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2021年11月27日
居酒屋店主が見て来た 新橋サラリーマンの或る変化 「昭和には根拠の無い希望があった」
「昭和には根拠の無い希望が在った」
居酒屋店主が見て来た 新橋サラリーマンの或る変化
11/27(土) 12:16配信
※写真はイメージです 写真 iStock.com Peeter Viisimaa 11-27-3
2020年3月、東京・新橋で75年続いた居酒屋が閉店した。『蛇の新』2代目店主・山田幸一さんは「失われた30年でこの街は大きく変わった」と云う。街にドンな変化が在ったのか。ノンフィクションライターの石戸諭さんが描く・・・
※本稿は、石戸諭『東京ルポルタージュ 疫病とオリンピックの街で』(毎日新聞出版)の一部を再編集したものです。11-27-6
【写真】東京・新橋の居酒屋「蛇の新」界隈 11-27-4
■75年の歴史に幕を降ろした新橋の居酒屋
此処はJR新橋駅で在る。周辺も含めてビジネスパーソン達の憩いの場としても知られた街だ。私達が新橋と呼んで居る駅は、開業当初は「烏森駅・からすもりえき」と呼ばれて居た。誰が何時、そう命名したかと云うのはハッキリと判って居無いらしい。
新橋の一角にヒッソリと佇(たたず)む烏森神社に依れば、過つての江戸湾の砂浜で一帯には松林が広がり「枯州(かれす)の森」或いは「空州(からす)の森」と言われて居た。この松林には、烏が多く集まって巣を掛けて居た為、後には「烏の森」とも呼ばれる様に為ったと云う。
今は「森」の代わりにビルが林立し「烏」の代わりに働く人々が街を闊歩し、夜に為れば軒を連ねる飲み屋に足を運ぶ。1946年から彼(か)の地に75年続いた店が、その歴史に幕を閉じた。名前を「蛇(じゃ)の新(しん)」と云う。2020年3月27日・・・暖簾(のれん)を掲げる最後の日も、店主・山田幸一は何時もと変わらぬ仕込みを始めて居た。
カウンターの一角に目を遣るとザルが在る。アジに強めの塩を振りザルに並べて余分な水分を抜く。塩を水で洗い流し酢で締める。コウして刺身の盛り合わせに並ぶ一品が出来上がる。寿司屋では在るが、居酒屋としても利用出来るメニューが並ぶ店でも在り、会社帰りの客で賑わう。
■「失われた30年」で起きた変化
彼は東京に生まれ東京で育った。コノ街の変化も見続けて来た。会社員の街・新橋は平成で大きく変化したと云う。
「失われた平成の30年ですかネ。一番大きかったのは・・・先輩が後輩を連れて来て、後輩が又来て呉れるって云うサイクルが無く為ったヨ。此処の暖簾を守るだけで精一杯に為ってしまってね。元気な内に、常連の皆さんにサヨウナラが言いたかったんですよ。ズッと可愛がって貰って、有難うって」
生来、職人気質で在る幸一は、時々、へへへッと照れ隠しの様な笑いを挟みながらポツリ、又ポツリと語った。彼が体感から語った平成の変化は恐らくその通りで在る。
今からホンの30余年前・平成が始まったばかりの頃、会社員の所得は増えるのが当たり前だった。1990年、会社員の平均給与は425万円⇒翌91年は446万円⇒92年は455万円(民間給与実態統計調査)と信じられ無い幅で伸びて行く。
バブルが弾(はじ)け長期不況が始まった時でも、直ぐに下がる事は無かった。処が最新、2020年は433万円で止まって居る。幸一の言葉を聞きながら、私は或る大学教授から教えて貰ったエピソードを思い出していた。彼が教鞭を執るのは東京の名門私立大学で在る。平成も終わろうと云う時、就職活動を終えたゼミ生が言った。
「来年からサラリーマンです。新橋とかで酔っ払う事に為るんだろうナ」
恐らくゼミ生の頭に在ったのは、週末の情報番組でカメラに向かって管を巻くサラリーマンの姿だ。それを聞いた彼は冷たく言い放った。
「今の時代、新橋で飲めるだけで結構な勝ち組だよ!」
外から見れば勝ち組の街でも冷たい風が吹く。私も又、この停滞する時代しか知ら無い。私が知って居るリアルは、所得が伸び無ければ人に構う余裕は生まれ無いと云う事だ。
■戦後の新橋は闇市から始まった
戦後の新橋は未来を担う若者達が集う街でも在った。「蛇の新」は、新橋に立ち並んだ戦後の闇市から始まった。先代鐘幸は愛知・一宮市出身で、戦前に両親と死に別れ単身で東京に出て来た。彼も又未来を夢見た少年の一人だった。先代は八丁堀に在った魚屋「蛇の新」で自立の一歩を踏み出した。
この魚屋は、簡単な寿司も出して居たらしく鐘幸はソコで修業を積み、今の日本橋島屋の周辺で屋台の寿司屋を開く。仕入れは「蛇の新」で、魚に付加価値を着けるべく寿司を握った。商売の才覚も在った先代は、結婚をして八丁堀に家も構えた。ソコに生まれたのが幸一だった。
1945年3月10日の東京大空襲で家は焼けてしまったが、徴兵から帰って来た鐘幸は又商売を始める。新橋で露店を開いたのだ。転んでも只では起き無い男である。
終戦から間も無く、今も駅前に在るニュー新橋ビルを経営する新橋商事がバラックを建てると宣言し新橋周辺の整備計画に乗り出した。抽選で当たった露天商達を集めて、商店が並ぶエリアを作ると云う。鐘幸も申し込んだが外れてしまった。
処が、隣に居た露天商が本業に戻るからと言って入居の権利を譲って呉れた。1946年、新生「蛇の新」が誕生する。
「3坪位の小さな店でしたよ。親父(おやじ)は何でも作って居ましたネ。寿司屋って言っても、お米が手に入ら無かった時代ですからネ」
■夢を語り合う希望の場
当時、NHKが内幸町に在り近隣には東京新聞も在った。失明の危険性が在るメチルアルコールを平然と出す店もある中「蛇の新」では真面な酒が飲めると云う口コミが広がった。インフルエンサーに為ったのは、東京新聞で当時の人気小説家・富田常雄(代表作『姿三四郎』)を担当して居た記者だった。
富田が遣って来ると、評判を聞き着けた太宰治や坂口安吾が遣って来た。新聞小説で挿絵を担当する画家達も遣って来た。当時の活況をエッセイストの矢口純が記した文章を幸一が見せて呉れた。何かの雑誌に書いたものらしい。
1948年、婦人画報社に入社したばかりの回想・・・
「粗末な酒場に行くと、駆け出し記者の私にも一目で判る著名な作家・画家・写真家・音楽家・ジャーナリストが、それコソ目白押しに為って酒を飲んで居た。誠に壮観で在った!」
コノ「粗末な酒場」コソが「蛇の新」で、写真家の土門拳・江戸川乱歩に吉行淳之介と云った作家達が何故か同じ時間帯に居た夜を矢口は懐かしそうに書いて居る。画家達のネットワークに連為って若き日の岡本太郎も遣って来た。
鐘幸は若い表現者達に優しく、色紙を書いて貰う代わりに酒を一杯ご馳走した。店内に1952年11月6日に撮影したと云う写真と「TARO」のサインが入った絵画が並んで飾られて居る。
常連達と一緒に納まって居る岡本太郎と、彼がチョット紙を貸してと言ってササっと書いた「作品」だ。彼等に取って「蛇の新」は、夢を語り合う希望の場だった。
■右肩上がりの時代、人は大いに飲んだ
新橋駅前開発で駅前にビルが建つ事に為り、仮店舗として現在の烏森神社沿いの店がオープンする。1968年、幸一が店の従業員として働いて居た清子と結婚した年だ。清子は大阪・河内の商人の子供で、今の羽曳野市で育った。
「商売は嫌じゃ無かったネ。カウンターでお客さんの話を聞くのも、私は好きだったよ」
清子は、最後の一日も何時もと同じ様に、幸一とは対照的に大きな声で笑いながらカウンター越しにセイロで鶏シューマイを蒸し、フライパンで炒め物を仕上げて居た。続々と訪れる客の応対も手馴れて居る。
「昔の思い出?丁度結婚したばかりの頃かナ、三島由紀夫が来てたね。私が『アノ人、三島さんに似て居るね』って言ってたら本人だったの。お店に『三島先生はいらっしゃいますか?』って電話来てビックリしちゃったよ!」
店の並びには三島が常連だった料亭「末(すえ)げん」が在る。そこに行く前に立ち寄ったのだろうか。店の歴史が昭和史とリンクする。
「好く僕が思うのは」と、仕込み中の幸一が口を開く。「新橋は或る時迄、霞が関の城下町だったんです。国鉄と銀座線が通って居て、官庁が在る虎ノ門から新橋迄来易かったんですよ。官庁が在れば、営業だ何だでソコに民間の人達も通う様に為る」
人が集えば、オフィスが出来飲みに出る人々も増える。時代は右肩上がりで在る。彼等は大いに飲んだ。1980年代に入り、女性の社会進出が本格化すると女性をターゲットに「酎ハイ」が売り出され「蛇の新」にも女性が遣って来る様に為った。
■過つての新橋に存在した「無根拠な希望」
閉店が近付いて来た3月の或る日、隣に居た常連客がコンな話をして呉れた。2016年に勤めて居た印刷会社で60歳の定年を迎え、リタイア生活を謳歌して居ると云う男性で在る。新橋の思い出を聞くと、良くぞ聞いて呉れたとばかりに滔々と語って呉れた。
「バブルの時代は、此処でお腹を満たしてから別の店に行ったんですよ。ソコは旧大蔵省の官僚と銀行の担当者が来る店です。彼等の言葉に耳を済ますと景気動向が判る。此処で先を見極めて僕は株を買いましたネ。新橋で景気良く飲んで居る会社の株は当たり株。結構、儲(もう)けさせて貰ったナ。アノ感じ判ら無いでしょう?」
私はその話を苦笑交じりに聞く事しか出来無かった。2011年の東日本大震災と福島第一原発事故、そして2020年を直撃したコロナ禍でも痛感したが、人が財布の紐を緩める時は、未来への希望が何と無くでも在る時だ。ソコに確かな根拠は必要無い。
前の時代より、今の方が良くて、未来は更に良く為る・・・無根拠な希望がソコに在る時、人は大いに飲み、街に出て語り合う。1995年の阪神大震災とオウム真理教事件、2008年のリーマン・ショック、2011年そして2020年・・・賃金は上がらず数年毎に「歴史的な危機」が訪れる。その度に希望が見え無く為る時代には沈黙が蔓延(はびこ)って行く。
「誇りは『蛇の新』の暖簾を守ったと云う事です。三代目に継がせる事は出来無かったけど、僕は守りました。後は女房に感謝です。2人で喜びも悲しみも共有出来た」
幸一がシミジミとそんな話をして居た、と清子に告げると、彼女はクルリと幸一の方を向き「モッと感謝しろ!」と腰に手を当てて胸を張った。
■もうこんな日々は戻って来ない
最後の日、親子2代で常連だったと云う客は、父親の遺影と共に遣って来た。或る人は花束を持参し或る人は夫婦と記念写真を撮った。店が終わる午後11時を過ぎても、リタイア世代中心の常連達は別れを惜しむ様に残って居た。ソコに存在して居たのは、タイムスリップしたかの様な「昭和」だったのかも知れ無い。
彼等の笑い声を聞きながら思う。停滞の中で「昭和」への憧憬(しょうけい)だけが強まる時代を自分は生きて居たなと。会計を済ませて店を後にした。モウこんな日々は戻って来ない。
外は2020年・・・本来なら令和に元号が変わり華々しく1964年以来のオリンピックが開催される予定だった年・・・コロナ禍の新橋の夜で在る。マスク姿の人々が家路を急ぐ。人通りは普段の半分も無く、会話も無い。
SL広場には客引きの声だけが響き、酔客のコメントを取ろうとして居たテレビクルーはスマートフォンを眺めながら暇を持て余して居た。
石戸 諭(いしど・さとる) 記者・ノンフィクションライター 1984年東京都生まれ 立命館大学卒業後毎日新聞社に入社 2016年BuzzFeed Japanに移籍 2018年に独立しフリーランスのノンフィクションライターとして雑誌・ウェブ媒体に寄稿 11-27-5
2020年「ニューズウィーク日本版」の特集「百田尚樹現象」にて第26回「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」作品賞を受賞した 2021年「『自粛警察』の正体」(「文藝春秋」)で、第1回PEP ジャーナリズム大賞を受賞 著書に『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房) 『ルポ 百田尚樹現象』(小学館)『ニュースの未来』(光文社)『視えない線を歩く』(講談社)がある
記者・ノンフィクションライター 石戸 諭
〜管理人のひとこと〜
管理人が東京時代、新橋には数店の得意先が在った。夜が更けるのを待つ迄も無く、駅周辺の縄暖簾街は煌々と灯りが灯り人々が連れ立って暖簾を潜る。新橋は山手線と銀座線の駅が在る便利な盛り場だった。得意先から、偶には飲もうと車を置いて出掛けると、焼き鳥にホッピーと鍋物で腹を満たせ、次に綺麗な女性の居るバーへと勤しむ。筆者の石戸 諭(いしど・さとる)氏が表現した通りの昔の新橋の日常が繰り拡がる。
初任給が3万円の時代から始まり、5万・10万・20万・・・と直ぐに30万を超えるのが昭和の時代・・・世界第2位の経済大国と為って久しい。仕事が終わると近くの酒場で飲むのが当たり前で、確かに、確実な夢や希望が在った訳では無かったが、何と無く将来への不安は皆無だっから仲間と共に飲む酒は楽しかった。
もうソンな時代は来ないと多くの人は云うのだが、次の世代の夢や希望を作ら無いで何の〔政治〕が成り立つのだろうか。真面に飯の食え無い時代を作るとは・・・令和の時代は、そんな政治が許されて居るのだろう。
被害者視点で展開される韓国の歴史教育 石井 友加里
子供の授業を見て驚いた
被害者視点で展開される 韓国の歴史教育
石井 友加里 日韓翻訳家 11/27(土) 6:01配信
韓国が実効支配する竹島(写真 ロイター アフロ)11-27-1
日本人と韓国人の間に生まれた子供を持つ親で在れば、一度は悩んだ事が有るで在ろうテーマが韓国での歴史教育では無いだろうか。小学校高学年の子供を公立の学校に通わせて居る筆者は、何度か韓国式の歴史教育に違和感を持つ機会が在った。韓国では幼少期から「独島(竹島)は我が領土」と教え込む。
写真は、学校に設置された独島守護サークルに参加する子供した子供が「独島の領土主権を守護する」と云う主旨の先生をして居る様子(写真 YONHAP NEWS アフロ)11-27-2
韓国での歴史教育には、民族の自尊心を育てる意図が強く感じられる。特に、二度に渉る日本に依る侵攻の歴史が詳細迄教えられて居る。又、史実を時代背景や状況から広角的且つ客観的に教育するのでは無く、被害者視点で展開されて居る点が特徴だ。
歴史認識は、国民のイデオロギーを形成し現在の国政や外交にも影響を与える。韓国では、日本に依る侵略の歴史を授業の研究課題として扱う事も在り、感性豊かな子供達が虐げられた歴史をより自分事として捉え易い。韓国在住の筆者が身近に感じた違和感に付いて、子供の教育視点から解説しよう。
1. 幼少期から「独島は我が領土」
韓国の知識人や市民団体・政治家は、日本は侵略の歴史を歪曲して居ると批判する場面が好く見られる。しかし、第二次世界大戦に敗戦した日本では「戦争の悲劇を二度と起こすまい」と云う決意の基、平和主義が刷り込まれて居る。筆者に取って驚きだったのは、韓国に依る竹島の領有権主張とその方法だ。
竹島は、戦後処理が行われたサンフランシスコ平和条約で日本の領土とされたが、韓国では幼稚園児も「独島は我が領土」と主張し国際社会の判断を無視して居る。極めて複雑な問題で在るのに、韓国は警備隊を配置して竹島を占拠し、国民は幼い内から楽曲「独島は我が領土」を習う。お遊戯会の定番でも在るこの曲に合わせて幼児は楽しそうに踊るのである。
2021年11月12日、SNSやネットを通じて海外に韓国の広報活動を行う誠信女子大教授は、島根県庁の竹島資料室に日本の大学生の解説者を置いた事に言及し「島根県は純粋な大学生に間違った洗脳教育を行い、解説者に動員すると云う愚かな事をして居る」と批判した。「開いた口が塞がら無い」と言えばそれ迄だが、韓国ではこの様な独自の歴史観が正義とされて居る。
因みに、日本はこれ迄3回、領土問題に関して国際司法裁判所に付託する事を提案して居るが、韓国側に依って拒否され竹島問題の解決の見込みは立って居ない。それとは関係無く韓国著名人の島上陸や光復節のイベント等が行われ、韓国人の自尊心を象徴するシンボル的存在と為って居る。
2. 韓国の小学校社会科教科書の実態
1980年代から、日本の歴史教科書の歪曲に付いて中韓から指摘される様に為った。只、スタンフォード大学が実施した日本・韓国・中国・台湾・米国の高校の歴史教科書の比較研究(2012)に依ると、日本の教科書は他のどの国の教科書よりも、戦争を美化したり愛国心を強調したりする事無く抑制された論調で書かれて居ると云う。
一方で、韓国の教科書では日本の支配下での民族の辛い経験と抵抗・独立の歴史を中心に描かれて居り、当時の世界情勢や背景に付いての言及は見当たら無いそうだ。
周辺国への配慮と二度と戦争を繰り返さ無い決意・平和主義を教える為に慎重に編纂されたのが日本の教科書なら、その真逆を行くのが韓国の教科書と言えるだろう。歴史が被害者視点で綴られて居る事はそれを如実に表して居る。
■ 竹島ポスターに登場した安重根のビックリ顔
筆者の手元に在る小学5年生の社会科教科書を例にしても、矢張り日本による統治時代に行われた抵抗運動の様子や、独立思想等に焦点が当てられて居る。豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、朝鮮の英雄・李舜臣(イ・スンシン)将軍をテーマに数ページに渉って記載されて居る。
ドンな人物で在ったのか、又どの様にして日本軍に勝利したかと云う話が、戦法や武器等絵と共に解説されて居る。 「李舜臣将軍に付いての考えを友達と交わそう」と云う課題も提示されて居た。
敢えて深く掘り下げる事はしないが、児童の間では日本の蛮行を非難し、抗日の偉大な英雄を称える会話が繰り広げられるだろう。 朝鮮総督府の前身で在る韓国統監府の初代統監・伊藤博文に関しても同様だ。民族運動が過激化する中で暗殺を成功させた独立運動家の安重根(アン・ジョングン)が英雄視されて居る。 教科書には「安重根義士が正しい事をしたのに死刑にされた理由は何でしょう?」と問い掛けが在った。
韓国のサイバー外交使節団・VANK(バンク)は、独島の日に向けたキャンペーンポスターに、安重根を初めとした活動家達の写真を加工したポスターを作成した。活動家達が驚いた表情でスマートフォンを眺めるポスターで「竹島?日本?」と文字が入って居る。
広告制作者に依ると、過去の活動家の様に、国を守る意味合いを込めて独島は韓国の領土だと具体的に提示したそうだ。安重根と竹島問題は全く因果関係が無いが、韓国のナショナリズムで一括りにすれば腑に落ちる訳だ。
■ 慰安婦問題の解決を妨げたと言われるアノ団体
元従軍慰安婦問題に関する記述にはこの様に在った。「日本は、1993年に日本軍に依る慰安婦の事実を一部認め、謝罪したが、コレを撤回する言動が続いて居る」
コレは韓国の一般人や言論からも度々指摘される意見で在るが疑問が残る。補足説明が無いからである。幾ら小学生向けの教科書でも、何を以て日本が謝罪を撤回する言動が行われたのかを記載すべきだろう。子供が歴史に付いて何も分から無いまま受け入れ「日本を謝ら無い国」と認識する危険性を秘めて居る。
1993年と云えば、日本政府が河野洋平官房長官に依る談話で元従軍慰安婦被害者に対して謝罪した年である。その2年後には「女性の為のアジア平和国民基金」が設立されて居る。韓国を始め、台湾・インドネシア・フィリピン等の日本軍に依る元慰安婦被害者に対し謝罪と基金が渡される事に為った。
しかし、韓国側の対応は日本の期待とは相反した。基金に反対した市民団体に依って償い金を受け取った慰安婦は批判されたのだ。
この時の慰安婦支援団体の挺対協(後の「正義連」正義記憶連帯)は、2015年に結ばれた「慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決」で在る日韓合意にも反対して居る。文政権も、2018年にこの慰安婦合意を反故にした。
日本が約10憶ウォン(約1億円)を拠出し、慰安婦1人に付き1億ウォン(約1,000万円)を支給しようとした「和解・癒し財団」は解散され、拠出金は返却されて居ない。 処が、後に慰安婦支援団体の汚職が明るみに出た事で流れが変わって来た。
ソウルの日本大使館の前で、長らく日本政府に抗議する水曜集会を独占的に実施して来た正義連の代表は、慰安婦達を守る立場で在りながら、寄付金や補助金を横領した罪で元慰安婦から告発された。以上の事情から、元慰安婦問題に関して日本政府が出来る限界は既に超え、韓国国内の問題と捉える事が出来る。
実際、韓国国内には「正義連が慰安婦問題の解決への道を妨げて来た」と云う批判も在り、一部の市民団体が団体の解体を主張するデモ活動を行って居る。最も、事情や背景を省略する傾向の在る韓国の歴史教育では「慰安婦問題が解決し無いのは日本がキチンと謝罪を行って居ないから」が通説と為って居る。
■ 歴史教育の狭間で苦しむ日韓両国の血を引く子供達
3. 傷つく日韓両国の血を引く子供達
韓国の歴史教育の被害を受ける子供も居る。日韓両国のアイデンティティを持つ子供達だ。民族の自尊心と抗日イデオロギーを教える韓国の教科書を読むと、自然と韓国視点の歴史を学ぶ事に為り、事実を広い視点で考察する機会が失われる。
その結果、韓国の小学生が日本人に嫌悪を抱くのは当然の事で、残酷な子供は身近に日本出身者や日本にルーツを持つ同級生に矛先を向ける。筆者の子供も、何度か学校で言掛かりを着けられ困った事が在った。友人の日韓ハーフの子供は、歴史の授業で号泣した事も在ったそうだ。コンな事も在った。
筆者の子供が「読書論述」(※読書と感想文の書き方を習う課外授業)教室に参加した時に、課題図書を見て血の気が引いた記憶が在る。児童向けの図書として居たが、日本の統治下で日本人に迫害された朝鮮人の話で、生々しい描写が多く子供に相応しい内容とは思え無かった。
歴史は教えるべきでは在るが、何も知ら無い子供にその図書を読ませる意図は何だろうか。嫌悪感から受講を辞めさせたが、その様な教育が現在進行形で在る事が非常に残念だった。
4. 韓国人の間で日本ブームが再来
その様な愛国主義的な韓国の歴史教育と、韓国の市民生活は無関係で在る。それはそうで在る。70年以上前の歴史と、今を生きる人々に関係は無い。韓国の子供達は日本のアニメやゲームを日常的に楽しみ、若者は寿司屋やカウンター式の懐石店の前で行列するのが最近のトレンドだ。
学校の授業の際に冗談紛れで日本の悪口を言いながら、日本のアニメキャラクターや任天堂スイッチに夢中で在る。最近日本ブームが再来し、2019年の反日不買運動で売り上げが半減したユニクロが黒字に転じて居る。
デザイナーコラボアイテム「+J」の発売日には若者が店舗前に行列を作って居た。又、コロナ禍で日本旅行が出来無く為った韓国では、日本風の旅館が密かに日本好きの間で流行って居る。
他にもドラマの撮影セットだった京畿道東豆川市には、日本の京都を彷彿させる雰囲気が若者を中心に人気を博して居る。
■ 韓国式ナショナリズムの限界
一方で、共に民主党の次期大統領候補は反日的な意見を展開して居る。
「侵略国家、日本が分断されるべきだった」
「日本を超える」
「日本は常に信用出来る完全な友好国か」
等の発言を繰り返して居る。筆者は、抗日姿勢の政治家や知識人の主張と、一般市民の肌感覚には広い乖離を感じずに居られ無い。2022年3月に選出される大統領に依っては、歴史問題を材料に今よりも日韓関係が悪化するかも知れ無い。
その代償は日本や韓国の富裕層では無く、韓国の一般市民が払う事に為るだろう。歴史教育に依って韓国式ナショナリズムが形成されて居ても、反日に辟易した国民が使い古された手段で再び盛り上がるだろうか。先を予測する事は難しいが、筆者は時代錯誤の様な気がして為ら無い。
ライター 石井 友加里
石井 友加里のプロフィール ライター兼韓日・日韓翻訳家 神田外語大学卒 比較文化専攻 韓国人と結婚後 韓国企業の東京支社に勤務する 2011年からは韓国在住 多文化共生等幅広いテーマで執筆活動を行って居る
〜管理人のひとこと〜
日本の、悪夢の安倍長期政権の経済停滞に依って、既に個人所得では韓国に抜かれ、発展途上国・貧困国と為った我が国が、最早韓国を下に観る事は失礼に当たる。今迄の政府は、根本的なデフレ対策を行えず国民を疲弊させ困窮へと追い込んで平然として居る。
コノ日韓関係の問題を続けて取り上げてしまったが、何の意図も無く単に興味に任せたものだ。世相が悪化し青少年の突飛な犯罪が増えた気がする。「この国に住んで何の夢も希望も無い・・・」そんな日常に若者は何の未練も抱け無いのだろう。そして、国民の日常と乖離した政府の遣る事は、誰からも何の同調も得られ無い政策を続けるだけ。
私達国民は大いに反省せずには居られ無い。何故20年以上もこの様な政治を続けたのかを。何故、自公政権を支持し続けたのかを。それに依ってこの様な悪夢に満ちた現状を招いてしまった。もう遅いかも知れないが、最後に残された機会は少しは残ってる筈で在る。多くの国民の目が覚めれば・・・