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2021年11月10日
江戸中期「中国離れ」が現代日本人の基礎を作った
江戸中期「中国離れ」が現代日本人の基礎を作った
アイデンティティを左右した「中国との距離感」
11/10(水) 7:31配信 11-10-1
江戸元禄に終わりを迎えた日本経済の拡大期 以降、日本の産業・社会、日本人の精神・文化面に変化が起こり、現代の日本人の基礎を造ったと云う。その背景には何が在ったのか(写真 NicolasMcComber/iStock)11-10-2
文章 岡本 隆司 京都府立大学文学部教授 11-10-4
戦国時代に始まった日本経済の拡大期は、江戸の元禄の頃には終わりを迎えた。しかしこれ以降、日本の産業・社会、更には日本人の精神・文化面に大きな変化が起こり、現代の日本人の基礎を造ったと云う。その背景には何が在ったのか。
『中国史とつなげて学ぶ日本全史』を上梓した京都府立大学・岡本隆司氏が、江戸中期に生じた「中国離れ」と日本のアイデンティティ形成に与えた影響に付いて解説する。
■16世紀のグローバル化で一新した日本
現代に繋がる世界史は、16世紀・ヨーロッパの大航海時代に始まります。それ迄ユーラシアの世界史に関わりの稀薄だったアメリカ大陸が繋がって、地球の一体化が促されたからです。その動きは直接には、環大西洋革命・産業革命・世界経済の形成に為り、又その西洋・欧米がホボ全世界を制覇した訳ですので、今も進行中の「グローバリゼーション」の幕開けとも云えるかも知れません。
そうした世界史上の大航海時代は東アジアにも及んで来ました。否な、当時の中国の経済発展と国家体制コソその大きな牽引力の1つと見える程です。
シルク・茶・木綿等の特産品を供給し、閉鎖的な通商統制の権力意思を突き破って、海外から商人達を惹き着け銀を吸収し続けました。前回に観た、所謂シナ海の「倭寇的状況 わこうてきじょうきょう」です。これが東アジアの変貌をも齎(もたら)しました。
何と云っても「倭寇わこう」ですから、勿論日本も例外では在りません。列島に及んだ影響は、日本史上の「中世」から「近世」への転換、内藤湖南の所謂「身代の入れ替わり」でした。戦国乱世・南蛮渡来・天下統一と云う16世紀以降の政治史にそれは顕著です。
戦国から統一と云う政治過程は、同時に経済上の大開発の時代でした。その余波は江戸時代の初期、大概(おおむね)元禄辺り迄続きます。耕地は倍・人口は3倍に為り、都市と農村が勃興し日本は全く面目を一新したのです。
しかし列島も永遠に開発拡大一筋だった筈は在りません。17世紀も末に為ると、長く続いた開発と景気の拡大が飽和状態を迎え、経済が下降線を辿る時期でも在りました。18世紀はその対応を迫られます。これも対外関係とパラレルな動きでした。
17世紀半ば頃迄堅調だった日中間の貿易関係は、列島の埋蔵金銀の枯渇に依って先細ります。それは同時に、シルクや綿花・茶等、それ迄中国からの輸入に頼って居た産物の供給が不足する事を意味しました。
そこで輸入品を国内生産に転化する、所謂輸入代替(ゆにゅうだいたい)が起こり国内経済自体が構造変化を来します。千利休等の茶の湯でも判る様に、過つて贅沢品だった茶も普及して来ましたから、その輸入が途絶えると国内で生産するしか在りません。
京都の宇治で抹茶・煎茶の本格的な生産が始まり、ヤガテ需要を賄え無く為って駿河等でも生産される事に為ります。
同様に、絹・生糸も輸入品の代替として信州や上州で生産され、砂糖も琉球や奄美群島で生産が進み薩摩藩の特産品に為りました。この様に他の地方も、挙(こぞ)って環境条件に合った特産品の発見と生産に努めます。
こうした輸入代替に依り、地域毎に産業の分業化が進展しました。国産化出来るなら輸入の必要も無く為ります。金銀の枯渇とも相まって必然的に「鎖国」化して行った訳ですが、それは同時に、中国に対する経済依存からの脱却を意味しました。
■人口動態と「鎖国」化のパラレルな関係
そんな江戸時代の人口動態はとても明快です。経済成長と大開発が続いた17世紀末迄は一本調子で増加し続け約3,000万人に達します。しかし元禄バブルが崩壊し、18世紀に停滞し、その3,000万人のママ幕末を迎える事に為ります。これは当時の開発・貿易の動向「鎖国」化とパラレルな動きです。
恐らくこの水準が、当時の開発・技術で抱えられる人口規模の上限だったのでしょう。だから災害や天候不順等で農作物の生産量が落ちると、忽ち飢饉が発生して多くの人が亡く為りました。江戸時代の中期から所謂間引きが流行したのは好く知られた事実ですが、これは表裏一体の事象で、自発的且つ残酷な人口調節で在り、それだけ生産力のギリギリで人は生まれ育って居た訳です。
しかも18世紀以降は、海外との貿易も殆ど途絶えて本格的な「鎖国」状態に入ります。海外からの産物移入も見込めません。兎に角適地適産で出来るだけ自給し、その一部を外部に出して必要なものを調達する形で、国内経済が回って居たと云う事です。自給に切り替えた茶やシルク等も、勿論このシステムに加わりました。
この様な、云わば「中国離れ」は、貿易・物産のモノばかりでは在りません。物心両面と云いますが「心」・文化的な側面でも、一層中国と距離を置く様に為ります。
3代将軍家光から5代将軍綱吉辺り迄の100年弱の間に、幕府は文治政治を志向しました。文治政治は以前の武断政治と対に為る言葉で、儒学に基づいた徳治主義の政治手法を指します。戦争・軍政は終わったので、道徳・学問・典礼を基軸に統治を進め様としたのでしょう。
当時は学問・道徳と云えばホボ儒学のみ、武士・為政者達の儒学・漢学へのリスペクトが土台に為りました。この時代に建てられた湯島聖堂がその間の事情を象徴して居ます。それに伴い、漢籍も中国から大量に流入し続けました。
処が18世紀に入るとその流れが変わります。急先鋒が8代将軍吉宗です。その「享保の改革」は余りにも有名で、ドンな教科書にも載って居ますが、中国・儒学に着眼して考えると、そこに又違う意義が見い出せるのでは無いでしょうか。
■文治政治を嫌い、武断政治を復活
武人肌の吉宗は文治政治を嫌い、武断政治を復活させ様としました。儒学は繁文縟礼・文飾(はんぶんじょくれいぶんしょく)に流れるからです。文飾は虚飾に繋がり実態から遊離した政治に為り勝ちです。吉宗は儒学・道徳に寧ろ対立する法律を重視し、現実に即した法規制に依る統治を志向しました。調査と法治、これが一連の改革の根幹に為ります。
「享保の改革」でも「公事方御定書」と云う法制整備は有名ですし、又全国各地の民治に対する実地調査も励行しました。それは同時に、国政が中国モデルに傾く事を警戒した統治をも意味します。吉宗の政策と云えば、財政を潤す為の新田開発が思い浮かびますが、これもこうした調査による政策実施と関わりの深いものです。加えて、上に述べた適地適産への方向付けも、政治的には同じ文脈で実施に至って居ます。
又吉宗は蘭学を奨励した事でも知られて居ます。これも人文・倫理に傾く漢学よりも、理工・科学を好んだ吉宗らしい態度ですが、矢張り「中国離れ」の一環とも云えます。それでは、リスペクトを受けて居た儒学・漢学は如何為って行くのでしょうか。
文化や学問は都市で栄えますが、室町時代迄、日本で都市と呼べるのは京都だけでした。それが戦国時代に為ると、地域開発と経済成長が相まって各地に都市が出現します。とは云え、小京都の異称が残って居る様に、未だ京都をコピーするのが精一杯でした。
江戸時代には地方都市も独自の発展を遂げますが、初期は未だ京都と隣接する大坂、詰まり上方が文化のトップランナーで在り続け「倭寇的状況(わこうてきじょうきょう)」の継続で入って来た中国文化が盛んに為ります。漢学の普及に先鞭を着けたのも上方です。
その流れが変わるのは18世紀から。1つは空間的な変化で、19世紀初頭の文化・文政時代迄丸々1世紀を掛けて、文化の中心は上方から江戸へ移ります。これを契機として、日本の文化は要約上方独尊体制から日本全体へ拡散して行くのです。
同時に階層的な変化も起こり、漢学の担い手は下級武士層に広く普及します。又17世紀末辺りから上方では武士の漢学ばかりでは無く、町民にアピールする文藝も出来て来ます。有名な井原西鶴や近松門左衛門等の作品や、中国の小説の舞台や人物を日本に置き換えた「翻案本」等が出回り、それが文化・文政時代辺りには、一層幅広い層に迄浸透しました。庶民が書物・文化に親しむ様に為ったのです。
■日本の自立と「中国離れ」
こうした読み書きのリテラシーは漢学で身に着けました。仏教のお経も漢字を使いますが、その使い道は既に葬式に特化して居ました。それに対して儒学は、倫理道徳の教えでしたので、学問以前の人間修養の面で、先ず庶民も触れるものだったのです。
元々歴史の浅い日本は、ホボ全員が農民のフラットな社会でした。農民から職業的に分離した武士が、戦国時代から江戸時代に掛けて為政者と為り、漢学も先ず武士層が従事しますが、秩序が安定し平和が持続しますと、庶民も漢学を通じて読み書きのリテラシーを身に着けました。
これに依り、皆が共通の書物を読んで、文化・道徳のレベルが空間的にも階層的にも均質一様に為り、日本は再びフラットな社会に戻った様に思います。これが現在の日本人に直接繋がって居ます。一方漢学に対する学問的な信頼は、蘭学が流行するに連れて揺らぎます。
漢学が全て正しい訳では無い、それなら中国は決して世界随一の大国では無いし、文明的に最先端でも無いと気付きました。
漢学は勿論、その蘭学も日本固有の学問では無いとして、ヤガテ「国学」が編み出されます。ソコで問われたのは、現政権・幕府の存在理由と共に、ソモソモ日本とは如何云う国なのか・日本人とは何者なのかと云う事です。その象徴的な存在が、例えば本居宣長の『古事記伝』でしょう。
国学のもう1つの特徴は、漢学普及の反動で在るかの様に中国批判を含んで居る事で、矢張り「中国離れ」の所産です。代表的な国学者・平田篤胤(ひらたあつたね)は「中国の偉人は孔子と諸葛孔明の2人だけ」と迄述べて居ます。今日でも嫌中論は喧(やかま)しいですが、その原点はこの辺りに在るでしょうか。
見方を変えれば、日本のアイデンティティは善くも悪しくも、中国が隣国だったからコソ生まれたと云えます。「倭寇的状況」で中国との繋がりが深まった16世紀から、江戸時代を経て19世紀に入ると、政治・経済のみ為らず文化や思想的にも「中国離れ」を成し遂げ、西洋に近づきつつ、日本独自のものが出来上がって行ったのです。
岡本 隆司 京都府立大学文学部教授 11-10-3
Takashi Okamoto 京都府立大学文学部教授 1965年生まれ 京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学 博士(文学) 『近代中国と海関』(名古屋大学出版会) 『世界史とつなげて学ぶ中国全史』『中国史とつなげて学ぶ日本全史』(共に東洋経済新報社)など著書多数
〜管理人のひとこと〜
江戸時代の中・後期から我が国は「中国離れ」したとの事。お茶も絹も中国から輸入し高額な銀で支払って居たが、銀の生産力が落ち在庫が減少し中国から輸入出来無く為った。そこで日本各地で代替えに生産を始める・・・中国との遣り取りが無く為り、必然として「鎖国」状態に為る。
この中国離れは、哲学・文化・芸術面にも及び、明治以降も引き続いて中国とは疎遠に為って居た訳だ・・・改めて聞くと「成程・・・」と大いに頷けられる。科学的にも新たに蘭学が勃興し西洋の文化が流入する。中国・朝鮮から大陸文化を受け入れ、島国日本に適応させ独自な日本文化を生み出した。それには、中国・朝鮮との適度な距離感が必要だったのだろう。