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2014年02月08日

ルドルフ・シュタイナー

ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner, 1861年2月27日 - 1925年3月30日(満64歳没))は、 オーストリア帝国(1867年にはオーストリア・ハンガリー帝国に、現在のクロアチア)出身の神秘思想家 。アントロポゾフィー(人智学)の創始者。哲学博士。



目次 [非表示]
1 概略
2 人物と業績 2.1 文芸
2.2 哲学
2.3 霊的な知識(精神科学/霊学)
2.4 社会改革
2.5 教育 2.5.1 学校教育
2.5.2 幼児教育
2.5.3 治療教育
2.5.4 七年周期による教育
2.5.5 四つの気質

2.6 芸術
2.7 建築
2.8 芸術観念
2.9 医学
2.10 農業
2.11 宗教刷新

3 生涯 哲学者として(前半) 3.1 幼少時代 ウィーン以南のオーストリア各地 1861-1872
3.2 実業学校時代 ヴィーナー・ノイシュタット 1872-1879
3.3 学業時代 ウィーン 1879-1890
3.4 ヴァイマール時代 1890-1896
3.5 ベルリン時代初期 1897-1901

4 生涯 神秘思想家として(後半) 4.1 アントロポゾフィー発展の第一段階 1902-1909
4.2 アントロポゾフィー発展の第二段階 1910-1916
4.3 アントロポゾフィー発展の第三段階 1917-1923
4.4 晩年 1924-1925

5 死後
6 日本への紹介
7 評価 7.1 シュタイナーを評価した人々

8 シュタイナーの思想に対する批判
9 著作 9.1 ルドルフ・シュタイナー全集 9.1.1 A.著作
9.1.2 B.講義録
9.1.3 C.芸術作品の複製品(主なもの)
9.1.4 D.ルドルフ・シュタイナー全集に宛てた寄稿論文集

9.2 本として出版されたもの
9.3 論文集
9.4 遺稿管理局による資料公開
9.5 その他の日本語に訳された文献

10 シュタイナー以外の著者による参考文献
11 外部リンク
12 脚注


概略[編集]

シュタイナーは20代でゲーテ研究者として世間の注目を浴びた[1]。1900年代からは神秘的な結社神智学協会に所属し、ドイツ支部を任され、一転して物質世界を超えた“超感覚的”(霊的)世界に関する深遠な事柄を語るようになった。「神智学協会」幹部との方向性の違いにより1912年に同協会を脱退し、自ら「アントロポゾフィー協会(人智学協会)」を設立した。「アントロポゾフィー(人智学)」という独自の世界観に基づいてヨーロッパ各地で行った講義は生涯6千回にも及び、多くの人々に影響を与えた。また教育、芸術、医学、農業、建築など、多方面に渡って語った内容は、弟子や賛同者たちにより様々に展開され、実践された。中でも教育の分野において、ヴァルドルフ教育学およびヴァルドルフ学校(シュタイナー学校)が特に世界で展開され、日本でも、世界のヴァルドルフ学校の教員養成で学んだ者を中心にして、彼の教育思想を広める活動を行っている。

人物と業績[編集]

文芸[編集]

当時22歳の学生であったシュタイナーはゲーテの自然科学に関する著作を校訂し、序文を書く仕事を依頼され、13年間かけて完成させた。その成果は1897年に『ドイツ国民文学』という叢書の第一巻として出版された。このシュタイナーの業績は識者たちから高く評価された。

哲学[編集]

ロストック大学(Universität Rostock)で哲学の博士号を取得し、その学位論文を編集して『真理と科学』GA3として出版した。

1894年には哲学的主著『自由の哲学』GA4を出版し、その5年後には自身のゲーテ研究の集大成として『ゲーテの世界観』GA6を出版したが、哲学の研究者たちからはほとんど評価を得ることができなかった。

「自由の哲学」ではあるゆる哲学の試みを検討しつつも、複眼的視点においてその欠陥を確定し、別の観点を試みている。シュタイナーは伝記の中で、霊的な物の見方の準備をした試みを哲学において行ったと言い、その当時の自分の哲学を「客観的観念論」[要出典]と名づけた。霊的なものを受け入れる土台つくりに若い頃は励んでいた。自由とは結局、一つの物の見方より、より多くの物の見方を得た時のみ、得る事が出来るというような事を指示しているが、これがシュタイナーの言いたかった霊的なものへの暗示とも言える。

霊的な知識(精神科学/霊学)[編集]

シュタイナーによれば、人間の持っている通常の五感では事物の表面しか捉えることはできず、人間の死後に五感を越えたより高次の7つの超感覚(霊的感覚/器官・チャクラ)によって初めて、事物の本質を把握することができるという。そして、その超感覚は誰しもが潜在的に持っているものであり、生きている間は瞑想や思考の訓練によって引き出すことができるとした。ゆえに自分が語っている霊的な事柄も万人が確かめることができるものだとして具体的な修行法を本で公開した。しかし、霊媒や降霊術等の、理性的な思考から離れて感情に没入する“神秘主義”については、科学的でなく、間違った道であると警鐘を鳴らしていた。シュタイナーは「精神“科学”」という言葉にも表れているように、霊的な事柄についても、理性的な思考を伴った自然科学的な態度で探求するということを、最も重要視していた。この姿勢が降霊術などを用いたり、東洋の神秘主義に傾いて行った神智学協会と袂を分かつことになった原因の一つでもあった。

自著『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』では具体的な霊的体験を得るための修行法を描いているが、二部を作る前に世を去った。また自身が40歳になるまでは霊的な指導を引き受けなかったのは、40歳までに霊的な指導を引き受けると誤謬に陥り易くなるためだとも言う(発明は40歳までなのは人類の道徳を退行させ、40歳以後は人類の道徳に貢献するものにもなる、と主張されている。)。

社会改革[編集]

人類史上初めての世界的戦争である第一次世界大戦後の最中にあって、戦争を初めとした社会問題の解決策として、「社会有機体三層化運動」を提唱した。社会という有機体を精神生活(文化)、法生活(政治)、経済生活の三つの部分が独立しながらも、精神生活においては「自由」を、法生活(政治)においては「平等」を、経済生活においては「友愛」を原則として、この3つが有機的に結びつくことが健全な社会のあり方であると説いた。当時のドイツの外務大臣を初めとする国家の指導者たちにこの提案を知らせたが、政治的に採用されるには至らず、長い間顧みられなかったが、1970年代後半ころ再び検討され出し、1980年代の西ドイツの緑の党 (Die Grünen)の創立理念に影響を与えた。

教育[編集]

学校教育[編集]

シュタイナーの人間観に基づき、独自の教育を行う「自由ヴァルドルフ学校」は、1919年にシュトゥットガルトの煙草工場に付属する社営学校として開校された。この工場に働く労働者の子弟が生徒であったため、初等・中等教育および職業教育を行う総合学校の形態をとった。このタイプの学校がドイツ内外で次々に設立された。現在ドイツのそれらは自由ヴァルドルフ連盟に属している。ヨーロッパ地区では「ヴァルドルフ学校」または「ルドルフ・シュタイナー学校」と総称され、600校(うちドイツに200校)ほどが各国連盟ごとに存在している。日本およびアジア各国においては「シュタイナー教育」という呼称が一般的である。日本およびアジアには正規の連盟がなく、したがって認証の基準もないまま、各フリースクールが勝手に名乗っている現状である。学校法人シュタイナー学園(神奈川県相模原市緑区)や東京賢治の学校自由ヴァルドルフシューレ(鳥山敏子代表)など数校が交流を試みている。ヴァルドルフ学校は自称のそれまでを含めると世界中に900校以上あるといわれる。

幼児教育[編集]

シュタイナーは、1920年6月の、さきの学校での教員会議で「ほんとうは、幼稚園の頃から子どもを預かることができるとよいのです。子どもたちを受け持つ時間が長ければ長いほどよいのです。就学以前の子どもたちを受け入れることができるはずです。(中略)幼い子どもたちの教育の方が重要なのです」と発言するなど、幼児教育の重要性を説き、彼の指導のもと、E.M.グルネリウスによってシュタイナー幼稚園を設立する意向であった。しかし、彼の存命中に叶わず、亡くなった翌年の1926年にグルネリウスらによって、シュタイナー教育の理念に基づく幼稚園が始まった。[2]

治療教育[編集]

障害を持つ子供達を受け持っていた学生たちがシュタイナーから受けた助言をもとに、ドイツのイェーナ近郊に治療教育施設「ラウエンシュタイン治療教育院」を作った。ちょうど同じころスイス・アーレスハイムの臨床治療院(現在はイタ・ヴェークマンクリニックと呼ばれている)では、心身に何らかの障害を持つ子どもたちが入院し、その入院施設が後に発展して、1924年に治療教育施設「ゾンネンホーフ」が成立した。シュタイナーは治療のために薬以外にも、音楽、絵画、彫塑、オイリュトミーなどの芸術や宗教による特別の教育を示した。イギリスにおいては治療教育は、シュタイナー教育の代名詞と言われるほど評価が高い。

七年周期による教育[編集]

シュタイナーによれば人間は7年毎に体を完成させてゆき、63歳で成長の頂点を迎えるとしている。

7歳までを肉体、14歳までをエーテル体、21歳までをアストラル体の完成とし、それ以降は自我が独立して発達するとし、それ以前の期間を教育が必要な時期とした。

四つの気質[編集]

シュタイナーは四体液説の粘液の分類を取り入れており、自我が優勢な胆汁質、アストラル体が優勢な多血質、エーテル体が優勢な粘液質、肉体が優勢な憂鬱質があり、それぞれの気質の中心によって、子供を分類して対応を変えている。この気質は誰もが四つ持っているが、優勢なものが一つあり、個人における四気質を調和へと導くことが教育の課題であるとしている。

芸術[編集]
神秘劇超感覚的世界というテーマを含んだ新しい劇である「神秘劇」を四作創作した。現在でも毎年、スイスのドルナッハで上演されている。オイリュトミー音や言葉の質を身体の動きによって表現する独自の芸術を考案した。これはシュタイナー教育のカリキュラムや障害児に対する治療教育にも用いられている。
建築[編集]

第2ゲーテアヌム(1928 - )

自分達が内部で行うにふさわしい建物の形が必要だとの考えから、シュタイナーがゲーテアヌムと呼ばれる独特の形姿を持つ建物の設計を行った。最初に建設されたゲーテアヌムは、2つの天蓋が有機的に交わる木製の建築物だったが、火事により消失。現在はミュンヘンのピナコテーク・デア・モデルネに模型が置かれている。

第二ゲーテアヌムについては、彼自身が粘土で模型を制作、現場で建築作業を直接指導し、小ドームの絵の大半を自ら描いた[1]。普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)があり、人智学運動の中心地となっている[1]。

芸術観念[編集]

シュタイナーは芸術を感覚界における超感覚界の表現だとしており、美は理念(イデア)の表現ではなく、表現によるイデアそのものだとしている。美的な体験はアストラル体(感情、感受的心魂の表現)を通じるものだとし、芸術によるいくつかの療法も行っている。

医学[編集]

シュタイナーは医師や薬剤師、医学生などを前に自らの霊学に基づく医学に関する講演を多く行った。また医師たちの診療に同行し、助言を与えたりした。その結果、オランダの女医イタ・ヴェーグマン博士の主導で、「臨床医療研究所」や製薬施設が作られた。シュタイナーが示した治療法や薬剤に関する示唆は多くの医師の関心を呼び、研究がなされ、様々な国で薬剤が生産されるようになった。その一つが現在、シュタイナーの理念に基づいて、自然の原料のみを使った化粧品や食品を製造している会社「Weleda」(ヴェレダ)である。

農業[編集]

シュタイナーは有機農業のような地球次元だけでなく、天体の動きなど宇宙との関係に基づいた「農業暦」にしたがって、種まきや収穫などを行うという自然と調和した農業、「バイオダイナミック農法」(ビオダイナミック、ビオディナミとも、BIO-DYNAMIC)を提唱した。

ヨーロッパを初め世界各国で研究・実践されている。シュタイナーの農業理念に基づいて設立されたドイツ最古の認証機関であるデメター(demeter)は有機農法の連盟の中でも代表的な団体であり、厳格な検査によって、バイオダイナミック農法の商標の認証を行っている。日本では1985年に千葉県(現在は熊本県)の農場で「ぽっこわぱ耕文舎」が日本で初めて「バイオダイナミック農法」を始めた。

宗教刷新[編集]

神学者たちや宗教に関心を持つ学生たちのキリスト教改革の求めに応じて、神学についての講義を行い、新しいキリスト教の秘跡の儀式を伝授した。それらを元に司祭たちが宗教革新運動を始め、キリスト者共同体が設立された。運動の中心は司祭の養成学校のあるドイツのシュトゥットガルトで、イギリス、オランダ、スカンディナヴィアにもある。全ての人種、民族、宗教、国籍、性別、階級、信念などから独立しているアントロポゾフィーの創始者である彼が、特定の宗教団体(つまりここではキリスト教)の設立に助力をするという行動は、例外的なものである。この団体は普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)から独立したれっきとした宗教組織で、シュタイナーはこの組織に属さないで外部から司祭達に助言を与え続けた。

生涯 哲学者として(前半)[編集]

幼少時代 ウィーン以南のオーストリア各地 1861-1872[編集]
1861年2月27日 オーストリア=ハンガリー帝国の国境近くの町クラリエヴェク(現在のクロアチア)にてオーストリア帝国南部鉄道の鉄道員(公務員)である、ヨーゼフ・シュタイナーの第一子として誕生[1](両親は前年5月16日に結婚)。
1862年(1歳)ミュードリングへ転居。
1863年(2歳)年頭 僅か半年でミュードリング を去り、ポッチャッハ(何れも現在のオーストリア領)へ転居。彼は8歳までそこで生活する、また妹(レオポルディーネ)と弟(グスタフ)が生まれたのもこの土地である(家族は合計五人で、これ以降家族が増えることはなかった)。    
1868年(7歳)この頃、物質世界を超えた超感覚的(霊的)世界を感知するようになったという。
1869年(8歳)父親の転勤のため、ノイドゥルフルへ転居する。
1870年(9歳)学校の代用教員に幾何学に関する本を借り、幾何学に魅了される。
1871年(10歳)、カトリック教会のミサに出席し、大きな感銘を受け、また教区のリベラルなカトリック神父を通して地動説を知る。フリーメーソンの支部に出会うものの、心的な関係性は生まれない。隣町ウィーナー・ノイシュタットの医師カール・ヒッケルを通してドイツ文学を知る。駅にある無線電信で電気を知る。読むことには問題はなかったが、正しく文字を綴ることに苦労した

実業学校時代 ヴィーナー・ノイシュタット 1872-1879[編集]
1872年(11歳)ノイドゥルフルから5km離れた隣町ウィーナー・ノイシュタットにある実業学校に徒歩で通学する。一年生の時には学習に苦労するが、徐々に学力を身に付け、最終的には「優等生」と評されるようになる[3] 。
1873年(12歳)学校の年報の中あった原子と分子に関する論文に触発され、自然科学の文献を読みあさる。
1874年(13歳) 機械論的な世界解釈と、大好きな幾何学に没頭する。
1876年(15歳)、ヒッケル医師を通して哲学者テーオドール・レッシングを知る。
1877年(16歳)小遣いを貯めてカントの『純粋理性批判』を購入し、一人で読みふける。またヘルバルト主義的哲学の研究にも没頭する。
1879年(18歳)実業学校を卒業。この年、ある一人の薬草収集家と出会い、人類の歴史の中で、密かに、霊的な叡智が受け継がれて来たことを知り、これまで、人に話して来なかった自分の霊的な経験を語る。また、その男を通じて、知り合った、シュタイナー自身が“霊的な教師”と呼ぶ男から人生についてのアドバイスいくつか受けたという。

学業時代 ウィーン 1879-1890[編集]
インツァースドルフ(ウィーンから南東南へ約5km離れた近郊都市)への転勤のため、そこから2km離れたオーベルラーに住む。実業学校の卒業生には大学入学資格がなかったため、奨学金を得て高専に進むことにする。入学までの夏休みには(新学期は秋に始まるので)、フィヒテの知識学に没頭する。
10月、ウィーン工業高等専門学校(現ウィーン工科大学)の実業学校教職コース[要出典]に入学し、主に数学、生物学、物理学、化学を学ぶ。また、ウィーン大学などでも聴講生として講義を聞く。[4]事物の根本をすべて物質に還元して説明する自然科学と自身の霊的経験とのギャップに悩む。
1881年(20歳) 通学の電車の中でフェリックス・コグッツキー(1833-1909)に出会い交友を深め、後にトゥルーマウの自宅を度々訪問するようになる。
1882年(21歳) 家族はブルン・アン・ゲビルゲ(ウィーンから南西へ約10km離れた都市)に転居。
『原子論的概念に対する唯一可能な批判』と題する論文をフリードリッヒ・テオドール・フィッシャーに送る。この頃彼は、音楽に対して非常な難色を示すようになり、決定的なアンチ=ワーグナーを主張するようになる。(後には「音楽で霊的秘儀を解釈しようとしているリヒャルト・ワーグナーを研究しなければなりません」と語っている)
1883年(22歳)3月当時の著名な出版家、ヨーゼフ・キルシュナーは無名の学生であった22歳のシュタイナーの才能に注目し、ゲーテの自然科学に関する著作を校訂し、序文を書く仕事を依頼する。(14年後の1897年に完成)
ドイツ文学史の教授カール・ユリウス・シュルーアーを通して、ゲーテに触れ、ゲーテに関する基礎的な研究を始め、この頃『ファウスト』を初めて読む。そして、霊を否定する近代の自然科学では生命の本当の姿を捉えることはできが、自然(物質)と霊(精神)の間の架け橋を示すゲーテの世界観に可能性を感じる。シュタイナーはシュルーアーの観念論を更に発展させ、自らそれを「客観的観念論」と呼ぶようになる。ライトリンガーの実験室にて、物理学講座を選択し、特に光学に関する知識を得、後の『ゲーテの色彩論』の編集の際に、光の本質を理解する為の基礎を築く。
10月、教職資格を取得することなくウィーン工業高等専門学校を中退。
1884年(23歳) ウイーンの商人の家で家庭教師としての副業を開始する。その10歳になる息子は水頭症で発達が遅れていたが、シュタイナーの献身的な働きにより、2年後には健康状態も改善され、ギムナジウムに入学することができた。後には医者になる。哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマンの『人倫的意識の現象学』の研究に専念する。
1886年(25歳) キュルシュナーからシュタイナーを紹介されたシュペーマンは1886年シュタイナーの処女作となる『ゲーテ世界観の認識要綱』を出版する。
10月『ゲーテの自然科学論文集』の副読本として、初の著作『ゲーテ的世界観の認識論要綱』GA2を出版する。
1888年(27歳) 1月から7月に掛けて『ドイツ週報誌』の編集をする。
キュルシュナー編集の辞典の縁もあり、美学に関する研究を進め、特にアレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテンとエドゥアルト・フォン・ハルトマンの美学史に専念し、その研究内容はヴァイマールの「ゲーテ協会」にて『新たな美学の父としてのゲーテ』という題名の講義によって公開される。ロベルト・ハマーリングの『ホムンクルス』に強い感銘を受ける。プロテスタント系の牧師と興味深い出会いをする。豊富な交友関係とは裏腹に、内的な孤独に見舞われる。
1889年(28歳)初めてニーチェの『善悪の彼岸』を読む。またフォン・ハルトマンに初めて面会し、またローザ・マイレーダーとも知り合う。冬にウィーンの神智学徒フリードリッヒ・エックシュタインと知り合う。

ヴァイマール時代 1890-1896[編集]
1890年(29歳) ウィーンの『国民新聞』に演劇評論を連載。秋にワイマールへ転居し、ゲーテ=シラー遺稿保管局にて働くようになる。ワイマール版(ゾフィー版)ゲーテ全集の編纂に於いて、ゲーテの自然科学論文集の出版に携わる。
この時期エルンスト・ヘッケルに面会している。
1891年(30歳)ロストック大学のハインリッヒ・フォン・シュタイン教授に学生資格のない社会人として自費で論文指導(Externe Promotin)を受けることを許され、『認識論の根本問題――特にフィヒテの知識学を考慮して』と題する論文で哲学博士の学位を取得する。ただし、評価は「可」(ausreichend 合格4段階評価の一番下)だった。[5]
1892年(31歳) 5月 その論文に加筆・訂正したものを『真実と科学』GA3として出版。夏にはそれ迄のユンケル通り12番から、アンナ・オイニケの住むプレラー通り2番に転居。この時期いくつかの哲学、及び哲学史に関する著述をする、この中には1894年11月に刊行された『自由の哲学』GA4も含まれる。
1894年(33歳) 教授資格申請論文は評価されず失敗に終る。
1895年(34歳) 5月『フリードリッヒ・ニーチェ 時代の闘士』GA5を出版。
1896年(35歳) 「ゲーテ=シラー遺稿保管局」を退職。

ベルリン時代初期 1897-1901[編集]
1897年(36歳) ベルリンへ転居。
22歳から手がけたゲーテの自然科学論文の校訂作業が完了し、『ゲーテの自然科学論文集』が出版される。
7月 ゲーテ研究の集大成とも言える『ゲーテの世界観』GA6を出版。その本の最終章においてはゲーテとヘーゲルの関係性について述べている。
オットー・エーリッヒ・ハルトレーベンと共に『文芸雑誌』Magazins für Literatur(そこでの記事はGA29-32に収録)を創刊。「自由文芸協会」、「自由演劇協会」と「ジョルダーノ・ブルーノ同盟」にて活動。シオニズムに対して強い拒絶を示す。
1898年(37歳) 自身の編集による『演劇』を創刊、しかし翌年末には廃刊。
1899年(38歳) 1月13日からヴィルヘルム・リープクネヒト(1826-1900)に依って設立された労働者教養学校Arbeiter-Bildungsschuleで授業(歴史、話術・文章表現など)を始め、この仕事は1904年まで続く。この学校はやや社会主義的な色彩を持った教育施設であった。
10月31日 未亡人であるアンナ・オイニケ(1853-1911)と結婚し、フリーデナウ、カイザー通り95番に転居。
1900年(39歳) ドイツの作家ルードヴィッヒ・ヤコボフスキー(1868-1900)によって設立された「来るべき者達」と交流。
9月末『文芸雑誌』の仕事を辞める。初秋に、ブロックドルフ伯爵及びに伯爵夫人にベルリンの「神智学文庫」での講演を依頼され9月22日はニーチェについて、同月29日にはゲーテについての講義を行う。
10月6日より神秘主義に関する連続講義を開始、この内容は翌年自身の手に拠って纏められ出版されるGA7。これ以降、シュタイナーは、講演活動を活発に行うようになる。

生涯 神秘思想家として(後半)[編集]

アントロポゾフィー発展の第一段階 1902-1909[編集]
1902年(41歳) 1月17日に神智学協会の会員になる。
7月 マリー・フォン・ジーフェルス(1867-1948)と共にロンドンでの第13回ヨーロッパ支部年集会に出席。
9月には昨年に自身が行った講義を編集した『神秘的な事実としてのキリスト教と古代の秘儀』GA8が出版される。
10月19日 神智学協会ドイツ支部を設立し、同時に事務総長に就任(シュタイナーの妻マリー・シュタイナーによれば、この神智学協会の指導者になることについてシュタイナーは相当な躊躇をしていたという)。
1903年(42歳) 年頭にゼー通り40番に転居。
3月「建築家の家」という会場にて公開講義を開始し、この活動は1918年まで続く。
5月、雑誌『ルシファー』(後に『ルシファー=グノーシス』)を創刊し、その出版にあたる(そこでの記事はGA34に収録)。ワイマール、ケルン、ハンブルクなどのドイツ各地でも活動を始める。
10月、モッツ通り17番に再び転居(現在彼らの記念プレートが掛かっている)。
1904年(43歳) 5月『テオゾフィー』(邦訳では『神智学』)GA9を出版。それまでは自身の世界観を明らかにしていなかったが、この著作によって自身の思想の根幹を初めて公にした。雑誌『ルシファー』はウィーンの雑誌『グノーシス』に合併し『ルシファー=グノーシス』とその雑誌名を改める。
6月 現代人にふさわしい、霊的感覚を啓発するための修行法を示す『いかにしてより高次の認識を獲得するか』と題する連載を開始し、当初予定よりも倍近く長く続き(翌年まで続く)、後に一冊の本として出版されるGA10。
7月からは同誌にシュタイナー自身の霊視によって観察した宇宙や人間の進化の様子を描いた『アカシャ年代記より(AUS DER AKASHA.CHRONIK)』の連載が始まるが、この内容が彼の生前一冊の本として出版される事はなかった。同月アムステルダムにて神智学会議に出席。またこの年、マルクス主義である労働者教養学校側から、神秘思想家であるシュタイナーへの反対意見が生まれたが、生徒の支持が強く授業は続行される事になる。
1905年(44歳) 1月21日、同校指導部からの妨害により退職。
5月7日神智学協会の創始者ブラヴァツキー夫人について「霊的使命を持った人物は人々から生涯の外的側面によって判断されるため必然的に、はじめは誤解を、否、誹謗を受けざるを得ない」という旨を述べる。
10月 ロンドンでの神智学会議に出席する。
1906年(45歳) ベルリン以外では初めての連続講義をパリにて開催、またエドゥアルト・シュレーにもこの時期初めて逢う。
7月にはパリでの神智学会議に出席。フランクフルト・アム・マインや、ブレーメンなどでの、ドイツ各地での神智学支部の設立に関わる。
1907年(46歳)神智学協会会長であるヘンリー・スティール・オルコット(1832-1907)が2月17日に死去し、アニー・ベサントが第二代会長に就任する。
5月 シュタイナーが協会に参加してから初めてのドイツでの神智学会議は、ミュンヘンで開かれる。彼はそこでのインテリア設計を請け負い、自身の思想を建築的空間に可視的に表現する事を試みる。またシュレー作の『エレウシスの神聖劇』も上演される。
1908年(47歳) 8月1日 マリー・フォン・ジーフェルスは「哲学-神智学出版」(後に「哲学-人智学出版」)を設立する。この年にシュタイナーは初めてスカンディナヴィア地方を旅し、同時に各地で講義活動を行う。
1909年(48歳) ドイツの詩人クリスティアン・モルゲンシュテルン(1871-1914)に出会う。
8月、ミュンヘンでシュレー作の『ルシファーの子供たち』を上演。
12月、自身の霊学的研究の集大成とも呼べる『神秘学概論』GA13を脱稿。

アントロポゾフィー発展の第二段階 1910-1916[編集]
1910年(49歳) 初頭 後にシュタイナーの主著となる『神秘学概論』を出版。前著『神智学』にはなかった宇宙進化論を記載。
8月ミュンヘンで神秘劇第一部『秘儀参入の門』が上演される。これ以降シュタイナーの活動は、建築、彫刻・彫塑、絵画、音楽、言語芸術(言語造形)、運動芸術(オイリュトミー)などの各芸術分野に及ぶ。
1911年(50歳) 1月 アニー・ベサントの養子ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895-1986)を救世主とする「東方の星教団」がインドで設立され、まだ若かったジッドゥ・クリシュナムルティ(が、チャールズ・W・リードビターを初め、何人かの神智学協会の代表者らにより、“来るべき世界教師”、“キリストの再来”として宣伝されるようになる。
3月、妻のアンナ・シュタイナーが他界。
8月、ミュンヘンで神秘劇第二部『魂の試練』が上演される。
1912年(51歳) 8月、神秘劇第三部『境域の守護者』が上演される。同月、新しく作られる協会の名称として「アントロポゾフィー」を提案する。
9月 アントロポゾフィーが生み出した最も有名な運動芸術オイリュトミーが形作られ始める(正確には1908年五月の時点で既にその胎動が見られる。アントロポゾフィー協会(人智学協会)設立の準備を始める。
12月 神智学協会ドイツ支部は分裂に至り、世界組織とドイツの支部、結社の間に瞬く間に亀裂が見られるようになる。シュタイナーのグループはアニー・ベサントの養子、ジッドゥ・クリシュナムルティ(を来るべきキリストとして仰ぐことを拒んで、神智学協会を脱退する。同月28日彼はケルンでアントロポゾフィー協会を設立する。この協会は、ドイツ外の国々の神智学協会とも繋がりを持つようになっていく。また『アントロポゾフィー的魂の暦』が出版されたのもこの年である。
1913年(52歳) 2月3日アントロポゾフィー協会第一回総会がベルリンにて開催される。建設省の芸術担当者の反対により、「ヨハネス建築」(後にはゲーテアヌムと呼ばれる建物)が許可されない。
5月中旬に建築候補地としてドルナッハが挙がり、同18日にそれを決断。
8月にはミュンヘンにて神秘劇第四部『魂の覚醒』が上演される。
9月20日にはゲーテアヌムの礎石奉納の儀式を行う。
1914年(53歳) 3月31日には無二の友人であり最も良き理解者である詩人クリスティアン・モルゲンシュテルンを亡くす。
7月28日 第一次世界大戦勃発。
12月24日 マリー・フォン・ジーフェルスと再婚。また1914年から1923年にかけてシュタイナーはベルリンとドルナッハを行き来し、両都市をその居住地とする。
1915年(54歳) ゲーテアヌムの舞台の、背景の中心に据えられるべき「人類の代表者」と題する彫刻の製作に取り掛かる。またゲーテアヌムの大小二つの天井画を描く。

アントロポゾフィー発展の第三段階 1917-1923[編集]
1917年(56歳) 以降、シュタイナーの活動は実践的な社会運動へと及ぶ。彼は、自ら理念を携えて、様々な社会生活の領域に登場した。此の年に彼の中に社会有機体三分節化論の理念が浮かび、その実現に勤しむがそれは徒労に終わる。
1918年 11月11日第一次世界大戦終結。
1919年(58歳) 社会有機体三層化論に賛同したシュトゥットガルトのタバコ会社工場主エミール・モルトから従業員の師弟教育のために学校をつくってほしいと依頼される。
9月7日 シュトゥットガルトに「自由ヴァルドルフ学校」を開校。社会運動への参加に伴い敵対者が伴う。
『ドイツ国民及び文化世界に!』を出版。
12月23日から翌年1月3日にかけて同地で第一回自然科学講座が開催される。
1920年(59歳) 3月21日から4月9日にかけて第一回医学講座がドルナッハにて開かれる。これによってシュタイナーは、イタ・ヴェーグマンと共にアントロポゾフィー医学(シュタイナー医学)の創始者とされることになった。:ドイツに株式会社「来るべき日」、スイスに「フトゥルム」を設立。
9月26日午後五時 ゲーテアヌム開館。この頃から毎週のようにアントロポゾフィー非難の記事が新聞に掲載されるようになる。
1921年(60歳) 2月 月刊誌『ディ・ドライ』を創刊。
4月には治療オイリュトミー講座を開く。
6月、ドルナッハの隣町アーレスハイムに、イタ・ヴェーグマン拠って「臨床治療研究所」が開設される。
8月 週刊誌『ダス・ゲーテアヌム』を創刊。この頃、自らの自伝を書いた。
11月 ノルウェーのオスロ大学で「経済の根本問題」と題して講演。
1922年(61歳) 7月24日-8月6日 「国民経済学講座」が開かれる。
9月にキリスト者共同体の創設に寄与した。
12月31日 午後十時、火災によってゲーテアヌムが炎上、翌朝焼失。
1923年(62歳) 1月 体調が優れない中、週刊誌『ゲーテアヌム』で自伝『我が生涯の歩み』GA28の連載を始める。(翌々年の自身の死によってそれは中断、未完に終わる)。
12月25日-翌1924年1月1日 降誕祭会議を開催。それまでのアントロポゾフィー協会(人智学協会)を刷新し普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)として新しく発足。またその心臓部となる「霊学の為の自由大学」(翌年2月15日第一講開催)を設立する。本部はゲーテアヌムに置くものとされた。

晩年 1924-1925[編集]
1924年(63歳) 元日、ゲーテアヌム再建の為の構想を発表する。
1月13日には普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)の週刊報告誌『報告書』を創刊し、降誕祭会議に参加出来なかった者達の為にもその会議の内容を公開した。
2月15日には霊学の為の自由大学に於ける第一学級講座(クラッセン・シュトゥンデKlassenstunde)を開講する。此の講座は後に第二学級、第三学級と設立される予定であったが、シュタイナーの死によって中断された。
2月16日以降、彼の「本来の」使命であったカルマに関する連続講義(それは50回にも亘り、9月28日まで続く)をドルナッハにて開始し、その内容を凝縮したものを各地で講演し(これらは合計30回を越える)、降誕祭会議以降アントロポゾフィー運動と、普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)は同義identischになったと説き、協会の重要性について熱弁して回った。
同月、音楽オイリュトミー講座を開く。
3月末には、1月に日の目を見た「新しいゲーテアヌム」の1/100スケールの立体モデルを粘土で製作することに熱中した。三日三晩アトリエに籠もり切ったシュタイナーは「熱に浮かされたように」創作に集中し、3月26日に模型が完成し、僅か五週間で図面が引く。
6月、コーバーヴィッツでいわゆる「農業講座」が開かれ、かの有名なバイオ=ダイナミック農業の基礎を築く。この方法で作られた野菜は、ドイツではデメターDemeterというマークがつけられている。
6月から翌7月 言語オイリュトミー講座及びに治療教育講座がドルナッハにて行われる。
9月、ドルナッハにて演劇講座。9月28日午後8時からの講演を20分で中断し、病床に就く。三月に出来上がった
12月1日 「新しいゲーテアヌム」の建築許可が下りる。このコンクリート作りのいわゆる「第二ゲーテアヌム」の建設が実際に始まったのは翌年に入ってからであり、完成したのは1928年、即ち彼の死の三年後であった。
1925年(64歳) 元日深夜、卒倒、高熱により食欲は減衰。3月26日病状は好転するものの、3月29日病状は悪化、3月30日午前4時頃 イタ・ヴェーグマンに苦痛を訴え、5時頃に普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)理事である、アルベルト・シュテッフェン、ギュンター・ヴァックスムートが病室に呼ばれる。午前10時頃、ルドルフ・シュタイナー他界。
4月1日 夜に葬儀が執り行われる。死の三日前までシュタイナーは「人類の代表者」にのみを振っており、また死の前日には第二ゲーテアヌムの内部建築のために使用するアトリエの完成について訊ねているなど、その制作意欲は最後まで衰える事はなかった。

死後[編集]
1928年 第二ゲーテアヌムが完成。
国家社会主義の時代(ナチスドイツ時代)には、アントロポゾフィーは、さまざまな規制を加えられ、もとよりその個人主義により、ナチスの全体主義と対立せざるを得ない立場にあり、闘いながら自らを守っていくしかなかった。加えて人は、アントロポゾフィーをフリーメーソンとのつながりで理解した。
1933年11月15日、国家社会主義のテューリンゲン州の経済相は、生物学的力動的(バイオダイナミック)な生産方式の宣伝普及を禁止した。
1935年11月1日 ドイツのすべての普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)が、ラインハルト・ハイドリヒ の訓令により禁止された。アドルフ・ヒトラーも既に1921年の論文(「国の指導者か、国民への犯罪者か」)において、「社会有機体の3分化」を「諸民族の正常な精神状態を破壊するユダヤ人の策謀」と罵倒していた。
1948年10月27日 マリー・シュタイナー(旧姓ジーフェルス)が他界。
1992年 日本アントロポゾフィー協会(東京)でも精神科学自由大学の活動(クラッセン・シュトゥンデ)が始まる[6]。
2000年5月 日本で「日本アントロポゾフィー(人智学)協会」が設立される(2002年11月、NPO法人として認証を受ける[6])

日本への紹介[編集]

1925年から14年、ドイツ人哲学者フリッツ・カルシュが旧制松江高等学校(現島根大学)にて教鞭をとっていたが、その授業の中で人智学を教えている。彼はマールブルク大学在学中にゲーテアヌムでシュタイナーと直接会ったのをきっかけに人智学に傾倒しており、人智学に関して綴ったノートを妻エッメラ宛に送っている。また、長女メヒテルトは関連文献の英語訳者として活動、次女フリーデルンはマールブルクのシュタイナー学校に通い、自由ヴァルドルフ学校でシュタイナー教育に従事、日本人親子を指導したとされる[7]。

1920年代には、シュタイナーの設計した「ゲーテアヌム」を現地で見て感激した早稲田大学の今井兼次教授によって、日本の建築関係者達の間で知られるようになった。

1970年代頃から、娘の教育のため、家族でドイツに留学した早稲田大学教授の子安美知子が『ミュンヘンの小学生 : 娘が学んだシュタイナー学校 』(中公新書 1975年)を初めとした一連の教育体験報告が反響を呼び、新しい教育方法としてシュタイナーの思想が注目された。

1980年代になって、哲学関係の出版社「イザラ書房」がシュタイナーの翻訳出版を始める。

1996年には、NHKのNHK衛星第2テレビジョンの「素晴らしき地球の旅」という番組でシュタイナー教育が紹介された。

また、イタ・ヴェークマン医師とシュタイナーが共同で創始したシュタイナー医学に関しては、2004年春から、日本でも「ゲーテアーヌム精神自由大学」の主催で医師向けの専門的な訓練が日本国内でも開始されている現状があり、2005年5月5日には「日本アントロポゾフィー医学のための医師会」というものが設立されている。

2000年4月14日から8月27日には東京のワタリウム美術館で、2001年3月3日(土)〜4月5日(木) にはKPOキリンプラザ大阪で, シュタイナーが書き留めたノートを展示する「ルドルフ・シュタイナー 100冊のノート展」が開催された。

評価[編集]

シュタイナーの存命時は1914年までにヨーロッパに広い範囲に支持者ができた。第一次世界大戦後にシュタイナーの名が大きく知られることになり評価する人が増えた[8]。

シュタイナーを評価した人々[編集]
ブルーノ・ワルター(ドイツ・ユダヤ系の高名な指揮者。晩年に普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)に入会した。キリスト者共同体にも関係していた。)
ヴィクトル・ウルマン(チェコの作曲家、ユダヤ人だったためナチスのアウシュヴィッツ強制収容所で命を落とした。)
ソール・ベロー(カナダ出身のアメリカのノーベル賞作家)
ヨゼフ・ボイス(ドイツの芸術家)
マイケル・チェーホフ(ロシアの名優。革命後アメリカに渡りユル・ブリンナー、グレゴリー・ペックなどハリウッドの俳優を教育した。ロシア時代にシュタイナーの影響を強く受けている)
ミヒャエル・エンデ(シュタイナー学校に2年ほど通い、キリスト者共同体にも関係していた。シュタイナーから思想的に影響は受けているけれども、芸術に関してはシュタイナーとは意見を異にすると語った)
マリリン・モンロー(シュタイナーの著作を愛読していた)
前田日明(プロレスラー。シュタイナーの著作の愛読者)
今井兼次(建築家。シュタイナーの設計したゲーテアヌムに感動し、シュタイナーを日本で初めて紹介)
笠井叡(日本の舞踏家・オイリュトミスト。シュタイナー学校に留学し、帰国後、ワークショップや翻訳などオイリュトミーおよびシュタイナー思想の普及活動に従事する。息子も人智学関係である。)
江原啓之(スピリチュアルカウンセラー。シュタイナーのようにスピリチュアリズムをアカデミックな思想として確立させたいとしている[9]。)
雁屋哲(漫画『美味しんぼ』の原作者。子どもたちをシドニーのシュタイナー学校に通わせた)[10]

シュタイナーの思想に対する批判[編集]

ルドルフ・シュタイナーのラジカルな業績は、その存命時から既に多くの議論を巻き起こした。主な批判としては、大学の学識経験者たちが認めない、「人智学の科学性」の宣言、教会関係者が非難する「キリスト論のグノーシス主義的な諸前提」、並びに「人種差別的」とみなされたシュタイナーの民族論である。しかしながらシュタイナーの思想は、カルマの法則により同じ民族の元には再び生まれてこない「生まれ変わりの思想」を前提としており、その思想を全くもたない一般社会においては、これが常に大きな誤解のもととなっている。シュタイナーは本当のオカルティズム(神秘学、霊学)の実現のためには、民族を超えた生まれ変わりを前提としているので、「自分の属している民族という殻から脱しなければならない。」、「一つの民族だけに役立つような霊性を持ってはならない。」「人間は輪廻転生をとおして、さまざまな人種に受肉していきます。ですから、仮にだれかが『ヨーロッパ人は黒人や黄色人種よりも優れている』と異議を唱えようとも、実際は、そのようなハンディキャップは大きな意味で全く存在しないのです。」と述べている[11]。

シュタイナーの霊的な能力を生前から敵視していたのは、アドルフ・ヒトラーと、彼と1919年に出会って以来、彼の精神的指導者でもありトゥーレ協会の中心人物でもあったディートリヒ・エッカート(エックハルト)であった。エッカートは「シュタイナーの霊的洞察力の前にあっては、何事も隠しおおせるものではない。彼とその入門者たちは、我が『卜ゥーレ協会』の性質に異を唱え、我らの会合や入門儀式の全てを霊的地点から監視している……」とし、ヒトラーはナチス結成時の党大会で、「我々はシュタイナーとその追随者を許してはならない!なぜなら彼は、シュリーフェン作戦、ひいては第一次世界大戦におけるドイツ敗北の直接の戦犯だからである。」と、シュタイナーをあからさまに批判した。第1ゲーテアヌムを放火したのもナチの関係者ではないかという情報があるが、事件の解明には至っていない[12]。一方、シュタイナーも彼らの台頭を危険視しており、彼らがまだ無名だった1923年に起こしたミュンヘン一揆の時には、「もし、この組織が今後、大きな勢力を奮うことになれば、それは中部ヨーロッパに大きな不幸をもたらすでしょう。」と評していた[13]。

著作[編集]

ルドルフ・シュタイナー全集[編集]

シュタイナーの講義の多くは、専門の職人による速記録や、聴衆がメモで残した記録などが現存しており、シュタイナーの生前はそれらをもとに私家版や雑誌掲載のかたちで発表されていた。後年それらはシュタイナー自身の著作を含め、「ルドルフ・シュタイナー出版」(Rudolf Steiner Verlag)によって、『ルドルフ・シュタイナー全集』(Rudolf Steiner Gesamtausgabe)というかたちで系統的に出版されており、2006年現在に於いては最も手に入れ易く、またポピュラーな版となっている。また、それは354巻のシリーズであるが、その編纂は現在も未だ完了しておらず、その為に必要な時間は四半世紀とも半世紀とも言われている。全集の著作権は、スイスのドルナッハの「ルドルフ・シュタイナー遺稿管理局」にある。 ルドルフ・シュタイナー全集は「著作」・「講義録」・「芸術作品の複製品」の三つに分類されており、全集は部門・分野ごとに分割された後、年代順に「全集」を表すGesamtausgabeという言葉の頭文字をとり、GA〜番とナンバリングされている。

A.著作[編集]
GA1-28 I. 本として出版されたもの(生前、死後を含む)
GA29-36 II. 論文集
GA38-45 III. 遺稿管理局による資料公開

B.講義録[編集]

ルドルフ・シュタイナーの著作は決して少なくはないが、講義録の分量はその十倍にも数に上る。講義録は以下の様に三分割されており、「II.」のような学問的ないわゆる「アントロポゾフィー一般」の内容を扱ったものは「〜講義」とよばれ、「III.」の様に職業や芸術などの言わば専門分野を扱った、具体的な内容のものは「〜講座」と呼ばれる。上記の生涯に関する記述においては紙面の都合上、基本的には後者のみ掲載した。
GA51-84 I. 公開講義
GA88-270 II. アントロポゾフィー協会(人智学協会)員の為の講義
GA271-354 III. 専門分野の為の講義と講座(1:芸術、2:教育、3:医学、4:自然科学、5:社会論、6:神学者、7:労働者)

C.芸術作品の複製品(主なもの)[編集]

出版社はシュタイナーの絵画作品のレプリカ(ポスターや絵葉書)、絵画の授業に使った習作、オイリュトミーの動き方や形態に関するスケッチ、黒板絵、ゲーテアヌムの写真などを画集として出版している。それらは芸術Kunstに関するものなのでK〜番という表記でナンバリングされている。
K12 ゲーテアヌムのステンドグラスに関するものK23/1-23/8,24 オイリュトミーのフォルムK58/1-58/29 黒板絵の画集
D.ルドルフ・シュタイナー全集に宛てた寄稿論文集[編集]

平均約60頁でB5の小冊子で、2006年現在122巻まで発行されている。1949年以降年平均2巻強のペースで刊行されており、現在も刊行中。

本として出版されたもの[編集]

( )内は日本語に翻訳され出版されたもの
GA1 Einleitungen zu Goethes Naturwissenschaftlichen Schriften, 1884-1897 『ゲーテの自然科学論文集へ宛てた序文』
GA2 Grundlinien einer Erkenntnistheorie der Goetheschen Weltanschauung, 1886 
(『ゲーテ的世界観の認識論要綱』浅田豊(訳) 筑摩書房 1991年 6月 ISBN 4480842160)GA3 Wahrheit und Wissenschaft, 1892 『真実と科学』
GA4 Philosophie der Freiheit, 1894 
(『自由の哲学』 高橋巌(訳) [ちくま学芸文庫] 筑摩書房 2002年7月 ISBN 978-4480087140)GA5 Friedrich Nietzsche, ein Kämpfer gegen seine Zeit(『フリードリッヒ・ニーチェ 時代の闘士』), 1895 
GA6 Goethes Weltanschauung, 1897 
(『ゲーテの世界観』 溝井高志(訳)晃洋書房 1995年3月31日 ISBN 978-4771007604)GA7 Die Mystik im Aufgange des neuzeitlichen Geisteslebens und ihr Verhältnis zur modernen Weltanschauung, 1901 『近世的精神生活の黎明における神秘主義と、近代的世界観とその関係性』
GA8 Das Christentum als mystische Tatsache, 1902 
(『神秘的な事実としてのキリスト教と古代の秘儀』 西川隆範(訳) アルテ、星雲社 2003年1月20日 ISBN 4434028170)GA9 Theosophie. Einführung in übersinnliche Welterkenntnis und Menschenbestimmung, 1904 
(『神智学』高橋巌(訳) 筑摩書房 2000年7月 原書第九版 ISBN 4480085718)GA10 Wie erlangt man Erkenntnisse der höheren Welten, 1904月 
(『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(高橋巌(訳) [ちくま学芸文庫] 筑摩書房 2001年10月 ISBN 4480086641)GA11 Aus der Akasha-Chronik, 1904–08 
(『アカシャ年代記より』高橋巖(訳) 国書刊行会 1994年6月 ISBN 978-4336036247)GA12 Die Stufen der höheren Erkenntnis, 1905-1908 『より高次の認識の階梯』
GA13 Die Geheimwissenschaft, 1909
(『神秘学概論』高橋巌(訳) [ちくま学芸文庫] 筑摩書房 1998年1月 ISBN 978-4480083951 )GA14 Vier Mysteriendramen, 1910-13 
(『泉の不思議―四つのメルヘン』西川隆範(訳) イザラ書房 1993年9月25日 ISBN 978-4756500533)GA15 Die geistige Führung des Menschen und der Menschheit, 1911 『人間と人類の霊的な導き』
GA16 Ein Weg zur Selbsterkenntnis des Menschen, 1912 『人間の或る自己認識への道』
GA17 Die Schwelle der geistigen Welt, 1913 
(『霊界の境域』神秘学叢書 西川隆範(訳) 水声社 1985年11月 ISBN 978-4891761615)GA18 Die Rätsel der Philosophie, 1914 
(『哲学の謎』山田明紀(訳) 水声社 2004年3月 ISBN 978-4061492868)GA20 Vom Menschenrätse, 1916 『人間の謎より』
GA21 Von Seelenrätseln, 1917 『魂の謎より』
GA22 Goethes Geistesart, 1918 『ゲーテの霊性』
GA23 Die Kernpunkte der sozialen Frage, 1919
(『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』 ルドルフ・シュタイナー選集第11巻  高橋巌(訳) イザラ書房 1991年4月 ISBN 4-7565-0036-6)GA24 Aufsätze über die Dreigliederung des sozialen Organismus, 1919 『社会有機体三層化の為の論文集』
GA25 Drei Schritte der Anthroposophie, 1922 『アントロポゾフィーの三段階』
GA26 Anthroposophische Leitsätze, 1924/1925 
(『人智学指導原則』 西川隆範(訳) 水声社 1992年9月20日 ISBN 489176256X)GA27Grundlegendes für eine Erweiterung der Heilkunst nach geisteswissenschaftlichen Erkenntnissen, 1925 『霊学的認識に基づいた治療芸術の拡張の為の基礎』
GA28 Mein Lebensgang, 1923-25 『我が生涯の歩み』(自伝)
(『シュタイナー自伝(1)』伊藤勉(訳) ぱる出版 2001年7月 ISBN 4893868888)(『シュタイナー自伝(2)』伊藤勉(訳) ぱる出版 2001年7月 ISBN 4893868896)
論文集[編集]
GA30 Methodische Grundlagen der Anthroposophie 1884-1901 『アントロポゾフィーの方法論的基礎 1884-1901』
GA31 Gesammelte Aufsätze zur Kultur- und Zeitgeschichte 1887-1901. 『文化史・現代史に関する論文集 1887-1901』
GA32 Gesammelte Aufsätze zur Literatur 1884-1902 『文学に関する論文集 1884-1902』
GA33 Biographien und biographische Skizzen 1894-1905. Schopenhauer - Jean Paul - Uhland - Wieland. 『伝記と伝記的小作品 1894-1905 ショーペンハウエル、ジャン・パウル、ウーランド、ヴィーランド』
GA34 Lucifer-Gnosis 1903-1908. 『ルシファー=グノーシス アントロポゾフィーの基礎的論文集 1903-1908』
GA35 Philosophie und Anthroposophie. Gesammelte Aufsätze 1904-1918. 『哲学とアントロポゾフィー 論文集1904-1918』
GA36 Der Goetheanumsgedanke inmiten der Kulturkrisis der Gegenwart1921-1925. 『今日の文化危機の真っ只中に於けるゲーテアヌム思考 1921-1925』

遺稿管理局による資料公開[編集]
GA38 Briefe, Bd.1, 1881-1890 『書簡 1881-1890 第一巻』
GA39 Briefe, Bd.2, 1890-1925 『書簡 1890-1925 第二巻』
GA40 Wahrspruchworte 『真実の言葉』
GA44 Entwürfe, Fragmente und Paralipomena zu den vier Mysteriendramen 『「神秘劇」の草稿』
GA45 Anthroposophie. Ein Fragment aus dem Jahre 1910 『アントロポゾフィー 1910年のフラグメント』

その他の日本語に訳された文献[編集]
『第五福音書』(西川隆範(訳) イザラ書房 1986年4月 ISBN 4756500226)
『ルドルフ・シュタイナー教育講座(1) 教育の基礎としての一般人間学』 (高橋巌(訳) 筑摩書房 1989年1月 ISBN 4480354212)
『ルドルフ・シュタイナー教育講座(2) 教育芸術 1方法論と教授法』 (高橋巌(訳) 筑摩書房 1989年2月 ISBN 4480354220)
『ルドルフ・シュタイナー教育講座(3) 教育芸術 2演習とカリキュラム』 (高橋巌(訳) 筑摩書房 1989年3月 ISBN 4480354239)
『病気と治療』(西川隆範(訳) イザラ書房 1992年4月 ISBN 4756500447)
『民族魂の使命』(西川隆範(訳) イザラ書房 1992年8月 ISBN 978-4756500465 )
『音楽の本質と人間の音体験』(西川隆範(訳) イザラ書房 1993年3月 ISBN 475650051X )
『シュタイナー教育の実践』西川隆範(訳) イザラ書房 1994年5月24日 ISBN 4756500595)
『シュタイナーのカルマ論 カルマの開示』(高橋巌(訳) 春秋社 1996年1月 ISBN 4393322088)
『農業講座 農業を豊かにするための精神科学的な基礎』(訳:新田義之 イザラ書房 2000年5月 ISBN 4756500870)
『オカルト生理学』 (高橋巌(訳) 筑摩書房 2004年8月 ISBN 4480088741)
『治療教育講義』 ちくま学芸文庫 (高橋巌(訳) 筑摩書房 2005年5月 ISBN 978-4480089083)
『色彩の本質◎色彩の秘密』(西川隆範(訳) イザラ書房 2005年12月 ISBN 475650096X)
『シュタイナー経済学講座 国民経済から世界経済へ』(西川隆範(訳) 筑摩書房)

シュタイナー以外の著者による参考文献[編集]
フランス・カルルグレン(著) 高橋明男(訳)『ルドルフ・シュタイナーと人智学』 水声社 1992年12月 ISBN 4891762780
コリン・ウィルソン(著)中村保男(訳)・ 中村正明(訳) 『ルドルフ・シュタイナー その人物とヴィジョン』 河出書房新社  1986年7月 ISBN 4-309-24088-7
アン・バン・クロフト(著)  吉福伸逸(訳)『20世紀の神秘思想家たち』 平河出版社
メアリー・ルティエンス(ラッチェンス)(著)、高橋重敏(訳) 『クリシュナムルティ 目覚めの時代』 めるくまーる
ルネ・ゲノン(著)  田中義廣(訳)『世界の終末 現代世界の危機』 平河出版社 1986年
本村佳久「有機的建築の研究-R.シュタイナーの建築思想について」『広島女学院大学論集』47、1997年
A・Pシェパード(著)、中村正明(訳)『シュタイナーの思想と生涯』 青土社 1998年6月10日 ISBN 4791756320
本村佳久「H.ヘーリング・R..シュタイナーの建築思想」『広島女学院大学生活科学部紀要』7、2000年
マンフレッド・クリューガー(著)、鳥山雅代(訳)『瞑想 芸術としての認識』(水声社 2007年5月 ISBN 4891766276)
セルゲイ・O・プロコフィエフ(著)、和田悠希・遠藤真理(共訳)『赦しの隠された意味』 涼風書林 2011年






[隠す]

表・話・編・歴
ルドルフ・シュタイナー

教え
神秘学 - アントロポゾフィー - 人智学 - エーテル体 - アストラル体 - オーラ - チャクラ - 社会三層化論 - 輪廻 - 転生 - 瞑想 - ヨーガ - アカシックレコード - 霊視 - レムリア - アトランティス - 天使 - 堕天使 - ルシファー - アンラ・マンユ(アーリマン)


実践・活動
シュタイナー教育 - ヴァルドルフ学校 - オイリュトミー


「人智学協会」関連人物
子安美知子 - 高橋巌 - 新田義之 - ブルーノ・ワルター - ヨーゼフ・ボイス - 笠井叡 - 鳥山敏子


関連人物
ブラヴァツキー夫人 - 神智学協会 - ジッドゥ・クリシュナムルティ - ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ - フリードリヒ・ニーチェ - イマヌエル・カント - ソール・ベロー - 今井兼次 - ミヒャエル・エンデ - 前田日明 - マイケル・チェーホフ


問題・批判
オカルト - 人種差別[要出典]


公式ウェブサイト
日本アントロポゾフィー協会 - 普遍アントロポゾフィー協会 Official Web site(ドイツ語)



外部リンク[編集]
日本語サイト
NPO法人 日本アントロポゾフィー協会一般社団法人普遍アントロポゾフィー協会−邦域協会日本四国アントロポゾフィークライスひびきの村小林直生 慢遊と厳座(シュタイナーの生涯のエピソード多数)入間カイのアントロポゾフィー研究所(シュタイナー「アントロポゾフィー指導原理」翻訳解説含む)風韻坊ブログ(入間カイ氏の個人ブログ)アントロポゾフィーの時間アームチェア人智学日本人智学協会(代表者:高橋巖)日本アントロポゾフィー医学のための医師会 J-PAAM (シュタイナー医学実践をめざす医師らのサイト、国際アントロポゾフィー医学ゼミナール)イザラ書房(シュタイナーの著作を専門に出版している会社)水声社(シュタイナーの神秘学、シュタイナー教育、シュタイナー医学関連の書籍を中心にすえている会社)「シュタイナー通信プレローマ」はシュタイナー関係の記事、イベント紹介などをする季刊誌らせん教室(シュターナーの思想の基礎にあるゲーテの自然観を中心に学ぶ福岡の学習会)シュタイネリアン密教家 西川隆範 (シュタイナーの著作の訳者、西川隆範のサイト)西川隆範:シュタイナー人智学の研究佐藤公俊のホームページ(シュタイナーに関する翻訳や著書を出版している)FRONNOW MULTI REPORTシュタイナー研究室風のトポス 神秘学遊戯団(シュタイナー講義録翻訳多数含む)SkepDic 日本語版 (エンコードの日本語(JIS)で表示)音魂大全の中の:シュタイナーのページ精巧堂ストアドイツ語サイト
シュタイナーの生涯と著作ルドルフ・シュタイナーの簡潔な紹介英語サイト
「Rudolf Steiner」 - Skeptic's Dictionaryにある「ルドルフ・シュタイナー」についての項目。(英語)
英文を中心としたルドルフ・シュタイナーの著書・講演録のアーカイブルドルフ・シュタイナーマニュアル(PDF、ドイツ語、英語)
脚注[編集]

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1.^ a b c d フランス・カルルグレン(著)、高橋明男(訳)『ルドルフ・シュタイナーと人智学』(「水声社 1992年12月1日」
2.^ 高橋弘子 『日本のシュタイナー幼稚園』(水声社 1995年12月) ISBN 978-4891763206
3.^ ルドルフ・シュタイナー『シュタイナー自伝 I』人智学出版社、1982年、35ページ。
4.^ Helmut Zander: Anthroposophie in Deutschland, Göttingen 2007
5.^ Helmut Zander: Anthroposophie in Deutschland, Göttingen 2007
6.^ a b 日本アントロポゾフィー協会オフィシャルホームページ
7.^ "歴史の狭間に埋もれた教育界の偉人・カルシュ博士 若松秀俊"(JanJanBlog)
8.^ A・Pシェパード(著)中村正明(訳)『シュタイナーの思想と生涯』青土社 1998年6月10日
9.^ 江原啓之 『江原啓之 本音発言』(講談社 2007年10月19日)ISBN 978-4062141215
10.^ 雁屋哲『シドニー子育て記―シュタイナー教育との出会い』 遊幻舎  2008年11月 ISBN 978-4990301934
11.^ (『ゲーテアヌム通信』1990年10月号、ルドルフ シュタイナー (著)、西川 隆範 (訳) 『民族魂の使命』(イザラ書房 1992年8月)p87,p237、ISBN 978-4756500465
12.^ "ゲーテアヌム炎上"
13.^ "ヒトラー vs R・シュタイナー"
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