これは本来特定の行政機関を持たなかったと思われる刺史に対して、軍事的に重要な地域の刺史に例外的に複数の州を統括できる行政権を与えたものであった。長官である府主(府の長官は一般的にさまざまな将軍号を帯び、呼称は一定ではないため便宜的に府主とする)は属僚の選定に対して大幅な裁量権が与えられており、そのため地方で自治的な支配を及ぼすことが出来た。また南朝では西晋末期から官吏登用において州は形骸化しており、吏部尚書によって官制における中央集権化が進行している。したがって中正官も単なる地方官吏に過ぎなくなり、広域行政単位としての州は官吏登用の面からは重要性が低下したが、地方行政単位としてはより実際性を帯びた。この時代州は一般に細分化傾向にあり、南北朝前期には中国全土で5,60州、南北朝末期に至ると中国全土で300州以上になり、ひとつの州がわずか2郡、ひとつの郡はわずか2,3県しか含まないという有様であった。

州県制(583年〜1276年)[編集]

南朝では都督制度が発達していたころ、北魏では州鎮制度が発達した。北魏では征服地にまず軍事的性格の強い鎮を置き、鎮は一般の平民と区別され軍籍に登録された鎮民を隷属させて支配した。鎮は徐々に州に改められたようであるが、北部辺境などでは鎮がずっと維持された。583年に隋の文帝が郡を廃止。州県二級の行政制度を開始した。この際従来の軍府制度[† 12]にあった漢代地方制度的な旧州刺史系統の地方官は廃止され、軍府系統の地方官に統一されたと考えられている。595年には形骸化していた中正官も最終的に廃止されたという指摘もされている。またこれにより府主の属官任命権が著しく制限され、中央集権化がはかられた。唐では辺境を中心に広域な州鎮的軍府である総管府が置かれたが徐々に廃止され、刺史制度に基づいた地方軍的軍府、それに中央軍に対する吏部の人事権が強化・一元化され、軍事制度の中央集権化が完成された。特定の州に折衝府が置かれ、自営農民を中心として府兵が組織され常備地方軍[† 13]とされた。唐では州の上に10の道も設置されたが、これは監察区域で行政単位ではないと考えられている。

祭祀・礼楽・律令・封建[編集]

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強勢の大国外交[編集]

中国大陸の諸王朝は前近代まで基本的に東アジアでの優越的な地位を主張し、外交的には大国として近隣諸国を従属的に扱う冊封体制が主流であった。

夏・殷・周[編集]

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秦[編集]

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漢[編集]

漢朝には南越、閩越、衛氏朝鮮などが漢の宗主権下にあったと考えられ、これらの国々は漢の冊封体制下にあったと考えられている。前漢武帝の時にこれらの諸国は征服され郡県に編入された。このことは漢の冊封が必ずしも永続的な冊封秩序を形成することを意図したものではなく、機会さえあれば実効支配を及ぼそうとしていたことを示す。また匈奴は基本的には冊封体制に組み込まれず、匈奴の単于と中国王朝の皇帝は原則的には対等であった。大秦(ローマ帝国のことを指すとされる)や大月氏などとの外交関係は冊封を前提とされていない。

魏晋南北朝[編集]

魏晋南北朝には、中国王朝が分立する事態になったので、冊封体制は変質し実効支配を意図しない名目的な傾向が強くなったと考えられている。朝鮮半島では高句麗をはじめとして中小国家が分立する状態があらわれ、日本列島の古代国家[† 14]も半島の紛争に介入するようになったために、半島の紛争での外交的優位を得るため、これらの国々は積極的に中国王朝の冊封を求めた。しかし高句麗が北朝の実効支配には頑強に抵抗しているように、あくまで名目的関係にとどめようという努力がなされており、南越と閩越の紛争においておこなわれたような中国王朝の主導による紛争解決などは期待されていないという見方が主流である。

隋[編集]

再び中国大陸を統一した隋朝の時代は東アジアの冊封体制がもっとも典型的となったという見方が主流である。隋は高句麗がみだりに突厥と通交し、辺境を侵したことからこれを討伐しようとしたが、遠征に失敗した。

唐[編集]

唐は、新羅と連合(唐・新羅の同盟)し、高句麗・百済を滅亡させ、朝鮮半島を州県支配しようとしたが、新羅の抵抗にあい(唐・新羅戦争)、朝鮮半島から撤退したため、願いは叶わなかった。したがって隋・唐の冊封は実効支配とは無関係に形成されるようになった。唐の冊封体制の下では、律令的な政治体制・仏教的な文化が共有された。

一方、突厥や西域諸国が服属すると、それらの地域に対する支配は直接支配としての州県、外交支配としての冊封とは異なった羈縻政策[† 15]が行われた。

宋[編集]

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元[編集]

詳細は「元寇」および「日元貿易」を参照

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明[編集]

詳細は「倭寇」、「勘合貿易」、「鄭和」、「土木の変」、「文禄・慶長の役」、および「サルホの戦い」を参照

モンゴルを草原に駆逐した明朝は冊封体制を採用、また、海岸部を暴れる倭寇の対策として海禁政策を採用した。南朝の懐良親王や足利幕府の足利義満に対し倭寇の取り締まりを要求している。南北朝を統一した足利義満は自ら「日本国王臣源道義」と名乗り、冊封体制に入り、勘合貿易を開始した。勘合貿易は足利幕府の手から次第に堺の豪商と手を組んだ細川氏、博多の豪商と手を組んだ大内氏に実権が移り、1523年には寧波の乱により大内氏が貿易を独占、陶晴賢が大内義隆を1551年に殺害するまで続いた。

永楽帝は宦官の鄭和を南海に派遣した。鄭和の船団は東南アジアから東アフリカ沿岸までに進出し、キリンなどの珍品を中国にもたらした。永楽帝はまた、モンゴル討伐の遠征を行っているが征服には至らなかった。永楽帝没後、明は対外拡張路線を縮小した。1449年の土木の変でエセン・ハーンが正統帝を捕縛するに至り、明は北方の侵略に苦しむようになった。また、海岸部でも倭寇が攻勢を強めており、対策に苦慮するようになった(北虜南倭)。

豊臣秀吉の朝鮮出兵に対して、李氏朝鮮を支持し介入することになるが国を傾けることとなり、女真族のヌルハチにサルホの戦いで負けると国の頽勢は一気に進んだ。

清[編集]

詳細は「ネルチンスク条約」、「理藩院」、「雍正のチベット分割」、「キャフタ条約 (1727年)」、「改土帰流」、「アヘン戦争」、「アロー戦争」、「日清戦争」、および「義和団事変」を参照

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中華民国[編集]

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中華人民共和国[編集]

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脚注[編集]

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注釈[編集]

1.^ 浙江省紹興市郊外にある陵墓が禹のものであるとされ、戦国時代同地を支配していた越王勾践が禹の子孫を標榜していること、夏の桀王が『史記』鄭玄注などで淮河と長江の中間にある南巣で死んだとしていることなどによる。
2.^ 河南省にある偃師二里頭遺跡が夏のものではないかとされているが、文書などが発見されていないため確定はされていない。また偃師二里頭遺跡での発掘結果から殷との連続性が確認されたが、細かい分析においては殷との非連続性も確認されているため、偃師二里頭遺跡が夏王朝のものであっても、夏が黄河流域起源の王朝であったかどうかは論争中である。
3.^ ただし殷を北西から侵入してきた遊牧民族による征服王朝だとする説もある。これは偃師二里頭遺跡では青銅器が現地生産されているのに対し、殷時代の青銅器は主に蜀方面で生産されていたことが確認されていることによる。
4.^ 当初は漢魏革命の際に漢の官僚を魏宮廷に回収する目的で制定されたものであったが、優れたものであったために一般的な官吏登用に使用されるようになった。これは中正官を通して地方の世論を反映した人事政策をおこなうもので、地方で名望のあったものをその程度に応じて品位に分け官僚として登用するものであった。 官僚は自身の品位と官職の官品に従って一定の官職を歴任した。地方の世論に基づくとはいえ、一般的に家柄が重視される傾向にあり、「上品に寒門なく、下品に勢族なし」といわれた。南北朝時代になると官職内で名誉的な清流官職と濁流官職が貴族意識によって明確に分けられ、また家柄によって官職が固定される傾向が顕著となった。このような傾向は専制支配を貫徹しようとする皇帝の意向と対立するものであったため、官品の整理をおこなって清濁の区別をなくす努力が続けられた。 しかし皇帝も貴族社会の解体その事を望んでおらず、貴族社会の上位に皇帝権力を位置づけることでヒエラルキーを維持しようとしていたから、官職制度の根幹的な改変には至らず、官職の家柄による独占傾向を抑えることは出来なかった。
5.^ 1916年8月に復活された。
6.^ これはロシア革命に対するシベリア出兵において日中両軍が協力するという秘密条約である。
7.^ 1928年〜30年に各国と交渉して関税自主権を回復し、関税を引き上げ、塩税と統一消費税をさだめて財源を確保した。アメリカとイギリスの銀行資本に「法幣」という紙幣を使用させ、秤量貨幣であった銀両を廃止した。さらにアメリカ政府に銀を売ってドルを外為資金として貯蓄した。これにより国際的な銀価格の中国の国内経済に対する影響が大幅に緩和された。このような経済政策を積極的に推進したのは国民政府財政部長の宋子文で、彼は孫文の妻宋慶齢の弟で、妹はのちに蒋介石と結婚した宋美齢であった。
8.^ 封建制度は殷代からおこなわれているが、殷代封建制についてはあまり明確なことはわからない。殷では封建がおこなわれている地域と方国と呼ばれる、外様あるいは異民族の国家の存在が知られ、殷を方国の連盟の盟主であり、封建された国々は殷の同族国家であるとする説もあるが詳しいことはわからない。周では一定の城市を基準とした邑に基づいた封建制が広汎におこなわれたと考えられているが、この邑制国家の実態も不明である。邑をポリス的な都市国家とみる見方から、邑と周辺農地である鄙が一緒になって(これを邑土という)、貴族による大土地所有であるとする見方もある。明らかであるのは邑を支配した貴族が長子相続を根幹とした血族共同体をもっていたということで、このような共同体に基づいた支配形態を宗法制度という。宗法制度については殷代にさかのぼる見方もあるが、広汎におこなわれたのは春秋あるいは戦国時代であったとする説もある。周の封建制を宗法制度の延長にあるものと捉え、封建儀礼を宗族への加盟儀礼の延長として捉える見方もある。
9.^ 中国古来より中国世界を9つの地方に分ける考え方が漠然と存在した。中国王朝の支配領域を「九州」といい、それがすなわち「天下」であった。ただし九州の概念は後漢時代にいたるまでははっきりしたものではなく一様でない。
10.^ 前漢成帝のときに州の監察権が御史中丞へ移行され、刺史が行政官となったという見方もあるが、後漢末期に刺史に軍事権が認められると、広域行政単位としての州はにわかに現実化したとみる見方もある。
11.^ このころの州を行政単位ではなく、軍管区のような概念上の管理単位であるとする見方も強い。
12.^ 北周の宇文護が創始した二十四軍制をもっていわゆる府兵制の成立と見做す見方があるがこれについては詳しいことはわからない。
13.^ 折衝府の置かれた州と非設置州では当然差異があったのであるが、唐代はほかに募兵に基づく行軍制度もおこなわれており、大規模な対外戦争の際にはおもに折衝府非設置州を中心として兵が集められた。唐後期にはこの募兵制が常態化することで節度使制度がおこなわれるようになった。
14.^ なお、史書からうかがえる外交記録と日本国内での銅鏡など出土品に記載された年号の問題などから、日本の古代王朝は特に南朝との外交関係を重視していたという見方が主流であるが、北朝との通交事実を明らかにしようという研究は続けられている。
15.^ これは都護府を通じて服属民族を部族別に自治権を与えて間接支配するもので、羈縻政策がおこなわれた地域では現地民の国家は否定された。このことは羈縻州の住民が自発的に中国王朝の文化を受け入れることを阻害したと考えられており、羈縻政策のおこなわれた地域では冊封のおこなわれた地域とは異なり、漢字や律令などの文化の共有は行われず、唐の支配が後退すると、唐の文化もこの地域では衰退することになった。冊封された国々で唐の支配が後退したあとも漢字文化が存続したことと対照的である。

出典[編集]

1.^ 2009年9月25日時事通信
2.^ “【日々是世界 国際情勢分析】中国「動乱の可能性」体制内部からの警告”. 産経新聞. (2010年3月30日) 2010年3月30日閲覧。

関連項目[編集]

ウィキブックスに中国史関連の解説書・教科書があります。
中華人民共和国
中華民国
中国帝王一覧
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中国史時代区分表 夏商周年表
魏晋南北朝表

元号一覧
二十四史(清によって公認された正史)
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中国学
中国化

外部リンク[編集]

中国歴史地図



春秋時代

春秋時代(しゅんじゅうじだい、中国語:春秋时期、拼音:Chūnqiū shíqī)は、中国の時代区分の一つ。紀元前770年、周の幽王が犬戎に殺され洛邑(成周)へ都を移してから、晋が三国(韓、魏、趙)に分裂した紀元前403年までである。

春秋の名称は、四書五経の一つ『春秋』に記述された時代、という意味を持つ。

春秋時代と戦国時代をあわせて、春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)といったり東周時代(とうしゅうじだい)といったりする。どこをもって春秋時代と戦国時代の境目とするかは歴史家の間で意見が分かれている。

詳細は「春秋戦国時代」を参照



目次 [非表示]
1 概略 1.1 前期・覇者の時代
1.2 中期・小国外交の時代
1.3 後期・呉越抗争

2 軍制・戦
3 関連項目


概略[編集]

前期・覇者の時代[編集]

自らの悪政により、不満を募らせた諸侯に背かれた周の幽王が、前771年に殺されると、翌年に幽王の息子は鄭の武公らの力を借りて洛邑に周を再興する。これが平王であり、以降の周は東周と呼ばれ、これからが春秋時代の始まりである。

周の東遷に大きく貢献した鄭の武公はこの後、権勢を振るったが、大きすぎる功績により周王から、かえって疎んじられた。武公の子の荘公の代で、周の桓王による討伐を受けるも、撃退に成功した。この時に追撃するべきとの家臣の言葉に荘公は「天子に対してそのようなことは良くない」と答えた。この逸話は、周王の大幅な権威失墜を表す一方、それでも諸侯は周王への敬意を未だ抱いていたことも表している。ただ、その鄭の国威も荘公以降はあまり振るわなくなる。鄭は王室の卿士(王室直属。日本でいえば旗本)の家柄であったが、その統治所領は狭く、国力自体は中の下という程度であった為である。

鄭に代わって覇権を握るのが東方の大国・斉である。周建国の大功臣・太公望を始祖とする斉は東の未開地帯を大きく広げ、国力を充実させていた。15代目釐公の死後に後継争いで国内が混乱するが、内乱を収めた桓公とその宰相・管仲の活躍により、大きく飛躍する。当時、南方で周辺小国を呑み込んでいた新興国・楚が大きく勢力を伸ばし、さらに中原の小国への侵攻の気配を見せていた。本来頼るべき周は小さくなった王室の中でなお権力争いを続けている有様であり、楚の威圧に怯えた小国は仕方なく服従していた。しかし斉に桓公が登場し、楚に対抗したことでこれら小国は斉に助けを求めるようになった。楚と対決した桓公は、召陵において楚の周に対する無礼を咎め、楚の侵攻を抑えた。これにより諸侯間の盟主と成った桓公は、紀元前651年に葵丘(現在の河南省藺考)において会盟を開き、周王に代わって諸侯の間の取り決めを行った。この業績により桓公は覇者と呼ばれ、春秋五覇の第一に数えられる。

しかし管仲の死後、人が変わったように堕落した桓公により国政は乱れ、さらに桓公死後の後継争いで斉は一気に覇権の座から転落した。これに代わって覇者になろうとしたのが宋の襄公である。殷の遺民たちの国で、国力は中程度という宋だったが、襄公は桓公の後を継いで天下を治めんという高い志を抱いていた。まず斉の後継争いに介入、元より太子とされて宋に預けられていた昭を位に就けて孝公とした。さらに諸侯の盟主となるべく盂(河南省睢)にて会盟を開いた。しかし、この会盟で宋に主導権を握られることを嫌っていた、参加国の楚の重臣に監禁されてしまった。襄公はいったん帰国して楚と決戦に及ぶ(泓水の戦い)が、敵に情けをかけた結果(宋襄の仁)大敗し、覇権の獲得は成らなかった。

桓公に続く第二の覇者となるのが北の大国・晋の文公である。晋は武公・献公の2代に亘って周辺諸国を併合して大きく伸張したが、献公の愛妾・驪姫が起こした騒動により、文公たち公子は国外へ逃亡した。文公は異国にあること10数年に亘り、苦労の果てに隣国・秦の助力を借りて晋公の座に就いた。君主に就いた文公は後に周王室の内紛を収め、楚との城濮の戦いで大勝し、践土(河南省温県)に周の襄王を招き、会盟を開いて諸侯の盟主となった。文公は桓公と並んで春秋五覇の代表であり、斉桓晋文と称される。

文公と前後して活躍したのが、西の大国・秦の穆公である。穆公は西の戎と戦って勝利し、百里奚などの他国出身者を積極的に起用し、小国を併合して領土を広げた。また驪姫の乱で混乱した晋に恵公を擁立し、後に恵公が背信を繰り返すとこれを韓の地で大破し、その死後、今度は恵公の兄を即位させ晋の文公とした。秦の穆公と晋の文公の関係は良好であったが、文公の死後に再び両国の関係は悪化し、穆公はまたもや晋を大いに破っている。だが穆公死去後、家臣のほとんどが殉死したため秦は大きく後退した。

次に覇権を握るのが、南の大国・楚の荘王である。もともと周から封建された国ではなく、実力により湖北・湖南を押さえて立国した経緯の為、王として認知されていなかった。のちに子爵の位を周より授かったが、国力に対して位が低すぎるとして自ら王を名乗るようになったのである。荘王は今まで朝廷にはびこっていた悪臣たちを一挙に排除し、有能な人材を登用した。国内を治めた荘王は豊富な兵力をもって北上して周辺の小国を威服させ、洛陽近くで大閲兵式を行って周王室に圧力をかけた。さらに鄭の都を包囲し、これを救援に来た晋軍を邲(び、邲は必におおざと)で大破した。この勝利により中原の小国は楚に服従した。

中期・小国外交の時代[編集]





春秋時代概念地図
この邲の戦い以降は諸侯同士の争いは少なくなる。その理由は、諸侯の下にいた大夫(たいふ)・士(し)と呼ばれる中級から下級の貴族階級が勃興して、彼らに諸国の実権が移り、他国との争いよりも国内での同格の貴族たちとの争いに忙しくなったからである。

これら諸国の実権を握った貴族としては、晋の六卿(智・魏・韓・趙・中行・士(范)の六氏)、斉の六卿(国・高・鮑・崔・慶・陳(田)の六氏)、魯の三桓(仲(孟)・叔・季の三氏)、鄭の七穆(罕・駟・豊・游・印・国・良の七氏)などがいる。彼らは互いに争うこともあれば、同盟を結んで他の貴族と対立することもあり、時には君主とも対立し、君主を殺害するようなこともあった。これらの現象は伝統的な身分体制の崩壊も表している。この時期に儒教を起こした孔子もこのような伝統体制の崩壊に対する憤慨がその学の源となったとも考えられている。

こういった背景から国同士の対立をあまり望まれなくなり、紀元前546年に弭兵の会が晋と楚の間で行われた。弭兵(びへい)とは戦いを止めるということである。

貴族たちの伸張はそれまであまり国政の座に就くことのなかった出自の者たちを国政の舞台に押し上げ、この時期には名宰相と呼ばれる者が多く出る。代表的なものに斉の晏嬰・鄭の子産・晋の羊舌肸(叔向)などがいる。また大国同士が直接ぶつかりあうことが避けられたため、鄭の子産や魯の孔子などの活躍する小国外交が活発になった。子産は中国初の成文法を制定したことで有名である。この子産の行動についても、法律はそれまで上流階級の中で暗黙の了解で行われていたが、新しく勃興してきた層階級の人間たちにはそれが不満であったので、法律を形に残るようにしなければいけなくなったと考えられる。

この頃になると君主は貴族たちの顔色を窺わなければ立ち行かなくなり、晋では先述の六卿から2つが脱落した知・魏・韓・趙の4氏に完全に牛耳られ、斉ではかつて陳より亡命してきた田氏の力が非常に大きくなり、楚では有力貴族と王族との争いで国政は混乱した。

後期・呉越抗争[編集]

一方、南の長江流域では呉・越という2つの新興勢力が興っていた。呉は闔閭・夫差の2人の君主と名臣孫武・伍子胥、越は君主勾践と名臣范蠡の力により急速に勢力を拡大した。呉は楚の首都を陥落させ、滅亡寸前に追い込むほどの力を見せる。さらに越を撃破して服属させ、黄河流域に進出して諸侯の盟主の座を晋と争った。しかし、一旦屈服した越の入念な準備に基づいた反撃により、呉は滅亡する。越も勾践の死後は振るわず、後に楚に滅ぼされた。

完全な異民族が中原の覇者となったことで周王朝を中心とする秩序が無意味化したこと、呉越は製鉄の先駆地でこの頃から本格的に鉄器時代に入ること等から、呉越抗争の直後から戦国時代とする説もある。

その頃、晋では紀元前453年に知氏が魏・韓・趙の3氏の連合により滅ぼされる。知氏の旧領を分け取りにしたことでさらに力をつけた3氏はそれぞれ魏・韓・趙の国を建てた。この3つを合わせて三晋とも呼ぶ。その後、魏・韓・趙の三国は紀元前403年に周王室より正式に諸侯として認められた。この時点をもって春秋時代は終わり、戦国時代に入る。

前後して、斉ではほぼ完全に田氏に国政を牛耳られ、紀元前386年に田和により簒奪され、太公望以来の斉は滅びた。これ以降の斉をそれまでと区別して田斉とも呼ぶ。


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軍制・戦[編集]

春秋時代は「宗法」に基づく軍制が基本で、一軍を12,500人として、大国は三軍、次国は二軍、小国は一軍と定められており、これを大きく抜き出ることはなかった。三軍を有したのは晋・楚・斉ぐらいのもので、しかも斉の場合は一軍は1万人の兵を指している。六軍を有してよいのは周王だけだが、周は春秋時代から急速に衰え六軍は形成できなかった。晋では文公の時、新たに三軍を加え六軍としたがほどなく廃止されている。

軍が巨大化しなかったのは、周王を形式上尊ぶことから「宗法」を遵守したこと、この頃まだ鉄は使われておらず武器の質が低かったこと、鉄製農具がなく生産性が低いため人口も次の戦国時代よりかなり少なく、長期間の戦争は著しく国力を減退させることなどが挙げられる(鉄は戦国時代から使われ出す)。

この頃の主な戦争は兵車戦であり、騎馬はほぼ存在しなかった。この頃の中華思想は、車(馬車・兵車)という高等な乗り物を使用するのが中華圏の人であり、馬に直に騎乗するのは狄戎(異民族)と変わりがないと思われていた。大夫は兵車に乗り戦争指揮をし、兵車を核として歩兵を配置した。

また、まだこの時代は戦を前にして占いをする風習も残っており、古風であるといえる。

春秋時代以降見られない戦争形式が、この時は見受けられる。つまり、野天での開戦時に一方の使者が相手陣地に乗り込み、戯言を言う・武勇を示すといったことをする。相手方がこの戯言に戯言で返答する、または武勇を示した相手を追いかけ出したら戦争開始となった。これは、この時代中期まではしっかりと見られ、奇襲は非礼とされていた。

それに、この時代特有の光景も見られる。たとえば、「鄢陵の戦い」でのことである。晋の大夫・郤至が敵国である楚の共王を発見した。郤至は共王を見ると兵車を降り、冑を脱ぎ、走り去った。共王は好感を抱き郤至に弓を贈らせたが、受け取らず自分の無事を告げて粛という礼を3回した。また、晋の君主詞の車右である欒鍼は、敵軍の子重の旗を見つけると、晋軍の勇を見せるため詞に頼み込み酒樽を送ってもらった。という風に「礼」を重んじた戦が展開されたのがこの時代なのである。戦国時代からは、この光景は見られず戦における「礼」は消失した。

荀子

荀子(じゅんし、紀元前313年? - 紀元前238年?)は、中国の戦国時代末の思想家・儒学者。諱は況、字は卿。



目次 [非表示]
1 人物・来歴
2 著作
3 思想 3.1 生涯学習
3.2 礼の重視
3.3 実力主義・成果主義
3.4 性悪説
3.5 天人の分

4 後世への影響
5 関連項目
6 主な訳注書
7 外部リンク


人物・来歴[編集]

紀元前4世紀末、趙に生まれる。斉の襄王に仕え、斉が諸国から集めた学者たち(「稷下の学」)の祭酒(学長職)に任ぜられる。後に、讒言のため斉を去り、楚の宰相春申君に用いられて、蘭陵の令となり、任を辞した後もその地に滞まった。後漢の荀ケ・荀攸はその末裔と言う。

「性悪説」で知られる。

著作[編集]

荀子および後学の著作群は、前漢末に整理され、『孫卿新書』32篇としてまとめられた。唐の楊wはこれを整理して書名を『荀子』と改め、注釈を加えて20巻とした。のちに『孫卿新書』は亡佚し、現存するものはすべて楊w注本の系統である。

32編は以下の構成である。

1. 勧学、2. 修身、3. 不苟、4. 栄辱、5. 非相、6. 非十二子、7. 仲尼、8. 儒效、9. 王制、10. 富国、11. 王霸、12. 君道、13. 臣道、14. 致士、15. 議兵、16. 彊国、17. 天論、18. 正論、19. 礼論、20. 楽論、21. 解蔽、22. 正名、23. 性悪、24. 君子、25. 成相、26. 賦、27. 大略、28. 宥坐、29. 子道、30. 法行、31. 哀公、32. 堯問

思想[編集]

生涯学習[編集]

勧学編では、学ぶことや善事の継続的な努力を説いている。

礼の重視[編集]

修身編では、『礼』を重視している。

実力主義・成果主義[編集]

王制編や富国編等では、治政にあたって実力主義や成果主義の有効性を説いている。

性悪説[編集]

性悪編では、人間の性を悪と認め、後天的努力(すなわち学問を修めること)によって善へと向かうべきだとした。このような性悪説の立場から、孟子の性善説を荀子は批判した。

荀子は、「善」を「治」、「悪」を「乱」と規定し、また人間の「性」(本性)は「限度のない欲望」だという前提から、各人がそれぞれ無限の欲望を満たそうとすれば、奪い合い・殺し合いが生じて社会は「乱」(=「悪」)に陥る、と述べてその性悪説を論証する。 そして、各人の欲望を外的な規範(=「礼」)で規制することによってのみ「治」(=「善」)が実現されるとして、礼を学ぶことの重要性を説いた。

このような思想は、社会契約説の一種であるとも評価される。

天人の分[編集]

天論編では、「天」を自然現象であるとして、従来の天人相関思想(「天」が人間の行為に感応して禍福を降すという思想)を否定した。

「流星も日食も、珍しいだけの自然現象であり、為政者の行動とは無関係だし、吉兆や凶兆などではない。これらを訝るのはよろしいが、畏れるのはよくない」。

「天とは自然現象である。これを崇めて供物を捧げるよりは、研究してこれを利用するほうが良い」。

また祈祷等の超常的効果も否定している。

「雨乞いの儀式をしたら雨が降った。これは別に何ということもない。雨乞いをせずに雨が降るのと同じである」。

「為政者は、占いの儀式をして重要な決定をする。これは別に占いを信じているからではない。無知な民を信じさせるために占いを利用しているだけのことである」。

後世への影響[編集]

荀子の弟子としては、韓非・李斯・浮丘伯・陳囂の4人が知られる。このうち浮丘伯を通じて、荀子の思想は漢代の儒学に大きな影響を与えた。韓非や李斯は、外的規範である「礼」の思想をさらに進めて「法」による人間の制御を説き、韓非は法家思想の大成者となり、李斯は法家の実務の完成者となった。

ただし、「法家思想」そのものは孔子や韓非子の生まれる前から存在しており、荀子の思想から法家思想が誕生した、というのは誤りである。

関連項目[編集]
中国の古典の時代別一覧
分 (倫理)

孟子

孟子(もうし、紀元前372年? - 紀元前289年)は戦国時代中国の儒学者。姓は不詳、氏は孟、諱は軻(か)、字は子輿(しよ)。亜聖(あせい)とも称される。孟子の「子」とは先生というほどの意。儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。

あるいはその言行をまとめた書『孟子』(もうじ)。性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した。



目次 [非表示]
1 経歴
2 孟子の思想 2.1 性善 2.1.1 孟子と荀子

2.2 四端
2.3 仁義
2.4 王覇
2.5 民本
2.6 天命

3 後世の評価
4 孟廟
5 書物としての『孟子』
6 日本における『孟子』 6.1 江戸時代以前
6.2 江戸時代

7 脚注
8 外部リンク


経歴[編集]

孟子は鄒(すう。現在の山東省鄒城市)の人で、その母が孟子を育てた時の話が有名である。最初は墓地の近くに住んでいたが、やがて孟子が葬式の真似事を始めたので母は家を移した。移った所は市場の近くで、やがて孟子が商人の真似事を始めたので母は再び家を移した。次に移った所は学問所の近くで、やがて孟子が学問を志すようになったので母はやっと安心したという。この話は孟母三遷として知られ、史実ではないとされているが、子供の育成に対する環境の影響に関して良く引き合いに出され、鄒城市には孟母三遷祠が建てられている。孟子の母は、他にも孟母断機の故事で知られている。

母の元を離れて孔子の孫の子思の門人の下で学んだ。子思に直接学んだという説もあるが、それだと年代に少し無理がある。後に、魏・斉・宋・魯などで遊説して回ったが、その言説は君主には受け入れられず、郷里に戻り弟子の育成に努め、併せて著作活動に入った。

孟子の思想[編集]

性善[編集]

その名の通り、人間は生まれながらにして善であるという思想(性善説)である。

当時、墨家の告子は、人の性には善もなく不善もなく、そのため文王や武王のような明君が現れると民は善を好むようになり、幽王や脂、のような暗君が現れると民は乱暴を好むようになると説き、またある人は、性が善である人もいれば不善である人もいると説いていた。これに対して孟子は、「人の性の善なるは、猶(なお)水の下(ひく)きに就くがごとし」(告子章句上)と述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人もその性は一様であると主張した。また、性が善でありながら人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだとした。そのため孟子は、「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失わざる者なり」(離婁章句下)、「学問の道は他無し、其の放心(放失してしまった心)を求むるのみ」(告子章句上)とも述べている。

その後、荀子(じゅんし)は性悪説を唱えたが、孟子の性善説は儒教主流派の中心概念となって多くの儒者に受け継がれた。

孟子と荀子[編集]

孟子の対立思想として、荀子の性悪説が挙げられる。しかし、孟子は人間の本性として「#四端」があると述べただけであって、それを努力して伸ばさない限り人間は禽獸(きんじゅう。けだものの意)同然の存在だと言う。決して人間は放っておいても仁・義・礼・智の徳を身に付けるとは言っておらず、そのため学問をして努力する君子は禽獸同然の人民を指導する資格があるという主張となる。一方、荀子は人間の本性とは欲望的存在であるが、学問や礼儀という「偽」(こしらえもの、人為の意)を後天的に身に付けることによって公共善に向うことができると主張する。すなわち、両者とも努力して学問することを通じて人間がよき徳を身に付けると説く点では、実は同じなのである。すなわち「人間の持つ可能性への信頼」が根底にある。両者の違いは、孟子が人間の主体的な努力によって社会全体まで統治できるという楽観的な人間中心主義に終始したのに対して、荀子は君主がまず社会に制度を制定して型を作らなければ人間はよくならないという社会システム重視の考えに立ったところにある。前者は後世に朱子学のような主観中心主義への道を開き、後者は荀子の弟子たちによってそのまま法家思想となっていった。

四端[編集]

詳細は「四端説」を参照

孟子は人の性が善であることを説き、続けて仁・義・礼・智の徳を誰もが持っている4つの心に根拠付けた。

その説くところによれば、人間には誰でも「四端(したん)」が存在する。「四端」とは「四つの端緒」という意味で、それは「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)・「羞悪」(不正や悪を憎む心)・「辞譲」(譲ってへりくだる心)・「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)と定義される。この四端を努力して拡充することによって、それぞれが仁・義・礼・智という人間の4つの徳に到達すると言うのである。だから人間は学んで努力することによって自分の中にある「四端」をどんどん伸ばすべきなのであり、また伸ばすだけで聖人のような偉大な人物にさえなれる可能性があると主張する。

仁義[編集]

孔子は仁を説いたが、孟子はこれを発展させて仁義を説いた。仁とは「忠恕」(真心と思いやり)であり、「義とは宜なり」(『中庸』)というように、義とは事物に適切であることをいう。

王覇[編集]

孟子は古今の君主を「王者」と「覇者」とに、そして政道を「王道」と「覇道」とに弁別し、前者が後者よりも優れていると説いた。

孟子によれば、覇者とは武力によって借り物の仁政を行う者であり、そのため大国の武力がなければ覇者となって人民や他国を服従させることはできない。対して王者とは、徳によって本当の仁政を行う者であり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服するようになる。故に孟子は、覇者を全否定はしないものの、「五覇は三王(夏の禹王と殷の湯王と周の文王または武王)の罪人なり。今の諸侯は五覇の罪人なり。今の大夫は今の諸侯の罪人なり」(告子章句下)と述べて5人の覇者や当時群雄割拠していた諸侯たちを痛烈に批判し、堯・舜や三王の「先王の道」(王道)を行うべきだと主張したのである。

民本[編集]

孟子は領土や軍事力の拡大ではなく、人民の心を得ることによって天下を取ればよいと説いた。王道によって自国の人民だけでなく、他国の人民からも王者と仰がれるようになれば諸侯もこれを侵略することはできないという。

梁の恵王から利益によって国を強くする方法について問われると、孟子は、君主は利益でなく仁義によって国を治めるべきであり、そうすれば小国であっても大国に負けることはないと説いた。孟子によれば、天下を得るためには民を得ればよく、民を得るためにはその心を得ればよい。では民の心を得るための方法は何かといえば、それは民の欲しがるものを集めてやり、民の嫌がるものを押し付けないことである。民は安心した暮らしを求め、人を殺したり殺されたりすることを嫌うため、もし王者が仁政を行えば天下の民は誰も敵対しようとせず、それどころか自分の父母のように仰ぎ慕うようになるという。故に孟子は「仁者敵無し」(梁恵王章句上)と言い、また「天下に敵無き者は天吏(天の使い)なり。然(かくのごと)くにして王たらざる者は、未だ之(これ)有らざるなり」(公孫丑章句上)と言ったのである。

孟子によれば、僅か百里四方の小国の君主でも天下の王者となることができる。覇者の事績について斉の宣王から問われたときも、孟子は、君主は覇道でなく王道を行うべきであり、そうすれば天下の役人は皆王の朝廷に仕えたがり、農夫は皆王の田野を耕したがり、商人は皆王の市場で商売したがり、旅人は皆王の領内を通行したがり、自国の君主を憎む者は皆王のもとへ訴えたがるだろう。そうなれば誰も王を止めることはできない、と答えている。もちろん農夫からは農業税、商人からは商業税、旅人からは通行税を得て国は豊かになり、また人民も生活が保障されてはじめて孝悌忠信を教え込むことができるようになる。孟子の民本思想はその経済思想とも密接に関連しており、孟子が唱えた「井田制」もこのような文脈で捉えられるべきだろう。

しかし、これは当時としては非常に急進的な主張であり、当時の君主たちに孟子の思想が受け容れられない原因となった。孟子は「民を貴しと為し、社稷之(これ)に次ぎ、君を軽しと為す」(盡心章句下)、つまり政治にとって人民が最も大切で、次に社稷(国家の祭神)が来て、君主などは軽いと明言している。あくまで人民あっての君主であり、君主あっての人民ではないという。これは晩年弟子に語った言葉であると考えられているが、各国君主との問答でも、「君を軽しと為す」とは言わないまでも人民を重視する姿勢は孟子に一貫している。絶対の権力者であるはずの君主の地位を社会の一機能を果たす相対的な位置付けで考えるこのような言説は、自分達の地位を守りたい君主の耳に快いはずがなかったのである。

天命[編集]

孟子自身は「革命」という言葉を用いていないものの、その天命説は明らかに後の革命説の原型をなしている。

孟子によれば、舜は天下を天から与えられて天子となったのであり、堯から与えられたのではない。天下を与えられるのは天だけであり、たとえ堯のような天子であっても天命に逆らって天下を遣り取りすることはできない。では、その天の意思、天命はどのように示されるのかといえば、それは直接にではなく、民の意思を通して示される。民がある人物を天子と認め、その治世に満足するかどうかによって天命は判断されるのである。

また、殷(商)の湯王が夏の桀王(けつおう)を追放し、周の武王が殷の紂王(ちゅうおう)を征伐したことも、臣下による君主への弑逆には当たらないとした。なぜならば、いくら桀紂が天子の位にあったとはいえ、仁義のない「残賊」にすでに天命はなく、ただの民と同じだからである。

このように、孟子の天命説は武力による君主の放伐さえも容認するものであった。しかしながら、孟子は革命の首唱者であっても革命家ではなかった。その天命説も放伐を煽動するのではなく、むしろ規制するためのものであったといえるだろう。

天子の位は、かつては代々賢者から賢者へと禅譲されていたが、禹(う)が崩ずると賢者の益でなくその子啓が位を継ぎ、以後今日まで世襲が続いている。これは禹の時代になって徳が衰えたからなのではないか、という弟子の萬章の問いに対し、孟子は明確にこれを否定している。孟子によれば、位を賢者が継ぐか子が継ぐかはすべて天命によるものであり、両者に優劣の差はない。孟子は孔子の言を引いて「唐・虞は禅(ゆず)り、夏后・殷・周は継ぐも、其の義は一なり」(萬章章句上)と述べている。そのため、位を世襲しながら天によって廃されてしまうのは、必ず桀紂のような「残賊」だけだとされる。

孟子が湯武の放伐を正当化したのは、あくまでそれが天命によってなされたからであり、もし天命によっていなければ、つまり君主が不仁不義でなければただの簒奪となる。周王室の力が衰え、各地で君主が臣下に国を乗っ取られる乱世にあって、孟子はその下剋上に道徳性を求めたと見るべきだろう。

このことはルソーの社会契約論と酷似している

後世の評価[編集]

以下は、中国語版ウィキペディアからの引用。

孟子は儒家の最も主要な代表的人物の一人である。しかし、孟子の地位は宋代以前にはあまり高くなかった。中唐時代に韓愈が『原道』を著して、孟子を戦国時代の儒家の中で唯一孔子の「道統」を受け継いだという評価を開始し、こうして孟子の「昇格運動」が現れた。以降孟子とその著作の地位は次第に上昇していった。北宋時代、神宗の熙寧4年(1071年)、『孟子』の書は初めて科挙の試験科目の中に入れられた。元豊6年(1083年)、孟子は初めて政府から「鄒国公」の地位を追贈され、翌年孔子廟に孔子の脇に並置して祭られることが許された。この後『孟子』は儒家の経典に昇格し、南宋時代の朱熹はまた『孟子』の語義を注釈し、『大学』、『中庸』と並んで「四書」と位置付け、さらにその実際的な地位を「五経」の上に置いた。元代の至順元年(1330年)、孟子は加えて「亜聖公」に封じられ、以後「亜聖」と称されるようになり、その地位は孔子に次ぐとされたのである。

孟廟[編集]





孟廟
孟子の出身地である山東省鄒城市の南郊には、孟子を祭祀する孟廟が建てられている。別名を亜聖廟ともいい、南北に長い長方形で、五進の門を持ち、殿宇は64間あり、敷地面積は4万平方メートルを超える。正殿を亜聖殿といい、現存のものは清の康熙年間に地震で傾いた後に再建されたもので、7間あり、高さ17m、幅27m、奥行き20mある。「曲阜の孔廟、孔林、孔府の拡大」として2008年3月にユネスコの世界遺産の暫定リストに入れられている。

書物としての『孟子』[編集]

書としての『孟子』(もうじ、もうし)は、上述のとおり儒教正典の四書の一つである。孟子が一生行った遊説や論争、弟子たちとの問答、および語録の集成である。

書名は『毛詩』と区別するため「もうじ」と発音し、人名は「もうし」と発音するのが日本での習慣だが、近年は書名の場合でも「もうし」と発音することが多い[1]。

ウィキクォートに孟子に関する引用句集があります。

『孟子』の注を書いた後漢の趙岐は、『孟子』は孟子の引退後に、彼が弟子の公孫丑・萬章らと共に問答を集め、また規則の言葉を選んで編集したと記載している[2]。
「梁恵王章句上・下」
「公孫丑章句上・下」
「滕文公章句上・下」
「離婁章句上・下」
「萬章章句上・下」
「告子章句上・下」
「盡心章句上・下」

の七篇よりなる。

儒教倫理説の根本教義のひとつとされ、社会秩序の維持のため守るべき5つの徳として有名な「五倫の道」は滕文公上篇に記載されており、性善説の根拠たるべき道徳学説として知られる四端説は、公孫丑上篇に記されている。

なお、『論語』は孔子が登場しない章も含まれていて、孔子本人と弟子たちの言行録となっているが、『孟子』は全章に孟子本人が登場する。

日本における『孟子』[編集]

江戸時代以前[編集]

日本にも『孟子』は持ち込まれたが、「易姓革命」の概念が受け容れられず、あまり流布しなかったと言われている。これは、移り変わっていく中国の政権と異なり、日本の皇室は政治体制の変動にもかかわらず(形式だけでも)頂点にあり続けたために、矛盾が発生してしまうためであると考えられる。また、明経道を家学とした公家の清原氏では、易姓革命の部分の講義は行わない例があったとされている。俗に「『孟子』を乗せた船は、日本につく前に沈没する」とも言われていたと伝わる(「孟子舶載船覆溺説」)。明の謝肇淛(しゃちょうせつ)の『五雜組(ござっそ)』には「倭奴(日本人の事)もまた儒書を重んじ仏法を信ず。凡そ中国の経書は皆重価を以てこれを購(あがな)う。独り孟子無しという。その書を攜(たずさ)えて往く者あれば、舟輒(すなわ)ち覆溺す。これまた一奇事なり」とあり、それを参考にした上田秋成の『雨月物語』で西行に語らせた台詞「八百よろずの神の憎ませ給ふて神風を起こして船を覆し給ふと聞く」の記述とも関係があると考えられる。

しかし宇多天皇の寛平3年(891年)に藤原佐世の著した『日本国見在書目録』には既に『孟子趙岐注』14巻などがあったと記録されている。おそらく上記の伝説は危険に満ちた航海者の畏怖の念から出てきたものと思われる。そもそも、『孟子』が中国において儒教の経典としての地位が認められた時代(北宋後期〜南宋前期)には、遣唐使が既に廃止されて日中間の学術的交流は大幅に縮小されており、日本における儒教は遣唐使廃止以前の唐代儒教の延長線上にあった。そのため、日本の大学寮明経道の教科書には『孟子』は含まれておらず、鎌倉時代以前の日本では『孟子』はほとんど知られていなかった可能性は高い。儒教の経典としての『孟子』の伝来は鎌倉時代に宋学の一部としてのものであったと考えられている。鎌倉末期に花園上皇が皇太子量仁親王(後の光厳天皇)に充てた『誡太子書』には『孟子』の革命説が引用されており、『徒然草』や『太平記』にも『孟子』の知識が垣間見られるなど、既に支配層や知識人の間では『孟子』は広く知られていた。なお、後醍醐天皇や足利義満が『孟子』をはじめとする四書を講習していたことを後醍醐天皇の倒幕計画や義満の皇位簒奪計画と結びつける説が行われるが、鎌倉時代末期から南北朝時代を通じて『孟子』を含めた四書を学ぶことは、天皇をはじめ公家社会の流行となっており、後醍醐天皇や義満もその流行の中にあった。『孟子』に記された性善説や仁義説などは宋学の伝来以後早い段階より日本の知識人の間で受容されており、『孟子』の一部分に過ぎない易姓革命と結びつけて、そこから特定の意図を読みとれるものではないという主張もある[3]。

江戸時代[編集]

江戸時代には朱子学が官学とされたことによって、朱子学にて四書の一である『孟子』は、儒学研究家のみならず、武士階級にとって必読の倫理書に格上げされた。『孟子』が日本人に爆発的に普及するようになったのは、江戸時代からである。後世に朱子学批判に回った伊藤仁斎や荻生徂徠らも、当然のごとく『孟子』を熟読するところから研究生活を始めたのである。

伊藤仁斎は、朱子学を批判して、『論語』『孟子』の古い意義すなわち古義をもって読むべきことを主張し、「古義学」を提唱した。彼は、自己の学の入門的著作『童子問』において、「天下の理は、論語・孟子の二書に尽きている。さらに加える内容などないのである。疑ってはいけない。」と激賞した[4]。彼は『孟子』の書を『論語』の意義に達するための津筏(しんばつ。わたしぶね)であると評して、『論語』の解説書として必ず熟読しなければならない、と説いた[5]。

一方、後進の儒学者で仁斎の学説を批判した荻生徂徠は、著書『弁道』において、「思・孟ハ外人ト爭(争)フ者ナリ」と評した。この語の意味は、子思およびそれを継いだ孟子は、外人すなわち論敵と争うための言葉を費やした者たちであるということである。両名が道家・墨家ほかの同時代の論客に対して論争したのは、諸子百家が相並び立つ時代の要請でやむをえなかった。徂徠は、論争して孔子の後を守った点については、両名の功績を評価した。しかし、徂徠は孔子の伝えた「先王の道」とは「礼楽刑政」、すなわち単純に言い尽くすことができない中国古代の伝統文化総体の継承を意味していたにも関わらず、思・孟の両名は論争によって理論を重視した結果として、「先王の道」を単なる一学説である「儒家者流」に卑小化させた、と断じた。自説を遊説と論争の場で単純化・明確化した孟子は、徂徠によって、後世の者に孔子の伝えた「先王の道」を見誤らせるきっかけを作った一人として、批判された。

幕末の志士吉田松陰もまた、『孟子』の愛読者であった。彼の『孟子』講義書が、『講孟箚記(こうもうさっき)』である。この講義書には、孟子の言葉に応じて長州藩と日本を憂い、また当時の西洋列強の侵略にいかに対すべきかを思う憂憤が、よく表れている。ただし松蔭は、孟子の展開する「易姓革命論」を、日本の万世一系の国体に合わないとして否定したことは、もちろんである。

なお赤穂浪士のひとり、武林隆重は孟子の子孫であると伝わる。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に明の従軍医であった孟二寛が日本に連行され、武林氏を名乗ったものである。

ちなみに、江戸時代の川柳に孟母三遷を茶化した「おっかさん又越すのかと孟子言い」という句がある。

Zhuangzi

Zhuang Zhou, more commonly known as Zhuangzi[1] (or Master Zhuang), was an influential Chinese philosopher who lived around the 4th century BC during the Warring States period, a period corresponding to the summit of Chinese philosophy, the Hundred Schools of Thought. He is credited with writing−in part or in whole−a work known by his name, the Zhuangzi, which expresses a philosophy which is skeptical, arguing that life is limited and knowledge to be gained is unlimited. As a Daoist philosopher, some claim his writings reflect a form of western relativism[citation needed], while others question revisionist interpretations.[2]



Contents [hide]
1 Life
2 Writing
3 Zhuangzi's philosophy 3.1 Anarchism
3.2 Ecology

4 See also
5 Notes
6 References
7 Further reading
8 External links


Life[edit]

The only account of the life of Zhuangzi is a brief sketch in chapter 63 of Sima Qian's Records of the Grand Historian, where he is described as a minor official from the town of Meng (in modern Anhui) in the state of Song, living in the time of King Hui of Liang and King Xuan of Qi (late 4th century BC).[3] Sima Qian writes:
Chuang-Tze had made himself well acquainted with all the literature of his time, but preferred the views of Lao-Tze; and ranked himself among his followers, so that of the more than ten myriads of characters contained in his published writings the greater part are occupied with metaphorical illustrations of Lao's doctrines. He made "The Old Fisherman," "The Robber Chih," and "The Cutting open Satchels," to satirize and expose the disciples of Confucius, and clearly exhibit the sentiments of Lao. Such names and characters as "Wei-lei Hsu" and "Khang-sang Tze" are fictitious, and the pieces where they occur are not to be understood as narratives of real events.But Chuang was an admirable writer and skillful composer, and by his instances and truthful descriptions hit and exposed the Mohists and Literati. The ablest scholars of his day could not escape his satire nor reply to it, while he allowed and enjoyed himself with his sparkling, dashing style; and thus it was that the greatest men, even kings and princes, could not use him for their purposes.King Wei of Chu, having heard of the ability of Chuang Chau, sent messengers with large gifts to bring him to his court, and promising also that he would make him his chief minister. Chuang-Tze, however, only laughed and said to them, "A thousand ounces of silver are a great gain to me; and to be a high noble and minister is a most honorable position. But have you not seen the victim-ox for the border sacrifice? It is carefully fed for several years, and robed with rich embroidery that it may be fit to enter the Grand Temple. When the time comes for it to do so, it would prefer to be a little pig, but it can not get to be so. Go away quickly, and do not soil me with your presence. I had rather amuse and enjoy myself in the midst of a filthy ditch than be subject to the rules and restrictions in the court of a sovereign. I have determined never to take office, but prefer the enjoyment of my own free will."[4]
The validity of his existence has been questioned by some, including himself (See below) and Russell Kirkland, who writes:


According to modern understandings of Chinese tradition, the text known as the Chuang-tzu was the production of a 'Taoist' thinker of ancient China named Chuang Chou/Zhuang Zhou. In reality, it was nothing of the sort. The Chuang-tzu known to us today was the production of a thinker of the third century CE named Kuo Hsiang. Though Kuo was long called merely a 'commentator,' he was in reality much more: he arranged the texts and compiled the present 33-chapter edition. Regarding the identity of the original person named Chuang Chou/Zhuangzi, there is no reliable historical data at all.[5]

However, Sima Qian's biography of Zhuangzi pre-dates Guo Xiang (Chinese: 郭象; pinyin: Guō Xiàng; Wade–Giles: Kuo Hsiang; d. 312 AD) by centuries. Furthermore, the Han Shu "Yiwen zhi" (Monograph on literature) lists a text Zhuangzi, showing that a text with this title existed no later than the early 1st century CE, again pre-dating Guo Xiang by centuries.

Writing[edit]

Main article: Zhuangzi (book)

Zhuangzi is traditionally credited as the author of at least part of the work bearing his name, the Zhuangzi. This work, in its current shape consisting of 33 chapters, is traditionally divided into three parts: the first, known as the "Inner Chapters", consists of the first seven chapters; the second, known as the "Outer Chapters", consist of the next 15 chapters; the last, known as the "Mixed Chapters", consist of the remaining 11 chapters. The meaning of these three names is disputed: according to Guo Xiang, the "Inner Chapters" were written by Zhuangzi, the "Outer Chapters" written by his disciples, and the "Mixed Chapters" by other hands; the other interpretation is that the names refer to the origin of the titles of the chapters−the "Inner Chapters" take their titles from phrases inside the chapter, the "Outer Chapters" from the opening words of the chapters, and the "Mixed Chapters" from a mixture of these two sources.

Further study of the text does not provide a clear choice between these alternatives. On the one side, as Martin Palmer points out in the introduction to his translation, two of the three chapters Sima Qian cited in his biography of Zhuangzi, come from the "Outer Chapters" and the third from the "Mixed Chapters". "Neither of these are allowed as authentic Chuang Tzu chapters by certain purists, yet they breathe the very spirit of Chuang Tzu just as much as, for example, the famous 'butterfly passage' of chapter 2."[6]

On the other hand, chapter 33 has been often considered as intrusive, being a survey of the major movements during the "Hundred Schools of Thought" with an emphasis on the philosophy of Hui Shi. Further, A.C. Graham and other critics have subjected the text to a stylistic analysis and identified four strains of thought in the book: a) the ideas of Zhuangzi or his disciples; b) a "primitivist" strain of thinking similar to Laozi; c) a strain very strongly represented in chapters 8-11 which is attributed to the philosophy of Yang Chu; and d) a fourth strain which may be related to the philosophical school of Huang-Lao.[7] In this spirit, Martin Palmer wrote that "trying to read Chuang Tzu sequentially is a mistake. The text is a collection, not a developing argument."[8]

Zhuangzi was renowned for his brilliant wordplay and use of parables to convey messages. His critiques of Confucian society and historical figures are humorous and at times ironic.

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In general, Zhuangzi's philosophy is skeptical, arguing that life is limited and knowledge to be gained is unlimited. To use the limited to pursue the unlimited, he said, was foolish. Our language and cognition in general presuppose a dao to which each of us is committed by our separate past−our paths. Consequently, we should be aware that our most carefully considered conclusions might seem misguided had we experienced a different past. Zhuangzi argues that in addition to experience, our natural dispositions are combined with acquired ones−including dispositions to use names of things, to approve/disapprove based on those names and to act in accordance to the embodied standards. Thinking about and choosing our next step down our dao or path is conditioned by this unique set of natural acquisitions.

Zhuangzi's thought can also be considered a precursor of relativism in systems of value. His relativism even leads him to doubt the basis of pragmatic arguments (that a good course of action preserves our lives) since this presupposes that life is good and death bad. In the fourth section of "The Great Happiness" (至樂 zhìlè, chapter 18), Zhuangzi expresses pity to a skull he sees lying at the side of the road. Zhuangzi laments that the skull is now dead, but the skull retorts, "How do you know it's bad to be dead?"

Another example about two famous courtesans points out that there is no universally objective standard for beauty. This is taken from Chapter 2 (齊物論 qí wù lùn) "On Arranging Things", or "Discussion of Setting Things Right" or, in Burton Watson's translation, "Discussion on Making All Things Equal".


Men claim that Mao [Qiang] and Lady Li were beautiful, but if fish saw them they would dive to the bottom of the stream; if birds saw them they would fly away, and if deer saw them they would break into a run. Of these four, who knows how to fix the standard of beauty in the world? (2, tr. Watson 1968:46)

However, this subjectivism is balanced by a kind of sensitive holism in the famous section called "The Happiness of Fish" (魚之樂, yúzhīlè).


Zhuangzi and Huizi were strolling along the dam of the Hao Waterfall when Zhuangzi said, "See how the minnows come out and dart around where they please! That's what fish really enjoy!"

Huizi said, "You're not a fish − how do you know what fish enjoy?"

Zhuangzi said, "You're not me, so how do you know I don't know what fish enjoy?"

Huizi said, "I'm not you, so I certainly don't know what you know. On the other hand, you're certainly not a fish − so that still proves you don't know what fish enjoy!"

Zhuangzi said, "Let's go back to your original question, please. You asked me how I know what fish enjoy − so you already knew I knew it when you asked the question. I know it by standing here beside the Hao." (17, tr. Watson 1968:188-9, romanization changed to pinyin)

The traditional interpretation of this "Daoist staple", writes Chad Hansen (2003:145), is a "humorous miscommunication between a mystic and a logician". The encounter also outlines part of the Daoist practice of observing and learning from the natural world.

Anarchism[edit]

Zhuangzi said the world "does not need governing; in fact it should not be governed," and, "Good order results spontaneously when things are let alone." Murray Rothbard called him "perhaps the world's first anarchist".[9]

Ecology[edit]

In Chapter 2, Zhuangzi outlines concepts describing the interdependence of things in a way the foreshadows modern ecological thinking. As is typical in Daoism, the emphasis is on the interdependence of opposing concepts, and in Zhaungzi's distinctive style this point is pushed to absurdity:
There is no thing that is not that; there is no thing that is not this. That doesn't see itself as that. Self-knowledge precedes knowing others. So it's said, "That arises out of this, but this is also caused by exactly that. This is the theory that this and that are born together." And although this is true enough, where there's birth, there's death; where there's death, birth. Where there's a possible, there is the impossible; with the impossible, the possible. Cause right and you cause wrong; cause wrong, cause right. Right? So be it. [10]

荘子

荘子(そうし、生没年は厳密には不明だが、紀元前369年 - 紀元前286年と推定されている)は、中国の戦国時代の宋国の蒙(現在の河南省商丘あるいは安徽省蒙城)に産まれた思想家で、道教の始祖の一人とされる人物である。荘周(姓=荘、名=周)。字は子休とされるが、字についての確たる根拠に乏しい。



目次 [非表示]
1 人物
2 思想
3 荘子の著書『荘子』
4 孔子と儒教
5 道教 5.1 後世への影響

6 有名用語
7 関連項目
8 関連文献
9 外部リンク


人物[編集]

荘子の伝記は『史記』巻63にあるものの、明らかではない。そのことから架空説も存在するほどである。

思想[編集]

荘子の思想は無為自然を基本とし、人為を忌み嫌うものである。しかし老子には政治色が色濃いのに比べ、荘子は徹頭徹尾俗世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢になっている違いがある。

大まかな傾向をいえば、価値や尺度の相対性を説き、逆説を用い、日常生活における有用性などの意味や意義にたいして批判的である。

こうした傾向を、脱俗的な超越性から世俗的な視点の相対性をいうものとみれば、これは古来踏襲されてきた見方であるが、老荘思想的な、神秘主義思想として読むことになる。他方では、それが荘子の意図であったかはもちろん議論の余地があるが、近年の思想の影響を受けつつ、また同時代の論理学派との関連に着目して、特権的な視点を設定しない内在的な相対主義こそが荘子の思想の眼目なのであり、世俗を相対化する絶対を置く思想傾向にも批判的であるという解釈もなされている。

荘子の思想を表す代表的な説話として胡蝶の夢がある。「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか。」この説話の中に、無為自然、一切斉同の荘子の考え方がよく現れている。

近年では、方法としての寓話という観点や、同時代の論理学派や言語哲学的傾向に着目した研究もあらわれている。

荘子の著書『荘子』[編集]

荘子の著書と言われる『荘子』(そうじ)には、内篇七篇、外篇十五篇、雑篇十一篇があり、この中で内篇だけが荘子本人の手によるものと見られ、それ以外は弟子や後世の人の手によるものと見られている(異説あり)。実際、内篇に比べ外篇・雑篇は文章の点でも未熟であり、漢代になってから主導権を握った儒教に対する敵愾心が多く出過ぎており、無為の境地からは遠く離れたものとなっている。

荘子内篇は逆説的なレトリックが煌びやかに満ち満ちており、寓話を多く用い、読む者を夢幻の世界へと引きずり込む。

孔子と儒教[編集]

荘子は孔子を批判しているとされているが、文章をよく読むと孔子を相当重んじており、儒家の経典類もかなり読んだ形跡がある。このことから、古来より、荘子は儒家出身者ではないかという説があり、内容も本質的には儒教であると蘇軾が『荘子祠堂記』に於いて論じているほどである。白川静は孔子の弟子顔回の流れを汲むのではないかと推定している。

道教[編集]

老荘思想が道教に取り入られ老荘が道教の神として崇められる様になっているが、老荘思想と道教の思想とはかけ離れているとされている。しかし、これに反対する説もある。

後世への影響[編集]

老子と荘子の思想が道教に取り入られる様になると、荘子は道教の祖の一人として崇められるようになり、道教を国教とした唐の時代には、玄宗によって神格化され、742年に南華真人(なんかしんじん)の敬称を与えられた。また南華老仙とも呼ばれた。著書『荘子』は『南華真経(なんかしんきょう)』と呼ばれるようになった。小説『三国志演義』の冒頭に登場する南華老仙は、荘子のことである。

有名用語[編集]
衛生 庚桑楚篇から
胡蝶の夢
木鷄
知魚楽
万物斉同
江湖 莊子・内篇・逍遥游第一
庖丁解牛
寿(いのちなが)ければ則(すなわ)ち辱(はじ)多し 荘子・天地篇
己を虚しくする 荘子・山木篇
嚆矢 荘子・在宥篇
無用の用 荘子・人間世篇
萇弘は蜀に死す。其の血を蔵すること三年にして、化して碧と為る」(萇弘死于蜀,藏其血三年而化為碧) 荘子・外物篇 (碧血碑)
心斎坐忘 - 修行の方法

関連項目[編集]
荘子 (書物)
老子道徳経
老子
列子
道教
碧血碑
碧血剣

老子

老子(ろうし)は、古代中国の哲学者であり、道教創案の中心人物。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする[2]。道教のほとんどの宗派にて老子は神格(en)として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。

中国の言い伝えによると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にある[3]。

老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称する[4]。歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている[5][6]。



目次 [非表示]
1 老子の履歴 1.1 史記の記述
1.2 諸子百家の著述
1.3 定まらない評価

2 伝承 2.1 生涯にまつわる伝説
2.2 字・伯陽
2.3 尹喜

3 『老子道徳経』から推測される老子 3.1 議論
3.2 馬王堆・郭店の発掘書

4 思想から見る老子 4.1 政治思想の源流
4.2 老子の社会階級

5 道教における老子 5.1 理想の師弟
5.2 老子八十一化説

6 参考文献
7 脚注 7.1 注釈
7.2 脚注
7.3 脚注2

8 読書案内
9 外部リンク


老子の履歴[編集]

史記の記述[編集]

老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家・司馬遷(紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』「老子韓非列伝[7][8]」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。



1.老子者,楚苦縣鄉曲仁里人也,姓李氏,名耳,字耼,周守藏室之史也
2.孔子適周,將問禮於老子。(以下略)
3.老子脩道コ,其學以自隱無名為務。居周久之,見周之衰,乃遂去。至關,關令尹喜曰:「子將隱矣,彊為我著書。」於是老子乃著書上下篇,言道コ之意五千餘言而去,莫知其所終。

− 史記 卷六十三 老子韓非列傳[7][8]





伝説では、老子は周を去る際、水牛に乗っていたという[9]
これによると老子は、姓は「李」、名は「耳」,字は「耼」(または「伯陽」[注 1])。楚の国の苦県(現在の河南省[2]鹿邑県[10])、視スの曲仁という場所の出身で、周国の守藏室之史(書庫の記録官[2])を勤めていた。孔子(紀元前551年 - 紀元前479年)が礼の教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は道徳を修め、その思想から名が知られることを避けていた[2]。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の関所(函谷関とも散関とも呼ばれる[2])に着くと、関所の役人である尹喜が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい[11][12][13][14]、その後の事は誰も知らない[2]。(「老子」『列仙伝』においては大秦国、ローマ帝国へ向かった。)

「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる[15][16][17][18]。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や孟子のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える[15][19][注 2][注 3]。

出身地についても疑問が提示されており、『荘子』天運篇で孔子は沛の地(江蘇省西北[10])に老子を訪ねている[20]。また「苦い」県、「氏i癩=らい病)」の里と、意味的に不祥の字を当てて老子の反俗性を強調したとも言われる[10]。曲仁についても、一説には「仁(儒教の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と唐代の道家が書き換えたもので、元々は楚の半属国であった陳の相というところが出身と書かれていたとも言う[10][21]。

『史記』には続けて、



4.或曰:老來子亦楚人也,著書十五篇,言道家之用,與孔子同時雲。

− 史記 卷六十三 老子韓非列傳[7][8]

とあり、「老來子」という楚の人物がやはり孔子とは同じ時代に生き、道家についての15章からなる書を著したと伝える[13][14][22]。この説は「或曰」=「あるいは曰く」(一説によると[22])または「ある人曰く」(ある人物によると[2])で始められている通り、前説とは別な話として書かれている[23]。

さらに『史記』は、三つ目の説を採録する。



5.蓋老子百有六十餘歲,或言二百餘歲,以其脩道而養壽也。
6.自孔子死之後百二十九年,而史記周太史儋見秦獻公曰:「始秦與周合,合五百歲而離,離七十歲而霸王者出焉。」或曰儋即老子,或曰非也,世莫知其然否。老子,隱君子也。

− 史記 卷六十三 老子韓非列傳[7][7][8]

ここでは、老子は周の「太史儋(太史捶[22])」という名の偉大な歴史家であり占星家とされ、秦の献公在位時(紀元前384年 - 紀元前362年)に生きていたとしている[13][14]。彼は孔子の死後129年後に献公と面会し、かつて同じ国となった秦と周が500年後に分かれ、それから70年後に秦から覇者が出現すると預言したと司馬遷は述べ[2]、それは不老長寿の秘術を会得した160歳とも200歳とも思われる老子本人かも知れず、その根拠のひとつに「儋(捶)」と老子の字「耼」が同音であることを挙げているが、間違いかも知れないともあやふやに言う[22]。

これら『史記』の記述はにわかに信じられるものではなく、学問的にも事実ではないと否定されている[12]。合理主義者であった歴史家・司馬遷自身も断定して述べていないため[2]これらを確たる説として採録したとは考えられず、記述も批判的である[23]。逆に言えば、司馬遷が生きた紀元前100年頃の時代には、既に老子の経歴は謎に包まれはっきりとしなくなっていた事を示す[24]。

『史記』は老子の子孫についても言及する。



6.老子之子名宗,宗為魏將,封於段干。宗子注,注子宮,宮玄孫假,假仕於漢孝文帝。而假之子解為膠西王卬太傅,因家于齊焉

− 史記 卷六十三 老子韓非列傳[8]

老子の子は「宗」と言い、魏の将校となり、段干の地に封じられた。宗の子は「注」、孫は「宮」、そのひ孫(老子から8代目の子孫)「假」は漢の孝文帝に仕えた。假の子「解」は膠西王卬の太傅となって斉国に住んだという。

この膠西王卬とは、呉楚七国の乱(紀元前154年)で呉王・劉濞に連座し恵帝3年(紀元前154年)に殺害された。武内義雄(『老子の研究』)や小川環樹(『老子』)は、これを根拠に1代を30年と逆算し、老子を紀元前400年前後の人物と定めた。しかし、津田左右吉(『道家の思想と其の展開』)や楠山は、この系譜が事実ならば「解」は司馬遷のほぼ一世代前の人物となるため『史記』にはもっと具体的な叙述がされたのではと疑問視している[25]。

諸子百家の著述[編集]

荘子(紀元前369年 - 紀元前286年と推定される)が著したという『荘子』の中には老冉という人物が登場し(例えば「内篇、徳充符篇」[26]や外雑篇[27])、『老子道徳経』にある思想や文章を述べる[27]。荀子(紀元前313年? - 紀元前238年?)も『荀子』天論編17にて老子の思想に触れ、「老子有見於詘,無見於信」[28](老子の思想は屈曲したところは見るべき点もあるが、まっすぐなところが見られない。)と批判的に述べている[27]。さらに秦の呂不韋(? - 紀元前235年)が編纂した『呂氏春秋』不二編でも「老耽貴柔」[29](老耽は柔を貴ぶ)と老子に触れている[27]。

このような記述から窺える点は、老子もしくは老子に仮託される思想は少なくとも戦国時代末期には存在し、諸子百家内に知られていた可能性が大きい[27]。しかし、例えば現代に伝わる『荘子』は荘子本人の言に近いといわれる内篇7と彼を後継した荘周学派による後に加えられたと考えられる外編15、雑篇11の形式で纏められているが、これは晋代の郭象(252年? - 312年[30])が定めた形式であり、内篇で老子に触れられていてもそれが確実に荘子の言とは断定できない[31]。このように、諸子百家の記述に出現するからといって老子が生きた時代を定めることは出来ず、学会でも結論は得られていない[32]。

定まらない評価[編集]

このように、確かな伝記が伝わらず、真偽定かでない伝承が多く作られた老子の生涯は、現在でも定まったものは無く[33]、多くの論説が試されて来た。老子の存在に疑問を呈した初期の思想家は、北魏の宰相・崔浩(381年 - 450年)だった。唐の韓愈(768年 - 824年)は、孔子が老子から教えを受けたという説を否定した。その後の宋代には陳師道、葉適、黄震らが老子の伝記を検証し、清代の汪中(『老子道徳経異序』『述学、補遺、老子考異』)と崔述(『崔東壁遺書・洙泗考信録』)は『史記』第三の説にある「太史捶」が老子を正しく伝え、孔子の後の人物だと主張した[2]。

20世紀中ごろに至っても研究者による見解はまちまちのまま、その論調はいくつかのグループに分かれていた。大きくは、古代中国の文献類に信頼を置き老子像を捉える「信古」と、逆に批判的な「疑古」[34]とに分類できる。老子の時代についてはさらに分かれ、胡適(『中国哲学史』、1926年)、唐蘭(『老髟的生命和時代考』)、郭沫若(『老髟・関尹・環淵』)、黄方剛(『老子年代之考察』)、馬叙倫(『辨「老子」非戦国後期之作品』他)、高亨(『重訂老子正詁』、1957年)、・剣峰(『老子其人書及其道論』、1982年)、陳鼓応(『老子注釈与評介』、1984年)らは孔子とほぼ同時代の春秋末期とする「早期説」と唱え、梁啓超(1873年 - 1929年、「評論胡適之中国哲学史大綱」『飲冰室合集』)、銭穆(『関干老子成書年代之一種考察』)、羅根澤(『老子及老子書的問題』)、譚戒甫(『二老研究』)などは戦国末期と考える「晩期説」を主張した[2]。老子の存在を否定する派では、孫次舟(『再評「古史辨」』)は老子を荘子学派が創作した架空の人物と主張し[2]、1957年に刊行された[35]杜国庠の『先秦諸子思想概要』では、中国思想の論理学派(孔子・荘子・墨子・荀子・韓非子など)を説明する中で老子に触れた項が無いだけでなく、一切老子に触れず道家の祖を荘子としている[36]。

伝承[編集]





老子誕生の図[37]。
生涯にまつわる伝説[編集]

一般に知られた伝来の伝記では、老子は周王朝の王宮法廷で記録保管役として働いていたという。ここで彼は黄帝などいにしえの著作に触れる機会を多く得たと伝わる。伝記では、老子は正式な学派を開祖したわけではないが、彼は多くの学生や高貴な門弟へも教えを説いたとされている。また、儀礼に関する多くの助言を孔子に与えたという叙述も様々な形で残されている[38][39]。

『神仙伝』など[40]民間の伝承では、周の定王3年[41](紀元前603年)に母親(「真妙玉女」または「玄妙玉女」[42])が流星を見たとき(または、昼寝をしていた際に太陽の精が珠となって口に入ったとき[43])に老子を懐妊したが62年間(80年間? [41]、81年間? [42][43]、72年間または3700年間[2- 1]などの説も[40])も胎内におり、彼女が梅の木にもたれかかった時に左の脇から出産した[42]という。それゆえ、老子は知恵の象徴である白髪混じりの顎鬚と長い耳たぶを持つ大人の姿で産まれたという[44][45][43]。他の伝承では、老子は伏羲の時代から13度生まれ変わりを繰り返し、その最後の生でも990年間の生涯を過ごして、最後には道徳を解明するためにインドへ向かったと言われる[15][46][47]。伝説の中にはさらに老子が仏陀に教えを説いたとも、または老子は後に仏陀自身となったという話(化胡説)[15][46][48]もある[38][49]。

中国の歴史上、老子の子孫を称する者は数多く現れた。唐朝帝室の李氏は祖先を老子に求め、「聖祖大道玄元皇帝」とおくり名され、ますます尊崇を受けた[50][51][52][46]。これら系譜の正否は判断がつけられないが、老子が中国文化へ大きな影響を与えている証左にはなりうる[53]。

字・伯陽[編集]

現代に伝わる『史記』には記載されていないが、老子には「伯陽」という字があったとされる。伯陽とは元々西周第12代・幽王の時代に周が滅亡することを預言した人物の事である。これは『史記』に言う太史儋の覇王出現の預言が影響し、後漢の時代に「耼」を諡に変えて「伯陽」を字とする改竄が加えられた事の名残である[54]。

老子など多くの歴史的人物を仙人視する風潮は前漢時代に起こり、これを批判し王充は『論衡』という書の「道虚篇」で老子不老不死説を取り上げ否定した。伯陽と老子を同一視する説は、このような時代の流行を反映したもので、逆にそれが『史記』の改竄にまで及んだことを示す[54]。

尹喜[編集]

伝統的記述では、老子は都市生活におけるモラルの低下にうんざりするようになり、王国の衰退を記したという。この言い伝えでは、彼は160歳の時に国境定まらぬ西方へ移住し、世捨て人として生きたとある。城西の門の衛兵・尹喜は、東の空に紫雲がたなびくのに気づき、4人の供を連れた老子を出迎え、知恵を書き残して欲しいと願った[10]。この時書かれた書が『老子道徳経』だというところは『史記』と同じだが、一説には衛兵は職を辞して老子に供し、二度とその姿を見せなかったともある。

この尹喜は、『荘子』「天下篇」[55]などで登場する「関尹(關尹)」ではないかとする説がある。「天下篇」で荘子は関尹を老子(老聃)と同じ道家の一派と分類している[56]。「関」は文字通り関所であり、「尹」は役所の長官という意味を持つ。そのため、元々は役職名から転じた通称「関尹」なる人物が、尊敬する老子と出会い喜んだ様が『史記』に見られる「關令尹喜」という表現となり、人物名「尹喜」へ転じたという説がある[56][57]。

郭沫若は、この関尹とは斉の稷下の学者の一人である「環淵」が訛ったものという説を述べた。これに基づけば、環淵の黄老思想が老子の思想体系化に影響を与えたと考えられる[56]。

『老子道徳経』から推測される老子[編集]

「老子道徳経」も参照

議論[編集]

老子が著したと伝わる『老子道徳経』は、『老子』『道徳経』『道経』『徳道経』『五千言』など、様々な名称でも呼ばれる[2]。この書籍の真偽、元々の形についても老子の実在や時代の判断に直結する事もあり、数多くの主張や議論が行われてきた[2][58][59]。この『老子道徳経』成立期が判明すれば、それは老子が生きた時代の下限と考えられる[12]。

『老子道徳経』(『老子』)がその書籍名を明示して引用された最初の例は、前漢の武帝代に淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が編纂した『淮南子』である[12]。ここに注目し、『老子道徳経』は先人の金言が徐々に集積され、武帝の時代に形式が整えられて書名が与えられたという説がある[12]。

「晩期説」を唱えた梁啓超は、1922年に新聞紙上に短い論説を発表し、『老子道徳経』は戦国末期に出来たものと唱え、4年後に武内義雄が『老子原始』にて独自に[注 4]ほぼ同じ説を述べた。梁啓超は自説を纏め、6項目の根拠を示した[2][2- 2]。
老子の8代目子孫と孔子の13代目子孫が同じ時代に生きていたと言われ、5代分の開きがある。
墨子や孟子の著作には、老子について触れた部分が全く無い。
礼を守ったと伝わる老子と、その著作『老子道徳経』の内容には、大きな隔たりがある。
(老子について述べた箇所がある)『荘子』にある多くの説話のほとんどは寓話であり、事実とはみなされない。
老子の言動(『老子道徳経』の内容)は、春秋時代の雰囲気からすると異質すぎる。
『老子道徳経』には、戦国時代に使われた用語(例えば「王侯」「万乗之君」「仁義」など)が含まれる。

馮友蘭は文体論から『老子道徳経』を考察し、経典の形式である点は戦国時代の特徴で、春秋時代の対話形式ではない点から戦国期成立を主張。他にも、老子の「不尚賢」という概念は墨子の「尚賢」を否定したもので、それ故に老子は墨子以降の人という説も唱えられた[2]。

一方で、春秋時代の成立とみなす学者も多く、例えば呂思勉(『先秦学術概論』)は『老子道徳経』内で用いられる語義が非常に古い点、その思想は女権優位が軸を成す点、また「男・女」ではなく「牡・牝」という後代とは異なる漢字が使われる点を根拠に挙げている。戦国期成立説への反証も行われ、時代考察の一派を占める[2]。

また、もっと後世の作という説もあり、『呂氏春秋』と共通する箇所は引用ではないと主張した[60]顧頡剛らは呂不韋と同じ秦代、劉節は前漢の景帝時代という見解を述べた[2]。

このような議論を通じ、少なくとも老子なる人物が生きたであろう時代と『老子道徳経』が作られた時代には開きがあり、同書は『孔子』(『論語』)や『墨子』同様にその系譜に当たる弟子が後年に纏めたもとという考えが主流となり[32]、「擬古」派もしくはこれに民俗学や文献学などを取り入れる「釈古」派の考えが定説として固まりつつあった[60]。

馬王堆・郭店の発掘書[編集]

このような『老子道徳経』の成立に関わる考古学的発見が、20世紀後半に2件もたらされた。1973年、湖南省長沙市で漢代の紀元前168年[注 5]に造営された[33]「馬王堆3号」墓から帛書の写本(馬王堆帛書)が出土したが、これには二種の『老子道徳経』が含まれていた。さらに1993年、今度は湖北省荊門市郭店[33]で、戦国時代の楚国の墓(郭店一号楚墓)から730枚の竹簡(郭店楚簡)が発見された。この中には三種類の『老子道徳経』が含まれていた。いずれも書名は記されておらず、また現在に伝わる『老子道徳経』とはそれぞれに差異こそあるが、この発見は老子研究に貢献する新たな物証となった[2]。

1973年に発見された馬王堆帛書老子道徳経二種は、現在に伝わる『老子道徳経』とほぼ同じ内容ながら、二種共上・下篇の順序が逆転し、下篇が前上篇が後になっている。「甲本」「乙本」という名は、便宜上つけられたものである。甲本の字体は秦の小篆の流れを汲む隷書体であり、乙本は同じ隷書でも漢代の字体を持っていた。さらに、乙本では「邦」の字がすべて「国」に置き換えられていたのに対し、甲本は「邦」を使用している。これは、乙本には前漢の劉邦死(紀元前195年)後にこの字を避諱したことが反映され、甲本はそれ以前に写本制作されたことを示す。これによって、現本『老子道徳経』は少なくとも前漢・高祖時代には現在の形で完成していたと証明される[12]。

さらに郭店一号楚墓は、副葬品の特徴を分析した結果などから戦国時代中期の紀元前300年頃のものと推定された。その中には君主が老齢の臣下に賜る鳩杖があったことから、正式発表は無いが被葬者は70歳以上で死亡したと考えられる。この墓から発見された竹簡は16種類あり[61]、さらに『老子道徳経』に相当するものは「甲本」「乙本」「丙本」の3種類に分けられた。この甲・乙・丙本に共通する文章はわずかに甲と丙の一部にのみあるが、細かな文言などに差異があった。そして三本を合わせても31章にしかならず、現在の『老子道徳経』81章の1/3にしか相当しない[12]。

浅野裕一は郭店楚簡甲・乙・丙本について、『老子道徳経』に相当する原本が存在し、被葬者もしくは写本製作者が何らかの意図を持ってその都度部分的に写し取った三つの竹簡と推測した。その根拠は三本に共通部分がほとんど無い点を挙げ、これらが『老子道徳経』が形成される途上の3過程とは解釈できないとした。その一方で思想内容には整合性があることから、別々の作者とも考えにくいと述べた。さらに、甲・丙本の共通部分(現行本第64章後半に相当)にある差異は、原本『老子道徳経』には写本を繰り返す中で既に複数の系統に分かれたものが存在していたと推定した[12]。

当時、書籍は簡単に作成・流通できるものではなく、郭店一号楚墓の被葬者も長命な人生の中で機会を得て郭店楚簡を得たと考えられ、もしそれが若い時分ならばそれだけで原本は紀元前300年から数十年単位で遡り存在したことになる。さらに甲・丙本の差に見られる複数の写本系統を考慮すれば、その時代はさらに古くなり、『老子道徳経』原本は戦国前期の紀元前403年 - 紀元前343年には成立していた可能性が高まり、数々の論議はかなり絞られてくる。郭店一号楚墓被葬者の年齢など科学的分析結果は全容が公表されていないが、それ如何によっては『老子道徳経』成立時期がさらに明らかになる可能性がある[12]。

思想から見る老子[編集]

「老荘思想」も参照

政治思想の源流[編集]

政治において老子は「小国寡民」を理想とし(『老子道徳経』80章)、君主に求める政策は「無為の治」(同66章)を唱えた[62][63]。このような考えは大国を志向した儒家や墨家とは大きく異なり、春秋戦国時代の争乱社会からすればどこか現実逃避の隠士思考とも読める[62]。

しかし、このような思想は孔子の『論語』でも触れた箇所があり、「微子篇」には孔子一行が南方を旅した際に出会った百姓の長沮と桀溺という人物が子路を捕まえて「世間を避ける我々のようにならないか」と言う[64]。同篇には楚の国で、隠者・接輿と名も知られぬ老人が孔子を会う話がある[64]。このように、楚に代表される古代中国の南方は、特に春秋の末期には中原諸国との激しい戦争が繰り広げられ、それを嫌い隠遁する知識層が存在した[62]。老子の思想は、このような逃避的・反社会情勢的な思想に源流を求めることができる[65]。

老子の社会階級[編集]

老子が描く理想的な「小国寡民」国家は、とても牧歌的な社会である。



小國寡民。使有什伯之器而不用;使民重死而不遠徙。雖有舟輿,無所乘之,雖有甲兵,無所陳之。使民復結繩而用之,甘其食,美其服,安其居,樂其俗。鄰國相望,雞犬之聲相聞,民至老死,不相往來

− 道コ經80[66]

老子が言う小国寡民の国。そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、料理も衣服も住居も自給自足で賄い、それを楽しむ社会であるという。隣の国との関係は、せいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するようにすべきと君主へその秘訣を述べ(60章)、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭している(9章)。

中国の共産主義革命以後、老子のイデオロギーがどんな社会階級から発せられたものか議論となり、范文瀾は春秋末期から戦国初期の没落領主層の思想に基づくと主張した。マルクス主義の呂振羽は、都市商人に対する農村の新興地主らの闘争理論だと述べた。侯外廬は戦国時代に疲弊する農業共同体の農民思想の代弁だと主張した。貝塚は、政治腐敗に嫌気が差し農村に逃れた知識層か、戦乱で逸民した学者階級などと推測する。しかし、この問題は解決を見ていない[67]。

道教における老子[編集]

「道教」も参照





老子像




老子の神格、三清の太上老君像。
伝統的に老子は道教を創立させた人物と評され、『老子道徳経』は道教の根本または源泉と関連づけられる。一般的な宗教である道教では最高の神格(en)を玉皇大帝としているが、五斗米道など道教の知的集団では、老子は神名・太上老君にて神位の中でも最上位を占める三清の一柱とみなしている[68][69]。

漢王朝以降、老子の伝記は強い宗教的意味合いを持ち、道教が一般に根付くとともに老子は神の一員に加わった。神聖なる老子が「道」を明らかにしたという信仰が、五斗米道という道教初となる教団の組織に繋がった。さらに後年の道教信奉者たちは老子こそ「道」が実態化した存在と考えるようになった。道教には、『老子道徳経』を執筆した後も老子は行方をくらまさず「老君」になったと考える一派もいるが、多くは「道」の深淵を明らかにするためにインドへ向かったと考える者が多い[47]。

理想の師弟[編集]

西門の守衛・尹喜と老子の関係についても、多様な伝説が残されている。『老子道徳経』の成立は、西へ去ろうとする老子を引き止めた尹喜が、迷い苦しむ人々を救う真実をもたらす神性なる老子の叡智を書き残して欲しいという懇願に応えたものが発端と言われる。民俗学的には、この老子と尹喜の出逢いは道教における理想的な師と弟子の関係を表したものと受け止められた[70]。





老子と尹喜の出逢い
7世紀の書『三洞珠囊』は、老子と尹喜の関係についての記述がある。老子は、西の門を通ろうとした際に農民のふりをしていた。ところが門番の尹喜が見破り尊い師へ言葉を請いた。老子はただちに答えようとはせず、尹喜へ説明を求めた。彼は、己がいかに深く「道」を探求しているか、そして占星を長く学んで来たかを述べ、改めて老子の教えを願った。これを老子は認め、尹喜の弟子入りを許可したという。これは、門下に入る前に希望する者は試験を受けなければならないという道教における師弟の規範を反映している。信者には決意と能力を立証することが求められ、求めを明瞭に説明し、「道」を理解するために進む意思を示さなければならない[71]。

『三洞珠囊』によると師弟のやりとりは続く。老子が尹喜に『老子道徳経』を渡して弟子入りを許可した際、道教の一員が受けるべき数々の論理的手法、学説、聖典など他の教材や訓示も与えた。ただしこれらは道家としての初歩段階に過ぎず、尹喜は師に認められるために生活の全てを投じた三年間を過ごし、「道」の理解を完成させた。約束の時となり、尹喜は再び決意と責務を全うしたことを示すために黒い羊(青い羊?[72])を連れ、市場で師弟はまみえた。すると老子は、尹喜の名が不滅のものとして天上界に記されたことを告げ、不朽なる者の意匠を尹喜に与えるために天の行列を降臨させた。物語は続き、老子は尹喜に数多くの称号を与え、9つの天上界を含む宇宙を巡る漫遊へ連れて行ったという。この幻想的な旅を終えて戻った二人の賢人は、野蛮人どもが跋扈する西域へ出発した。この「修練」「再見」「漫遊」は、中世の道教における最高位への到達過程「三洞窟の教訓」に比される。この伝説では、老子は道教の最上位の師であり、尹喜は理想的な弟子である。老子は「道」を具現化した存在として描かれ、人類を救う教えを授けている。教えを受ける尹喜は試練と評価を経て、師事そして到達という正しい段階を踏んでいる[73]。

老子八十一化説[編集]

太上老君は、歴史の中で多くの「化身」[74]または様々な受肉を経て多様な外観を備え、道の本質を説いたという[47]。

これは、元の時代に再解釈され、仏教に対する道教の優位性を論拠付けるために『老子八十一化図』が作成された。老子の生涯を図で示し、その偉大さを示そうとした全眞教の道士・李志常が指示し令狐璋と史志経が作成した同書は、憲宗の近臣を通じて広く流布させようと画策された[75]。

しかし、本書は一部を除き仏陀の伝承を剽窃したもので、これを祥邁は「採釋瑞而爲老瑞、(中略)改迦祥而作老祥」(仏陀の吉祥を書き換えて、老子の吉祥に仕立て直している)と批判した[76]。事実これは、全真道の丘長春(長春真人)がチンギス・カンと面会して以来発展を続ける[77]道教の宣伝活動に加えて「化胡説」を強調して仏教の相対的地位低下も狙っていた[76]。仏教界の反発は強く[78]、1255年8月には皇帝を前に仏教界と道教界の直接論争が行われた[77]。その後同様の論争が開かれ、『老子八十一化図』が偽作と認定されるなど最終的に道教側が破れ、古典以外の道教の書や経は焚書された[75][77]。

参考文献[編集]
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脚注[編集]

注釈[編集]

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1.^ 竹林の七賢のひとり嵆康の著『聖賢高士伝賛』など中外日報社説
2.^ 氏族の姓「老」は実在し、宋には老氏という貴族がいた。しかしこの一族と老子を結び付ける証拠は無い。貝塚、p87
3.^ 墨子の「墨」も姓ではないという説がある。しかしこれは元々姓を持たない階層の人物「翟」が入れ墨を入れられた囚人階級出身だったとか、または同音である宋の「目夷」氏の姓が転じたという説などがあり(貝塚、p34-35 第二章 人類愛と平和についての対話)、老子の名づけとは性質が異なる。
4.^ 貝塚は、当時の通信事情から、中国の新聞を武内義雄が見る機会はまず有り得ないと述べている。貝塚、p90
5.^ 出土した本牘に書かれた紀年から判明。浅野・湯浅、p30

脚注[編集]

1.^ Page 72 of Edward Theodore Chalmers Werner's Myths and Legends of China on Project Gutenberg
2.^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 王岳川、訳:上田望. “老子‐中華思想の智慧への門(『老子:中華思想智慧之門』訳出) (PDF)” (日本語). 金沢大学中国語学中国文学コース. 2010年10月9日閲覧。
3.^ Kohn (2000). Pg 4.
4.^ 唐の王室もその一つであるが、唐王室はもともと八柱国の一つであり非漢民族であるため、僭称である。
5.^ Bellamy (1993). Pp 64, 67.
6.^ Roberts (2001). Pp 1-2.
7.^ a b c d e Wikisource-logo.svg 司馬遷: 史記/卷063 - ウィキソース
8.^ a b c d e “諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史記』老子韓非列傳” (漢文). 網站的設計與内容. 2010年10月9日閲覧。
9.^ Renard, (2002), p.16
10.^ a b c d e 楠山、p230-239、七、謎の人老子 1.『史記』「老子伝」の批判(1)
11.^ 貝塚、p87-89
12.^ a b c d e f g h i 浅野、p50-56、一、『老子』の謎 『老子』の成立時期
13.^ a b c Fowler (2005). Pg 96.
14.^ a b c Robinet (1997). Pg 26.
15.^ a b c d 楠山、p7-10、はじめに
16.^ Luo (2004). Pg 118.
17.^ Kramer (1986). Pg 118.
18.^ Kohn (2000). Pg 2.
19.^ 貝塚、p86-87
20.^ “諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『荘子』天運篇5” (漢文). 網站的設計與内容. 2010年10月9日閲覧。
21.^ 貝塚、p87
22.^ a b c d 貝塚、p89
23.^ a b 貝塚、p89-90
24.^ 貝塚、p90
25.^ 楠山、p239-247、七、謎の人老子 2.『史記』「老子伝」の批判(2)
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脚注2[編集]

本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。

1.^ 『酉陽雑俎』巻2-59
2.^ 梁啓超「評論胡適之中国哲学史大綱」『飲冰室合集』中華諸局、第38巻所蔵、1936年、p50-68

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孔子

孔子(こうし、ピン音: Kǒng zǐ; ウェード式: K'ung-tzu、紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。 氏名は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。

実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

3500人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[1]。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。

孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。

20世紀、文化大革命においては毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国共産党は新儒教主義また儒教社会主義を提唱しはじめている(儒教参照)。



目次 [非表示]
1 時代背景 1.1 周公旦と礼学
1.2 魯国の状況

2 生涯 2.1 出自
2.2 青年期
2.3 大司寇時代
2.4 亡命から晩年まで
2.5 孔子死後の魯

3 思想 3.1 封号

4 人物
5 子路の「醢」
6 子孫
7 系譜
8 伝記(学術)
9 孔子を題材にした作品
10 脚注
11 関連項目
12 外部リンク


時代背景[編集]

周公旦と礼学[編集]

孔子の生まれた魯(紀元前1055年 - 紀元前249年)は、周公旦を開祖とする王朝国家で、周公旦は周王朝を開いた武王の弟である。周公旦は、武王の子である成王を補佐し、建国直後の周を安定させた。周公旦は、曲阜に封じられて、魯公となるが魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは中央で政治に当たっていた。

周公旦は、周王朝の礼制を定めたとされ、礼学の基礎を築き、周代の儀式・儀礼について『周礼』『儀礼』を著したとされる。旦の時代から約500年後の春秋時代に生まれた孔子は、魯の建国者周公旦を理想の聖人と崇めた。孔子は、常に周公旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかったので「年を取った」と嘆いたと言うほどであった。

魯では周公旦の伝統を受け継ぎ、古い礼制が残っていた。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、孔子一門である。孔子が儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化があった。

魯国の状況[編集]

春秋時代に入ってからの魯国は、晋・斉・楚といった周辺の大国に翻弄される小国となっていた。国内では、魯公室の分家である三桓氏が政治の実権を握り、寡頭政治を行っていた。三桓氏とは、孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏のことをいう。魯の第15代君主桓公の子に生まれた3兄弟の慶父・叔牙・季友は第16代荘公の重臣となり、慶父から孟孫氏(仲孫氏)、叔牙から叔孫氏、季友から季孫氏に分かれ代々魯の実権を握ってきた。特に権力を極めたのが季孫氏で、代々司徒の役職に就き、叔孫氏が司馬、孟孫氏(仲孫氏)が司空を務めた。

孔子の生まれた当時は襄公(紀元前572年-紀元前542年)の時代であった。紀元前562年には季孫氏の季武氏の発議によってそれまで上下二軍組織だった魯国軍を上中下の三軍組織に再編、のちに三桓氏は軍事を独占するようになる [2]。

生涯[編集]

出自[編集]

紀元前552年(一説には551年)に、魯国昌平郷辺境の陬邑、現在の山東省曲阜(きょくふ)市で陬邑大夫の次男として生まれた。父は既に70歳を超えていた叔梁紇、母は身分の低い16歳の巫女であった顔徴在とされるが、『論語』の中には詳細な記述がない。父は三桓氏のうち比較的弱い孟孫氏に仕える軍人戦士で、たびたびの戦闘で武勲をたてていた[3]。沈着な判断をし、また腕力に優れたと伝わる[4]。また『史記』には、叔梁紇が顔氏の娘との不正規な関係から孔子を生んだとも、尼丘という山に祷って孔子を授かったとも記されている[5]。このように出生に関しては諸説あるものの、いずれにしても決して貴い身分では無かったようである。「顔徴在は尼山にある巫祠の巫女で、顔氏の巫児である」と史記は記す。貝塚茂樹は、孔子は私生児ではなかったが嫡子ではなく庶子であったとしたうえで、後代の儒学者が偉人が処女懐胎で生まれる神話に基づいて脚色しようとするのに対して、合理的な司馬遷の記述の方が不敬とみえても信頼できるとしている[6]。孔子はのちに「吾少(わか)くして賎しかりき、故に鄙事に多能なり」と語っている[7]。

幼くして両親を失い、孤児として育ちながらも苦学して礼学を修めた。しかし、どのようにして礼学を学んだのかは分かっていない。そのためか、礼学の大家を名乗って国祖・周公旦を祭る大廟に入ったときには、逆にあれは何か、これは何かと聞きまわるなど、知識にあやふやな面も見せているが、細かく確認することこそこれが礼であるとの説もある。また、老子に師事して教えを受けたという説もある。

弟子の子貢はのちに「夫子はいずくにか学ばざらん。しかも何の常の師かあらん。(先生はどこでも誰にでも学ばれた。誰か特定の師について学問されたのではない)」(子張篇)と答えたといわれ[8]、孔子は地方の小学に学び、地方の郷党に学んだ。特定の正規の有名な学校で学んだわけではないという意味で独学であった[9]。

青年期[編集]

紀元前542年6月、襄公が薨去すると、太子の魯公野が即位するが同年の9月、野は突然死したため、襄公と斉帰の間の子である裯が昭公(?-紀元前510年)として君主に即位した。

紀元前537年に季孫氏は一軍を廃止するとともに私物化し、さらに三桓氏が魯国軍を三分し私軍化し、三家による独裁体制が実現した。この前年の紀元前538年に15歳の孔丘が学に志している。

紀元前534年、19歳のときに宋の幵官(けんかん) 氏と結婚する[10]。翌年、子の鯉(り) (字は伯魚)が誕生。

紀元前525年、28歳の孔子はこの頃までに魯に仕官し委吏、乗田となった[11]。

紀元前517年、孔子が36歳のときに第23代君主昭公による先代君主襄公を祭る場で、宮廷の礼制が衰え、舞楽も不備で舞人はわずか二名であった。他方、季氏の祭りの際には64人の舞人が舞った。これを見て孔子は憤慨する[12]。同年9月、昭公が季孫氏の季孫意如を攻めるが、クーデターは失敗し、斉へ国外追放され、昭公はそこで一生を終える。孔子も昭公のあとを追って斉に亡命する。魯に帰国したのは翌年とも7年後ともいわれる。魯は紀元前509年に定公が第24代君主に就任するまで空位時代であった。孔子は斉の首都臨淄で肉の味がわからないほどに音楽に感銘を受ける。

紀元前505年、季孫氏当主の季孫斯(季桓子)に仕えていた陽虎(陽貨)が反旗を翻して魯の実権を握る。同年、陽虎は、孔子を召抱えようとし、また孔子も陽虎に仕えようとしたが、それは実現しなかった[13]。なお陽虎と孔子は二人とも巨漢で容貌が似ており、孔子は陽虎と見間違えられ、危難に遭ったことがある。陽虎は紀元前502年に叔孫氏・孟孫氏(仲孫氏)の家臣を従えて、三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こして篭城戦を繰り広げたが、三桓氏連合軍に敗れ、魯の隣国である斉に追放され、その後、宋・晋を転々とし、紀元前501年に晋の趙鞅に召抱えられた。

大司寇時代[編集]

紀元前501年、孔子52歳のとき定公によって中都の宰に取り立てられた[14]。その翌年の紀元前500年春、定公は斉の景公と和議をし、「夾谷の会」とよばれる会見を行う。このとき斉側から申し出た舞楽隊は矛や太刀を小道具で持っていたので、孔子は舞楽隊の手足を切らせた。「春秋伝」によれば、これは有名な名相晏子による計略で、それを孔子が見破ったといわれる[15]。景公はおののき、義において魯に及ばないことを知った[16]。この功績で孔子は最高裁判官である大司寇に就任し、かつ外交官にもなった。孔子は晋との長年の「北方同盟」から脱退した。三桓氏がこれまで晋の権力を背景に魯の君主に圧迫することを繰り返してきたからで、それを禁絶するためだった[17]。

紀元前498年、孔子は弟子のなかで武力にすぐれた子路を季氏に推薦したうえで、三桓氏の根城を壊滅する計画を実行に移し、定公にすすめて軍を進めたが、落とせなかった[18]。

亡命から晩年まで[編集]

翌年の紀元前497年に弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。国政に失望したとも、三桓氏の反撃ともいわれる。衛に赴き、ついで陳に赴く。 紀元前49年、弟子を顔回以外全員取った少正卯を暗殺する。 紀元前494年には魯で哀公が第27代君主に就任する。前487年に魯は隣国の呉に攻められるも奮戦し、和解した。その後斉に攻められ敗北した。前485年には呉と同じく斉へ攻め込み大勝した。翌年の前484年にはまた斉に攻められた。


紀元前484年、孔子は69歳の時に13年の亡命生活を経て魯に帰国し、死去するまで詩書など古典研究の整理を行う。この年、子の鯉が50歳で死んでいる。

翌前483年に斉の簡公を討伐するように孔子が哀公に進軍を勧めるが実現しなかった。その3年後の前481年、斉の簡公が宰相の田恒(陳恒)に弑殺されたのを受けて、孔子が再び斉への進軍を3度も勧めるが、哀公は聞き入れなかった。

孔子の作と伝えられる歴史書『春秋』は哀公14年(紀元前481年)に魯の西の大野沢(だいやたく)で狩りが行われた際、叔孫氏に仕える御者が、麒麟を捉えたという記事(獲麟)で終了する。このことから後の儒学者は、孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから、自分が整理を続けてきた魯の歴史記録の最後にこの記事を書いて打ち切ったとも解釈している。ここから「獲麟」は物事の終わりや絶筆のことを指すようになった。

紀元前479年に孔子は74歳で没し曲阜の城北の泗水のほとりに葬られた。前漢の史家司馬遷は、その功績を王に値すると評価し、「孔子世家」とその弟子たちの伝記「仲尼弟子列伝」を著した。儒教では「素王」(そおう、無位の王の意)と呼ぶことも多い。

孔子死後の魯[編集]

孔子の死後、前471年に哀公は晋と同じく斉へ指揮官として進軍する。さらに前468年に三桓氏に反乱を起こすも三桓氏に屈し、衛・鄒と点々と身を置き、越に国外追放され前467年にその地で没した。

孔伯魚の息子で孔子の孫である子思(紀元前483年?-紀元前402年?)は幼くして父と祖父を失ったため孔子との面識はわずかだが、曾子の教えを受け儒家となり、魯の第30代君主穆公(? - 紀元前383年)に仕えた。穆公は在位期間中に改革を実行し、哀公・悼公・元公の3代にわたる三桓氏の専制の問題から脱却し、魯公室の権威を確立して、隣国の斉とのあいだで数度の戦争を展開した。孟子は子思の学派から儒学を学んでいる。

のち、国としての魯は衰退し、紀元前249年に楚に併合され、滅亡した。

思想[編集]

『仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現』(論語) 孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させた(白川静説)。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面と礼という家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。

孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。





湯島聖堂にある孔子像
封号[編集]

孔子の没後、孔子に対して時の為政者から様々な封号が贈られた。

孔子の封号一覧[19]


時 代

贈った為政者

封 号

年月(西暦)

春秋時代 哀公(魯) 尼父 哀公16年4月(紀元前479年)
前漢 平帝(実質王莽の差し金) 褒成宣尼公 元始元年夏5月(1年)
北魏 孝文帝 文聖尼父 太和16年2月(492年)
北周 静帝 鄒国公 大象2年3月(580年)
隋 文帝 先師尼父 開皇元年(581年)
唐 太宗 先聖 貞観2年(628年)
宣父 貞観11年(637年)
高宗 太師 乾封元年1月(666年)
武則天(武周) 隆道公 天授元年(690年)
玄宗 文宣王 開元27年(739年)
北宋 真宗 元聖文宣王 大中祥符元年11月(1008年)
至聖文宣王 大中祥符5年12月(1012年)
元 成宗 大成至聖文宣王 大徳11年7月(1307年)
明 世宗 至聖先師孔子 嘉靖9年(1530年)
清 世祖 大成至聖文宣先師孔子 順治2年(1645年)
至聖先師 順治14年(1657年)
中華民国 国民政府 大成至聖先師 民国24年(1935年)

人物[編集]

身長は9尺6寸、216cmの長身(春秋時代の1尺=22.5cmとして計算)で、世に「長人」と呼ばれたという(『史記』孔子世家)。 容貌は上半身長く、下半身短く、背中曲がり、耳は後ろのほうについていたという(『荘子』外物篇)。

飯は十分に精白されている米や、膾(冷肉の細切)の肉を細く切った物などを好み、時間が経ち蒸れや変色、悪臭がする飯や魚や肉、煮込み過ぎ型崩れした物は食べなかった。また季節外れの物、切り口の雑な食べ物、適切な味付けがされていない物も食べなかった。祭祀で頂いた肉は当日中に食べる。自分の家に供えた肉は三日以上は持ち越さず、三日を過ぎれば食べないほか、食べる時には話さない等、飲食に関して強いこだわりを持っていた[20]。[1]

子路の「醢」[編集]

弟子の子路が衛国の大夫である孔悝の荘園の行政官になっていたころ、衛国に父子の王位争いが起こり、子路は騒動にまきこまれて、殺された。子路の遺体は細かく切りきざまれ、《醢》(遺体を塩漬けにして長期間晒しものにする刑罰)にされたという挿話が『礼記』『孔子家語』『東周列国志』『荘子』などに記されている。孔子は深く悲しみ、『礼記』の記述によると、最後に家にあった「醢」(肉を塩漬けにした食品)を捨てさせたとある[21]。
『礼記』檀弓上の記述では以下の通りである。


檀弓上:孔子哭子路於中庭。有人吊者,而夫子拜之。既哭,進使者而問故。使者曰:“醢之矣。”遂命覆醢。[22]
『荘子』盜跖篇の記述では以下の通りである。


子以甘辭說子路而使從之,使子路去其危冠,解其長劍,而受教於子,天下皆曰‘孔丘能止暴禁非’。其卒之也,子路欲殺衛君而事不成,身菹於衛東門之上,是子教之不至也。[23]
『孔子家語』にも同じ逸話がある。


子路與子羔仕於衞。衞有蒯聵之難。孔子在魯聞之、曰、柴也其來。由也死矣。既而衛使至。曰、子路死焉。夫子哭之於中庭。有人弔者、而夫子拜之。已哭。進使者而問故。使者曰、醢之矣。遂令左右皆覆醢。曰、吾何忍食此。[24]

子孫[編集]

孔子の子孫で著名な人物には子思(孔子の孫)、孔安国(11世孫)、孔融(20世孫)などがいる。孔子の子孫と称する者は数多く、直系でなければ現在400万人を超すという。

孔子に敬意を表するため、孔子その人に様々な封号が贈られたのは前述の通りであるが、その子孫にも厚い待遇が為された。まず前漢の皇帝の中でも特に儒教に傾倒した元帝が、子孫に当たる孔覇に「褒成君」という称号を与えた。また、次の成帝の時、匡衡と梅福の建言により、宋の君主の末裔を押しのけ、孔子の子孫である孔何斉が殷王の末裔を礼遇する地位である「殷紹嘉侯」に封じられた。続いて平帝も孔均を「褒成侯」として厚遇した。その後、時代を下って宋の皇帝仁宗は1055年、第46代孔宗願に「衍聖公」という称号を授与した。以後「衍聖公」の名は清朝まで変わることなく受け継がれた。しかも「衍聖公」の待遇は次第に良くなり、それまで三品官であったのを明代には一品官に格上げされた。これは名目的とはいえ、官僚機構の首位となったことを意味する。

孔子後裔に対する厚遇とは、単に称号にとどまるものではない。たとえば「褒成君」孔覇は食邑800戸を与えられ、「褒成侯」孔均も2000戸を下賜されている。食邑とは、簡単に言えば知行所にあたり、この財政基盤によって孔子の祭祀を絶やすことなく子孫が行うことができるようにするために与えられたのである。儒教の国教化はこのように孔子の子孫に手厚い保護を与え、繁栄を約束したといえる。

山東省曲阜市には孔廟、孔林、そして孔府(旧称・衍聖公府)がある。(いわゆる 三孔)。第46代孔宗願から、第77代孔徳成に至るまで直系の子孫は孔府に住んでいた。なお、孔徳成は中華人民共和国の成立に伴い、1949年に台湾へ移住している。 中華人民共和国の外交官孔泉は、孔子の76代目の子孫といわれる。

系譜[編集]

詳細は「孔子世家嫡流系図」を参照

孔子の子孫一族に伝承する家系図は「孔子世家譜」である。孔子以降、現在に至るまで83代の系譜を収めたこの家系図はギネス・ワールド・レコーズに「世界一長い家系図」として認定されている。なおこの孔子世家譜は2009年現在までに5回の大改訂が行われている。第1回は明時代(1621年 - 1627年)、第2回と第3回は清時代(1662年 - 1723年)、(1736年 - 1795年)、第4回は中華民国時代(1930年 - 1937年)、第5回は中華人民共和国時代(1998年 - 2009年)である。第5回目の大改訂については、2008年12月31日に資料収集が終了[25]。2009年9月24日に完成した[26]。今回の孔子世家譜には初めて中国国外及び女性の子孫も収録され[27]、200万人以上の収録がなされた[26]。

伝記(学術)[編集]
金谷治 『孔子』 講談社学術文庫、ISBN 4061589350
貝塚茂樹 『孔子』 岩波新書青版、1951年、ISBN 4004130441
白川静 『孔子伝』 中公文庫、ISBN 4122041600
和辻哲郎 『孔子』 岩波文庫、ISBN 400331445X
加地伸行 『孔子 時を越えて新しく』  集英社文庫、1991年
蜂屋邦夫 『孔子 中国の知的源流』 講談社現代新書、1997年
ハーバート・フィンガレット[28] 『孔子 聖としての世俗者』 山本和人訳、平凡社ライブラリー、1994年
H・G・クリール 『孔子 その人とその伝説』 田島道治訳、岩波書店、初版1961年、復刊1993年

孔子を題材にした作品[編集]





孔子像
小説
下村湖人 『論語物語』 講談社学術文庫、ISBN 4061584936
中島敦 『弟子』 岩波、角川、新潮の各文庫ほか
井上靖 『孔子』 新潮文庫、ISBN 4101063362
緑川佑介 『孔子の一生と論語』 明治書院、新装版2007年、ISBN 462568403X
酒見賢一 『陋巷に在り』 新潮文庫全13巻
李長之 『人間孔子』 守屋洋訳、徳間文庫、1989年
銭寧 『聖人・孔子の生涯』 松岡亮訳、東洋書院、2005年
丁寅生 『孔子物語』 孔健・久米旺生訳、徳間文庫、2008年
三宅昭 『小説 論語物語』 三宅参衛監修 鶴書院、2009年

映画
『孔子の教え』(監督:胡玫(フー・メイ)、主演:チョウ・ユンファ、2009年、中国)

テレビドラマ
『恕の人 -孔子伝-』[2](主演:ウィンストン・チャオ、2012年、中国)

漫画
鄭問 『東周英雄伝』 講談社漫画文庫全3巻、1995年
諸星大二郎 『孔子暗黒伝』 新版集英社文庫 コミック全1巻、1996年
猪原賽原作、李志清画 『孔子と論語』 メディアファクトリーコミック全3巻、2008年

アニメ
『孔子傳』(NHKアニメーション、1995年、監督:出崎統、原作は上記『東周英雄伝』)

コメディ
『哲学者サッカー』 - ギリシア哲学者チームと、ドイツ近代哲学者チームが、サッカーの試合をするというコメディ。孔子は主審を務めるという設定で、「論語 には自由意志が無い」と噛み付いて来たニーチェにイエローカードを渡す。

脚注[編集]

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1.^ 『史記』孔子世家
2.^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,42-3頁
3.^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,43頁
4.^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,57頁
5.^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,51頁
6.^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,52頁
7.^ 『論語』子罕編。貝塚、62頁。
8.^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,66頁
9.^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年
10.^ 「家語」
11.^ 「孟子」「史記」
12.^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,146頁
13.^ 論語 陽貨第十七
14.^ 『史記』孔子世家
15.^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,171頁
16.^ 『史記』孔子世家、左伝
17.^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,171頁
18.^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,173頁
19.^ ※この一覧表は、江連隆『論語と孔子の事典』(大修館書店、1996年)を参照し作成
20.^ 論語:郷党第十八
21.^ 近年ネット上では「孔子は子路の醢を食べた」「孔子も人肉を食した」と主張する説が見られる。しかし、その根拠とされる漢文の原文には「孔子は醢を捨てさせた」とだけ記述されている。この「醢」が何の肉を塩漬にしたかは不明だが、少なくとも人肉であるという根拠は全く存在しない。まして、孔子が子路の醢を食したという記載はない。「黄文雄 (評論家)#中国の食人文化の主張について」、「孔子が人肉を食った?」なども参照。桑原隲藏「支那人間に於ける食人肉の風習」の子路の醢についての記述でも、孔子人肉食説は言及されていない。
22.^ 『礼記』「檀弓上」 《檀弓上》
23.^ 『荘子』盜跖篇 《盜跖》
24.^ 宇野精一訳(翻訳は尼子昭彦、宇野茂彦)『孔子家語』「曲礼子夏問」明治書院、1996年10月10日、ISBN 4-625-57053-0
25.^ 孔子の子孫200万人超に、「孔子家系図」9月に出版―中国、エキサイトニュース、2009年1月3日。
26.^ a b 孔子の子孫は200万人…家系図の大改訂で女性含め認定、サーチナ、2009年9月24日。
27.^ 孔子の家系図改訂、子孫は200万人を超える、AFP BB News、2008年2月18日。
28.^ 新書版とクーリルの著作以外は、初版単行本があり、和辻・貝塚・白川は著作集に所収。

孫子 (書物)

『孫子』(そんし)は、中国春秋時代の思想家孫武の作とされる兵法書。後に武経七書の一つに数えられている。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。

『孫子』の成立以前は、戦争の勝敗は天運に左右されるという考え方が強かった。孫武は戦史研究の結果から、戦争には勝った理由、負けた理由があり得ることを分析した。『孫子』の意義はここにある。

著者と目される孫武は、紀元前500年ごろに生きた人物で、当時新興国であった呉に仕え、その勢力拡大に大いに貢献した。そのためその著書は、紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに著されたと考えられている。ただ、単純に著者を孫武として良いのか、それに付随して『孫子』という書物の成立時期はいつかという基本問題において、いまだ諸説ある。

孫武の子孫といわれ、斉に仕えた孫臏も兵法書を著しており、かつては『孫子』の著者は孫臏であるとの説もあった。また『漢書』芸文志・兵権謀家類においては、孫武のものを『呉孫子兵法』82巻・図9巻、孫臏のものを『斉孫子兵法』89巻・図4巻と記し、両書はそれぞれ異なる著作であると見なされている。本記事では、このうち前者について解説する(孫臏の書については孫臏兵法を参照)。

※以下の文中で『孫子』と表記するときは書物を、単に孫子と表記するときは孫武その人を指すものとする。



目次 [非表示]
1 構成
2 内容 2.1 全般的特徴
2.2 戦争観
2.3 戦略

3 テキストとしての『孫子』 3.1 成立について
3.2 成立時期
3.3 版本

4 評価 4.1 名声の確立
4.2 中国国外への影響
4.3 『戦争論』との比較
4.4 現代戦略理論との関わり

5 『孫子』と日本 5.1 日本への伝来
5.2 武士の受容
5.3 兵学の隆盛―近世―
5.4 近代以後

6 脚注
7 参考文献 7.1 注釈書
7.2 研究書

8 外部リンク


構成[編集]

以下の13篇からなる。
計篇 - 序論。戦争を決断する以前に考慮すべき事柄について述べる。
作戦篇 - 戦争準備計画について述べる。
謀攻篇 - 実際の戦闘に拠らずして、勝利を収める方法について述べる。
形篇 - 攻撃と守備それぞれの態勢について述べる。
勢篇 - 上述の態勢から生じる軍勢の勢いについて述べる。
虚実篇 - 戦争においていかに主導性を発揮するかについて述べる。
軍争篇 - 敵軍の機先を如何に制するかについて述べる。
九変篇 - 戦局の変化に臨機応変に対応するための9つの手立てについて述べる。
行軍篇 - 軍を進める上での注意事項について述べる。
地形篇 - 地形によって戦術を変更することを説く。
九地篇 - 9種類の地勢について説明し、それに応じた戦術を説く。
火攻篇 - 火攻め戦術について述べる。
用間篇 - 「間」とは間諜を指す。すなわちスパイ。敵情偵察の重要性を説く。

現存する『孫子』は以上からなるが、底本によって順番やタイトルが異なっている。上記の篇名とその順序は、近年出土した竹簡に記されたもの(以下『竹簡孫子』という)を基とし、竹簡で欠落しているものは『宋本十一家注孫子』によって補っている。『竹簡孫子』のほうがより原型に近いと考えられるからである。

ただし、『竹簡孫子』とそれ以外とでは、用間篇と火攻篇とが入れ替わっている。虚実(実虚)篇と軍争篇も逆転している。

内容[編集]

全般的特徴[編集]
非好戦的 - 戦争を簡単に起こすことや、長期戦による国力消耗を戒める。この点について 老子思想との類縁性を指摘する研究もある。「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」(謀攻篇)
現実主義 - 緻密な観察眼に基づき、戦争の様々な様相を区別し、それに対応した記述を行う。「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」(謀攻篇)
主導権の重視 - 「善く攻むる者には、敵、其の守る所を知らず。善く守る者は、敵、其の攻むる所を知らず」(虚実篇)

戦争観[編集]

孫子は戦争を極めて深刻なものであると捉えていた。それは「兵は国の大事にして、死生の地、存亡の地なり。察せざるべからず」(戦争は国家の大事であって、国民の生死、国家の存亡がかかっている。よく考えねばならない)と説くように、戦争という一事象の中だけで考察するのではなく、あくまで国家運営と戦争との関係を俯瞰する政略・戦略を重視する姿勢から導き出されたものである。それは「国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ」、「百戦百勝は善の善なるものに非ず」といった言葉からもうかがえる。

また「兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり」(多少まずいやり方で短期決戦に出ることはあっても、長期戦に持ち込んで成功した例は知らない)ということばも、戦争長期化によって国家に与える経済的負担を憂慮するものである。この費用対効果的な発想も、国家と戦争の関係から発せられたものであると言えるだろう。孫子は、敵国を攻めた時は食料の輸送に莫大な費用がかかるから、食料は現地で調達すべきだとも言っている。

すなわち『孫子』が単なる兵法解説書の地位を脱し、今日まで普遍的な価値を有し続けているのは、目先の戦闘に勝利することに終始せず、こうした国家との関係から戦争を論ずる書の性格によるといえる。

戦略[編集]

『孫子』戦略論の特色は、「廟算」の重視にある。廟算とは開戦の前に廟堂(祖先祭祀の霊廟)で行われる軍議のことで、「算」とは敵味方の実情分析と比較を指す。では廟算とは敵味方の何を比較するのか。それは、
道 - 為政者と民とが一致団結するような政治や教化のあり方
天 - 天候などの自然
地 - 地形
将 - 戦争指導者の力量
法 - 軍の制度・軍規

の「五事」である。より具体的には以下の「七計」によって判断する。
1.敵味方、どちらの君主が人心を把握しているか。
2.将軍はどちらが優秀な人材であるか。
3.天の利・地の利はどちらの軍に有利か。
4.軍規はどちらがより厳格に守られているか。
5.軍隊はどちらが強力か。
6.兵卒の訓練は、どちらがよりなされているか。
7.信賞必罰はどちらがより明確に守られているか。

以上のような要素を戦前に比較し、十分な勝算が見込めるときに兵を起こすべきとする。


守屋洋は、孫子の兵法は以下の7つに集約されるとしている。
1.彼を知り己を知れば百戦して殆うからず。
2.主導権を握って変幻自在に戦え。
3.事前に的確な見通しを立て、敵の無備を攻め、その不意を衝く。
4.敵と対峙するときは正(正攻法)の作戦を採用し、戦いは奇(奇襲)によって勝つ。
5.守勢のときはじっと鳴りをひそめ、攻勢のときは一気にたたみかける。
6.勝算があれば戦い、なければ戦わない。
7.兵力の分散と集中に注意し、たえず敵の状況に対応して変化する。

また、ジョン・ボイド は孫子の思想を以下のように捉えて機略戦を論考している。

「機動戦#機略戦」も参照

1.所望結果(人命と資源の保護の観点)
「武力に訴えず戦わずして勝つこと」を最重視する。
長引く戦争を回避する。

2.所望結果を獲得するためのコンセプトと戦略
コンセプト調和
欺瞞
行動の迅速性 
分散/集中 
奇襲 
(精神的)衝撃
戦略敵の弱点、行動パターン及び意図を暴くため敵の組織と配置を精査する。
敵の計画と行動を操り・敵の世界の見通しを形作る。
攻撃目標の優先順位は、1は敵の政策、2は敵方の同盟の分断、3は敵の軍隊、他に方策がない場合に限り都市、である。
敵の弱点に対して迅速・不意に全力を指向するように正攻法と奇襲の機動を行う。

テキストとしての『孫子』[編集]

成立について[編集]

『孫子』13篇の著者とその成立については長い間論争があった。現代人が通常手にするテキストは後漢・魏の曹操(武帝)が分類しまとめ上げたもの(『魏武注孫子』)であるが、それが『漢書』芸文志・兵権謀家類に載せられている『呉孫子兵法』82巻・図9巻という記述とは体裁が大きく異なるからである。また『孫子』の字を含む書物として、孫武の子孫とされる孫臏の著作である『斉孫子兵法』89巻・図4巻も『漢書』に載せられており、その2冊の兵法書と2人の兵法家の関係について、不明な点が多々あったためでもある。最も著名な学説は、武内義雄の『孫子』13篇の著者を孫臏とするもので、『孫臏兵法』発見以前は非常に有力であった[1]。

しかし1972年、山東省銀雀山の前漢時代の墳墓から『竹簡孫子』や『孫臏兵法』が発見され、両書が別の竹簡の写本として存在し、従来伝えられる『孫子』はいわゆる『呉孫子』の原型をほぼとどめたものであり、孫臏の兵法書は後世に伝わらなかったことが確認された。現在では以下のように考えられている。『孫子』は孫武が一旦書き上げた後、後継者たちによって徐々に内容(注釈・解説篇)が付加されていき、そうした『孫子』の肥大化を反映したものが『漢書』芸文志の記載である。しかし、後に曹操の手によって整理され、今日目にする形になったというわけである。

成立時期[編集]

『孫子』の成立については、『竹簡孫子』の発見によって多くのことがわかってきたが、成立年代については、春秋末期に成立したとする説と戦国初期とする説がある。それは『孫子』が、孫武の没後も加筆されていったと考えられ、単純に孫武の生きた時代を成立年代とすることができないためである。

『孫子』の内容は春秋・戦国の両時代の特徴を帯びており、成立年代の特定が難しい。たとえば「作戦篇」における戦車戦は春秋時代によく見られるものであるが、「馳車千駟、革車千乗、帯甲十万」といった大編成の戦争形態は戦国時代のものである。また、『孫子』には複数の諸子百家の影響が見られる。そのうちの一人、五行思想で有名な鄒衍は戦国時代に活躍した人物であるため、戦国時代説に有利かと思われるが、一方で五行思想的なものは『春秋左氏伝』にも言及があるので、ただちに鄒衍の影響と見ることはできないという反論もある。他にも論点はあるが、いずれにしても成立時期を決定づけるものは無いといえよう。

『孫子』研究者の考え方の一例を挙げると、その成立を河野収は以下のように5段階に分けられるとする。他の研究者も概ねこれに近い成立を想定している。
1.紀元前515年頃、孫武本人によって素朴な原形が著される。[2]
2.紀元前350年頃、子孫の孫臏により、現行の『孫子』に近い形に肉付けされる。そして戦国末期までに異本や解説篇が付加されていった。その一つがここで『竹簡孫子』と呼ぶものである。
3.秦漢の時代も引き続き本論に改訂が加えられていき、多くの解説篇が作られた。[3]
4.紀元200年頃、曹操により整理され、本論13篇だけが受け継がれていくようになる。[4]
5.曹操以降、写し違いや解釈の相違により数種類の異本が生まれ、それらは若干の異同を持ったものとなる。しかし基本的には、第4段階のものと大きくは違わず現代に伝わる。現在手にすることができるものは、ほとんどがこの段階の『孫子』である。

版本[編集]

『孫子』のテクストは大きく分けて3種類ある。まず近年見つかった『竹簡孫子』、それまで流布していた『魏武注孫子』、そして日本の仙台藩の儒者・桜田景迪が出版した『古文孫子』である。最後のテクストは、代々桜田家に伝えられてきたもので、『魏武注孫子』よりも古いものであると桜田自身は述べているが、真偽は不明である。[5]

最も広く読まれた『魏武注孫子』は、時代が下るにつれて様々な注釈が付けられ、異本が増えていった。『孫子』の文章が極めて簡潔で、具体的なイメージが読み取れない部分があるためである。代表的なものとしては、以下のものがある。
1.「武経七書本」(『続古逸叢書』)と、清代の考証学者孫星衍が覆刻した「平津館本」 - 両者の字句を比較した場合、ほとんど異同は無い。
2.宋代までの代表的な注釈を集めた『十家孫子会注』(「十家注本」)

十家とは魏の武帝、梁の孟氏、唐の李筌・杜牧・陳r・賈林、宋の梅堯臣・王皙・何延錫・張預の10人をいう。1と比較すると、文字に大きな異同が見られる。これはさらに「道蔵本」・「岱南閣本」などの種類に分かれる。
補足
『中国兵書通覧』(許保林、解放軍出版社、1990年)、『孫子古本研究』(李零、北京大学出版社、19955年)などによると、『竹簡孫子』(『銀雀山漢墓竹簡・孫子』)以外の『孫子』は、『魏武帝註孫子』、『武経七書』所収『孫子』、『十一家註孫子』のいずれかの系統に属すると言われている。また、『孫子兵法新釈』(李興斌・楊玲、斉魯書社、2001年)によると、現行の『魏武帝註孫子』は『武経七書』所収『孫子』の系統に属するとのこと。

なお、『魏武帝註孫子』に関して、清家本『魏武帝註孫子』は、遅くとも室町時代後期のものであり、「平津館本」よりも古い。ただし、誤字も目立つ。清家本に関しては、京都大学図書館の電子データ影像として、閲覧ができる。

評価[編集]

名声の確立[編集]

『孫子』は、「孫・呉も之を用いて、天下に敵無し」(『荀子』議兵篇)、「孫・呉の書を蔵する者は、家ごとに之れ有り」(『韓非子』五蠧篇)という言葉からわかるように、すでに戦国時代後期には古典としての地位を確立していた。ちなみに「呉」とは同じく兵法書である『呉子』を指す。中国歴代を通じて重んじられ、武科挙(武挙)に合格するための必須テキストとして武人はみな学んでおり、武人に教えるための参考書として色々な研究書(注釈)が書かれた。魏の曹操の「魏武注孫子」や、明の劉寅の「武経七書直解」などは、軍事教育用の為に書かれたものだとされている[6]が、内容も孫子をよく理解した、立派なものとして定評がある。

現代の戦争において積極的に活用した例としては、毛沢東が挙げられる。彼は日中戦争の最中、どうすれば中国国民党に勝ち、日本に負けず、そして国民の支持を得られるかを考え抜き、中国古典の特に『孫子』と歴史書から大いに学んでいる。その代表的著作である『矛盾論』や『持久戦論』などには、5ヶ所ほどその書名を挙げて引用しているほどである。

中国国外への影響[編集]

『孫子』はやがて、中国語以外の言語に訳されて影響を及ぼすようになっていく。(日本人が漢文読み下しという形で孫子を受容したケースを翻訳と見なさなければ)現在知られているもっとも古い翻訳は、12世紀ごろに作られた西夏語訳である。[7]18世紀初頭には清朝で、『孫子』の満州語訳がつくられた。当時中国で布教活動を行っていたイエズス会宣教師の一人ジョセフ・マリー・アミオ(銭徳明)は、満洲語版を基にして『孫子』の抄訳に自らの解説を付したものをフランス語で著述し、同書は1772年にパリで「孫子13編」として出版された。1782年には『北京イエズス会士紀要』第7巻に再録された。後にナポレオン・ボナパルトがこのフランス語版の『孫子』を愛読し、自らの戦略に活用したという伝説が流布されるが、1922年にフランス軍のショレ(E. Cholet)大佐が著書“L'art militarie dans l'antiquite chinoise”において初めて言及したことで、事実の裏づけはないとされる[8]。

アミオによる『孫子』はあくまでも抜粋・抄訳であり、『孫子』の全貌がヨーロッパに伝えられるのは20世紀に入ってからとなる。1905年、孫子が初めて英語に訳される。これはイギリス陸軍大尉カルスロップ(E. F. Calthrop)によるものである。カルスロップは中国語の知識がなく、日露戦争後に日本研究を目的に、日本に滞在した語学将校であった。カルスロップは日本人の助けを借りて『孫子』の英語訳を完成させたが、イギリス人の中国学者ライオネル・ジャイルズ(Lionel Giles)はその杜撰な翻訳を厳しく非難、自ら中国語原典を元に新たな『孫子』の英語版を1910年に出版した。同じ1910年にはブルーノ・ナヴァラによるドイツ語訳も出版されている。ヨーロッパへの『孫子』の伝播は日本が基点となっていることが興味深い[9]。

『戦争論』との比較[編集]

こうした世界への伝播によって、『孫子』が広く知られるようになると、カール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』と比較する機運が生まれてきた。それは2度の世界大戦への反省に付随して起こってきたものだった。というのも、『戦争論』はナポレオン戦争の教訓に学んで著された書物であり、決定的会戦の重視や敵兵力の殲滅、敵国の完全打倒を基本概念として戦争を論じていることが特徴である。すなわち軍事力の正面衝突を戦争の本質とするため、戦争遂行をそれに則り行った場合、国家間の凄絶な総力戦とならざるを得ない。それが現実となったのが世界大戦であった。戦争の総力戦化に対し、無用の血が流されすぎたという反省が生まれると共に、『戦争論』への懐疑が生まれた。『孫子』はその比較対象として持ち出されたのである。

『戦争論』を非難し、一方で『孫子』を称揚した人として最も著名なのは、イギリスの軍事史家のリデル・ハートである。その代表作『戦略論』の巻頭には『孫子』からの引用が散りばめられ、またフランス語訳『孫子』によせた序文で、『孫子』を古今東西の軍事学書の中で最も優れていると評価している[10]。ハートは『孫子』を持ち上げることで、今後の戦争は直接的な戦闘よりも策略・謀略を用いた間接的戦略を重視すべきであると説いたのである。そのためクラウゼヴィッツの『戦争論』の人気は、一時期イギリス・アメリカにおいて凋落したという。

しかし現在では、ハートのように『孫子』を極端に礼賛し、『戦争論』を評価しないような姿勢を非難する見解もある。ハートのクラウゼヴィッツ非難のいくつかは、彼の誤解に基づくと考える研究者が現れてきたからである[11]。しかし、機甲戦術の提唱者の一人であったジョン・フレデリック・チャールズ・フラーも、『戦争論』は未完成な書物であったが故に論理的な混乱すら作中に存在し、多くの読者を誤解に導いたと非難しており、戦争の真の目的は平和であって勝利ではないということをクラウゼヴィッツは最後まで理解できなかったと指摘している[12]のであり、『戦争論』非難を行った有力な軍事研究者はハート一人ではなかったという点も事実である。なお、現在では『孫子』・『戦争論』とも高級指揮官教育において不可欠な教材とされ、アメリカ国防総合大学校やイギリス王立国防大学校をはじめとする、各国の国防関係の教育機関で研究されている。

近年では、イラク戦争での米軍の"Shock and awe"(衝撃と畏怖)作戦が『孫子』『戦争論』を参考にしたといわれている。

現代戦略理論との関わり[編集]

現代の戦略理論であるゲーム理論で、以下のことが証明されている。すなわち、二人零和有限確定完全情報ゲームの解は、ミニマックス理論である。

孫子が主張するように勝利を目的に敵対する双方が、情報の収集をできるだけ行う・戦力の集中などの工夫で戦闘結果の必然性を増す・冷徹な判断を行う・中立する組織への対応の工夫、などの戦争の合理性をとことん追求していくと、ミニマックス理論が成り立つような状況に限りなく近づいていく。そしてミニマックス法は、最善を尽くしながら相手の失着を待つ手法であり、孫子の主張することとの類似性を指摘する意見も多い。

『ウォートンスクールのダイナミック競争戦略』において、ゲーム理論の淵源が『孫子』などにあったとテック・フーとキース・ワイゲルトらは指摘している。孫子の兵法はゲーム理論の本でもしばしば引用されるほど、ゲーム理論との共通性があると言われている。[13]

このように、孫子は現代戦略理論でも注目されている。

『孫子』と日本[編集]

日本への伝来[編集]

『孫子』が日本に伝えられ、最初に実戦に用いられたことを史料的に確認できるのは、『続日本紀』天平宝字4年(760年)の条である。当時、反藤原仲麻呂勢力に属していたため大宰府に左遷されていた吉備真備のもとへ、『孫子』の兵法を学ぶために下級武官が派遣されたことを記録している。吉備真備は23歳のとき、遣唐使として唐に入国し、41歳で帰国するまで『礼記』や『漢書』を学んでいたが、この時恐らく『孫子』・『呉子』をはじめとする兵法も学んだと推測されている。数年後に起きた藤原仲麻呂の乱では実戦に活用してもいる。

律令制の時代、『孫子』は学問・教養の書として貴族たちに受け入れられた。大江匡房は兵学も修めていたが、『孫子』もその一つであり、源義家に教え授けている。積極的に実戦において試された例としては、源義家が前九年・後三年の役の折、孫子の「鳥の飛び立つところに伏兵がいる」という教えを活用して伏兵を察知し、敵を破った話(古今著聞集)が名高い。

武士の受容[編集]

平安貴族に代わって歴史の主役に躍り出た武士たちも、当初は前述の源義家のような例外を除き『孫子』を活用することは少なかったと考えられている。中世における戦争とは、個人の技量が幅をきかせる一対一の戦闘の集積であったためである。[14]『孫子』のような組織戦の兵法はまだ生かされることはなかった[15]。しかし足軽が登場し、組織戦が主体となると、『孫子』は取り入れられるようになっていく。幾人かの戦国武将には容易にその痕跡を見出すことができる。[16]中でも、武田信玄が軍争篇の一節より採った「風林火山」を旗指物にしていたことは有名である。[17]

兵学の隆盛―近世―[編集]

徳川幕府が天下を治めるようになる時期と、兵学と呼ばれる学問が隆盛を迎える時期は合致する。天下泰平の世には実戦など稀であるが、かえって戦国時代に蓄積された軍事知識を体系化しようとする動きが出てきた。それが兵学(軍学)である。それに比例して、『孫子』を兵法の知識体系として研究する傾向が復活する。そのため江戸時代には、50を超える『孫子』注釈書が世に出るのである。これには中国からの刺激も影響している。たとえば中国で明代から清代に出た注釈書が日本に伝わり、覆刻されている。劉寅の『武経七書直解』や趙本学の『孫子校解引類』(趙注孫子)が有名である。また、日本人の手になるものも多く出た。林羅山『孫子諺解』や山鹿素行『孫子諺義』、新井白石『孫武兵法択』、荻生徂徠『孫子国字解』、佐藤一斎『孫子副註』、吉田松陰『孫子評注』らのものが代表的であるが、このうち素行と徂徠のものは特に有用といわれている。

近代以後[編集]

明治以降、日本は近代的兵学としてプロイセン流兵学を導入し、それに基づき軍事力を整えていった。しかし『孫子』の研究は途絶えることなく、個人レベルで読み継がれていった。たとえば日露戦争においてバルティック艦隊を破った東郷平八郎の丁字戦法採用の背後には、『孫子』の「逸を以て労を待ち、飽を以て飢を待つ」(軍争篇)の言葉があったと言われる[要出典]。

しかし時代が下るにつれ、海軍・陸軍ともに『孫子』が学ばれることは少なくなっていく。近代的兵学に圧倒されていったためである。武藤章陸軍中佐が「クラウゼヴィッツと孫子の比較研究」(『偕行社記事』1933年6月)を発表しているものの、研究が盛んであるとはいえない状況であった。しかも武藤はクラウゼヴィッツを「戦争の一般的理論を探求して之を演繹し或は帰納して二三の原則を確立せんとす」と結論づけ、普遍性があると批評するのに対し、『孫子』に対しては、その書かれている内容は遙か以前の、中国国内のみを対象としているため「普遍性に乏しき憾あり」と述べ、前述のリデル・ハートとは逆の感想を抱いていることが読み取れる。

学問的世界では近代的な考証が積み重ねられ、『孫子』の真の著者は誰かといったテーマが日中共に上記のように論じられた。そんな中で1972年に山東省銀雀山から、『竹簡孫子』や『孫臏兵法』が発見されたことは大きなニュースであり、これにより大きく研究が進展した。

戦後は『孫子』が復権し、教養ブームに乗って広く読まれるようになり、現代でも(ビジネスなどの戦略においても)通用するとされ、解説書が数多く出版されている。

脚注[編集]

1.^ 理由としては孫子の本文に出てくる事物や思想が春秋時代にはあり得ないものが複数指摘されているためである。例えば、武内義雄の説(「孫子十三編の作者」『武内義雄全集』第7巻、角川書店、1979年、ISBN B000J8H722)など。貝塚茂樹(『諸子百家』岩波新書)もそれに賛同している。
2.^ 複数の文献に孫子十三篇という名が出ることから見て、この時点で既に十三篇だった可能性もある。金谷治(2000)は「当時の諸子百家の思想書の成立形態から言って、孫武が残したこの段階のものは口伝やメモの類であり、その後継者たちが次第に書物の形に整えたものであろう」と推定している。天野鎮雄(1972)は、現在の孫子十三篇の重複・説明部分を大幅に削除して推定復元した、十三篇からなる「原孫子」の存在を考えているが、天野の説は山本七平(2005)以外、全面的に賛成している研究者は非常に少ない。例えば守屋淳(2005)は「正鵠を得ているかどうか俄に判定できない」としており、この時点の孫子の形は不明である。
3.^ 『呉孫子兵法』82巻・図9巻に相当するか。天野(1972)は、孫子十三篇と別に解説書が六十九篇あり、それらを合算して八十二巻の孫子になっていたと考えている。
4.^ いわゆる魏武注孫子。(魏武は曹操の諡号「魏武帝」から。曹操の「魏武帝註孫子序」には、「解説の文章が多すぎて分かりにくくなっているので、要点のみにして注を行った」とあり、これが古来の「曹操孫子筆削(削除)説」の根拠になっていた。しかし、魏武注孫子と『竹簡孫子』とは編目・本文が共通箇所が多い。金谷(2000)は、この曹操の筆削の詳細は不明ながら、曹操は後世の付加と推測される巻のみを削ったのだろうと考えている。天野(1972)も大略は同じ。
5.^ 『古文孫子』について、天野(1972)によれば江戸時代には安積艮斎などに三国時代以前の孫子の形態を残すものと考える説があった。現代の研究では『古文孫子』が魏武注よりも古いかどうかは疑問視されており、金谷(2000)は「桜田氏により改められている箇所もあると考えられるが、古い形態を残している箇所もある」と述べているが、天野(1972)は「文章が改変されている形跡が多く後世の作為が多い」と考えている。
6.^ 中島悟史(2004)は、曹操が配下のために兵法を多数研究しており、その成果の一つが魏武注孫子だと考えている。実際、曹操の部下の賈詡や王凌も孫子に通じて注釈を残した(いずれも現存せず)。「武経七書直解」は序文で明確に、明朝の武人教育用に書かれた注釈であることを謳っている
7.^ 平田(2009)、p65
8.^ 平田(2009)、p71
9.^ 平田(2009)、pp124-128
10.^ フランシス・ワン仏訳・小野繁重訳・重松正彦注記『孫子』葦書房、1991年、ISBN 4751200305。
11.^ レイモン・アロン著・佐藤毅夫ほか訳『戦争を考える―クラウゼヴィッツと現代の戦略』政治広報センター、1978年、pp395-416 並びに 川村康之『戦略論体系2クラウゼヴィッツ』芙蓉書房出版、2001年、p329。
12.^ ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー著・中村好寿訳『制限戦争指導論』原書房、2009年、p80-106
13.^ 『ゲーム理論の基本と考え方がよ〜くわかる本』清水武治
14.^ 浅野(1997)。
15.^ ただ南北朝時代、楠木正成や北畠親房は『孫子』を学んだという逸話が残っている。
16.^ 山本(2005)。ただし、山本が当時の史料『看羊録』によって指摘するように、戦国武将は孫子などの兵法書を持っていても、読解する能力がなく「物読み坊主」といわれる漢文の解釈ができる僧侶に講義をしてもらって理解していたとされる。
17.^ 浅野(1997)。ただし、浅野によれば武田家の孫子理解能力は低く、甲陽軍鑑によれば山本勘助が「孫子の兵法はそのままでは日本では役に立たない」などと発言していたという。

参考文献[編集]

注釈書[編集]
金谷治訳注『新訂孫子』岩波書店<岩波文庫>、2000年
天野鎮雄『孫子 呉子』明治書院<新釈漢文大系、1972年
町田三郎訳『孫子』中央公論新社〈中公文庫BIBLIO〉、ISBN 4122039401
浅野裕一訳『孫子』講談社〈講談社学術文庫〉、1997年、ISBN 4061592831
郭化若訳注・立間祥介監訳・韓昇・谷口真一訳『孫子訳注』東方書店、1989年、ISBN 4497882489
杉之尾宜生編著『戦略論体系1 孫子』芙蓉書房出版、2001年、ISBN 4829503025
湯浅邦弘訳『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 孫子・三十六計』 (角川文庫ソフィア 2008年12月)
守屋洋訳『孫子の兵法』三笠書房〈知的生き方文庫〉、1984年11月、ISBN 4837900186

研究書[編集]
加地伸行編『孫子の世界』中公文庫、1993年、ISBN 4122019931
浅野裕一『孫子を読む』講談社現代新書、1993年、ISBN 4061491636
佐藤堅司『孫子の思想史的研究―主として日本の立場から』風間書房、1962年、ISBN B000JALBO0
河野収『竹簡孫子入門』大学教育社、1982年、ISBN B000J7CYAS
マイケル・I. ハンデル著・防衛研究所翻訳グループ訳『戦争の達人たち―孫子・クラウゼヴィッツ・ジョミニ』原書房、1994年、ISBN 4562025069
中島悟史『曹操注解孫子の兵法』朝日新聞出版<朝日文庫> 2004年
山本七平著、守屋淳解説『「孫子」の読み方』日本経済新聞出版社<日経ビジネス人文庫>2005年
平田昌司『孫子 解答のない兵法』岩波書店 2009年
大熊康之著、『戦略・ドクトリン総合防衛革命』かや書房、2011年、ISBN 978-4-906124-40-1

兵法

兵法(へいほう、ひょうほう)
軍学・兵学のこと。
古来の軍学・兵学のこと。具体例では孫子の兵法。
日本において、剣術を中心とする武術のこと。

兵法書

兵法書(へいほうしょ)とは、戦争などにおいて兵の用い方を説いた書物。主な兵法書として古代中国の孫子、呉子、六韜などが知られる。

兵法書一覧[編集]
武経七書 『孫子』
『呉子』
『尉繚子』
『六韜』
『三略』
『司馬法』
『李衛公問対』

その他 『孫臏兵法』
『兵法三十六計』
『兵法二十四編』
『百戦奇略』
『心書』
『便宜十六策』
『武備志』

兵家

兵家(へいか)は中国古代の思想で、諸子百家の一つ。軍略と政略を説く。



目次 [非表示]
1 代表的思想
2 分類 2.1 兵権謀家
2.2 兵形勢家
2.3 兵陰陽家
2.4 兵技巧家
2.5 その他

3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク


代表的思想[編集]

兵家の代表的な書物には「孫子の兵法」がある。孫子の兵法は13の篇からなる書物で今でも各国で研究されている歴史的な書物だ。これからはその「孫子の兵法」を中心に思想を説明していく。
孫子の兵法の各篇には名前が付いている。
それぞれ第1篇から、「始計篇」「作戦篇」「謀攻篇」「軍形篇」「勢篇」「虚実篇」「軍争篇」「九変篇」「行軍篇」「地形篇」「九地変」「火攻篇」「用間篇」だ。

1 「始計篇」
孫子の兵法の第1章のはじめは「孫子曰く、兵は国の大事なり。死生の地、存亡の地、察せざるべからざるなり。」という文から始まる。これは戦争は国にとって大事な問題である、人民の死生や国家の存亡をかけたものであるから我々は研究しなければならない、という意味。その意のままで国家にとって「戦争」が重要な問題であると述べている。そして戦争を勝利に導くためには5つの要素を大切にしなければならない、と説いている。
その5つの要素とは、
1.道(君主と国民の関係)

2.天(自然の事象)

3.地(地形)

4.将(将帥の力)

5.法(軍事制度) の5つ


これら5つの事が劣っているか、優っているかによって戦いの勝敗は決まるのである、また、それらの優劣を見ることによって、私はどちらの国が戦いで勝利するのか見極めているのである、と述べる。だから、「道」「天」「地」「将」「法」の5つが戦争の勝敗を初めから決定している、ともいえる。
そして「兵とは、詭道なり。」、つまり、戦争の本質は敵を欺くことにある、と述べている。これは後々出てくる「用間篇」などの篇にも関連してくる。
これらの事が第1篇の主な内容である。

分類[編集]

『漢書』「芸文志」は、六つの大分類のうち一つを丸ごと兵家にあて(「兵書略」)、さらに兵家を兵権謀家・兵形勢家・兵陰陽家・兵技巧家の四種に細分している[1][2] 。兵権謀家は他の三種の兵法を用いつつ国家的計略を立ててから実際の戦争行為に至るまでを含む大局的戦略を扱い[3]、兵形勢家は変幻自在の策によって素早く敵を制する局所的戦術を扱い[4]、兵陰陽家は陰陽家の五行思想を取り入れた超自然的な兵法を扱い[5]、兵技巧家はいわゆる武術を扱う[6]。

兵権謀家[編集]


権謀は、正を以て国を守り、奇を以て兵を用い、先に計して後に戦し、形勢を兼ね、陰陽を包み、技巧を用ゆる者なり。[3]
孫武(『孫子』、武経七書に数えられる。『漢書』「芸文志」では『呉孫子兵法』八十二篇[1])
孫臏(『孫臏兵法』。『漢書』「芸文志」では『斉孫子兵法』八十九篇[1])
呉起(『呉子』四十八篇[1]、現存は六篇、武経七書に数えられる)
商鞅(『公孫鞅』二十七篇[1])
范蠡(『范蠡』二篇[1])
文種(『大夫種』二篇[1])
龐煖(『龐煖』三篇[1])
李左車(『広武君』一篇[1])
韓信(『韓信』三篇[1])

兵形勢家[編集]


形勢は、雷動風挙、後に発して先に至り、離合背郷(兵を散開させるも集めるも趨勢に背くも従うも自在で)・変化無常にして、軽疾を以て敵を制する者なり。[4]
蚩尤(『蚩尤』二篇[1]、神話上の人物への仮託)
尉繚(『尉繚』三十四篇[1](あるいは『尉繚子』)、武経七書に数えられる)
信陵君(『魏公子』二十一篇[1]、ただし書籍は本人の著ではなく食客が献じたものという[7])
李良(『李良』三篇[1]、楚漢戦争時代に趙王武臣を裏切って弑するも陳余に敗れ、秦将章邯に降った人[8])
項羽(『項王』一篇[1])

兵陰陽家[編集]


陰陽は、時に順いて発し、刑徳を推(おしはか)り、斗撃(北斗七星・南斗六星の拍)に随い、五勝(五行相剋)に因り、鬼神に仮りて助と為す者なり。[5]

『神農兵法』一篇や『黄帝』十六篇[1]など、ほぼ神話上の人物への仮託。以下の人物も後世からの仮託の可能性が高い。
孟子(『孟子』一篇[1]、儒学者の孟軻と同一人物かは不明)
師曠(『師曠』八篇[1])
萇弘(『萇弘』十五篇[1]、周の霊王〜敬王の頃の賢臣)

兵技巧家[編集]


技巧は、手足を習い、器械(通常の武具)を便り、機関(仕掛けのある武具)を積み、以て攻守の勝を立つる者なり。[6]

『漢書』「芸文志」に記載される書籍の著者は、伝が不明な人物が多い。以下は伝が知られる人物を載せるが、後世の仮託の可能性がある。
鮑叔 (『鮑子兵法』十篇[1])
伍子胥(『五子胥』十篇[1])
李広 (『李将軍射法』三篇[1])
王賀(『護軍射師王賀射書』五篇[1]、新の皇帝王莽の曽祖父で武帝の繡衣御史を一時期務めていた人物が同姓同名[9])

その他[編集]
太公望呂尚(武経七書『六韜』『三略』の著者に仮託される)
司馬穰苴(『司馬法』現存五篇、武経七書に数えられる。『漢書』「芸文志」では、『軍礼司馬法』百五十五篇は、聖王である湯王・武王の精神を遺すものとされ、兵書略ではなく、六芸略の一つ礼家の書籍と分類されている[1][2])
黄石公(呂尚の『六韜』『三略』を撰録し張良に授けたとされる半伝説的人物)

脚注[編集]
1.^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 中國哲學書電子化計劃『漢書』「藝文志」
2.^ a b 中國哲學書電子化計劃『漢書』「藝文志」「兵家者,蓋出古司馬之職,王官之武備也。洪範八政,八曰師。孔子曰為國者「足食足兵」,「以不教民戰,是謂棄之」,明兵之重也。《易》曰「古者弦木為弧,剡木為矢,弧矢之利,以威天下」,其用上矣。後世燿金為刃,割革為甲,器械甚備。下及湯武受命,以師克亂而濟百姓,動之以仁義,行之以禮讓,司馬法是其遺事也。自春秋至於戰國,出奇設伏,變詐之兵並作。漢興,張良、韓信序次兵法,凡百八十二家,刪取要用,定著三十五家。諸呂用事而盜取之。武帝時,軍政楊僕捃摭遺逸,紀奏兵錄,猶未能備。至于孝成,命任宏論次兵書為四種。」
3.^ a b 中國哲學書電子化計劃『漢書』「藝文志」「權謀者,以正守國,以奇用兵,先計而後戰,兼形勢,包陰陽,用技巧者也。」
4.^ a b 中國哲學書電子化計劃『漢書』「藝文志」「形勢者,雷動風舉,後發而先至,離合背鄉,變化無常,以輕疾制敵者也。」
5.^ a b 中國哲學書電子化計劃『漢書』「藝文志」「陰陽者,順時而發,推刑コ,隨斗擊,因五勝,假鬼神而為助者也。」
6.^ a b 中國哲學書電子化計劃『漢書』「藝文志」「技巧者,習手足,便器械,積機關,以立攻守之勝者也。」
7.^ 『史記』「魏公子列伝」
8.^ 『史記』「張耳・陳余列伝」
9.^ 『漢書』「元后伝」

農家 (諸子百家)

農家(のうか)は、中国・諸子百家に数えられ、『漢書』芸文志の分類による学派の一つ。



目次 [非表示]
1 史料
2 孟子による記述
3 思想の影響
4 脚注
5 関連項目


史料[編集]

『漢書』芸文志・条理の中に、農家の思想を説いた『神農』20篇・『氾勝之』18篇の名前が見える。さらに「数術」という分類に、『神農教田相土耕種』14巻や『昭明子釣種生魚鼈』8巻など技術に関するものがある。それらは出典を明らかにせず『呂氏春秋』『管子』『淮南子』『氾勝之書』に引用されたらしい。農家の書は唐代までには2巻本として伝わり、おもに農業の技術を伝えた。この伝本は散逸して存在しないが、馬国翰の輯本があり漢代最良の農書といわれ、賈思勰の『斉民要術』をはじめ、『文選』注・『爾雅』注・『初学記』『経典釈文』『太平御覧』などに引用されている。

孟子による記述[編集]

『孟子』滕文公章句上では、農家の思想家・許行の説が記されている。農業の始祖として「后稷」の代わりに「神農」を尊ぶ。神農の教えによれば、賢者・王侯といえども耕作や炊事の万端を自分の手で行うべきであり、このやり方に従えば物価は一定となり国中で偽りをする者がいなくなる、という主張であった。孟子は、分業を非とする農本主義的なこの思想を、悪平等で「天下を乱す」として斥けた。また、孟子が「許行は自ら服や家を作るのか」と許行の高弟に問い、「否」と答えたのに対し「服や家を作るのが大変で農作業の片手間に出来ないというなら、なぜ政治は農作業の片手間に出来るのか」と孟子が問うとその弟子は答えることが出来なかったという。

思想の影響[編集]

許行は孟子と同時代人で、氾勝之は漢・成帝時代の人とされる。はじめは単に農を勧めるだけだったが、後に君臣上下の別なく農耕に従事すべきであるといい、勤労による天下平等を主張した。これは墨子の勤倹と道家の説く平等に影響された考え方と推測できる。農家の社会改革的な要素は、秦・漢時代以降は衰えたと見られる。ただ「農」を強調する考え方は、毛沢東の革命戦略を引くまでもなく、近年まで中国で有力だったことは疑えない。これが安藤昌益の「直耕」へと連なる思想であったかどうかは、定かでない。

18世紀には中国の思想が欧州に紹介されはじめ、重農主義を唱えるにあたって中国にも同様の考え方が存在している事をイエズス会の宣教師の著書を通じて影響をあたえていたとする研究もある[1]

雑家

雑家(ざっか)は、古代中国の諸子百家の一つ。中国九学派の一つ。

儒家、道家、法家、墨家など諸家の説を取捨、総合、参酌した(百科全書的)学派で、その根幹は道家思想。主な思想家として、『呂氏春秋』を著した呂不韋がいる。

『淮南子』の故事成語から象徴的なものを引用するのであれば、「鹿を追う者は山を見ず」(一事に熱中すると他の事を考える余裕がなくなること、利欲に迷うと道理がわからなくなること)の語が、端的に雑家の思考(大局観の為の思想)成立を表したものといえる。

代表的書物[編集]
淮南子
呂氏春秋

故事

故事(こじ)とは、大昔にあった物や出来事。また、遠い過去から今に伝わる、由緒ある事柄。特に中国の古典に書かれている逸話のうち、今日でも「故事成語」や「故事成句」として日常の会話や文章で繁用されるものをいう。

故事成語/故事成句(こじ せいご/こじ せいく)とは、故事をその語源とする一群の慣用語句の総称。本来の中国語ではただ「成語」というが、日本では故事を語源とするものをその他の熟語や慣用句と区別するために、このような呼び方となった。

ものごとのいわれ(由来)や、たとえ(比喩)、おもい(観念)、いましめ(標語)など、面と向かっては言い難いことを婉曲に示唆したり、複雑な内容を端的に表したりする際に便利な語句で、中には日本語の単語として完全に同化したもの(「完璧」「矛盾」など)や、日本語のことわざとして定着したもの(「井の中の蛙大海を知らず」「虎の威を借る狐」など)も多い。

以下には日本でも繁用される主な故事成語を五十音順にあげた。

あ行

圧巻

古代中国で行われた官吏登用試験の科挙で、もっとも成績の良かった者の答案(巻)を圧するように常に一番上に置いたことから、書物の中で一番優れた詩文を圧巻と呼ぶようになり、書物以外にも用いられるようになった。

井の中の蛙

井戸の中にいる蛙は、自分が一番大きな生き物だと思っていた。しかし、それを海亀が覗き込む。その体は蛙より何倍も大きく、彼は蛙に「こんな狭いところで何をしているのか?」と不思議そうに訊ねた。蛙はそれが聞き捨てならず、海亀にここの住み心地のよさを教え、彼を誘い込もうとするも、その井戸は海亀には狭すぎて入れたものじゃない。そして海亀は自分が住んでいる海の広さを教え込むと、蛙は驚いた[1]。

これはある儒者が、荘子の教えを聞いてからは自分の考えが世に通用しないのを憂い、友人に相談を持ちかけたところ、その才のある友人が窘めたたとえ話である。つまり、この男はその儒者に「まだまだ考え方が狭い。だから、もっと広い視野で学問を見よ」と暗示したのである。

このことから、見識が狭いこと、またそのような人を井蛙、井蛙の見などと呼ぶようになり、日本では井の中の蛙大海を知らずということわざで知られるようになった。

烏合の衆

ばらばらでまとまりが無い集団のこと。新末後漢初の動乱時、光武帝の家臣だった和成郡太守の邳彤が敵対する王郎の勢力をこう評した故事にちなむ[2]。但し、光武帝の家臣だった耿弇がやはり王郎の勢力をこう形容しているのが、時系列で先になる[3]。

塩車の憾み

「塩車(えんしゃ)の憾(うら)み」「驥(き) 塩車に服す」あるいは「驥服塩車」は、才能のあるものが見出されず世に埋もれている状態の例え。

詳細は「塩車の憾み」を参照

か行

偕老同穴

詳細は「偕老同穴」を参照

臥薪嘗胆

詳細は「臥薪嘗胆」を参照

画竜点睛

南朝の梁の武帝は、仏教を厚く信仰しており、たくさんの寺を建てて、寺の装飾画は張僧繇という画家に描かせていた。張は都の金陵の安楽寺に4匹の龍を描いた。しかし、それらどの龍にも瞳が描かれておらず、聞くと張は、瞳を描くと龍が絵を飛び出ていってしまうという。人々はそれを信用せず、試してみるよう頼んだ。張は2匹の龍だけに瞳を描き入れた。すると、外では雷雲立ちこめ、雷鳴響き、雷で寺の壁が壊され、瞳を描き入れた2匹の龍が絵から飛びさっていった。人々は驚き、張の画力に感服した。残った瞳のない2匹の龍は今も安楽寺に描かれたままである[4]。 [5]

このことから画竜点睛は最後の仕上げの重要さ、あるいはそれに値する物事を指す。しばしば画竜点睛を欠くと使われ、最後の仕上げがない、最後の詰めを欠くという意味である。睛は「ひとみ」、晴とは別の字である。

ウィクショナリーに画竜点睛の項目があります。

完璧

詳細は「藺相如#完璧」を参照

管鮑の交わり

詳細は「管仲#管鮑の交わり」を参照

疑心暗鬼を生ず

ある山里に住む木樵は自慢の斧を持っていた。だが、ある日、その斧を無くしてしまう。そんなとき彼はふと、この前の出来事を思い出した。隣の息子がその斧を見て自分も欲しいようなことを言っていた気がする。そこで、彼はその子供のことが気になり近寄ってみると、偶然にもその子供は急用を思い出したと言って逃げ出してしまった。彼はますます怪しくなり、何とか白状させてやりたいと思ったが、その時また何かを思い出してハッとする。実は、その斧は、荷物が多かったために自分で山中に置いてきたのである。そして、山中を探してみると案の定、斧はそのまま置き去りにされていたのだった[6]。

これは列子に記載されている一種のたとえ話で、このことから「自分が疑いの心を持つと、誰に対してでも疑わしく思えてしまうこと」という意味になった。また、この教訓を逆説的に捉えたものとして、「七遍温ねて人を疑え」(7回自分を思い返してから人を疑え。つまり、人を疑う前に自分の事柄からよく探せという意味)ということわざがある。

杞憂

杞の国に、天地が崩れ堕ちて身の置き場が無くなるのではないかと夜も眠れぬほど心配した人がいた。このことから、無駄な心配、取り越し苦労のことを指して杞憂という[7]。

玉石混淆

漁夫の利

ふたつの勢力がひとつの事柄について争っている間に、第三者が利益を得てしまうこと。「鷸蚌(いつぼう)の争い」ともいう。中国の戦国時代、趙は燕を攻めようとしていた。それを察知した燕の蘇代は趙に向かい、趙の王である恵文王に次のような話をした。「蚌(はまぐり)が殻を開けて日向ぼっこをしていると、鷸(しぎ)がやってきてその身を啄もうとしました。蚌は咄嗟に殻を閉じて、鷸の嘴を挟みました。鷸は『このまま今日も明日も雨が降らなければ、死んだ蚌があるだろう』と言い、蚌は『今日も明日もこのままならば、死んだ鷸があるだろう』と言う。そうして争っている間に、両者とも漁夫(漁師)に捕まってしまいました。趙と燕(鷸と蛤)が争っては、強国の秦(漁夫)に両方とも滅ぼされる機会を作るだけです」これを聞いた恵文王は燕を攻めるのを止めた、という故事が元となっている。[8]。

愚公山を移す

詳細は「愚公山を移す」を参照

蛍雪の功

一途に学問に励む事を褒め称えること。

東晋の時代の車胤は、家が貧乏で灯す油が買えなかったために蛍の光で勉強していた。同様に、同じ頃の孫康は、夜には窓の外に積もった雪に反射する月の光で勉強していた。そして、この二人はその重ねた学問により、長じて朝廷の高官に出世している[9]。

鶏肋

詳細は「鶏肋」を参照

逆鱗

詳細は「逆鱗」を参照

五十歩百歩

世は戦国時代、魏の恵王は、孟子に尋ねた。 「わたしは、常日頃から民百姓を大事にしているつもりだ。だが、他国の民が魏を慕って流入してきた様子がない。これはどういうことなのか?」 孟子は言った。 「まず、王に尋ねます。戦場で2人が怖くなって逃げ出しました。ある者は100歩逃げて踏みとどまり、ある者は50歩で踏みとどまったとします。そこで50歩逃げた者が、100歩逃げた者を臆病者と言って笑ったとします。王はどう思われますか」 「それはおかしい。逃げたことには違いないではないか」

「そのとおり」、と孟子は言う。そして魏王の政策も他国と比べて五十歩百歩なのだと指摘し、孟子の勧める王道を唱えていく[10]。

つまり、大差のないこと。

鼓腹撃壌

詳細は「堯#鼓腹撃壌」を参照

さ行

塞翁が馬

国境の近くにあった塞(とりで)の近くに住んでいた翁(老人)は、何よりも自分の馬をかわいがっていた。その馬は、周りからも評判が立つほどの駿馬だったが、ある日突然、蜂に刺された拍子に飛び出してしまう。一向に帰ってこない馬の様子に、周りからは翁に同情するほどだったが、翁は「これがきっかけで何かいいことが起こるかも知れない」とだけ言って、我慢強く待ち続けた。すると、どうだろうか。しばらくして、その馬が別の白い馬を連れ帰ってきたのだ。しかも、その白馬も負けず劣らずの優駿で、周りの者は口々に何と幸運なことかと囃し立てたが、翁は「これがきっかけで、別の悪いことが起こるかもしれない」と自分を戒め、決して喜ばなかった。

それから、かわいがっていた息子がその白馬から落ちて、片足を挫いてしまった。周りはまた同じように慰めの言葉を掛けたが、翁はまた同様に「いいことの前兆かも知れない」と告げる。それからしばらくして、隣国との戦争が勃発した。若い男は皆、戦争に駆り出されて戦死した。しかし息子は怪我していたため、徴兵されず命拾いした。そして、戦争も終わり、翁は息子たちと一緒に末永く幸せに暮らしたという[11] 。

このことから、人間、良いこともあれば悪いこともあるというたとえとなり、だから、あまり不幸にくよくよするな、とか幸せに浮かれるなという教訓として生かされる言葉になり、人間万事塞翁が馬などと使われる。

先んずれば将ち人を制す

秦朝末期、各地で起きた反乱は鎮圧されるどころか増大していた。ここで会稽の県令殷通は「先んずれば将ち人を制す(他の人より先に事を始めれば、その主導権を握れるだろう)」と、反乱軍が押し寄せる前に事を起こす決意をしたことに因む。ちなみにこの後殷通は、一緒に反乱を起こそうと誘った会稽の実力者項梁に殺害された。 [12]

三顧の礼

詳細は「三顧の礼」を参照

死屍に鞭打つ

詳細は「伍子胥#死屍に鞭打つ」を参照

四面楚歌

詳細は「垓下の戦い#四面楚歌」を参照

守株

ある男が農作業に勤しんでいると、目の前を跳ねていた兎が切り株に当たってそのまま死んだ。彼は喜んで、思わぬ獲物を家族に見せると、家族は「高く売れる」と皆声を揃えて喜んだ。すると、男は明日からは木を伐ってこつこつと稼ぐのはやめにして、兎を待って一攫千金を稼ぐことを策略する。そして、ありとあらゆる木を切り倒して、来る日も来る日も兎が死ぬのを待ちわびた。ところが、そんな偶然など滅多に起こるはずもなく、いつしか男は周りの笑いものにされ、そして自分が耕していた田畑は荒れに荒れてしまい、以前にも増して貧乏になってしまったという[13]。

このことから、物事はいつもうまく行くものではないという教訓からすなわち古いやり方ばかりで、進歩がない、または、偶然を当て込むような愚かなことをする、という意味となった。今日、日本では株を守りて兎を待つということわざになっている。また童謡の『待ちぼうけ』は、この故事を下敷きにしたものである。

酒池肉林

詳細は「酒池肉林」を参照

少年老いやすく学なりがたし

詳細は「少年老いやすく学なりがたし」を参照

食指が動く

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助長

宋の国の男が、自分で植えた苗の成長が遅いので心配になって、毎日畑へ通い世話を続けたが、一向に成長する気配がない。そこで男は苗の成長を助けてあげようと、一つずつ苗の先を上に引っ張った。疲れて家に帰った男はそのことを家族に話した。それを聞いた息子があわてて家を飛び出し、畑へ向かうと、やはり苗の根が土から浮き、弱って枯れてしまっていた[14]。

このことから助長は、物事の生長を助けようとして、余計に害を与えてしまうこと、という意味に使われるようになったが、今日では単に「第三者が物事を助けること」という意味でも使われる。

水魚の交わり

詳細は「水魚の交わり」を参照

推敲

詳細は「推敲」を参照

折檻

前漢の成帝時代は王氏による腐敗政治に染まっていて、治安が乱れていた。中でも自らを学者と騙る張禹という男が政治に介入し、丞相の地位をいいことに日々贅の限りを尽くしていた。そんな状況を見かねた臣下の朱雲はある日、意を決して成帝に「自分が国と帝の将来のため、張禹の首を刎ねる」と発言する。しかし、そのことが帝の逆鱗に触れ、彼は打ち首を命じられた。だが、彼は諫死をも覚悟して檻(欄干)にしがみつき、しがみついた檻が折れてしまうほど必死に進言を続けた。この状況を一部始終見通していた側近の辛慶忌はその朱雲の真意に心打たれ、彼が本当に国のことを思ってこのような無礼を蒙ったのだと、涙ながらに陛下に申し立て、同時に彼の罪を赦すよう歎願した。すると、辛のような大人にまでそのような態度を執られては流石の成帝も改心し、善政を尽くすよう決心した。同時に自らへの戒めとして、折れた欄干をそのままにしておくよう部下に伝えたという[15]。

以上の説話から、この話の元々の意味は目上の人に対して、強く諫めることであり、檻とは欄干、手すりのことである。しかし、後に派生して”厳しく叱る"という意味になり、今日では"体罰を交えて懲らしめること”という意味に捉えられるようになった。

糟糠の妻

詳細は「宋弘#糟糠の妻」を参照

宋襄の仁

詳細は「泓水の戦い#宋襄の仁」を参照

漱石枕流

孫楚という男は、ある日友人(王済)に相談を持ちかけた。自分は役人だが、俗世間の煩わしさにほとほとうんざりしており、竹林の七賢のような、俗世間を離れた暮らしをしたいと持ちかけ、思わず「石に漱ぎ、流れに枕す」ような暮らしをしたいと告げた。すると友人が笑って、「それを言うなら、石に枕し、流れに漱ぐ(すなわち、石を枕にして、水の流れで口を漱ぐような自然と一体になった暮らしをすること)じゃないか」と突っ込まれる。すると、学問にプライドを持っていた男は思わず、「いや、それで間違っていない。石に漱ぎとは石で歯を磨いて、流れに枕するとは、俗世間の煩わしさも含め、全て水で洗い流すことだ」と言い張った[16]。

そこから、常に意地っ張りなことを漱石枕流、「石に漱ぎ、流れに枕する」というようになった。明治時代の作家、夏目漱石の名前もこの故事に因むといわれている。

た行

他山の石

「名もない山で拾った粗悪な石でも、自分が所有する玉(宝石)を磨くのには役立つ」ということから、他人のとるに足らない言動でも自身の向上の助けとなる事[17]。俗に模範とする意は誤り。

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蛇足

詳細は「蛇足」を参照

断腸の思い

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朝三暮四

非常に猿と戯れるのが好きな男がいた。この男は家族のことも放っておいて、猿を可愛がるものだから、餌の時間になるといつも猿が寄ってくる。ところがそれが原因で、ある日奥方から「猿の餌を減らしてくれないと、子供たちの食べる物までなくなってしまう」と窘められてしまう。困った男は何とか猿たちを籠絡しようとし、一斉に呼びかけた。これからは「朝には木の実を三つ、暮(ばん)には四つしかやれない」と告げるも、猿たちは皆不満顔。それならば「朝は四つ、暮は三つならどうだ」と言うと、合計七つと変わらないにも係わらず猿は皆、納得してしまったのである[18][19]。

そこから朝三暮四は、人を巧みに言いくるめて騙すこと、また猿の立場から、物事の根本的な違いに気付かない愚かな人を指す言葉となった。

天衣無縫

詳細は「wikt:天衣無縫」を参照

登龍門

詳細は「登龍門」を参照

虎の威を借る狐

虎は多くの動物を求めてそれを食べる。ある時、狐を捕まえた。狐は「君は私を食べてはならない。天は私を百獣の王にしたのだ。私を食べればそれは天の命令に背くということだ。もし信じないのなら私は君の前を歩いてみよう。私を見て逃げない獣はないであろう」といった。そこで虎は狐を放し、狐について行った。すると獣は一行の姿を見て逃げ出したが、それは狐ではなく虎を恐れたためである。しかし当の虎自身は自分を恐れて逃げているとは思わず、狐を恐れて皆逃げているのだと思い、狐の言を信用した[20]。

このことから虎の威を借る狐は、大したこともない者が、権力者などの威光を笠に着て威張ることを指すようになった。

な行

泣いて馬謖を斬る

詳細は「泣いて馬謖を斬る」を参照

嚢中の錐

詳細は「平原君#略歴」を参照

は行

背水の陣

楚漢戦争時に、漢の劉邦に仕えていた韓信は兵力20万人の趙を約3万の兵で攻略しなければならないという難局に臨んだ。韓信は少ない兵力で勝つために、一般的な戦術の定石を敢えて無視し、軍団を逃げ場の無い川の前に布陣した。兵は逃げ場が無いことでここを死地と定め、決死の覚悟で奮戦し勝利を得た。このことから、あえて自らを窮地に置き、最大限に力を発揮させる事を背水の陣と言うようになった。

詳細は「井ケイの戦い」を参照

白眼視

詳細は「阮籍#白眼視」を参照

白眉

詳細は「白眉」を参照

破竹の勢い

詳細は「杜預#呉征討の過程」を参照

髀肉の嘆

詳細は「劉備#三顧の礼」を参照

刎頸の交わり

詳細は「刎頸の交わり」を参照

ま行

矛盾

詳細は「矛盾」を参照

や行

ら行

梁上の君子

詳細は「陳寔#梁上の君子」を参照

洛陽の紙価貴し

詳細は「左思#略歴」を参照

など

小説家 (諸子百家)

小説家(しょうせつか)は、中国、春秋戦国時代の諸子百家の一学派。

故事(世間の出来事、説話など)を語り伝え、書物にして残した。稗官、すなわち民間の風俗を管理管轄する役人の間から発生したと推察される。 主な学者、思想家または書名に、鬻子・青史子・師曠などがあげられる。

縦横家

縦横家(じゅうおうか、しょうおうか)は、中国古代の思想家たちで、諸子百家の一つ。外交の策士として各国の間を行き来した人たちのことである。



目次 [非表示]
1 内容
2 代表的人物
3 代表的書物 3.1 『漢書』「芸文志」による一覧
3.2 その他

4 脚注
5 参考文献
6 関連項目


内容[編集]

巧みな弁舌と奇抜なアイディアで諸侯を説き伏せ、あわよくば自らが高い地位に昇ろうとする、そのような行為を弁舌によって行う者が縦横家である。合従策を唱えた蘇秦と連衡策を唱えた張儀が有名。蘇秦はその弁舌によって同時に六国の宰相を兼ねたとされている。

「縦横家」という言葉も彼らの策の名前に由来する。
合従は諸国が連合し秦に対抗する政策のことで、これは、秦以外の国が秦の東に南北に並んでいること(「縦」=「従」)による。
連衡は秦と同盟し生き残りを図る政策のことで、秦とそれ以外の国が手を組んだ場合、それらが東西に並ぶことを「横」=「衡」といったことによる。

諸子百家といわれるものにはほかにも各国を説いて回ったものはいるが、それらの多くがそれぞれの思想に基づく理想を実現するためであったのに対して、いわゆる縦横家にはそのようなものはなく、ただそれぞれの国において喜ばれるような政治手法を論じるのが常であった。たとえば蘇秦は合従を燕の文公に説いて六国をまとめ、十五年にわたって秦の東進を止めたが、伝説によると燕を訪れる前に彼は秦に向かっており、そこでは彼は東進して覇を唱える方法を論じた。彼が秦で認められなかったのは全く秦の都合だけであったという。

代表的人物[編集]
蘇秦
張儀
鬼谷先生
蘇代
陳軫 -「蛇足」の故事で知られる。
犀首

代表的書物[編集]

『漢書』「芸文志」による一覧[編集]

以下は『漢書』「芸文志」に記載される、縦横家の書籍の一覧である[1]。
『蘇子』三十一篇(蘇秦)
『張子』十篇(張儀)
『龐煖』二篇
『闕子』一篇
『国筮子』十七篇
『秦零陵令信』一篇
『蒯子』五篇(蒯徹―忌避による通名は蒯通)
『鄒陽』七篇
『主父偃』二十八篇
『徐楽』一篇
『荘安』一篇
『待詔金馬聊蒼』三篇

その他[編集]
『鬼谷子』(鬼谷) - 一般に偽書とされる。
『戦国策』 - 主に戦国時代の縦横家の活動を記した書籍。『漢書』「芸文志」では、『戦国策』自体は春秋家(歴史家)に入れられている。

脚注[編集]
1.^ 中國哲學書電子化計劃『漢書』「藝文志」

参考文献[編集]
司馬遷:小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳、『史記列伝(一)』、(1975)、岩波書店(岩波文庫)

班固

班 固(はん こ、32年 - 92年(建武八年 - 永元四年)は中国後漢初期の歴史家、文学者。字は孟堅。班超、班昭の兄。班勇(班超の三男)の伯父。「漢書」の編纂者として一般に知られるが、文学者としても「両都賦」などで名高い。

父班彪も歴史家であり、班固に先立ってすでに65編を編纂していた。班固は勅命により、父の業績を引き継ぎ、漢書をほぼ完成させたが、永元4年(92年)、和帝は竇憲一派の逮捕を命令し、班固もまた竇一族の娘を娶っていたため、この事件に連座して獄死した。

その後、未完の部分は妹の班昭が完成させた。

著名な作品[編集]
「両都賦」:前漢の長安と後漢の洛陽の二つの首都のどちらが優れているかを比べ、洛陽に軍配を上げる。『文選』賦篇に所収。

参考文献[編集]
『中国古代の歴史家たち,司馬遷・班固・范曄・陳寿の列伝訳注』 (福井重雅編訳、早稲田大学出版部、2006年)

道教

道教(どうきょう、拼音: Dàojiào)は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある[1]。



目次 [非表示]
1 概要
2 要素 2.1 老子
2.2 神仙
2.3 醮事章符
2.4 その他

3 道家・儒教との関係
4 歴史的に形成された道教 4.1 初期の教団
4.2 三洞四輔
4.3 金丹
4.4 三教のひとつとしての道教
4.5 崇道王朝
4.6 道教の展開
4.7 宗派の形成
4.8 現代の道教

5 日本における道教 5.1 陰陽道
5.2 修験道
5.3 風水
5.4 庚申信仰
5.5 日本での道教寺院

6 その他の国における道教
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク


概要[編集]

道教は漢民族の土着的・伝統的な宗教である。中心概念の道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。道の字は辶(しんにょう)が終わりを、首が始まりを示し、道の字自体が太極にもある二元論的要素を表している。この道(タオ)と一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、丹を錬り、仙人となることを究極の理想とする。それは1つの道に成ろうとしている。

神仙となって長命を得ることは道を得る機会が増えることであり、奨励される。真理としての宇宙観には多様性があり、中国では儒・仏・道の三教が各々補完し合って共存しているとするのが道教の思想である。食生活においても何かを食することを禁ずる律はなく、さまざまな食物を得ることで均衡が取れ、長生きするとされる。

現在でも台湾や東南アジアの華僑・華人の間ではかなり根強く信仰されている宗教である。中華人民共和国では文化大革命によって道教は壊滅的な打撃を受けたが、民衆の間では未だにその慣習が息づいている。現在では共産党政権下でも徐々に宗教活動が許され、その宗教観の修復が始まっている。

老荘すなわち道家の思想と道教とには直接的な関係はないとするのが、日本及び中国の専門家の従来の見解であった。しかし、当時新興勢力であった仏教に対抗して道教が創唱宗教の形態を取る過程で、老子を教祖に祭り上げ、大蔵経に倣った道蔵を編んで道家の書物や思想を取り入れたことは事実で、そのため西欧では、19世紀後半に両方を指す語としてタオイズム(Tao-ism)の語が造られ、アンリ・マスペロを筆頭とするフランス学派の学者たちを中心に両者の間に因果関係を認める傾向がある。それを承けて、日本の専門家の間でも同様な見解を示す向きも近年は多くなってきている[2]。

要素[編集]

道教は複数の要素を含み、様々な論が試された[1]。

梁の時代の文学理論家劉勰(英語版)著『滅惑論』では、「道教三品」として、上:老子、次:神仙、下:張陵を襲う(醮事章符)と記している。これはそれぞれ老子の無為や虚柔の思想、神仙の術、祭祀や上章(神々への上奏文を燃やす儀式)および符書(お札)の類を指す[1]。

元の馬端臨は『文献通考』「経籍考」にて道教が雑多であると述べ、「清浄」「煉養」「服食」「符録」「経典科教」の5つを要素に挙げている。「清浄」は黄帝・老子・列子・荘子らの著にある清浄無為の思想、「煉養」は赤松子や魏伯陽らに代表される内丹などの修練、「服食」は盧生や李少君らに代表される外丹服薬、「符録」は張陵や寇謙之などに代表される符を用いた呪術、「経典科教」は杜光庭など道士と彼らが膨大な経典を元に行う儀礼をそれぞれ指す[1]。

どちらの書も、それぞれの要素は並列するだけでなく、歴史的な出現順を追って書かれた。仏教の立場から道教を批判的に書いた『滅惑論』も、その流れを汲み著された『文献通考』も、古い要素(老子の教え)は良いが、時代が下るほどに価値のないものになると論じている[1]。以下、『滅惑論』の区分で解説する。

老子[編集]

老子は実在の人物か否かの意見は分かれ、司馬遷の『史記』も自身に裏打ちされた記述とは言えない。著書『老子道徳経』に見られる「道」「徳」「柔」「無為」といった思想は、20世紀後半に発掘された馬王堆帛書や郭店楚簡から類推するに、戦国時代後期には知られていたと考えられる[3]。また「道」を世界万物の根源と定める思想もこの頃に発生し、やがて老子の思想と同じ道家という学派で解釈されるようになった[3]。

その一方で『老子道徳経』本来の政治思想は、古代の帝王である黄帝が説く無為の政治と結びつきを強め、道家と法家を交えたような黄老思想となった。前漢時代まで大きく広まり実際の政治にも影響を与えたが[4]、武帝が儒教を国教とすると民間に深く浸透するようになった。その過程で老荘思想的原理考究の面が廃れ、黄帝に付随していた神仙的性質が強まっていった。そして老子もまた不老不死の仙人と考えられ、信仰の対象になった[5]。

神仙[編集]

老子とは別に道教の源流の一つとなった神仙とは、東の海の遠くにある蓬莱山や西の果てにある崑崙山に棲み、飛翔や不老不死などの能力を持つ人にあらざる僊人(仙人)や羽人を指す伝説である。やがて方術や医学が発展すると、人でもある方法を積めば仙人になれるという考えが興った[6]。

『漢書』芸文志・方技略・「神僊」には10冊の書名が書かれているが、いずれも現代には伝わっていない。しかしそこに使われた単語から内容を類推できる。「歩引」は馬王堆から発見された図「導引」と等しく呼吸法などを含めた体の屈伸運動で、長生きの法の一つである。「按摩」は現代と同じ意味、「芝菌」は神仙が食べたというキノコ、「黄治」は錬丹術を指す。これらは黄帝や伏羲など神話的人物の技とみなされていた[6]。また『漢書』方技略には他に「医経」(医学の基礎理論であった経絡や陰陽、また針灸などの技法)、「経方」(本草すなわち薬学)、「房中」(性交の技)があり、健康や長寿を目的としたこれらの技法も道教と密接な関係を持った[6]。

『漢書』以外にも様々な法技行われていた。呼吸法のひとつ「吐故納新」、五臓を意識して行う瞑想の「化色五倉の術」、禹の歩みを真似て様々な効用を求めた「禹歩」などが伝わる[7]。

醮事章符[編集]

様々な神々を祀る寺院に庶民が参る風景は、道教をイメージする代表的風景である。この源流は、殷の上帝そして天に対する信仰、儒家の祖先信仰、民間の巫法、墨家の上帝鬼神信仰などさまざまなものが考えられる。特に墨家が言う「鬼」とは、天と人の間にあって人間を監視し、天意(「義」‐道徳や倫理など)に背くと災いや事故を起こすと言う[8][9]。人々は「義」を守る生活とともに天や鬼を祀り、罰を避けようとした。道教では天と鬼の間に人の世界があり、各階層で善行や悪行によって上り下りがあると考えられた[9]。

また道教では神秘的な「符」を用いて護身や鬼の使役ができると考えられた。睡虎地秦簡・日書には符の存在を暗示する「禹符」の文字や馬王堆帛書・五十二病方にも符を使う記述が見られる。洛陽郊外の邙山漢墓は延光元年(122年)と年代が判明している最古の符が発見された[9]。

その他[編集]

どのようにして現在のような宗教的思想体系になったのか、ほとんど不明である。その他の要素では、老荘(道家)の「玄」と「真」の形而上学、さらに中国仏教の業報輪廻と解脱ないしは衆生済度の教理儀礼などが重層的・複合的に取り入れられたと考えられる[8]。

道家・儒教との関係[編集]





北京の白雲観




台湾にある道観(道教の寺)




太極図
道教とは、「道の教え」である。広義には、「従うべき聖人の教え」という意味で、この語(道教)は使われる。この場合儒教や仏教を指すこともある。実際、「道学」と言えば、それは儒学を指す。狭義には、「『老子』や『荘子』の中で述べられているような道の教え」「老荘」と言う意味で使われる場合もある。そして、この「老荘」と関連して、「5世紀に歴史的に形成された道教」(茅山派)という意味でも、使われる。

「老荘の思想」と「5世紀に歴史的に形成された道教」とは、伝統的に中国では前者を《道家》と呼んで後者の神仙思想を下にした道教とは厳密に区別されるが、欧米では両者ともに“Taoism”と呼ばれたため、それを承けて近年は道教と道家は同じものを指すと考えられるようになった。

道(タオ)は、自然とか無為と同義とされ、また陰陽の思想で説明される。道は真理であり、無極(むごく)と呼ばれ、また太極とか太素と呼ばれる。これらの思想は、太極図で示される。朱子学として大成される宋学の形成に重要な役割を担ったのは、この太極図である。

歴史的に形成された道教[編集]

初期の教団[編集]

教団組織の面での形成は、神祭儀礼の完成や神学教理より遅れた。同時期に整って行った仏教教団の影響も大きい。教義面に関しての一応の成立は南北朝初期の寇謙之を遡らないが、宗教としての教団組織と儀礼と神学教理の三要素が完成したといえるのがいつなのかは難しい問題であり、隋から五代にかけて、漠然と唐代を中心にした時期とみられる。

道教の教団の制度は2世紀頃の太平道に始まる。後漢時代の中ごろ、于吉という人物が得た神書『太平清領書』を弟子が順帝に献上したが役人によって死蔵された。これを入手した張角が、「黄老道を奉事」して立ち上げた宗教集団が太平道である。実際の活動は「首過」(天や鬼神への懺悔)や「符水」(符を入れた水を飲む)などで病を癒すようなものだったが、後漢末期の不安定な時代に多くの信者を集め、やがて軍隊のような組織化を成した。そのため政府から弾圧を受けたが、184年ついに蜂起、これが黄巾の乱である。しかし太平道は間もなく鎮圧され、教団は壊滅した[5]。

太平道よりやや遅れ、蜀で張陵が興した五斗米道(天師道)も道徳的反省を行い鬼神の祟りを避け病を癒す「思過」を説くなど、太平道と似通った性質の宗教集団であった。しかしこちらは政治と上手く折り合いをつけ、また天師(教主)を頂点に置いたしっかりした教団組織を持などの違いから発展し、3代目張魯の頃には蜀から中原に広まっていた[10]。魏の曹操は蜀を滅ぼした後、張魯ら一族を厚遇し、信者数万戸は黄河や渭水流域に移住させ、この地で五斗米道は大きく広がった[10]。

後に八王の乱など戦乱を避けた信者の一部は江南に移り、天師道と呼ばれるようになった教団は南北に分かれた。北では、北魏の時代に天師となった寇謙之が房中術などで堕落した教団の綱紀粛正を実施し、彼に心酔した太武帝によって天師道は国教にまでなった。しかし寇謙之が亡くなると元の木阿弥になった[10]。南では、宋の歴代皇帝から尊敬を集めた陸修静が同様に綱紀粛正を主張した。彼は明帝に請われて建康に建てられた崇虎観に入り、ここで著述とともに、さまざまな道教系の経典を蒐集整理し、道教の基本経典「三洞」を定め[10]『三洞経書目録』を作成した[11]。宋末期にはこれに「四輔」が加わり道教教理の基本が出来上がった。この経典体系成立が、道教を儒教・仏教と並ぶ三教のひとつに並ばせる端緒となった[11]。

三洞四輔[編集]

「三洞」とは、洞真経・洞玄経・洞神経の3つであり、元々はそれぞれ上清経・霊宝経・三皇経(三皇文)と言い、別々の集団によって伝えられた[12]。

三洞最上位の上清経を伝えた一派の開祖は、山東省任城の女性・魏華存である。彼女は2人の息子と戦乱を避けて江南に移住し、そこで天師道の祭酒(指導者)になったという。その後仙道を極めて仙女となり、紫虚元君・南岳夫人を名乗った。東晋の役人・許謐は霊媒の助けを借りて紫虚元君らを仙界から降臨させ、教示を書き残した。これが時代を得て上清経になったという[12]。これは、精神を研ぎ澄ます瞑想法の存思法などの修練を通して汚れた人間界を脱し、神仙界へ至ることを説く[12]。後に活躍した道士の陶弘景は、この上清経をとりわけ重視した[11]。

霊宝経の起源は禹の時代に遡り、邪鬼を排し昇仙を成すという神人から賜った「霊宝五符」とその呪術にある。これは江南の葛氏道と呼ばれる一族が伝え、経典として整備されたという。その内容は仏教特に大乗仏教の影響を受け、輪廻転生や元始天尊が衆生を救済するという思想を持つ。また儀礼を詳しく定めている点も特徴である[12]。

三皇経という名は天皇・地皇・人皇から来ているという。出自には2つの説があり、西城山の石室の壁に刻まれた文言を帛和という人物が学び取ったとも、嵩山で鮑靚という人物が石室から発見したとも言う。既にほとんどが散逸し現在には全く伝わらないが、悪鬼魍魎の退散法や鬼神の使役法などが書かれていたという[12]。

「四輔」は「三洞」を補足するもので、4部に纏められた。太玄部は『老子道徳経』および関係する経典類、太平部は残存した『太平経』、太清部は金丹術に関係した文献類、正一部は五斗米道・天師道関係の経典である[11]。

金丹[編集]

「四輔」太清部は金丹の術関連の書が纏められている。古くは「黄治」や「黄白」とも呼ばれた金丹は、不老不死の効果を持つ薬の製造と服薬により仙人になることを目指すという点から、道教と密接に関連していた[13]。

金丹は古くから興っていたと考えられるが、西晋の頃に方法論の文献『抱朴子』が、「三洞」の霊宝経を伝えた一派とも密接に関係していた葛洪によって著された。彼によると、後漢時代に左慈という人物が神人から授かった「金丹仙経」をごく少数の集団を経て伝えられたという。葛洪は方法を知りながらも経済的理由で必要な金属や鉱物を入手できないため実践に至らないと言っていた[13]。

彼に代表される金丹に重きを置く集団と、五斗米道・天師道のような教団を形成していた人々は、どちらも同じく仙人を目指すところで同じだったが、ただどの方法を重視するかという差があるに過ぎなかった。そのため反目など起こらず、むしろ密接に繋がり、場合によっては婚姻関係にあるなど重なり合っていた[13]。

三教のひとつとしての道教[編集]

南北朝の北朝では、道教は儒教および仏教と三つ巴の抗争時代へと入り、それは権力者の目前で論争するという敗れれば存亡に関わる厳しい状況で行われた。そのため充分な理論の形成が必要となった。南朝で形成された「三洞四輔」をさらに深め三洞をそれぞれ12部に分けて充実させた「三十六部尊経」を作り上げた。さらに北周時代には武帝が主導して初期の教理書『無上秘書』が完成した[11]。

また、特に対立した仏教に対する優位性を示すため、老子が西域に渡り釈迦になったという説を西晋の王浮が述べた『老子化胡経』や、仏教の「三界二十八天」を上回る「三界三十六天説」を作り出すなど、教理の拡充と強化を進めた[11]。

これら教理の体系を解説する史書に『隋書』経籍志の道教解説部分がある。不滅の神である元始天尊がおられ、その下で天地は「劫」という41億万年毎に生成と消滅を繰り返す。世界が生成された際、元始天尊は秘道を神仙らを介して人間に授ける。道教を学びたい者は入門すると先ず『五千文録』(『老子道徳経』)の勉強から始め、進捗に応じて『三洞(皇?)籙』(三皇経)、『洞真籙』(霊宝経)、『上清籙』(上清経)が、祭壇を設け星宿を祀る大掛かりな儀式の下で与えられる[11]。

崇道王朝[編集]

隋王朝は、最初の年号「開皇」こそ道教の劫から採り定めたが、基本的には仏教に重きを置いていた[14]。しかし次の唐は、珍しい崇道の王朝であった。高祖李淵と次男李世民は、易姓革命の戦いの中で難局に立った際、現れた白髪の老人に導かれて窮地を脱したと言い、その後も現れては助言を下す老人は李淵の先祖に当たる老子だと名乗ったという言い伝えがある。これは道士の王遠知による演出という説もあるが、唐王朝は老子を宗室の祖と仰ぎ、宮中での道教の席次を仏教の上に置いく道先仏後の態を採った[14]。

唐代の道教重視は科挙に強く反映され、高宗時代には『老子道徳経』が項目に加えられ、玄宗時にはさらに『荘子』『列子』『文子』も加わった[14]。玄宗は司馬承禎から法籙を受け道士皇帝となり、自ら『道徳経』の注釈書を作り、崇玄学(道教の学校)を設置してその試験の合格者は貢挙の及第者と同格とされた(道挙)。

しかし皇帝の面前で三宗が行う論争は続けられた。この頃の仏教は、西域から逐次伝わるさまざまな経典の間に整合性を持たせる必要から系統的な解釈を重ね、教相判釈という中国独自の価値序列を編み出し、思弁性を高めた[14]。これに対抗し論争ができるよう、道教側も時に仏教的な要素も吸収しながら理論の深化を推し進めた。唐の時代を代表する経典『太上一乗海空智蔵経』(『海空経』)や『太玄真一本際経』『大乗妙林経』などには「道性」(「道」を具えた本性)を誰しもが持つと説くが、これは仏教の『涅槃経』が言う「仏性」の概念から導入されている。他にも司馬承禎の『坐忘論』は禅定論の「止観」の影響を受けている。ただしこれらは単純な模倣ではなく、それぞれに老子や荘子らの思想を下敷きに置きながら、思弁性を高めたものである[14]。

唐の特に末期には、金丹が隆盛になった。財力豊富な皇帝たちは練丹にも手を出し、多くの道士を宮廷に招いた。しかしその結果、多くは中毒死に結びつき穆宗・武宗・宣宗が命を落とした。文人などにも流行し、儒者である韓愈も硫黄を服用し亡くなったという[14]。結局は成果を挙げられない金丹は、内丹の興隆もあって唐代を最後に廃れ始めた[14]。

道教の展開[編集]

宋の時代は、中国の大きな転換期であった。五代十国時代の混乱で貴族階級は衰え地主層が台頭、商業や生産技術が活発になり、印刷技術の普及は知識や文化を裕福な庶民層に広げた[15]。

そのような中、道教も民間からの様々なものが持ち込まれた。唐代までの仙人とは、『列仙伝』や『神仙伝』などで語られる存在だったが、宋代には民間から信仰される対象が仙人に列された。その代表が呂洞賓という唐後期から五代に生き弱者や善良な者を助け、道教の布教を行ったと伝わる人物である。彼を中心に様々な人物が八仙と呼ばれて敬われた。他にも、玉皇は真武、関羽(関帝)なども民間信仰に発し、後に王朝が権威を与えた仙人である[15]。

また、金丹が衰え内丹術が隆盛になったのもこの頃である。内丹とは瞑想などを通じて体内の気を練り神(しん、こころ)を通じて体の中に金丹を生み、不老長寿に至る方法論である。これも過去の金丹が莫大な出費を要するのに対し、基本的に身体のみを使う内丹は誰でも取り組める上、出版により手軽に広がった事もある[15]。内丹も当初は2系統があり、ひとつは「気」の修練を重視し肉体的な不老不死を目指す「命宗」と、もうひとつは「神性」の修練に重きを置く「性宗」であり、こちらは禅の思想に近い。この2つの系統ややがて性宗が優勢になり、道教は内面化・精神化の傾向を強めてゆく[15]。

道教の一側面である呪術にも「雷法」という新しい概念が持ち込まれた。雷を天の意思を代行する雷部の神将(雷官)による正義の力と考え、内丹で練った神気を外に向ければ強烈な力を使役できると考えられた[15]。

宗派の形成[編集]

宋代の江南地方では、道士に資格と位を授ける拠点を基礎に、道教の宗派が形成された。これは「経籙三山」と呼ばれる龍虎山(天師道系)、茅山(上清派系)、閤p山(霊宝派系)の3つが過去からの正統をそれぞれ主張しながら権威を誇った。しかしやがて龍虎山が隆盛を誇り、江南全域の総本山となった。その頃には教派名も「正一」が使われ、正一教(正一派)と呼ばれるようになった[16]。

一方、河北は金の領地となり、不安定な政治状態に陥った。女真族の王朝は宗教統制に馴れなかった事もあり、新興の教派が人心を集めた。特に大きな組織となり元代まで続いたのが太一教・真大道教・全真教の3派であった。このうち太一教と真大道教はやがて衰退したが、全真教は七真人と呼ばれた高弟のひとり丘処機がチンギス・カンと会見するなど王朝の後見を受けて勢力を伸ばした[17]。

これら南北2つの派は元代末期には二大宗派となり、明代初期には国家の制度に組み込まれて正一と全真が正当な道教の宗派と定められた[18]。どちらも道観を拠点に道士が宗教活動を行う点で共通するが、出家した道士に戒律を伝授し資格を認める厳しさを持つ全真に対し、正一は符籙を与える制度で地位を与えられた道士には妻帯も許された[18]。その後も小さな派閥が生まれては消えたが、正一と全真を本流とする道教の構造は今に引き継がれている[18]。

現代の道教[編集]

20世紀に入ると道教が拠点とする道観が2つの形態に分かれた。正一教の小規模な子孫派(小道院)となり、住持がおり弟子から後継者を選ぶ形式を持った。全真教は大規模な十方派(十万叢林)という道観を持ち、各地の道士を集め修行を積む場となった[19]。

1957年には全国的な組織である中国道教協会が設立され、社会主義体制内での信仰の自由を保つため、政府への協力を行った[19]。しかし文化大革命の時期には他の宗教同様に攻撃の対象となり、道士は還俗し、多くの道観が破壊された[19]。1980年代になると徐々に宗教活動が認められ、中国道教協会が運動して「全国重点道観」21箇所が国務院宗教事務局から指定されるなど、道教は復興を果たした[19]。

日本における道教[編集]

各地で発掘されている三角縁神獣鏡や道教的呪術文様から、4世紀には流入していたと見られている。6世紀には百済からの仏教に伴い「呪禁師」「遁甲方術」がもたらされ、斉明天皇から天武天皇の治世にかけては、その呪力に期待が寄せられて、支配者層における方術の修得や施設建設も見えている。それに伴う神仙思想も、支配者層において教養的知識レベルに留まらない浸透を見る一方、民衆社会にも流布しており、『日本書紀』『風土記』『万葉集』に見える浦嶋子伝説、羽衣伝説等などの神仙伝説にその痕跡を遺している。だがそれらは担い手組織の核となる道教経典・道士・道観の導入を伴っておらず、体系的な移植には至らず、断片的な知識や俗信仰の受容に留まった。そして天武朝以降、道教の組織的将来の道が政治的に閉ざされると、そうした知識や俗信仰が帯びていた体系的道教思想の痕跡も希薄になっていく[20]。

律令制にも道教に関する役所陰陽寮が設立された。のち、民衆運動や政争に利用され、仙人になるために水銀などの危険薬物を使うため、やがて廃止された。[要出典]道教が日本の文化に受け入れられなかった理由の一つとして、仙人思想が日本文化に確立された天皇制を覆す思想に繋がるという理由で日本人には受け入れることができなかったためである、という説もある。[要出典]。

また、唐王朝が道教の開祖とされた老子の末裔を称しており、唐側より日本に対して道教の受け入れを求めた時に、日本側が(天照大神の子孫とされる)天皇を中心とする支配体制と相いれないものとして拒否したとも言われている[21]。


日本の道教研究をリードし、道教学会を組織した中心は、吉岡義豊・福井康順・窪徳忠・福永光司・宮川尚志・澤田瑞穂等である。

陰陽道[編集]

道教の廃止と共に、それに代わって、陰陽師が道術の要素を取り入れ、日本独自の陰陽道が生まれた。陰陽師としては、平安時代の安倍晴明などが有名である。「天皇」という称号も道教に由来するという説がある(天皇大帝参照。すなわち北極星という意味であるという説)。

修験道[編集]

古神道の一つである神奈備や磐座という山岳信仰と仏教が習合した修験道には、道教、陰陽道などの要素が入っている。

風水[編集]

風水は道教の陰陽五行説を応用したものである。現在でも開運を願って取り入れようとする人がおり、日本や台湾、アジア各国などで盛んであり、特に香港では盛んである。ただ、これは同じく地理的要素を占う陰陽道とは少し異なる。風水では天円地方の思想のうち地方の部分が形骸化しており、地方を天円と同じく重く見る陰陽道とは異なる。この地方という考えは儀式としての相撲における土俵(古来四角であった)に現れていたが、現在ではその特性が失われ、円になっている。

陰陽道の思想は沖縄の首里城、平城京・平安京・長岡京など古代の都の建設や神社の創建にも影響を与えている。四神相応である。

庚申信仰[編集]

易も道教に起源を持つ占術であり[要出典]、街頭で易者を見掛けるなど、日本でも根付いている。日本に伝来し、定着した道教信仰と言えば、庚申信仰である。各地に庚申塔や庚申堂が造られ、庚申講や庚申待ちという組織や風習が定着している。現代でも、庚申堂を中心とした庚申信仰の行われている地域では、軒先に身代わり猿を吊り下げる風習が見られ、一目でそれと分かる。

辛亥、甲子革令、二十四節気などの暦に関することもかなり道教の影響を受けているが、陰陽道と同じく日本独自の思想と習合などがなされている。

日本での道教寺院[編集]

日本での道教寺院は、埼玉県坂戸市の聖天宮や横浜中華街にある横浜媽祖廟などがある。

その他の国における道教[編集]

台湾、朝鮮、越南(ベトナム)など漢字文化圏の国々にも伝わっている。特に台湾では現在も生活の中に息づいている。(「道教の神々」窪 徳忠、講談社学術文庫)なお、民間信仰と道教の区別は難しいとされている。

[icon] この節の加筆が望まれています。

脚注[編集]

1.^ a b c d e 横手(2008)、p.001-008、中国史の中の道教
2.^ 森三樹三郎 『老子・荘子』(講談社学術文庫、1994年)
3.^ a b 横手(2008)、p.009-012、@道家と神僊、老子
4.^ 横手(2008)、p.012-016、@道家と神僊、黄老・老荘・そして道家
5.^ a b 横手(2008)、p.026-028、A宗教的信仰集団と経典の形成、黄老信仰
6.^ a b c 横手(2008)、p.016-019、@道家と神僊、方技と神僊
7.^ 横手(2008)、p.020-022、@道家と神僊、さまざまなか神仙術
8.^ a b 福永光司、『道教思想史研究』、岩波書店、1987年
9.^ a b c 横手(2008)、p.022-025、@道家と神僊、鬼神信仰と符の源流
10.^ a b c d 横手(2008)、p.028-031、A宗教的信仰集団と経典の形成、五斗米道と天師道
11.^ a b c d e f g 横手(2008)、p.040-045、B道教教理の大成、教理の統合
12.^ a b c d e 横手(2008)、p.032-035、A宗教的信仰集団と経典の形成、上清経・霊宝経・三皇経の形成
13.^ a b c 横手(2008)、p.035-039、A宗教的信仰集団と経典の形成、金丹精錬の法
14.^ a b c d e f g 横手(2008)、p.045-050、B道教教理の大成、隋から唐へ
15.^ a b c d e 横手(2008)、p.057-064、C宋代以降の展開、道教の内容的変化
16.^ 横手(2008)、p.064-068、C宋代以降の展開、江南の経籙三山
17.^ 横手(2008)、p.068-072、C宋代以降の展開、河北の新興道教と全真教
18.^ a b c 横手(2008)、p.072-078、C宋代以降の展開、明代以降のあり方
19.^ a b c d 横手(2008)、p.079-083、D現代の道教、解放前と文革後の主要道教
20.^ 概説日本思想史 編集委員代表 佐藤弘夫
21.^ 榎本淳一「遣唐使と通訳」(『唐王朝と古代日本』、吉川弘文館、2008年(ISBN 978-4-642-02469-3 原論文:2005年))

参考文献[編集]
窪徳忠 『中国の宗教改革:全真教の成立』((アジアの宗教文化.2)、法蔵館、1967年)
窪徳忠 『道教史』(世界宗教史叢書.9:山川出版社、1977年) ISBN 4-634-43090-8
窪徳忠 『道教の神々』(平河出版社、1986年) ISBN 4-89203-098-8
福永光司 『道教と日本文化』(人文書院、1982年) ISBN 4-409-41021-0
福永光司 『道教と古代日本』(人文書院、1987年) ISBN 4-409-41036-9
福井康順他監修 『道教 第1.2.3巻』(平河出版社、1983年) ISBN 4-89203-056-2 , ISBN 4-89203-057-0 , ISBN 4-89203-058-9
秋月観暎編 『道教研究のすすめ:その現状と問題点を考える』(平河出版社、1986年) ISBN 4-89203-120-8
野口鐵郎他編 『道教事典』(平河出版社、1994年) ISBN 4-89203-235-2
アンリ・マスペロ 『道教』(平凡社東洋文庫/平凡社ライブラリー、2000年) ISBN 4-582-76321-9
松本浩一 『中国人の宗教・道教とは何か』(PHP研究所、2006年) ISBN 4-569-65771-0
菊地章太 『儒教・仏教・道教:東アジアの思想空間』(講談社選書メチエ、2008年) ISBN 978-4-06-258428-9
齋藤龍一・鈴木健郎・土屋昌明 共編 『道教美術の可能性』 (『アジア遊学』133、勉誠出版、2010年) ISBN 978-4-585-10430-8
横手裕 『中国道教の展開』 山川出版社〈世界史リブレット 96〉、2008年。ISBN 978-4-634-34934-6。

関連項目[編集]

老荘思想
道蔵
五岳
トキポナ
キョンシー
錬丹術
太極図
天皇大帝、玉皇大帝
中国の仏教
易学
呪禁
道教用語一覧
李氏朝鮮の学問#道教
道徳
歴史学
道教神の一覧

老荘思想

老荘思想(ろうそうしそう)は中国で生まれた思想。道家の大家である老子と荘子を合わせてこう呼ぶ。道家の中心思想としてとりわけ魏晋南北朝時代に取りあげられた。

老荘思想が最上の物とするのは「道」である。道は天と同義で使われる場合もあり、また天よりも上位にある物として使われる場合もある。「道」には様々な解釈があり、道家の名は「道」に基づく。

『老子』『荘子』『周易』は三玄と呼ばれ、これをもとにした学問は玄学と呼ばれた。玄学は魏の王弼・何晏、西晋の郭象らが創始した。



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1 歴史
2 道教との関係
3 関連項目
4 外部リンク


歴史[編集]

老荘思想は老子から始まるが、老子はその生涯があまり良く解っておらず、実在しなかったという説もある。

老荘の名以前に黄老(こうろう)があり、戦国時代から漢初に流行した。

老子と荘子がまとめてあつかわれるようになったのは、前漢の紀元前139年に成書された百科的思想書の『淮南子』(えなんじ)に初めて見え、魏晋南北朝時代のころの玄学において『易経』『老子』『荘子』があわせて学ばれるようになってからであろう。 老荘思想は道家思想とほぼ同義に用いられるが、これは前漢のころには信頼できる道家の書物が、老子と荘子くらいしか残っていなかったためである。

儒教が国教となってからも老荘思想は中国の人々の精神の影に潜み、儒教のモラルに疲れた時、人々は老荘を思い出した。特に魏晋南北朝時代においては政争が激しくなり、高級官僚が身を保つのは非常に困難であった。このため、積極的に政治に関わることを基本とする儒教よりも、世俗から身を引くことで保身を図る老荘思想が広く高級官僚(貴族)層に受け入れられた。加えて仏教の影響もあり、老荘思想に基づいて哲学的問答を交わす清談が南朝の貴族の間で流行した。清談は魏の正始の音に始まり、西晋から東晋の竹林の七賢(嵆康、阮籍、山濤、向秀、劉伶、阮咸、王戎)が有名である。ただし、竹林の七賢が集団として活動した記録はない。

老荘思想は仏教とくに禅宗に接近し、また儒教(朱子学)にも影響を与えた。

道教との関係[編集]

フランスの中国学者アンリ・マスペロ(東洋文庫『道教』の著者)によれば、老荘思想と道教は連続的な性質を持っているとする。しかし日本の研究者の間では、哲学としての老荘思想と道教はあまり関係がないという説が一般的である。

道教に老荘思想が取り込まれ、また変化している。一般に老荘思想はものの生滅について「生死は表層的変化の一つに過ぎない」と言う立場を取るとされる。不老長寿の仙人が道教において理想とされることは、老荘思想と矛盾しているように見える。しかし、道教の思想において両者は矛盾するものではないとされている。

日本に於いてだけでも、時代に依って道教と老荘思想の意味・関係は変化しつづけたが、それは道教研究のここ百年での深まりと、老子・荘子各々を把握解釈する者の営為に依存している。

関連項目[編集]

名家 (諸子百家

名家(めいか)は、諸子百家の1つである。中国の戦国時代を中心として、一種の論理学を説いた。



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1 概要
2 参考文献
3 関連項目
4 外部リンク


概要[編集]

この学派の代表的な思想家として、公孫龍や恵施が挙げられる。漢書芸文志によれば、名家は七家三十六篇あった。そこにはケ析(とうせき)、尹文子(いんぶんし)、公孫龍子、成公生、恵子(恵施)、黄公、毛公の名が見える。書物としてはこのうち『公孫龍子』だけが現存する。これは、今に残されたほとんど唯一のまとまった著作であるが、十四篇あったうち、現在手にすることのできるテキストは六篇しかない。残っている六篇は[跡府篇][指物論][堅白論][白馬論][通変論][名実論]である。公孫龍は、人間には五官を経由しない超越的認識能力が存在しない以上、自己が獲得した知覚がいかなる位相に属するかを精密に弁別し、位相を異にする認識の混同を避けていく以外に、残された道はないと訴える。ケ析は疑書。『恵施』は失われたが、その論理は『荘子・天下篇』にわずかに見ることができる。その末流は往々にして詭弁に陥り、とくに公孫龍が唱えた「白馬非馬」(白馬は馬に非ず-白馬は『白馬』であって『馬』ではない)は後世、詭弁の代名詞にもなった。また、天下編には恵施が唱えた十箇の命題が載っている。その代表的なものとして「至大無外」(本当に大きな物には外がないの意)「至小無内」(本当に小さな物には内がないの意)という考え方がある。

名家の論理の中に「飛ぶ鳥の影は動かない」というものがある。これはゼノンのパラドックスに相当するものと考えられる。また、詭弁とみなされる論理の中にも、ものの存在とその本質を分離するという意味でイデア論に発展する可能性があるものもあった。しかしそれらは、ギリシアのように体系的な哲学として発展することはなく、弁論の訓練として使われるだけに終わった。

参考文献[編集]
浅野裕一 『諸子百家』 講談社〈講談社学術文庫〉、2004年。ISBN 4-06-159684-5。

法家

法家(ほうか)は中国の戦国時代の諸子百家の一つ。徳治主義を説く儒家と異なり、法治主義を説いた。

法家とは儒家の述べる徳治のような信賞の基準が為政者の恣意であるような統治ではなく、厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという立場である。秦の孝公に仕えた商鞅や韓の王族の韓非がよく知られている。商鞅は戦国の七雄に数えられた秦に仕え、郡県制に見られるような法家思想に立脚した中央集権的な統治体制を整え、秦の大国化に貢献した。韓非は性悪説に基いた信賞必罰の徹底と法と術(いわば臣下のコントロール術)と用いた国家運営(法術思想)を説いた。また、韓非は矛盾や守株といった説話を用いて儒家を批判したことでも知られている。中国統一を果たした始皇帝も、宰相として李斯を登用して法家思想による統治を実施した。

ただし、秦において法が厳格過ぎたエピソードとして以下のものがある。
新法の改革をした商鞅は反商鞅派によって王に讒訴されて謀反の罪を着せられた際には、都から逃亡して途中で宿に泊まろうとしたが、宿の亭主は商鞅である事を知らず「商鞅さまの厳命により、旅券を持たないお方はお泊めてしてはいけない法律という事になっております。」と断られた(商鞅は逃亡の末、秦に殺害された)。
燕の使者である荊軻が隠していた匕首で秦王の政(後の始皇帝)を殿上で暗殺しようとした際には、秦王は慌てて腰の剣が抜けない中で匕首を持った荊軻に追い回されていたが、臣下は秦王の殿上に武器を持って上がることは法により禁じられていたため対応に難儀した(最終的に秦王が腰の剣を抜いて、荊軻を斬り殺した)。
辺境守備のために徴発された農民兵900名は天候悪化のために期日までの到着が見込めなかったが、いかなる理由があろうとも期日までに到着しなければ斬首であったと史記に書かれている(これが秦を滅ぼす戦乱のきっかけとなる陳勝・呉広の乱の要因となった)。

但し法治思想は表立っては掲げないものの、秦が滅びた後の漢王朝や歴代王朝に受け継がれていった。 1975年に『睡虎地秦簡』・2002年に『里耶秦簡』が発見されたが研究途上である。

主な法家の人物[編集]
管仲
子産
呉起
商鞅
申不害
慎到
処子(劇辛?)
韓非
李斯

墨家

墨家(ぼくか、ぼっか)は、中国戦国時代に墨子によって興った思想家集団であり、諸子百家の一つ。博愛主義(兼愛交利)を説き、またその独特の思想に基づいて、武装防御集団として各地の守城戦で活躍した。墨家の思想は、都市の下層技術者集団の連帯を背景にして生まれたものだといわれる。代表的な思想家に、墨翟(墨子)がいる。

戦国時代に儒家と並び最大勢力となって隆盛したが、秦の中国統一ののち勢威が衰え消滅した。



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1 基本思想(墨家十論)
2 組織 2.1 歴代鉅子

3 参考文献
4 外部リンク


基本思想(墨家十論)[編集]

以下が『墨子』における墨家の十大主張である。全体として儒家に対抗する主張が多い。また実用主義的であり、秩序の安定や労働・節約を通じて人民の救済と国家経済の強化をめざす方向が強い。また全体的な論の展開方法として比喩や反復を多様しており、一般民衆に理解されやすい主張展開が行なわれている。この点、他の学派と異なった特色を有する。特に兼愛、非攻の思想は諸子百家においてとりわけ稀有な思想である。
兼愛兼(ひろ)く愛する、の意。全ての人を公平に隔たり無く愛せよという教え。儒家の愛は家族や長たる者のみを強調する「偏愛」であるとして排撃した。非攻当時の戦争による社会の衰退や殺戮などの悲惨さを非難し、他国への侵攻を否定する教え。ただし防衛のための戦争は否定しない。このため墨家は土木、冶金といった工学技術と優れた人間観察という二面より守城のための技術を磨き、他国に侵攻された城の防衛に自ら参加して成果を挙げた。尚賢貴賎を問わず賢者を登用すること。「官無常貴而民無終賤(官に常貴無く、民に終賤無し)」と主張し、平等主義的色彩が強い。尚同賢者の考えに天子から庶民までの社会全体が従い、価値基準を一つにして社会の秩序を守り社会を繁栄させること。節用無駄をなくし、物事に費やす金銭を節約せよという教え。節葬葬礼を簡素にし、祭礼にかかる浪費を防ぐこと。儒家のような祭礼重視の考えとは対立する。非命人々を無気力にする宿命論を否定する。人は努力して働けば自分や社会の運命を変えられると説く。非楽人々を悦楽にふけらせ、労働から遠ざける舞楽は否定すべきであること。楽を重視する儒家とは対立する。天志上帝(天)を絶対者として設定し、天の意思は人々が正義をなすことだとし、天意にそむく憎み合いや争いを抑制する。明鬼善悪に応じて人々に賞罰を与える鬼神の存在を主張し、争いなど悪い行いを抑制する。鬼神について語ろうとしなかった儒家とは対立する。
組織[編集]

墨家集団は鉅子(きょし)と尊称された指導者の下、強固な結束で結ばれていた。その証左として『呂氏春秋』の記述によれば、楚において、守備していた城が落城した責任をとって鉅子の孟勝以下、墨者400人が集団自決したという。城から脱出して孟勝の死と鉅子の引継ぎを田襄子に伝えにいった使者の墨者二人も、楚に戻って後追い自殺したという。このような強固な結束と明鬼編の存在から、墨家集団は宗教集団的色彩をも帯びていたであろうと思われる。

歴代鉅子[編集]

墨子、呂氏春秋等に散見される鉅子の名前は以下の通り。(なお、末期の墨家は三墨、別墨と称されて分裂しており(韓非子参照)、末期墨家の鉅子についての詳細は分かっていない)
1.墨子…初代
2.禽滑麓(きんかつり)…二代目
3.孟勝…三代目
4.田襄子…四代目

以下不詳

参考文献[編集]
浅野裕一『墨子』講談社学術文庫、1998年。

儒教

儒教(じゅきょう、英語:Confucianism)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。



目次 [非表示]
1 概要
2 教典 2.1 四書と宋明理學

3 礼儀 3.1 冠服制度

4 教義
5 起源
6 孔子とその時代
7 孔子以後の中国における歴史 7.1 秦代
7.2 漢代
7.3 古文学と今文学
7.4 三国時代・晋代 7.4.1 玄学

7.5 南北朝時代・南学と北学
7.6 隋代
7.7 唐代
7.8 宋代 7.8.1 道統論
7.8.2 新学
7.8.3 天論
7.8.4 南宋時代
7.8.5 朱熹
7.8.6 道学

7.9 元代
7.10 明代 7.10.1 王陽明
7.10.2 東林学派
7.10.3 朱元璋の六諭

7.11 清代 7.11.1 考証学

7.12 近代 7.12.1 孔教運動

7.13 現代 7.13.1 新文化運動

7.14 中華人民共和国時代 7.14.1 再評価と「儒教社会主義」


8 朝鮮における儒教
9 日本における儒教
10 儒学者一覧
11 儒教研究上の論争
12 その他の学説
13 孔子廟
14 文献 14.1 史書

15 脚注
16 関連項目
17 外部リンク


概要[編集]

東周春秋時代、魯の孔子によって体系化され、堯・舜、文武周公の古えの君子の政治を理想の時代として祖述し、[1]周礼を保存する使命を背負った、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。その教団は諸子百家の一家となって儒家となり、(支配者の)徳による王道で天下を治めるべきであり、同時代の(支配者の)武力による覇道を批判し、事実、その様に歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。その儒教が漢代、国家の教学として認定された事によって成立した。儒教は、宋代以前の「五経」を聖典としていた時代である。宋代以降に朱子学によって国家的規模での宋明理学体系に纏め上げられていた。宋明理学の特徴は簡潔に述べるならば、「修己治人」あるいは、『大学』にある「修身、斉家、治国、平天下」であり、「経世済民」の教えである。

儒教を自らの行為規範にしようと、儒教を学んだり、研究したりする人のことを儒学者、儒者、儒生と呼ぶ[2]。

教典[編集]

儒教の経典は易・書・詩・礼・楽・春秋の六芸(六経)である。

春秋時代になり、詩・書・春秋の三経の上に、礼・楽の二経が加わり、五経になったといわれる。

詩・書・禮・樂の四教については「春秋はヘうるに禮樂を以てし、冬夏はヘうるに詩書を以てす」、『禮記・王制』における「王制に曰く、樂正、四術を崇び四ヘを立つ。先王の詩・書・禮・樂に順いて以て士を造[な]す」という記述がある。

孔子は老聃に次のようにいったとされる。孔子は詩書礼楽の四教で弟子を教えたが、三千人の弟子の中で六芸に通じたのは72人のみであった[3]。

武帝の時、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正统の学問として五経博士を設置することを献策した。靈帝の時、諸儒を集めて五経の文字を校訂、太学の門外に石経を立て、熹平石経は183年(光和6年)に完成し、『易経』『儀礼』『尚書』『春秋』『公羊』『魯詩』『論語』の七経からなった。








注疏

易経 周易正義
尚書 尚書孔安伝 尚書正義
詩経 毛詩 毛詩正義
楽経
儀礼 礼記 儀礼注疏、礼記注疏
周礼 周礼注疏
春秋 春秋公羊伝 春秋公羊伝注疏
春秋左氏伝 春秋左伝注疏
春秋穀梁伝 春秋穀梁伝注疏
論語 論語注疏
孝経 孝経注疏
孟子 孟子注疏
爾雅 爾雅注疏

四書と宋明理學[編集]

宋代に朱熹が「礼記」のうち2篇を「大学」「中庸」として独立させ、「論語」、「孟子」に並ぶ「四書」の中に取りいれた。「学問は、必ず「大學」を先とし、次に「論語」、次に「孟子」次に「中庸」を学ぶ」。

朱熹は、「『大學』の内容は順序・次第があり纏まっていて理解し易いのに対し、『論語』は充実しているが纏りが無く最初に読むのは難しい。『孟子』は人心を感激・発奮させるが教えとしては孔子から抜きん出ておらず、『中庸』は読みにくいので3書を読んでからにすると良い」と説く[4]。

礼儀[編集]

子日く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る。孔子曰く、禮に非ざれば視ること勿かれ、禮に非ざれば聽くこと勿かれ、 禮に非ざれば言うこと勿かれ、禮に非ざれば動くこと勿かれ。周礼は五礼て、つまり吉礼、兇礼、賓礼、軍礼、嘉礼です。吉礼によつて国家の天神、祖霊、地神を祭り、兇礼によつて国家の苦難を哀憚し、救う。賓礼によつて周玉室と他国あるいは国家間を友好親箸たらしめ、軍礼によつて国家同士を脇調させ、嘉礼によつて万民を互いに和合する。[5]五礼のうち、とくに吉礼(祭祀)、兇礼(喪葬〕、嘉礼(冠婚)などを中心として取り上げ、殷周信仰や古来の習俗。


周礼

解説

名系

吉礼 天地鬼神の祭祀(邦国の鬼神につかえる) 郊祀、大雩、朝日、夕月、祓禊
兇礼 葬儀・災害救済(邦国の憂いを哀れむ) 既夕礼、虞礼
賓礼 外交(邦国に親しむ) 相见礼、燕礼、公食大夫禮、觐礼
軍礼 出陣・凱旋(邦国を同じくする) 大射、大傩
嘉礼 冠婚・饗宴・祝賀(万民に親しむ) 饮食之礼,婚冠之礼,宾射之礼,飨燕之礼,脤膰之礼,贺庆之礼

冠服制度[編集]

「顔淵、邦を為めんことを問う。子曰く、夏の時を行ない、殷の輅に乗り、周の冕を服す。」[6]孔子が、伝説の聖王・禹に衣服を悪しくして美を黻冕に致しついて褒め称えている部分である。[7]周の冕は衣裳です。易経に、黄帝堯舜衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸を乾坤に取る。[8]乾は天、坤は地で、乾坤は天地の間、人の住む所の意がある。『周易』坤卦に「天は玄にして地は黄」とある。天の色は赤黒(玄)く、地の色は黄色く。だから、冕服(袞衣)の衣は玄にして裳は黄。待った、『尚書』に虞皇の衣服のぬいとりにした文様を言う。 日 月 星辰 山 龍 華虫 宗彜 藻 火 粉末 黼 黻の十二である。それは『輿服制』の始まりです。冠服制度は“礼制”に取り入れられ、儀礼の表現形式として中国の衣冠服制度は更に複雑になっていった。衛宏『漢旧儀』や応劭『漢官儀』をはじめとして、『白虎通義』衣裳篇、『釈名』釈衣服、『独断』巻下、『孔子家語』冠頌、『続漢書』輿服志などの中に、漢代の衣服一般に関する制度が記録されているが、それらはもっぱら公卿・百官の車駕や冠冕を中心としたそれである。すなわち『儀礼』士冠礼・喪服など、また『周礼』天宮司裳・春宮司服など、さらに『礼記』冠儀・昏儀などの各篇に、周代の服装に関する制度である。

教義[編集]

儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える。

儒教の考えには本来、男尊女卑の概念は存在していなかった。しかし、唐代以降、儒教に於ける男尊女卑の傾向がかなり強く見られるのも事実である。これは「夫に妻は身を以って尽くす義務がある」と言う思想(五倫関係の維持)を強調し続けた結果、と現在では看做されており、儒教を男女同権思想と見るか男尊女卑思想と見るかの論争も度々行われるようになっている。
仁人を思い遣る事。孔子以前には、「佞る事」という意味では使われていた。[要出典]白川静『孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者の頼もしさをいう語」。「説文解字」は「親」に通じると述べている。「論語」の中では、さまざまな説明がなされている。孔子は仁を最高の徳目としていた。義利欲に囚われず、すべきことをすること。(語源的には宜に通じる)礼仁を具体的な行動として、表したもの。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。智学問に励む信言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。
起源[編集]

儒(じゅ)の起源については、胡適が「殷の遺民で礼を教える士」[9]として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。

東洋学者の白川静は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムおよび死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子とした[10]。

孔子とその時代[編集]

詳細は「孔子」を参照

春秋時代の周末に孔丘(孔子、紀元前551年‐紀元前479年)は魯国に生まれた。当時は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった。周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて孔子教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

孔子の弟子は3500人おり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[11]。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。

孔子以後の中国における歴史[編集]

秦代[編集]

秦の始皇帝が六国を併せて中国を統一すると、法家思想を尊んでそれ以外の自由な思想活動を禁止し、焚書坑儒を起こした。ただし、博士官が保存する書物は除かれたとあるので、儒家の経書が全く滅びたというわけではなく、楚漢の戦火を経ながらも、漢に伝えられた。また、焚書坑儒以降にも秦に仕えていた儒者もおり、例えば叔孫通は最初秦に仕えていたが、後に漢に従ってその礼制を整えている。

漢代[編集]
前漢
漢に再び中国は統一されたが、漢初に流行した思想・学術は道家系の黄老刑名の学であった。そのなかにあって叔孫通が漢の宮廷儀礼を定め、陸賈が南越王を朝貢させ、伏生が『今文尚書』を伝えるなど、秦の博士官であった儒者たちが活躍した。文帝のもとでは賈誼が活躍した。武帝の時、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正統の学問として五経博士を設置することを献策した。武帝はこの献策をいれ、建元5年(紀元前136年)、五経博士を設けた。従来の通説では、このことによって儒教が国教となったとしていたが、現在の研究では儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは前漢末から後漢初にかけてとするのが一般的である。ともかく五経博士が設置されたことで、儒家の経書が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占めるようになり、丞相など儒者が独占する状態になる。

前漢の経学は一経専門であり、流派を重んじて、師から伝えられる家法を守り、一字一句も変更することがなかった(章句の学)。宣帝の時には経文の異同や経説の違いを論議する石渠閣会議が開かれている。この会議で『春秋』では公羊家に対して穀梁家が優位に立った。

董仲舒ら公羊家は陰陽五行思想を取り入れて天人相関の災異説を説いた。前漢末には揚雄が現れ、儒教顕彰のために『易経』を模した『太玄』や『論語』を模した『法言』を著作している。
後漢
前漢末から災異思想などによって、神秘主義的に経書を解釈した緯書が現れた(「経」には機織りの「たていと」、「緯」は「よこいと」の意味がある)。 緯書は六経に孝経を足した七経に対して七緯が整理され、予言書である讖書や図讖(としん)と合わせて讖緯といい、前漢末から後漢にかけて流行した。新の王莽も後漢の光武帝も盛んに讖緯を利用している。一方で、桓譚や王充といった思想家は無神論を唱え、その合理主義的な立場から讖緯を非難している。

古文学と今文学[編集]

前漢から五経博士たちが使っていた五経の写本は、漢代通行の隷書体に書き写されていて今文経といわれる。これに対して、古文経と呼ばれる孔子旧宅の壁中や民間から秦以前のテキストが、発見されていた。前漢末、劉歆が古文経を学官に立てようとして、今文経学との学派争いを引き起こしている。平帝の時には『春秋左氏伝』『逸礼』『毛詩』『古文尚書』が、新朝では『周官』が学官に立てられた。後漢になると、古文経が学官に立てられることはなかったものの、民間において経伝の訓詁解釈学を発展させて力をつけていった。章帝の時に今文経の写本の異同を論じる白虎観会議が開かれたが、この中で古文学は攻撃に晒されながらも、その解釈がいくらか採用されている。この会議の記録は班固によって『白虎通義』にまとめられた。

古文学は、今文学が一経専門で家法を頑なに遵守したのに対して、六経すべてを兼修し、ときには今文学など他学派の学説をとりいれつつ、経書を総合的に解釈することを目指した。賈逵は『左氏伝』を讖緯と結びつけて漢王朝受命を説明する書だと顕彰した。その弟子、許慎は『説文解字』を著して今文による文字解釈の妥当性を否定し、古文学の発展に大きく寄与している。馬融は経学を総合して今古文を折衷する方向性を打ち出した。その弟子、鄭玄は三礼注を中心に五経全体に矛盾なく貫通する理論を構築し、漢代経学を集大成した。

今文学のほうでは古文学説の弱点を研究して反駁を行った。李育は『難左氏義』によって左氏学を批判し、白虎観会議に参加して賈逵を攻撃した。何休は博学をもって『公羊伝』に注を作り、『春秋公羊解詁』にまとめた。『公羊墨守』を著作して公羊学を顕彰するとともに、『左氏膏肓』を著作して左氏学を攻撃した。一方で『周礼』を「六国陰謀の書」として斥けている。何休は鄭玄によって論駁され、以後、今文学に大師が出ることもなく、今文学は古文学に押されて衰退していった。

三国時代・晋代[編集]

魏に入ると、王粛が鄭玄を反駁してほぼ全経に注を作り、その経注の殆どが魏の学官に立てられた。王粛は『孔子家語』を偽作したことでも知られる。西晋では杜預が『春秋左氏伝』に注して『春秋経伝集解』を作り、独自の春秋義例を作って左伝に基づく春秋学を完成させた。『春秋穀梁伝』には范寧が注を作っている。

玄学[編集]

この時代に隆盛した学問は老荘思想と『易』に基づく玄学であるが、玄学の側からも儒教の経書に注を作るものが現れ、王弼は費氏易に注して『周易注』を作り、何晏は『論語集解』を作った(正始の音)。呉には今文孟氏易を伝えた虞翻、『国語注』を遺した韋昭がいる。西晋末には永嘉の乱が起こり、これによって今文経学の多くの伝承が途絶えた。東晋になると、永嘉の乱で亡佚していた『古文尚書』に対して梅賾が孔安国伝が付された『古文尚書』58篇なるものを奏上したが、清の閻若璩によって偽作であることが証明されている(偽古文尚書・偽孔伝という)。この偽孔伝が鄭玄注と並んで学官に立てられた。

南北朝時代・南学と北学[編集]

南北朝時代、南朝の儒学を南学、北朝の儒学を北学という。南朝ではあまり儒教は振るわなかったが、梁の武帝の時には五経博士が置かれ、一時儒教が盛んになった。

南学では魏晋の学風が踏襲され、『毛詩』「三礼」の鄭玄注以外に、『周易』は王弼注、『尚書』は偽孔伝、『春秋』は杜預注が尊ばれた。あまり家法に拘ることもなく、玄学や仏教理論も取り込んだ思想が行われた。この時代、仏教の経典解釈学である義疏の学の影響を受けて、儒教の経書にも義疏が作られはじめた。ただし、儒教では漢魏の注についてさらに注釈を施すといった訓詁学的なものを「疏」と呼ぶようになっていった。梁の費甝(ひかん、「かん」は虎+甘)の『尚書義疏』や皇侃の『論語義疏』があるが、『尚書義疏』は北方に伝わって北学でも取りあげられ、唐の『尚書正義』のもとになり、『論語義疏』は亡佚することなく現在まで伝えられている。

北朝でも仏教・玄学が流行したが、わりあい儒教が盛んであり、特に北周ではその国名が示すとおり周王朝を理想として儒教を顕彰し、仏教を抑制した。北朝では後漢の古文学が行われ、『周易』・『尚書』・『毛詩』「三礼」は鄭玄注、『春秋左氏伝』は後漢の服虔の注、『春秋公羊伝』は後漢の何休の注が尊ばれた。その学風は保守的で旧説を覆すことなく章句訓詁の学を墨守した。北魏には徐遵明がおり、劉献之の『毛詩』を除く経学はすべて彼の門下から出た。その門下に北周の熊安生がおり、とりわけ三礼に通じて『礼記義疏』などの著作がある。熊安生の門下からは隋の二大学者である劉焯・劉Rが出た。

隋代[編集]

北朝系の隋が中国を統一したので、隋初の儒学は北学中心であったが、煬帝の時、劉焯・劉Rの二劉が出、費甝の『尚書義疏』を取りあげたり、南学系の注に義疏を作ったりして南北の儒学を総合した。劉焯の『五経述義』、劉Rの『春秋述義』『尚書述義』『毛詩述義』は唐の『五経正義』の底本となった。在野の学者に王通(文中子)がいる。彼は自らを周公から孔子への学統を継ぐものと自認し、六経の続編という「続経」を作った。偽作・潤色説もあるが『論語』に擬した『中説』が現存している。唐末、孔孟道統論が起こる中で再評価され韓愈の先駆者として位置づけられた。その儒仏道三教帰一の立場、みずからを儒教の作り手である聖人とする立場がのちの宋学に影響を与えた。

隋の文帝は初めて科挙を行い、従来の貴族の子弟が官吏となる体制から、試験によって官吏が選ばれるようになった。これにより、儒学者がその知識をもって官吏となる道が広がったのである。

唐代[編集]

唐が中国を再統一すると、隋の二劉が示した南北儒学統一の流れを国家事業として推し進めた。隋末混乱期に散佚した経書を収集・校定し、貞観7年(633年)には顔師古が五経を校定した『五経定本』が頒布された。さらに貞観14年(640年)には孔穎達を責任者として五経の注疏をまとめた『五経正義』が撰定された(二度の改訂を経て永徽4年(653年)に完成)。永徽年間には賈公彦に『周礼疏』『儀礼疏』を選定させている。これにより七経の正義が出そろい、漢唐訓詁学の成果はここに極まった。

こうして正義が確定される一方、中唐(8世紀中葉)になると注疏批判の動きが生じた。『春秋』では啖助・趙匡・陸淳が春秋三伝は『春秋』を注するものではないと懐疑を述べ、特に『左伝』を排斥した。『周易』では李鼎祚が王弼注の義理易に反対して鄭玄を始めとする漢代象数易を伝えた。『詩経』では韓愈撰と仮託される「詩之序議」が「詩序」の子夏制作を否定している。

唐代は一概に仏教隆盛の時代であったが、その中にあって儒教回帰を唱えたのが、韓愈や李翺たちである。韓愈は著書『原道』で、尭舜から孔子・孟子まで絶えることなく伝授された仁義の「道」こそ仏教・道教の道に取って代わられるべきものだと主張している。李翺は『復性書』において「性」は本来的に善であり、その性に復することで聖人になれるとした。その復性の教えは孔子から伝えられて子思が『中庸』47篇にまとめ、孟子に伝えられたが、秦の焚書坑儒によって失われ、道教・仏教が隆盛するにいたったのだと主張している。彼らの「道」の伝授に関する系統論は宋代の道統論の先駆けとなった。彼らは文学史上、古文復興運動の担い手であるが、古文運動家のいわゆる「文」とは「載道」(道を載せる)の道具であり、文章の字面ではなく、そこに込められた道徳的な精神こそが重要であるとして経文の一字一句にこだわる注疏の学をも批判した。このことが宋代の新しい経学を生む要因の一つとなった。

宋代[編集]
北宋
宋ははじめ唐を継承することを目指しており、儒学においても注疏の学が行われた。聶崇義の『三礼図』、邢昺・孫奭らの『孝経疏』『論語疏』『爾雅疏』がある。南宋になると、漢唐の注疏にこの三疏と『孟子疏』が加えられて『十三経注疏』がまとめられた。

道統論[編集]

しかし、宋の天下が安定した仁宗期になると、唐末の古文復興運動が共感され、漢唐時代は否定されるようになった。漢唐時代には細々と伝承されてきたとする孔子の道に対する系譜が作られ、自己をその最後に置く道統論が盛んになった。例えば、古文家の柳開は「孔子 - 孟子 - 荀子 - 揚雄 - 韓愈」の系譜を提出し、石介はこれに隋の王通を加えた。ここに孟子の再評価の動きが起こった。宋初、孟子を評価するものは少なく宋代前期の激しい議論を経てその評価が確定された。王安石は科挙改革で従来の『孝経』『爾雅』に代わって『孟子』を挙げ、南宋になると孫奭撰と仮託されて『孟子注疏』が編まれている。人性論としても伝統的な性三品説から性善説が主張されるようになっていく。逆に性悪説の荀子や性善悪混説の揚雄は評価の対象から外されていった。

漢唐訓詁学の語義のみを重視する解釈学を批判し、その中身である道徳精神を重視する学問が打ち出された。胡瑗・孫復・石介は「仁義礼楽を以て学と為」し、後に欧陽脩によって宋初三先生と称されている。

新学[編集]

神宗期になると、このような前人の主張を総合し、体系的な学問が新たに創始された。その代表が王安石の新学である。王安石は『周礼』『詩経』『書経』に注釈を施して『三経新義』を作り、さらに新学に属する学者たちが他の経書にも注を作った。これら新注は学校に頒布されて科挙の国定教科書となり、宋代を通じて広く読まれた。王安石は特に『周官新義』を重んじ、『周礼』に基づく中央集権国家の樹立を目指し、さまざまな新法を実施した。新学に異議を唱えたものに程・程頤らの洛学(道学)、蘇軾・蘇轍らの蜀学、張載らの関学があった。12世紀を通じてこれらの学派は激しく対立したが、南宋になると、新学優位から次第に道学優位へと傾いていった。

天論[編集]

この時代、「天」をめぐる考え方に大きな変化が現れた。それまでの天は人格的であり意志を持って人に賞罰を下すとされたが、宋代以降、天は意志をもたない自然的なものであり、天と人とを貫く法則にただ理があるとされた。その先鞭をつけたのは中唐の柳宗元の「天説」・劉禹錫の『天論』であり、北宋においては欧陽脩の『新唐書』五行志・王安石の『洪範伝』・程頤の『春秋伝』などに見られる。程頤の理・程の天理は後の朱熹に影響を与えた。このような天観の変化によって『易経』を中心として新しい宇宙生成論が展開された。邵雍は「先天図」を作って「数」で宇宙生成を説明し、周敦頤は「太極図」に基づいて『太極図説』を著し、「無極→太極→陰陽→五行→万物化生」の宇宙生成論を唱えた(朱熹は無極=太極と読み替えた)。また張載は「太虚即気」説を唱え、世界の存在を気が離散して流動性の高いあり方を「太虚」、気が凝固停滞してできているものを「万物」とした。この気には単なる宇宙論にとどまらず道徳的な「性」が備わっており、「太虚」の状態の性を「天地の性」として本来的な優れたものとし、「万物」の状態の性を「気質の性」として劣化したものとした。こういった唐宋変革期のパラダイムシフトは南宋になると体系的な思想として総合され、朱子学が形成されることになる。

南宋時代[編集]

宋朝は北方を金に占領され、南渡することになった。この時代、在朝在野を問わず新学と洛学が激しく争った。南宋初、程頤の直弟子である楊時は北宋亡国の責任は王安石の新学にあるとして科挙に王安石の解釈を用いるべきではないと高宗に進言し、『三経義辯』を著して『三経新義』を批判した。程頤に私淑した胡安国は『春秋』に注して『胡氏春秋伝』を著し、『周礼』に基づく新学を批判した。謝良佐の弟子である朱震は邵雍の『皇極経世書』、周敦頤の『通書』といった象数易と『程氏易伝』や張載の『正蒙』といった義理易を総合して『漢上易伝』を著し、王安石や蘇軾の易学に対抗した。新学を重んじた重鎮秦檜の死後、高宗によって新学の地位は相対化された。

朱熹[編集]

孝宗の時代には、後に朱子学と呼ばれる学術体系を構築した朱熹が現れる。洛学の後継者を自認する朱熹は心の修養を重視して緻密な理論に基づく方法論を確立した。彼は楊時の再伝弟子という李侗との出会、胡安国の子胡宏の学を承けた張栻(湖湘学派)との交友によって心の構造論・修養法(主敬静座)への思索を深め、40歳の時、張載の言葉という「心は性と情とを統べる」と程頤の「性即理」による定論を得、一家を成して閩学(びんがく)を起こした。宇宙構造を理気二元論で説明し、心においても形而上学的な「理」によって規定され、人間に普遍的に存在する「性」と、「気」によって形作られ、個々人の具体的な現れ方である「情」があるとし、孟子に基づいて性は絶対的に善であるとした。そして、その「性」に立ち戻ること、すなわち「理」を体得することによって大本が得られ万事に対処することができるとし、そのための心の修養法に内省的な「居敬」と外界の観察や読書による「格物」とを主張した。経学では、五経を学ぶ前段階として四書の学を設け、『四書集注』を著した。さらに『易経』には経を占いの書として扱った『周易本義』、『詩経』には必ずしも礼教的解釈によらず人の自然な感情に基づく解釈をした『詩集伝』、「礼経」には『儀礼』を経とし『礼記』を伝とした『儀礼経伝通解』を著した。『書経』には弟子の蔡沈に『書集伝』を作らせている。朱熹の弟子には、黄榦、輔広、邵雍の易学を研鑽した蔡元定と『書集伝』を編纂した蔡沈父子、『北渓字義』に朱熹の用語を字書風にまとめた陳淳などがいる。

同時代、永康学派の陳亮や永嘉学派の葉適(しょうせき)は、聖人の道は国家や民衆の生活を利することにあるとする事功の学を唱えて自己の内面を重視する朱熹を批判した。江西学派の陸九淵は心の構造論において朱熹と考えを異にし、心即理説にもとづく独自の理論を展開した。朱熹・陸九淵の両者は直に対面して論争したが(鵝湖の会)、結論は全く出ず、互いの学説の違いを再確認するに留まった。

道学[編集]

陸九淵の学は明代、王守仁によって顕彰され、心学(陸王心学)の系譜に入れられた。この時代、洛学の流派は朱熹の学を含めて道学と呼ばれるようになり一世を風靡した。一方、鄭樵・洪邁・程大昌らが経史の考証をもって学とし、道学と対峙している。

寧宗の慶元3年(1197年)、外戚の韓侂冑が宰相趙汝愚に与する一党を権力の座から追放する慶元の党禁が起こり、趙汝愚・周必大・朱熹・彭亀年・陳傅良・蔡元定ら59人が禁錮に処された。その翌年、偽学の禁の詔が出され、道学は偽学とされて弾圧を受けることになった。朱熹は慶元6年(1200年)、逆党とされたまま死去した。偽学禁令は嘉定4年(1211年)に解かれた。

理宗はその廟号「理」字が示すとおり道学を好み、朱熹の門流、魏了翁・真徳秀らが活躍した。真徳秀の『大学衍義』は後世、帝王学の教科書とされている。度宗の時には『黄氏日抄』の黄震、『玉海』『困学紀聞』で知られる王応麟がいる。いずれも朱熹の門流で学術的な方面に大きな役割を果たした。

元代[編集]

従来、金では道学は行われず、モンゴルの捕虜となった趙復が姚枢・王惟中に伝えたことによって初めて道学が北伝したとされてきたが、現在では金でも道学が行われていたことが知られている。

元代、姚枢から学を承けた許衡が出て、朱子学が大いに盛んになった。元は当初、金の継承を標榜しており南宋は意識されていなかった。許衡はクビライの近侍にまで至り、朱子学を元の宮廷に広めた。南人では呉澄が出て朱子学を大いに普及させた。彼は朱子学にも誤りがあるとして理気論や太極論の修正を行い、陸九淵の学の成果を積極的に導入している。許衡と呉澄の2人は後に元の二大儒者として北許南呉と称された。

元代、科挙で一大改革が起こった。漢人採用の科挙において依拠すべき注釈として『十三経注疏』と並行して朱子学系統の注釈が選ばれたのである。これによって朱子学の体制教学化が大いに進んだ。

明代[編集]

明を興した太祖朱元璋のもとには劉基や宋濂といった道学者が集まった。劉基は明の科挙制度の制定に取り組み、出題科目として四書を採用し、また試験に使う文章に後に言う「八股文」の形式を定めた。宋濂は明朝の礼制の制定に尽力した。宋濂の学生には建文帝に仕えて永楽帝に仕えることを潔しとしなかった方孝孺がいる。

永楽帝は胡広らに道学の文献を収集させて百科事典的な『四書大全』『五経大全』『性理大全』を編纂させ、広く学校に頒布した。この三書はその粗雑さが欠点として挙げられるが、一書で道学の諸説を閲覧できる便利さから科挙の参考書として広く普及した。『四書大全』『五経大全』の頒布により科挙で依拠すべき経羲解釈に『十三経注疏』は廃され、朱子学が体制教学となった。

明代前期を代表する道学者として薛瑄・呉与弼が挙げられている。薛瑄は、朱熹が理先気後とするのに対して理気相即を唱え、また「格物」と「居敬」では「居敬」を重んじた。呉与弼は朱熹の理論の枠内から出ず、もっぱらその実践に力をそそいだとされるが、その門下から胡居仁・婁諒・陳献章が出た。胡居仁は排他的に朱子学を信奉しその純化に努めた人物である。婁諒は、居敬と著書による実践を重んじたが、胡居仁にその学は陸九淵の学で、経書解釈も主観的だと非難されている。陳献章は静坐を重んじたことで知られており、胡居仁からその学は禅だと批判された。陳献章門下には王守仁と親交が深かった湛若水がいる。

王陽明[編集]

明代中期、王守仁(号は陽明)は、朱熹が理を窮めるために掲げた方法の一つである『大学』の「格物致知」について新しい解釈をもたらした。朱熹は「格物」を「物に格(いた)る」として事物に存在する理を一つ一つ体得していくとしたのに対し、王守仁はこれを「物を格(ただ)す」とし、陸九淵の心即理説を引用して、理は事事物物という心に外在的に存在するのではなく、事事物物に対している心の内の発動に存在するのだとした。「致知」については『孟子』にある「良知」を先天的な道徳知とし、その良知を遮られることなく発揮する「致良知」(良知を致す)だとした。そこでは知と実践の同時性が強調され、知行同一(知行合一)が唱えられた。致良知の工夫として初期には静坐澄心を教えたが、ともすれば門人が禅に流れる弊があるのを鑑み、事上磨練を説いた。道学の「聖人、学んでいたるべし」に対し、人は本来的に聖人であるとする「満街聖人」(街中の人が聖人)という新たな聖人観をもたらした。王守仁の学は陽明学派(姚江学派)として一派をなし、世に流行することになった。

この時代、朱熹の理気二元論に対し異論が唱えられるようになり、気の位置づけが高められ、理を気の運行の条理とする主張がなされた。道学的な枠組みに準拠しつつこの説を唱えた代表的な人物として羅欽順がいる。王守仁などは生生の気によって構成される世界を我が心の内に包括させ、世界と自己とは同一の気によって感応するという「万物一体の仁」を主張した。さらに、このような気一元論を徹底させたのは王廷相である。彼は「元気」を根元的な実在として朱熹の理説を批判し、「元気の上に物無く、道無く、理無し」として気の優位性を主張し、人性論においては人の性は気であって理ではなく、善悪を共に備えているとした。

理に対する気の優位性が高まるなか、気によって形作られるとされる日常的な心の動き(情)や人間の欲望(人欲)が肯定されるようになっていく。王守仁も晩年、心の本体を無善無悪とする説を唱えている。弟子の王畿はこれを発展させて心・意・知・物すべて無善無悪だとする四無説を主張したが、同門の銭徳洪は意・知・物については「善を為し悪を去る」自己修養が必要とした四有説を主張してこれに反対している。以後、無善無悪からは王艮の泰州学派(王学左派)で情や人欲を肯定する動きが顕著になり、明末の李贄(李卓吾)にいたっては「穿衣吃飯、即ち是れ人倫物理」(服を着たり飯を食べることが理)と人欲が完全に肯定された。さらに李贄は因習的な価値観すべてを否認し、王守仁の良知説を修正して「童心」説(既成道徳に乱される前の純粋な心)を唱えることで孔子や六経『論語』『孟子』さえ否定するに到った。

東林学派[編集]

社会・経済が危機的状況に陥った明末になると、社会の現実的な要求に応えようとする東林学派が興った。彼らは陽明学の心即理や無善無悪を批判しつつも人欲を肯定する立場を認め、社会的な欲望の調停を「理」としていく流れを作った。彼らが行った君主批判や地方分権論は清初の経世致用の学へと結実していく。その思想は東林学派の一員である黄尊素の子で、劉宗周の弟子である黄宗羲の『明夷待訪録』に総括されることになる。

朱元璋の六諭[編集]

明代は儒教が士大夫から庶民へと世俗化していく時代である。朱元璋は六諭を発布して儒教的道徳に基づく郷村秩序の構築を目指し、義民や孝子・節婦の顕彰を行った。明代中期以後、郷約・保甲による郷民同士の教化互助組織作りが盛んになり、王守仁や東林学派の人士もその普及に尽力している。これにより儒教的秩序を郷村社会に徹底させることになった。

一方、王守仁と同時代の黄佐は郷村社会で用いられる郷礼を作るため朱熹の『家礼』を参考に『泰泉郷礼』を著した。朱熹の『家礼』は元から明にかけて丘濬『家礼儀節』の改良を経ながら士大夫層の儀礼として流行していたが、明末、宗族という家族形態とともに庶民にまで普及した。王艮の泰州学派には樵夫や陶匠・田夫などが名を連ねており、儒教が庶民にまで広く浸透した姿が伺える。

明代は史書に対する研究が盛んな時代であったが、中期以後、経書に対する実証学的研究の萌芽も見られる。梅鷟は『尚書考異』を著し、通行の「古文尚書」が偽書であることを証明しようとした。陳第は『毛詩古音考』を著し、音韻が歴史的に変化していることを明言し、古代音韻学研究の道を開いている。

清代[編集]

明朝滅亡と異民族の清朝の成立は、当時の儒学者たちに大きな衝撃を与えた。明の遺臣たちは明滅亡の原因を、理論的な空談にはしった心学にあると考え、実用的な学問、経世致用の学を唱えた。その代表は黄宗羲や顧炎武、王夫之である。彼らはその拠り所を経書・史書に求め、六経への回帰を目指した。そのアプローチの方法は実事求是(客観的実証主義)であった。彼らの方法論がやがて実証的な古典学である考証学を生む。

一方、顔元は朱子学・陽明学ともに批判し、聖人となる方法は読書でも静坐でもなく「習行」(繰り返しの実践)であるとする独自の学問を興した。「格物」の「格」についても「手格猛獣」(手もて猛獣を格(ただ)す)の「格」と解釈して自らの体で動くことを重視し、実践にもとづく後天的な人格陶冶を主張した。顔元の学は弟子の李塨によって喧伝され、顔李学派と呼ばれる。

こういった清初の思想家たちは理気論上、一様に気一元論であり、朱子学や陽明学の先天的に存在するとした「理」を論理的な存在として斥け、現実世界を構成する「気」の優位を主張して人間の欲望をも肯定している。このように明代中期以後、気一元論の方向性で諸説紛々たる様相を見せている理気論はその後、戴震が「理」を「気」が動いた結果として現れる条理(分理)とし、気によって形成された人間の欲望を社会的に調停する「すじめ」と定義するにいたって一応の決着を見る。

考証学[編集]

清の支配が安定してくると、実学よりも経書を始めとする古典を実証的に解明しようとする考証学が興った。毛奇齢は朱子学の主観的な経書解釈を批判し、経書をもって経書を解釈するという客観的な経書解釈の方向性を打ち出し、『四書改錯』を著して朱熹の『四書集注』を攻撃した。閻若璩は『尚書古文疏証』を著して「偽古文尚書」が偽書であることを証明し、「偽古文尚書」に基づいて「人心道心」説を掲げる朱子学に打撃を与えた。胡渭は『易図明弁』を著し朱子学が重視した「太極図」や「先天図」「河図洛書」といった易学上の図が本来、儒教とは関連性がなかったことを証明した。彼らの学は実証主義的な解釈学たる考証学の礎を築いた。

乾隆・嘉慶年間は考証学が隆盛した時代である。その年号から乾嘉の学と呼ばれる。顧炎武の流れをくむ浙西学派がその主流であり、恵棟を始めとする蘇州を中心とする呉派、安徽出身の戴震らの影響を受けた皖派(かんぱ)がある。彼らは音韻学・文字学・校勘学や礼学などに長じていた。特に後漢の名物訓詁の学を特徴とする古文学に基づいており、漢学とも呼ばれる。一方、黄宗羲の流れをくむ浙東学派は史学に長じ、その代表である章学誠は六経皆史の説を唱えて、経書の史学的研究に従事した。やや後れて阮元を始めとする揚州学派が起こり、乾嘉漢学を発展させている。

道光以降になると、常州学派の前漢今文学が隆盛した。彼らは今文経(特にその中心とされる『春秋公羊伝』)こそ孔子の真意を伝えているとし、乾嘉の学が重んじる古文経学を排除して今文経、ひいては孔子へと回帰することを目指した。その拠り所とする公羊学に見られる社会改革思想が清末の社会思潮に大きな影響を与え、康有為を始めとする変法自強運動の理論的根拠となった。

近代[編集]

アヘン戦争の敗北により西洋の科学技術「西学」を導入しようという洋務運動が興った。洋務派官僚の曾国藩は朱子学を重んじて六経のもとに宋学・漢学を兼取することを主張し、さらに明末清初の王夫之を顕彰して実学の必要を説いた。張之洞は康有為の学説に反対して『勧学篇』を著し、西学を導入しつつ体制教学としての儒教の形を守ることを主張している。

孔教運動[編集]

一方、変法自強運動を進める康有為は、『孔子改制考』を著して孔子を受命改制者として顕彰し、儒教をヨーロッパ風の国家宗教として再解釈した孔教を提唱した。康有為の孔教運動は年号紀年を廃して孔子紀年を用いることを主張するなど従来の体制を脅かすものであったため、清朝から危険視され『孔子改制考』は発禁処分を受けた。変法派のなかでも孔教運動は受け入れられず、これが変法運動挫折につながる一つの原因となる。しかし、辛亥革命が起こると、康有為は上海に孔教会を設立して布教に努め、孔教を中華民国の国教にする運動を展開した。彼らの運動は信仰の自由を掲げる反対派と衝突することとなり、憲法起草を巡って大きな政治問題となった。その後、1917年、張勲の清帝復辟のクーデターに関与したため、孔教会はその名声を失うことになる。康有為が唱える孔子教運動には、弟子の陳煥章が積極的に賛同し、中国及びアメリカで活動している。この他に賛同した著名人として厳復がいる。

現代[編集]

新文化運動[編集]

1910年代後半になると、争いを繰り返す政治に絶望した知識人たちは、文学や学問といった文化による啓蒙活動で社会改革を目指そうとする新文化運動を興した。雑誌『新青年』を主宰する陳独秀・呉虞・魯迅らは「孔家店打倒」をスローガンに家父長制的な宗法制度や男尊女卑の思想をもつ儒教を排斥しようとした。一方、雑誌『学衡』を主宰する柳詒徴・呉宓・梅光迪・胡先驌ら学衡派は、儒学を中心とする中国伝統文化を近代的に転換させることによって中西を融通する新文化を構築することを主張している。

清末から隆盛した今文学派による古典批判の方法論は古籍に対する弁偽の風潮を興し、1927年、顧頡剛を始めとする疑古派が経書や古史の偽作を論ずる『古史弁』を創刊した。顧頡剛は「薪を積んでいくと、後から載せたものほど上に来る」という比喩のもと、古史伝承は累層的に古いものほど新しく作られたという説を主張し、尭・舜・禹を中国史の黄金時代とする儒教的歴史観に染まっていた知識人に大きな衝撃を与えた。さらに銭玄同は六経は周公と無関係であるばかりでなく孔子とも無関係である論じ、孔子と六経の関係は完全に否定されるに到った。
新儒家 熊十力
梁漱溟
牟宗三
唐君毅
杜維明


中華人民共和国時代[編集]

中華人民共和国では「儒教は革命に対する反動である」として弾圧され、特に文化大革命期には、批林批孔運動として徹底弾圧された。多くの学者は海外に逃れ、中国に留まった熊十力は激しい迫害を受け自殺したといわれる。儒教思想が、社会主義共和制の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられていためとされる。なお毛沢東は三国志を愛読し、曹操をとりわけ好んだといわれるが、曹操は三国時代当時に官僚化していた儒者および儒教を痛烈に批判している。

再評価と「儒教社会主義」[編集]

だが、21世紀に入ると儒教は弾圧の対象から保護の対象となり再評価されつつある。2005年以降、孔子の生誕を祝う祝典が国家行事として執り行われ、論語を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。文化大革命期に徹底的に破壊された儒教関連の史跡及び施設も近年になって修復作業が急速に行われている。

ほかにも改革開放が進む中で儒学や老荘思想など広く中国の古典を元にした解釈学である国学が「中華民族の優秀な道徳倫理」として再評価されるようになり国学から市場経済に不可欠な商業道徳を学ぼうという機運が生まれている。国家幹部は儒教を真剣に学ぶべきだという議論も生まれている[12]。

ダニエル・A・ベル(Daniel A Bell)北京清華大学哲学教授によれば、近年、中国共産党は「儒教社会義」または新儒教主義(宋の時代にもあった)を唱えている[13]。

朝鮮における儒教[編集]

詳細は「朝鮮の儒教」を参照





朝鮮の儒学者
朝鮮は儒教文化が深く浸透した儒教文化圏であり、現在でもその遺風が朝鮮の文化の中に深く残っている。それだけに、恩師に対する「礼」は深く、先生を敬う等儒教文化が良い意味で深く浸透しているという意見もある。一方で、李氏朝鮮時代に儒教を歴代の為政者が群集支配をするために悪用してきた弊害も存在しているという意見もある。
李退渓:嶺南学派
李栗谷:畿湖学派

日本における儒教[編集]

「日本の儒教」を参照

儒学者一覧[編集]

「儒学者一覧」を参照

儒教研究上の論争[編集]


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儒教の長い歴史の間には、古文・今文の争い、喪に服する期間、仏教との思想的関係、理や気の捉え方など様々な論争がある。現在の学術研究、特に日本における論争のひとつに“儒教は宗教か否か”というものがある。現在、“儒教は倫理であり哲学である”とする考えが一般的[14]だが、孟子以降天意によって総てが決まるとも説かれており、これが唯物論と反する考えになっているという指摘もある。儒教は神の存在を完全に否定している事から“宗教として扱われる思想ではない”という見解が多い。一方、加地伸行などは、宗教を「死生観に係わる思想」と定義した上で、祖先崇拝を基本とする儒教を宗教とみなしている。しかし何れにせよ、その唱える処は宗教に酷似している為、広義の宗教と結論づける事が可能である。

その他の学説[編集]
人性論
天人の辨
義利の辨
名分論
命定論
形神論
正統論
復讐論
道統論
理気論
儒仏道論争
朱陸論争
格物致知
未発已発
良知
無善無悪
万物一体論
井田論
封建論
今文・古文
道器論

孔子廟[編集]

詳細は「孔子廟」および「日本の儒教#関連史蹟」を参照

中国では現在においても、孔子を崇敬する人は多い。中国の各地に孔子を祭る廟がある。これを文廟といい、孔子廟、孔廟、夫子廟ともいう。(特に魯の故地の孔子の旧居跡に作られた孔廟が有名。)中国国内の孔子廟の多くは文化大革命時に破壊されたり損傷を受けている。

日本でも、江戸時代に、幕府が儒教(特に朱子学)を学問の中心と位置付けたため、儒教(朱子学)を講義した幕府や各藩の学校では孔子を祀る廟が建てられ崇敬された。湯島聖堂が、その代表である。

文献[編集]
概説書加地伸行 『儒教とは何か』 中公新書 ISBN 9784121009890
加地伸行 『沈黙の宗教−儒教』 筑摩書房〈ちくまライブラリー〉 ISBN 9784480051998/ ちくま学芸文庫(2011年4月)
串田久治 『儒教の知恵−矛盾の中に生きる』 中公新書 ISBN 9784121016850
鈴木利定 『儒教哲学の研究』 明治書院 ISBN 9784625483028
T・フーブラー、D・フーブラー 『儒教 シリーズ世界の宗教』 鈴木博訳 青土社 ISBN 9784791752980
狩野直禎編 『図解雑学 論語』ナツメ社、2001年、ISBN 4816330461
緑川佑介 『孔子の一生と論語』 明治書院、2007年、ISBN 9784625684036
土田健次郎編 『21世紀に儒教を問う』 早稲田大学出版部〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2010年、ISBN 9784657102225
永冨青地編 『儒教 その可能性』 早稲田大学出版部〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2011年、ISBN 9784657110145
伝記白川静 『孔子伝』 中公文庫 ISBN 4122041600
諸橋轍次 『如是我聞 孔子伝』(上下)、大修館書店、1990年
金谷治 『孔子』 講談社学術文庫、1990年、ISBN 9784061589353
武内義雄 『論語之研究』 岩波書店、1939年、ASIN B000J9BC3Q、復刊
津田左右吉 『論語と孔子の思想』 岩波書店、1946年、ISBN BN07038153、復刊
宮崎市定 『論語の新しい読み方』 礪波護編、岩波現代文庫、2000年、ISBN 4006000227
五経易経 今井宇三郎 『易経 新釈漢文大系』 全3巻:明治書院 
(上)ISBN 9784625570230、(中)ISBN 9784625570247、(下)ISBN 9784625673146
本田済 『易 〈中国古典選〉』 新版:朝日選書 ISBN 9784022590107
高田眞治・後藤基巳 『易経』 岩波文庫 
(上)ISBN 9784003320112、(下)ISBN 9784003320129

書経 加藤常賢  『書経 (上) 新釈漢文大系』 明治書院 ISBN 9784625570254
小野沢精一 『書経 (下) 新釈漢文大系』 明治書院 ISBN 9784625570261
池田末利 『尚書 全釈漢文大系』 集英社 

詩経 石川忠久 『詩経 新釈漢文大系』 全3巻:明治書院、新書漢文大系(抄訳版)がある。 
(上)ISBN 9784625571103、(中)ISBN 9784625571111、(下)ISBN 9784625673009
白川静 『詩経国風』 平凡社東洋文庫、ISBN 9784582805185
白川静 『詩経雅頌』 平凡社東洋文庫 全2巻、(1)ISBN 9784582806359 、(2)ISBN 9784582806366

礼記 竹内照夫 『礼記 新釈漢文大系』 明治書院 全3巻
(上)ISBN 9784625570278、(中)ISBN 9784625570285 、(下)ISBN 9784625570292
『礼記』(「漢文大系」冨山房、初版1913年。のち改訂版)
桂湖村 『礼記』(上下)、漢籍国字解全書:早稲田大学出版部、初版1914年
安井小太郎 『礼記』(「国訳漢文大成」国民文庫刊行会、初版1921年)
下見隆雄 『礼記』(明徳出版社〈中国古典新書〉、初版1973年)
市原亨吉など 『礼記 全釈漢文大系』(集英社 全3巻)

春秋 春秋左氏伝 鎌田正 『春秋左氏伝 新釈漢文大系』 明治書院 全4巻
(1)ISBN 9784625570308 、(2)ISBN 9784625570315 、(3)ISBN 9784625570322、(4)ISBN 9784625570339
竹内照夫 『春秋左氏伝 全釈漢文大系 4.5.6』、集英社
小倉芳彦 『春秋左氏伝』、岩波文庫全3巻 (上)ISBN 9784003321614、(中)ISBN 9784003321621、(下)ISBN 9784003321638

春秋公羊伝 林羅山訓点 菜根出版(復刻)
『世界文学全集 3 五経・論語』、公羊伝 (日原利国訳) 、筑摩書房、1970年 日原利国著 『春秋公羊伝の研究』 創文社〈東洋学叢書〉、1978年


春秋穀梁伝 野間文史著 『春秋学 公羊伝と穀梁伝』 研文出版〈研文選書〉、2001年、ISBN 9784876362011


四書大学 宇野哲人 『大学』 講談社学術文庫 1983年 ISBN 4061585940
金谷治 『大学 中庸』 岩波文庫 2004年 ISBN 4003322215
赤塚忠 『大学・中庸 〈新釈漢文大系2〉』 明治書院 1998年 ISBN 4625570026

中庸 島田虔次 『大学・中庸 〈中国古典選〉』 朝日新聞社、1967年/ 朝日文庫上下、1978年
宇野哲人 『中庸』 講談社学術文庫 1983年 ISBN 4061585959
俣野太郎 『大学・中庸』 明徳出版社〈中国古典新書〉、1968年 

論語 吉田賢抗 『論語 〈新釈漢文大系 1〉』 明治書院、初版1960年、ISBN 4625570018
吉川幸次郎 『論語 〈中国古典選〉』(上下)、新版:朝日選書、1996年
金谷治 『論語 新訂』 岩波文庫、1999年、ISBN 4003320212 
宮崎市定 『現代語訳 論語』 岩波現代文庫、2000年、ISBN 4006000170
貝塚茂樹 『論語』 中公文庫/ 新版:中公クラシックス全2冊、2002年
加地伸行 『論語』 講談社学術文庫、2004年、増訂版2009年

孟子 小林勝人 『孟子』 岩波文庫 (上)ISBN 9784003320419 、(下)ISBN 9784003320426
貝塚茂樹 『孟子』 中公クラシックス版、抄訳版
内野熊一郎・加藤道理 『孟子 〈新釈漢文大系 4〉』、明治書院、新書漢文大系(抄訳版)がある。
宇野精一 『孟子 全釈漢文大系2』 集英社

関連古典周礼
儀礼  池田末利編訳、東海大学出版会 〈東海古典叢書、全5巻〉

爾雅
孝経 加地伸行 『孝経』、講談社学術文庫、初版2007年
栗原圭介 『孝経 新釈漢文大系35』 明治書院、ISBN 9784625570353

荀子 金谷治 『荀子』 岩波文庫(上下)、(上) ISBN 9784003320815 、(下) ISBN 9784003320822
藤井専英 『荀子 新釈漢文大系 5・6』 明治書院、新書漢文大系(抄訳版)がある。
金谷治・佐川修 『荀子 全釈漢文大系 7・8』 集英社

大戴礼記 栗原圭介 『大戴礼記 新釈漢文大系113』 明治書院、ISBN 9784625571138


史書[編集]
史記 孔子世家
仲尼弟子列伝
孟子荀卿列伝
儒林列伝

漢書 董仲舒伝
儒林伝

孔子家語 宇野精一訳 『孔子家語 新釈漢文大系53』 明治書院 ISBN 9784625570537。新書漢文大系(抄訳版)がある。  
藤原正訳 『孔子家語』 岩波文庫 ISBN 9784003320228

朱子学朱子 『論語集註』 笠間書院 ISBN 9784305001559
朱子 『近思録』 湯浅幸孫訳著、たちばな出版(選書版)  上:ISBN 9784886926036、中:ISBN 9784886926043 、下:ISBN 9784886926050
『「朱子語類」抄』 三浦國雄訳注、講談社学術文庫 ISBN 9784061598959
島田虔次著 『朱子学と陽明学』 岩波新書 ISBN 9784004120285
陽明学王陽明 『伝習録』 溝口雄三訳、中公クラシックス ISBN 9784121600820
朝鮮の儒教と儒学
朝鮮時代の五礼(吉礼、嘉礼、賓礼、軍礼、凶礼)の礼法を記した「国朝五礼儀」と、世宗在位期間の歴史を記録した「世宗荘憲大王実録」に基づいて。
日本の儒学荻生徂徠 『論語徴』 小川環樹訳註、平凡社東洋文庫 (1)ISBN 9784582805758 (2)ISBN 9784582805765

脚注[編集]

1.^ 『禮記・中庸』
2.^ なお儒教を宗教として信仰せずに儒教を研究する学者は、「儒学者」といわずに、「儒教研究者」と呼ぶべきとする見方もある[要出典]。ただし京都大学教授の吉川幸次郎や、評論家の呉智英は、自らを儒者であると主張し、儒教の立場からさまざまな立論を行っている。
3.^ 荘子天運篇
4.^ 朱子・語類巻14より。これは即ち、四書の読み順まで記している。(儒教の世界観においては)天から与えられた至徳を明らかにする事、知を致し物に格る。中こそは天下の大本であり、和こそは天下の達道である。中と和を極致に達せしめた時、天地の秩序は定まり、万物は生成発展する。儒教の目的とその目的達成への目標が掲げられたのが「三綱領」・「八条目」であり、朱熹は道統論を唱え自らの「学」の正当性を主張した。尭舜孔孟に「御目にはかかわらずとも、あの道理が心へ来れば道統、朱子の理与心と云はるるが大切の事なり。孟子の後あとの賑かな漢の經術に斯く云は見て取たるに極まる。偖、文章は下卑たこと。孟子と文選幷べたときに、文の上では腕押しなり(=孟子を文選の上位に置く事は愚かしき事)。韓氏が見て、孟子の後道を得たもの無し、と。そこで程子のみ来て、非是蹈襲前人云々なり。道統は中庸の心法、それは大学の事。其致知がすま子ば道統は得られぬ。」
5.^ 『周礼・春官宗伯』
6.^ 論語 衛霊公第十五 10
7.^ 『論語』の泰伯篇
8.^ 『易経 下繫辭傳』
9.^ 胡適論文「説儒」(1924年)
10.^ 白川「孔子伝」
11.^ 『史記』孔子世家
12.^ 園田茂人 『不平等国家 中国--自己否定した社会主義のゆくえ』 中央公論新社、2008年5月25日、177-178頁。ISBN 9784121019509
13.^ [http://www.guardian.co.uk/commentisfree/belief/2009/jul/26/confucianism-china What can we learn from Confucianism? Daniel A Bell] guardian.co.uk, Sunday 26 July 2009]。 2006年の記事
14.^ 湯浅赳男『面白いほどよくわかる 世界の哲学・思想のすべて』日本文芸社、平成17年2月1日改訂第1版、ISBN:4-537-11501-7、p72

関連項目[編集]
十三経
漢唐訓詁学
宋明理学(朱子学・陽明学)
唐君毅
牟宗三
杜維明
聖人








東学(天道教)
反儒
名 (倫理)
分 (倫理)
修身
明経道
明経問者生
進士
科挙
律令制

儒教

儒教(じゅきょう、英語:Confucianism)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。



目次 [非表示]
1 概要
2 教典 2.1 四書と宋明理學

3 礼儀 3.1 冠服制度

4 教義
5 起源
6 孔子とその時代
7 孔子以後の中国における歴史 7.1 秦代
7.2 漢代
7.3 古文学と今文学
7.4 三国時代・晋代 7.4.1 玄学

7.5 南北朝時代・南学と北学
7.6 隋代
7.7 唐代
7.8 宋代 7.8.1 道統論
7.8.2 新学
7.8.3 天論
7.8.4 南宋時代
7.8.5 朱熹
7.8.6 道学

7.9 元代
7.10 明代 7.10.1 王陽明
7.10.2 東林学派
7.10.3 朱元璋の六諭

7.11 清代 7.11.1 考証学

7.12 近代 7.12.1 孔教運動

7.13 現代 7.13.1 新文化運動

7.14 中華人民共和国時代 7.14.1 再評価と「儒教社会主義」


8 朝鮮における儒教
9 日本における儒教
10 儒学者一覧
11 儒教研究上の論争
12 その他の学説
13 孔子廟
14 文献 14.1 史書

15 脚注
16 関連項目
17 外部リンク


概要[編集]

東周春秋時代、魯の孔子によって体系化され、堯・舜、文武周公の古えの君子の政治を理想の時代として祖述し、[1]周礼を保存する使命を背負った、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。その教団は諸子百家の一家となって儒家となり、(支配者の)徳による王道で天下を治めるべきであり、同時代の(支配者の)武力による覇道を批判し、事実、その様に歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。その儒教が漢代、国家の教学として認定された事によって成立した。儒教は、宋代以前の「五経」を聖典としていた時代である。宋代以降に朱子学によって国家的規模での宋明理学体系に纏め上げられていた。宋明理学の特徴は簡潔に述べるならば、「修己治人」あるいは、『大学』にある「修身、斉家、治国、平天下」であり、「経世済民」の教えである。

儒教を自らの行為規範にしようと、儒教を学んだり、研究したりする人のことを儒学者、儒者、儒生と呼ぶ[2]。

教典[編集]

儒教の経典は易・書・詩・礼・楽・春秋の六芸(六経)である。

春秋時代になり、詩・書・春秋の三経の上に、礼・楽の二経が加わり、五経になったといわれる。

詩・書・禮・樂の四教については「春秋はヘうるに禮樂を以てし、冬夏はヘうるに詩書を以てす」、『禮記・王制』における「王制に曰く、樂正、四術を崇び四ヘを立つ。先王の詩・書・禮・樂に順いて以て士を造[な]す」という記述がある。

孔子は老聃に次のようにいったとされる。孔子は詩書礼楽の四教で弟子を教えたが、三千人の弟子の中で六芸に通じたのは72人のみであった[3]。

武帝の時、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正统の学問として五経博士を設置することを献策した。靈帝の時、諸儒を集めて五経の文字を校訂、太学の門外に石経を立て、熹平石経は183年(光和6年)に完成し、『易経』『儀礼』『尚書』『春秋』『公羊』『魯詩』『論語』の七経からなった。








注疏

易経 周易正義
尚書 尚書孔安伝 尚書正義
詩経 毛詩 毛詩正義
楽経
儀礼 礼記 儀礼注疏、礼記注疏
周礼 周礼注疏
春秋 春秋公羊伝 春秋公羊伝注疏
春秋左氏伝 春秋左伝注疏
春秋穀梁伝 春秋穀梁伝注疏
論語 論語注疏
孝経 孝経注疏
孟子 孟子注疏
爾雅 爾雅注疏

四書と宋明理學[編集]

宋代に朱熹が「礼記」のうち2篇を「大学」「中庸」として独立させ、「論語」、「孟子」に並ぶ「四書」の中に取りいれた。「学問は、必ず「大學」を先とし、次に「論語」、次に「孟子」次に「中庸」を学ぶ」。

朱熹は、「『大學』の内容は順序・次第があり纏まっていて理解し易いのに対し、『論語』は充実しているが纏りが無く最初に読むのは難しい。『孟子』は人心を感激・発奮させるが教えとしては孔子から抜きん出ておらず、『中庸』は読みにくいので3書を読んでからにすると良い」と説く[4]。

礼儀[編集]

子日く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る。孔子曰く、禮に非ざれば視ること勿かれ、禮に非ざれば聽くこと勿かれ、 禮に非ざれば言うこと勿かれ、禮に非ざれば動くこと勿かれ。周礼は五礼て、つまり吉礼、兇礼、賓礼、軍礼、嘉礼です。吉礼によつて国家の天神、祖霊、地神を祭り、兇礼によつて国家の苦難を哀憚し、救う。賓礼によつて周玉室と他国あるいは国家間を友好親箸たらしめ、軍礼によつて国家同士を脇調させ、嘉礼によつて万民を互いに和合する。[5]五礼のうち、とくに吉礼(祭祀)、兇礼(喪葬〕、嘉礼(冠婚)などを中心として取り上げ、殷周信仰や古来の習俗。


周礼

解説

名系

吉礼 天地鬼神の祭祀(邦国の鬼神につかえる) 郊祀、大雩、朝日、夕月、祓禊
兇礼 葬儀・災害救済(邦国の憂いを哀れむ) 既夕礼、虞礼
賓礼 外交(邦国に親しむ) 相见礼、燕礼、公食大夫禮、觐礼
軍礼 出陣・凱旋(邦国を同じくする) 大射、大傩
嘉礼 冠婚・饗宴・祝賀(万民に親しむ) 饮食之礼,婚冠之礼,宾射之礼,飨燕之礼,脤膰之礼,贺庆之礼

冠服制度[編集]

「顔淵、邦を為めんことを問う。子曰く、夏の時を行ない、殷の輅に乗り、周の冕を服す。」[6]孔子が、伝説の聖王・禹に衣服を悪しくして美を黻冕に致しついて褒め称えている部分である。[7]周の冕は衣裳です。易経に、黄帝堯舜衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸を乾坤に取る。[8]乾は天、坤は地で、乾坤は天地の間、人の住む所の意がある。『周易』坤卦に「天は玄にして地は黄」とある。天の色は赤黒(玄)く、地の色は黄色く。だから、冕服(袞衣)の衣は玄にして裳は黄。待った、『尚書』に虞皇の衣服のぬいとりにした文様を言う。 日 月 星辰 山 龍 華虫 宗彜 藻 火 粉末 黼 黻の十二である。それは『輿服制』の始まりです。冠服制度は“礼制”に取り入れられ、儀礼の表現形式として中国の衣冠服制度は更に複雑になっていった。衛宏『漢旧儀』や応劭『漢官儀』をはじめとして、『白虎通義』衣裳篇、『釈名』釈衣服、『独断』巻下、『孔子家語』冠頌、『続漢書』輿服志などの中に、漢代の衣服一般に関する制度が記録されているが、それらはもっぱら公卿・百官の車駕や冠冕を中心としたそれである。すなわち『儀礼』士冠礼・喪服など、また『周礼』天宮司裳・春宮司服など、さらに『礼記』冠儀・昏儀などの各篇に、周代の服装に関する制度である。

教義[編集]

儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える。

儒教の考えには本来、男尊女卑の概念は存在していなかった。しかし、唐代以降、儒教に於ける男尊女卑の傾向がかなり強く見られるのも事実である。これは「夫に妻は身を以って尽くす義務がある」と言う思想(五倫関係の維持)を強調し続けた結果、と現在では看做されており、儒教を男女同権思想と見るか男尊女卑思想と見るかの論争も度々行われるようになっている。
仁人を思い遣る事。孔子以前には、「佞る事」という意味では使われていた。[要出典]白川静『孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者の頼もしさをいう語」。「説文解字」は「親」に通じると述べている。「論語」の中では、さまざまな説明がなされている。孔子は仁を最高の徳目としていた。義利欲に囚われず、すべきことをすること。(語源的には宜に通じる)礼仁を具体的な行動として、表したもの。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。智学問に励む信言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。
起源[編集]

儒(じゅ)の起源については、胡適が「殷の遺民で礼を教える士」[9]として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。

東洋学者の白川静は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムおよび死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子とした[10]。

孔子とその時代[編集]

詳細は「孔子」を参照

春秋時代の周末に孔丘(孔子、紀元前551年‐紀元前479年)は魯国に生まれた。当時は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった。周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて孔子教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

孔子の弟子は3500人おり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[11]。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。

孔子以後の中国における歴史[編集]

秦代[編集]

秦の始皇帝が六国を併せて中国を統一すると、法家思想を尊んでそれ以外の自由な思想活動を禁止し、焚書坑儒を起こした。ただし、博士官が保存する書物は除かれたとあるので、儒家の経書が全く滅びたというわけではなく、楚漢の戦火を経ながらも、漢に伝えられた。また、焚書坑儒以降にも秦に仕えていた儒者もおり、例えば叔孫通は最初秦に仕えていたが、後に漢に従ってその礼制を整えている。

漢代[編集]
前漢
漢に再び中国は統一されたが、漢初に流行した思想・学術は道家系の黄老刑名の学であった。そのなかにあって叔孫通が漢の宮廷儀礼を定め、陸賈が南越王を朝貢させ、伏生が『今文尚書』を伝えるなど、秦の博士官であった儒者たちが活躍した。文帝のもとでは賈誼が活躍した。武帝の時、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正統の学問として五経博士を設置することを献策した。武帝はこの献策をいれ、建元5年(紀元前136年)、五経博士を設けた。従来の通説では、このことによって儒教が国教となったとしていたが、現在の研究では儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは前漢末から後漢初にかけてとするのが一般的である。ともかく五経博士が設置されたことで、儒家の経書が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占めるようになり、丞相など儒者が独占する状態になる。

前漢の経学は一経専門であり、流派を重んじて、師から伝えられる家法を守り、一字一句も変更することがなかった(章句の学)。宣帝の時には経文の異同や経説の違いを論議する石渠閣会議が開かれている。この会議で『春秋』では公羊家に対して穀梁家が優位に立った。

董仲舒ら公羊家は陰陽五行思想を取り入れて天人相関の災異説を説いた。前漢末には揚雄が現れ、儒教顕彰のために『易経』を模した『太玄』や『論語』を模した『法言』を著作している。
後漢
前漢末から災異思想などによって、神秘主義的に経書を解釈した緯書が現れた(「経」には機織りの「たていと」、「緯」は「よこいと」の意味がある)。 緯書は六経に孝経を足した七経に対して七緯が整理され、予言書である讖書や図讖(としん)と合わせて讖緯といい、前漢末から後漢にかけて流行した。新の王莽も後漢の光武帝も盛んに讖緯を利用している。一方で、桓譚や王充といった思想家は無神論を唱え、その合理主義的な立場から讖緯を非難している。

古文学と今文学[編集]

前漢から五経博士たちが使っていた五経の写本は、漢代通行の隷書体に書き写されていて今文経といわれる。これに対して、古文経と呼ばれる孔子旧宅の壁中や民間から秦以前のテキストが、発見されていた。前漢末、劉歆が古文経を学官に立てようとして、今文経学との学派争いを引き起こしている。平帝の時には『春秋左氏伝』『逸礼』『毛詩』『古文尚書』が、新朝では『周官』が学官に立てられた。後漢になると、古文経が学官に立てられることはなかったものの、民間において経伝の訓詁解釈学を発展させて力をつけていった。章帝の時に今文経の写本の異同を論じる白虎観会議が開かれたが、この中で古文学は攻撃に晒されながらも、その解釈がいくらか採用されている。この会議の記録は班固によって『白虎通義』にまとめられた。

古文学は、今文学が一経専門で家法を頑なに遵守したのに対して、六経すべてを兼修し、ときには今文学など他学派の学説をとりいれつつ、経書を総合的に解釈することを目指した。賈逵は『左氏伝』を讖緯と結びつけて漢王朝受命を説明する書だと顕彰した。その弟子、許慎は『説文解字』を著して今文による文字解釈の妥当性を否定し、古文学の発展に大きく寄与している。馬融は経学を総合して今古文を折衷する方向性を打ち出した。その弟子、鄭玄は三礼注を中心に五経全体に矛盾なく貫通する理論を構築し、漢代経学を集大成した。

今文学のほうでは古文学説の弱点を研究して反駁を行った。李育は『難左氏義』によって左氏学を批判し、白虎観会議に参加して賈逵を攻撃した。何休は博学をもって『公羊伝』に注を作り、『春秋公羊解詁』にまとめた。『公羊墨守』を著作して公羊学を顕彰するとともに、『左氏膏肓』を著作して左氏学を攻撃した。一方で『周礼』を「六国陰謀の書」として斥けている。何休は鄭玄によって論駁され、以後、今文学に大師が出ることもなく、今文学は古文学に押されて衰退していった。

三国時代・晋代[編集]

魏に入ると、王粛が鄭玄を反駁してほぼ全経に注を作り、その経注の殆どが魏の学官に立てられた。王粛は『孔子家語』を偽作したことでも知られる。西晋では杜預が『春秋左氏伝』に注して『春秋経伝集解』を作り、独自の春秋義例を作って左伝に基づく春秋学を完成させた。『春秋穀梁伝』には范寧が注を作っている。

玄学[編集]

この時代に隆盛した学問は老荘思想と『易』に基づく玄学であるが、玄学の側からも儒教の経書に注を作るものが現れ、王弼は費氏易に注して『周易注』を作り、何晏は『論語集解』を作った(正始の音)。呉には今文孟氏易を伝えた虞翻、『国語注』を遺した韋昭がいる。西晋末には永嘉の乱が起こり、これによって今文経学の多くの伝承が途絶えた。東晋になると、永嘉の乱で亡佚していた『古文尚書』に対して梅賾が孔安国伝が付された『古文尚書』58篇なるものを奏上したが、清の閻若璩によって偽作であることが証明されている(偽古文尚書・偽孔伝という)。この偽孔伝が鄭玄注と並んで学官に立てられた。

南北朝時代・南学と北学[編集]

南北朝時代、南朝の儒学を南学、北朝の儒学を北学という。南朝ではあまり儒教は振るわなかったが、梁の武帝の時には五経博士が置かれ、一時儒教が盛んになった。

南学では魏晋の学風が踏襲され、『毛詩』「三礼」の鄭玄注以外に、『周易』は王弼注、『尚書』は偽孔伝、『春秋』は杜預注が尊ばれた。あまり家法に拘ることもなく、玄学や仏教理論も取り込んだ思想が行われた。この時代、仏教の経典解釈学である義疏の学の影響を受けて、儒教の経書にも義疏が作られはじめた。ただし、儒教では漢魏の注についてさらに注釈を施すといった訓詁学的なものを「疏」と呼ぶようになっていった。梁の費甝(ひかん、「かん」は虎+甘)の『尚書義疏』や皇侃の『論語義疏』があるが、『尚書義疏』は北方に伝わって北学でも取りあげられ、唐の『尚書正義』のもとになり、『論語義疏』は亡佚することなく現在まで伝えられている。

北朝でも仏教・玄学が流行したが、わりあい儒教が盛んであり、特に北周ではその国名が示すとおり周王朝を理想として儒教を顕彰し、仏教を抑制した。北朝では後漢の古文学が行われ、『周易』・『尚書』・『毛詩』「三礼」は鄭玄注、『春秋左氏伝』は後漢の服虔の注、『春秋公羊伝』は後漢の何休の注が尊ばれた。その学風は保守的で旧説を覆すことなく章句訓詁の学を墨守した。北魏には徐遵明がおり、劉献之の『毛詩』を除く経学はすべて彼の門下から出た。その門下に北周の熊安生がおり、とりわけ三礼に通じて『礼記義疏』などの著作がある。熊安生の門下からは隋の二大学者である劉焯・劉Rが出た。

隋代[編集]

北朝系の隋が中国を統一したので、隋初の儒学は北学中心であったが、煬帝の時、劉焯・劉Rの二劉が出、費甝の『尚書義疏』を取りあげたり、南学系の注に義疏を作ったりして南北の儒学を総合した。劉焯の『五経述義』、劉Rの『春秋述義』『尚書述義』『毛詩述義』は唐の『五経正義』の底本となった。在野の学者に王通(文中子)がいる。彼は自らを周公から孔子への学統を継ぐものと自認し、六経の続編という「続経」を作った。偽作・潤色説もあるが『論語』に擬した『中説』が現存している。唐末、孔孟道統論が起こる中で再評価され韓愈の先駆者として位置づけられた。その儒仏道三教帰一の立場、みずからを儒教の作り手である聖人とする立場がのちの宋学に影響を与えた。

隋の文帝は初めて科挙を行い、従来の貴族の子弟が官吏となる体制から、試験によって官吏が選ばれるようになった。これにより、儒学者がその知識をもって官吏となる道が広がったのである。

唐代[編集]

唐が中国を再統一すると、隋の二劉が示した南北儒学統一の流れを国家事業として推し進めた。隋末混乱期に散佚した経書を収集・校定し、貞観7年(633年)には顔師古が五経を校定した『五経定本』が頒布された。さらに貞観14年(640年)には孔穎達を責任者として五経の注疏をまとめた『五経正義』が撰定された(二度の改訂を経て永徽4年(653年)に完成)。永徽年間には賈公彦に『周礼疏』『儀礼疏』を選定させている。これにより七経の正義が出そろい、漢唐訓詁学の成果はここに極まった。

こうして正義が確定される一方、中唐(8世紀中葉)になると注疏批判の動きが生じた。『春秋』では啖助・趙匡・陸淳が春秋三伝は『春秋』を注するものではないと懐疑を述べ、特に『左伝』を排斥した。『周易』では李鼎祚が王弼注の義理易に反対して鄭玄を始めとする漢代象数易を伝えた。『詩経』では韓愈撰と仮託される「詩之序議」が「詩序」の子夏制作を否定している。

唐代は一概に仏教隆盛の時代であったが、その中にあって儒教回帰を唱えたのが、韓愈や李翺たちである。韓愈は著書『原道』で、尭舜から孔子・孟子まで絶えることなく伝授された仁義の「道」こそ仏教・道教の道に取って代わられるべきものだと主張している。李翺は『復性書』において「性」は本来的に善であり、その性に復することで聖人になれるとした。その復性の教えは孔子から伝えられて子思が『中庸』47篇にまとめ、孟子に伝えられたが、秦の焚書坑儒によって失われ、道教・仏教が隆盛するにいたったのだと主張している。彼らの「道」の伝授に関する系統論は宋代の道統論の先駆けとなった。彼らは文学史上、古文復興運動の担い手であるが、古文運動家のいわゆる「文」とは「載道」(道を載せる)の道具であり、文章の字面ではなく、そこに込められた道徳的な精神こそが重要であるとして経文の一字一句にこだわる注疏の学をも批判した。このことが宋代の新しい経学を生む要因の一つとなった。

宋代[編集]
北宋
宋ははじめ唐を継承することを目指しており、儒学においても注疏の学が行われた。聶崇義の『三礼図』、邢昺・孫奭らの『孝経疏』『論語疏』『爾雅疏』がある。南宋になると、漢唐の注疏にこの三疏と『孟子疏』が加えられて『十三経注疏』がまとめられた。

道統論[編集]

しかし、宋の天下が安定した仁宗期になると、唐末の古文復興運動が共感され、漢唐時代は否定されるようになった。漢唐時代には細々と伝承されてきたとする孔子の道に対する系譜が作られ、自己をその最後に置く道統論が盛んになった。例えば、古文家の柳開は「孔子 - 孟子 - 荀子 - 揚雄 - 韓愈」の系譜を提出し、石介はこれに隋の王通を加えた。ここに孟子の再評価の動きが起こった。宋初、孟子を評価するものは少なく宋代前期の激しい議論を経てその評価が確定された。王安石は科挙改革で従来の『孝経』『爾雅』に代わって『孟子』を挙げ、南宋になると孫奭撰と仮託されて『孟子注疏』が編まれている。人性論としても伝統的な性三品説から性善説が主張されるようになっていく。逆に性悪説の荀子や性善悪混説の揚雄は評価の対象から外されていった。

漢唐訓詁学の語義のみを重視する解釈学を批判し、その中身である道徳精神を重視する学問が打ち出された。胡瑗・孫復・石介は「仁義礼楽を以て学と為」し、後に欧陽脩によって宋初三先生と称されている。

新学[編集]

神宗期になると、このような前人の主張を総合し、体系的な学問が新たに創始された。その代表が王安石の新学である。王安石は『周礼』『詩経』『書経』に注釈を施して『三経新義』を作り、さらに新学に属する学者たちが他の経書にも注を作った。これら新注は学校に頒布されて科挙の国定教科書となり、宋代を通じて広く読まれた。王安石は特に『周官新義』を重んじ、『周礼』に基づく中央集権国家の樹立を目指し、さまざまな新法を実施した。新学に異議を唱えたものに程・程頤らの洛学(道学)、蘇軾・蘇轍らの蜀学、張載らの関学があった。12世紀を通じてこれらの学派は激しく対立したが、南宋になると、新学優位から次第に道学優位へと傾いていった。

天論[編集]

この時代、「天」をめぐる考え方に大きな変化が現れた。それまでの天は人格的であり意志を持って人に賞罰を下すとされたが、宋代以降、天は意志をもたない自然的なものであり、天と人とを貫く法則にただ理があるとされた。その先鞭をつけたのは中唐の柳宗元の「天説」・劉禹錫の『天論』であり、北宋においては欧陽脩の『新唐書』五行志・王安石の『洪範伝』・程頤の『春秋伝』などに見られる。程頤の理・程の天理は後の朱熹に影響を与えた。このような天観の変化によって『易経』を中心として新しい宇宙生成論が展開された。邵雍は「先天図」を作って「数」で宇宙生成を説明し、周敦頤は「太極図」に基づいて『太極図説』を著し、「無極→太極→陰陽→五行→万物化生」の宇宙生成論を唱えた(朱熹は無極=太極と読み替えた)。また張載は「太虚即気」説を唱え、世界の存在を気が離散して流動性の高いあり方を「太虚」、気が凝固停滞してできているものを「万物」とした。この気には単なる宇宙論にとどまらず道徳的な「性」が備わっており、「太虚」の状態の性を「天地の性」として本来的な優れたものとし、「万物」の状態の性を「気質の性」として劣化したものとした。こういった唐宋変革期のパラダイムシフトは南宋になると体系的な思想として総合され、朱子学が形成されることになる。

南宋時代[編集]

宋朝は北方を金に占領され、南渡することになった。この時代、在朝在野を問わず新学と洛学が激しく争った。南宋初、程頤の直弟子である楊時は北宋亡国の責任は王安石の新学にあるとして科挙に王安石の解釈を用いるべきではないと高宗に進言し、『三経義辯』を著して『三経新義』を批判した。程頤に私淑した胡安国は『春秋』に注して『胡氏春秋伝』を著し、『周礼』に基づく新学を批判した。謝良佐の弟子である朱震は邵雍の『皇極経世書』、周敦頤の『通書』といった象数易と『程氏易伝』や張載の『正蒙』といった義理易を総合して『漢上易伝』を著し、王安石や蘇軾の易学に対抗した。新学を重んじた重鎮秦檜の死後、高宗によって新学の地位は相対化された。

朱熹[編集]

孝宗の時代には、後に朱子学と呼ばれる学術体系を構築した朱熹が現れる。洛学の後継者を自認する朱熹は心の修養を重視して緻密な理論に基づく方法論を確立した。彼は楊時の再伝弟子という李侗との出会、胡安国の子胡宏の学を承けた張栻(湖湘学派)との交友によって心の構造論・修養法(主敬静座)への思索を深め、40歳の時、張載の言葉という「心は性と情とを統べる」と程頤の「性即理」による定論を得、一家を成して閩学(びんがく)を起こした。宇宙構造を理気二元論で説明し、心においても形而上学的な「理」によって規定され、人間に普遍的に存在する「性」と、「気」によって形作られ、個々人の具体的な現れ方である「情」があるとし、孟子に基づいて性は絶対的に善であるとした。そして、その「性」に立ち戻ること、すなわち「理」を体得することによって大本が得られ万事に対処することができるとし、そのための心の修養法に内省的な「居敬」と外界の観察や読書による「格物」とを主張した。経学では、五経を学ぶ前段階として四書の学を設け、『四書集注』を著した。さらに『易経』には経を占いの書として扱った『周易本義』、『詩経』には必ずしも礼教的解釈によらず人の自然な感情に基づく解釈をした『詩集伝』、「礼経」には『儀礼』を経とし『礼記』を伝とした『儀礼経伝通解』を著した。『書経』には弟子の蔡沈に『書集伝』を作らせている。朱熹の弟子には、黄榦、輔広、邵雍の易学を研鑽した蔡元定と『書集伝』を編纂した蔡沈父子、『北渓字義』に朱熹の用語を字書風にまとめた陳淳などがいる。

同時代、永康学派の陳亮や永嘉学派の葉適(しょうせき)は、聖人の道は国家や民衆の生活を利することにあるとする事功の学を唱えて自己の内面を重視する朱熹を批判した。江西学派の陸九淵は心の構造論において朱熹と考えを異にし、心即理説にもとづく独自の理論を展開した。朱熹・陸九淵の両者は直に対面して論争したが(鵝湖の会)、結論は全く出ず、互いの学説の違いを再確認するに留まった。

道学[編集]

陸九淵の学は明代、王守仁によって顕彰され、心学(陸王心学)の系譜に入れられた。この時代、洛学の流派は朱熹の学を含めて道学と呼ばれるようになり一世を風靡した。一方、鄭樵・洪邁・程大昌らが経史の考証をもって学とし、道学と対峙している。

寧宗の慶元3年(1197年)、外戚の韓侂冑が宰相趙汝愚に与する一党を権力の座から追放する慶元の党禁が起こり、趙汝愚・周必大・朱熹・彭亀年・陳傅良・蔡元定ら59人が禁錮に処された。その翌年、偽学の禁の詔が出され、道学は偽学とされて弾圧を受けることになった。朱熹は慶元6年(1200年)、逆党とされたまま死去した。偽学禁令は嘉定4年(1211年)に解かれた。

理宗はその廟号「理」字が示すとおり道学を好み、朱熹の門流、魏了翁・真徳秀らが活躍した。真徳秀の『大学衍義』は後世、帝王学の教科書とされている。度宗の時には『黄氏日抄』の黄震、『玉海』『困学紀聞』で知られる王応麟がいる。いずれも朱熹の門流で学術的な方面に大きな役割を果たした。

元代[編集]

従来、金では道学は行われず、モンゴルの捕虜となった趙復が姚枢・王惟中に伝えたことによって初めて道学が北伝したとされてきたが、現在では金でも道学が行われていたことが知られている。

元代、姚枢から学を承けた許衡が出て、朱子学が大いに盛んになった。元は当初、金の継承を標榜しており南宋は意識されていなかった。許衡はクビライの近侍にまで至り、朱子学を元の宮廷に広めた。南人では呉澄が出て朱子学を大いに普及させた。彼は朱子学にも誤りがあるとして理気論や太極論の修正を行い、陸九淵の学の成果を積極的に導入している。許衡と呉澄の2人は後に元の二大儒者として北許南呉と称された。

元代、科挙で一大改革が起こった。漢人採用の科挙において依拠すべき注釈として『十三経注疏』と並行して朱子学系統の注釈が選ばれたのである。これによって朱子学の体制教学化が大いに進んだ。

明代[編集]

明を興した太祖朱元璋のもとには劉基や宋濂といった道学者が集まった。劉基は明の科挙制度の制定に取り組み、出題科目として四書を採用し、また試験に使う文章に後に言う「八股文」の形式を定めた。宋濂は明朝の礼制の制定に尽力した。宋濂の学生には建文帝に仕えて永楽帝に仕えることを潔しとしなかった方孝孺がいる。

永楽帝は胡広らに道学の文献を収集させて百科事典的な『四書大全』『五経大全』『性理大全』を編纂させ、広く学校に頒布した。この三書はその粗雑さが欠点として挙げられるが、一書で道学の諸説を閲覧できる便利さから科挙の参考書として広く普及した。『四書大全』『五経大全』の頒布により科挙で依拠すべき経羲解釈に『十三経注疏』は廃され、朱子学が体制教学となった。

明代前期を代表する道学者として薛瑄・呉与弼が挙げられている。薛瑄は、朱熹が理先気後とするのに対して理気相即を唱え、また「格物」と「居敬」では「居敬」を重んじた。呉与弼は朱熹の理論の枠内から出ず、もっぱらその実践に力をそそいだとされるが、その門下から胡居仁・婁諒・陳献章が出た。胡居仁は排他的に朱子学を信奉しその純化に努めた人物である。婁諒は、居敬と著書による実践を重んじたが、胡居仁にその学は陸九淵の学で、経書解釈も主観的だと非難されている。陳献章は静坐を重んじたことで知られており、胡居仁からその学は禅だと批判された。陳献章門下には王守仁と親交が深かった湛若水がいる。

王陽明[編集]

明代中期、王守仁(号は陽明)は、朱熹が理を窮めるために掲げた方法の一つである『大学』の「格物致知」について新しい解釈をもたらした。朱熹は「格物」を「物に格(いた)る」として事物に存在する理を一つ一つ体得していくとしたのに対し、王守仁はこれを「物を格(ただ)す」とし、陸九淵の心即理説を引用して、理は事事物物という心に外在的に存在するのではなく、事事物物に対している心の内の発動に存在するのだとした。「致知」については『孟子』にある「良知」を先天的な道徳知とし、その良知を遮られることなく発揮する「致良知」(良知を致す)だとした。そこでは知と実践の同時性が強調され、知行同一(知行合一)が唱えられた。致良知の工夫として初期には静坐澄心を教えたが、ともすれば門人が禅に流れる弊があるのを鑑み、事上磨練を説いた。道学の「聖人、学んでいたるべし」に対し、人は本来的に聖人であるとする「満街聖人」(街中の人が聖人)という新たな聖人観をもたらした。王守仁の学は陽明学派(姚江学派)として一派をなし、世に流行することになった。

この時代、朱熹の理気二元論に対し異論が唱えられるようになり、気の位置づけが高められ、理を気の運行の条理とする主張がなされた。道学的な枠組みに準拠しつつこの説を唱えた代表的な人物として羅欽順がいる。王守仁などは生生の気によって構成される世界を我が心の内に包括させ、世界と自己とは同一の気によって感応するという「万物一体の仁」を主張した。さらに、このような気一元論を徹底させたのは王廷相である。彼は「元気」を根元的な実在として朱熹の理説を批判し、「元気の上に物無く、道無く、理無し」として気の優位性を主張し、人性論においては人の性は気であって理ではなく、善悪を共に備えているとした。

理に対する気の優位性が高まるなか、気によって形作られるとされる日常的な心の動き(情)や人間の欲望(人欲)が肯定されるようになっていく。王守仁も晩年、心の本体を無善無悪とする説を唱えている。弟子の王畿はこれを発展させて心・意・知・物すべて無善無悪だとする四無説を主張したが、同門の銭徳洪は意・知・物については「善を為し悪を去る」自己修養が必要とした四有説を主張してこれに反対している。以後、無善無悪からは王艮の泰州学派(王学左派)で情や人欲を肯定する動きが顕著になり、明末の李贄(李卓吾)にいたっては「穿衣吃飯、即ち是れ人倫物理」(服を着たり飯を食べることが理)と人欲が完全に肯定された。さらに李贄は因習的な価値観すべてを否認し、王守仁の良知説を修正して「童心」説(既成道徳に乱される前の純粋な心)を唱えることで孔子や六経『論語』『孟子』さえ否定するに到った。

東林学派[編集]

社会・経済が危機的状況に陥った明末になると、社会の現実的な要求に応えようとする東林学派が興った。彼らは陽明学の心即理や無善無悪を批判しつつも人欲を肯定する立場を認め、社会的な欲望の調停を「理」としていく流れを作った。彼らが行った君主批判や地方分権論は清初の経世致用の学へと結実していく。その思想は東林学派の一員である黄尊素の子で、劉宗周の弟子である黄宗羲の『明夷待訪録』に総括されることになる。

朱元璋の六諭[編集]

明代は儒教が士大夫から庶民へと世俗化していく時代である。朱元璋は六諭を発布して儒教的道徳に基づく郷村秩序の構築を目指し、義民や孝子・節婦の顕彰を行った。明代中期以後、郷約・保甲による郷民同士の教化互助組織作りが盛んになり、王守仁や東林学派の人士もその普及に尽力している。これにより儒教的秩序を郷村社会に徹底させることになった。

一方、王守仁と同時代の黄佐は郷村社会で用いられる郷礼を作るため朱熹の『家礼』を参考に『泰泉郷礼』を著した。朱熹の『家礼』は元から明にかけて丘濬『家礼儀節』の改良を経ながら士大夫層の儀礼として流行していたが、明末、宗族という家族形態とともに庶民にまで普及した。王艮の泰州学派には樵夫や陶匠・田夫などが名を連ねており、儒教が庶民にまで広く浸透した姿が伺える。

明代は史書に対する研究が盛んな時代であったが、中期以後、経書に対する実証学的研究の萌芽も見られる。梅鷟は『尚書考異』を著し、通行の「古文尚書」が偽書であることを証明しようとした。陳第は『毛詩古音考』を著し、音韻が歴史的に変化していることを明言し、古代音韻学研究の道を開いている。

清代[編集]

明朝滅亡と異民族の清朝の成立は、当時の儒学者たちに大きな衝撃を与えた。明の遺臣たちは明滅亡の原因を、理論的な空談にはしった心学にあると考え、実用的な学問、経世致用の学を唱えた。その代表は黄宗羲や顧炎武、王夫之である。彼らはその拠り所を経書・史書に求め、六経への回帰を目指した。そのアプローチの方法は実事求是(客観的実証主義)であった。彼らの方法論がやがて実証的な古典学である考証学を生む。

一方、顔元は朱子学・陽明学ともに批判し、聖人となる方法は読書でも静坐でもなく「習行」(繰り返しの実践)であるとする独自の学問を興した。「格物」の「格」についても「手格猛獣」(手もて猛獣を格(ただ)す)の「格」と解釈して自らの体で動くことを重視し、実践にもとづく後天的な人格陶冶を主張した。顔元の学は弟子の李塨によって喧伝され、顔李学派と呼ばれる。

こういった清初の思想家たちは理気論上、一様に気一元論であり、朱子学や陽明学の先天的に存在するとした「理」を論理的な存在として斥け、現実世界を構成する「気」の優位を主張して人間の欲望をも肯定している。このように明代中期以後、気一元論の方向性で諸説紛々たる様相を見せている理気論はその後、戴震が「理」を「気」が動いた結果として現れる条理(分理)とし、気によって形成された人間の欲望を社会的に調停する「すじめ」と定義するにいたって一応の決着を見る。

考証学[編集]

清の支配が安定してくると、実学よりも経書を始めとする古典を実証的に解明しようとする考証学が興った。毛奇齢は朱子学の主観的な経書解釈を批判し、経書をもって経書を解釈するという客観的な経書解釈の方向性を打ち出し、『四書改錯』を著して朱熹の『四書集注』を攻撃した。閻若璩は『尚書古文疏証』を著して「偽古文尚書」が偽書であることを証明し、「偽古文尚書」に基づいて「人心道心」説を掲げる朱子学に打撃を与えた。胡渭は『易図明弁』を著し朱子学が重視した「太極図」や「先天図」「河図洛書」といった易学上の図が本来、儒教とは関連性がなかったことを証明した。彼らの学は実証主義的な解釈学たる考証学の礎を築いた。

乾隆・嘉慶年間は考証学が隆盛した時代である。その年号から乾嘉の学と呼ばれる。顧炎武の流れをくむ浙西学派がその主流であり、恵棟を始めとする蘇州を中心とする呉派、安徽出身の戴震らの影響を受けた皖派(かんぱ)がある。彼らは音韻学・文字学・校勘学や礼学などに長じていた。特に後漢の名物訓詁の学を特徴とする古文学に基づいており、漢学とも呼ばれる。一方、黄宗羲の流れをくむ浙東学派は史学に長じ、その代表である章学誠は六経皆史の説を唱えて、経書の史学的研究に従事した。やや後れて阮元を始めとする揚州学派が起こり、乾嘉漢学を発展させている。

道光以降になると、常州学派の前漢今文学が隆盛した。彼らは今文経(特にその中心とされる『春秋公羊伝』)こそ孔子の真意を伝えているとし、乾嘉の学が重んじる古文経学を排除して今文経、ひいては孔子へと回帰することを目指した。その拠り所とする公羊学に見られる社会改革思想が清末の社会思潮に大きな影響を与え、康有為を始めとする変法自強運動の理論的根拠となった。

近代[編集]

アヘン戦争の敗北により西洋の科学技術「西学」を導入しようという洋務運動が興った。洋務派官僚の曾国藩は朱子学を重んじて六経のもとに宋学・漢学を兼取することを主張し、さらに明末清初の王夫之を顕彰して実学の必要を説いた。張之洞は康有為の学説に反対して『勧学篇』を著し、西学を導入しつつ体制教学としての儒教の形を守ることを主張している。

孔教運動[編集]

一方、変法自強運動を進める康有為は、『孔子改制考』を著して孔子を受命改制者として顕彰し、儒教をヨーロッパ風の国家宗教として再解釈した孔教を提唱した。康有為の孔教運動は年号紀年を廃して孔子紀年を用いることを主張するなど従来の体制を脅かすものであったため、清朝から危険視され『孔子改制考』は発禁処分を受けた。変法派のなかでも孔教運動は受け入れられず、これが変法運動挫折につながる一つの原因となる。しかし、辛亥革命が起こると、康有為は上海に孔教会を設立して布教に努め、孔教を中華民国の国教にする運動を展開した。彼らの運動は信仰の自由を掲げる反対派と衝突することとなり、憲法起草を巡って大きな政治問題となった。その後、1917年、張勲の清帝復辟のクーデターに関与したため、孔教会はその名声を失うことになる。康有為が唱える孔子教運動には、弟子の陳煥章が積極的に賛同し、中国及びアメリカで活動している。この他に賛同した著名人として厳復がいる。

現代[編集]

新文化運動[編集]

1910年代後半になると、争いを繰り返す政治に絶望した知識人たちは、文学や学問といった文化による啓蒙活動で社会改革を目指そうとする新文化運動を興した。雑誌『新青年』を主宰する陳独秀・呉虞・魯迅らは「孔家店打倒」をスローガンに家父長制的な宗法制度や男尊女卑の思想をもつ儒教を排斥しようとした。一方、雑誌『学衡』を主宰する柳詒徴・呉宓・梅光迪・胡先驌ら学衡派は、儒学を中心とする中国伝統文化を近代的に転換させることによって中西を融通する新文化を構築することを主張している。

清末から隆盛した今文学派による古典批判の方法論は古籍に対する弁偽の風潮を興し、1927年、顧頡剛を始めとする疑古派が経書や古史の偽作を論ずる『古史弁』を創刊した。顧頡剛は「薪を積んでいくと、後から載せたものほど上に来る」という比喩のもと、古史伝承は累層的に古いものほど新しく作られたという説を主張し、尭・舜・禹を中国史の黄金時代とする儒教的歴史観に染まっていた知識人に大きな衝撃を与えた。さらに銭玄同は六経は周公と無関係であるばかりでなく孔子とも無関係である論じ、孔子と六経の関係は完全に否定されるに到った。
新儒家 熊十力
梁漱溟
牟宗三
唐君毅
杜維明


中華人民共和国時代[編集]

中華人民共和国では「儒教は革命に対する反動である」として弾圧され、特に文化大革命期には、批林批孔運動として徹底弾圧された。多くの学者は海外に逃れ、中国に留まった熊十力は激しい迫害を受け自殺したといわれる。儒教思想が、社会主義共和制の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられていためとされる。なお毛沢東は三国志を愛読し、曹操をとりわけ好んだといわれるが、曹操は三国時代当時に官僚化していた儒者および儒教を痛烈に批判している。

再評価と「儒教社会主義」[編集]

だが、21世紀に入ると儒教は弾圧の対象から保護の対象となり再評価されつつある。2005年以降、孔子の生誕を祝う祝典が国家行事として執り行われ、論語を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。文化大革命期に徹底的に破壊された儒教関連の史跡及び施設も近年になって修復作業が急速に行われている。

ほかにも改革開放が進む中で儒学や老荘思想など広く中国の古典を元にした解釈学である国学が「中華民族の優秀な道徳倫理」として再評価されるようになり国学から市場経済に不可欠な商業道徳を学ぼうという機運が生まれている。国家幹部は儒教を真剣に学ぶべきだという議論も生まれている[12]。

ダニエル・A・ベル(Daniel A Bell)北京清華大学哲学教授によれば、近年、中国共産党は「儒教社会義」または新儒教主義(宋の時代にもあった)を唱えている[13]。

朝鮮における儒教[編集]

詳細は「朝鮮の儒教」を参照





朝鮮の儒学者
朝鮮は儒教文化が深く浸透した儒教文化圏であり、現在でもその遺風が朝鮮の文化の中に深く残っている。それだけに、恩師に対する「礼」は深く、先生を敬う等儒教文化が良い意味で深く浸透しているという意見もある。一方で、李氏朝鮮時代に儒教を歴代の為政者が群集支配をするために悪用してきた弊害も存在しているという意見もある。
李退渓:嶺南学派
李栗谷:畿湖学派

日本における儒教[編集]

「日本の儒教」を参照

儒学者一覧[編集]

「儒学者一覧」を参照

儒教研究上の論争[編集]


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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2009年11月)

儒教の長い歴史の間には、古文・今文の争い、喪に服する期間、仏教との思想的関係、理や気の捉え方など様々な論争がある。現在の学術研究、特に日本における論争のひとつに“儒教は宗教か否か”というものがある。現在、“儒教は倫理であり哲学である”とする考えが一般的[14]だが、孟子以降天意によって総てが決まるとも説かれており、これが唯物論と反する考えになっているという指摘もある。儒教は神の存在を完全に否定している事から“宗教として扱われる思想ではない”という見解が多い。一方、加地伸行などは、宗教を「死生観に係わる思想」と定義した上で、祖先崇拝を基本とする儒教を宗教とみなしている。しかし何れにせよ、その唱える処は宗教に酷似している為、広義の宗教と結論づける事が可能である。

その他の学説[編集]
人性論
天人の辨
義利の辨
名分論
命定論
形神論
正統論
復讐論
道統論
理気論
儒仏道論争
朱陸論争
格物致知
未発已発
良知
無善無悪
万物一体論
井田論
封建論
今文・古文
道器論

孔子廟[編集]

詳細は「孔子廟」および「日本の儒教#関連史蹟」を参照

中国では現在においても、孔子を崇敬する人は多い。中国の各地に孔子を祭る廟がある。これを文廟といい、孔子廟、孔廟、夫子廟ともいう。(特に魯の故地の孔子の旧居跡に作られた孔廟が有名。)中国国内の孔子廟の多くは文化大革命時に破壊されたり損傷を受けている。

日本でも、江戸時代に、幕府が儒教(特に朱子学)を学問の中心と位置付けたため、儒教(朱子学)を講義した幕府や各藩の学校では孔子を祀る廟が建てられ崇敬された。湯島聖堂が、その代表である。

文献[編集]
概説書加地伸行 『儒教とは何か』 中公新書 ISBN 9784121009890
加地伸行 『沈黙の宗教−儒教』 筑摩書房〈ちくまライブラリー〉 ISBN 9784480051998/ ちくま学芸文庫(2011年4月)
串田久治 『儒教の知恵−矛盾の中に生きる』 中公新書 ISBN 9784121016850
鈴木利定 『儒教哲学の研究』 明治書院 ISBN 9784625483028
T・フーブラー、D・フーブラー 『儒教 シリーズ世界の宗教』 鈴木博訳 青土社 ISBN 9784791752980
狩野直禎編 『図解雑学 論語』ナツメ社、2001年、ISBN 4816330461
緑川佑介 『孔子の一生と論語』 明治書院、2007年、ISBN 9784625684036
土田健次郎編 『21世紀に儒教を問う』 早稲田大学出版部〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2010年、ISBN 9784657102225
永冨青地編 『儒教 その可能性』 早稲田大学出版部〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2011年、ISBN 9784657110145
伝記白川静 『孔子伝』 中公文庫 ISBN 4122041600
諸橋轍次 『如是我聞 孔子伝』(上下)、大修館書店、1990年
金谷治 『孔子』 講談社学術文庫、1990年、ISBN 9784061589353
武内義雄 『論語之研究』 岩波書店、1939年、ASIN B000J9BC3Q、復刊
津田左右吉 『論語と孔子の思想』 岩波書店、1946年、ISBN BN07038153、復刊
宮崎市定 『論語の新しい読み方』 礪波護編、岩波現代文庫、2000年、ISBN 4006000227
五経易経 今井宇三郎 『易経 新釈漢文大系』 全3巻:明治書院 
(上)ISBN 9784625570230、(中)ISBN 9784625570247、(下)ISBN 9784625673146
本田済 『易 〈中国古典選〉』 新版:朝日選書 ISBN 9784022590107
高田眞治・後藤基巳 『易経』 岩波文庫 
(上)ISBN 9784003320112、(下)ISBN 9784003320129

書経 加藤常賢  『書経 (上) 新釈漢文大系』 明治書院 ISBN 9784625570254
小野沢精一 『書経 (下) 新釈漢文大系』 明治書院 ISBN 9784625570261
池田末利 『尚書 全釈漢文大系』 集英社 

詩経 石川忠久 『詩経 新釈漢文大系』 全3巻:明治書院、新書漢文大系(抄訳版)がある。 
(上)ISBN 9784625571103、(中)ISBN 9784625571111、(下)ISBN 9784625673009
白川静 『詩経国風』 平凡社東洋文庫、ISBN 9784582805185
白川静 『詩経雅頌』 平凡社東洋文庫 全2巻、(1)ISBN 9784582806359 、(2)ISBN 9784582806366

礼記 竹内照夫 『礼記 新釈漢文大系』 明治書院 全3巻
(上)ISBN 9784625570278、(中)ISBN 9784625570285 、(下)ISBN 9784625570292
『礼記』(「漢文大系」冨山房、初版1913年。のち改訂版)
桂湖村 『礼記』(上下)、漢籍国字解全書:早稲田大学出版部、初版1914年
安井小太郎 『礼記』(「国訳漢文大成」国民文庫刊行会、初版1921年)
下見隆雄 『礼記』(明徳出版社〈中国古典新書〉、初版1973年)
市原亨吉など 『礼記 全釈漢文大系』(集英社 全3巻)

春秋 春秋左氏伝 鎌田正 『春秋左氏伝 新釈漢文大系』 明治書院 全4巻
(1)ISBN 9784625570308 、(2)ISBN 9784625570315 、(3)ISBN 9784625570322、(4)ISBN 9784625570339
竹内照夫 『春秋左氏伝 全釈漢文大系 4.5.6』、集英社
小倉芳彦 『春秋左氏伝』、岩波文庫全3巻 (上)ISBN 9784003321614、(中)ISBN 9784003321621、(下)ISBN 9784003321638

春秋公羊伝 林羅山訓点 菜根出版(復刻)
『世界文学全集 3 五経・論語』、公羊伝 (日原利国訳) 、筑摩書房、1970年 日原利国著 『春秋公羊伝の研究』 創文社〈東洋学叢書〉、1978年


春秋穀梁伝 野間文史著 『春秋学 公羊伝と穀梁伝』 研文出版〈研文選書〉、2001年、ISBN 9784876362011


四書大学 宇野哲人 『大学』 講談社学術文庫 1983年 ISBN 4061585940
金谷治 『大学 中庸』 岩波文庫 2004年 ISBN 4003322215
赤塚忠 『大学・中庸 〈新釈漢文大系2〉』 明治書院 1998年 ISBN 4625570026

中庸 島田虔次 『大学・中庸 〈中国古典選〉』 朝日新聞社、1967年/ 朝日文庫上下、1978年
宇野哲人 『中庸』 講談社学術文庫 1983年 ISBN 4061585959
俣野太郎 『大学・中庸』 明徳出版社〈中国古典新書〉、1968年 

論語 吉田賢抗 『論語 〈新釈漢文大系 1〉』 明治書院、初版1960年、ISBN 4625570018
吉川幸次郎 『論語 〈中国古典選〉』(上下)、新版:朝日選書、1996年
金谷治 『論語 新訂』 岩波文庫、1999年、ISBN 4003320212 
宮崎市定 『現代語訳 論語』 岩波現代文庫、2000年、ISBN 4006000170
貝塚茂樹 『論語』 中公文庫/ 新版:中公クラシックス全2冊、2002年
加地伸行 『論語』 講談社学術文庫、2004年、増訂版2009年

孟子 小林勝人 『孟子』 岩波文庫 (上)ISBN 9784003320419 、(下)ISBN 9784003320426
貝塚茂樹 『孟子』 中公クラシックス版、抄訳版
内野熊一郎・加藤道理 『孟子 〈新釈漢文大系 4〉』、明治書院、新書漢文大系(抄訳版)がある。
宇野精一 『孟子 全釈漢文大系2』 集英社

関連古典周礼
儀礼  池田末利編訳、東海大学出版会 〈東海古典叢書、全5巻〉

爾雅
孝経 加地伸行 『孝経』、講談社学術文庫、初版2007年
栗原圭介 『孝経 新釈漢文大系35』 明治書院、ISBN 9784625570353

荀子 金谷治 『荀子』 岩波文庫(上下)、(上) ISBN 9784003320815 、(下) ISBN 9784003320822
藤井専英 『荀子 新釈漢文大系 5・6』 明治書院、新書漢文大系(抄訳版)がある。
金谷治・佐川修 『荀子 全釈漢文大系 7・8』 集英社

大戴礼記 栗原圭介 『大戴礼記 新釈漢文大系113』 明治書院、ISBN 9784625571138


史書[編集]
史記 孔子世家
仲尼弟子列伝
孟子荀卿列伝
儒林列伝

漢書 董仲舒伝
儒林伝

孔子家語 宇野精一訳 『孔子家語 新釈漢文大系53』 明治書院 ISBN 9784625570537。新書漢文大系(抄訳版)がある。  
藤原正訳 『孔子家語』 岩波文庫 ISBN 9784003320228

朱子学朱子 『論語集註』 笠間書院 ISBN 9784305001559
朱子 『近思録』 湯浅幸孫訳著、たちばな出版(選書版)  上:ISBN 9784886926036、中:ISBN 9784886926043 、下:ISBN 9784886926050
『「朱子語類」抄』 三浦國雄訳注、講談社学術文庫 ISBN 9784061598959
島田虔次著 『朱子学と陽明学』 岩波新書 ISBN 9784004120285
陽明学王陽明 『伝習録』 溝口雄三訳、中公クラシックス ISBN 9784121600820
朝鮮の儒教と儒学
朝鮮時代の五礼(吉礼、嘉礼、賓礼、軍礼、凶礼)の礼法を記した「国朝五礼儀」と、世宗在位期間の歴史を記録した「世宗荘憲大王実録」に基づいて。
日本の儒学荻生徂徠 『論語徴』 小川環樹訳註、平凡社東洋文庫 (1)ISBN 9784582805758 (2)ISBN 9784582805765

脚注[編集]

1.^ 『禮記・中庸』
2.^ なお儒教を宗教として信仰せずに儒教を研究する学者は、「儒学者」といわずに、「儒教研究者」と呼ぶべきとする見方もある[要出典]。ただし京都大学教授の吉川幸次郎や、評論家の呉智英は、自らを儒者であると主張し、儒教の立場からさまざまな立論を行っている。
3.^ 荘子天運篇
4.^ 朱子・語類巻14より。これは即ち、四書の読み順まで記している。(儒教の世界観においては)天から与えられた至徳を明らかにする事、知を致し物に格る。中こそは天下の大本であり、和こそは天下の達道である。中と和を極致に達せしめた時、天地の秩序は定まり、万物は生成発展する。儒教の目的とその目的達成への目標が掲げられたのが「三綱領」・「八条目」であり、朱熹は道統論を唱え自らの「学」の正当性を主張した。尭舜孔孟に「御目にはかかわらずとも、あの道理が心へ来れば道統、朱子の理与心と云はるるが大切の事なり。孟子の後あとの賑かな漢の經術に斯く云は見て取たるに極まる。偖、文章は下卑たこと。孟子と文選幷べたときに、文の上では腕押しなり(=孟子を文選の上位に置く事は愚かしき事)。韓氏が見て、孟子の後道を得たもの無し、と。そこで程子のみ来て、非是蹈襲前人云々なり。道統は中庸の心法、それは大学の事。其致知がすま子ば道統は得られぬ。」
5.^ 『周礼・春官宗伯』
6.^ 論語 衛霊公第十五 10
7.^ 『論語』の泰伯篇
8.^ 『易経 下繫辭傳』
9.^ 胡適論文「説儒」(1924年)
10.^ 白川「孔子伝」
11.^ 『史記』孔子世家
12.^ 園田茂人 『不平等国家 中国--自己否定した社会主義のゆくえ』 中央公論新社、2008年5月25日、177-178頁。ISBN 9784121019509
13.^ [http://www.guardian.co.uk/commentisfree/belief/2009/jul/26/confucianism-china What can we learn from Confucianism? Daniel A Bell] guardian.co.uk, Sunday 26 July 2009]。 2006年の記事
14.^ 湯浅赳男『面白いほどよくわかる 世界の哲学・思想のすべて』日本文芸社、平成17年2月1日改訂第1版、ISBN:4-537-11501-7、p72

関連項目[編集]
十三経
漢唐訓詁学
宋明理学(朱子学・陽明学)
唐君毅
牟宗三
杜維明
聖人








東学(天道教)
反儒
名 (倫理)
分 (倫理)
修身
明経道
明経問者生
進士
科挙
律令制

陰陽家

陰陽家(いんようか)は諸子百家の一つで、六家の一つに数えられる思想集団である。世界の万物の生成と変化は陰と陽の二種類に分類されると言う陰陽思想を説いた。代表的な思想家として騶衍(すうえん。鄒衍と表記する場合もある)や、公孫発などが挙げられる。後、戦国時代末期に五行思想と一体となった陰陽五行思想として東アジア文化圏に広まった。

思想[編集]

陰陽家の思想は主に2つある。
「陰陽説」

世界は「陰」と「陽」、「男」と「女」、「天」と「地」のように、2つのものに分かれ、それらがうまく混じりあって万物が「調和」しているのだ、という考え。
「五行説」

先ほど述べた陰と陽から「木」「火」「土」「金」「水」の五つの要素がうまれ、またその5つの要素から万物が生まれていくという考え。

これら2つを総称して「陰陽五行説」と呼ぶ。

日本での発展[編集]

日本では、この陰陽五行説が安倍晴明ら陰陽師によって発展していった。それで生まれたのが「十干十二支」である。

諸子百家

諸子百家(しょしひゃっか)とは、中国の春秋戦国時代に現れた学者・学派の総称。「諸子」は孔子、老子、荘子、墨子、孟子、荀子などの人物を指す。「百家」は儒家、道家、墨家、名家、法家などの学派。

概要[編集]

前漢初期の司馬談は、諸子百家を六家(六学派)に分類した。
陰陽家
儒家
墨家
法家
名家
道家

班固は『漢書』芸文志で、諸子百家を六家に三家を加えて九流に分類した。
縦横家
雑家
農家

さらに、これに小説家を加えたものを十家としている。

そして、十家に兵家を加えたものを諸子百家という場合が一般的である。

歴史[編集]

春秋時代に多くあった国々は次第に統合されて、戦国時代には7つの大国(戦国七雄)がせめぎ合う時代となっていった。諸侯やその家臣が争っていくなかで、富国強兵をはかるためのさまざまな政策が必要とされた。それに答えるべく下克上の風潮の中で、下級の士や庶民の中にも知識を身につけて諸侯に政策を提案するような遊説家が登場した。 諸侯はそれを食客としてもてなし、その意見を取り入れた。さらに諸侯の中には斉の威王のように今日の大学のようなものを整備して、学者たちに学問の場を提供するものもあった。

その思想は様々であり、政治思想や理想論もあれば、実用的な技術論もあり、それらが渾然としているものも多い。墨家はその典型であり、博愛主義や非戦を唱えると同時に、その理想の実践のための防御戦のプロフェッショナル集団でもあった。儒家も政治思想とされるものの、同時に冠婚葬祭の儀礼の専門家であった。兵家は純粋な戦略・戦術論を唱える学問と考えられがちであるが、実際には無意味な戦争の否定や富国強兵を説くなどの政治思想も含んでいた。

百家争鳴の中で、秦に採用されて中国統一の実現を支援した法家、漢以降の王朝に採用された儒家、民衆にひろまって黄老思想となっていった道家が後世の中国思想に強い影響を与えていった。また、兵家の代表である孫子は、戦術・政治の要諦を見事に短い書物にまとめ、それは後の中国の多くの指導者のみならず、世界中の指導者に愛読された。一方で墨家は、儒教の階級主義を批判して平等主義を唱え、一時は儒家と並ぶ影響力を持ったが、その後衰退している。

イデオロギー

イデオロギー(独: Ideologie, 英: ideology)とは観念の体系。文脈によりその意味するところは異なり、主に以下のような意味で使用される。意味内容の詳細については定義と特徴の項目を参照されること。現在使われるほとんどの用例では、イデオロギーに政治的な意味が含まれていることが多い。





第一次世界大戦時のアメリカ陸軍の募兵ポスター アンクル・サムが「君を陸軍に欲しい 最寄の募兵事務所まで」と呼びかけている
植民地争奪戦争からはじまった第一次世界大戦はアメリカの参戦によってイデオロギー戦争へと変化した
政治シリーズ記事からの派生

政治



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Portal:政治学

表・話・編・歴

世界観のような、物事に対する包括的な観念。
日常生活における哲学的根拠。
ただ日常的な文脈で用いる場合、「イデオロギー的である」という定義はある事柄への認識に対して事実を歪めるような虚偽あるいは欺瞞(ぎまん)を含んでいるとほのめかすこともあり、マイナスの評価を含んでしまうこともある。
主に社会科学の用法として社会に支配的な集団によって提示される観念。殊にマルクス主義においては階級的な立場に基づいた物の見方・考え方。



目次 [非表示]
1 歴史
2 定義と特徴 2.1 マルクス主義による定義
2.2 科学技術とイデオロギーの関係

3 日本におけるイデオロギー研究
4 現代への課題 4.1 マルクス主義的な見方の限界
4.2 構造主義によるイデオロギー終焉論
4.3 経済学におけるイデオロギー終焉論
4.4 多元主義的立場からのイデオロギー終焉論

5 関連文献 5.1 参考文献
5.2 上記参考文献以外のイデオロギーを扱った文献 5.2.1 日本語に翻訳されているもの
5.2.2 海外の文献


6 年譜
7 関連項目
8 脚注


歴史[編集]





デステュット・ド・トラシー
イデオロギーという用語は初め、観念の起源が先天的なものか後天的なものかを中心的な問題とする学の名であった。この用法はデステュット・ド・トラシー(Destutt de Tracy)『イデオロジー原論』(1804-1815)に見られる。

彼に代表される活動家達はイデオローグ(ide'ologues)と呼ばれ、1789年のフランス大革命以降、怪しげなものとして見られていたアンシャン・レジーム時代の思想のなかで啓蒙主義的な自由主義を復興させようとし、革命期から帝政にかけてフランスリベラル学派の創始者、指導的立場となった。

当初は人間の観念に関する科学的な研究方法を指していたが、やがてその対象となる観念の体系そのものをいうようになった。


定義と特徴[編集]

イデオロギーの定義は曖昧で、また歴史上その定義は一様でない。イデオロギーの定義には認識論を含むもの、社会学的なものがあり、互いに矛盾している。しかし、それぞれが有意義な意味を多数もっている。そのためディスクールや同一化思考などの類似概念と置き換え可能ではない。以下イデオロギーの定義の重要な意味内容について、主に認識論や社会学的成果をもとに解説する。
イデオロギーは世界観である。しかしイデオロギーは開かれた世界観であり、対立的な世界観の一部を取り込んでいることがある。イデオロギーは何らかの政治的主張を含み、社会的な利害に動機づけられており、特定の社会集団や社会階級に固有の観念である。にも関わらずイデオロギーは主張を正当化するために自己をしばしば普遍化したりする。またほかのイデオロギーに迎合したり、それを従属させたりする。イデオロギーは極めて政治的である。
同時にイデオロギーは偏った考え方であり、何らかの先入観を含む。イデオロギー的な見方をしている人は何らかの事実を歪曲して見ており、その主張には虚偽や欺瞞を含んでいることがある。イデオロギーは非合理的な信念を含んでいるが、巧妙にそれを隠蔽していることが多い。また事実関係や社会状況の一部を偽り、自己に都合のいいように改変していることがある。
イデオロギーは闘争的な観念である。イデオロギーは何らかの立場を社会において主張、拡大しようとする。また実際ある政治理念が違う立場に立つ政治理念を批判する場合、相手の政治理念が「イデオロギー的である」と指摘することがおこなわれる。イデオロギーはその意味においても何らかの価値観対立を前提としている。またあるひとがある種の政治理念を「イデオロギー」として定義している場合、そのひとはその政治理念とは異なった立場に立っていることが多い。





大正デモクラシーの政治的イデオロギーともいえる天皇機関説を述べた美濃部達吉ある政治理念がイデオロギーであるかそうでないかは多くの場合、理念の内容それ自体よりもその理念が拡大しようとしている立場やその理念の社会状況に対する評価の仕方によって判断される。大抵の政治理念はイデオロギーになりうる。またある政治理念に「イデオロギー的である」という評価を加えた場合、それはその政治理念がある種の問題解決において本質を誤った見方をしていることを示す。
日本において戦前はリベラルな思想とされ、リベラリストから支持されていた天皇機関説は、戦後天皇主権を認めるその立場が同じリベラリストの側から保守主義を擁護するイデオロギーであると批判された。戦前は天皇主権であることは当たり前であったから、国体論や軍国主義といったイデオロギーに対抗する上で天皇機関説は正当でリベラルな思考様式であるとされたが、戦後天皇主権が自明のものでなくなったとき、天皇主権を前提とする天皇機関説によって天皇制を擁護することはイデオロギー的行為とされたのである。
以上のことから、イデオロギーは表面上中立的な政治理念を装っていることがあるが、実際は政治理念それ自体とは別個に隠蔽された政治目的を持っていることがある。イデオロギーは政治理念と政治目的が何らかの形において結合したものということができる。中立的な政治理念とイデオロギーはこの限りにおいて明確に区別される。また何がイデオロギーか何がイデオロギーでないかは立場や時代状況により一定ではない。

マルクス主義による定義[編集]





階級闘争とイデオロギー研究を結びつけたマルクス
以下はイデオロギーの定義で代表的なものと考えられるマルクスの定義をあげる。

マルクス主義におけるイデオロギーとは、観念そのものではなく、生産様式などの社会的な下部構造との関係性においてとらえられる上部構造としての観念を意味している。マルクスは最初、ヘーゲルとその後継者たちによって示された観念の諸形態について、社会的な基盤から発しながらあたかも普遍的な正当性を持つかのようにふるまう、と批判したことからイデオロギーの階級性について論じるようになる。

マルクス=エンゲルス共著『ドイツ・イデオロギー』(1845年)においてはじめてイデオロギーという用語が登場し、階級社会におけるイデオロギーの党派性が分析された。すなわち、階級社会では特定の階級が利益を得るための特定のイデオロギーが優勢になり、上部構造と下部構造の相互作用が生じて、必然的に自らを正当化するというのである。マルクスはイデオロギーのこのような性質を虚偽意識としてのイデオロギーと呼び、階級的な利害に基づいて支配体制を強化するものであると考えた。

この分析に従えば、階級制度は必ずイデオロギーを伴うものであるから、イデオロギーを批判することは階級闘争の中で最も重要な活動である。

科学技術とイデオロギーの関係[編集]





イデオロギーを含む政治行為が科学技術の目的合理性にしたがうと述べたハーバーマス
ユルゲン・ハーバーマスは、現代社会では科学技術が個人の思想とは関係なく客観的に体系化されており、目的合理性において科学技術の体系は絶対的な根拠を持っているとした。ゆえにあらゆる政治行為の価値はまず目的合理性において科学的あるいは技術的に正当なものであるかどうかの判断抜きには成立せず、イデオロギーが何らかの制度を社会に確立するときに目的合理性に合致しているかどうかということは大きな影響を持つとされた。ときにはこのような目的合理性がそれ自体で支配的な観念となり、人間疎外をもたらすと指摘した。すなわちこのような目的合理性が支配的な社会では、文化的な人間性は否定され、人間行動は目的合理性に適合的なように物象化されていくと警告したのである。これは後述のシュミットに通じる考え方である。

しかし一方でトーマス・クーンのパラダイム理論が示唆するように、歴史的には科学理論も技術的に十分検証可能でないときは、必ずしも目的合理的でない、思想的な理論信仰によって主流な科学理論 −したがって科学の方向性も− が決定されてきたということが指摘されている。

このような見方に従えば、歴史的には科学とイデオロギー(と呼びうるような思想信条)の間に相補的関係が成り立ってきたということもできる。たとえば天動説はキリスト教信仰と密接に結びついていたし、地動説についても太陽崇拝であるヘルメース信仰との関連性を指摘する説がある。技術的な進歩によって地動説の正しさが裏付けられたが、技術的に完全な検証が不可能な段階では、どちらの説をとるかは思想信条によって判断されたという見方である。実際にダーウィンの進化論を否定して、聖書的な創造論を学校で教えるべきという運動がアメリカ合衆国で広汎に存在するが、これは進化論が技術的には必ずしも完全に検証されているわけでなく、−たとえばパウル・カンメラーによるサンショウウオやサンバガエル、ユウレイボヤの実験[1] のような--現在のダーウィン的な進化論で説明がつかないとされる実験結果が報告されていたり、宇宙物理学や心理学の立場からダーウィン的な進化論と対立するような目的論的な見解 −サイバネティクスによるコンプトン効果の説明[2] や心理学的な目的論など--が提示されていることによる。もちろんこれらの事実はダーウィンの進化論に懐疑を促す事実であっても、創造論を積極的に支持するような内容ではない。とはいえ、科学理論に対して技術的に検証不可能である場合、思想信条により科学理論が選択されうることは多くの科学史家が認めるところである。

したがってあらゆるイデオロギーが科学技術のような、客観的な目的合理性の上に成り立っているならば、その次元での正当性を論じることによってイデオロギー的政治行為と正しい政治行為の間に判別が可能であると考えられる。目的合理性において明らかに欺瞞を含む政治行為が、正当な政治行為であるわけはないから、社会的なコミュニケーションのレベルでのイデオロギーの摘出には十分効果を期待できる分析であるといえる。

しかしハーバーマスも指摘しているように[要出典]、このような見方の欠点は、イデオロギーが目的合理性に則った社会的なコミュニケーションの場のみで成り立っているかという点に盲目なことである。上述したように、イデオロギーの核心をなす信条や信仰は目的合理性とはほとんど関係ないから、イデオロギー的政治理念が目的合理性に則った政治行為を主張するということも成り立つため、このようなイデオロギーの分析にはあまり有効ではない。

また技術的発展によってイデオロギー的な観念支配から脱却できるかという問題がある。

カール・シュミットはハーバーマスが目的合理性と呼んだような、技術を中立的で、したがって中性的であると見なす考え方を技術信仰と呼んで非難している。技術信仰の立場に立つと、中立で中性的な技術の進歩により、あらゆる思想的な対立は解消されていくとされる。しかしシュミットによれば、このような技術は中立的であるがゆえに、さまざまな政治理念に武器として奉仕することができる。技術は中立的ではあるが、政治的に中性的ではない。技術は道徳的な目的に奉仕することもあるが、逆に非人道的な目的に奉仕することもできる。それゆえに技術的進歩は道徳的進歩ではない。したがって技術の進歩が政治的な対立を解消して、何らかの非政治的な解決をもたらすとは考えられないとした[要出典]。

シモーヌ・ヴェイユは技術のもたらす生産性の発展が必ずしも約束されたものではないこと、ある種の濫費形態が排除されても別の濫費形態が生じてくることを指摘している。ヴェイユは具体例としてエネルギー源をあげ、石油や石炭が枯渇した場合、代替されると予想されるエネルギー源が生産性において石油や石炭に勝っているというようなことは簡単に予想されず、社会がエネルギー的に優れた方向へ進化し続けるということを疑問視している。社会の生産力の発展が抑圧を必然的に解消する −なぜならマルクスによれば階級社会が消滅すればイデオロギー的抑圧なるものは存在しなくなるから− というマルクスの見方にも否定的である。またヴェイユは抑圧を批判しているはずのマルクス・レーニン主義が抑圧を生み出していることを指摘し、このことは抑圧がどのような政治体制のもとであれ存在していることを表しているとした。したがって社会発展がどんなに進んでも抑圧は存在し、その抑圧の根拠となるイデオロギーは常に存在することになる。ヴェイユによれば抑圧の形態に対し常に注意を払い、研究を怠らないことでイデオロギーの潜在を明らかにしていくべきだと述べている[要出典]。

日本におけるイデオロギー研究[編集]

日本におけるイデオロギー研究の先駆としては幸徳秋水の『廿世紀之怪物帝国主義』が注目される。この著作において幸徳は、当時の政府の膨張政策を愛国主義と軍国主義の産物であると分析し、おもに道徳的立場から批判している。当時の膨張主義が非合理な野性に発していること、国家生存の原因を領土の広狭であると偽っていること、挙国一致の名のもとに政治闘争を封殺していることなど、そのイデオロギー的性格を指摘している。

大正期の哲学者である左右田喜一郎は『文化価値と極限概念』のなかで当時の官僚的な政府の哲学を宗教的非合理的であると批判し、あらゆる文化価値を同等に尊重する文化主義・人格主義を主張した。すなわち日本の独自性という欺瞞を掲げ、学問・政治の自由を抑圧している藩閥政府イデオロギーに対して大正デモクラシーを擁護した。しかし同時にプロレタリア独裁を掲げる「社会民主主義」を階級主義的な「限られたる民主主義」と定義し、イデオロギー的に抑圧した(左右田のいう「社会民主主義」は社会主義一般を指すものと考えられ、今日的に言えば共産主義の語感に近い)。

戸坂潤は『日本イデオロギー論』を著し、日本におけるイデオロギー批判を初めて体系的にまとめあげた。日本の特権階級のイデオロギーを哲学的観念論にあるとし、その社会的適用を通じて復古主義的な日本主義が出現し、ファシズム的軍国主義と結びついて日本イデオロギーが形成、発展してきたとする。また自由主義思想がたやすく日本主義に転化しやすいという点を指摘し、自由主義を中間的な勢力とみる当時の風潮を偽りであるとした。彼はイデオロギーを客観的現実(すなわち下部構造)の歪曲された模写であり、独自に発展法則をもつと指摘している。

丸山眞男は『日本の思想』のなかで、日本社会においては伝統的にイデオロギー批判が理論的・政治的立場でおこなわれることがなく、現実肯定という形で既成の支配体制への追従が繰り返されてきたと述べた。この現実肯定という形である種の理論を無価値化することを丸山は「実感信仰」とよび、西洋の「理論信仰」と対置させているが、これは論理より感覚を重視するという意味での単なる感覚主義ではない。「実感信仰」は事実主義や伝統主義を含み、「理論信仰」は科学主義あるいは理論主義的な立場を念頭に置いていると考えられる。

藤田省三は『天皇制国家の支配原理』において、天皇制を支えたイデオロギーとしてヨーロッパ的な社会有機体説と東洋的な儒教政治論が矛盾しながら結合した「家族国家論」を措定した。この「家族国家」は内面的には政治・学問の分野において官僚主義的立場を徹底させ、外面的には「家」の拡大という形での膨張主義を伴うとされた。またこのような「家族国家論」は天皇制国家を家と同質に自然的なものと見なす非政治的な本質を持っており、このことによって天皇制それ自体は日本社会のあらゆる利害を中和する象徴としてイデオロギー的に祭り上げられたと説いている。

現代への課題[編集]

冷戦の終結後、イデオロギーの終焉を説く声が強まっている。社会民主的な中道・福祉政党が世界の大勢を占め、かつてのようなイデオロギーをふりかざすことなく職業的・専門的な政治家・官僚によって純粋に生活向上が図られる世界に向かっているのが現代である、という分析である。また思想の面からは主に構造主義者によってイデオロギーはディスクールに還元可能であるとされた。

しかし、これらの事実はイデオロギーの終焉を必ずしも意味しない。以下代表的なイデオロギー終焉論について簡単な内容を記すとともに、その問題点を指摘する。

マルクス主義的な見方の限界[編集]

資本主義社会はその経済論理をすべての階級に及ぼし、同化吸収的に階級社会を消滅させたと説かれた。ゆえにこのような社会では階級闘争は終結し、それに伴って深刻なイデオロギー的対立は解消したとされた。

しかしマルクスの見方には大きな欠陥がある。階級的な利害がイデオロギー的であることはもちろんであるが、イデオロギー自身は必ずしも階級的な利害を必要としない。つまりイデオロギーは何らかの階級制度や階級闘争を前提としない。前述のヴェイユの立場からも階級社会が解消されてもイデオロギー的抑圧がなお存在するであろうことはおそらく確実であると思われる。そもそも社会を階級闘争的にみる見方でさえ、社会的抑圧の形態を偽っているという意味でイデオロギー的であるといえる。

構造主義によるイデオロギー終焉論[編集]

またフーコーら構造主義の哲学では制度や権力に結びつく言語表現としてのディスクールによってイデオロギーは置き換え可能だとされた。彼らは実際生活上あらゆる言語は意識的にしろ無意識的にしろ権力や政治と結びついていない言語はないし、またあらゆる言語は政治的になりうることを主張し、そのような言語ないし言語的コミュニケーションをディスクールと名付けた。

構造主義者のディスクールに対しては定義でも記述したように、イデオロギーはただ政治的なだけではない。なんらか固有の見方、世界観を含み排他的である。意味的に中立的なディスクールとは代替不可能であり、イデオロギーはディスクールに還元できない固有の意味を持つ。

経済学におけるイデオロギー終焉論[編集]

さらに冷戦終結後、国際経済における資本主義の影響力が完全なものとなったため、意識的に資本主義の根本システムを改変することは事実上不可能なものとなっており、無条件で受け入れざるを得ないものとなっている。全ての経済・社会上の問題は資本主義的全体の一問題とされ、イデオロギーを介在させずに技術的に解決可能とされる。たとえば南北格差問題や紛争問題を経済上の利害に還元し、市場経済の範囲内でさまざまな調整をすることによって解決可能だとする見方である。この立場では資本主義的経済原理をすべての人が受け入れている以上、イデオロギー闘争のような根本的な思想対立はありえないと主張された。

しかし民族的な問題や宗教的な問題がしばしば国際紛争に発展することを見ても明らかなように、たとえ資本主義の原則を全ての人が認めたとしてもイデオロギー対立は存在しうる。イデオロギーの根本は信条や信念、あるいは党派的利害であって、経済原理や社会問題から出発してその思想を形成するのではない。

多元主義的立場からのイデオロギー終焉論[編集]





エルサレム
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であるこの都市は、古代の時代から民族問題、宗教問題などのイデオロギー闘争にさらされてきた。エルサレムを巡る問題はいまなお解決されていない
最後に現代のような価値の多様化を認めている時代状況においてはイデオロギーは相対的に合理化して眺めることが可能で、政治的正当性の根拠は不毛な観念論争ではなく現実生活に即した実利にあるという主張がある。現代の知識人は自己のイデオロギーを諧謔的に意識化することで偽りの信念を見抜くことができ、それが行動に結びつくことはないと説かれた。

これに対しては主に二つの観点から誤りを指摘することが出来る。まずイデオロギーは語られていることだけにあるのではなく、行動や社会状況にも含まれている。つまりイデオロギーは人々がどう考えるかという問題ではなく、現にある社会状況に刷り込まれ事実関係を偽っていることがあり、イデオロギー的信条を実際は信奉していないのにもかかわらず、イデオロギーに奉仕していることがある。たとえばある種のイデオロギーを掲げた政策にそのイデオロギー性を認識しつつも実利を優先して迎合することはイデオロギー的目的に奉仕していることであり、イデオロギーから自由になっているとは言えない。また実利を最優先するこのような考え方それ自体がイデオロギー的である。実利や観念、社会状況、経済原理などはそれぞれ別次元の問題である。たとえばイデオロギーの含む世界観、倫理観は現実生活の実利とは関係ない場合が多いし、実利を優先するかそれとも他の何らかの観念を優先するかは個人のイデオロギー的な問題である。イデオロギーが価値の多様化の中でほかの何らかの価値の間に埋没するという主張は正しい見方ではないといえる。

現代の国際情勢を鑑みても民族紛争などが激化しており、戦争や紛争の問題点を明らかにするためにイデオロギー的背景を明らかにすることは有意義であると考えられる。現代社会のイデオロギーはより複雑で感知しがたいものとなっていると考えられているため、時代に即したイデオロギー分析が必要とされている。

関連文献[編集]

参考文献[編集]

執筆に当たっては以下の文献を参照した。
テリー・イーグルトン著、大橋洋一訳『イデオロギーとは何か』平凡社ライブラリー、1999年、ISBN 4582762816
長尾龍一著『争う神々』信山社叢書、1998年、ISBN 4797251018
藤田省三著『天皇制国家の支配原理』未來社、1966年
カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス著、古在由重訳『ドイツ・イデオロギー』岩波文庫、1956年
戸坂潤著『日本イデオロギー論』岩波文庫、1977年
『岩波講座 開発と文化4 開発と民族問題』岩波書店、1998年、ISBN 4000108670
丸山眞男著『日本の思想』岩波新書、1961年
ディルタイ著、山本英一訳『世界観の研究』岩波文庫、1935年、ISBN 4003363728
古在由重著「上部構造としてのイデオロギー」(『古在由重著作集第二巻』所収)、1970年
ユルゲン・ハーバーマス著、長谷川宏訳『イデオロギーとしての技術と科学』平凡社ライブラリー、2000年
シモーヌ・ヴェイユ著、冨原眞弓訳『自由と社会的抑圧』岩波文庫、2005年
カール・シュミット著、田中浩、原田武雄訳『合法性と正当性 付「中性化と非政治化の時代」』未來社、1983年
アーサー・ケストラー著、石田敏子訳『サンバガエルの謎』岩波現代文庫、2002年
コリン・ウィルソン著、中村保男訳『オカルト 上下』河出文庫、1995年

上記参考文献以外のイデオロギーを扱った文献[編集]

日本語に翻訳されているもの[編集]
カール・マンハイム著、高橋徹・徳永恂訳「イデオロギーとユートピア」(高橋徹編『世界の名著68 マンハイム、オルテガ』所収)中公バックス、1979年
ダニエル・ベル著、岡田直之訳『イデオロギーの終焉』東京創元社、1969年
ジェルジ・ルカーチ著、城塚登ら訳『歴史と階級意識』白水社、1987年
アドルノ、ホルクハイマー著、徳永恂訳『啓蒙の弁証法』岩波書店、1990年
パウル・ド・マン著、大河内昌ら訳『理論への抵抗』国文社、1992年
フリードリヒ・ニーチェ著、原裕訳『権力への意志』ちくま学芸文庫、1993年
ルイ・アルチュセール著、西川長夫、伊吹浩一、大中一彌、今野晃、山家歩訳 『再生産について』、2005年

海外の文献[編集]
マーティン・セリガー『イデオロギーと政治』(Martin Seliger,Ideology and Politics,1977)

年譜[編集]
1801年 - デステュット・ド・トラシー『観念学要理大綱』
1841年 - ルートヴィヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』
1844年 - カール・マルクス『経済学・哲学草稿』
1846年 - カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』
1867年 - カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス『資本論』
1895年 - エミール・デュルケム『社会学的方法の規準』
1916年 - ヴィルフレッド・パレート『社会学大綱』
1922年 - ジェルジ・ルカーチ『歴史と階級意識』
1929年 - カール・マンハイム『イデオロギーとユートピア』、V・N・ヴォロシノフ『マルクス主義と言語哲学』
1947年 - テオドール・アドルノ、マックス・ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』
1975年 - ミシェル・ペシュ『言語、意味論、イデオロギー』
1979年 - ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』

関連項目[編集]
政治哲学
観念論
宗教
マルクス主義関係の記事一覧
ディスクール
カール・マルクス
カール・マンハイム
テリー・イーグルトン
ユルゲン・ハーバーマス
良心主体主義

脚注[編集]

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1.^ 以下のカンメラーの実験についてはアーサー・ケストラーの『サンバガエルの謎』による。 カンメラーはヨーロッパにいる2種類のサンショウウオ、高地に棲息するサラマンドラ・アトラ(アルプスサンショウウオ)と低地に棲息するサラマンドラ・マキュロサ(マダラサンショウウオ)を用いて、以下のような実験をした。ちなみにサラマンドラ・アトラの雌は幼生を子宮で育てて2匹のかなり大きな子供を出産する。サラマンドラ・マキュロサは10〜50匹くらいの幼生を水中で生むが、それらはオタマジャクシの形態である。 1.サラマンドラ・アトラを低地のような湿った環境で、サラマンドラ・マキュロサを高地のような乾燥した環境で育てる。
2.これら「異常な」環境で飼育したそれぞれの雌雄を交尾させ、第2世代に環境が影響を及ぼすか観察する。
結果、 1.低地に移したサラマンドラ・アトラは水中に幼生を生むようになり、幼生はオタマジャクシの形態であった。サラマンドラ・マキュロサは何回か流産を繰り返した後、子宮から成体と同じ形態の子供を2匹産むようになった。
2.「異常な」環境で飼育された第2世代の生殖方法は程度の差があるものの、親と同じ傾向を示した。
細かい事実では、成体にあらわれる斑点などにも世代を経るにつれ興味深い特徴があらわれたという。 カンメラーはアリテス・オブステトリカンス(サンバガエル)を用いて、以下のような実験をした。アリテス・オブステトリカンスは陸上で交尾するために、一般のカエルの雄に見られる婚姻瘤が存在しない。 1.アリテス・オブステトリカンスを冷水の水盤が用意された異常な高温下で飼育する。
結果、 1.アリテス・オブステトリカンスは水中で交尾するようになるが、卵は雌の身体に巻き付かないため、水中に散乱しほとんど死滅してしまった。この段階では婚姻瘤は確認されない。
つぎに、 1.水中に散乱したアリテス・オブステトリカンスの卵を飼育し、孵化させる。以下これを繰り返して特徴を観察する。
結果、 1.第4世代に顕著な婚姻瘤が確認され、翻って第3世代を確認してみると婚姻瘤らしき兆候が確認された。
カンメラーはチオナ・インテスティナリス(ユウレイボヤ)を用いて実験した。ユウレイボヤの水管を切断すると、ユウレイボヤはより長い水管を再生するということはイタリアの生物学者ミンガチーニにより確認されていた。カンメラーはチオナ・インテスティナリスの水管の伸長が遺伝されることが確認されたとしたが、無視された。 以上のカンメラーによる一連の実験は獲得形質の遺伝を証明するものとして、ダーウィン的な進化論への反証として言及されるが、他の生物学者は追試による検証に成功していない。また実験結果を捏造であるとする見方も根強い。
2.^ コリン・ウィルソンの『オカルト』によると、1969年ロンドンのインペリアル・カレッジで開かれた国際サイバネティクス会議において、デイヴィッド・フォスターが物理学的発見の哲学的意味について講演した中でコンプトン効果に言及したという[要出典]。 コンプトン効果は波長の短い光線から波長の長い光線のほうがエネルギーが高いということを示したもの。サイバネティクスではあるプログラムをプログラミングするためにはそのプログラムより速い速度で行わなければならないということが考えられており、これは波長の短い光線から波長の長い光線は生じうるが、(エネルギーの関係で)波長の長い光線から波長の短い光線は生じえないというコンプトン効果に合致しているという。したがってもし遺伝子をプログラムであると見なすならば、そのプログラミング作業において単純な遺伝子から突然変異で複雑な遺伝子が生成されるということは考えられず、単純な生物から複雑な生物へと偶然的に進化発展してきたというダーウィン的な進化論はサイバネティクスの立場からは支持できないという。

思想

思想(しそう、英: thought)とは、人間が自分自身および自分の周囲について、あるいは自分が感じ思考できるものごとについて抱く、あるまとまった考えのことである。



目次 [非表示]
1 概要
2 西洋思想 2.1 古典古代
2.2 中世
2.3 近世
2.4 近代
2.5 現代

3 東洋思想 3.1 日本 3.1.1 古代・中世
3.1.2 近世
3.1.3 近代
3.1.4 現代日本

3.2 中国

4 関連項目


概要[編集]

単なる直観とは区別され、感じた事(テーマ)を基に思索し、直観で得たものを反省的に洗練して言語・言葉としてまとめること。また、まとめたもの。哲学や宗教の一部との区分は曖昧である。なお、その時代が占める思想の潮流(時勢)のことを思潮と呼ぶ。

西洋思想[編集]

古典古代[編集]
ギリシャ神話
自然哲学
ソフィスト
ソクラテス、無知の知
プラトン、哲人政治
アリストテレス「人間はポリス的動物である」
エピクロス(エピクロス学派)
ゼノン(ストア学派)

中世[編集]
ユダヤ教 ヤーヴェ 、『旧約聖書』
選民思想
モーゼの十戒
メシア思想

キリスト教 信仰の純粋性(原罪と罪の悔い改め)
アガペー(博愛主義)
福音書『新約聖書』
ミラノ勅令

キリスト教神学
教父哲学 三位一体説
アウグスティヌス

スコラ哲学 「哲学は神学の侍女」 トマス・アクィナス


近世[編集]
ルネサンス、ヒューマニズム
懐疑主義、モラリスト ミシェル・ド・モンテーニュ (『随想録』、「われ何をか知る」)
ブレーズ・パスカル(『瞑想録』、「人間は考える葦である」)

宗教改革 マルティン・ルター
ジャン・カルヴァン
プロテスタンティズム

地動説
アイザック・ニュートン
イギリス経験論 フランシス・ベーコン『ノーヴムオルガーヌム(新機関)』 帰納法「知識は力なり」
イドラ

社会契約説 トマス・ホッブズ 『リヴァイアサン』、「万人の万人に対する闘争」

ジョン・ロック 生得観念批判、タブラ・ラーサ(白紙状態)
『統治論』、抵抗権


コモンロー エドワード・コーク卿 法の支配、『イギリス法提要』、「国王といえども神と法の下にある」

ウィリアム・ブラックストン 『イギリス法釈義』、ホイッグ史観



大陸合理論 ルネ・デカルト 『方法序説』、演繹法、普遍数学
方法的懐疑、「我思う、ゆえに我あり」
物心二元論

バールーフ・デ・スピノザ 『エティカ』、汎神論、「神即自然」

ゴットフリート・ライプニッツ 『単子論』、モナド



近代[編集]
フランス 啓蒙思想
百科全書派
ジャン=ジャック・ルソー 『人間不平等起源論』、「自然に帰れ」
『社会契約論』、一般意志の実現
『エミール』

アレクシス・ド・トクヴィル 『アメリカの民主政治』


イギリス  スコットランド啓蒙派 デイヴィッド・ヒューム 『人間本性論』

アダム・スミス 『道徳情操論』


近代保守主義 エドマンド・バーク 『フランス革命の省察』

ジョン・アクトン  「権力は腐敗する、専制的権力は徹底的に腐敗する」



アメリカ フェデラリスト アレクサンダー・ハミルトン
ジェームズ・マディスン 『ザ・フェデラリスト』



ドイツ ドイツ観念論 イマヌエル・カント 批判哲学
認識論のコペルニクス的転回
『純粋理性批判』、感性と悟性、「認識経験とともに始まる」
『実践理性批判』、実践理性、定言命法


ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル 弁証法
人倫

歴史学派 フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー 歴史法学

フリードリッヒ・リスト 歴史経済学



功利主義 ジェレミ・ベンサム 「最大多数の最大幸福」
快楽計算、量的功利主義

ジョン・スチュアート・ミル 質的功利主義


プラグマティズム ジョン・デューイ 道具主義



現代[編集]
社会主義(資本主義批判) カール・マルクス
フリードリヒ・エンゲルス
マルクス主義 唯物弁証法、唯物史観
階級闘争、社会主義革命
『資本論』『共産党宣言』


現代保守主義・自由主義リバタリアニズム フリードリヒ・ハイエク 『隷従への道』

マイケル・オークショット
カール・ポパー
ロバート・ノージック 『アナーキー・国家・ユートピア』


コミュニタリアニズム マイケル・サンデル

実存主義(ヘーゲル批判) セーレン・キェルケゴール『死に至る病』
フリードリヒ・ニーチェ ニヒリズム、「神は死んだ」
ルサンチマン
『力への意志』、永劫の回帰、運命愛
『ツァラトゥストラはかく語りき』、超人思想

マルティン・ハイデッガー 『存在と時間』、存在論的実存主義

カール・ヤスパース 限界状況

ジャン=ポール・サルトル 「実存は本質に先立つ」
アンガージュマン(社会参加)


構造主義(実存批判) ジークムント・フロイト(心理学) ジャック・ラカン(精神分析)

フェルディナン・ド・ソシュール(言語学) ロラン・バルト(記号学・文芸批評)

クロード・レヴィ=ストロース(人類学) ミシェル・フーコー(精神史)
ルイ・アルチュセール(認識論)


ポスト構造主義(構造批判) ジャック・デリダ
ジル・ドゥルーズ

フランクフルト学派(西洋啓蒙思想批判)
フェミニズム

東洋思想[編集]

日本[編集]

古代・中世[編集]
『古事記』、『日本書紀』、八百万の神、アニミズム、シャーマニズム
仏教公伝、鎮護国家思想 聖徳太子『三経義疏』『憲法十七条』
聖武天皇、鑑真
行基

密教#日本の密教(現世志向、加持祈祷) 空海の真言宗(東密)、高野山金剛峰寺
最澄の天台宗(台密)、比叡山延暦寺

浄土信仰(来世志向、阿弥陀信仰) 融通念仏(良忍)、大念仏

鎌倉新仏教 浄土教(他力本願) 浄土宗(法然)、専修念仏(南無阿弥陀仏)
浄土真宗(親鸞)、悪人正機説
時宗(一遍)、踊念仏

禅宗(自力本願) 曹洞宗(道元)、只管打坐、身心脱落
臨済宗(栄西)

日蓮宗(日蓮)、「南無妙法蓮華経」、即身成仏・立正安国


近世[編集]
儒学 朱子学 林羅山、理気説、湯島聖堂
新井白石、昌平坂学問所
尊王攘夷運動

陽明学
古学 山鹿素行(武士道)
伊藤仁斎、誠は道の全体なり(古義学)
荻生徂徠、先王の道(経世論)


国学 賀茂真淵(『万葉集』の研究、ますらおぶり)
本居宣長(『古事記』の研究、もののあはれ、古道に還る大和心)

蘭学(洋学) 『西洋記聞』、甘藷栽培、『解体新書』、蛮社の獄、和魂洋才

二宮尊徳(報徳思想)

近代[編集]
「官民調和」(イギリス啓蒙思想) 明六社(『明六雑誌』) 森有礼、西周、加藤弘之

福澤諭吉 脱亜入欧
『学問のすゝめ』『文明論之概略』
独立自尊「一身独立して一国独立す」
実学、啓蒙思想家、教育者、慶應義塾


フランス民権思想 自由民権運動 植木枝盛
中江兆民『民約訳解』(回復的民権、恩賜的民権)、東洋のルソー

大正デモクラシー 吉野作造 民本主義

美濃部達吉 天皇機関説


女性解放運動 平塚雷鳥『青鞜』「元始、女性は実に太陽であった」


日本キリスト教史 内村鑑三(二つのJ、無教会主義)
新渡戸稲造
新島襄

日本の社会主義 河上肇
幸徳秋水(大逆事件)
大杉栄

日本の国家主義 平民主義 徳富蘇峰

国粋主義 陸羯南
山田孝雄
三宅雪嶺
上杉慎吉、「天皇主権説」

国家神道、教派神道 国体
教育勅語
国体明徴声明

超国家主義 北一輝(『日本改造法案大綱』)
二・二六事件


アジア主義 大川周明
岡倉天心 「アジアはひとつ」


民俗学 柳田國男

西田幾多郎(『善の研究』)
和辻哲郎

現代日本[編集]
55年体制
安保闘争
平和主義
戦後民主主義
日本国との平和条約
日本国憲法第9条
極東国際軍事裁判
象徴天皇制

中国[編集]
諸子百家 儒家、士大夫、儒教 孔子 仁・礼
君子、徳治主義

孟子 性善説、仁義、四端・四徳、五倫
王道政治、易性革命

荀子(性悪説、礼知主義) 法家(韓非子;性善説批判、法治主義)

朱子学、格物致知
陽明学、知行合一

道家、老荘思想(老子、荘子)、道教 タオ(道)
無為自然(人為性批判)、小国寡民

墨家、墨子 兼愛交利説(「仁」の排他性を批判)
非攻説(平和主義)



関連項目[編集]
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観念
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