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2014年02月08日

イスラエル

イスラエル国(イスラエルこく、ヘブライ語: מְדִינַת יִשְׂרָאֵל‎ メディナット・イスラエル、アラビア語: دولة إسرائيل‎ ダウラト・イスラーイール、英語: Israel )、通称イスラエルは、中東のパレスチナに位置する国家。現代のイスラエルはヨーロッパにおけるシオニズム運動を経て、シオニストのユダヤ人により建国された。建国の経緯から、パレスチナ人およびアラブ諸国との間にパレスチナ問題を抱えている。

同国はエルサレムが首都であると主張しているが、国連などはテルアビブをイスラエルの首都とみなしているため、これが承認されない場合もある(エルサレム#首都問題を参照)。



目次 [非表示]
1 歴史 1.1 古代
1.2 中世
1.3 近代から現代

2 パレスチナ問題 2.1 国連によるパレスチナ分割決議
2.2 土地の所有権
2.3 第三次中東戦争以降

3 地理 3.1 地理上の特徴
3.2 地形
3.3 行政区画
3.4 都市、山名、水名など

4 政治 4.1 立法
4.2 行政
4.3 司法
4.4 大統領
4.5 首相
4.6 政党

5 国際関係
6 軍事 6.1 イスラエル国防軍
6.2 核兵器保有の有無について

7 経済 7.1 科学研究
7.2 貧困問題

8 交通 8.1 自動車・バス
8.2 鉄道
8.3 航空

9 国民 9.1 民族と言語と宗教
9.2 宗教
9.3 言語
9.4 「ユダヤ人」の多様性
9.5 非ユダヤ人への反応

10 社会 10.1 社会福祉
10.2 教育
10.3 結婚
10.4 スポーツと健康

11 通信 11.1 電話
11.2 インターネット

12 著名な出身者
13 日本での評価
14 脚注
15 関連項目
16 外部リンク


歴史[編集]

詳細は「イスラエルの歴史」を参照

古代[編集]

詳細は「古代イスラエル」を参照





イスラエル王国とユダ王国紀元前11世紀頃 - この地に古代イスラエル王国が誕生。
紀元前922年 - 内乱のため、南北に分裂。
紀元前721年 - 北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされる。
紀元前612年 - 南のユダ王国は新バビロニアに滅ぼされる。
紀元前538年 - ペルシア王国が新バビロニアを滅ぼし、バビロニアの虜囚イスラエル人はキュロス大王によって解放される。
紀元前334年〜紀元前332年 - マケドニア王国のアレクサンドロス3世による東方征服でパレスチナの地が征服される。その後、マケドニアは分裂し、プトレマイオス朝、そしてセレウコス朝(シリア王国)の支配下に入る。
紀元前143年 - セレウコス朝の影響を脱しユダヤ人がこの地の支配を確立する(マカバイ戦争)。その後、ローマ帝国の属州となる。
66年 - ローマ帝国の属州であったユダヤの地でユダヤ戦争(第1次ユダヤ戦争)が勃発。独立を目指すが、70年にローマ帝国により鎮圧される。
132年 - ユダヤ人バル・コクバに率いられたバル・コクバの乱(第2次ユダヤ戦争)が起き、一時イスラエルは政権を奪還したが、135年に再びローマ帝国に鎮圧される。その後、現代イスラエル国が誕生するまで長い離散生活が始まったとされる(ディアスポラ)。
313年 - 東ローマ帝国の支配下に入る。

中世[編集]





エルサレム攻囲戦 (1099年)614年 - サーサーン朝ペルシア帝国の侵攻。
636年 - シリア地方のヤルムークの戦いで、皇帝ヘラクレイオス率いる東ローマ帝国軍がイスラム帝国軍に惨敗し、イスラエル地方がイスラム帝国軍に占領される。
637年 - イスラム帝国軍、エルサレムを占領(en:Siege of Jerusalem (637))。
1099年〜 十字軍がイスラエル地方を支配。
11世紀 - ガザのユダヤ人社会が繁栄。
1291年〜 マムルーク朝がイスラエル地方を支配。
1591年〜 オスマン帝国がイスラエル地方を支配。

近代から現代[編集]
1798年-1878年 - セルビアに住むセファルディム系の宗教的指導者ラビ・イェフダー・アルカライが聖地での贖罪を前提とした帰還を唱える。
1856年 - 医者であり作家でもあるルートヴィヒ・フォン・フランクルが聖地巡礼。エルサレム・ユダヤ人学校(Lämel Schule)を設立。
1881年 - 古代ヘブライ語を復活させたエリエゼル・ベン・イェフダーがイスラエルの地に帰還、ヘブライ語の復興・普及運動を開始。この頃、パレスチナに47万人のアラブ人がいた。
1882年 - 第一次アリヤー(ヘブライ語で「上がる」こと、シオン(エルサレム)への帰還の意) - 東ヨーロッパからの大規模な帰還
1897年 - 第1回シオニスト会議:後にイスラエル国歌となるハティクヴァがシオニズム讃歌となる。
1901年 - 第5回シオニスト会議:シオニズムとは国家か、文化か、宗教復興か、何を優先するか鋭い対立の後、ヘブライ大学の創設を可決。
1902年 - ヘブライ語を話す家庭はわずかに10家族。
1904年 - 第二次アリヤー:ベン・イェフダーへの賛同者が増え、ヘブライ語で授業を行う学校が増えていく。
1909年 - ルーマニアからの移民がテル・アビーブ建設。





サイクス=ピコ協定により分割された中東1917年 11月2日 - 英国外相バルフォアがシオニズム支持を表明する(バルフォア宣言)。
12月 - 英国軍、オスマン軍を破り、エルサレム入城。

1920年2月8日 - 英国軍需相ウィンストン・チャーチル、「Illustrated Sunday Herald」紙でユダヤ人国家支持を表明。
1923年 - イギリス、ゴラン高原をフランス委任統治領(シリアの一部)として割譲。
1925年 ユダヤ・アラブ・ワーキンググループ「平和の契約 brīth šālôm」設立(ゲルショム・ショーレム、ユダ・マグネス、フーゴ・ベルクマン、エルンスト・ジーモン、ダヴィド・ベングリオンら参与)。
4月1日 - ヘブライ大学開校式。

1929年 ユダヤ教の聖地ツファットで、アラブ人テロリストの襲撃により133名のユダヤ教徒が殺害される。
ヘブロン事件 - ユダヤ教の聖地ヘブロンで60名のユダヤ教徒が殺害され、コミュニティーがほぼ滅亡。

1931年 - 第17回シオニスト会議:ダヴィド・ベングリオン、二つ以上の民族が、どちらが支配権を得るのでもない二民族共存国家構想を支持。
1937年 英国政府、ユダヤ人地区とアラブ人地区の分割を提案するが、アラブ側は拒否。
ユダヤ教宗教哲学者マルティン・ブーバーが「アラブ・ユダヤ和解協力連盟」設立(後に「イフード運動」が分立)。

1946年 パレスチナにはパレスチナ人が130万人、ユダヤ人が70万人居住。
ユダヤ人物理学者アルベルト・アインシュタイン、国連によるパレスチナの統治を提唱。
「アラブ・ユダヤ民族国家」建国を提唱していたパレスチナ人のシオニズム支持団体「新しいパレスチナ」代表、ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニーが暗殺される。この団体はイフードに共鳴し、「ユダヤ人とアラブ人が、ともに植民地主義と闘う」ことを表明していた。

1946年7月7日 - エルサレムで、キング・デイヴィド・ホテル爆破事件(ユダヤ勢力による英国へのテロ)発生。





第一次中東戦争1948年 2月23日 - エルサレムで、アラブ人テロリストの爆弾テロにより、55名のユダヤ人が殺害される。
3月4日 - アタロトで、アラブ人が16人のユダヤ人を待ち伏せ攻撃し、殺害。
4月8日 - デイル・ヤシーン事件:シオニスト武装集団によりアラブ人の村民250人以上が殺害される。
4月13日 - シェイフヤラ・ハダサー医療従事者殺害事件(英語版):アラブ人テロリストによる護送車襲撃事件。エルサレム郊外にあるユダヤ系のハダサー病院へ向かう医師・看護婦・ヘブライ大学教授・職員70人以上が殺害される。
5月12日 - クファール・エツィオンで、アラブ側により100人のユダヤ人が殺害される。
5月14日 - イスラエル国として独立宣言。ベングリオンが初代首相となる。
5月15日 - 第一次中東戦争。国連決議より広範囲の土地をイスラエルが占領。
9月 - ユダヤ人過激派により国連調停官ベルナドッテ伯暗殺。

1949年5月11日 - 国際連合に加盟。
1956年 - 第二次中東戦争。エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化宣言に対応して、英・仏・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻。米・ソの仲介により三国は撤退。
1967年 - 第三次中東戦争(六日間戦争)。エジプトのナセル大統領による紅海のティラン海峡封鎖が引き金となり、イスラエルが「先制攻撃」を実施。エジプトからシナイ半島とガザ地区を、同戦争に参戦したシリアからゴラン高原を、ヨルダンから東エルサレムとヨルダン川西岸全域を奪取。六日間でイスラエルの圧倒的勝利に終わる。
1972年 - テルアビブ空港乱射事件。極左組織である日本赤軍がテルアビブ空港において無差別の銃乱射事件を起こす。この影響で日本・イスラエルの友好関係が悪化。
1972年 - ミュンヘンオリンピック事件。旧西ドイツでミュンヘンオリンピック開催中に、パレスチナ武装組織「黒い九月」がイスラエル選手村を襲撃、選手・コーチを人質に収監パレスチナ人の解放を要求。最終的に選手・コーチ11人が死亡した。報復としてイスラエルはパレスチナゲリラの基地を空爆、さらに黒い九月メンバーの暗殺作戦(神の怒り作戦)を実行したと言われている。
1973年 - 第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)。エジプトのサダト大統領がシナイ半島奪還を目的としてユダヤ教の祝日「大贖罪の日(ヨム・キプール)」にイスラエル軍に攻撃を開始。イスラエル軍の不敗神話が崩壊する。その後、アリエル・シャロン将軍が復帰、スエズ渡河作戦を実行。形勢は逆転し、17日で停戦に至る。
1976年 - エンテベ人質救出作戦。一部のパレスチナ過激派がエールフランス機をハイジャック、ユダヤ人またはイスラエル人以外を解放し、ウガンダのエンテベ空港に着陸。同国のアミン大統領の庇護のもと膠着状態が続くが、イスラエルのラビン首相は特殊部隊を派遣し、人質奪回とハイジャッカーの全員射殺に成功。その際にイスラエルの実行部隊で唯一戦死したヨナタン・ネタニヤフ中佐の名前をとり、この作戦は「オペレーション・ヨナタン」と名づけられた。なお、ヨナタンはベンヤミン(ビビ)・ネタニヤフ元首相の実兄であり、同氏の対パレスチナ強硬姿勢の原点になったといわれている。
1977年 - サダト大統領のエルサレム訪問。これまで仇敵であったエジプトのサダト大統領がエルサレム訪問を宣言し、クネセット(イスラエル国会議事堂)で演説を行う。二年後の平和条約締結の第一歩となる。





エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相1979年 - イスラエル・エジプト平和条約締結。イスラエルが占領していたシナイ半島の返還に合意し、米国のカーター大統領の仲介のもと、キャンプ・デーヴィッドにてエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が調印。イスラエルにとって初のアラブの隣国との平和条約となる。
1981年 - イラク原子炉爆撃事件。かねてからフランスからの技術協力を得て原爆の開発を進めていたイラクのフセイン大統領(当時)の野望を阻止するため、イスラエル空軍はバグダッド郊外のオシラクで建設中だった原子炉を爆撃。
1982年 - レバノン侵攻(ガリラヤ平和作戦)。レバノン南部からのパレスチナ人によるイスラエル北部へのテロ攻撃を鎮圧し、レバノン国内の少数派キリスト教徒保護と親イスラエル政権の樹立、平和条約締結を目指すという目的で、レバノン侵攻を開始。アリエル・シャロン国防相に率いられたイスラエル軍は首都 ベイルートに入城。PLOのアラファト議長の追放に成功する。しかし、イスラエルの同盟軍であるマロン派キリスト教徒が、シリアによるリーダーのバシル・ジュマイル大統領暗殺に憤激し、パレスチナ人難民の居住区であったサブラ・シャティーラ・キャンプに侵入し、殺害事件を引き起こす。アリエル・シャロン国防相は「殺害を傍観した不作為の罪」を問われ、国防相を辞任。また、「キリスト教徒による親イスラエル政権の樹立、平和条約の締結」もならず、イスラエルにとっては後味の悪い結果に終わる。
1991年 - 湾岸戦争が発生し、テル・アヴィヴを標的としたイラクによるスカッドミサイルの攻撃を受ける。
1992年 - 米国の主導により、マドリッド会議開催。PLOとの顔合わせの機会となる。
1993年 - オスロ協定成立。PLOによるヨルダン川西岸及びガザ地区の自治が始まる。
1995年 - ユダヤ人過激派によりラビン首相が射殺される。
2006年 - イスラム武装組織ヒズボラ鎮圧を目的にレバノンに再侵攻(レバノン侵攻)。
2008年 - 12月27日、パレスチナ自治区ガザ地区のハマースに対し空爆。地上侵攻を開始(ガザ侵攻 (2009年))。
2009年 - 1月3日、地上侵攻を開始(ガザ侵攻 (2009年))。
2010年 - 8月3日、レバノンと衝突。

パレスチナ問題[編集]

詳細は「パレスチナ問題」を参照

イスラエルを説明する上で、外すことが出来ないのが、パレスチナの所有に関する問題、いわゆるパレスチナ問題である。

国連によるパレスチナ分割決議[編集]





国連によるパレスチナ分割決議(1947年)
第一次世界大戦でユダヤ軍・アラブ軍は共にイギリス軍の一員としてオスマン帝国と対決し、現在のヨルダンを含む「パレスチナ」はイギリス委任統治領パレスチナとなった。

現在のパレスチナの地へのユダヤ人帰還運動は長い歴史を持っており、ユダヤ人と共に平和な世俗国家を築こうとするアラブ人も多かった。ユダヤ人はヘブライ語を口語として復活させ、 アラブ人とともに衝突がありながらも、安定した社会を築き上げていた。

しかし、1947年の段階で、ユダヤ人入植者の増大とそれに反発するアラブ民族主義者によるユダヤ人移住・建国反対の運動の結果として、ヨルダンのフセイン国王らの推進していたイフード運動(民族性・宗教性を表に出さない、平和統合国家案)は非現実的な様相を呈し、イギリスは遂に国際連合にこの問題の仲介を委ねた。

ここで注意しなければならないのが、アラブ人過激派やその指導者の(あるいは双方の)過剰反応、アラブ民族主義・汎アラブ主義との衝突、列強の政策とのリンキング(啓典の民、イェフーディーなど参照)、という側面である。

イスラエルはこの国際連合総会決議181(通称パレスチナ分割決議、1947年11月29日採択)に基づき、1948年5月14日に独立宣言し、誕生した「ユダヤ人」主導国家である。この決議は人口の3分の1に満たないユダヤ人に、国土の3分の2以上を与える内容であった。さらに、その領域は第一次中東戦争の結果、国連総会決議よりも大幅に広いものとなっている。

土地の所有権[編集]

ユダヤ人国家を建国したものの「そこはシオニストの宣伝していたような無人の土地ではなかった」という主張をする者もいる。「アラブ人(パレスチナ人と同一とみなされることが多い)が住み、アラブ・イスラムを主体とした国家を作ろうとする者もいた」とする者もいる。そもそも、パレスチナ人やアラブ人というのは宗教上の区別に過ぎず、土着のユダヤ人とは人種的に同一といわれている。しかし、ユダヤ人とは事実上ユダヤ教徒を指すために事態がややこしくなった。

ただ、これらの点について「ユダヤ人とアラブ人は長期間にわたって血で血を洗う抗争を繰り広げてきた。従って、譲歩はありえない」というような現在まかり通っている見解は、宗教や歴史・政治に無関心な者による大きな誤りの一つである。歴史的に見ても、イスラエルの地に住まうイスラム教徒・キリスト教徒とユダヤ人は共栄・共存を願ってきた。一言で単純に語ることができないほど長く複雑なバックボーンを持つことは明白である。

アラブ人を主体とする周辺国家はユダヤ人を「アラブの土地」を奪うものと位置づけ、イスラエル独立宣言の当日からイスラエルに対し宣戦布告し、パレスチナのユダヤ人居住地域に攻め込むなどして、「土地の領有を巡る」第一次中東戦争が勃発した(この時点では、国連の分割決議による「イスラエル領」の決議はあったものの、その全域を実効支配していたわけではなかった)。人口の一割を失う激戦でイスラエルは戦争に勝利し、分割決議より多くの領土を獲得した。アラブ諸国は「国連分割案を上回る地域にまで侵攻し停戦後も占領し続けた」と主張した。イスラエル側は第一次中東戦争を独立戦争と呼び、戦争の目的を「アラブ人の過激派の攻撃を防ぎ、ユダヤ人と多民族が安心して暮らせる、ユダヤ人主導の国家を樹立すること」としていたとされる。

イスラエルは一部のアラブ系住民に土地に残るよう勧めたとされ、これが現在の100万人以上のアラブ系イスラエル国民の祖先となっている。しかし、ダビッド・ベングリオンをはじめイスラエル首脳陣側に、アラブ人人口が少なくなったほうがユダヤ国家の建国に有利という考えがあったことは確かである。

戦闘やテロ・扇動の結果、1948年の時点でパレスチナの地に住んでいたアラブ人が大量に周辺地域に移住し、難民と化した(パレスチナ難民)とされる。パレスチナ難民の多くは避難先のアラブ社会には吸収されず、アラブ過激派の扇動や活動(「抵抗運動」)などの結果、アラブ過激派(抵抗組織)の意図した反イスラエルの象徴とする作戦に包含されていたと考える場合もある。

また、逆にイスラム世界に住んでいた多くのユダヤ系住民(セファルディム、ミズラヒム)が土地を追われて難民化し、イスラエルに逃げ込んだ。このとき、イスラエルは世界各地のディアスポラ住民を極力救おうとした(イスラエルの作戦一覧参照)と主張する。それによるとアラブ人とユダヤ教徒の「住民交換」が起きたとする見方をとる。

停戦後、パレスチナには民族主義的ゲリラ(「抵抗組織」)が活動し、パレスチナ「解放」や「難民」の「帰還権」を訴えた。戦後50年以上経過しながら各地のアラブ社会に吸収されないパレスチナ難民は、初期の60万から80万人という人数から現在の総数に膨れ上がっている。そのため、パレスチナへの帰還はイスラエル政府からは非現実的と考えられている。

第三次中東戦争以降[編集]





第三次中東戦争にて占領した地域
エジプトによるチラン海峡封鎖宣言に端を発する[第三次中東戦争]によって、ヨルダン・エジプトによって占領されていたヨルダン川西岸地区・ガザ地区と、シリアの砲台があったゴラン高原はイスラエルの管理下に入り、ユダヤ教の宗教者はそれまで立ち入ることのできなかったエルサレム旧市街と嘆きの壁・ヘブロン市、ゴラン高原などに押しかけ、アラブ人居住区にあったシナゴーグも再建した。イスラエルのサマリア人はナブルスでの過ぎ越しの祭りを執り行うことができるようになった。スコープス山にあったヘブライ大学の建物も使えるようになった。

イスラエルの主張では、国連決議181を拒否した時点でパレスチナ全土にユダヤ人国家による施政権が認められており、また、占領は平和条約締結まで戦勝国に認められている合法的行為であるとしている。前者の立場に立つ場合、占領には当たらない。

イスラエル政府により電気・水道などのインフラの整備が進み、経済が発展し、急患はイスラエルで高度な治療を受けられるようになった。テロに関与せずに安全と判断されたパレスチナ人(主として、若者ではない人々)はイスラエルで働くことができるようになった。ただし、占領統治行為に伴う、イスラエル治安維持部隊による発砲で犠牲になったパレスチナ人も少なくない。また、一部のパレスチナ住民は産業が形成されず、慢性的失業・貧困状態が続いており、また統治者のイスラエルに対する反発が大きいため、これもテロリズム(「抵抗運動」)の温床・要因の一つになっているといわれる。

パレスチナ問題とは、イスラエルの西岸・ガザなどにおける地位、あるいはイスラエルに敵対する一部アラブ諸国が、その手段としてパレスチナ人を利用している代理戦争だともいわれる。

パレスチナ問題には、書き切れない程の長く複雑な歴史・過程がある。アラブ諸国から見れば、2000年前に住んでいたという理由で勝手に押しかけてきたという主張がなされることもある。一方、ユダヤ人側からはこのような主張は共存への道をも否定しようとするものであるとの主張がなされる。

米国の政権は、政治的立場の維持に対して国内ユダヤ人の貢献が大きいため、イスラエル寄りの政策を続けている。例えば、国際連合安全保障理事会でイスラエルを非難する、あるいは何らかの制約を求める提案が出されると、非常に高い確率で米国が拒否権を発動する。イスラエルは米国の拒否権により国連などの国際的非難から守られていると言える。他方では、中東各国政府が、パレスチナにおける紛争などを利用し、若者を始めとした様々な「不満・怒り」を一点に振り向け、過激派の矛先が自分たちに向かわないようにしてきたためでもある。すなわち、イスラエル批判のストーリーを、政治的問題の駆け引きに、また、経済的問題への不満をかわすことに使っていると言える。中東の若者には貧富の格差による「不公平感」があると言われる。また、経済は好調であっても、人口急増によって雇用が十分でない、などの問題があるとも言われる。

1993年以降、パレスチナには自治政府が設置された。今日に至るまで、パレスチナ問題は解決の目途が立っていないが、将来の国家像についてはイスラエルとの連合国家案、連邦案など様々ある。

地理[編集]





イスラエルの衛星写真
詳細は「イスラエルの地理」および「:en:Geography of Israel」を参照

地理上の特徴[編集]

北にレバノン、北東にシリア、東にヨルダン、南西にエジプトと接する。西側は地中海である。ヨルダンとの国境付近に、世界的にも高濃度の塩湖である死海がある。

国境及び休戦ライン内にあるイスラエルの地域は、パレスチナ人自治機関の管理地域を含め、27,800km2である。国土は狭く、南北に細長い。南北には470kmあるが、東西は一番離れた地点間でも135kmである。車での走行時間は、北のメトゥーラから最南端の町エイラットまでは約9時間かかるが、西の地中海から東の死海までならば90分ほどしかかからない。ジュディアの丘陵にあるエルサレムから海岸沿いのテルアビブまで、また、標高835mにあるエルサレムから海抜下398mの死海までならば、1時間とかからない。

地形[編集]

イスラエルは地理学的には4つの地帯に分けられる。その3つは同じように北から南に長く伸びる地帯で、残る1つは国の南半分にあたる広大な乾燥した地帯である。

行政区画[編集]

詳細は「イスラエルの行政区画」を参照

都市、山名、水名など[編集]
ハ=ツァフォン地区 hatzTzafon (北部地区:いわゆるガリラヤ地方、イズレエルの谷など) メトゥラ Metullah
キリヤット・シュモナ Qiriyat Shemona
フラ湖、フラ峡谷、(メロムの水) Hulah Valley
スーシータ(ヒッポス) Hippos, Susita'(ガリラヤ湖の東)
エン・ゲブ En Gev(ガリラヤ湖の東)
メィロン (イスラエル) Meron :シモン・バル=ヨハイ、ヒレル、シャンマイらの墓。 メィロン山 Har Meron

ツファット(サフェド):ユダヤ教の聖地の一つ。
クファル・ナフム(カペルナウム、カペナウム) Capernaum
ナハリヤ
クファル・カナ
ツィッポリ(セフォリス)
ベィト・シェアリーム Beyth Shə‘arim :2世紀以降はユダ・ハ=ナシの住むサンヘドリンの町、3世紀以降はイスラエルの地とディアスポラからの帰還者のユダヤ人の共同のカタコンベとなる。
ナツェレット(ナザレ)
ウーシャ Usha :2世紀後半以降のサンヘドリンのあった町。
ティベリア:ユダヤ教の聖地の一つ。
アフラ(オフェル)
ベト・シェアン(スキトポリス)
メギド(ハルマゲドン)
ウーシャ
ベート・シェアリーム

ヘイファ地区(ハイファ地区) キリヤット・モツキン
キリヤット・ヤム
キリヤット・ビアリック
キリヤット・アタ
ドル
カルメル山
イスフィヤー Isfiya'
アトリット Atlit
パルデス・ハナ Pardes Channah
ハデラ Hadera
ハイファ Chephah
ジスル・エッ・ザルカー Jisr ez Zarqa
カルクール Kalkur
カイサリア Qesariyyah
オール・アキバ Or Aqibhah
セドット・ヤム Sedot Yam
ウンム・エル=ファヘム Umm el Fahm
バーカ・エル=ガルビーヤ Baqa el Gharbiyah

ハ=メルカズ地区 hamMerkaz (中部地区) ネタニヤ Netanya
ラアナナ Ra'ananna
カフル・カーシム Kafr Qasim
ロシュ・ハ=アイン Rosh ha'ayn
テル・アフェク(アンティパトリス) Tel Afeq
ペタハ・ティクバ Petach Tiqwah
キリヤット・オノ Qiryat Ono
ショハム Shoham
ベィト・アリフ
ハディド
ロッド(リッダ)
ラムラ
モディイム(遺跡)&モディイン(都市)
レホヴォト
ゲゼル
リション・レツィヨン
ヤブネ






テルアビブテルアビブ地区 ヘルツェリヤ&アポロニア
ラマット・ハ=シャロン
ラマト・ガン
ブネィ・ブラク
ギヴァタイム
テルアビブ イスラエルにある大都市。イスラエル経済の中心地。国連によって承認されているイスラエルの首都。ブネィ・ブラク Bnei Brak / Bənēy Bərāq:アキバ・ベン・ヨセフのイェシバー(学塾、学院)のあった町。現在はハシディズムのコミュニティーの名前。

バット・ヤム
ホロン:サマリア人のコミュニティーがある。






エルサレムエルサレム地区 ベト・シェメシュ
イェルシャライム(エルサレム)(西エルサレムと東エルサレム) メア・シェアリーム
西部はイスラエル領であり、東部についてはイスラエルが領有を主張しているもののパレスチナ自治政府も領有を主張している内陸都市。ユダヤ教・キリスト教、またイスラム教の第三の聖地でもある。

ハ=ダロム地区 hadDarom (南部地区) アシュドッド
アシュケロン
ベエルシェバ
ディモナ
アラド
マツァーダ mətzādhāh(マサダ)
エン・ゲディ
ミドレシェト・ベン・グリオン
ミツペ・ラモン
ネゲヴ砂漠
エイラット

ヨルダン川西岸地区(ユダヤ・サマリア地区)(パレスチナ自治政府が統治) サバスティーヤ; ショメロン; サマリア
ナブルス(ナーブルス); シェヘム(シケム); ネアポリス:祝福の山とされたゲリジム山には、サマリア人の神殿がある。
ベテル; ベイティーン
ラマラ(ラーム・アッラー)
ベツレヘム
グーシュ・エツヨン:ユダヤ人居住地の集合体の一つ
ヘブロン:アル・ハリール:ユダヤ教の聖地の一つ。
エリコ(イェリホ); アリーハー
クムラン
アリエル:イスラエル側の施政下にある入植地。
マーレ・アドミム:イスラエル側入植地。エルサレム郊外。

ガザ地区(パレスチナ自治政府が統治) ガザ; アザ

ゴラン高原(旧クネィティラ県;イスラエルの法律が適用) カツェリン
ミグダル・シャムス
マスアデ


政治[編集]

詳細は「イスラエルの政治」を参照

イスラエルは議会制民主主義を採用している。行政府(政府)は、立法府(クネセト)の信任を受け、司法府(裁判所)は法により完全なる独立を保証されている。イスラエルは不文憲法であり、国家の政治システムを規定した「基本法」は通常の法律と同等に改正することができる。

立法[編集]

詳細は「クネセト」を参照





クネセト
イスラエルの国会(クネセト)は一院制。議員定数は120名で政党名簿比例代表(拘束名簿式)により選出される。その名称と定数は紀元前5世紀にエズラとネヘミヤによってエルサレムに招集されたユダヤの代表機関、クネセット・ハグドラ(大議会)に由来する。

行政[編集]

国家の最高行政機関である政府は、国家の安全保障を含む内外の諸問題を担当し、クネセトに対して責任を有し、その信任を受けねばならない。政府の政策決定権には極めて幅がある。法により他の機関に委任されていない問題について、行動をとる権利を認められている。
官公庁 内閣
外務省
国防省
大蔵省
産業貿易省
法務省
教育省
国内治安省
通信省
内務省
運輸省
農林水産省
科学・文化・スポーツ省
国家基盤省
観光省
建設・住宅省
環境省
労働・社会省
宗教省(間も無く廃止の予定)
エルサレム問題担当省
保健省


司法[編集]





最高裁判所
司法の独立は法により完全に保証されている。最高裁判事3名、弁護士協会メンバー、政官界者(閣僚、国会議員など)で構成される指名委員会があり、判事はこの委員会の推薦により大統領が任命する。判事の任期は無期(70歳定年)。

また、国家安全に対するスパイ行為とナチスによるホロコーストを除き、死刑を廃止している。しかし、パレスチナ人に対する超法規的な暗殺は日常的に行われている。テロリストといえども法によって死刑にされることはないが、裁判に掛けることなく殺している。予防拘禁など、治安立法も数多く制定されている[2]。

大統領[編集]

詳細は「イスラエルの大統領」を参照

大統領の仕事は儀式的性格が強いが、法によって規定されている。新国会の開会式の開会宣言、外国大使の信任状受理、クネセットの採択ないしは批准した法、条約の署名、当該機関の推薦するイスラエルの大使、裁判官、イスラエル銀行総裁の任命、法務大臣の勧告にもとづく受刑者の特赦、減刑が、仕事に含まれている。さまざまな公式任務のほか、市民の諸願の聴取といった非公式な仕事もある。大統領としての威信をコミュニティ組織に及ぼし、社会全体の生活の質を高めるキャンペーンに力をかす。

首相[編集]

詳細は「イスラエルの首相」を参照

2009年3月31日、国会は、過半数の賛同で右派政党リクードのベンヤミン・ネタニヤフ党首の首相就任を承認した。リクード、「わが家イスラエル」、宗教政党シャス、労働党からなる新政権が誕生した。ネタニヤフ首相は、パレスチナとの和平交渉を強調、経済、安全保障、外交の各分野で交渉を実施するとのべた。パレスチナ国家実現を前提とする二国家共存については触れなかった。

政党[編集]

詳細は「イスラエルの政党」を参照

イスラエルの政府は伝統的に複数の政党による連立政権により運営されてきた。これは絶対多数の形成が生じにくい選挙制度に由来する。次の二党が連立政府の中心となってきた。
リクード(世俗的右派)
労働党(左派)

2006年3月28日に行われた総選挙では、中道政党カディマが29議席と第1党に躍り出た。カディマは労働党などと連立政権を組んだ。



[隠す]

表・話・編・歴
イスラエルの政党 イスラエルの旗


 カディマ -リクード・我が家( リクード - イスラエル我が家の統一会派) - 労働党 - シャス - ユダヤ・トーラ連合(アグダート・イスラエル、デゲル・ハトラー) - 統一アラブ・リスト・タール - ハダシュ(マキ) - メレツ - ユダヤの家 - バラド - イェシュ・アティッド - ハトヌア


Portal:政治学 - 政党の一覧 - イスラエルの政治


国際関係[編集]

「米以関係」も参照





「青色」イスラエルと外交関係を有する国;「橙色」イスラエルと外交関係を有しない国;「黄色」過去に外交関係を有したが、現在は有しない国
国際連合加盟国のうち、160ヶ国と国交がある。

国交のない主な国々
イランの旗 イラン
シリアの旗 シリア
レバノンの旗 レバノン
サウジアラビアの旗 サウジアラビア
マレーシアの旗 マレーシア
インドネシアの旗 インドネシア
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
キューバの旗 キューバ
ボリビアの旗 ボリビア
ベネズエラの旗 ベネズエラ ほか

軍事[編集]

イスラエル国防軍[編集]

詳細は「イスラエル国防軍」を参照





国産主力戦車メルカバ Mk 4
1948年の建国と共に創設されたイスラエル国防軍(IDF)は、国の防衛の任にあたる。建国以来の度重なる周辺アラブ諸国との実戦経験により、世界でもアメリカ軍と共に最も練度の高い軍であるとされる。

文字通りの国民皆兵国家であり、満18歳で男子は3年、女子は2年の兵役に服さねばならず、その後も予備役がある。能力があれば兵役猶予が認められ、高等教育機関で学ぶ機会を与えられる。拒否した場合は3年の禁錮刑を受けることになるが、女子のみ条件は少し厳しいものの良心的兵役拒否が可能である。少数派のドゥルーズ派の信徒とベドウィンは兵役に服すが、超正統派ユダヤ教徒、アラブ系イスラエル人(ユダヤ教徒でないもの)は男子でも兵役が免除されている。

イスラエルは国土が縦深性に欠け、一部でも占領されれば国土や産業、国民にとって致命的なダメージを受ける。そのため、戦時には戦域を敵の領土に限定し早急に決着をつけることを戦略計画としている。有り体にいえば、先制攻撃を仕掛け、敵の攻撃力を早期に無力化することを主眼においている。この姿勢は、イスラエルには国家の安寧を守るという前提があるにもかかわらず、イスラエルを好戦的な国家とみなす論者が多い一因となっている。なお、イスラエル国防軍の現在の任務には、パレスチナ自治機関と協調しつつヨルダン川西岸及びガザの治安を保持すること、国内及び国境周辺で生じるテロ対策も含まれている。

兵器の多くは、建国初期は西側諸国からの供給や中古兵器の再利用に頼っていたが、その後主力戦車メルカバや戦闘機クフィルなど特別のニーズに応じた兵器を国内で開発・生産しており、輸出も積極的に行っている。海外との軍事技術交流(下記の科学研究参照)も多い。なお、国産兵器は、メルカバに代表されるように人的資源の重要性から防御力・生存性に重点を置いたものが多い。

国連児童基金はパレスチナ人の子供達がイスラエル軍から軍事裁判にかけられ、拘留下において「広範囲にわたる計画的で制度化された」暴行・虐待を受けているとする報告書を発表した[3]。

核兵器保有の有無について[編集]

核拡散防止条約(NPT)に加入していないイスラエルは核保有に関して肯定も否定もしていない。「イスラエルは最初に核を使用する国にはならないが、二番目に甘んじることも無い」という談話もあり、周辺国を牽制するための「曖昧政策」とも称されている。しかし、核技術者モルデハイ・ヴァヌヌの内部告発などの状況証拠から、国際社会においては核保有はほぼ確実視されており、アメリカも核保有を事実上認めている。なお、核兵器の保有数については、アメリカ科学者連盟のデータによると、約80発とのことである。

「イスラエルの大量破壊兵器」も参照

「ユダヤ系勢力の意向を強く受ける」とされる[要出典]アメリカが、イスラエルの核開発を裏面で支援してきたという意見[要出典]も(核弾頭自体を供与したという説[要出典]も)存在する。イスラエルと、それ以外の諸国の核開発に対するアメリカ合衆国の姿勢の相違は「二重規範である」としてしばしば批判[要出典]を受ける。

2006年12月5日、アメリカ上院軍事委員会公聴会で、次期国防長官に決定したロバート・ゲーツが「(イランが核兵器開発を進めるのは)核保有国に囲まれているからだ。東にパキスタン、北にロシア、西にイスラエル、ペルシャ湾には我々(アメリカ)がいる」と発言。アメリカ側が初めてイスラエルの核保有を公言したことになるため、注目された。イスラエルはペレス特別副首相が「イスラエルは核保有をこれまで確認したことはない」と従来の見解を繰り返した(イスラエル:秘密の核保有を米ゲーツ氏が“公表” 騒動に)。

しかし、12月11日、ドイツの衛星放送テレビ局「SAT1」のインタビューで、オルメルト首相は「イスラエルは、他国を脅かしたりしない。しかし、イランはイスラエルを地図上から消滅させると公言している。そのイランが核兵器を保有しようとしていて、フランス、アメリカ、ロシア、イスラエルと同じレベルで話し合えるはずがない」と、核保有を認めたと取れる[要出典]発言を行った(イスラエル首相、核兵器保有示唆で波紋広がる)。オルメルトは、翌日のドイツのメルケル首相との合同記者会見で核保有を否定したが、イランが非難声明を出すなど、波紋が広がっている。

2007年1月2日、リーベルマン戦略問題担当相は、新たに国連事務総長となった潘基文に、イランの国連除名を要求する手紙を送った。また、イギリスのタブロイド紙「サンデータイムズ」1月7日号によると、イスラエル軍筋の話として、イラン中部ナタンズのウラン濃縮施設を戦術核兵器で攻撃する計画を作成したと報じた。

経済[編集]





ラマト・ガンのダイヤモンド取引所地区
IMFの統計によると、2010年のイスラエルのGDPは2012億ドル(約16兆円)であり[4]、静岡県とほぼ同じ経済規模である[5]。 イスラエルはわずか人口650万人余りの小さな国ではあるが、農業、灌漑、そして様々なハイテク及び電子ベンチャー産業において長年にわたり世界各国で最先端をいき、過去20年間では、ヨーロッパ諸国及びアメリカとの自由貿易地域協定により商品及びサービスの輸出を拡大し(2000年には年間450億ドルの輸出)、更に1990年代の加速度的な経済成長をもたらした国際的な企業活動への参加を促進した。そして、2000年にはGDP成長率が6.4%を記録し、イスラエルの経済活動の急成長ぶりが示された。しかし、治安状況の悪化により、経済活動はほぼ全分野において著しい低迷が続いている。事実、2001年には、過去50年で初めてGDPが減少している。

また、イスラエルは中東のシリコンバレーとも呼ばれ、インテルやマイクロソフトなどの世界的に有名な企業の研究所が軒を連ねる。ちなみに、国際連合加盟国の中では先進国に分類される。

イスラエルの鉱業を支えているのは、カリ塩とリン鉱石である。2003年の時点で、それぞれの世界シェアは5位(193万トン)、9位(102万トン)である。金属鉱物は採掘されていない。有機鉱物では亜炭、原油、天然ガスとも産出するものの、国内消費量の1%未満にとどまる。

科学研究[編集]

イスラエルは、科学研究の水準が非常に高い。イスラエルは専門資格を持った人材資源が豊富であり、自国がもつ科学的資源や専門知識を駆使して、国際協力において重要な役割を果たしてきた。イスラエルはいくつかの分野に限定して専門化し、国際的な努力を注ぎ、国の存亡に欠かすことができない高度な民生技術・軍事技術成果を得ようと奮闘している。科学技術研究に携わるイスラエル人の比率、及び研究開発に注がれる資金の額は、GDPとの比率でみると世界有数の高率である。

また、労働力数との比率でみると、自然科学、工学、農業、医学の分野における論文執筆者の数は世界一である。医学とその周辺分野、並びに生物工学の分野では、極めて進んだ研究開発基盤を持ち、広範囲な研究に取り組んでいる。研究は、大学医学部・各種国立研究機関を始め、医薬、生物工学、食品加工、医療機器、軍需産業の各メーカーの研究開発部門でも活発に行われている。イスラエルの研究水準の高さは世界によく知られており、海外の医学、科学分野、軍事技術の研究諸機関との相互交流も盛んである。また、イスラエルでは医学上の様々な議題の国際会議が頻繁に開催されている。さらに、軍需製品の性能・品質は世界に見ても非常に高い。

暗号理論の水準が高いとされ、インターネットのセキュリティーにおいて重要な役割を演じるファイアーウォールや公開鍵の開発において、イスラエルは、重要な役割を果たして来た。

又、主に軍事目的で独自に人工衛星も打ち上げている(ちなみに、通常の人工衛星は地球の自転を利用して東向きに打ち上げられるが、イスラエルの衛星はすべて西向きに打ち上げられている。これは、東向きでは対立するアラブ諸国に機体が落下して思わぬ紛争の火種になる恐れがあるからである)。また、2003年、イスラエル初の宇宙飛行士として空軍パイロットのイラン・ラモーン大佐がアメリカのスペースシャトル・コロンビアで宇宙に飛び立ったが、大気圏再突入時の空中分解事故により亡くなった。

貧困問題[編集]

先進国とされているイスラエルだが、深刻な貧困問題を抱えている。イスラエルは、かねてから所得格差が大きかったり、貧困に苦しむ国民が多いことが指摘されていた。2010年12月22日の「ハアレツ」紙によると、イスラエルの全人口のうち、およそ177万人が貧困状態にあり、うち85万人は子供であると言う。貧困状態にある世帯の約75%は日々の食料にも事欠いているとされ、極めて深刻な実態が浮き彫りとなった。貧困状態にある子供たちの中には物乞いをしたり、親に盗みを働くよう強制される事例もあるという[6]。

イスラエルには憲法が存在しない代わりに「基本法」が存在しており(本来ならイスラエル建国時に憲法を制定する予定だったが、第一次中東戦争の最中だったため、暫定憲法として基本法がつくられ、それが現存している)、その基本法の「人間の尊厳と自由」と言う項目の第4条に「何人たりとも、生命、身体、(人間としての)尊厳が保護される」と書かれている。更に、イスラエルには1954年に制定された「国民健康法」に基づき、収入が最低基準以下の世帯と個人に対しては国民保険機構から補助金が支給されている(≒生活保護)。また、児童手当も支給されており、特に4人以上の子供がいる家庭には手厚い福祉が施されている[7]。にも関わらず先述のような実態がある。貧しい子供たちのために、無料給食や補講などを実施している学校「エル・ハ=マーヤン」の運営母体である超正統派政党「シャス」のエリ・イシャイ党首は、「国民保険制度研究所さえ、政府の俸給を増やすことのみが貧困を解消する唯一の方法と断定した。このような他の政府機関からかけ離れた見通しが長きに渡ってなされているのは恥である」と述べた。また、中道左派政党「労働党」の議員であるシェリー・ヤシモビッチはイスラエル国内でのワーキングプアの増大を指摘している。また、左派政党「メレツ」のハイム・オロン党首は「政府は(資本主義における)結果的格差を肯定しているが、貧困の根本原因を取り除かなければならない」と指摘している[8]。

イスラエルの大手新聞「ハアレツ」の電子版には、貧困と空腹にあえぐイスラエルの子供たちを支援するアメリカ合衆国の法人である「Meir Panim」の広告が頻繁に掲載されている。

2011年6月現在首相の座にあるベンヤミン・ネタニヤフは、かつてのイギリスの首相であるマーガレット・サッチャーを尊敬している急進的な新自由主義者、右派であり、貧困や格差問題の解決に本腰を入れていない。よって、Meir Panimのような民間の法人がもっぱら貧困対策を行っているのが現状である。

2011年7月30日には、イスラエル国内で住宅価格や生活費の高騰、貧富の格差に対して抗議する15万人規模のデモが起きている。左派系のみでなく、保守系の人々も多数参加した極めて大規模なものである[9]。8月6日には、最低賃金引上げなどを求め30万人規模のイスラエル建国至上最大の抗議運動が起きた[10]。

経済協力開発機構(OECD)が2013年にまとめた報告書では、イスラエルが全てのOECD加盟国の中で最も貧困率が高いことが記されている。また、同年10月に発表されたイスラエル中央統計局の報告書では、イスラエルの全人口のうち31%が貧困線以下の生活をしているという。また、同報告書ではイスラエルの子供の40%が貧困に直面しているとしている。また、2013年に入ってから多くのイスラエル人がアメリカ合衆国やドイツなどへ経済的理由から移住しているという。ヘブライ大学のモミー・ダハン教授は、この問題の背景として、イスラエル政府が社会保障や児童予算を削減し続けていることを指摘している[11]。

交通[編集]





ベン・グリオン国際空港
自動車・バス[編集]

国土が狭いイスラエルでは、車、バス、トラックなどが主な交通機関である。近年、車の急速な増大に対応し、辺鄙な地域への交通の便を図るため、道路網の拡充が図られた。多車線のハイウェーは目下300キロの運営だが、2004年の時点で、南のベエルシェバから北のロシュハニクラ、ロシュピナまでハイウェー網が整備されつつある。さらに、人口稠密地にはバイパスが設けられた。緑色のエゲッドバスは、イスラエル全土を網羅しており、後部にトイレがある。運賃はエルサレム-エイラット間で70NIS(約2000円)。

鉄道[編集]

イスラエル鉄道は、エルサレム、テルアビブ、ハイファ、ナハリヤの間で旅客運送を行っている。貨物運送としては、アシュドッド港、アシュケロン市、ベエルシェバ市、ディモナの南部の鉱山採掘場など、より南部にまで及んでいる。貨物鉄道の利用は年々増加し、乗客の利用も近年増えている。

テルアビブとハイファでは、道路の交通渋滞を緩和するため、既存の路線を改善した高速鉄道サービスが導入されつつある。また、2004年10月より、ベングリオン空港とテルアビブ市内を結ぶ空港連絡鉄道が運行されている。

航空[編集]

国際線を運航する航空会社として国営航空会社のエルアル・イスラエル航空とアルキア航空、イスラエアーがあり、テルアビブのベン・グリオン国際空港をハブとしてヨーロッパやアジア、アメリカ諸国に路線を設けている。

国民[編集]

民族と言語と宗教[編集]

古代のイスラエル民族はヘブライ人(聖書においてはアブラハム・イサク・ヤコブ)を先祖とする、主としてセム系の言語を用いる人々である。イスラエル王国は南北分裂後、アッシリアによって滅ぼされ、指導層はメソポタミア北部に強制移住させられたため、イスラエルの失われた十氏族などの様々な憶測を呼んだ。またアッシリアからの入植者と混血した者の子孫はサマリア人と呼ばれる。

宗教[編集]





イスラエルの宗教別人口の推移(1949年-2008年)
詳細は「イスラエル (民族)」、「ユダヤ人」、および「ヘブライ人」を参照

現在、イスラエルは宗教的・文化的・社会的背景の異なる多様な人々が住む国である。古いルーツをもつこの新しい社会(「Altneuland」)は、今日もなお融合発展しつつある。人口550万のうち、81%がユダヤ人(半数以上がイスラエル生まれ、他は70余ヶ国からの移住者)、17.3%がアラブ人(キリスト教徒・イスラム教徒、前者には正教・マロン派・東方諸教会、後者にはベドウィンなどが含まれる)、残りの1.7%がドルーズ派、チェルケス人、サマリア人、バハーイー教徒、アラウィー派、その他の少数派である。比較的若い社会(平均年齢26.9歳)で、社会的・宗教的関心、政治思想、経済資力、文化的創造力などに特徴があり、これらすべてが国の発展に力強い弾みをつけている。

言語[編集]

「ウルパン」も参照

現代イスラエルの公用語のひとつであるヘブライ語は、古代ヘブライ語を元に20世紀になって復元されたものである。全くの文章語となっていた言語が復元されて公用語にまでなったのは、これが唯一のケースである。

上記の理由から、現代ヘブライ語の方言はない、とされる。あるとすれば、他国からの移住者のネイティブ言語の影響による「なまり」や、各コミュニティーでの伝統的な(聖書やラビ文学の朗読、礼拝などに用いる音声言語化された文語としての)ヘブライ語の発音などだろう。

イスラエル中北部やヨルダン川西岸地区に多く住むアラブ人はアラビア語の「ヨルダン定住方言」(アラビア語方言学の名称と思われるが、多分に反シオニズム的表現であると思われる。「パレスチナ方言」、「イスラエル方言」という表現も可能である)を、イスラエル南部に多いアラブ人は「ネゲヴ・ベドウィン方言」を、エルサレムのアラブ人は「エルサレム方言」を、ゴラン高原の住民は「ハウラン方言」を話し、すべてシリアからシナイ半島にかけて話される「シリア・パレスチナ方言」の一部であるとされる。

また、西岸地区ではサマリア語の新聞も出されている。

テルアビブ市内にはヘブライ語に並んでロシア語の看板なども多く見られる。

「ユダヤ人」の多様性[編集]

イスラエルのユダヤ人を単に宗教的集団(ユダヤ教徒)と定義するには問題があり、ひとつの民族といえるかどうかも問題がある。ただ、ユダヤ人とユダヤ教の歴史と本質から言っても、シオニズムの歴史と理想から言っても、多くの集団を分けて呼ぶことには問題があるといえる。
アシュケナジム主にドイツ語・イディッシュ語を母語とするドイツ・東ヨーロッパからの移民で、エリート層を占める。イスラエル独立以前からの移民はアシュケナジムが多く、都市は西洋風である。無神論者も多い(アシュケナジム・セファルディムというのは、シナゴーグや生活面での宗教的伝統、言語的な違いなどによる呼称であって、そういう民族がいるわけではない)。セファルディム(イベリア系、イタリア、オランダ、南米、かつてのオスマン帝国領域)、東アフリカや北アフリカなどのイスラム教圏からの移民が多く、失業率も高く、砂漠地方に住む場合が多い。イスラエル独立後に、移住して来た場合が多い。ユダヤ教の戒律を重視する人が比較的多い。イスラム教徒は概ねユダヤ教徒やキリスト教徒を同じ「啓典の民」として敬意を示すため、迫害されることは少なく、ユダヤ教徒としての暮らしを続けてきた。 ミズラヒム(山岳ユダヤ人・グルジア・インド・ブハラ・イラン・アラブ・イエメン・エチオピアなどのオリエント系移民の総称)イスラエルには現在主席ラビが二つしかないため、アシュケナジム・セファルディムで総称されることが多いが、セファルディムとミズラヒムは本来は別のものである。ただ、セファルディムは一時ミズラヒムと同じイスラム圏に属したこともあるし、居住地から、宗教的慣習などでも共通性はある。セファルディム・ミズラヒムは国民の40%弱を占め、ミズラヒムのうち最大グループはモロッコ出身のユダヤ人である。サマリア人現在ユダヤ教徒の一派として認められている。カライム・クリムチャクハザールとの関連も唱えられるテュルク系言語の話者。
その他、ユダヤ教に改宗した人々(ブラック・ジュー、ミゾ)などもユダヤ教徒として住んでいる。

関連項目
エスニック・リバイバル

非ユダヤ人への反応[編集]

21世紀に入って以降、アフリカのエリトリア、スーダン、南スーダンなどからシナイ半島を経由してイスラエルに不法入国する人々が後を絶たない。2012年現在、アフリカ系移民の人口は約6万人と推測されている。これは、母国での深刻な貧困や紛争などから逃れるためという側面があるが、イスラエル国内ではこの不法移民の扱いについて大きな議論を呼んでいる。「ユダヤ人国家」を穢されると懸念する右派勢力は移民排斥を訴え、特に過激なグループ(カハネ主義者)たちは不法移民の滞在するアパートに放火したり、移民に暴力を振るうなどしている。しかし、一方でホロコーストを経験した国として、移民には寛容であるべきという意見もある[12]。

一部のユダヤ人による、アラブ系イスラエル人への襲撃事件が相次いでいる[13]。

社会[編集]

社会福祉[編集]

イスラエルは高度の社会福祉の保証に努めているといわれる。特に、子供に対しては特別の配慮が払われている。従って、国家予算において社会福祉関係の予算が占める割合は大きい。

イスラエルの高水準の保健サービス、質の高い医療人材と研究、近代的な病院施設、人口当たりの医師・医療専門家の人数の多さなどは、乳幼児死亡率の低さ(1,000人当たり6.8人)や平均寿命の長さ(女性80.4歳、男性75.4歳)に表れている。乳幼児から高齢者まで、国民全員に対する保健サービスは法に規定され、国の医療支出(GNPの8.2%)は他の先進国と肩を並べる。

教育[編集]





イスラエル工科大学
詳細は「イスラエルの教育」を参照

イスラエルでは教育は貴重な遺産であり、出身地、宗教、文化、政治体制など、背景が異なる様々な人々が共存している社会である。この民主的複合社会の責任あるメンバーとなるように子供を育てることが、教育制度の目的であるとされている。

大学(ウニバルシタ)はすべて公立であり、比較的安価で高等教育を受けることができる。ほとんどの大学生はダブルメジャー(二つの専攻)で、平均3年で学位を取得する。高校卒業後に兵役に就き、その後、世界旅行に出てから大学に入学する場合が多いため、大学生の平均年齢は高くなっている。また、専門学校(ミクララ)が各地に存在する。

しかしながら、欧州諸国と比較すると全体的な学力レベルはかなり低く、学力低下が深刻化しつつあり、ノーベル賞受賞者や海外で活躍するイスラエル出身の学者らが、盛んに警鐘を鳴らしている。

結婚[編集]

結婚の際、伝統的には女性は婚姻に際して夫の姓を称する(夫婦同姓)が、いつでも自己の未婚時の姓又は従前の夫の姓を夫の姓に付加(結合姓)することができ、また、未婚時の姓又は従前の姓のみを称する(夫婦別姓)こともできる。

スポーツと健康[編集]

詳細は「イスラエルのスポーツ」を参照





ラマト・ガン・スタジアム
イスラエルでもスポーツは盛んであるが、サッカーが最もメジャーなスポーツである(国内リーグはイスラエル・プレミアリーグである)。イスラエルにはプロレスリング・プロボクシングがない(イスラエル人のキックボクサー、総合格闘家はいる)。かつては競馬もなかったが、2006年10月に初めて開催された。金銭を賭けることは禁止されているため、入場者は馬が走る姿や馬術競技を観戦するだけの純粋なスポーツとして今のところ行われている。2007年6月24日に同国初のプロ野球「イスラエルベースボールリーグ」の開幕戦が行われたが、1年ともたず中止になった。

イスラエルサッカー協会は、現在は欧州サッカー連盟 (UEFA) に加盟している。イスラエルは地勢的にはアジアの国であり、1954年5月8日に他の12か国と共にアジアサッカー連盟 (AFC) を設立したが、すぐには加盟せず、2年後の1956年にAFCに加盟した(なお、アジアサッカー連盟 (AFC) は政治的配慮により現在もなお、イスラエルをAFC創立メンバーとしては認めていない)[14][15]。だが、イスラエル=アラブ紛争(パレスチナ問題及び中東戦争等)により周辺アラブ諸国との関係が悪化し、アラブ諸国(ほかにインドネシアや北朝鮮や中国)を中心としたボイコット(対戦拒否、大会参加拒否)が激化。1973年10月に第四次中東戦争が起こると、もはや対戦不可能な状態に陥った。そして、1974年9月14日、イランアジア大会の開催期間中にイランの首都テヘランで開催されたAFC総会でAFCから除名された[16]。AFC除名以降は、地域連盟未所属のまま活動し、FIFAワールドカップアジア・オセアニア予選へ組み込まれたり、オセアニアサッカー連盟 (OFC) の暫定メンバーとなるなどの紆余曲折を経て、1992年に欧州サッカー連盟 (UEFA) に加盟した。これはイスラエルオリンピック委員会についても同様で、かつてはアジア競技連盟(後のアジアオリンピック評議会)に所属していたものの、その後ヨーロッパオリンピック委員会に加入した。

通信[編集]

電話[編集]

電話]及び携帯電話が広く利用されている。国際電話番号は972。

インターネット[編集]

イスラエルのインターネット普及率は高く、主な場所で無線LANが利用できる場所もある。インターネットカフェも普及しており、店内は禁煙の所が多い。日本の漫画喫茶のように雑然としておらず、端末ごとに整然と区画されている。

著名な出身者[編集]

詳細は「イスラエル人の一覧」を参照

日本での評価[編集]
イスラエルのことを西部邁(評論家)はこう評価している。「宗教における信仰や道徳における価値などを精神のエネルギー源として、武力そのものにおいては弱者であるにもかかわらず、巧みな戦略や戦術を、さらには外交や交易を繰り出して、強国を倒したり窮地に追い込んでいった国がある。その最もわかりやすい例は、二千年間の負け戦にも屈しなかったイスラエル[…]ということになろうか。」[17]
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