2014年02月08日
ヘレナ・P・ブラヴァツキー
ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー (Helena Petrovna Blavatsky)、1831年8月12日 – 1891年5月8日) は、神智学を創唱した人物で、神智学協会の設立者。
著書の訳書はH・P・ブラヴァツキーかヘレナ・P・ブラヴァツキーとして出ている。通称ブラヴァツキー夫人。ブラバッキーと誤記されることもある。ドイツ/ロシア系で、ロシア語でのフルネームはエレーナ・ペトローヴナ・ブラヴァーツカヤ (Елена Петровна Блаватская, Eelena Petrovna Blavatskaya) である(ブラヴァーツカヤはブラヴァーツキーの女性形)。旧姓フォン・ハーン (von Hahn)。
神智学はキリスト教・仏教・ヒンドゥー教・古代エジプトの宗教をはじめ、さまざまな宗教や神秘主義思想を折衷したものである。この神智学は、多くの芸術家たちにインスピレーションを与えたことが知られている。例えば、ロシアの作曲家スクリャービンも傾倒したし、イェイツやカンディンスキーにも影響を与えた。
ロシア首相を務めたセルゲイ・ヴィッテ伯爵は従弟である。2人の共通の祖母が、名門ドルゴルーコフ家の公女にして博物学者のエレナ・パヴロヴナ・ドルゴルーコヴァである。
目次 [非表示]
1 生涯 1.1 幼少期
1.2 結婚後
1.3 在米期
1.4 在印期
2 年譜
3 著書
4 関連書
5 脚註
6 関連項目
7 外部リンク
生涯[編集]
幼少期[編集]
1831年ウクライナ・エカチェリノスラフ(現ドニプロペトロウシク)にて、ドイツ系貴族で騎兵砲撃隊長のペーター・フォン・ハーンを父として、ロシアの名門出身で女権主義者で小説家のヘレナ・アンドレヤヴナ・フォン・ハーンを母として誕生。
幼いころから精霊や賢者の存在を信じていたという。性格的には激しい気性の持ち主であったという。1844年には父親とともにパリとロンドンに行き音楽教育を受け、ピアノ演奏などを習得した。
結婚後[編集]
1848年、アルメニアのエリヴァン地方副知事の職にあり、20歳以上も年上であったニキフォル・ブラヴァツキー将軍と結婚した。結婚は長続きせず、数ヶ月で家を出て何度も住まいを変えた。この夫婦のケースでは法律上離婚が困難であり、エレナもブラヴァツキー夫人という名で呼ばれることを選んだ。
以降、世界各国を放浪し様々な職業についた。エジプトに行き心霊協会を組織してみたり、パリではイギリス出身の高名な霊媒のダニエル・ダングラス・ホームの助手となり自らも霊媒の素養を身につけた。またフランス系のフリーメイソンのメンバーとも交流したという。またこの時期にインドにも行ったという(のちに自身の著書で「1856年から7年間チベットに滞在し、導師たちの教えを受けた」と記述しているが、状況や彼女の他の年譜とも矛盾し、これについては信じがたい)。
在米期[編集]
1875年
そして1873年にはニューヨークにたどり着いた。
1874年、ヴァーモント州チッテンデンで行われていたエディ兄弟の降霊会において、ヘンリー・スティール・オルコット大佐と出会った。1875年、オルコットはエジプトのルクソール同胞団に所属する“トュイティト・ベイ”なる人物から手紙を受け取るようになった。ここで登場するトュイティト・ベイは後に神智学の「マハトマ」という概念に変化してゆくことになる。これは意味としてはおおむね“古代から継承されている霊知を少数の賢者にのみ伝える未知の上位者”を意味しており、こうした発想というのは元をたどるとフリーメーソンの厳格戒律派やイギリス薔薇十字協会などに見られたものである。
1875年9月7日、ブラヴァツキー夫人の自宅にて、ジョージ・フェルトを講演者とし「エジプト人の用いた比率の失われた基準」と題した講演が行われた。
ブラヴァツキー夫人とオルコット大佐
1875年11月17日、神智学協会を正式に創設。初代会長には、オルコット大佐が就任し、協会の運営を取り仕切ることになった。副会長はジョージ・フェルト、図書室司書はチャールズ・サザラン(フリーメイソンのメンバーでイギリス薔薇十字協会会員)、評議員に霊媒のエマ・ブリテン、”交信秘書”としてブラヴァツキー夫人、顧問弁護士としてW.Qジャッジ(この人物は後にアメリカ神智学協会会長になる)、という構成であった。設立当初は相当活気があったという。 1877年に Isis unveiled 『ベールを取られたイシス』(ベールをとったイシス )を出版。ここで説かれた内容は、イシス密儀のような古代の霊知を復興することで真の霊性を養うことや、ドグマ化したキリスト教と唯物論化したscienceの害を排することや、心霊主義は止めるべきだ、ということである。ブラヴァツキー夫人は、心霊主義とは異なる霊魂観を持っていて、人間は死とともにそのアストラル体のほうは分離し しばらくの間アストラル界にとどまるとし、真我のほうはブッディ=アートマと結びついて休息的待機状態に入る、とした。そして心霊主義において霊媒が交信しているとしているのは真我のほうではなく ”アストラル体の殻”にすぎない、と語った。
神智学協会のメンバーでキリスト教の教えを重視する人や心霊主義を重視する人は結局、協会を離れてゆき、活動は停滞することになった。
在印期[編集]
インドへ移動し再起をはかることにし、1878年12月19日に蒸気船で一行はニューヨークからロンドンへ移動。1879年1月3日到着。イギリスにて短い滞在期間ながらイギリス神智学協会の会員らと交流した後、リヴァプールから出港、インドのボンベイへと向かい、2月16日に到着。翌17日には歓迎会が盛大に開かれた。
インドでは歓迎された。19世紀はヨーロッパ列強がアジア・アフリカを植民地化し蹂躙してゆく時代であった。1877年にはイギリスのヴィクトリア女王が ”インド皇帝 ”に就任した。イギリスは、他の列強諸国が暴力主義的になりすぎ失敗したことを他山の石として、土着の文化を尊重しつつ内面からも支配するという巧妙な方針を採用した。とはいうもののイギリス文化やキリスト教を上位に位置づけようとしていた面は多々あり、インドの人々は違和感を覚えていた。そこに神智学という、キリスト教を拒否し、インド思想を教義にとりこんだ神智学協会が登場したのでインド人たちはそれを歓迎したのである。特にアーリヤ・サマージの人々からは歓迎された。
インドの地において神智学にはより多くのインド思想が導入されてゆくことになった。インド人の神智学協会会員のダモダールやスッバ・ロウなどが協力し、ヒンドゥー教や仏教から様々な教えがとりこまれた。ただし、理解や導入に限界はあり、西洋の神秘学との折衷的な手法が採用された。理解できたり、利用できる思想は取り込むものの、それができない部分はカバラーや新プラトン主義などの考え方で補完する、ということをしたのである。
1884年にSPRのリチャード・ホジソンがインドに赴いて執拗な調査を行い、神秘的な現象がトリックであると結論づけたホジソン・レポート(英語版)が1885年に公表された。これによりブラヴァツキー夫人が詐欺師であるというレッテルが貼られることになった。後の1986年に英心霊現象協会は、ホジソン報告は同社団の正式な手続きによるものではなく、ブラヴァツキー夫人は偉大な霊能家であったという文書を発出している(個人文書扱いにしたということ)[1]。
[icon] この節の加筆が望まれています。
年譜[編集]
1831年ウクライナ・エカチェリノスラフ(現ドニプロペトロウシク)にて、ペーター・フォン・ハーンを父として、ヘレナ・アンドレヤヴナを母として誕生する。
1848年、20歳以上も年上のニキフォル・ブラヴァツキーと結婚。だが、3ヶ月もたたずに出奔。
以降、世界各国を放浪、様々な職業につき、イギリス出身の高名な霊媒のダニエル・ダングラス・ホームの助手となり霊媒の技術を身につける。
1873年、アメリカ国民となり、神秘主義作家、神秘思想家として活動。
1875年11月17日、ニューヨークに「神智学協会」を創設し、神智学協会の初代会長には、ヘンリー・スティール・オルコットが就任した。
1877年Isis unveiled『ヴェールを脱いだイシス神』執筆。
1879年、アーリヤ・サマージの運動に共鳴し、神智学協会の本部はインドのアディヤールに移転。神智学協会の機関紙として『ザ・セオソフィスト(神智学徒)』と『ルシファー』を刊行。クートフーミ導師(マハトマ)とモリヤ導師教えを受けたと主張しはじめる。大師(マスター)から物質化した手紙を受け取っているともしていたが、疑問に思う人も存在し、物議をかもしていた。
1884年イギリスSPRのリチャード・ホジソンにより神智学協会を解雇された女性の報復に基づいて、留守中に心霊現象の真偽を調べられる(1885年にホジソン・レポート(英語版)が公表される)。
1884年イギリス、ロンドンに移動した。
1888年『秘密教義(シークレット・ドクトリン)』を執筆。
1889年『神智学の鍵』執筆。
1889年『沈黙の声』執筆。
晩年には秘教部門を神智学協会の中につくり、神智学の教えの最重要部分を神智学協会の中枢の会員に伝授したと主張した。
1891年5月8日死去。
著書[編集]
執筆中のブラヴァツキー夫人H・P・ブラヴァツキー 『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論 上』 竜王文庫 ISBN 4-89741-317-6
H・P・ブラヴァツキー 『神智学の鍵』 竜王文庫 ISBN 978-4-89741-316-7
H・P・ブラヴァツキー 『沈黙の声』 竜王文庫 ISBN 4-89741-001-0
H・P・ブラヴァツキー 『実践的オカルティズム』 竜王文庫 ISBN 4-89741-319-2
H・P・ブラヴァツキー 『夢魔物語』 竜王文庫 ISBN 978-4-89741-321-1
H・P・ブラヴァツキー 『ベールをとったイシス 第1巻』 竜王文庫ISBN-10: 4897416000
H・P・ブラヴァツキー 『インド幻想紀行 ヒンドスタンの石窟とジャングルから』 ちくま学芸文庫 ISBN 978-4-480-08754-6
ヘレナ・P・ブラヴァツキー 『シークレット・ドクトリンを読む』 出帆新社 ISBN 978-4-915497-72-8
H・P・ブラヴァツキー『ブラヴァツキーのことば365日』ウィニーフレッド・パーレィ編纂 アルテ ISBN 978-4434135996
関連書[編集]
ハワード・マーフェット 『H・P・ブラヴァツキー夫人 - 近代オカルティズムの母』 田中恵美子訳 竜王文庫ISBN 4-89741-308-7
アン・バン・クロフト『20世紀の神秘思想家たち』 吉福伸逸訳、平河出版社
ジャネット・オッペンハイム 『英国心霊主義の抬頭―ヴィクトリア・エドワード朝時代の社会精神史』 和田芳久訳 (いわゆるスキャンダルについて) ISBN 4-87502-191-7
ライアン・スプレイグ・ディ・キャンプ 『プラトンのアトランティス』 小泉源太郎訳 (『秘密教理』 の出典について) ISBN 4-89456-365-7 大陸書房刊 『幻想大陸』 の改題再刊
ルネ・ゲノン『世界の終末 現代世界の危機』田中義廣訳 平河出版社、1986年
ダニエル・コーエン 『世界謎物語』 岡達子訳 (要領の良い略伝あり) ISBN 4-390-11340-2
カート・ヴォネガット 『ヴォネガット、大いに語る』 飛田茂雄訳 (夫人側の主張のみでまとめてみたトンデモ略伝を収録) ISBN 4-387-84014-5 ISBN 4-15-050150-5
脚註[編集]
1.^ “Press Release of Society for Psychical Research - 1986”. 2011年1月23日閲覧。
関連項目[編集]
ウィキメディア・コモンズには、ヘレナ・P・ブラヴァツキーに関連するカテゴリがあります。
英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
ヘレナ・P・ブラヴァツキー
ロシア語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
ヘレナ・P・ブラヴァツキー
神智学
神智学協会
伝説上の大陸
アトランティス
レムリア
著書の訳書はH・P・ブラヴァツキーかヘレナ・P・ブラヴァツキーとして出ている。通称ブラヴァツキー夫人。ブラバッキーと誤記されることもある。ドイツ/ロシア系で、ロシア語でのフルネームはエレーナ・ペトローヴナ・ブラヴァーツカヤ (Елена Петровна Блаватская, Eelena Petrovna Blavatskaya) である(ブラヴァーツカヤはブラヴァーツキーの女性形)。旧姓フォン・ハーン (von Hahn)。
神智学はキリスト教・仏教・ヒンドゥー教・古代エジプトの宗教をはじめ、さまざまな宗教や神秘主義思想を折衷したものである。この神智学は、多くの芸術家たちにインスピレーションを与えたことが知られている。例えば、ロシアの作曲家スクリャービンも傾倒したし、イェイツやカンディンスキーにも影響を与えた。
ロシア首相を務めたセルゲイ・ヴィッテ伯爵は従弟である。2人の共通の祖母が、名門ドルゴルーコフ家の公女にして博物学者のエレナ・パヴロヴナ・ドルゴルーコヴァである。
目次 [非表示]
1 生涯 1.1 幼少期
1.2 結婚後
1.3 在米期
1.4 在印期
2 年譜
3 著書
4 関連書
5 脚註
6 関連項目
7 外部リンク
生涯[編集]
幼少期[編集]
1831年ウクライナ・エカチェリノスラフ(現ドニプロペトロウシク)にて、ドイツ系貴族で騎兵砲撃隊長のペーター・フォン・ハーンを父として、ロシアの名門出身で女権主義者で小説家のヘレナ・アンドレヤヴナ・フォン・ハーンを母として誕生。
幼いころから精霊や賢者の存在を信じていたという。性格的には激しい気性の持ち主であったという。1844年には父親とともにパリとロンドンに行き音楽教育を受け、ピアノ演奏などを習得した。
結婚後[編集]
1848年、アルメニアのエリヴァン地方副知事の職にあり、20歳以上も年上であったニキフォル・ブラヴァツキー将軍と結婚した。結婚は長続きせず、数ヶ月で家を出て何度も住まいを変えた。この夫婦のケースでは法律上離婚が困難であり、エレナもブラヴァツキー夫人という名で呼ばれることを選んだ。
以降、世界各国を放浪し様々な職業についた。エジプトに行き心霊協会を組織してみたり、パリではイギリス出身の高名な霊媒のダニエル・ダングラス・ホームの助手となり自らも霊媒の素養を身につけた。またフランス系のフリーメイソンのメンバーとも交流したという。またこの時期にインドにも行ったという(のちに自身の著書で「1856年から7年間チベットに滞在し、導師たちの教えを受けた」と記述しているが、状況や彼女の他の年譜とも矛盾し、これについては信じがたい)。
在米期[編集]
1875年
そして1873年にはニューヨークにたどり着いた。
1874年、ヴァーモント州チッテンデンで行われていたエディ兄弟の降霊会において、ヘンリー・スティール・オルコット大佐と出会った。1875年、オルコットはエジプトのルクソール同胞団に所属する“トュイティト・ベイ”なる人物から手紙を受け取るようになった。ここで登場するトュイティト・ベイは後に神智学の「マハトマ」という概念に変化してゆくことになる。これは意味としてはおおむね“古代から継承されている霊知を少数の賢者にのみ伝える未知の上位者”を意味しており、こうした発想というのは元をたどるとフリーメーソンの厳格戒律派やイギリス薔薇十字協会などに見られたものである。
1875年9月7日、ブラヴァツキー夫人の自宅にて、ジョージ・フェルトを講演者とし「エジプト人の用いた比率の失われた基準」と題した講演が行われた。
ブラヴァツキー夫人とオルコット大佐
1875年11月17日、神智学協会を正式に創設。初代会長には、オルコット大佐が就任し、協会の運営を取り仕切ることになった。副会長はジョージ・フェルト、図書室司書はチャールズ・サザラン(フリーメイソンのメンバーでイギリス薔薇十字協会会員)、評議員に霊媒のエマ・ブリテン、”交信秘書”としてブラヴァツキー夫人、顧問弁護士としてW.Qジャッジ(この人物は後にアメリカ神智学協会会長になる)、という構成であった。設立当初は相当活気があったという。 1877年に Isis unveiled 『ベールを取られたイシス』(ベールをとったイシス )を出版。ここで説かれた内容は、イシス密儀のような古代の霊知を復興することで真の霊性を養うことや、ドグマ化したキリスト教と唯物論化したscienceの害を排することや、心霊主義は止めるべきだ、ということである。ブラヴァツキー夫人は、心霊主義とは異なる霊魂観を持っていて、人間は死とともにそのアストラル体のほうは分離し しばらくの間アストラル界にとどまるとし、真我のほうはブッディ=アートマと結びついて休息的待機状態に入る、とした。そして心霊主義において霊媒が交信しているとしているのは真我のほうではなく ”アストラル体の殻”にすぎない、と語った。
神智学協会のメンバーでキリスト教の教えを重視する人や心霊主義を重視する人は結局、協会を離れてゆき、活動は停滞することになった。
在印期[編集]
インドへ移動し再起をはかることにし、1878年12月19日に蒸気船で一行はニューヨークからロンドンへ移動。1879年1月3日到着。イギリスにて短い滞在期間ながらイギリス神智学協会の会員らと交流した後、リヴァプールから出港、インドのボンベイへと向かい、2月16日に到着。翌17日には歓迎会が盛大に開かれた。
インドでは歓迎された。19世紀はヨーロッパ列強がアジア・アフリカを植民地化し蹂躙してゆく時代であった。1877年にはイギリスのヴィクトリア女王が ”インド皇帝 ”に就任した。イギリスは、他の列強諸国が暴力主義的になりすぎ失敗したことを他山の石として、土着の文化を尊重しつつ内面からも支配するという巧妙な方針を採用した。とはいうもののイギリス文化やキリスト教を上位に位置づけようとしていた面は多々あり、インドの人々は違和感を覚えていた。そこに神智学という、キリスト教を拒否し、インド思想を教義にとりこんだ神智学協会が登場したのでインド人たちはそれを歓迎したのである。特にアーリヤ・サマージの人々からは歓迎された。
インドの地において神智学にはより多くのインド思想が導入されてゆくことになった。インド人の神智学協会会員のダモダールやスッバ・ロウなどが協力し、ヒンドゥー教や仏教から様々な教えがとりこまれた。ただし、理解や導入に限界はあり、西洋の神秘学との折衷的な手法が採用された。理解できたり、利用できる思想は取り込むものの、それができない部分はカバラーや新プラトン主義などの考え方で補完する、ということをしたのである。
1884年にSPRのリチャード・ホジソンがインドに赴いて執拗な調査を行い、神秘的な現象がトリックであると結論づけたホジソン・レポート(英語版)が1885年に公表された。これによりブラヴァツキー夫人が詐欺師であるというレッテルが貼られることになった。後の1986年に英心霊現象協会は、ホジソン報告は同社団の正式な手続きによるものではなく、ブラヴァツキー夫人は偉大な霊能家であったという文書を発出している(個人文書扱いにしたということ)[1]。
[icon] この節の加筆が望まれています。
年譜[編集]
1831年ウクライナ・エカチェリノスラフ(現ドニプロペトロウシク)にて、ペーター・フォン・ハーンを父として、ヘレナ・アンドレヤヴナを母として誕生する。
1848年、20歳以上も年上のニキフォル・ブラヴァツキーと結婚。だが、3ヶ月もたたずに出奔。
以降、世界各国を放浪、様々な職業につき、イギリス出身の高名な霊媒のダニエル・ダングラス・ホームの助手となり霊媒の技術を身につける。
1873年、アメリカ国民となり、神秘主義作家、神秘思想家として活動。
1875年11月17日、ニューヨークに「神智学協会」を創設し、神智学協会の初代会長には、ヘンリー・スティール・オルコットが就任した。
1877年Isis unveiled『ヴェールを脱いだイシス神』執筆。
1879年、アーリヤ・サマージの運動に共鳴し、神智学協会の本部はインドのアディヤールに移転。神智学協会の機関紙として『ザ・セオソフィスト(神智学徒)』と『ルシファー』を刊行。クートフーミ導師(マハトマ)とモリヤ導師教えを受けたと主張しはじめる。大師(マスター)から物質化した手紙を受け取っているともしていたが、疑問に思う人も存在し、物議をかもしていた。
1884年イギリスSPRのリチャード・ホジソンにより神智学協会を解雇された女性の報復に基づいて、留守中に心霊現象の真偽を調べられる(1885年にホジソン・レポート(英語版)が公表される)。
1884年イギリス、ロンドンに移動した。
1888年『秘密教義(シークレット・ドクトリン)』を執筆。
1889年『神智学の鍵』執筆。
1889年『沈黙の声』執筆。
晩年には秘教部門を神智学協会の中につくり、神智学の教えの最重要部分を神智学協会の中枢の会員に伝授したと主張した。
1891年5月8日死去。
著書[編集]
執筆中のブラヴァツキー夫人H・P・ブラヴァツキー 『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論 上』 竜王文庫 ISBN 4-89741-317-6
H・P・ブラヴァツキー 『神智学の鍵』 竜王文庫 ISBN 978-4-89741-316-7
H・P・ブラヴァツキー 『沈黙の声』 竜王文庫 ISBN 4-89741-001-0
H・P・ブラヴァツキー 『実践的オカルティズム』 竜王文庫 ISBN 4-89741-319-2
H・P・ブラヴァツキー 『夢魔物語』 竜王文庫 ISBN 978-4-89741-321-1
H・P・ブラヴァツキー 『ベールをとったイシス 第1巻』 竜王文庫ISBN-10: 4897416000
H・P・ブラヴァツキー 『インド幻想紀行 ヒンドスタンの石窟とジャングルから』 ちくま学芸文庫 ISBN 978-4-480-08754-6
ヘレナ・P・ブラヴァツキー 『シークレット・ドクトリンを読む』 出帆新社 ISBN 978-4-915497-72-8
H・P・ブラヴァツキー『ブラヴァツキーのことば365日』ウィニーフレッド・パーレィ編纂 アルテ ISBN 978-4434135996
関連書[編集]
ハワード・マーフェット 『H・P・ブラヴァツキー夫人 - 近代オカルティズムの母』 田中恵美子訳 竜王文庫ISBN 4-89741-308-7
アン・バン・クロフト『20世紀の神秘思想家たち』 吉福伸逸訳、平河出版社
ジャネット・オッペンハイム 『英国心霊主義の抬頭―ヴィクトリア・エドワード朝時代の社会精神史』 和田芳久訳 (いわゆるスキャンダルについて) ISBN 4-87502-191-7
ライアン・スプレイグ・ディ・キャンプ 『プラトンのアトランティス』 小泉源太郎訳 (『秘密教理』 の出典について) ISBN 4-89456-365-7 大陸書房刊 『幻想大陸』 の改題再刊
ルネ・ゲノン『世界の終末 現代世界の危機』田中義廣訳 平河出版社、1986年
ダニエル・コーエン 『世界謎物語』 岡達子訳 (要領の良い略伝あり) ISBN 4-390-11340-2
カート・ヴォネガット 『ヴォネガット、大いに語る』 飛田茂雄訳 (夫人側の主張のみでまとめてみたトンデモ略伝を収録) ISBN 4-387-84014-5 ISBN 4-15-050150-5
脚註[編集]
1.^ “Press Release of Society for Psychical Research - 1986”. 2011年1月23日閲覧。
関連項目[編集]
ウィキメディア・コモンズには、ヘレナ・P・ブラヴァツキーに関連するカテゴリがあります。
英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
ヘレナ・P・ブラヴァツキー
ロシア語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
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神智学協会
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